奈落花が咲く先に
 かつて戦いに敗れた者がいた。
 地位を奪われ、名を奪われ、肉体を奪われた。
 そこはいつしか禁忌の地と呼ばれ、近づく者に呪いを裁きをもたらすと云われ、静寂が時を刻んでいた。
 しかし今このとき、禁池の地に怨念が吹き荒む。
 湿った黒土の臭い。
 亡者どもが起こした薄ら寒い冷風が薬草の匂いを運び、赤い飛沫が鉄の臭いを散蒔いた。
「アタシの愛しい貴方……復活の刻は遠からず」
 まるでそのシルエットは何匹もの毒蛇が狂い踊ってるかのようだった。それは振り乱された魔女の髪。漆黒の薄衣を身に纏った魔女が、取り憑かれたように魔法陣を描きながら踊っていたのだ。
「キャハハハハハ!」
 裂けんばかりに嗤う真っ赤な唇。
 瘴気を纏った魔女の躰がうねり狂い踊り続ける。
 神殿の深奥。
 まるでそこは墓地を思わせる。
 人の子が存在するよりも遙かいにしえの時代から、この遺跡は存在していた。
 かつて栄えたであろうモノたちの時代から、ここは神殿であり、神の憑代が祭られていた場所であった。いつしかそのモノたちの文明は衰退し、猿どもの子孫が地上を支配したが、この地は神殿としてあり続けた。
 ――なぜか?
 それは夢想や概念ではなく、存在していたのだ――神と呼ばれる〈モノ〉が。
 まるで墓標のように聳え立つ門。それはヒトのための門ではない。あまりの大きさにそれが門とはわからず、巨大な岩山にしか見えないほどだ。
 門は空間を隔てるために存在する。
 微かに、悲鳴が、鳴き声が、呻き声が、あの門の〈向う側〉から聞こえる。
 ある者たちにとって、門[ゲート]は特別な意味を持つ。
 それは異世界への扉。
 〈向う側〉に通ずる門が、この地にあったからこそ、支配者が代わり、文明が代わり、幾星霜の刻を経ても神殿としてあり続けたのだ。
 しかしヒトの時代になり信仰は衰え、今やこの地を識る者は魔導結社のごく限られた上位階級の魔導士のみとなった。
 魔導結社D∴C∴[ダークネスクライ]は、この地に総本山を建てた。
 それも昔のことだ。
 今ここに存在している神殿は朽ち果てた廃墟である。
 すべては過去の話。
 敗れ去った者は忘れられる。記憶からではなく歴史からだ。時の権力者は過去の権力者を歴史から抹殺する。
 かつてその女もD∴C∴の幹部であった。
 蛇のような髪を振り乱す冷血な魔女メディッサ。
 瞳を閉じながら呪術を唱え、一心不乱に門の前で踊り続ける。
 微かに、悲鳴が、鳴き声が、呻き声が、あの門の〈向う側〉から聞こえる。
 魔女が踊る死の輪舞曲[ロンド]。
 踊りながら地面に立てられていた蝋燭に火を灯す。
 魔女の濡れた唇から漏れる吐息。
「嗚呼……」
 屍体の山。
 殺された魔導士たちの輪の中でメディッサは踊っていたのだ。
 呪術の合わせて血にまみれた屍体がぬっと起き上がり、不気味に輪舞曲を踊り出す。
 仄暗い世界から、手招きされる。
 さあ、踊りましょう。
 宴の招待状は生者へ送られる。
 屍体から伸びた操り糸は異形の手に握られていた。
 赤黒く硬質な肌から伸びた六本の指には鳥のような鉤爪が生えていた。
「還ってきたぜ……テメェに復讐するためにな」
 メディッサがその名を囁く。
「麗慈、あなたの力が必要よ」
 〈闇〉の絶叫が木霊し終焉の幕が上がった。

 しんしん寒さ残る静かな季節。
 春の訪れが待ち遠しくもあるが、それは別れの季節でもある。
 三学期も残すところあとわずかだった。
 卒業する先輩たちへのはなむけに、演劇部の公演が行われた。
 もともと部員の少なかった演劇部は、文化祭での事件以降、廃部の危機に陥ったが、新部長になった翔子や部員たちの尽力で、どうにか今日という日までこぎ着けた。
 けれども大盛況にはほど遠く、空き教室で行われた質素な公演だった。
 観客は愁斗目当ての女子と、部員の友達と先生たちだけだったが、拍手はとても大きく心に残る公演となった。
 客席を立った二人の先輩は、満面の笑みで惜しみない拍手を贈った。
「よかったわ、本当に役が乗り移ったみたいだったもの」
 麻耶の言葉を受けて、翔子は緊縛が解かれたように、深い息を吐いて肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
 部長としての役目をひとつ終えることができた。
 それは元部長も同じだ。
「僕らが卒業しても大丈夫そうだね。新入生が入部してくれたら、もっといい演劇ができそうだ」
 隼人は愁斗の肩を叩いた。
「今は男ひとりで肩身が狭いと思うけど、もうちょっとの辛抱だから。あとは本当に男子生徒さえ入部してくれればなぁ」
 後半はぼやくようだった。
 元々いた男子部員はあの事件でいなくなってしまった。
 被害者となった一年生の須藤拓郎。そして加害者の雪村麗慈。
 もうひとりの傀儡師麗慈の出現によって、運命の歯車は大きく廻りはじめた。
 世間一般では事件の真相は明るみになっていないが、ひと目に付かぬ闇の中でも歯車は廻り続け、小さな歯車はやがて大きな歯車を動かす。
 世界という名の歯車を――。
 傀儡師たちによって紡がれる糸。
 愁斗が背負っている運命の車輪に巻き込まれた人々。沙織もそのひとりだが、記憶は改竄され平凡な日常を送っている。
「男子がいなくても宝塚みたいにしちゃえばいいと思いますぅ!」
 キラキラ輝く沙織の眼は本気を物語っている。それに対して眼鏡の奥から呆れた視線を送る麻衣子。
「発想が単純なんだから。秋葉先輩はどうするのよ?」
 横にいた久美がうなずく。
「そうそう、秋葉先輩が舞台に立たないとお客さん減りますよ」
 麻衣子と久美も記憶を書き換えられ、愁斗はただの秋葉愁斗先輩でしかなかった。
 同じ世界にいながら、違う世界の景色を眺めている感覚。
 愁斗の瞳は愁いを帯びていた。部員たちを眺め、ふと視線を止めた先にいる翔子の姿。彼女を引き込んだのは愁斗だ。翔子が見ている景色も常人のそれとは違うはずなのに、彼女は今も日常の中を生きようとしている。
「どうした?」
 声をかけられたことに気付くのが遅れ、それが隼人だと気付いて愁斗は無言で振り向いた。隼人は心配そうな表情をしている。
「まだ役が抜けきってないのか? 病に倒れ、闇に心を蝕まれていく様は迫真の演技だったけど、あんまり役を引きずっちゃダメだぞ」
「はい、大丈夫です」
 淡々と答えながら愁斗は震える拳をさりげなく腰の後ろに隠して抑え込んだ。
 最近になって何かが可笑しいと感じる。それは自分だけの異変なのか、それとも身近なもの、もしくは世界全体の異変か?
 世界は魔導を認知した。
 あれは冬休みの最中だった。D∴C∴の過激派が起こした大事件。首謀者ゾーラによって、龍神が東京湾に現れた。
 あのニュースは世間を騒がし、憶測や噂が飛び交い、総理大臣すら知らなかった秘密を、政府特殊機関の陰陽師が総理に打ち明け、国家は総力をあげて隠蔽に努めた。それでも実際に起きて、目にしてしまった人々を欺くのは難しく、デモや新興宗教、頭の可笑しいニセモノたちが日本全国なのみなら、世界にまで波及する結果になった。
 しかし、大多数の人間たちは今も昔と変わらぬ生活を送っている。
 信じる信じないに関係なく、彼らの生活にまだなにも関わり合いがないからだ。
 空を見上げれば魔女が飛んでいるわけでもなく、魔法で料理洗濯掃除が楽になったわけでもない。ニュースの向こう側で世界のどこか遠い国が戦争をやっていても、それを身近に肌で感じることができようか?
 業を煮やした表情で麻耶が隼人の脇腹を小突いた。理解できずにきょとんとした隼人の耳を引っ張り、麻耶はこう囁いた。
「送別会」
「あーそうそう、今日はファミレスで僕のおごりで」
 隼人の発言に撫子が瞳を爛々と輝かせる。
「マジすかっ、部長のおごりっすかぁ!」
「うん、まあ人数も少ないから……大丈夫だと思うけど。あと部長じゃなくて、元部長ね」
「二次会はカラオケでケッテー!」
「……二次会の費用は自腹で」
 パーティー気分の部員たちは、片付けを済ませて部室を出ることにした。真っ先に飛び出したのは撫子だ。
 末端とはいえ撫子もD∴C∴の団員である。任務は愁斗の監視だが、学校は遊び半分で来ており、学校外の時間は完全に遊んでいる。ただの女子中学生を演じているのではなく、任務を忘れて事件さえなければ、演技ではないただの女子中学生として日常を楽しんでいた。
 部室に差し込む夕日。最後に残った翔子が、窓辺に立っている。不思議に思った麻耶が廊下から教室を覗き込みながら声をかける。
「どうしたの?」
「いえ、なにも……」
 無理につくったような笑みで振り返った翔子。その手に持たれて手紙は、そのままポケットに押し込められ握りつぶされた。麻耶は翔子の可笑しな表情に気付いたが、紙のことまでは気付かなかったようだ。
 遅れて翔子と麻耶が下駄箱にいくと、隼人が近づいてきた。
「みんな校門で待ってるよ」
 隼人と麻耶は二人で三年生の下駄箱へ、翔子は二年生の下駄箱へとやってくると、そこで愁斗が静かに立っていた。
「愁斗くん待っててくれたんだ」
 少しはにかむ翔子。反応が薄い愁斗は小さく頷くだけだった。
 先輩ふたりの楽しそうなおしゃべりが下駄箱から遠ざかっていく。それに触発された翔子は考えなしに口を開く。
「愁斗くん!」
「なに?」
「……えと……麻耶先輩と隼人先輩って、お似合いだよね?」
「そうだね」
 そっけない愁斗。それはいつものことで、愁斗は撫子と違ってテンションが高くもなく、おしゃべりでもないことを翔子は十分に承知している。でも翔子はもっと愁斗とおしゃべりがしたいと思っている。自分のことを話したいし、愁斗のことも話して欲しい。
 しかし、愁斗は未だに影を背負っており口が重たい。
 ひとを近づけない雰囲気。昔に比べれば近い知り合い、同じ部員たちとの距離は遠くはないし、翔子との距離は近い。クリスマスのあの日、愁斗に連れて行ってもらった愁斗の母のお墓。あのときにあった出来事、あのとき距離はぐっと近づいた。
 ――はずだったのだが、いつしか距離は少し離れてしまっていた。
 近づこうとすると愁斗が逃げるように引いてしまう。
 愁斗のことが知りたい。聞きたい。けれど愁斗の大部分は暗い闇に包まれている。
 ――僕の母は殺されたんだ。それも僕の目の前で……。
 それ以上の話を愁斗は未だ翔子にしていない。
 愁斗のことを尋ねるということは、魔物が蠢く闇の中に手を突っ込むのと同じ事。それはとても勇気のいることだった。
 いつかは話して欲しい。
 そのいつかが本当に来るのだろうか……。
 愁斗と顔を合わせないようにして、翔子は重い溜め息を吐きながら下駄箱を開け、靴を履き替えようとした。
 靴の中につま先まで入れた瞬間。
「いたっ!」
 急に声をあげた翔子。
 愁斗が鋭い表情になった。
「どうしたの?」
「なにか……ん? だいじょうぶ、心配しないで小さいトゲが入ってたみたい」
 靴を傾けるとなにかが転がって落ちてきて、翔子はそれをさっと軽く握って隠し、ポケットの中に入れた。
 心配そうな表情に代わってた愁斗を見て、翔子は優しい笑みを浮かべた。
「みんなが待ちくたびれちゃうから、早く行こう」
 その笑顔に愁斗は一瞬騙されかけた。
 しかし、愁斗にはすべてわかってしまう。
 歩き出した翔子の足運びがぎこちなく、傷を庇って歩いていることが手に取るようにわかる。不可視の糸が教えてくれるのだ。
 傀儡師の糸を翔子に巻き付けておけば、いつどこでなにをしているのか、おおよそのことはわかってしまう。愁斗の置かれている立場の危険性を考えれば、真っ先に危害が及びそうな翔子を監視することは、彼女を守ることになるのだが、あまり翔子にたいして糸を使うことを愁斗は良しとしていなかった。
 自由を奪い束縛することになりかねないからだ。
 傀儡師の本分とは、すべてのモノを思いのまま操ること。
 愁斗は翔子に巻き付いていた糸を解いた。
 そして、何事もなかったように歩き出した。

 望遠鏡から目を離した麗慈が舌打ちをした。
「仲よさそうにしやがって、愁斗を痛めつける前にあの女を殺るか」
 今の今まで麗慈は愁斗を遠いマンションの部屋から、糸を使わずに監視していたのだ。傀儡師のことは傀儡師が一番よく知っている。はじめて会ったときは簡単に近づけたが、今はそういうわけにはいかない。愁斗はかなり神経を尖らせて糸を張り巡らせて敵を感知しようとしている。
 部屋のドアが開いた。開く前から麗慈は知っていたし、警戒もしていない。現れたのは小柄で顔をフルフェイスで隠した人物。声からも性別は判断できそうもなかった。
「勝手ナ行動スンナばーか。愁斗トあんたガブツカルノハ控エロッテ、姐サンカラノオ達シダゾ」
 声が合成音だからだ。ただ、口調が粗暴で若い印象を受ける。
「俺様はだれのゆーことも聞かねえ。が、まだ愁斗と殺り合う気はないから安心しろ……クククッ」
「信ジランネー。まじデ殺ンナヨ、愁斗ハ餌ニ使ウンダカラナ」
「餌なんかなくても、俺様が釣って捌いてやるよ。はじめから愁斗の次はあいつだって決めてたんだからな」
 フルフェイスが震えた。邪気を纏い強気な態度の麗慈が、かなりの力を持っていることは、戦うことを生業とする者や、魔導に長けた者ならばすぐにわかる。だが、震えた理由は別にある。麗慈が敵意を向けた相手が問題なのだ。
「アノ御方ト殺リ合ウナンテ頭ガイカレテルゼ」
 粗暴な言葉遣いの者が、あの御方と呼ぶ相手は誰か?
 麗慈はニヤリとした。
「じゃあどうしてテメェはこっち側に付いたんだよ」
「コッチノ方ガ楽シソウダカラ」
「イカれてんのはお互い様だな」
 麗慈は愉しそうニヤけていた。

 少し早く眼が覚めてしまった。
 カーテンを開けると晴れだった。
 けれど翔子の心は曇り、気を少しでも抜けば雨が降ってしまいそうだった。
 翔子はごみ箱に目をやった。きのう捨てた紙くずがまだ残っている。今は丸められてわからないが、紙には文字が書かれていた。その内容を他人に話す気はなく、忘れてしまいたいと思っているが、それが無理なことを翔子は知っている。
 なぜなら、まだ続くからだ。
 どうしたらいいのかわからない。
 学校にいくのも憂鬱だが、周りに心配をかけたり、このことが気付かれるのも嫌だった。
 まるで何事もないような日常を演じる。
 自分以外の世界も日常を刻んでいる。母はいつものように朝食をつくり、笑顔で翔子を送り出す。登校中の景色もいつもと変わらず、学校だって外から見ればいつもと変わらない。
 下駄箱を開けるのに少し勇気が必要だった。
 息を呑んでゆっくり扉を開ける。
 上履きはいつもと変わらない。中にはなにも入っていなかったので、一安心して履いて教室へ向かった。だが、安心したのも束の間だった。
 ノートを机に入れようとしたのに入らない。なにかが詰まっている。ゴミだ、紙くずやトイレットペーパー、使用済みの生理用品まで突っ込まれていた。
 クラスメイトの視線が翔子に集まる。横目でチラチラと見て見ぬ振りをして、だれも声をかけてくる者はいない。関わらないようにされていた。
 表面化した。
 これが翔子のもっとも恐れていたことだ。
 今まではなにかをやられても、だれにもいわず自分だけで留めていた。それがこんな目に付くようなやり方をされ、隠し通すことができなくなってしまった。
 たとえ翔子が口にしなくても、この光景を見ればだれも同じ事を思う。
 ――イジメられている。
 被害者は翔子。
 加害者はわからないが、だれも関わりたくないと思っているし、近くにいると思って警戒しているだろう。イジメは対岸の火事ではないからだ。火の粉がいつ飛んできて燃え上がるかわからない。
 そっと近づいてきた愁斗が机のゴミに手を伸ばしてきた。
「やめて! 秋葉くんは手伝わなくていいから」
 張り上げた声は教室に沈黙を落とした。
 翔子は教室で孤立した。
 無言のまま神妙な顔をする愁斗。
 新たな生徒が笑い話をしながら教室に入ってきたことで、沈黙は破られ日常の教室に戻った。
 ただその中で翔子は黙々と片付けをして、愁斗は席に戻って机の下で拳を握った。
 クラスメイトが理解したように、愁斗も理解し、気付かなかった自分への憤りと、犯人への怒りが込み上げてきた。
 風の音?
 窓は開いてない。廊下からでもない。よく聞くとそれは鳴き声だった、呻き声だった、叫び声だった。
 突風に似たモノがカーテンをはためかせ、黒板を爪で引っ掻くような音が響いた。
 生徒たちは躰をびくつかせ、何人かは耳を両手で塞いだ。
 愁斗の額から珠の汗が机に落ちた。
 ――止んだ。
 風も音もどこかに去った。
 愁斗は視線に気づいて振り向くと、翔子が忌むような表情をしていたが、すぐに顔を背けられてしまった。
 イジメの犯人を許すことはできないが、その怒りに囚われてはいけない。妖糸で探れば犯人を見つけ出せるかもしれないが、今の状態ではクラスメイト全員の首を刎ねかねない。
 危うい力の暴走は日々強く抑制しなければならなくなっている。闇が迫っている。それも急速に。愁斗は予感していた。
 体調がすぐれないというより、躰の内側のなにかがすぐれない。早退するという選択肢もあったが、翔子のことが気になって仕方がない。
 一時間目は理科室で実験だ。授業中にも犯人がなにか仕掛けてくるのではないかと、愁斗は神経を尖らせていたが、それは気苦労に終わった。チャイムが鳴った瞬間に安堵して気が抜けた。
 それは愁斗の誤ちであった。
「キャーッ!」
 少女の悲鳴。
 翔子が身悶えながら背中に手を伸ばしている。
 微かにクスクスという笑い声がした。
 愁斗は翔子と周辺を交互に注視したが犯人は見つからない。いったい翔子になにが起きたのかもわからない。
 じたばたする翔子の服の中から白いなにかが落ちた。生き物だ。それは素早く廊下を駆け抜けていった。
 堪らず愁斗は妖糸を放った。
 廊下の端でそれを捕らえた――瞬間、妖糸が暴走して血飛沫が廊下を彩った。
 その場まで追ってきた翔子が口元を押さえて絶句する。
 血みどろになったハツカネズミの死骸。
 振り返った翔子と眼があった愁斗。
 翔子はなにもいわないまま口元を押さえながら逃げるように走り去ったのだった。
 ハツカネズミを殺したのが愁斗であることは、翔子なら気付いたはずだ。そんなつもりはなかったのに、完全に裏目に出た。
 二時間目からずっと同じ教室で過ごすことになる。愁斗と翔子は互いに眼を合わせない。震える手を抑える愁斗。不安げな表情で瞳を潤ませている翔子。
 誰にも見られないように翔子は人差し指で軽く涙を拭った。
 四時間目の授業がはじまり、教科書を開いた翔子はメモが挟まっていることに気付いた。
 ――昼休みに校舎裏に来い。
 そう書かれたメモには地図も書かれており、×印にココと矢印で示されていた。
 一時間が長かった。昼休みまでの時間が刻々と迫ってくる。
 いったい昼休みになにが待ち受けているのか?
 イジメの犯人に面と向かってなにかされるのだろうか。それともからかわれただけで、待ちぼうけをくらうということもありえる。直接犯人に会えるならそれがいいと翔子は思った。そうなら少しは解決の糸口が見えてくる。
 顔の見えない犯人に為す術もなく精神的に傷つけられていく。それがもう耐えられなかった。
 チャイムが鳴った。
 授業が終わっても、しばらく翔子は席を立てなかった。
 行かないという選択肢は翔子にはなかったが、それでも足がすくんでしまうのだ。
 意を決して席を立った翔子。愁斗に顔を向けることはしなかった。
 一歩一歩踏みしめるようにして校舎裏に向かう。
 校舎を出て、しばらく歩き、そこを曲がれば校舎裏だ。
 だれが待っているのだろうか?
 犯人はクラスメイトだということは、ハツカネズミの件ではっきりしている。
 翔子はついに校舎の角を曲がった。
 静かだった。
 だれもいなかったのだ。
 地図に書かれていた正確な場所に向かう。
 絶句する翔子。
 壁に貼られた紙に文字が書いてあった。
 ――別れろ!
 乱暴な赤い字で殴り書きされている。
 次の瞬間だった。
 脳天に冷たい衝撃を受けて思わずしゃがみ込んだ。
 髪と制服がびしょ濡れになってしまった。上から大量の水を浴びせられたのだ。
 翔子は寒気で自分を抱きしめた。冬の寒さが身に沁みる。
 輝線が宙を趨った。
 地上から校舎を這うように昇った輝線は開いている窓に飛び込み、走り去る女子生徒を背後から迫った。
「ぎゃああああっ!」
 女子生徒の悲鳴が校舎裏の翔子の耳まで届いた。
「ひぃぃぃっ!」
 廊下で怯えた表情して顔を覆う女子生徒。その指の間から見える先で、友達の女生徒が首を押さえて地面をのたうち回っている光景を目の当たりにした。
 別の女性生徒が駆け寄ってくる。
「どうしたの!?」
 床に転がっているバケツ。
「あいつに水をぶっかけたあといきなり苦しみだして」
「ヤバイよ、だれかに見られたらマジヤバイから早く逃げよう!」
「美緖のことどうすんの!」
「わかんないけどここから離れないと!」
 首を押さえていた美緖が白眼を剥いた。
 そのとき別の場所で愁斗は廊下の壁を殴っていた。
「……はぁはぁ、もう少しで殺すところだった」
 額に汗が滲む。
 やはり翔子のことが気になった愁斗は後先考えずに妖糸で校舎裏まで追跡した。翔子が水を被ることは防げなかったが、すぐに犯人が上にいることを察して追撃してしまった。
 バケツの水をかけた実行犯。その近くにいた共犯者。駆けつけて来たのは見張り役。イジメの犯人は三人ともクラスメイトだ。
 そして、愁斗は自分が原因だったことを知って衝撃を受けた。
 この事件が起きる前から愁斗は思い悩んでいた。
 翔子に幸せをもたらすどころか、どんどん不幸にしているのではないか?
 出逢わなければよかった。
 これまで歩んできた血塗られた道。愁斗がこの道から抜け出せぬ以上、共に過ごす者は同じ道を歩まなくてはならない。
 傷心しながら教室に戻ってきた愁斗は席にもたれ掛かった。
 救急車の音が近づいてくる。そのことはすぐ騒ぎになってだれがどうしたと噂が飛び交う。
 しばらくして体操着姿の翔子が教室に戻ってくると、おしゃべりなクラスメイトがすぐに話しかけてきた。
「美緖ちゃんが救急車で運ばれたみたい」
「どうして?」
「よくわかんないんだけど急に廊下で倒れたんだって」
 話を聞いた翔子はずっと視線を向けなかった愁斗をチラリと見た。愁斗は髪をかき上げ片手で頭を抱えていた。その様子が可笑しいことはすぐにわかった。
 席に着いた翔子はスマホをいじり、席を立って教室を出た。
 すぐに愁斗のスマホがメールを着信した。
 席を立って教室を出た愁斗は屋上へ続く階段に向かった。閉鎖されている屋上に続く階段は、あまりひとが来ない場所だ。そこで翔子が待っていた。
 悲しげな表情をしながら、瞳は愁斗の心を射貫くようだった。
「あなたがやったの?」
「…………」
 すぐに答えられなかったが、少し間を置いて頷いた。
 涙を振り撒きながら迫ってくる翔子が手を振り上げた。
 愁斗の頬を襲う衝撃。
 見つめ合うふたり。
 静かな廊下に寒々とした愁斗の声が静かに響く。
「僕たち別れよう」
 泣きながら去っていく翔子の後ろ姿を見ることはできなかった。
 愁斗は崩れるように壁に寄りかかって尻をついた。
 終わった。
 なんの責任も取れないまま。けれど、このままでは、さらに翔子を不幸にしてしまう。
「クソッ……クソッ……」
 肩を震わせながら愁斗は手のひらで瞼を拭った。
 五時間目になっても愁斗は教室に戻ってこず、放課後になっても姿を見せなかった。
 ひとり下校する翔子。前を歩くクラスメイト二人が、一瞬振り返って足早に姿を消した。その二人がイジメの犯人であることを翔子は知らない。
 少し考えれば犯人を特定することはもうできたはずだ。報復を受けた生徒と仲のよかった二人のことは知っている。ただ、それを考える余裕が今はなかった。
 あんな別れ方をするなんて。
 イジメが切っ掛けになってしまったのか?
 それともはじめからうまくいかない運命だったのか?
 帰路の景色は目に入っていなかった。心はここにない。
 急に服を後ろに引っ張られ翔子はハッとした。
 目の前を通り過ぎる車。横断歩道の先の信号は赤だった。
「ぼーっとして危にゃいよ!」
 翔子の服を引っ張って助けたのは撫子だった。
 その顔を見た瞬間、ダムが決壊したように翔子は泣きじゃくった。
 翔子に抱きつかれて焦る撫子。
「ど、そうしたの!?」
「う……ひっく……愁斗くんに……」
「にゃにかされたの!?」
「違うの……でも、別れようって」
「えっ!?」
 驚きながらも、すぐに撫子は珍しく難しい顔をして頷いた。
 二人の事情をある程度把握している撫子は、キライになって別れが切り出されたわけではないとすぐに察した。
 撫子自身も楽しい学園生活が本来自分がいる場所ではないため、同じような身の愁斗がただの少女だった翔子とうまくいくのか、結末はなんとなく予想していた。
 しかし、だからといってその結末を望んでいたわけではない。
「翔子ちゃん元気出して、カップルにはよくあることだよ、うん。しばらくすればきっと寄りが戻るから」
「……本当?」
「えっ……うん、だいじょぶだいじょぶ、愛のキューピット撫子ちゃんがついてるから!」
 一瞬戸惑いながらも満面の笑みで返した。
 ふっと翔子は笑顔になった。
「ありがと」
 その言葉を残して急に撫子の視界から翔子が消えた。代わりにそこにあったのは、伸ばされた腕。
 撫子は理解できずに眼を丸くした。
 目の前に立っている女子生徒。翔子をイジメていたひとりだ。
 なにが起きた!?
「キャーッ!」
 翔子の悲鳴。
 すぐさま撫子は振り向いた。
 アスファルトに尻をついて倒れている翔子に迫る自動車。
 理解よりも先に撫子は地面を蹴り上げる。
 急ブレーキの悲鳴。
 アスファルトが焦げる。
 翔子を抱きかかえながら撫子は道路を転がった。
 対向車線からも車が迫っていた。
 瞬時の判断で撫子は翔子を抱えたまま迫ってくる車を飛び越そうとした。
 人間の身体能力を超えた跳躍。
 撫子の足下を車が風を切りながら通り過ぎた。
 しかし、後ろにはもう一台の車が!
 撫子は宙で躰を反転させた。
 鈍い音と共に撫子は背中をフロントガラスに打ちつけた。
「うっ」
 自分がクッションになり翔子を庇ったのだ。
 あっという間に辺りは騒然となり、交通は麻痺して、通行人たちも足を止めた。
 少女二人が空から降ってきて、フロントガラスを割られた運転手が車から降りてきた。
「だ……だいじょうぶですか?」
 声を震わせる若い主婦。チャイルドシートの赤ん坊が泣いている。
 二人とも意識はあったが、翔子は苦痛を浮かべ上半身を起こしながらも、立てずに足を庇っていて、撫子は立ち上がっているが片腕がだらんと地面に伸びていた。
「腕折れたわコレ。翔子ちゃんだいじょぶ?」
「ダメみたい。足を動かそうとするとすごく痛くて動かないの」
 二人とも骨折していた。重症だが、あれだけ派手に自動車にはねられて、これだけで済んだのは撫子のお陰だ。
 撫子は辺りを見回した。
「あの顔見覚えあるんだけど、翔子ちゃんも見たよね、あの女!」
「……うん」
 重い表情で頷いた。
「わたしあの子たちにイジメられてるの。でも、まさかこんなことまでされるなんて」
 殺されかけた。
「はぁ!? イジメってにゃに? 殺人未遂じゃんコレ、原因はにゃに?」
「…………」
 翔子は答えなかった。
 全容は見えないが、撫子はこの件と別れ話が繋がっているとおぼろげに悟った。
 顔を蒼白にしている主婦が尋ねてきた。
「救急車呼んだほうがいいですよね?」
 撫子は手のひらを突き出してNOを示した。
「爆やめてください。ケーサツも呼んじゃダメだから」
 撫子の立場上、病院も警察もあまりお世話になりたくない。とはいっても大きな事故になってしまった。
「とりま上司に報告して……にゃーっ! ポッケに入れてたスマホのディスプレが砕けてる!」
「わたしが掛ける。大きな怪我をしたり、事件に巻き込まれたりしたら、愁斗くんの知り合いに電話するようにいわれてたから」
 愁斗には別れを告げられたが、この状況ではその知り合いに助けを求めるほかない。
 通話が繋がり相手の声がした。
《伊瀬ですが、何用でしょうか?》
 傀儡師である愁斗の正体を知る数少ない一般人。大財閥の令嬢である亜季菜の秘書の伊瀬が通話に出た。
 事情を説明すると五分もせずに普通の救急車が現場に到着した。
 二人を乗せて走り出す救急車。
 サイレンの音を背にしながら、その影は笑いながらその場をあとにした。

 そこは表向きは普通の病院である。
 姫野グループの傘下であり、亜季菜の意向で特殊な患者を診ることも匿うこともできる。
 病院の廊下を医師と歩く亜季菜。
「今までいろんな患者を診てきましたが、はじめて見た魔導技術です」
「躰は生身なんでしょう?」
「はい、生体機能は心臓以外通常の人間と変わりません」
「足はただの骨折?」
「はい、ただ自然治癒能力は今のところ不明なので、回復までにどの程度の時間を要するかは」
 とある病室の前で二人は足を止めた。中からは三人の話し声が聞こえる。不審な顔で亜季菜はドアを開けた。
 楽しそうに談笑している翔子と撫子と、車椅子の女。
 振り向いた車椅子の女は微笑んだ。
「ごきげんよう」
「お姉ちゃんなんでいるかしら?」
 顔を合わせた姉妹。そっくりな顔をしているが、醸し出す雰囲気はまったく違う。亜季菜の姉である悠香[ユウカ]は凜とした気を纏い、瞳の奥は静けさと鋭さを秘めている。それが姫野グループ総帥、姫野悠香である。
「アタシの病院にアタシがいて可笑しなことがあって?」
「そーゆーこといってんじゃないわよ。二人に関わりのないお姉ちゃんが、なんでこの病室にいるかを聞いてるの」
「知り合いの知り合いは知り合いだから問題ないわ」
「目的は?」
 強い口調で亜季菜は姉に詰め寄った。
 車椅子から妹の顔を見上げる悠香は涼しげな顔だ。
「そちらのお嬢ちゃんは、D∴C∴なんでしょう?」
「にゃ!?」
 いきなり飛んできた球に当てられて撫子は椅子から飛び上がった。
 亜季菜はさらに姉に詰め寄る。
「伊瀬から聞いたの?」
「いいえ、独自の情報網。じつはね、アタシもD∴C∴のこと調べているのよ。正確にはその首領についてだけれど」
 悠香は撫子に向かって微笑みかけた。
「教えてくれるわよね?」
「ただの女子中学生がダークにゃんちゃらにゃんて知ってるわけにゃいですよぉ、にゃはは」
「この病院はね、魔導の研究のために造らせた施設なの。もちろん生体実験もしてるのよ」
 不気味に微笑んだ悠香の顔を見て撫子はゾッと後退りをした。
「末端の構成員にゃんで、本部のことはよくわかんにゃいってゆーか、首領の顔も声も知らにゃいってゆーか」
 その答えに納得したのかわからないが、悠香は次にベッドの翔子に顔を向けた。
「こちらのお嬢ちゃんは、じつをいうと知り合いの知り合いの知り合いなのよねぇ」
 すかさず亜季菜がつっこむ。
「知り合いを伏せ字みたいに使わないで、ハッキリいったらどう?」
「アタシの幼なじみの息子の彼女なんでしょう?」
 この解答に翔子はいくつかの意味で眼を丸くした。
 何食わぬ顔で悠香は電動車椅子を走らせ亜季菜の横を通り過ぎる。
「その彼氏クンには伊瀬を通して連絡しておいたから」
 そのまま悠香は病室を出た。
 しばらく廊下を進んでいると、愁斗とすれ違った。先を急ぐ愁斗は悠香のことなど眼中にないようすだ。
 微笑む悠香。
 不思議な気配を感じて愁斗は振り返る。
 しかし、そこにもう車椅子の女の影はなかった。
 病室の前までやってきた愁斗はそこから先に進めなかった。
 中からは話し声が聞こえる。翔子の声も聞こえた。
 その場を静かにあとにする愁斗の前に伊瀬が現れた。
「翔子さんに会わなくていいんですか?」
「今は会えません。これからも……」
「差し出がましいようですが、お力になれることがあればなんなりと」
「なにも……いや、撫子をロビーに呼んでもらえませんか?」
「かしこまりました」
 二人が事故にあったとしか聞いていなかった。周りを取り巻く環境のせいで、ただの事故ではないとすぐに勘ぐってしまう。たしかにこの事故は、事故ではなく事件で、殺人未遂だった。
 そのことをロビーに呼びだした撫子に愁斗は聞くことになる。
 ロビーの長椅子で患者たちに混ざって待っていると、ギブスのついた片腕を包帯で首から吊り下げている撫子が現れた。
「お姫様が待ってるから早く病室に行ってあげなよ」
「なにがあった?」
 冷酷な怒りに満ちた声音だった。
 尋ねているのではなく、答えろという命令だった。
 殺気に当てられた撫子は真面目な顔をして話しはじめる。
「詳しくは話してくれにゃいんですけど、翔子ちゃんイジメられてたらしくって、それがエスカレートしたみたいで、赤信号の道路に突き飛ばされたところを美少女のアタシが華麗に救ったというか」
 診察を待っていた老婆が急に悲鳴をあげた。
 小さな子供が嗤いだす。
 そして、意識不明で運ばれてきた患者が、急に起きて半狂乱で暴れ出したのだ。
 ロビーに吹き荒む風。
 撫子は背筋を凍らせ恐怖した。
 鬼気を纏いながら病院をあとにする愁斗を止めることができなかった。
 空は急に曇りはじめ、遠くから雷鳴が聞こえてきた。
 愁斗は怒りを抑えられなかった。
 三人とも病院送りにしてやればよかった。
 翔子を突き飛ばして殺そうとしたのは残りのどちらか?
 そんなことどうでもよかった。
 復讐だ。
 心の声が復讐しろと叫んでいる。
 そして、復讐が終わればすべて丸く収まる?
 愁斗は立ち止まった。
 それで自分と翔子はうまくいくのだろうか?
 他人のせいでこうなかったのか?
 すべてを周りのせいにしてしまえば楽だった。
 しかし、愁斗は気付いている。
 だから翔子に別れを告げたのだ。
 それなのに、未練が残っているのはなぜだ?
「僕がすべてをだめにしたんだ」
 翔子の歩む道を共に生きたかった。
 なのに結果は自分の道に翔子を引きずり込んでしまった。
 後悔。
 呪われた自分の運命への憤り。
 渦巻く怒り。
 幼いころに母と死別して以来、過酷な道を歩んできた。父と共に拉致され組織によって飼育された幼少期。どうにか組織から逃げ出すも、親がいない、頼る者もいない世界で、幼い子が生きるのは過酷だった。生きるために傀儡師としての力で手を赤く染めた。亜季菜に拾われるまでは本当に最悪の人生だった。
 亜季菜は愁斗に新たな道を与えたが、その先に光は見えず、依然として闇の中を歩き続けてきた。
 光が欲しかった。
 闇の中に灯る光は愁斗にとって希望だったのだ。
 愁斗は胸を押さえた。
 ここにはまだ大切なひとからもらった光が残っている。
 翔子は決して復讐なんか望んでいない。
 そんなことはわかり切っている。
 なのに復讐しろと震える手が猛っている。
 翔子をイジメている相手を目の前にしたら、今なら確実に八つ裂きにしてしまう。
「クソッ……どうしたんだ僕は……」
 明らかに可笑しい。
 まるで自分が自分で無くなっていくような。
 闇に呑まれていく。
 朝から空を覆っていた雲は黒くなり、雷が鳴り響くとほぼ同時に豪雨が降ってきた。
「あああああああっ!」
 急に腕を押さえながらしゃがみ込んだ愁斗。
 まるで漆黒の蛇に巻き付かれたように、両手の指先から〈闇〉に侵蝕されていく。
 心の異変。
 そして、躰に起きた異変。
 使役していた〈闇〉に喰われる。
 手が焼けるように痛い。
 手が凍るように痛い。
 〈闇〉に喰われたくなければ、べつのモノを生贄に喰わせればいい。耳元でそう囁かれている。力の暴走は、その力を解放して放出してやればいい。
 復讐だ、復讐だ、復讐だ!
 頭の中で木霊する叫び声。
 豪雨と雷鳴しか聞こえない灰色の世界。
 ――愁斗は発狂した。
 目の前に二人の女子生徒が現れた。翔子をいじめていた二人だ。
 なぜ、どうして、ここに?
 血眼の二人が急に襲ってきた。
 嗤う愁斗。
 二人の首が飛び、胴が腰からずり落ちた。
 水溜まりが朱く染まる。
 愁斗の世界が暗転して眩暈を覚えた。
 目を瞑り開けると、地面には男の屍体が二体あった。
 ただの男たちではない。躰が爬虫類のような鱗で覆われていた。
 再び目を瞑り開けると、そこには少女たちの屍体があった。
 なにが現実でなにが幻か?
 死の雨が降る灰色の世界を愁斗は歩きはじめた。

 撫子からのメールで二人が交通事故に遭ったことを知り、麻耶は自宅マンションを飛び出した。
 雲一つない真っ赤な夕焼け。
 エレベーターで降りようとドアの前で待っていると、階段に人影を見た。
 不思議な顔をする麻耶。
「愁斗?」
 見間違いだろうか?
 麻耶はその人影を追いかけた。
 屋上へと続く階段。その先のドアは開かれたままで、人の気配がした。
 少女たちの話し声。
「翔子が救急車で運ばれたって知ってる?」
「なにかしたの? ちょっとやり過ぎじゃない?」
「うん、殺そうとして失敗しちゃったの」
 ただ事ではない言葉を盗み聞きして、麻耶は気配を殺してドアの前で身を潜めながら、そっと首を伸ばして少女たちの顔を見た。自分と同じ学校の制服だが、同級生ではないということまでしかわからなかった。
 不気味に嗤っている少女。
「美緖も意識が戻んないし、わたしが最後に残ったら、愁斗君はわたしのこと見てくれるかな?」
「なにいってるの?」
「愁斗君はわたしだけのものなの。だから死んでくれない?」
「え?」
 驚きの顔は一瞬にして恐怖へと変わった。
 今の今まで友達だと思っていた相手が包丁を握っている。
 背を向けて逃げようとする少女を、狂乱の少女が飛びかかって押し倒した。
 躰の内側から焼かれたような激痛。制服をどす黒く染める滲み出てきた血。包丁は肺に達していた。
 苦しみ藻掻きながら地面を這って逃げようとする少女。
「ギャアアアアッ!」
 そのふくらはぎが刺された。
 さらに太腿、腰、背中。
 のたうち回って仰向けになった少女を見下す狂乱の少女。
「死んでも友達だからね」
 包丁は胸を突いた。
 何度も何度も、抉るように、肋骨に当たった刃が毀れるほどに。
 夕焼けよりも朱い。
 満面の笑みで狂乱の少女は振り返った。
「わたしよく殺ったでしょ? 褒めてくれるよね、愁斗君」
 その名を呼ばれ、物陰からなんと愁斗が現れた。
「頭を撫でてあげるからこっちにおいで」
 甘く優しい声で誘われ、狂乱の少女は足を弾ませながら駆け寄った。
 笑顔のまま首は宙を舞った。
 躰は愁斗に辿り着くことなく崩れ落ちる。
「バカな女だ……クククッ」
 夢を見たまま狂乱の少女は死んだ。
 血の臭いは麻耶の元まで漂ってきた。
 吐き気を催しながら麻耶は口元を押さえて逃げた。
 悪夢を見た。
 現実のはずがない。
 頭は混乱していたが、これが夢ではないという自覚はある。
 ひとりで抱えるには恐ろしい出来事。
 麻耶は震える手でスマホをポケットから出した。真っ先に浮かんだ顔。
「もしもし隼人?」
《なにかあった? 声が変だけど》
「今すぐ会いたいから家の外で待ってて」
《どうしたの?》
 恐ろしくて口にすることができなかった。今はとにかく隼人の顔が見たい。
 二人は同じマンションに住んでいる。電話をかけてすぐに会うことができた。
 心配そうな表情をしている隼人に麻耶はなにもいわず抱きついた。凍りつくような震えが隼人の躰にも伝わってくる。
「なにがあったの?」
「……人が殺されたの」
「まさか」
「下級生だと思う。刃物でもうひとりの子を刺して、嗤いながらだよ、何度も何度も、そしたら愁斗が現れて……いやっ!」
 強く目を瞑って麻耶は隼人の背中を握り締めた。
「落ち着いて、大丈夫だから」
「落ち着けるわけないでしょ!」
 急に叫んだ麻耶は涙を零しながら錯乱寸前だった。
 現場はこのマンション。
 屋上で人が死んでいる。
 愁斗はまだいるのか?
 この場から一刻も早く離れたいという気持ちが麻耶を支配していたが、隼人と二人ならば真実を確かめたいという気持ちも芽生えた。
「いっしょに来て」
 不安と真剣さの入り交じった眼差しで見つめられた隼人は、なにもいわず固い決心で頷いた。
 屋上へ向かう二人。
 ひとの気配はしなかった。
 生き物の気配はしなくても、そこには屍体があるはずだった。
「っ!?」
 麻耶は驚きで息を呑んだ。
 なにもなかった。
 風の吹く屋上。人影も、屍体も、血の痕も、そして臭いも、なにもかもなかった。
「本当に見たのよ!」
「疑ってはないよ、でも……」
 当然の反応だった。麻耶のことをよく知っている隼人が彼女を疑う余地はない。だからといって、信じがたい話であり、証拠もなく、鵜呑みにはできなかった。
「本当なんだから!」
「だから信じてないわけじゃないけど、殺人があった証拠もないし、ましてや秋葉が関わってるなんて僕には思えないんだよ」
「なら愁斗を直接問い詰めて……でも怖ろしくてあたしにはできないから」
「僕だって殺人事件に関わってますかなんて聞けないよ。でもとりあえず電話はしてみるよ」
 それで麻耶の不安が解消されるならと。
 だが、愁斗のスマホは繋がらなかった。二度続けてかけたが留守番電話。
 それによって麻耶の不安は増すばかりだ。
「翔子にあたしが見たことを話すわ」
「見間違えだったとき見間違えでしたじゃ済まされない話だよ」
「でも話さなきゃ。だって本当に愁斗が怖ろしい殺人者なら翔子に教えてあげなきゃ。彼女今病院にいるの」
「翔子ちゃんが病院に?」
「交通事故に遭ったんだって、撫子といっしょに」
「いつ? 怪我の具合は? そんな事故のあとで彼氏が殺人犯だなんてこと話すのよくないよ」
「でもだって!」
 白昼夢のはずがない。
 連続した時間の中で、今が現実ならば、屋上での凄惨な出来事も現実であったはず。そうとしか思えないから、不安と恐怖に麻耶は押しつぶされそうになる。
 隼人は麻耶の手を握った。
「秋葉には連絡がつかないんだ。ここに証拠もない。翔子ちゃんと撫子が心配だから、病院に行こう。それでいいよね?」
「うん、わかった」
 消えそうな声で返事をした。
 屋上から二人が消えたのを見届けてから、その人影は姿を見せた。
「危ない危ない、包丁が残ってたぜ」
 異形の手が拾い上げた包丁から血が滴り落ちる。
 病院の受付でこう告げられた。
「面会謝絶となっております」
 息を呑んで蒼白になった麻耶は崩れるように倒れ込んでしまった。
 麻耶の肩を支えながら隼人はカウンターから身を乗り出した。
「そんなに瀬名さんは悪いんですか?」
「患者さんの病状についてはお答えできません」
「友達なんですけどダメですか?」
「ご家族でないとプライバシーに関わりますので」
 仕方がなく隼人は麻耶を支えながら、この場から立ち去ろうとしたときだった。廊下の奥から見覚えのある姿があらわれた。向こうもこちらに気付いたらしい。
「あ……、あれガッコーのセンパイにゃんで、ちょっくら行ってきます」
 撫子は亜季菜に一言告げて隼人たちのもとへやってきた。
 首から提げた包帯で片腕を固定している撫子の姿を見た麻耶は、口元を抑えて深刻な顔をした。
「大丈夫なの? 翔子は?」
「あたしはぜんぜんへーきっス。かる~く全身打撲と片腕骨折」
 隼人が会話に入ってくる。
「それは平気じゃないよ、ベッドで寝てないと」
「あたしなんかより翔子が……」
 肉体的ではなく精神的な傷を深く負っている。
「ねぇ、翔子の病室まで案内して?」
 友人を心配してお見舞いに来たようにしか見えなかった。蒼白な顔をして、なにかに怯えているような雰囲気の麻耶は、事故に遭った二人を危惧しているように見えた。その奥に隠された感情を撫子は読み取ることができなかった。そのためすぐに病室に案内してしまったのだ。
 病室の前にきた麻耶は撫子にここで待つように告げた。不思議な顔をする撫子。なぜ自分が席を外さねばならないのかわからなかった。
 不安そうな顔をしている隼人は、麻耶を見つめていた。
 病室のドアが閉められた。
 キメラとして造られた撫子は猫の鋭い聴覚を持つ。ドア越しに姿は見えなくても会話を聞くことはできるのだ。
「怪我の具合は?」
 まず麻耶は翔子を案じる会話からはじめた。
 次になにがあって、どうしてそうなったのか、これまでの経由に質問が及び、翔子はときおり口を閉ざしながら、なにかを隠すような素振りで会話しているのが聞き取れた。
 しばらくして中の会話が途切れた。
 そう長い時間ではなかったが、沈黙は長く感じられるものだ。
 場を取り直そうと隼人が口を開く。
「そういえばさ」
 それを遮るように麻耶が口走る。
「愁斗のことどう思っているの?」
 今までの会話から脈絡のない質問だった。すぐに翔子は答えない。このとき翔子には愁斗に対する疑念があったからだ。
 隼人が麻耶の腕をつかむ。
「翔子ちゃんの体が心配だから、もう帰ろう。遅くまでいると悪いよ」
 静止させようとしたのだが、それを振り切り麻耶は口を開いてしまった。
「人が死ぬのを見たの……それに愁斗が関わっているかもしれない」
 突拍子もなく、麻耶が可笑しくなったのではないか、これを聞いて普通はそう思うだろう。だが、翔子は違った。知っているからだ、みんなが知らない愁斗の姿を……。
 さらに麻耶は口を開こうとしたが、それは隼人によって静止させられた。
「麻耶! 翔子ちゃん気にしなくていいから、そんなわけないんだから。いくよ麻耶」
 無理矢理に腕を引っ張り麻耶を病室から出そうとする隼人。少し取り乱した様子で麻耶は抵抗して腕を払い口を開く。
「だってあたし見たのよ、うちの学校の女の子がほかの女の子が殺されるところを! そこに――」
「いい加減にしろよ麻耶、少し冷静になるんだ!」
 隼人は麻耶を後ろから羽交い締めにして口を押さえた。
 興奮しきっている麻耶はそれでもなにかをしゃべろうとしている。
 黙していた翔子。
 そこに――愁斗がいた。
 話の脈略からそうに違いなかった。翔子はさらに考える。
 同じ学校の女子生徒はだれか?
 自分と関係のある生徒なのか?
 渦巻くように考えが廻り、自分と麻耶が見た何かを、不安を入り混ぜながら繋げて考えてしまう。愁斗のことを考えるあまり、なんでも自分と結びつけずにはいられなかった。
 怖ろしい考えがある。
 もしも愁斗が本当になんらかの殺人に関与しているのならば、そしてそれが同じ学校の女子生徒ならば、そう、自分をイジメていた生徒なのではないのか!
 その推測は当たっていた。けれど、麻耶は女子生徒がだれなのかわからず、翔子も自分をイジメていた生徒を特定できていない現状では、それを知ることはできなかった。
 不安だけが膨らんでいく。
 翔子が口を小さく開けた。その顔は蒼白い。
「ごめんない、少し体調がすぐれないみたいで……」
 その言葉で麻耶の躰から力が抜けていった。
 ぎこちない笑みを浮かべる隼人。
「また来るから、お大事に」
「また……ね」
 麻耶の言葉は少なかった。
 病室から出ていく二人。
 ドアが閉まってすぐに翔子は目を伏せた。
 廊下に撫子の姿はなかった。二人が病室から出てくるのを察して隠れたのだ。
 撫子は二人の背中を見送ったあと、顔を少し上げた。
「つまりそういうことらしいですけど?」
「情報が少ないのでなんともいえませんね」
 そこにいたのは白衣に身を包み医師に変装していた影山彪彦だった。
 中での会話を盗み聞きした撫子は彪彦に説明していたのだ。
「で、にゃんでここに来たんですか?」
「君の体内に埋め込まれた発信器が、この場所を示したものだからね」
「ストーカーっスか?」
「この場所がどんな場所か知ってるのかね?」
「病院」
「表向きはそうだが、実際は生体分野における魔導研究所なのだよ。そして、重要な点は姫野グループの傘下ということだ」
 撫子は車椅子の女性を思い出す。初対面だったが、適当に雑談をした。愁斗の監視役として亜季菜の存在と、その姉について表面的な情報は知っていたが、それだけの存在だった。
「姫野グループってただの大企業じゃにゃいの?」
「たしかに第二次大戦前からの名家ではあったが、ここまで急激に成長を遂げたのは先代、成長率でいえば今の会長のほうが上だが、産業分野に魔導を取り入れたことが大きい。もちろん表沙汰にはなっていない事実だがね」
 それは亜季菜も知らない事実だった。彼女が魔導を知ったのは愁斗と出逢ってからだ。
 運命には引力がある。
 張り巡らされた糸が結びついていく。
「姫野悠香――彼女自信は魔導士ではない。が、彼女はもうこちら側の人間だ。ただの令嬢に過ぎなかった少女が、あるときある少年と出逢った。人の結びつきは交差するものなのだよ」
「にゃに言ってるかわかんにゃいですよ」
「観察したまえ、すべては結びついている」
「まどーしってどーしてぼやーんとした思わせぶりなセリフ吐くんですかねー」
「魔導の世界の言語化はじつに困難なのだよ。とにかく君は今まで通り観察して私に情報をくれたまえ。とくにこれから秋葉愁斗の監視は強めたほうがいい」
 なにかが起ころうとしている。
「にゃんでですか?」
「どうやら彼に復讐をしたがっている者がいるらしい。ひとつではない。多くの復讐が折り重なっている。敵は魔導士だ、元は我らの同士であった女にして、かつての指導者の愛人」
「それってまさか……邪眼使いの魔女……」
「狂人にして凶悪の母」
「どうして愁斗クンが狙われてるんスか?」
「折り重なっている運命により」
「だーっもぉ! わかりづらい!」
 なぜメディッサが愁斗を狙っているのか?
 そして、もうひとり愁斗に復讐を誓っている麗慈の存在。彪彦はそこまで把握しているのだろうか?
「また組織に大きな変化がありそうですね。君も身の振り方を間違えぬように、今のは長生きしてきた年寄りからのアドバイスですよ」
「だから漠然とした感じじゃにゃくて具体的に」
「では、さようなら」
 白衣の中身が急に消失して、ふわりとその場に服だけが落ちた。すぐに撫子は窓の外を見た。黒い鳥が暗い空に飛び去っていく。
 息を呑む撫子。
「やにゃ予感がする」
 動物的な勘。研ぎ澄まされた人間を超えた野性的な勘が何かを予感させている。
 糸は絡み合っている。
 ずっと昔から、その糸は続いている。
 撫子は病院をあとにすることにした。忠告である監視をしなくてはならない。まずは愁斗を探し出し、魔女の存在を知らせなくては。それと同時に愁斗のことを考えると、麻耶の話も気になってくる。
 とにかく事はすでに起きていたと撫子は実感した。
 病院を出た撫子は振り返る。考えを巡らせていくと、翔子のことも気になる。
 魔導の世界に足を踏み入れた者は、知識としてではなく実感としてそれを識っている。
 ――この世界に偶然などないのだ。
 翔子の身に起こったことは、今起こっている何かと関係あるのではないか?
 そうなると翔子を残していくは心配だ。少なくとも同じ学校の生徒に殺されかけたのを撫子は見ている。狂人に命を狙われているのは起こった事実だ。
 なにを優先すべきか?
 もつれ合う糸の中心はどこか?
 真っ先に浮かんだのは秋葉愁斗の顔だ。
 やはり愁斗を探すのが先決だと考え、スマホをポケットから出そうとした。
「しまった、爆砕したんだった。バックアップはウチにあるから、とりまそれ持ってケータイショップで……っ?」
 耳がキーンとした。音は遅れてやってきた。
 猛烈な爆発音が上からした。
 硝子片が地上に降り注ぐ。
 病院だ、あの部屋はどこだ、煙が室内から外へ立ち上っている。
 爆発物があんな場所にあるわけがない。
 煙の隙間から男が吹っ飛ばされたように落ちてきた。爆発から時差があったことから、その影響ではなく別の力によって落とされたに違いない。ならばこう考えるのが打倒だ。
 戦闘がはじまっている。
 問題は誰と誰が戦い、その目的はなにかということだ。
「まさか翔子の病室……でもまたあの女に命を狙われたにしては」
 翔子を道路に突き飛ばした女子生徒の仕業にしては、事が大きすぎる。
 考えていても答えは見つからない。今は急いで現場に駆けつけなくては。
 すでに院内は火災報知機が鳴っていた。騒然として慌ただしい雰囲気。
 周りに構わず撫子は廊下を走る。現場はそこか断定はできないが翔子の病室に急いだ。
 しかし、その前に立ちはだかった警備員たち。
「この先は危険ですので、現在通行を規制しておりますので、どうぞ安全な場所へ引き返して下さい」
 違うと撫子は直感した。
 ただの警備員ではないのだ。中年のアルバイトではなく、完全に訓練された戦士だ。プロテクターを装備して、この日本でサブマシンガンまで持っている。
 こいつらが敵かと撫子は勘ぐった。下手に刺激しないで、別ルートを探すべきか?
 そのときだった。激しい駆動音を鳴らしながら、バイクのようなスピードで車椅子の人影がこちらに向かってきた。
「退きなさい!」
 謎の警備員たちが機械のように道を開けた。
 撫子の横をすれ違う寸前に悠香はこう言った。
「足に自信があるならついていらっしゃい!」
「にゃ? はい!」
 あんなスピードで走る電動車椅子など見たことがない。
 魔導産業という彪彦の言葉を撫子は少し脳裏に浮かべたが、それよりも今は車椅子に追いつかなければ。
 曲がり角でドリフトする車椅子。追って曲がった撫子の髪を何かが掠めて舞い上がった。
 髪の焦げた異臭。
 銃声がした。だが、撫子の髪を掠めたのはそれではない。
 警備員たちと何者かが交戦中だった。
 足止めを食らう悠香が苛立つ。
「地下施設を破壊された上に、表でも暴れてくれちゃって。なにが腹立つって、地下が囮でこっちが本命だったことよ。子猫ちゃん、道を開けるからお友だちを助けにいきなさい」
「子猫ちゃんってあたしのこと? つーか、翔子が危ないってこと?」
 質問は無視され、車椅子の背もたれに内臓されていたランチャーがお目見えして、それを悠香が構えた。
「目をつぶってスリーカウントでダッシュするのよ!」
 蒼白い閃光がランチャーから放出された。
 弾丸ではなく光線だ。
 衝撃でタイヤを逆回転させながら悠香が後退する。
 目が眩む閃光の中で呻き声に混ざって叫び声がした。
「とっとと走りなさいドラ猫!」
「は、はい!」
 目をつぶっても、その閃光は網膜に焼き付き、まだ視力が戻らない。それでも悠香の激昂に押され撫子は全速力で走った。
 肉の焼ける臭い。
 ここを抜ければ翔子の病室はすぐそこだ。
 ドアは開いていた。
 飛び込むように撫子は部屋に入った。
「にゃ……!?」
 巨大な漆黒の影が撫子の前に立ちはだかったのだ。
 妖しいまでの静寂がこの部屋を包んでいた。

 灰色の世界。
 地面では黒い傘たちが廻り廻り踊っている。
 雫が落ちた。
 朱い朱い雫が跳ねた。
 灰色の世界を朱が彩る。
 跳ねる刎ねる。人々の首がはね飛ばされた。
 嗚呼、無音の絶叫。
 愁斗は口を押さえて目を丸くした。
 世界に音と色が戻る。
 だれも死んでいなかった。
 夢だった。
 街を行き交う人々の首が次々と飛ぶ悪夢だった。
 現実ではない。
 両手を開いて愁斗は息を呑んだ。
 血塗られている。
 雨で滲みながらアスファルトに落ちていく。
 街を行き交う人々は生きている。
 この血は?
 思い出せ、しっかりと、虚夢ではなく現実を――。
 少女たちを殺した?
 激しく首を横に振った愁斗の髪から雨が飛び散る。
「違う!」
 異形の者を殺した?
 人々が振り返り愁斗を見た。
 鱗に覆われた顔、顔、顔。
 眼に映る人々の顔は爬虫類のようだった。
「ああああああっ!」
 叫び声をあげた愁斗の手が〈闇〉に呑まれる。
 放たれた妖糸。女の悲鳴。男の悲鳴。人々の悲鳴。
 愁斗は目を固く閉じ、ゆっくりと開く。すると、そこに異形などいなかった。平凡な人々が日常を奪われた光景が広がっていたのだ。
 うずくまる者、腕を押さえる者、脇腹から血を流す者、背中を切られ倒れた者。
 叫び声、泣き声、怒号。
 暴走した愁斗の妖糸が人を斬った。見ず知らずの、ただその場に居合わせた人々を傷つけたのだ。
 震える愁斗。
 見開かれた丸い瞳に二人の人影が映る。
「……なに……したの?」
 恐怖、怒り、入り乱れる感情で声は震えていた。
 その声の主を愁斗は、やっと理解できた。
 目の前に立っていたのは、隼人と――狂乱の形相を浮かべる麻耶だった。
「あんたなにやったの? あんたがやったんでしょッ!」
 叫びながら愁斗に飛びかかろうとした麻耶の腕を隼人がつかむ。
「待ちなよ!」
「だって! だってこいつが!」
 屋上で人を殺した。
 そして今、なにが起きたのかわからないが、愁斗の周りで人々が突然、なにかによって切り刻まれた。それが妖糸であることを麻耶は知る由もないが、ここで事件が起きた瞬間、愁斗と結びつけた。
「あんたが人殺しするの屋上で見たんだから!」
 半狂乱になりながら麻耶が叫ぶ。
 愁斗は身に覚えがなかったが、記憶が曖昧で自身に疑念を抱いてしまう。
 今は現実なのか?
 次の瞬間、愁斗の耳から音が消えた。
 隼人に押さえられながら、麻耶が口を動かしている。なにかをしゃべっているが聞こえない。そして、世界の時間は急激に遅くなり、スローモーションになり、一瞬にして再生された。
「危ない!」
 叫んだのは隼人。視線は愁斗の後ろ。
 振り返った愁斗は本能で蒼炎を躱した。
 爆風が砂埃を起こし、アスファルト片が空から降ってきた。
 これは現実だ。
 虚ろな世界から覚醒した愁斗は身構えた。
 敵がいる。自分が狙われた。目的はなんだ?
 思考を巡らしながら愁斗は辺りを見回す。蒼炎が飛んできた方向は斜め上。ビルの窓に人影はない。逃げられたのか?
 後ろを振り返った愁斗は見てしまった。
 焼け焦げた臭いの先で青年が倒れている。そこに近づこうと、片脚を引きずりながら歩き、手を伸ばす麻耶の姿。そうだ、焼け焦げ倒れていたのは隼人だ。
「……はや……と」
 呼びかけに微かな反応があった。
「だいじょうぶ……生きてる。でも、目が開かない」
 光すら感じられない。瞼の先に光を感じられないのだ。
 悲惨な表情で麻耶は自らの顔を両手で覆った。指の隙間から見える痛々しい姿。
 髪が焼け焦げ禿げあがり、皮膚は赤くまだらに腫れ上がり、そこに隼人の面影はなかった。
 あのとき、蒼炎を本能的に躱してしまった愁斗。その先には麻耶と隼人がいた。隼人は麻耶を突き飛ばし、邪悪な炎の餌食になってしまったのだ。
 あたりはパニックだった。
 人々が斬られ、次に炎で焼かれた。
 理解はできないが、だれも危険を感じて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
 が、しかし。
 その場にあって動かぬ者たちがいた。彼らは愁斗を見ていた。囲まれていたのだ。
 風が鳴る。いや、それは鳴き声だ。まるで蛇のような鳴き声だった。
 爬虫類の顔をした刺客が愁斗に襲い掛かる。手に持つは鋭い短剣。
 大勢の人がいる。その中には知り合いがいる。こんな街中で戦うなどしてはならない。せめて紫苑さえここにあれば、なとど考えながらも愁斗はやるしかなかった。
 敵はこの場所で仕掛けてきた。
 奴らは世間に隠す気はないようだ。愁斗もその土俵に無理矢理上がらされた。
 宙を煌めく一筋の輝線。
 ずるりと爬虫類の首が落ちた。
 女が絶叫している。
 構わない。
 愁斗はさらに妖糸を放った。
 後ろから襲い掛かってきていた爬虫類人間の腕が斬られて飛んだ。
 次は横。
 脚を斬られた爬虫類人間が走ってきた勢いのまま前方に激しく転んだ。
 さらに反対方向から襲ってきた爬虫類人間の胴が落ち、妖糸はそのまま愁斗の後ろで血の噴き出る腕を押さえていた爬虫類人間の顔を横に真っ二つにした。
 やつらの血も赤かった。
 雨で濡れたアスファルトに朱墨のように血が広がっていく。
 凄惨な世界に取り残された者たち。
 女の泣き叫ぶ声がきこえてくる。愁斗は無視した。目の前にはまだ敵がいる。
 木の杖を持ち、漆黒のローブを羽織り、フードから覗く顔は、白蛇だった。
「眼があのころと同じだ。幼いながらに恐ろしい眼をする子だった」
 怨みのこもった憎しみの眼で愁斗は相手を睨んでいた。
「組織か?」
「我らは正統なるD∴C∴の魔導士であり、母なる魔女メディッサ様の使徒」
「名前だけは聞いたことがある。階位は高くないが、実質的な権力は組織の二番目だった女の名前」
 組織に攫われ、そこで教育を受けた愁斗だったが、D∴C∴について深く知るようになったのは逃げ出したあとだ。メディッサの名も組織を追ううちに知った名だ。
 愁斗の目的は主に二つ。組織への復讐と父の行方を捜すこと。今目の前にいる魔導士の目的は?
「僕を殺しにきたのか?」
「我々と来い。さすれば殺しはせぬ」
「組織の人間になれってことか?」
「いや、人質だ」
「なに?」
 傀儡師である愁斗は組織にとって戦力となる。だが、人質ということは目的は別にあるということだ。
「僕を人質にしてなにを企んでる?」
「我々と来れば教えてやろう」
 組織に戻るくらいなら、組織から逃げ出していない。
 母を目の前で殺され、父と組織に連れ去られた。組織の犬になるために教育された日々。生活とも呼べない世界から逃げ出せたのは、決死の覚悟で父が戦ってくれたお陰だ。共に逃げることは叶わず、父があのあとどうなったのか愁斗は知らない。
 だから組織に戻る気はない。
 輝線が宙を斬る。
 不意打ちとはならなかった。愁斗の抵抗など敵にとって予想の範囲である。
 妖糸は白蛇の魔導士の目の前で弾かれてしまった。透明な魔導壁だ。
 長く伸びた舌を舐り、白蛇は瞳を輝かせた。
 愁斗は身を強ばらせた。
 罠だ!
 魔導壁は妖糸を弾くためのものではなかった。
 少しの会話の間、罠は仕掛けられたいのだ。
 愁斗の四方を囲んだ魔導壁。地面を見ると呪文図形が描かれていた。
 白蛇の魔導士は杖の先を地面に激しく打ちつけた。
 呪文図形がまばゆく輝き、宙に浮かび上がった。図形だけではない、愁斗の体もだ。
 魔導壁は四方だけではなかった。六面体として愁斗を捕らえ、そのまま運ぼうというのだ。
 妖糸を放つがびくともしない。
 ただ斬るだけではだめだ。妖糸は物質を斬るだけではない。空間を斬ることもできる。それはすなわち結界をも斬ることができるということ。
 〈闇〉を喚ぶ。
 愁斗は妖糸を放った。
 火花が散った。
 さらに妖糸が放たれた。
 火花が散った。
「この結界は傀儡師にも切れない」
 とても冷たい白蛇の魔導士の言葉。
 愁斗と戦うにおいて、傀儡師対策をしていないはずがなかった。
 爬虫類人間の屍体が転がっている。その血が描く幾何学模様。
「我らが同胞の呪いにより、その障壁は力を得た。並大抵の力では破ることはできまい」
 妖糸のよって斬られた爬虫類人間たちは、死をもってして魔法陣を完成させたのだ。
 魔法や魔術といった類のものの中で、呪詛は強力なことが多い。その多くは代償を払うことで発動する。死を代償とした呪詛の効果は絶大だ。
 愁斗の妖糸で切れるぬのならば、別の力に頼るしかない。
 煌めく輝線。
 妖糸が描く奇怪な紋様。
 次元の裂け目から、〈それ〉の呻き声が聞こえた。
 四方を囲まれた小さな結界内で愁斗は召喚[コール]を行うつもりだった。こんな密閉空間で召喚を行えば愁斗の身がただではすまない。
 〈それ〉が身震いすると、地を這う百の足音が迫ってきた。
 闇色の稲妻が宙を駆け抜けた。
 身を翻した白蛇の魔導士の腕を稲妻が貫いた。地面に落ちた焼け焦げた腕が腐敗する。
 地面に手を突き、片膝を立てていた愁斗が顔を上げる。闇の稲妻は白蛇の魔導士の腕を斬り、さらに愁斗を閉じ込めていた結界を破壊し、さらに召喚の魔法陣も斬っていた。
 百の足音が〈向う側〉に還っていく。
 愁斗は見た。
「だれだ?」
 自分を助けたとしか思えない。
 風が吹き荒れる。
 ぞっとするような寒気が背筋をなでる。
 降り注いでいた雨も息を呑んで止んでいた。
 黒緋色の影が蜃気楼のように立っている。
 インバネスを纏ったその姿は傀儡紫苑に似ていたが、その者が放つ鬼気は心臓を抉るほど凶悪で、世界を震撼させる圧倒的な力をもっていた。
 白蛇の魔導士は蛆の湧く腕の傷口を短剣でさらに切り落とし、禍々しさに駆られた眼で黒緋色の影の睨みつけた。
「あやつ……なのか?」
 無機質で無表情の白い仮面が、たしかに嗤った。
 黒緋のインバネス、無機質な白い仮面、六本の鉤爪を備えた黒光りする手。
 絶叫にも似た音を立てながら闇色の稲妻がその手から放たれた。
 愁斗はその稲妻の正体を見きった。妖糸だ。〈闇〉を纏った妖糸だった。
 傀儡師?
 麗慈なのか?
 邪悪な力を得て麗慈が還ってきたのか?
 闇色の妖糸が白蛇の魔導士の胴を貫いた瞬間、爆発が起きた。
 血肉が飛び散り、大量の蛆が飛散した。妖糸に触れた躰は内から闇蛆によって食い破られ、内蔵を食らった闇蛆の放出した毒ガスが充満して、最後は爆発を起こしたのだ。
 仮面の傀儡師は愁斗の近づきながら腕を振るう。
 物陰で爆発が起きた。ビルの屋上で爆発が起きた。短剣を振りかざし背後から襲ってきた爬虫類人間が爆発した。
 片膝をついたままの愁斗の横を仮面の傀儡師は素通りした。
 止まっていた愁斗の汗が滝のように流れ出す。
 圧倒的なプレッシャーの中で、愁斗は声を絞り出す。
「だれ……だ?」
 仮面の傀儡師は答えない。愁斗を無視して地面に転がっていた生首を拾い上げた。白蛇の魔導士は怨みのこもった眼で仮面の傀儡師を見ていた。生首になっても、まだ生きていたのだ。
 空気の抜けるような掠れた声で白蛇の魔導士がしゃべる。
「おま……え……から……姿を……みせ……るとは。やはり……息子がかわいいか?」
 まるで電撃が走ったような衝撃を愁斗は覚えた。糸で紡がれた答え。
「……父さん?」
 訝しげな顔で尋ねた声に仮面の傀儡師は背を向けたままだった。
「人間をやめた私に子などいない」
 老人のようにひどくしゃがれた声だったが、幼いころにきいた声の面影を残していた。
「父さんなんだろ! 今さらなんで、今までどうして、なにが……」
「目的はただひとつ」
 生首を持つ手に力がはいり、鱗に鉤爪が食い込む。
「〈タルタロス〉に続く〈門〉の〈鍵〉はどこだ?」
 その問いに白蛇は邪悪に嗤った。
「死ねッ!」
 白蛇の魔導士の眼が妖しく輝き、生首は灰と化して絶命した。
 最期の呪い。
 生首を持っていた手が石に変化して、石化は腕を登り侵蝕していく。
 輝線が石化した腕を落とした。噴き出た血は一瞬にして止まった。ためらうことなく仮面の傀儡師は自らの腕を切断して、瞬時に妖糸で止血したのだ。
 襲撃者たちは死んだ。
 一時の静寂。
 惨劇のこの場所から、多くの人々は逃げ去ったが、取り残された負傷者たちもいた。地面に仰向けになった隼人の手を握り、祈るようにして涙が流す麻耶の姿。
 立ち上がった愁斗は隼人たちに近づこうとしたが、その気配に気付いた麻耶に鋭い眼を向けられて足を止めざるを得なかった。
 瞳に恐怖など浮かんでいない。その瞳には憎しみしかない。
「あんたのせい」
 理由もわからず、状況もわからず、ただ巻き込まれた。
 だれが悪い?
 理不尽な仕打ちに、麻耶は目の前のものに怒りをぶつけるしかなかった。
「隼人が、隼人がこんなことになったのは、ぜんぶあんたが悪いのよ! どうしてこんな目に、あんたたちなんなの……隼人が死んじゃう」
 隼人の手を強く握った。もう意識はないのか、握りかえしてこない。体温も徐々に冷たくなっていくのが感じられた。
 愁斗は立ち尽くしたままなにもできなかった。
 すべて自分のせいだ。
 今回のことだけではない。これまで身の回りのひとたちを危険に巻き込んだ。きっとこれからも同じだ。そして、いつかもっとも大事なものを失う日がくるかもしれない。
 死に向かう隼人の姿を見つめながら、愁斗はそこに翔子を重ねた。
 恐怖。
 膝から崩れた愁斗は地面に両手をついた。その横を冷たい風が抜ける。黒緋のインバネスが揺れる。
「妖糸から伝わる心音が消えかけている。その男はもうじき死ぬ」
 しゃがれた声は死の宣告をした。
 狂気の形相で声を荒げる麻耶。涙が飛散した。
「助けて! あたしの命なんてどうなっても構わないから、隼人を助けて――」
 そのまま俯き、消え入りそうな声でつぶやく。
「神様」
 白い仮面は無機質なままだった。
「悪魔でよければ」
 古来より悪魔はその代償を求め、人の子と契約をする。
 代償の多くは魂だ。
 六本の鉤爪で麻耶は頭部をつかまれた。
「なにっ!?」
 驚く麻耶はそのまま髪を引っ張られ無理矢理に立たされた。
 眼前で対峙する白い仮面。嗤っていた。
「魂をもらうぞ」
「ぐっ……ふ」
 口を開けたまま麻耶は眼を見開いた。
 鉤爪が麻耶の胸を貫いていた。血は出ていない。傷口もない。腕が通った胸の穴は漆黒で覆われて影になっていた。
 胸を貫き握られた鉤爪の中でなにかが輝いている。
 ずるりずるりと、ゆっくりと胸から腕が抜かれていく。
「もらう魂は半分だ」
 引き抜いた手を開くと、そこには輝く紅い宝石のようなものがあった。無機質なのような見た目でありながら、まるで心臓のように脈打ち動いている。
「ずいぶんと穢れ、疲弊しているが、想いが真物[ほんもの]ならば男を生かすこともできるだろう」
 激しい苦痛を浮かべながら胸を押さえて倒れる麻耶に目もくれず、仮面の傀儡師は隼人の横で片膝をついた。
 鉤爪の指先が軽く弾くように動かされると、隼人の上着が斬られ上半身を裸にされた。
 妖糸が描く魔法陣。それは胸に描かれ、輝きを放った。
「分けた魂は相手の人格を狂わせる可能性もある」
 説明を口にしながら、妖糸で胸を縦に切り開いた。血は出ない。傷口は漆黒に覆われ、さきほど同様の影になっていた。
 紅い宝石が胸の中に埋め込まれる。
「二つに分けた魂は常にリンクしている。強い感情を抱けば、それは相手にも影響を及ぼす。死もまた同じだ。片割れが死ねば、もう片割れも死ぬことになる」
 胸が閉じられた。傷口は残っていない。
 閉じられていた隼人のまぶたが微かに痙攣して、指先が少し動かされた。
「隼人!」
 驚きと歓喜の声を上げながら麻耶は膝を突いて隼人の手を握った。
 冷たい。
 隼人の手を体温を失ったように冷たかった。
 蘇生に失敗したのか?
 麻耶の顔が蒼白に染まっていく。握っていた手は冷たいだけではなかった。白い鱗に覆われていたのだ。
 びくっと隼人の体は跳ねた。
 生命力を取り戻した隼人の体は、それと同時に症状を進行させたのだった。
 全身を覆い尽くしていく鱗。
 まるでその姿は白蛇の魔導士。
 隼人の眼がカッと開かれ輝いた。
 恐怖した麻耶は思わず握っていた手を離して後退った。
「隼人……なの?」
 返事はなかった。
 ふらつきながら立ち上がった隼人は頭を押さえ項垂れている。
「頭が……割れそうだ」
 姿は変わってしまったが、声と面影は隼人のままだ。それでも異質なものに変貌したことは変わりなく、恐ろしい姿の怪物がそこにいた。
 顔を上げた隼人と麻耶の目が合った。
「麻耶?」
 声をかけられた麻耶は息を呑んでから返した。
「隼人……なんだよね?」
「いったいなにが……よく覚えていないんだ。頭が痛くて」
「だいじょうぶだから」
 それは相手にかけた言葉なのか、それとも自分に言い聞かせた言葉なのか、麻耶は恐る恐る隼人に近づいた。
 その瞬間、鱗に覆われた手が麻耶を振り払って殴り飛ばした。
「きゃっ!」
 悲鳴をあげて倒れた麻耶が見たものは、輝く蛇眼だった。
「クククッ……」
 声は隼人。だが、中身は――?
「私を生き返らせてくれたことに感謝しよう」
 それは執念深い蛇の呪いだった。
 地面に落ちていた木の杖が宙を浮いて引き寄せられ、白蛇の隼人の手に握られた。
「蛇は何度でも転生する。近くに私の呪いに毒された躰があって助かった」
「隼人じゃないの?」
 おののき尋ねる麻耶を見ながら白蛇の隼人は舌舐りをした。
「私は隼人だ。おまえとの思い出も覚えてる。が、同時に過去の私たちの記憶も残っている、強くな」
 もはや麻耶は言葉すら発せず呆然としていた。
 黒緋のインバネスがはためく。
 闇色の稲妻が宙を翔る。
 一筋の輝線が煌めいた。
 仮面の傀儡師の放った妖糸は、白蛇の隼人の目の前で、別の妖糸によって切断された。
 身構えている愁斗。対峙するは仮面の傀儡師。
「殺そうとしたな?」
「やつはもう蛇だ」
「彼が死ねば、もう一人が死ぬとわかっていて、殺そうとしたな?」
「…………」
 仮面の傀儡師は答えなかった。
 少し前には命を助け、今は命を絶とうとした。
「本当に父さんなのか?」
 風が泣いた。
 仮面の傀儡師の妖糸によって空間が裂かれ、黒緋のインバネスは吸いこまれるようにして消えた。
 白蛇の隼人もこの場から消えようとしていた。
「この場はいったん引くとしよう。女はもらっていく」
 麻耶の腕をつかんで、もう片手にもっていた杖先で地面を叩く。
 爆風が巻き起こり、あたりは瞬く間に白い霧に包まれた。
 愁斗は妖糸を放ちあたりの様子を探った。
 この場で立っているのは愁斗のみ、あとは屍体だった。
 人の眼を気にしない敵の襲撃。
 父と思われし仮面の傀儡師の登場。
 白蛇の魔導士と化した隼人。
 そして、麻耶は攫われた。
 D∴C∴の目的は?
 仮面の傀儡師の目的は?
 タルタロスの門とはいったいなんなのか?
 その先になにがあるというのか?
 もつれ合う糸に愁斗は囚われていた。

 血の流れた現場から、愁斗は逃げ去り向かっていた――翔子がいる病院へ。
 白蛇の魔導士やその仲間が襲ってくるかもしれない。どんな場所でもお構いなく、周りの無関係な人々を巻き込んで。
 病院に着くと、パトカーが何台も止まっていた。外部からの侵入を拒み、閉鎖されているようだが、警官が閉鎖をしているわけではなかった。彼らも中に入れず立ち往生しているようだった。
「事件だと通報があった、中に入れなさい!」
 病院の入り口で警官が怒鳴っていた。おそらく何度もやり取りがされ、それでも中に入れず苛立っているのだろう。横にいる警官たちも不機嫌そうな表情をしていた。
 警官の数は入り口にいるだけで六人。入り口で仁王立ちをする番人ひとりを六人が取り込んでいるのだ。
 番人の男は春麗らかな表情をしていた。が、その格好はこの時期には少しそぐわない冬物のロングコートだった。
「依頼人にだれか通したらバイト代はなしって脅されてるんだ」
 年の頃は二〇代後半くらいに見えるが、声はもっと若く聞こえる。柔らかで少し高めの声だろうか。澄んだ瞳は周りの警官たちではなく、遠くの愁斗を見つめていた。
 愁斗は自分が見られていることに気付き立ち去ろうとしたが、相手はこっちにおいで眼で合図をする。妖しい輝きをする眼だ。
 敵意は感じないが、あの眼は魔導などを帯びた人成らざる力をもっている者特有の眼だ。罠の可能性もあったが、愁斗は病院の入り口に近づいた。
 警官の間を擦り抜け、男の前に立つ。
「僕になにか用ですか?」
「友達によく似てるなぁって思ったんだけど、ボクの勘違いだった。あいつは俺様オーラ全開でいけすかない感じだったし」
「僕には無関係な話ですね。それよりも、病院に同級生が入院してるんですが、中に入れてもらえませんか?」
「通れるならどうぞ」
「?」
 愁斗は訝しげな表情をした。
 警官たちにはそんなことはいわなかった。
 なにかある。
 激しい寒気を覚えたが愁斗は構わず自動ドアの前に立った。開かなかった。開くのならば、番人が立っている時点で開きっぱなしになっているはずだった。電源が切られているのだろうか?
 違った。
 肌を刺す痛烈な寒さ。
 異様な光景を愁斗は目の当たりにした。
 先ほどまで番人と押し問答をしていた警官たちがぴくりとも動かないのだ。息もしていなかった。
 自動ドアも同じだった。
 凍りついた世界。番人は春麗らかに微笑んでいた。
「今日も寒いね」
「D∴C∴か!」
 とっさに愁斗は飛び退いた。いつでも妖糸を放てるように構える。
 鋭い眼をした番人。春は消えた。
「その名前を知ってるなんて、ただの子供じゃないとは思ったけど」
 相手も知っていた。その名を知る者たちの世界はせまい世界だ。ただの人間が踏み入ることのできぬ裏の世界。
 世界を凍らす何らかの力をつかった者が常人であるはずがなかった。
「やはりD∴C∴かっ!」
 手にスナップを利かせて妖糸を放とうとした。
 ――重い。
 愁斗が片手に目を向けると、意に反して腕ごと垂れ下がり、拳が地面に落ちそうだった。肩のあたりから指先まで凍らされたのだ。
「あー、ムリして動かさないでね。綺麗に凍らせたから、ちゃんと解凍すれば一つも組織を壊さず元通りだから」
 腕を人質に取られたようなものだ。
 傀儡師として武器である手を失うわけにはいかない。だが、手ならもう片方ある。
「――っ!?」
 眼を丸くした愁斗。痛みすらも感じない。感覚がなく気付かなかったのだ。もう片手もすでに凍らされていた。それだけではない。脚もだった。
 手も足も出ない愁斗に番人が微笑みかける。
「中途半端に凍らせると死んじゃう場合もあるんだけど、まあここ病院だしいいよね」
 この男、春風駘蕩な顔をして恐ろしいこという。
 だが、敵意は本当になかったようだ。
 愁斗は躰が自由に動くことに気付いた。
「なぜ解放した?」
「君の正体がわかったし、ボクは君の敵じゃないし」
「正体?」
 愁斗はまだ妖糸を放っていない。それは寸前で阻止された。
「傀儡師かな?」
 妖糸を放たずとも愁斗の正体を見抜いた。傀儡師か、もしくは愁斗自身を知っていたということだ。
 病院を襲撃した者の仲間か、それとも病院関係者の仲間か、D∴C∴なのか、この者は愁斗の敵ではないといった。
「なぜ僕が傀儡師だと? それにD∴C∴をなぜ知ってる?」
「D∴C∴でちょっとだけバイトしてたことがあってね」
「そこで僕のことを?」
「うーん、遠からず近からず。バイト中に君のお父さんと出会ったからね」
 父を何年も探してきたが、情報はほとんど皆無だった。それが今日になって、立て続けに事が起こる。何かが動き出し、糸が紡がれていくようだった。
「父さんを知っているのか?」
「小さかったころの君と会ってるんだけど、物心つく前だったし覚えてないかぁ」
 組織に連れ去られる前だ。そのころのことを知っている人物なのだ。
 急に番人は片耳を押さえて耳を澄ませた。
《シグレ君、その子は通していいわ》
 通信機からの声だった。相手は姫野悠香。番人――シグレは病院側の関係者ということだ。
「この子、蘭魔の子供だったんだけど、姫野さんも知ってたの?」
《ええ、でも実際に会ったのは今日がはじめて。すれ違っただけで言葉も交わしていないけれど》
 病院内で二人はすれ違ったが、愁斗の眼中にはなく覚えてもいないだろう。
 シグレの背後で自動ドアが開いた。
「通していいってさ」
「あなたには聞きたいことが山ほどありますが、今は先を急ぎます」
「ボクもキミのことが気になるし付いていくよ」
 足早に翔子の病室に向かう。その途中で見た襲撃の痕。まだ清掃されていない血痕や壁の煤汚れ、地面が穿たれている箇所もあった。
 愁斗は走った。
 病院でいったいなにがあったのか?
 立ち止まらず勢いのまま病室のドアを開けた。
 ――いた。
 予想とは違う人物に愁斗は立ち尽くした。
「翔子は?」
 そこにいたのは車椅子の女。会ったことはなかったが、亜季菜の姉なので顔は知っていた。
「亜季菜さんのお姉さんですか?」
「ええ、姫野悠香よ」
「なぜここに?」
「アタシの病院だから」
「この病室に入院しているはずの僕の同級生は?」
「行方不明よ」
 寒気がする。悲鳴が聞こえた、泣き声が聞こえた、胸を鷲掴みにされたような息苦しさ。鬼気を放つ愁斗。
 この病室で動じる者はいない。
 シグレはそっと愁斗の肩に手を乗せた。
「落ち着いたほうがいい」
 その手の温もりは、なぜか愁斗を落ち着かせた。
「ボクを雇ったのは、この子に会わせるためだったんだね」
 悠香は頷いた。
「ええ、あなたとシオンの関係を聞かせてあげたくて」
「母さん!」
 声を荒げた愁斗。
 紫苑は傀儡の名前であり、その元となった人物こそが愁斗の母――紫苑。組織の襲撃により、母は目の前で殺され、愁斗と蘭魔は連れ去られた。死に際の母の顔を愁斗は覚えている。
 幼いころの愁斗と会ったことがあるといったシグレだが、そうなると紫苑とも面識があったに違いない。ただの知り合いであれば、わざわざ関係という言葉は使わないだろう。愁斗が知らない秘密めいたものをシグレは握っている。
「そう、キミのお母さん。蘭魔と出会った日、ボクはシオンと融合した」
 といって、ベッドに腰掛けてから続ける。
「少し長い話になるよ」
 それは愁斗が産まれる以前の話。
 二十年近く前の話だった。
「D∴C∴でバイトしてた時期あったんだけど、もともとボクはD∴C∴の思想に共感していたわけでもないし、彼らの〈神〉を崇めていたわけじゃない。ただ〈神〉って存在には興味あってね。小さいころから世界の神秘や秘境が好きで、トレジャーハンターになるのが夢だったんだけど、たまたまD∴C∴にリクルートさせて、おもしろそうだなって。そのときの任務で蘭魔と出会ったんだ」

 戦争があったのか、自然災害があったのか、その都市は瓦礫の山と化していた。
「彼らにとっては箱庭でゲームしてる感覚なのかなぁ」
 廃車の上に立ちシグレは死都を眺めていた。
「ボクらの世界とはまた違う世界。とても似てるけど」
 脱線して横倒しになった電車車両には見覚えがある。遠くに見える駅も原形は残していないが、周りのビルとは違う洋館なので、それがその場所だとわかった。
「歴史もほぼ同じってことかな」
 D∴C∴の末端であるシグレが本来ならば任させるはずのない任務だった。
 この場所はD∴C∴にとっての秘境。
 詳しい話はシグレも聞かされていないが、彼はD∴C∴内で独自の捜査と情報収集をして、少しばかりの知識はあった。
 秘密結社ダークネスクライ。その組織の歴史は古く、時代によって名前は違うが、神話の時代に発生したとされている。結成ではなく発生なのは、多くの宗教や崇拝が自然から生まれたのと同じだ。D∴C∴の初まりも古代人の信仰からであった。
 その神には名前がなかった。本当に名前がないのか、秘匿とされているのか、組織内では〈神〉と呼ばれている。だが、外部からはこう呼ばれることもあった〈闇の子〉と。
 D∴C∴の上層部は〈闇の子〉こそが魔導の祖にして、世界の創造主だと信じている。
 そして、この場所の奥深く、さらに奥深くに〈闇の子〉は眠っているのだと云う。
「教典さえ読めれば、もっと知ることができるんだけどなぁ」
 秘術と秘密の書かれた教典は一冊だけ存在しているが、その一冊はD∴C∴の首領が隠し持っているとされていた。
 それは風のように吹いてくる。
 悲鳴、泣き声、嗤い声。
 〈闇〉が吹く。
 躰をくねらす蛇のように〈闇〉がシグレに襲い来る。
 刹那、腰に下げていた鞘から妖刀が抜かれた。
 水面のような輝きを放つ妖刀は水飛沫を上げながら〈闇〉を切り裂いた。
「属性でボクの勝ち」
 斬られた〈闇〉は蒸発するようにして消えた。
 目的を果たすためにシグレは先に進むことにした。
 沼地を越え、眼前に広がる異様なジャングル。木ではなく、シダのようなものや、見上げるほどの茸、分類がわからない見たこともないような植物で、このジャングルは構成されていた。 
 常人では気付かない細い糸。魔導を感知する視力が良い者には、オーラのようなものを発しているのが見えるので、糸は細くとも淡く不気味に輝いて見えていた。
 生い茂る足下に張られていた妖糸だ。
「知らないで通ったら脚が切断されるね」
 妖刀をふるって妖糸を断ち切った。
 次の瞬間、巨大な丸太がシグレに向かって飛んできたのだ。
「跨ぐのが正解ね」
 妖糸に触れれば肉は切断、妖糸を切れば丸太が飛んでくる二重トラップだった。
 水飛沫をまき散らしながら丸太は真っ二つに割られた。〈闇〉のようなものだけでなく、物理的な物に切れ味は抜群であった。
 生い茂る植物の合間から見える。紅い影が逃げていく。
 すぐさまシグレは影を追う。植物を断ち、飛んできた長い舌を斬り、羽根の生えた異形の生首を斬り、何匹も飛びかかってきた腕ほどあるヒルのようなものを切り刻んだ。
 そして、ある場所に出たのだ。
 そこにはさきほどのまでの異形なものたちはいない。植物すらも生えていなかった。広く拓かれた大地には巨大な線が引かれていた。上空から見ればそれが巨大な魔法陣の中だとわかるだろう。
 紅い男はその場で待っていた。
「よぉ、色男さん。あんたはここがなんだか知ってるか?」
「さあね、ボクはD∴C∴のバイトだからね、あんまりよく知らないんだ」
 この任務を任されたのは、目の前の紅い男がD∴C∴のことを調べ、この場所の所在を探していると知ることができたからだ。組織の敵とされる紅い傀儡師――蘭魔。
 のちに愁斗の父となるこの男は、愁斗が産まれる以前からD∴C∴と敵対していたのだ。
 蘭魔は深くうなずいた。
「そうだろうな。あんたはオレが結界に穴を開けなきゃ、ここに入ってくることもできなかったんだ」
「彼らは〈裁きの門〉と呼んでいたね。ここはその先にある世界であってるかな?」
「あんまりよく知らないなんてのはウソだろ」
「よくは知らないよ。この場所がボクらの世界以前からあった捨てられた旧世界で、ボクらの知ってる世界の歴史と同じような歴史を歩んでいたんだろうね」
「おいおい、その話マジで言ってるのか? オレより詳しいぞおまえ。オレはてっきり平行世界だと思ってたんだが」
「ボクらの世界に似てるのは、平行世界だからって考えるのは普通だよね。実際にはボクらの世界は、この世界に似せて創られた世界なんだよ。まだボクらの世界はここみたいに滅びてないけどね」
 シグレは妖刀を鞘にしまった。
「ちょっと質問していい?」
「ああ、いいさ。オレも気になったら知らないと気が済まないタチでね。答えられる質問ならな
んでも答えてやるさ」
「キミの目的が知りたい。ボクはさっきも言ったけどバイトだからね。たまたま団に指名手配されてるキミを追いかけて、ここまで来ちゃっただけなんだ」
「そこ答えを知るためにオレもここに来た」
「はぁ?」
「知りたきゃそこでじっとしてろよ、今に見せてやる」
「バイトとはいえキミの敵なんだけどなぁ。あとさ、この場所がどんな場所か少しでも知ってるなら、あんまり派手な真似をして刺激しないほうがいいと思うよ」
「気になったら知らないと気が済まないタチだって言ったろ」
 蘭魔は妖糸を放つ気だ。
 呼応してシグレは妖刀を抜いた。
 一筋の輝線が宙を翔る。
 妖刀が妖糸を切断する。
 蘭魔は妖しく笑った。
「おいおい、邪魔するならおまえから先に斬るぞ」
「キミの力ならさらに奥の世界に行けるかもしれないが、人間が踏み入れていいのは、この世界までだよ」
 魔法陣が描かれた大地の上空にシグレが目を配った。そこに目で見えるものはなにもなかった。先に見えるのは不気味な灰色な雲海だ。蘭魔の一撃目はその場所を狙っていた。
 二撃目は違う。蘭魔はシグレと対峙して妖糸を放とうとしている。今度は両手から合わせて十本もの妖糸だ。
「喰らえデビルクロスッ!」
 十字を描く十本もの妖糸がシグレに牙を剥く。
 煌めく水飛沫の中を踊るように舞う。
 次々と妖糸が切断される。
 しかし、すべては防ぎきれなかった。
 腕から迸る鮮血、さらに脚からも血が滴る。それでもシグレは春風駘蕩な物腰で大地にしっかりと立っていた。
 少し眼を丸くして蘭魔は驚いたようすだ。
「あんたさ、マジでバイトかよ?」
「そうだけど?」
「オレがやり合ってきたそこいらの団員より強いぞ?」
「正社員になれるかな?」
 春麗らかなシグレの笑みは戦闘を忘れさせる。
 対峙する蘭魔は余裕のようで、近所でばったり友達にあったような雰囲気だった。
「つーかさ、あんたなんでD∴C∴なんかに入ったんだ?」
「日当がいいんだよ、月給かってくらい」
「あんたなら別の稼ぎ口もあるだろ」
「あーね、ホストとかはムリだよ。お酒飲めないし、女の子と話すの苦手だし、すっごい精神的に疲れそう」
「ホストなんて言ってねーし」
 蘭魔は呆気にとられた。
 シグレは蘭魔の表情も気にせず話を続ける。
「世界の謎や不思議が好きで、資金を貯めたらトレージャーハンターになろうと思ってるんだ。この場所もいわゆる秘境って感じでしょ?」
 もう蘭魔は呆れっぱなしだ。
「D∴C∴って選択肢は間違っちゃいねぇけど、もっとマシな組織とか研究所とかあるだろ?」
「D∴C∴以上に隠された歴史や存在たちに迫れるところってある?」
 神はいる。少なくとも人智を超えた崇拝対象となる存在がいる。そして、この荒果てた世界は平行世界ではなく、旧世界なのだとシグレは云う。
 首を横に振る蘭魔。
「ないな。普通の暮らしをしてたら、こんな場所には一生来ない」
「そうなるでしょ?」
「だがD∴C∴はやめとけ」
「そのうちやめるよ。たとえばD∴C∴の〈神〉についてもっとわかったら」
「だったら今すぐやめろよ。その神様のことならオレが教えてやる」
「じゃあ、やめるよ」
「おいおい、あっさりしてるな、あんた」
「自分で今すぐやめろって言ったんじゃないか。もともとただのバイトだし」
 やめるという言葉に嘘偽りはないと蘭魔は確信していた。
「オレは傀儡師をやっていてな。多くのモノを使役してるせいか、人を見る目はそれなりにあるんだ。だからあんたには教えてやってもいい」
「神様のこと?」
「そうだ、〈闇の子〉と呼ばれる存在のことだ」
 話しながら蘭魔は空を眺めていた。見えないなにかを探している。
「探してるのは〈タルタロスの門〉かな?」
 尋ねるシグレに蘭魔は溜め息を落とした。
「あんたさぁ、オレより詳しいだろ?」
「D∴C∴の知識程度だよ。〈裁きの門〉のさらに先、〈タルタロスの門〉を越え、行き着く深奥に〈闇の子〉が眠る〈聖なる柩[アーク]〉がある」
「そうだ、オレの技はその〈闇の子〉の力を借りている」
「魔術におけるエネルギーソースみたいなものかな?」
「オレの目的はさらなる力を得ること。そのエネルギーソースに近づくのが目的だ」
「愚か者か、恐れ知らずか……」
「ただの天才だ」
 蘭魔はにやりと笑いながら妖糸を軽く放った。
 なにもないはずの頭上で妖糸が弾かれ燃え尽きた。
「さすがのキミでその結界を破り門を開くのはムリだと思うよ」
「オレに斬れないモノはない。なぜならオレは天才だからな」
「それでも門は開けない」
「そうだ、門は開くのは無理だろう。だがな、少しばかり穴を開けることはできるだろう。斬れないモノはないってのはそういう意味だ」
 妖糸が再び頭上高くに放たれた。
 闇を帯びた禍々しい妖糸だ。
 悲鳴、泣き声、嗤い声。苦悶に満ちた呻き声。
 妖糸がなにかに当たった瞬間、蛇のように蠢く〈闇〉が幾つも降り注いできた。
 慌ててシグレは妖刀を振るいながら舞った。
 水飛沫によって〈闇〉が昇華されていく。
 無差別に降り注いでいた〈闇〉はやがて意思をもったように動き出す。
 蘭魔の頭上に迫っていた〈闇〉は、急に方向転換して躰の横を擦り抜ける。そのままシグレに襲い掛かった。
「ちょっ、ボクのとこばっかくるんだけど。キミが操ってるわけじゃないよね!」
 追跡型ミサイルのように躱しても追ってくる。斬っても斬ってもその数は減らない。それどころか怒り狂うようにシグレにますます襲い掛かってくるのだ。
「オレは操ってないぞ。たぶん、その刀が目の敵にされてるんだろ。〈闇の子〉に対を成すやつの力だからな」
「この刀のエネルギーソースは、なんか〈闇の子〉に怨まれることでもしたの?」
「昔から兄弟ケンカが絶えなかったらしい。この先に〈闇の子〉を封じ込めたのも、その双子だってD∴C∴の教典に書いてあった」
「教典の中身を見たことあるの!?」
「盗んだ」
 首領が隠し持っているとされていた教典は、蘭魔によって盗まれていたらしい。それがD∴C∴の団員たちに伝わっていたのは、盗まれたと知れれば混乱が起こるためだろう。そのため、いまだ首領が隠し持っていることになっている。
 〈闇〉の追撃は収まることを知らない。頭上から蛇口をいっぱいに開けたように、〈闇〉が噴き出し続けているのだ。
「そろそろ体力の限界なんだけど、キミさちょっとは助けてくれないかな!」
「オレは攻撃を受けてないからな」
「仲間を平気で見捨てるタイプ? 友達いないでしょ!」
「昔はいたさ。同盟と呼べる友が……」
 蘭魔は妖糸をシグレに向けて放った。
 裏切りか?
 〈闇〉の相手で精一杯だったシグレは、妖糸が迫ってきたことに寸前で気付き、躱すこともできなかった。
 片手を押さえて怯むシグレ。妖刀は水飛沫を撒き散らしながら、宙を回転してシグレの手を離れて飛んでいった。
 武器を失ったシグレに〈闇〉が襲い掛かる。が、急に〈闇〉は方向転換して妖刀に向かっていったのだ。
 恨めしい眼でシグレは蘭魔を睨んだ。
「痛いじゃないか」
「手加減はした。助けてやったんだから礼ぐらいいえよ」
 妖刀に喰らいつく〈闇〉が次々と昇華されて消えていく。やがて噴きだしていた頭上からも跡形もなく〈闇〉は消えていた。
 頭上を見つめながら蘭魔は探るようにして辺りをうろつく。
「次元や空間を斬り場合はコツがいる。オレのような繊細な人間にしかできない作業だ」
「それは同意しかねるね。今の絶対失敗したんだよね?」
「失敗なんかするか。ちょっと試し斬りしただけだ」
「そうかなぁ?」
「とにかく黙って見てろよ」
 蘭魔は話し続けながら一点を見つめていた。
「〈闇の子〉の力を借りているが、どんな存在なのか詳しくは知らない。オレは知りたい、あんたにも教えてやる約束だ。斬ってみれば答えに近づける」
「短絡的だね。なにが起こるかわからないけど、たぶん悪いことが起きる」
「新たな発見をするには、一歩踏み出す勇気が必要なんだぜ」
「踏みとどまるのも勇気だよ」
「そろそろ斬るぞ?」
 結界に少しちょっかいを出しただけで、〈闇〉が豪雨のように降り注いできた。穴を開ければどんなことが起きるのか。
 シグレは妖刀を地面から拾い上げた。
 刹那の速さで蘭魔の手が動いた。
 煌めく妖糸。
 風が絶叫した。
 裂かれた空間から覗く夜よりも暗い闇。
 深淵からこちら側を覗く何か。
 空間にできた傷口は唸り、周りの空気を吸い込みながら広がっていく。
 闇色の裂け目から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ち
ている。
 嗚呼、嗤い声が聞こえる。
 それは老人か、はたまた子供か、それとも異形の存在か。
 蘭魔が後退った。
「やっちまった」
 なにが起こったのかわからなかったが、それが鬼気迫る状況だというのはわかる。
 裂けた空間から闇色の羽虫が大量に溢れ出てきた。羽虫の顔はまるで人の髑髏のようだ。
 鬼気迫る。
 〈向う側〉から〈それ〉の呻き声がした。空気を振動させ、大地を震えさせ、おぞましい〈死〉をこの世界に解き放った。
 巨大な黒馬に跨る赤黒く逞しい巨躯を持つ戦士。六芒星が刻まれた指輪をはめた異形の手に持つは、投げ槍と蠍の尾でできた鞭。そして、皮膚も肉もない剥き出しの頭蓋骨には、王者の象徴である冠が見るものを畏怖させた。
 鬼気迫る。
 〈それ〉の呻き声に合わせて何かか遠吠えをあげた。この世界に迷い込んだ四つ足の魔獣。
 漆黒の毛を持つ三つ首の巨大な狼。蛇のたてがみを持ち、竜の尾で地面を叩き、青銅の声で吠える番犬。
 裂けた空間から闇色の棘が降ってきた。まるでそれは矢の雨。
 蘭魔は十の指から妖糸を放ちそれを防いだ。
 地面に堕とされた闇の矢は、蛆となって地を這う。
 〈死〉の持つ投げ槍が放たれた。
 蘭魔が振り向いて叫ぶ。
「だいじょぶかっ!」
 眼に映った蒼白な顔をした青年の姿。
 胸を貫く巨大な槍。
 駆け寄ろうとした蘭魔の躰を闇色の人影が突き抜けた。
「うっ……なんだ、今のは……」
 そのまま蘭魔は気を失って倒れてしまった。
 闇色の人影を追うように、空間の裂け目から輝くなにかが飛び出してきた。
 輝きは弱く今にも消え入りそうだった。
 女の声がした。
「我が母の名において……〈死〉よ……この場から去りなさい」
 シグレの躰から投げ槍を抜き、黒馬と共に〈死〉が還っていく。
 槍を抜かれたシグレは地面に倒れた。その躰を優しく淡い光が包み込む。
「このままでは……」
 血の海の中で死がもたらされようとしていた。
 だが、シグレが死ぬことはなかった。
「しばし……借りるぞ……」
 輝きはそう言ってシグレの躰の中へ吸いこまれていった。

「それが君のお母さんのシオンだよ」
 病室でシグレは愁斗にそう伝えた。
「母さんは何者なんだ? それからどうなった?」
「彼らは天使だとか堕天使だとか、妖魔だとか鬼だとか、神話や伝承によって呼ばれ方や姿はさまざまだけど、人間より高次元の存在だよ。ナメクジと人間、人間と彼らって感じで」
「僕には人間の血と、そうじゃない者が血が流れているってことか……実感はないけど、妙に納得はできる」
 流れる血は赤い。姿形も人間と寸分も変わらない。蘭魔から受け継いだ傀儡師の力だけではなかった。
 シグレが話を続ける。
「ボクはしばらくの間、シオンと融合していたんだ。そのときに彼らの知られざる知識を得たんだけど、分離したときに多くを忘れちゃったんだよね。ボクには荷が重いから、そのほうがいいんだけど。ただ、この力だけは残ってる」
 病室の気温が一気に氷点下まで下がり、吐く息が白くなった。
「シオンが長い間、魂をも凍てつかせる場所に幽閉されていたんだ。〈闇の子〉と呼ばれる存在を封じ込める楔としてね」
「〈闇の子〉? もしかして、それは魔導の根源……」
「エネルギーソースだね。意思をもった高次元の存在、キミが行使する〈闇〉は彼女から力を借りている。彼女たちのことは知識から消えてしまって、よく覚えていないんだけどね」
 悠香が話に割って入る。
「アタシは〈闇の子〉を種族として捉えてるわ。ヒトが生まれる前から、この世界のピラミッド構造の頂点に立つ種族。高次元の存在だけれど、全知全能ではない。それでも彼らは太古から神として語られてきた。伝承や伝説には元となったエピソードが存在するものもあるわ。〈闇の子〉が元となったエピソードは天界での叛乱ね」
 なぜ、その天使は神である父に叛いたのか?
「神話は真実ではないわ。似たような出来事をモチーフとした話もあるというだけ。〈闇の子〉が地上に堕とされたときには、まだ人間は存在してなかったもの。彼らはもっと原初の時代から、地球およびその周辺宇宙に干渉してきた。地球だけの出来事で代表的なものは、ムーだとかアトランティスだとか、そうね、身近なところだと近代の都市インフラとか大統領選挙かしら。人間が知能をつけてからは、あまり表舞台には立たなくなってきたみたいね。歴史のフィクサーってところかしら」
「ボクの話に戻していいかな?」
「あら、ごめんなさい。どうぞ話を続けて」
 悠香は口を閉じ、再びシオンが話を続ける。
「詳しい長話はまた今度にして、蘭魔のせいで〈闇の子〉の思念体が世界に漏れたんだけど、どうにか封じることに成功してシオンは自由の身になって、しばらくはD∴C∴も弱体化して平和だった。そのときにシオンと蘭魔の間にキミが生まれたわけなんだけど、弱体化したとしても残党は狂信者ばっかりで、蘭魔やシオンに怨みを持つ者も多かった。どうなったかは、キミが知ってるからボクは語らないよ」
 幼いころの記憶。
 D∴C∴の襲撃事件。
 目の前で母が殺された。
 眼を開いたまま愁斗は口を強く結んだ。閉じればあのときの光景が蘇ってしまう。
 なにもいわない愁斗を目にして、シグレは話を続けることにした。
「ただボクが聞いた話と、事実は違うってところが一つだけあるんだ。これは確証を持っていえることなんだけど……」
 間を置いてから、ゆっくりと口が開かれる。
「シオンは生きてるよ」
「…………っ!?」
 驚きを隠せなかった愁斗。
「バカな、母さんは僕の目の前で刺されて死んだんだ」
 心配しないで――といわんばかりの微笑みを浮かべた母の胸は刃によって貫かれていた。
「人間のように死ぬことはないよ。肉体が滅びるだけ、彼女たちにとって肉体は乗り物のようなものだからね。でも、D∴C∴だってそんなことはわかってるから、本気でやる気なら魂を消滅させるだろうね。でも、そうはならなかった」
 病室の気温がさらに下がった気がした。
「あるときを境に、凍てつく感覚が戻ってきたんだ」
 シグレの周りの大気が凍りつき、キラキラと輝き宙を漂っている。
「分離したあともボクはシオンの影響下にあるらしくてね。わかるんだ、シオンは再びあの場所に幽閉されてる。このごろひどく胸がざわめくんだけど、きっとそれもシオンの魂がなにかの前触れを感じてるせいだ」
 今日一日の出来事で愁斗の頭は混乱させられていた。
 翔子、蘭魔、紫苑。
 なにひとつ解決しないままに、次々おこる出来事に頭を殴られるような感覚。
 翔子のイジメからはじまり、D∴C∴の襲撃、巻き込まれる友人たち、父――蘭魔とおぼしき者が現れ、翔子がどこかに消え、この病室で母が生きていることを聞かされた。
「母さんはどこにいる?」
 掴みかかりそうな勢いで愁斗はシグレに詰め寄った。その眼は相手に後退りをさせそうだったが、シグレは動じなかった。
「場所はたぶん〈聖柩〉がある場所だと思うけど、行き方がわからない。異世界の〈門〉を開ける必要があるのはたしかだけど」
 シグレは愁斗の握った手を一瞥して言葉を続ける。
「今、妖糸で空間を斬ろうと考えたかもしれないけど、そこは〈聖柩〉がある場所じゃないからね、もっともっと深い場所にある世界だから。異世界は無数に存在しているし、キミが行き先を選んで空間を空けられるとも思えないし、入ってみて違った異世界に行っちゃった場合、こっちの世界に還ってくるだって、特定の〈門〉をちゃんと選んで開かなきゃいけないんだよ。砂漠の砂の中から、特定の砂粒を見つける奇跡を二回も起こさなきゃいけないんだ」
「じゃあ、どうすればいい!」
「正規の〈門〉を通ればいいけど、一つ目の〈門〉の場所がわからない。ボクは昔、その〈門〉を通って〈タルタロス〉の手前まで行ったことがあるけど、その〈門〉は蘭魔が開けたものだったし、ほかに召喚式の〈裁きの門〉っていうのがあるんだけど、それは彼女たちしか召喚できないし、絶対に協力してくれないと思う。シオンが再び幽閉されているとしたら、それは彼女たちの仕業だからね」
「彼女たちとは?」
「〈闇の子〉に対を成す者と眷属たちだよ。〈光の子〉って呼ばれてるけど、正義の存在ってわけじゃないよ。そのあたりは知識を失ったボクより悠香のほうが詳しいけど」
 シグレが目を向けると悠香が話を続ける。
「どちらも堕天使よ。神に叛逆して〈リンボウ〉に墜とされた。かつて〈光の子〉と〈闇の子〉は一つの存在だったらしいわ。そのときの名前は忘れ失われてしまったけれど、〈リンボウ〉――ああ、アタシたちの世界のことよ、ここに堕とされたあとはルシファーとサタンと呼ばれるようになったわ。かの神曲の中でサタンが氷の中に閉じ込められている話があるけれど、〈闇の子〉の実話が元になっているのかもしれないわね」
 かの神曲とは、ダンテの神曲で神に叛逆して地獄の底で下半身を氷付けにされている魔王のことだ。
 悠香は不愉快そうな表情で溜め息を落とした。
「ルシファーとサタンは元は同じ存在だったくせに、仲が悪くてこの世界の覇権を争っているのよ。人間はその抗争に巻き込まれ、ときには代理戦争もやらされてきたわ。そう、キミもそれに巻き込まれたわけよ。蘭魔を父に持ち、紫苑を母に持つ、巻き込まれるために生まれてきたようなサラブレットね」
 愁斗に睨まれた悠香はまったく動じていない。
「気を悪くした? でも運命からは決して逃れられないのよ。アタシだって蘭魔と出会ってしまったばかりに、運命に囚われてしまったのだから」
「父さんと会ったことが?」
「あら、知らなかった? アタシと〝乱麻〟君は中学からの知り合いよ」
 父の中学時代。今の自分と同じ中学生だったころの父親の姿など、まったく想像もできなかった。人は誰しも子供を経て大人になる。どんなであれ、子供時代というものがあるはずなのだ。
「乱麻君は明るくてやんちゃな子だったわ。雰囲気でいうとキミにはぜんぜん似てないわね、面影はあるのに」
「彼は紫苑似だと思うよ。顔の話ね」
 シグレや悠香は愁斗の知らない父や母の姿を知っている。父でも母でもない別の顔を知っているのだ。
 聞きたいことが山ほどありすぎて、なにから聞いていいのか愁斗がわからないでいると、悠香が話を続ける。
「アタシたちもはじめはただの少年少女探偵団だったのよ。怪奇クラブからはじめたことが、今じゃこんなことになっちゃったのは、乱馬君が真物[ホンモノ]だったせいね。とある些細な事件からD∴C∴に行き着いた。それが地獄の入り口だったんだけど、彼もアタシも好奇心が強くて……後悔は何度もしたのよ、脚だってこんなになっちゃったし、大切な友達だって……でも、引き返さなかったのよね。引き返したところで戻れたとも思えないけれど」
 ――沈黙。
 そして、切れ味の鋭い刃のような瞳で悠香はこう言った。
「アタシの目的は神殺しよ」
 これにはシグレが眼を丸くした。
「本気で言ってる?」
「ええ、本気よ。〈光の子〉と〈闇の子〉から、この世界を解放すること。多くの人間たちは彼らの手のひらの上にいることを知らずに生きているわ。でも、アタシは知ってしまったから、戦わずにはいられなかった。人類のためじゃないわよ、他人に踊らされるのが気に食わないだけ」
 神殺しのエピソードは世界中にある。神話からフィクションまで、神が殺された話から、神を殺す道具にまつわる話。神が死ぬと云うことは、神は絶対者ではないと云うことである。
「傀儡師蘭魔は神と渡り合えるヒトよ、息子であるアナタはその血を引いている。そして何より、アナタには神の眷属の血も流れているのよ」
「僕は……」
 なぜ、戦うのか?
 なにが目的なのか?
 神を殺すなど一度も考えたこともない。
 悠香は愁斗から眼を離さない。
「あなたが幼いころ襲撃してきたのはD∴C∴で間違いないわ」
 目的はD∴C∴への復讐。
「ただ、紫苑を連れ去って幽閉したのは〈光の子〉たちでしょうね」
 母が生きているとわかった以上は、母を救い出す。
「つまり両方があなたの敵ってことになるんじゃないかしら?」
 D∴C∴の根源たる存在は〈闇の子〉である。
 母を奪った者は〈光の子〉たちである。
 悠香は車椅子に座りながら愁斗の顔を下から覗き込んだ。
「ねえ、利害が一致してると思わない?」
 本当にそうなのか?
 なにをするべきか、なにから手を付けるべきなのか?
 マナーモードにしてあったスマホが振動した。愁斗のスマホだった。
「ちょっとすみません」
 一言断ってから愁斗はポケットから出したスマホのディスプレイを見た。
 メールの着信。撫子からだった。
 しかし、文面は彼女のものとは思えなかった。
 ――瀨名翔子を預かっています。場所は××の××にあるテナント募集の建物。
 怒りが噴き出すように込み上げてきた。
 この部屋で聞いた話はすべて忘却された。
 なにをするべきかは決まっていた。
 今すぐに手を付けるべきは翔子の救出だ。
「ここから連れ去られた友達の居場所がわかりました。話はまた今度、失礼します」
 足早に立ち去る愁斗の背に悠香が声を投げる。
「アタシに協力する必要はないのよ、アナタは自分の目的を果たせばいいわ、それがアタシのためにもなるのだから。でも必要ならアタシはアナタに協力するわ」
 最後の言葉は愁斗の耳に届いただろうか。
 病室に残された二人。
 悠香はシグレを見上げた。
「アナタはアタシに協力する?」
「ボクはこの世界の秩序に不満はないよ」
「神殺しには協力できないってことね」
「でもね、シオンが悲しむとボクまで苦しくなるのは困る」
「シオンを〈聖柩〉から解放する?」
 黙してシグレは天井を見上げた。
 悠香は答えを待っている。
 病室の外へ向かってシグレは歩き出した。
「彼女はそれを望んでない。彼女の望みは家族のことだよ」
 凍えが病室から消えた。
 雨はあがり窓の外は春を取り戻しつつある。
 だが、これから夜が来る。

 道路に面したガラス張り建物にテナント募集の文字が見て取れた。
 ドアの取っ手をつかんで引くと、鍵はかかっておらず重たく開いた。
 なにもない部屋は暗い。外からの町明かりが少し入ってくるだけだ。
 暗がりから声がする。
「二階に来てもらえますか?」
 男の声は近くでしたような気がするが、近くに人の気配はない。それと、聞き覚えのある声だった。
 二階にあがって愁斗はすぐさま身構えた。
 部屋の奥に人影があった。
 明かりは蝋燭の火だ。床に何本か立てられていた。
「電気が通ってなかったもので、コンビニでロウソクを買って来ました。いや、私に明かりは必要ないんですがね」
 この暗がりの中で男は丸いサングラスをかけていた。不自然なのは飾りでしかないからだ。本体は別にいる。
「翔子をさらったのはお前か?」
 この場にあった人影は一つしかなかった。
「さらったのではなく、保護したのですよ。敵の手から」
 D∴C∴の魔導士――影山彪彦。
 休戦はしているが、D∴C∴である以上は敵である。
「敵はお前だろ」
「以前にもお話しましたが、組織内にも派閥がありましてね。組織全体の方針としては、貴方に危害を加えるつもりは今のところありません。もちろん、貴方のご友人たちもですよ」
「翔子をさらっておいて!」
「少し頭を冷やしてもらえませんかね、保護したといったのですよ」
「じゃあ早く翔子のもとへ連れて行け」
「まだ頭が冷えていないようので、お話でもして時間を潰しましょうかね」
 あからさまに愁斗は不機嫌な表情をして苛立ちを隠せない。
 サングラスの男は表情ひとつ変えない。気にもしてないのは、感情のない人形だからだ。それがさらに愁斗を苛立たせるのだ。本体ではなく、人形と問答やらされる。
「D∴C∴には過激派がおりまして、貴方のご友人に危害を加えたのもその一派です。彼らはもともとD∴C∴の中核でしたからね、新参者の部外者に組織を乗っ取られたことに憤慨しているのですよ。彼らが貴方まで怨むのもわからなくもない」
「なぜだ?」
「組織を乗っ取った新参者のご子息だからですよ」
「ッ!?」
 絶句。
 そんな馬鹿なことがあるものか。
 父と子はD∴C∴にさらわれた。母も襲われた。
 幸せな生活が音を立てて崩れていった。
 絶望の中に光など見えなかった。
 ならば、どうしたか?
 闇に堕ちた。
「D∴C∴の首領は蘭魔様なのですよ」
 酷く裏切られた気がした。
「なぜ、なぜ……なぜ……敵の仲間になんか」
「それは違うと思いますよ。彼は組織を乗っ取ってトップになったわけですから、仲間になったわけではありませんよね。敵を内部から壊したといっていい」
 それでも納得できなかった。
 組織が自分たちになにをした?
 怨むべき組織の首領になるなんて信じられない。
 だから過激派を生むことにも繋がった。
「蘭魔様は貴方を逃がしたあと、組織によって徹底した教育をされましてね。忠実な猟犬になりました。今となればそれは演技だったわけですが」
 演技とはいえ、父はなにをしたのか?
 生半可なことでは組織の中でのし上がるのは不可能だろう。
 何人殺した?
 どんな非道なことをした?
 小さな子供をさらうこともあったかもしれない。
 小さな子供の前で母親を殺したこともあったかもしれない。
 考えるだけで愁斗は絶望した。
 俯く愁斗は彪彦は見てもいない。
「D∴C∴という組織は政治活動や資金集めテロなど、末端組織も含め多岐にわたって活動していますが、その理念は神の理想郷を創ることです。上層部以下にその理念が浸透しているかは別の話ですが。我らが神の教えは弱肉強食、力こそすべて、故に蘭魔様は組織をのし上がり手に入れました。ですが、人間は私利私欲や欲望をもった生き物ですから、教えをすべて受け入れることができない。神の教えでは欲望を美徳としているので、教えに逆らうことも教えに従っているという矛盾もあるのですがね」
 ロウソクの火がひとつ消えた。
「蘭魔様と敵対する過激派は神の教えによって生まれました。その点は過激派こそが正統派ともいえなくもないのですが、力こそすべて故に蘭魔様が首領であるべきだというのも正論。混沌こそが真理」
「父さんの目的はなんだ?」
「存じ上げませんね」
 蘭魔がなにを考えているのか?
 あの場所での蘭魔は息子との再会を喜ぶ親の姿ではなかった。愁斗を助けたようにも思えてが、それは二の次で別の目的があったと思われる。
 息子よりも優先する目的だ。
 ――〈タルタロス〉に続く〈門〉の〈鍵〉はどこだ?
 混乱と驚き、そのせいで情報がうまく結びつかず処理できなかった。だが、ここで愁斗は思い出した。
 タルタロス。そのキーワードをだれかの口から聞いた。そうだシグレからだ。
 ――正規の〈門〉を通ればいいけど、一つ目の〈門〉の場所がわからない。
 ――ボクは昔、その〈門〉を通って〈タルタロス〉の手前まで行ったことがある。
 ――その〈門〉は蘭魔が開けたものだった。
 ここで疑問が浮かぶ。
 過去に〈門〉を開けたことのあるはずの蘭魔が、〈鍵〉を探しているのだ。
 シグレの話だと、〈門〉は複数あるらしく、おそらく開け方も異なるのだろう。つまり蘭魔は以前と同じ方法で〈門〉を開けることができないのだ。
 そして、愁斗の母である紫苑が幽閉されている〈聖柩〉は〈タルタロス〉の先にあるという。
 おそらく蘭魔の目的はこれしかないだろう。息子である愁斗を差し置いて、成すべき目的とは妻である紫苑を――。
「父さんは母さんは救う気だ」
 彪彦も同意する。
「おそらくそうでしょう」
「なにが存じ上げませんだ。貴様、知ってたな!」
「いえいえ、推測していただけですよ。断定ではないことを存じ上げているとはいえませんからね」
「だから組織の人間は信用できない」
「ですが、今回の件は信用していていただかないと」
「……?」
「瀨名翔子さんの件ですよ」
 そうだ、蘭魔の話は脇道に過ぎない。ここに来た理由は翔子に会うためだ。
「彼女はどこだ?」
「保護しています」
「だから場所をいえ!」
「そうそう、瀨名翔子さんの保護を命じたのは、貴方のお父様ですよ」
「どうして父さんが?」
「組織が貴方に手を出さずに監視のみになったのも、いわなくてもわかりますね?」
 父が子を見守っている。
 だた、それがどんな想いからなのか愁斗にはわからなかった。
 目的のためとはいえ、父はD∴C∴の首領となった〝悪魔〟だ。
 父やほかのことに振り回されるのは、今はいい。
「貴様との話はいい。翔子はどこだ?」
 ロウソクの火がまたひとつ消えた。
「場所を教えることは簡単なのですよ。ただ、あなたひとりで大切なものを守りきれますか?」
 即答できなかった。
 大切なものを守るという決意はあって、愁斗は言葉を詰まらせた。
 彪彦が畳み掛ける。
「貴方は周りを不幸にする」
 耳が痛い。奥でキーンとする感覚。
「その結果がこれです」
 すべてのロウソクの火が消えた。
 急に彪彦が愁斗に飛びかかってきた。はじめは攻撃されるのかと思った。攻撃は別にあった。
 愁斗を抱きかかえながら、彪彦がガラス窓を突き破って二階から飛び降りた。爆音と爆風を背中で感じた。
 敵襲!
 地面に下ろされた愁斗は燃える建物を見た。その中から炎に照らされた人影ならぬ、火蜥蜴が出てきた。
 道路を封鎖するように停まっていた複数台のワンボックスからも蛇人間たちが湧いて出た。
 彼らのリーダーは白蛇の魔導士。
「やあ、秋葉」
 まるで友人に挨拶するように軽く片手を上げた。
 声も顔も態度も隼人。ただ、その顔は白い鱗に覆われていた。
 鴉が鳴いた。
 仕掛けたのは彪彦。
 夜闇に溶け込む大鴉が飛来し、彪彦の手に装着されると、それは巨大なクチバシ型の鉤爪に変形した。
 大きく口を開けた鉤爪が蛇人間の頭部を喰らい、彪彦は間髪を容れずに向かってくる敵に鉤爪を向けた。
 闇色の口の中から放たれる砲弾。
 砲弾はまるで髑髏のようで呪詛を吐きながら、蛇人間の腹に風通しの良い穴を開けた。
 駆け続ける彪彦。地面に倒れた屍体の頭部を鉤爪に喰らわせ、次に標的を照準を合わせる。白蛇の魔導士。
 愁斗が叫ぶ。
「やめろ!」
 静止の声は虚しく響いただけ。
 白蛇の隼人はうすら笑みを浮かべている。
 髑髏の砲弾が世に怨みを吐きながら白蛇の隼人に死を与えようとした。
 だが、髑髏の砲弾は急に燃えあがり絶叫しながら灰と化した。
 裸婦に炎を纏った火蜥蜴[サラマンダー]が立っていた。
「隼人を殺させはしない」
 炎の髪が靡いていた。
 彼女は怒っている。眼の奥も、炎の髪も、全身から噴き出す炎も、怒りに満ちている。
 愁斗は自分の目を疑いたかったが、それは紛れもない残酷な現実。
 サラマンダーは麻耶だったのだ。
「どうして麻耶先輩まで……」
 苦しい顔で愁斗は声を絞り出した。
 白蛇の隼人が邪悪な笑みを浮かべた。
「あいつがいっていただろう。分けた魂は相手の人格を狂わせると」
 二つに分けた魂は常にリンクしている。強い感情を抱けば、それは相手にも影響を及ぼす。白蛇の精神が麻耶を怪物に変貌させたのだ。
 すでに彪彦は次を仕掛けようとしていた。
 愁斗は動けずにいる。
「元に戻す方法が……」
「あるかもしれませんが、殺すほうが楽でしょう」
 彪彦は白蛇の隼人に飛びかかろうとしていたが、その前には麻耶が立ちはだかっている。
「隼人に危害を加えるやつは殺す!」
 蛇の形をした炎を彪彦に襲い掛かる。
「くっ、私としては後ろの方と戦いたいのですが」
 躰をひねりながら炎を躱しつつ、転がっていた屍体の残りを鉤爪に喰わせた。
 闇色の砲弾が放たれた。
 そして、刹那に燃やされた。
 敵に躰を向けたまま彪彦は愁斗の元に来た。
「あのお嬢さんとは相性が悪いので、貴方が相手をしてくれませんかねえ?」
「僕は……」
 どちらとも戦えない。
 白蛇の隼人は乗用車の上に乗り、高台から部下たちに命じる。
「サングラスの男は鉤爪が本体だ、構わず殺せ。愁斗は生け捕りだ、手足がなくても生きていれば問題ない」
 蛇人間たちが一斉に彪彦に襲い掛かる。
 もう一人の獲物に蛇人間たちが手を出さなかったのは、獲物を自分のものとする殺気を放っていた者がいたためだ。
「ブッ殺す、あんただけは殺して殺して、何度でも殺してやる!」
 魂がリンクしているからといって、強い想いを制御できるわけでなかった。
 その想いことが邪悪な力の源。
 怒りは炎と化す。
 炎の大蛇が巨大な口を開けて愁斗を呑み込まんとする。
 愁斗の妖糸では炎は斬れない。
 紙一重で紫苑は炎の大蛇を躱す。
 焦げた服の臭い。
 背後に回った炎の大蛇。正面からは麻耶が飛びかかってきた。
 愁斗の片手が強く握られる。
 炎は斬れずとも、肉なら斬れる。
 ――斬るか?
 斬らねば殺られる。
 先に襲ってきたのは麻耶だ。サラマンダーに変貌した麻耶は、その爪を長く伸ばし凶器と化していた。鉤爪には炎が宿る。
「死ねえええええぇぇえっ!」
 魂を侵す絶叫。
 妖糸が放たれる。
 振り上げられた麻耶の手に輝線が趨[ハシ]った。
「キェッ!」
 人ならぬ奇声を発した麻耶の爪が切断され、勢いの止まらぬ妖糸は頬の一筋の傷をつけた。血は赤い。
 麻耶が怯んだ隙に愁斗はその場を飛び退いたが、後ろからは炎の大蛇が迫っていた。
 傷ついた頬を押さえ、恨めしい眼で自分を見つめる麻耶から、愁斗は目を離せなかった。
 麻耶の舌が爬虫類のように長く伸び、頬から流れる血を舐め取ると、勝利を確信して狂気の形相で嗤った。
 炎の大蛇が口を開けて愁斗を呑み込む。
 眼を見開いた麻耶。
 刹那、世界が凍りついた。
 飛び散る水飛沫。
 霧雨があたりを包み、それは凍りつき、氷の結晶となり煌めく。
 妖刀を握り佇む春風駘蕩の男。
「今夜は冷えるね」
 炎の大蛇を一振りで消し去ったシグレ。
 彪彦と交戦中だった白蛇の隼人が舌を打つ。
「新手か……結界にどうやって入った?」
 この場はすでに結界によって封鎖されていた。血の臭いが微かにするのは、彪彦に殺された蛇人間のほかに、結界内にいた一般人たちはすでに殺されていたからだ。
「悪いと思ったんだけど、病院からずっと付けてたんだ」
 結界内でずっと身を隠していたのだ。
 彪彦はシグレを一瞥した。
「彼は貴方たちが来る前からこの場にいましたよ。イレギュラーでしたが、貴方たちと戦うのに役立つかと思いまして、そのままにしておきました」
「我らの襲撃を予測していたのか!」
 憤怒の形相で白蛇の隼人は杖を彪彦に振り下ろす。
「ええ、愁斗さんが監視されているのはわかっていましたから。彼のスマホに送られたメールを傍受して、ここを襲撃の場所に選んだのでしょう?」
 鉤爪で杖を受け止めた彪彦が相手を見下した顔で微笑んだ。
「愁斗さんを監視していた刺客はすでに死んでいます」
 その言葉で白蛇の隼人は理解し、さらなる憤怒に身を任せて尖った杖の底を槍のように彪彦を突き刺した。
 腹を貫かれた彪彦は嗤っている。
「クククククッ……踊るのはお嫌いですか?」
 口を開けた鉤爪が白蛇の隼人の両腕を喰らい、杖を握っていた手は力なく地面に落ちた。
 腹から引き抜かれ放り投げられた杖を見ながら白蛇の隼人は後退る。
「いくらでも生え替わる。わかるか、この意味が?」
 じゅぼっ!
 喰われた腕の傷口から、血と粘液が絡みついた新たな腕と手が生えた。
「メディッサ様の僕である我らは、命令とあらばいくらでも命を賭す。代わりなどいくらでも生まれてくるからだ」
 憤怒していた白蛇の隼人は冷静さを取り戻していた。腕を喰われたことで冷めたのか、それとも……?
 一方、愁斗たちは麻耶と交戦を続けていた。
 戦況は二対一であるが、愁斗たちは防戦を強いられていた。
「彼女は友人で戻す方法が必ず!」
「あったとしても、今はそんな余裕ないよ」
 シグレは刃の反対で麻耶の腹に峰打ちを喰らわし怯ませた。
 すかさず愁斗が妖糸を放ち拘束する。
 簀巻きにされた麻耶が足下のバランスを崩し地面に倒れた。
 この隙に愁斗は早口で説明する。
「彼女とあそこにいる彼は僕の友人で、彼は敵の魔導士に肉体を乗っ取られています。そして、彼と彼女は魂とリンクさせているために、彼女まで敵に……」
「それって片方が死ぬともう片方が死ぬ的な?」
「…………」
 無言で愁斗は深く頷いた。
 こちらは防戦しているが、向こうの戦いは殺し合いだ。早く手を打たなくては隼人が殺される可能性がある。
「愁斗、コロス……ブッコロス……キャハハハハハハッ!」
 もはや人格は崩壊してしまっている。
 高笑いをする麻耶の躰が激しく燃え上がる。
 躰を拘束していた妖糸を灰にして、立ち上がった麻耶から炎の大蛇が放たれる。
 轟々と燃える邪炎はシグレを無視して愁斗を狙っている。
 妖刀が水飛沫を散らす。
「相殺はできるけど切りがないよ」
 またもシグレは一振りで炎を消し去り、さらに攻撃を仕掛けた。
 激しく妖刀が地面に振り下ろされた。
 這うようにして直線上に地面が凍結していく。その先には麻耶の姿が!
「ンッ!」
 足に力を込める麻耶。だが、動かない。
 シグレの一撃は地面を凍らせ、さらに麻耶の足を凍らせ動きを封じた。凍結はさらに麻耶を蝕み登っていく。
 身を纏っていた炎が消える。
 やがて麻耶は眼に怨みを込めながら全身を凍らされた。
 それを見た愁斗は口から大きく息を漏らず。
「……やった?」
「いや、無理だと思う」
 横に首を振ってシグレは否定した。
 凍っているはずの麻耶が瞬きをした。
 そして、妖艶に嗤った。
 蒸気が辺りを包み、生温かい風が吹く。
「殺シテアゲル」
 蛇のように舌舐りをした。
 シグレは一寸も戦闘態勢を解いていない。
「炎人間は表面を凍らしただけじゃ一休みもさせてくれないよね」
 それでも次の手を打つ時間はあった。
 風が鳴き叫ぶ。
 すでに愁斗は召喚[コール]していたのだ。
 妖糸によって宙に描かれた幾何学模様の魔法陣。
 雨上がりで濡れていた地面が震えた。
 〈それ〉が呻き声をあげると、共鳴した水が地面から跳ね上がった。
 シグレは妖刀が引っ張られるのを感じてすぐさま鞘に収めた。
 辺りの水が意志を持って集合する。
 それは水ぶくれした人型をしていた。
 全長約三メートルの水の巨人。
 愁斗は妖糸の手綱を握り締める。
「行け、水魔ッ!」
 水対炎。
 水魔が巨大な拳で麻耶に殴りかかる。
 小さな少女の手が開かれ、握るようにそれを受け止めた。
 水が煮える。
 麻耶に握られた水魔の拳から気泡が沸く。蒸発させられるのは時間の問題だった。
 愁斗は手綱をゆるめる。
 巨大な水魔が躰ごと麻耶を覆い被さり呑み込んだ。
 水没状態にさせられた麻耶の口から泡が漏れる。脱出できなければ息ができず窒息してしまう。
 水魔が沸騰する。
 このままでは麻耶は難なく脱出するだろう。
 愁斗が叫ぶ。
「あのまま凍らせて!」
 指示されたシグレは判断よりも先に躰を動かし、抜刀していた。
 水魔が斬られた。
 沸騰が治り、水が白くなっていく。
 叫ぶ麻耶の口から泡が噴き出す。声はきこえない。眼は目の前のシグレではなく愁斗を睨んでいた。
 凍る凍る、水魔が麻耶を呑み込みながら凍っていく。
 そして、麻耶は愁斗を怨んだまま氷付けにされた。
 憎しみや怨みは消えたわけではない。ただ、封じられたに過ぎない。愁斗は負わなくてならない。
 凍らされたことで麻耶の意識が途絶え、それは一瞬だが白蛇の隼人を怯ませた。
「クッ……半身がやられたか」
 その隙を突いて彪彦の鉤爪が口を開けて白蛇の隼人を喰らおうとする。
 後ろに飛びながら白蛇の隼人は口から毒液を吐いた。
 何でも喰らう鉤爪だが、毒性の影響がどの程度かわからぬうちは喰えない。
 やむなく彪彦は飛び退いた。そのサングラスに写り込む白蛇の隼人は背を向けていた。
「逃げるつもりですか!」
「三対一では分が悪い」
 耳がキーンとした。結界が解かれる合図。
 隔離されていた世界が、元の世界に戻った。
 サイレンの音がする。
 やがて人が集まってくる。長居はできない。
 すでに白蛇の隼人は忽然と姿を消していた。
 決着したとは言いがたいが、戦いは終結した。
 シグレは氷付けにされた麻耶を見下ろしている。
「そのうち溶けるよ」
「彼女を救う方法が見つかるまでこのままにしておかないと」
 二人の元へ彪彦がやってきた。
「早くこの場を離れたほうがよいでしょう。今のうちに瀨名翔子さんの元へ案内しますよ」
 いわれて愁斗はハッとした。呼び出された場所に翔子はいなかった。そして、敵の襲撃を受けた。
「翔子はどこに!」
「敵の襲撃は織り込み済みだったので、安全な別の場所にいます。ここでの目的は過激派の駆逐でしたので」
「僕を巻き込んだのか!」
「ずっと前から巻き込まれているので、それは今さらというものですよ。つまりですね、我々と貴方の敵は共通しているということです」
「断る。お前らと手は組まない」
「こちらには貴方のお父様がいるのですよ?」
 それは愁斗を悩ます言葉だったが、悩んだとしても組織共闘という結論は出さないだろう。
「まずは麻耶先輩はどうにかして、それから翔子のもとへいく」
 頼れる人間はだれか?
 愁斗は協力者に連絡しようとしてスマホを出した。
 着信があった。不在着信とメールだ。それは連絡しようとした相手からだった。
 ――蛇みたいなやつらに襲われてる。マジでヤバイ。
 メールは亜季菜からだった。
 すぐさま愁斗は通話をかけるが留守番電話に繋がってしまう。
「知り合いがやつらに襲われてる。助けに行かなきゃ」
 だが、場所がわからない。
 彪彦も自分のスマホを見ていた。
「こちらにも緊急の知らせがきていました。おそらく、その知り合いの件でしょう」
「なんだって?」
 愁斗は聞き返した。
「貴方の周辺は監視させていただいておりますので、姫野亜季菜さんの元にも部下を派遣してあります」
 翔子のことは後回しにせざるを得ない。
 二人同様にスマホを出していたシグレは通話を切ってポケットにしまった。
「ボクの雇い主の部隊がここにくるってさ。収拾はボクらに任せて愁斗クンは早く行ったほうがいいよ」
「では私は先導しましょう」
 不本意だが彪彦に手を貸してもらわなくてはならないようだ。
 不満そうに愁斗は頷いた。

 愁斗たちが過激派の襲撃を受けていた同時刻、敵の魔の手は亜季菜たちにも伸びていた。
 港近くの巨大倉庫で取引が行われていた。
「お金はアメリカドルで用意したわ」
 亜季菜がそういうと、横に立っていた伊瀬が前に出て持っていたアタッシェケースを地面に置いた。
 中東系の顔をした男たち居並んでいる。その中でサブマシンガンを唯一持っていない男が前に出た。こいつがリーダーだ。
「開けろ」
 といったのはリーダーではなく、その言葉を通訳したやつらの仲間だ。
 伊瀬はアタッシェケースを開けると、中に詰まっていた札束の一つをつかんで、本物だと示すために捲って見せた。
 リーダーは顎をしゃくってなにかをいうと、通訳に訳させた。
「そっちの札束も捲って見せろ」
 いわれたとおりほかの札束も捲って見せた。
 亜季菜は不服そうだ。
「新聞紙なんか挟んじゃないわよ」
 相手はまだ納得していないらしい。
 通訳が前に出て札束を調べる。札は見た限りでは本物。札束の下にはなにもない。ケースに仕掛けもないことを確認した。
 振り返った通訳はリーダーに向けて深く頷いて見せた。
 取引はうまく進みそうだ。
 フォークリフトがコンテナーを持ち上げて運んでくる。
 満足そうな笑みを浮かべて亜季菜は腕組みをしながら商品の到着を待つ。
 だが、フォークリフトが不意に停車した。
 なにかが倒れた。
 次に短い男の悲鳴。
 銃声が響く。
 リーダーが怒号してなにかを叫んでいる。仲間たちの銃口が亜季菜たちに向けられる。
 亜季菜はなにが起きたかわからず眼をまくるした。
「えっ、ちょっと……ウソでしょう?」
 撃たれると思った。だが、そうはならなかった。
 蜂の巣ではなく串刺し。男たちが次々と殺されていく。魔術を施された短剣が血を吸う。
 蛇人間たちの襲撃。
 リーダーが眼を丸くして口から吐血した。胸に刺さるナイフ。さらに別のナイフが飛んできて片眼を刺した。
「一〇点」
 声は合成音だった。
 さらに投げナイフはリーダーの股間を突き刺した。
「ヨッシャー、一〇〇万点!」
 ガッツポーズをするフルフェイスの小柄な人影があった。
「ないときらー様ガ、オ前ラヲ殺シニ来テヤッタゼ」
 自分のことを様付けで呼ぶ傲慢な態度。三本の投げナイフを御手玉のようにジャグリングしていた。
 眼鏡を直した伊瀬が二本のナイフを抜いて逆手に構える。殴るように斬る構えだ。
 投げナイフが飛んでくる。
 伊瀬は超合金グローブで投げナイフを殴り飛ばした。攻撃を防いだが、それは囮だった。別の投げナイフは亜季菜に向かっていた。
 鋭い刃が亜季菜の頬を掠めた。朱い一筋の傷から血が垂れる。
 息を呑んだ亜季菜をナイトキラーは小馬鹿にする。
「わざト外シテヤッタンダ。女子供ハ甚振ッテ殺スノガ楽シイジャン?」
 それは伊瀬を静かに怒らせた。
「亜季菜様は私の背中に隠れていてください」
 敵はナイトキラーだけではない。
 蛇人間たちが一斉に飛びかかってきた。
 伊瀬の動きに無駄はない。
 対複数の場合は一撃で相手の動きを封じなくてはならない。多数を相手にするのではなく、一人ずつ確実に順番に対処する。
 敵も仲間同士でぶつかってしまうため、同時に攻撃を仕掛けているようで、同時ではなく時差がある。それが順番になる。
 一体目の蛇人間の腹にナイフを突き刺し、そのまま殴りながら押し飛ばす。
 すぐさま次が来たが、眼球にナイフを突き立てて地面に殴り飛ばす。と同時に側面から来た蛇人間には、もう片手に握っていたナイフで胸を貫いた。
 敵の肉に食い込んでいた二本のナイフを同時に抜き、そのまま前から来ていた蛇人間の首に二本を突き刺した。
 次々と地面に倒れる蛇人間。まだ息はあるが重症だ。
「このナイフは特別な呪法を施し、呪文を刃に刻んでいます」
 斬られた蛇人間たちはもう戦えない。
 残った蛇人間は一人だったが、伊瀬に飛びかかろうとしたところを後ろから刺された。心臓を投げナイフでひと突き。
「ソノ話前ニモ聞イタ気ガスンナ」
 ナイトキラーは地面で倒れまだ息のある蛇人間の頭を蹴っ飛ばした。
「役立タズハ入ラネェンダヨ!」
 蛇人間は全滅。はじめから仲間を頼りにしてないナイトキラーには問題はないのだろう。
「前座ニモナンネーノナ。コッカラガ本物ノしょーたいむダゼ」
 伊瀬は敵の気配を確認した。立っているのは三人だけ。
「亜季菜様、どこか安全な場所に隠れてください」
「オッケー、死んだら殺すからね」
「承知いたしました」
 背を向けて走る亜季菜に投げナイフが襲い掛かる。それを伊瀬が許すはずがない。
「私が相手だ」
 類い希なる動体視力と反射能力で伊瀬は投げナイフを掴んだ。そのままナイフを投げ返して、自らのナイフを抜く。
 飛んできたナイフを避けて、ナイトキラーは矢継ぎ早にナイフを投げる。
「一本目ハ炎ノないふ」
 投げられたナイフは燃えていた。
 紙一重の小さな動作で伊瀬は投げナイフを躱す。
「次ハ氷ノないふニ雷ノないふ、毒ノないふモ投ヘテヤロウ」
 伊瀬は無駄のない動きでナイフを躱しながら敵との距離を詰めていく。
「ヤッベエ、全部投ゲ終ッチマッタ」
 伊瀬は拳を振り上げた。殴り飛ばされるまで一秒もない。
「カラノー、奥ノ手」
 両手に握った何かが高速回転しながら飛び出してきた。
 ナイフと同じ直線上の動き。二個同時でも躱すのは容易かった。それは伊瀬を通り越して後ろに飛んでいった。だが、それには糸がついていたのだ。
 ヨーヨーだ!
 気付いた伊瀬は背後から迫っていたヨーヨーを避けた。その先にもう一撃がきた。
 鉄球を脇腹に喰らったような痛撃。
「ッ!」
 歯を食いしばりながらナイフを地面に突き立てうずくまる。
 ナイトキラーが無邪気に笑う。
「ヘヘヘ、バーカ」
 余裕の態度でヨーヨーを引き戻す。この一瞬がヨーヨーの弱点だ。
 伊瀬はうずくまっていたのではない。スタートを切ろうとしていたのだ。
 地面を蹴り上げ伊瀬は渾身の力でフルフェイスを殴り飛ばした。
 小柄な躰は吹っ飛ばされ、地面で何度も転がって倒れた。
 うつ伏せになったナイトキラーが呻く。
「クソッタレ…・・ガガガガガ…・・ブッ……殺……ガガッ」
 合成音にノイズが入る。
 四つん這いから上体を起こし、膝を突きながらフルフェイスを両手で掴む。
「マジ……ジジジ……死ネヤアアアアア」
 脱いだフルフェイスを地面に叩きつけた。
「殺す殺す殺す、ぜってーブッコロスぞ糞野郎!」
 立ち上がったナイトキラーは、振り返ってその素顔を見せた。
 伊瀬は静かに眼鏡を直す。
「やはり貴様か」
 かつて戦ったことがある。決着はつかなかった。やむを得ず敵が引いたからだ。
 そう、ナイトキラーの正体はヨーヨー使いのキラ。
 少年といえどD∴C∴の戦闘員。人を嘲笑いながら殺すことのできる狂人。そんな相手に伊瀬が容赦するわけがない。
 伊瀬の格闘センスは、彼の類い希なる記憶力によるところが大きい。
 投げナイフ使いは一度目。
 ヨーヨー使いは二度目。
 キラがヨーヨーを繰り出す。変幻自在に動き回るヨーヨーだ。
 軽やかなステップで伊瀬はヨーヨーを躱す。
 変幻自在に動かせるというだけで、ヨーヨーそのものが自由に動いているわけではない。
 二個同時にヨーヨーが襲ってきても、パターンが増えるだけで、そこには動かすという意思がある。
 意思判断の時間が短くなればなるほど、クセは出やすくなる。
 たとえば物を落としそうになったときに、とっさに出る手は右か左か。あるいは歩き出すとき先にでる足はどちらか?
 一つ目のヨーヨーが躱されたら、もう一つのヨーヨーはどうやって攻撃を繰り出すか?
 それを伊瀬は記憶を蓄積していくことで読むことができる。だからと言って、事前に起こることがわかっていても、短い時間で対処していくのは難しい。それを可能にするのが動体視力と反射能力だ。
 戦闘が長引けば長引くほど伊瀬の精度は増す。
 そして、彼の真の強さは経験から学び成長することだ。
 伊瀬に躱されたヨーヨーの糸が張り詰めた。
 緩んだものと、張り詰めたもの、どちらが衝撃に弱いか?
 伊瀬の一撃がヨーヨーの糸を切り、制御を失ったヨーヨー本体があらぬ方向に飛んでいくのをキラは見た。
「おいおい、ウソだろマジかよ」
 前は切ることができなかった。切ることができたのは、弱点を狙ったこともあるが、それ以外の理由もあった。
「以前、あなたと戦ったすぐあとに、ナイフを鍛え直してさらに新しい呪法を施しました」
 灼熱色をしていた二本のナイフが、鋼色に戻っていく。
 キラは残っているヨーヨーを強く握り締めていた。
 二人は距離を保っている。
 キラはこの位置から攻撃できるが、今のところ攻撃は防がれてしまっている。
 伊瀬は近接に持ち込まなくては本体への攻撃ができないが、そのチャンスが常にあるわけではない。
 キラだ、キラが先に仕掛けた。
 握られていたヨーヨーが投げられ、高速回転をしながら伊瀬に殴りかかる。
 顔面を狙ってきたヨーヨー。この位置で躱せば、少し軌道を変えるだけでヨーヨー本体か糸が追撃してくる。
 目前まで迫るヨーヨーに伊瀬は拳を構えた。
 殴り飛ばして撃墜させる気だ。
 にやりとキラが口角を上げた。目と鼻の先のヨーヨーを注視していた伊瀬はそれに気付かない。
 渾身の一撃でヨーヨーが殴られた!
 激しい爆発音!
 硝煙をまといながら伊瀬が後方にぶっ飛んだ。
 殴られた衝撃でヨーヨーが爆発したのだ。
 亜季菜が叫ぶ。
「伊瀬ーッ!」
 とっさに亜季菜は物陰から伊瀬のもとに駆け寄ろうとした。
 しかし、キラも同じく伊瀬に歩きながら近づいていた。中指を立てて舌を出し、亜季菜を威嚇しながら――。
 それを見た亜季菜は近づけなかった。近づけば笑いながら亜季菜に危害を加えるだろう。
 伊瀬を見下げるキラ。
「片腕がズタボロで血だらけ。おまけに眼鏡はどこに行ったんだ? あ、俺様が踏んでたわ」
 笑いながらキラはメガネを足の裏でグリグリとこねるように潰している。
 伊瀬の意識はあるのか?
 片腕の袖が破れ、覗く肌は肉色をしている。
 超合金グローブは無傷だった。
 その手にはナイフが握られたままだった。
 キラが足を後ろに振り上げ、伊瀬の頭部を蹴ろうとした瞬間だった。
「ギャアアアアアアッ!」
 煌めく高速の刃。
 絶叫と血飛沫が上がった。
 足を切られたキラが悶絶しながら床で悶える。
「いてえええええええっ!」
 その近くに中身の入ったクツが転がっている。
 ゆっくりと立ち上がった伊瀬。
「眼鏡は伊達ですのでご心配なく」
 ボロボロになったスーツの上着を投げ捨てる。
 下に着ているのは見た目はただのシャツだが、爆発を間近で受けたわりには袖に穴が空いている程度だった。
「このシャツは特殊素材のアーマーです。薄手なので柔軟性はあるのですが、強度と衝撃吸収に難があります。それでもマグナム弾を至近距離で防ぐことができます。打撲はしますが」
 伊瀬は微笑みながら振り返った。
「この少年をどうしますか?」
「見た目が少年なだけよ、煮るなり焼くなりしなさい」
 亜季菜はにべもなく答えた。
 握られていた伊瀬のナイフが灼熱色に輝く。焼くことにしたらしい。
「我々を襲った理由は?」
「いてえよおおおお!」
「今夜の取引に関係あることですか?」
「くそおおおおおお!」
「それとも別の目的ですか?」
「しぬうううううう!」
 激痛に悶えるキラは会話ができる状態ではないらしい。
「答える気がないのなら、本当に死ぬことになりますよ?」
 灼熱のナイフは振り上げられた。
 その瞬間、キラが血だらけの足首を振り回す!
 鮮血が伊瀬の顔面にかかり思わず眼をつぶってしまった。
 すぐに眼をあけると視界が赤くぼやけていた。
 少年の嗤い声。
「敵を殺すのに理由なんてねーんだよ!」
 キラが隠し持っていた最後の投げナイフが飛ばされた。
 伊瀬は避けられない!
「クッ!」
 苦痛を漏らした伊瀬の腕に突き刺さった投げナイフ。とっさに腕を犠牲にしてガードしたのだ。
 片脚で立ち上がってバランスを取っているキラは笑っていた。
「そいつがマジで最後のナイフだよ。石化のナイフだ」
 ナイフが刺さった傷口から灰色に硬化していく。それは指先から肩まで広がり、重くなった腕が地面に力なく垂れる。石化はそこで止まった。
「本家と違って全身を石化できるほどじゃないけどな」
 いいながらキラはヨーヨーを放った。
 ガシャン!
 石化した腕がヨーヨーによって無残に砕かれ粉々になった。
 唖然とする伊瀬。痛みは感じられなかった。だが、腕はもうそこにない。
 血の海に立ちながら重症のキラは嗤っていた。
「なあなあどうするよ。俺様まだ腕が二本あるぜ。攻撃の手数はこっちのが多いってことだよなあ?」
 どちらが不利なのか?
 キラは逃げることもできず、避けることもできず、出血多量で死が迫っている。
 伊瀬は片腕を失い、攻撃力が半減したといえる。
 この状況でキラは狂気を放ち、伊瀬を見下して嗤っているのだ。
「俺様は死んでもテメェを殺す覚悟だ。テメェはどうだ?」
「……命を賭けて亜季菜様をお守りするのが私の役目です」
「だよな、それなんだよ。命をかけるってのは本心だろうが、守るためにはここじゃ死ねないってジレンマがあるんだろ? おまえさ、戦いの最中によそ見ばっかりしてただろ」
 一回一回は一秒にも満たない。伊瀬は亜季菜の安否を気にしながら戦っていた。それをキラは見逃さなかったのだ。
「そろそろ応援部隊が来ると思うんだよな。つまりさ、そこの女だけが生き残ってもゲームオーバーなわけ」
 血の海は広がり続け、伊瀬の足下まで迫っていた。
 ぐつ…・・ぐつ……ぐつ……ぐつぐつ。
 血の海が粟立ち気泡が弾ける。
 亜季菜が伊瀬に駆け寄った。
「逃げるわよ、ヤバイ気がするわ!」
 煮える煮える煮え立つ血の海。
 これまで亜季菜は幾度となく危険な目に遭ってきた。それでも今日まで生きているのは、勘のお陰だ。本能、経験則、観察力、あらゆる蓄積が答えを導き危険を感知する。
 キラの躰がよろめく。
「嗚呼……さま」
 そのまま血の海に顔面から昏倒した。
 亜季菜と伊瀬は走って逃げた。腐臭が追いかけてくる。風が死をまとっている。
 振り返ってはいけない。
 女の絶叫が背後からした。
 思わず亜季菜は振り返った。
 血の海から無数の触手のようなものが這い出てきた。
 そして、蠢く触手の下からは、血にまみれた女の顔が――。
 息を呑んで亜季菜は走る速度をあげた。
 来る、今見てしまったものが来る。
 二人が走ったあとに残る血の靴跡から触手のようなものが突き出た。それは血の海から足跡を辿るように次々を生えてくる。
「きゃっ!」
 短く悲鳴をあげた亜季菜が転倒した。
「亜季菜様!」
 すぐに手を差し伸べた伊瀬は見てしまった。同じく亜季菜も自らの足首を見て背筋を凍らせた。血まみれの手が足首を掴んでいたのだ。
 躊躇せず伊瀬は血まみれの腕をナイフで斬った。
「キエェェェェェーーーッ!」
 怪鳥のような絶叫が遠くから聞こえた。
 切断された腕は蛇の形に変わったあと灰になって滅びた。
 その者は生贄の血によって召喚された。
「死の輪舞曲[ロンド]を踊りましょう」
 血の海から艶やかな裸体を晒し這い出てきた魔女――メディッサ。

 倉庫から飛び出した二人を車のヘッドライトが照らす。
 オープンカーがこちらに猛スピードで迫ってくる。
 甲高いブレーキ音と焦げるタイヤの臭い。
 激しく切られたハンドルは車を半回転させ、亜季菜の目の前でオープンカーは停車した。
「もしかしてグットタイミングだったかな?」
 車でやって来たのはD∴C∴の構成員であるシュバイツだった。
 亜季菜は不満そうな表情だ。
「バットタイミングよ、助けに来るならもっと早くしてちょうだい」
「デートなら遅れないんだけどなぁ」
「いいから早く出してヤバイのが来るわ!」
 亜季菜は後部座席に飛び乗った。
 続いて伊瀬が助手席に乗る。その姿を見てシュバイツは納得した。
「執事君の腕がやられちゃったわけね。怪我人は足手まといだから、ここに置いて二人でデー……ドッ!」
 言おうとして座席が後ろから蹴られた。
「来たわよ!」
 ぴちゃ……ぴちゃ…・・。
 どす黒い血を肢体から滴らせながら、妖艶な怪物が緩やかな足取りで迫ってくる。
「ナイスバディ……ぐっ」
 目を奪われたシュバイツの座席が後ろから蹴られた。
「あんたのこと降ろしてあたしが運転するわ!」
「いやいやいや、この子はじゃじゃ馬だから僕しか運転できないんだよ」
 アクセルが踏まれ、タイヤが悲鳴を上げた。
 夜の港に木霊する女の嗤い声。
 駆け抜ける車の前方に集団が見えた。蛇人間だ、彼らが防壁となり立ち並んでいる。
 シュバイツは底が抜けそうなほどアクセルを踏んだ。
「ボーリングってやったことないんだけど」
 蛇人間たちはだれひとりも逃げない。
 ボールとピンが激突した。
 蛇人間たちは宙を飛び、地面に叩き落とされ、海に落ちたものもいる。中には執念深い蛇人間もいて、車内に乗り込んできた。
 運転中のシュバイツが両手でハンドルを握りながら横目で見る。
「手を貸そうか?」
 蛇人間が助手席の伊瀬に乗りかかり、二人がもみ合っている。片腕を失っている伊瀬の情勢は悪い。腕力では押し切れそうにない。
 蛇の長い舌が伊瀬の眼前に伸び、大きな口が開き頭部を丸呑みにしうようとした。
「ギャァッ!」
 長い舌が引っ込み、短い悲鳴があがった。
 伊瀬の持つナイフが蛇人間の腹を突き刺していた。そのまま奥までナイフを肉に食い込ませ、伊瀬は腕に力を込めて持ち上げるようにした。
 少し蛇人間の躰が浮いた。そのまま伊瀬は勢いよく殴るように蛇人間を押し飛ばした。
 亜季菜が伏せる。その上を蛇人間が飛ぶ。
 ガッ!
 車外に墜ちる寸前、蛇人間は往生際悪く後部座席を掴んだ。
 叫ぶ亜季菜。
「振り落として!」
 バックミラーでシュバイツは確認した。腹から血を流しながら蛇人間が必死にしがみついている。
 ハンドルが急に切られた。
 車内が激しく揺れる。
 さらに右へ左へ、蛇行運転しながら、蛇人間が左右に振られる。
「まっすぐ走れ、私がいく!」
 伊瀬が助手席から立ち上がった。
 ガクン!
 急な揺れで伊瀬は座席の上にしゃがみ込んだ。
「私まで振り落とす気かっ!」
 伊瀬がシュバイツに目を遣ると、彼はクラクションを鳴らしながら前方を指差していた。
「蜘蛛の巣だッ!」
 道を塞ぐように張られた巨大な蜘蛛の巣。
 若い女の顔を持った巨大蜘蛛が舌舐りをして待ち構えている。
 後部座席にいた亜季菜が腰を据えて立ち上がった。その肩にはハンドバズーカが背負われている。
「足下に転がってたんだけど、撃っていいのよね?」
「撃ってもいいけど反動に気をつけて、ただの弾じゃ――」
 シュバイツが言い終わる前に亜季菜は引き金を引いた。
 爆音と同時に亜季菜の上半身が後ろに倒れる。
「きゃっ」
 叫んだ亜季菜の服を伊瀬が掴んだ。
「亜季菜様!」
 伊瀬に支えられ、亜季菜は膝に力を入れて踏ん張って留まった。
 発射された弾は叫び声をあげながら、黒鳥が翼を広げるように蜘蛛女を呑み込もうとしていた。それはまさしく〈闇〉だ。
 絶句する蜘蛛女の瞳に映る〈闇〉。深淵を覗き込んでしまった蜘蛛女は全身を総毛立たせ、瞬く間に老婆になってしまった。
「ギエエエエエエエエエッ」
 〈闇〉はすべてを呑み込んだ。
 後部座席でガタガタと何かが音を立てている。
 気付いた亜季菜が目を向けると、アタッシェケースが激しく揺れていた。まるで中で生き物が暴れているようだ。いったい中に何が入っているのか?
「亜季菜様まだ敵が!」
 伊瀬の視線は亜季菜の後ろ、蛇人間はまだ振り落とされず、トランクの上を這うように登ってきていた。
 妖しく嗤った。
 蛇人間がそれとは思えない笑みを浮かべたとき、頭部から皮膚が剥がれ落ち別の者が這い出してきた。
「それを渡しなさい」
 血まみれの魔女メディッサ。
 爪が長く伸びた指先でアタッシェケースを掴んだ。腕から滴る血がまるで蛇のように動き、ケースの鍵を開ける。
 慌てて亜季菜はアタッシェケースを両手で掴んで引っ張った。
「商売品を勝手にもってこうとしないでよ!」
「これはアタシのモノよ」
 ケースの蓋が開き、中身が宙に飛び出した。
 凍れる心臓。
 見た目は人間の心臓。それが氷付けにされていた。
 二人の手が同時に伸びた。
 助手席に飛び移った伊瀬がメディッサの顔面を殴る。
 まるで水を殴ったような感触。
 爆発するように血が飛び散ってメディッサの上半身が消失して、下半身は流れるように崩れ落ちた。
 心臓を掴んだのは亜季菜。
「なんなのこれ、クソ熱いわよ……やだ、どんどん熱くなって」
 あまりの冷たさに痛みを感じることで、熱いと錯覚しているのではない。この心臓は生きているから熱いのだ。激情している心臓は憤怒で熱くなっているのだ。
 バックミラーでシュバイツはそれを確認した。
「それは〈凍れる時の心臓〉か!」
「なにそれ、これってなんなのよ? もう熱くて持ってらんない」
 取引で手に入れた代物だが、亜季菜はこれがなんなのか知らなかったようだ。
 伊瀬がグローブをはめた手で〈凍れる時の心臓〉を受け取った。
「私が預かります」
 先ほどまで暴れていた〈凍れる時の心臓〉は、今は熱だけを発して黙している。なにかに共鳴していたのだろうか。
 運転をしながらシュバイツは説明する。
「それを持ってる限り、さっきの蛇女は追い続けてくるよ。なぜってフィアンセの心臓だからね」
 亜季菜は後部座席に深くもたれ掛かった。
「中東の古い地層から発見されたのよ。恐竜が暴れ回っていた時代のね」
「そんな馬鹿な」
 シュバイツは目を丸くして驚いた。
 氷付けになっている心臓はヒトの物に見える。中東の古い地層とは、石油採掘をする白亜紀やジュラ紀の地層のことだ。もちろんそんな太古の時代に人間はいない。
「そんな時代の地層から出てきて、化石でもなく氷付けになってて、しかもどうやっても溶かすことができない氷。魔導絡みっぽいから調べてみる価値があると思ったのよね」
 と、亜季菜は溜め息を漏らす。トラブルに巻き込まれた。呪われた心臓は地中深く埋めたままにするべきであった。藪をつついて蛇を出してしまったようだ。
 シュバイツは不可思議な面持ちをしていた。
「そのフィアンセっていうのは、D∴C∴の首領……あ、元首領か……の物なんだけど、彼がやられたのって数年前のことなんだけどなぁ。時空を越えたってことなのか……どおりで見つからなかったわけだ」
 急にブレーキが踏まれた。目の前の背もたれにぶつかった亜季菜が悪態を吐く。
「なんなのよクソ」
 周りを見回すと、そこは広場だった。遠くに海を見渡せる海浜公園だ。
 伊瀬は不審そうにシュバイツを睨んだ。
「なぜ止まった?」
 こんな場所で――と言いたげだ。
「蛇は執念深いから逃げ切れない。実際もう囲まれてるし、どこかで迎え撃たなきゃ」
 それまで感じなかった気配がした。本当に囲まれていたようだ。
 月明かりに照らされてできた影から、蛇人間たちが這い出てくる。車の周りを取り囲みながら一人、二人、三人、四人と――。
 無数に蠢く蛇の巣に落ちてしまったような光景。数え切れない蛇人間達の群れ。逃げ切れるとは到底思えない。
 一体の蛇人間が脱皮して、中から血まみれのメディッサが微笑みながら現れた。
「毒と石化、どちらがお好み? アタシは毒に冒され狂い踊る姿を見るのが好きよ」
 絶体絶命の危機だった。
 心臓を返せば助けてくれるという雰囲気でもない。そんな交渉などせず、奪ってしまえば済むだけの話。それも殺して奪うだけ。
 今、〈凍れる時の心臓〉は伊瀬の手にある。
 返すという交渉が成り立たないのであればこうだ。
「その場から一歩でも動いてみろ、破壊しますよ?」
 魔術の紋様が描かれたナイフが灼熱色に輝き、切っ先が氷に突き付けられている。
 魔導に対して魔導ならば、氷を破壊もしくは、溶かすことができるかもしれないが、その確証はない。やってみなければわからない。
 しかし、伊瀬は出来るという自信を覗かせる態度を取っている。交渉は態度で示さなければならない。
 メディッサは楽しそうに嗤った。
「その片腕はどうしたのかしら?」
「…………」
「アタシの魔力がこもった短剣で石化されたのでしょう。本物はとても凄いわよ、瞬き一つで石にしてあげる」
 長いまつげを降ろしながら静かに目を閉じたメディッサ。
 そして、蛇眼が開かれようとした一刹那。
 世界が閃光した!
 どこかからか投げ込まれた閃光弾によって、辺りは白く染まりここにいた者たちの視界を奪う。
 白い世界に巨大な魔鳥の影が映る。
 夜空に一羽の鴉が地上を見下ろすように羽ばたいていた。
 鴉はげっぷを鳴らしながら大きく口を開けた。その中からケープをはためかせ、白い仮面の主が地上に舞い降りた。
 傀儡紫苑。
 輝線が迸る。まるで生き物のように舞い踊る妖糸。
 悲鳴悲鳴絶叫。
 切られた者たちの手や足や首が宙を飛ぶ。まるでマネキンのように、無機質なまでに切られていく。だが、それが肉を持ったものであることを噴き出す血が証明している。
 瞬く間に凄惨な地獄絵図と化した。
 ケープは鮮血でどす黒く染まったが、フルムーンに照らされて反射する仮面は無垢なる白。無慈悲に無機質に、美しく、紫苑はそこに佇んでいた。
「愁斗君、助けに来てくれたのね!」
 倉庫で蛇人間が現れた直後、亜季菜は愁斗にメールを送信していた。
 鴉が地上に舞い降り、長身の男の腕に装着された。
「生身のご本人は運べなかったもので、人形のほうにご足労願いました」
 夜でもサングラスの妖しい男。ここにいる全員が知っている。影山彪彦だった。
 血の海からメディッサが這い出てきた。
「裏切り者の鴉め」
「力こそ全て、正統な後継者に仕えているだけですよ。裏切り者……反逆者は貴女のほうでしょう」
 形勢は逆転した。
 蠢くほどに群れを成していた蛇人間たちは死んだ。残るはメディッサのみとなっていた。
 彪彦は口の端を上げて見下すように嗤った。
「私とそこのお人形には蛇眼も猛毒も効きませんよ。わざわざ教える必要もないと思いますが、念のため」
 嫌みったらしい口調だった。
 さも悔しそうに眉間にしわを寄せながらメディッサは彪彦を睨んでいる。それでも石化することはない。
「それで勝ったつもり? この大量の生贄を見なさい。これだけあればアタシはいくらでも生まれるわ。最後はアタシが勝つのよ、キャハハハハハ!」
 高笑いするメディッサに彪彦は冷笑を向けた。
「で?」
 その一言で片付けた。
 鉤爪が大きく口を開け、血の一滴も残さずにすべて呑み込んだのだ。
 恐怖の対象であったメディッサがぐうの音も出ない状況に追い込まれていく様を、亜季菜はおかしくて仕方がない様子だ。
「滑稽ね。よく見たら、ただのペンキかぶったババアじゃないの」
 メディッサが瞳を閉じた。
 ぐうの音を吐いた彪彦が動こうとした。
 紫苑が妖糸を放とうとした。
 シュバイツが亜季菜を見つめた。
 伊瀬が地面を蹴り上げた。
 一刹那。
「亜季菜様ッ!」
 目を丸くする亜季菜の瞳に映った。
 妖しく輝く金色の蛇眼。
 伊瀬が亜季菜を抱きかかえながら押し倒した。
 女の甲高い笑い声が夜に木霊する。
 地面に仰向けになった亜季菜と、上に覆い被さった伊瀬が間近で目を合わせる。
「亜季菜……様?」
「……伊瀬、くん」
 顔面蒼白で血の気が引いてしまっている亜季菜。
 残っていた伊瀬の片腕が崩れ落ちた。
「伊瀬君……腕が……」
 両腕を失った。亜季菜を救った代償だった。
 しかし、その代償だけでは、すべては救えなかった。
「私のことよりも、亜季菜様が……くっ」
 怒りと悲しみで伊瀬は歯を食いしばった。
「下半身の感覚がないのよね……怖すぎて自分じゃ見れないんだけど。あと、すごく寒い」
 亜季菜の下半身は石化してしまっていた。
「動かさないほうがいい」
 と、だれかが言った。
 人影は亜季菜たちの横を通り過ぎ、地面に落ちていた〈凍れる時の心臓〉を拾い上げた。そのときに、一滴のなにかが地面に落ちた。
 〈凍れる心臓〉を拾い上げたのはシュバイツだった。
 彼はそのままゆっくりと亜季菜たちの横を目もくれずに通り過ぎると、彪彦の前に立った。
 そして、そっと彪彦に耳打ちをする。
「扉は中からしか開かない」
 次の瞬間、素早い動きでシュバイツは彪彦の腕を掴み、装着された鉤爪の中に自分の手をごと〈凍れる時の心臓〉を入れたのだ。
「なにを!?」
 驚きを隠せない彪彦。
 嗤うメディッサ。
「よくやったわシュバイツ!」
 その言葉に耳を疑った。
 シュバイツが鉤爪を腕を引き抜くと、彪彦は膝をついて崩れ落ちた。
「裏切ったのか……シュバイ……ッ」
 地面に転がる鉤爪が嗚咽を漏らしながら血や肉を吐き出す。それは苦しんでいるように見えた。
 うご……うぷぷ……ぐぶ……ぐぐぐげ……うえぇぇぇぇぇ……。
 異様な奇声を発しながら、鉤爪はスライム状に溶けながら蠢いている。
 なにが起こっているのか?
 シュバイツはいったいなにをしたのか?
 魔女は愉しそうだった。
「アタシに踊らされる気分はどう? 下賤な者たちにアタシが追い詰められるだなんて、そんなの演技に決まっているでしょう。一流の女は一流の女優なのよ、キャハハハハハッ!」
 紫苑はシュバイツに向けて構えている。
 伊瀬はシュバイツを睨んでいる。
 視線を向けられているシュバイツは、明後日の方向を眺め遠い目をしていた。
「あの御方を復活させるには、まず心臓が必要だった。その心臓を復活させるためには、強いエネルギーが必要だった。深い深い〈闇〉のエネルギーがね。愁斗君が喚ぶ〈闇〉か、彪彦さんの動力源か、どっちを使うかは状況次第だったんだけど」
 地面に転がっていた彪彦が急に腐臭を放ちはじめた。
 鉤爪はもうどこにもない。
 残っているのはどす黒い心臓。
 激しく強く逞しく心臓が脈打っている。
 永い時を経て、心臓が息を吹き返したのだ。
 甘美に悶えながら、メディッサは身をくねらせ、自らの胸をまさぐり、さらに股間に手をやった。
「嗚呼、我が主にして、最愛のヒト……貴方の鼓動が聞こえるわ。もうすぐよ、もうすぐ貴方に逢えるのね」
 〈蘇りし心臓〉を拾い上げ、血のついた顔で頬ずりした。
 もはやほかのものは眼中になかった。
 鉤爪が吐き出した血の海にメディッサが沈んでいく。
 妖糸が放たれた。
 メディッサの胴体がずり落ちた。
 それでも頬ずりを続け、紫苑に目をやることもなかった。
 血の海に下半身を失った胴が落ちて、血飛沫を噴き上げながらメディッサは深い底に消えた。
 残されたシュバイツに敵意が向けられる。
 両腕を失った伊瀬は亜季菜に寄り添っている。この場で戦えるのは紫苑のみ。
「おっと、テメェの相手は俺様だ」
 鳴き声、悲鳴、嗤い声。
 若い男の声がシュバイツの背後からした。
「選手交代だぜ」
 シュバイツの胴になにかが巻き付き、そのまま後ろの空間の裂け目に引きずり込まれてしまった。
 代わりにその裂け目から、異形の手が這い出てきた。
 そして、紫苑を通じて対峙する二人。
 傀儡師対傀儡師。
 〈向う側〉から還りし者――麗慈。

「地獄の長旅から、大親友の俺様が帰ってきたんだぜ、笑えよ」
 狂った笑みを浮かべる麗慈に白い仮面は無機質に答える。透き通った女の声で――。
「いつかは帰ると思っていた」
「嬉しいこといってくれるじゃねえか。嬉しすぎて嬉ションを仮面の下の顔にぶっかけてヤリてえくらいだぜ」
 静かに輝線が趨った。
 二本の妖糸が交差して、はらりと地に落ちる。
「早漏すぎんだろ」
 麗慈は嫌らしく笑った。
「ヤリ合う前に久しぶりの再会なんだ、世間話でもしようぜ、なあ?」
 その答えに紫苑は無言で答えた。
 二重の輝線が趨った。
 迎え撃つ三本の輝線。
 交差した妖糸が、再びはらりと地面に落ちる。
 だが、残った輝線が紫苑を襲う。
 静かだった。地面が割れた音以外は、風すらも口を噤んでいた。
 両者はまるでまだなにもしてないかのごとく、そこに立っていた。
 敵に背を向けて切られてることなど考えてもないように、麗慈は意味もなくあたりをゆっくりと歩き回りはじめた。
「〈向う側〉がどんな場所が知ってるか?」
「…………」
「っても、無数に存在するらしいから、どんなかなんてひとくちじゃ説明できなんだけどよ。俺様がいた場所は、この世界と似た場所だったぜ。棲んでるやつらは異形だったけどな」
 そういいながら異形の手を見せた。赤黒く硬質な肌、鳥のような鉤爪の六本指、その一本には指輪がはめられていた。
「前のはだれかさんに斬られちまったからな。ああ、そういえば背が伸びたと思わないか?」
 一見して人懐っこそうな笑みを浮かべているが、目が讃えているのは邪悪そのもの。
「〈向う側〉とこっちじゃ時間の流れが違うらしいぜ。テメェが女とヤリ合ってるとき、俺様はブスどもとヤリ合ってたんだぜ、毎日毎日、毎日っ毎日っ、毎日毎日毎日毎日毎日クソ毎日ッ!」
 激流と化した妖糸が〈闇〉を纏って紫苑に襲いかかる。
 地面を翔る紫苑に合わせて〈闇〉の妖糸が方向転換する。
 妖糸は初手による直線的な攻撃が強度と切れ味に優れ、方向を転換させることで勢いが落ち糸が緩む。が、〈闇〉を纏った妖糸は生き物のように動くためそれがない。それどころか、途中で勢いを増してきた。
 紫苑は素早い手つきで宙に幾何学模様を描いた。このタイミングでの召喚は間に合わない。ならばこれは、防御陣だ。
 迸る妖糸の激流を魔法陣が受け止めた。四散する闇の粒。
 魔法陣が押されている。半球状に変形して妖糸を受け止めているが、このままでは破裂して破けてしまいそうだ。
「テメェの力はその程度かよ!」
 魔法陣を構成している糸が綻びはじめる。
 白い仮面に表情はない。
 傀儡師は傀儡をもって戦うことで本領を発揮できる。
 紫苑は腰を落として拳を握った。
 傀儡には肉体的な制限がない。
 握った拳で魔法陣を内側から殴った!
 張り詰めていた魔法陣が、一気に元の形に戻り妖糸を打ち返す。
 打ち返された妖糸は加速により力を増している。
 麗慈は目を丸くした。
 自ら放った〈闇〉の妖糸が己を喰らおうとしているのだ。
 鳴き声、叫び声、嘲笑。
 妖糸は麗慈の腹を殴るように抉った。
「う……ぐっ」
 口から闇色のなにかを吐瀉する麗慈。その腹には拳大の穴が空いていた。血は出ていない。
「驚いたか?」
 と、麗慈はにやりと笑った。
 腹に穴を開けられれば、常人ならばショック死か、出血多量ですぐに死ぬだろう。
 開けられた腹の穴の中でヒルのようなものが蠢いている。
「俺様はもう人間じゃない。それどころか、麗慈はとっくに死んでるんだ」
 腹の穴が修復していく。黒く蠢いていたものが硬質化して腹筋の形になると、少しずつ肌の色に変わって傷一つない元の姿に戻る。
「ゾンビってわけじゃないぜ。ここにいる俺様は死んでいく麗慈を再構築した麗慈だ。記憶はそっくりそのまま、見た目も同じ、肉体を構成するなんかが違うだけだ」
 たとえば、幽霊が他人に憑依して完全に人格を乗っ取った場合、躰は違えど幽霊本人であるといえるのか?
 たとえば、コンピューターに記憶をすべてアップロードして、それを自分のクローンにダウンロードした場合、それを本人と呼べるのか?
 境界線はどこなのか?
 少なくともここにいる麗慈は、過去の麗慈とは違う者であると自覚している。
「〈向う側〉で重傷を負った俺様は、怪物どもに食われながら死んだ。頭蓋骨が割れる音を子守歌にしながらな。で、意識が戻るとグチャグチャの怪物の屍体の上にすっぽんぽんで立ってた。なにが起きたのかわからない」
 麗慈は自らの異形の手を見た。
「この手は死ぬ前に手に入れたからか、人間の手には戻らなかった」
 指輪に刻まれた六芒星が妖しく輝いていた。
「戻らなくてよかったと思ってるぜ。俺様は新たな力を得たんだからな」
 麗慈が異形の手によって妖糸の魔法陣を描く。
 傀儡師の真価。以前の麗慈は人間を操る程度で、妖糸そのものを武器にしていた。それが愁斗との圧倒的な差であった。
 今は違う。
「俺様はテメェを越えた。それを今から証明してやる!」
 傀儡召喚。
 世界の裂け目から〈それ〉がなにを貪る音が聞こえ、吐き気がするほどの異臭が漂ってきた。
 羽音が聞こえる。大きすぎてまるで耳元を飛んでいるようだ。
 腐臭と糞尿の悪臭を連れ添い、王冠を頂く巨大な蝿のような異形が君臨した。
 体長は三メートルほど、羽根を合わせればその倍の巨躯。胴は金色に輝き筋骨隆々としており、網の目のような巨大な複眼は赤く輝いている。六本の足のうち四本はまるで手のようであり、一本には髑髏の杖を構えていた。
「下等生物が我を召喚するとは、我を王の中の王ベルゼブブと知ってのことか?」
 その異形からは想像もできない若く透き通った男の美声であった。
「テメェがだれかなんか興味ねーよ。俺様の思うがままに戦えばいいんだよ!」
 麗慈は操り糸でベルゼブブ拘束して手綱を握った。
「下賤な者の分際で我を……ぐっ……なん……だと?」
 巨躯を揺らし、さらに羽根を動かし、髑髏の杖を振り回して暴れ、ベルゼブブは地面に墜落した。
 赤い複眼に嗤う麗慈の顔がいくつも映る。さらに複眼はその異形の手を映し出した。
「その手はまさか〈死〉のものであるか? ん、んん、なんたることだ、その指輪はまさか、永らく失われていた〈ソロモンの指輪〉かッ!」
「あ? この指輪がなんだって?」
「指輪のことも知らぬ愚か者の手に渡るとは、悲劇を通り越して喜劇であるな。不本意であるが、我の力を貸してやろう」
「上から目線で話してんじゃねーよ蝿野郎。テメェは俺様の操り人形なんだよ!」
 麗慈に操られたベルゼブブが、髑髏の杖を大きく振りかぶりながら紫苑に襲い掛かる。
 地面に縦横均等に何本もの輝線が趨り、紫苑は妖糸を力強く引っ張り上げた。切り出したブロックで防御壁を作ったのだ。
 髑髏の杖がブロックを粉々に破壊した。その先に紫苑はすでにいない。あったのは魔法陣だ。
 〈それ〉の呻き声で地震が起き、地面が激しく揺れ狂い、残っていたブロックが積み上がると、この世に石の巨人が創り出された。
 巨大な石の手が振り上げられ、巨大な蝿を叩き落とした!
 落下の衝撃で地面が割れる。だが、ベルゼブブは無傷である。頂く王冠も数ミリもずれていない。
「ゴーレムとは小賢しい。石をも溶かす地獄の業火で滅してくれるわ」
 ベルゼブブが杖を振り回すと、紅蓮の炎が吹き出し石巨人を覆い尽くした。
 高熱によって焼かれる石巨人の躰にヒビが走る。何本も何本も、それは交差して、躰のあちこちが砕けていく。膝が崩れ、巨体が傾いた。
 〈それ〉の手拍子はまるで太鼓のように大きな音を鳴り響かせる。どこかともなく聞こえてくる出囃子。
 月下で舞い踊る巫女装束の人影。顔には狐の面。尻からは三本の金色の尾が生えていた。
 狐面の巫女が尻尾で石巨人を焼く炎を払った。
 灰と化して崩れた石巨人。
 業火を宿した狐面の巫女の三本の尾。
 ベルゼブブが巨大な口を開き、大量のイナゴの群れを吐き出した。
 ただのイナゴではない。赤子から老人まで、イナゴの顔は人間そのものであった。
 扇を取り出した狐面の巫女が舞う。
 払う祓う、扇でイナゴを払っていく。
 地面に落ちた虫の死骸はヒトの声で絶叫しながら灰と化す。
 狐面の巫女は踊り続ける。尾に宿した業火を撃ち放った。
 渦巻く狐火が叫び声をあげている。よく見ると数珠繋ぎになった髑髏が燃えてながら呪詛を吐いていた。
 ベルゼブブが髑髏の杖を大きく掲げる。
「我は王であるぞ、ひれ伏すがよい」
 汚泥が空から降り注ぎ、狐火を呑みながら地面に落とす。
〈それ〉の唸り声に共鳴し、汚泥が集合して泥巨人が生み出された。
 泥巨人は不安定に歩きながら、そのまま倒れるようにベルゼブブに覆い被さろうとした。
 大きく息を吸いこむベルゼブブ。
 巨人を形作っていた汚泥が吸いこまれていく。
 げっぷ。
 胃から込み上げてきた汚い音をベルゼブブは鳴らし、泥巨人をすべて呑み込んでしまった。
 辺りを見渡すベルゼブブ。複眼に映ったのは四方を囲む赤い鳥居だった。
 ベルゼブブは鳥居の向こうに背を向けた己を見た。振り返ると己と眼が合った。左右も同じだった。まるで鏡に映っているようだ。
 目の前にある鳥居をくぐる。すると、くぐる前と同じ場所に戻ってきてしまった。空間がねじれている。
 鳥居の先には己がいる。その先にも鳥居があり己がいた。その先も、その先も、遙か先も、永遠に続く先さえも、無限に鳥居と己が続いていた。
 空はどうだろうか?
 闇が広がっていた。星の輝きすらもない。そこは夜空ではなかった。なにも見えない、なにも無いかもしれない闇だった。
 鳥居は外から見ると一つしか存在していなかった。その先にベルゼブブの姿が見える。けれど、後ろに回ってもそこにベルゼブブはいない。鳥居の中だけにベルゼブブは存在しているのだ。
 ベルゼブブの足止めをした隙に、狐面の巫女は麗慈に攻撃を仕掛けていた。
 狐火が呪詛を吐きながら麗慈を呑み込まんとする。
 異形の手から妖糸が放たれた。
 炎を斬り髑髏を斬る。
 斬られて割れた炎の先から狐面の巫女が飛びかかってきた。
 切れ味鋭い妖糸が飛ぶ。
 狐面の巫女は難なくそれを扇で振り払った。
 面はただの面にあらず。面であるはずのそれが口を開けて牙を剥いた。
 素早く麗慈は上体を反らした。が、避けきれなかった。
 首を狙った牙は外れ、肩に噛み付き肉ごと噛みきろうとした。
 狐面が大きく振りかぶられ、麗慈の肩が大きく消失した。血の代わりに噴きだしたのは黒いヒルのようなもの。
 狐面の巫女は顔面にヒルのようなものを浴び、さらにのどの奥でなにかが蠢く違和感で一瞬だが怯んだ。
 嗤う麗慈が狐面に手をかけた。
 めりめりめり。皮を引き剥がすような音がした。
 剥がし取られた狐面が遠くに逃げ飛ばされた。
 露わにされた巫女の顔。
 血の化粧をした切れ長の目をした少女であった。
 麗慈は少女の胸を鷲掴みにして地面に押し倒した。
「処女なら相手してヤッてもいいぜ」
 少女は麗慈の背中に手を回して抱きついた。
 二人の躰が一気に燃え上がる。
 少女の放った狐火が麗慈の躰を泥のように溶かしていく。
 崩れた顔で麗慈は嗤っていた。
「アハハハハハハ、燃えるような恋ってやつか?」
 炎が消えた。
 白目を剥いて転がる生首。
「殺したいほど愛してるぜ……いや、愛してたか。処女かどうか確かめる前に殺しちまったが、過去の女には興味ないんだ、あばよ!」
 生首が蹴っ飛ばされて闇に消えた。
 同時に赤い鳥居も壊れ、ベルゼブブが再び現世に還ってきた。
 複眼は燃えるような色をしていた。
「つまらぬ遊戯であった」
 杖の髑髏の眼からいかずちが放たれた。
 紫苑は防御陣を張ろうとするが、空気中の放電は瞬きすら許さない速さだった。
 電撃を喰らった紫苑が後方に大きく吹っ飛ぶ。
 背中から落ちた。
 動かない。いや、微かに腕を持ち上げようとしたようだが、糸が切れたように落ちて地面を叩いた。
 溶けた躰を少しずつ再生させながら、麗慈は地面に転がる傀儡に近づいていた。
「丈夫な人形だな、服が焦げただけかよ」
 全裸で再生された麗慈は足の裏で紫苑の腹を押しつぶす。
「もしもーし、元気ですかー?」
 反応はなかった。
「俺様はいつでも元気ビンビンだぜ!」
 麗慈は足を振り上げて紫苑の頭を蹴り飛ばした。
 反動で白い仮面が飛んだ。
 陶器のような白い肌、閉じられた瞼から花咲くように伸びた睫毛、淡い色をした唇もまた花の蕾のようだった。健やかに眠っているようにしか見えない。口元に耳を近づければ、吐息が聞こえてきそうだ。
 しかし、実際には息をしてない。生きてすらいないのだ。
「だれかさんにそっくりでムカツク顔だぜ」
 麗慈が片脚をゆっくりと上げ、紫苑の顔の上で止めた。
 寒気がした。
 麗慈が鬼気を感じて辺りを見回した瞬間、上げていた足が切り飛ばされた。
 思わずバランスを崩して倒れた麗慈。地面に頬を付けながら、だれかが歩いてくるのを見た。
「同じような真似をしてみろ。たとえお前の力を必要としているとしても、八つ裂きでは済ますさんぞ」
 黒緋のインバネス、無機質な白い仮面、D∴C∴の首領にして、愁斗の父――傀儡師蘭魔。
 足を再生させた麗慈が立ち上がった。
「噂のドンか。蛇ババアがあんたのこと呪い殺してやるって言ってたぜ」
「お前の力を借りたい」
「おい、こっちの話はムシかよ」
「その手によって〈扉〉を開けて欲しい」
「あンだと?」
 以前、蘭魔は〈鍵〉を探していると言った。つまり〈鍵〉とは麗慈のことだったのだ。正確には麗慈ではなく――。
「〈死〉から奪ったその手が〈タルタロス〉に続く〈門〉を開く〈鍵〉となる」
 異形の手が〈鍵〉だった。
 同じような手を蘭魔も持っていた。鳥のような鉤爪を持つ六本指の異形の手だ。
「模造品をこしらえてみたが、偽物では〈向う側〉への〈扉〉を開くことはできても、その先に続く〈門〉を開くことはできなかったのだ」
「〈向う側〉のさらに先があるなんて考えてもみなかったぜ。あっちいるときはこっち側に還ってくることばっかり考えてたからな」
 そして、麗慈の答えは?
「あんたあいつの父親なんだってな。頭に蛆でも湧いてんじゃねーか、クソ野郎!」
 麗慈の手から闇色の妖糸が放たれた。
 その瞬間には別の闇色の妖糸が麗慈の妖糸を呑み込んでいた。
 相殺。
 蘭魔は白い仮面の下で溜め息を漏らした。
「やはり失敗作だな」
「……失敗作、だと? 俺様が失敗作だと? どの口が言ってんだ、クソ詰めてやんぞオラ!」
「私の血を分けたと言っても、雑種ではやはり傀儡師にはなれんのだな」
「ん?」
「お前は私の子だ。子と言っても、組織の旧体制が進めていたプロジェクトにより、試験官の中で作られた実験体に過ぎんが」
 麗慈は驚きもせず、嗤いもせず、ただ眉をひそめて黙った。
 さらに蘭魔は話を続ける。
「実験体で生き残っているのはお前だけだ。それは私にとって予想外だったが、今となっては〈鍵〉を手に入れられる運命に感謝しよう」
「予想外だと?」
「そうだ、実験体は生まれる前から失敗作になるように私が仕組んだからだ。ある者は生まれる前に死に、ある者は病弱により死に、ある者は狂いながら死んだ。私は組織に血を提供したのだが、あらかじめ毒のようなものを混ぜておいたのだ」
「どーでもいい話だ。本当にクソみてえにどーでもいい話だな!」
 風が喚く。
 コンクリートやアスファルトは老朽化してひび割れ砕け、草木が萎れ枯れて木に止まって寝ていた鳥が地面に落ちる。大地は腐っていた。息絶えた鳥は瞬く間に腐食していき、やがては干からびて消える。王冠を頂く者はその中心に鎮座していた。
 ベルゼブブが口からイナゴを吐く。
 迫り来る群れを前に蘭魔は妖糸の網を張った。編み目は羽虫が通れるほどであるが、その穴は魔力で塞がれており、電撃でも喰らったようにイナゴが丸焦げになりながら死ぬ。
 蟲が死ぬたびに聞こえる人間のような阿鼻叫喚。
 ベルゼブブが髑髏の杖を振り回す。すると業火が噴き出し轟々と風を巻き込みながら蘭魔を呑み込もうとした。
 軽くて手首を動かした蘭魔。妖糸が空間を切り裂き、巨大な口を開けた。ひゅうひゅうと音を立て空間の裂け目が風を呑む。
 業火が蘭魔の目の前で呑まれて消えた。
 蘭魔は一歩も動いていない。その回りの大地は腐食してしまっている。足場を失ったから動かないのか、それとも動く必要がないのか。
 インバネスをはためかせ、白い無機質な仮面はベルゼブブと対峙している。
 激しく羽を震動させるベルゼブブ。
 髑髏の杖が発光した刹那、稲妻が宙を横に翔る。
 神速。
 闇色の妖糸が稲妻と激突する。
 白と黒の火花が散った。勝ったの蘭魔の妖糸だった。
 叫び声をあげながら〈闇〉がベルゼブブの手足に絡みつく。
「うぬぬ……我らに縄かけるという事の重大さを知ってのことか!」
 ついに蘭魔が歩き出す。
「貴公ら大罪人と争う気は毛頭ない。敵の敵は味方という言葉もあるが、邪魔はしないでいただきたいな」
 階段を上るように宙を歩く。妖糸の上を歩いているのだ。
 やがて蘭魔はベルゼブブよりも高い位置に着いた。
「屈辱であるぞ!」
 見下されたベルゼブブが叫んだ。
 白い仮面には感情はない。
 蘭魔の手によって巨大な魔法陣が天空に描かれる。
 まるで硝子が割れたように魔法陣ごと空間が飛び散り、巨大な手が降ってきた。
 複眼はあきらかに畏怖の色をしていた。
「ケーオスよ、我はまだこやつに……くっ、うぬぬぬぬ……」
 〈それ〉は巨躯の蝿をいとも簡単に鷲掴みにした。もがくことすら許されず、空間の裂け目に連れ去られる。絶対的な力の前では抵抗など無意味である。
 世界に静けさが戻る。
 満月の夜である。
 放たれた妖糸。殺気を感じた蘭魔は宙を回転してそれを躱し、大地に着地してさらなる攻撃に備えて腕を構えようとした。だが、その動きは一瞬だけ驚きで止まってしまった。
 此の世の者とは思えぬ艶やかな女。
 月明かりを浴びた顔は蒼白く、それとは対照的に唇は妖々と朱く色づいていた。
 傀儡紫苑。
 その手から放たれた妖糸が蘭魔の首を切ろうとする。
 生死を分けた一瞬に蘭魔は我に返りかろうじて上体を反らせた。
 妖糸は白い仮面の頬を掠めた。
 仮面の下から流れた赤い血が首元を伝う。
 蘭魔は鬼気を発した。怒りである。仮面の下で蘭魔は憤怒しているのだ。
 愉しそうな笑い声がきこえた。
「アハハハハハ、親子そろってコレが弱点なんだな」
 紫苑を操っていたのは麗慈だった。すでに愁斗と紫苑のリンクは切れていたのだ。
 強い殺意が自分に向けられていることは麗慈もわかっている。
「このダッチワイフがそんなに大事か?」
 言葉を発した瞬間に、鋭い妖糸が麗慈に向かって飛んできた。
 妖糸と麗慈、その間に割って入る紫苑。急に進路を変えた妖糸は、遙か遠くの木をなぎ倒した。
 余裕の笑みを浮かべる麗慈。
「状況を理解しろよ。俺様はこの人質を自由に動かせるし、いつもで壊すこともできるんだぜ」
 操人形は自らの片胸をまさぐり、もう片方の腕は長く伸ばされ、繊手は股間へと――。
「やめろ!」
 蘭魔の怒号。
 紫苑の繊手は腹のあたりでぴたりと止まる。
「お楽しみはここまでだぜ。この先は有料コンテンツだ」
 ゆっくりと麗慈は後退りをした。
「俺様の目的はあんたじゃない。この人質はあいつへのプレゼントにするぜ。あばよ!」
 背後に空いた空間の裂け目に麗慈が飛び込む。それを追って紫苑も消えた。
 蘭魔は強く拳を握った。その間から血が滲んで滴り落ちる。
 敵は去った。
 蘭魔はその場を動かず佇んでいる。
 少し離れた場所では、亜季菜と伊瀬が気を失って倒れていた。どちらも重症である。
 車のエンジン音が聞こえる。何台もの車がこちらに向かってきているようだ。
 しばらくして黒塗りの普通乗用車やバンなどが、蘭魔たちを取り囲んで停車した。
 車から降りてきたのはスーツ姿の屈強そうな男たち、宇宙服のような白い防護服を着た医療班らしき者たちだった。
 そして、車椅子に乗った女が蘭魔に近づいてきた。
「久しぶりね」
「…………」
 白い仮面は無言だったが、少し間を置いてから、顔を亜季菜たちに向けた。
 驚いた顔をしてすぐに顔色を曇らせた悠香は亜季菜たちの元へ移動した。
 医療班たちが意識を失った二人を搬送しようとしている。
 亜季菜と伊瀬、固く握られていた二人の手が医療班によって離された。
「あなたは強い子よ、回りには守ってくれる人たちもいる」
 搬送される二人に目を向けていると、目の端でインバネスが風に揺れたのを見た。
「待ちなさい乱麻君!」
 背を向けたまま蘭魔は立ち止まった。
 無言のまま時が過ぎる。
 蘭魔と悠香の間には隔たりが感じられた。
 静かに深呼吸した悠香が背中に投げかける。
「過去が消えてなくならないわ。でも今は未来のことを話しましょう」
「話すことはない」
「そうやってなんでも自分一人で抱え込むのはやめて、アタシの気持ちも考えなさいよ!」
「話すことはないと言っているんだ」
「回りはあなたに巻き込まれて振り回されてるのよ。自分勝手も大概にしなさい」
 車椅子は猛スピードで蘭魔の前に回り込み、勢いよく立ち上がった悠香はそのまま白い仮面にビンタを食らわせた。
 自力では立てない悠香が地面に崩れそうになる。
 蘭魔は手を貸さなかった。支えることもできたはずだ。
 地面に尻と手をついた悠香は涙目で顔を上げて蘭魔を睨んだ。
「マジでクソ野郎ね、あなたって人は。昔からゲスでクソでろくでもなかったけど、優しいところもあったわ。今のあなたはなんなの?」
「不変なものなど此の世にはない」
「そーゆーこと言ってんじゃないのよ、バカなのアホなの?」
 助けを借りずに悠香は車椅子に這い上がる。
 少年の影がこちらに駆けてくる。
「父さん話がある!」
 一足遅れてこの場にやってきた愁斗だった。
 インバネスをはためかせ蘭魔が振り返る。と同時に拳が飛んできた。
 思わぬことに愁斗は眼を丸くしながら頬を抉られ地面に激しく転倒した。
 度を超した驚きで愁斗は声も出ない。
 見ていた悠香も唖然と眼を丸くしてしまっている。
 白い仮面の底から聞こえてくる声は静かに怒っていた。
「傀儡を奪われたな?」
「許容を越えた攻撃のせいで僕まで衝撃を受けて、一瞬気を失ってしまったときにリンクが切れてしまったんだ」
「お前に傀儡を託したのは失敗だった。紫苑を救うために、あの傀儡は絶対に必要なのだ」
 その言葉を聞いて愁斗は辺りを見渡した。
「傀儡は?」
「あの小僧に奪われたままだ。奪還せねば」
 蘭魔は異形の手によって妖糸を放ち空間に穴を開けた。
「待ちなさいよ、話はなにも終わってない!」
「父さんに聞きたいことが!」
 二人の声を無視して蘭魔は裂け目に消えていった。
 イライラしている様子の悠香を愁斗は見つめる。声をかけづらい。
「あの……」
「なに?」
 いきなり睨まれた。
「亜季菜さんと伊瀬さんは?」
「アタシの病院に搬送中よ、命は助かると思うわ。それ以上のことは今はわからない」
「父さんの目的はなんでしょうか?」
「あなたのお母さんを救うことでしょうね。息子をいきなりぶん殴るマジキチ具合から考えて、紫苑を救うためならなんでもしそうだわ」
 問題は山積だ。増えるばかりで一つも解決していない。
 今度は紫苑を奪われてしまった。
 蘭魔はどこへ?
 紫苑を奪った麗慈はどこに?
 そして、未だに翔子がどこに行ったのかわからない。
 保護していると伝えた彪彦は、先の戦いで消失してしまった。
 愁斗はスマホを出して通話をかける。相手は撫子だ。
 ――ピーという発信音のあとに。
 留守番電話に繋がってしまった。続けてメールも送信した。
 愁斗とD∴C∴の橋渡しは撫子しかいない。翔子の居場所は撫子が頼りだ。けれど、返事はすぐになかった。
「ここにいても仕方がないわ。いっしょに来るでしょう?」
「……はい」
 二人はこの場をあとにした。
 今宵は満月、夜はまだまだはじまったばかりだった。

 病院というのは表向きで、実体は魔導の研究施設である。
 最初に運ばれたのは、氷付けにされた麻耶である。白蛇の魔導士に肉体を乗っ取られた隼人と魂を共有させたことにより、麻耶も邪悪面に落ちてしまった。その結果、彼女は炎を操るサラマンダーと変貌して愁斗に牙を剥いた。現在、治療法を探すために、氷付けにされたまま経過観察されている。
 下半身を石化された亜季菜は、ここに運ばれる前から意識不明の重体だった。そのままでは命が危険なため、仮死状態することで肉体の活動や血流の流れを止め、生命の維持を図っている。
 石化により両腕を失った伊瀬はすでに意識を取り戻していた。強靱な精神と肉体が彼を支えている。それ以上に彼を奮い立たせているのは、亜季菜のことだ。
 生命維持カプセルは謎の液体で満たされ、その中を浮いている亜季菜の口にはマスク、躰のいたるところはプラグで繋がれていた。下半身は石化したままだが一切の傷がない。
「治療法は私が探します」
 伊瀬は研究病棟をあとにして、別の部屋に向かった。
 扉を開けて入ると、中にいたのは愁斗と悠香。テーブルとパイプ椅子、テレビにホワイトボード、ほかにはとくになにもない部屋だった。
 椅子に座っていた愁斗は少し驚いた顔で伊瀬を見ている。
「腕は大丈夫ですか?」
「ええ、前の腕よりも調子がいいくらいです」
 手にはグローブ、腕は服で隠れていたが、伊瀬は袖をまくってそれを見せた。石化して砕かれた両腕の代わりに、鋼色に輝く金属の腕が取り付けられていた。
「世間には公表してないうちの最新型よ。骨組みはほぼ人間と同じ、動力源と脳からの信号を送る仕組みは魔導によるもの、繊細な動きにも対応できるわ。問題点は魔導式バッテリーが自動充電できないってことかしら。将来的には使用者の生体エネルギーから充電できるようにしたいわね。コスト面に関しては、商品ではないから多少高く付いても目をつぶりましょう」
 これだけの技術がありながら、悠香はなぜ車椅子なのか?
 愁斗は悠香の車椅子を少しだけ見たが、なにもいわずに目を逸らした。
 近くにあった席に伊瀬もついた。
「状況の進展は?」
 愁斗はスマホをテーブルに滑らせ、メールの画面を伊瀬に見せる。
「撫子から連絡がありました。いつでも出かけられるように準備しておくようにと。ただ、どこにどうやって、どこで待機してればいいのか、なにも書いてありません」
 敵に必要以上の情報を漏らさないための処置だろう。
 スマホをしまおうと手を伸ばしたとき、ちょうど通話の着信があり取ろうとしたのだが、あきらかに様子がおかしかった。通常でありえないほどスマホが激しく震えているのだ。それどころではない。震えるどころか飛び跳ねている。
 愁斗と伊瀬は身構えた。
 爆発でもしそうな勢いでスマホが跳ねる。
 ――それがぴたりと止まったかと思うと、思わぬことが起きたのだ。
 一瞬だけ、あたりが閃光に包まれ、人影がスマホから飛び出してきたのだ。
「お迎えにあがりました」
 耳の奥で妖しく響くような女の声がした。
 躰のラインを惜しげもなく披露するラテックス製の黒いボディスーツに身を包み、ゴーグルと一体になったキャップには獣耳のような三角の突起があった。
「D∴C∴のライジュウと申します」
 スマホを通して自らを転送させてきたのだ。
 悠香は愉しそうに微笑んでいた。
「その技術一般化できたら便利ね」
「通信網を使った転送で、ほかの転送魔導に比べれば複雑さもありませんし、リスクもあまりありませんが、扱えるのは私だけです」
 ライジュウは部屋を見渡して人数確認をした。
「今から本部に向かいます。転送できるのは私を含めて三人ですが、あと一人はどうなさいますか?」
 ライジュウ、愁斗、あと一人ということだ。
「アタシは残るわ、現場主義じゃないの。伊瀬君が行きたいなら、行ってくれば?」
「私は……」
 亜季菜のことが心配であるが、ここにいてもできることはない。じっとして待っているのも耐えられなくなるだろう。
「ご同行します」
 と、伊瀬は答えた。
 ライジュウは愁斗のスマホを取って、どこかに通話をかけた。
「私の手をつかんで目を強くつぶってください」
 両手を左右に軽く広げた。二人はその手をつかむ。
「三、二、一――」
 カウントダウンをして、ライジュウは聞き慣れぬ言語で呪文を発した。
 閃光!
 三人は跡形も無くその場から消えた。

 激しい警報が基地内に鳴り響いた。
「にゃ!?」
 突然のことに撫子は驚き耳を塞いだ。聴覚の鋭い彼女にとって、突然の音は殴られたのと同じくらいの衝撃を受ける。
 心配そうな表情をしながらドアに近づこうとしている翔子。
「どうしたんだろう?」
「待って翔子ちゃん、絶対これヤバイやつ」
 引き止めて撫子は自分がドアの前に立った。
 外から気配や音はしない。問題が起きているとして、とりあえず近くではないらしい。
「翔子ちゃんのことは絶対守るから。あのさ……あたしたち今でも友達だよね?」
「うん、ずっと友達だよ」
 それを聞いて撫子は照れくさそうに笑った。
 急に撫子が真顔になってドアから少し離れた。
「だれかくる」
 二人はドアを注視しながら身構える。
 撫子は無言でドアを指差して、何者かがドアの前にいるとジェスチャーした。
 カードキーのロック解除音がした。
 ドアが開いて長身の優男が入ってきた。
「お姫さま方、お迎えにあがりました」
 姿を見せたのはシュバイツだった。
「にゃ、姫野亜季菜の護衛に行ってたはずじゃ?」
 シュバイツの一件をまだ撫子は知らないようだ。
「その件なら……彼女は無事さ。今はそれよりもここから早く逃げたほうがいい。過激派が襲撃してきた」
「まただれか来る!」
 撫子が鋭い聴覚で何者かの接近を捉えた。
 蛇人間だ!
 舌打ちをしたシュバイツは、迅速に蛇人間にアッパーを喰らわせて沈めた。
「二人は早く逃げて、俺はまだやることがある!」
 自分ひとりで翔子を守りきれるのか?
 撫子は一瞬考えたが、やるしかないと心に決めて、深く頷いた。
「行こう!」
 撫子は翔子の手をつかんだ。
「うん」
 不安は拭えないが翔子もじっとしていられないのを理解している。
 二人が部屋を出て行ったのを見送り、残されたシュバイツは部屋を見渡す。スマホが置きっぱなしになっていたが、とくに気にも留めなかった。
「きゃーっ!」
 遠くから少女の悲鳴が聞こえた。
 すぐさまシュバイツは廊下に飛び出した。
 人影を探した。いた、すぐに見つけることができた。
 現場に到着すると、そこにはさっき別れたばかりの二人と、それと対峙している少年の姿があった。
 翔子は撫子を抱きかかえながら、泣きそうな顔でシュバイツを見つめた。
「いきなりあいつが……」
 撫子の腕についた鋭い刃物で切られたような傷。鮮血が流れ落ちている。
「ケガは問題ないっす。ちょっぴり油断しただけ。出会い頭にナイフ投げてくるとかマジ頭おかしい」
 顔を上げて撫子が睨んだ先には薄ら笑いを浮かべるキラが立っていた。
「よお兄貴、手伝いならいらないぜ」
 と、言ったキラの顔が少し曇る。シュバイツは翔子と撫子を守るように立ちはだかったからだ。
「おいおい、また裏切ったのかよ。こっちについたり、あっちについたり」
「その言葉をそっくりそのまま返すよ。それに僕は君と違って寝返ったことは一度もないよ」
「それってつまり、どっちの味方ってことだよ?」
「いつでも女性の味方さ」
 先に仕掛けたのはシュバイツだった。
 地面を蹴り上げ速攻で間合いを詰める。
 キラはファイタータイプを相手にしたばかりだった。相手の間合いに入れば不利になる。飛び退きながらキラは煙玉を投げた。
 辺りに広がった煙は敵味方関係なく姿を包み隠す。
 速攻を妨げられたシュバイツは足を止め、気配に耳を澄ませた。
「僕の本職を忘れたんじゃないだろうね? 耳の良さには自信があるんだ」
 ピアニストにしてファイター。不条理な戦闘スタイルである。
「そこだ!」
 右ストレートを華麗に放つ!
 が、シュバイツは目を丸くして口を半開きにした。
 掠りもしなかったのだ。
 背後に殺気を感じた。
 違うっ!
 腹にシュバイツは鈍痛を受け、軽くよろめいた。
「ヨーヨーが進路を変えたのか……いや、攻撃はたしかに背後から来たはずだ。そっちか!」
 シュバイツの拳が空振りした――逆の方向からふくらはぎにヨーヨーの一撃を受け、思わず片膝を着いてしまった。
 どこかから笑い声がきこえる。
「あはははっ、ばーか! こっちだよー」
 声がした方向にシュバイツが顔を向けた瞬間、後頭部を痛撃が走った。
 視界が白くなり、よろめいたシュバイツは床に両手をついた。
 煙幕が晴れてくると、フルフェイス姿のキラが姿を見せた。
「ただの煙幕だと思ったら間違えでしたばーか!」
 シュバイツの眼に映るキラは二重三重の残像で、声もあらぬ方向から聞こえてくる。感覚が狂わされているのだ。
 煙の影響は撫子の超感覚も狂わせていた。
「ヤバイ……吐きそう」
 腕の傷は問題にならないが、この状態では護衛は務まらない。過激派の襲撃を掻い潜り逃げることは難しいだろう。
 シュバイツはキラと少女たちを交互に見た。
 この場でキラを巻いて三人で逃げるのは難しいだろう。
 少女二人だけを逃がしても、そのあとが問題になる。
 答えはキラを倒して三人で逃げる。
 凜と立ったシュバイツの瞳が金色に輝いた。
「ゲオルグ・シュバイツによる第一楽章」
 咆哮!
 耳を疑う野獣の雄叫びがシュバイツから発せられると、顔の筋肉が膨れ上がり毛で覆われ、裂けた口から獰猛な牙が生え、金色に輝きながら長く伸びた髪の毛は逆立ち鬣と化した。獣人化したその姿は獅子であった。
 シュバイツの咆哮は幻覚を打ち消す効果もあった。
 調子を取り戻した撫子は翔子に耳打ちをする。
「逃げたほうがいいよ」
「え、でも……」
 言葉を詰まらせる翔子。自分たちを守るために戦っている人を置いて逃げるなんて――という考えも吹き飛ぶ惨劇が起きる。
 魔獣が牙を剥いてキラに襲い掛かった。
 投げられたナイフが強靱な筋肉に弾かれ、ヨーヨーも同じく無効化された。
 まるで金縛りにあったように動けなくなって眼を剥いたキラ。
 獰猛な牙が腕を噛み千切り、よろめいたキラのフルフェイスが岩のような拳で横殴りにされた。
 消失した腕から鮮血を噴き出しながらキラが吹っ飛ぶ。
 地面に力なく転がったキラに巨体が飛びかかる。
 魔獣が鬣を乱しながら頭を大きく振る。
 血が飛ぶ、肉が飛ぶ、臓物が飛んだ。
 嬲られ、声すら出せず、生きながらにして喰われる。
 顔を手で覆い隠す翔子の腕を撫子が無言で引っ張った。この場にはいられない。血の臭いが充満している。
 我を忘れた魔獣は翔子たちが逃げたことに気付かない。少年を腹を喰らい続けている。おそらくとっくに絶命しているだろう。それでも喰らい続けていた。
 しかし、思わぬことが起きたのだ。
 血に彩られた繊手が少年の腹の中から突き出て、魔獣の頭部を抱きかかえた。
 眼が合った。
 野獣の鼻先に迫る魔女の微笑み。
「この子の眼を通してすべて視ていたぞ」
 魔獣など畏れもしないメディッサの瞳。
 野生の勘で魔獣はとっさに飛び退いた。そして、凶悪な存在を前にして理性を取り戻したのだ。
「視ていたからなんだというんだい?」
「裏切りは許さぬぞ」
 血の海から這い出した裸婦の足下から無数の蛇が産まれ蠢いている。
「僕の任務は本部の制圧。少女たちを捕らえろだとか、殺せだとか、そんな命令は受けた覚えがないよ」
「ならば命じる。あの少女たちを殺せ」
「断る」
 言葉を発した瞬間、蛇どもがシュバイツに飛びかかった。
 獅子の爪が蛇を引き裂きながら振り払う。
 魔女が高らかに嗤う。
「生きながらにして石になるがよい!」
 妖しく輝く蛇眼。
 靡いていた金色の鬣が色を失い石化して、呪いは顔を蝕もうとしている。
 気高き咆哮!
 大きく口を開けた魔獣の石化した頬にひびが趨った。鬣の一部と頬が少し砕けて落ちたが、そこで石化は止まったのだ。
「俺の肉体に宿りし悪魔の咆哮は魔導を無効化できる。さらに――」
 再び吠えた。
 すると、石化した部分が剥がれ落ち、下から新たな肉が盛り上がり皮膚で覆われ再生したのだ。
「今のは肉体を活性化させる咆哮だ」
 長く伸びた金色の鬣が魔力を帯びて靡く。
 さらに筋肉が隆々と盛り上がり、躰が一回り大きくなった。
 スピードも増していた。
 瞬く間にメディッサの顔面を殴り飛ばす。
 強烈な一撃を喰らった頭部は、水風船が弾け飛ぶように爆発して、胴体が力なく倒れた。
 蛇たちがメディッサの首元に群がり、魔女の嗤い声がした。
 失われた頭部が生え替わり、ゆっくりと立ち上がったメディッサは血塗られた顔で微笑んだ。
「不死身なの」
「でも君はまだ人間の枠さ」
「お前はなんだというの?」
 メディッサは侮蔑を孕んだ眼をしていた。
「半神半獣さ」
 鋭い牙、強烈な拳、魔獣の咆哮が世界を震撼させる。
 魔獣の猛攻で魔女の躰が次々と飛び散っていく。
 蛇の群れが魔獣の全身に噛み付く。
 獅子は高らかに笑う。
「毒蛇の脆弱な牙では俺の肉体に傷一つ付けられない」
 魔獣は毒蛇を掴むと丸ごと喰らった。
「毒は甘美なワイン」
 激しい咆哮がメディッサの躰を震わせ、血が飛び、肉が削ぎ落とした。
「俺は七二柱プルソンの子。隠されたモノの在り処を知ることができる」
 剥落して崩壊したメディッサの躰の中に何かがいる。蛇だ、一匹の小さき蛇がいた。
 魔獣の手が伸びる。
 メディッサが叫ぶ。
「触れるな!」
「見つけたぞ、お前を!」
 魔獣の手の中で逃げようと踊り狂う蛇。
 辺りを這っていた蛇たちが溶けて血になり、魔女もまた血だまりになった。
 残ったのはメディッサの本体である。
「人間の枠と言ったのは訂正するよ。ただの爬虫類だ」
 魔獣の握る手に力が入る。
 木霊する女の絶叫。
 小さき蛇は藻掻き苦しみながら力を振り絞った。
 輝く蛇眼。
 魔獣の手が這うように石化していく。
「無駄なあがきを!」
 石化した手が握っていた蛇ごと床に落ちた。
 潰されもげた半身を引きずりながら、小さき蛇が這って逃げる。
 血だまりに消える小さき蛇を魔獣は見送った。
「やっと逃げてくれたか。君にはまだ死なれては困るんだ……ん?」
 魔獣の聴覚が気配を感じ取った。近くの部屋からだ。三つの気配が突然現れた。
 スマホの回線を使った転送魔導で、愁斗、伊瀬、ライジュウがD∴C∴本部にやってきたのだ。
 部屋についたライジュウはあたりを見渡す。撫子と翔子の姿がない。そして、鳴り響くサイレンの音。
「詳細はわかりませんが、緊急事態のようです。この部屋で待機しているはずの撫子と瀨名さんの姿がありません」
 やっと翔子に会えると思ったのに、危険に晒されているに違いない。険しい顔で愁斗は口を開く。
「早く探しましょう」
 三人は部屋を出る。入り口には蛇人間が倒れていた。過激派の襲撃だとすぐにわかった。
 廊下は血なまぐさかった。
 血の海の中に内臓を喰われ、腹に穴を開けられた小柄な人の姿があった。
 ライジュウがフルフェイスを外して顔を確認する。
 伊瀬が眉を寄せた。
「誰にやられた?」
 自分の腕を奪った敵が殺されていた。怒りが込み上げてくるが、その怒りを向ける相手は無残な姿で死んでいる。サイボーク化された拳を強く握った。
 この場にシュバイツの姿はすでにない。なにがあったのか、知る者はひとりもいないかと思われた。
 三人は先を急ぐ。
 残された屍体の指先が微かに動いた。
 腹を喰われ、自らが流した大量の血の海に浮かびながら、キラは眼をカッと開いた。
「……やっとクソババアのテンプテーションが切れたぜ」
 蒼白い顔で少年は嗤った。
「あの糞野郎が生きてるのもわかったしな、次のゲームが楽しみだぜ」

 廊下を駆ける二人の少女。
「大食堂を抜けて、キッチンから外に通じる隠し通路があるの」
 前を走る撫子が言った。
 ここまでの間、過激派には出くわしていない。撫子の超感覚で気配を避けているからだ。
 大食堂の入り口で撫子が急に足を止めた。そして、無言のまま口元で人差し指を立てる。
 蛇人間たちが食堂内に三人。
 引き返すべきか?
 敵がどこまで組織内に蔓延っているのかわからない。隠し通路はすぐそこなのだ。
 俊足を生かして撫子は速攻を開始した。
 鋭い爪が蛇人間の首を掻く。
 蛇人間が床に倒れ、残る二人が撫子を見た。
 短剣を構えると同時に蛇人間が突進してきた。
 軽やかに宙を舞う撫子。蛇人間の頭を踏み台にして蹴飛ばす。二人目を沈めて、床に着地すると同時に裏拳を放った。
 鋭い爪と短剣が交差する。
 撫子の一撃は蛇人間の頬に三本の爪痕を残した。
 だが、撫子も腕を斬られ、よろめき床を踏みしめ留まった。
 不意を突いた奇襲はここまでだ。
 蛇人間と撫子が対峙する。
 斬られた腕を押さえる指の間から血が滲む。だいぶ深傷を負ったらしい。この腕は先の戦いでもキラにも斬られた利き腕だ。もう使い物にならない。
 撫子は翔子に顔を向け、無傷の腕を上げて部屋の奥を指差した。
「キッチンに使われてないオーブンがあって、そこが隠し通路になってるから先に逃げて!」
 翔子はすぐに動けなかった。傷ついた友達を置いていくことはできない。だが、その友達が必死な顔で逃げろと言っている。
 友達の言葉を無駄にはできない。
 意を決して翔子は部屋の奥に駆け出した。
 蛇人間がそれに目をやった瞬間、撫子は床を力強く蹴り上げた。
 敵が作った一瞬の隙、このチャンスは逃せない。
 ほんの一瞬、遅れて動き出した蛇人間が短剣を突き刺そうとしてきた。躊躇いなく撫子はその刃を使えない腕の手を握り締めた。
 残された片手に渾身を込める。
 鋭い爪が蛇人間の顔を抉り殴り飛ばした。
 床に倒れた蛇人間の息はまだある。
 撫子は攻撃の手を止めることなく止めを刺そうと飛びかかろうとした。
 その時だった!
 部屋の奥に走ったはずの翔子は後退りをしながら戻ってきたのだ。その顔を恐怖で蒼白になっている。
 翔子に気を取られた撫子の腹が急に熱くなった。
 蛇人間が舌舐りをする。
「愚かな猫よ」
 短剣が撫子の腹を貫いていた。
 口から零れた血を撫子は舐め取った。
「猫には九つの命があるの、知らなかった?」
 鋭い爪が蛇人間の首を掻っ捌いた。
 最後の蛇人間を倒し撫子は翔子の元へ駆け寄ろうとした。
 怯えた翔子が見ているものは?
「隼人先輩……なんですか?」
 白い蛇の鱗で覆われた肌を除けばその姿はよく知る隼人であった。
 今や邪悪な魔導士と化した白蛇の隼人。
「瀨名さん、こんなところでなにをしているんだい?」
 邪悪な笑み。優しかった先輩の笑顔はもうなくなってしまっていた。
 撫子が二人の間に割って入り、翔子を庇うように立ちはだかる。
「翔子ちゃん……ここにいる隼人先輩は、敵の手に落ちちゃったの。麻耶先輩といっしょに」
 驚きで翔子は言葉も出せず目を丸くした。
 眼に映るものが現実ならば、隼人が敵になったと信じるほかない。
 でも、麻耶までもがなぜ?
 混乱する翔子は悲しい顔をしながら、一筋の涙を流した。
 どうして?
 隼人と麻耶が巻き込まれなければならなかったのか?
 どうして?
 自分はこんなところにいるのだろうか?
 どうして、どうして、どうして?
 ――だれのせい?
「うあぁぁぁぁっ」
 叫びながら翔子はうずくまった。
 もう翔子は逃げる気力すら喪失させてしまっている。
 撫子は唇を噛みしめた。
 こんな状態の翔子を無理矢理に引っ張って逃げても、足手まといになるだけで、白蛇の隼人の追撃は躱せないだろう。
 血が滴り落ちる。
 腹からの出血が酷い。片腕は完全に使い物にならない。武器は片手の爪と自慢の脚力。
 先に仕掛けたのは撫子だった。それは焦りからだ。手負いの猫は焦っていた。
 蛇が牙を剥く。
 白蛇の隼人は杖を振り回し、小さな竜巻を起こした。
 伸ばされた撫子の爪は敵まで届かない。狂風に巻き込まれ、躰を浮かせた撫子は回転しながら吹っ飛ばされた。
 背中を激しく床に打ちつけ落ちた撫子。天井から白蛇の隼人が降ってくる。
「死ねぃ!」
 杖の尖った先端が撫子の胴を突き刺ささんと迫ってくる。
 床を転がった撫子の真横に杖が突き刺さった。
 かろうじて串刺しは回避したが、重い蹴りが撫子の腹を抉った。
「くっ……ぅ」
 短剣で突かれた傷口を蹴り上げられ、激しい痛みを覚えながらも撫子は瞬時に立ち上がった。
 脚に力が入らない。自慢の脚力も役に立ちそうもない。視界も霞んできた。
「……翔子ちゃんは絶対に……守る!」
「大切なものを守りたい気持ちはよくわかる。そして、守れなかったときの絶望もな」
 白蛇の隼人は撫子に背を向けて走り出した。
 狙いは翔子だ!
 あとを追おうとした撫子に、蛇の杖が毒液を吐き飛ばす。飛び退いた撫子。一瞬の足止めであったが、それで充分だった。
 白蛇の隼人は両手で杖を握り大きく振り上げる。
 うずくまっている翔子の背中に鋭い杖の先端が迫る。
 悲痛な叫び。
「やめて!」
 撫子は涙を流した。
 無慈悲な一撃が心の臓を貫く――かに思われた。
 表情を曇らせる白蛇の隼人。
 杖の先から伝わる肉を突いた感触。だが、その杖は心臓を貫くことなく途中で止まっていた。
 硬い何かがそこにあると感じた瞬間、白蛇の隼人は大きく後方に吹き飛ばされていた。
 風が鳴いている。
 黒い渦が翔子を取り巻き荒ぶっている。
 いったいなにが起きたのか?
 静かに鎮まる黒い渦は翔子の躰に巻き付き、それは漆黒のドレスになった。
 玲瓏な声。
「ふふふっ、爬虫類の分際で妾に牙を剥くか?」
 翔子の声でありながら、翔子ではない者の声だった。
 なにが起きたのか理解できた者はいないが、明らかに違う。その表情さえも。中身が違うということだけは場にいた者たちは直感できた。
 撫子は驚きながら声をかける。
「翔子ちゃんなの?」
 返されたのは月のような静かな微笑み。魔性である。
 次の瞬間、翔子が消失した。美しい声だけを残して――。
「シャドービハインド」
 慌てて辺りを見回す白蛇の隼人の影から、何者かが這い出て背後を取った。
 白い繊手が白蛇の隼人の首を撫でる。
「どうしたいかえ?」
 翔子は問うた。
 耳元で囁かれた白蛇の隼人は腰が砕けそうになったが、かろうじて持ちこたえて翔子を振り払って間合いを取った。
 つもりだったが、視界に翔子の姿がない。
「後ろじゃ」
 振り返った白蛇の隼人は驚き眼を剥いた。
 濃厚な口づけ。
 翔子の顔を持ちながら妖艶な表情をする者は、白蛇の隼人の口にしゃぶりつき、舌を絡めながら押し倒した。
 眼を剥いたままの白蛇の隼人の肌から鱗が剥がれて落ちる。下から現れたのは人間の皮膚。蛇の呪いが解かれようしている。
 そのまま隼人は気絶した。
 幽鬼のようにゆらりと立ち上がった翔子。
「無駄な抵抗をするでない」
 その腹の内で何かが暴れ蠢いている。ゴブゴブと腹を突き上げ、ついにそれは肉を食い破って這い出てきた。
 動じることのない翔子は素手で腹から生まれた白蛇を鷲掴みにした。
「妾の肉体を奪えぬと知って腹を食い破り出てきたが最期」
 白蛇が嗚咽を漏らすと、その口から黒い液体が零れた。
 掴んでいた手から力が抜かれると、白蛇は力なく床に落ちた。
 そして、黒い液体を撒き散らしながら爆発したのだ。
 叫び声、鳴き声、嗤い声。
 飛び散った黒い液体は食い破られた翔子の腹に、吸い込まれるように呑まれていった。
 穴の空いた腹は傷一つなく修復され、漆黒のドレスで覆われた。
 首だけになった白蛇の眼を通して視ていた者がいた。
 急に力を失って翔子が気絶した。慌てて撫子が駆け寄り抱きしめる。躰を包んでいた漆黒のドレスも消えてしまった。静かに瞳を閉じる翔子の表情は苦しそうだったが、別の者の存在は感じられなかった。
 手負いの撫子と気を失っている翔子。
 敵がまたいつ現れるかわからない。
 撫子は翔子を担いで逃げることにしたのだが、二人しかいなかった部屋に気配が急に現れたのだ。
 思わず躰を強ばらせて撫子は辺りを見渡した。
 蛇人間の屍体の腹が動いている。
 寒気がした。
 屍体の腹から手が突き出た。妖しく微笑む顔がこちらを向いた。血みどろの魔女が這い出てきたのだ。
 再び姿を現したメディッサ。
「その場にいなくとも、この身を震わすほどの魔力を感じたわ。その子が欲しい、愛する貴方のために、その命を捧げなさい」
 ゆっくりと歩こうとしたメディッサだったが、その片脚が急に崩れて血肉と化し、バランスを崩して床に倒れてしまった。残る脚も崩れてしまい、下半身は原形を留めることができず、血の海に還ってしまった。本体が深傷を負わされたせいで、肉体が形をつくれないのだ。
 それでもメディッサは妄執に燃える瞳で地を這い翔子たちに手を伸ばす。
「欲しい、嗚呼、欲しい……その満ちる魔力を……」
 蛇のように這い寄るメディッサの手が翔子の足首を掴んだ。
「翔子ちゃんに触んないで!」
 魔女の血だらけの腕を撫子は掴んで、翔子の足首から引き剥がそうとした。だが、足首に爪が食い込んでおり、無理に剥がそうとしようものなら、肉ごと抉られてしまいそうだった。
 撫子は口を開けて魔女の腕に噛み付こうとした。
 その時だった、鼻先を輝線が趨った。
「キエェェェェッ!」
 絶叫をあげたメディッサの手が翔子の足首を掴んだまま切り落とされた。
 鬼気が世界を震撼させる。
 血塗られたインバネスを纏う白い仮面の主。
 禍々しい瞳でメディッサは叫ぶ。
「この疫病神め!」
 放たれた輝線が大きく開けられていた口を斬り、鼻から上がずり落ちて床に転がった。
 メディッサの肉体が血に還る。強敵を前にして逃亡したのだ。
 畏怖により撫子は動けなかった。
 蘭魔は膝をついて翔子の様態を診た。
「やはり……不完全ながら、たしかな傀儡師の業だ。これを愁斗が成したというのか……しかし、この〈ジュエル〉から発せられる魔力は……」
 白い仮面から発せられる言葉を撫子は脳内で咀嚼しながら、発するべき言葉を探して絞り出す。
「翔子ちゃんは無事なんだよね?」
「…………」
 白い仮面は無言のまま答えなかった。撫子には目もくれず、食堂の入り口に目を向けていた。
 三人の人影が駆け込んだ来た。
「父さん!」
 まず声をかけたのは愁斗だった。
 その言葉を聞いて撫子は驚いたようだった。
「え……首領がお父さん?」
 その事実を撫子は知らなかったらしい。
 ライジュウが辺りを確認しながら撫子に声をかける。
「なにがあったの?」
「なにってお姉ちゃんがいない間に、過激派が襲ってきて、翔子ちゃんが……翔子ちゃんが……ぐす」
 顔をぐちゃぐちゃにして泣き出した撫子。
 その腕に抱かれていた翔子を愁斗が抱きかかえる。
「翔子になにが?」
 答える者は?
 撫子はライジュウに胸に顔を埋めて泣いている。
「ううぅ……」
「泣いてもなにも解決しないわ。まずは自分の手当をしなさい、出血が酷いわ」
「でも……」
 なにがあったのか?
 隼人の様態を伊瀬が診ていた。
「気を失っていますが、命に別状はないでしょう」
 白蛇の呪いが消えていることに愁斗も気がついた。元の姿に隼人が戻って安堵もあるが、罪悪感は消えることなく愁斗を苛む。隼人と麻耶とどう向き合っていいのか、答えを探すには時間がかかりそうだ。
「父さんが白蛇の呪いを?」
「駆けつけたときには、すでに解かれあとで、この場にいたメディッサには逃げられた」
 泣いていた撫子がライジュウの胸から顔を上げた。
「急に翔子ちゃんが別の者に変わったの。見た目は翔子ちゃんのままなんだけど、心臓を突き刺されそうになって、急に黒い渦に包まれた翔子ちゃんが、まるで別人になっちゃって、漆黒のドレスを着て、それで……隼人先輩を……あの……ええっと、治したかと思ったら、急に気絶しちゃって」
 混乱して状況をうまく説明できないようだった。
 白い仮面の奥でつぶやく。
「漆黒のドレスか……」
 蘭魔になにか心当たりがあるのだろうか?
 再び蘭魔は翔子の様態を診た。
 脈拍は正常。
 息もある。
 見た目は人間と変わらない。
 心臓の鼓動も聞こえる。
 だが、そこにあるのは心臓ではない。
 蘭魔はメスのように輝線を趨らせ翔子の胸を開いた。
 血は出なかった。繊細で完璧な手さばきで斬られた傷は、本人も肉体も、斬られたことに気付かない神業であった。
 かつて愁斗が翔子の胸に埋め込んだ〈ジュエル〉。これによって翔子は生かされている。
 命の輝きを放つそれに、蘭魔は微かだが何かを視て取った。
「〈ジュエル法〉は蘇生術ではない。生きた傀儡をつくる業だ。〈ジュエル〉は肉体に影響を及ぼすが、場合によっては精神にも……意図的な……」
 蘭魔が〈ジュエル〉に触れようとした瞬間、〈闇〉が牙を剥いて手に絡みついてきた。
 慌てず蘭魔は手を引く。
「異形の手でなければ喰われていたな」
 〈ジュエル〉は輝いていた。微かに〈闇〉を孕みながら。
 瞬く間に蘭魔は開いた胸を縫合した。傷痕一つない。
 立ち上がった蘭魔は異形の手で妖糸を放ち、空間に裂け目をつくった。
「愁斗よ、傀儡館にいくのだ。〈ジュエル法〉はそこで生み出された」
「父さん、また僕を置いて!」
 父が振り返ることはなかった。黒緋のインバネスが闇に呑まれて消える。
「……っ、父さんはなにがしたいんだ」
 サイレンの音は消えていた。
 過激派の襲撃は失敗に終わったのだ。
 やっと翔子との再会を果たした愁斗だったが、当の翔子は気を失ってしまっている。
 時間が経てば目覚めるのだろうか?
 もし目覚めなかったら?
 最後に翔子と言葉を交わしたのはいつだったか?
 遠い遠い昔のことのようだ。
 また彼女の笑顔を見ることができるのだろうか?
 愁斗は回りを巻き込み、世界は悪いほうに変わってしまった。
 もう元には戻らないかもしれない。
 やり直すことはできない。
 過去を変えることができないのなら、未来を築くしかないのだ。
 愁斗は唇を噛みしめながら拳を握った。

 深夜に輝く満月。
 傀儡館は郊外の山奥にあった。
 周辺の山ごと私有地であり、今はD∴C∴が裏で管理していた。
 崖にほど近い場所に不自然に開けた土地ある。
「ここだな」
 愁斗はつぶやくと妖糸を放った。
 不可視の結界が張られていた。
 その結界は傀儡師の糸により解くことができる。
 一筋の輝線により亀裂が生じた結界は、硝子が砕けるような音を立てながら、その役目を終えたのだった。
 姿を現した洋館を見て撫子がつぶやく。
「幽霊とか出そうにゃんですけど」
 構わず愁斗は先に進んだ。あとを翔子を背負った伊瀬が追い、慌てて撫子も駆け足で追った。
 ドアには鍵がかかっているようだったが、鍵穴がない。
 頭の中で誰かが語りかけてきた。
《お帰りなさいませ愁斗様》
 扉が自動的に開いた。
「今の声、聞こえましたか?」
 愁斗は伊瀬に尋ねた。
「声……いや、聞こえなかったが?」
「にゃににゃに、あたしも聞こえてにゃいよ?」
 聞こえたのは愁斗だけらしい。
 暗かった玄関ホールに明かりが点く。
 正面には二階に続く大階段。踊り場には絵が飾られている。巨大な門に悪魔と天使が群がっている絵画だ。
 さきほどの声の主はだれだったのか?
 自分の名前を知っていた。だが、愁斗はここに来た記憶がなかった。
 気配がした。
 廊下の先に人影が見えた。赤黒いローブを羽織った小柄な影。
 愁斗はすぐにあとを追ったが見失ってしまった。
 腹を押さえながら撫子が駆け寄ってきた。
「いきなり走らないでよ」
「だれかいたような気がした」
 封印され外界から遮断された屋敷に誰かが住んでいるのか?
 その考えを愁斗は思い直した。
「ひどい埃だ、足跡が残るくらい」
 自分の足跡しかなかった。
「幽霊でも見たんじゃにゃいの?」
 撫子のいうとおり、先ほどの人影は幽霊だったとでもいうのか?
 古い洋館には幽霊は付きものだが、あの赤黒いローブはまるで……。
 玲瓏な少女の声がする。
《あの女の車を調べましたところ、トランクに男の屍体がございました》
 振り返った愁斗の瞳に映ったのは、翔子を抱えた伊瀬の姿。
 今の声は入り口で出迎えた声と同じだ。
 今度は別の声だ。
《腐ったシーチキンも食い飽きたな》
 少年らしき声だった。やはり姿はない。
 愁斗は廊下を歩く。妖糸はいつでも放てるように構えていた。
 この屋敷には自分たち以外誰もいない。それは確かである。だが、気配と声がするのだ。
 少しだけドアが開いたままになった部屋があった。
 ドアの前に立つと、中から声が聞こえてきた。
《〈ジュエル法〉は本当にあんたの妹を蘇らせるためだけのものなのか?》
 若い男の声。聞き覚えがある。現在の声とは違うが、おそらく若かったころの声に違いない。
 扉を開けたが、そこにその者はいなかった。
 ここは書庫だった。部屋を埋め尽くす本棚があり、蔵書を数えるだけ骨が折れそうだ。
「くしゅん!」
 撫子が埃を吸ってくしゃみをした。
 ここにある本はどれも埃を被っている。
 歴史、生物学、科学、魔術、宗教、エトセトラ――。
《何語だよ、読めねーよ》
 少年らしき声がした。
 書物は数多の言語で書かれていた。読めなくて当然である。
 とくに魔術関連の書物はラテン語や古代ヘブライ語で書かれているものが大半だ。
 愁斗は赤黒いローブを幻視した。
 陽炎のような小柄な人影が本棚の前に立っている。そして、すぐに消えた。
 その人影が立っていた本棚をすぐに調べた。
 床に本棚を引きずったような傷痕が残っていた。
 導きがなければそれを見つけるのは困難だっただろう。本の一冊がスイッチになっており、引き出そうとすると本棚が動きだし、隠し階段が現れたのだ。
 地下へと続く螺旋階段。
「地獄に続く階段だったりして」
「静かに」
 茶化す撫子を愁斗は軽く睨んだ。
 薄暗い階段の先に明かりが見える。その先から声がする。
《この研究が完成したら、本当の目的を聞かせてくれてもいいんじゃないか?》
 若い男の声だった。
 地下で愁斗が見つけたのは研究室だった。
 化学めいた実験器具のフラスコやビーカーをはじめ、棚には薬品に漬けてある植物や生物が見つかった。
 机の上に本が置きっぱなしになっていた。埃を被っているが、書庫にあった本よりは新しそうだ。それは日本語で書かれた日記帳だった。
 その文字を見て愁斗は不信感を抱いた。
「この筆跡は……僕のものだ」
 ありえない。
 書いた記憶がないどころか、知り得ぬ知識が書かれている。自分には書けない内容だ。
 傀儡師について、召喚について、魔術と魔法陣について、傀儡の作り方について。
 日記帳には同じ筆跡の資料がいくつも挟まれていた。
 〈ジュエル法〉についての記述。蘭魔が考案した〈闇〉を原材料とする傀儡製造法を基礎として、当時の共同研究者が考案した〈ジュエル〉により、死者の黄泉返りを実現する。
 魂=アニマを結晶化したものを〈ジュエル〉に加工して、それを傀儡に取り付ける。という文章には何本も線が引かれ読みづらくなっていた。
 そして、近くに殴り書きがあった。
 ――失敗だった。
「僕はなぜ〈ジュエル法〉を知っていたんだ?」
 この場所に来た記憶はない。
 父から〈ジュエル法〉を学んだ記憶もない。
 しかし、愛する者が死に直面したとき、愁斗は〈ジュエル法〉を翔子に施した。
「記憶にないだけで僕はここで研究していたのか……だとしても『失敗だった』とは、なんのことなんだろう」
 この屋敷に来て三人の声を聞いた。
 一人目は少女の声。
 二人目は少年らしき声。
 三人目は若い男――そう、若かりしころの蘭魔の声だ。
 つまり、三つ目の声は過去の声ということになる。
 ならば残る声も過去の声、幻視した赤黒いローブの人影も過去の残留思念だろうか。
 赤黒いローブの人影はだれか?
 もしも記憶を失っているだけで、過去にここに来たことがあるならば、あのローブの人影は――と考えたが、愁斗はその考えをすぐに改めた。
「僕はあの子を知ってる気がする……少なくとも僕じゃない」
 日記帳を再び読もうとしたのだが、そこにあったはずの日記帳は資料ごと消えていた。本の形を残していた埃の跡すらもなく、机には埃が積もったままだった。
《あなたこんなところにいたのね》
 今まで聞いたことのない女性の声だった。ずっと昔から知っているような、聞くだけで心が安らぐ不思議な声だ。
《なんだエリスか、また悪戯な双子かと思ったよ》
《あの子たちなら遊び疲れて寝ているわ》
《本当に手の焼ける子供たちだよ》
《誰に似たのかしらね?》
《お兄ちゃんは君に似てると思うよ》
《ならお姉ちゃんはあなたに似たのね》
 男女の微笑ましい笑い声が消えていく。
 愁斗は眩暈を覚えて床に膝を突いた。
「なんなんだこの屋敷は……」
「大丈夫ですか愁斗君、顔色が悪いようですが?」
 伊瀬の声が遠くから聞こえる。近くにいるのに感覚がおかしい。
 屋敷の影響を受けているのは愁斗だけだ。超感覚を持つ撫子も、感覚は常人である伊瀬も影響を受けていない。
《愁斗様、こちらです》
 少女に呼ばれた。
《こちらです、こちらです愁斗様》
 どこなのか?
 なぜ呼ばれているのか?
《過去未来現在、いくつも存在する世界の中で、わたくしは愁斗様のお帰りをお待ちしておりました》
「いったいなにを言ってるんだ?」
《わたくしはここにおります》
 撫子が部屋の隅に置かれた木箱を指差した。
「宝箱はっけーん!」
 その箱には名が刻まれていた。
 Alice(アリス)
 伊瀬の背中で気を失っていた翔子が動いた。
「目を覚ましたか翔子さん?」
 返事はなかった。
 瞳を閉じたまま夢遊病のように翔子は伊瀬の背中を降り、一人で木箱に向かって歩き出した。
 木箱がひとりでに開く。
 翔子の胸がまばゆく輝いた。
 世界が視界から消える。
 暗転した。
 愁斗は自分の手足の感覚が失われたことに気付いた。躰がそこにある感じがしない。視界のみがそこにあった。
 過去、未来、現在。
 数多の世界を幻視する。

 東京上空に聳える巨大な門。
 白い翼を持つ〈光〉の軍勢と黒い翼を持つ〈闇〉の軍勢が、〈門〉に向かって進撃する。
 〈光〉の軍勢を率いるは燦然と輝く六枚の翼を持つ少女。
 〈闇〉の軍勢を率いるは漆黒に輝く六枚の翼を持つ少女。
 かつて双子は一つの存在であり、一二の翼を持つ存在であった。
 〈光〉の軍勢の中に〈闇〉を纏いながらも、月にように輝く妖女がいた。
 ベールで顔を隠し口元だけを覗かせていた妖女は、両軍が激突する瞬間、こちらを見て微笑んだのだ。
 世界は破滅した。
 閃光と暗転。

 芸者か花魁か、桜模様の華やかな着物姿の女が輝線を放った。
 宙に描かれた魔法陣。
「魅せやしょう、傀儡士の奥義召喚術。篤とご覧あれ!」
 〈それ〉の咆哮にも負けぬ雄叫び。
 空間の裂け目から見えた一角。その者は自ら裂け目をこじ開けこちら側にやってくる。
 鬼気を孕む狂風。
 荒々しく恐ろしい力を持った鬼神が来る。
 褐色の上半身を露わにした半裸は骨太で筋肉質で逞しく、燃え上がり逆立つ髪から極太の角が長く伸びていた。
 その肉体に反して、尊顔は眉目秀麗な若者であった。
 鬼神はひょうたんに入れていた酒をグイッと飲み、棍棒を振り回して肩慣らしをした。
「狐狩りか」
 対峙するは妖艶な美女。だが人間ではない。金色に輝く三尾の尾を持つ妖狐である。
「可愛い顔した鬼ぃさんだこと」
 三尾が地面を鳴らし摩擦で生まれた業火が鬼神を呑み込まんとする。
 妖魔たちが戦いを繰り広げようとしている中、花魁の背後にいた葛籠を背負った黒子がこちらを見ているようだった。
 激しい雄叫び。
 業火が世界を呑み込んだ。

 洋館の一室で若い女が嗤っていた。
「きゃははっ……きゃははは……屍体は……あんたたち屍体をどこに隠したのよ!」
 目を赤く腫らしながら、醜悪に歪んだ口で吠えた。
 薄闇で顔を隠す少年が女の後ろを指差した。
「……屍体ならあなたのすぐ後ろに」
 女の絶叫。
 眼を見開いた女の頸動脈から血が噴き出し、痙攣しながら床に倒れた。
 悲鳴が聴こえる。鳴き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。
 耳を塞がずにはいられない苦痛に満ちた声。
「〈闇〉よ、喰らえ!」
 裂けた空間から〈闇〉が叫びながら飛び出した。
 〈闇〉は屍体の腕を掴み、足を掴み、胴を掴み、躰に絡み付き、呑み込んだ。
 床に血を一滴も残さず、〈闇〉は泣き叫びながら裂け目に還っていく。
「これで終わりだ」
 少年が呟くと、〈闇〉の還った裂け目は完全に閉じられた。
 その傍らで金髪碧眼の少女が尋ねる。
「屍体が蘇って復讐をしたのか、それとも××様が操ったのでございますか?」
「さあ?」
 惚ける少年の口元が暗がりの中で嗤っていた。
 少年がこの場を立ち去る。
 あとを追おうとした少女がふと振り返った。目が合った気がした。
 やがて少女も消え、灯りも消えた。

 雷が落ちた。
 豪雨が街を濡らす。
 雨は汚れを洗い流してはくれない。この街は腐っている。蛆のように湧いてくる異常犯罪者。
 粘液のついた赤黒い触手が、学生服姿のボーイッシュな少女に絡みつく。
 太腿を這い、首筋を這い、スカートの中に侵入していく。
「グエヘヘヘヘヘッ!」
 下卑た笑いをあげた犯罪者。その姿は異常であった。
 頭部には顔はなく、そこにあるのは縦に避け牙を剥き涎れを垂らす巨大な口のみ。躰は男と思われるが、一〇本の手の指は赤く黒い触手になっていた。
 怪物に甚振られるボーイッシュな少女の口に触手が潜り込む。
 その光景を目の当たりした制服姿の長い黒髪の少女は泣き叫んだ。
「つかさ!」
 その名を呼ばれた少女は怪物に拘束されたまま身動き一つしない。目からは色が消えていた。
 雷鳴が轟いた。
 稲光に照らされた般若面。
 鬼気を放ちながら凜と立っていたのは、長い黒髪の少女。
 だが、顔を隠す〈般若面〉、手には裁ち鋏という異様な出で立ちであった。
「殺す殺す殺す、妹を泣かす糞野郎は××を切り刻んで殺してやるッ!」
 まるで人格が変わったように、狂乱する少女は両刃が研がれた裁ち鋏で怪物に立ち向かった。
 槍のような触手が少女に襲い掛かる。
「キャハハハハハハ!」
 少女は嗤っていた。
 斬り飛ばされた触手がうねりながら血の混ざった白濁液を吐く。
 踊る踊る斬られた触手たちが宙で踊り狂う。
 絶叫した怪物の口から汚物が吐かれた。
 触手の支えを失ったつかさが地面に向かって落ちる。
 茶色いローブの影が地を駆けた。
 つかさを受け止め抱きかかえた美影身。
 茶色いフードを濡らす雨。滴り落ちる粒が白い仮面の頬を伝った。
「助けは不要だったか?」
 口調は男だが、声は玲瓏な女。
 〈般若面〉の耳にその言葉は届かなかった。
「キャハハ、キャハハハハハッ!」
 裁ち鋏の切っ先を何度も何度も横たわる怪物の股間に突き刺している。
 狂っている。
 この街は狂っていた。
 水溜まりに流れ出す朱色。
 黒猫がいた。
 〈般若面〉の少女の傍らにある水溜まりの中から、不気味に嗤う黒猫がこちらを見ている。
 血の雨が降る。
 視界は朱に染まった。

 〈向こ側〉から、歌うような清らかな〈それ〉の声が心を震わせた。
「光の遊戯に魅せられるといい!」
 少年の高らかな宣言に合わせて、〈それ〉の息吹は世界に花の香を運び、翅の生えた乙女が顔を魅せた。
 七色に輝く蝶の翅を持つ乙女は愛くるしい笑顔を浮かべた。
 乙女は死の黒土を自由気ままに飛び交い、通った大地に色取り取りの花を咲かせていった。
 瞬く間に辺り一面は芳しい花畑となり、夜だった世界に光が差しはじめた。
 絶景ともいうべき世界に生まれ変わったのだ。
 しかし、それは偽りだった。
 花々が次々と枯れて逝く。
 差しはじめていた光もどこかに消えうせ、夜の世界を紅い月華が照らした。
 そして、乙女にも異変が起きはじめていた。
 愛くるしい顔の下でなにが蠢いている。皮膚を喰い破って湧き出てくる蛆。乙女の顔は髑髏と化してしまった。
 それを見て少年は艶笑していた。
「ボクは光属性に躰をつくり変えられた。けどね、心は深い闇のまま。光が正義だと誰が決めた? ボクが司っているのは偽善さ!」
 少年は薔薇色の背徳を背負っていたのだ。
 乙女の手は蟷螂のような大鎌に変貌し、髑髏の形相は死神を思わせた。
 耳を塞ぎたくなるような絶叫をあげて、乙女が少女に襲い来る。
「死神が俺の命を狩りに来たか……」
 邪悪な笑みを少女は浮かべた。
 刹那、少女の手から放たれる妖糸の戦慄。
 大鎌と妖糸が一戦交える。
 勝ったのは大鎌だった。
 けれど、少女は動じていない。むしろ嗤っていた。
 少女の少し前方の地面が妖しく輝いた。
 魔法陣だ!
 少女は少年に気付かれぬように、地面に魔法陣を描いていたのだ。
 おぞましい〈それ〉の呻き声が世界に木霊し、怯えあがった乙女の動きが凍りついてしまった。
 〈それ〉の呻き声は大気を振動させ、花枯れた死の荒野を震えさせ、おぞましい〈死〉をこの世に解き放った。
 巨大な黒馬に似た怪物に跨る異形。黒く逞しい筋骨隆々の巨躯から伸びる太い腕の先には、投げ槍と蠍の尾でできた鞭を持っている。そして、皮膚の全くない頭蓋骨には王冠が戴いていた。
 ――この〈死〉には片腕がなかった。
 黒馬が嘶き前脚を高く上げ、〈死〉が槍を乙女に向けて投げつけた。
 乙女の背を抜けて貫通する槍。
 〈死〉の雄叫びと乙女の絶叫がシンクロした。
 蠍の鞭が乙女の首を刎ねた。
 地に転がった髑髏の頭部に湧いていた蛆が干からびて逝く。乙女が〈死〉に殺された。
 少年は実に楽しそうだった。
「ボクもそんな子を召喚したいケド、ボクはこんなのしか召喚できないよ」
 少年はすでに新たな魔法陣を宙に描いていたのだ。
 魔法陣の〈向こ側〉で〈それ〉は〈死〉を慈しんでいた。
 黄金の風が世界に吹き込み、魔法陣から巨大な純白の翼が飛び出した。その巨大さは他を圧倒しており、〈死〉の巨躯を遥かに凌ぐ大きさだった。
 翼が大きくはためき、両方の翼が〈死〉を優しく包み込んだ。翼が〈死〉を呑み込んでしまったという方が正しいかもしれない。
 〈死〉を呑み込んだ翼は魔法陣に〈向こ側〉へと還っていく。
 少女よりも少年が召喚においては優れていたようだ。
 両腕を広げて少年は歓喜に打ち震えた。
「どうだい、カッコイイだろ?」
 艶やかに嗤う少年は魔の手が迫っていることに気付いていなかった。
 〈純白の翼〉が還った魔法陣はまだ消滅していなかった。まだ〈向こ側〉と〈こちら側〉が繋がっている。
 赤く燃える〈死〉の瞳がこちらを見ている。
 魔法陣の〈向こ側〉から蠍の鞭が放たれ、広げていた少年の左手首を切り飛ばしたのだ。
 真っ赤な血か視界を奪い隠した。

 古い古い洋館。
 ドレスを着た少女が鏡の前に座っていた。
 瞳は虚ろ。躰には力が入っていない。まるで人形のように、そこに座っているだけだった。
 鏡に映っている少女はもうひとりいた。
「ねえ××ちゃん、きょうはなにしてあそぼぉか?」
 舌っ足らずの幼い少女は虚ろな少女の髪を櫛で梳かしながら尋ねた。
 虚ろな少女が答えることはなかった。
「ねえ××ちゃん、おとぎばなしをしてあげるね。むかしむかしあるところに、かみさまの寵愛
をうけていた天界でもっとも美しく偉大な……」
 虚ろだった少女がくつくつと嗤い出した。
 輝線が趨り花瓶を割った。
 物音を聞いて何者かが部屋の前までやってきた足音がした。
 鏡越しに虚ろな少女はこちらを見た。
 扉が開かれる。

 扉を開けて誰かが入って来た。
「しばし休憩をとってはどうじゃ?」
 玲瓏な妖女の声。
 緋色のインバネス姿の男が答える。
「今完成した。俺の最高傑作だ」
 台に寝かされた裸の少女。
 陶器のような白い肌。
 艶やかで長い金色の髪。
 花の蕾のような薄桃色の唇。
 閉じられた瞳から長くカールした睫毛が伸びている。
 少女は眠っているのではない。
 息もしてない。
 死んでいるのではない。
 傀儡だからだ。
 緋い男は尋ねる。
「なあ、この子はいったいだれなんだ? そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?」
「ふふふっ、妾の妹じゃよ」
「ハァ? ウソだろ、ぜんぜん似てねーよ。髪だってあんたは闇のように真っ黒だ」
「この子もそのことを気にしておった。両親は黒髪の黒瞳であったからな」
「両親ってことはあれか、シオンのじーさんとばーさんってことだよな?」
「そうではない。妾が人間であったときの両親じゃ」
「……ん……んんん、ハァ?」
 さっぱりわからないという表情で緋い男は口をあんぐり開けた。
 漆黒のドレスが揺れ動き、台座の横に立ち少女の頬に繊手を伸ばした。
「この子は妾が人間であったときの妹じゃ。かつて妾が奴等に叛逆したとき、肉体を失い魂すらも粉々にされたことがあった。しかし妾は生き延びた。魂の破片をかき集め、妊婦の腹に潜り込み転生したのじゃ」
「生まれてくるはずの子供の躰を乗っ取ったってことだよな?」
「生まれてくるはずの子などはじめからおらぬ。魂がいつ肉体に宿るか答えられるかえ?」
「……はいはい、俺が悪かったよ」
 妖女は緋い男の言葉など聞いていないようだった。
「転生は成功したのじゃが、記憶を取り戻すまでには時間がかかった。シオンを取り戻すまで長き道のりじゃったな。そう、あのときの経験が〈ジュエル〉を創る着想にも繋がっておる」
 白い繊手は金髪の髪を優しく撫でた。
「妾にとって偽りの家族じゃったとしても、血を分けた姉妹じゃったことには変わりない。娘たち同様に愛しておるのじゃ。シオンを救うたあとは、アリスを救うと決めておうた」
 Alice――それは研究室の木箱に刻まれていた名前と同じだった。
 少女の傀儡の胸には不自然なくぼみがあった。
「なあ〈ジュエル〉は完成しそうなのか?」
 尋ねる緋い男に妖女が答える。
「あと一歩というところじゃな。再構築の弊害で妾のように記憶を失しのうてしまうのじゃ。妾のように記憶を取り戻せれば良いが、その可能性は万が一じゃろう」
「記憶の糸を紡ぐのは俺の妖糸でも不可能だな」
「アリスの肉体を創うてくれたことに礼をいうぞ。妾は〈ジュエル〉を一刻も早く完成させよう」
 冷たい風を纏いながら漆黒のドレスが部屋を出て行こうしている。
 緋い男が声をかける。
「セーフィエル?」
 名を呼ばれて漆黒のドレスが振り返った。
 月のように微笑んでいる妖女の瞳には、しっかりと愁斗の姿が映り込んでいた。

 現在に戻ってきた愁斗が目にしたものは、漆黒のドレスを纏った翔子の姿。
 開かれた木箱の中には蒼く澄んだ宝石――〈ジュエル〉が眠っていた。
「愛しき妹よ、まだ目覚める時ではない。躰が見つかっておらぬのでな」
 翔子の声であって翔子ではないもの。
 旅をした愁斗はその正体を知っていた。
「セーフィエルだな?」
「……ふむ、ぬしはたれじゃ?」
 黒瞳に映る愁斗の姿。
 セーフィエルはすぐに微笑んだ。
「嗚呼、あのときの小僧か。あれはどの世界の妾じゃったか……この世界の東京はどうなったかえ?」
 突然の不可思議な質問に愁斗は訝しげな表情をした。
 撫子は心配そうに翔子の顔を覗き込んでいる。
「どうしちゃったの翔子ちゃん。頭とか打っちゃったの?」
 その言葉を無視してセーフィエルは伊瀬に顔を向けた。
「この中でもっとも賢そうな顔をしておる。東京はどうなったのかえ?」
「どうとは、いつの東京と比較してでしょうか?」
「一九九九年に決まうておろう。あの年、東京は聖戦の地となり……嗚呼、ここはやはり死都が生まれなかった劣弱な世界なのじゃな。故に妾が本来とは違う不完全な形で顕現したわけじゃ」
 だれかに語るというより独り言のようだった。
 セーフィエルは愁斗の顔を覗き込んだ。
「ほう、今わかったぞよ。正史の世界とは似ても似つかぬ弱い瞳をしておるが、愁斗じゃな?」
「そうですが。あなたはここで父――蘭魔と傀儡と〈ジュエル〉の研究をしていたんですよね?」
「蘭魔と研究……ふむ、まだその時点であったか。過程は違えど、おそらく辿り着く場所は同じじゃろう」
「あなたの言っていることはよくわからない」
「妾は現在、過去、未来、幾多の平行世界、同時に存在しておるのじゃ。ただし、ここにおる妾は幻のようなものだがな」
 セーフィエルの説明は愁斗たちの理解できるものではなかった。ただ、翔子の肉体が乗っ取られたということはわかる。
「その体の持ち主はどうなったんですか?」
 愁斗は丁寧な口調で尋ねたが、内心では感情が渦巻いている。
「妾はこの〈ジュエル〉の不純物が見せる幻に過ぎぬ。たとえウイルスだとしても、ウイルスが宿主に取って代わることなどできぬ。わかるかえ?」
 翔子の意識は生きているということだ。少しは安心することができたが、ウイルスと表現された以上は、病魔が宿主を食い尽くすということも考えられる。
「自分のことを不純物といいましたが、〈ジュエル〉を創ったのはあなただ。意図して混入させたのではないですか?」
 過去あるいは、平行世界を幻視した愁斗は、セーフィエルには何らかの目的があると感じていた。
 蘭魔は尋ねた――〈ジュエル法〉は本当にあんたの妹を蘇らせるためだけのものなのか?
「そうじゃ、妾が世界に顕現する憑代とするために」
「……翔子は本当にもとに戻るんだろうな?」
 愁斗の口調が変わった。
「妾は幻にすぎぬ。この世界には本物の妾が存在しておる。おそらく追放され、今はこのリンボウ――地球に還ろうとしておる途中じゃろう。まだ先の未来じゃな」
「還ってくるまで、翔子の躰を乗っ取ったままじゃないだろうな?」
「妾は必要なときに顕現する」
「目的は?」
「蘭魔やお主と同じじゃ。シオンを救うこと」
「それだけか?」
 セーフィエルは月のような微笑みを浮かべた。言葉はなかったが、その笑みが答えだろう。
 急にセーフィエルの表情が冷たくなった。
 躰を包んでいた漆黒のドレスにモザイクがかかる。まるで画像の解像度が落ちているようだ。
「――来る」
 と、だけ言い残してセーフィエルの意識が消えた。残された翔子は倒れそうになり愁斗に抱きかかえられる。
 微かに翔子の瞼が動く。
 愁斗が投げかける。
「翔子」
「……ん、んん」
 静かに翔子が瞳を開けた。
 目と鼻の先で愁斗が自分の顔を覗き込んでいる。
「……愁斗君っ!」
 驚いた翔子は目を丸くして、自分の躰を包む腕に気付いて顔を真っ赤にした。
 時間にすれば一日もない。だが、この再開まで愁斗に様々なことが起きた。それがとても時間の流れを長く感じさせた。
「……よかった」
 心から安堵することができた。愁斗は翔子を抱きしめる腕に自然と力が入る。言葉にはしなかったが、もう決して離しはしないという決意が感じられた。
 しかし、再開を喜ぶ時間はなかった。
《オペレーションシステム再起動》
 館内に機械的で淡々とした少女の声が響いた。聞き覚えのある声だった。
《屋敷に対する攻撃を感知。魔導結界七〇パーセントダウン、復旧に必要なエネルギーが不足しております》
 撫子が辺りを見回す。
「にゃ、だれが話してるの?」
 超人的な聴覚をもってしても、その人物がどこにいるのか特定できない。
 なぜならそれはヒトの声ではない。屋敷の声だからだ。
《わたくしの名はアリス壱式。この屋敷を管理する人工知能システムでございます》
 頭の中に直接響いてくる澄んだ妖精のような声。
 さらにアリスは続ける。
《魔導結界が破られました。敵の数は一体、正面ホールに侵入、生体反応なし、傀儡と思われます》
 敵は知れた。
 傀儡と聞いて愁斗は嫌な予感しかなかった。
 ――あいつしかいかない。
 翔子を撫子に任せ、愁斗と伊瀬は玄関ホールに急いだ。
 二階に続く大階段の踊り場にその影はあった。
「どこから探すか考えてたとこだ。そっちから来てくれて助かったぜ」
 声は麗慈、だがその姿は紫苑だった。
「母さんの傀儡を……!」
 愁斗の瞳に苦渋と憎しみが浮かんだ。
 麗しい紫苑の顔で悪意を浮かべ嗤っている。
「この人形を隅々まで調べさせてもらったぜ、よくできたダッチワイフだ。乳首はピンク、あそこも精巧に――」
 シャンデリアが突然落ち、轟音で言葉は遮られた。
 歯を食いしばる愁斗を見ながら、紫苑がしなやか足取りで階段を下りてくる。
「威嚇しかできないのか?」
 紫苑の手から殺気を孕む妖糸が放たれた。
 すぐさま愁斗も妖糸を放ち相殺する。
 その姿を見ながら麗慈は小馬鹿にした。
「俺様は殺す気だった。テメェはどうだ?」
 答えのわかっている質問をわざわざした。
 愁斗は拳を強く握る。
 ――できない。
 そこに立っている傀儡と幾多の戦いをともにした。傀儡はただの操り人形ではないパートナーなのだ。それだけではない、その傀儡は母の顔を持っている特別な存在だった。
 ずっと死別したと思っていた母。実際は死んだわけではなかったらしいが、愁斗にとって母は幼いころの記憶の中と、この傀儡に見いだすしかなかった。紫苑という傀儡は愁斗の支えであったのだ。
 傀儡といえど、母と同価値の存在。それが憎っくき敵に手に落ち、今この時、対峙する運命になってしまった。
「テメェはこのダッチワイフを取り戻す方法を考えてるはずだ。あきらめろ、このダッチワイフは俺様のもんだ。いつでも好きにできるんだぜ」
 紫苑の腕がいきなり落ちた。
 目を剥く愁斗。
「貴様!」
「おっと失礼、操り糸に力を入れすぎたぜ。でもよ、これでわかったろ? いつでも壊せるんだぜ」
 紫苑は落ちた腕を拾い上げ、瞬く間に妖糸で縫合して元に戻した。
 動けずにいる愁斗を押し退けて伊瀬が前へ出た。
「私がやります」
 愁斗は戦いそのものを避けたかったが、麗慈にその気がないのなら、やむを得ない選択だった。伊瀬が戦うしかない。
 だが、麗慈はそれを許さない。
「おいおい部外者はお呼びじゃないぜ。これは俺様と愁斗のゲームなんだ」
「貴様の都合など知るか」
 疾風のごとく伊瀬が駆け、豪鬼のごとく拳を振るう。
 紫苑から鋭い妖糸が放たれた。
 輝線が機械仕掛けの腕に弾かれた。傀儡師の妖糸で斬ることができないのだ。
 楽しそうに微笑んだ紫苑の眼前に拳が迫る。
 拳が急に止まった。見えないなにかに押し戻される。ネットだ、弾力性を持った妖糸が拳を防いでいる。
 伊瀬の足腰に力が入る。
 ゆっくりと拳が前に進み、ついにネットが破られた!
 大きく横殴りにされた拳を受けて紫苑が遙か後方に吹っ飛ぶ。
 踊り場の壁に背中を打ちつけ、紫苑は床に尻をついて項垂れた。その頭上には不気味な門の絵画が飾られている。
「クククク……」
 くつくつと壊れたように嗤う麗慈。
「ったくよ……邪魔なんだよ」
 紫苑が幽鬼のように立ち上がる。
「俺様は愁斗と遊びてえんだよ。そうだ、テメェと遊びたがってるガキがいるんだった。すぐに紹介してやるよ」
 紫苑から闇色の妖糸が放たれた。
 どこに?
 門が開く。
 紫苑の頭上、油絵の具で描かれた門が、まるで本物のように口を開ける。
 〈闇〉が触手を伸ばして呼んでいる。
 開かれた門から幾多の触手が溢れ出し伊瀬の四肢を拘束する。
「……ぅ」
 口も塞がれた。
 身動きができない。
 愁斗は伊瀬を助けようと妖糸を放つ。
 駄目だ、切っても切っても新たな触手によって絡め取られる。
「伊瀬さん!」
 叫ぶ愁斗の視線の先で伊瀬が扉の向こうへ引きずり込まれる。
 門は伊瀬を丸呑みして閉じられた。
 一時の静寂。
 やがてこちらに駆けてくる足音が聞こえた。
 紫苑の顔はそれを見て嗤う。愁斗は顔を強ばらせた。
「来るなっ!」
 もう遅い。麗慈に目を付けられた。
 妖糸を軽く放った紫苑。
 すぐさま撫子が庇うように翔子の前へ出た。
「危にゃい!」
 両腕を顔の前で立てて妖糸をガードした。ガントレットが装備されていたのだ。
「魔法のガントレットなら傀儡師の妖糸だって防げるんだから!」
 撫子は鼻を鳴らしながら勝ち誇った。
 だが、紫苑の顔は口の端を吊り上げて余裕を見せていた。
「今のは攻撃じゃねーからだよ」
 再び紫苑の手から放たれた妖糸は、さきほどを比べものにならないほど疾い。それでも撫子の優れた動体視力をもってすれば防ぐことはできる。そう撫子も考えてガントレットを構えたのだが――。
「避けろ!」
 叫ぶ愁斗の声を耳にして、とっさに翔子を抱きかかえながら押し倒した。
 妖糸は床を深く抉って爪痕を残した。
 紫苑は撫子たちを一瞥したあと、愁斗に向き直った。
「あいつはバカだ、テメェは正しい」
 バカだといわれて撫子は強く否定するような顔で愁斗を見た。
 愁斗が答える。
「奴の言葉のとおりさ。今のが攻撃だった……だから、さっさと翔子を連れて逃げろ!」
「そうはいくかよ」
 助走もなしに紫苑が宙を跳ぶ。
 その足首に妖糸が巻き付き床に引き寄せられる。
 階段を転げ落ちる紫苑が愁斗の足下まで来た。
 床に口づけをするくぐもった声がする。
「足首に巻き付いた糸をなんで切らなかったかわかるか?」
「……っ!?」
 愁斗は紫苑の手から伸びている妖糸の先に目をやった。四肢を拘束され芋虫のように床でもがく撫子の姿。
「俺様の勝ちだ」
 足首に巻き付いていた妖糸を妖糸で切り、立ち上がった紫苑は飛翔する。
 翔子の瞳に映る魔鳥。
「なにをする気だ!」
 愁斗の妖糸が再び紫苑を拘束しようと放たれた。
 それよりも紫苑の妖糸は疾かった。
 翔子に迫る鋭い妖糸。
 もがく撫子。
 眼を見開いた愁斗。
 妖糸は翔子の頬を軽く撫で、空を切り裂いた。
 紫苑の顔は不気味に嗤う。
 しゅーしゅーと風が音を立て、斬られた空間の裂け目が広がっていく。
 紫苑は真後ろから迫る妖糸を妖糸で弾き飛ばし、そのまま駆けながら翔子を抱きかかえた。
「あばよ!」
 そのまま紫苑は裂け目に飛び込み、二人は深い闇の中に呑まれてしまった。
 慌ててすぐさま愁斗も裂け目に飛び込もうとしたが、寸前で跡形も無く消えてしまったのだった。
「…………」
 無言で拳を握る愁斗。
 撫子も唇を噛みしめている。
 はじめからこれが目的だったに違いない。
 愁斗との戦いに執着する麗慈が、戦わずに逃げるわけがないのだ。
 だが、なぜ?
「僕と決着をつけたいならここですればいい……なんで翔子を」
「もしかしたら……」
 撫子が口を挟んで、そのまま続ける。
「メディッサが翔子ちゃんの魔力を欲しがってたの思い出した」
「〈ジュエル〉か? いや、セーフィエルの断片か」
「きっと元首領を蘇られるのに使うつもりだよ!」
「生贄か」
 愁斗は麗慈の思惑も読めた。
 協力関係にあるメディッサのために動いているように見せて、動機は愁斗を苦しませようとしているだけだ。
 紫苑を奪い、翔子を奪い、大切なものを奪っていく。
「早く翔子を見つけないと……クソッ、どこに消えたんだ」
 居場所がわからない。
《マイマスター、お困りでしたら、わたくしがお力になれるかと存じます》
 アリスの声だった。
 愁斗は辺りを見回す。
「力を貸してくれ」
《喜んで》
 その弾んだその声は、十代の少女のようだった。
「翔子の居場所を探せるのか?」
《はい、〈ジュエル〉を感知することが可能でございます》
 床で撫子がもがいている。
「あたしも連れてって、次は絶対に絶対に翔子ちゃんのこと守るから!」
 いつになく真剣な眼差しの撫子を愁斗は見下ろしている。
「絶対だな?」
「九つの命を賭けても」
「ならついてこい」
 輝線が撫子を拘束していた妖糸を切り裂いた。
 アリスの声がする。
《座標を確認いたしました。転送装置がございます》
「転送装置?」
 その扉が開かれる。
 大階段の踊り場に飾られた地獄の門。それこそが転送装置だった。麗慈はそれを知ってから、知らずか門の扉を無理矢理開けて伊瀬を転送させた。
 愁斗は階段を一歩一歩踏みしめながらのぼる。無言のまま撫子はあとに続いた。
《どうかご無事で》
 待ち受けるは暗き闇。

 足を踏み込むたびに沈む黒土。
 立ち止まることを決して許さない。
 世界は夜。
 満月が静かに蒼醒めている。
 湿った黒土から立ち上る臭いがのどの奥をむせさせる。
 亡者どもが起こした冷たい風。
 薬草の匂い、赤い飛沫の鉄臭さ。
 いくつもの円柱が屋根を支える白亜の神殿。
 歩くたびに足裏に張り付く気色の悪い感触に気づき、撫子は口元を押さえて冷や汗を流した。
 血の川。
 血の海。
 血の世界。
 床はおびただしい血に染まっていたのだ。
 構わず愁斗は歩き続けた。素顔でありながら、その表情は仮面をかぶっているように無機質だ。
 神殿の奥にまるで墓標のように聳え立つ門。
 その前に立つ不気味な人影が二人。
 無邪気の中に邪気を孕んだ笑みを浮かべる麗慈。
 血塗られた躰と蛇の髪を持つ蛇人メディッサ。
 そして、彼らの前には巨大な穴が空いていた。そこから噴き出す紅蓮の炎。穴の底を覗き込むと、真っ赤に燃える流動物質が鈍り鈍りと蠢いていた。
「愁斗君っ!」
 少女の叫びが天井から聞こえた。
 高温の風が噴き上げる先、天井近くに二つの影が吊されている。一つは翔子、もう一つは傀儡紫苑だった。
 苦しそうな顔をしている翔子。
 彼女を吊しているのは両手首を縛り上げ、そこから伸びている一本のロープ。少しでも負担を減らそうと縄を両手で掴んでいるが、全体重を支える手首は縄が食い込み血が滲んでいる。
 紫苑は糸を切られた操り人形のようにぐったりと首を曲げている。
 よく天井を見ると、二人を吊した縄は定滑車で繋がれていた。今は絶妙なバランスで天秤のように保たれているが、縄を切れば両方が落ちる。
 血を滴らせながらメディッサの美しい脚が前へ出た。
「舞踏会の招待状はお持ちかしら?」
 愁斗は怒りのあまり返す言葉もなく歯軋りを鳴らしている。
 その顔を見て麗慈は愉しげだ。
「怖い顔すんなよ、これは愉しいゲームなんだぜ」
 撫子が天井を見上げる。
「絶対に助けるから、もうちょっとの辛抱だからね!」
「……う……ううっ」
 もう翔子はしゃべる気力も残されていない。
 メディッサは〈蘇りし心臓〉を掲げた。
「愛しき貴方の心臓はこの手に。あとは生贄を捧げるだけ。二つの生贄の持つ豊潤な魔力で、貴方はさらに逞しく蘇るの……嗚呼」
 自らの躰を抱きしめメディッサは身悶えた。その手から〈蘇りし心臓〉がかすめ取られた。麗慈の仕業だ。
 妖糸を使って〈蘇りし心臓〉を奪った麗慈は、それを自らの腹の中へとずぶずぶ押し込めて呑み込んでしまったのだ。
 目と牙を剥くメディッサ。
「なんてことを!?」
「ゲームだって言ったろ。これは俺様と愁斗のゲームなんだよ、ババアはすっこんでろ」
「キエエエエーーーッ!」
 金切り声で叫びメディッサは麗慈に襲い掛かった。
 嗤う麗慈。
 編み目に張られた妖糸に勢いよく突っ込んだメディッサが細切れにされた。
 肉塊は溶けて血となり海に沈んだ。
「さあ、ゲームをはじめようぜ」
 麗慈は手をくいっと軽く引いた。すると天井のロープが微かに動き翔子が呻いた。ロープと妖糸が繋がっているのだ。
「今からロープを切る。するとどうなる? そうだ、ぶら下がったもんが二つ同時に落ちる。同時にだ。どっちを助けるんだ?」
「…………」
 黙る愁斗を一瞥して撫子が答える。
「どっちもに決まってるじゃん!」
 小馬鹿にしたように麗慈が大きな口で笑う。
「はははっ、それは無理だ。まず撫子、テメェは論外だ。ゲームの参加者じゃねーし、お前の脚力じゃそもそも届かないだろ。ここにはハシゴもなにもありゃしねー」
 麗慈は愁斗を指差す。
「使えそうなもんは、妖糸くらいだ。召喚をさせる時間も与えねえ。妖糸の力でどうにかするしかねーってことだよ」
「間違った答えを誘導するつもりか?」
 重々しい口調で愁斗が反論する。
「妖糸自体は魔法じゃない。変幻自在の動きを成すことができたとしても、物理法則に縛られる」
 麗慈は舌打ちをした。
「……っ気付いたか。そうだな、落下してる女に妖糸を巻き付けたとしても、体重と腕力がなきゃ支えきれずにいっしょにマグマ溜まりにドボンするのがオチだな」
 そう言った途端、麗慈はロープを切ったのだ。合図もなかった不意打ちだった。
「きゃああぁっ」
 翔子の悲鳴。
 無言のまま落ちる紫苑。
 一瞬にして床に空いた穴の入り口に達してしまう。
 翔子と紫苑を交互に見る愁斗は動揺せずにはいられなかった。
 落ちる翔子と紫苑の先で麗慈が嗤っている。
 すでに撫子は動いていた。ロープが切られた瞬間、愁斗が動けずにいる間、撫子に迷いなどなかった。
 ただ一直線に翔子のもとへ!
 それを見て愁斗が遅れて動く。放たれた妖糸は――紫苑に巻き付けられた。
 眼を見開く翔子。
 床に空いた巨大な穴は直径八メートルはある。翔子までは四メートル。そこまでは軽く跳ぶことができる。
 真っ逆さまに落ちる翔子の足首を撫子の手をつかむ。その瞬間、さらに落下が加速する。
 撫子の目に映る麗慈の姿が上っていく。
 汗を流しながら懸命に腕を伸ばす撫子の爪が穴の縁を掴んだ!
 振り子のように揺れる撫子と翔子。
 縁を掴んでいる腕が震え、爪から血が滲む。登ることはできず、限界も近かった。
「私の足を放して!」
 叫ぶ翔子。
 言葉を返す余裕すら撫子にはなかったが、握った足首を放さないのが答えだ。
 二人が落ちそうな様を見て愁斗は歯を食いしばり涙を浮かべた。
「うあぁぁーッ!」
 叫びながら愁斗は握っていた手を開いて妖糸を解いた。
 灼熱の底へ向かって落ちていく紫苑。
 一筋の輝線。
 新たな妖糸を放った愁斗。
 だが、もうそれは間に合わなかった。
 翔子の頬に雫が落ちた。
 最期の力を降り絞った撫子が縁を掴んでいた手を軸にして、振り子の原理で翔子の躰を持ち上げながら放り投げる。
「くぅ……あーーーッ!」
 天を舞う翔子。
 赤く燃える世界へ落ちていく撫子は微笑んでいた。
 慌てて愁斗は放った妖糸を捨て、新たな妖糸を撫子に向けて放とうとした。
 だが、その妖糸は宙で切断されてしまったのだ。
 歯を剥いて嗤う麗慈。
「ククククククッ……ハハハハハハッ、ハーハハハハハハッ!」
 一瞬にして呑み込まれた。
 その瞬間を見た者はいなかった。
 助かった翔子が穴の縁にしゃがみ込んで覗き込む。
 跡形もない。
 そのまま彼女は顔を上げ、止まらない涙を流しながら愁斗を見つめた。
 魂が抜けたように愁斗は呆然としていた。
 迷いだ。
 迷った挙げ句、後手に回り、後手に回り、手遅れになった。
 笑いが治まらない麗慈は猫背で腹を抱えている。
「どっちを助けるのかと思ったら、人形のほうを助けようとしやがったぜ。人の命と人形、人の命をゴミ屑だと思ってる俺様だって、どっちが正解かわかる問題だぜ」
 翔子は泣きながら床に両手をついて項垂れている。
 なにも反論しない愁斗。俯き重い表情のまま口を結んでいる。
 麗慈は笑いすぎて鼻水をすすった。
「あーあ、最高に笑えるぜ。決定的瞬間を見てたせいで、人形が落ちるとこが見れなかったけど、まーそれはしゃーないな……代わりに……くあ……ぐぐあっ……オオゥ」
 腹を抱えている麗人の様子が可笑しい。
「げぼっ」
 口から闇色の液体がどぼどぼと吐き出される。
「なんだ……くる……し……」
 足下をふらつかせてよころめく麗慈。
 女の笑い声が聞こえる。
「キャハハハハハ……キャハハハハハハハ!」
 血の水面に波紋が走った。
 ぬらりぬらりと血で彩られた妖艶な裸婦が海から這い上がってきた。
「予定は狂ってしまったけれど、子猫の生贄が捧げられたわ」
 顔を強ばらせながら麗慈は復活したメディッサを睨んだ。
「クソババア!」
 妖糸を放とうとした麗慈の手がふいに止まった。
 背筋を凍らす生臭い風。
 静かに開いた巨大な門の隙間から、光る眼がこちら側を覗いている。
 眼はひとつではなかった。
 人の眼球ほどの大きさのものあれば、人の頭蓋骨ほどのものもあり、さらにずっと小さい眼も、無数の眼がこちら側を覗いている。
 巨大な門からヘドロに似た原形質状の流動体が這い出てくる。そこに無数の眼がついているのだ。
 それの眼には持ち主たちがいた。よく見ると人や動物、異形たちの顔がうっすらと浮かび上がっているのだ。取り込まれた犠牲者たちだった。
 腐臭を漂わせながら謎のヘドロは触手をつくりだして伸ばした。
 腹を押さえながら膝を折って片手を床についていた麗慈。
「あれが……首領なのか?」
「いいえ、あれは成れの果てよ。これから黄泉返るのよ!」
 ぐちゃ!
 触手がメディッサの上半身を喰らい、そのままの勢いで麗慈に飛びかかる。
 体内に〈蘇りし心臓〉を取り入れてしまった麗慈は、躰が重くそのまま仰向けに倒れ込んでしまった。
「この……俺様が……ぐぼ」
 口から闇色の液体が流れ出る。
 ヌメヌメとした触手が花弁を開いたように口を開けて麗慈の胴を噛みきった。
 血の海から首を出したメディッサが叫ぶ。
「次はその娘を喰らうのよ!」
 触手が翔子に襲い掛かる。
 翔子は魂が抜けたように放心している。もう涙も涸れた。
 立ち尽くしていた愁斗の肩からふっと力が抜け、次の瞬間、鬼気迫る表情で顔を上げた。
 輝線、輝線、輝線、幾重もの輝線が縦横無尽に暴れ狂う。
 細切れにされる触手の体液が翔子の顔にかかる。
 ぐたりと力を失った触手が巨大な門の奥へと消えた刹那、無数の触手が槍のように飛び出してきた。
 血塗られた大地を駆ける愁斗の手から連撃が放たれる。
 肉が飛び、血飛沫が舞い、愁斗が踊る。
 鋭い眼をした愁斗と床から顔だけを出したメディッサの眼が合った。
 女の生首が宙を舞う。
「キャハハハハハハッ!」
 血の海から次々とメディッサがたちが這い上がってくる。
 巨大な門の向こう側から攻め込んでくる触手も途絶えることがない。
 愁斗は翔子の腰を抱き寄せた。
「まずは君を安全な場所へ」
 淡々と冷静な口調。
 翔子は返事をしなかった。
「……翔子?」
 急に愁斗は不安そうな子供のような表情をした。
 深く瞳を閉ざした翔子は、ゆっくりと目を開けて真剣な眼差しをした。
「……もういいの」
「なにが?」
「……ごめんなさい、もういいの」
「だからなにが?」
「生きていたら、ずっと抜け出せない気がするの」
 翔子の背後に触手が迫る。
「危ない!」
 愁斗はとっさに翔子を押し倒し、触手に目掛けて妖糸を放った。
 妖糸が外れた。
 触手は翔子に覆い被さっていた愁斗の背中を掠めた。
 再び放たれた妖糸。
 飛び散る肉塊。
 すぐに愁斗は立ち上がり、翔子の腕を掴んで立たせようとした。そのときに翔子の手は愁斗の背に回っており、生温かいぬめりとした感触が手に伝わってのだ。
「もしかして愁斗君……背中」
「全部、僕のせいだ……守りたいと思ってるのに……」
 愁斗の脳裏に撫子の犠牲が浮かんだ。その犠牲に触発されたわけではない。もっと前から、はじめから翔子を守りたいと思っていた。
 だが、結果はうわべだけだった。
 翔子が強く愁斗を抱きしめた。
「もういいの」
「だめだ!」
 四方から襲ってくる触手を愁斗は八つ裂きにした。
 斬っても斬っても切りが無い。
 そこら中から魔女の笑い声が木霊してくる。
「嗚呼、愛しき貴方……早く〈こちら側〉にいらして」
 流動体だった躰が少しずつだが固形になっていく。
 すべて触手だ。無数の触手が絡みつき球体になり、転がりながら巨大な門から出てきた。
 その中心には人が手を広げても届かないほどの単眼が世界を凝視していた。
 メディッサはその単眼にすり寄り、舌で舐めながら接吻をした。
「嗚呼、愛くるしい貴方の眼だわ……早く完全な貴方の姿を見たいわ」
 触手に覆われた単眼の首領。かの者の触手は伸ばされ愁斗たちを囲んでいた。
 眼、眼、眼、大中小の眼が触手にはついており、それらが愁斗を凝視して放さない。
 周りを囲まれ逃げ場を失ってしまった。
 翔子を連れてどう切り抜けるか?
 まだ愁斗はあきらめていないが、あきらめた人間を連れて逃げることができるのか?
 愁斗は唇を噛む。
 触手は愁斗たちの回りを蠢いている。
 なにかが血の海で動いた。上半身だけの麗慈だった。
「なあ愁斗、共闘しねえか?」
 下から話しかけられ愁斗は冷たく見下す。
「うるさい黙れ」
「邪険にするなよ。下半身が再生する時間を稼げ、俺様が復活したら二人で毛玉野郎をぶっ殺そうぜ」
「……あとどのくらいだ?」
「カップラーメンと同じ」
 すでに麗慈の上半身からは闇色の糸が無数に伸び、下半身と繋がろうとしていた。
 単眼の首領が太く逞しい触手を何本も伸ばしてきた。
 うねるうねる鞭のように触手がうねり狂い、床を叩き壊し、神殿の柱を折り倒す。
 愁斗は目にも止まらぬ早さで限界を超えて妖糸を繰り出す。
 とにかく防御に徹する。
 触手を自分たちの半径三メートル以内に近づかせない。このラインを死守しながら、その場から足は動かさずに次々と妖糸を放った。
 紫色の血飛沫が噴き上がり、飛び散った肉塊は腐臭を放つ。
 触手に混ざって朱い魔女も襲い掛かってきたが、すべて細切れにした。
 やがて一分、二分、三分と時間が過ぎ去る。
「まだか!」
 叫んだ愁斗が麗慈に眼だけを向けた。
 嗤いながらそこに立っていた麗慈。
「復活したぜ」
 構える麗慈。
 そして、妖糸が放たれた!
「ぐはっ!」
 眼を見開いた愁斗の手首に輝線が趨った刹那、繊手が宙を舞っていた。
 なんということだろうか、麗慈の妖糸が愁斗の手を落としたのだ。
「ククククッ、信じるなよばーか」
 愁斗に対する麗慈の悪は時と場所を選ばない。
 どんな状況に置いても麗慈は愁斗をあざ笑うのだ。
 すぐさま愁斗は傷口を妖糸で硬く縛り上げ止血した。が、落ちた手首はどこにいったのかわからない。血の海に沈んでしまった。
 憎悪に満ちた眼で愁斗は麗慈を見ていたが、その眼が急に上に向けられた。
 触手が花弁のように口を開け麗慈の頭上に迫っている。
 ぶずゃり。
 世にも奇妙な音を立てながら麗慈の上半身が丸呑みにされた。
 下半身だけになった肉塊が血の海に倒れた。
 悲惨な表情をして叫び声も出せない翔子。
 逃げ場はない。
 疲労と苦痛に耐えながら愁斗は妖糸を繰り出す。だが繰り出せる妖糸は半分に低下してしまっている。押し寄せる触手がじりじりと距離を縮め、もう手を伸ばせば届くそうなくらいだ。
「なんで僕は!」
 心の底から叫ぶ愁斗。
 それに続く言葉は?
 女の絶叫で遮られた。
 そこら中からあがる魔女の悲鳴。
 次々とメディッサたちが四肢や首を飛ばされていく。
 そして、闇色の稲妻が一人のメディッサの胸を貫いた。
「キエェェェェッ!」
 胴を半分にされ下半身を落とされた小さき蛇が床でのたうち回った。
 メディッサたちが血になり溶けていく。
 突然の襲撃に触手は攻撃の手を休め、愁斗もまた動きを止めてその男を見た。
 血に染まるインバネス。
 白い仮面の主は紫苑を抱きかかえていた。
 蘭魔の登場に愁斗は息を呑んだ。
 首領の単眼も蘭魔を凝視している。
「久しぶりだなシュドラ。私に畏れをなして〈ハザマ〉に逃げ隠れていた貴様が、こちら側に還ってくるとは、どういう風の吹きまわしだ。私に勝てる算段がついたか?」
 大地を振るわせる低くおどろおどろしい声が返ってくる。
「怨めしや蘭魔、我が肉体を滅ぼし、心臓を奪い、我が結社を堕落させた罪人」
「弱肉強食が〈闇の子〉の教えだろう」
「黙れ!」
 触手が束となり鞭打つように蘭魔の頭上に振り下ろされた。
 蘭魔は軽く手を振り払っただけだった。
 五本の闇の稲妻が触手を木端微塵に砕き、さらに傷口を腐食させていった。
 シュドラは慌てて傷つき蛆の湧いた触手を切り離し、巨大な門に向かって蠢きだした。
「また逃げるつもりか?」
 そうだ、シュドラは圧倒的なまでに蘭魔を畏れている。
 心臓を奪われたが、それによって封印されていたわけではない。元首領は蘭魔を畏れるあまり自ら引き籠もっていたのだ。
 巨大な門の奥へと逃げ込むシュドラ。
 インバネスをはためかせながら蘭魔が飛翔する。
「扉を開けてくれて感謝するぞ」
 蘭魔も門の奥へと消えた。
 あたりはしんとした。
 血だまりに残された二人。
 すぐに愁斗は理解した。あの巨大な門の奥に父の目的がある。つまり母に関することだ。
 巨大な門の奥は闇に染まり覗くことはできなかった。
 あの先にいったいなにがあるのか?
 愁斗は遠い目で眺めている。
「……愁斗君」
 声をかけられ我に返った。
「……あ」
「あの先になにがあるの?」
「僕の母さんがいるのかもしれない。父さんは母さんを助けることだけが目的みたいだ」
「行かなくていいの?」
 その質問は酷であった。
「僕は……」
「わたしよりも大事なんでしょう?」
「それは……」
 言葉に詰まった。
「いいの、赤の他人よりお母さんのほうが大事に決まってるものね」
「そういうことじゃない!」
 なにがそういうことじゃないのか?
 愁斗は自らの言動も整理できないほど混乱して、思わず声を荒げてしまった。
 父を追わなくてならない。今を逃したら、この先どうなってしまうのかわからない。
 だが、ここで翔子を置いていくような真似をすれば、翔子を失うばかりか、自分のアイデンティティさえ失ってしまう。
 なにもかも壊れてしまう。
 急に翔子が愁斗の手を両手で握り締めた。
「わたしもいく」
「……なんだって?」
「愁斗くんはあの先に行きたいんでしょう? でもわたしを置いていけないから、ここで立ち止まってる」
「危険すぎる!」
「わたしね……愁斗くんのことが好きだった。でも、もういいの」
 握っていた手を放して翔子が巨大な門に向かって走り出す。
「待つんだ!」
 愁斗の制止も聞かず翔子は背を向けたまま門の奥へ飛び込む。
 妖糸を巻き付け強制的に止めることもできた。
 しかし、愁斗の心がそれを思いとどまらせてしまった。
 深い深い闇の奥。
 巨大な口を開ける扉に愁斗も飛び込んだ。

 〈光〉と〈闇〉の激突。
 瓦礫の山となった死都東京。
 生き延びた者は南へと下り、数年の内に新たな都市国家が生まれた。
 自衛隊と米軍双方からの圧力や攻撃も虫のごとくあしらい、女帝ヌルと呼ばれる者が君臨する帝都エデン。
 アメリカや日本、近隣諸国が手を引いた理由は、その圧倒的な力である魔導によるところが表向きだが、この世界の裏では人類起源より遙かいにしえより、彼らが支配していた経由がある。
 東京上空にはしばらくの間、巨大な門が鎮座していた。
 〈裁きの門〉
 〈闇〉の軍勢の多くはその先にある牢獄に幽閉されることになった。
 そして、門の向う側、最果ての地である〈タルタロスの門〉から先の世界。そこに〈闇〉は封印されている。
 ときにその組織はD∴C∴と呼ばれた。彼らは〈闇の子〉の思想を反映し、封じられた〈闇の子〉を幾度も復活させんと試みた。
 〈光の子〉と〈闇の子〉の代理戦争は幾度もあった。
 必ず〈光〉が勝つと摂理で決まっている。
 それでも〈闇〉は決して滅びることはない。
 光あるところに闇も必ず存在する。
 光がその輝きを増すほどに闇もまた深さを増すのだ。
 かの者は〈闇〉の中に〈光〉を求めた。
 娘たちと共に〈光〉に加勢したのだが、見返りに娘の一人が久遠の牢獄の楔された。
 かの者は復讐を決意する。
 一度目の計画は失敗して、かの者は肉体と魂を切り離され記憶を失った。
 二度目の計画では娘を取り戻した。
 しかし、それも束の間であった。
 娘は再び楔とされたのだ。
 すべて無駄になることはない。
 世界は確実に歪む。
 かの者の計画は、少しずつ〈光〉と〈闇〉が支配する世界に歪みを生み出していたのだ。
 新たな世界への門は必ず開かれる。
 鍵は般若面の傀儡師。
 彼の両親も傀儡師であった。その祖先も傀儡師であった。その子供も傀儡師であった。
 すでに確定している未来と過去。
 しかし、それは一つの世界の出来事でしかない。

 妾は世界の枠から外れた者。

 巨大な門をくぐり愁斗は天も地もない世界に辿り着いた。
 翔子の姿は見当たらない。
 そこら中に散らばる肉塊や触手が宙に浮かんでいる。濁った眼球も漂っていた。
 元首領の死骸であった。
 愁斗は歩く。
 闇が深く、辺りが見渡せない。妖糸で回りを探ってみるが、なにも感触が伝わってこない。
 さらに奥へと進むにつれ闇が深さを増す。
 時計の針のような音が聞こえる。
 先に進むと音が大きくなり、薔薇の香りが漂ってきた。
 愁斗は急な眩暈に襲われ瞼を閉じて足に踏ん張りを利かせた。
 静かに目を開ける。
 闇に包まれていた世界にぼうっと薄明かりが灯っており、人影が佇んでいた。
 インバネスに白い仮面。蘭魔――ではなかった。
 漆黒の長く艶やかな髪、白い仮面と思われたものは実際には顔が無いだけであった。
「ここは時と空間の〈ハザマ〉の世界」
 男とも女ともつかない声。決して中性的というわけではない、聞いたそばから声がどんなだったか思い出せなくなるのだ。
「だれだ君は?」
 警戒しながら尋ねる愁斗はいつでも妖糸を繰り出せるように構えている。
「名前は存在しない。便宜上ファントム・ローズと名乗っている。迷いし子羊を群れへ帰す役割を担っているのだが、キミはどうやら違うらしい」
「僕は父と友人を追ってここに来た。出口を知っているなら教えて欲しい」
「出口は夢幻にある。この〈ハザマ〉の広さも夢幻だ。キミの父と友人と思われる人物は見てないと思う。どの出口を探しているんだい?」
「どの……?」
 愁斗は〈ハザマ〉に入った瞬間に幻視した世界を思い出す。
 瓦礫の山となった死都東京。
「〈光〉と〈闇〉が戦争をして東京が滅びた世界」
「正史の世界だね。でも、それだけでは情報が不足しているんだ。その世界には無数のバージョンがあるからね……ん?」
 ローズはなにかの気配を感じたようだった。愁斗には感知できないものだ。
「なにかあったのか?」
「私と同族の気配を感じた……ファントム・ルナ、彼女も世界から弾かれた存在だ。正史世界に無数のバージョンが存在するのは彼女のせいともいえる。ファントムとなる以前から、彼女は幾度も世界の改変を試みた。そのときの名はセーフィエル」
「それは僕の祖母だ」
「ならこのタイミングでキミがここに来たということは、ファントム・ルナの導きということだろう。いくべき世界はここだ」
 ローズは薔薇の鞭を振るい、辺りに花びらが散乱する。
 花吹雪の中から薔薇の蔓が覆い茂る門が召喚された。
 蕾だった薔薇が開花して、覆っていた蔓が引いていく。
「さあ、お行きなさい」
 門が開くと同時にまばゆい光で視界が白一色に染まった。

 倒壊したビル群。
 道はほとんど隆起あるいは陥没しており、ひっくり返った廃車があちこちに目立つ。
 人影は無い。
 しかし、異様な気配はそこら中からした。
 横転しているバスの側面に登り愁斗は辺りを見渡した。
 近代的なビルに囲まれた赤レンガ作りの洋式建築も、爆撃を受けたように半壊しており、豪壮華麗な姿を見ることはできない。
「東京駅周辺か」
 呟いた愁斗。
 自分のいた世界とは違う歴史を歩んでいる世界。これまでの幻視からすぐに察することができた。
 ここは死都東京。
 愁斗はシグレの話を思い出しながら先に進む。
 お堀に差し掛かったところで、腐臭と糞尿の悪臭が風に乗って漂ってきた。
 中世貴族のような出で立ちの男は、眉目秀麗な顔をしており、王冠を頂いていた。
 髑髏の杖を愁斗に向ける。
「何者ぞ?」
「秋葉愁斗、傀儡師だ」
 名乗った途端、男は瞳を赤く輝かせ、髑髏の杖から稲妻を発した。
 光速の攻撃を生身の愁斗はでは躱せない。
 漆黒のドレスを身に纏う妖女が愁斗に背を向けて立った。
 妖女が手を振り払う動作をすると、稲妻は急に向きを開けて天に昇っていった。
 男は顎を上げて不満そうな表情だった。
「久しぶりではないかリリス。なぜ我が輩の邪魔をする?」
「ふふふっ、その名で呼ばれるのは久しぶりじゃな」
 妖女は翔子の顔を持っていた。
「今はセーフィエルという名で呼ばれることが多い」
 愁斗を救ったのはセーフィエルであった。
「この子は妾の血縁じゃ、手出しはならぬ」
「此奴からは我が輩のプライドを傷つけた人の子と同じ臭いがする。其奴がこの辺りに現れたと聞いてな、わざわざ足を運んだのだが」
「蘭魔じゃな。我が娘の夫であるぞ」
「ほう、シオンか、それともエリスの夫か、どちらにせよただの人の子、夫といえど血縁でなければ殺してもよかろう?」
「魔人蘭魔は手強いぞベルゼブブ。七柱のヴァーツとも渡り合えるほどにな」
 セーフィエルは振り返って愁斗と視線を合わせてから歩き出す。あとを追って愁斗も歩き出した。
 風のようにベルゼブブの横を擦り抜ける。
「我が輩を無視するつもりか?」
 夜闇に浮かぶ月のようにセーフィエルは静かに微笑んだ。
「妾の目的はシオンを救うことじゃ。その過程で貴公らの帝王が解き放たれるかもしれぬ。物事の道理を悟ったならば、手出しをするでない」
「その話は真実か?」
「結果は運命のみぞ知る」
 その言葉を聞いてベルゼブブが追ってくることはなかった。
 滑るような足取りでセーフィエルは先へ進む。
 原生林と化したその場所は、シダや巨大な植物で覆わたジャングルだったが、虫や動物は一切いなかった。
 道なき道だったその場所には、すでに先人が通った道があった。
 伐採された木々の切り口は鋭く、一目で愁斗は蘭魔の仕業だとわかった。
 邪魔なのものは排除する。一切の迷いも無く、ただ一直線に目的地へと向かっているようだ。
「この先に母さんがいるのか?」
 漆黒のドレスの背に向かって声をかけた。
「ずっと先じゃ。この先にあるのは〈裁きの門〉、一足先に蘭魔が着いておると思うが、あの〈門〉を召喚できるのは今やワルキューレのみ。シオンもワルキューレの一人じゃ」
「ワルキューレ?」
「〈光の子〉直属の精鋭部隊じゃな。先ほど会ったベルゼブブは〈闇の子〉の配下であるヴァーツの一柱じゃ。ヴァーツは一筋縄ではいかぬ者たちの寄せ集めに過ぎぬのでな、組織というよりは〈闇〉に属する者の中で、力ある七柱をそう呼んでいるに過ぎぬ」
「リリスと呼ばれていたな?」
「ヴァーツにおいては、そう呼ばれておる。リンボウに堕とされる前の名じゃ」
 気配がした。
 まだ目で確認できぬほど遠いが、鬼気が迫っている。
 何者かが激しい戦闘をしているのだ。
 セーフィエルの移動速度が上がり、愁斗は全速力で駆けた。
 原生林のほぼ中心に位置するその場所は、人工的に手が加えられたように土地が開け、大地には巨大な魔法陣が描かれていた。
 宙を舞う赤黒い魔鳥のような影。
 それに対峙する黒馬に跨り赤黒い筋骨隆々な肉体を持つ髑髏の王。
 蘭魔と〈死〉が激闘していた。
 牙を剥く闇色の妖糸を軽くあしらう蠍の鞭。
 踏み込もうした蘭魔が慌てて飛び退く。
 白い仮面が割れた。鞭を完全に躱し切れなかったのだ。見たところ蘭魔が押されているようだった。
 蘭魔が愁斗たちを一瞥する。
 息子の面影を持つ顔立ちだが、母に似た中性的な愁斗に比べ、逞しく精悍な顔つきをしている。歳を取っていないのか、見た目は二〇代前半で時を止めている。
 すぐにでも愁斗は飛び出したかったが、気持ちはあるものの何をするべきか迷い足が前へ出ない。
 打って変わってセーフィエルは傍観の様相だ。
「蘭魔は手強い。じゃが、この世界において〈死〉は本来の力を発揮しおる。傀儡師の召喚は、術者の技量によって何倍もの力を発揮するが、あちらの世界に召喚された時点で本来の力は発揮できておらぬ。こちらの世界で一〇とするなら、あちらの世界では一。一を二倍、三倍としたところで、微々たるものじゃ」
「それに父はこの世界では召喚を使えないのでは?」
 セーフィエルは微笑んだ。
「ほう、傀儡師が召喚で呼んでいるモノの正体に気付いたか。使えぬということはないが、多くはこの世界の住人じゃな」
 蘭魔は妖糸を足場にして飛翔するように戦い、妖糸の連撃を〈死〉に浴びせている。その攻撃の多くが一箇所に集中していることに愁斗は気付いた。
 愁斗の視線を見てセーフィエルは察した。
「蘭魔が押されている要因は単純な力の差だけ出ない。滅びていない〈死〉の手が欲しいのじゃ」
 いつだったか蘭魔が語っていた。
 ――〈死〉から奪ったその手が〈タルタロス〉に続く〈門〉を開く〈鍵〉となる。
 愁斗は驚いて声も出せず目を丸くした。背後に気配がする。一瞬にしてセーフィエルが背に立っていたのだ。
 耳元でセーフィエルが囁く。
「〈裁きの門〉を召喚できるのはワルキューレのみ。と、妾以外は思っておる。〈裁きの門〉を創ったのは妾じゃ、聖戦のあとに〈裁きの門〉を召喚できるのはワルキューレのみとしたが、実際にはその血を引く者でも召喚することができる――つまり、お主じゃ」
 セーフィエルは愁斗の腕を掴んだ。
「魔法陣は妾が描く、お主は妖糸を出すがよい」
 導かれるままに巨大な魔法陣が描かれ、異様な魔気が充満していく。
 その気配に気付いた蘭魔と〈死〉は動きを止めた。
 先に動いたのは〈死〉だ。愁斗に向かって槍を投げる。
 神速で放たれた蘭魔の妖糸が槍を弾いた。
 魔法陣が淡い光を放つ。
 大空が灰色に染まり、轟々と雲海を翔る稲妻。
 空を見上げ息を呑む愁斗。
 蘭魔とセーフィエルは微笑んでいた。
 巨大な門が曇の中から降りてくる。
 強烈な威圧感。
 その姿は傀儡館に飾られていた門と同じ。
 かの彫刻家オーギュスト・ロダンが、ダンテの神曲に触発されて創り出した地獄の門に似ているが、それよりも不気味で禍々しい。
 門に同化して取り込まれた異形たちが、今も生きてもがき苦しんでいる。
 絶叫がきこえる。号泣がきこえる。絶望的な呻き声がきこえる。
 怨念が躰を刺す冷たい風となって吹き荒れる。
 〈死〉は黒馬を嘶かせ天を駆け、〈裁きの門〉の前に鎮座した。
 静かな黒瞳でセーフィエルは天を見据えている。
「門番は絶対に〈鍵〉を渡さぬ。たとえ〈光の子〉の勅令があってもな。さて、如何様にして〈門〉を開くか?」
 難儀な顔は一切してない。妖女は微笑んでいる。
「俺様ならできるんだろう?」
 青年の声がした。
 歩いてくる人影に愁斗は怒りの目を向けた。
「生きていたのか」
「屍人に死なないぜ」
 小馬鹿にした笑みで麗慈は言った。
 威風堂々とした足取りで蘭魔が近づいてきた。
「やはりな。シュドラの内蔵をすべて掻っ捌いてやったが、手が見つからなかった。その手を使って〈門〉を開くのだ」
「ハァ? なんで俺様がそんなことしなきゃならないんだよ」
「それがお前の価値だからだ」
 蘭魔が妖糸を放つ。
 すぐさま麗慈は対抗しようとしたが、真っ先に腕が拘束されてしまった。
「クソッ……なにするつもりだよ!」
「役目を果たせ」
 操り糸によって麗慈の躰が天高く飛ばされた。妖糸が物理法則に従うなどというのは、魔人である蘭魔には無効であった。魔導を帯びた妖糸は思うがままに操ることができる。
 〈裁きの門〉に向かって飛翔する麗慈の前に〈死〉が立ち塞がる。蘭魔は麗慈を操り妖糸を放とうとしたのだが、急に顔が曇った。
「糸が切れた」
 操り糸が切れたのだ。いや、切られたのだろう。
 麗慈が自ら解放したのか?
 セーフィエルは傍観しており、愁斗とも空を見上げたまま動いていない。
 糸が切れたと気づいているのは、糸を握っていた蘭魔のみ。
 なにが起きた?
 紅い眼を燃やし〈死〉が蠍の鞭を振るおうと腕を振り上げた。
 誰ともわからぬ少年らしき声がする。
「もうちょっとなんだから邪魔するなよ」
 聞き取れた者は〈死〉とセーフィエルのみ。
 訝しげな表情でセーフィエルは麗慈を直視している。
「微かに彼奴の気配がした。彼奴も裏で動いておったか」
 〈死〉は動けなかった。
 畏怖である。
 何者かの気配を感じて畏怖したのだ。
 麗慈は〈死〉の横を掠め、巨大な〈裁きの門〉の扉に、異形の手で軽く触れた。
 重々しい扉が金切り声で叫びながら静かに開く。
 〈死〉の躰が硬化して色褪せていく。滅びが訪れようとしていた。
 筋骨隆々だった肉体は干からびて痩せ細り、骨と皮となり皹が全身に奔り砕けていく。
 天に突風が吹き荒れた。
 灰が塵と化し、黒馬だけがその場に残された。
 蘭魔が妖糸を足場にして天を翔る。その腕には傀儡紫苑が抱きかかえられていた。
 取り残された愁斗はセーフィエルを見つめた。
「お主は飛べぬのか? 〈門〉は召喚され、扉は開かれた。ここで待って居れ」
 宙にふわりと浮かんだセーフィエルは、愁斗と置いて加速して口を開いた〈門〉に向かって行った。
 ここまで来て引き返すわけにも、待っているわけにもいかない。
 まず辺りを見回した愁斗は、顔を上げてそれを見つけた。天翔る黒馬だ。
 操り糸を放ち黒馬を捕らえる。
 激く嘶き抵抗する暴れ馬に引きずられて、愁斗は躰を打ちつけられながら地面を右往左往する。
「いうことを聞け!」
 手綱を力強く引く。
 黒馬が天から落ち地面に叩きつけられた。
 さらに愁斗は妖糸を放って黒馬の四肢を拘束した。
「片手だけじゃ妖糸もろくに扱えない」
 強烈な痛みがする失われた手首を見つめる。
 それでも愁斗は妖糸によって黒馬を手中に収めた。
 動きは静かになったが鼻息の荒い黒馬に跨る。
「走れ」
 黒馬は前脚を高く上げて愁斗を振り落とそうとする。
「まだ抵抗するのか! 急いでるんだ、いうことを聞け!」
 無理矢理に操り糸を操り黒馬を走らせる。
 猛スピードで黒馬が天を翔る。
 だが、〈裁きの門〉が近づくにつれて黒馬の足が強ばり動きが鈍くなってきた。
「怖いのか?」
 強烈な威圧感。
 あの門の奥にどんな世界が広がっているのか?
 愁斗は手綱を強く握り締めた。

 天は赤く燃える曇に覆われ、赤い大地はどこまで荒れ果て、強酸と噴煙が地面から噴き出している。
 荒れ果てた死都の先にあった世界は地獄であった。
 大量の蟲たちが群れを成して空を飛び、底なしの裂け目から目玉のついた触手が伸びている。
 岩陰からは骨を砕き血を啜り肉を喰らう咀嚼音。
 遠くからきこえる咆哮は冷たい死の風を運んでくる。
 硫酸の河を越え、溶岩が噴き出す山々を越え、前が見えぬほどの猛吹雪を抜けると、氷河が広がっていた。
 最深部にセーフィエルが到着したときには、すでに人影が待っていた。
 麗慈の顔を持ちながら、無邪気で無垢な表情をする者。
「遅かったねセーフィエル」
 少年のような中性的な声だった。
「〈闇の子〉の偽物じゃな」
「ダーク・ファントムと呼ばれているね。名乗ったことはないけど。そっちも本物じゃないみたいだけど、どうしたのさ?」
「妾も今は偽物じゃ」
「なるほどね。さて、問題はこの〈タルタロスの門〉を開く方法だけど」
 二人の眼前には巨大な門が聳えていた。〈裁きの門〉と違って、質素な金属製の門である。
 ダーク・ファントムは門を軽く拳でノックする。
「ここまで辿り着くのは二回目だね。相変わらずあの子たちは守りが脆弱だよね」
「ふむ、この世界では二回目とな」
「この世界?」
「妾の本体は時間と場所を超越しておる。貴女の知る妾とは違う存在じゃ。〈光の子〉らに邪魔されずにここまで来られたのも、違う世界の介入だったからじゃ」
「これは決められた未来への予定調和といことかい?」
「否、新たな時間軸が生まれた故、まだ妾も知らぬ世界になる」
「それは愉しげだね」
 二人が会話をしていると、傷だらけになった蘭魔が足を引きずりながらやってきた。
「これが〈タルタロスの門〉か、この先に紫苑がいるのだな」
「まず一つの目の鍵だ」
 ダーク・ファントムが呟いた。
「鍵とは私のことか?」
 尋ねる蘭魔にセーフィエルが頷いた。
「そうじゃ、〈タルタロスの門〉を開くことができるのは人間のみ。リンボウで生まれた種族である人間だけじゃ。その人間が二人必要なのじゃが、妾のこの躰の持ち主はすでに人間ではない。そこにおる者も人間ではない」
「ウソをつくなよセーフィエル。人間は三人必要だ、そうやって前回はアタシをハメたんだ」
「ほう、妾は時間軸と空間が混雑しておるのでな、以前の出来事をよく覚えておらぬ」
「〈ヨムルンガルド結界〉の主である人間と結託してアタシを除け者にしたんだ。次に会ったときはお前に仕返しをしてやろうと思ってたんだけど、今は忘れてあげるから、変なマネはするな、我が娘よ」
「妾たちがやってきた世界は、帝都エデンも存在しない。故に〈ヨムルンガルド結界〉も存在しない、その主である雪兎は別の人生を送り〈聖柩〉の楔となってもいない。雪兎が楔となり、その楔が綻びたためにシオンは二度目の楔となった――筈なのじゃが、あちらの世界では雪兎が楔になってすらおらぬのに、シオンは二度目の楔となった。我が父よ、貴女はどの世界の存在なのじゃ?」
 質問をぶつけられたダーク・ファントムは唖然とした。
「なにを言ってるんだい?」
「正史から派生したいくつもの時間軸は、本来なら存在しない筈のものじゃ。派生を繰り返し広がる時間軸は、やがて運命という引力によって正史に戻ろうとする強引な力が働く。そこで世界に辻褄が合わなくなりはじめ、強引な史実が生まれることになる。全世界の改変じゃ」
「だからなにを言っているんだい?」
「今回の事変に関わる者は、時間軸の外に片脚を突っ込んで居るということじゃ。故に貴女の記憶と世界の記憶に相違が生まれた。この先にいる娘はその時間軸の娘なのかわからぬが、娘である以上は解放するのみ」
 蘭魔は深く頷いた。
「そうだ、妻を取り戻せればそれでいい」
 傍らに傀儡紫苑が佇んでいる。
 耳障りな羽音がきこえる。
 全長が人間の大人ほどある羽蟲の群れ追われながら、黒馬に乗った愁斗はやってきた。
 急に蟲たちが蜘蛛の子を散らしたように逃げ出す。黒馬も急に荒立って愁斗を振り落とした。
 愉しげに笑っているダーク・ファントム。
「二つ目の鍵だ」
 蘭魔が妖糸で網のクッションを作り、地面に激突しそうになった愁斗を受け止めた。
 〈タルタロスの門〉を開くためには人間が三人必要である。
 もう一人を今から連れてくるのは無理だろう。ダーク・ファントムは考えがありそうなセーフィエルに顔を向けた。
「当然あるんだよね、開ける方法?」
「妾を合わせて三人じゃ」
「ウソをついたのか?」
「そうじゃ、記憶が混在しておってな、一度目のような気がしておった。この躰の持ち主は心臓こそ仮初めじゃが、未だ人間以外の者にはなっておらぬ」
「お前の叛逆は咎める気にもならない。アタシに似たのだと諦め赦すことにした。ちゃんと子供を赦すところが、傲慢で陰湿な××××とは違うだろう?」
 名前はうまく聞き取れなかった。
 セーフィエルは愁斗と蘭魔に顔を向けた。
「待てというても来るだろうと思うておうた。〈扉〉を開く方法は簡単じゃ、開けと念じるだけでよい。三人が同時に承認するのじゃ」
 まずセーフィエルは扉と向かい合った。
 続いて蘭魔と愁斗。
 質素な門がぎしぎしと軋みながら開きはじめた。
 極寒の風が吹き込んでくる。
 空気が凍り結晶が煌めく。
 セーフィエルは魔導による防壁をつくり、皆の躰を凍結から防いだ。
 〈裁きの門〉とは違い呆気なく扉は開かれた。
 その先はほかの扉と同様に中を見通すことはできぬ闇。
 スキップをしながらダーク・ファントムが中に飛び込んだ。
 セーフィエルが両手を二人に差し出した。
「中は光すらも灯らぬ闇じゃ。妾の手を掴み放さぬことじゃ」
 三人も中に続いた。
 大地も空もない闇である。
 〈ハザマ〉に似ているが、そこよりも方向感覚が狂わされる。
 セーフィエルの手を握って歩いている愁斗は、前に進んでいたかと思ったら、そのまま来た道に踵を返すような感覚に陥った。
 闇の中でダーク・ファントムの声がする。
「ほら、すぐそこにアタシがいるよ」
 視覚では確認できない。
 淡い光が灯った。
 この世界で唯一の輝きだった。
 淡く輝き透き通ったホログラムのような人影が、柩の上に浮かんでいた。
 柔らかそうな羽根の生えた翼を持つ高潔そうな女。顔は愁斗によく似ていた。傀儡紫苑とは瓜二つである。
《いつかは誰かが来ると思っていましたが、まさかこのような形とは思いませんでした》
 脳に直接響く優しげだが芯の強い声音。
 悲しげな表情でシオンは三人を順番に見つめた。
《お母様はなぜ愚かなことをするのです? 蘭魔さん、私はあなたを今でも愛しています。あなたもそうなら、ここから立ち去っていただけませんか? 愁斗、一目であなたが愛しい子だとわかりました。しかし、ここはあなたの来るべき場所ではありません。私はあなたを抱きしめてあげることもできないのだから》
 蘭魔が紫苑を傍らに携えながら前へ一歩出た。
「紫苑の魂をこの傀儡に移す。それですべては元通りだ、平穏な世界が取り戻せる!」
《私が蘭魔さんの元を去ったあと、あなたになにがあったのか知りません。けれど、今のあなたは明らかに道を誤っています。母にそそのかされたのですか?》
「ふふふっ、妾はそそのかしてなどおらぬ。家族を救いたいという行動原理は当然じゃろう。着いてきた孫も同じじゃろうて」
 顔を向けられた愁斗は悲しげで苦しそうな顔をしていた。
「母さんが戻ってきてくれることは嬉しいことだと思ってた。けど、その母さんの表情を見ていたら……」
《私の気持ちを理解してくれるのは、我が子だけなのですね》
 沈痛な面持ちでシオンは俯いた。
 ダーク・ファントムがパンパンパンと手を叩いた。
「はいはいはい、キミたち家族水入らずのとこ悪いんだけどさぁ。アタシはアタシが復活できればいいワケ」
 柩に巻かれている鎖にダーク・ファントムは手を掛けた。
《やめなさい!》
 シオンの叫びと共にダーク・ファントムが後方に吹っ飛んだ。
「くっ……偽りの躰とはいえ、アタシじゃ触れられない。人の子よ、妻を取り戻したいのだろう!」
 いわれるまでもない。蘭魔は妖糸で鎖を切り裂いた。
 幻影のシオンが消える。
 セーフィエルは傀儡紫苑を抱きかかえて、その中から無色の〈ジュエル〉を取り出した。
「魂[アニマ]は新たな器へ。輝ける〈ジュエル〉となりて黄泉返るのじゃ!」
 無色だった〈ジュエル〉に色が差しはじめる。
 優しく慈悲深い紅紫色に輝いた〈ジュエル〉が、セーフィエルの手によって傀儡の心の臓を収める場所へ。
 傀儡紫苑の頬が色づく。
 瞳に宿る光。
 傀儡は表情を得て、心を持つ者となった。
 彼女は哀しげだった。
「まだ遅くはありません。柩はまだ開いてはいないのです」
 蘭魔の目的はシオンの解放である。鎖を断ち切った時点でシオンは楔としての役目から解かれた。
「そこまでやっといて開けないつもりかい?」
 ダーク・ファントムは苛立つ口調でさらに続ける。
「シオンという枷がなくなった今、アタシの思念体はいくらでも外に出て暴れ回ることはできるよ。完全復活だってすぐさ。でもね、今目の前にチャンスがあるっていうのに、手をこまねいて見てるだけっていうのは腹が立つ。開けろよ、さっさと!」
 世界が急に灰色に染まった。
 天から舞い降りる九つの輝き。
 ダーク・ファントムが歯軋りをする。
「我が半身め、ワルキューレを引き連れてやってくるとは!」
 その場に抜け落ちた白い羽根を残し、白銀の甲冑を着た槍遣いの女は、刹那に移動してダーク・ファントムを串刺しにしていた。
 口から闇色の液体を吐きながらダーク・ファントムは嗤った。
「さすが特攻隊長のフィンフ。アタシですら初手は躱せなかった」
 魔弾の雨がダーク・ファントムの躰を穴だらけにした。ニ丁拳銃を構えている短髪で長身の女もまた翼を持つ。
 さらにダーク・ファントムは大剣によって真っ二つにされた。
 その柄を握っているのは軍人のようなベレー帽を被った女戦士だった。彼女の翼はほかの者よりも、美しく黄金に輝いている。
「ミカエルよ、アタシはお前のことが一番嫌いだ。熱血すぎるんだよ」
「その名で呼ぶな、私はアインだ」
 さらに大剣で薙がれ、ダーク・ファントムは十字に斬られ、泥のようになって落ちた。
 渾然と輝く六枚の翼を持つ少女は、あまりの輝きで顔を見ることができない。
「ヤツの思念体は消えた。さあ、再び〈聖柩〉を封印するよ」
 輝ける少女の言葉に応じてシオンが前へ出る。
 だが、蘭魔はそれを押し退けて前へ出た。
「断る」
 素早く動いた蘭魔は一気に柩の蓋を投げるように開けた。
「ぐあああああああっ!」
 柩の中から飛び出した〈闇の塊〉が蘭魔の体内を蝕む。
 漆黒に輝く六枚の翼。
 蘭魔の背から生えた翼が世界を覆うように広がり続ける。
 灰色だった世界が闇に染まっていく。
 フィンフが光速で攻撃を繰り出そうとした。
 が、蘭魔の長く伸びた髪が〈闇〉となりフィンフの腹を貫いていた。
 無邪気の少女の声で蘭魔が笑う。
「アハハ、光と影、どちらが早いか? 答え、影は光と共に移動する」
 もはや蘭魔にあらず、〈闇の子〉であった。
 雨のような魔弾をすべて指ではじき返す〈闇の子〉は、頭上から降り注ぐ大剣の強撃を残る片手で受け止め、さらに潰すように刃をへし折った。
 ダーク・ファントムの背後に忍び寄っていた人影が、両手に装着した鉤爪で裂くように漆黒の翼を切り刻んだ。つもりだった。
「アタシがそこにいるといつから錯覚してたのかな?」
 背中から血を噴き倒れたのはアインだった。
 巨大な機械のアームを両手に装着した白衣の小柄な少女がダーク・ファントムに殴りかかる。
「援護だアハト!」
「イエス、マスター」
 己の身長よりも遙かに長い銃身を持つ巨大な八八ミリ砲を肩に担ぐその者は、全身が機械で覆われているいるようだった。
 大きく振りかぶった機械のパンチはダーク・ファントムに躱されたが、八八ミリの魔導砲は直撃を喰らわせた。
 硝煙の中から声がする。
「痛いじゃないか」
 腹に穴を開けた〈闇の子〉だったが、すぐに修復してしまった。
 白銀の鎖が鞭のように放たれ〈闇の子〉の首に巻きついた。
 再び白衣の少女が殴りかかり、忍んでいた人影が鉤爪を振り下ろした。
 漆黒の翼が襲ってきた二人を薙ぎ払い、長く伸びた〈闇〉の髪が地面に倒れた二人を突き刺した。
 鎖を握っている女が声を荒げる。
「まだですか!」
 視線は上空。
 モノクルをかけた左右非対称の翼を持つ法衣姿の女。純白の白い翼と、漆黒の蝙蝠のような翼が大きく開かれた。
「極大魔法、ソフィアジャッジメント!」
 高く掲げられた杖が光を放ち、天から鐘の音ともに光の弾が雨のように降り注ぐ。
 光の弾は〈闇の子〉の躰を貫通しただけでなく、傷口から閃光を発しながら爆発した。さらに敵味方関係なく降り注ぐ光の弾は、地面で倒れていたワルキューレたちの傷をたちまちに治したのだ。
 躰中に穴を開けられ、蜂の巣にされた〈闇の子〉は思わず膝を突く。光の弾の傷は治りが遅かった。
 そこへフィンフが槍を投げた。
「グングニール!」
 誘導弾のように飛ぶ槍は〈闇の子〉の胸を背中から射貫いた。
 無邪気に笑う少女の声。
「きゃははは、キミたちと遊ぶのは本当に楽しいよ」
 槍を両手でしっかりと掴みながら〈闇の子〉は立ち上がった。
「グングニールは標的を絶対に外さない。そして、自動で投げた者の元に帰っていくんだよね。このまま引き寄せてみる?」
 槍は胸に刺さったまま握られている。
「それがお望みなら!」
 フィンフは槍を素早く引き寄せた。だが、槍が持ち主の元へ戻る間に立ちはだかる白衣の少女。
「喰らえミョルニル!」
 灼熱で赤くなった金属アームから繰り出される強烈な拳が〈闇の子〉を殴り飛ばした。
 さらに躰を半壊させながら後方に飛ばされた〈闇の子〉を大剣が一刀両断した。
 躰を半分にされながら、〈闇の子〉は愉快に笑っていた。
 笑顔の眉間や開かれた口に魔弾が乱射され、下半身は魔導砲によって吹き飛ばされた。
 吹き飛んでそこら中に散らばった四肢には人影が杭を打ち込み固定した。
 〈闇の子〉はすでに頭部を再生していた。
「あと何百時間くらい続ける?」
「もう終わりにします」
 シオンが手で〈闇の子〉の口を塞いだ。
 再生が止まった。
 それも束の間であった。
 〈闇の子〉がシオンの手を噛み千切ったのだ。
 仰け反りながらシオンが身を引き、〈闇の子〉は何事もなかったように立ち上がった。
「キミの能力が一番厄介だ。触れたものに死をもたらす。正確には急激に老化させる能力だよね。普通の生物なら刹那のうちに死ぬから、老化とか関係ないけど。アタシの場合は死と再生が拮抗して再生が止まったようになる」
 杭を打たれ散らばっている四肢を〈闇の子〉は見た。
「キミの細胞が練り込んである杭だね。ああやって少しずつアタシの躰を千切っていく気?」
 〈闇の子〉は髪の毛を鎌にしてシオンに振り下ろした。
 が、刃がシオンの首にかかる寸前、震えながら止まったのだ。
 わずかに〈闇の子〉の顔が強ばった。
「人間とは思えない精神力……抵抗しているのかな?」
 〈闇の子〉は躰を動かそうとするが、震えるだけで足を一歩前へ出すこともできない。
 冷や汗を流しながら愁斗がシオンに駆け寄って肩を抱いた。
「母さん、逃げよう」
「ごめんなさい」
 シオンは愁斗を優しく抱きしめ包み込んだ。
「母さん」
 息子の顔をまっすぐに見つめ、シオンは凜と立ち上がった。
「封印するまでは終われない」
 〈闇の子〉は溜め息を落とした。
「封印なんてものは意味がないんだよ。ちょっと一眠りするに過ぎないし。それに、この戦いだって永遠に決着がつかない。そもそもアタシが滅びれば半身だって滅びるだけだしさ」
 〈闇の子〉から出でし地を這う〈闇〉がワルキューレたちを捉え制圧した。
「本気を出せば瞬きしてる間に終わるんだ」
 四肢を拘束され、口を塞がれたワルキューレたちは、抵抗もできず地に磔にされてしまったのだ。
 しかし、その中で拘束できぬ者たちがいた。
 〈闇〉を切り裂く愁斗の妖糸。そして、愁斗に守られるシオンであった。
 〈闇の子〉の髪が槍となって愁斗を突き刺そうと迫ったが、妖糸と激突するや弾け飛んでしまた。
「なるほどね、厄介な武器だ。ワルキューレたちの〈光〉じゃアタシには勝てない。けど、〈闇〉同士なら相殺してしまう。水に水を混ぜても水だけど、水鉄砲と滝だったらどっちが勝つかな?」
 漆黒の翼が世界を覆う。
 辺りの全てを〈闇〉で呑み込むつもりだった。
 だが、空は燦然と輝いていた。
「ねえ我が半身よ、再び眠ってはくれない?」
 戦いを上空から見守っていた金色の少女が諭すように口を開けた。
 〈闇の子〉は顎をしゃくって不満そうな顔をした。
「イヤだ。そろそろそっちが封印されてくれないかなぁ?」
「世界は急激な変化を求めてない」
「はじめは急激な変化と思えるかもしれない。けどさ、〈光〉が世界を支配しても、〈闇〉が世界を支配しても、時間が経てば今と同じになるってことぐらい知ってるよね? 知っててアタシと交代しないのは、お前が傲慢なだけだ」
「それが悪い?」
 金色の少女が急降下しながら、一二の翼を模った中心で宝玉が輝くロッドから稲妻を落とした。
 〈闇の子〉は稲妻を軽く振り払って打ち返すと、落ちていた大剣を拾い上げてから、地を蹴り上げ飛翔した。
「義体じゃ相手にならない」
 ロッドを振り下ろそうとしていた金色の少女の胴体が真っ二つにされた。
 硬く重い音を立てながら金色の少女の残骸が地面に激突した。その切断面から内部が金属製の作り物だとわかった。
 転がる残骸の頭部を目掛けて〈闇の子〉は蹴りを放った。
 びくともしなかった。
「これだけ硬くて重い物体をよく斬ったよね。アインがスゴイんじゃくて剣がスゴイんだね」
 大剣を投げ捨てて〈闇の子〉は愁斗たちに近づいた。
「あのさ、アタシはしばらく身を隠そうと思うんだ。半身にちょっかい出されるのもめんどくさいし。あとね、将来的にめんどくさいことになりそうなキミたちも殺しておこうと思うわけ」
 にじり寄る〈闇の子〉はふと足を止めた。愁斗が天に向かって手を動かしていたからだ。
 宙に描かれた奇怪な魔法陣が輝き出す。
 〈それ〉は愁斗の合図を待たずして、魔法陣を突き破って巨大な手が伸び〈闇の子〉を鷲掴みにした。
「我が眷属じゃない……お前は!?」
 子供が癇癪を起こしたように、巨大な手は何度も〈闇の子〉を地面に叩きつける。
 〈闇の子〉から硝子片が飛び散るように〈闇〉が剥がれる。
「やめろ、放せ!」
 魔法陣から出てきた残りの手が〈闇の子〉の頭部を握りもぎ取った。
 ぐちゃり。
 不気味な音を立てて巨大な手の中で何かが潰された。
 放り投げられた残りは、足から地面に着地して、瞬時に頭部を生やした。
「痛みはあるんだよ?」
 〈闇の子〉は近くにあった槍を拾って投げた。
「行け、グングニール!」
 槍は巨大な手のひらを貫き、もう片方の手の小指を斬り飛ばした。
 傷口から〈灰〉を噴き出しながら両手が魔法陣へ還っていく。
 〈闇の子〉が無邪気に微笑む。
「もっと遊ぼうよ、〈混沌〉ちゃん。なんなら混沌王が相手でもいいよ。あー、還っちゃうわけ?」
 魔法陣が消えた。
 再び〈闇の子〉がにじり寄ってくる。
「次はなにして遊ぼうか?」
「……っ」
 愁斗は大量の汗を流した。
 勝てる気がしないのだ。
「逃げる方法は思いついた?」
 尋ねる〈闇の子〉は余裕だった。
 再び愁斗は魔法陣を描いた。
 その魔方陣はまるで巨大な網のようであった。いや、それは巣であった。
 〈それ〉は汚らしい嗚咽を漏らし、この世に巨大な蜘蛛の怪物を生み出した。
 愁斗が呟く。
「すまない」
 巨大な蜘蛛は糸を吐き出し〈闇の子〉を簀巻きにした。
 愁斗がシオンの手を取る。
「今は逃げよう!」
 だが、それを無理だった。躰を糸で巻かれた程度で〈闇の子〉の自由は奪えない。
 〈闇の子〉の長く伸びた髪が矢のように放たれ大蜘蛛は六つの眼を射貫かれ絶叫した。まるでそれは女の叫び声だった。
 蜘蛛の糸を引き千切って〈闇の子〉は脱出すると、大蜘蛛だった者の正体を見た。目から血を流しのたうち回っている和装の女。それはかつて愁斗と契約を交わしたお紗代という蜘蛛の化身であった。
「無駄な抵抗をするからイケナイんだよ?」
 するなと言っているのではない。逆に抵抗されることを楽しんでいるようだった。
 しかし、抵抗しようにも愁斗は手詰まりだった。
 シオンが愁斗を押し退けて前へ出た。
「愁斗は逃げなさい。私が時間を稼ぎます」
「時間を稼げると思ってるわけ?」
 挑発する〈闇の子〉の頭上で声がする。
「もう十二分に稼いだぞ」
 玲瓏たる声音。
 空に浮かぶ月のような微笑み。しばらく姿が見えなかったセーフィエルだった。
 そして、月には太陽が寄り添っていた。
 燦然と輝く六枚の翼からフレアを放出させる成熟した女。顔は輝きでよく見えない。
 〈闇の子〉はにっこりと笑った。
「寝坊かな?」
「目覚めてからここに来るまでに時間がかかった」
 凜と気高い声で女は答えた。
 天は輝き澄み渡り、地は暗く沈んだ。
 シオンは愁斗を抱きしめた。
「二つの存在がぶつかり合えば世界に大きな爪痕を残すことになります。私たちも衝撃の余波で消滅するかもしれません。だから、最期に……」
 涙を浮かべるシオンは愁斗の頬に手を当てて、優しく優しく声を出そうとした。
「あ…い……」
 〈光〉と〈闇〉が激突した。

 運命の糸が縺れ合う。
 夢幻の世界を漂っていた愁斗は糸を掴んだ。
 糸を手繰り寄せながら、運命を探す。
 〈光〉と〈闇〉の激突。
 灼熱のマグマに転落した撫子の映像がリフレインする。
 集中治療室で意識を失ったまま石化した亜季菜も視えた。
 白蛇の隼人と復讐の炎に身を包んだ麻耶。多くの傷痕を残した。二人の記憶を消してしまうことは容易いが、愁斗の罪悪感は消えることがない。
 いつもの日常。学園の教室で、××が笑いかけてきたが、顔はのっぺらぼうで、だれだかわからない。
 世界に変化が訪れた事件。多くに人々が龍神を目にした。首謀者の一人だった真珠姫は歪んだ表情で呪詛を吐き捨てながら〈向う側〉へ連れ去られた。
 紫苑に向けられたリボルバーの銃口。ヴァージニアが撃った怨霊呪弾が泣き叫ぶ。あの事件以降、彼女の噂を耳にしない。
 腕から流れる血を瀕死の海男に傷口に塗り込む瑠璃だったが、命を救うことはできなかった。残された伸彦に愁斗は嘘をついた。愁斗がついた初めての心ある嘘だった。
 蒼白い顔をしたお紗代の命は尽きようしていた。だが、彼女は愁斗と契約を交わすことで傀儡となる運命を選んだ。彼女の想いを愁斗は利用した。
 組織は自分よりも年下の少年を送り込んできたこともあった。あのころの愁斗は人の心がまだよくわからなかった。冷酷な傀儡師は、なんの罪もないいたいけな同級生をも殺した。
 人の心を知りたかった。そのためには人の生死など構わなかった。狂科学者の実験と同じだ。女子中学生たちを操り、愛、復讐、恐怖など様々な感情を観察した。〈ジュエル法〉の実験も重ねていった。
 母の墓前に××を連れて行った。唇に残る感触。顔がよく思い出せない。
 未完成の城は少年の象徴。彪彦によって沙織は雪夜に抱いた気持ちも消されてしまった。友人達である久美と麻衣子の記憶も消された。けれど起きたことは改変できない。故に歪みはひしひしと広がっていったのだ。
 麗慈とは何度も妖糸を交え、奴は何度も何度も蘇った。なぜそこまで自分に執着するのか、愁斗には理解できなかった。最後はダーク・ファントムに乗っ取られた。いや、麗慈はとっくにいなかったのかもしれない。彼の執念だけが世界に残っていた。
「……スゴク、寒いよ……死ぬのかな……私」
 声がきこえたが、その声の持ち主はわからない。
 ただ、禁じられた契約を交わしたことだけは覚えている。
 混濁する記憶。
 愁斗は過去の出来事を思い出しながら、大切なものを忘れていった。
 今視たばかりの過去もすべて忘れてしまった。
 自分が傀儡師だったことも忘れた。
 連れ去られ組織で過ごした過酷な日々も忘れた。
 思い出そうとも思わない。はじめから覚えていないのだから、なにを忘れたことすら忘れてしまった。
 記憶の断片。
 愁斗はほかの糸を掴んで手繰り寄せる。
 その先の記憶とは?

 見開かれた愁斗の瞳に映る光景。
 リビングのテレビに映っているバラエティ番組。ついさっきまで家族の笑い声が響いていた部屋。今は母の叫び声が響いていた。
「何者なのあなたたち!」
 サングラスの女が答える。
「D∴C∴ですよ。今宵は貴女ではなく蘭魔さんに用がありまして」
「俺に用があるなら妻と息子は関係ないはずだ」
 蘭魔は手足を石化されていた。
「キャハハハ、こんな男に手こずっていただなんて、わたしとお兄様の手にかかれば楽勝だったわ」
 見たことのある女だったが愁斗は思い出せなかった。
 マントのついた魔法衣を着た兄と呼ばれた男は、傲慢な表情で腕組みをしていた。
「当たり前だ。人形遣いなどただの子供だまし」
 この男も見覚えがあったが思い出せない。
 紫苑は身構えていた。母である前に彼女はワルキューレだった。隙さえあれば事を起こすつもりだ。
 サングラスの女は首を横に振った。
「お止めなさい。お子さんの回りをよく目を凝らして見てください」
 細い細い糸が張り巡らされていた。気付いた紫苑は振り向いて叫ぶ。
「愁斗、絶対にそこから動いては駄目よ。絶対よ!」
 傀儡師の妖糸だと愁斗にはすぐわかった。いや、当時にはわからなかった。今ならわかる。
 魔法衣の男は顎をしゃくった。
「そこにおる亡霊が張った罠だ」
 部屋の片隅にボロ布を羽織った人影が立っていた。
 蘭魔が声を荒げる。
「これは傀儡師の業だ。我が一族は俺と愁斗のみ、どんな手品を使いやがった!」
「手品とは失敬な。私の召喚術で傀儡師の霊を召喚したのだ。口は聞けぬようだし、どの時代の者かもわからぬが、余興として貴公と戦わせるために喚んだのだ。なのにあっさりと捕まりおってつまらぬわ」
「お兄様ったら、それはわたしたちが強すぎたせいよ」
 間髪入れずに蘭魔が反論する。
「おいおい、まだ戦ってもないだろう。奇襲で襲われて捕まっただけだ。もう一度はっきりと言ってやるが、戦ってはない」
「キャハハハ、負け犬の遠吠えね」
 高らかに女は嘲笑った。
 注目を引くようにサングラスの女は手を何度か叩いた。
「はいはい、まだ任務の途中ですよ。おしゃべりはあとにして蘭魔さんを組織に連れ帰りますよ」
「俺をどうするつもりだ?」
「貴方の〈闇〉を使役する力と召喚術が組織に必要なのですよ」
「敵対するのをやめて仲間になれと? 断る」
「でしょうね。メディッサさん全身を石化させてください」
「ええ、悦んで」
 メディッサ?
 そう、この女は若いころのメディッサ。傍らの魔法衣を着た男はゾーラ。
 サングラスの女も見たことがある気がするが、勘違いかもしれない。
 メディッサの眼が妖しく輝き蘭魔は口を開けたまま石化してしまった。
「蘭魔さん!」
 床を蹴って蘭魔の元へ駆け寄ろうとした紫苑の目の前に、サングラスの女が立ち塞がる。紫苑は手に魔力を込めてサングラスの女の頬に触れた。
 刹那に老化して死に至るはずであった。
 だが、サングラスの女は不気味に微笑んでいる。
「義体には効果がないようですね」
 サングラスの女は手に装着していたくちばしのような鉤爪で紫苑の腹を抉った。
 傷ついた腹を両手で押さえながら、紫苑はよろめき後退る。
 愁斗は叫ぼうと思った。
「か……・」
 声が出せない。それどころか指一本動かせなかった。傍観することだけはできた。
 この世界には現実味がなかった。
 流れていくだけの映像。
「動いては駄目、なにがあっても絶対」
 けれど、母の痛みだけは伝わってきた。
 紫苑は愁斗を見つめている。
 サングラスの女は見た目に似合わぬ怪力で、いとも簡単に蘭魔を持ち上げ肩に担いだ。
「行きましょう」
「ノインと子供は始末せぬのか?」
 ゾーラが尋ねる。
「ノインさんを殺せば〈光の子〉たちが黙っていないでしょう。子供は組織に連れて帰って蘭魔さんにいうことを聞かせる人質にしましょう。そうそう、家には火を放っておいてください」
 ゾーラは顎をしゃくって傀儡師の亡霊に合図を送った。
 張り巡らせていた妖糸の罠が解かれ、傀儡師の亡霊は愁斗の腕を掴んだ。
「愁斗から手を放しなさい!」
 腹を押さえながらうずくまる紫苑の必死な叫び。
 メディッサは高笑いをしながらカーテンを引き千切り、コンロの火にかけていた。
 舞い踊るメディッサは火種を手にして、部屋のあちこちに火を点けて廻る。
「キャハハハ、美しい情熱の色だわ」
 蘭魔を担いだサングラスの女が部屋を出て行こうとしている。その後ろ姿を紫苑は見ていることしかできなかった。もし蘭魔を助けようとして、石化している躰が破壊するようなことがあったらと考えると飛びかかることもできない。
 同じく愁斗も見ているだけだった。
 愁斗は自分の小さな片手を見つめた。まだ四歳になったばかりで、妖糸を出すことすらできない。無力な子供しかないのだ。
 火の手が早い。今から消化をするのは難しいだろう。早く家の外へ逃げなければ。
 部屋から玄関に向かいながらメディッサは火と点けていった。
 ゾーラが部屋の外へ出るのに合わせて、傀儡師の亡霊も愁斗を引きずり出て行こうとする。
 静かに紫苑は腹から手を放した。
 振り返った愁斗は涙を流しながら母を見つめた。
 紫苑は飛翔していた。傀儡師の亡霊に飛びかかる寸前、ゾーラの手から鎖が放たれた。
 鎖は紫苑の首を絞め上げ、そのまま床に叩きつけた。
 床にうつ伏せになった紫苑をゾーラが見下す。
「腹の傷が浅かったか。足の一本で切り落としておくか。やれ」
 と、ゾーラは顎をしゃくって命令した。
 傀儡師の亡霊が妖糸を放とうとしている。
 愁斗は声が出なかった。
 母の足が切り落とされようとしている。
 愁斗は躰が動かせなかった。
 傀儡師の亡霊が妖糸を放った。
「母さん!」
 叫んだ愁斗の手から一筋の輝線が趨った。
 幼子の業とは思えぬ一撃は、傀儡師の亡霊が放った妖糸を切り落とし、さらにその先にいたゾーラの手首を落としたのだ。
 鎖を握っていた手が床に転がり、激昂したゾーラは腰から短剣を抜いた。
「おのれ小僧!」
 短剣の切っ先が柔らかい愁斗の腹の肉を刺し、抉るようにして突き上げられた。
 愁斗の口から鮮血の泡が零れる。
 我が子の悲惨な姿を見て、逆上した紫苑はゾーラの口を鷲掴みにした。
 眼を見開くこともなく、声をあげることもなく、ゾーラは急激に老衰で死亡すると、瞬く間に塵と化した。
 紫苑は青ざめた愁斗を膝に乗せ、腹の短剣を抜き取ると血の噴き出す傷口を力強く押さえた。
「死なないで愁斗、お願いだから……生きて……」
 温かい涙が降り注ぎ、愁斗の頬を濡らしていく。
「愁斗……しう……し……で……」
 母の声が遠く掠れていくのを愁斗は感じた。
 視界もぼやけて、世界が遠くに行ってしまいそうだった。
 母の温もりを感じる。
 とても温かい母の温もり。
 もうまぶたが重くて開けていられない。
 悲痛な母の顔。
 天井。
 そして、般若面の男がこちらを見ていた。
 ――愁斗は死んだ。

 愛する我が子を失った紫苑はワルキューレを脱退して姿を眩ませた。
 裏社会ではD∴C∴の構成員が謎の失踪を遂げるという事件が多発した。
 その中にはメディッサという幹部候補だった蛇眼使いも含まれており、それが引き金となったのか、次期首領と目されていたシュドラ派は失脚。その混乱に乗じて組織内でクーデターが起こる。
 少数派閥だった影山派が新たな組織D∴O∴T(ダーク・オブ・タルタロス)を結成。首領となったのはクーデターの際に、シュドラを殺害した深紅の悪魔と呼ばれる傀儡師だった。
 それから数年が経ったある日、東京が死んだ。
 生き残った人々は天使と悪魔の全面戦争を見たという。
 黙示録、アルマゲドン、ラグナロク。
 世界の終末だと無宗教の者たちまで神に祈りを捧げた。
 〈神〉は自衛隊を壊滅状態に追い込み、アメリカ軍にも多大な被害を与えた。
 アメリカは核弾頭を搭載したミサイルを異界と化した東京に向けて発射。
 ミサイルは東京上空で謎の〈闇〉に覆われ消失。レーダーからも完全に消えた。
 それから一時間もしないうちに、アメリカの首都ワシントンがホワイトハウスを中心に地図上から消失。死者は少なくとも六万人、一〇万人以上が犠牲になったと云われているが、アメリカの混乱により正確な数は把握できてない。
 〈神〉は中国、ロシア、EUに総攻撃を仕掛け、軍事機能を麻痺させた。
 経済、物流、人々の生活は困窮した。
 各地で強盗や殺人などの事件が多発。
 人と人が物資を奪い合い殺し合いをはじめた。
 世界は急速に混乱していく。
 〈神〉はアジアの東の果てに神の国を建国。人々からは千年王国と呼ばれることになる。
 千年王国の市民になれるのはごく一部の人間のみ。そこは悩みも苦しみもない至福の世界だと云われているが、鎖国状態にあるために実情は把握できない。
 〈神〉は建国以来、猛威をふるうことなく黙している。大戦は終結したが、世界は荒れ果てたままだ。人間同士の紛争や戦争は続いている。
 人間という存在は宇宙から見れば小さき存在である。
 四六億年もの地球の歴史を一年三六五日に換算してみると、人類の歴史など大晦日の出来事に過ぎない。宇宙から見れば刹那であろう。
 死ぬはずのなかった者がたった一人いなくなっただけのことだった。
 シオンは〈聖柩〉を封じる楔にならなかった。
 蘭魔は楔になったシオンを助けようとすることもなかった。
 息子が蘭魔と同じ道を歩むこともなかった。
 セーフィエルが叛逆することもなく、アリスが死亡することもなく、〈ジュエル〉の研究も行われない。
 〈般若面〉の姉妹が復讐人になることもなく、叔母である炎術士が姉の敵討ちをすることもなかった。
 〈般若面〉がとある傀儡師の手に渡ることもなかった。
 とある傀儡師の子である双子も産まれなかった。
 そして、愁斗が××に出逢い愛することもなかった。

 縺れ合う運命の糸。
 愁斗の手には一本のか細い糸が握られていた。
 懸命に手繰り寄せる。

 火の手が廻り、煙が辺りに立ち籠める。
 ゾーラが部屋の外へ出るのに合わせて、般若面の傀儡師も愁斗を引きずり出て行こうとする。
 静かに紫苑は腹から手を放した。
 振り返った愁斗は涙を流しながら母を見つめた。
 紫苑は飛翔していた。般若面の傀儡師に飛びかかる寸前で躰が拘束され床に叩きつけられた。不可視の妖糸で拘束されてしまったのだ。
 ゾーラが踵を返して床にうつ伏せになった紫苑を見下す。
「腹の傷が浅かったか。もっと抉ってやろう」
 うつ伏せの紫苑を転がし、仰向けにさせると、腰から抜いた短剣を高く振り上げた。
 愁斗は声が出なかった。
 母の腹が抉られようとしている。
 愁斗は躰が動かせなかった。
「母さん!」
 やっと上げた叫び声。
 しかし躰はまったく動かなかった。そう、まるで糸で拘束されてしまっているように――。
 短剣が腹の肉に突き立てられた。
 紫苑の口から黒い鮮血が吐き出された。
 さらにゾーラは短剣を掻き回すように動かした。
「このくらいやっておかねば、貴様らはすぐに回復してしまうからな」
「アアアッ……ガ……あががっ」
 声にもならないくぐもった叫び。
 紫苑は眼を白黒させて躰を小刻みに痙攣させた。
 血に河が愁斗の足下まで流れてきた。
 幼子の心に大きな傷を残す出来事。
 冷淡な表情をするゾーラの顔。
 なぜ忘れてしまっていたのだろう?
 あまりの出来事に記憶から消されてしまっていたのだろうか?
 短剣を抜いて立ち上がったゾーラは、般若の傀儡師に向かって顎をしゃくった。
「連れて来い」
 風のように立ち去るゾーラ。
 愁斗は般若面の傀儡師の手を振り払い、血の海で横たわる母の傍に膝をついた。
 言葉はかけられなかった。
 ただ涙が止めどなく零れ落ちた。
 震える紅い繊手が愁斗の頬に優しく触れた。
「泣か……ないで……このくらい……死なないわ」
「お母さん……うっ、ううっ」
 母に寄り添う愁斗を般若面の傀儡師が押し退けた。
「死んでもらわねば困るのだ」
 般若面の傀儡師は片膝をついて、その面に手をかけた。
 背後から愁斗が襲ってくる。
「うあああああああっ!」
「大人しくしていろ」
 妖糸が愁斗の四肢に巻き付き、簀巻きにされて床に倒れた。
 面を外した傀儡師と紫苑が見つめ合う。
「あなたは……そんな……」
 驚きのあまり目を丸くして紫苑は言葉を詰まらせた。
 紫苑は般若面の傀儡師の素顔になにを見たのか?
 愁斗からは背中しか見えない。
 幼き息子にしたように、紫苑は男の頬に触れた。
「あなたは……違う道を歩むと思っていたのに……」
「子供もいます。男の子と女の子の双子です」
「しあわせなの?」
「いいえ、残念ながら。ですが、未来は明るいと信じています」
「そのために戦っているのですね」
「……はい」
 俯きながら男は小さく返事をした。
 しばらくの沈黙。
 重々しい空気が流れていた。
 部屋中で炎が揺らめいている。
 先に口を開いたのは紫苑だった。
「私は死ななくてはならないのですね?」
「…………」
「そうしなければならないのでしょう?」
「……はい。ですが、肉体的な死です。魂は〈聖柩〉を封じる楔となってもらいます」
「寂しくなりますね。幼いあの子は辛い思いをするでしょう」
「想像を絶するほどに過酷な運命を辿ります。ですが、あなたとは必ずまた逢えます」
「ほかの道はないの? いいえ、あなたが信じる道ならば、わたしも信じましょう」
 紫苑は静かに瞳を閉じ、男は般若面をかぶった。
「あなたにこんなことをさせてしまって、本当にごめんなさい」
「……僕こそ」
「いいのよ、ひと思いにやって」
「……はい」
 妖糸が紫苑の胸を開き、素早く般若面男は心臓を鷲掴みにした。
 死に至る激痛。
 紫苑は強く瞳を閉じて歯を食いしばる。決して目は開けない。今はなにも見てはいけない。
 般若面の隙間から一筋の雫がこぼれ落ちた。
 心臓が引き千切られ取り出された。
 強靱な心臓を躰から引き離されても脈打ち続けている。
「ごぼ……うっ……こんな姿だけれど、幼いあの子にお別れを……いわせて」
 血の塊を吐きながら紫苑は血の気を失っていく。
 般若面の男は愁斗を拘束していた妖糸を解いた。
 すぐさま愁斗は立ち上がり紫苑の元へ駆け寄る。
「ううっ、母さん……死なないで……なんで……」
 紫苑は両手を伸ばして愁斗を力強く抱きしめた。
「……ごめんなさい……愛してる」
 真っ赤な血に染まりながら、肌はとても白く美しく、笑顔は陽の光のように優しかった。
「うああああああぁぁっ!」
 母の死に慟哭した。

 そして、傀儡師紫苑は産まれた。

 淡い光が灯った。
 この世界で唯一の輝きだった。
 淡く輝き透き通るシオンの霊体が柩の上に浮かんでいる。
《この日がくると信じていましたが、まさかこのような形になるとは思いませんでした》
 脳に直接響く優しげだが芯の強い声音。
 凜とした表情でシオンは三人を見つめた。
《お母様の目的はわかっています。ですが、蘭魔さんまで巻き込むとは……》
 蘭魔が紫苑を傍らに携えながら前へ一歩出た。
「紫苑の魂をこの傀儡に移す。それですべては元通りだ、平穏な世界が取り戻せる!」
《わたしが蘭魔さんの元を去ったあと、あなたになにがあったのか知りません。けれど、今のあなたは明らかに道を誤っています。母にそそのかされたのですか?》
「ふふふっ、妾はそそのかしてなどおらぬ。家族を救いたいという行動原理は当然じゃろう。着いてきた孫も同じじゃろうて」
 顔を向けられた愁斗は複雑な表情をしていた。
「ずっと母さんに会いたかった。けど、どの選択が正しいのかわからない」
《わたしがあなたたちの元を去った日のことを覚えていますか?》
 誰よりも前へ出て蘭魔が声を大にする。
「俺はあの日のことを悔やんでも悔やみきれない! あとになって紫苑が殺されたことを聞いた。俺にもっと力があったなら、こんなことにはならなかった。だが、力を得た今ならすべてを変えられる」
《いいえ、おそらくこうなる運命だったのだと思います。ねえ、愁斗、あの日のことを覚えていますか? あなたにとってつらい過去だったかもしれません》
「覚えています。つい先ほど、視てきたばかりです」
 この場にいた全身が神妙な面持ちで愁斗を見つめた。
 全員が押し黙った中、愁斗が話を続ける。
「おそらく、母さんを殺してこの場所に閉じ込めたのは……僕ですね?」
 蘭魔は驚きを隠せず愁斗の両肩をつかんで揺さぶった。
「本当なのか愁斗!」
「はい……今の僕ではありませんが」
《ええ、今よりも成長した未来の愁斗です》
 妖女の含み笑いが響き渡る。
「ふふふっ、思ったとおりじゃ。今や世界の外に属する妾の感じた違和感はそれなのじゃな。この世界は改変されたのじゃ。新たな時間軸が産まれたのじゃ」
 青年も嗤っていた。
「ククククッ、なんとなーくだが理解したぜ。何かかが可笑しいと思ってたんだ。俺様にとってこのシーンは二回目だ。一回目は躰を乗っ取られてて視てるだけだったがな」
 驚いた愁斗はすぐさま身構えた。
「麗慈、お前は麗慈なのか!」
「可笑しなことをいうなよ、俺様はずっと俺様だぜ。ちょっと席を外してただけだ」
 麗慈は愁斗の首に目掛けて妖糸を放った。すぐさま愁斗がそれを相殺したと同時に、別の方向からも妖糸が放たれていた。
「ぐわっ!」
 麗慈の異形の手が刎ねられた。妖糸を人物を麗慈は睨みつける。
「二対一の弱い者イジメかよ?」
 別方向からの妖糸は蘭魔が放ったものだった。
 鮮血が噴き出す手首を妖糸できつく縛り上げ止血した。
 その様子を見ていて愁斗は気付いた。
「今のお前は生身の人間なのか?」
「……そう、らしいぜ」
 世界が改変された中で麗慈はダーク・ファントムに乗っ取られなかったのだ。
 麗慈の躰は〈闇〉で構成されていない。彼が死都東京で死ななかった歴史が生まれた。今の麗慈はオリジナルといえる。
 なぜ死都東京で死ぬ歴史が改変されたのか?
 それはこの世界が〈聖戦〉の起きた世界だからだ。死都東京は〈向う側〉ではなく、〈こち
ら側〉に存在している。
 その歴史の違いを麗慈も記憶に残していた。それは彼が二回目だと言ったことからもわかる。
「前回はどうしたんだっけか。テメェのオヤジがフタを開けたんだよな。今回は俺様が開けるぜ!」
 麗慈の妖糸が柩の鎖を切り刻んだ。
 幻影のシオンが消える。
 慌てて蘭魔が傀儡紫苑を抱きかかえて、その中から無色の〈ジュエル〉を取り出した。
「魂[アニマ]は新たな器へ。輝ける〈ジュエル〉となりて黄泉返れ!」
 無色だった〈ジュエル〉に色が差しはじめる。
 優しく慈悲深い紅紫色に輝いた〈ジュエル〉が、蘭魔の手によって傀儡の心の臓を収める場所へ。
 その間に麗慈は柩の蓋に手を掛けていた。
「やめろ!」
 叫びながら愁斗が放った妖糸は軽くあしらわれ相殺された。
「テメェの嫌がることをするのが大好きなんだよ」
 〈聖柩〉が開かれる。
「さあ、俺様の肉体を憑代にしてもいいんだぜ。今度は俺様の意識が勝ってみせるけどな!」
 柩の中から暗黒が噴き出し、麗慈が遙か後方に吹っ飛ばされた。
《キミじゃ器になれないよ》
 少女の声はそう言って〈闇の塊〉はセーフィエル――翔子の〈ジュエル〉に飛び込んだ。
 漆黒のドレスはより暗く、漆黒の髪もより暗く、黒瞳は妖しく輝いた。
 そして、妖女は無邪気に笑った。
「やあ、おはよう世界」
 〈闇の子〉の背中から生えた六枚の漆黒の翼が羽根を広げた。
「セーフィエルはアタシの眷属だからね、この器を押っ取るのは簡単だったよ。それから――」
 蘭魔に顔を向け続ける。
「キミにもお礼をいわなきゃね」
「どういうことだ?」
「キミの躰の大部分は傀儡だろう。動力源のソースはアタシだ。キミは無意識下にアタシを復活させるために働いていたわけ」
「そんな馬鹿な。己の意思で紫苑を救おうとしていただけだ」
「キミがどう思おうが結果は出た。そして、最後に一働きしてもらうよ」
 〈闇の子〉の髪が長く長く伸び、槍と化して蘭魔に襲い掛かる。
 神技とも呼べる早業で蘭魔は一〇本の指から同時に鋭い妖糸を放った。
 鞭打つように一〇本も妖糸が踊り狂いながら槍を切り落とす。
 世界を闇が覆っていた。
「蘭魔さん!」
 シオンの叫びで蘭魔は空を見上げた。
 巨大な漆黒な翼が蘭魔を丸呑みにしようとしていた。
 地面を蹴り上げたシオンは蘭魔を押し飛ばそうとしたのだが、その足は急に硬直してしまった。足には妖糸が絡みついていた。
 蠢く〈闇の塊〉が蘭魔に覆い被さり呑み込んだ。
 人の形をしていた〈闇の子〉は溶けて繭と化した。
 シオンは繭に手を当てた。
「きゃっ!」
 その瞬間、電撃が奔ったように躰が痺れ、後方に吹き飛ばされた。
「母さん!」
「わたしは平気です。孵化する前に破壊しなくてはなりません!」
「はい!」
 愁斗は〝両手〟から鋭い妖糸の刃を放った。
 繭から伸びた触手が鞭のように妖糸を打ち落とす。
 さらに触手はシオンの足首に巻き付き宙に持ち上げた。
 シオンは空中で躰を曲げて足首に巻き付いた触手を鷲掴みにする。塵と化して千切れた触手。地面に落下するシオンに触手の槍が襲いかかる。
 愁斗の放った妖糸が触手の槍を切り落とした。
「ありがとう愁斗」
「大丈夫ですか?」
「ええ、けれど……間に合わなかったようです」
 鬼気迫る。
 繭の中で身の毛もよだつ怖ろしい何かが蠢き、鉤爪が天高く突き出された。
 人間を遙かに超越した存在。
 悪魔、鬼、魔神、天魔、自然災害ともされた。
 かの存在は魔王とも呼ばれた。
 繭を突き破り産まれ出るその御身。
 漆黒の鎧のような皮膚を持ち、蠍のような尾を鞭のように撓らせ、長い黒髪の間から伸びる山羊のような二本の角。
 中性的な艶麗たる尊顔に浮かぶ瞳は、此の世を焼き尽くすように紅蓮に燃えていた。
 六枚の蝙蝠のような漆黒の翼が、緞帳のように世界に幕を降ろす。
「おやすみ世界」
 玲瓏でいて妖艶たる声音。
 辺りは一瞬にして天も地も夜空となった。
「光と闇は共依存。闇の中で輝く星々は美しいと思わないか?」
 〈闇の子〉が手を振り払うと、太陽の炎を消えた。
「強すぎる光はよくない。闇が深いくらいがちょうどいい」
 鬼気が鎖となり愁斗とシオンは金縛りに遇い動けなかった。
 全速力で走ったあとのように息が切れる。
 懸命にシオンは躰を振るわせ抵抗した。
「封印しなくてはっ」
「アズラエルよ、汝一人では解き放たれた我を封じることはできぬよ。二人とて同じ」
 燃える眼光が愁斗を射貫く。
「汝も我と戦うつもりか?」
 愁斗は固い息を呑んだ。
 〈闇の子〉はさらに続ける。
「我と戦う理由がどこにある? アズラエルにはワルキューレとしての使命がある。充分な行動原理があるといえる。だが、汝は何故戦うのだ?」
「お前が……この世界の〈神〉となれば多く人々が死に、世界は混沌に陥るからだ」
 自分が死んだ未来も愁斗は幻視していた。
「神などという俗物になるつもりはない」
 強く威厳のある声音だった。どんな可笑しなことをいわれても、認めてしまいそうになる力ある声だった。それでも愁斗は視たものを曲げなかった。
「僕は視た、お前は〈神〉と呼ばれていた」
「いかような世界を視たのかは知らぬが、それは身勝手な人の子がそう呼んでいただけではないのか?」
「……なに?」
「都合の良いこと悪いこと、人の子は自分たちの都合で神を使う」
 声には落胆が含まれていた。
 夜空を舞う箒星の群れ。隕石同士がぶつかり合い、燃えたぎる星が産まれた。
「人の子は自分たちの祖先は神に創られたと信じている者がいる。神の手によって創られたとすることで、自分たちの存在を特別で崇高なものとしたいのだろう。だが、それは間違いだ」
 〈闇の子〉は傍らに浮かぶガスや曇に覆われた星を指差した。
「人の子は我々が遺伝子操作で創り出した実験体。××××が我々を創ったように、その真似事をしたの過ぎぬ。モルモットを特別で崇高なものだと思うか?」
 星に雨が降り注ぎ、それは海となる。青い星の誕生である。
「原始の地球にはすでに××××が種を撒いていた。我々がリンボウに堕とされたのは四億年ほど前、同時期に地球上の生物に手を加えた。ここまでの道のりは我々の感覚からしてもそれはとても長い月日だった」
 生物は生き残るために多種多様な進化を遂げる。多くの種は移りゆく環境の変化に適応できず絶滅していった。生き残れたのはほんのわずか。
「汝ら人類が出来上がるまでに、手間もかからず早い方法でいくつもの人類を創ったが、やはり手間を掛けたほうがいいらしい。ほかは全部滅ぼしてしまった」
 滅んだのではない。滅ぼされたのである。人為的な環境の変化といえる。
「我々の当初の目的は楽園の再現だった。決して還ることができぬのなら、同じような場所を創ろうと考えた。我はこの世界に定住するつもりだったが、片割れは今もまだ還るつもりでいる。片割れに与する汝もそうであろう?」
 燃える瞳はシオンを見下ろした。シオンは黙したまま愁斗を一瞥して、再び〈闇の子〉に視線を戻した。
 いつかは還る。
 還らないと決めた〈闇の子〉が目指す楽園の到達点はどこか?
 その道の途中のはなにが待ち受けているのか?
 愁斗は再び幻視したことを思い出していた。
「その楽園をつくるために、多くの人々が死ぬことになるんだ。僕の視た世界では世界中の軍隊がお前に壊滅させられた。それによって世界は急激に荒れていった」
「汝の視た世界で我は種としての人間をすべて滅ぼしたか? 否、我はそのようなことはせぬだろう。ただ道を歩いておるだけでも、危機感を覚えた蜂が襲ってくることもあろう。虫とは言葉が通じぬのであれば殺すこともやむなし。火が大きくなる前に巣を破壊することもあるだろう。だが、関係ないすべての蜂を根絶やしにしようとは思わぬだろう?」
「お前にとっては些細なことでも人間の社会は荒れ果てるんだ」
 〈闇の子〉は近くにあった星を握りつぶした。すると、その輝きに隠れていた弱い光の星が見えた。
「それも一時的なことだ。やがては今と変わらなくなる。世界を司る天秤はバランスを重んじておる」
「一時的かどうかは問題じゃない。多くの人が犠牲になると言ってるんだ」
「ふむ、汝は種ではなく個の問題を重んじているのだな。故に我と戦うと?」
「多くの人々の命が失われるとわかっていて見過ごせるものか」
「汝の行動原理は人類を救うためだというのか?」
 〈闇の子〉が少し笑ったように見え、さらに話を続ける。
「フィクションのヒロイズムにはよくある話だが、その行動原理は大きすぎる。現実の人間はもっと身近なもののために行動をするものだ。生活のため、物欲を満たすため、家族や愛するもののため、汝は本当に人類を救うなどという大義を掲げているのか?」
 愁斗の傍らには母がいた。
「お前のいうとおりだ。僕は母を救うため、父を救うため、大切な……ひとを救うために、お前と戦わなければならない」
 大切なひと?
 うまく思い出せず言葉が詰まってしまった。
 改変された世界からなにかが抜けて落ちしまっている。
 愁斗は瞳を静かに閉じた。
 〈闇の子〉がいた場所に別の存在がいる気がする。
 セーフィエル?
 違う。
 もっと奥底に彼女は存在している。
「僕には探しているものがあるらしい。それを見つけるためにお前と戦うんだ」
「言葉によってか、武力によってか?」
「言葉が通じないのであれば」
 武力が通じる相手なのか?
「よかろう、力ずくでくるがよい」
 鬼気に怖じ気づかずに愁斗は足を踏み出した。それを押し退けたのは紫苑だ。
「愁斗の敵う相手ではありません。ワルキューレが束になっても勝てない相手です」
 それはすでに一つの過去として体験している。
 あのときは駆けつけたワルキューレもこの場に現れない。〈闇の子〉の素体が変わってしまったからかもしれない。〈光の子〉を連れてきたセーフィエルもいないのだ。
「愁斗は逃げなさい。わたしが時間を稼ぎます」
「母は子を守るために自己を犠牲とする。其方はワルキューレである前に母なのだな」
 シオンが翔る。
 〈闇の子〉は動じない。
 母の背を視界に入れながら愁斗は妖糸を放った。
 鋭い妖糸は〈闇の子〉によって軽く振り払われ、そのときに起きた突風でシオンは後方に吹き飛ばされた。
 古来、荒ぶる自然現象は鬼に例えられた。まさに〈闇の子〉は軽く手を振り払うだけで突風を起こし、息を吐くだけで吹雪を起こした。
 生ける災害。
 猛吹雪で躰が凍え、視界が奪われる。生身の愁斗は激しく手を振るわせた。これでは妖糸を放つこともままならない。
 シオンが愁斗の前に立ち吹雪を背に受けながらいう。
「逃げなさい」
「母さんをひとりにはさせない」
 宙に描かれる魔法陣。星々が騒がしく輝く。遠くの太陽が激しい炎を噴きだした。
 〈闇の子〉に当てられる〈それ〉の敵意。〈それ〉の怒りが生み出した〈黒い者〉が魔法陣を燃やし尽くしながら召喚された。
 燃える剣を持つ巨人の影。豪快な剣の一振りで吹雪を掻き消し、渦巻く焔は〈闇の子〉に絡みついた。
「地上なら焼き尽くせるかもしれぬが、地獄の業火に比べれば生ぬるい」
 〈闇の子〉は炎を我が物とし纏いながら、堂々たる足取りで〈黒い者〉に近づくと、拳を振り下ろした。
 炎の剣が受けて立つ。
 だが、剣刃が拳に当たった瞬間、皹が奔り刃が毀れてしまった。
 毀れた箇所から烈火が噴き出し〈闇の子〉と〈黒き者〉を灼熱が包み込む。
 真っ赤に燃えていた炎がどす黒く変色していく。
 肉が焼ける臭い。
 黒炎の中で揺らめく魔神の影。
「つまらぬものを寄越すな〈混沌王〉よ」
 静かに、それでいてぞっとするような声音で〈闇の子〉は囁いた。
 炎は消え、灰の山に立つ〈闇の子〉。
 その背後にシオンが忍び寄っていた。
「生けるものに死を!」
 魔力を帯びた手刀が〈闇の子〉の厚い腹筋に突き刺さる。さらに力を込めて腕まで刺し入れたところで、手刀が腹を突き抜けた。間近で見るとそれほどの巨躯なのである。
 シオンは宙ぶらりんのまま足が付かない。彼女は一八〇センチ近い長身だ。それを優に越える三倍近い巨躯であった。
 怖畏にシオンは囚われ顔を青ざめさせた。
 シオンの能力は細胞を超活性化させて老化のサイクルを早め、刹那にして死をもたらす。
 〈闇の子〉の腹を抉った腕から魔力が注ぎ込まれている筈だった。だが、勝ったのは〈闇の子〉の超絶的な生命力であった。
 シオンは〈闇の子〉の腰を足場にして、腕を引き抜こうとしたが抜けない。死を上回る再生力によって腕が取り込まれ癒着してしまったのだ。
「我が一部として取り込まれないのは、其方の能力が抗っているからだろう」
 〈闇の子〉は腹を突き出ている腕を見下げながら言った。
 その間もシオンは腕を引き抜こうと必死だった。
 現状に気付いた愁斗が駆け寄ろうとしたが、シオンの声に止められる。
「来てはなりません!」
 一瞬、愁斗は足を止めてしまったが、再び駆け出した。
 見よう見まねで妖糸を足場にして宙を駆け上がり、渾身の一撃を〈闇の子〉の首目掛けて放った。
 無傷。
 鋭い妖糸は〈闇の子〉の首にかすり傷一つ負わすことができなかった。
「か弱き人の子よ、首など飾りに過ぎぬ」
 そう言いながら〈闇の子〉は自らの頭を鷲掴みにして、果実を収穫するようにもぎ取ったのだ。
 手に持った頭部が差し出される。
「この姿はただの形に過ぎぬ。首がなくとも死にはせぬのだ」
 もがれた傷口からは血の一滴も流れない。そこには〈闇〉が蠢いていただけだった。
 愁斗は大量の汗を流した。
 勝てる気がしない。その道筋が見えない。圧倒的な力の差があるのだ。
 しかし、絶望はしていない。
 そこに母がいるからだ。
 そして、大切な誰かが暗闇の向こうにいる。
 〈闇の子〉の中に愁斗は零れる光の筋を見た。
「……しょう……こ?」
 頭の中を覆っていた霧が晴れていく。
「せな……しょうこ……翔子」
 生まれて初めての恋。
 そして、愛を知る。
 高く跳んだ愁斗が妖糸を放つ。
 〈闇の子〉の溜め息は炎となりて妖糸を焼き尽くし愁斗を呑み込まんとする。
 神速で魔法陣が描かれた。
 〈それ〉の号令で地獄の番犬が魔法陣から飛び出してきた。
 炎を喰らい尽す三つ首の魔獣。
 咆哮しながら魔獣は〈闇の子〉に喰らいつこうと飛びかかる。
 〈闇の子〉の拳が魔獣の頭を一つ潰しながら地面に叩きつけ、藻掻き苦しむ頭の一つを踏み砕き、残る頭は恐怖で絶命した。
 その間に愁斗は〈闇の子〉の背後に回って妖糸を放っていた。
 〈闇の子〉の落胆は重力に変化をもたらし、愁斗の躰を地面に叩きつけた。
 蛙のように地に伏した愁斗を〈闇の子〉が見下す。
「妖糸では我は斬れぬ。斬ったところで無意味だと……ん?」
 愁斗の手から伸びていた妖糸はシオンの四肢に繋がれていた。
 傀儡を支配する操り糸だ。
「母さん、僕といっしょに戦ってください!」
 傀儡師に操られた者は、本来の力を以上の力を発揮することができる。
 さらにシオンの躰は、傀儡師の業が生み出した傀儡なのだ。
 傀儡師と紫苑。
 一心同体として戦うのだ。
 紫苑は〈闇の子〉の腰を足蹴にして、一気に腕を引き抜いた。
 傷口から〈闇〉が迸る。
 纏っていたローブに魔力を込めて降り注ぐ〈闇〉の飛沫を払った。消滅する〈闇〉の欠片たち。本体から小さな零れた破片では超再生能力を発揮できない。
 猪突するように紫苑が駆ける。そのまま〈闇の子〉に飛びかかると見せかけて、大きく飛び退いた。その瞬間に、紫苑の手から放たれた妖糸。
 少し驚いた顔をした〈闇の子〉の手首が切り落とされ宙を舞った。
「我が肉を断つとは、だがそれまでのこと……ではないのか?」
 斬り飛ばされた手首に妖糸が巻き付き、紫苑の元へ引き寄せられる。
「これがわたしたち親子の力です」
 引き寄せた手首を紫苑は両手で受け止め魔力を込めた。
 手首が溶け出し、〈闇〉を溢しながら、それは塵と化して消えた。
 〈闇の子〉は感嘆した。
「愉快なことだ。妖糸にアズラエルの死の魔法を纏わせたのだな。故に我の肉を断つことができた。そして、本体を離れた破片であれば殺すことができると?」
 肩を震わせ〈闇の子〉は低く笑っていた。
「だが、我が躰をあと何回削ぎ落とすつもりだ。途方も無いその作業に人の子が耐えられるのか?」
 〈闇の子〉は目の前の紫苑の奥に構える愁斗を見据えていた。
 息を切らせている愁斗。運動量の問題よりも、〈闇の子〉と対峙しているだけで、疲労困憊となり小さな咳が出る。目に見えぬ鬼気の攻撃を常に受けているのだ。
 すでに再生させた手首を振り上げて〈闇の子〉は彗星を呼んだ。
 帚星としては小さな物だが、その大きさはシロナガスクジラに匹敵するほど。それが愁斗に向かって落ちてくるのだ。〈闇の子〉も巻き込まれるだろうが、おそらく傷一つ付かないのだろう。
 風のように走る紫苑が妖糸で宙を一直線に切っていく。
 次元の裂け目が大きな口を開く。
 それはまさしく口である。牙が生えそろい、波のような舌が動いている。その巨大な口が彗星を丸呑みにした。
 巨大な口から燦然と輝く金色の鎧を着た者が現れ、手に持っていた角笛を口に当てた。
 叫び声のような音色が響き渡り、宇宙の彼方へと続く虹の橋が掛かった。
 〈闇の子〉は金色の者を軽く屠ると、遠い目をして虹の橋からやってくる者を見た。
 虹の橋を翔る赤い稲妻のごとき古代の戦車。
 赤髪の巨人が戦車から飛び降りながら金槌を〈闇の子〉の脳天に叩き落とす。
 稲妻が四方六方に奔った。
 頭を潰された〈闇の子〉は動じることになく、蠍のような尾で赤髪の巨人を串刺しにした。
 赤髪の巨人は尾を引き抜いたものの、猛毒が全身に廻り倒れ込んでしまった。
 紫苑が舞う。
 〈闇の子〉の片膝が妖糸で切断され、巨躯が大きく傾いた。
 その隙に切り離された脚を妖糸で細切れにして、さらに網にした妖糸で包み込む。また少し〈闇〉が消滅した。
 虹の橋を巨大な船が渡ってくる。
 船首に断つ隻眼の老人が槍を放った。
 生成したばかりの〈闇の子〉の顔面に槍が突き刺さった。抜かれ投げ捨てられた槍は空を飛び持ち主の元へ戻る。
 世界が激しく揺れた。それは〈闇の子〉の咆吼だった。潰された顔が盛り上がり、狼のような形に変形すると、隻眼の老人に襲い掛かった。
 隻眼の老人が嵐を巻き起こす。それをものともせず〈闇の子〉は牙を剥いて口を大きく開けた。
 丸呑みにされた隻眼の老人。骨を砕く音と、不気味な咀嚼音が鳴り響く。
 〈闇の子〉が歯に詰まった槍を吐き出し言葉を吐く。
「古き者どもは〈混沌王〉に与するというわけか」
 口を開けていたその中に〈強い靴〉を履いた男が飛び込み、下顎を踏みつけながら、上顎を掴んで引き裂いた。
 引き裂かれた半分の頭部を妖糸が切り裂き消滅させる。
 天から降りてくる太陽の剣を持った戦士が〈闇の子〉を一刀両断した。
 割れた二つの半身の傷口から〈闇〉の触手が伸び、〈強い靴〉を履いた男と太陽剣の戦士に巻き絞め殺した。
 二つに分かれた半身から伸びた触手が絡みつき互いを引き寄せ結合する。
 愁斗は視た。割れた半身の中に微かな輝きを――。
 両手両膝をついて立ち上がろうとしていた〈闇の子〉の背に、槍を持った紫苑がのし掛かった。
 胸を貫いた槍の一撃。そのまま〈闇の子〉が立ち上がり、紫苑は槍を放さずぶら下がった。
 鉄棒競技のように紫苑は槍を軸にして、大回転を繰り返し〈闇の子〉の胸を抉りながら掻き回し、宙返りしながら着地した。その手に戻ってくる槍。
 抉られて大穴が空いた傷口は治りが遅かった。そこに見えた微かな輝きは、真紅と天色が混ざり合うことなく、渦を巻きながら存在していた。
 再生する過程でその輝きは〈闇〉に覆われ隠されてしまった。
「古き者どもは滅した。蘇るには刻が必要だろう。さあ、次は如何様か?」
 〈闇の子〉は愉しんでいるのだ。この戦いは戯れに過ぎぬということだ。
 紫苑は槍と太陽剣を両手に構えていた。
 槍を投げる動作をして紫苑は槍を掴んだまま宙を飛んだ。
「グングニルは決して的を外さない!」
 槍に刻まれたルーン文字が輝く。
 胴に刺さる寸前で〈闇の子〉は槍を掴んだ。だが、不思議な力によって槍は進み続け、〈闇の子〉に握られながら胴を貫いた。
 紫苑はどこか?
 すでに槍から降りていた紫苑は宙に舞っていた。
 太陽剣が燦然と輝く。
 脳天に太陽剣が振り下ろされる寸前、刃が止まった。
 紫苑の躰に巻き付く〈闇〉の触手。空中で紫苑は拘束されてしまったのだ。だが、紫苑はすぐさま魔力を纏って〈闇〉の触手を消滅させ、宙を舞いながら妖糸を放つと着地した。
 妖糸は〈闇の子〉の肩から腰まで両断すると、そのまま落ちていた金槌を拾い上げ、強烈な鈍激を下半身に喰らわせ吹っ飛ばした。
 粉々に砕け散った下半身は神速で放たれた妖糸によって消滅させられ、両腕で上半身を断たせようとしていた〈闇の子〉の首は太陽剣によって刎ねられた。
 転がった頭部が首を傾げる。
「何かが可笑しい」
 呟いた頭部は妖糸で振り下ろされた金槌に潰された。
 槍が持ち主の元へ戻る。〈闇の子〉の上半身に突き刺さりながら――。
 構える紫苑。巨躯が生成しながら迫ってくる。
 〈闇の子〉は鋭い鉤爪を振り下ろそうとしている。
 躰はまだ完全には生成されていない。胸の近くが開けたままだった。そこに見える微かな輝き。
 鋭い爪が紫苑の上半身を抉った。
「きゃあああっ!」
 絶叫しながら紫苑は背中から倒れた。
「母さん!」
 叫んだ愁斗は思わず操り糸を弛めてしまった。
 その瞬間、床を蹴り上げ飛翔したシオンが〈闇の子〉の胸に手刀を差し込んだ。
 何かを握っている。
 真紅と天色が混ざり合うことなく渦巻いている珠。
 〈闇の子〉はシオンの頭部を鷲掴みして潰そうと力を入れようとした。だが、力の入っている筈の手は震えるだけで頭部を潰せない。
 〈闇の子〉の全身から妖糸が噴き出し自らを拘束した。
「何事ぞ?」
 困惑する〈闇の子〉に構わずシオンは珠の半分を引き千切って脱出した。
 その刹那、〈闇の子〉を拘束していた妖糸が締め上げられ、肉を細切れにしたのだ。
 肉片は原形を保てず溶けて、泥と化した〈闇〉が波打つように蠢く。
 シオンの手の中では真紅の破片がまばゆい輝きを魅せていた。
 夜空が大回転しながら、星々が落ちていく。
 この空間が崩れ落ちる。
 そして、瞬きをひとつすると、世界は赤い荒野がどこまで続いていた。
 六枚の漆黒の翼を持つ少女が荒れ果てた大地に佇んでいた。
「夢が覚めた」
 大地にはシオンと蘭魔が手を繋ぎ横たわっていた。
 立っているのは〈闇の子〉と愁斗のみ。
「まだ戦うのかい、人の子よ」
「まだだ」
「だからアタシは人の子が好きなんだ」
 ゆったりとした足取りで〈闇の子〉が近づいてくる。
 愁斗は手に汗を握りながら横目で確認した。
 放たれる妖糸。それは操り糸だった。
 シオンに巻き付けようとした妖糸は〈闇の子〉の髪が矢となり打ち落とされてしまった。
「まだ戦うのかい、人の子よ」
「まだだ!」
 放たれた鋭い妖糸は〈闇の子〉の腕に当たって弾かれた。
「人の子は独りでは弱い。独りでは生きていけない。世界が弱肉強食であるなら、人の子は地球では弱者の部類だろうね。それでも生き残っているのはなぜか?」
 次々と放たれる妖糸を〈闇の子〉はすべて軽く腕であしらっていく。
「人の子の世は、弱き者を生かそうとする。それが足手まといだとしてもだ。人の子の命は皆平等なのかな?」
「なんの話をしているんだ」
「キミという存在の強さについてだよ」
 神速によって間合いを詰めた〈闇の子〉は愁斗の手首を掴んでひねり上げた。
 骨が砕かれ苦痛を浮かべる愁斗。
 〈闇の子〉は耳元で囁いた。
「砕くつもりはなかったんだ。あまりにも脆くて砕けてしまった。でも、心は砕けていないのだろう?」
 愁斗は掴まれている手首を自ら妖糸で切断して、急いで飛び退いて間合いを取った。
 鮮血が噴き出す傷口をきつく縛り上げる。
 片手では自身で戦うことも、何かを使役することもままならない。
 どこからか青年の嗤い声が聞こえてくる。
「手を貸してやろうか?」
 宙を舞う麗慈の手から放たれた槍が〈闇の子〉の胸を射貫いた。
「気付いたらテメェら全員消えてやがる。ずいぶんと探したんだぜ」
 異形の手から矢継ぎ早に妖糸の斬撃が放たれる。
 〈闇の子〉は胸に刺さった槍を引き抜きへし折ると、短くなった槍の刃で麗慈の妖糸を受けた。
「このしつこい槍にはうんざりだ」
 すべての妖糸を防ぎきると、〈闇の子〉は短い槍を短剣のように投げた。
 迫る槍を躱した麗慈は宙を舞った。
「なにぼさっとしてやがんだ!」
 叱咤は愁斗に向けられたものだった。
 すぐさま愁斗は気を失っているシオンに操り糸を巻き付けた。
 紫苑が地上から妖糸を放つ。
 麗慈は空中から妖糸を放つ。
 挟まれた〈闇の子〉は翼によって嵐を巻き起こした。
 妖糸ともども紫苑と麗慈が吹き飛ばされる。
 愁斗は地面を駆けていた。
 拾い上げられる太陽剣。
 渾身の力を込めて愁斗は太陽剣を投げた。
 魔剣である太陽剣は意思を持ち〈闇の子〉を腹を突き刺した。
 灼熱によって〈闇の子〉は身を焦がされ、思わず膝を突いた。
「この身に少々堪えるね」
 太陽剣を引き抜き構えた〈闇の子〉が愁斗に襲い掛かる。
「お返しだよ!」
 天高く切っ先を向けた太陽剣が振り下ろされる。
「させるかっ!」
 男の怒号と共に妖糸が〈闇の子〉の手首に巻き付いて攻撃を阻止した。
 〈闇の子〉は横目で見た。
 紅黒いインバネスを纏った蘭魔の姿。
 麗慈の妖糸が〈闇の子〉の脚に巻き付いた。
 構える愁斗。
 三人の傀儡師は天を見上げた。
 魔鳥のごとく飛来する紫苑から放たれる雷光のごとき妖糸。
 〈闇の子〉は瞳をカッと見開いた。
 漆黒の六枚の翼が広がり世界を覆い隠す。
 〈闇の子〉の胸が淡く輝いた。
 雷光の妖糸が〈闇の子〉を激しく両断した。
 崩れ落ちる〈闇の子〉。
「まだだ」
 だれかが呟いた。
「人の子とは、その程度のものなのか?」
 〈闇の子〉の全身が崩れ、〈闇の塊〉と化した躰から幾多もの触手が渦を巻いて伸ばされた。
 地面を趨る〈闇〉の絨毯。
 天を覆う〈闇〉の緞帳。
 麗慈は〈闇〉の触手に脚を拘束され、斬り飛ばそうとしたところを両腕も拘束されてしまった。
 妖糸を足場にして宙に逃れた蘭魔に、天から降り注ぐ矢のような〈闇〉。四肢を射貫かれ蘭魔は墜落した。
 〈闇〉の海から少女の影が這いだした。
「少し本気を出せばこの程度だ」
 〈闇の子〉は紫苑の背後に立って囁いていた。
「おやすみ」
 鋭い鉤爪に変化した〈闇の子〉の手が紫苑の腹を貫いた。
 腕が引き抜かれ支えを失った紫苑がぐったりと前のめりになって、そのまま力なく倒れてしまった。
 すべてを見ていた愁斗は歯を噛みしめた。言葉も出ない。
 〈闇の子〉が遠くから愁斗を見つめている。
「キミだけを生かした。仲間、父、母が次々と倒れる光景を見せるためにね」
 地に這いつくばって〈闇〉に呑まれそうな麗慈がすぐさま返す。
「仲間じゃねーよ……んぐ!」
 口腔に〈闇〉を突っ込まれ口を塞がれてしまった。
 〈闇の子〉は哀れみの瞳を向けながら愁斗に静かに歩み寄ってくる。
「これでもまだ戦うのかい、人の子よ」
「まだだ」
「もう片手を失ってもかな?」
 〈闇の子〉の髪が鞭のように撓り愁斗の腕を狙ってきた。
 妖糸で相殺しようとするも、鞭はそれをはじき返し勢いを弱めることなく叩きつけられた――地面に。
 首を傾げる〈闇の子〉。
「躱したのか? いや、外したのか?」
 〈闇の子〉は髪を槍と化して愁斗を串刺しにしようと放った。
 だが、槍は硬さを失って地面に落ちたのだ。
 〈闇の子〉が足下をふらつかせる。
「可笑しい……胸が……苦しい」
 膝をついて胸を押さえる〈闇の子〉の躰から、淡い光が立ち上った。
 ホログラムのように透き通った少女の影。
 その顔は――。
「翔子!」
 愁斗は歓喜と驚きに入り交じった声で叫んだ。
 悲しそうな顔をする翔子。
《さよなら……愁斗君》
 その言葉を理解できぬまま、愁斗の目の前で驚くべきことが起きた。
 なんと〈闇の子〉が自らの胸に手を突き刺し、中から何かをえぐり出したのだ。
 それは淡く天色に輝く宝玉だった。
 翔子の〈ジュエル〉。
 握られた〈ジュエル〉を握りつぶそうとする〈闇の子〉。それは己の意思ではない。翔子の力が働いているのだ。
「おのれ……か弱き人の子の精神が……これほどまで……幾星霜を生きたアタシの精神を蝕むとは……」
 力の籠もった手に握られた〈ジュエル〉に皹が奔る。
「憑代が失われれば……またアニマだけの存在に……」
 渾身の力で〈闇の子〉は立ち上がり、〈ジュエル〉を鷲掴みにする手首を残る手で掴んだ。
 〈闇の子〉の全身が震える。
 地震が起きて大地に亀裂が奔った。
 霊魂の翔子が〈闇の子〉の躰を抱きしめ包み込む。
《愁斗君……お願い》
 涙を流す翔子を見つめながら愁斗は首を横に振った。
「できない!」
 翔子の意図することはわかっていた。
 〈闇の子〉の手が少しずつ開かれ、〈ジュエル〉を潰す力が弱まっていた。
 真摯な眼差しで翔子は愁斗から眼を離さない。
《愁斗君といっしょに生きたかった……でも、わたしと愁斗君は生きる世界が違った。これからもそれはずっと変わらない。だから、もう……》
 〈闇の子〉は大きく口を開けて己の手ごと〈ジュエル〉を喰らおうとした。
 一筋の輝線が流れた。
 天色の宝玉が静かに真っ二つに割れた。
 瞬く間に色を失う〈ジュエル〉。
 霞のように消えていく翔子の姿を見て愁斗は慟哭した。
 ――最期に彼女は微笑んだ。
 肉体を崩壊させる〈闇の子〉。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアッ!」
 呻き声、鳴き声、嗤い声が木霊する。
 天と地を覆っていた〈闇〉が消え失せ、赤い荒野が広がった。
 呆然と立ち尽くす愁斗の前に少女の影が立つ。
「人の子よ、これで勝ったと思うなよ。戯れに過ぎぬことを教えてやる!」
 狂気に駆られた幻影が愁斗に襲い掛かろうとしていた。
 だが、眼前に防護結界が現れ、それにぶつかった幻影は妖糸によって四肢を拘束された。
 糸を握る紅黒い影。
「終焉だ」
 蘭魔は紫苑を抱きかかえながら、糸を引いて幻影を手繰り寄せる。
「厄災は封じ込める。それが妻の望みだからな……紫苑と共にいる望みが叶えばそれでいいのだ」
 開かれたままになっていた柩の中に蘭魔は紫苑と共に飛び込んだ。
 幻影が柩の中へ吸いこまれる。
「闇は永遠だ、常に傍にいることを忘れるな!」
 言霊を吐き捨てながら幻影は〈聖柩〉に中に呑まれ、蓋は固く閉じられた。
 世界が揺れる。
 大地だけではない。空も揺れている。
 遠くで火山が次々と爆発した。
 異形の羽虫たちの群れが空を覆い尽くす。
 再び大きな地震が起き、裂けた大地の深淵に〈聖柩〉が落ちていった。
 この場所にいては危ない。
 だが、愁斗はただ呆然と立ち尽くしていた。
 嗤い声がした。
「ククククッ、もう失うモノがないのか愁斗?」
 傷だらけの麗慈が問うた。
「…………」
 返事は無かった。
「俺様にははじめからそんなもんはねえ。いや、失いたくないものならあった――テメェへの憎悪だ」
 何度も何度も麗慈は敗北しながら、それでも執念深く愁斗に挑んだ。愁斗を苦しめ、紫苑を奪い、勝ちを目前にしていた。
「俺様は傀儡師の模造品の一つとして創られた。ほかのやつらはみーんな壊れて廃棄された。生き残ったのは失敗作っていわれ続けた俺様だけだった」
 オリジナルを越えることが模造品たちの価値だった。
「愁斗、テメェを越えることだけが俺様の生きる目的だった。俺様はテメェを越えられたか?」
 勝ちを目前にして麗慈は愁斗に止めを刺さなかった。
「今のテメェを見てると、虚しいだけだぜ」
 急に麗慈は倒れ込んだ。
 全身から流れ出る血。
 麗慈の命は尽きようとしていた。
「起きたらまた殺り合おうぜ」
 血の海に頬を浸けながら麗慈は静かに目を閉じた。
 そして、その最期に放たれた妖糸は次元を切り裂いていた。
 空間の裂け目が風を唸らせる。
 突風に巻き込まれながら愁斗は裂け目の中に投げ込まれたのだった。
 暗転。

 死都東京の瓦礫の山に立つ人影は見ていた。
 伊瀬とキラは決着の時を迎えようとしていた。
 激戦で劣化したヨーヨーの糸が切れ、あらぬ方向に飛んでいく。
 その隙を突いてサイボーグの拳がキラの顔面を抉り殴った。
 気を失って地面に倒れたキラに止めを刺そうと伊瀬が近づこうとすると、その前にタキシードの人影が立ちはだかった。
「この子の命の代わりにこれをあげるよ」
 シュバイツは手に持っていた生首を放り投げた。
 転がった生首が伊瀬の足下で止まった。
 恐怖におののき眼を見開いたまま絶命しているメディッサの首。
 シュバイツはキラを抱きかかえながら説明する。
「真の本体さ。そいつの血清から石化を治す薬が作れる」
「裏切り者の言葉が信じられると思うのか?」
「はじめから誰も裏切っていないよ」
 空からサングラスの男が飛来してくる。手首には翼が装着されていた。
 着地をすると手首の翼は〈鴉〉に変形して男の肩に止まった。
 伊瀬は訝しげに尋ねる。
「死んだはずでは?」
「ええ、シュバイツさんに滅ぼされました」
 復活した彪彦だった。
 上空に鎮座していた巨大な門がゆっくりと閉じられていく。
 彪彦はシュバイツに目配せをして頷いた。
「負けたようですね」
「せっかく俺が暗躍したのに、計画は全部パーってわけか」
「いいえ、クライシスは成功しましたよ」
「クライシス?」
 彪彦は不気味に嗤った。
「世界は破壊され、ひとつになった」
 その声は彪彦ではなく少女のような声だった。
 〈鴉〉が飛び立つ。
 空に鎮座していた〈裁きの門〉は消えていた。
 上空から見る地上。
 死都と化した東京に存在する原生林。そこは先ほどまで〈裁きの門〉があった真下である。その中心地に植物を寄せ付けぬ開けた場所がある。
 巨大な魔法陣に守られた聖地。
 〈鴉〉はその場所で倒れている青年を見つけて滑空した。
 気を失い倒れている愁斗。
 傍らに降り立った〈鴉〉が囁く。
「生きますか? それとも死にますか?」
 まるで愁斗は死んだように動かない。
「世界は改変されましたよ、貴方のお陰です。傀儡士紫苑さん」
 返事はなかった。
「ひとつだけ朗報です。この世界の瀨名翔子は死んでいませんよ。なにせ、貴方のことすら知らないのですから」
 微かだか愁斗の指先が動いた。
「会いに行きますか?」
 〈鴉〉は嗤っているようだった。
 そして、〈鴉〉は飛び去った。

 桜咲く卒業式。
 三年間を過ごしたこの学校とも今日でお別れだ。
 部室で後輩たちに最後の挨拶をして、翔子は学校をあとにすることにした。
 友達たちにパーティーに誘われたが断ってしまった。
 もう会うこともない友達もいただろうに。
 そして、もう会えない人も……。
 名残惜しさで少し胸が苦しくなる。
 卒業までの数日間、翔子は思い悩んでいた。
 なにか大切なものを残してきてしまったような気がする。
 校門を一歩出た瞬間、後ろから肩を叩かれた。
「しょーこちゃーん! 親友のあたしをおいていくとかマジありえなくない?」
 息を切らせて汗を拭う撫子の姿。
「あ、ごめん」
「なにその素っ気ない態度。すっごく傷つくんですけどー。今日はどんな日かわかってる? 卒業だよ卒業!」
「でも、わたしたちずっと友達でしょ?」
「……そ、そうだけどっ!」
 撫子は顔を真っ赤にして後退った。
「それに同じ高校に通うんだから、会えなくなるってわけじゃないんだよ?」
 翔子は自分の言葉に引っかかった。
 頭の中で靄のかかった光景が一瞬だけ浮かんだ。
 少女が煮えたぎる溶岩に落ちていく光景。
 翔子は大きく首を横に振った。
 丸い瞳で撫子が翔子の顔を覗き込む。
「どーしたの?」
「ううん、なんでもない」
 もう忘れてしまった。
 白昼夢でも見ていたのだろうか?
 サイレンの音がどこかから聞こえる。だんだんと音が大きくなり近づいてくる。
 翔子たちの前まで走ってきた逃亡者の男。見るからに異形だとわかった。その指がすべて赤紫の触手だったからだ。
 男は下卑た顔を翔子たちに向けて舌舐りをした。
 帝都エデンに住んでいれば、このような異形犯罪者の事件など日常茶飯事である。だが、巻き込まれるかは別である。
 異形犯罪者は翔子たちに飛びかかろうとしていた。
 その時だった、火炎の玉が飛んできて異形犯罪者の鼻先を掠めた。
 思わずたじろぐ異形犯罪者の前に現れたタイトなスーツを着た女性。手に炎を宿している。
 すぐにあとを追ってきた覆面パトカーから、中年男が銃を構えて降りてきた。
「華艶さん単独行動しないでくださいよ!」
「はいはい、次回から気をつけまーす草野警部補」
 帝都警察だった。
 華艶が少し異形犯罪者から目を離した隙に悲鳴が上がった。
「きゃぁあ、助けて!」
 視線を戻すと翔子が人質に獲られていた。
 異形犯罪者は嫌がる翔子の首に舌を這わせながら、ゆっくりとパトカーに近づいていく。
「車はもらうぜ、変な真似をしてみろ……わかるよなぁ?」
 下卑た笑みを浮かべ異形犯罪者は運転席に乗り込んだ。助手席には触手で拘束された翔子が乗せられた。
 パトカーが走り出す。
 華艶が炎を撃とうと構えが、すぐに草野が制止した。
「人質がいるんですよ!」
「うるさい、あんたのせいでしょ!」
「違いますよ、元はといえば華艶さんが!」
 言い合いをする二人を尻目に撫子が駆けていた。
 人を越えた脚力。この街では珍しくないが、隠して生きている者もいる。しかし、友達のためなら正体がばれてもいとわない。
 撫子の頭に猫のような耳が生え、その顔は豹に近いものに変化した。
 二足歩行から四足に切り替えた撫子が車の背後まで追いついた。
 雌豹がアスファルトを蹴り上げ跳躍する。
 何かを落ちてきたような音に気付いて異形犯罪者は天井を見た。
 天井を何度も何度も引っ掻くような音。
「嘘だろう!」
 異形犯罪者は驚愕した。
 車の天井を突き破った鋭い爪。裂け目から獣人が眼を光らせていた。
 異形犯罪者は大きくハンドルを切った。
 車体が大きく揺れ、獣人が振り落とされそうになる。
「翔子ちゃんを返せ!」
 裂け目から手を伸ばし異形犯罪者の顔を引っ掻こうとしたところで、激しい衝突に見舞われた。
 横から急に車が突っ込んできたのだ。それもまるで投げ飛ばされるように、車が飛んできて車体の横に激突した。
「にゃっ!」
 撫子が屋根から振り落とされて、アスファルトに激しく落下しそうになった。だが、そうはならなかった。不可視のネットのようなもので受け止められたのだ。
 車の中から翔子が這いながら下りてくる。どうやら無傷のようだ。
 車外に出て起き上がろうとしたとき、その脚に車内から伸びた触手が巻き付いた。
「お嬢ちゃん、逃がしはしないぜ」
「やめて、放して!」
「逃げ切れたらな。ただし、可愛がって……ギャッ!」
 翔子の脚を掴んでいた触手が切断されて血と汁が噴き出した。
 怯えながら眼を丸くする翔子。
 いったいなにが起きたのか?
 車から飛び降りた異形犯罪者が逃げ出す。
「どうなってやがるんだ!」
 鬼気を孕んだ風が吹く。
 姿を戻した撫子が翔子を抱き寄せる。
「だいじょうぶ?」
「う……うん」
 しばらくして華艶たちがやってきた。
「犯人はどっち?」
「向こうです」
 翔子は指を差して伝えた。
 雨がぽつりぽつりと降りはじめ、翔子は曇天を見上げた。
 そのとき、ふと視線を感じたような気がしてビルの屋上に目をやった。
 だれもいなかった。
 この不思議な視線は翔子がずっと感じているものだった。いつのころからだっただろうか、三年生になったころだったかもしれない。時折感じる視線に気付いて、何度も振り返ったことがあった。
 しかし、そこにはだれもいなかった。
 はじめのうちは怖ろしく感じたが、やがて見守られていると感じるようになった。
 今日もそうだ。
 きっと助けられたに違いない。
 翔子は急に真顔になって撫子を見つめ、しばらくして笑顔になった。
「卒業おめでとう」
「……にゃ、突然どうしたの?」
「なんとなく、明日から新しい生活がはじまるって思ったら、言っておこうかなって」
「ええー、入学式までまだまだあるよ。明日から遊んで暮らして堕落した生活をするって決めてるんだから、気が早くない?」
「そういう意味じゃないんだけど」
「どういう意味?」
「だから、えっと……」
 少女たちが歩いていく。
「そうだ、事情聴取とか受けなくていいのかな?」
「べつにいいんじゃにゃーい。めんどくさし、刑事さんたちどっかいちゃったし」
「そう?」
「そうだよ。それよかさ、卒業祝いにケーキ食べに行かない?」
「きのうも前夜祭とかいって食べに行ったよね?」
「きのうはきのう、過去は過去。今を楽しまなきゃ」
 世界は地続きで繋がっている。
 未来に向かって進んでいくのだ。
 笑い合う少女たちの背中を見送りながら、その人影は白い仮面で顔を隠した。
「さようなら、卒業おめでとう」
 その人影は街の裏路地へと姿を消した。
 この日以降、翔子は不思議な視線を感じることがなくなった。
 一つの物語の幕が降りた。
 そして、新たな物語が幕を開けようとしていた。

 傀儡士と般若面の姉妹の物語。
 ダークネス-紅-に続く。


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