夢見る都
 暗い暗い闇の中――。
 傀儡師[クグツシ]である彼の悪夢は覚めることを知らなかった。
 彼は操ることができるからこそ、〝その〟心を知りたかった。

 頭まですっぽりと覆い隠す茶色い襤褸布を身に纏い、その人影は壁に寄り掛かりながら深い眠りに堕ちていた。彼が見ている夢は悪夢。寝ても覚めても彼は悪夢を見ていた。
 現実に起こる悪夢のようなできごとよりも、深い眠りの中で悪夢を見ていた方がいい。夢は所詮、夢に過ぎないのだから……。
 青白い仮面の奥で瞼が微かに動き、紫苑は眠りから覚めた。眼が見開かれ、ゆっくりと腰を浮かせ立ち上がり、遠くを眺める。
 廃工場の壊れた窓から陽の光が差し込む。その先の空よりも、さらに先にある向こう側のモノを紫苑[シオン]は見つめていた。
 ここは以前、鉄工所であった場所。買い手もつかず、取り壊しもされず、完全に放置されてしまった場所。
 襤褸布をマントのように大きく舞い揺らしながら、青白い仮面を付けた紫苑が振り向いた。
 足音も立てず姿を現した三人の影。闇に潜む黒衣に身を包んだ三人は、皆、殺気を凶器のように身に纏い、紫苑に敵意を剥き出しにしていることは間違いなかった。
 黒い三つの影が風を切るように動いた。右、左、そして正面から敵が襲い掛かって来る。だが、青白い仮面は常に無表情のまま、紫苑は動こうともしない。
 恐れで身体が動かないのではない。恐れなどないからこそ、そこを動かない。それは自信ではない、〝絶対〟であった。
 紫苑の手と手の間に光り輝く一筋の線が走った刹那、腕を飛び、脚が飛び、首が宙を舞い、地面に鈍い音を立てながら落ちた。全ては一瞬の出来事であった。
 バラバラに切断された刺客たちはパズルのようである。どのパーツが誰のものか、さっぱりわからない。
 血生臭さが鼻を突く中で、無表情な仮面の奥にある口が小さく呟く。
「このような小者では召喚の必要もあるまい。組織は本気で私を捕らえる気がないようだな……。しかし、なぜ?」
 地面に散らばるパーツを見下ろしていた紫苑は、しばらくして空を切るように手をすばやく動かした。手から放たれた煌くなにかが空間に一筋の傷をつくった。その傷は唸り声をあげ、空気を轟々と吸い込みながら広がり、空間に裂け目をつくったのだった。
 闇色の裂け目から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。
 紫苑の指先が伸び、彼は声高らかに命じた。
「行け!」
 裂けた空間から〈闇〉が叫びながら飛び出した。
 腕を伸ばし紫苑が高らかに命じた。
 〈闇〉が唸り声をあげると、地面に散乱していた肉塊は、一滴の血も残さず〈闇〉に呑み込まれ、〈闇〉は空間の裂け目に還っていった。
 〈闇〉は音すらも呑み込んでしまったのか、辺りを静寂が包み込んだ。
 夜も完全に明けてしまった。
 紫苑は風に呼ばれるようにして、この場を後にして行ったのだった。

 悪夢を見続ける者が、ここにもひとりいた。
 暗闇の中に響き渡る男の壊れた嗤い声。
「ククククク……ククククク……」
 ギィィィという金属扉を開く音の後、世界を包んでいた暗闇の中に、眩い光が流れ込んで来た。開かれた扉の先には黒い影立っている。
「獲物を狩りに行く気はあるか?」
 影の言葉、それは〝命令〟だった。
 金属でできた冷たい箱の中で、彼は手枷と足枷を嵌められ、壁の隅で蹲りながら嗤っていた。影の言葉など全く耳に入っていない様子だ。
「ククククク……白い手を差し伸べてくれ……そしたら俺は、俺は〝巣食われる〟……ククッ」
「おまえには新たな躰を与えてやる。そして、奴を消去して来い」
 白い手袋を嵌めた手が差し伸べられ、鎖をジャラジャラと鳴らしながらミイラのような手が白い手を掴んだ。
「ククククク……契りを交わそう」
 痙攣する手で咎人は悪魔との契約に署名をした。

 教室のドアが開かれ、いつもと同じように教師が入って来る。どこの中学でもあるような光景。ただ、今朝はひとつだけいつもと違うことがあった。
 教室がざわめき立つ。今朝からこの教室には机がひとつ増えていた。皆の予感が的中したのだ。
「みなさんこんにちは、雪村麗慈[ユキムラレイジ]と言います」
 担任の後に入って来た青年は、溌剌とした笑顔で挨拶をした。この挨拶に女子生徒の多くがうっとりとした表情を浮かべた。なぜなら、この青年が類稀なる美青年だったからだ。
 このクラスにはこれで二人の美青年が存在することになった。今日転向して来た雪村麗慈と、二年のはじめに転向して来た秋葉愁斗[アキバシュウト]。だが、二人のタイプは違った。麗慈が精悍な顔つきをしているのに対して、愁斗は中性的な美を兼ね備えた顔つきをしていた。
 静まりのない教室で、担任の男子教師はわざとらしく咳をひとつして、出席簿の角で後ろの席を指し示した。
「あそこが今日から雪村の席になるから、着席しなさい」
 教師に言われるままに、麗慈は物音も立てない華麗な足取りで着席した。横の席に座っていた瀬名翔子[セナショウコ]はその一部始終を瞬きもせずに見つめてしまった。翔子は自分の横に設けられた席にどんな人が座るのか、このクラスで一番楽しみにしていたのだ。
 翔子の目が麗慈の目と合った。
「あっ、はじめまして、私、瀬名翔子っていいます」
「やあ、翔子ちゃんこんにちは。俺の名前はさっき言ったから知ってるよね?」
 爽やかな笑顔を向けられた翔子は、目の前にいる麗慈とは別の顔を頭に思い浮かべていた。
 ――似ている。
 顔のタイプも、しゃべり方も、全くの別の人間なのに、翔子は麗慈とある人物に共通のなにかを感じたのだった。しかし、それがなんであるのかは、はっきりとわからない。漠然となにかが似ていると感じた程度だ。
「麗慈って呼び捨てでいいから、よろしく」
 相手の声でふと我に返った翔子に、明るい顔をした麗慈の雪のように白い手が握手を求めてきた。翔子はその手を握って微笑み、ある話を切り出した。
「この学校って部活動に絶対入らないといけないんだけど、麗慈くんはどの部活に入るかもう決めた?」
「いや、まだ転校して来たばっかだから、何も決めてないけど」
 あたりまえの答えだった。麗慈はこの学校の部活や風習などについて、まだ何も知らないのだから、当然の答えと言えた。翔子の狙いはそこだった。
「だったら、うちの部活に入ってくれないかな?」
「何部?」
「演劇部なんだけど、入ってくれるだけでいいの。大丈夫、大丈夫、この学校の生徒って部活に入っても帰宅部な生徒たくさんいるから、演劇部も麗慈くんの名前だけ貸してくれればいいから、ね?」
 この学校の演劇部は弱小部の部類に入り、演劇部の副部長である翔子は、日夜部員の勧誘に励んでいたのだった。
「いいよ、入っても」
 すんなりと二つ返事で麗慈は演劇部に入ることを承諾した。これに対して翔子は少し驚いてしまった。自分から勧誘したものの、まさか、演劇部なんかに入ってくれるなんて思ってもみなかったのだ。
「本当に本当? ありがとう」
 演劇部はこの学校ではあまりイメージがよくないらしく、勧誘してもほとんど断られるのだが、今年に入ってからは勧誘の成功率が上がっていた。それも今年は二年生の転校生三人に勧誘したところ、麗慈を含めて一〇〇%の成功率だったのだ。
 翔子が今年勧誘した転校生の一人目は秋葉愁斗。二年次のはじめに転校して来て、すぐに演劇部に入ることを承諾してくれた。
 二人に勧誘したのが二学期のはじめに転校して来た涼宮撫子。翔子とは違うクラスなのだが、すぐに打ち解けて部活に入ってくれた。
 そして、三人目が季節外れの夏の暑さが残るこの時期に転校して来た雪村麗慈であった。
 演劇部の二年は最初、翔子ひとりだったのだが、これで四人となり、ついに演劇部の部員の人数が二桁に到達することができた。
 だが、相手が本当に演劇部の活動をしてくれるとは限らない。翔子もそれを条件に部員の勧誘をしている。存続のためには、それも仕方ないことだった。
「文化祭が近いから放課後毎日練習してるけど、嫌だったら来なくていいから」
「俺、実は演劇経験者なんだよ」
 思わぬラッキーだった。演劇部には演劇のできる者がほとんどいなかったのだ。
「本当に? だったら、帰宅部にならないでちゃんと活動してくれるってこと?」
「もちろん」
 にこやかな笑顔だった。その笑顔を見た翔子も微笑んだが、あることに気が付いて、少し慌ててしまった。
「あっ、でも、今度の公演の役割はもう決まってるから、麗慈君が来てもすることないかも、どうしよう……」
「いいよ、別に、雑用でもするからさ」
「ごめんね、つまらないよね」
「いいって、いいって。次の公演からは俺が主役やるからさ、なんてね」
 笑顔を絶やさない麗慈を見て、いいひとが演劇部に入ってもらえたと翔子は心から喜んだ。
「本当にありがとう。演劇部には放課後私が案内するけど、いいよねそれで?」
「ああ、いいよ。今のところいつでも暇だからね」
 朝のHRが終わり、いつもどおりの授業が展開していく。この点に関しては転校生が来ても、いつもと変わらなかった。
 やがて学校は終わり放課後が来た。
 家に帰る者も入れば、部活に向かう者もいる。そんな中、授業道具をバッグに放り込んでいた麗慈の前に、約束どおり翔子が現れた。
「準備がよかったら案内するけど?」
「ああ、今終わったとこだから、案内してよ」
「じゃあ、私について来て」
 廊下には下校する生徒たちなどがまだ多く残っている。
 窓のある壁を右手にして、そのまま廊下の端まで行き、そこから階段を一階下りて二階に行く。そして、すぐ近くの渡り廊下を進んだ先に、別館として建てられたホールが存在する。
 このホールは音響設備や舞台から観客席などが行き届いて整っており、学校内の敷地に建っているが、市民ホールといった感じの施設なのだ。
 このホールは日曜日などになると、劇団やミュージシャンが公演をしに来るが、ここ一週間はほとんど演劇部の貸し切りだった。
 ホール内の廊下を歩きながら、翔子は間じかに迫った公演の話をした。
「いつもは教室で練習してるんだけど、うちの学校の文化祭まで一週間切ってるから、本番と同じ場所で練習してるの。でもうちって弱小部なのによくホールを使わせてもらえたなぁ。あっ、そう、このホール内にはいくつかホールがあってね、私たちとは別の場所では吹奏楽部が練習してたりするんだよ」
「そう言えば、学校の見学してた時、そんなこと聞いたような気がするな。そんな季節なんだな……」
「あ、あの、ひとつ聞いてもいいかな?」
 麗慈ははっとして顔を上げ、すぐに笑顔を作った。
「何でも質問しちゃっていいよ」
「どうしてこんな時期に転校して来たの? あ、別に言わなくてもいいんだけど」
 こんな時期転校してくるなんて、よほどの事情があるのかもしれない。両親の仕事や家庭の複雑な事情など、想像すればいくらでも出てくる。翔子は質問をした後で、聞かなければよかったと、少し後悔をした。
「両親がいきなり離婚しちゃってさ、突然引っ越すことになっちゃって、俺も驚いてんだよねまさか両親が離婚するなんて思ってなかったし、母親に連れられていきなり引越しだもんな」
 麗慈は明るい顔をして言ってはいるが、翔子は聞かない方がよかったと思った。
「ごめん、聞かない方がよかったかな……」
「別にいいって、そんなに深刻でも暗い話でもないし」
 十分深刻な話のような気がするが、本人の感じ方はいろいろあるのだと思う。
 このままこの話をするのも気まずいので、翔子は話題を変えることにした。
「うちの学校の文化祭って、星稜祭って名前でね、結構壮大にやるから外部からも人がいっぱい来るんだよ。でね、今の時期になると文化部はみんな張り切っててどたばたしてるんだよね」
「星稜祭か、全くひねってないな、その名前」
「たしかに中学校の名前そのまんまだもんね」
「で、意味は?」
「意味? そんなの知らないよ。でも、カッコイイ感じはするけど?」
「カッコイイか。『稜』っていうのは、多面体における平面と平面との交わりの線分のこと言うから、簡単に言っちゃうと、星と星が交わるところってことか」
「うちの学校って、そんな意味があったんだ。麗慈くんって物知りなんだね」
「こんなことで物知りだなんて言われるなんてね」
 雑談をしているうちにホールの座席を抜けて、舞台の上まで来た。そこには眼鏡をかけた背の高い男子生徒が立っていた。
 この男子生徒は翔子の先輩である三年の中山隼人[ナカヤマハヤト]。演劇部の部長でもある。
「やあ、こんにちは翔子さん。そちらはどなたですか?」
「こんにちは部長。この人はうちの新入部員の雪村麗慈くんです」
「また、勧誘成功したんですね。すごいね翔子さん」
 隼人は微笑みながら麗慈に握手を求めた。
「よろしくね雪村くん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 相手の手を取った麗慈は軽く微笑んだ。
 演劇部は麗慈を含めると全員で一〇名となる。だが、ここに集まっているのはまだ三人だけだ。
 翔子は少し不満そうな顔をして辺りを見回した。
「部長、まだ、みんな来てないんですか?」
「さっき――」
「あたしはとっくに来てるわよ」
 突然翔子の背後から女性の声がして、彼女は驚きながら振り返った。
「あたしが一番早く来たの」
 翔子の前に立っているのは三年の鳥海麻耶[トリウミマナ]。彼女は一年生の頃から隼人ともに演劇部を続けているが、舞台に立って役を演じたことは少なく、いつも裏方の仕事をしている。
「麻那先輩来てたんですね」
「そんなことよりも、他の子たちは来てないの?」
 麻那は釣りあがったキツイ目をして辺りを見回した。インテリな感じのする眼鏡のデザインのせいか、顔全体に少しキツイ印象を受ける。
 しばらくして、残りの部員たちがぞろぞろとやって来た。
 一年の女子三人組である早見麻衣子[ハヤミマイコ]・野々宮沙織[ノノムラサオリ]・宮下久美[ミヤシタクミ]。そして、少し遅れて翔子とは違うクラスの二年生――涼宮撫子[スズミヤナコ]。
 だが、残り二人が来ない。
 演劇部は人数が少ないため、ギリギリの配役で公演の演習をしているため、ひとりでも抜けたらろくな練習ができない。もし、本番の日に休まれたりしたら、もっと最悪な事態になってしまう。
 隼人は腕組みをして、少し困った顔をしている。
「おかしいなあ、須藤[スドウ]くんはいつも早く来るんだけど、もしかして休みとか?」
 隼人に顔を向けられて質問された一年生の女子三人組は首を横に振り、麻衣子が代表をして答える。
「私たち、須藤くんと違うクラスなので知りません」
 この三人組は同じクラスで、須藤も一年生なのだが、別のクラスなので全く交流がないのだ。
 二人の部員が来ないことに麻那は少しカリカリして、腕組みをしていた。
「はぁ、まったく、主演の二人がいないでどうするのよ。翔子、愁斗はどうしたの? あなた同じクラスでしょ?」
「愁斗くんなら学校来てませんでしたけど……」
「休みなの? じゃあ、まあしかたないわね」
 しぶしぶ麻那は納得した。
 愁斗は今までの練習を一度もさぼることなく一生懸命やっていた。学校を来ていないのなら、それなりの事情があるのだと納得するしかない。
 だが、主演の二人がいなくては、練習がほとんどできない。
 その時だった。この場にひとりの男子学生が現れたのは!?
「遅れてすいませんでした」
 この場に飛び込んで来たのは、学校を休んだはずの秋葉愁斗だった。
 クラスにも顔を出さなかった愁斗の顔を見て、翔子はびっくりしてしまった。
「愁斗くん、学校休んだのに……部活は来たの?」
「うん、僕が休むとみんなに迷惑かかるでしょ?」
「でも、病気とかじゃないの?」
「大丈夫だよ。少し大事な用があって学校を休んだだけだからね」
 柔らかな表情をしていた愁斗の顔が、麗慈と目が合った瞬間に、少し凍りついたのを翔子は見逃さなかった。だが、そのことには触れずに、翔子は改めて部員たちに麗慈の紹介をはじめた。
「あ、こっちにいるのは雪村麗慈くん。今日からうちの部員になってくれたの」
「雪村麗慈です。よろしくお願いします」
 カッコイイ新入部員を見た三人組のひとりである、沙織がはしゃぎはじめた。
「きゃ~、麗慈センパイってカッコイイですね。愁斗さんに負けず劣らずって感じですぅ。沙織、この部活入ってよかったなぁ」
 少々はしゃぎすぎの沙織の横に立っていた久美が、ため息混じりに言った。
「あんた、はしゃぎすぎ。愁斗先輩目当てで部活に入って、雪村先輩まで入って来てくれてラッキーって顔いっぱいに書いてあるわよ」
「そんなことないよぉ。沙織は演劇がやりたくて、この部活に入ったんだよぉ」
「どうだかねえ」
 沙織を見る久美の眼差しは冷たい。
「何その目は、久美ちゃん沙織のこと疑ってるの? ひっど~い。そういう久美ちゃんは何で演劇部なんて入ったの?」
「私はどの部活でもよかったんだけど、あんたが演劇部に入るっていうから」

 二人の会話を遮るように隼人が手を叩いた。
「はいはい、おしゃべりはそこまでにして、みんな練習はじめるよ」
 翔子が質問をするために手を上げた。
「あの、部長、メサイ役は誰がやるんですか?」
 メサイとは今日休んでいる須藤がやるはずの役名だ。
 隼人はすでに答えを考えていたらしく、手に持っていた台本を麗慈に手渡した。
「はい、これが台本。セリフを読むだけでいいから」
「俺がですか?」
 思わぬことに麗慈は驚いた顔をした。だが、隼人は麗慈に代役をやらせる気が満々だった。
「棒読みでもいいから、協力してよ、ね?」
「はい、わかりました」
 台本の表紙に印刷された演目の名は『夢見る都』。
 ――こうして演劇部の今日の練習がはじまった。

 薔薇の聖堂で二人の魔導士――フロドとメサイは対峙していた。
 フロドは姫アリアを奪い返すため、メサイは婚約者アリアを守るため。
 二人の間に挟まれたアリアは困惑した。
「お二人とも、お止めになってくださいまし。フロド様、わたくしはメサイ様の妻になると天に定められたのでございます」
「何が天命だ、親が勝手に決めた縁談が天命だと言うのか!?」
「フロド様、わたくしは……」
 それ以上言えなかった。アリアにはそれ以上の気持ちを口に出して言うことができなかった。
 親同士が決めた縁談。だが、メサイはアリアを心から溺愛していた。
「私はアリアを愛しておるのだ。貴様などにアリアを渡してたまるか!」
「私とてアリアを愛している。そして、アリアも――」
「お止めになって、フロド様!」
 アリアの叫びも空しく、フロドはメサイに飛び掛かり相手を押し倒していた
 床に背中をついたメサイにフロドは手を上げた。
 その時だった!
「止めて!」
 聖堂内にアリア悲痛な叫びが響き渡る。アリアの瞳からは涙が頬を伝わり地面に零れ落ちている。
 正気に戻ったフロドは、あと一歩のところでメサイに手を振りかざすのを止めた。アリアが涙を流さなければ、必ずやフロドはメサイに手傷を負わせていたに違いない。
「メサイよ、今日のところは引くが、私はアリアをあきらめたわけではない。必ずやアリアを私のものに……」
 フロドはマントを翻し、静寂に包まれた聖堂から去って行った。その姿を見るアリアの瞳には先ほどとは違う涙が浮かび、とても儚い表情をしていた。
 アリアを見るメサイはとても哀しい表情をしていた。
 メサイとて、アリアとフロドの仲は知っていた。しかし、メサイはアリアを愛してしまった。そして、何があろうとも自分の手に入れたい大切なものなのだ。
「わたくしはもう少しここに残りますゆえ、メサイ様はお先にお帰りになられてくださいませ」
 このアリアの言葉にメサイは少し躊躇したが、しかたなく承諾した。
「わかった、私は先に帰ろう。だが、遅くならぬように気をつけるのだぞ」
「わかりました」
 アリアがうなずくのを見てメサイは去って行った
 静かな聖堂に残されたアリアは床に膝をつくと、指を組み神に祈りを捧げた。
「わたくしは、わたくしは、あの方を愛しております。それは罪なのでしょうか?」
 神は答えてはくれなかった。
 沈黙が辺りを包み込み、時間が過ぎてゆく。
 目をつぶり祈り続けるアリアのもとへひとりの女性が歩み寄って来た。
 聖堂に響く足音を聴き取ったアリアは、目を開けて顔をその方向に向けた。そこに立っていたのはアリアの侍女であった。
「お帰りが遅いので心配になり、様子を見に来てしまいましたが、どうやらお邪魔だったようでございますね、申し訳ございません」
「いえ、いいのですよ。あなたが謝ることではありませんわ。あなたはわたくしの侍女である前に、大切な友人ですもの」
「温かいお言葉、大変に嬉しゅうございます」
 侍女はにっこりと微笑んだ。それを見てアリアも笑みを浮かべるが、どこかぎこちない感じがする。
 侍女は聞くべきでないとわかっていても、友人として聞いてしまった。
「悩み事がおありなのですか?」
「ええ、わたくしは深く悩み、その悩みに胸を酷く苦しめられています」
「わたくしは恐らくアリア様の悩みの原因を知っております。ですが、そのことに私めが口を挟んでいいものか……」
「わたくしに意見を言ってくれるのはあなたしかいないわ」
「では、友人として申し上げさせて頂きます。ですが、これはわたくしの個人的な意見ゆえに、聞かれたらすぐに忘れてください」
「…………」
「わたくしはアリア様とフロド様がご一緒になると信じておりました。いいえ、そうなって欲しかったのです。本当はこんなことを申し上げてはいけないのでしょうが、三日後に迫った婚姻式を破談させたいとも思います。――ですが、わたくしにはそんなことはできません」
 婚姻式を破談させるなどという話を聞いて、アリアは深く悩んだ。そして、深く考えた末に答えた。
「メサイ様はあなたの考えているほど悪いお方ではないわ。わたくしをとても愛してくださいます」
「……嘘です。アリア様は嘘をついておられます」
「わたくしは嘘などついておりませんわ!」
 怒鳴り声が静かな聖堂に響き渡った。これは侍女に言ったのではなく、自分を言い聞かせるものだった。
 侍女は全てわかっていた。だからこれ以上はこのことには触れなかった。
「アリア様、帰りましょう」
「わかりました」
 二人はそれ以上会話をすることなく、この聖堂を後にして行った。

 舞台の照明が一気に明るくなった。
「ここでいったん止めましょう」
 隼人の声が舞台に響いた。
 すると緊張が解けたのか翔子が深く息を吐く音が舞台に響いた。
「ふう、衣装のお腹回りが少しキツイんだけど?」
 アリア役を演じていた翔子はそう撫子に訴えた。アリアの衣装を作ったのは裁縫が得意だと自負した涼宮撫子だ。
「そんにゃハズにゃいよぉ~、三週間前に翔子のウェスト測ったじゃん」
 三週間に役者全員のサイズを測って撫子が全ての服飾を作ったのだ。そして、その服飾ができあがり、役者たちは今日はじめて衣装に袖を通したのだ。
「でも、キツイんだもん」
「それって、翔子が太ったんじゃにゃいの?」
「ひど~い!」
「じゃあ、翔子以外にサイズがあってにゃいひと手上げてぇ~」
 撫子がそう聞くと手を上げたのは翔子だけで、他のみんな首を横に振った。
 自分の採寸と裁縫技術が正しいことを確信した撫子は満足げな笑みを浮かべた。
「じゃあ、そういうことで翔子はダイエットってことで、よろしく♪」
「……う、うん」
 翔子が不満げに押し黙ったところで、隼人は全員の気を引くために手を叩いた。
「はい、じゃあ、翔子さんはダイエットをするってことで一件落着ですね。え~と、翔子さんが祈りを捧げるシーンで、侍女役の早見さんの出るのがちょっと遅かったかな。たしかにあそこは間が必要なんだけど、動きも会話もないシーンって観客に結構不安を与えるんだよね。だから、もうちょっとだけ早く出てみてください」
「はい、わかりました」
 麻衣子が返事をしたのを確認した隼人は話を続ける。
「それで、秋葉くんはいつもよりよかったと思うよ……。雪村くんの演技がよかったせいかな?」
 愁斗の演じるフロドの敵役であるメサイ役は、今日休んだ須藤が演じる役なのだが、今日はその代役を麗慈がした。
 麗慈はひとりだけ制服で台本を片手に持って演技をしていたが、その演技は迫真の演技だったと言えた。本当に愁斗と麗慈は仲が悪いのではないかと思わせるほど、二人は役に入り込んでいたのだ。
 新入部員の思わぬ活躍に撫子は麗慈をはやし立てた。
「烈すごかったよ麗慈クンの演技。麗慈クンってさあ、演劇とかやってたの?」
「まあな。それよりも、今の烈ってなに?」
「超に変わる新アレンジだよぉ」
 撫子は常にテンションが高く、撫子語という特殊言語を操る。
 みんなが集まる輪からひとり外れて立っていた愁斗に、麻那が近づいていって声をかけた。
「今日の愁斗、ちょっと変ね。何かあったの?」
「いいえ、何もないですよ」
 返事には少し冷たい響きが含まれていた。
 明らかにいつもと違う愁斗の雰囲気に、麻那は珍しいものを感じて微笑する。
「新入部員クンが気になるとか?」
「いいえ、違いますから、気にしないでください」
「いつもは優男クンなのに、今日はちょっとトゲがある感じじゃない? これが本性なのかしら?」
「……さあ、僕にもよくわからないんですよね」
 惚けているわけもなく、翳のある表情をする愁斗に対して、麻那は素っ気無く言った。
「ふ~ん、麗慈に嫉妬とかしてるんじゃないの?」
「どうして?」
「好きな女の子を取られそうでに決まってるじゃない」
 悪戯にそう言う麻那の視線の先には、麗慈と楽しそうにおしゃべりをする女子生徒の姿が映っていた。
 からかわれた愁斗は何の反応も示さずに、仮面のような無表情な顔をしていた。
 相手の反応がなく、つまらなくなった麻那は隼人のもとへ向かった。
「隼人、今日の部活動はこれでお開きにしましょう」
 この言葉を聞いた部員たちは少し驚いた顔をした。公演が近いのに早めに練習を切り上げるなんて、どういうことだろうと思ってしまった。
 しかし、部長である隼人は麻那の要求をすんなりと呑み込んだ。
「じゃあ、今日の練習はこれでおしまい。ということで、涼宮さんが入部した時みたいに――」
 隼人が言い終わる間に、それをされた本人である撫子がいち早く反応した。
「アタシの時みたいに、麗慈クンの爆歓迎会するんですよねっ!」
 撫子の言葉に隼人はうなずき、それを見た撫子は隼人に手を差し出した。
「はい、部長」
「なに?」
 撫子の手には何も乗っていない。つまり、何かをくれという意思表示だ。
「お菓子とか買って来ますから、お金くださいよぉ」
「いや、あのさ、ピザでも注文しようと思ったんだけど……」
「じゃあ、ピザも注文してください。アタシと翔子でお菓子とか飲みもの買って来ますから、ねっ?」
 人懐っこい満面の笑みで、撫子は手のひらを隼人の腹に差し込んでグリグリした。笑いながら隼人を脅迫しているのだ。
「あはは、涼宮さんには負けましたね」
 と言って、嫌な顔もせず隼人はポケットから財布を取り出し、千円札を二枚取り出して撫子に渡した。
「これで足りるでしょ?」
「二千円ですかぁ~、ケチッ」
「ピザもあるから、そんなにいらないと思いますよ」
 しぶしぶ撫子は納得して、素早い軽やかな身のこなしで動き、有無を言わせないままに翔子の腕を掴んだ。
「行くよぉ~ん、翔子」
「本当に私も行くの」
「もちちだよ」
 『もちち』とは、『もちろん』と言う意味である。
 翔子の腕を強引に引っ張っていく撫子の背中に隼人が声を浴びせた。
「部室で歓迎会だからね」
「わかったにゃ~ん♪」
 まさに猫撫で声で撫子は翔子を引きつれ飛び出して行ってしまった。

 翔子たちの通う星稜中学は昼食がお弁当で持参であり、朝の登校中に学校のすぐ近くにあるコンビニで、昼食を買ってくる生徒たちが多い。そこまではいいのだが、下校時にもコンビニに立ち寄る生徒が多いために、溜まり場となっていることが問題になっている。
 コンビニに到着した二人は辺りを見回した。たまに教師たちが校外パトロールをしていることがあるからだ。
 辺りを確認し終わった二人はコンビニの中に入った。
 翔子が買い物カゴを持ち、撫子がその中にどんどんお菓子や飲み物を入れていく。
 迷うことなく買い物を続けていた撫子の足が止まった。彼女の視線の先にはデザートがあった。
「どれをチョイスしようかにゃぁ~」
「もしかして、自分用のデザートとか言わないよね?」
 わざわざこうやって翔子が聞くのは、すでに撫子が自分専用のデザートを買うことを確信していて、『止めなさい』というニュアンスが含まれている。
「翔子はどれチョイスするぅ~?」
「だから、勝手に自分の物買ったらマズイでしょ?」
「そうかにゃぁ~、で、翔子はどれチョイスする?」
「だ~か~ら~、もお!」
「ハイハイ、アタシだけプリングチョイスしちゃお」
 カゴの中に撫子がプリンを入れたのを見て、翔子は露骨に嫌な顔をしたが、ため息をついて、もうそのことについては何も言わなかった。
 レジで会計を済ませようとしたのだが、そこで思わぬことが起こった。合計金額が七九円オーバーしたのだ。
 もらったお金よりも合計金額が超えたとたんに、撫子は仔猫のような瞳で翔子を見つめた。
「翔子ぉ~、お金プリーズしてぇ~」
「あなたが自分用のデザートなんて買うから――」
 と少し怒りながらも、自分たちの後ろに客が並んでいることに気づいた翔子は、しぶしぶ自分の財布から一〇〇円玉を出して会計を済ませた。
 コンビニの袋を受け取った翔子は、撫子の腕を強引に引っ張って、足早にコンビニの外に出た。
「今のお金は貸しだからね」
「えぇ~、アタシたちの友情はウソだったの!?」
「そういう問題じゃないでしょ。お金にルーズなひとは生活もルーズなんだよ」
「いいよぉん、アタシはいつも緩みっぱにゃしだもん」
 撫子はお金を返す気ゼロだった。
「もぉ!」
 いくら翔子がこのことについて話しても、会話は平行線を辿るに違いない。だが、その前に二人の会話に割り込んできた人物がいた。
「あなたたち、コンビニでお買い物かしら?」
 二人が振り向いた先に立っていたのは、森下麗子[モリシタレイコ]先生だった。この先生は演劇部の顧問でもある。
 撫子はすぐにしまったという顔をして、翔子の後ろに隠れた。
「ビックリ麗子先生じゃにゃいですかぁ~、こんなところで遭うにゃんてミラクルですねぇ、あははーっ」
「森下先先こんにちは」
 翔子の顔もしまったという表情をしてしまっている。さすがにコンビニの袋を持った状態では、いい言い訳が思いつかない。
 教員たちは文化祭が近いことから、校外パトロールをしていたのだ。そして、たまたま翔子たちは森下先生に見つかってしまった。
「コンビニでずいぶんとお買い物したみたいだけど、パーティーでもするのから?」
 言い訳をするのも面倒だったので、翔子は正直に話した。正直に話すのは、この先生だったら見逃してくれる可能性があるからだ。
「実は、これから部室で新入部員の歓迎会をすることになりまして……」
「新入部員? また新しい子が入ったの?」
「はい、私と同じクラスの雪村麗慈くんが部活に入りました。後で先生のところに言いに行こうと思っていたのですが……」
「ふ~ん、歓迎会じゃしかたないわね」
 この言葉を聞いた撫子は翔子の後ろから急に飛び出してきた。
「麗子先生、話わかるぅ~!」
「いいわよ、見逃してあげるわよ。でも、交換条件として――」
 森下先生は翔子の持っていたコンビニ袋の中に手を入れてプリンを取り出した。
「これで黙っててあげるわ」
「あ、それアタシのプリン!」
「駄目なら交渉決裂よ。そもそも学校内で、しかも部室でお菓子食べてパーティーなんて本当は駄目なんだからね」

 しゅんとした撫子はプリンをあきらめた。しかし、その目はうらめしそうだ。
 このままだと撫子はずっとプリンを見ていそうなので、翔子は強引に撫子の腕を引っ張って歩き出した。
「森下先生、失礼しました」
「他の先生に見つからないように、気をつけなさいよ」
 森下先生と別れて、すぐに撫子は元気になった。撫子は気持ちの切り替えがいつも早いのだ。
「プリンは食べたかったけど、人生山あり谷あり、波乱万丈だもんね」
「ちょっと大げさよ、それ」
「そうかにゃぁ~、人生は苦難が多いと思うよ。例えば恋愛とか?」
 恋愛という単語に翔子の耳がピクリと反応した。
「恋愛?」
「そうそう、恋愛。で、結局翔子はどっちチョイス?」
「どっちって何が?」
 聞き返しながら、翔子は少し動揺していた。そして、撫子は悪戯な笑みを浮かべながら翔子をからかう。
「言葉に出しちゃって、いいのかにゃぁ~」
「言ってみなさいよ」
「愁斗クン一筋だと思ってたのに、今日の翔子が麗慈クンを見る目……明らかに怪しかったにゃぁ~」
「だから、何が言いたいのよ」
 何が言いたいのか答えを聞かなくてわかっているし、翔子の顔はすでに桃色に染まっている。
「どっちの子が好きにゃのって聞いてるの」
「どっちって言われても……」
「もしかして二股ってのはダメだからね。翔子は好きな方を選んでいいよぉん、余り物をアタシがもらうから」
「二人を物扱いしないでよ!」
「じゃあ、どっちどっち?」
「……もぉ、聞かないでよ!」
「じゃあ、両方アタシがゲッチュだね」
「それはダメぇ~っ!」
「だから、二股はダメだって、――あっ、翔子がハッキリしにゃいから学校ついちゃったよぉ」
 学校内に入った二人はコンビニの袋を隠しながら、先生たちに会わないように部室に急いだ。
 部室の中に入った二人がすぐに目にしたのは、不機嫌そうに腕組みをする麻那の姿だった。
「あんたたちおっそいわよ、パシリとして三流ね」
「アタシたちパシリじゃにゃいですよぉ。慈善活動で買い出しに行って来たんです」
「ハイハイ、慈善でもパシリでも、どっちでもいいから、買ってきたものを机の上に出しなさい」
 いくつもの机を並べて大きなテーブル状になったその上に、ペットボトルのジュースやポテトチップス、そしてなぜかお酒のツマミまであった。
 麻那はサラミを手に取り聞いた。
「何で酒のツマミまであるの?」
 顔を向けられて聞かれたのは翔子であるが、カゴにどんどん入れていったのは撫子だった。
「私に聞かれても……、選んだの撫子ですから」
「だって、爆デリシャスじゃにゃいですかぁ」
 撫子のいう『爆』とは、『烈』よりもスゴイ時に使う表現である。
「あっそ」
 と呟いて麻那はサラミを遠くに放り投げて、ポテトチップスの袋を開けた。
 翔子は買って来た紙コップをみんなに手渡している途中で、あることに気がついた。
「麗慈くんがいないみたいですけど?」
 その問いに、みんなにお酌している隼人が答えた。
「雪村くんには学校からちょっと離れた通りでピザを待ってもらってます」
 翔子は疑問を抱いた。麗慈のための歓迎会なのに、麗慈をお使いに出すなんて。
「あの部長、これって麗慈くんの歓迎会じゃないんですか?」
「ジャンケンで公平に決めろって、麻那が言うからさ」
 歓迎会というのは表向きの理由で、実際はパーティーがしたいだけなのである。だから、誰をお使いに出そうと別にいいのである。そのことは翔子も承知の上だ。
「でも、新入部員をこき使うなんて、よくないですよ」
 新入部員が部活に対して悪いイメージを抱くかもしれない――それが翔子には心配だった。せっかく部活に入ってくれたのに、辞められては困る。
 だが、麻那はジュースを飲みながらさらりと言い放つ。
「弱肉強食よ――人生、強いやつが生き残っていくの。ジャンケンという勝負は学生時代には、ポピュラーな勝負方法よ。それに勝たなくてどうするの?」
「はい?」
 翔子は思わず口をぽかんと空けてしまった。麻那の言っていることは、イマイチ理解できなかった。
 撫子はお菓子の袋をひとつ持って、部室を飛び出そうとした。
「じゃあ、アタシは麗慈クンのところ行って来るにゃ~ん」
 部室を出て行く撫子の後ろ姿を見て、翔子ははっとした顔をした。だが、すぐに気持ちを切り替えて愁斗の方を振り向くが、愁斗の回りにはすでに三人組の女子がまとわり付いている。
 その場に立ち尽くしてしまっている翔子に部長が声をかけた。
「ずっと立っていないで、座ったらどうですか?」
「あ、すいません」
 声をかけられてはっとした翔子は近くにあった席に腰掛けた。
 席についた翔子に隼人よりも先に麻那がジュースを注いだ。麻那がこんなことをするなんて、珍しいことだ。
「困ったことがあるなら、いつでも麻那お姉様に相談しなさい。相談料を弾んでくれればいい答えをあげるわよ」
「相談料取るんですか?」
「初回はタダにしてあげるわよ」
 悪戯な笑みを浮かべる麻那。こんな人に相談なんてしたら、それを弱みに一生強請られそうだ。
 しばらくしてMサイズのピザを三枚持って、麗慈と撫子が部室に戻って来た。
「お待ちぃ~、ピッツァの到着だよ~ん」
 ピザが到着したことにより、パーティーに華ができた。
 麗慈は翔子の横に座り、撫子は麗慈の横に座った。つまり、麗慈は翔子と撫子に挟まれる形となった。
 一息ついた麗慈は、腕を伸ばしておつりを隼人に渡した。
「これ、おつりです」
「はい、どうも」
 隼人そう言いながら撫子を見つめた。お菓子のおつりはどうしたの? という意思表示だが、撫子は知らん顔をしている。
 撫子を見つめる隼人の意思を感じ取って翔子が弁解した。
「えっと、予算オーバーしちゃって私が少し出したので、おつりはないんです。ごめんなさい」
「あ、いや、別に謝らなくてもいいよ。こっちこそごめんね、翔子ちゃんにお金出させて」
「でも、部長だけにお金出させるなんて……」
「いちよう僕は年長者だし、それにお金を出し――痛いっ!」
 急に隼人は声をあげて、横に座っていた麻那の顔を見た。もしかして、見えないところで麻那に足でも蹴られたのかもしれない。ということは、麻那もお金を出したのかもしれない。
 部室の中に誰かが入って来た。部員たちは少し焦る。パーティーをしているのが部外者にバレるとマズイ。
 だが、部室に入って来たのは顧問である森下麗子先生であった。
「あなたたち、盛り上がってるかしら?」
 入って来たのが森下先生で、部員たちは一斉に息を吐いた。
 森下先生は撫子を無理やり退かして、麗慈の横に座った。
「麗子先生、それは職権乱用ですよぉ~」
「ハイハイ、顧問に口答えしない。私は新入部員に興味があるの」
 紙コップを手に取った森下先生は、誰かに注げと目で訴えている。それに麗慈がすぐに反応する。
「なにを飲みますか?」
「お酒はないのかしら?」
「あるわけにゃいじゃん、爆横暴教師!」
 撫子は森下先生の真後ろに立って、うらめしそうな顔をしてそう言った。だが、森下先生は完全に無視だった。
「じゃあ、お茶でいいわ」
 お茶をコップに注ぐ麗慈を森下先生はうっとりした瞳で見つめていた。他に誰もこの場にいなかったら、食いつきそうな目でもある。
「いい男ね。演劇部に華が二輪も咲いちゃって……嵐が来なければいいけど」
 嫌な含みを持たせる森下先生に麗慈は聞いた。
「嵐とはどういうことですか?」
「だって、いい男が二人もいたら、取り合いになって派閥でもできて、部活崩壊なんてこともありえるわよ。現にね」
 森下先生は愁斗を中心に群がる女子三人組とこっち側を見て、再び口を開く。
「まあ、今日は一日目だから、今後の展開が楽しみね、ふふ」
 悪戯ね笑みを浮かべる森下先生。それを見て翔子は少し不機嫌な顔をする。
「部活崩壊なんて言わないでください。せっかく、ここまでやって来たのに……」
 演劇部は翔子が一年生に入った時から弱小部で、二年目の今年はいい雰囲気で来ているのだ。それを崩壊だなんて、ひどい。
 少しの間、殺伐とした空気が流れたが、その後はどんどんパーティーは盛り上がっていった。

 森下先生が乱入して来たことにより、パーティーはドンチャン騒ぎとなり、やがて終わりを迎えた。
「あなたたち、そろそろ下校しなさい。部員の帰りが遅いと私の責任問題になるのよ」
 一番騒ぐだけ騒いでいた森下先生がそう告げると、ちらばったお菓子の袋などを全員で片付けはじめた。
 ゴミを見て森下先生が忠告をする。
「ゴミは各自持ち帰りよ、間違っても学校のゴミ箱になんか捨てるんじゃないわよ。わかったわね」
 みんな適当に返事をするが、ゴミを持ち帰るのは少し嫌な感じがする。そのことをわかっている隼人はゴミ袋を全部自分の方に回収しはじめた。
「僕が持ち帰るから」
 それを聞いて翔子は慌てる。
「ダメですよ、部長ばっかり」
「いや、いいって、僕にできるのはこんなことぐらいだからね。じゃあ、みんな解散」
 部長の言葉を合図にみんな帰っていく。
 森下先生がまず部室を出て行き、愁斗がその後を足早に帰って行き、女子三人組も帰って行った。
 身体を伸ばして大きなあくびをした撫子は翔子の方を振り向いた。
「じゃあ、アタシたちも帰りますか」
「うん」
「アタシと翔子で帰るけど、麗慈クンも一緒に帰るぅ?」
「俺も? いいよ、一緒に帰ろう」
 部室を出て行く三人に隼人が手を振る。
「じゃあね三人とも、また明日」
「お疲れ様でした」
 翔子は隼人に頭を下げて、二人とともに部室を後にした。
 廊下を抜けて、下駄箱に来ると、外からの秋風が昇降口に流れ込んで来た。
 外はすっかり黄昏色に染まり、秋の哀愁が漂っていた。
 グランドでは運動部が練習をしている。それを尻目に三人は学校の正門を抜けた。
「爆楽しかったよねぇ~」
 撫子はお腹をパンパン叩きながらそう満足そうに言った。楽しかったというより、お腹いっぱいといった感じである。
 麗慈は遠い空を無表情に眺めているので、翔子はそれが少し不安になる。
「麗慈くん、もしかして楽しくなかった」
「え、ああ、楽しかったよ。ひさしぶりにおもしろかったかな」
 笑顔でそう答えているが、本当にそうだったのか、少し疑問が頭に過ぎる。
「本当に楽しかった? 撫子にまとわり付かれて迷惑だったとかないよね?」
「ひっど~い翔子。アタシは麗慈クンを楽しませようとがんばってんだよ」
 顔を膨らませる撫子を見て麗慈は笑顔を浮かべた。
「楽しかったよ、本当に……ただ」
 麗慈は寂しそうな顔をした。
「俺、秋葉に嫌われてるのかな?」
 思わぬ発言に翔子は戸惑ってしまった。彼女はふたりをよく見ていたから、今日のふたりが口を聞いていないこと、目線を合わせなかったことを知っていた。愁斗は明らかに麗慈のことを避けていた。
「そういえば愁斗クン烈機嫌悪そうだったかもねぇ~、もしかして、麗慈クンに嫉妬だったりしてね」
「俺に、どうして?」
「愁斗クンの専門家の翔子ちゃんに聞いてみたらぁ~。じゃあ、アタシはあっちだからおふたりさん、さらばにゃ~ん」
 Y字路に差し掛かったところで、撫子はふたりと別の方向に走っていってしまった。残された翔子はひとりで気まずい雰囲気になる。
 翔子は最後にあんなことを言い残した撫子を少し恨んだ。
「何で別れ際にあんなこと言うかな……」
「ところで、愁斗クン専門家って何のこと?」
「え、いえ、あの、別に専門家じゃないです!」
 しどろもどろになった翔子の顔は真っ赤だった。それを見た愁斗は笑みを浮かべる。
「もしかして、翔子ちゃんって秋葉のことが好きなの?」
 あまりにもストレートな言い方に翔子は頭の中が真っ白になった。
「あ、あ、あああ、あの、別に……」
「わかりやすいな翔子ちゃんは、そんな翔子ちゃん、好きだよ」
 優しい笑顔で見られた翔子の頭は爆発した。
「えぇーっ!? あの、なに、今の!」
「俺は翔子ちゃんのことが好きなのに、翔子ちゃんが秋葉のこと好きなら……あきらめるしかないな」
「だから、それって、どういう意味!?」
 聞かなくても、相手の反応を見ていればわかるが、それでも〝好き〟という意味を聞かずにはいられなかった。
「俺は翔子ちゃんのことを愛してるってことさ」
「…………」
 はっきり言葉に出されると、もう何も言えない。翔子その場に固まってしまった。
「大丈夫翔子ちゃん?」
「…………」
「俺の声聞こえてるよね?」
 麗慈は自分の手のひらを翔子の目の前で上下に動かすが、反応がない。
「大丈夫?」
「…………」
「動けないなら、おぶって行こうか?」
 この言葉に翔子ははっとした。今の状態で麗慈におぶられるなんて、自分がどうなってしまうかわからない。
 まだ動けずにいる翔子の肩に麗慈の手がそっと触れた。
「きゃっ!」
「あ、ごめん」
「……あ、あのごめんなさい!」
 翔子は顔を真っ赤にしたまま逃げるようにして行ってしまった。
 残された麗慈は悪戯な笑みを浮かべた。そして、麗慈は何事もなかったように無表情な顔をしてひとりで歩き出したのだった。

 住宅地を抜けて、ビルかなにかであろう巨大建造物の建設現場の前で、鋭い目つきをした麗慈の足が止まった。
 回りに人がいないことを確かめた麗慈は建設現場の中に入って行く。
 人の気配はない。鉄骨やそれでできた建物の骨組みがあり、クレーン車などの重機がある。
 誰もいないはずの建設現場で、麗慈は声をかけた。
「ずっと見張っていたんだろ、そろそろ出て来いよ」
 秋風が吹いた。それと同時に物陰から茶色い布を羽織った人物が姿を現した。布はフードのようになっていて、顔はよく見えない。
 謎の人物を確認した麗慈は嗤った。
「ひさしぶりでいいかな、紫苑」
「挨拶はいらない。これは愚問だが、なぜ貴様は私の前に現れたのだ?」
「自分で愚問だって言うなら、わかってるだろ。おまえを殺りに来た、ククッ」
 殺伐とした空気が二人の間に流れる。部外者がここにいたならば、息もできないくらいに苦しい空気だ。学校では見ることのできなかった麗慈がそこにはいた。
 紫苑が麗慈に一歩詰め寄る。
「では、なぜ私をすぐに殺さない?」
「俺はいつでもおまえを狙っている。そして、俺はいつでもおまえを殺せる。だから殺らない」
「目的は自己の欲求を満たすためか?」
「気まぐれさ、おもしろいやつらがいっぱいで、嗤い転げるほど楽しい。俺はもう少し学校生活ってやつを楽しみたい。おまえを抹殺したら地獄に逆戻りだろうからな。だからおまえもいつでも俺のことを殺そうとしていいぜ」
「では、今だ!」
 細い線が煌いた。麗慈の頬に紅い線が走る。
「危なかったな、おまえのテンポが遅くなかったら、俺の首は宙を舞ってたな」
「次は外さん」
 再び線が宙に煌く。だが、それは輝く線によってプツリと切られ、揺ら揺らと地面に舞い落ちた。
 地面に落ちたそれは、細い糸であった。
 紫苑の操る武器――それは魔導具である妖糸であった。そして、麗慈の操る武器もまた妖糸である。
「クククッ、古の血を受け継ぐ魔導士も、現代の科学には形無しだな」
「それは違うな。貴様は出来損ないのコピーだ」
「俺様が出来損ないだと!? 訂正しろ、俺は完璧だ、完璧だ、完璧だ!」
 狂気ならぬ狂喜に打ち震える麗慈は高らかに嗤った。
「クククククククククク……」
 狂った麗慈の手から妖糸が放たれた。
 茶色いぼろ布が裂けた。
 しかし、紫苑は上空を舞い、建設中の建物の骨組みに降り立った。その飛翔距離、実に一〇メートル以上。人間とは思えない業だ。
「ククッ、逃げるなんて卑怯だぞ、かかって来い!」
 紫苑が宙を舞い降りてくる。襤褸布が風に揺れ音を立てる。
 頭上から襲い掛かってくる紫苑を向かい撃つべく麗慈の手が動く。
 地面に落ちていた鉄骨が宙に浮いた。麗慈が妖糸で持ち上げたのだ。その光景はまるで魔法を見ているようだ。
 鉄骨が矢のように飛び、舞い降りる紫苑の腹に直撃した。
 鈍い音が鳴り響く――骨や内臓が砕けたのかもしれない。
 トラックに轢かれたような衝撃を受けた紫苑の身体は高く吹っ飛んだ。
 上空で紫苑の身体が回転する。そして、落下。
 蛙のような格好になりながらも紫苑は地面に着地した。なぜ、紫苑は動くことができるのか?
 蛙飛びをした紫苑が麗慈の横を掠め、その瞬間に麗慈の胸を切った。しかし、紫苑が狙ったのは腕であった。
 制服が切られ、そこから鮮血が滲み出す。
「ククッ……制服を切るのは止めてくれないか? 一張羅なんでね、明日から学校に行くのに困ってしまう、ククッ」
 麗慈は余裕であった。彼は明日も何食わぬ顔をして学校に行く気だった。
 紫苑の手が煌いた。
 妖糸が針のようにして幾本も麗慈に襲い掛かる。それを麗慈は軽々とアクロバットを決めて避けながら、紫苑に近づいた。
 白い腕が紫苑の顔を掴んだ。否、顔ではなく、別の物を掴んでいた。
 対峙する二人。麗慈の腕の先にあるもの――それは仮面であった。
 そして、麗慈の手は獲物を?む鷲のように、真の顔を隠す仮面を剥ぎ取った。
 なんと、そこには美しい女性の顔があった。
 糸が煌く。麗慈は慌てて後ろに飛び退いた。
「クククククククク……雌の顔か。はじめて見た顔がそんな顔だったとは、可笑しくて笑っちまうな。本物はどこだ?」
「私が紫苑だ」
 玲瓏たる声を発した紫苑に、麗慈は仮面を投げつけ走った。
その後を紫苑が追う。
 建設中の鉄骨の上を飛び回る麗慈に妖糸が浴びせられる。だが、鉄骨が切断されるだけで、麗慈は無傷だ。
 建物が揺れた。行く本もの柱を切られたために建物は崩れようとしている。
 大きく建物が揺れた、そして――轟音を立てながらついに倒壊した。
 二人は同時に空にジャンプした。地面との距離は三〇メートル以上ある。
 地面を砕き、足をめり込ませながら二人は着地した。
「ククク、地面が少し軟らかいな」
「落ちながら考え事をしていた」
「落ちながら考え事なんて、おまえも頭がだいぶイッてるな」
「組織はどこにある?」
 最大の目的はそこにある。組織への復讐と私怨。紫苑は麗慈のような刺客を待ち望んでいた。
「さあな、俺が知るわけないだろ」
 これは惚けているのではない。麗慈は本当に知らない。そう教育されているのだ。
「では、私が逃げた後の状況は?」
「おまえとおまえの親父がいなくなっても、プロジェクトはまあまあ進んでる。が、俺以降は全部戦力にならない遣いっパシリだ。やっぱオリジナルがいないとダメなんだろ」
「そうか、なおさら貴様を殺す理由ができたな」
「殺れるもんなら殺ってみな。オリジナルにコピーが劣るなんて大間違いだ。俺はただの複製じゃなくって、そこに科学のうんたらのプラスアルファがあるからな」
「その代わりに、魔導の力は削られている。真物を知れ!」
 紫苑の糸が空間に一筋の傷をつくった。その傷は唸り、空気を吸い込みながら広がり、空間に裂け目をつくった。
 闇色の裂け目から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。
 紫苑の腕が前に伸びた。
「行け!」
 完全なる使役。
 裂けた空間から〈闇〉が叫びながら飛び出した。それは麗慈に襲い掛かった。
 〈闇〉に腕を掴まれ、足を掴まれ、胴までも掴まれてしまった。
「な、何だこれは!?」
 身体に纏わり付く〈闇〉振り払おうとするが、妖糸を操る手が動かないのでは、どうすることもできなかった。
「放せ、放せ、放せ、放せ、放せ、放せってイッてんだろーが!」
「〈闇〉に侵食されるがいい」
「これはいったい何だ!」
 麗慈の身体は顔を残して全て〈闇〉に包まれていた。
「ヒトの〈闇〉だ。これがオリジナルの技であり、あやとりで遊んでいるだけのコピーにはできぬ芸当だ」
 次の瞬間には麗慈の身体は全て〈闇〉に呑まれ、〈闇〉は空間の裂け目に吸い込まれるようにして還っていった。
 空間の裂け目は轟と言う音を立てながら閉ざされた。
 戦いは終わった。
 いや、まだだ!
 空間の裂け目から白い手が、こちらの世界を覗いている。
 この場を立ち去ろうとした紫苑の腕が宙に飛んだ。血飛沫が地面を紅く染める。
「クククククククククク……帰還成功だ。オリジナルも大したことないな。詰めが蕩けるくらいに甘すぎる」
 裂けた空間から声がして、手が出て、次に足が出て、麗慈が姿を現した。
「ま、まさか!?」
 この時はじめて紫苑の顔に表情が浮かんだ。
 驚愕する紫苑。まさか、〈闇〉に呑まれたものが還ってくるとは……!?
「ククッ、地獄を生きる俺様が、天国でぬくぬくと生きる紫苑ちゃんに犯られるわけないだろ?」
 残った紫苑の腕が素早く動く。が、妖糸はプツリと切られてしまった。
「俺、ちょっとハイになって来ちゃってさ、もう抑えらんないって感じ……ククク」
 嗤い震える麗慈の目が紫苑を舐め回すように見た。
「クククククク……切り刻んでヤルよ」
 相手の動きが速すぎて紫苑は出遅れた。
 残った腕が飛んだ、
 成す術もなく、やられるがままだった。
 足が切断され、胴が地面に落ちた。それを見て麗慈が舌なめずりをする。
「メインディッシュだ」
 首が飛んだ。美しき女性の頭が宙を舞った。そして、地面に鈍い音を立てて落ち、転がる。
「クククククク……ヤッちゃった」
 麗慈は地面に落ちた頭を蹴飛ばして、嗤った。
「ククククククククク……ククククククク……ククク」
 遠くからサイレンの音が聴こえる。パトカーがこっちに向かって来ているのだ。
 建設中の建物が倒壊した時に、誰かが警察に電話したのであろう。
 警官がこの場に駆けつけた時には、麗慈の姿はなく。残っていたのは地面を染める紅だけだった。

 麗慈から走って逃げた翔子の顔は真っ赤だった。もちろん走っているせいもあるが、それ以上に麗慈のあの言葉が、頭を振っても振っても耳から離れない。
 ――俺は翔子ちゃんのことを愛してるってことさ。
 あれは愛の告白以外の何でもない言葉だ。
 翔子は頭が可笑しくなりそうで、何度も躓きそうになった。
 自分は麗慈くんに告白されてしまった。でも、自分が本当に好きなのは、どっちなのだろうか。翔子の頭の中で二人の男が戦っていた。
 頭の中で戦う二人の男――それはまさにあの演劇と同じであった。しかし、それは翔子の頭の中での出来事。愁斗が自分のことをどう思っているのか、翔子にはわからない。
 二人のどちらが本当に好きなのか、本当にどちらかが好きなのか。真実が全く見えなかった。
 今日はじめて逢ったばかりの男性を好きになって、愁斗への愛は嘘だったのか?
 嘘ではなかった。でも、麗慈のことも好きなんだと思う。そう、二人はの性格は違うけれど、何かが同じような気がする。翔子はそこに惹かれた。
 どこを走ったのか覚えていないまま、翔子は自宅の前に立っていた。
 こじんまりした家だが、一軒やであることには変わりない。
 家の中に入った翔子は二階に駆け上がって、自分の部屋に飛び込んだ。
 部屋に入った翔子はそのままベッドに飛び込む。そして、枕をぎゅっと抱きしめた。
「あーっ、もぉ、何だかわからないよぉ!」
 今まで男性を好きになったことは何度もあったけど、ふたり同時に好きになったことははじめてだった。いつも一途に想い続けて、成就したことなんて一度もなかったと翔子は思った。
 今回は違う。麗慈も自分のことを好きだと言ってくれた……けど、愁斗への想いは消えない。消えるはずがない。
 二人の男性に想いを寄せるなんて、罪の意識を翔子は感じてしまった
 愁斗が二年生のはじめに転校して来て、すぐに翔子は声をかけた。誰よりも早く。
 もちろん、演劇部の部員勧誘のために声をかけたのだが、最初はいい返事がもらえなかった。それでも、声をかけ続けていたら、最初は冷たい態度だった愁斗が明るくなってきて、愁斗は誰にでも優しい人になっていった。転校してきたばかりで、きっと他の人にどう接していいのか、わからなかったのだと思う。
 翔子は愁斗への想いを馳せた。
「優しい愁斗くんが本来の姿だったんだと思う……。笑顔の愁斗くんが好き」
 でも、今日の愁斗は様子が変だった。撫子の言うとおり、今日の愁斗は麗慈を避けているようだった。
 冷めたような表情を時折みせる愁斗は、転校して来た時と同じだ。そして、哀しい顔をする時もある。最近は笑顔だけだったのに、愁斗はどうしたのだろうか?
 愁斗のことを考えると胸が苦しくて、でも、どうしたらいいのかわからくて……。
 自分は愁斗に何もしてあげられないのだろうか……。と翔子が想った時、答えが少し見えて来たような気がした。
 部活の勧誘を何度もして、ついに部活に入ってくれると言った――あの時の笑顔。その笑顔は翔子の脳裏に鮮明に残っている。
「……あの笑顔が一番うれしかった」
 その時、答えがはっきりと出た。
「やっぱり、私は愁斗くんが大好き。麗慈くんへの想いは、麗慈くんが愁斗くんと重なって見えたら……でも、何でだろう?」
 全く違う人間なのに、どうして? とその疑問だけは解けなかった。
 枕を抱きしめて、ずっと考え事をしていたら、部屋の前に誰かが歩いて来る音が聴こえた。
 足音は翔子の部屋の前で止まり、コンコンというドアをノックする音が聴こえて、そのすぐ後に翔子の母親の声が聞こえた。
「夕飯とっくにできてるわよ」
「いらなーい」
 ベッドに横になりながら、翔子は気のない返事をした。すると、ドア越しに母親はまだ話し掛けてくる。
「どうしたの、体調でも悪いの?」
「ピザ食べたからお腹いっぱいなの」
「もお……」
 呆れた声を出して母親は行ってしまった。
 遠ざかっていく足音を聴きながら、翔子はため息をついた。
 お腹がいっぱいというのは本当だが、いろんなことを考えすぎて、物が喉を通らないという理由の方が大きい。
 麗慈に告白されて、愁斗が好きだと確認した。けれど、明日から麗慈にどんな顔をして接したらいいのかわからない。翔子はいっそうのこと明日学校を休んでしまおうとも考えた。
 けれど、それは問題の根本的な解決にならないので、翔子の中ですぐに却下された。
「お風呂入ろう。お風呂入って全部水に流……せないよね」
 ため息をつきながらも、翔子は結局お風呂場へと向かった。
 脱衣所についた翔子は服を脱ぎ、お風呂場に入った。
 少しお風呂場は寒かった。床のタイルに足の裏が触れると、全身にゾクゾクと寒気が走る。
 シャワーを出して床を濡らして温め、その後に自分がシャワーを浴びる。
 ボディーソープをスポンジに取って、足の先から上へと洗っていく。そして、全身の泡を流して、お湯に浸かる。
「はぁ~」
 と思わず年寄りのような声が出てしまう。
 目をつぶり、至福の時を満喫する。
 だが、お風呂に入り目をつぶると、いろいろなこと考えてしまう。お風呂に入っている時と寝る前は、考え事をしたくなくてもしてしまう。
「はぁ~」
 と今度はため息が出てしまった。
 やはり、翔子は麗慈にどう接していいかわからない。こんな経験はじめて、対処の仕方が全く思いつかない。
 テレビやマンガの恋愛物で、同じような話はなかったかと考えるが、思いつかない。
 お風呂で全部水に流すつもりが、すっかり浸かってしまっている。
 いつもよりも早くのぼせてしまった。そこで、お風呂を出て、少し冷たいシャワーの水を頭から浴びた。
「はっきり言わなきゃ……全部」
 翔子は決心した。麗慈に自分の気持ちをはっきと告げて、そして、愁斗にも……。

 翌朝、教室に入り席につくと、すでに横には麗慈が座っていた。
「おはよ、翔子ちゃん」
「おはよう、麗慈くん。……頬の傷どうしたの? それに制服の上着は?」
 麗慈の頬には切り傷があり、セーターを着ていて制服の上着を着ていなかった。
「この傷は、うちで飼ってる猫に引っ掻かれて、制服は汚れちゃってさ」
「麗慈くんのうち猫飼ってるんだ。いいね、うちもペット飼いたいんだけど、お母さんがダメって言うんだよね」
「うちの猫は躾がなってなくてさ、この有様だよ」
 笑ってみせる麗慈。翔子はその笑顔を信じきっている。
「麗慈くんが何かしたんじゃないの?」
「そんなことないよ、あいつが喧嘩っ早いだけ」
「ふ~ん。ところで飼ってる猫は一匹だけ?」
「二匹だよ。もう一匹はわけわかんない性格しててさ、まあ、猫っぽいって言ったら猫っぽいんだけどな」
「にゃ~んと、おはよ、お二人さん」
 声をかけて来たのは撫子だった。それを見た翔子は小さく呟く。
「ここにも猫がいた」
「にゃ~ん、撫子は猫だよ~ん」
 翔子は撫子のお尻にしっぽが生えていても可笑しくないと思っている。
「ああっ!?」
 突如、撫子が声をあげて、クラス中の人が振り向いた。
「激ショック! 麗慈クン、その傷どうしたの!?」
「うちの猫に引っ掻かれてさ」
「痛くにゃいの、だいじょぶぅ!? だいじょぶじゃにゃかったら、撫子は夜も眠れません」
 呆れ顔で翔子は撫子を見つめた。
「心配しすぎだよ撫子。騒いでないで自分のクラス帰ったら?」
「もしかして、アタシお邪魔にゃのぉ~、ふたりの邪魔しちゃった?」
「違うから、もぉ、どうでもいいからクラス帰りなさいよ、先生もうすぐ来るよ」
「えぇ~っ、だってアタシ一番前の席でさ、先生にロックオンされちゃって、びしばし注意されまくり」
「それって、撫子が授業中に騒いでるからでしょ?」
「うっそ~、騒いでにゃいよぉ。それに違うクラスにゃんだから、翔子が知ってるわけにゃいじゃん」
「知ってるよ、だって撫子の叫び声が授業中に聴こえてくるもん」
 撫子は翔子のとなりのクラスで、授業中に翔子のクラスが静かだと、撫子の大声がよく聴こえて来ていた。
「爆マジ!? アタシの声聴こえてるの?」
 撫子が横を見ると麗慈が笑っていた。
「そう言えば昨日も聴こえてた。『うっそ~、爆マジ!?』って叫び声がさ」
「うっそ~、爆マジ!? それって烈恥ずかしいじゃん」
「恥ずかしいって思うんだったら、授業中叫ぶの止めなさいよ。何だか、私まで恥ずかしくなるでしょ?」
「にゃんで翔子が恥ずかしがる必要あるの?」
「今も恥ずかしいよ。ここで撫子が大声出して、友達として一緒にいると恥ずかしくなるよ」
「えぇ~っ、翔子ったらアタシのことそんにゃ目で見てたの……爆裂ショック! もう翔子と友達やってける自信ナサナサぁ~、ぐすん」
 目頭に手を当てて泣いたフリをはじめる撫子。人々の視線が撫子を中心にたくさん集められる。近くにいる翔子と麗慈まで変な目で見られている。
「うあ~ん、翔子ちゃんが苛めるよぉ~ん。この学校来てはじめてのお友達だったのに、こんな破局を迎えるにゃんて、劇的展開って感じぃ」
 人々の視線が次第に痛くなり、翔子は耐えられなくなってしかたなく撫子に謝った。
「ごめんね撫子、私が爆悪かったから許して」
「にゃ~んてね」
 顔を上げた撫子は満面の笑みを浮かべていた。嘘泣きだったのわかっていたが、こんなことをされると腹が立つ。だが、また嘘泣きをされると困るので、翔子は怒りをぐっと腹の中に押し込めた。
「もう、いいから早くクラス帰りなさい」
「だから、今の席イヤにゃんだって。早くクラス替えしにゃいかなぁ。それで、麗慈クンか愁斗クンと同じクラスににゃったら爆ラッキー。そうそう、そう言えばさぁ、愁斗クンまだ来てにゃいみたいだけど?」
 愁斗の姿はまだなかった。もしかしたら、今日も休みなのかもしれない。
 翔子の顔に少し不安の色が浮かんだ。
「愁斗くん、どうしたのかな? もしかして、昨日無理して部活来てたのかな……?」
 チャイムが鳴り、急に撫子が慌て出した。
「烈ヤバヤバって感じぃ。急いで帰らにゃいと遅刻にされるよぉん、てにゃことで、うんじゃ、さらばにゃ~ん!」
 撫子は軽快なステップで走り去っていた。
 なぜか翔子はどっと疲れた。
「あーっ、何か疲れた」
「撫子ちゃんって、いつでもハイテンションだよな。本人は疲れないのかな?」
「私の知る限りは二十四時間あんな感じ」
 机に突っ伏しながら翔子はそう麗慈に話した。麗慈はそれを聞いて笑みを浮かべた。
「そうなんだ。毎日だと付き合ってる方が死ぬかもな」
「今の私を見たとおり」
 『今の私』とは、机に突っ伏して疲れきった表情をしている翔子のことである。
 しばらくして、先生が教室の中に入って来た。そして、今日もいつも通りの授業が展開されていく。

 放課後になり、翔子は麗慈に声をかけた。
「麗慈くん、部活行こうか?」
「ああ、行こう」
 教室を出て廊下を抜け、ホールの中に入る。
 廊下と違ってここには人がいない。いたとしても演劇部の部員たちだけだ。
「麗慈くん」
「なに?」
「あのね……」
「顔赤いよ」
「えっ、嘘!?」
 どうやら自分でも気づかない間に翔子の顔は真っ赤になっていたらしい。それを指摘された翔子はすぐに顔を伏せた。
 そんな翔子の顔を意地悪く覗き込もうとする麗慈。
「顔下向けることないじゃん」
「止めてよ、覗き込まないでよぉ」
「だって、そんな翔子が可愛いからさ」
「……麗慈くん、そのことなんだけど」
 急に翔子の声のトーンが下がった。
「麗慈くんのこと、嫌いじゃないんだけど、でも、ダメなの」
「やっぱり、秋葉のことが好きなの?」
「うん、だからダメ」
「ふ~ん。昨日は翔子ちゃんが秋葉のこと好きなら、俺はあきらめるって言ったけど、あれ撤回。俺はいつまでも翔子ちゃんのことが好き、で、絶対自分の方を振り向かせて見せるから」
「えっ、でも……」
 口ごもる翔子を麗慈は壁に無理やり押し付けた。翔子は身動き一つできなくなった。
「麗慈……くん?」
「俺、翔子ちゃんが欲しい」
 麗慈の顔が自分の顔に近づいて来て、はっとした翔子は、麗慈の身体を思いっきり突き飛ばしながら叫んだ。
「ダメッ!」
 押し飛ばされた麗慈は床に倒れ、翔子はその場から居た堪れなくなって逃げだした。
 麗慈から逃げた翔子は舞台に急いだ。誰かにいて欲しいと翔子は思った。麗慈とふたりっきりになるのが嫌だったのだ。
 運良く、舞台では隼人と麻那が他の部員たちを待っていた。
「部長こんにちは、麻那先輩もこんにちは」
 麻那が掛ける眼鏡の奥で瞳が妖しく光った。
「顔が赤いわね、風邪? それとも他に何かあったのかしら……あたしの相談窓口はいつでも開いてるわよ。初回相談料はタダだから、いつでも相談しなさい」
 この言葉に翔子は少し考えた。いつもは即答で断るのだが、今の気分は違った。
「あの、麻那先輩、ちょっと……」
「あら、本当に相談事があるの?」
 翔子は小さくうなずき、それを見た麻那は隼人に言った。
「そういうわけだから隼人、舞台裏に誰も近づけないように」
 麻那は翔子の腕を引っ張って舞台裏に向かった。
 舞台裏は薄暗く、そこを抜けて廊下に出た。
「あの、舞台裏で話すんじゃなかったんですか?」
 舞台裏を通り過ぎて翔子はどこに連れていかれようとしているのか?
 麻那は妖艶な笑みを浮かべた。
「いいとこよ」
「あ、あの変なところに連れ込まれたりしないですよね?」
「さあ、どうかしら?」
「わ、私帰ります」
 逃げようとした翔子の腕を麻那が力強く掴んだ。
「冗談よ、楽屋に行くの」

「でも、楽屋って鍵が掛かってるんじゃないですか?」
 このホールにはもちろん楽屋が存在している。だが、その楽屋は外部から公演に来る人たちのもので、演劇部が使うことは本番当日以外には許可されていない
「あたしと隼人が鍵持ってるの知らなかったの?」
「そうなんですか、でも、なんで鍵持ってるんですか?」
「だいだいうちの部活に受け継がれてるのよ。あたしたちが卒業する時に鍵はあなたに託してあげるわ」
「楽屋の鍵なんて持ってて、何に使うんですか?」
「こういう時みたいに内密の人と話す時とか、後は学校にばれないようにドンチャン騒ぎする時とか、部室でパーティには限界があるからね」
「そうなんですか」
 二人が話しているうちに楽屋の前まで来た。
 麻那が鍵をドアに差し込むと、本当にドアが開いた。
「開いた、本当に開くんですね」
「信用してなかったの? こんなことくだらない嘘つくわけないでしょ」
 二人は楽屋の中に入り、麻那はすぐに鍵を閉めた。
 ガチャという音が聴こえ、翔子は閉じ込められた気分になる。相手が麻那だから、そういう気分がするのだ。
「適当なところに座りなさい」
 床は畳で鏡台やテーブルなどもある。大部屋らしく結構広い。
 翔子が適当に畳に腰を下ろすと、麻那がその前に座った。
「さてと、話を洗いざらい聞かせてもらいましょうか、とその前に――」
 麻那は制服のポケットから二本の缶飲料を出した。一本はコーヒー、もう一本は炭酸飲料水だった。
「どっち飲む?」
「そんなのポケットに入れてたんですか。もしかして、いつでも持ち歩いてるとか?」
「さっきホールの自販で買ったのよ」
 二本買ったということは誰かと一緒に飲むつもりだったのか?
 ちなみに、この学校には自動販売機が職員室前とホール内に設置されていて、生徒も買うことが許可されている。
「じゃあ、PONTAオレンジをください」
「はい、どうぞ。もし、コーヒーを選んでたら屠ってたわよ」
「屠るってなんですか?」
「コーヒー選んでたら、殺ってたってことよ」
 『やってた』という言葉はすぐに翔子の頭の中で『殺ってた』に変換された。
「……コーヒー好きなんですか?」
「別に好きでもないけど、雰囲気」
「雰囲気?」
「悪い?」
 翔子の背中にゾクゾクと寒気が走った。麻那な目が少し恐かった。
「い、いえ似合ってると思います」
「ありがと。じゃあ、話の本題に入りましょうか。で、どうしたの?」
 そう言って麻那はコーヒーを飲みはじめた。翔子もプルトップを引いて、ジュースを飲もうとすると、プシューと少し泡が出た。きっと、麻那のポケットに入っている時に少し振られてしまったに違いない。
 翔子は異様に喉が渇いていたらしく、ぐびぐびっと一気に半分くらいを飲み干して、大きく息を吐いた。
「はぁ~、あの、実は、愁斗くんと麗慈くんのこと何ですけど」
「ふ~ん、あんたはどっちが好きなわけ? 今までは愁斗一筋だったのに、昨日は麗慈を見る目が妖しかったわね」
「……そんなにわかりやすいですか、私?」
「顔や行動に出すぎ」
 ちょっと翔子はショックだった。昨日は撫子に図星を突かれて、今日は麻那に突かれてしまった。この分だと、もっと多くの人に自分の気持ちがバレバレかもしれないと、翔子は焦った。
「あの、どのくらいの人にバレてると思いますか?」
「それは地球の人口比で言った方がいいかしら、それとも演劇部内限定で言った方がいいのかしら?」
「演劇部内でお願いします」
「そうね、あんたが愁斗のことを好きだと思ってる人は八割くらいかしら。麗慈の方はまだあんまり気づかれてないと思うから気をつけなさい」
「ほぼ全員じゃないですか」
「でも、愁斗は演劇部&学校のアイドルだから、好きな人いっぱいいるし、あんたもその中のひとりってことで、そんなに気にしなくてもいいと思うわよ」
 翔子は黙り込んでしまった。『その中のひとり』という風に括られてしまったことがショックだったのだ。自分は他の人とは違うという感情が翔子の中にはある。
「私は愁斗くんに憧れてるだけじゃありません。本当に好きなんです。愁斗くんはアイドルなんかじゃありません!」
「ふ~ん、愁斗の方が好きなわけ?」
「……そうです、愁斗くんが好きです」
「ふ~ん、いい脅しのネタができたわね」
「えぇっ!? ひどい、ひどい、ひどいです麻那先輩!」
「冗談よ、あんたのことは嫌いじゃないから、からかうぐらいで本気で傷つけようとはしないわ」
「からかわれた時点で傷つきます」
「あら、そうなの。それはあんたの判断基準であたしの判断基準外」
「やられてるのは私ですけど」
「やってるのはあたしよ」
 この問題についてはどこまで行っても平行線を辿りそうなので、翔子の方が折れた。
「この件についてはいいです。それよりも、話の本題していいですか?」
「どうぞ、ぶっちゃけなさい」
「麗慈くんに告白されちゃって」
「いいじゃない、付き合いなさよ」
「だから、私は愁斗くんが好きなんです!」
「知ってるわよ。そんなに好き好き連発して恥ずかしくないの?」
 この言葉を言われた瞬間に翔子の顔は一気に沸騰した。
「からかわないでください」
「翔子みたいのってからかい甲斐があるのよね。で、コクられてどうしたの?」
「断りました。そしてら、それでも好きだって言われて、キスされそうになって、逃げたんです」
「ふ~ん、それでさっき走って来たわけ」
「私、どうしたらいいんですか?」
「あんたがフリーでいるのがいけないのよ。早く愁斗にコクって、付き合って、愁斗に守ってもらいなさい」
「えぇっ!? あの、えっと……」
 翔子は思わず声を荒げてしまった。息も少し苦しくて荒い。
 愁斗に告白する――そうしようと昨日誓ったけど、改めて人から言われると動揺してしまう。それに、もし断られたと考えると、この世界から消えたくなってしまう。
 麻那は呆れたような顔をして翔子見つめた。
「あんたたち、どっちもどっちね」
「どういうことでしょうか?」
「愁斗もあんたのこと好きだと思う。けどね、愁斗は翔子に好かれてると思ってないみたい。あの子も隼人と一緒で超鈍感クンね」
「愁斗くんが私のことを!?」
 そんなまさか、そんなことあるはずがないと翔子は思っていた。愁斗が自分のことを好きだったら、それほどうれしいことはないけれど、そんなこと……ない。でも、何を根拠にそう思うのか?
 愁斗が自分のことを好きじゃなかった時の保険。最初から、ありえないことだと思っていれば、傷つかなくて済むと翔子は自分でも気づかないうちに思っていたのだ。
「じゃあ、ちゃっちゃか愁斗に告白してみなさい。それで何かトラブルが起きたら、またあたしに相談しなさい、そしてたらまた新しい助言をあげるから」
「……はい」
「じゃあ、部活やりに行くわよ。あんたが戻らないと練習が進まないからね」
 麻那に相談をしたのは正しかったのか。翔子の気持ちは少し楽になって、新たな問題ができて、収穫もあった。これからどうするかは翔子次第だ。

 すでに部員はほとんど集まっていた。ほとんどというのは二人来てないからだ。
 今日来ていないのは愁斗と、そして、須藤拓郎――メサイ役を演じるはずの一年生が来ていない。
 麻那は昨日に引き続きご立腹だった。
「愁斗は今日も学校休みだったの?」
 翔子は麻那に睨まれて、背筋をピンと伸ばした。
「は、はい、今日も休みでした」
「一年! 須藤はどうだったの!」
 理不尽な麻那の怒鳴りに、女子三人組は後ろに大きく下がった。
 女子三人組の状況はこうだ。野々宮沙織は完全に怯えて宮下久美の後ろに隠れてぶるぶる震えている。久美はどうでもいいような感じで上の空。そして、早見麻衣子が代表して前に出た。
「須藤くんは今日もお休みだったみたいです」
「この大事な時期に休みっていうの!」
 カリカリしている麻那の肩に隼人がそっと手を乗せた。
「まあまあ、仕方ないと思うよ。須藤くんにもいろいろ事情があると思うし」
「でも、やっと漕ぎ着けた公演でしょ! ここでおじゃんなんてあたしは嫌よ!」
 麻那は隼人の襟首に掴みかかった。
「あんたはいつもそう、周りに流されて、自分のやりたいことを押し込めて」
「仕方ないだろ、来てないんだから!」
 隼人は怒鳴り声をあげた。思わず部員たちは身体を強張らせた。部長が怒ったのを誰もがはじめて見た。
 沈黙が流れた。その沈黙を破ったのは彼女だった。
「あら、みんな練習はどうしたのかしら?」
 この場に現れたのは顧問の森下麗子先生だった。
 翔子はすぐに森下先生に駆け寄った。
「森下先生が練習見に来るなんて珍しいですね」
「大事な話があって来たのよ」
 いつのなく森下先生は真剣な顔をしていた。先ほどのこともあり部員たちは全員黙ってしまっている。
「一年生の須藤拓郎が行方不明なのよ。家出かもしれないし、何か事件に巻き込まれたのかもしれないけど、とにかく行方不明なの。それをあたなたちに伝えに来たのよ。じゃあ私は臨時の職員会議があるから」
 森下先生がいなくなっても声が出なかった。誰もが愕然としてしまい、頭を抱えてしまった。
 あまりにも急な出来事。それも、最悪の出来事が起きた。
 演劇部の活動は決して順調とは言えない。それでも、ここ数日間は世話しなく動いていた。それが突然の急ブレーキを踏まれてしまったのだ。
 翔子が小さく呟いた。
「公演中止ですかね?」
 誰もがその問いに答えられない中、麗慈が発言した。
「俺でよければ、メサイ役やりますけど?」
 公演まで一週間を切り、万全の準備でいつでも公演をしてもいいような状況だった。それなのに今更配役を代えるとは、無謀としか言いようがなかった。だが、今はその可能性に賭けるしかなかった。
 麻那がうなずいた。
「メサイ役は麗慈。それで、他の配役も少し代えておきましょう。隼人、フロド役できるわよね?」
「僕が?」
「みんなのセリフと動きを完璧に覚えてるのあんたしかいないんだから、愁斗がもしも当日に来れなかった時は隼人がフロドを演じるのよ。それで、宮下はあたしの補助はいいから、隼人の代わりに音響を覚えて」
 急に音響をやれと言われた久美は反論した。
「でも、先輩ひとりで照明やるんですか?」
「どうにかするわよ、その辺りは」
 撫子が大きく手を上げた。
「はい、は~い。やっぱり二人分の衣装作り直した方がいいんですかぁ?」
「作り直すんじゃなくって、もう一着作りなさい」
 麻那の言葉に撫子は言葉も出なかった。正直、心の中では何て無理な注文をする女だと撫子は思った。
 無理な注文は続いた。
「撫子はフロド役としか絡みないから、帰ってよし。さっさと衣装作りなさい」
「爆うっそ~!? でも、部長とアタシの練習はどうするんですかぁ?」
「隼人とならぶっつけ本番でも大丈夫よ。それよりも麗慈の練習をみっちりするわよ」
 こうして撫子が強制的に帰された後、猛練習がはじまった。
 麗慈は呑み込みも早く演技も上手だった。そして、隼人のフロドは、彼にしかできない隼人のフロドであり、その演技は完璧だった。
 隼人は演技ができるのにも関わらず、自ら裏方に回っていたのだ。それを知っていた麻那はどうしても今回の公演を成功させたかった。最後の公演は絶対に成功させなければならなかった。
 最初は順調であった練習も途中から乱れはじめた。原因は麻那と久美だった。二人とも勝手が変わり、ミスを連発してしまったのだ。
 舞台は演技だけでどうにかなるものではない。照明を点け間違えたり、音楽をかけ間違えたりしたら、その時点で観客たちは現実世界に引き戻されてしまう。
「駄目だ、いったんここ止めましょう」
 隼人の声が舞台の上に響き渡った。その声はいつもより厳しく焦りが含まれていた。
 隼人の周りに部員たちが集合する。その顔は皆険しい。誰もが息が合っていないことに自覚を持っているのだ。
 最初は麻那と久美のミスではじまり、その次にメサイとアリアのシーンでアリア役の翔子がミスをするようになって、ミスがミスを呼び全員の動きが徐々に可笑しくなってしまった。
 翔子がミスをしてしまうのは、相手役が麗慈だからだ。演技の技術的な問題ではなく、翔子が自然と麗慈を避けてしまうのだ。
 それに対して麗慈は翔子に対して何の素振りも見せない。麗慈は翔子と何もなかったように役に入り込んでいた。
 隼人は髪の毛をかき上げて頭を抱えた。
「みんなどうしたんですか。麻那と宮下さんはまだわかりますが、他の人もミスが目立ちますよ――特に翔子さん」
「はい、ごめんなさい」
 自分でも自覚しているだけに、翔子はよけいに罪の意識を感じる
「翔子さん、何かあったんですか?」
「いいえ、別に……」
 隼人に聞かれ、言葉に詰まってしまった翔子はうつむいてしまった。そんな翔子に麻那が鋭い口調で食って掛かる。
「あんたが演技に集中しないでどうするのよ! 私情を捨てて演技に集中しなさい」
「でも、麻那先輩ひどいじゃないですか! 私の事情知ってるくせにそんな言い方ないと思います」
「あんたの事情を舞台まで引きずって来ないでくれるだから、相談乗ってあげたんじゃない!」
 須藤が行方不明になったと聞いてからの麻那は、いつになくイライラして、怒りやすくなっている。
 急に麻那は麗慈を睨み付けた。
「あんたが翔子に変なことするからいけないのよ!」
「俺が?」
「そうよ」
「俺が翔子ちゃんに何したって言うんですか、麻那先輩は何を知ってるんですか?」
 麗慈の態度は少し挑発的だった。それに麻那はつい乗ってしまい、口を滑らせてしまった。
「あんたが翔子に無理やりキスしようとしたのがいけない言っんの! 翔子は愁斗が好きなんだからちょっかい出さないでくれる!」
 この言葉に回りの部員たちは凍りついた。まさか、麗慈が翔子にキスを迫ったとは、衝撃的な発言だった。
 当事者である翔子はものも言えなくなったが、やがて身体が熱を帯びて来て怒鳴り声をあげた。
「サイテーです麻那先輩! 麻那先輩なんて大ッキライ!」
 そう叫んで翔子は泣きながら走り去ってしまった。
「待ちなさい翔子!」
 頭に血が上っている麻那は自分が酷いことを言った自覚がない。
 場の空気が完全に悪くなり、一年生の久美が呆れた口調で言った。
「私帰ります」
 そのまま久美はスタスタと歩いて行ってしまい、その後を沙織が追った。
「待ってよ久美ちゃん、沙織も行くぅ~」
 これに続いて麻衣子までも隼人に頭を下げて二人を追って行ってしまった。
 残っていた麗慈もだいぶ不機嫌そうな顔をしている。
「俺も帰らせてもらいます」
 麗慈はそう言って走ってこの場を後にした。
「もぉ、何なのみんなで勝手にしなさいよ!」
 喚き散らす麻那の前に真剣な顔をした隼人が立った。
「いい加減しろ!」
 バシンッ! と隼人の手が麻那の頬に強烈な一撃を加えた。麻那は頬を抑えてうずくまる。
「……打つんじゃないわよ!」
「いい加減にしろよ麻那。僕は怒ってるんだ」
「…………」
 麻那は泣いていた。
「あたしは、あたしは……最後の公演を成功させたいだけなのよ」
「知ってるよ。でも、麻那が輪を壊してどうするんだよ」
「知らないわよ、あたしだって壊したくて壊してるんじゃないもの。でも、そうなっちゃうんだから仕方ないでしょ……」
 体育座りをしている麻那は、嗚咽しながら身体を震わせ、うつむき何も言わなくなってしまった。
 隼人はそっと麻那の傍らに座った。
「明日みんなに謝んだよ」
「……わかってる。でも、みんな部活に来てくれないかも」
 顔を上げないまましゃべる麻那の声は震えていた。そして、隼人の服の袖をぎゅっと握り締めていた。
「じゃあ、今からまず翔子さんの家に行って謝る?」
「……今日は駄目、気分が落ち着きそうにないから」
「……じゃあさ、まず僕に謝るとか?」
 少し間があって、麻那は顔を上げた。
 涙で潤む瞳が隼人を見つめ、震える声で麻那は小さく呟いた。
「ごめんなさい」
 この言葉のお返しに隼人はニッコリと笑った。それを見た麻那も少し笑顔を見えたが、またうつむいてしまった。
 会話の無い時間が続く。そして、ややあってから隼人が適当な話題を話しはじめた。
「麻那ってさ、何で演劇やってるの? どう考えても、好きだからとは思えないんだけどさ」
「好きだよ、隼人の好きなことはあたしも好きなの」
「それってどういうこと?」
「超鈍感クンはこれだから困るわよ」
「そんなに鈍感かな、僕って?」
 うつむいていた麻那が急に顔を上げて、自分の顔を隼人の顔に重ねた。そして、すぐに離れた。
 隼人は一瞬何が起きたのかわからなかった。自分の唇に残る軟らかい感触。きっと、自分はキスをされたんだと隼人は認識した。
「あ、あのさ、今の……その、え~と」
「……思ってたのと、何か、違うね」
「いや、だからさ、その、何ていうか」
「あたし帰るね」
「うん」
「最後の公演、頑張ろうね」
「うん」
 麻那は悪戯に笑いながら行ってしまった。
 残された隼人はしばらくの間、頭から湯気を立てながらぼーっとしてこの場に座っていた。

 学校を飛び出した翔子は、泣きながらポケットからケータイを出して、ある人物に電話をかけた。
「……今から家行っていい?」
《アタシんち来るの、爆マジ!?》
 電話の相手は撫子だった。
「うん……だって……ううっ……うっ」
 目からボロボロと涙を流し、ケータイを持つ手はぶるぶると震えていた。
《翔子、もしかして泣いたりしちゃってるの!? にゃにがどうして、どうしたの?》
「だから……うう……撫子の家行っていい?」
《翔子アタシんち知らないじゃん》
「じゃあ、迎えに来てよ」
《それ烈マジで言ってんの?》
「やっぱりいい、家の場所教えて」
《えっと、いつも別れるY字路を進むと酒屋さんがあって、その前におっきくて新しいマンションがあるから、そこの505号室》
「……わかった。電話切るね」
 撫子と話をしたせいか、翔子の気持ちが少し落ち着いた。涙が止まり、身体の震えが止まった。
 翔子はとりあえずいつも撫子と別れるY字路まで向かい、そこで自分がいつも帰る道とは違う撫子が帰る道を進んだ。
 この辺りは自転車で来たことがあるので翔子も知っている。
 小さな公園があり、しばらくすると酒屋の近くにある大きなマンションが翔子の視界に入って来た。やっぱりここなんだと改めて翔子は実感した。
 一年ほど前にできたマンション。この場所は知っていたが、撫子の家がここだったと翔子は今日はじめて知った。
 マンション内に入った翔子はエレベーターで五階に上った。そして、505という数字を頭の中で反復させながら、505号室の前まで来た。
 表札には撫子の苗字である〝涼宮〟と書かれている。
 表札に間違いないことを確認した翔子はインターフォン押した。すると、ややあったインターフォンから声が聞こえた。
《どにゃたですかぁ?》
「撫子? 私、翔子」
《本当に来たんだ翔子》
「本当に来たってどういうこと? それよりも中入れてよ」
《ちょっと待ってて》
 ガチャと鍵の開く音がして、少し開いたドアの隙間から撫子の顔が覗いた。だが、チェーンロックが掛かっている。
「にゃば~ん! 翔子」
 明るい感じで撫子は翔子に挨拶するがチェーンロックは掛かったままだ。
「撫子……チェーンロック外してくれないかな?」
「にゃんで?」
「家の中に入れたくないの?」
「入りたいの?」
「当たり前でしょ」
「……にゃにがあっても人に口外しにゃいことが条件」
「……家の中に何かあるの?」
「いいから、とにかく約束してよぉ」
「約束します。入れてください」
「しかたにゃいなぁ~」
 撫子はしぶしぶと言った感じでチェーンロックを外した。
 玄関を潜った翔子を歓迎しようと、撫子は片手を大きく部屋の中に向けて言った。
「じゃじゃ~ん、撫子んち、爆初公開だよ~ん!」
 しぶしぶ家の中に入れたわりには、先ほどと態度が豹変して明るい。
 玄関で靴を脱ごうとした翔子はあることに気がついた。靴が一足しか出されていないのだ。他の靴は全部下駄箱に入れてあるのだろうか。だとしたらとても几帳面な家族なのだろう。
 ダイニングに通された翔子はまた少し疑問を感じた。家具がほとんどなく、生活観があまりないのだ。置いてある家具といったら、こじんまりしたテーブルとテレビだけであとの家具がない。
「あのさ、翔子……聞いてもいいかな?」
「ダメ、ダメダメだよ、うちの家庭事情についてはあんまり聞かにゃいで。あと、トイレとお風呂とここ以外は入っちゃダメだからね」
「……そういう言い方されると、気になるんだけど。もしかしてなんだけど、ここに住んでるのって撫子だけ?」
「にゃ、にゃに言ってるのぉ!? あっははぁ~、まっさか中学生に分際でマンションに一人暮らしにゃんて、爆裂ナイナイだよ」
「してるんだ。でも家族はどうしてるの?」
「だから、してな――」
 『してない』と言おうとしたのだが、翔子が自分のことをじーっと見つめているので、撫子はため息をつきながら白状した。
「星稜中学に転校して来てから、ずっと一人暮らししてる」
「それって大問題なんじゃないの?」
「お願いだから、これ以上はアタシんちの家庭事情に触れにゃいで、お願い」
 すぐにでも涙が零れ落ちそうな瞳で、撫子は翔子を見つめた。
 中学生がマンションで一人暮らししているなんてとんでもない話だが、撫子が触れられたくないようなので翔子はもう何も聞かなかった。
「ごめんね、もう聞かないから」
「翔子物分り爆いいね。じゃ、飲み物持って来るけど、にゃに飲む?」
 一気に撫子は元気を回復した。撫子は気持ちの切り替えがとても早いのだ。いや、もしかしたら気持ちなど、最初から変わっていないのかもしれない。
「何があるの?」
「ええっと、牛乳とミルクとホットミルク、それともイチゴミルクにする? あっ、バナナミルクもあるよ」
「全部牛乳じゃない。他の飲み物はないの?」
「アタシ飲み物牛乳しか飲まにゃいんだよねぇ」
 そう言えば翔子は撫子が乳製品以外の飲み物を飲んでいるのを見たことがなかった。いつも学校でもイチゴミルクを飲んでいるのしか見たことがない。
「牛乳ばっかり飲んでるのに、撫子ってちっちゃいよね」
「ちっちゃいって言うにゃ」
「ちっちゃくても可愛いんだから、怒らない怒らない。じゃあ、私はバナナミルク」
「うんじゃ、ちょっくら待ってて」
 しなやかな脚を弾ませ、風のよう台所に走って行った撫子は、風のようにグラスを二つ持って戻って来た。
「お待ちぃ~、バナナミルク一丁」
「ありがと」
「適当にゃところ座っちゃって」
「うん」
 バナナミルクを飲みながら翔子は床に座った。それに合わせて撫子も床に座る。
「ところで翔子はにゃんでうちに来たの? さっき電話越しに泣いてたけど……ま、まさか! 変にゃ男教師に襲われて、体育館裏に無理やり連れられて……きゃ~、みたいにゃ感じ?」
「う~ん、ほんの少しだけ近いかも」
「じゃあ、センパイたちに校舎裏に連れて来られて、きゃあ?」
「あのね……」
 翔子は言葉に詰まり、ゆっくりと深呼吸をして改めて言った。
「あのね、麗慈くんに無理やりキスされそうになって、逃げて、そのことを麻那先輩に相談して、その後みんなの前でそのことを麻那先輩がバラしたの」
「……掻い摘んで話し過ぎでわかんにゃいよぉ」
「だから、麗慈くんが私にキスしようとしたことを麻那先輩がみんなにバラしたの!」
「大したことにゃいじゃん」
 あっさりと撫子に言われてしまって翔子はショックだった。撫子に相談に来たのに、そんな言い方されるなんて夢にも思っていなかったのだ。
 適当にあしらわれたような感じのした翔子は頭に血が上ってしまった。
「そんな言い方ないでしょ! 私には大したことなんだから」
「翔子カリカリし過ぎだよぉ。バナナミルク飲んでカルシウム摂って。イライラにはカルシウムがいいんだって」
 撫子に言われた翔子は当て付けでバナナミルクを一気に飲み干して、顔を膨らませてムスッとした。
 怒って何も言わない翔子に撫子は呆れてしまった。
「翔子、子供みた~い」
「まだ子供だもん」
「そうやってほっぺた膨らませるところが子供だね。それにキスされそうににゃったことぐらい、誰に知られてもいいと思うけどにゃぁ」
「だって、恥ずかしいし、みんなにどう思われるか心配で……」
「アタシは別にキスにゃんて恥ずかしくにゃいから誰とでもできるよ。でも、愁斗クンとか麗慈クンみたいにゃ人だと、爆いいかにゃ」
「だ、誰とでもできるって……撫子、男の人とキスしたことあるの!?」
「わぁ~、烈うっそぉ~、翔子キスの経験にゃいんだぁ~、きゃはきゃはだね」
「あ、あるわけないでしょ!?」
 翔子怒りはどこかに吹き飛び、今度は別のことで顔が真っ赤になってしまった。
「アタシはにゃん度もあるよ~ん。でも、女の子とはまだ一度もにゃいかにゃ」
「女の子とないのは普通でしょ。まさか、女の子ともしたいの?」
「翔子とだったらキスしたいにゃぁ~、にゃんていつも思ってるよ」
 ニッコリと言う撫子だが、翔子には衝撃的だった。自分が撫子に狙われていたなんて考えたくもない。
「私はお断り」
「女の子同士のキスならぜんぜん平気って子よくいるけどにゃぁ~」
「私はノーマルなの」
「女の子同士でキスする子たちもノーマルだよ。親友同士のスキンシップだよぉ」
 翔子は背筋がゾクゾクとして、勢いよく立ち上がった。
「私帰るね」
 帰ろうとする翔子を見て撫子も立ち上がり、熱い眼差しで引き止めた。
「えぇ~っ、せっかく来たのに帰るのぉ~、夜はまだまだ長いのにぃ」
「絶対帰る」
「ジョーダンだよぉ。翔を襲いたいって気持ちはあるにはあるけど、自制心で抑えてるから、ね?」
「襲いたいって気持ちがある時点でダメ。もう、今日から友達止める!」
「ごめ~ん、許してよぉ。翔子は引っ越して来て一番初めにできた友達にゃんだから、翔子に嫌われたら、これからの人生、ぶっ落ちるよ。アタシは翔子のこと親友だと思ってるんだよ、そんにゃアタシを見捨てるの?」
 段ボール箱の中に入れられて、電信柱の影に捨てた猫みたいな表情をした撫子に、翔子は根負けした。
「……変な素振り見せたら絶交だからね」
「うん!」
 翔子はゆっくりと床に再び座った。
「絶対変なことしないでよ」
「ごめん、全部ジョーダンだから、怒らにゃいでね。本当に翔子に嫌われると、泣きそうににゃっちゃうから」
 そう言う撫子はすでに泣いていた。
 泣き出してしまった撫子を見て、翔子はひどく慌てる。
「泣かないでよ、絶交しないから」
「爆うれしぃ~! そんにゃ翔子が爆裂大好きだよぉ」
 泣いていたと思ったのに、次の瞬間には撫子は笑顔だった。それを見て翔子は疑いの眼差しで撫子を見る。
「嘘泣きだったの?」
「ウソ泣きじゃにゃいよぉ~。本当に涙が出たの、でもすぐに爆裂元気ににゃったんだよぉ」
「……どっちでもいいか」
「あ、信じてないの、ひっど~い」
「信じる信じる」
 翔子態度に撫子は頬を膨らませた。もし、撫子にしっぽがあったならば、きっと立っているに違いない。
「ふんふんふ~んだ」
「怒らないでよ」
「怒ってにゃんか、にゃいにょ~ん」
「じゃあ、今度イチゴミルクおごってあげるから」
「えっ!? イチゴミルクおごってくれるの? 爆うれしいぃ~」
「撫子って簡単ね」
「そんなことにゃいよ、撫子の攻略はA難度にゃんだから」
 『難度って何?』と翔子は聞こうとしたのだが、そんなことよりも重要なことを思い出した。
「それよりも、ここに私が来た理由。私は撫子にいろんな相談があって来たの」
「でも、もう烈元気そうだから、相談にゃんてぶっ飛んでいいんじゃにゃいのぉ?」
「ダメ、撫子の家に押しかけたからには相談聞いてもらう」
 話が途中でだいぶ逸れてしまったが、翔子は再びに麗慈のことから話しはじめた。
「さっき、麗慈くんにキスされそうになったって言ったでしょ? 私、麗慈くんより愁斗くんが好きだって気づいたから、麗慈くんに言い寄られて来られても困るの」
「ちゃんと、愁斗クンが好きだから変なマネしにゃいでって言ったの?」
「愁斗くんの方が好きって言ったのに、『絶対自分の方を振り向かせて見せるから』って言ったんだよ麗慈くん」
「麗慈クンって自信アリアリの過剰クンにゃんだ。じゃあ、アタシから麗慈クンにガツンと言ってあげるよ」
「本当にいいの?」
「翔子とアタシの仲だもん、爆裂いいに決まってるじゃん」
 胸を堂々と張って言い切った撫子であるが、翔子には心配事があった。その心配事が自分でもっとガツンと麗慈に言えない理由でもある。
「でも、ガツンと言ってケンカとかにならないよね……もし、撫子と麗慈くんがそれで仲悪くなったら、私のせいだし……」
「その時は笑って相手を屠ればいいよん」
「屠るって……麻那先輩みたいな言い方……!?」
 翔子はあることに気がついて騒ぎ出だした。
「ダメ、ケンカはダメ。私のせいとか、そういうことじゃくてケンカはダメなの!」
「どうして、害虫駆除のどこが悪いのぉ?」
「麻那先輩最近ピリピシしてて、私とケンカまでしちゃったし、このまま部の雰囲気が悪くなると公演ができなくなっちゃうよ。撫子がいなくなってから練習最悪だったんだから……」
 最悪だった要因に自分が大きく関わっていることを思い、翔子は胸を締め付けられる思いだった。
「翔子言うとおりだよね。公演できなくにゃったら嫌だもんね。明日までにアタシ衣装仕上げて部活出るよ」
「……本当? 撫子がいてくれると場の空気が少しはよくなると思う」
「じゃあ、そういうことで、翔子ちゃんさらばじゃ~!」
「帰れってこと?」
「そうだよ、これからアタシは衣装作りで、美容と健康に悪い徹夜だもん」
 翔子はうなずいた。相談はあんまりできなかった気がするけれど、少し気持ちが楽になったような気がする。
「じゃあ、よろしくね撫子」
「おうよ、任せとけ!」
 翔子は撫子に玄関まで見送られ、自宅への岐路に着いた。
 黄昏時はすでに過ぎ去り、冷たい青が世界を包み込み、日はすっかり暮れてしまっていた。

 蒼白い月明かりの下、冷たい墓地に耳障りでけたたましい警報音が鳴り響く――。
 十字の墓標の下から褐色の枯れた手が突き出した。それも幾本もの手が唸りや叫びをあげながら、地の底から伸びて来る。
 ホラー映画のワンシーンのような光景を前に、紫苑は仮面の奥で笑った。
「死人の研究を墓地でやっていたとは、ブラックジョークのつもりか……」
 地の底から這い出て来たのはゾンビであった。そのため墓地には鼻を覆いたくなるような生臭い腐臭が漂う。
 身体が腐食し、腕がない者や眼のない者などがいる。放って置けばいつかは朽ち果てるだろうが、今はそうもいかない。
 紫苑の手が動く。放たれる妖糸。
 ゾンビたちの身体の部位が切り飛ばされる。だが、ゾンビの動きは止まることがなく、紫苑になおも襲い掛かろうとする。
「頭を飛ばされても、魂で動いているのか……、なるほどゾンビを相手にするのははじめてだが、いい勉強になった」
 魂を楔に繋がれ、安らかなる眠りにつくことを許される亡者たち。哀れ悲しき死人を前にしても、紫苑の声に慈悲は含まれていない。
「安らかとまでは行かぬが、私が深き眠りに就かせてあげよう」
 何十匹といるゾンビたちの間を疾風のように走り抜け、月光を浴びた紫苑の妖糸が煌きを放つ。
 細切れにされていくゾンビたち。血は出ないが、腐敗臭が酷くなった。

 紫苑の足元で蠢く切断されたゾンビの腕。腕だけになっても動くそれは執念か怨念か、それとも……。
 骨を砕く音が静かな墓地に木霊した。紫苑がその方向に目を向けると、そこには人影がしゃがみ込み、地面に崩れたゾンビを貪り喰っているのが見えた。
「屍食鬼――グールか、いや、あれはグーラか」
 墓地などで死人の肉を貪る怪物をグールといい、特に女の姿をしているものに関してはグーラと呼ぶ。
 ゾンビの腕を頬張りながらグーラは立ち上がった。そして、口の中に入れていた腐肉を吐き出す。
「やっぱり、ゾンビの肉は喰えたもんじゃないわね。鮮度のいい肉が喰いたいわ」
 グーラは妖艶な笑みを紫苑に向けた。
「私の肉は喰っても不味いぞ」
「あら、それはどうかしら。どこの誰かは存じないけど、ゾンビ兵をあっさり倒す手際はとても頼もしかったわよ。さぞかしお肉も美味しいと思うわ」
 グーラは妖艶な顔をしながら舌なめずりをした。そして、イッた。
「あたしの名前はナディラ、ここの副所長よ。今は所長がお出かけ中だから、ここで問題が起きたら全部あたしのせいにされるのよね。わかったらあたしに喰われてくれないかしら?」
 紫苑の身体を包むぼろ布が風に揺れた。
「私の名は紫苑」
「紫苑……昔どこかで聞いたことがあったような……思い出せないわね。でも喰ったら思い出すと思うわ」
「ならば、力ずくで喰ってみるがいい」
 紫苑の鋼の声はナディラをよりいっそう燃え上がらせた。
 地面に一度手をつき、紫苑に飛び掛かるナディラの姿は獣ようであった
 醜悪な顔で紫苑に牙を向けるナディラ。が、紫苑には決して予想できなかった事態が起きた。
 ナディラは紫苑に襲い掛かると見せて、地面に突然開いた大穴の中に逃げ込んだのだ。紫苑は当然ナディラを追うため、穴の中に飛び込もうとしたが、それを穴から飛び出して来たあるものが阻止した。
 ナディラの消えた穴から替わりに飛び出してきたものは、全長三メートルを越すマシーンであった。
 マシーンのボディは不恰好であるが、人型である必要はない。相手を滅ぼせればそれでいいのだ。
 灰色のボディに搭載されている小口径の機関砲が紫苑を狙っている。そして、鉤爪の間に搭載されているロケット砲もまた紫苑を狙っている。
 機関砲から五〇ミリ程度の弾丸が発射された。紫苑はそれを避けようとするが、紫苑の超人的な能力を持ってしても近すぎる。
 連射された弾丸がぼろ布を貫通し、紫苑の身体が後方に吹き飛ばされた。
 地面に手をつき着地する紫苑。すぐさまマシーンの鉤爪の間からロケット砲が発射された。
 向かって来るロケット砲を交わし、爆風を背に紫苑は走る。
 煌く妖糸がマシーンに襲い掛かるが、切断することは叶わず、傷すら付いていない。時として空間をも切り裂く妖糸がびくともしないのだ。
 鉤爪が大きく振られ、そこから出る高圧電流が紫苑の身体に流れ込む。が、紫苑はびくともせずにマシーンとの間合いを取った。
 再びマシーンの鉤爪の間からロケット砲が発射された。
 物凄いスピードで迫り来るロケット砲。紫苑は微動だにせず避けなかった。
 ロケット砲と紫苑との距離が三メートルとなった時、目にも止まらぬ早さで紫苑の手が動き、ロケット砲が一瞬止まったかと思うと、すぐにロケット砲はマシーンに向かって放たれた。
 紫苑の眼前で止まったロケット砲――それは紫苑の仕業である。紫苑の妖糸がロケット砲を優しく包み込み方向を転換させたのだ。
 ロケット砲はそれを放ったものへと飛んで行く。
 マシーンは動かずにロケット砲の直撃を受けた。爆音と煙が立ち込める。そして、煙の中から無傷のマシーンが現れたではないか!
 そう、マシーンは避けることができなかったのではなく、避けるまでもないと判断したのだ。
 砂煙が少し付いただけのマシーンを見て、紫苑が呟く。
「やはりか。妖糸が効かぬのだから、ロケット砲など痛くもないということだな」
 納得したようにうなずいた紫苑の手が動く。
 妖糸が凄まじいスピードで伸び、一直線にマシーンに向かって行く。
 紫苑はいったい何をする気か? まさか、妖糸をマシーンに突き刺すというわけでもないだろう。
 学習機能により、妖糸が己のボディを傷つけることができないと知っているマシーンは微動だにしない。
 妖糸はくねりマシーンの各部を突いている。やはり、突き刺すことは不可能なのだ。
「やはり、無理か……」
 この呟きは突き刺せなかったことに対して発せられたものではない。紫苑の狙いは妖糸がマシーンの内部に侵入できるだけの隙間がないかを探すことだった。
 マシーンの内部に妖糸を侵入させ、内からマシーンを破壊しようとしたのだ。しかし、妖糸が入れそうな隙間はなかった。
 このマシーンは水中でも活動するため、水が内部に浸入できない構造になっている。そのため、細い妖糸でも内部に侵入することができなかったのだ。
 発射される機関砲を避けながら紫苑は策を練る。マシーンはその間に機関砲を打ちつつ紫苑との距離を縮めて来る。
 振り上げられる鉤爪――それは紫苑の腕を捕らえた。
 紫苑の右腕が肩から根こそぎ奪い去られた。傷口から大量の血が吹き出るが、苦しみもがく様子はない。
 飛翔する紫苑はマシーンの頭上に軽やかに降り立ち、そのまま再び飛翔する。
 地面の降り立った紫苑の背中に機関砲が浴びせられ、紫苑はよろめくがそれ以上何もない。紫苑は痛みというものを感じていないのかもしれない。
 妖糸の直接攻撃が効かないとなれば、他の方法でマシーンを倒すしかない。だが、どうやって?
 紫苑の選んだ方法とは?
「仕方あるまい、召喚を使うか」
 召喚とはそこにいながらにして、時間と空間を超越し、超常的な力を持つ異界の住人をこの世に呼び寄せること。そして、〈それ〉を使役することができれば、あらゆる望みが叶えられると云われている。
「傀儡師の召喚を観るがいい。そして、恐怖しろ!」
 紫苑の残った腕が素早く動き、それに合わせて妖糸が空に魔方陣を描く。
 奇怪な紋様が空に描かれ、〈それ〉が呻き声をあげた。
 〈それ〉の呻き声は空気を振動させ、大地を震えさせ、おぞましい〈死〉をこの世に解き放った。
 黒馬に似た怪物に跨る黒くたくましい巨大な躰。手には投げ槍と蠍の尾でできた鞭を持っている。そして、皮膚の全くない頭蓋骨には王冠が戴いている。
  二つの世界を繋ぐ門を守る者――それが〈死〉だ。
 〈死〉は紅く燃え上がる地獄の瞳でマシーンを見据えた。
 恐怖を知らないはずのマシーンが震えた。高知能を持つマシーンは恐怖を知ってしまったのだ。
 耳を覆いたくなるような〈死〉の叫びが、空気を凍らせる。
 欲望のままに〈死〉は吼えた。そして、黒馬に似た怪物は翔けた。
 機能停止状態になってしまっているマシーンに近づいた〈死〉は、蠍の鞭を大きく振るった。
 大地が墓標ごと掻っ攫われ、マシーンに強烈な一撃を浴びせた。
 あまりの衝撃にマシーンはその場で粉々に大破してしまい、大きな爆発が巻き起こり金属片が四散する。
 マシーンの破片は紫苑の足元まで飛んで来た。
「さて、これからどうするものか……」
 ため息の混じったような声を発した紫苑を〈死〉が紅の瞳で睨んでいた。
 呼び出された〈死〉はその場にいる者全てを殺戮する。呼び出-した本人である紫苑とて例外ではない。
 〈死〉は紫苑によって無理やり呼び出された。還す時も無理やりでなければならないのだ。
 妖糸が煌きを放ち、〈死〉の身体を拘束しようとした。しかし、暴れ回り抵抗する〈死〉に身体を抑えきれず、紫苑の身体が空中を振り回される。
 投げ飛ばされる形となってしまった紫苑は上空で回転し、華麗に地面に降り立った。
「一筋縄ではいかぬか」
 紫苑はまだ〈死〉に絡みついた妖糸を放していない。
 幾重にも絡み取られた〈死〉の筋肉の躍動感が、妖糸を伝わり紫苑の指先に振動を与える。
 腰を据えて紫苑は妖糸を引いた。が、引き戻そうとした妖糸は、〈死〉によって無理やり断ち切られてしまった。
 〈死〉の反撃が開始される。
 片時も放されなかった〈死〉の投げ槍が、ついに投げられた。それは光速で空気を焦がしながら飛び、紫苑の身体を貫いた。
 貫かれた紫苑の身体はそのまま投げ槍ごと地面に突き刺さった。
 投げ槍を回収しようと〈死〉が紫苑に近づいたその瞬間――紫苑の手が動き、妖糸が空間を切り裂いた。
 裂けた空間は〈闇〉とこの世を繋ぎ、〈闇〉は悲鳴があげ、泣き声をあげ、呻き声があげ、苦痛に悶えた。
「行け!」
 裂けた空間から〈闇〉が叫びながら〈死〉襲い掛かった。
 〈闇〉に〈死〉は包まれそうになるが、〈死〉は必死に抵抗して〈闇〉を振り払う。勝つのは〈闇〉か〈死〉か?
 勝利を治めたのは〈闇〉だった。
 〈死〉は〈闇〉に完全に呑まれ、〈闇〉は空間の裂け目に吸い込まれるようにして還っていった。
 轟という音を立て、空間の裂け目は閉ざされた。
 そして、紫苑の腕からは力が抜け、身体全体が槍に突き刺さりながら垂れた。
 紫苑は完全に動かなくなった。

 研究所内に侵入した紫苑は辺りを見回した。
 金属でできた冷たい廊下に警報音が鳴り響き、遠くからは大勢の走る音が聴こえる。
 紫苑の前に現れたのは、黒い防護服で身を固め、ビームライフルを構えた一団だった。その数約七名。
 紫苑を確認した一団はビームライフルによる一斉射撃を開始した。
 収束された光の粒子が一直線に伸び、紫苑の顔の横を掠め飛び、紫苑は横の通路に手から飛び込み、身体を回転させながら逃げ込んだ。
 逃げて来た横の通路の床を見ると、超合金の床が溶けている。もし、ビームの直撃を喰らっていたら、ただでは済まなかっただろう。敵は建物を多少壊しても侵入者を抹殺する気だ。
 廊下を駆け抜ける紫苑の後ろからは追っ手の足音が聴こえ、ビームが紫苑の身体を掠め飛んで行く。
 無くしたはずの紫苑の〝右手〟が動いた。
 廊下を塞ぐように張り巡らされる妖糸――それはまるで蜘蛛の巣のようだ。
 追っ手たちはナイフを構え、張り巡らされた妖糸に切りかかるが、妖糸はびくともしない。それどころか、妖糸は蜘蛛の巣のように手や腕に絡みついてしまった。
 妖糸は外そうとすればするほど身体に絡みつき、妖糸に捕らわれた仲間を助けようとした者の身体にも妖糸は絡みついた
 妖糸は普通の人間には切断することはできない。それができるのは人間外の力を持った者たちだけだ。
 獲物が自分の張った巣に掛かったことを確認した紫苑は、空に魔方陣を描いた。
 奇怪な紋様から〈それ〉の呻き声が聴こえた。その声を聴いた追っ手たちの顔からは血の気が失せ、身動き一つできなくなってしまった。
 空に描かれた紋様は〈死〉を呼び出した時とは異なっている。つまり、〈死〉とは別の者を召喚しようとしているのだ。
 〈それ〉は汚らしい嗚咽を漏らし、この世に巨大な蜘蛛の怪物を生み出した。
 五つの妖しく光る眼が獲物を捕らえ、蜘蛛は迷うことなく六本足で巣に掛かった獲物を喰らいに行った。
 生きたまま喰われる人々。背中で苦悶の叫びを感じながら紫苑は先を急ぐ。
 だいぶ走ったところで、追っ手の足音がまたも聴こえる。
 紫苑が横を見るとそこには金属でできた扉があった。扉には電子ロックが掛かっているが、妖糸を忍ばせることにより、いとも簡単にロックは解除された。
 部屋の中に飛び込み、再び妖糸を忍ばせロックを掛ける。扉の向こうからは大勢が走り去る足音が聴こえた。
 部屋の中は薄暗く、淡く青い光が各所に灯っている。その中でも最も輝いているのは部屋の中央にあるガラス管だった。
 ガラス管の中は液体で満たされ、裸の幼い子供が浮かんでいた。
 紫苑は妖糸を放ち、目の前にいるモノをガラス管ごと破壊しようとした。だが、急に開かれた子供の瞳を見た紫苑の腕は止まった。
 哀しそうな瞳で紫苑を見つめる子供。その哀しそうな表情を見た紫苑は、鏡に映った自分を見ているように思えてならなかった。
 そっとガラス管に触れる紫苑。
「おまえの運命はすで呪われている。だが、おまえがこれからどう生きるか、組織に飼われるか、私のように飼い主に噛み付くか、それとも別の道を選ぶかはおまえ次第だ」
 だが、紫苑にはわかっていた。この子供は一生組織からは逃げられないと……。
 部屋の奥にはいくつかの扉があり、紫苑はその中の一つに入った。
 何者かが侵入して来たことにより、その部屋の中は耳を覆いたくなるような鳴き声で満たされた。
 鳴いているのは動物たちだ。紫苑が部屋に入って来たことにより、動物たちが喚きだしたのだ。
 この動物の中ではチンパンジーが一番うるさい。金切り声をあげて、檻を手で揺さぶっている。
 犬は喉を鳴らし警戒している。猫は尾を立てて怒っているのがよくわかる。
「ここの動物たちは、人間を憎んでいるらしいな」
 紫苑はすぐにわかった。ここにいる動物たちはペットとして飼われているのではもちろんない。生物実験のためにここに閉じ込められているのだ。
 墓場で見たゾンビたちやここの動物たち、そして、さきほどの子供。この研究所はいったい何を研究しているのか?
 動物たちを尻目に紫苑は別の部屋に移動した。
 部屋の中に入った瞬間に泣き叫ぶ人間の声が聴こえた。
「お願いだから家に帰して!」
 牢屋の中には若者や幼子をひとまとめにして大勢入れられていた。
「ここから出して!」
 紫苑の視線の先で泣き叫んでいるのは若い女性だった。牢屋の中に入っている人々の中で唯一この女性だけが泣き叫んでいる。
 この女性以外の者たちは痩せこけた顔をして、何も言わず地面に座り、生気の失った顔をしていた。もう、泣き叫ぶ気力も残っていないのだろう。
 泣き叫んでいる女性の顔にはまだ精気が見受けられる。ここに入れられてまだ日が浅いのだろう。
「出して、出して、出して……」
 鉄格子に手を掛けながら泣き崩れて地面にへたり込む女性。その女性に紫苑は声を掛けた。
「ここから出たいのか?」
「ここから出してくれるの? あなた、ここの人じゃないの?」
 女性の声には少し歓喜が混じっている。
「私はこの研究所の人間でない」
「もしかして、私たちを助けに来てくれたの!?」
「違う。この部屋には立ち寄っただけだ」
「でも、ここの人じゃないんでしょ。お願いだから私をここから出して!」
「用が済んだらまたここに来る」
 冷たく言い放った紫苑は女性に背を向け歩き出した。
「待って、いかないで! ここから私を出して!」
 悲痛の叫びなど耳に入っていないように紫苑は淡々と歩き、部屋の外に出た。
 仮面の奥から深い息が吐き出された。紫苑は何を思ったか?
 沈黙が落ちた。誰も入り込めない沈黙。この場の時間は紫苑のためだけに存在を許された――。
 ふと、紫苑が顔を上げた。部屋の電気が点けられ、大勢の戦闘員が部屋の中に駆け込んで来た。
 ビームライフルが紫苑に向けられる。だが、発射される様子はない。この部屋にある機具にビームが当たることを危惧しているのだ。
 敵が自分に攻撃できないことを悟った紫苑は疾風のごとく走った。敵も紫苑を向け打つためにライフルからナイフに武器を持ち替えた。
 光の筋が走った。先に攻撃を仕掛けたのは紫苑の妖糸であったが、敵には何ら変化が見受けられない。戦闘員はナイフを構えたまま立っている。
 しかし、次の瞬間!
 戦闘員がナイフで紫苑に切りかかろうとした刹那――その者の胴体が滑らかに地面に崩れ落ちた。紫苑の妖糸はたしかに敵を切っていた。だが、その切り口が滑らか過ぎたために切られた本人も気づかず、動いた時にはじめて切られたことを知ったのだ。
 残った戦闘員たちは動けなかった。自分たちも動いたら、今の者ように胴が地面に滑り落ちるのではないかと考えたからだ。
 戦闘員たちの身体が恐怖で震えた。その瞬間、音を立てて全員の胴体が地面に滑り落ちた。――やはり、全員切られていたのだ。
 床に落ちたモノは少しの間苦しみもがいていたが、すぐに動きを止めた。
 床の上を浸蝕した紅の絨毯の上を紫苑はぴちゃぴちゃと音を立てながら歩いた。
 部屋の外に出ても、紫苑の歩く後には紅い模様が残る。紫苑は過去を引きずっているのだ。――血塗られた過去を。
 この後、紫苑は出遭う敵たちを無感情に切り刻んでいった。紫苑の通った後には肉塊だけが残っていた。
 紫苑の内に潜む者が言う。
 ――おまえは傀儡だ。傀儡に感情はいらない。
 自分を言い聞かせるために紫苑は小さく呟いた。
「私は人間だ。だから〝その〟心を知りたい」
 目の前にあったドアを紫苑は開けた。
 部屋に入った紫苑を出迎えたのは、ビームライフルの照準だった。
 並び立つ戦闘員を掻き分けて、後ろからナディラ副所長が姿を現した。
「ついにここまで来てしまったのね。でも、どうしてこの研究所の場所がわかったのかしらね?」
「私の知り合いの情報網に引っかかった」
「それは、どこのどなたかしら?」
「それは言えないな。言ったとしても、貴様たちはここで死ぬ運命にあるがな」
「物騒なこと言うのね。でも、あたしたちの研究を邪魔されるのは困るわ」
 妖艶な笑みをナディラが浮かべた次の瞬間、ビームライフルが発射された。
 身に纏うぼろ布に穴を空けられながらも、紫苑は辛うじてビームを避けた。しかし、ビームは連続で発射される。
 妖糸が煌き、ビームが伸びる。
 戦闘員たちの腕が飛び、頭部が飛び、胴が地面に落ちた。が、発射されていたビームが紫苑の左肩を掠め、布と肉の焦げた臭いが鼻を突いた。
「くっ……」
 紫苑の口から苦痛が漏れた。
 最後にただひとり残ったナディラは不適に笑った。
「あら、マシーンとの戦いでは痛みを感じてないように見えたけど、やはり痛覚はちゃんとあったのかしら?」
 マシーンに取り付けられていたカメラで、ナディラは紫苑の戦闘の様子を一部始終見ていた。その時の紫苑は機関砲で蜂の巣にされようが、平気だったように見えた。
「最初に会った時と少し雰囲気が違うみたいね」
「同じだ」
 紫苑の手が素早く動く。だが、ナディラの方がワンテンポ速かった。
 消えた――ナディラの姿が紫苑の視界から消えた。
 次の瞬間、紫苑の両腕は背中に回され、ナディラによって拘束されていた。
「可笑しいわね……左腕はもぎ取られたはずだけど、治したのかしら? もう一度もいで見ればわかるかしらね」
 紫苑の左腕が強引に曲げられ、骨の折れる音が生々しく響いた。
「くっはっ……」
 折れた左腕を胴の力で無理やり引っ張り、紫苑はナディラの拘束から逃れ、すぐさま残った腕で妖糸を振るった。
 紫苑の狙いは完璧であった。だが、妖糸はことごとく交わされてしまった。
「そんな遅い攻撃じゃ、あたしは仕留められないわよ!」
 ナディラの移動速度は、この地上最速の動物と言われるチータに匹敵する、時速約一〇〇キロメートルに達していた。
 そう、この移動速度こそがこの研究所の研究の一成果であった。
 獣のように飛び掛かって来るナディラを向かい撃つ紫苑
「だが、目で追えないほどの速さではないな」
 ナディラの頭上から股までを一筋の光が走った。
 空中でナディラの身体は対称に真っ二つに分かれ、床にずっしりとした音を立てながら落ちた。
 この場にいる全ての敵を葬った紫苑は、近くにあったキーボードのボタンを押し、コンピューターの中にあるデータを検索しはじめた。
 ディスプレイには生命科学に関するデータが表示されていく。
 片手でキーボードを叩いていた紫苑の指が止まった。画面には『アクセス拒否』と表示され、パスワードを要求している。
 パスワードを要求された紫苑は、コンピューターの中に妖糸を忍び込ませようとしたその時だった。
「くっ……まだ生きていたのか!?」
 紫苑の左腕には切断されたはずのナディラが喰らい付いていた。
 相手の肉を引きちぎり、ナディラは租借しながら後ろに下がった。
「若い男の味がするわね」
 肉を呑み込み、舌なめずりをしたナディラは妖々と笑みを浮かべたその顔には紅い線が縦に走っている。その紅い線は血だった。
 左腕から血を地面に流す紫苑は感嘆の声を漏らした。
「大した再生能力だ」
「お褒めの言葉ありがとう。あなたのお肉も美味しかったわよ」
「……だが、次はない」
 冷たい声はナディラの心を凍らせた。
 刹那、ナディラは声をあげる猶予も当てられず細切れにされていた。
 妖糸が空間を裂く。
 空間に生まれた裂け目はこの場の空気を吸い込み、細切れにされた肉を全て、血一滴も残さずに呑み込み、そして、閉じられた。
 何事もなかったように再びディスプレイに向かい、キーボードに妖糸を忍び込ませようとする紫苑。だが、その左腕からは大量の血が地面の零れ、血溜りを作っている。
 ディスプレイに表示されたものを見て紫苑の手が止まった。
「なるほど……これはおもしろい」
 再び紫苑の妖糸が動き、最後に紫苑は自らの指でボタンを押した。
 画面で数字がカウントされはじめた。
 急いで紫苑は部屋の外に出た。すると廊下ではアナウンス放送による退避命令が出ていた。
 紫苑が最後に押したボタン。それはこの研究所を破壊するスイッチであった。
 この研究所を造った組織が、もしもの時のために重要な証拠を隠滅するために設置した爆破スイッチを紫苑は押したのだ。
 廊下では戦闘員や研究所職員が急いで退避していた。紫苑はそれに見つからないように先を急ぐ。
 爆破までの残り時間がアナウンスされる。――残り約二〇分。
 廊下を走っていた紫苑の足が急に止まった。横には扉がある。
「なぜ……助ける?」
 自問しながらも紫苑は扉を開けて中に入った。
 ここはあの時の部屋だった。部屋の中央にはガラス管がある。
「爆発に巻き込まれて死ぬことが、おまえにとっては幸せだろう……」
 それ以上何も言わず、紫苑は次の部屋に移動した。
 人々が囚われていた部屋。
 紫苑の姿を確認したあの女性がすぐさま鉄格子を掴んで泣き叫んだ。
「助けに来てくれたの!? 早く、早く出して!」
「鉄格子から少し離れていろ、破壊する」
 女性が鉄格子から離れたのを確認した紫苑は妖糸を振るった。
 鉄の棒が床に一気に落ちて、鉄格子は破壊された。
 喜んだ女性は外に出ようとしたが、その前にここにいる他の人々に声をかけた。
「早く、みんな逃げましょう!」
 誰も口を開かず、うつむいていた。
 紫苑が女性の腕を掴んだ。
「おまえ以外は置いていく」
「ど、どうしてよ、みんなで逃げましょうよ!」
 女性は床に座る生気のない人間たちに声をかけるが、誰も立ち上がろうとしない。
 紫苑は女性の腕を引っ張り、冷たく言い放った。
「ここにいる者たちは外の世界に戻っても、生きていけない」
「どうして!?」
「魂が傷つき過ぎたのだ」
 紫苑は女性を強引に片腕で抱きかかえて走り出した。女性を抱きかかえるために妖糸の補助も使用している。
 廊下に戻ると、すでに爆発まで一二分となっていた。
「少し時間がないな」
 走り続け、前方に蜘蛛巣が見えて来た。あの巨大蜘蛛もいる。
 女性を一度地面に降ろし、紫苑は妖糸を振るった。――空間を裂けた。
「行け!」
 紫苑の合図とともに裂け目から〈闇〉の触手が伸び、蜘蛛を捕らえて還っていく。
 再び紫苑に抱えられた女性は恐ろしい光景を目の当たりにして、紫苑の腕の中で声も出せずにぶるぶると震えていた。
 爆発まで後八分。
 走り続けていた紫苑の足が再び止まり、女性を床に降ろした紫苑は上を見上げた。
 天井には扉が開いている。紫苑が研究所内に侵入した外と繋がる扉だ。
 妖糸が外に伸び、紫苑は妖糸を引っ張り、何かに固定されたことを確認した。
 自分の身体に妖糸を巻きつけ、片腕には女性を抱えた状態で紫苑の身体が浮いた。妖糸によって二人の身体が持ち上げられているのだ。
 墓地の戻った紫苑はなおも女性を抱えながら走った。
 地面の底で轟音が鳴り響き地震が起きた。
 地盤が沈下していく。そして、紫苑の足元が地面の底に呑み込まれそうになった時、紫苑は高く飛翔した。
 地面に着地する紫苑。その真後ろの地面は陥没していた。
 紫苑は女性を地面に降ろして言った。
「私のこと、そしてここであった全てのことを他言するな。それがおまえのためだ」
「…………」
 女性は沈黙しながらも深くうなずいた。もし、他言すれば自分がどうなるか、この女性にはわかっていた。
 紫苑は女性をここに置き去りにして立ち去ろうとした。だが、女性ははっとして最後の気力を振り絞って叫んだ。
「こんなどこだかわかないところに置いて行かれても困る!」
 紫苑の足が止まり、仮面の顔が振り向いた。
「あと、自分の力で家まで帰れ」
「嫌よ、置いていかないで! 人がいるところまで連れて行ってよ!」
 女性は紫苑の右腕を掴み、激しく揺さぶった。
「置いていかないで、お願いだから!」
「仕方あるまいな……私の知り合いに向かいに来てもらおう」
 ケータイを取り出した紫苑はある女性に電話をかけた。
「亜季菜さん迎えに来てください」
 紫苑の口調は明らかに違っていた。柔らかな口調で落ち着いている。先ほどとはまるで別人のようだ。
《こっちは指定の場所で待っているのよ、今更替える気なの?》
「いえ、ヘリを奴らの研究所に寄越してください。僕はそちらに向かいますから」
《研究所はどうなったのよ? それにあなたがこっちに来るって、ヘリは何のために必要なの?》
「研究所は壊滅しました。女性をひとり助けたので、その人の保護をお願いします」
《ふ~ん、あなたが人を助けた……か。まあいいわ、そっちにヘリを向かわせるわ》
「ありがとうございます」
《こっちは忙しいのだから早く来なさいよ》
 電話は向こうから切られた。
 ケータイをしまった紫苑は女性に顔を向けた。
「迎えが来る。ここで待っていろ」
 声をかけられた女性はきょとんとしている。電話で話していた紫苑とのギャップに驚いているのだ。
 返事もしない女性を紫苑は再び置き去りにして行こうとした。
「待って、行っちゃうの!?」
「向かいが来る」
「でも、ひとりでこんなところで待つなんて嫌よ!」
 夜の闇は深く、元墓地であったここは森に囲まれ静寂に満ち溢れている。こんなところで女性がひとりでいられるわけがない。
「ヘリが来るんでしょ? それまでここに一緒にいてよ」
「私にできることは終わった。連れが待っているのでな」
 紫苑の手から妖糸が放たれ女性を拘束した。
 女性は何かを言おうとするが口が開かない。
 動けなくなった女性を尻目に、紫苑は闇の中に溶けていった。

 星稜祭前の三日間は授業がなく、星稜祭の準備が全校生徒総出で行われる。
 文化部は部の出し物の準備をし、運動部でも屋台などをやったりし、クラスではクラスの出し物がある。
 演劇部もこの日は朝早くから練習をすることになっていた。
 舞台の上で他の部員を待っているのは二人――隼人と麻那だ。
「みんな来ませんねぇ~」
 呑気な口調で言う隼人を麻那は睨みつける。
 もし、自分たち以外に誰も来なかったら、それは全部自分のせいだと麻那は思って、酷く取り乱すに違いない。
「来るわよ……たぶん」
 麻那には自信がなかった。もしかしたら、自分たち以外は誰も来ないのではないかと内心では思っている。
 不安で胸が苦しくなり、麻那はうつむいてしまった。昨日の夜もよく眠れなくて、朝起きたら目の下に隈ができていた。
 麻那はポケット中に手を突っ込んで、そこに入れてあった物に気がついた。
「そうだ、さっき買ったんだった」
 ここに来る前に買ったコーヒーと炭酸飲料。麻那は炭酸飲料を隼人に差し出した。
「はい、隼人PONTA好きでしょ?」
「あ、うん、ありがと」
 二人は同時に缶を開け、飲み物を少し喉に通した。
「ぷはぁ~っ、やっぱりPONTAはオレンジが一番だよね」
 満足そうにジュースを飲む隼人を見て、麻那は微笑を浮かべた。その笑みはとても温かかい。
 時間が流れていくが、誰も来る様子がない。もしかしたら、本当に誰も来ないのかもしれない。麻那の不安が募る。
「来ないのかな……みんな」
「大丈夫、きっとみんな来るさ。あんなことで水の泡なんて、せっかく練習して来たんだから」
 隼人は麻那に微笑みかけるが、麻那の心配は解けない。
 客席を駆け下りてくる音が聴こえた。
「にゃば~ん! 遅れてゴメンにゃさ~い」
「私まで遅れてごめんなさい」
 舞台に上って来たのは撫子と翔子だった。
 二人が来てくれたことにより、麻那の心は少し落ち着いた。
「よかった、翔子来てくれたんだ。翔子が一番来てくれないんじゃないかって心配だったのよね」
「私が練習サボると思ってたんですか? 今日遅れたのはこいつのせいですよ」
 翔子は〝こいつ〟の腕を引っ張って、麻那の前に突きつけた。
「アタシが行けにゃいんですぅ。アタシが寝坊して翔子との待ち合わせに遅れたからぁ。アタシ、どんな罰でも受けますから翔子を責めにゃいでください。煮るにゃり焼くにゃり召し上がるにゃりしちゃってくださ~い」
「許すから、そんな潤んだ目であたしのこと見ないでよ。それよりも許して欲しいのはあたしの方……翔子、こめん」
 麻那は翔子に向かって勢いよく頭を下げた。
 頭を下げられた翔子の方が戸惑う。麻那が人に頭を下げるなんて、翔子は信じられなかったからだ。
「あ、いいです、もう気にしてませんから、私の方こそ練習抜け出してごめんなさい。私が飛び出した後、練習ちゃんとできたか心配で……」
 この言葉を聞いた麻那は頭が上げられなくなった。翔子が帰った後、より険悪なムードになって隼人を除く全員が帰ってしまったことを麻那は思い出した。
「麻那先輩、どうしたんですか? 頭上げてくださいよ」
 翔子が心配そうに麻那に声をかけるが返事は返って来ない。
 頭を上げない麻那を見て、隼人の表情が暗くなった。
「実はね、翔子さんが帰った後、みんな勝手に帰りはじめちゃってね。練習どころじゃなくなっちゃったんだよ」
 頭を下げたままの麻那の顔から雫が地面に零れた。
「ごめん、あたしが全部悪いんだよね。みんなに当たり散らして……あたしが、あたしが全部悪いんだよね」
 泣き出した麻那を目の当たりにして、翔子まで泣けて来た。
「違いますよ、悪いのは私です。私があの時、笑って済ませればよかったんです」
 二人の女性が泣き出してしまい、隼人は困惑して何もできなかった。それに引き替え撫子は明るいものだ。
「二人とも爆ネガティブ。泣いてたってしょーがにゃいよ二人とも。泣いてにゃいで他の部員どもを連れて来るとかしたらどうにゃの?」
「私、行って来ます」
 翔子は泣くのを止めて、残りの部員たちを探しに行こうとした。だが、その前に女子三人組が現れた。
 最初に沙織が挨拶をする。
「おはよーございま~す!」
 次に麻衣子が挨拶をする。
「おはようございます。練習に遅れて申し訳ありませんでした」
 最後に残った久美はふて腐れて何も言わなかった。そんな久美のわき腹に麻衣子の肘鉄が入る。
「ちゃんと挨拶しなさいよ」
 久美は沙織と麻衣子に説得されて強引にここに連れて来られたのだ。
「痛いじゃない!」
 それだけ言って久美は再び黙り込んでしまった。
 すすり泣く声が聴こえた。それに気がついた沙織は思わず声をあげてしまった。
「ま、まさか麻那センパイが泣いてるんですかぁ~!?」
 麻那が泣いていると聞いて、久美もビックリして麻那を見つめた。
「ご、ごめんなさい……あたしが全部悪いの……」
 涙をぽたぽた流しながら麻那が顔を上げた。それを見た三人娘は度肝を抜かれた。まさか麻那が本当に泣いてるなんて思わなかったし、ましてや謝るなど考えられなかったからだ。
 泣いて謝る麻那を見て久美は慌てた。
「泣かないでください先輩、私怒ってるわけでもありませんし、先輩のこと責めてるわけでもありませんから」
 本当はさっきまで怒っていたし責めてもいた。だが、泣きじゃくる麻那を前にしたら、本当のことなど言えなかった。
 隼人は泣いている麻那の身体をそっと抱き支えて言った。
「誰も麻那のこと責めてないから、泣かないで。ほら、元気出してさ」
「ううっ……で、でも……麗慈が……うっ……」
 麗慈が来てなかった。状況は最悪だった。麗慈が来るまで麻那は泣き止むことがないだろう。
「私、探してきます!」
 翔子はそう言って走り出した。あんな麻那を目の前にしたら何かをせずにはいられなかった。
 走り出した翔子の後をすぐに撫子が追って来た。
「アタシも行くよ~ん」
「じゃあ、手分けして探そう」
「オーケー。じゃ、アタシはこっち行くから、翔子はあっちね」
「うん、わかった」
 撫子と分かれ翔子は走った。
 部活の練習には来ていないが、もしかしたら教室にはいるかもしれない。そう思った翔子は自分のクラスが割り当てられている教室に向かった。
 向かう先は中学ではなく高校だった。翔子の通う学校は星稜大学付属・高等部・中等部となっていて高等部と中等部は隣同士に建っているために、毎年合同で文化祭を行っている。
 合同で行われる星稜祭は高等部と共有施設のホールが会場となっている。
 走りながら翔子は思っていた。麗慈は練習にも来てないんだから、きっと学校内にもいるはずないと。そう思いながらも、少しの希望に賭けて走っていた。
 廊下を曲がろうとした時、急に曲がり角から出て来た三人組の男子生徒と鉢合わせとなり、翔子はそのうちのひとりとぶつかってしまった。

「きゃっ……ご、ごめんなさい」
 すぐに頭を下げて謝るが、相手の三人は翔子を睨んでいる。
 この学校は見た目から不良という生徒は少ないが、それでもいるにはいる。しかも翔子がぶつかったのは高等部の生徒だ。制服のデザインが異なるのですぐにわかる。
 シルバーアッシュの髪色をした男子生徒が舌打ちをした。
「ごめんなさいで済むと思ってんのかよ!」
「だ、だから本当にごめんなさい」
 翔子は後退りながら頭を下げるが、男子生徒たちは足踏みを揃えてじりじりと詰め寄って来る。
 この男子生徒たちと翔子以外の生徒たちも周りにいるが、誰も翔子を助けようとしてくれない。皆、無視して見ないフリをしている。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「だから、謝って済むと思ってんのかって聞いてんだよ!」
 翔子はもう逃げるしかないと思って相手に背を向けて走ろうとした。だが、翔子の腕はガシッっと掴まれてしまった。
 ――もうダメだ、逃げられない。と翔子が思った時、救世主が現れた。
「そのひと俺の友達なんで、放してくれませんか?」
 救世主はちょうどこの場を通りかかった雪村麗慈だった。
「聞こえませんでしたか先輩? そのひと放してください」
 麗慈の言葉づかいは丁寧だが、口調は明らかに喧嘩を売る挑発的な態度だった。
「んだと、うるせえな! あっち行ってろよガキのクセして!」
 この言葉を受けて麗慈は相手を睨み、口元を歪めて鼻で嗤った。
「ふ~ん、この学校にもこういう頭の悪い奴らがいるんだ」
 この言葉が相手らを逆上させた。
「クソガキが!」
 いきなり殴りかかって来た男の腹に強烈な蹴りが入った。
「おまえら程度の相手に手は使わない、足だけで十分だ」
 床に崩れる仲間を前にして二人目が麗慈に襲い掛かった。だが、麗慈の強烈な回し蹴りを喰らって噎せりながら床に崩れた。
 翔子を掴んでいたシルバーアッシュの男が、翔子を掴んだまま逃走しようとした。しかし、男の足は動かなかった。
 焦る男の前に立った麗慈は嗤った。
「俺さ、卑怯者だから約束守れないんだよな」
 麗慈の拳が男の顔面に炸裂して、男は大きく吹っ飛び床に転がった。
 真横にした翔子は唖然としてしまった。
「麗慈くん……ケンカ強いんだ」
「いちよう問題児だからな」
「……そう、なんだ」
 周りにいた生徒たちも今の出来事は無視できず、呆然として眺めてしまった。
 生徒たちは動きを止めて沈黙が流れる。
 麗慈は翔子の手を取ると、周りの生徒たちにニッコリと笑顔を見せた。
「みんな、今見たことは黙っててよ。俺が後で呼び出し受けたら困るからさ」
 誰も返事はしなかったが、誰も教師たちに言いつける人はいないだろう。やられた相手が不良だったこともあり、別に教師に報告するまでもないという気持ちと、それとは別に麗慈と関わるのはよくないと瞬時に判断したからだ。
 歩き出して翔子はすぐに麗慈の手を振り払った。
「手握られるの嫌だった?」
「私たち、そういう関係じゃないし……」
「えっ!? そんなこと気にしてるの?」
 悪気なく麗慈はやっているのか、すごく驚いた表情をした。それに対して翔子は丸い目をして声を荒げる。
「き、気にするよぉ!」
「ごめん、ごめん。気をつけるよ」
「それから……」
 翔子は麗慈と視線を外しながら呟いた。
「もう、変なことしないで」
「変なこと?」
「キス……しようとしたり」
 麗慈は翔子の顔をじっと見つめているが、翔子は決して目線を合わせようとはしなかった。
「ごめん、もしかして傷つけた?」
 翔子は少し怒った顔をして麗慈を見た。
「あ、あんなことされた普通は怒るでしょ!?」
「そうなんだ……これからは気をつける」
 遠く見つめる麗慈の横顔を見て翔子は思った。麗慈の顔も性格も雰囲気も、全部どこか浮世離れしている。具体的に何がと聞かれると答えはすぐに言えないが、どこかが変な気がする。
「麗慈くんって、やっぱり愁斗くんと似てるかもしれない」
「俺があいつと!? あいつと一緒にしないでくれよ」
「どうしてそんなこと言うの? 麗慈くん愁斗くんのことまだあんまりよく知らないでしょ。もしかして、愁斗くんのこと嫌いなの?」
「今はどうだか知らないけど、昔のあいつなら知ってる。俺はあいつが憎い」
 〝嫌い〟ではなく――〝憎い〟と言った。麗慈の言葉からは翔子の胸が苦しくなるほどの憎しみがこもっていた。
「麗慈くんって愁斗くんともともと知り合いだったの?」
「昔々のお話さ」
 翔子は恐くてこれ以上聞くことができなかった。二人の過去に何があったのか、知りたい。けれど、それを自分は知ってはいけないような気がした。

 翔子はホールに戻る道すがら、ケータイで撫子に麗慈を見つけたことを告げて、麗慈とともにホールに戻って来た。
 舞台の上では撫子を含めて全員が集まっている。愁斗を除いては。
 麻那もすでに泣き止んで普段どおりの表情をしている。この場に残ったメンバーで懸命に声をかけて宥めた結果だった。
 練習を開始せずに少しの間だけ愁斗を待ってみたが、やはり来る気配はない。
 撫子はわざとらしくぐるっと辺りを見回した。
「愁斗クン来ないねぇ~。もしかして交通事故とかに遭って、入院してたりしてね」
 すぐに翔子が怒ったように言葉を返す。
「嫌なこと言わないでよ」
 昨日の練習からもわかるが、メサイ役の須藤拓郎が抜けた穴は、麗慈が入ることにより頭数だけは揃うが、二人目が抜けるとどうにもならなかった。愁斗が抜けた分、麻那と久美にミスが目立ってしまった。
 麻那のことや他のことでいろいろと演劇部内に不和が起きたが、今はどうにか解決することができた。後は人数的な問題だ。
 今、練習を開始してもうまくいかないことは隼人にもわかっていた。
「誰か愁斗くんに連絡つく人いませんか?」
 隼人は麻那に睨み付けられてしまった。
「いたらとっくに連絡してるわよ」
 麻那はすでに愁斗の家に電話をかけていた。今朝早く職員室に行って愁斗宅の電話番号を聞いて電話をかけたのだが、留守番電話にしか繋がらなかったのだ。
 撫子が手を大きく上げて発言した。
「はぁ~い、これを機に部活の連絡網ちゃんと作っておいた方がいいと思いま~す。ケータイの番号はわかるけど、みんにゃの自宅の番号知らにゃいもん。それにケータイ持ってにゃい人いるしぃ」
 この意見に隼人は賛成した。
「そう言えば連絡網ってなかったね。みんなちゃんと練習来てたから、そこで連絡できたからね」
 先ほどから、なぜか黙り込んで下を向いていた翔子が小さく手を上げた。

「あ、あの、私が愁斗くんのケータイに電話してみましょうか?」
 翔子の言葉に一同はビックリした。愁斗はケータイを持っていないと本人が言っていたのだ。その愁斗のケータイ番号をなぜ翔子が知っているのか!?
「爆抜け駆けって感じの翔子ちゃ~ん!?」
 素っ頓狂な声を上げて飛び跳ねるオバーリアクションの撫子。愁斗ファンのひとりである沙織も声をあげる。
「何で翔子センパイが愁斗センパイの番号知ってるんですかぁ~!? 沙織が聞いても、持ってないって言い張ってましたよぉ」
「そ、そうなんだ……私が聞いたら、すぐに教えてくれたけど……」
 ここにいる大半の人は愁斗にケータイの番号を聞いている。だが、誰も教えてもらっていなかった。――持ってないとウソまでつかれて、それなのになぜ翔子だけ?
 翔子は痛い視線を浴びながら、ポケットからケータイを出して愁斗に電話をかけた。
「――あの、愁斗くん?」
《ああ、瀬名さん。どうしたの?》
「ど、どうしたのじゃなくって、愁斗くんこそ何で部活来ないの?」
《ちょっと、いろいろあってね。今日は病院に寄った後に練習に出られると思うよじゃあ病院内に入るから電話切るよ》
「あ、うん」
 ケータイをポケットにしまった翔子の次の言葉に一同が耳を傾ける。
「病院に寄ってから、練習に来るそうです」
 と言われても、誰も納得しない。なぜ部活を休んだのか? なぜ病院なのかがわからない。
 今の説明では不十分だと麻那が腕組みをしながら翔子を見つめる。
「他に何か聞かなかったの?」
「え~と、病院内に入るからって言って電話切られちゃいました」
 ――今の説明で仕方なく一同は納得した。愁斗が練習に来ると聞けただけでもよかったと思うしかない。
 隼人が手を叩いて大きな声を出した。

「さあみんな、練習するよ」
 愁斗が来るとわかったのでメサイ役以外の配役は元通りに戻され練習が開始された。
 昨日と違ってミスはひとつもなかった。
 麗慈は撫子が徹夜で仕立てた衣装に身を包み、セリフも完璧に覚えている。それに合わせて照明も音響も息がぴったりだ。昨日のことは全て嘘だったみたいだ。
 後は愁斗が来れば完璧だ。
 その愁斗も練習が開始されてだいぶ経った頃に姿を現した。
「遅れてすいませんでした」
 愁斗の声で練習が一時中断された。
 愁斗に駆け寄る部員たち。その表情は暗い。皆、撫子の悪い冗談が本当になってしまったと思った。
 翔子が愁斗の腕の怪我見て聞く。
「どうしたの……その怪我?」
「ああ、これは車に轢かれてね。死ぬかと思ったよ」
 冗談が現実になった瞬間だった。愁斗の左腕には包帯が巻かれ、その腕は首の後ろに回した布で、胸前あたりで固定されていたどう見ても腕を折った怪我人の格好だった。
 部員たちの顔が落胆の色に変わる。これで公演は中止だと誰も思った。
 一番公演の中止を嫌がっていた麻那が呟いた。
「公演は中止ね。怪我じゃしょうがないわよね」
「僕なら平気です。フロド役をやらせてください。僕の怪我のせいで公演が中止になったら嫌ですから」
 ――だが、怪我をしたままできる役ではない。フロドは劇中、舞台の上を動き回り、メサイと取っ組み合いをするシーンもある。
 隼人は大きく息を吐いた。
「さあ、練習するよ」
「爆裂うっそぉ~! 部長、爆マジで言ってるんですかぁ!?」
「本人がやりたいって言ってるんだから。でも、愁斗くん、無理しないようにね」
「はい、わかりました」
 愁斗はうなずき、練習は再開された。
 練習は思っていたより順調に進んだ。愁斗のフロドは隼人のフロドとは別の魅力を持っている。そして、麗慈のメサイも愁斗が相手だと何か違った。
 フロドとメサイの迫力を凄い。二人の間にある想いが激しくぶつかり合っているのがよくわかる。その二人に挟まれた翔子は麗慈のある言葉が脳裏に甦った。
 ――俺はあいつが憎い。それが演技に出ているのかもしれない。
 問題の取っ組み合いのシーンも愁斗は片腕だけでどうにか乗り切り、怪我をしてることを見ている人々に忘れさせた。
 そして、三日はすぐに過ぎ去っていった――。

 星稜祭の幕が壮大に開かれた。
 二日間の星稜祭の日程のうち、演劇部の公演は二度行われる。一日目と二日目の午前中だ。
 一日目の公演は盛況のうちに無事終わった。誰もが満足するできだった。
 そして、二日目の今日、昨日と同じように翔子たちは衣装に着替えて中等部演劇部の公演チラシを配っていた。
 翔子はドレスを着て、撫子も魔導士の衣装を着ている。
「撫子、昨日も言ったけど二人で回ってたら効率悪いでしょ?」
「言われたっけ、そんにゃこと? いーじゃん、いーじゃん、二人でいた方がインパクト強くてみんにゃチラシ受け取ってくれるよ」
 そう言いながら撫子はすれ違う人たちに片っ端からチラシを配っていく。
 翔子は自分たちの配っているチラシをまじまじと見ながら呟いた。
「愁斗くんと麗慈くんはこれでいいけど、私のこと少し綺麗に描きすぎだよ」
 このチラシを製作したのも撫子だった。チラシにはメインキャストの三人が描かれている。それもかなりの画力で写実的に描かれていた。
「翔子が二人に負けにゃいように二〇〇%美化で描いたんだよぉ~」
「それって私に失礼じゃないの?」
「ウソウソォ~、翔子を見たまんま描いただけだよ。翔子は十分ビューティホ~だよ」
 翔子はチラシを顔に近づけたり遠ざけたり難度も見ていた。その時、チラシの向こうの景色にあるものを見た。
「……あれ、須藤くん!?」
 翔子は行方不明のはずの須藤拓郎を人ごみの中に見た。
「どこどここ? いにゃいじゃん」
「本当にいたんだって……たぶん?」
「そっくりさんじゃにゃいの?」
「見間違えかなぁ……?」
 公演の一五分前となり、急いで翔子と撫子はホールに向かった。
 二人が舞台裏に行くと、すでに他の部員たちは揃っていて、いつでも公演が開始できる状態だった。
 翔子は須藤を見たことを話さなかった。公演直前にみんなの気を惑わすようなことは言わない方がいいと判断したからだ。
「公演最終日、みんな悔いを残さないようにがんばりましょう」
 隼人はみんなにニッコリと微笑を投げかけた。隼人の微笑みはみんなの緊張を解きほぐしてくれる微笑だ。
 この公演が隼人と麻那にとって中学最後の公演となる。
 公演を華々しく成功させて、二人を見送ってあげたいと翔子は考えていた。
「部長も麻那さんもがんばってくださいね」
 演劇部を代表しての気持ちを込めた翔子の言葉だった。
 徐ろに愁斗が包帯を取りはじめた。それを見た部員たちは驚きの表情をする。
 翔子は愁斗に近づき目を丸くした。
「愁斗くん、腕平気なの?」
「治ってないけど、やっぱり包帯したままだと目立つからね」
「でも、怪我が悪化するんじゃないの?」
「だから、最終日まで外さなかったんだよ」
 愁斗は微笑んだ。
 いつもどおり隼人は大きく手を叩いて合図をした。
「よし、そろそろみんな準備して」
「「はい!」」
 声を揃えて大きな返事をした。観客席まで聴こえてしまったかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。悔いを残さなければそれでいい……。
 星稜大学付属・中等部の演劇部による公演――『夢見る都』が開演した。

 ステンドグラスから淡い光が聖堂内に差し込む。
 美しき薔薇の庭園に囲まれた聖堂の中で、ひとりの女性が祈りを捧げていた。
 この者の名はアリア。明後日に婚姻式を控えた女性だ。
 光差し込むステンドグラスに描かれた聖母に跪き、アリアは両手を組んで静かに目を閉じていた。
 この辺りを治める領主の息子に愛慕われ、縁談の話が強引に進められてしまい、アリアの心は深く傷ついていた。
 婚姻相手の名はメサイ。決して悪い人ではないとアリアは思っている。だが、アリアには意中の男性が他にいた。
 アリアの恋い焦がれる男性の名はフロドドロウ侯爵配下の近衛魔導士団に所属する魔導士であり、蒼玉戦争で没落した貴族の家に生まれ、家名再興のために魔導士としての名を成そうとしている。
 静寂の聖堂に呟きが響く。
「明後日と迫った婚姻式――やはりわたくしはメサイ様を愛することができません」
 目を開きステンドグラスの聖母を見上げる。
「なぜ神は、わたくしとフロド様の仲を引き裂こうとするのでしょうか……。なぜ、わたくしはフロド様と一緒になってはいけないのでしょうか?」
 アリアの頬に光の筋が走り、それは地面に零れ落ち、四方に弾け飛んだ。
「なぜ、なぜ、なぜ、神はわたくしに試練を課すのですか? わたくしはなぜ苦しまなければならないのですか?」
 冷たい床に両手をつき、下を向いたアリアの顔から雫がぽたぽたと地面に零れた。
「わたくしの声が届いておいでなら、答えてください! わたくしに答えを……ううっ……くっ……」
 唇を噛み締め悲しみを抑えるアリア。彼女に救いの手を差し伸べる者はいないのか?
 肩を震わせ嗚咽しながらも、自分の内に秘める感情を抑え込もうとしている。
 アリアは涙を拭いて、もう一度ステンドグラス描かれた聖母を見た。
 涙は止め処なく流れている。
「わたくしは、わたくしは人の決めた道を歩むなどできません。わたくしは、わたくしで決めた道を生きたい。愛してもいないひととなど結婚なんてできません!」
 再び咽び泣き、顔を下げるアリア。
「自分の感情に嘘をつくことはこれ以上できません。わたくしはフロド様だけに愛されて生きたい。そして、フロド様と……」
 目を瞑っても涙が溢れて来る。胸を抑えても苦しみは消えず、震えは止まらずに身体が押し潰されそうな感覚に陥り、心臓が砕けそうになる。
 静かな聖堂に自分の泣く声と心臓の鼓動だけが鳴り響く。
「フロド様と結ばれぬのならば、死んだ方がましだというのに、わたくしには死ぬ勇気もないのです。そんな自分が惨めで、結局は何もできない人間なのです」
 咽び泣く声とは別に、相手を気遣うような静かな足音が聴こえた。
 アリアの耳にも足音は届いていたが、顔を上げることができず、相手を確認することができなかった。
「また、ここで祈りを捧げていたのですね」
 アリアの背中に優しい言葉をかけたのは、アリアの侍女であった。
 言葉をかけてもアリアは振り向こうとはしなかった。いや、振り向けなかったのだ。
 侍女は何も言わずアリアを見守っていた。そして、やがてアリアが顔を上げ、侍女の方を振り向いた。
「わたくしが泣いていたなどメサイ様には決して言わないでください」
「承知しております」
 ゆっくりと立ち上がったアリアは侍女に崩れるように抱きついた。
「あなたの顔を見たら、また涙が溢れて来てしまいましたわ」
「アリア様、貴女がお嘆きなられたら、わたくしまで悲しくなってしまいます。どうか涙をお拭きになって、泣くのをお止めになってください」
 侍女はアリアの肩を掴んでしっかりと相手を立たせた後に、白いレースのハンカチでアリアの顔についた悲しみを拭き取った。
「ごめんなさい、あなたまで悲しい思いをさせてしまって、わたくしのために涙を流してくれる友人はあなたしかいないわ」
 侍女の目からも涙が溢れ出ていた。それをアリアは自分のハンカチで拭き取ってあげると、微笑を浮かべた。
 微笑をもらった侍女は胸が苦しくなった。
「アリア様の笑顔はこの世で一番素敵でございます。貴女様にお使いできて、わたくしは大変嬉しゅうございます」
「わたくしもあなたのようなひとが近くにいてくれて、とても心強いわ。わたくしが何度あなたに助けられたことか、あなたはいつもわたくしを支えてくださった。いつでもあなただけがわたくし味方でした。感謝の言葉を何度言おうとも、決して足りませんわ」
 アリアの言葉を心で真摯に聞き入りうなずく侍女。彼女はアリアの一番の理解者であり親友であった。
「アリア様、貴女様が命じてさえくれれば、明後日の式を力ずくでも破談させてしまう覚悟はできております」
「いけませんわ、わたくしのためにそんなこと……」
「いいえ、わたくしはアリア様のためならば、この命捧げる覚悟でございます」
 侍女は服の上から自分の心臓を鷲掴みしてアリアに訴えた。
「アリア様はフロド様とご一緒になるべきなのです」
「ありがとう、昨日もあなたはそんなことを言っていましたね。でも、いいのですよ、わたくしの運命はもう決まっているのです」
「そんな……アリア様……」
「わたくしなら平気です。これからもあなたが傍にいてくださるのですもの」
「……アリア様」
「お行きなさい。わたくしはもう少しここにいますから」
 言葉に詰まった侍女は何も言わず、頭だけを下げて足早に立ち去ってしまった。
 再び独りになるアリア。彼女は床に跪き目を閉じた。
 しばらくして、また足音が聴こえた。今度の足音は歩幅の広い人の足音だ。
 アリアは足音の持ち主の顔を見た。そして、はっとした。
「フロド様!?」
「ここに来れば貴女に逢えるような気がした。しかし、いざ出逢ってみると逢ってはいけなかったのだと胸が痛む」
「わたくしも貴方様に出逢ってはいけなかったと思いますわ。貴方様と出逢ったことにより、わたくしの心は掻き乱され、苦しみが込み上げてきます」
 うつむいたアリアはフロドと視線を合わせないようにした。声を聴くだけでも苦しいのに、そのひとを見ていてはもっと苦しみが増してしまう。だが、フロドが傍にいるのを感じ、胸に熱いものが込み上げて来るのがわかる。
「なぜ、わたくしたちは引き離される運命なのでしょうか……?」
「私は貴女を手放しはしない。メサイの手から貴女を取り戻してみせる!」
「いけませんわ、いけません。そのようなことを成されては、貴方の名に傷が付いてしまいますわ」
「いいのだ、貴女さえいてくれれば」
「家名再興を成し遂げるのではなかったのですか? お忘れではないでしょう、メサイ様の父君は貴方が使えていらっしゃるお方でもあるのですよ」
 フロドはドロウ侯爵配下の近衛魔導士団に所属する魔導士だ。ドロウ侯爵の息子であるメサイからアリアを奪い返すなど、許されることではないのは誰もがわかっていた。
「だが、しかし! 私は貴女のことを……こんなにも想っているというのに!」
 片手を大きく振り乱し、フロドは感情を爆発させた。
「私は貴女を愛している。そして、貴女も私のことを――」
「言わないで! 言わないでくださいそれ以上。わたくしはメサイ様の妻となる身なのですよ。わたくしを困らせないでください――胸が、胸が苦しくなって、涙が……」
 目に涙を滲ませるアリアにフロドは近づき、彼女を抱きしめようと腕を伸ばした、その瞬間だった。
「触らないで!」
 フロドはアリアによって突き飛ばされた。
「わたくしの身体に触れないでください。わたくしに優しくしないでください。わたくしを苦しめないで……」
 突き飛ばされた時に床に座り込む体制になってしまったフロドは、立ち上がることもできずに黙り込んでしまった。
 沈黙が流れる。そして、フロドは床に座りながら言った。
「すまない、私が悪かった。だが、わかってくれ、苦しいのは貴女だけではないということを……私とて胸が張り裂けそうなくらい苦しくて堪らないのだ」
「フロド様……」
 アリアは何かを言おうとして首を振った。
「いいえ、これは運命なのです。わたくしたちには逆らえない運命なのです」
「何が運命だ! これが運命と言うのならば、この世には神はいない――いるのは悪魔だけだ!」
「フロド様は神を愚弄なさるのですか!? 神はおりますわ、いつもわたくしたちを見守ってくださっています」
「ではなぜ私たちはこのような運命を歩まねばならんのだ? これは神が私たちに与えた試練だとでも言うのか!?」
「……それは」
「答えられぬではないか、神はやはりいないのだ。私たちの運命は悪魔によって弄ばれているのだ」
 フロドに激しく罵られ、アリアは返す言葉が何もなくなってしまった。
 打ち震えるアリア。激しい憤りを感じ、この行き場のない感情をどうしていいのかわからない。
 そして、ついにアリアの感情はフロドにぶつけられることになった。
 気丈とした態度でアリアは命じた。
「早くここから出て行ってください。わたくしと貴方は逢ってはいけないのです!」
 アリアの言葉を受けたフロドはゆっくりと身体を起こし、服についた埃を振り払って哀しい表情をした。
「わかった……貴女がそう言うのであれば仕方あるまい。さらばだ……あ……よ」
 小さな声でフロドは呟き、マントを翻してこの場を後にした。だが、最後の呟きが耳に
届いてしまったアリアは叫ばずにいられなかった。
「お待ちになってフロド様!」
 声がした後もフロドは歩いていたが、やはり止まらずにいられなかった。だが、振り向くことはできない。決して振り向いてはいけない。
 フロドに駆け寄るアリア。彼女は堪えられずフロドの背中に抱きつき、そして泣いてしまった。
「フロド様、行かないで……行かないでください」
「触るなと言ったのは貴女だぞ」
「いいのです……わたくしは、貴方を愛しているのですから」
「私もアリア」
 ついに振り向いたフロドは、自分の顔をアリアの顔にそっと重ねた。
 どこかで鐘の鳴る音がする。この鐘は廃滅の序曲なのか……それとも?

 アリアとメサイの婚姻式が行われる前日、フロドはまた薔薇の聖堂を訪れていた。だが、今日は誰もいない。
 静かな聖堂――明日ここで二人の婚姻式が行われるとフロドの耳には入っていた。
「私は何をすればよいのだ。いや、その答えは考えなくとも出ている。だが、後のことはどうする? 現実は甘いものではないのだ」
 フロドはステンドグラスに描かれた聖母を見上げた。
「貴女ならば神が本当にいるのかご存知でしょう、神はいらっしゃるのですか?」
 答えはなかった。フロドは鼻で笑った。
「先日は神がいないと自分で言い、今は神に頼ろうとしている。なんと都合のよい男であろうか私は」
 拳を強く握りフロドは目を閉じた。
「だが、今は誰かにすがりたい――神の助けが欲しいのだ。こんな都合のよい男でも想いを寄せてくれるひとがいるのだ。私は目の前にいる大切なひとを手放したくはない、この腕で抱きしめていたいのだ」
 想い人を頭に描き、フロドは己の身体を強く抱きしめた。
「漆黒の闇に魂を貫かれる気分だ。悲しみは海より深く、苦しみは空より高い、私の魂を癒してくれるのはあのひとしかおらぬ」
 失意の底に打ちのめされたフロドは、床に両手をついてこう叫んだ。
「ふざけるな、こんな運命など受け入れてたまるものか!」
 床を力いっぱい殴りつけた。それも一度ではなく、何度も何度も激しく殴りつけた。
 フロドの拳から紅い血が滲み出して来た。
「この右手が真っ赤な血で穢れようと、私はアリアを奪い返してみせるぞ!」
 血に染まる右手を眺めながら、フロドは決意を固めた。
 立ち上がったフロドはマントを翻して歩き出そうとした。しかし、聖堂の中に入って来るフロドと同じ法衣を身に纏う人物を確認して足を止めた。
 聖堂に入って来たのはフロドの友人の女性であるティータであった。
 ティータはフロドと同じく、ドロウ侯爵配下の近衛魔導士団に所属する魔導士でひとりである。
「探しましたよフロド。ドロウ侯爵殿がお呼びになっていますよ」
「ありがとうティータ。だが、侯爵様のもとへは行かなぬ」
「どうしてですか……まさか!?」
 ティータはフロドとアリアに仲を知っている。そして、フロドとは長い付き合いだ。だからすぐに気がついてしまった。
「まさか、あなたは侯爵様のことを裏切る気なのか!? そうなのかフロド、答えるのだフロド!」
 ややあってフロドは深くうなずいた。
「わかってくれティータ。侯爵殿を裏切るのは本意ではないが、しかし、そうせねばならぬのだ」
「アリアだな、あの女のせいだな!」
「あの女などと呼ぶな……あのひとは私の大切なひとだ」
 言葉よりも目で激しく訴えるフロドを見て、ティータは落ち着きを取り戻した。
「すまなかったフロド。しかし、明日の式の邪魔でもしようものなら、あなたは殺されてしまうのですよ」
「覚悟のうえだ」
「……そうですか。では、私もあなたに協力しましょう」
「それは本当かティータ!?」
 相手の目を見据えてティータはうなずいた。
「あなたと私は男女を超越した親友です。あなたが死を覚悟するのならば、私もこの命を架けましょう」
 真剣な眼差しのティータの目を見つめながら、フロドは首をゆっくりと横に振った。
「気持ちだけで十分だ。ティータまで巻き込むわけにはいかない。君は将来有望な魔導士だ……君の輝かしい誉れ高き未来を潰すわけにはいかない」
「それはフロドとて同じではないか!? フロドは私なのよりも未来のある者だ!」
「私の未来は君が思う場所とは違う場所にあるのだよ」
 ――遠い眼差し。フロドは未来に何を見ているのか?
「フロド……やはり駄目だ。今からでは遅くはない、考え直してくれぬのか?」
「それはできない。私はアリアをこの手で奪い返すと決めたのだ」
「どうしてだ、どうしてできぬのだ! 輝かしい未来を捨てて、なぜ彼女を得ようとするか私には理解できない」
「すまない、私の我が侭でしかない。だが、未来を決めるのは私自信だ」
 その先の未来がどうなろうと、自分の未来は自分で決める。だが、ティータには理解に苦しむことだった。
 フロドは人一倍努力をして、仲間たちからも慕われ、将来を有望視されていた。それをなぜ全て捨ててまで愛する女性を得ようとするのか? そこまでしてあの女性は得る価値のあるものなのか。いろいろな想いが交差するティータは唇を噛み締めた。
「なぜだ、なぜ侯爵殿を裏切る!」
「それ以上言うなティータ。命を架けてくれると言ったのは嘘だったのか?」
「嘘ではない! でも、違うのだ、何もかも違うのだ……」
 押し黙るティータ。フロドはマントを翻した。
「私は行く」
「待てフロド!」
「止めるなティータ」
 ティータに背を向けこの場を立ち去ろうとしたフロドの腹が真っ赤に染まった。
「く……くはっ!」
 フロドの腹から突き出る輝くナイフ。フロドの背中にくっ付くようにティータが立っている。その手にはしっかりとナイフが握り締められていた。
 血に染まる自分の腹を見てフロドは叫んだ。
「謀ったのかのティータ!」
 ナイフが抜かれ、フロドは床に膝をついた。
 哀しい瞳でティータはフロドを見下ろしていた。
「済まないフロド、私はドロウ侯爵殿には逆らえんのだ。侯爵殿のご子息を敵に回した君は多くの者から命を狙われている。ならば、せめて私の手で……」
「最も信頼していた友人に裏切られるとは……はははっ、何たることだ。やはり神はおらぬな」
 自分の腹を押さえたフロドは、その手にべっとりとついた血を眺めた。
「くっ、ははは……涙が出て来る。『せめて私の手で……』か……」
 フロドは腹を抱えながらゆっくりと立ち上がり、そして歩きはじめた。
「待てフロド!」
「私はもう誰にも止められぬ。私は私の道を行かせてもらう」
 フロドの手から魔導で作り出したエネルギーの塊が放たれ、ティータの身体を大きく後方に吹き飛ばした。
「すまないなティータ」
 消え行くフロドに手を伸ばすティータ。だが、その手は届かない。
「ま、待て……フロド……くっ」
 床に倒れたままティータはフロドを追うことができなかった。
 しばらくして自らの力で立ち上がったティータ。そんな彼女の前にある人物が姿を現した。
「フロドはどうなったのだ?」
 ティータの前に現れたのはメサイだった。
「申し訳ございません、しくじりました」
「そうか、フロドは逃げたのだな……」
 メサイは床に残る血の跡を見た。
「これはあ奴の血か?」
「左様でございます」
「なるほど、これだけの血……重症だな」
「左様でございます」
 ティータの手にはまだ血のついたナイフが握られていた。
「そのナイフには毒は盛ってあったのか?」
「いいえ」
 バシン! という音がしてティータは頬を押さえながらよろめいた。
「毒でも盛ってあれば褒美でもくれてやろうと思ったが、この役立たずが!」
「申し訳ございません」
 メサイと視線を合わせず、ティータは抑揚のない声で言った。その態度がメサイの怒りを逆なでする。
「何だその態度は? 私に反抗でもするつもりなのか?」
 次の瞬間、ティータは二度に渡って平手打ちを受けた。だが、ティータは何も言わず歯を食いしばり、なおもメサイと視線を合わそうとしなかった。
 メサイは再びティータを打とうと構えたが、その手は天高く上げられたところで止まった。
「何も言わず打たれるだけの者を打っても何の面白みもない。少しはやり返して来てはどうなのだ!」
「…………」
「クソッ……つまらぬ」
 メサイはそれ以上何も言わず聖堂を立ち去ってしまった。
 友裏切り独りとなったティータの目からは涙が溢れていた。
「やはり、私にはできなかった。フロドを一思いに殺すことができなかった。フロドの肉をこの短剣で突き刺す瞬間、その瞬間に私の心に迷いが生じた。だが、今は迷いなど存在しない……済まない友人よ」
 ティータは一思いに自らの喉元を短剣で刺した。
 崩れ落ちるティータ。床が紅く染まっていった。
 
 友人の裏切りにあったフロドは失意の底から這い上がれぬまま、婚姻式当日に薔薇の聖堂に向かった。
 薔薇の聖堂にいたのは、アリアとメサイだけだった。他の者はどうしたのか、婚姻式はどうしたのか?
「待っていたぞフロド!」
「婚姻式はどうしたのだ、ここで行われるはずではなかったのか!?」
「婚姻式は明日に延期だ。今日ここで貴様との決着をつけるためにな!」
「何っ!?」
 今日ここで婚姻式が行われるという情報はティータから聞いたものだった。そう、全てはメサイの罠だったのだ。
「またしても私はティータに謀られただな」
 ティータという名を聞いてメサイの口元が歪んだ。
「貴様は知らぬかもしれんが、あのティータという女は昨日自害したぞ」
「何だと!? ティータが、そんなはずがない! ティータが死ぬなど!」
 信じられぬことだった。まさか、あのティータが自害しようとは。フロドの心はより失意の底に沈んでしまった。
「死んだ友人を想うのか……貴様を裏切った友人を!」
「彼女には彼女の生き方があったのだ。私を刺したとしても、彼女は永遠に私の友人だった」
「刺されても友人だと? 戯言をぬかすな、あの女にそのような価値はない」
 はっきりと言い切ったメサイをフロドは鋭い目つきで睨みつけた。
「ティータを愚弄するつもりか!」
「あの女には愚弄する価値もない」
「貴様!」
 今にもメサイに飛び掛かりそうなフロドを悲痛な叫び声が止める
「お止めになってフロド様、メサイ様もですわ。もう止してくださいませ」
 メサイはアリアの腕を引き、自分の後ろへ強引に移動させた。
「これは私とあ奴の問題だ」
「いいえ、違いますわ。わたくしの問題でもあります」
 前へ出ようとするアリアを再び自分の後ろに押し込めるメサイ。アリアには運命を選ぶ権利はないのだ。
「これは私とあ奴の問題だと言うているだろ、おまえは下がっていろ!」
「わたくしは人形ではないのですよ、私には魂があるのです!」
「うるさい黙っていろ!」
「……なっ!?」
 アリアの身体が動かない。上半身は動くのに、足だけが上がらないのだ。
「私とあ奴の話が付くまで、おまえの足は石と化した。そこで全てを見届けておれ」
 メサイは何かを考えながらフロドの前を行ったり来たりした。
「私とフロド……どう決着を付けるべきか」
「魔導力を競おうではないか!」
「いや、アリアに近くで決着を見届けてもらいたい。魔導で私らが戦えばアリアに危険が及ぶだろう。それにこの聖堂で明日婚姻式をするのでな、建物を壊されては困る」
「では、こうしよう」
 どこからか輝く剣を取り出したフロド。彼は剣による決闘を申し込んだ。
「昔ながらの剣による決闘を申し込む。アカデミーでの貴公の魔導剣士として腕前は聞いていた。いつか手合わせを願いたかったが、アカデミーでは叶わなかった。そこで、ここでお手合わせ願いたい」
「面白い」
 メサイの手にも輝く剣が握られた。
「実に面白い、私も貴様の名は聞いていた。魔導の腕も剣の腕も随一だと言われていたのを覚えている」
 二人の男は愛するものために剣を取った。その二人の男性を見つめるアリア。
「お止めになって、わたくしはお二人が争うのを見たくありません」
 アリアの言葉は二人に届くことはなかった。
 剣を構えた二人は互いを見据え、目を離すことなくある程度の間合いを取りながら攻撃の機会を窺っている。
 先に仕掛けたのはメサイだった。
「うおりゃーっ!」
 地面を蹴り上げ切っ先を天高く振り上げるメサイ。そして、剣は光を放ちながら大きく振り下げられた。
 相手の剣戟を受け止め、フロドは相手を睨みつけた。
 交わる剣と剣を挟み、互いの闘志が燃え上がる。
 素早い動きでメサイの足が振り上げられた。不意を突かれたフロドは相手の蹴りを受け止めることができず、腹に蹴りを受けて床に転がった。
 この機会をメサイは見逃さない。
 剣は床を激しく叩き砕き破片がフロドの顔にかかる。振り下ろされた剣を辛うじて避けていなければフロドは即死していたに違いない。
 狂喜の形相で迫り来るメサイの剣を、フロドは己の剣を下から掬い上げるようにして弾いた。メサイの剣が宙を回転しながら舞う。
 床に落ちる剣。フロドは一刀を放つべくメサイに襲い掛かる。
 だが、メサイの手が煌きを放った瞬間。メサイの剣が糸で引っ張られたように手元に戻ったではないか!?
 フロドの剣戟を不敵な笑みで受けるメサイ。彼は魔導を使ったのだ。
「使わぬとは言っていない」
「なるほど、ならば私はアリアに危害が及ばぬよう、それだけを考えて戦おう」
 二人は同時に相手の剣を突き放し後ろに飛び退いて間合いを取った。
 メサイが風を巻きながら走る。そして、剣を横に振る。
 しゃがんだフロドの頭上を剣が掠め、フロドはそのまま回し蹴りを放った。
 足を取られて転ぶかと思われたメサイだが、彼はバク宙を決めつつフロドと間合いを取った。
 メサイは剣の切っ先をフロドの顔に向けて、声高らかに叫んだ。
「貴様は生まれながらのエリートだ。私は貴様の幻影ばかりを追って生きて来た。貴様は優秀で私は出来損ない――だから私は貴様に嫉妬した!」
「私は天才ではない。私は家族を崩壊させた者どもを怨んだ――怨念が私の力」
「怨念か――では、私は憎悪の力だ」
 なんと!? メサイは剣を捨てた。
「やはり、魔導で戦おう、古の血を引きし魔導士よ!」
「望むところだ」
 フロドもまた剣を捨てた。
 二人の間に煌きが放たれ床に落ちた。二人が手を動かすたびに一筋の閃光が走り、そして、消える。
 フロドがメサイとの距離を縮めて手を横に振るった。メサイの真横を光の筋が通り抜けた。
 次の瞬間、メサイの姿が一瞬にしてフロドの視界から消えた。
 殺気を感じた時には遅かった。
 フロドは背中を激しく蹴られ、地面に手を付きながら倒れてしまった。
 床に落ちていた剣を拾い上げたメサイはフロドに止めを刺すべく、剣を突き刺そうとした。だが、その時だった。
「止めてっ!」
 床に倒れるフロドに覆い被さるようにアリアが!
 剣はアリアの身体を通り抜け、そして、引き戻された。
「な、なぜだ……なぜこ奴を庇った……!?」
 メサイの手から剣が滑り落ちた。
 起き上がりつつフロドはメサイの落とした剣を拾い、大きく剣を振り上げた。
「なぜだーっ!」
 叫びをあげたメサイは、ゆっくりと背中から床に倒れて動かなくなった。――フロドが勝利を治めたのだ。だが、アリアは……。
 フロドは床に倒れたアリアを抱き起こし、涙を流した
「どうして……どうしてだ……」
「フロド様……やはりわたくしと貴方様は……引き裂かれる運命なのですね」
 アリアの声はか細く息も荒い。もう、助からない。
「何を言うておるのだ。私とアリアは永遠に一緒だ」
「貴方の言うとおり……神はいませんでした……ありがとうフロド……」
 アリアの身体から力が抜け、フロドは叫び声をあげた。
「アリアーっ!」
 愛するひとの亡骸を抱きかかえ、フロドは泣いた。これまでで最も激しく泣いた。
「はははっ……神はいないか……ならば悪魔に魂を売ろうではないか!」
 辺りが急に暗くなり、外では雷鳴が轟いた。
 フロドはアリアの亡骸を床に丁重に寝かせ、大きく手を広げた。
 狂気の形相をするフロドは何かに取り憑かれたように、ぶつぶつと小声で何かを言いはじめた。
「……アズ……我は時の……契約……者……悠久……を経て……禁じられた契約……署名…開か……魔……扉!」
 呪文を唱え終わると同時に雷鳴が再び轟いた。
 床に横たわるアリアの顔と自分の顔を重ね合わせ、ゆっくりと顔を離したフロドはアリアを抱きかかえた。
 ゆっくりと目を開けるアリア。だが、その瞳は虚ろだった。
「ふろ……ど……サマ」
 無表情なままアリアはぎこちなくそう言った。
「そうだ、私はフロドだ。貴女は私によって永久を与えられた」
 アリアは何の反応も示さず、宙を虚ろな目をして見ている。いや、宙に顔を向けているだけだ。今の彼女には感情が全く感じられない。
「アリア、貴女は夢の中で私と生きるのだ。……永遠に一緒にいよう、アリア」
 フロドはアリアを地面に立たせ、彼女の手を取りワルツを踊りはじめた。
 ぎこちない人形のように踊らされるアリア。無表情なその瞳からは大粒の涙が零れ落ちる。
 無表情なアリアを見て笑いかけるフロド。彼の瞳には以前のアリアが映っている。
 薔薇の聖堂で踊り続ける二人の男女――。
 ワルツを踊る二人は、覚めることのない夢を見る。――ここは二人の夢見る都。

 静寂がホールを包み込んだ。――拍手が全くないのだ。
 しばらくして誰かが拍手をはじめると、それに合わせて他の者も拍手をはじめ、ホールは拍手喝采となった。
 舞台の幕が開かれ、舞台に並ぶ役者たちが頭を下げて、再び幕が下ろされる。余計な挨拶はしなかった。演技を見てもらえればそれが全てなのだ。
 ホールの電気が点けられ、席を立った客たちが帰って行く。その音を聞きながら舞台裏では部員たちが歓喜の声をあげていた。
「爆裂サイコー! 最後の最後で最高の舞台ににゃったねぇ」
 撫子は翔子の両手を取りながらぴゅんぴょん飛び跳ねている。
 隼人が音響室から急いで舞台裏に走って来た。
「みなさんお疲れさまでした。本当にすばらしい演技だったと思います。特に愁斗くんと麗慈くんのアドリブには驚かせられましたね」
 アドリブとはラストでフロドとメサイが対決シーンのことだ。あそこはほとんど二人のアドリブだった。
 二人がアドリブをはじめて一番驚いて焦ったのは翔子だった。
「本当にあのシーンはよかったよ。でも、麗慈くんが剣を投げ捨てた時はどうしようと思っちゃった。どこで私が飛び出したらいいのか冷や冷やしちゃったよ」
 麗慈は笑いながら手を頭の後ろにやった。
「ごめんごめん、気づいたら俺、いつの間に剣を捨てててさ。愁斗が俺に合わせてくれてなきゃ舞台が滅茶苦茶になるとこだったよな」
 あのシーンは二人の息がぴったりで演技とは思えないほどのできだった。
 ぴょんぴょん跳ねながら撫子は麗慈の前まで行った。
「あのシーンってさぁ、二人で打ち合わせとかしてたのぉ?」
「いや、全部本当にアドリブだよ」
 全部本当にアドリブだった? その言葉に突っかかる麻那。
「あの光る筋は何なの? 二人の間で飛び交ってた光る筋のことよ、あれもアドリブだったって言うの?」
 麗慈は人差し指を唇に当てて言った。
「あれは俺と愁斗との間の企業秘密です」
 完全にはぐらかされてしまった。あのシーンを見ていた全ての人が思っていた。その光の筋は何なのだろうかと?
 辺りを見回す翔子。彼女はある人を探していた。
「あの、愁斗くんが見当たらないんですけど?」
 一同ははっとした顔をした。舞台が終わったばかりで興奮していて、愁斗がいないことに気づいていなかったのだ。そんな中でひとりだけは愁斗がいないことに最初から気がついていた。
「愁斗なら怪我が悪化したからって言って、さっさと楽屋に行ったわよ」
 愁斗は舞台の幕が下りてすぐに楽屋に向かおうとした。その途中で麻那に会って、そのことを告げて楽屋に向かって行ったのだった。
 そして、いつものように隼人が手を叩いた。
「はい、ではみなさんお疲れ様でした。後の時間は星稜祭を楽しんで来てください。それから、星稜祭が終わった後に楽屋で打ち上げをしますから、他に用がない人は楽屋に集合してくださいね」
 女子三人組が舞台裏を出て行き、麗慈もすぐに出て行ってしまった。
 翔子は急に撫子に腕を引っ張られて無理やり走らされた。
「な、何するのいきなり!?」
「早く衣装着替えて楽しい星稜祭を満喫しよー、お~!」
 拳を上げて自分の意気込みを現す撫子を見て、翔子はため息をつく。

「もう、そんなに急がなくても時間は十分あるから」
「今日は最終日にゃんだから、ばば~んとエンジョイしにゃきゃ」
「昨日も私を連れまわしたのに、今日も連れまわす気?」
 撫子は女子の更衣室に割り当てられ楽屋のドアを開けながら答えた。
「アタシと一緒じゃイヤイヤにゃのぉ?」
「そうじゃないけど」
 楽屋では麻衣子と沙織が着替えをしており、役を演じてない久美がその二人の着替えに付き合っていた。
 翔子は畳んであった自分の服を取り、着替えをはじめた。横では撫子も着替えをはじめている。
「翔子さあ、さっきの『そうじゃないけど』ってどういう意味? もしかして!?」
 撫子が声をあげるので、翔子はブラウスのボタンに手を掛けながら、動きを止めて相手の顔を見てしまった。
「もしかして何よ」
「愁斗クンと星稜祭ツアー御一行様ラブラブデートするつもり?」
「別にそんなこと考えてない!」
 頬を膨らませて顔を赤くした翔子は中断していた着替えを再びはじめた。
 二人の会話を聞いていた沙織が大きな声を出した。
「わぁ、撫子センパイ言いこといいますねぇ~。沙織、愁斗センパイのことデートに誘ってみようかなぁ」
 この発言をわざと聞き流しているフリをして、着替えをしている翔子のわき腹に、撫子が肘を押し付けてグリグリする。
「いいにょかにゃ~ん、沙織ちゃんあんにゃこと言ってますぜ親分」
「何のこと? 誰が愁斗くんをデートに誘おうと個人の自由でしょ」
 翔子の発言を聞いて、撫子のひとり芝居がはじまった。
「じゃあ、アタシも愁斗クンのことデートに誘っちゃお。そんで、公演の後はテンション上がっちゃってるから、デートの最後にはあ~んなことやこ~んな展開が待ってて、きゃあ愁斗クン何するの!? がはは、いいじゃねえか、きゃあ止めて愁斗クぅん、ああ~んってなことがあるかもよ」
 少し調子に乗り過ぎた撫子を翔子が睨んだ。
「ダメ、愁斗くんで変な想像しないで!」
「じゃあ、デートの申し込みしたらぁ?」
 意地悪く言う撫子に対して、翔子は下を向いた。
「したくないもん」
 着替えの終わった沙織が翔子の覗き込むように立った。
「翔子センパイがしないなら、沙織が先に愁斗センパイに申し込みして来ま~す」
 走ろうとした沙織の背中の服を久美が引っ張った。
「あんたは今から私たちと高等部吹奏楽部の演奏聴きに行くんでしょうが。まさか、私と麻衣子との約束破って私利私欲に走る気じゃないでしょうね?」
 据わった目をしている久美に見られた沙織は、身体を縮めて泣きそうな顔をした。
「ごめんなさ~い、沙織が悪かったですぅ~」
「わかればよろしい。じゃあ、麻衣子も行きましょう。先輩お疲れ様」
 沙織の服を引っ張ったまま久美は楽屋を出て行き、麻衣子もその後を急いで追おうとする。
「先輩お疲れ様でした。後ほど打ち上げで――」
 麻衣子も頭を下げて出て行った。
 翔子と撫子の着替えも終わった。
「うんじゃ、アタシらも星稜祭の屋台めぐりで食い倒れしに行こう!」
「……あのさ、やっぱり、あの、その」
「ふふ~ん、翔子ちゃんの言いたいことは、この美少女名探偵撫子ちゃんにはお見通しだよ。アタシは勝手に食い倒れて来るから、うんじゃ、さらばにゃ~ん!」
 全てお見通しの撫子は笑顔で走りながら楽屋を出て行った。
 残された翔子は小さく呟く。
「そんなに見通されやすいのかな、私?」
 これから翔子は愁斗のところに行こうとしているのだ。だが、デートの申し込みに行くのではなく、愁斗の怪我の具合が心配で見に行くのだ。
 楽屋を出た翔子は少し考える。愁斗はどこにいるのか?
 楽屋に戻ったと麻那は言っていたが、男子更衣室に割り当てられた楽屋か、みんなが待機に使っていた大部屋の楽屋なのかわからない。
 翔子は男子更衣室に割り当てられた楽屋には入れないので、とりあえず大部屋の楽屋に向かうことにした。
 大部屋に愁斗はいた。その他にも隼人と麻那もいる。
 隼人は部屋の隅に座って読書中で、麻那は昼寝中、愁斗は拳に巻いた包帯を取り替えていた。
 翔子は包帯を替えている愁斗の横に座った。
「愁斗くん、手大丈夫だった?」
 愁斗の右の拳には出血の痕があった。
 公演中に床を殴りつけるシーンで、少し本気になって殴ってしまい本当に血が出てしまったのだ。舞台裏に引っ込んだ時にすぐに包帯を巻いて応急処置をして、アリアとメサイの婚姻式に乗り込むシーンでは包帯を巻いて舞台に上がっていた。
「大したことはないから平気だよ。あんなことで怪我するんてバカみたいだよね」
「そんなことないよ、それだけ演技に入り込んでたってことだよ」
 心から翔子は愁斗を尊敬していた。
 この学校に来て初めて演劇をやったと言う愁斗であったが、その才能は素晴らしく、今では演劇部の誇る優秀な部員のひとりだ。
「役を演じてる時は本当にその役になっちゃうんだよね」
「それからさ、あの愁斗くんのアドリブもよかったよ。本当に血が出ちゃった時にアドリブやったでしょ?」
 目を輝かせながら自分を見る翔子の顔を見て愁斗は微笑んだ。
「この右手が真っ赤な血で穢れようと、私はアリアを奪い返してみせるぞ! ってセリフのことだよね。自然と出て来ちゃったんだ」
「本当は『この手で必ずやアリアを奪い返してみせるぞ!』だよね。あ、ごめん包帯巻いてる最中だったね。止めちゃってごめん」
「いいよ別に」
 再び包帯を巻き始めようとする愁斗の手を翔子は掴んで言った。
「私が巻いてあげる」
 包帯を巻こうとしている愁斗の手を自分の手で止める行為、それは翔子にとって少し冒険的な行為でもあった。何気なく愁斗手を触れる――そんなことでも翔子にはすごくドキドキした。
 一生懸命愁斗の拳に包帯を巻いていく翔子。ふと顔を上げると愁斗と目が合った。だが、すぐに目線を外してしまった。
「これでよし……かな?」
 疑問系の声を発した。翔子の巻いた包帯は少し不恰好で肉団子みたいになってしまっている。
「ごめん、失敗しちゃった」
「いいよ、ありがと瀬名さん」
 この演劇部内で唯一翔子のことを苗字で呼ぶ愁斗。翔子は本当は下の名前で呼んでもらいたかった。
「あ、あの愁斗くん?」
「何?」
「やっぱりいいや……」
 〝翔子〟って呼んで、と本当は言いたかった。でも、言えなかった。
「言ってみてよ」
「あのね、し、〝翔子〟って呼んで欲しい……かも」
 愁斗は微笑んだ。
「呼び捨てがいい? それとも〝さん〟とか〝ちゃん〟とか?」
「……呼びやすいようでいいよ」
「じゃあ、翔子ね。でも、僕からも条件」
「何?」
「僕のことも呼び捨てで呼んでくれたら、これからも下の名前で呼んであげるよ」
「……意地悪ぅ」
 寝ていたはずの麻那がむくっと起き上がった。
「あんたらウザイ。あなたたちさ、それでも付き合ってないの?」
 翔子と愁斗の動きが同時に止まった。
「あたしが許すから、二人ともお付き合いなさい。これは命令よ」
「あああ、あの、麻那先輩が許すとか命令とか、そういう問題じゃなくって、愁斗くんだって私となんか付き合いたくないと思うし、その、迷惑っていうか……」
 大層な慌てぶりの翔子を見て麻那は笑った。
「ホントわかりやす過ぎね翔子は。今の発言って愁斗クン好きですって言ってるようなもんじゃない。しかも、当の本人は今のあたしの発言でようやく気づいた感じだし」
 本を読んでいた隼人が、本を下にさげて顔を出し、麻那に忠告した。
「また口が滑ってるよ麻那」
「だって、この二人見てるとムズムズして来るのよ。いつまで経っても進展しないで平行線。せっかくキスシーンまでやった仲なんだから、このまま付き合いなさい」
「麻那先輩! 本当にキスしたわけじゃないですよ。頬が少し触れただけです!」
 頬が少し触れただけでも翔子にしてみれば心臓が飛び出しそうな体験だった。
 麻那の攻撃はまだまだ続いた。
「最後のシーンで本当にキスしちゃえばよかったのに、聞いてるの愁斗?」
「あ、はい……」
 苦笑いを浮かべている愁斗。だいぶ困っているのが表情から窺える。
「あんたも翔子こと好きなんでしょ?」
「麻那また僕に叩かれたいのか?」
 隼人の鋼の声が楽屋内に響いた。
 翔子は唖然とした。いつあの部長が麻那のことを叩いたのだろうか?
 やや間があった。そして、最初に愁斗が口を開いた。
「僕も瀬名さんのことが好きだよ」
 翔子の身体の中で銅鑼が鳴った。全身が痺れて動けない。
「え、あ、え、そそ、えぇっ!?」
 動揺する翔子を見る麻那と隼人も動揺している。
 麻那はガッツポーズを決めた。
「よっし! あたしがバシンと言ったから愁斗は翔子に告白したのよ」
 たぶんそうだったのだろう。麻那がこの場であれだけ言ったから愁斗はここで告白したに違いない。
 動きがロボットのようになってしまっている翔子は精一杯こう言った。
「あ、あの、愁斗くん腕大丈夫?」
 どうしてこんなことを聞いてしまったのか翔子にもわからない。
 翔子の的外れなことに愁斗は笑って答えくれた。
「だいぶ赤く腫れ上がってたよ」
「あ、そう……なんだ」
 二人の展開を間じかで見守る麻那はイライラしていた。
「翔子、そんなこと聞いてないで、あんたも自分の気持ちを伝えなさいよ。あんたの場合はバレバレだけど、はっきりとはまだ伝え――」
 麻那の口は隼人の手によって塞がれた。
「麻那の出番はここまで。僕らは別の場所に移動するね。それと、これはここの鍵」
 隼人はポケットから代々演劇部に受け継がれているという鍵を出して、翔子手のひらの上に置いた。
 隼人に続いて麻那も楽屋の鍵を出して、こちらは愁斗の手のひらの上に置いた。
「あんたら戸締まりよろしくねそれから、翔子が今日から部長で愁斗が副部長ね」
 それだけ言って、麻那は微笑みながら隼人と楽屋を後にした。
 愁斗と二人っきりにされてしまった翔子は困ってしまった。
「あの愁斗くん?」
「何?」
「あのさ、折れた腕固定しなくいいの?」
 どうしても翔子には言えない。また別の話をしてしまった。
「あ、そうだね」
「私が手伝ってあげる」
 翔子は布を取って愁斗の首の後ろで結んであげた。
「ありがと」
 微笑みかけられる翔子。余計に言えなくなった。
 沈黙が流れ、翔子は気まずい気持ちになる。
 翔子は大きく息を吐いて、大きく息を吸って、ついに言った。
「愁斗くんのことが好きです」
「僕も瀬名さんのことが好きだよ」
「うん」
 顔を真っ赤にして翔子はうつむいた。そんな翔子を見て、愁斗は翔子の手を取って立ち上がった。
「僕らも星稜祭を楽しみに行こう」
「うん!」
 二人は楽屋を駆け出して行った。

 手を繋ぎながら翔子と愁斗は楽屋の戸締まりをして行ったそして、最後の楽屋の戸締まりをして、これから星稜祭の会場に行こうとしたその時、翔子が急に愁斗と手を離した
「やっぱりダメ。愁斗くんと普段並んで歩いてるだけで痛い視線浴びるのに、手繋いでるとこ見られたら絶対暗殺されちゃうよ」
「おもしろいこというね」
「おもしろくないよ、マジで言ってるんだよ」
 愁斗は少し考えた後、微笑んだ。
「じゃあ僕がいつでも瀬名さんのこと守ってあげるから」
「えっ!?」
「どんな時でも僕は瀬名さんのことを守る」
「……うん」
 二人は星稜祭の会場へ歩き出した。
 星稜祭の会場は星稜大学付属・高等部の教室内と校庭が基本で、翔子たちは教室の会場に向かった。
 ホールは中等部と高等部を繋いでいるのですぐに行くことができる。
 廊下は行き交う人々でごった返し、時折食べ物の匂いが空気に運ばれて来る。
「愁斗くん、お昼どうしようか?」
 時計は十二時を過ぎている。昼食を摂るにはちょうどいい時間帯だった。
「瀬名さんは何か食べたいものある?」
「三組の友達にクレープ食べに来てって言われてるけど、クレープはお昼ご飯にはならないよね」
「あっ、ほら」
 愁斗の指差す方向にはヤキソバと飲み物を売り歩いている人がいた。
「あれでいいと思うんだけど、翔子ちゃんはどう?」
「うん、お昼はヤキソバにしよう」
 愁斗がヤキソバ売りを呼び止めて注文をした。
「ヤキソバ二つと、翔子ちゃんは何飲む?」
「私はウーロン茶でいいよ」
「じゃあ、ヤキソバとウーロン茶を二つずつ」
 ヤキソバ売りは二人いて、ひとりがヤキソバを持ち、もうひとりが飲み物の入ったクーラーボックスを担いでいる。そのふたりはさきほどから交互に翔子の顔をちらちら見ている。
 ヤキソバ売りだけではなかった。先ほどから生徒たちにこそこそ見られている。
 ヤキソバと飲み物を受け取った愁斗がお金を払い終えると、翔子は愁斗の腕を引っ張って大急ぎで歩きはじめた。
「どうしたの瀬名さん」
「やっぱり楽屋で食べよう、それがいいよ、うん」
 翔子は愁斗の腕を強く掴んで、そのまま楽屋まで早足で戻った。
 楽屋の中に入り、翔子は一息つく。
「はぁ、やっぱりみんなに見られた。中には殺気出てるひともいたよぉ」
「ごめん、僕のせいだよね」
「ううん、別にそうじゃないんだけど。明日になったら変な噂が学校中に蔓延してそうで恐い」
 愁斗のカッコよさは隣の高等部にも知られているほどで、愁斗が女子生徒と二人で何かをしていると、愁斗のファンでなくとも誰もがついつい見てしまう。誰もが愁斗のすることに興味を持ってつい見てしまうのだ。
 困った顔をしながら愁斗はヤキソバと飲み物を翔子に渡して適当な場所に座った。
「二人で生徒のいるところ歩けないね」
「うん」
 翔子は少し不安になった。学校内に二人でいるところを見られると変な噂が立ち、下手をするとイジメに遭うかもしれないと翔子は思った。愁斗は自分のことを守ると言ってくれたけど、イジメに遭ったらきっと黙っていると思う。
 ヤキソバの入れ物に掛かっている輪ゴムを外し、憂鬱そうなため息をつく翔子は、そのまま愁斗の顔を見上げた。
「せっかくの星稜祭なのにね」
「じゃあ、今度の休日デートしようか?」
「えっ、ホントに!?」
 割り箸をパチンと割り、憂鬱そうな顔をしていた翔子の顔が一気に華やいだ。それを見て愁斗がニッコリと微笑む。
「よかった、元気になってくれて」
「本気で言ったの? 撫子っぽく言うと爆マジで!」
「思いつきで言ったから、どこに行くとか決めてないけどね」
「だったら愁斗くんの家に行きたい」
 やや間があった。ヤキソバを無言で食べる愁斗の表情が一瞬曇ったように翔子には見えた。
「僕のうちに……か」
「ダ、ダメならいいよ、うん」
 本当は愁斗の家や愁斗の部屋を見てみたいという気持ちが翔子にはあったが、撫子の例が急に頭に浮かんで自宅訪問の夢はあきらめた。家庭には家庭の事情がいろいろあって家に人を呼びたくない場合もあるに違いない。
 少し考え込んだ様子の愁斗が口を開いた。
「いいよ、大丈夫だと思う」
「本当に大丈夫なの、家族の人に迷惑とかじゃないよね?」
 〝家族〟という言葉を聞いた瞬間、少しだが愁斗は翔子から目線を外した。一瞬だったためと何気ない行動なので翔子は気づいていない。
「大丈夫だよ、でも実はさ……」
 翔子はもう一度撫子のことを思い出してしまった。『実はさ……』の後に何が来るのか少しドキドキする。
「実はね、僕さ、ひとり……いや、二人暮らしなんだよね」
 少し引っかかる言い方だった。父や母のどちらか一方と二人で暮らしているのならば、その名が出るだろう。だが、愁斗は〝二人〟という濁した言い方をした。
 翔子は聞いていいべきか困ってしまった。二人暮らしと聞いた翔子の頭の中では、二人暮し=同棲=恋人という変換が行われていた
「あ、あのさ、二人暮らしって、その、いい、言わないで、聞いちゃいけないような気がするから」
「別に聞かれたらマズイにはマズイかもしれないけど、瀬名さんには知ってもらってた方がいいかな」
「私に知ってもらった方がいいこと?」
「僕さ、母と父がいないんだ」
 翔子はショックを受けた。何で自分の周りには家庭事情に問題がある人多いのだろうかと。麗慈は両親が離婚したらしく、撫子は独り暮らしをしていた。
 愁斗の話は続く。
「母は僕が小さい頃に死んだ。父は数年前にどこかに消えてしまった。それで今は姉と住んでるんだけど、その姉に瀬名さんを会わせたくないんだよね」
 話を聞き終えた翔子は、愁斗の両親のことにはあえて触れず、姉のことについて尋ねてみた。
「どんなお姉さんなの? やっぱり愁斗くんのお姉さんだから、すっごい美人なんだろうね」
「たしかに美人だと思うけど、僕とは似てないし、歳も十歳以上離れてるんだ。性格は少し麻那先輩に似てるかも……」
 失笑を浮かべる愁斗になおも翔子は聞き続けた。
「麻那先輩に似てるって、キツイこと言うとか、人に当り散らすとか?」
「両方合ってるね。あと、自己中心的で我が侭で人を人だと思ってないとか、自分が世界のトップで、自分が命令すれば誰でも言うことを聞くと思ってる」
 翔子の中で自分が会ってきた最低な人々の性格が統合され、あからさまに嫌な顔をしてしまってつい口が滑ってしまった。
「その人サイテーな人間だね。……あっ、ごめん愁斗くんのお姉さんだった」
「いいよ、たしかに最低な人間だから」
「愁斗くんとお姉さんって、もしかして仲悪い?」
「別に、この世界で一番いい姉だよ。僕はあのひとのこと好きだよ」
 さっきと言ってることがまるで違う。それにもう一つ、翔子には引っかかる愁斗のある言い方があったがそのことには触れないことにした。
 ヤキソバを食べ終わり、ウーロン茶を飲み干した翔子はお腹を擦った。
「まだ、ちょっと足りない感じ。デザート食べたいな」
 翔子は急に立ち上がり楽屋を出て行こうとしている。
「私、クレープ買って来るね。愁斗くんのも適当に買って来る」
 バタンとドアが閉められた。
 楽屋を出た翔子は食後の運動というわけではないが、走ってクレープを買いに向かっていた。愁斗のもとへ早く戻りたいのだ。
 クレープを売っている二年三組はグラウンドに店がある。飲食関係の店のほとんどが外にある。
 この学校は外靴のまま校内に入ることができるので、靴を履き替える手間もなく生徒は外と校内の出入りが楽にできる。
 翔子は外に向かう途中の廊下である人物を発見した。
「……須藤くん?」
 この時まですっかり忘れていた。翔子は公演前にも行方不明になっているはずの須藤を見ていた。
 須藤は行方不明ということになっているが、そのことはまだ生徒の一部にしか知らされていない。
 クレープのことなど忘れて翔子は須藤を追った。
「きゃっ!」
 須藤のことばかりに気を取られていた翔子は何者かにぶつかってしまった。
 また絡まれるのではないかと冷や冷やしながら翔子が顔を上げると、そこにいたのは森下先生であった。
「瀬名、前見て歩きなさい!」
「ごめんなさい、急いでたので」
「以後気をつけるようになさい」
「……そうだ、先生、須藤くん見ました」
「ああ、彼ね、そのことなら知ってるわ。今日突然学校に来たらしくって、担任の先生が直接須藤と話したらしいわ。でも……」
 森下先生は今日に曇った表情をして口を止めた。
「あの、どうしたんですか?」
「実はね、ここだけの話なんだけど、様子が少し可笑しかったらしいのよね。話を聞いても虚ろな目をして首を動かして答えるだけ。それで須藤のことはひとまず解放して、その担任の山本先生が自宅に連絡したらしんだけど、電話に出た母親は『ありがとうございました』ってひとこと言って電話切っちゃったらしいのよね。それでね――」
「ごめんなさい、急ぐんで」
 この後も森下先生の話はだいぶ続きそうだったので、翔子は森下先生に頭を下げて再び須藤のことを追いかけた。
 須藤の姿はない。見失ってしまった。
 近くに封鎖されている階段があった。今日は学校の二階までを使い、三階から上は立ち入り禁止になっている。
 翔子は周りを確認して急いで上の階に駆け上がった須藤が上にいるとは限らないが、もしかしたらという気持ちが翔子に階段を上らせたのだ。
 三階まで上ったところで翔子は上の階を見上げた。
 須藤がいた。須藤が翔子のことを踊り場から見下ろしている。その瞳は虚ろだ。
「須藤くん、あ、待って!」
 須藤は翔子に背を向けて階段を上って行ってしまった。翔子は急いで追いかける。
 四階に辿り着き、翔子はまた上の階を見た。やはり須藤が自分のことを見ている。追いかけて来いということなのか?
 四階の上は屋上である。普段は鍵がかかっているはずで誰も入れない。
 ドアを開け閉めする音が翔子の耳に届いた。
 屋上に続くドアの前に立った翔子。この先に須藤がいるのは間違いない。
 いろいろな不安を思いつつ、翔子はドアを開けた。
 屋上は少し風が吹いている。そして、コンクリートの上に立つ二人の人物。翔子を抜かして二人だ。
「撫子!?」
 翔子が見た二人組、それは須藤と撫子だった。
「ごめん翔子」
 いきなり謝りだす撫子。その表情はいつもの撫子とは違った。
 翔子はすぐに撫子たちのもとに駆け寄った。
「何で、どうして、撫子がいるの? 須藤くんと……わからない、どうしていきなり謝るの?」
「ごめん翔子、翔子のことは本当に親友だと思ってた。でもね、ごっこ遊びも今日でお終いなんだ」
 翔子は気づかなかったかもしれないが、撫子は『にゃんだ』とは言わずに『なんだ』と言った。『な』を『にゃ』といつものように言わなかった。
「どうしたの撫子、何かいつもと違う。わからないけど、いつもと違うよ」
「だから〝ごっこ遊び〟は終わりなの。そう、須藤クンにももう用ないね」
 こう撫子が言い終わったとたんに、須藤の身体がまるで糸を切られた人形のようにバタンと地面に崩れ落ちた。
「どうしたの須藤くん!?」
 突然のことに驚く翔子であったが、撫子は驚く素振りも見せずに静かに言った。
「もうとっくに死んでたから、今からじゃどうにもならないよ」
「死んでた? そんなはずないよ、さっきまで歩いてたもん」
 翔子は須藤の首に触れた。肌が冷たく脈がない。
「えっ!? 何で、何でなの!?」
 取り乱しはじめた翔子。須藤は撫子の言うとおり死んでいた。だが、なぜ須藤は先ほどまで動いていたのか?
「翔子、須藤くんのことはほっといてアタシの話聞いて」
「ほっとくってどうして? 死んでるんだよ、誰か呼ばなきゃ!」
「いいからアタシの話聞いて!」
 撫子が怒鳴ったことにより翔子は撫子の言葉に耳を傾けた。
「アタシね、さっきも言ったけど翔子のこと親友だと思ってるし、大好きだったよ。でもね、そんな友人を裏切らなきゃいけないんだ」
「裏切るって、どうして?」
「もう、ひとりの方の命令でさ……。この学校に転校して来たのもあることをするためだったし、演劇部に入ったのもそうだった。でもね、演劇楽しかったし、翔子と友達になったのも楽しかったから、うれしかったよ翔子と友達になれて」
「わからないよ撫子の言ってること!」
 撫子の瞳が少し潤んでいることに翔子は気づいた。それにもうひとつ、撫子の瞳がいつもと違う。いつもは茶色い瞳をしているのに、今は人間の瞳じゃない。
 撫子の瞳はまるで猫の瞳のようだった。
「あ、それからアタシ、実は人間じゃないんだ」
「だから、さっきから何言ってるの!」
「ちゃんとした両親もいないし、ずっと研究所で育ったんだ。はじめてできた友達が翔子でね、友達ってこういうものなんだって思った。アタシさ、猫のDNAを埋め込まれた人間なんだよね……だから普通の人間とは言えないんだよ」
 撫子が猫のDNAを埋め込まれた人間。撫子が言うと冗談としか思えないが、彼女は普段決して見せることのない真剣な表情をしていた。
「わかんない、わかんない、わかんない! 言ってことわかんないって。私は撫子が猫だろうが宇宙人だろうが別にかまわない、ずっと親友だよ!」
「だから、ごめん裏切らなきゃいけない……ごめん翔子。友人裏切るなんて、まるであの劇でアタシが演じた役回りと同じになっちゃたね」
 撫子の腕が素早く動くの確認したところで、翔子の意識はプツリと切れた。
 地面に倒れる翔子の姿を見下ろしながら、撫子は何度も繰り返しある言葉を繰り返していた。
「ごめん、ごめん、ごめん……」
 撫子の涙が翔子の制服を濡らした。

 楽屋で愁斗が翔子帰りを待っていると、突然ドアが開かれた。
 部屋の中に入って来たのは翔子ではなかった。猫のきぐるみを着た誰かだ。
 警戒心を抱く愁斗にきぐるみを着た何者かは、一通の手紙を手渡した。そして、何も言わず部屋を後にして行った。
 手紙の内容を見た愁斗の表情が険しくなる。
「なるほど、人質か……」
 鋭く尖った氷のような声。
「恐らく、これが私とあいつとの最終決戦だな」
 すぐに外に出れば手紙を渡しに来た奴に追いつくかもしれない。だが愁斗はそれをしなかった。きぐるみの人物を捕まえて話を聞いても無駄なことはわかっている。
「本人ではなかった――傀儡だった」
 愁斗はこの部屋に置いてあった自分のバッグを開けようとした。このバッグにはご丁寧にも南京錠が付けてある。

 南京錠を外し、バッグを開けた愁斗は、その中からあるモノを取り出した。

 紫苑は町外れにある、いつかの廃工場に来ていた。
 工場の入り口には制服姿のある人物が立っていた。そこで紫苑を出迎えたのは撫子だった。
「早かったね。何時間もここで待たされたらどーしよーかと思ってたところだよぉ」
 いつもどおりの明るい撫子に、紫苑は冷たい声で言った。
「やはり、貴様も組織の人間だったか」
 この言葉に撫子はため息を洩らしながらうなずいた。
「やっぱりバレてたかぁ。でもどうしてわかったの?」
「魔導の匂いがした」
 紫苑の口調が冷たいのに対して、撫子はわざとらしく驚いて言った。
「さっすがは古の血を引く魔導士だねぇ。でもさぁ、じゃあどうしてアタシを殺さにゃかったの?」
「貴様は私を観察し組織に報告をしていただけで、組織の直接的な動きはなかった。あいつが現れてからも同様。私は貴様らの様子を窺っていた。それに貴様は翔子の大切なひとだった――」
 そして、紫苑は断言した。
「だが、今ならば殺せる」
 鋼の響きを聞いてしまった撫子は、これ以上ないため息をついて肩を落とした。紫苑は何があろうと自分を生かしてはくれないだろうと撫子は悟ったのだ。
「やっぱり、アタシ殺されちゃうんだぁ~。はぁ、仕方にゃいね……翔子のこと裏切っちゃったし」
 紫苑の手が動いた。
「……死して償え」
「ちょっと待った、タイムタイム。このゲームにはあいつの決めたルールがあるから、アタシと戦う前にちゃんと聞いて」
 地面に力を失った糸が落ち、紫苑は動きを止めた。
「じゃあ話しま~す。これはあいつのゲームで、この建物の中に入ったら外に出れにゃくて、え~とそんでもって、無理やり出ようとした時点で囚われの姫が殺されちゃうし、アナタが死んでも姫は殺される。それから、この中はこれを機に組織が野外で実験した異世界とかいうとこに直結してるの」
「なるほど、組織は異世界を創り出せる力を手に入れたのか」
「さあ、アタシはよく知らにゃいけど、そうにゃんじゃにゃいの。でね、アタシを倒して中に入ると、中では組織の実験サンプルやらいろんにゃのがいるらしいの。で、最後はあいつを倒して囚われの姫を救出すればゲームクリアだってさ。わかったぁ?」
「組織は私たちを使って実験をするつもりか。おもしろい、最高のデータ組織にくれてやろう」
「はぁ、じゃあアタシと勝負だね……爆裂憂鬱ぅ」
 うつむく撫子に容赦ない紫苑の妖糸が繰り出される。シュッという音が撫子の耳元で聴こえた。撫子が後少し妖糸に気がつくのが遅れていたら、殺られていた。
「反則だよ、卑怯者! 不意打ちにゃんて聞いてにゃいよぉ~」
 シュッとまた空気を切る音が聴こえた。撫子は辛うじて妖糸を避けた。
「実践に反則はない。目を離していると首が飛ぶぞ」
「か弱いプリティ撫子ちゃんに暴力を振るうにゃんて、男として爆裂サイテー!」
 速攻を決める撫子に紫苑の妖糸が襲い掛かる。だが、その妖糸は撫子の特別な爪によっていとも簡単に切断されてしまった。
 撫子の鋭い爪が紫苑に振り下ろされた。
 茶色いぼろ布が少しさかれたが紫苑は無傷だ。そして、紫苑は撫子の攻撃と同時に自らも攻撃を仕掛けていた。
 妖糸が撫子が着る制服の胸部を切り裂いた。
「爆エッチだぞ! これ着てにゃかったら胸が見えてた……じゃなくって、切り裂かれてたよぉ~!」
 裂かれた撫子の制服の下から黒いスーツが覗いていた。
「このスーツは組織が開発した、うあっ!」
 妖糸が撫子の横を掠めた。
「卑怯者! アタシが説明してるんだから攻撃しにゃいでよ」
「そんな説明いらん。私の目的は貴様を葬ることだけだ」
「そんにゃこと言わにゃいで、説明聞いてちょ~だいよ。アタシ緊張すると口が止まらにゃくにゃるんだよぉ~」
 撫子はしゃべりながら紫苑の妖糸を軽やかな身のこなしで避けていた。
「あのね、このスーツは伸縮自在で爆裂丈夫にゃんだよ。その妖糸も完璧じゃにゃいけど防げるって聞かされた」
「戦いに集中しないと首が飛ぶぞ」
 妖糸が撫子の首を掠り一筋の血が滲み出る。首を飛ばすまではいかなかったが、やられた本人は冷たい汗をかいていた。
「爆裂死ぬかと思ったぁ~」
 撫子はほぼ全身に特殊スーツを着ている。肌を露出している部分は首から上と手首から先のみだ。つまり紫苑はそこを狙えばいい。
 煌く妖糸が乾いた地面を抉った。砕け散った地面の塊が砂埃とともに周囲に散乱し、細かい破片が撫子を襲う。
 思わず撫子は腕を顔の前にやり、一瞬だが目をつぶってしまった。紫苑の目的はまさにそれだった。
 目をつぶった一瞬の隙を愁斗は見逃さなかった。
 唸る妖糸が撫子の首を狙う。だが、撫子はすぐにそれに気が付き、アクロバティックなバク転を二度三度として後ろに下がった。
「マジで殺す気!?」
 真剣な勝負で相手に『マジで殺す気!?』と聞く者はそうはいないだろう。
 撫子は焦っていた。自分では紫苑に勝てないことを知っているのだ。だからおしゃべりをすることによって自分を落ち着かせ、それとともに紫苑の気を少しでも散らせようとしていた。
「プリティーボンバーでちょ~爆裂カワイイ撫子サマを殺したら、動物愛護団体に屠られるぞぉ~!」
 紫苑は撫子の言葉など耳に入っていないようで、独り言を呟いた。
「魔導力が高まったようだ――これで使える」
 妖糸が煌きを放ち、宙に奇怪な魔方陣が描かれた。紫苑は召喚をする気だ。
 駿足の撫子が地面を蹴り上げ高くジャンプした。そして、何と宙に描かれた魔方陣を自慢の爪で切り裂いてしまったではないか!?
「爆焦ったぁ~、召喚にゃんてされたら爆マジで殺されるよ」
 紫苑は腕を下ろし戦闘態勢を崩していた。魔方陣を破られたのはこれがはじめてだったのだ。
「まさか魔方陣が切り裂かれるとは……。なるほど、召喚を行う前に魔方陣を無効とすれば、召喚は破られるわけか、いい勉強になった」
「家庭教師が必要ににゃったら撫子先生を呼んでねん」
 呆然と立ち尽くしていた紫苑の右腕に鋭い爪が一撃を喰らわした。
 切り裂かれた腕には猫に引っ掻かれたような――それよりも大きな傷ができていた。
「クリティカルヒット! 撫子ちゃん会心の一撃で爆ハッピー」
 抉られてしまった紫苑の右腕は重症であった。それに紫苑は左腕も怪我をしている。今までは右手で操る妖糸で〝無理やり〟左腕を動かしていたが、その余裕もなくなった。
 酷使する紫苑の右手が動いた。
 煌く妖糸が空間を裂いた。そう、紫苑は〈闇〉を呼ぶつもりなのだ。
 空間の傷が唸り、蛇がシュウシュウと鳴くように空気を吸い込む。そして、大きな裂け目ができあがった。
 〈闇〉が慟哭する。耳を覆いたくなるほどに苦しく、何かが救いを求めている。
「行け!」
 命じられた〈闇〉は泣きながら撫子に襲い掛かった。
「にゃ~ん! にゃにするのエッチ、巻きつかにゃいで!」
 〈闇〉は撫子の身体を舐め回すように絡みつき、腕を拘束し、脚を拘束し、這うようにして胴を拘束した。
「ヤダヤダヤダよぉ~! こんにゃのに呑み込まれるにゃんて、『爆美人女子中学生撫子ちゃん、愛に死す(最終回)』って感じぃ!」
 〈闇〉に身体を包まれ、顔だけが残った撫子の表情が急に真剣になった。
「翔子のことよろしくね。絶対救ってあげるんだよ……さらばにゃ~ん」
 悲しそうな声を最後に撫子は完全に〈闇〉に呑み込まれ、裂けた空間に引きずられようとしていた。
「待て!」
 紫苑が叫び、妖糸が激しく煌いた。
 〈闇〉の塊が剥げ落ち中から撫子が現れた。だが、撫子の身体の大部分はまだ〈闇〉に包まれている。
 〈闇〉激しく叫んだ。この時、信じられぬことが起きた。
 撫子の身体を覆っていた〈闇〉が自らの意思で剥がれ落ち、愁斗に向かって触手を伸ばしたのだ。
 唸る〈闇〉は愁斗の左腕に絡みついた。
「傀儡師が〈闇〉に喰われては冗談にもならん」
 紫苑は開かれている空間の裂け目を妖糸によって縫合した。無理やり〈扉〉を閉めることによって、新たな〈闇〉が出て来るのを防いだ。
 次はこの世に残った〈闇〉の処理だ。
「この魔導は自信がないが、やるしかあるまい」
 妖糸が煌き空間を裂いた。〈闇〉を再び呼ぶのか――否。
 空間の傷がフルートのような音を発し、外に柔らかな光と空気を吹き出した。
 光色の裂け目から笑い声が聴こえる。賛美歌が聴こえる。詩が聴こえる。息吹が聴こえる。どれも輝きに満ちている。
 〈光〉が微笑んだ。次の瞬間〈審判〉が下された。
 純粋すぎる〈光〉が〈闇〉を優しく包み込み浄化させた。そして、〈光〉は歌を歌いながら還っていった。
「どうやら成功したようだな。私が〈光〉を呼び出し、浄化されずに済んだのは神の奇跡というやつか」
 〈光〉を呼び出すことは紫苑にとって一か八かの賭けだった。もしかしたら、〈闇〉に近い紫苑自信が〈光〉に浄化されることもあり得たのだ。
 横たわり気を失っている撫子を見ようともせず、紫苑は廃工場の中へ入って行った。

 組織の創り出した異世界の中には、天を突く巨塔が立っていた。
「ゲームと言っていたが、RPGのつもりか?」
 古ぼけた塔には蔓が生い茂り、辺りには霧が立ち込めている。亡霊でも出そうな雰囲気である。
 遠くからは何かの鳴き声が聴こえてくる。そして、バイオリンの物悲しい曲がどこからか流れてくる。
 肌寒い風が吹き、世界は淀んでいた。
 紫苑の前には塔へ続く廊下の入り口が大きな口を開けている。その先は見通すことができない。
 廊下の中は薄暗く、蝋燭の淡い光によって長い廊下が照らされていた。
 廊下の先にある硬く閉ざされた扉――その左右には、今にも動き出しそうな甲冑が飾ってある。
 ガタンと何かが動いたような音がした。その音には鋼の響きが混じっていた。
「なるほど〝動き出しそう〟ではなく、〝動く〟のか」
 二体の甲冑が手に持ったハルベルトを振り上げて襲い掛かって来た。
 ハルベルトとは長柄の一種で、長さ約三メートル・重さ約三キロ。槍状の頭部に斧のような形をした広い刃が付き、その反対側には小さな鉤状の突起が付いているという複雑な形状をした武器で、これひとつで切る・突く・引っ掛ける・鉤爪で叩くといった四種類の攻撃が可能だ。
 ビュンと風を切り、広い刃が横に振られたのを紫苑は高く飛翔して避けた。だが、二体目の甲冑が紫苑を突こうとする。
 紫苑の身体を突く筈のハルベルトが突如甲冑のグローブから擦り抜けた。妖糸の成した業だ。
 紫苑は地面に優美に着地し、それと同時に奪われたハルベルトの先端が一体目の甲冑を突いた。突かれた甲冑は音を立てて崩れ、ただの甲冑と化して床にパーツごとに四散してしまった。
 操られているハルベルトが二体目の甲冑に襲い掛かる。と思いきや、宙に浮いていたハルベルトは地面に音を立てて落ち、紫苑は高い天井に妖糸を引っ掛けて上空に舞い上がった。
 〝一体目〟の甲冑が紫苑を掴もうとしたが、大きく空を抱きしめた。上空に紫苑が舞い上がらなければ捕まれていたに違いない。
「生きていたのか……いや、この表現は正しくはないな。核を壊さなくてはいけないようだ」
 音もなく妖糸を伝い下に降りた紫苑は呟いた。
「視えた」
 妖糸がうねうねと動き、二体の甲冑の内側に忍び込み何かを突いた。
 突如動きを止めた甲冑。――そして激しい音を立てながら床に崩れた。
 上を見る紫苑。紫苑は上空を飛ぶ生物に目をやっていた。
 天井には一匹の蝙蝠が飛んでいた。その口には何かを咥えている。
 蝙蝠は銀色に輝く何かを紫苑に向かって落とした。
 落下して来た何かを手で掴み、手を広げてそれが何か紫苑は確認した。
「鍵か」
 紫苑の手のひらの上にある物――それは銀色の鍵だった。
 前方には甲冑が守っていた扉がある。どうやらあの甲冑を倒すことにそこにある扉の鍵が手に入る仕組みになっていたらしい。
 扉の前に立ち、紫苑は鍵穴に先ほど手に入れた銀色の鍵を差し込んだ。鍵はぴったりと合い、鍵の開く音が聴こえた。
 自動ドアのように勝手に開かれたドアの先には大広間があり、上へと続く螺旋階段があった。どうやら塔の内部に入ったようだ。
  大広間の中心には斧を構えた怪物が腰を据えて立っている。
 怪物の全長は約三メートルで、手には身の丈よりの高い斧を持っている。鎧を着ているが顔は牡牛だ。そう、神話に出てくるミノタウロスに似ているかもしれない。
 ミノタウロスとはギリシア神話に出てくる怪物の名で、上半身が牡牛で下半身が人間というのが一般的には通っているが、実際は少し違う。顔は人間であったが潰れていて怪物のようで、目は赤く、巨大な反った歯、頭からは二本の角を生やし、身体は短くて茶色い毛で覆われていると言うのがラビュリントスにいた怪物だ。
 だが、紫苑の目の前にいるのは一般的に知られたミノタウロスのようで、顔はまさに牡牛である。
 この生物が組織の実験により生み出されたことが紫苑にはすぐにわかった。
 魔導の世界では科学よりも早くキメラ生物の実験を行っていた。
 キメラとはギリシア神話のキマイラ――ライオンの頭、ヤギの胴、ヘビの尾を有し、口から火を吐く獣が語源であり、二つ以上の異なる遺伝子型を有する生物体というのが一般的な説明で、突然変異や接ぎ木や肝移植などによって生じる。
 だが、ここで言うキメラとはキマイラのような生物を人工的に創り出すことで、ここにいるミノタウロスもその一種だろう。
 〝組織〟とは古の魔導士の知識を受け継ぐ者たちが組織したグループで、今は主に魔導と科学の融合を試みている。
 ミノタウロスは雄叫びをあげた。紫苑を見てだいぶ興奮しているようだ。そのような暗示でもかけてあったのだろうか。
「さて、階段は見える場所にあるが、こいつを倒さねば上へは行けぬのか?」
 思案をしている間に敵は目の前まで迫っていた。考えている必要もなかった。次の瞬間にはミノタウロスの首は中を舞っていた。
 だが、紫苑はこう叫んだ。
「まだか!」
 首のないミノタウロスは斧を力強く振りかぶった。
 空気を切りながら襲い掛かって来る斧をジャンプして避けた紫苑は空中から妖糸を放った。
 妖糸は鎧によって弾かれた。
 地面に着地した紫苑はぼやいた。
「まったく困ったものだ、組織の作るものには私の妖糸がことごとく通用しない」
 ミノタウロスは今はなき頭以外の場所は鎧に包まれている。これでは紫苑には歯が立たない。
 紫苑は螺旋階段に向けて疾走した。ミノタウロスは頭がないためか、少し動くのに戸惑っているように見える。
 螺旋階段を上ろうとした紫苑であったが、何かを感じ立ち止まり、何も見えない空を手で叩いた。すると何か硬いものがあることがわかった。
「……壁か」
 そこには見えない壁が立ち塞がっていた。やはりここにいる敵を倒さなければ上には行けないらしい。
 だが、紫苑は妖糸を見えない壁に向かって振るった。すると硝子でも砕けたような音がした。
 上へ行こうとした紫苑であったが、どこからか聞こえるアナウンスを耳にして足を止めた。
《警告します、警告します、ゲームのルールを破った場合、囚われの姫は瞬時に殺されることになります――警告します、警告します――》
「……裏技はなしか」
 紫苑の後ろからは、首のないミノタウロスが斧を振り回しながら走って来ていた。
 妖糸の効かぬ相手をどうやって倒すのか? 敵は首を落とされても死なない怪物だ。
 ここは召喚を使うしかないだろう。だが、今の紫苑には召喚は不可能だった。召喚はいつでも使える万能な魔導ではないのだ。
 頭上に振り下ろされようとしている斧の柄を紫苑は切断した。斧刃が地面に落ちる。これで敵は武器を失ったことになる。
 武器を失ったミノタウロスだが、武器がないわけではない。ミノタウロスの大きな拳は十分相手を殺傷できる武器だ。
 振り子のように大きく振られる左右の拳はまるで鉄球のようで、一撃でも受けたら身体の骨が砕けるだろう。
 敵の攻撃は簡単にかわすことができるが、紫苑の頭には名案が浮かばない。どうやったらこの怪物を倒せるのか?
 妖糸が動き出した。ミノタウロスがいる方向とはまるで違う方向へ妖糸は伸びる。
 ぐんぐん伸びた妖糸はある物を掴んで猛スピードで戻って来た。
 ガツンという音とともにミノタウロスの身体が前につんのめった。ミノタウロスの背中には折れた斧の刃が突き刺さっていた。
 自分の妖糸が効かぬとも、組織の開発した斧ならば組織の開発した鎧を貫けるのではないか――『目には目を刃には刃を』旧約聖書の言葉だ。紫苑の予想は的中した。
 斧は見事に鎧を貫き、内側の怪物を傷つけた。だが、喜ぶのはまだ早い。この怪物は首を落とされても死なない怪物だ。
 ミノタウロスは背中に手を回して自ら斧を抜くと、その斧を紫苑に目掛けて激しく投げつけた。
 斧は紫苑に避けられ地面を砕きながらホップした。
 妖糸が煌き、蛇のようにミノタウロスの身体に巻きつき拘束した。
 身動きが取れずに雄叫びをあげながら暴れ回るミノタウロスは、ついにはバランスを崩して床に大きな音を立てて倒れてしまった。
《ミノタウロスは戦闘不能と見なし、上の階へ行くことを許可します》
 アナウンスの声が終了すると、ミノタウロスは突如地面に開かれた大穴の中へ落ちていってしまった。
 螺旋階段を上りはじめた紫苑であったが、螺旋階段はまさに天まで続いていそうな長さがあり、上へはいつ着くとも知れない。
 階段を轟かせながら何かが転がって来た。巨大な丸岩が上から転がって来る。
《階段を転がって来る岩を、螺旋階段の途中にある壁の隙間に入ってやり過ごしてください。岩を破壊して前に進もうとするとルール違反になります》
「手間のかかることをやらせるものだ」
 人ひとりが入れるくらいの壁の隙間が紫苑の目に入った。岩は目の前まで迫っているのそこに入ってやり過ごすしかない。
 壁の隙間に入った紫苑の横を岩が通り過ぎて行った。
 螺旋階段に戻り再び走り出す紫苑の耳に岩が転がる音が届いた。
「一度ではないのか」
 紫苑は仕方なくと行った感じで壁の隙間に身体を滑り込ませた。
 岩が横を通り過ぎて行くのを確認して、紫苑は全速力で階段を駆け上った。次の岩が可能性は大いにあり得る。次が来る前に上へ行きたい。
 天井が見えて来たところで壁の横から岩が出て来るのが見えた。
 紫苑はこれが最後だと思い壁の隙間を探した。だが、壁の隙間は前方にはなかった。あったのは後ろだ。
 急いで来た道を戻り壁の隙間に入った。岩は紫苑の横を通過したが、紫苑は隙間から出なかった。
 岩が出て来るタイミングに合わせてこの壁の隙間から出口までの距離を走るとなると、それは紫苑の全速力でギリギリの時間で通り抜けることが可能だった。まるでそう設定してあるようだ。
 次の岩が壁の隙間を通過した瞬間に紫苑は全速力で走るとともに、妖糸を出口に伸ばした。
 出口に引っ掛けられた妖糸は、走る紫苑の身体を宙に浮かせて、走る速さの二倍以上のスピードで出口まで運んだ。
 楽々と出口を抜けた紫苑は呟いた。
「念には念をだ。どうやらルールとやらには違反していなかったらしい」
 出口の先は屋上ではなかったようだ。上に続く螺旋階段があり、一階と同じ構造になっている。
 大広間に敵の姿はない。
《部屋の中央にあるサークルに入ってください。終了の合図前にサークルを出るとルール違反になります》
 部屋の中央には直径一メートルの円が描かれていた。
 紫苑がその中に入ると、前方の石畳の床が一枚宙に浮いた。
 三〇センチ四方にカットされた厚さ五センチのブロック状の石が、ぐるぐると回転して紫苑に向かって来た。
 妖糸が煌きブロックを粉砕する。だが、紫苑は背中に打撃を受けて思わずサークル内から出そうになってしまった。
 紫苑が辺りを見回すと、ブロックが四方を取り囲うように自分に向かって飛んで来ている。
 妖糸が躍り飛び、次々にブロックを粉砕していく。そして、紫苑は床を妖糸で砕きはじめた。ブロックが宙に浮く前に破壊するつもりなのだ。
 警告のアナウンスは流れなかった。
 ブロックの破片が地面に散乱し、終了のアナウンスが入った。
《このテストを終了します》
 やはりこの塔で紫苑に課せられることは、全て組織がデータを取るための実験というわけらしい。
 紫苑は螺旋階段を駆け上った。今度は岩が転がって来ることはなかった。その代わりに上からは腐臭を辺りに撒き散らすゾンビ兵たちが下りて来た。
 妖糸が煌き、一瞬にしてゾンビたちは細切れにされた。
 上に行こうとする紫苑の足に切断されたゾンビの腕を掴みかかろうとしたが、紫苑によって蹴飛ばされ螺旋階段の下へと落ちて行った。
 出口は近い。次こそ最上階か?

 塔の屋上は強風が吹き荒れ、その中で麗慈は形のいい唇をニヤリと崩しながら立っていた。
「思ったよりは早かったけど、それでも俺をイライラさせるだけの時間はかかったな。もう少しで人質を殺しちまうとこだった」
 麗慈の後ろには十字架に磔にされた翔子の姿があった。首が垂れ下がり、気を失っているらしいことが見て伺える。
「貴様のお遊びに付き合っていられるほど私は暇ではないのでな、一気に形を付けてやろう」
 妖糸が煌き空に魔方陣を描いた。
「させるか!」
 空に描かれた魔方陣に妖糸を放つ麗慈。してやったりと歪んだ笑みを浮かべた麗慈だったか、紫苑の仮面の奥からこんな声が聴こえて来た。
「囮だ」
「何だと!?」
 二つ目の魔方陣がいつの間にか地面に描かれているではないか!
 石畳に描かれた紋様に深奥で〈それ〉が呻き声をあげた。
 〈それ〉の呻き声によって、地震が起きたように地面が激しく揺れ、石巨人がこの世に創り出された。
 体長五メートルを超える石巨人の拳がブゥォンと横殴りに振られた。
 麗慈がしゃがみ込み攻撃をかわすと、石巨人はもう一方の拳で麗慈のことを叩き潰そうとした。
 後ろに飛び退き敵の攻撃をかわした麗慈の視線の先には、粉々に砕かれ穴の開いた石の床があった。
「ククク、攻撃力は大したもんだがな、そんな亀みてえなのろまヤロウの攻撃なんて喰らわねえんだよ!」
「では、私の攻撃はどうだ」
 前にいる石巨人に気を取られていた麗慈であったが、背後から迫る殺気に気がつきすぐさまそれをかわした。
 妖糸が麗慈の髪先を少し切断した。
「おまえの攻撃も簡単に避けられるぜ、ククク……。それに前に殺り合った時よか攻撃のスピードが落ちてるんじゃねか?」
「貴様を殺せればそれでいい」
「殺れるもんなら殺ってみな」
 石巨人の身体が麗慈の妖糸によって細切れにされ、バラバラと地面に落ちた。
 天高く飛び退きながら麗慈は妖糸を放った。紫苑の妖糸がそれを切断する。
 疾走する紫苑。麗慈の真後ろには霧に深い空が広がっている。足の踏み場がないということだ。
 互いの妖糸が煌き地面にはらりと舞い落ちた。
 一瞬のうちに麗慈は紫苑の右手をしっかりと掴んでいた。紫苑の左手は動かない。紫苑の妖糸は完全に封じられた。
「傀儡師が糸を使えなきゃ、ただの人間だ」
 紫苑の腕が大きく引っ張られ、遠心力によって宙に浮いた紫苑の身体は遥か底へと落ちていった。
 塔の底に落とされては紫苑とて生きてはいないだろう。
 つまらなそうな顔をする零慈の身体が少し振動した。
 麗慈が振り向いたその先にはあの石巨人が立っていた。
「何でまだ生きてやがるんだ!」
 横殴りに振られた石巨人の腕を妖糸が切断した。だが、地面に落ちた腕は磁石が引き寄せられるようにもとの位置に戻ってしまった。
「クソっ、不死身かこのバカ巨人は!」
 この石巨人には核があり、それを壊さなくては砂になろうとも復活する。
 妖糸の舞。鞭のようにしなり、槍のように突き、剣のように切り裂く。
「クククククククク……ククク……」
 嗤いながら麗慈は石巨人を細切れにしていく。
 床に散乱する石の破片の中に麗慈は妖しく輝く石を見つけ出した。
「み~つけた……ククク、手間取らせやがって」
「その言葉を返してやろう」
 塔の下から舞い戻った紫苑は、そのまま天高く飛翔して麗慈の頭上向かって降下して来た。
「ククク、生きてたのか」
「外れた肩を戻すのに手間取った」
 二人の間に閃光は走り、血潮が床を彩った。
 斬られたのは麗慈だった。彼の右手首が地面に転がっている。
「クククククククク……この痛みは快感だな。ククク……俺の負けだ、さっさとヤッちゃってくれよ」
 麗慈は紫苑とは違い、右手からしか妖糸を出すことができない。つまり右手首を切断された麗慈は負けを認めるしかなかった。
 床に座り込んだ麗慈を見下ろす紫苑。仮面の奥で紫苑は何を思っているのか?
「早くヤれって言っんだろ、待たせるなよ俺様を!」
「貴様は私にとってもはや無害だ。殺す価値もない」
「ククククク……俺に慈悲なんてかけやがって、後で後悔するぞ」
 紫苑は何も言わず麗慈に背を向けて歩き出した。
 磔にされている翔子の前に立った紫苑は、彼女を解放しようと腕に巻かれている縄に手をかけようとしたその時だった。
「……だ、誰あなた!? えっ、ここ……?」
「名は紫苑だ、君を助けに来た」
 仮面の奥で聞こえる声には優しさが含まれていた。
「私、どうして……、あそこに倒れてるの麗慈くん!? あれ血なのもしかして!?」
 混乱する翔子は全く事情が呑み込めていなかった。それについて言葉少なげに紫苑が説明をする。
「あいつが君を攫えと撫子に命じた。それ以上は何も聞くな……君はこれからもと生活に戻るのだから、私たちのことには関わらない方がいい」
 紫苑は片方の手を解放して、もう片方の手に巻かれた縄を外そうとしていた時、翔子がこんなことを口にした。
「愁斗くんでしょ、愁斗くんだよねその声?」
「…………」
 無言のまま紫苑の動きが止まった。
「愁斗くんに決まってる、私が愁斗くんと他人の声を聞き間違えるなんてないもん!」
「…………」
 紫苑はやはり何も言わなかった。
「その仮面取って顔見せてよ!」
 何も答えず紫苑が再び縄を解こうとした時、後ろから殺気を感じ、それと同時に翔子が叫んでいた。
「避けて!」
 反射的に紫苑は避けた。だが、それが不幸を呼び、紫苑は悲劇を目の当たりにして動けなくなってしまった。
 翔子の腹が剣で突き刺され、剣の切っ先は十字の磔台を貫いていた。
 剣を持った男は人間ではなかった。タキシードで正装し、背中には巨大な蝙蝠の翼が生えていた。
 剣を翔子の腹から抜いた男は笑った。その唇の間からは異常に尖った犬歯は妖しく覗いていた。
「申し訳ありません、後ろにいたレディーを刺してしまった」
「……貴様」
 全身を打ち振るえさせ、紫苑は憎しみのこもった声でそう呟いた。
「貴様よくも……」
「だから謝ったじゃありませんか。それにレディーひとりを刺されたくらいでムキにならないでください。私はあなたに大切な研究施設を壊されたのですから、それに比べれば他愛もないことですよ」
「他愛ないだと……万死に値する、死して罪を償うがいい!」
 凄まじいスピードで妖糸が放たれた。が、しかし、妖糸は剣に糸も簡単に断ち切られてしまった。
「こんな弱い相手に私の研究施設が壊されたとは、ああ嘆かわしい」
「まだだ、貴様には地獄の苦しみを与えて殺さねば気が済まん」
「ほざくだけほざきなさい、悠久なる時を生きる高貴な貴族である私に殺され前に」
 次々と妖糸は剣に切断され、華麗なるまでの剣戯を前にして紫苑が一方的に押されている。
 紫苑は圧倒的に不利であった。この数日の間に起きた戦いによって傷つき、耐え難い苦痛の中で戦っていた。
 いつの間にか紫苑は妖糸を出すほんの僅かな時間も与えられずに、相手の剣を避けるのに精一杯になっていた。
 切っ先が紫苑の顔の横を突いた。
「避けてばかりでは、私は倒せませんよ」
「くっ」
 仮面の奥で紫苑は唇を噛み締めた。
 傀儡さえあれば少しはましな戦いができたかもしれないと紫苑は悔やんだ。
 自らだけの力では負けると悟った時、紫苑の目に床で倒れている麗慈が映った。
 麗慈に向かって走り出した紫苑を見て翼人はあざけ笑った。
「勝てないと悟って逃げる気ですか?」
 紫苑は相手の言葉を無視して麗慈の横に跪き、床に転がっていた手首を拾い上げた。
 床に寝そべっていた麗慈の目がゆっくりと開かれた。
「うるせえと思ったら誰かとヤリ合ってんのかよ」
「縫合する」
 麗慈の言葉など無視して紫苑は話を続ける。
「この手を傷口に押し付けていろ、縫合してやる」
 何も言わずに麗慈は受け取った手首を切断面に付けた。すると紫苑が目にも留まらぬ速さで縫合手術をした。もちろん普通の縫合手術ではなく魔導による手術である。
「ククク……恩を売る気か……売られてやろうじゃねえか!」
 麗慈の右腕を動き妖糸を放った。
 針と化し紫苑の顔を貫こうとする鋭い妖糸。紫苑は避けなかった。
 麗慈が不適に嗤う。
 妖糸は紫苑の顔を掠め、後ろにいた翼人の肩を貫いた。
 肩を押さえ顔を歪ませる翼人。
「麗慈、貴様は組織を裏切る気か!」
「ククッ、俺は最初から組織になんて忠義なんて誓ってねえよ。俺はあいつらの使い捨ての駒だからな」
 立ち上がった麗慈に紫苑は小さく耳打ちした。
「時間を稼げ、奴に地獄の苦しみを与える準備をする」
「ククク、それは楽しみだ」
 今度は麗慈が翼人の相手をする。
「ククッ、ヴァンパイアが相手なら不足はないな――血祭りにあげて殺るぜ」
「下等な人間風情がよく言う。血祭りになるのは裏切り者の貴様だ!」
 切っ先を麗慈に向けてヴァンパイアが突進して来た。
「天然記念物級の絶滅寸前ヤロウがよく言うな……ククッ」
「ほぜけ!」
 向かって来る切っ先を辛うじて避けた感じの麗慈はすぐに妖糸を放った。
 相手との距離は三〇センチもなかったが、それでも妖糸はかわされ、それどころか剣による猛襲を仕掛けて来た。
 麗慈の妖糸を放つスピードが遅い。それは仕方あるまい。魔導によって縫合されたとはいえ、完治したわけではないのだから。
 妖糸が煌きヴァンパイアの腕一本をどうにか切断することに成功した。
「クソっ、腕じゃ意味がねえ」
 麗慈の言葉どおり、腕では意味がないのだ。ヴァンパイアはその格や力にもよるが、腕くらいならすぐに再生できる。
「残念でしたね、我ら夜の眷属の伝説はあなたもご存知でしょう?」
 床に転がったヴァンパイアの腕は急速に干からびていき、塵と化してこの場に吹き荒れる強い風によって跡形もなく消えた。その代わりの腕がヴァンパイアの切断された傷から生えた。
「私の場合は他の仲間より再生能力が高い――科学の力というやつですね」
「首を刎ねられても再生するのか?」
「ええ、私の場合は、心臓を潰されない限りは不死身ですね。それからもうひとつ、十字架を嫌うというのは嘘ですよ、全てヴァンパイアの弱点がそれである筈がない。私は神など恐れていませんからね」
 最近の通説では十字架はヴァンパイアには無効であるとするものが多い。十字架を恐れるヴァンパイアは、元々敬虔なキリスト教の信者だった者などがヴァンパイアになり神を裏切ったことなどに後ろめたさを感じるからだという。
「じゃあ、おまえのハートを貫いてやるぜ!」
 麗慈の手から放たれた妖糸が一直線にヴァンパイアの胸を貫いた――そこは心臓があるべき場所だ。しかし、このヴァンパイアはわざと喰らって見せたのだ。
「また残念でしたね、私の心臓は身体の中を動き回っているのです」
 このヴァンパイアは自分の心臓を自由に体中に動かすことができるのだ。
 顔をしかめた麗慈は次々と妖糸を放つ。だが、ヴァンパイアは、もうわざと敵の攻撃を受けることはなかった。
 再び剣による猛襲が麗慈に襲い掛かる。
「弱い、弱すぎる――他の研究所はこんな実験生物などを造って遊んでいるとしか思えませんね。こんなものを造るのなら、もっと私のところに資金を回して欲しいものです」
 敵の猛襲に押され、麗慈は少しずつ後ろに後退していた。
「俺の力じゃ歯が立たねえ……ククク、このままじゃホントに殺られちまうな」
 後一歩でも下げれば地面に落ちてしまうところまで麗慈は追い詰められていた。
「ククッ、少しは足しになるか」
「くっ!?」
 ヴァンパイアが一瞬怯んだ。その後ろには撫子が鋭い爪を構えて立っていた。
「にゃば~ん! みんにゃピンチに登場プリティ撫子姫だよ~ん」
 ヴァンパイアの剣が撫子に向けて横に振られた。
「貴様も裏切る気か!」
「だってぇ~……にゃんとにゃくぅ?」
「余所見してんなよクソヤロウがっ!」
 麗慈の妖糸が放たれたが、ヴァンパイアはそれをあっさりと切断した。
「雑魚が二人になろうと私は倒せない。こうも組織の者が裏切り行為をするとは組織の一掃改革が必要ですね、まずはこの二人を始末しましょう」
 目にも留まらぬ速さで剣が振られ、麗慈は避けたつもりだったが胸を少し斬られた。そして、撫子の着ていた特殊スーツまでもが少し切られていた。
「爆裂危ない! 微かだけど肌まで斬られたぁ。これ着てなかったら死んでたよぉ」
「黙ってヤレ撫子!」
「ほ~いさ」
 二人掛かりで戦っているというのにヴァンパイアに攻撃を喰らわすことができない。それどころかヴァンパイは表情ひとつ崩さずに息も切らせていない。汗をかき、息を切らせているのは麗慈と撫子の方だ。
「ククク……役立たずのクソ女が」
「いにゃいよりはマシマシだよ!」
「俺の攻撃の邪魔になる」
「麗慈のばかぁ!」
 怒りの矛先をヴァンパイアに向けて、撫子の爪がヴァンパイアの肉を剥ぎ取ることに成功した。だが、それも空しい一撃でしかない。ヴァンパイアの傷はすぐに再生してしまった。
「戯れも終わりにしましょう。お死になさい二人とも!」
「ふざけんな、紫苑のクソはまだ終わんねえのか!」
 遠くで名を呼ばれた紫苑は呟いた。
「……今ならば呼べる」
 とてつもなく大きく奇怪な魔方陣が宙に描かれていた。
「傀儡師である私が成し得る最高の魔導――喰らわれるがいい!」
 召喚は傀儡師の体調や精神状態と密接に関係しており、いつでも呼び出せるものではない。それにもうひとつ、周りの環境などの条件と呼び出すものの相性が合わなくてはいけない。
 通常の傀儡師による召喚は〈それ〉を呼び出すことからはじまる。
 巨大な魔方陣が呻き声をあげると、皆、その場に立ち尽くしてしまった。
 呻き声は世にもおぞましくも美しく、この世のものではないことがすぐにわかる。
 振動する。全てモノが振動する。
 地面や空気や空間までもが振動する――いや、何かの圧倒的な力に無意識に震えているのだ。
 魔方陣の内から、悲鳴にも似た叫びが聴こえて来た。紫苑以外の全員が耳を反射的に塞いだ。
 腐臭にも似た臭いが辺りに立ち込め、魔方陣の内から粘液に包まれたべとべとの触手が蜿蜒と伸びて来た。
 巨大な眼が魔方陣の内から外を覗いた。その瞳を見てしまったヴァンパイアは心を打ち砕かれた。麗慈は本能的に目を伏せており、撫子はしゃがみ込み震えている。
 だが、紫苑の呼び出したいものは違う。
 悲鳴があがり、魔方陣の内から血飛沫が雨のように地面に降り注ぎ、外に出ていた触手が内に強引に引き戻された。
 力のある存在が呼ばれてもいないのに外に強引に出ようとして、その存在を大いなる力を持つものが内に引きずり込んだのだ。
 魔方陣からはいったい何が出て来ようとしているのか?
 紫苑は仮面の奥で唇を緩めた。
「魔方陣の内には無限の世界が存在し、〈それ〉という存在が棲んでいるのだ。私が召喚するものは〈それ〉の産物であり〈それ〉自身ではない。そして、〈それ〉は固有名詞ではない。私の呼び出す〈それ〉は闇に属する存在だ」
 紫苑の言葉に口を挟むものはいない。紫苑の言葉など誰の耳にも届いていないのだ。
「〈闇〉と〈光〉は魔導士の属性であるとともに存在でもある。〈闇〉と〈光〉は〈それ〉に仕えるものであり、管理者と言ってもいいだろう。〈闇〉などは召喚されたものたちが自ら元の世界に還らない時に強制的に還す役目を担っている。だが、こいつはどうかな……?」
 魔方陣が内から引き裂かれていく。何かが出ようとしている。
 〈それ〉が呻き声をあげた。
  紫苑は顔を下に向けた。麗慈も撫子も見ていない。決して見てはいけないことを知ったのだ。
 ヴァンパイアはすでに身を固まらせ、瞬きもできずにいる。そして、心臓も止まっているのだが、死ぬことができない。意識もしっかりとしていて恐怖に狂うこともできない。全ては〈それ〉のこの世ならぬ魅了する力。
 魔方陣は内から壊された。
 〈それ〉の片手と思わしきものが外に出た。思われるというのは、人間やこの世の生物の手には似ても似つかぬものだからだ。おそらくその用途から手と思われる。
 〈それ〉のもう片方の手が外に出て、外と内の間に指を引っ掛けて奇怪な音とともに空間を無理やりこじ開けた。
 何かを破る音に似ているが、悲鳴にも叫びにも似ている。その音を形容する言葉がこの世にはない。
 こじ開けられた空間から〈それ〉の一部が外に出たが、その部分が人間やほかの生物でいうどの部分に当たるのかがわからない。頭かもしれないし、足かもしれない、もしかしたら、これが手だったのかもしれない。
 ここが組織の創り出した異世界でなければ地球は滅びてしまっていただろう。それだけがはっきりしている事柄だ。
 〈それ〉はヴァンパイアを確認した。そして、笑ったように思える。いや、泣いていたのかもしれないし、怒っているのかもしれない。
 〈それ〉はヴァンパイアに向かって行き重なった。呑み込んだという表現が近いかもしれない。
 〈それ〉が還っていく。――全ては〈それ〉の気まぐれであったのかもしれない。
 全ての事柄は意味のあるものかもしれないし、意味のないことが繋がって世界が成り立っているのかもしれない。
 紫苑が顔を上げた。
 世界は空虚に満ち溢れていた。
 ゆっくりと歩き出した紫苑は磔にされている翔子の前に立った。
 紫苑の手がそっと翔子の頬に触れた。とても冷たく身体中の体温が失われているのがわかる。だが、微かに息がある。
 翔子がゆっくりと目を開けた。
「……スゴク、寒いよ……死ぬのかな……私」
 紫苑は身に纏っていた茶色い布を取り、仮面のゆっくりと外した。
「死にはしない、決して君は死なない」
「やっぱり……愁斗くん……じゃん」
 微笑んだ。死相を浮かべているのに、愁斗の顔を見て微笑んだ。
「僕は誰も失いたくない……もう、大切な人が死ぬのは嫌なんだ」
「……ごめん」
 小さく呟き、静かに静かに息を引き取った。
「ふふ……君のことを守るって約束したのに……くははは……なぜだ……全て僕のせいなのか?」
 震える手をゆっくりと上げ、紫苑は涙を流した。
 頬にもう一度触った愁斗は磔にされていた翔子の身体を開放して、地面の上に優しく下ろした。
「……禁じられた契約を交わそう」
 凍てついた床の上に横たわる翔子の横に跪く愁斗。
「これが正しいことなのか、それはわからない。けれど、あの時の僕にはできなかったけど、今の僕にはできる」
 愁斗の手が素早く動き妖糸を放った。
 翔子の胸に煌きが走り、鮮血が迸った。
 開かれた胸の中へ手を入れて愁斗は、その中で何かをした。
 造り変わる躰――翔子は愁斗の傀儡となろうとしている。
 鋼の頬に紅が差していく。
 永久に続く生命を与えられ、妖糸によって胸の傷が縫合された。
 そして、愁斗は翔子の胸の中心に契りを交わした証拠として印を残した。
 まだ、深い眠りについている傀儡を目覚めさせるため、愁斗は傀儡の柔らかな唇に自分の唇を重ね合わせた。
 覚醒めはじめる。
 愁斗が顔を離すと翔子のゆっくりと目が開けられた。
 汚れの無い黒く澄んだ瞳の奥に愁斗の顔が映る。そこに映るすべては許されるのだろうか?
「愁斗くん……? まだ、私、死んでなかったのかな?」
 この問いに愁斗はゆっくりと首を横に振った。
「いいや、君死んだ。……そして、僕の傀儡になった」
「傀儡?」
「……ここを出てからゆっくりと話そう。空間が壊れる音がする」
 空間が壊れる音など翔子の耳には聴こえなかった。それどころか世界は静寂に満ちている。
 翔子を両腕で抱きかかえ、愁斗は立ち上がった。愁斗の左腕は妖糸によって強引に動かされている。愁斗は翔子のことをしっかりと抱きしめたかった。
 この異世界は〈それ〉を呼び出したことにより狂いが生じていた。もうすぐ世界は硝子のように砕け散る。
 愁斗は呆然と立ち尽くしている麗慈と、しゃがみ込んで頭を抱えながらまだ震えている撫子に声をかけた。
「おまえたちも早く外に出た方がいい」
「クククククククク……傀儡にされちまったのか。いや、それよりもさっきのあれは何だ……ものスゴイ威圧感で俺を感じさせたのは?」
「真の傀儡師ではない貴様の知ることではない」
 世界に皹が入った。誰にでもわかる崩壊がはじまった。
 立ち上がろうとしない撫子を見て紫苑は呟いた。
「手が空いているのなら運んでやれ」
 これを言われた麗慈は苦笑した。

 廃工場の出口に戻ると撫子は地面に降ろされた。
 翔子が地面にゆっくりと降ろされる途中で麗慈は愁斗に背を向けた。
「俺は組織が来る前にさっさと逃げるぜ」
 愁斗は妖糸を麗慈の背中に振るったが、それはあっさりと切断された。麗慈入ってしまった。愁斗はそれ以上何もせずに麗慈を行かせた。
 頭をぶるぶると震わせて正気を取り戻した撫子は、ポケットからケータイに似せて作ってある通信機を取り出してどこかに連絡した。
「コード000は紫苑の暗殺に成功。愁斗の遺体は突如崩壊した異世界に閉じ込められて回収不能。麗慈は異世界から抜け出した後に逃亡――以上」
 撫子は通信機のスイッチを切って愁斗と翔子の顔をなんとも言えない表情で見つめて言った。
「……今の罠かもよ。これからアタシはアナタたちを裏切るかもしれにゃいしぃ、アタシを殺すにゃら今がチャンスかもねぇ。うんじゃ、アタシはフツーの学生さんに戻るから、さらばにゃ~ん!」
 背を向けた撫子に妖糸を振るおうとした愁斗。だが、それを翔子が止めた。
「まだ、私たち親友だから……手を出さないで、お願い」
 ゆっくりと手を下げた愁斗は翔子を見つめた。
 愁斗に笑いかける翔子。そして、愁斗も笑った。

 夢見る都(完)


傀儡士紫苑専用掲示板【別窓】
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