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未完成の城 |
星稜大学付属・中等部は明日から冬休みを向かえ、生徒たちは心が浮き浮きして、じっと腰を落ち着けていることができなっていた。 二年二組の教室ではホームルームが行われていて、生徒たちが席に座って教師の話を聞いている中、涼宮撫子[スズミヤナコ]だけが椅子から腰を浮かせていつでも駆け出せる準備をしていた。 中野洋介先生は生徒たちが自分の話を上の空で聞いていることに苦笑した。 「みんなさぁ、明日から冬休みで浮かれているのはわかるけどさ、私の話聞いてくれないかな?」 中野先生は若い先生で生徒には好かれている方だが、それとともに少々なめられてもいた。 「いや、だからさ――」 「さっさと終わらせろよー」 中野先生は何か言おうとしていたが、男子生徒のバッシングにより口を止めて、言いたかった内容を言えずに他のことを言った。 「じゃあ、みんな、また来年。はい、終わりにします」 「起立、気をつけ、礼」 事務的な挨拶が終わり、生徒たちが帰りはじめた。 瀬名翔子[セナショウコ]が秋葉愁斗[アキバシュウト]にかけようとした瞬間、二人の間を遮るように素早い身のこなしで何者かが現れた。 「翔子、愁斗クンビミョーに借りま~す!」 二人の間に割って入って来たのは撫子だった。 撫子は愁斗の腕を掴むと強引にどこかに連れ去ってしまい、それを見て翔子は口をポカンと空けてしまった。 強引に腕を引っ張られる愁斗は嫌がるでもなく、無表情な顔をして撫子に合わせて走っている。自分がどこに連れて行かれようと愁斗にはどうでもいいことだった。 二人は廊下を駆け抜け、階段を駆け上がり、屋上に通じるドアの前まで来た。 撫子はドアノブに手をかけて、はっとした顔をして叫んだ。 「うっそ~、爆マジ!? 何で開いてなかったりしちゃってるわけぇ~?」 どうやら撫子は屋上に行こうとしていたらしいのだが、屋上に通じるドアの鍵が開いていなかったらしい。 うんざりした表情をわざと撫子に見せ付けた愁斗は、掴まれていた腕を丁重に外して、撫子をドアの前から退かした。 愁斗の手から妖糸が伸び、鍵口の中に潜り込んで行った。そして、ガチャという音が聞こえた。鍵は愁斗の放った妖糸によって開けられたのだ。 ドアを開けた愁斗はさっさと屋上に出て行ってしまい、撫子が慌てて追いかけた。 屋上は少し肌寒かった。 撫子はぶるぶるっと身体を振るわせた。 「烈寒いよぉ」 「寒いんだったら僕のことを何で屋上に連れて来た?」 「だってさぁ~、雰囲気ってあるじゃん?」 「何の雰囲気?」 撫子は急に腕組みをして考え込んでしまった。適当な発言が仇となった。つまり撫子は答えを用意してなかった。 「とにかく、大事にゃ話と言ったら屋上。愛の告白と言ったら校舎裏って、決まっているようにゃ決まっていにゃいようにゃ」 「なるほど、それで僕の大事な話って?」 「マジカル!? どうしてアタシが愁斗に大事にゃ話があるってわかったねぇ~。もしかしてエスパー愁斗?」 「……答えは自分で考えろ」 「てゆーか最近、愁斗クンアタシに対してドライだよね。口調が冷たいし、口調が冷たいし、口調が冷たいし、みたいな」 確かに撫子の言うとおり、愁斗の撫子に対する態度は前に比べて冷たくなった。冷たくなったというよりは、素を見せるようになったと言った方が正しいかもしれない。 「撫子の口調は最近拍車をかけて変になってる」 「うっそ~、爆マジ? ナイナイだよ、前と少しも変わらにゃいよぉ」 撫子は撫子語という特殊言語を操り、その言語は常に進化している。そして、実は普通の言語でしゃべることもできる。 ため息をついた愁斗は屋上を出て行こうと歩き出した。 「もう行く、きっと瀬名さんが待ってるから」 「待ってよ、大事にゃ話がるんだって!」 愁斗の足が止まった。だが、撫子に背を向けたままだ。 「できれば手短に」 「組織についての話があるの」 撫子の口調が急に大人びて、真剣ものへと変わった。そして、〝組織〟という単語を聞いた愁斗の顔つきは険しいものへと変化した。 急に振り向いた愁斗は撫子に詰め寄った。 「早く続きを言え」 その言葉は冷たく、撫子の背筋を凍らせた。 「組織にウソがバレた」 「なんだと!? それはどういうことだ!」 愁斗は今にも撫子に飛び掛かりそうな勢いだった。 「紫苑が死んでないことがバレた、というかバレてたみたいなの。組織は紫苑が生きているのを知っていてわざと見逃している。アタシはその監視役にまたなっちゃって……ごめん、ホントごめんね、だって組織を裏切ったらアタシが殺されるから」 「私がおまえを殺すというのは考慮に入れてなかったのか?」 撫子は愁斗の声を聞いて震え上がってしまった。 「だ、だから、話をとりあえず最後まで聞いてよ。組織は紫苑に替わるものを見つけたから、今のところは紫苑を必要としていないの。それで、今は紫苑を自由に泳がせてデータを取っているだけ。紫苑が組織に危害を加えない限り、組織も紫苑に危害を加えない」 「なるほど、保護観察というわけか」 「ホントにごめん。アタシ翔子や愁斗クンのこと裏切るつもりなんてないの。アタシの立場ってやつも理解してよ」 「立場など私は知らない。私がおまえを殺さないのは翔子が悲しむからだ、だがな――」 愁斗の手から放たれた煌きを撫子は辛うじて避けた。 シュッという音が撫子の耳元でした。 「爆殺されると思ったよぉ!?」 「殺すつもりだ」 「ちょっとタイム! アタシを殺すってことは組織に危害を加えるってことににゃるんだよ」 「そのつもりだ」 「最近愁斗クン、感情的ににゃったよね。冷静な判断ができてにゃいよ。愁斗クンだけだったらいいけど、翔子も他のみんにゃにも、愁斗クンの周りにいるみんにゃに危害が及ぶかもしれにゃいんだよ。だから、組織に危害を加えないで!」 撫子の首元に迫っていた妖糸が愁斗の手に引き戻された。 「仕方あるまい――約束しよう。だが、組織の糸が掴めない……なぜ?」 二人が先ほどから言っている組織とは、古の魔導士の知識を受け継ぐ者たちが組織したグループで、今は主に魔導と科学の融合を試みている。その素性はなぞに包まれており、愁斗その組織から逃げ出した経緯を持っている。 「なぜ組織は僕を泳がせているのか……不自然な行動だ。それに僕に替わるものというのは……。撫子、知っていることがあるのなら教えてくれないか?」 「はぶっ! 知ってても言えるわけにゃいじゃん。それにアタシは下っ端だから本当に何も聞かされてにゃいんだよねぇ~」 「……そうか」 愁斗は屋上を出ようとしたが、何かに気づき足を止めた。そして、撫子は何かを見て後ろに大きく後退りをした。 後ろを振り返った愁斗の視線に入って来たものは、黒いコート来た長い黒髪を持った男で、赤く丸いサングラスをしている。そして、その男の肩には鴉が止まっていた。異様な雰囲気を醸し出している男だ。 「はじめまして愁斗くん、わたくしは影山彪彦[カゲヤマアヤヒコ]――現代の魔導士です」 「組織の人間だな」 「ええ、そうです」 彪彦の口元がつり上がった。相手の言葉を受けて、愁斗の手から妖糸が放たれそうになったが、先ほどの約束があるので手はゆっくりと下ろされた。 「僕に何か用?」 「いいえ、近くに用事がありましたので、あなたがどんな人物かこの目で確かめたかっただけです」 この影山彪彦はこの辺りで最近起きている怪事件の調査のために組織から派遣されて来たのだった。だが、愁斗にしてみれば自分を始末しに来た刺客と思えた。 「僕に直接用があるわけじゃないんだな、ならいい」 愁斗は彪彦に背を向けて屋上を出ようとした。聞きたいことは山ほどあるが、今の愁斗には守りたいひとがいる。そのひとに危害が及ぶのはどうしても避けたい。 「お待ちなさい、愁斗くん」 彪彦は愁斗を呼び止めた。 「わたくしに聞きたいことはないのですか? 失礼ながら、そこにいる子との会話を最初から聞いていたものでして、なぜ組織があなたを泳がしているのかでしたよね?」 会話を最初から聞かれていた。そのことに愁斗は衝撃を受けた。相手の気配を全く感知できなかったのだ。 何も言わずに屋上を出て行こうともしない愁斗を見て、彪彦は話を続けた。 「組織は麗慈くんのことを必死になって探していましたり、組織のトップが代わったりといろいろとありましてね。愁斗くんを泳がせるように命じたのは新しくトップに成られた方の命令でしてね、最近の組織は丸くなったものですよ」 愁斗はこの話を背中で聞き、何も言わないまま屋上を出て行った。 残された彪彦はずれたサングラスを直して、後ろにいた撫子の方を振り向いて口元をつい上げた。 身体全体がゾワゾワとした撫子は大きく後退りをして身構えた。 「用が済んだんにゃら早く帰ってよぉ~!」 「あなたは今までどおり愁斗くんと仲良くしていなさい、というのが組織の命令です。では、またいつかお会いいたしましょう」 「会いたくにゃいよ~ん」 撫子があっかんべーをしたのを見た彪彦は風のように走り、屋上を囲んでいる高いフェンスをひと飛びに越えて下に落ちて行った。 今日は終業式がメインだったので学校は午前中に終わった。太陽はまだ一番上まで昇りきっていない。 撫子は軽やかにフェンスに登り腰を掛けると、遠くの町並みを眺めた。ここからでは活気に溢れているのかいないのかわからない。絵に描いた町を観ているようだ。 撫子は目をつぶり、息をゆっくりと吐いた。 二年次の二学期に撫子はこの学校に転校して来た。転校の理由は、組織を逃げ出した紫苑が学校に潜伏しているかどうかを調査するため。正確には愁斗が紫苑であることを確認するために組織から派遣されて来た。 撫子はその後、愁斗と同じ部活に入部して翔子と友達になった。それは撫子にとってはじめての友達であった。組織の実験生物として育てられた撫子には、それまで友達と呼べる存在がいなかったのだ。 そして、撫子はその友達を裏切った。だが、撫子は裏切り切れなかった。 「もうすぐクリスマスかぁ~、翔子と愁斗クンの仲は進展してるのかにゃ~?」 想いに耽る撫子の眼前に黒い影が現れた。その影は影山彪彦であった。 「わっ!? にゃ、にゃに?」 撫子は身体を滑らせて地面に落下しそうになってしまった。 右手を高く掲げて舞い上がって来た彪彦の右手首には黒い翼が生えていた。この翼は彪彦の肩に止まっていた鴉が変化したものだ。 「申し訳ありません、驚かせてしまって。言い忘れていたことがありました。わたくしが調査している事件の調査をあなたにも手伝ってもらわねばならなかったのです」 そう言えば、彪彦は先ほどの話で怪事件の調査に来たと言っていた。 撫子はあからさまに嫌な顔をして相手の態度を伺うが、サングラスの奥の瞳は何を思っているのかわからない。 「調査ってにゃにすればいいの?」 「そんな嫌な顔をしても駄目ですよ。あなたには拒否権はありませんからね」 もっと嫌な顔をする撫子だが、これが彼女にとって最大の抵抗だ。彼女は組織に直接牙を向けて逆らうことはできなかった。 「それでアタシはにゃにすればいいんですかぁ~?」 「ネバーランドとその世界を創り出す能力を持った子供たちの調査をしていただきたい」 「ネバーランドって?」 撫子はその名をはじめて耳にした。 「有名な架空の国の名前ですよ。いくら組織に飼われていたからとはいえ、このくらいの一般知識ぐらいは覚えておいてください」 「はぁ~い」 彪彦は話を続けた。 「この世界で最も有名なネバーランドは童話ピーターパンに出て来るもので、簡単に説明するといつまでも子供の姿でいられる国のことですね」 「そのネバーランドがどうしたの?」 「我々の組織が大規模な実験によってしか創れない異世界を創れる子供がいるそうなのです。その子供が創った世界のことを誰が呼びはじめたのかネバーランドと呼びます。あなたにはその調査をしてもらいます」 過去に一度だけ撫子は異世界を訪れたことがあった。その異世界はこの世界と何も変わらず、そこが異世界だと言われても信じられないくらいだった。 彪彦の腕に付いた黒い翼が大きく羽ばたいた。 「では、失礼します」 「あ、ちょっと待って、情報は!?」 「あとは、ご自分で調査なさい」 ずれたサングラスを直した彪彦は地面にゆっくりと降下して行き、姿を暗ませてしまった。 「爆裂めんどくさいにゃ~」 フェンスから降りた撫子は頭の後ろに腕を回しながら屋上を出て行った。 愁斗が学校の正門を抜けて少し歩いたところで、笑顔の翔子が待っていた。 「愁斗くん、一緒に帰ろう」 「うん、そうだね」 二人は付き合いはじめて一ヶ月以上の月日が流れるが、一応周りの人たちには秘密になっていて、そのことを知っているのは愁斗と翔子の所属する演劇部の先輩二人と撫子だけである。だが、最近は学校で一番カッコイイと言われている愁斗が翔子と付き合っているという噂が蔓延しはじめて、隠すに隠せない状況になって来ていた。 明日から学校が冬休みを向かえることで、翔子は愁斗と長い時間一緒にいられることを楽しみにしていた。 二人はアーケード街に差し掛かった。もうすぐクリスマスということもあり、そこら中がクリスマスの色に染まり、どこからかクリスマスソングが流れて来る。 「ねえ、愁斗くん?」 翔子は愁斗の顔を覗き込んだ。だが、愁斗は全く気がつかないようで、遠くの何かを見つめていた。 「ねえ、愁斗くん?」 もう一度翔子が呼びかけると、愁斗ははっとした表情をして振り向いた。 「あ、ごめん、なに?」 「なに見てたの?」 「いや、別に、ちょっとぼーっとしてただけだよ」 これは嘘だった。愁斗は遠くを歩いていた少年を見ていた。その少年から愁斗は只ならぬ魔導の力を感じたのだ。 少年の年は愁斗よりも年下で、小学校高学年くらいに見えた。その少年も愁斗に気がついたようで、愁斗と目が合った時に笑った。そして、姿を消した。 愁斗の目に焼きついてしまった少年の笑顔はとても不気味だった。妙に大人びている妖艶な笑い。魔導の力を持ったものは人間ならぬ妖艶な魅力を纏うことが多い。 「愁斗くん?」 「あ、ごめん、またちょっとぼーっとしてた」 あの少年はいったい何者だったのだろうか? それが愁斗の頭を離れない。 物思いに耽っている愁斗の横顔を見て、翔子は少し顔を膨らませた。 「愁斗くん、もしかして私といるの退屈なの?」 「えっ!? そんなことないって、瀬名さんといると心が落ち着くから、何ていうか安心して気を抜いちゃうんだよ」 「ホントかなぁ~」 疑いの目で翔子は愁斗の顔を覗き込んだ。これに愁斗は弁解を続ける。 「本当だよ、僕は瀬名さんのこと好きだから、世界で一番大切なひとといると安心するんだよ」 好きという愁斗の言葉は翔子にとって一撃必殺を喰らってしまったようなもので、その言葉を言われると嬉しくなって全てを許してしまう。 「こんなところで恥ずかしいからやめてよぉ~」 そう言いながらも翔子は顔を桜色に染めて満面の笑みを浮かべていた。 翔子は愁斗の制服の袖をぎゅっと摘まんでモジモジしながら彼の顔を見上げた。 「あのね、明日から学校ないでしょ?」 「うん」 「でね、うちの両親も今日から一週間、海外に旅行に出かけちゃって、家に私しかいないんだよね」 「ふ~ん」 愁斗は気のない返事をした。別に悪気があったわけではないが、翔子には悪い印象を与えてしまった。 「もういいよ、やっぱりいい!」 「何でいきなり怒り出すの?」 愁斗には翔子が突然に怒り出した理由がわからなかった。 不思議な顔をしている愁斗を置き去りにして、翔子は早足でどんどん前に歩いて行ってしまった。だが、翔子の足は何かによって強引に止められてしまった。 翔子の足を止めたのは愁斗の妖糸であった。そのことにすぐに気づいた翔子は無言で怒った顔をしている。 「どうして怒ってるの?」 「こういう時に魔法使うのズルイ」 翔子は愁斗の操る妖糸を魔法と認識している。間違ってはいないが、正確には魔導士と呼ばれる者たちを細分化した中の傀儡師が使う魔導だ。 少し早足で翔子のもとへ行った愁斗は以前、不思議な顔をしている。 「だって、先行っちゃうからさ」 「怒ってたんだから、当たり前でしょ?」 「だから、何で怒ってるのわからないって。もしかして、僕のせい?」 「そうだよ、『ふ~ん』とか言って気のない返事するから」 相手のものまねをした翔子はすぐにそっぽを向いてしまった。愁斗にしてみれば、何でそんなことで怒っているのか理解できない。 「そんなこと?」 「そんなことじゃないよ」 そういうものなのかと愁斗は強引に理解するしかなかった。 今のままで怒っていたはずの翔子が急に機嫌を直して遠くを指差した。 「あれって部長と麻那先輩じゃない?」 部長とは演劇部の〝元〟部長のことで、今は引退した中山隼人のことだ。現演劇部の部長は翔子が引き継いだ。翔子は今までの癖で隼人のことを今でも部長と呼んでいる。 愁斗も二人を確認した。 「本当だ、久しぶりに二人を見た。声かけようか?」 「ダメだよ、何か邪魔しちゃいけないオーラ出てるじゃん」 「どこに?」 オーラというと愁斗は魔導士たちなどが発する特別な気のことだと認識しているので、自分にその気が見えないことを不思議に思った。だが、すぐに愁斗は自分の考えが間違っていることに気がついて言葉を訂正した。 「どうして邪魔しちゃいけないの?」 「何かいい雰囲気で、もしかしたらあの二人付き合ってるのかな?」 翔子に首を傾げて顔を覗かれた愁斗も首を傾げた。 「さあ、どうなんだろうね?」 「いや、絶対あの二人付き合ってよ。でも、いつからなんだろう」 断言する翔子であるが根拠は特になく、今見た感じでそう断言した。 もともと翔子は麻那が隼人のことを好きなんじゃないかな、と漠然として思っていたのだが、一〇月に行われた星稜中学の学校祭で演劇部が公演の練習をしている時、翔子は麻那を見ていて、『絶対麻那先輩は部長のことが好きだ』と確信していた。 隼人と麻那の姿が見えなくなったところで愁斗はこう言った。 「気になるなら追いかけて行って直接聞いてみたら?」 「何で愁斗くんってそういうデリカシーのないこと平気で言うかなぁ。デートの邪魔されたら、麻那先輩スゴイキレるよ」 「でもさ、別にデートしてるって決まったわけじゃないし」 「いいの、行きましょう」 とっくに愁斗の妖糸から解放されている翔子は、またさっさと歩き出してしまった。 再び一緒に歩き出した愁斗と翔子。だが、愁斗がすぐに足を止めて後ろを振り返った。翔子もそれにつられて後ろを振り向く。 二人が振り向いた先にいたのは影山彪彦だった。もちろん翔子知らない。 「知り合い?」 「いや、他人だ」 冷たく言い放つ愁斗に彪彦は口元をつり上げて見せた。 「わたくしは愁斗くんとは知り合いですよ、一応」 「僕たちのことを付けていたのか?」 愁斗の横顔を見る翔子は恐怖を感じた。愁斗は時折、冷たく無表情な顔をすることがある。翔子はその愁斗の顔が怖かった。 異様な雰囲気と見た目の彪彦だが、ここを行き交う人々の目を惹くことはない。なぜなら、彪彦は魔導の力で人々の死角に入っているからだ。彪彦の姿が見えているのは愁斗と翔子だけだ。 「付けるなんてとんでもありません。たまたまある人物を追って来たら、あなたの姿を発見しただけです」 「だったら、さっさと行け」 「それがですね、見失ってしまって――」 愁斗は遠くを指差した。 「あっちだ」 先ほど愁斗が見た少年が消えた方向だ。恐らく彪彦の追っている人物はあの少年だろうと愁斗は思った。 彪彦は愁斗の短い言葉を瞬時に理解した。 「情報提供ありがとうございます。では、わたくしは――」 風のように去って行く彪彦の後姿を見ながら翔子は愁斗に尋ねる。 「今の人誰だったの?」 「他人だ」 あまりにも愁斗が冷たく言うので、翔子はそれ以上聞くことができなかった。 まだ付き合っているというわけではないが、麻那は隼人と一緒に歩いていると嬉しい気分になる。 この二人は幼馴染という関係であったが、今の関係は実に微妙な関係だ。 麻那は隼人ことをずっと好きだったのだが、隼人がそのことに気がついたのはつい最近のことだった。それも麻那に突然キスをされて気づいた。 「ねえ隼人、もうすぐクリスマスじゃない? ヒマよね?」 「ヒマじゃないよ」 麻那は絶句した。いきなり会話が打ち切られるとは思ってもみなかった。彼女の計画では、隼人がクリスマスはヒマであるというところを前提に考えられていた。 「ねえ、ヒマでしょ!?」 「だからヒマじゃないって」 「ヒマなんでしょ!?」 強引にヒマと相手に言わせようとしている。だが、ヒマでもないのにヒマとは言えるわけがない。 「ヒマじゃないって言ってるでしょ?」 「もう、いいからヒマって言いなさいよ」 仕舞いには逆ギレをする麻那。隼人はいつものことだと軽くあしらう。 「あのね、何で麻那はいつもそう強引に自分の意見を人にぶつけるの? 僕だけにだったらいいけど、他の人にそういう態度で接してるといつか見放されるよ」 そんなことは麻那にもわかっている。最近はこれでも直した方なのだ。だが、昔からそういう性格だったのですぐに直せるわけではない。 「これでも性格直そうと努力してるんだから、余計なお世話よ。で、ヒマなんでしょ?」 「はぁ!?」 直そうと努力していると言った次の言葉は『ヒマなんでしょ?』。隼人は直らないなと確信した。 唖然とする隼人のことなどお構いなしに麻那はまだ言い続ける。 「ねえ、ヒマでしょ? イヴでいいのイヴで、クリスマス・イヴ!」 「だから、あのね、イヴがヒマじゃないから」 「どうしてヒマじゃないのよ! あたしとデートするより大事な用事があるわけ?」 「デート? そんな約束してないよ」 「……あっ」 顔を赤くした麻那は隼人の顔がまともに見られなくなり、顔を伏せてしまった。 「もしかして、僕とデートしたかったの?」 「…………」 何も答えずうつむいたままの麻那。口を滑らせてしまった自分の失態を悔やんでも悔やみきれない。恥ずかしくて、もう隼人の顔を見ることができない。 「麻那、顔上げて」 隼人が優しく言葉をかけるが、麻那は首を横に振った。 「嫌よ」 「はぁ、いいよ別に、ヒマだよ」 「ほ、ほんと!?」 満面の笑みを浮かべて顔を上げた麻那に隼人は優しく微笑んだ。 「本当だよ、突然ヒマになっちゃったんだ。だから二人でどこかに出かけよう」 心の中でガッツポーズを決めた麻那はバッグの中から二枚のチケットを出して見せた。 「このチケット新しくできるテーマパークのフリーパスなんだけど、ちょうど二人分あるのよねぇ」 あからさまな麻那の行動を見て、鈍感な隼人でもすぐに理解した。 「そこに行きたいってことね。ところで、そのチケットどうしたの?」 「今日たまたま森下先生から貰っちゃったのよ」 森下先生とは演劇部の顧問である。 「ふ~ん、あの先生が只で譲ってくれたの?」 「うん、彼氏と別れたから必要なくなったんだって」 「ああ、なるほど」 今日、学校で麻那が廊下を歩いていると、ケータイで彼氏と別れ話をしている森下麗子先生がいて、突然ケータイを切ってポケットに入っていたチケットを投げ捨てるように麻那にくれたのだ。 麻那はチケットに書かれている文字を指差して隼人に説明した。 「ほら、ここに書いてあるでしょ? このチケット、ディナー付きなんだよ」 「ディナー? 僕ら中学生なのにディナーはないと思うよ。その日きっとカップルとか周りにすごくいるんじゃないかな?」 「カ、カップル!?」 この二人はまだ一応付き合っているわけではないので、麻那はカップルという言葉に異常に反応してしまった。そんなところで隼人と一緒に食事をしたら、カップルに間違えられるのではないかと思ったからだ。 自分でデートを半ば強引に誘っておいて麻那は慌て出した。 「違うわよ、デートじゃないから、ちょっとイヴに二人で遊びに行くだけ、ディナーなんて別にいいの、テーマパークの外に出てからファーストフード店に入って……違うの、違うから!」 「そうだね、二人でちょっと遊びに行くだけだよね」 こうあっさりと『遊びに行くだけ』と言われると、それはそれでちょっと寂しい気分になる。 「と、とにかく、イヴは予定を空けて置きなさいよ」 「うん、わかったから麻那はチケットなくさないようにね」 「な、なくすわけないでしょ!?」 まだ少し麻那は取り乱している。 二人はアーケード街の中に入った。ここを通るのが家への近道なのだ。 アーケード街にはゲームセンターやファーストフード店があるので、この辺りの学生たちの溜まり場になっている。特に星稜大学付属・中等部・高等部の制服が目に付く。 「まだ、ちょっと早いけど、そこで食べていく?」 隼人は目の前にあるファーストフード店を見て言った。『W』が目印の極悪なマスコットがいるワルドナルドだ。 店内に入ったところで隼人は麻那にこんなことを言った。 「今さ、翔子さんと愁斗くんがいたんだけど、声かけるべきだったかな?」 「駄目よ、二人の邪魔したら翔子がキレるわ」 「そうかな?」 「そうよ」 注文を済ませた二人は店内で食べることにした。この店は二階と地下が客席になっていて、地下は全席禁煙になっている。二人は迷わず地下に行った。 地下は異様なまでに静かで客が一人しかいなかった。それも少年がひとりしかいなかった。大抵は数人の客がいるのだが、珍しいこともあるのだ。 ジュースを飲んでいた少年と麻那の目が合った。そして、少年はこんなことを言った。 「可笑しいな、誰も入れないはずなのに?」 その口調は見た目に似合わず大人びていて、少し異様な感じがした。 麻那と隼人は自然と少年と離れた席に座った。すると、少年がわざわざ二人のもとへ歩いて来た。いったい何をしに来たのか? 「君たちさ、どうやって入ったの?」 この質問に麻那と隼人は不思議な顔をしてしまった。だが、隼人は律儀に答えを返してあげた。 「階段を下りて来たんだけど……?」 答えるまでもない答えだ。しかし、少年の聞きたいことはそういうことではない。 「この地下にはボク以外の人間は入れないはずなんだよ」 いまいち言っていることがわからない。 麻那は頬杖をつきながら少年に聞いた。 「つまり、貸し切りってこと? でも、そんなこと聞いてないわよ」 「う~ん、貸し切りとは違うかな。でも、普通の人間は地下に来られないはずなんだ。普通の人は自然と上に行くように細工がしてあったんだけど……変だなぁ。まあ、いいや、ごめんね二人とも、お邪魔しました」 少年はぺこりと頭を下げて自分の席に戻って行った。 麻那と隼人は顔を見合わせて不思議な顔をした。 「なに今の子?」 麻那に小声で聞かれたが、隼人はそんなことを聞かれても困ってしまう。 「さあ?」 時間が過ぎていく。 二人が食事をはじめてしばらく経っても地下には誰も下りて来なかった。このことに不信感を覚える麻那。 「何かちょっと変じゃない?」 「そうかな、静かでいいと思うけ――」 突然、硝子が砕ける音が鳴り響き、隼人の言葉を掻き消した。だが、何かが壊れたようには見えない。見えないのは当然だ――壊れたのは見えない壁なのだから。 少年が急に立ち上がり身構えた。自分が造った壁が壊す者が現れるとは思ってもみなかったのだ。 ため息交じりの声で少年は呟いた。 「可笑しいなぁ、どうしてこうもさっきから可笑しなことが起きるのかな?」 麻那と隼人は食べる手を止めて地下に進入して来た人物を魅入ってしまった。 鴉が肩に止まっている男――影山彪彦だった。 「一般人の方もお食事中でしたか、これは申し訳ないことをしてしまった。我々には構わないでお食事を続けてください」 それは無理な話だ。どうしても彪彦に目を奪われてしまう。 彪彦は少年に軽い会釈をした。 「はじめまして、とある魔導結社からあなたをスカウトに参りました、影山彪彦という者です。よろしければあなたの名前をお聞かせ願いたい」 「ボクの名前は芳賀雪夜[ハガユキヤ]。でも、ボクの名前も知らないでスカウトに来るなんて変わっているね」 「名前は確認のために聞いたまでです。では、話を戻しまして、スカウトの件について返事をいただきたいのですが?」 「ヤダね、ボクは何でもボクがトップじゃないと気に食わないから」 彪彦はずれたサングラスを直しながら口元をつり上げた。そして、右肩に止まっていた鴉が右手の先に移動した。 「そうですか、仕方ありませんね。では、世界の均衡を保つために雪夜さんには死んでいただくことになります」 右手に移動した鴉が変形して彪彦の腕に巻き付き、大きくて黒い鍵爪へと変化した。その鍵爪の形はまるで巨大な鴉のくちばしのようで、人の頭など簡単に鋏めてしまいそうだ。 相手の魔導具を見て雪夜は妖艶な笑みを浮かべた。 「おもしろい玩具持ってるね。ボクも必殺技見せてあげるよ」 雪夜はテーブルに置いてあった何かを掴んだ。それはセットメニューに付いて来たおまけである人形であった。 その人形は象のような、ミジンコのような、そんな感じものに天使の翼が生えたキャラクターだった。 人形を掴んだ雪夜は高らかに声をあげた。 「トゥーンマジック!」 雪夜の手から床に放り投げられた人形は膨れ上がっていく。周りの椅子を撥ね退けながら人形は巨大化し、全長二メートルにまでなった。 人形は長く伸びた鼻を上げて象のような鳴き声をあげた。 ギャラリーと化している麻那と隼人は口をあんぐりと空けてしまった。 人形がその長い鼻で彪彦に襲い掛かる。 黒い鉤爪が人形の身体をあっさりと切り裂き、切り裂かれた人形はシャボン玉のように弾けたと思うと、切り裂かれた状態でもとの人形に戻った。 雪夜は口に手を当てて大きなあくびをした。 「あらら、もうやられたのか。見た目どおりに弱かったなぁ。じゃあ次はこれ」 テーブルに置いてあったジュースのふたを雪夜は開けて、中身の床に溢しながら高らかに声をあげた。 「トゥーンマジック!」 すると黒い液体が増殖しはじめて、生き物のように動き出した。 液体はうねりながら彪彦に襲い掛かる。今度は液体が相手だ、どうする彪彦!? 「先ほどからこけおどしばかりでつまらないですね」 襲い掛かって来る黒い液体に向かって彪彦は鉤爪を向けた。 鉤爪が口を開けたかと思うと、それは唸り声を周りの空気を吸い込みはじめた。 黒い液体は抵抗するが簡単に鉤爪に吸い込まれ、どこからかゴクンという何かを呑み込む音が聞こえた。その後、誰かがゲップをした。 「さて、次はどうしますか雪夜さん?」 「そうだねぇ~、逃げるっていうのはどうかな?」 「なるほど、それは名案ですね。それで、どのようにして?」 「こうやってさ!」 空間が揺れ、雪夜の姿がゆらゆらと霞んでいく。 麻那と隼人は目の前で起きていた怪現象に魅入られてしまっていて、逃げることを先ほどまで忘れていたが、空間が揺れ、歪み、そして、溶けていくのを目の当たりにして慌てはじめた。 「隼人、逃げないと!」 「わかってるよそんなこと!」 空間に溶けるように雪夜の姿が消えようとしている。 彪彦は雪夜を逃がさまいと鉤爪を振るった。 「待ちなさい!」 鉤爪は雪夜の腕に噛み付いたが、苦痛に顔を歪ませた雪夜は完全に溶けて消えてしまった。 「逃げられましたね」 先端を地面に向けられた鉤爪からは血が流れ落ちている。 彪彦はすれたサングラスを直しながら口元をつり上げた。 「いや、逃げられたのではなく、わたくし……たちが別の場所に飛ばされたようですね」 雪夜が別の空間に逃げたのではなく、彪彦たちが別の空間に閉じ込められたのだ。そう、閉じ込められたのは彪彦だけでなく、麻那と隼人も閉じ込められていた。 同じ場所に運悪くいたために、麻那と隼人も雪夜の創り出した異世界に閉じ込められてしまったのだ。 どこからか軽快なリズムの曲が流れて来る。 辺りを見渡すとジェットコースターや観覧車がある。そう、この場所はまるでテーマパークのような場所だった。 野々宮沙織は珍しく一人で学校から帰っていた。いつもは仲のよい早見麻衣子と宮下久美といることが多い。 「ひさびさにひとりぃ~、寂しいなぁ」 小さな影がとぼとぼと歩いて行く。 沙織は翔子の部活の後輩で、部活内では撫子に次いでテンションが高い。だが、彼女がテンションを高くすることをできるのは、周りに友達がいればこそだった。今の沙織はテンションが低い。 他人の輝きをもらって自分を輝かせることしか沙織にはできなかった。 ひとりで帰っていると特にすることがない。けれど、沙織は家に帰っても特にすることがなかった。 沙織の両親は共働きで仕事から帰って来るのはいつも夜遅くだった。というより、帰って来ないことの方が当たり前だった。 家に帰っても特にすることがない沙織は家に帰るのが嫌だった。そのためいつもは仲のいい二人の友達とできる限り一緒にいる。 肩を落としながら歩く沙織は人の大勢いる場所に行こうと考えた。だが、今日は人のいない静かな場所に行きたい気分だった。 家に帰ればひとりになれるだろう。しかし、沙織は家でなく、ふと横を立ち寄った公園に入った。 家はひとりになれるが、外と完全に隔離されたような感覚を沙織は受けてしまう。人がいなくても外にさえいれば、誰かと繋がっているような気分になり、家にいるよりはましな気分に沙織はなれた。 寒空の下の公園は静かだった。 沙織は風に揺られていたブランコに座って空を見上げた。そして、いろいろなことを考えた。特に両親のことを考える。 「……嫌い」 その言葉は両親に対するものだ。沙織は両親のことを悪く思っていた。 沙織の両親は仲が悪く互いの不倫を認め合っている。だが、別れる気は今のところないらしい。そのため沙織の両親は家に帰って来ないで、不倫相手の家などに泊まり込んでいた。 どこからか猫の鳴き声が聞こえて来た。 沙織が足元を見ると、こげ茶色の仔猫が沙織の足に擦り寄っていた。 仔猫は可愛らしい声で鳴きながら顔を沙織の足に擦り付けている。何かをねだっているのだろうか? 泣き続ける仔猫を見ていた沙織はバッグの中から今朝コンビニで買ったチキンサンドの残りを取り出した。 「猫ってチキンサンド食べるのかなぁ?」 沙織はチキンの部分を千切って仔猫に分け与えてみた。すると仔猫はチキンにかぶり付き、首のスナップを利かせながら口の中にチキンを放り込んでいった。 仔猫は鳴くのを止めて走り去ってしまった。 沙織は少しショックを受けた。自分に懐いたのかと思ったら、猫はエサをもらったら走り去ってしまったのだから。 どうしても沙織は仔猫を追いかけずにはいられなかった。 仔猫だけに視線を向けて走っていた沙織はいつの間にか道路まで出ていて、仔猫が急にアスファルトの地面から持ち上げられた。 沙織は仔猫が持ち上げれるのに視線を合わせて、そのまま仔猫を抱き上げた少年の顔を見た。 自分よりも年上の男の子だと沙織は思い、相手の少年も自分よりも年下だと思ったが、沙織がこの辺りでは有名な星稜の制服を着ていたので自分よりも年上なのだと確認できた。 「これ君の猫?」 「ううん」 少年はそう聞くと仔猫を地面に下ろしてやった。すると仔猫は走り去ってしまった。 走り去る仔猫を見て沙織は少し寂しい気分になった。 「あ、行っちゃった」 「逃がしちゃダメだった?」 「ううん、別に……あっ!?」 沙織は少年が腕に怪我を負っているのに気が付いた。 「腕から血出てるけど大丈夫なの?」 「あ、これ、ちょっと動物に噛まれただけだから平気じゃないかな?」 どう見てもちょっととは言いがたい怪我だった。遠くから見れば模様にも見えないこともないが、血が服にだいぶ染み込んでいる。 「大丈夫じゃないよぉ、動物に噛まれんでしょ~、バイキンとかウジャウジャで化膿して……うぅ~寒気」 自分で言っておいて、沙織は全身に寒気を感じてぶるぶるっと振るえた。 「じゃ、ボクは行くね」 「あ、その怪我本当に大丈夫なの? 病院とかちゃんと行ってね」 「血は止めたから病院には行かないよ」 少年は歩き出し、すぐに足を止めて振り向いた。 「ひとつ、聞いていいかな? どうして公園にひとりでいたの?」 「見られてたの?」 「ボクと同じ感じがしたから、ちょっと目に留まっただけだけど」 少年は沙織から自分と同じ満たされない孤独を感じ取っていた。人といると楽しく、人の傍にいたいと常に思っているが、人の輪に入っている時にふと我に返った時に感じる孤独。その孤独の理由はわからないが、少年は常にその孤独に付きまとわれていた。 自分と同じ感じのした沙織に少年は惹かれた。 「ちょっと君とおしゃべりとかしていいかな?」 「沙織とおしゃべり?」 「沙織って言うんだ。ボクの名前は影山雪夜、君よりは年下だから呼び捨てでも別に構わないよ」 この少年は芳賀雪夜だった。影山彪彦との戦いの後、この場所をたまたま通りかかったのだ。 「沙織よりも年下なの!? てっきり上かと思ってた。え~と、沙織は野々宮沙織、中学一年生で十二歳」 「なんだ、年は同じか。ボクも十二歳、小六だけどね。ブランコに座ってしゃべろうか?」 「うん」 うなずきながらも沙織は雪夜に不信感を抱いていた。不信感というよりも不思議な感じという表現の方が正しいかもしれない。それは魔導の力を持つものの魅力だ。 ブランコに座った二人は別に漕ぐわけでもない。ただ、ベンチの代わりとして座っているだけだ。 雪夜は自分の話をすることにした。それは相手に心を開かせるためだ。 「じゃあ、ボクの家庭環境の話でもしようかな。ボクさ、ここ数年父親の顔見てないし、母親は一ヶ月まえに見た……かな? とにかく、あんまり親と関わりがないんだよ」 沙織は雪夜の話に少し興味を惹かれた。自分の家庭と似ていたからだ。 雪夜は相手が自分の話しを聞き入っていることを確認して話を続けた。 「それでね、別に親が家にいないわけじゃないんだ。家にいても互いに顔を合わせない。互いのことに無関心で、どうでもいいと思ってる。食事はいつも部屋の前に時間になると置いてあったり、時にはお金が置いてある時もあるかな」 ゆっくりと息を地面に吐いた雪夜は沙織を見つめた。 「大人ってみんなあんな感じなのかな?」 その瞳は黒く見ていると吸い込まれてしまいそうな瞳だった。 雪夜は黙り込み、その間に沙織は考え事をした。自分の両親について考えた。だが、それは考えるのも嫌で一言で片付けられた。 「嫌い、沙織は沙織のパパとママが嫌い。あんな大人になんかなりたくない」 雪夜は妖艶な笑みを浮かべた。沙織の今の言葉を彼は聞きたかったのかもしれない。 ――大人になんかなりたくない。 今の言葉を雪夜は心に深く刻んだ。自分と同じ考えを持つ者の言葉として――。 「沙織さんは大人になりたくないの? 大人は大人で楽しいと思うけど?」 思ってもないことを言って相手の言葉を確かめる。 「沙織は大人になりたくない。子供のままの方が楽しいこと、いっぱい、いっぱいあるもん」 「その願い叶えてあげようか?」 「どういうこと?」 「ずっと永遠に子供のままにしてあげようかって意味」 雪夜はいったい何をしようとしているのか? 困惑する沙織。困惑するのには理由がある。冗談ではなく本当に雪夜が願いを叶えてくれそうだったからだ。それは雪夜の妖しい魅力だった。 子供のままでいられるなら……。 「できるの、そんなこと?」 「できるよ、実はボク魔法使いなんだ」 普通の人がこんなことを言ったら冗談にしか聞こえなかっただろうが、雪夜に言われると納得するしかない。 「魔法使いなんだぁ、そんな感じするかも……」 「じゃあ、こんなのはどうかな?」 雪夜は地面に落ちていた小石を拾い上げて、近くに軽く放りながら高らかに声をあげた。 「トゥーンマジック!」 すると、地面に落ちた小石がダンスをし始めた。 小石は回転したり、ジャンプしたり、確かに踊っている。 目を丸くして沙織は小石のダンスを見入った。言葉で魔法使いを信じるのと、実際に魔法を見て信じるのではまた違う。 「すっご~い! カッコイイよ雪夜くん!」 興味津々で笑顔を浮かべる沙織は雪夜の顔を目を輝かせて見つめた。見つめられた雪夜は少し照れ笑いを浮かべる。 「これは、簡単魔法だよ」 「あのぉ、私にもできるかなぁ?」 雪夜の使った魔導は確かに簡単なものではあるが、魔導を使うには類まれなるセンスが必要で誰にでも仕えるわけではない。 だが、雪夜はこう言った。 「きっと、できるよ沙織さんにも」 これは嘘ではない。雪夜は沙織から微弱な魔導を感じていた。 沙織は潜在的には魔導の力を持っている。ただ、それに本人が気づかずに使いこなせてだけなのだ。雪夜はそれに気がついた。 自分で知らないうちに魔導の力を持ってしまっている者は、大抵は魔導の力に気づくことなく一生を終える。特に自分で力に気がつく者は稀にしかいない。ほとんどの場合は誰かに教えられてはじめて知ることになる。 魔法が使えると聞いて沙織は嬉しくなった。 「ホント! 沙織にも魔法使えるの? ウレシイなぁ~、じゃあ、沙織も魔法少女の仲間入りってこと?」 「魔法少女?」 「悪い奴らをやっつける正義の魔法少女だよぉ~」 沙織は魔導を使えるということがあまりよくわかっていない。 雪夜はどうとでもとれる笑みを浮かべた。何を考えているのかわからない笑みだ。 「おもしろいねそれ。うんいいと思うよ、悪い大人を懲らしめるっていうのもいいと思うけど、どうかな?」 「悪い大人?」 「ボクの両親とか、沙織さんの両親とかね」 また、笑みを浮かべる雪夜。とても純粋な笑みだが、その笑みは何が純粋なのか? 純粋な悪、純粋な正義。それは人の価値観で決まることで、多くの人は正義が正しくて、悪が間違いだと主張する。だが、本当はどちらが正しいというわけではなく、主張が違うだけ、理念が違うだけ、考えていることが違うだけのこと。 微笑んでいる雪夜は沙織にこう言った。 「じゃあ、まずは沙織さんをボクの世界に案内しよう、そこにいれば永遠に子供でいられる」 「そんな世界あるの?」 「今すぐにでも行けるけど、行くかい?」 「行きたい!」 「じゃあ、ボクの手を掴んで目をつぶってくれるかな? ボクがいいて言うまで開けちゃ駄目だよ」 沙織は差し出され手を掴んだ。それは新世界へ自分を導いてくれる手。 目をつぶった沙織は自分が溶けていくような感覚に陥った。そして――。 「いいよ、目を開けて」 目を開ける沙織。 新世界への扉は開かれた。 愁斗の自宅の前まで送ってもらった翔子は、未練を残しつつも愁斗の別れの挨拶をした。 「じゃあね、愁斗くん」 「あのさ、うち寄って行く? 両親いないんでしょ?」 思わぬ愁斗の申し出に翔子は喜びつつも、少し複雑な心境になった。本当は自分の家に愁斗を呼ぼうとして言い出せなかったのだ。それを逆に家に呼ばれてしまった。 「行く、行く行く!」 妙に張り切ってしまった。そんな自分に気づいた翔子はちょっと恥ずかしそうな顔をした。本当に嬉しくて、ついはしゃいでしまった。 翔子はこれまで一度も愁斗の家に行ったことがなく、どんなところなのかいろいろと想像していた。 愁斗は姉と二人暮しをしていると翔子は聞いていて、その姉に愁斗はあまり合わせたくないらしい。では、今日はなぜ呼んでくれたのか? 「今日は姉が家にいないからさ、今日だったら瀬名さんのこと家に呼べるから」 「そうなんだ……。あ、ちょっと待ってて」 顔がにやけてしまうのが抑えられない翔子は愁斗をその場に待たせて家の中に駆け込んで行ってしまった。 しばらくして戻って来た翔子は私服に着替え、手にはなぜか大きなスポーツバッグを持っていた。 「なにそれ?」 「えっ、いえ、その、何でもないって、愁斗くんたら」 明らかに動揺する翔子。バッグの中にはいったい何が入っているというのか? 実はバッグの中には着替え一式やハブラシやドライヤーなどなど、お泊りセットが入っていた。翔子はいざ(?)と言う時のためにお泊りする気満々なのだ。 翔子はスポーツバッグを背中に回して準備万端の格好をした。 「じゃあ行こう、愁斗くん」 「ああ、うん」 愁斗はバッグの中身が気になったが、そのことにはもう触れないことにした。 二人は愁斗の家に向かって歩き出した。 少し歩いたところで翔子はあることに気がついた。 「もしかして、愁斗くんっていつも私を家に送るために遠回りして家に帰ってたの?」 「うん、そうだけど」 愁斗は翔子と帰る時はいつも遠回りをして翔子を送ってから自分の家に帰っていた。 こういう小さい気遣いに翔子はちょっぴり感動した。自分のことを大切に想ってくれているんだなと嬉しくなる。 入り組んだ住宅街を抜けて、翔子も知っている場所に出た。 「この辺りなら知ってるよ、撫子が住んでるマンションがあるんだよ」 「ふ~ん、そうなんだ」 「ほら、あそこ!」 翔子は撫子の住んでいるマンションを指差した。それを見た愁斗は少し驚いた表情になった。 「僕のうちもそこなんだけど」 「えっ!?」 「撫子と同じだったんだ」 それも当然である。撫子はもともと愁斗を監視するために組織から派遣されて来たのだから。 マンションの中に入った二人はエレベーターに乗り込んだ。 「撫子が住んでるのって五階なんだよ」 「うちも五階」 そう言いながら愁斗は五階のボタンを押した。 愁斗は嫌な予感がしていた。撫子が五階に住んでいると聞いて、もしやと思うことがあったのだ。 五階でエレベーターを降りた二人は愁斗の部屋に向かって歩き出した。 撫子の部屋の横を通った時、翔子がそれを指差して言った。 「ここが撫子の部屋だよ」 「ふ~ん、うちはその隣」 「えっ!?」 愁斗が指差している表札には、504号と書かれ、その下に愁斗の苗字である『秋葉』と書かれていた。その隣の505号室には撫子の苗字である『涼宮』と書かれている。 思わず固まる翔子。 「あ、あのさ、気づかなかったの?」 「いや、僕さ、近所付き合いゼロだから」 撫子が隣の部屋に引っ越して来てから四ヵ月ほどになるが、愁斗は隣に撫子が住んでいることに全く気がついてなかったのだ。 ドアの鍵を開けた愁斗は翔子を部屋の中に招き入れた。 「どうぞ」 「お邪魔しま~す」 部屋の造りは以前翔子が入ったことのある撫子の部屋と同じだった。結構大き目の部屋だ。 辺りを見回す翔子はダイニングに入ったところで誰かと目が合った。愁斗はその誰かに気がついて、焦って翔子を家の外に追い出そうとしたが、もう遅かった。 「愁斗クン帰りぃ~。そっちの娘はカノジョ?」 ビール缶を片手に色っぽい女性がソファーでくつろぎながら話しかけて来た。ミニスカートから覗く足組みされた長く伸びたが脚線が色っぽさを引き立てている。 普段見せないほどの動揺を顔に浮かべる愁斗。目の前にいるのは、愁斗が姉と翔子に説明していた人物だ。 「どうして、亜季菜さんが……! ヨーロッパにいるはずじゃ!?」 「突然気が変わっちゃって、日本海上空くらいから引き返して来ちゃった」 日本海上空? 空の上から引き返すことが可能なのか? 翔子は今の言葉が気になって聞いてみた。 「あの、日本海上空で引き返すって、普通できませんよね?」 「ああ、自家用だから」 「はっ?」 思わず翔子は変な顔をしてしまった。 「一家に一台自家用ジェットよ」 「はっ!?」 納得はしたが、別の意味で納得できない。中流家庭の翔子の家には自家用ジェットなどない。 翔子は愁斗の服をくいくいと引っ張って、小さな声で耳打ちした。 「愁斗くんの家ってお金持ちだったの?」 「うちじゃなくて、亜希菜さんが金持ちなだけ」 「そう……」 翔子は愁斗の家の家庭事情がよくわからなくなった。愁斗に聞いた話によると、愁斗が小さい頃に母親が亡くなり、父親は行方不明、現在は姉と二人暮しと聞かされている。 亜季菜はビールを掲げて大きな声を出した。少しほろ酔いのようだ。 「ほら、あんたたちもこっち来て飲みなさいよ」 「僕たち未成年だから」 少しキツイ口調で愁斗は言ったが亜季菜は全く動じない。 「いいから、いいから、愁斗はいつも飲んでるんだから」 「飲んでないから」 愁斗がふと横を見ると翔子が不信の眼差しで愁斗を見ていた。 「愁斗くん、ワルなんだぁ~」 「だから、飲んでないから、本当に。あんなどうしょうもない大人の言うこと真に受けたらダメだからね」 一生懸命弁解する愁斗を亜季菜がイジメる。 「カノジョの前だからっていい子ちゃんしちゃだめよぉ~」 「……うるさいな! 亜季菜さんは勝手に酒飲んでてください」 「おーこわ、今日の愁斗クン恐~い。ふふ、それに人間っぽい、あたしの前じゃあんまり見せてくれないわよね、人間っぽいところ」 亜季菜が言う『人間っぽい』とは、普段、亜季菜に対する愁斗の態度が人形のようだからだ。だが、最近は昔に比べて感情が豊かになって来ていると亜季菜は感じている。 怒った顔をしている愁斗がここにはいる。それも冷たい表情をしてキレる愁斗ではなく、じゃれ合うように怒る愁斗がここにはいる。 「亜季菜さん、いい加減にしないと……」 「いいわよ、〝愁斗〟が出て行っても。ここあたしのマンションだし」 愁斗ははっきり言って亜季菜には頭が上がらない。それは亜季菜が姉だからというわけではない。亜季菜は〝姉〟ではないのだから、それは関係ない。 何も言えなくなった愁斗を見て亜季菜な勝ち誇った顔になってビールを口に運んだ。 「ぷはぁ~、勝利の美酒は美味しいわね。愁斗は家出するらしいから、あなた一緒に女だけのパーティーしましょうよ」 「私!?」 亜季菜は翔子に向かって話しかけていたし、女は翔子と亜季菜以外いない。だが、翔子は突然の指名に驚いてしまった。 「あ、あの、その……」 翔子はこの時、誰かの名前を思い出そうとしていた。目の前にいる女性が誰かに似ている。翔子の知り合いの誰かに亜季菜が似ているような気がしていた。 急に立ち上がった亜季菜は翔子の首に腕を回して、強引に自分と一緒にソファーに座らせた。 「今日は女同士で語らいましょう。あたしの名前は姫野亜季菜、で、あなたの名前は?」 「私の名前は瀬名翔子です……じゃなくって」 「いきなり嘘? 自己紹介でいきなり偽名を使うなんて、詐欺師の才能があるわね」 「そういうことじゃなくって、亜季菜さんって結婚なさってるんですね」 「生まれてこの方、結婚なんてしたことないわよ」 「でも、苗字が?」 愁斗の苗字は『秋葉』である。 「苗字? ああ、苗字ね、愁斗と違うって言いたいのね。ぶっちゃけね――」 「亜季菜さん!」 亜季菜の言葉を愁斗が遮った。 翔子が振り向いた先には着替えを済ませて来た愁斗が立っていた。 「亜季菜さん、余計なことは言わないでください」 「愁斗クンったら、秘密主義者。そうなんだ、この娘カノジョなのにぜんぜん話してないのね」 愁斗が翔子に話していないこと、それはいったいどんなことなのか? 翔子も亜季菜の意味深な言葉が気になってしまったが、愁斗がその件について触れられたくないようなので、話題を変えた。 「亜季菜さんって、何かお仕事とかなさってるんですか?」 「自営業……かなぁ、いちよう組織のボスで、例えば貿易とか?」 「女社長なんですか? カッコイイですねぇ」 「まあ、そんなところね」 ふと亜季菜が愁斗に視線を移すと、愁斗が鋭い目つきで亜季菜を見ていた。何か変なことを言わないか目を光らせているのだ。亜季菜は酒を飲むと饒舌になるので何を言うか冷や冷やしてしまう。 残っていたビールを全部喉に流し込んだ亜季菜は、テーブルに空き缶を置くのと同時に立ち上がった。 「さぁて、そろそろ仕事に行こうかしらね」 亜季菜は愁斗の顔を見て命令した。 「愁斗クン、途中まで送って行きなさい」 「何で?」 「いいから!」 亜季菜は愁斗の腕に自分の腕を絡めて強引に歩き出した。 「じゃあ翔子ちゃん、まったねぇ~!」 玄関を出たところで亜季菜は愁斗の腕を開放した。 「ちょっと話があるからそこまで付き合いなさい」 もう亜季菜は酒に酔っている雰囲気はなかった。もしかしたら、最初から酔っていなかったのかもしれない。 前を歩き出した亜季菜に合わせて、愁斗は何も言わずに歩き出した。 エレベーターに乗ったところで亜季菜が口を開いた。 「この娘にどれくらい話しているの?」 「……あのひとは僕の傀儡になりました」 「あの娘が!?」 この言葉と同時にエレベーターのドアが開かれた。 エレベーターを降りた愁斗は静かに言った。 「でも、ほとんど何も知りません。組織の話は全くしませんから」 「大切な娘ならちゃんと全部話してあげなさいよ、せめてあたしが知っていることは全部よ。でも、お遊びの娘なら別にどうだってかわないけどね」 「遊びなんかじゃありません!」 「だったら話なさいよ、すぐとは言わないけど、あなたの気持ちの整理がついたらね」 「……はい」 道路ではリムジンと運転手が亜季菜を出迎えていた。 「じゃあ、行くわね」 「じゃ」 少し歩いたところで亜季菜が振り返った。 「じゃないわよ、これから愁斗クンにも仕事に来てもらうのよ」 「今日ですか?」 愁斗は残して来た翔子のことが心配だった。だが、行きたくないと言っても亜季菜は許してくれないだろう。それが条件なのだから。 「今からすぐよ、さっさとリムジン乗りなさい」 「でも、紫苑を部屋に置いたままです」 「愁斗クン自身でも大丈夫でしょ? さっさとカノジョのもとに帰りたいなら、さっさと仕事を済ませない」 「わかりました」 その口調は機械的な口調だった。この愁斗のことを亜季菜はまるで人形のようだと思っている。 二人がリムジンに乗るとすぐに走り出した。 リムジンの中で愁斗は翔子のケータイに電話をかけた。 「瀬名さん、ごめん――」 愁斗と亜季菜が出て行ってしばらくして、翔子のケータイに電話がかかって来た。 ケータイのディスプレイには『秋葉愁斗』と表示されている。 《瀬名さん、ごめん。ちょっと急用ができて出かけて来るけど、だいぶ遅くなるかもしれないから、帰ってもいいよ》 翔子は相手には見えないがとても寂しい顔をした。せっかく愁斗の家に来たのに、という気持ちかが翔子の心の中に蓄積された。 「帰ってもいいよって、鍵は?」 《あのね――》 「あ、いいよ、留守番してる」 《だから、遅くなると思うよ》 せっかく愁斗の家に来たのに帰ってしまってはもったいない。それに翔子はお泊りの準備も実は万端だ。 「ううん、一日でも二日でも待ってるよ」 《そう……冷蔵庫の中にあるものとか勝手に使っていいから、あとお風呂も。鍵はテーブルの上にあるんだけど、わかるかな?》 翔子は空き缶の横にあった小さなカゴに入っていた鍵をつまみ上げた。 「たぶん、見つけた。これだと思う」 《出かける時はそれで鍵閉めてね》 「うん、わかった。……でも、早く帰って来てくれたら、嬉しい……かな」 《なるべく早く帰るよ。じゃあ切るね》 「うん」 電話が切れた。まるで新婚家庭の一風景のような会話だった。 留守番を引き受けたが翔子はすることがなくて困ってしまった。 「あ、そうだ!」 翔子は名案を思いついた。撫子の家に遊びに行こうと考えたのだ。 さっそく、翔子は先ほど見つけた鍵で戸締りをして、隣の部屋のインターフォンを押した。 《誰っ?》 いきなりキツイ口調の撫子の声がした。 「あの、私、翔子だけど……」 《翔子!? ごめ~ん、ビビッた? 悪気があったわけじゃにゃいから、うんと、にゃんつーか、忙しかったから》 撫子は組織の仕事を自宅でやっていた真っ最中だったのだ。 「ごめん、忙しいなら帰るね」 《えっ、何しに来たの? いいよ別に、ヒマヒマだから、上がっていきにゃよ》 「でも、今忙しいって言ったじゃん」 《いいよ、いいよ、別にぃ~、翔子ちゃんは特別だからね。ちょっと待ってて》 チェーンロックのジャラジャラという音がした後、ガチャとドアが開かれ撫子の顔が覗いた。 「撫子ちゃんのお城へようこそーっ! どうぞ上がっちゃっておくんにゃまし」 「ごめん、いきなり押しかけて」 翔子は靴を脱いで家の中に上がった。 前に翔子が訪れた時にも家具が少なかったが、今でも少ない。だが、前回よりは人が住んでいる雰囲気がする。家具がちょっと増えたせいだろう。 「もしかして家具増えた?」 聞くまでもなかった。前に来た時になかったこたつがある。 「翔子ちゃんチェキだね。こたつが増えたし、料理もはじめたから食器とかも増えたよ」 「料理はじめたんだ、すご~い」 「エッヘン! なかなか上手なもんだよ」 撫子は長い間、組織で育てられて来たので、ものを覚えることが得意だった。どんな環境にも順応できるように教育されて来たのだ。 翔子は料理が全くできないので心から撫子を尊敬した。 「私も料理とかできたらなぁ~、って思うだけど。いいなぁ~料理できるって」 「翔子も料理覚えたら、結構楽しいよ」 「遠慮しとく、私は食べる専門でいいや」 「じゃあ、夕飯食べてく? 翔子の両親旅行中でしょ?」 「……う~ん、愁斗くんが帰って来なかったら食べてく」 「愁斗くん?」 撫子の頭の上にはてなマーク飛んだ。 翔子はちょっと恥ずかしそうな顔をして、小さな声で撫子に説明した。 「実はね今日、愁斗くんのうちに遊びに来てたんだけどぉ、愁斗くんが急用で出かけちゃって、留守番中なんだよね」 「ふふふ、愁斗クンの家についに行ったの? よかったじゃん、でも留守番かぁ~、そりゃーついてにゃいね。まあまあ、そこいらに座って、飲み物持って来るから」 翔子はこたつの中に入ったが電源が入っていなかったようだ。 こたつの電源を翔子が入れている間に、撫子が軽快なステップで台所に駆けて行って大急ぎで戻って来た。 「にゃに飲むか聞いてにゃかった」 「おっちょこちょいだね撫子は」 「にゃはは~っ。ええっとメニューは、牛乳とミルクとホットミルクとイチゴミルクとバナナミルク、それと新メニューのチョコミルク。どれチョイスする?」 全部牛乳関係だが、前回もそうだった。 「じゃあ、今日はバナナミルク」 「オッケー、うんじゃ待ってておくんにゃましまし」 風のように台所に走って行った撫子は風のように戻って来た。手にはバナナミルクとチョコミルクを持っている。 「お待ちどーっ! バナナミルクお持ちしましたよ~ん」 翔子にバナナミルクを手渡した撫子はこたつの中に入った。 二人は飲み物に口を付けて少しの間だけ沈黙が訪れる。 グビグビっとチョコミルクを飲んだ撫子はコップをこたつの上に置いた。 「ぷはぁ~、うまい!」 撫子の口の周りにはチョコレートらしきものが付いている。それを撫子は猫がするように舌でぺろりと舐め取った。それを見ていた翔子は、撫子はやっぱり猫だと思った。 実は撫子は猫の遺伝子を埋め込まれた人間で、翔子もそのことを知っているが、それ以前に翔子は撫子を猫みたいだと思っている。 「撫子のそういうとこ好き」 「えっ? どこらへんが?」 「別にぃ~」 翔子はわざととぼけた。すると撫子はじゃれ合うように翔子に襲い掛かって来た。 「教えにゃいと、お仕置きしちゃうぞ~!」 翔子に飛び掛った撫子は相手のことをくすぐりはじめた。 「あ、ダメっ、あはは、あん、ズルイよ、ははっ」 撫子が一瞬手を止める。 「じゃあ、白状する?」 「撫子のこういう無邪気なところが好きだよ。スゴク可愛いと思うもん」 「そんにゃ~、照れるにゃ~」 照れ笑いを浮かべながら撫子は翔子の身体から離れた。 急に撫子のケータイが鳴った。今流行の洋楽のメロディーだ。 「はい――」 さっきまでふざけていた撫子の顔がケータイに出た途端に真剣なものになった。 「はい、わかりました。すぐ行きます」 ケータイを切った撫子は渋い表情をした。 「どうかした撫子?」 「うん、ちょっと急用ができたから、帰ってくれるかにゃ?」 「う、うん、わかった帰る」 翔子の飲み干したコップを撫子は受け取り、そのままコップを持ちながら翔子を玄関まで送った。 「翔子ちゃん、またのご来店、お待ちしてるにゃん!」 「あ、うん、じゃあね」 玄関の外に出た翔子は思った。最後に見た撫子の表情はいつもの笑顔だったが、電話で話している時の表情は普段見せない真剣なものだった。いったい、どんな内容の電話だったのか、誰からの電話だったのだろうか? 翔子は愁斗の部屋に戻りながら考えたがすぐに止めた。人のプライバシーを詮索するのはよくないことだと考えたからだ。 またすることがなくなってしまった翔子はダイニングのソファーに座って、テーブルの上に置いてあったテレビのリモコンを取って電源を入れた。 最初に画面に映ったのはローカルテレビ局のニュース番組だった。それも翔子の知っている場所が映っているではないか。 たまたま他の取材で来ていたところで事件に遭遇したらしい。つまりスクープというやつだ。 画面に映し出されているLIVE映像は、翔子のよく知っているアーケード街の映像だった。それも今日行ったばかりの場所だ。 どうやらワルドナルドの地下から煙が上がったらしい。地下にはたまたま誰もいなかったらしく怪我人はいないと思われたのだが、客席が荒らされていて、現場には血痕も残っていた。それなのに人がいなかったのだ。 「うっそ~、今日お店の横通ったじゃん」 などと言ってテレビに見入っていたら、コマーシャルになってしまって熱が冷めてしまった。 「つまんないのぉ~」 テレビの電源を落とした翔子はソファーの上で寝転がった。 時間の流れがすごくゆっくりに感じられる。退屈で退屈でたまらない。 「ヒマっ!」 辺りを見渡す翔子の目にいろいろな部屋に続くドアが映し出される。 他人の家を勝手にあさるのもよくないなぁ~と思いつつ、翔子は愁斗の部屋に興味を持ってしまった。どこかにある愁斗の部屋を見てみたい。そういう衝動に駆られてしまった翔子は立ち上がって部屋の中を歩きはじめた。 翔子の冒険気分の散策がはじまる。 このマンションの部屋は広くて部屋数も多い。翔子はここだというところに目星を付けてドアを開けた。 ドアを開けた瞬間に香水の匂いが流れ出て来た。亜季菜の香水と同じ匂いだ。 「ここじゃないなかぁ~」 と言いつつも部屋の中を見渡してみる。 華やかな色調のものが多く置いてある。だが、散らかっていて汚い。この部屋から性格が窺えるような気がする。 「愁斗くんはこんなズボラじゃないもんね」 ドアを閉めたところで翔子は思った。意外にカッコイイ人ってズボラだったり、どこか抜けてたりするかもと思ったのだ。だが、今の部屋は亜季菜の部屋だろうと思って次の部屋に移動した。 次のドアを開けた瞬間、ここだと翔子は思った。 無駄な物が一切なく、綺麗に片づけが行き届いた部屋。物が少ないせいか寂しい印象を受ける部屋は、間違いなく愁斗の部屋だった。 部屋の中に入った翔子は大きく深呼吸をした。それをやっている自分に気づいた翔子は恥ずかしくなった。 「なにやってんだろ、自分」 翔子が部屋を見渡しているとクローゼットを発見した。翔子は愁斗がどんな服を持っているのか興味を惹かれて扉を開けてしまった。 「きゃーっ!」 恐怖に叫び声をあげてしまった翔子。彼女はいったい何を見てしまったのか? 翔子はそれを死体だと思った。 大きめのクローゼットに座るよう置かれているナイトドレスを着た人間の形をしているもの。それは愁斗の傀儡だった。 見た目は人間と全く変わりない。だが、翔子はそれが傀儡であることに気づけた。 「眠っているみたい」 銀色の長い髪をした美しい女性の傀儡――翔子は魅入られてしまった。 翔子の手が傀儡の頬に触れた。それは人間の頬の感触と同じだった。だが、氷のように冷たい肌だった。 まるで安らかな眠りに落ちた姫のような傀儡。口元に耳を当てると寝息を聞こえて来そうだ。 大きくカットされたドレスの胸元に翔子の視線が移動した。 「何か模様がある」 胸の中心辺りに何か模様があるようだが、ドレスで隠れていて一部しか確認することができなかった。 ドレスから覗く模様が翔子は気になって仕方がなかった。そして、次の瞬間にはドレスに手をかけて脱がせていた。 露になった形の美しい乳房と乳房の中心にその模様はあった。目を奪われてしまう奇怪な紋様。それは翔子の胸にある紋様と全く同じものだった。 唖然とした。翔子にはショックだった。傀儡と同じ紋様が自分の胸にもある。 いつか翔子が死にかけた時、愁斗にその命を蘇らせてもらったことがある。 ――いいや、君死んだ。……そして、僕の傀儡になった。 目を覚ました翔子に愁斗はそう言った。 傀儡になった翔子に愁斗いろいろと説明をした。自分が傀儡師であり、妖糸と呼ばれる特殊な糸を操っていろいろなことができること、そして、翔子を蘇らせたこと。 いろいろ説明したと言っても、完結に言うと上で説明したことだけである。 翔子は蘇ったことを聞かされたが、傀儡については何も聞かされてない。愁斗の操る傀儡とはどんなものなのか全く聞かされていなかった。 翔子は目の前にいる傀儡を見て悲しくなった。自分には感情があり、人間らしく今も生きている。だが、自分も傀儡なのだと悲しくなった。同じ紋様があることがショックだったのだ。 胸に刻まれた印が目の前にいるモノと自分が同じものだといっている。 クローゼットをゆっくりと閉めた翔子は何も見なかったことにした。 愁斗の部屋を出た翔子はダイニングに戻りソファーの上に寝転んだ。そして、眠ることにした。 「さて、どういたしたものでしょうか?」 影山彪彦は後ろの二人を見て言った。 「お二人をまず殺すと選択肢もあるのですが……」 この言葉が冗談ではないことを悟った麻那と隼人は後退りをした。 麻那は強気な態度で出た。 「やれるもんなら、やってみなさいよ!」 彪彦の口元がつり上がった。 「やりませんから、ご心配なさらずに。最近は組織も丸くなりまして、昔なら手当たり次第に抹殺していましたがね。さて、わたくしたちはどこかに迷い込んでしまったわけですが、どうしますか、わたくしについて来ますか? そうしたらもとの世界に還れるかもしれませんよ?」 突然迷い込んでしまった異世界。そこはテーマパークのような場所だった。 この現実を麻那と隼人は受け入れなくてはいけない。ここに来る前にも彪彦を雪夜の戦いを目の当たりにしている。異世界の飛ばされたことも信じるしかない。 麻那は彪彦に詰め寄った。 「あんた本当にあたしたちをもとの世界に還してくれるの?」 「お二人で行動するより、わたくしと行動した方がいいと思いますが?」 この言葉に麻那はうなずき、後ろにいた隼人を見た。 「僕もその方がいいと思うよ」 彪彦はずれたサングラスを直しながら歩きはじめた。 「では、参りましょう」 「あんた、参りましょうってどこに行けばいいか知ってるの?」 「いいえ、勘です。ですが、あちらに何かがあるのは確かです」 遥か遠くにある城を彪彦は指差していた。 城は大部分が欠けていて、それが城だというのは辛うじて雰囲気からわかる程度だ。どうやら、城はまだ建設中のような感じが見受けられる。 テーマパークに先ほどから流れている音楽が急に軽快な旋律に変わり、何かが現れそうな感じがした。 現れたのはピエロだった。手にはナイフを持ち、今にもジャグリングを披露してくれそうな雰囲気だった。 「夢と冒険の世界、ネバーランドへようこそ!」 四本のナイフをお手玉のように回しながらピエロは大きな口で笑みを浮かべている。 すでに彪彦は黒い鉤爪を構えて戦闘体制に入っている。 鋭いナイフが彪彦に目掛けて次々と飛んで来る。それも四本だけではなく、ピエロの手で回されているナイフの数は減ることなく次々と投げられて来るのだ。 彪彦の身体が揺らめき、残像を残しながらナイフを避けていく。 的を外れたナイフは地面に落ちた途端に消えてなくなる。 ピエロはナイフを全て投げ終えて、次に手を後ろに回して爆弾を取り出した。その爆弾というのが、まるでアニメに出てきそうな形をしている。黒くて丸い玉に導火線が付いているという形だ。 ピエロはどこからか取り出したマッチで導火線に火を付けて爆弾を投げた。綺麗な放物線を描いて爆弾は彪彦に向かって落ちて来る。その爆弾に彪彦は鉤爪を向けた。 くちばしのような鉤爪の口が開かれる。あの液体を呑み込んだ時と同じだ。だが、まさか爆弾を呑み込む気なのか!? 火のついた爆弾を鉤爪が呑み込んだ。次の瞬間、鉤爪が風船のように膨れ上がり爆発音がした。 元の形に戻った鉤爪の口から消炎が出ている。だが、鉤爪は無傷のようだ。 恐いほどの笑みを浮かべていたピエロの顔が焦りの表情を浮かべた。口元が少し引きつっているのが窺える。 彪彦が風となり地面を駆けた。 鉤爪が大きな口を開けてピエロの頭に喰らいついた。それを見ていた麻那は顔を伏せ、隼人は凝視してしまった。 ピエロの頭はもぎ取られ、身体が地面に背中から倒れた。血は一滴も出ず、その代わりにピエロの身体は縮んでいき、やがて小さな人形になった。 彪彦は地面に落ちたピエロの人形を拾い上げて呟いた。 「なるほど、これも彼のマジックですか」 テーマパーク内に流れていた音楽が別のものに変わった。今度はパレードの音楽のようだ。 しばらくすると巨大な何かのキャラクターを模った乗り物や、動物のきぐるみたちや妖精の格好をした者たちがぞくぞくと現れた。 道路をパレードに占拠されて我が物顔で進んでいく。 彪彦は興味深そうに自分の横を通り過ぎていくパレードを見物して、麻那と隼人は唖然としながらパレードを眺めていた。 パレードの参加者たちは彪彦たちに危害を加えるでもなく、ただパレードをしながら通り過ぎて行ってしまった。 しばらくしてパレードを追いかけるような感じのうさぎが現れた。 うさぎは水色のジャケットにシルクハット、それにステッキまで持って、耳まで入れるとだいたい一五〇センチほどの身長で、二本足でぴょんぴょん走っている。 鉤爪を鴉にすでに戻している彪彦はうさぎの耳を掴んで強引に捕まえた。 「人間の言葉をしゃべることができますか?」 「ボクが思うに、人間の言葉をしゃべれるかどうかということより、ボクは早くパレードに追いつかないといけないと思うんだ」 うさぎは流暢な日本語で先を急いでいること告げるが、彪彦はうさぎの耳を離そうとはしなかった。 「急いでいるのはわかりましたが、どうかわたくしの質問に答えていただきたいのです」 「つまり、それは質問に答えないと、あ、ちょっと待ってください」 うさぎはそう言うとジャケットのポケットからケータイを取り出した。とても不思議な取り合わせだ。 耳を掴まれながらうさぎは誰かと話をはじめた。 「こんにちは王子様、何の御用ですか?」 うさぎはうんうんと何かにうなずいてケータイを切った。 「耳を離してください、急用ができました」 「質問に答えたら放して差し上げます」 「すぐに済みますから放してください」 「仕方ありませんね」 彪彦に耳を放されたうさぎはぴょんぴょんと跳ねしながら麻那と隼人の前まで行った。麻那は身構え、隼人は物珍しそうにうさぎを観察している。 「なによ、なにかする気?」 警戒心を強める麻那の身体にうさぎはタッチして、すぐに隼人にもタッチした。すると、麻那と隼人の姿がパッと消えてしまったではないか!? 「急用は終わりました」 そう告げたうさぎはぴょんぴょん跳ねて彪彦の前に戻った。 「今のは何をしたのですか?」 「王子様の命令で無関係な人たちには還ってもらいました」 「その王子様とは芳賀雪夜のことですか?」 「さあ? 王子様といつも呼んでいるので本当の名前は知りません」 王子様が誰だろうとしても、彪彦の動きがどこからか監視されていることは間違いない。そうでなければ都合よく電話がかかって来るはずがない。 彪彦の手が素早く動き、再びうさぎの耳を掴んだ。 「最後の質問をします。あなたは先ほど二人をもとの世界に還しましたよね? といことはあなたはわたくしをもとの世界に還す能力があるはずです」 「さあ、どうでしょう? ボクを捕まえたら教えてあげます」 捕まえるも何もうさぎはすでに捕まっている。だが、うさぎの耳が彪彦の手からスルリと抜けて、うさぎはぴょんぴょん跳ねながら逃走した。 彪彦はうさぎを再び捕まえようとしたが、それは叶わなかった。うさぎのひと飛びは一〇メートル以上もの距離を跳躍し、すぐに姿を消してしまったのだ。 「不覚ですね、まさか逃げられるとは思ってもみませんでした」 ずれたサングラスを直しながら彪彦は口元をつり上げた。そして、肩に止まっている鴉を天に羽ばたかせた。 鴉は上空高く舞い上がり何かを見つけてそれの追跡をはじめた。彪彦はその鴉を追って走る。 彪彦の前方に水色のジャケットを着たうさぎを見えて来た。あのうさぎに間違いない。 「行け!」 彪彦の命令で鴉は急降下をはじめてうさぎ目掛けて飛んで行く。そして、鴉は急降下しながらくちばしを広げた。 鴉のくちばしが信じられないほどの大きさになった。そのくちばしはうさぎを丸呑みできそうなくらいに大きい。 うさぎが鴉の襲来に気がついて上を見上げた瞬間、うさぎは鴉に丸呑みにされた。鴉のくちばしはもとの大きさに戻り、その身体は巨大なうさぎを呑み込んだというのにぜんぜん膨れ上がっていない。鴉の腹はいったいどうなっているのだろうか? 地面で主人を待つ鴉に駆け寄った彪彦は〝うさぎ〟に話しかけた。 「捕まえましたので答えを聞かせていただきたい」 鴉が腹話術人形のようにパクパクと口を動かし、その内からうさぎの声が聞こえた。 「答えはできるけど、できない。もしキミを還したらボクが怒られるからね」 「それは殺されてもでしょうか?」 「それはそれで困るから、魂を消滅させられる前に人形に戻ろう」 何が起きたのか見た目ではわからないが、うさぎは鴉の内で人形に戻った。 「無駄足になってしまいましたね。いや、わざと城から遠ざけられたという可能性もありますね」 それがうさぎの狙いだったのかもしれない。うさぎが逃げたのは城の間逆だった。それを追った彪彦は城からだいぶ離れてしまった。 自分の前に現れた人物を見て彪彦は最高の笑みを浮かべた。 「こんなところで出逢えるとはおもいしろい、まさか麗慈くんがここにいようとは思ってもみませんでした」 「それはこっちのセリフだ、ククク……」 彪彦の前に現れたのは組織に追われている雪村麗慈だった。 麗慈は愁斗の抹殺に失敗して、組織を裏切って姿を暗ましたのだ。その麗慈がなぜここにいるのか? 「俺が何でここにいるか聞きたいか?」 「いや結構、組織に連れて帰ってから、その件についてはお話しましょう」 「ククク……そう言うなよ。俺は組織から身を隠させてもらうのと交換条件で、この世界のナイトをやってるのさ」 麗慈の手が煌き、彪彦の横に光が走った。そう、麗慈は愁斗と同じように妖糸を操ることができるのだ。 妖糸が鞭のようにしなり地面を砕いた。 「ククッ、外したか」 「当たり前のことは言わないように。あたながわたくしに敵うわけがないでしょう。大人しく保護されるなら今のうちですよ、麗慈くん?」 「俺が大人しくないのは知ってるだろ?」 「ええ、熟知しています」 彪彦から放たれた鴉は大剣と化して麗慈向かって飛んで行った。 黒い大剣をギリギリで交わした麗慈はすぐさま妖糸を放つ。 必殺の妖糸の舞が放たれた。妖糸が鞭のようにしなり、槍のように突き、剣のように切り裂く。 「クククククククク……ククク……」 嗤いながら麗慈は彪彦を細切れにしようとした。だが、麗慈の攻撃はことごとく軽やかにかわされていく。 「何で当たらねえんだよ!」 「それは、あなたが偽者に過ぎないからです。真物の魔導士であるわたくしには絶対に勝てませんよ」 「くっ、バックか!?」 麗慈が後ろを振り向いた時には大剣が振り下ろされる寸前だった。 「ぐぐっ……!」 大剣が麗慈の腕を斬った。だが、切り落とされるまでには至らなかった。それでも妖糸を扱う右手が負傷してしまっては分が悪い。 「クククク……ヤッてくれるじゃねえか」 「どういたしまして」 「だがな、俺様は悪あがきが好きでよ、ククク……」 煌きが放たれ空間に一筋の光が走った。それを目の当たりにした彪彦は驚愕した。 「まさか、君が……それを使えるのか!?」 空間に闇色の傷ができた。そして、それは周りの空気を吸い込みながら広がっていき、やがては大きな穴をつくった。 「ククク……愁斗が使うのを見て、俺も扱えるようになったぜ」 闇色の裂け目から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。常人であれば耳を塞がずにはいられない。 麗慈の腕が彪彦に向けられた。 「喰らってやれ!」 裂けた空間から〈闇〉が叫びながら飛び出した。それは彪彦に襲い掛かった。 彪彦は瞬時に鉤爪を装着して〈闇〉を切り裂くが、〈闇〉の勢いには勝てなかった。 〈闇〉は彪彦の腕を掴み、足を掴み、胴までも掴み、身体中に絡みついた。 「く、なかなかやりますね」 彪彦は〈闇〉を振り払おうとするが、すでに腕は〈闇〉に呑み込まれていた。 「ククッ、いいザマだな。じゃあ、俺は逃げさせてもらうぜ」 麗慈は彪彦を残して姿を消してしまった。 〈闇〉は彪彦の顔を残して全てを包み込んだ。 「あの子は問題児ではありますが優秀ですね」 そう彪彦が言ったと同時に〈闇〉が何かに吸い込まれはじめた。いや、喰われはじめたのだ。 〈闇〉を喰らっていたのはあの鉤爪であった。 鉤爪は彪彦の身体に付いた〈闇〉を喰らっていった。だが、〈闇〉も負けてはいない。 空間の裂け目から〈闇〉が大量に出て来て彪彦に襲い掛かる。 「あの裂け目をどうにかしなくては……」 彪彦の腕が〈闇〉に掴まれ、彪彦の身体が空間の裂け目に向かって凄い勢いで引きずられた。 空間の裂け目の中に引きずり込まれる瞬間、彪彦の鉤爪が裂け目を喰らった。鉤爪は空間にできた傷までも喰らったのだ。 空間の傷が消えると〈闇〉はもう出て来ることができなかった。 この世界に残った微かな〈闇〉を鉤爪に喰わせて、彪彦はひと息ついた。 「麗慈はどのくらい真理に近づいているのか? 知らずして〈闇〉を扱っているようにも思えますがね」 彪彦は城を眺めた。 「おや?」 城が先ほどよりも遠くなっている。城が動いたのか、彪彦が動いたのか? この世界が大きくなっているのだ。この世界は成長している。 彪彦は全速力で地面を駆けた。悠長にしていたらいつまで経っても城に辿り着けなくなる。 風のように走る彪彦は人間の身体能力を超越した走りを見せている。足は全く動いていないように見えるのにも関わらず、その移動速度は時速八〇キロメートルを超えている。城はすぐに近づいて来た。 城は建設中のようにも見えるが、建設機材などは全くなくて壊れているようにも見える。 城の中に足を踏み入れた彪彦は思わず笑ってしまった。 「何ですかこれは!?」 城は中身がなかった。空っぽの城。城は周りの外壁しかなく、天井からは空が見えた。 外壁が音を立てて崩れはじめた。いや、空間が崩れはじめた。 次の瞬間、彪彦はもとの世界にいた。 「さっぱりわかりませんね」 彪彦のいる場所は開園が明後日に迫ったテーマパークの敷地内だった。 ネバーランドのアトラクションを満喫して、ご満悦な野々宮沙織は次のアトラクションを指差した。 「次はあれ乗ろうよぉ」 「ジェットコースターね。僕さ、実はちょっと苦手なんだよね」 苦笑いを浮かべている雪夜の腕を強引に引っ張って、沙織は乗り場に走って行く。 ジェットコースター乗り場には人がいなかった。無人でジェットコースターは動いている。 二人が待っているとジェットコースターが走って来た。やはり誰も乗っていない。この世界にあるアトラクションは人がいなくても動き続けているのだ。 二人が乗り込むとジェットコースターが走りはじめた。 加速していくジェットコースター。その先には二回転ループが待っている。それもループを回っている最中にジェットコースター自体も横に回転するというものだ。 「きゃーっ! おもしろ~い!」 「…………」 はしゃぐ沙織に対して雪夜の表情は優れない。 ジェットコースターは上へ下へを繰り返して、そろそろ乗り場が見えて来た。 「雪夜くん大丈夫ぅ?」 「……まあまあ平気」 ジェットコースターが止まると同時に雪夜の気分の悪さは悪化した。 「……気持ち悪い」 「わあ、顔真っ青だよぉ!」 「乗り物酔いしやすい体質でさ」 沙織の肩を借りながら雪夜はジェットコースターを降りて、そのまま近場にあったベンチまで行った。 ベンチに座りながら雪夜がうつむいていると沙織が声をあげた。 「麗慈センパイ!?」 沙織の声に反応して雪夜は顔をあげた。 「やあ、麗慈、何か用?」 「この中で組織の奴に遭っちまった」 二人が話しているのを横で見ながら、沙織は驚かずにいられなかった。 「うっそ、二人とも知り合いなの? どうして麗慈センパイがここにいるの?」 驚く沙織に麗慈は外面の優しい笑みを浮かべて答えた。 「久しぶり沙織ちゃん」 沙織はまさかここで麗慈に出会うと思ってもみなかったし、雪夜も沙織と麗慈が知り合いだったとは思ってもみなかった。 「沙織さんと麗慈って知り合いなの?」 「沙織と麗慈センパイは同じ学校の同じ部活だったんだよぉ。麗慈センパイがうちの学校転校して来て、一週間もしないうちに突然また転校しちゃったの。部活の打ち上げも来ないでいきなり転校でビックリしちゃったよぉ」 「俺さ、みんなに挨拶とかして転校すんの恥ずかしかったからさ、黙って転校しちゃんだよなぁ。あの時はホントごめんごめん」 これは嘘である。沙織が転校という言葉を使ったのでそれに合わせたに過ぎない。 星稜中学の学校祭である星稜祭の演劇部による公演の後、翔子を人質に取った麗慈は愁斗との決戦で敗北し、姿を暗ませてしまったのだ。転校というのは組織の隠ぺい工作であり、そのようになっていたことを麗慈は沙織の言葉で今知った。 麗慈は沙織の顔をちらっと見てから雪夜に話しかけた。 「少し込み入った話があるんだけどさ」 と言って今度は沙織の方を向いて言った。 「二人っきりで話したいことあるから、沙織ちゃんはここで少し待っててくんない?」 「うん、いいよ」 雪夜は立ち上がり、麗慈とともに沙織の姿が見えるが声が聞こえない程度の場所に移動した。 麗慈は少し怒っているようだった。 「何で組織のヤロウがここにいんだよ」 「あの人が麗慈の言っていた組織の人だったんだでもさ、ボクは君から組織に追われてるとしか聞いてないし、組織がどんな組織なのかも知らなかった。ボクは君のプライベートには基本的に関わっていない。だから、あの人が組織の人間だなんて判断ができないと思うけど?」 雪夜は麗慈から『組織に追われてるから匿って欲しい』としか聞いておらず、組織のついての知識は全くなかった。今日、彪彦からスカウトされた時に魔導に関する組織らしいことを知ったくらいだ。 「判断がどうこうなんつーのは関係ねえよ、何でいたのかを聞いてんだよ俺は!」 「ボクのことをスカウトに来たから、逃げるのに戸惑って仕方ないから一時的にここに封じ込めさせてもらっただっけだよ」 麗慈の表情が変わった。彪彦と戦っていた時と同じ表情だ。 「ククク……おもしろくなって来た。だが、組織がおまえの能力に興味を持ったってことは俺の身も危ないな」 「だったら、早く逃げれば?」 「ククッ、そうもいかない。俺は紫苑って奴と決着をつけるためにあいつの近くで身を潜めてたんだ。組織から逃げるのはあいつと決着をつけた後だ」 「そんなライバルみたいのがいるんだ。あっちの世界で戦うのが不都合なら、この世界を使ってもいいよ」 「ククク……最初からそのつもりだ」 「まあ、がんばって」 雪夜は麗慈のやることに興味がないというわけでもないが、どちらかと言ったらどうでもいいのだ。麗慈に協力はするが、ほとんど傍観しているに過ぎない。 麗慈の表情がもとに戻った。 「ところで、何であいつがこの世界にいるんだよ?」 親指で麗慈は空をぼーっと見ている沙織を指した。 「沙織さんはボクの世界のお姫様に迎えようと思ったんだ」 「あいつに惚れたのかよ?」 「さあ? ひとを好きになるって感情がボクにはわからない。でも、彼女の何かに惹かれた」 「そういうの惚れたっていうんじゃねえか? まあ、俺もそういう感情を持ち合わせてねえからわかんねえけどな」 組織の中で問題児として扱われて来た麗慈は、持っている感情の多くが欠落しているか壊れていて、組織の手に負えないことが多く、牢獄の中に長い間、閉じ込められていたのだ。 麗慈の手が煌き、空間を切った。 「じゃ、俺はいったんあっちの世界に戻るな」 「そう、じゃあね」 軽く手を振る雪夜に見送られ、麗慈は裂けた空間の中に飛び込んでいった。そして、空間の裂け目はすぐに閉じられた。 雪夜がベンチに戻ると沙織がビックリした顔をしていた。 「そんな顔してどうしたの?」 「今、麗慈センパイ消えたよね!? もしかして、麗慈センパイも魔法使いだったの?」 「そうだよ」 「すっご~い! そうだ、沙織に魔法の使い方教えてよ、沙織にもできるって雪夜くん言ったよね?」 「魔法少女になりたいんだっけ?」 沙織は公園で雪夜に魔法少女になりたいようなことを言っていた。沙織に魔導の才能があることを雪夜は感じたが、才能があってもすぐに使えるとは限らない。 瞳を輝かせて沙織は雪夜を見つめた。 「ねえ、どうやるの? 早く教えてよぉ~!」 「う~ん、魔法は自分の得意な種類の魔法というのがあるらしくって、例えばボクの場合は石を踊らせてみたり、こういう世界を創ったりするのが得意なんだ。沙織さんがどんな魔法が得意なのかがわからないから、う~ん、どうしようかな?」 雪夜の場合は努力も何もしないである日突然魔導が使えるようになったので、人にどう教えたらいいのかわからない。 「沙織も早く魔法使いになりたいよぉ~!」 「待って、どうしたらいいか考えているから……」 「早く早くぅ~」 沙織は魔法を早く使えるようになりたくて小さい子供のように駄々をこねる。それに雪夜は困ってしまう。 「え~と、そうだなぁ、そうだ、いい考えが浮かんだよ」 「えっ、なになにぃ?」 「まずは、ボクの力を借して沙織さんにこの世界に足りないものを補ってもらおう」 「どういうことぉ?」 「まずはボクの手を取って」 雪夜は沙織に手を差し伸べた。その手を沙織はぎゅっと握り締めた。 「次は目をつぶって」 「うん」 沙織は目をぎゅっと閉じた。 「最後はこのネバーランドを好きなように造り変えるんだ」 「どうやって?」 「想像するんだよ。こうだったらいいのになぁ~って感じでね。できるだけ具体的に想像するんだよ」 「うん」 想像は得意だった。沙織は小さい頃から一人遊びばっかりしていて、物語や世界を創造して遊ぶのが好きだった。 雪夜の目の前で世界が変わっていく。 アトラクションの形が可愛らしく変形し、テーマパーク全体がパステル調の明るい雰囲気になり、木々や花々が道の脇に生えはじめた。そして、最後に雪夜が足りないと心の奥底で感じていたものが現れた。 乗り物に乗る者たちのはしゃぎ声が聞こえ、親子連れやカップルが道を歩いている。世界が華やいだ。しかし、それは全部人間ではなく可愛らしい動物たちだった。 雪夜はこの世界に虚しさを感じていた。だが、その問題は沙織によって解決されたように思える。 ゆっくりと目を開ける沙織。 「うわぁ~、すごい、すご~い! みんな楽しそうでいい感じだよねぇ?」 「うん、楽しい世界に生まれ変わったよ」 雪夜は沙織に向かって微笑んだ。それは自然に出た笑みだった。 この世界は沙織の力によって生まれ変わった。だが、ただひとつ変わらなかったものがある。 雪夜は遠くに聳え立つ城を眺めて呟いた。 「……やっぱり、あれだけはそのままか」 「どうしたのぉ雪夜くん?」 「いや、別に」 あの城は雪夜自身を象徴しているものなのだ。あれだけは雪夜にしか創ることができない城なのだ。雪夜が完成させようと思わなければ、いつまでもあの城は〝未完成の城〟なのだ。 雪夜はベンチに座りながら往来する動物たちを眺めた。みんな楽しそうだ。きっと、これが沙織の心なのだろう。だが、どうして沙織はこんな世界を創ったのか? 沙織の心を通して雪夜は自分の心を見ようとしたが、あまりよく見えなかった。だが、自分自身の心を直接見るよりは見えたような気がした。 「雪夜くんはどうしてこんな世界を創ったのぉ?」 「さあ? どうしてだろうね。ボクもそれが知りたいよ」 何となく創り出したこの世界。きっと何となくでも意味はちゃんとあるのだろうが、雪夜にはそれがわからなかった。そして、それを知りたかった。 「雪夜くんって何かしたいことがあるの? そうだ、雪夜くんの夢って何、教えて教えてよぉ!」 「夢? そんなの考えたことないな。いや、待って、この世界とあっちの世界をごちゃまぜにしたいっていうのはあるけど、それって夢……かなぁ?」 「それおもしろいよ、やろうよ、世界中をぜ~んぶテーマパークみたいにするの」 別におもしろうそうだから雪夜はそれをしようと思ったのではない。向こうの世界を滅茶苦茶にしたかっただけだ。だが、雪夜は本当にそんなことがしたいのか、自分でもよくわからなかった。 雪夜にはすでに二つの世界を混ぜる計画を進めていた。 「実はね、このテーマパークとあっちの世界に新しくできるテーマパークをごちゃ混ぜにしようと思っているんだ」 「そんなことできるの?」 「まあね。クリスマス・イヴに開園するテーマパークがあるの知っている?」 「うん、ジゴロウランドのことだよね?」 「そうそう、そことここを混ぜるんだよ」 クリスマス・イヴに開園するジゴロウランド。麻那が森下先生もらったチケットもそのテーマパークのチケットだった。 沙織は興味津々で本当に楽しそうな顔をしている。 「早くごちゃ混ぜにしちゃおうよ!」 「まだだよ、まだ開園してないから、開園と同時に混ぜるんだ。それがうまくいったら、徐々に世界全体を造り変えていく」 「ねえ、沙織もいろいろ造り変えたいよぉ」 「うん、二人で世界を変えよう」 そう言いながらも雪夜は自分に世界全体を変えられるだけの力があるのかわからなかった。このネバーランドの基盤を創り上げたのは雪夜の力だ。だが、もともとある世界を造り変えることが可能なのか? そもそも世界というものは何によって創られているのか? このネバーランドは雪夜の想像によって創造された世界だ。では、人間たちが住んでいるあの世界は……? 雪夜には疑問に思うことがあった。自分の創り上げたこのネバーランドは現実なのか幻なのか? 何をもって現実というのか幻というのか? 雪夜のとってこのネバーランドと向こうの世界を混ぜるというのは、答えを見出すための計画でもあるのだ。雪夜は世界の真理に近づこうとしていた。 物思いに耽っている雪夜に沙織は何度も声をかけていた。 「雪夜くん、雪夜くんってばぁ、聞いてるぅ?」 「あっ、なに? ごめん、少し考え事してた」 「友達呼んでいいかなぁ? この世界に沙織のお友達も呼びたいの」 友達という言葉を聴いた雪夜は少し寂しい気分になった。今はこの世界で二人っきりで遊んでいたが、向こうの世界には沙織の友達がいる。 「いいよ、沙織さんの友達なら歓迎するよ。何人でも何百人でも連れて来ていいよ。でもね、大人は駄目だよ――この世界に住む資格があるのは子供だけさ」 「うん、わかった。仲のいい久美ちゃんと麻衣子ちゃんを呼びたいんだ」 「ふ~ん、どんな子たちなの?」 沙織は笑顔で二人の友達の話をはじめた。 「小学生の時から三人いつも一緒に遊んでたの。星稜中学に入学するのも、麻衣子ちゃんが星稜受験したいっていうから、沙織と久美ちゃんで猛勉強したりしたんだよ。久美ちゃんはね、結構口がキツイんだけど、本当はすごく優しいの。麻衣子ちゃんはしっかり者で頭がスゴクいんだよ。でねでね、二人ともスゴクカワイイんだよぉ」 楽しそうに友達の話をする沙織。それを温かい眼差し見つめる雪夜。 「ボクもその二人と仲良くなれるかな?」 「うん、沙織とお友達になれたんだから、久美ちゃんと麻衣子ちゃんともお友達になれるよ!」 「そうだといいね」 雪夜は自身がなかった。沙織には自分と同じものを感じたからこそ仲良くなれたが、沙織の友達だからといって友達になれるかというとそれは別の話だ。 町外れにある巨大な倉庫の中に亜季菜声が響き渡る。 「交渉決裂ね!」 そう言いながら亜季菜は札束の入ったブリーフケースを閉めた。 亜季菜はこの場所で翔子に説明した〝貿易〟をしている最中だった。だが、たった今、決裂した。 十数人の高級スーツに身を包んだ男たちが目の前にいる二人を睨み付けた。殺伐とした空気が辺りを包み込む。 睨み付けられた当の本人である亜季菜ともう一人の人物は怖気づく様子はない。このようなことはいつものことだ。亜季菜は横にいる人物とともに数々の修羅場を掻い潜って来ていた。 亜季菜の横にいる人物は大きな鍔のある黒い帽子を被り、黒いインバネスを纏い、全身は全て闇色に包まれている――ただ一箇所を除いて。 闇色の中に白い仮面が浮かんでいた。 異様な雰囲気のする人物であるが、亜季菜の護衛としてその筋では有名な人物だ。 帰ろうとする亜季菜の背中に一斉に銃が向けられた。これもいつものことだった。 次の瞬間、閃光が走った。――宙を拳銃を持った男たちの腕が舞った。紫苑の妖糸が放たれたのだ。 男たちの両足が切り飛ばされ、発狂死した男たちが地面に転がった。辺りは血の海と化した。おぞましい光景だ。 亜季菜が急に怒り出した。 「スーツに返り血が飛んで来たじゃないの!」 「近くにいるからだ」 紫苑は空間を切り裂いた。 裂かれた空間は唸りながら周りの空気を吸い込み、巨大化していった。 空間にぽっかりと開かれた先の見えない闇の中に何かいる。 亜季菜の背筋に冷たいものが走り、彼女は耳を強く塞いだ。聞きたくない! 闇色の裂け目から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。 腕を伸ばし紫苑が高らかに命じた。 「行け!」 裂けた空間から〈闇〉が叫びながら飛び出した。 〈闇〉が唸り声をあげると、地面に散乱していた死体は一滴の血も残さずに〈闇〉に呑み込まれ、〈闇〉は空間の裂け目に還っていった。 これならばここで殺人があったなど誰も思わないだろう。 「帰るわよ、翔子ちゃんがお待ちよ~ん」 亜季菜の態度もここで〝何か〟あったとは思えない態度だった。だが、彼女は心の中では恐怖していた。いつ聞いても、いつ見ても、あの〈闇〉は慣れるものじゃない。彼女がこの世で一番恐いと思うものはあの〈闇〉であった。 何度も目の前で紫苑の技を見ている亜季菜であるが、それが何であるかを正確に認識しているわけではない。あんな恐ろしいもののことなど詳しく知りたくもないのだ。 二人が倉庫を出ると亜季菜専属の運転手であり右腕の高橋宗太が出迎えた。リムジンもちゃんと用意されている。 素晴らしいタイミングで開かれたドアの中に亜季菜と紫苑は滑り込んだ。 走り出した車内で紫苑は帽子を取り仮面を外した。これが紫苑から愁斗に戻る瞬間である。 「早くマンションに帰ろう」 「実はもうひとつだけ仕事があるのよね」 「嫌だ」 愁斗は即答した。だが、愁斗はその権利が自分にないことを知っている。亜季菜には返しきれない恩がある。 亜季菜は缶ビールを飲みながら気軽な感じで言った。 「次の仕事は簡単だから大丈夫よ」 「何度その〝大丈夫〟という言葉に騙されたことか……」 亜季菜は大丈夫と言う言葉を裏返しの意味で使っているのではなく、大丈夫でないことの割合が多いだけのことだ。 ――だいぶ長い時間を走ったリムジンはビル街に入り、ある巨大ビルの前で停車した。有名な上昇企業のビルだ。 ビールをまだ飲み続けている亜季菜は完全に酔っ払った口調で命じた。 「ここの社長がターゲット」 亜季菜はノートパソコンの液晶画面に指をぐりぐりと押し付けた。そこには有名な社長の顔がある。すぐそこにあるビルの社長だ。 ターゲットを確認した愁斗の指がしなやかな動きを見せた。 妖糸は開けられたリムジンのドアを抜けて、どんどん途絶えることなく伸びて行く。 地面を這いながら妖糸は聳え立つビルの中に入って行った。 妖糸は誰にも気づかれることなくロビーを抜けて、そのまま非常階段を抜けて最上階まで上がった。 長い廊下を抜けて妖糸は社長室のプレートが取り付けられた扉の前で一度止まった。 ビルの外に止まるリムジンの車内にいる愁斗の指が再び動かされる。 ドアの隙間から室内に妖糸が進入する。まず、秘書たちがいる部屋がある。ここには三名の秘書がデスクに座り業務をこなしていた。 どれも美人揃いの秘書のひとりに妖糸が絡みついた。この瞬間、この秘書は自らの意思で身体を動かすことも、声を出すことも封じられ、傀儡と化した。 妖糸で操られた秘書が突然立ち上がり、社長のいる部屋のドアをノックした。すると中から社長の声がした。 「入りたまえ」 「失礼します」 と挨拶をしながら、秘書はドアを静かに開けながら中に入った。 ドアを閉め終えた秘書はお辞儀もせずにいきなり無表情のまま社長に襲い掛かった。 「な、何をするんだ!」 社長が大声を上げると残り二人の秘書たちが室内に飛び込んで来た。だが、その時にはすでに社長はか細い手から想像もできない力で秘書によって首を締め上げられてしまっていた。 「ぐぐ……」 泡を吐いて白目を剥いた社長から力が抜け、首を絞めていた秘書は昏倒した。 床に倒れる二人を見て、二人の秘書は血相を変えて顔を見合わせた。この瞬間、妖糸が切られた。 愁斗がゆっくりと告げた。 「終わった」 ビルの外にいたリムジンがゆっくりと走り出した。焦る必要はない――証拠は何もないのだから。 亜季菜は新しいビール缶を開けて愁斗に手渡そうとした。 「祝杯よ、飲みなさい」 「いつも言ってますけど、僕は未成年ですから」 「あぁん、連れないわねぇん」 完全に酔っ払った亜季菜は美しく伸びた脚と腕を愁斗の身体に絡めて来た。 「怒りますよ」 そう言いながらも愁斗の表情は怒りではなく無表情だった。こちらの方が恐いかもしれない。 「怒った愁斗クンも素敵よぉ~」 「高橋さん車を止めてください」 リムジンはすぐに道路の脇に停車した。 「僕、歩いて帰ります」 亜季菜の身体を振り払って愁斗はリムジンを降りた。すると亜季菜に有無を言わせぬまま高橋によってアクセルが踏まれ、リムジンは走り去ってしまった。 辺りを見回した愁斗の目に地下鉄の入り口が入った。 ここから愁斗のマンションまではだいぶ距離がある。電車を使わなければ帰れない距離だ。 迷わず愁斗は地下鉄を利用することにした。 地下に下った愁斗は券売機に前に立って、ある重大なことに気がついた。 「財布を持っていなかった」 以外にズボラな愁斗だった。 行き詰まりを覚えていた調査の情報を得た撫子はマンションを飛び出した。 彪彦から何も情報をもらっていなかった撫子は情報収集に苦労していた。そこへ組織からの電話があり、翔子を帰らせて家を飛び出したのだ。 「にゃ~もう、忙しぃ~!」 撫子の向かっている場所は雪夜の家であった。撫子の住むマンションからはそう遠い距離ではないが、走っている撫子には長い道のりだ。全く余裕で息を切らせる様子がないのは撫子が普通の女子中学生ではないからだ。 しばらくして、前方から撫子の知り合いが歩いて来るのが見えた。それは奇妙な体験をして来た麻那と隼人だった。 撫子は急いでいたがいちよう挨拶をする。 「にゃば~ん! こんちわッスお二人さん」 そのまま撫子が通る過ぎようとすると、麻那の手が素早く動いて撫子の背中を捕らえた。 「待ちなさいよ!」 「うがっ! にゃに? アタシマッハで急いでるんですけどぉ~!」 「いいから、あたしの話を聞きなさい!」 出遭った途端に怒られて撫子は露骨に嫌な顔をして見せた。 「ぷぅ~、横暴だぁ~」 「いいものあげるから手を出しなさい」 「いいもの!」 撫子の目がキラキラと輝いた。 麻那はバッグから二枚のチケットを出して撫子の手のひらに置いた。あのテーマパークのチケットだ。 「はい、大事にしなさいよ」 「爆マジ!? ってこれって隼人センパイとラヴラヴデートするためのじゃにゃいんですかぁ?」 鋭い撫子の私的に異様に麻那は動揺して顔を真っ赤にしながら怒りだした。 「そ、そんなことないわよ! あたしと隼人がデートって、付き合ってもないし、こんな頼りない優男なんて……その、もういいから、黙って受け取りなさいよ!」 「ほ~い、黙って受け取って置きま~す」 麻那がチケットをあげた理由は隼人との相談の結果だった。二人は当分の間、テーマパークには行きたくない気分で、あの出来事は二人の中でなかったことにしようと決めたのだ。そこで、誰かにチケットを譲ろうとということになり、たまたま出会った撫子にチケットをあげたのだ。 チケットを偶然にも手に入れた撫子はあるセリフを言ってから急いで逃げた。 「お二人とも、お幸せにぃ~!」 「違うって!」 麻那の声を背中に浴びながら撫子は走った。 もらった二枚のチケットを見ながら撫子は独り言をしゃべる。撫子は独り言が多く、それは呟くというレベルではなく、普通のしゃべる声の大きさで独り言をしゃべる。 「このチケットどうしよー。これペアチケットでしょ、アタシ一緒に行く恋人いにゃいよ……あっ、翔子にあげて愁斗クンとのラヴラヴデート大作戦に役立ててもーらお」 走り続けていた撫子はようやく雪夜の家に到着した。 雪夜の家は住宅街のどこにでもあるような二階建ての一軒家だった。 家を見回した撫子は何とも言えない感じを家から感じ取った。 「爆魔導波っ!」 普通の人にはわからないが、この家はもの凄い悶々と魔導を辺りに撒き散らしていた。きっとこの辺りは事故などが多いに違いないと撫子は思った。 家の敷地に足を踏み入れただけで撫子の身体に静電気みたいなものが走った。 撫子は魔導士ではないが、魔導を感知する能力に関しては普通の魔導士よりも高い。だが、このように大きな魔導が渦巻く場所では、それが仇となってしまう。撫子は魔導を感知する能力には優れていても、それに対する耐性は感知能力に見合っていないのだ。 玄関のドアにかけた撫子であったが鍵は開いていない。当然と言えば当然だ。 「ここで一発、撫子ちゃんマジック!」 撫子は人間とは思えないほどのジャンプ力で一気に二階の屋根に上った。そして、すぐにベランダに忍び込んだ。 窓は閉まっているが鍵が開いているのが見える。撫子はニヤニヤしながら窓を開けた。 が、窓を開けた瞬間、撫子は後ろに吹き飛ばされそうになった。家の中から外に魔導を含んだ空気が一気に流れたのだ。 家の中に入った撫子は驚愕するとともに、自分の行動が迂闊だったことに気がついた。 入って来た窓がない。それどころか窓越しに見た部屋の中とは全く違う部屋なのだ。 部屋の中は普通の家の中といった感じで、家具などが置いてあり生活観に溢れている。だが、撫子は息苦しさを感じた。 「うげうげぇ~」 撫子はヨロウロしながら歩き出し、雪夜の部屋を見つけに歩き出した。 どうやら撫子が現在いる場所は居間のようだった。 襖を開けて次の部屋に入った撫子は頭を抱える動作をしてうずくまった。 「烈にゃんじゃこりゃ~!」 撫子のいる場所はトイレだった。居間の襖を開けてトイレに行くなど普通の家ではありえない。 「トイレに行きたいかにゃぁって気持ちはあったけど、こういう展開は予期せぬ展開だよぉ。と思いつつも少しトイレタイム」 しばらくして水の流れる音が聞こえて撫子がトイレから出て来た。だが、ここはバスルームだった。 もう出す声もなかった。ということもなく、撫子は間を置いて叫んだ。 「にゃーっ!」 怒りを露にしながらも撫子はこういう時のためのマニュアルを思い出した。 撫子は浴槽に水が張ってあるのを確認すると、勢いよく飛び込んだ。 大きな水しぶきを上げて撫子の姿が水の中に沈んだ。次の瞬間、撫子は天井からベッドの上に落っこちた。水の中が別の場所に繋がっていたのだ。 全身ずぶ濡れの撫子は身体をぶるぶるっと震わせて水しぶきを辺りに撒き散らした。 「絶対アタシはこの家におちょくられてる」 ベッドのシーツを剥ぎ取ってタオル代わりにして全身を拭き、撫子はもう一度全身をぶるぶると振るわせた。 どうやらここは寝室のようで、ベッドが二つ並んで置いてある。 部屋にはドアは一つしかない。だが、撫子は迷わず窓を開けて外に出た。 窓は横開きであったはずなのに、なぜか撫子は冷蔵庫の冷蔵室から中から出て来た。 次に撫子は迷うことなく冷蔵庫の野菜室に入った。 撫子は住宅街のど真ん中のマンホールから這い出て来た。 辺りを見回す撫子。ここは普通の住宅街ではなく、おもちゃのブロックで作られた住宅街だった。ブロック一つ一つの大きさも通常では考えられないほど大きい。 「うっそ~、爆マジ!? もう、いい加減にしてよぉ~」 撫子は心身ともにどっと疲れてしまって、プラスチックの地面にへたり込んだ。そして、そのまま背中から地面に寝転んだ。 空は青かった。だが、本物の空ではなくて、天井を空色に塗りつぶしたように見える。 「目的の部屋にはいつ辿り着けるんだろうか……しみじみ撫子ちゃんでした」 ここで撫子はある重大なことに気がついた。 「てゆーか、外に出れるの!?」 このまま迷い続けたら、目的の部屋に着けないどころではなく、一生外の世界に出られないかもしれない。 「にゃはは~、切実な問題だねぇ~」 撫子は完全に力尽きて目を閉じた。もう、どうでもよくなってしまったのだ。 しばらくして、パトカーの音が聞こえて来て撫子は飛び起きた。 道の先からおもちゃのパトカーを大きくしたような車が走って来る。 「アタシだよね!?」 撫子は逃げた。パトカーはその撫子を追って来る。 偽物のパトカーとはいえ、時速は八〇キロメートルを越えていた。だが、撫子の全速力もそれに負けず劣らずで、パトカーとの距離は広がりも縮みもしなかった。 撫子は電柱によじ登った。次の瞬間、パトカーが電柱に衝突して電柱を揺らした。 「爆マジですか!?」 壊れたパトカーからおもちゃのブロックに付属していそうな警官の人形が二体出て来た。それも普通の人間サイズだ。 警官は拳銃を撫子に向けた。 「まっさかねぇ~」 まさかではなかった。拳銃が火を噴いたのだ。 さすがの撫子でも銃弾は避けきれず、左肩を銃弾が貫通した。 左肩から血を出しながら撫子は地面に落下し、両手を付きながらどうにか着地した。 空かさず銃弾が撫子に浴びせられる。 アクロバティックな動きで撫子は銃弾を交わしつつ、バク転をしながら塀を越えた。 庭に逃げ込んだ撫子を追って警官がすぐに駆けつけて来る。 「しつこいオトコは嫌われるよぉ~ん!」 撫子は軽やかに飛び上がり家の屋根に上って、足を止めることなく屋根から屋根へとぴょんぴょん飛び移って行く。 どうやら警官は追って来れないようだ。だが、安心するのはまだ早かった。 撫子の耳がぴくぴくと動き、上空を飛んで来るものを感知して、それが飛んで方向を来る勢いよく振り向いた。 「爆マジですか奥さん!」 おもちゃのヘリコプターが撫子に向かって来ていた。もちろんサイズは本物と変わらない。 重装備のヘリコプターからロケットランチャーが発射された。 シューンと風を切る音を立てながらロケットランチャーが撫子に向かって来る。撫子は叫ぼうと思ったが、そんなことをする暇などなく、急いで地面にダイブして足を止めることなく逃げた。 爆音と爆風が撫子を背中から吹っ飛ばした。 「にゃ~っ!」 地面に放り出された撫子の背中は少し焦げていた。 撫子は息つく暇もなく立ち上がって逃げた。 ヘリコプターからは機関銃が発射され、地面に穴を開ける。撫子だから避けられるのであって、普通の人間に避けることは不可能だ。 道路を走る撫子の背中からは銃弾が追って来る。 突然、銃声が止んだかと思うと、撫子は別の場所にいた。今までいた世界の境目を抜けたのだ。 地面は発泡スチロールでできていて土色に塗られている。周りには廃墟と化したビルがあり、煙が立ち昇っている場所もある。 巨大な影が撫子を呑み込んだ。それは人型をしているが人の巨人の影ではない。 撫子が後ろを振り向くとそこには巨大ロボットいた。頭頂高約一九メートル――撫子の身長の約一三倍だ。 「爆裂サイテー! もう撫子ちゃんは脳天爆発でいっちょやってみっか!」 ロボットは撫子を踏み潰そうとしたが、撫子はそれよりも素早く動いてロボットの足をよじ登った。 撫子は鋭い爪でロボットの足を引っ掻いた。すると、ロボットの中身が見えたのだが、中身は空っぽであった。まるでプラモデルの内部のようであった。 ロボットは撫子を捕まえようと手を伸ばしてくるが、撫子はロボットの身体中を移動して魔の手から逃れた。だが、ついに撫子は捕まった。 大きなロボットの手に摘まみ上げられた撫子はそのまま地面に放り投げられた。 空中で回転しながら撫子は地面に華麗に着地した。けれども、足が発泡スチロールの地面に埋もれてはまった。 「うっ……抜けない」 足が抜けなくて悶える撫子の頭上に、ソードと思われる巨大なプラスチックの棒が振り下ろされようとしていた。 「にゃーっ!」 足がどうにか抜けて、そのまま撫子は横に転がって逃げた。すると、撫子のいた場所にソードが振り下ろされて、発泡スチロールがへこんだ。 「うん、逃げよう」 撫子は全速力で駆けた。後ろからソードを振り回しながら追って来るロボットになど目もくれずに走る。 この世界の境を撫子は飛び越えた。 気がつくと撫子は子供部屋にいた。どうやらやっと目的の場所に辿り着いたようだ。 この子供部屋にはブロックで作られた町やプラモデルのジオラマセットが置いてあった。それを見た撫子はため息を落とした。 「こんにゃとこで大冒険してたのか……バカらしぃ」 撫子が先ほどまでいた場所は子供のおもちゃの中であったのだ。 机の上に置かれているパソコンに撫子は注目した。 パソコンの前に座った撫子はパソコンの電源を入れようと手を伸ばした先にあるものを見つけた。それは開かれた雑誌に付けられた赤丸印であった。 雑誌を手に取った撫子は印の付けられた記事に注目した。 「にゃるほどねぇ~」 撫子はポケットに手を突っ込んで麻那からもらったチケットをまじまじと見た。印の付けられた記事に書かれている内容は、撫子が今手に持っているチケットのテーマパークのものだった。 雑誌を置いた撫子は改めてパソコンを起動させた。 まず撫子はデスクトップ画面に何かがないか調べた。するとWebページのショートカットアイコンがあったのでクリックしてみた。すると、先ほどのテーマパークのホームページにアクセスされたではないか。 「にゃ~んか、気ににゃるにゃ~」 撫子の鋭い勘がこのテーマパークに何かがあると訴えている。 テーマパークのホームページに一通り目を通した撫子は、他にも何かがないかパソコンの中を調べはじめた。 「にゃ~んとヒット!」 撫子は日記を見つけた。この中には何か重要は手がかりがある可能性が高い。 日記を開こうとしたのだがパスワードを要求されてしまった。 「うっそ~、爆マジ!? そんにゃの聞いてにゃいよぉ」 と言いながらも撫子の指は異常な速さで動き、パスワードを入力することなく簡単に日記を開いてしまった。 日記は数年前から書かれているらしく、撫子は最新のものから読んでいくことにした。 撫子の表情が曇る。 日記の内容はネガティブな思考をだらだらと書き綴ったものが多く、読んでいるとだるくて気分が沈んでくる。 「おおっと!」 撫子は元気を取り戻して画面に食いついた。日記の文中に先ほどのテーマパークの名前が出て来たのだ。しかも、興味深い内容が書いてある。 ――このテーマパークとボクの作ったテーマパークを融合させてみたいと思う。そうすれば、ボクが常日頃から抱いていた〝世界〟についての謎が解けるような気がする。 「美少女名探偵撫子ちゃんの頭にビビッとひらめきがキラリ~ン!」 他の日記を読むのがだるかった撫子は、このテーマパークに的を絞って今後の調査をすることに決めた。 撫子は日記の内容をネットを介してどこかに送り、次にハードディスクをフォーマットした。つまり、パソコンの中に入っていたデータを全部消してしまった。そして、極め付けに本体を分解しはじめて、中身のハードディスクを自慢の爪で壊した。 ひと仕事終えた撫子は腕を天井に向けてめいっぱい伸ばして息を吐いた。 「よし、帰るか」 撫子は椅子から立ち上がり意気揚々とドアを開けて外に出た。 「……あっ」 トイレに出てしまった。 「しまったーっ!」 便器に腰掛けて撫子はどっと肩を落とした。 夜になってどうにかしてマンションに戻って来た愁斗を出迎えたのは、だいぶ前に帰って来た亜季菜と夕食をともにしている翔子だった。 「あら、遅かったわね愁斗クン。どこ行ってたの?」 わざとらしく聞いて来る亜季菜に対して、愁斗は適当に答えた。 「散歩です」 疲れた様子で愁斗はソファーに座った。その前のソファーテーブルには特上寿司が置いてあった。 「亜季菜さんどうしましょう、愁斗くんの分がないですよ?」 寿司は一つも残っておらず、残っているのはガリだけだった。 口をもぐもぐさせながら亜季菜はまたわざとらしく言った。 「可笑しいわね、三人前注文したはずだったのに……どこに消えたのかしら?」 それは亜季菜と翔子の腹の中に消えたのだろうが、愁斗は何も言わなかった。 亜季菜はケータイを取り出して愁斗に恩着せがましく言った。 「しょうがないから愁斗クンのために追加注文してあげましょうねぇ」 「いりません」 はっきりと断った愁斗に亜季菜は少しムカッと来た。 「その態度はなあに?」 「走って疲れているので食欲がないんです」 これは本当だった。愁斗は走って自宅まで帰って来たのだ。 亜季菜は少し驚いた顔をしていた。 「あそこから走って帰って来たの!?」 「そうですよ」 「バッカじゃないの、それってスッゴイことなのに全然スゴク聞こえないのは何でなのかしらね」 亜季菜は愁斗のことをチクチク苛めるのが好きらしい。 翔子は壁に掛けてある時計の針を見た。夜の八時を少し過ぎている。 「私もう帰りますね」 立ち上がった翔子の腕を亜季菜が引っ張って強引に座らせた。 「あら、今日は止まっていくんじゃないのかしら?」 「そんな、迷惑になりますから」 亜季菜の目が妖しく輝き部屋の隅に置いてあるスポーツバッグを見た。 「あのバッグは何が入っているのかしらねぇ~、と言いつつ、さっき翔子ちゃんがトイレに入っている時に物色させてもらっていたりするのよねぇ」 亜季菜の物色したバッグは翔子が持って来たスポーツバッグだった。 バッグを物色されたことを知った翔子は顔を真っ赤にした。 「ひ、ひどいですよ、プライバシーの侵害です!」 「ええっと、着替えに、バスタオルにドライヤーと歯ブラシ、それからマンガもあったかしらね」 イマイチ状況が呑み込めない愁斗はこんなやぼな質問をした。 「何でそんな物を持って来たの?」 「……そ、それはつまり」 「お泊りするために決まってるじゃないの」 亜季菜に答えを言われてしまった。愁斗何の疑問も抱かずに亜季菜の言葉に納得した。 「そうなんだ、なら帰ることないね。今日はうちに泊まるといいよ、瀬名さんのご両親は旅行中なんだしさ」 旅行中という単語を聞いて亜季菜の目が光った。 「翔子ちゃんのご両親お出かけしてるのね。で、どのくらいの期間?」 この質問に何の疑問も抱かずに翔子は正直に答えてしまった。 「今日から一週間ですけど……?」 「あら、それは大変ね。そういうわけで一週間の間うちに泊まること決定ね」 翔子が声も出せずに驚き、愁斗もこれには驚いた。 「亜季菜さん、頭平気ですか?」 「自慢じゃないけど頭はいつもイッちゃってるわよ。というわけで、翔子ちゃんは明日家に帰って一週間分の着替えを用意してくるように。翔子ちゃんがいいなら、一年分の着替えでもいいのよ」 これは愁斗と翔子の仲を歓迎しているのか弄んでいるのか、どちらなのだろうか? 恐らく後者だろう。 冷めたばかりの顔を再び真っ赤にした翔子は立ち上がった。 「ちょっとトイレに行ってきます」 翔子は走って逃げた。 亜季菜は不敵な笑みを浮かべる。 「トイレに逃げ込むっていい手ね」 「亜季菜さん、僕たちのことからかって楽しいですか?」 「あたしの趣味に口出ししないでよ。でもね、あの娘のことあたし気に入っちゃった。だから、別れたらあたしが承知しないわよ」 これは亜季菜の心からの祝福の言葉であった。亜季菜は嬉しそうに微笑んでいる。 真剣な顔で愁斗はうなずいて見せた。 「僕は一度だけ彼女のことを守れませんでした。でも、次は絶対にありません。僕は彼女を守ってみせますから」 「……そういう歯の浮くセリフよく言えるわね、聞いてるこっちが恥ずかしくなるわよ」 「……そういう風に言われると僕も恥ずかしくなります」 はにかむ愁斗の瞳に翔子が戻って来るのが映った。まだ翔子の顔は赤い。 「この部屋暑くないですかぁ?」 顔をパタパタと仰ぐ翔子に対して亜季菜は言う必要もないのにわざわざ言う。 「エアコンの設定温度は適温になってるわよ」 「わかってますよそんなの、亜季菜さんに言われてエアコンつけたの私ですから」 翔子の心に火が点いた。この小姑のような亜季菜とうまくやっていかなくては愁斗との関係はうまくいかない。 呼吸を整えて再びソファーに座った翔子は何を言おうとしたのだが、亜季菜に先手を打たれてしまった。 「ところで二人はキスとかしたの?」 「してませんよ!」 翔子は激しく反論したが愁斗は無言だった。翔子はその時、意識がなくて知らないだろうが、翔子は愁斗とキスを交わしている。翔子を傀儡として蘇らせる時に愁斗は翔子にキスをして目覚めさせたのだ。 「してません、してません、してません! ねえ、愁斗くんも亜季菜さんに言ってやってよ!」 「……ごめん、した」 「えっ!?」 そんな記憶ないと翔子は思った。そんな大事なこと忘れるはずがない。ありえないことだ。 パニック状態になった翔子は愁斗に詰め寄った。 「したってどういうこと!? いつどこで誰が? ウソでしょ、ウソだよね?」 翔子に肩を揺さぶられながら愁斗は首を横に振った。 「瀬名さんの意識がない時にキスしたんだけど、それは――」 「いいよ、聞きたくない、そういうのズルイと思う。私が寝てる時とかにこっそりキスしたんでしょ、卑怯、スケベ、エッチ、まさか愁斗くんがそんな人だとは思わなかった、ばかぁ!」 「寝てる時……じゃなくって」 「言い訳なんか聞きたくないよ!」 翔子は愁斗が止める暇もなく家を飛び出して行った。 唖然とする愁斗に亜季菜は追い討ちを掛けた。 「あ~あ、泣いて出てちゃった。二人の初キッスを相手が寝ている時に奪うなんてサイテーね」 「だから違いますって! 人の話をちゃんと最後まで聞いてくださいよ」 「はいはい、言い訳はいいから早く追いかけてあげなさいよ」 愁斗はそれ亜季菜に反論するのを止めて急いで翔子を追いかけた。 翔子には愁斗の妖糸がいつでも巻きつけてあった。それを使えば証拠の意思と関係なく、自分のところへ引き戻すことが可能なのだが、愁斗もそこまでやぼなことはしない。 翔子に絡み付いている妖糸はどんどん伸びて行く。愁斗が全色力で走ればすぐに翔子に追いつくことができたが、愁斗はそれをせずに翔子が走るのを止めてどこかに辿り着くのを待った。 妖糸が翔子が止まったことを愁斗の指先に伝えて来た。それを確認した愁斗は安心して走るのを止めて歩き出した。今すぐ翔子に会っても彼女の気がまだ静まっていないだろうと判断したからだ。翔子にもいろいろと考える時間が必要だろうと思い、それは自分にも必要だと愁斗は思った。 愁斗は夜空を見上げながらゆっくりと歩いた。彼の心にはもやもやしたものがあった。だが、それが何であるかわからなかった。 最近の自分は少し変だと愁斗は思う。それは星稜中学に転校して来てからだ。そう、具体的に言うと翔子と出逢った頃からだ。 愁斗は父――秋葉蘭魔とともに組織から逃げ出した後、いろいろな人々の心を観て来た。だが、観て来た感情の中でも人を想うという感情は翔子と出逢ってから愁斗の心に芽生えたものだった。 翔子は自宅の玄関でひざを抱えて座っていた。 愁斗は優しく声をかけた。 「瀬名さん」 ゆっくりと顔を上げた翔子はすでに泣き止んだ後のようだった。 「何で追いかけて来たの?」 追いかけて来ることをどこか期待していたのにも関わらず反発してしまった。 「どうしてって言われても、心配だったからとしか答えられないよ」 「わかってるよ、そんなの……」 愁斗は翔子の横にゆっくりと座った。 「こんなところにいると風邪引くよ」 「それもわかってる、だって家のカギ愁斗くんちに置いて来ちゃったんだもん」 「翔子ちゃんらしいね」 「それってばかにしてるの!?」 怒った翔子を見て愁斗は微笑んだ。 「少し元気になった?」 「ならない!」 翔子は顔を伏せてしまった。 星を眺めて愁斗が黙っていると、顔を伏せながら翔子は小さな声で話しはじめた。 「どうしてキスしたの?」 「だからね、寝ている時っていうのは誤解で……」 口ごもる愁斗を翔子はちらっと見た。 「どうしてそこで口ごもるの?」 翔子を傀儡として蘇らせたこと、それが正しい行いだったの愁斗にはまだ判断できていなかった。 他の傀儡と違って翔子は人間の感情がある。傀儡に感情を与えたのは初めてのことであり、唯一の成功例だった。もう一人の感情は未だ愁斗の力では戻すことができていなかった。 だが、一度死んだ人間をこの世に呼び戻すことは正しい行いだったのか? 同じ問いが愁斗の心を回り続ける。 あの時は感情に任せて翔子を躊躇うことなく蘇らせた。身体は翔子のものと使ったとはいえ傀儡であることには変わりない。 「僕は、瀬名さんを傀儡として蘇らせた……その時に僕の魔導力を分け与えるために口移しをしたんだ」 「……傀儡」 傀儡になる前と今の翔子は何も変わっていないのと同じように見える。だが、翔子の心臓には魔導の源が埋め込まれ、胸には契約を交わした印が刻まれている。 翔子は服を脱いだ時にいつも胸にある印が気になってしまうが、それ以外の時は自分が傀儡である実感はない。普通の人のように普通の生活を送っている。 「愁斗くん、傀儡って何なの? 私自分でもあまり実感が湧かないんだけど傀儡なんだよね?」 「ああ、瀬名さんは僕の傀儡だよ。傀儡は傀儡師の道具であり、武器だ。敵と戦い傀儡師の代わりに朽ち果てる運命なんだ……でも、瀬名さんは違う、瀬名さんには人間の感情がある、ただの道具なんかじゃない」 「私は人間だよ、瀬名翔子、十四歳のどこにでもいる中学生。自分でそう思ってるからそれでいいよ」 「瀬名さん……」 「キスのことは許してあげるね。でも、それはなかったことにして、これが……」 翔子の唇が愁斗の唇に軽く触れてすぐに離れた。 「こっちが二人の初キスってことにいようね」 「あ、うん」 「愁斗くんち帰ろう!」 翔子はドキドキした気持ちを抑えながら愁斗の手を掴んだ。 立ち上がった愁斗は彼にできる最高の微笑で翔子の顔を見つめた。 結局、翔子は愁斗宅で一晩を過ごすこととなったのだが、寝る場所がないということで亜季菜と一つのベッドで寝ることになってしまった。 「く、苦しい……」 朝、翔子が目を覚ますと彼女の身体は亜季菜の腕や脚によって拘束されていた。 翔子は自分に絡みついた亜季菜の身体を丁重に外した。そして、相手を起こさないように慎重にベッドから起きた。 「逃げる気!」 翔子の身体がビクっと震えて、心臓がぎゅっと鷲掴みにされたような感覚を覚えた。 身体をカクカクさせながら翔子が振り返ると、亜季菜は寝返りを打ちながら安らかに眠っている。 「……寝言か」 安心した翔子は忍び足で移動してドアノブに手を掛けたその瞬間! 「逃がさないわよ!」 思わず翔子はドアノブから勢いよく手を離した。そして、再び後ろを振り向くと、やはり亜季菜は眠っていた。 「……また寝言か」 今度こそ部屋の外に出ようと翔子がした時、またも! 「翔子ちゃん!」 ビクッと震えながらも翔子が振り向くと、亜季菜が脚を組みながらベッドに座っていた。 「おはよう、翔子ちゃん」 「お、おはようございます」 「やっぱり翔子ちゃんはからかい甲斐があるわね」 「……寝言じゃなかったんですか?」 「そうよ」 亜季菜は翔子よりも先に起きていたのだ。これから先も翔子は亜季菜にからかわれ続けるに違いない。 これ以上からかわれないうちに翔子は部屋を出ようとしたのだが、亜季菜の攻撃は止まらなかった。 「そうだ、寝言を言うのは止めた方がいいわね」 「……私、寝言なんて言ってましたか?」 「愁斗クン愁斗クン愁斗クンって連発してたわよ」 「本当ですか?」 慌てはじめた翔子を見て不敵な笑みを浮かべる亜季菜はさらっと呟いた。 「嘘よ」 翔子は無言で部屋を足早に退室した。 ダイニングに翔子が入ると、ダイニングキッチンからいい匂いがして来た。そこでは愁斗が朝食の準備をしていた。 「おはよう瀬名さん」 「うん、おはよう」 「亜季菜さんと一緒でよく眠れた?」 愁斗の質問に翔子は首を横に振って答えた。あの亜季菜が簡単に寝かせてくれるはずがなかった。逃げようにも逃がしてくれなかったのだ。 翔子の表情を見て全てを見通した愁斗はうなずいた。 「ごめん、後で僕から亜季菜さんちゃんと言っておくから」 「ありがとう」 「もうすぐ朝食できるからそっちで座って待ってて」 「うん」 ぼーっとしながら翔子がくつろいでいるとテーブルの上に朝食が運ばれて来た。 「あ、私も何か手伝う」 「いや、もう全部運び終わっちゃったよ」 「あぁ……ごめん」 テーブルの上にはトーストやサラダが置かれていたが二人分しかないようだ。亜季菜の分がないのだろうか? 「愁斗くん、亜季菜さんは食べないの?」 「あのひと、朝食は食べないひとだから。それに生活が不規則だから、頼まれない限りはあのひとの分の食事は作らない」 「もしかして、毎日愁斗くん自分で食事作ってるの?」 「まあね、誰も作ってくれるひといないから、必然的にね」 作ってくれるひと、という言葉に翔子は反応して、自分が作ってあげたいと思ったが、翔子は料理ができなかった。 朝食をとり終えて翔子が皿などをキッチンに運ぼうとすると、愁斗が立ち上がって自分の皿と翔子の皿をまとめてトレイに乗せた。 「僕がまとめて運んでいくから」 「じゃあ、洗い物する」 「いいよ、僕がやっておくから」 「じゃあ……」 翔子は何か手伝いをしないと悪い気がしてしまっているのだが、何もすることが見つからなかった。 「私、一度家に帰って荷物持って来るね」 「気をつけてね」 愁斗の笑顔をもらった翔子はさっそく着替えを済ませて出かけた。 家に一度帰って着替えなどの荷物を持って来る。つまり、翔子は数日間、愁斗宅にお泊まりする気満々なのだ 翔子は持って来たスポーツバッグを抱えながら玄関を出たところで、ふらふらこちらへ歩いて来る撫子とばったり出会った。 「撫子、おはよう」 「今、何日何時何分何十秒?」 虚ろな目をした撫子は出会ってすぐにこんな質問をして来た。翔子は少し不思議な顔をした。 「二十三日八時半過ぎ……くらいだけど?」 「ふにゃ~、うげ~、うぴょ~ん」 「……大丈夫?」 「ダメ」 今の撫子は心身ともに衰弱しきっていて、自分が何を言っているのかすらもわかっていない。 「撫子、ひとつだけ聞いていいかな?」 「おひとつどーぞー」 「何で昨日と同じ服装なの?」 昨日、翔子が撫子宅を訪ねた時と同じ格好を撫子はしていた。それにはちゃんとした理由があるのだが、撫子は翔子に教えなかった。 「そこら辺の件についてはノーコメントってことで」 組織の任務に関係する事柄だったので口外することができないのだ。そう、撫子は今日の朝まで雪夜の家で遭難していたのだ。 腕を地面に垂らしてぶらんぶらんしている撫子はそのまま自分の部屋に帰ろうとしたのだが、翔子は撫子の背中を引っ張って強引にそれ阻止した。 「ちょっと待って」 「にゃあに?」 「料理作ってるって言ってたよね?」 今の今まで元気のなかった撫子が突然、胸を張って大きな声を出した。 「おうよ、料理だったら人に教えられるくらいの腕前さ」 「じゃあさ、私に教えて!」 「食べるの専門って言ってにゃかったけ?」 昨日は撫子に料理作りを勧められた時、『私は食べる専門でいいや』と言っていた翔子であるが、好きな人に自分の料理を食べさせてあげたいという気持ちが芽生えて翔子は料理の勉強をすることを決意した。 「昨日は昨日、今日は今日。私は料理の上手な女の子に生まれ変わるの」 「ふ~ん、愁斗クンが翔子料理食べたいにゃ~って言ったとか?」 「ううん、違うの、そうじゃないんだけど、愁斗くんに食べてもらいたいっていうのは本当かな」 「爆裂花嫁街道まっしぐら修行中瀬名翔子中学二年生の乙女って感じだね。青春を桜花爛漫してるねぇ。そんな翔子にアタシからのビッグプレゼント!」 ある物を思い出した撫子はポケットからそれを出して翔子に手渡した。 「なにこれ?」 「新しくできたテーマパークペアチケット、クリスマス・イヴだけ有効だからね。愁斗クンとデートを満喫しておいで」 「ありがとう、本当にもらっちゃっていいの?」 「どーぞ、どーぞ、持ってけ泥棒」 大喜びをして翔子はチケットをポケットにしまった。その顔はにやにやしている。 「ありがとう、がんばるね!」 「おう、じゃ、アタシは寝るから」 再びだらんと腕を垂らした撫子は自分の部屋に帰って行った。 ぶらぶら翔子が歩いていると前方から二人組みの女の子歩いて来た。いつもは三人一緒にいることが多いのだが、今日は久美と麻衣子しかいない。 久美は無言で翔子に頭を下げて、麻衣子が挨拶をして来た。 「翔子先輩おはようございます」 聞くほどのことでもないのだが、いつも三人いるのになぜだろうと思い、翔子は聞いてしまった。 「沙織ちゃんはどうしたの?」 久美と麻衣子は顔を見合わせた。二人だけの時も当然あるだろうが、本当は〝三人〟でいるはずだったのだ。 麻衣子が少し不安そうな顔をして翔子に事情を話しはじめた。 「実は沙織さんと一緒に遊ぶ約束していたのですが、どこにいるかわからないんです」 「翔子先輩は沙織見かけませんでした? ケータイも出ないし、家にもいないみたいなのよね。沙織が約束破るなんてあんまりないから、少し心配で……」 沙織は人に嫌われたりすることを恐れていて、大事な約束を破るようなことはしたことがなかった。だが今、沙織は友達との約束を忘れてしまうような場所にいた。 翔子は時にはそんなこともあるだろうと軽く考えていた。 「何か急用ができたんだよ、きっと」 「でも、そうでしたら連絡をして来るはずです」 麻衣子は少し強い口調でそう言った。彼女は沙織に絶対の信頼をしていて、連絡がないということは事件や事故に沙織が遭ってしまったのではないかと考えていたのだ。 それは久美も同じだった。 「この子のことだから、変な人に行っちゃったとかありえるのよね」 本当に友人のことを心配する二人の表情を見て、翔子は先ほどの自分の考えを撤回した。 「私も沙織ちゃんのこと見つけたら二人に連絡するから、ね?」 「ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません」 麻衣子は翔子に頭を下げて、久美もすぐにこう頼みながら少しだけ頭を下げた。 「よろしくお願いします」 「うん、じゃあ、二人ともバイバイ!」 二人と別れて翔子は歩き出した。 しばらくして、後ろから人の驚くような声が聞こえたような気がして、翔子は急いで振り返ったが何もなかった。 「気のせいか、二人とも、もう行っちゃったのかぁ」 翔子は気がついていない様子だが、久美と麻衣子は翔子が見ていないうちに空間に溶けるようにして姿を消してしまっていたのだ。 何も知らないまま再び歩き出す翔子。 「早く荷物持って愁斗くんち行かなきゃ」 早くと言いながらものんびりと歩いてやっと翔子の家が見えて来た。 自宅に辿り着いた翔子はすぐに玄関を開けて家の中に入った。一日しか経っていないけれど、懐かしいというか、新鮮な感じがする。 翔子はまずスポーツバッグの中に入った洗濯物を洗濯機の中に放り込んで、洗濯機を回してから二階の自分の部屋に向かった。 静かな家の中に階段を上る音が響く。 自分の部屋に戻った翔子は服を適当にバッグの中に詰め込んでいって、最後にお気に入りの服をデート用に入れた。 バッグを抱えた翔子がふと窓の外を見ると雪村麗慈がいた。 翔子は慌てた。まさか、あの麗慈が現れるなんて! 道路を歩いている麗慈はどこに向かっているのか歩き去ってしまう。 急いで翔子は家を飛び出して麗慈を追った。 「麗慈くん待って!」 麗慈の背中に向かって大きな声を出した。 足が止まり微笑んだ麗慈の顔が振り向いた。 「やあ、翔子ちゃん久しぶり」 「あ、あの……」 追いかけて来たが、何をしゃべっていいのかわからなかった。 翔子は以前、麗慈の命令で撫子にさらわれたことがある。だが、翔子はさらわれた時、ほとんど気を失っていたので、後で愁斗からいろいろな話を聞いたが、麗慈が悪い人だったという実感があまりしなかった。翔子は学校や部活での麗慈の顔しか知らないのだ。 「何もないなら俺は行くよ」 「あ、麗慈くんって本当に愁斗くんのこと殺そうとしてたの?」 「ククッ、そうだよ」 嗤った麗慈の醜悪な顔。こんな麗慈の表情を見たのは翔子にとってはじめてであった。いや、翔子は朦朧とする意識の中でこの顔を見たことがあったことを思い出した。 翔子の背筋に冷たいものが走った。 「……どうしてこんなところにいるの?」 「リベンジだよ、俺は愁斗を殺り損ねたからな。次は絶対に仕留めてヤルよ」 「もしかして、今から愁斗くんに会いに行く気なの!?」 麗慈の歩いていた方向には愁斗のマンションがある。麗慈は愁斗に〝挨拶〟をしに行くつもりだったのだ。 「ククク……だったらどうする?」 嗤って聞いた。翔子には何もできないことを麗慈は知っている。 『止める』と翔子は言いたかった。だが、それを自分ができるのだろうか? 「愁斗くんのところには行かせない」 「強がりはよせよ、おまえじゃ無理」 「やってみないとわからないでしょ!」 やってみなくても答えは出ている。翔子は愁斗と麗慈が戦っているのを直接見ていたわけではないが、本気を出した麗慈が別の者と戦っているのは朦朧とした意識の中で見たことがあった。あれを見てしまっては普通の人間ならば麗慈に逆らったりはしない。 麗慈の手が煌きを放った次の瞬間、翔子の手に赤い線が走った。 「痛っ!」 「今は軽く切っただけだけどさ、首を跳ね飛ばすのだって簡単だし、そうだなぁ、服だけを切り裂いて裸にするって芸当もできるよ」 「…………」 翔子は何もできず、何も言えなかった。今、変なマネすれば絶対に殺される。 麗慈はわざと翔子に背を向けて言った。 「かかって来たいなら来なよ、いつでもヤッてやるよ。まあ、俺がどっか行くまで動かなければ手は出さない。最近は無駄に切り刻むのも飽きたからな、生かしてやるよ」 背中越しに手を振りながら麗慈は行ってしまった。 動かなければ殺されない。だが、翔子はそれ以前に足がすくんで動くことができなかった。 麗慈の姿が見えなくなってだいぶ経ってから翔子は地面にへたり込んだ。全身の力が抜けて今度は立ち上がることができない。 「ダメ……動けない。でも、早く愁斗くんのところ行かなくちゃ」 だが、やはり立ち上がることができなかった。 愁斗は自分の部屋のクローゼットを開けた。 クローゼットの中で永遠の眠りにいている傀儡。人間とは思えないほど妖艶で美しい女性を模った愁斗の大切な存在。ここで眠る銀髪の美女は人間を模った傀儡ではなかった。 ここで眠る女性のもととなった人間は魔女や悪魔と呼ばれることもあった。ある意味それは真実であったかもしれない。その女性はこの世界の住人ではなかった。 秋葉蘭魔――すなわち愁斗の父に召喚された者。それがここで眠る傀儡のもとになった女性だった。 座るように置かれている傀儡の衣服が乱れていて胸が露になっていた。 「誰の仕業だ……?」 呟く愁斗の脳裏に翔子の顔が浮かんだ。 昨日、翔子は愁斗の部屋に忍び込んで傀儡を発見した時、胸の印を確かめてそのまま服をもとに戻さずにクローゼットを閉めてしまったのだ。 「翔子が紫苑を見たのか……?」 紫苑という名の傀儡の乱れた服を綺麗に整えて、愁斗は氷のように冷たい紫苑の頬に優しく触れた。 愛しい者を見る瞳で愁斗は紫苑を見つめた。だが、その想いは翔子に抱く想いとは別のものだった。 愁斗は紫苑を見つめ何を想う? この傀儡は愁斗にとってどのような存在なのだろうか? 愁斗は冷たい唇に自分の唇を重ね合わせた。そっと離れた愁斗の哀しみの表情を浮かべ、瞳から流れた涙は頬を伝って地面に零れた。 「いつか……必ず……」 傀儡でなければならない理由。愁斗が傀儡師であり続ける理由、それは――。 突然、玄関が開かれた音が愁斗の耳に届いた。 翔子が出かけた時に愁斗が自分で玄関の鍵を閉めたはずだ。それに亜季菜はまだ眠っている。 クローゼットをゆっくりと閉めた愁斗は廊下に飛び出した。 廊下で奴が待っていた。そこには麗慈が立っていた。 「久しぶりだな紫苑」 「再び私の前に現れるとはどのような用件だ?」 冷たく響く愁斗の声。これが彼の内に秘められた彼だ。 「決着をつけようと思ってな……ククク」 「決着ならすでについている。私に手首を切り落とされたこと、忘れたとは言わせない」 以前の二人が直接決戦をした時、勝利を収めたのは愁斗であった。麗慈は妖糸を放つことのできる右手を手首から切断されて戦闘不能になった。今、麗慈の右手がもとに戻っているのは愁斗が縫合したためだ。 「ククッ、あの時の俺と今の俺様を一緒にしてもらっちゃ困るおまえの見よう見まねで変なのを呼び出せるようになったぜ」 これは〈闇〉のことを言っている。愁斗は〈闇〉を呼び出すだけでなく、召喚も行えるが麗慈にはまだできない。だが、〈闇〉を呼べるだけでも脅威だ。 「何が呼べるというのだ? それは〈闇〉のことを言っているのか?」 「よくは知らねえが、闇色をしたやつだから、その〈闇〉ってやつなんだろうよ」 「貴様が〈闇〉をか……召喚は使えるのか?」 「いいや、でも今の俺ならおまえに勝てる」 「それだけでは私には勝てぬな。貴様は〈闇〉を知らずして使っている、いつか己が〈闇〉に喰われる……いや、貴様が喰われるだけならば何も言うまい。〈闇〉を使うのを止めろ」 「ククク……ヤダね。こんなおもしろい力、使わない手はない」 嗤う麗慈に対して愁斗は冷笑を浮かべた。 「先ほど『今の俺ならおまえに勝てる』と言っていたが、確かにあの時の私になら勝てていただろう。だが、あの時の私は重症を負いながらも貴様に勝った。つまり貴様は弱者でしかない。貴様がどのような力を手に入れようとも私は貴様に負けない」 玄関のドアが開けられ二人が麗慈を挟み撃ちにした。ひとりは愁斗、そして、もうひとりは紫苑だった。 麗慈は後ろを振り返って紫苑の顔を確認した。 「あの時の顔か!?」 麗慈が見た紫苑の顔。それはいつか紫苑の仮面を剥ぎ取った時に見た顔であった。 愁斗は高らかな声をあげた。 「私を含むもの、それが〝紫苑〟だ」 「ククク……二人掛かりとは卑怯だな」 「私は善良なる者ではないのでな、そうでなくては〈闇〉も使いこなせん」 麗慈の身体が揺らめいて霞んだ。逃げる気だ。 「逃がすか!」 愁斗と紫苑の手から同時に妖糸が放たれたが、それは麗慈が消えた後だった。 麗慈が消えた後、その声だけがこの場に残ってこう告げた。 「明日、ジゴローランドっていうテーマパークで待ってるぜ。時間はいつでもいい、必ず来い、おまえと俺のデートを楽しもうぜ! クククククククク……」 声が消えた後、愁斗は紫苑のもとへ行き、彼女を抱きかかえて自分の部屋に戻った。 愁斗の部屋の窓が開いていた。先ほどは閉まっていたはずだ。麗慈が愁斗の前に姿を現してすぐに、紫苑をこの窓から外に出して玄関に向かわせたのだ。 クローゼットの中に紫苑は再び入れられた。 「あんな奴に紫苑の素顔を見せてしまってごめんよ」 そう傀儡に語りかける愁斗。紫苑の素顔は愁斗だけのものであり、他の者に見せたくなかったのだ。 また、ドアの開かれる音がした。そういえば鍵をまだ掛けていなかった。 ゆっくりとクローゼットのドアが閉められるのと同時に愁斗の部屋に翔子が駆け込んで来た。 「ごめん、勝ってお邪魔します! いた、愁斗くん、ここにいたのね」 「どうしたのそんなに慌てて?」 先ほど麗慈と対峙していた愁斗はもういなかった。愁斗は笑顔で翔子を出迎えた。 落ち着き払っている愁斗だが、翔子はそれどころではなかった。 「大変なの、麗慈くんに会ったの!」 「そう、なんだ。大丈夫、何もされなかった?」 「ううん、ちょっと手を切られたけど平気。それよりも愁斗くん気をつけて、きっと愁斗くんのこと殺しに来るよ」 もう来た後だったが、愁斗そのことを翔子に黙っていることにした。 「大丈夫だよ、僕の心配はいいから」 「よくないよ、愁斗くんにもしものことがあったら……」 翔子は目に涙を溜めはじめた。そんな翔子の手を愁斗が取った。 「消毒とかしておこうか?」 「消毒なんて今はどうでもいいよ、それよりも私は愁斗くんのことが心配なの」 「でも、消毒はしなくてもおまじないはしておこう」 愁斗は翔子の手を持ち上げて、傷口に軽くキスをした。 「すぐに治るよ、きっと」 「ばかぁ」 涙を止めた翔子は顔を赤くした。こんなキザなことをしても愁斗の容姿を持ってすれば許されてしまう。 翔子は愁斗に微笑みかけられて、自分も微笑んでしまっていた。だが、愁斗の後ろにあったクローゼットに視線が行ってしまって少し表情を曇らせてしまった。彼女が表情を曇らせたのは本当に一瞬のことであったが、愁斗にそれを見られた。 「瀬名さん、クローゼットの中、見たよね?」 「ううん、見てないよ」 決して嘘をつこうとしたわけではなく、反射的に嘘をついてしまっていた。 「嘘をついてもわかるよ」 「あ、あの、だから……」 「服を脱がせたままだったよ、印を確認したんでしょ?」 翔子は小さくうなずいた。 「ごめん、見るつもりはなかったの……でもね、でも聞いて、私と同じ模様があるの、私もあれと同じなの?」 とても翔子は不安そうな顔をしていた。 真剣な顔をした愁斗が翔子の手を引いてクローゼットの前まで行った。 愁斗の手によってゆっくりと開けられるクローゼット。中にいた紫苑はまるで眠っているようだった。 「彼女の名前は紫苑――瀬名さんと同じ傀儡だ。でも、瀬名さんと紫苑は根本的に違うところがある」 愁斗は翔子の手を導いて紫苑の頬を触らせた。とても冷たい頬だ。翔子はそれを知っていたが、改めて声に出して呟いた。 「冷たい頬……感触はまるで人間のようだけど、この冷たさを感じると人間じゃないことがわかる」 「この紫苑には血も流れている。けれど、その血は氷のように冷たい。そして、何よりもこの身体は作り物に過ぎない、瀬名さんの身体は正真正銘、人間の身体だよ」 愁斗の言葉を聴いて翔子はそっと自分の胸に手を当てた。心臓の音とともに温かさが手を伝わって感じられた。 「私、実はこの人形を見た時、自分も人形の身体なんじゃないかって心配になったの」 「身体は瀬名さんのものだし、瀬名さんには紫苑の持っていない人間の〝心〟を持っている。だから……瀬名さんは……この紫苑とは違う」 愁斗は紫苑を見ながら涙を流した。これは誰に対して泣いているのだろうか? 翔子には紫苑に対して愁斗が泣いているように見えた。 「愁斗くん、この女の人、誰……なの?」 聞かない方がよかったかもしれない。でも、ここまで来たら聞かずにはいられなかった。 愁斗が答えるまでしばらく時間があった。その間、翔子は声を出さずに涙を流す愁斗の横顔を見つめていた。 「……今は言えない。でも、きっといつかは言うよ、全部」 全部という言葉にはこの紫苑以外のことも含まれていた。だが、愁斗が翔子に話さない全ての話は糸を手繰り寄せていくと、その糸は全てどこかで紫苑に繋がっている。 翔子は愁斗に何もかも話して欲しかった。愁斗のことを知りたかった。翔子は自分の見て来た愁斗しか知らない。 寂しい気持ちを感じながらも翔子はそれ以上聞かなかった。そして、彼女は泣き止まぬ愁斗の手に自分の手を重ねた。 「愁斗くんのこと好きだよ」 「ありがとう……だから、話したくないんだ。瀬名さんは今の僕を好きになってくれた……だから、瀬名さんの知らない僕を見せたくない」 「いいよ、今は見せてくれなくても。私だって例えば、家にいる時にだらしない格好してるの愁斗くんに見られたくないし……ごめん、あんまりおもしろくなかった?」 「ううん、瀬名さんのだらしない格好見てみたいな」 愁斗は微笑んだ。そして、翔子も微笑を返す。 「じゃあ、そのうち見せてあげるね」 『そのうち見せてあげる』だから愁斗にもそのうち見せて欲しかった。翔子は愁斗の全てを好きになりたかった。だから知るところからはじめたかった。 「瀬名さんのだらしない格好、楽しみにしてるね」 「楽しみにされても困るよぉ」 「でも、楽しみしてる」 「だから、そんなにいいものじゃないよ。髪の毛爆発してるし、たまになぜか起きたらパジャマ脱いでる時とかもあって、本当に恥ずかしいんだから」 二人がいい感じに話していると邪魔が入った。 「愁斗ク~ン!」 ダイニングの方から亜季菜の声がした。 愁斗は軽いため息をついた。 「はぁ、起きちゃったのか」 「ほら、ため息なんかついてないで行こう」 翔子に背中を押せれて愁斗はダイニングに重い足取りで向かった。 「何ですか翔子さん?」 「飯!」 ソファーで寛ぐ亜季菜はすでにスーツに着替えて、超ミニスカから覗く長い足を見せ付けるように座っていた。 「僕に命令しないで出前取ればいいじゃないですか」 「だってぇ~、愁斗クンお料理上手だしぃ~、あたしって外食多いでしょ、だから家庭の味が恋しくなるのよねぇ~」 「だったら、自分料理覚えたらどうですか?」 「そんな時間ないわよ」 翔子は二人の会話を聞いていて、ある物を撫子からもらったことを思い出した。そして、それを出す勢いに合わせて勢い任せで叫んだ。 「愁斗くんデート行こう」 愁斗の前に差し出されたチケット。それを見た愁斗はすぐに答えた。 「いいよ、それでいつ?」 「明日、明日テーマパークでデート。クリスマス・イヴだから、そのなんていうか、ロマンチックでしょ?」 「…………」 愁斗は黙り込んでしまった。明日と言えば、麗慈に決闘を申し込まれた日だ。そして、愁斗は『クリスマス』という単語を聞いて、あることを思い出してしまった。クリスマスは愁斗の母の命日でもあったのだ。 黙りこんだ愁斗の顔を翔子は不安そうに見つめていた。 「ダメかな……?」 「いや……」 翔子を危険な目に巻き込みたくない。だが、目の前にいる翔子を見ていると断りづらい。 あの場にちょうど居合わせた亜季菜は、この時ばかりは翔子の見方になってくれた。 「イヴにデートなんていいじゃない、行って来なさいよあたしが許可するわ」 「亜季菜さんが許可するとかしないとかの問題ではなくて――」 ふと愁斗が横を見ると翔子が泣きそうな顔をしていた。 「だって、だって、私たちデートって言えること一度もしたことないんだよ。それにこのチケット明日限り有効のディナー付き招待券なんだよ」 翔子はチケットがよく見えるように愁斗の眼前に突き付けた。だが、それで愁斗の表情が余計に曇ってしまった。 チケットにはジゴローランドと書かれている。偶然にも麗慈がして指定して来た場所と重なってしまった。 「駄目だよ、やっぱりごめん」 「どうしても?」 「ごめん」 「じゃあクリスマス前日は?」 「それも……」 口ごもった愁斗の代わりに亜季菜が言った。 「クリスマスは愁斗ひとりにさせてあげて、毎年クリスマスはそう決まってるから」 クリスマスは愁斗はひとりで――正確には紫苑とともに母の墓参りに行くと決めていた。その時間は誰にも邪魔されたくない時間だった。 昔の愁斗だったならば冷たい言葉で断れた。だが、今の愁斗はいろいろなものを恐れるようになっていた。 「明日デートに行こう」 ――大丈夫、何があろうとも絶対に僕が守ってみせる。 そう愁斗は何でも自分に言い聴かせた。 「愁斗くん大好き」 嬉しさのあまり翔子は愁斗に抱きついた。 「若いっていいわね、羞恥心もどこ吹く風ね」 抱き合う若いカップルを見ながら亜季菜はビール飲んでいた。 「あーっ!」 翔子が突然叫んだ。 「私のスポーツバッグ玄関に置きっぱなしだった。あーっ! 家の鍵閉めて来るの忘れたし洗濯機に洗濯物いれっぱなしだ! ごめん、もう一回家に行って来る」 翔子は慌てた様子で走って行ってしまった。 「青春だわね」 微笑を浮かべながら亜季菜はビールを飲み干した。 翔子と別れてすぐに久美と麻衣子は不思議な現象に襲われた。 「あ――」 麻衣子が叫ぼうと思った時には彼女の身体は別の場所に飛ばされ、久美の身体も空間に溶け込むようにどこかに飛ばされた。 二人が飛ばされた場所は沙織によって新しく生まれ変わったネバーランドだった。 ベンチでクレープを頬張る沙織の前に久美と麻衣子は強制的に呼び出された。沙織の横には雪夜もいる。 「はじめまして、僕の名前は芳賀雪夜です」 「久美ちゃん麻衣子ちゃん沙織の国へようこそぉ!」 麻衣子は沙織が見つかったことよりも、自分が現在置かれている状況を確認した。 「遊園地?」 久美は沙織に少し怒った様子で詰め寄った。 「あんた、こんなところで何してんのよ、私たちと遊ぶ約束してたのに!」 「久美ちゃん怒らないでよぉ~、だからここで遊ぼう」 〝ここ〟と言われて久美は改めて辺りを見回した。 「どこよ、ここ?」 この質問には雪夜が答えた。 「ここはね久美さん、子供の楽園ネバーランドだよ。ボクが基礎を創り出して沙織さんが可愛らしく造り変えてくれたんだ。ここにいれば歳を取らずに子供のままいられる」 「そんなバカな話あるわけないじゃない!」 怒った口調で久美は大声を出したが、麻衣子はずーっと辺りを行き交う者たちに目を奪われていた。動物のようだがきぐるみだと思われる。だが、異様としか言いようがない光景だった。 「普通の遊園地にしては不気味ですね」 沙織は麻衣子のところに小走りで駆け寄った。 「そうかなぁ~、可愛いと思うけど? ほら、あそこにいるピンクのうさぎとかとってもキュートでしょ?」 雪夜の顔つきが急に変わった。 「誰かが侵入したのか……。沙織ちゃんにお二人さん、ボクは少し出かけて来ますから、どうぞこの世界を楽しんでいてください」 雪夜の姿が突如消えた。それを目の当たりにした久美と麻衣子は目を丸くした。 「なに今の!?」 「私たちも突然この場所に来ましたけど……」 麻衣子何か答えを求めるように沙織を見つめた。 「え~とねぇ、見たまんまだよ。雪夜くんは魔法使いなの、それで沙織も魔法使い見習いって感じかなぁ~?」 こんなことを言われても信じられるはずがない。だが、久美と麻衣子はここに連れて来られ、雪夜も目の前で姿を消した。体験してしまっては信じるしかなかった。 麻衣子は考え込んで黙ってしまい、久美は沙織に詰め寄った。 「魔法使いってどういうことよ、そんなこと信じられるわけないでしょ?」 「久美ちゃん夢ないねぇ~、だって雪夜くんが消えるの見たでしょ?」 「そ、それは……。麻衣子パス!」 久美は何も言えなくなって後は麻衣子に任せた。 「可笑しなことが起こっているのは確かなようです。私たち以外、普通の人間がいませんし、あの雪夜くんが消えたのも事実ですし、私たちも突然ここに連れて来られました」 「麻衣子ちゃん物分りEーっ!」 沙織ははしゃいで嬉しそうな顔をしている。だが、久美は納得がいかない。 「でも、そんなのありえないわ。いいわ、千歩譲ってあったとして、だからここはどこなの? 日本なの? じゃあ他の星とかそういうオチ?」 少し久美はヤケクソだった。 「もぉ、久美ちゃん物分り悪いなぁ~、だからここはネバーランドだよ、結構有名でしょネバーランドって?」 「知ってるけど、歳を取らないなんてありえないわ」 歳を取るか取らないかは長い時間をかけなければわからない。目に見えないことはどうしても信じにくい。 「久美ちゃんも麻衣子ちゃんも早く遊ぼうよぉ~」 沙織は久美腕を引っ張って麻衣子のもとへ行った。だが、久美は強引に引きずられて機嫌が悪そうな顔をして、麻衣子の表情もあまり乗り気ではない。 沙織はこんなに楽しい世界なのに何で二人がそんな顔をしているのかわからなかった。 「ねぇ、二人とも具合悪いの? 医務室もちゃんとあるんだよ、あとねお腹空いてるなら何でも食べ物あるんだよ、お菓子もジュースもいっぱい、い~っぱいあるよ。沙織が今食べてるクレープもスゴイおいしいよ、食べに行く?」 難しい顔をしながら麻衣子は沙織を見つめた。 「いつもと変わらな沙織だけど、何かが違うような気がする」 「私もそう思うわ」 急に不安な顔をする沙織。まさかそんなことを言われると思ってみなかった。 「沙織はいつもの沙織だよ!」 それでも麻衣子は難しい顔をしていた。 「じゃあ、なぜ私たちとの約束を破ったんですか? 待ち合わせした場所に来ませんでしたよね、私たち心配したんですよ」 「私たちね、あんたのこと心配してケータイにも自宅に電話したのよ。その後、いろんなところを捜し歩いてたら、いきなりここに連れて来られて、どういうつもり?」 なぜ二人に攻められなくてはいけなんだろう。自分は二人を楽しませようとしただけなに、どうして? 沙織は怒った久美と哀しい顔をしている麻衣子に見つめられ後ろに足を引いた。 「沙織は三人でここで遊んだら楽しいなと思っただけだよぉ、だから三人で遊ぼうよ」 泣きそうな顔をしている沙織に久美は追い討ちをかけた。 「私が怒ってるの見てわかるでしょ? 心配してた相手に呑気に遊ぼうって言われて、はいそうですかって言える性格してないのよ」 「久美さん、そんな言い方したら沙織さんがかわいそうじゃないですか。ごめんなさい沙織さん、私たち本当に沙織さんのこと心配してから、だから久美さんも怒ってるんだと思う。久美さんって素直じゃないから」 「私が素直じゃないってどういうことよ!」 沙織は今さっきの仕返しとして久美に言ってやった。 「久美ちゃん二年後には麻那センパイみたいになるよ絶対」 そう言って沙織はあっかんべーをした。それを見た久美は余計に腹を立てて怒った。 「もういい、勝手にしなさい!」 怒鳴った久美は走って行ってしまった。 「久美さん!」 「久美ちゃん待ってよぉ!」 二人はすぐに久美の後を追った。 少し走ったところで久美は足を急に止めて振り返って大声を出した。 「止まりなさい!」 身体をビクっとさせながら沙織と麻衣子は足を止めた。 久美は自分でもなぜ怒っているのかわからないほど怒っていた。 「怒りたくって怒ってるんじゃないのよ、ただ、心配かけてゴメンって沙織が言ってくれたらそれで気が済んだのよ」 「ごめんねぇ、久美ちゃん。約束破る気なんてなかったんだよぉ、でも、ここが楽しくて時間の感覚がなくなっちゃだけなの」 永遠に子供のままでいられる世界は肉体に時間を忘れさせる世界だった。そのため沙織には本当に時間の感覚がなかった。 麻衣子は沙織の手を引いて久美の前まで行った。 「久美さんも沙織さんにごめんなさいって言いましょうね」 「ごめん。沙織が相手だとさ、強く言っちゃうのよね。別に嫌いってわけじゃないのよ、ただ、心配なのよ沙織は」 「そんな心配しなくても平気だよぉ」 二人は仲直りをしたようなので麻衣子はにこやかに笑った。 「はい、一件落着」 だが、久美はちょっとだけ気にかかることがあった。 「あのさ、麻衣子も私に謝ってよ」 「どうして?」 「だって、素直じゃないって……」 素直じゃないのは自分でもわかっていたが、直接そう言われると恥ずかしいので久美は麻衣子に発言を撤回して欲しかったのだ。だが、麻衣子は悪戯っぽく笑ってこう言った。 「素直じゃないのは本当だから謝らないよ。これを機会に久美には素直な性格になって欲しいかな」 「私のどこが素直じゃないって言うのよ、例を挙げてみなさいよ!」 こう言った後にすぐ久美は後悔した。麻衣子ならばすぐに例を挙げて来ると思ったからだ。予想は的中した。 「そうやって怒るのは本当の気持ちをカモフラージュするためでしょ?」 「…………」 的を射た答えに久美は何も言い返せなかった。そこに沙織が空かさず傷に塩を塗りこむようなまねをする。 「黙ったってことは認めてるのと同じだよぉ~」 「違うわよ!」 こうやって怒って見せるのが認めているいい証拠だった。 顔を見合わせて笑いを堪える二人を見て久美は恥ずかしくなって話題を変えた。 「もう、ほら沙織遊びたいんでしょ、行くわよ遊びに。麻衣子も付き合って、ほら!」 今のも笑いそうな二人の腕を久美が掴んだ瞬間、二人は大笑いしはじめた。 「久美ちゃんおもいろ~い、あはは」 「……くっ……久美って結構単純」 麻衣子は笑いを堪えるのが精一杯だった。 「もう、笑いたいなら笑えばいいでしょ?」 「もぉダメ、あはは、今日の久美最高。本当の気持ちを隠そうとしてるのに、それがバレバレなのがおもしろいね」 久美は笑われることをあきらめて、何かが自分の中で吹っ切れた。 「はいはい、これから素直になるように努力しますから、今のうちに存分に笑っておきなさいよ。じゃ、とりあえず、あれ乗りに行くわよ」 さっさと歩き出した久美の後ろを二人はクスクス笑いながらついて行った。 明日開園のテーマパークではアトラクションの最終整備やパレードの練習などが余念なく行われていた。 彪彦はそのテーマパーク内を堂々と歩き回っていた。彼の姿は人々の死角に入ってしまっているので普通の人間には見ることができないのだ。 「撫子さんの調査でもやはりここが怪しいと出ましたが、さて……」 彪彦は辺りを見回した。一般客の姿がない以外は普通のテーマパークだ。 立ち止まった彪彦は思考を巡らせた。 世界を三次元で現すことはできないが、解り易く例えるならば、こことあの世界は同じラインにあると言える。 「距離や時間という概念は無用の長物――遠いようで近くにある。ここが入り易そうですね」 伸ばされた彪彦の手の先から肘までが消失した。いや、正確には消えた部分は別の世界に入ったのだ。 空間の境目に彪彦の身体が入っていく。傍から見たら人間が消失していくようにしか見えない。 雪夜の創り出した世界に彪彦の指先が突如現れ、あっちの世界で消えた順にこちらの世界に身体が出て来る。 「前に来た時とは随分と雰囲気が変わりましたが、様相は同じようですね」 前に彪彦が来た時とは違ってこの世界が華やいでいる。動物たちがテーマパーク内を歩き回り活気に満ち溢れて、外面的には変わっている。だが、彪彦は内面的変化は何もないと感じ取った。 「……拒絶と空虚ですね」 拒絶と空虚が世界から感じられる。外面的に変わっていても何かが足りない。この世界の外面的なものは沙織によって創られたが、内面的なものは雪夜が最初に創り出したままの世界だ。 このテーマパークを散策しながら雪夜の意図を探ろうとしたが、創り上げた動機は恐らく彪彦の感じ取ったものだろうが、その使用目的までがわからない。きっと、雪夜自身も何に使用するのかわからずにこの世界を創り上げたに違いない。 テーマパーク内に設置された小さなお店で食べ物や飲み物を配っている。無料で配っているようなので店とは言えないかもしれない。 彪彦も動物たちが並んでいる列に並んで飲み物を注文しようとした。 「いらっしゃいませ」 と動物の店員が日本語をしゃべる。きぐるみのようにも見えるがデフォルメされた〝本物〟のようだ。 「それをお一つ頂けますか?」 彪彦は適当な飲み物を注文して受け取ると近くにあったベンチに腰を掛けた。 「一休みでもして、あちらからやって来てもらうのを待ちますかね」 彪彦は手に持ったジュースに刺さったストローを自分の肩に止まっている鴉に向けた。鴉は上手にくちばしでストローを挟みジュースを飲みはじめた。 「なかなかおいしいですね」 ジュースを飲みながらしばらく待っていると、あちらから現れた。 「おはようございます、影山さんでしたよね?」 「そうです影山彪彦です」 空になったコップを鴉に喰わせて彪彦はベンチから立ち上がった。 すでに彪彦の手には鉤爪が装着されている。 「残念なことにこの世界の破壊とあなたの処分命令が正式に組織から下されました」 「処分ってどんなですか?」 「捕らえることが第一、無理な場合は殺してしまっても止むを得ないそうです」 「このボクの世界でボクに挑む気とは、勇気ありますね」 「ここが雪夜さんの世界だとしても、全ての法則があなたの自由にはなりません」 鉤爪の口が大きく開かれた。そして、闇色をした口の中に風が轟々と吸い込まれはじめた。彪彦は全てを鴉に喰らわすつもりだった。 周りにした動物たちが鴉に喰らわれる中、雪夜は足を踏ん張らせるが、その身体は徐々に鴉の口の中に吸い込まれて行こうとしている。 雪夜は近くいた動物の身体を掴んで叫んだ。 「トゥーンマジック!」 巨大化させられた動物はクマの形をしている。その巨大さは全長二〇メートルを超えた。 鉤爪が吸い込む出力を上げる。 巨大なクマに比べて明らかに小さな鉤爪が勝っている。巨大なクマの身体が吸い込まれていくではないか!? 鉤爪が巨大なクマに吸い付いているような形となった。やはり、大きさが違い過ぎて吸い込むことができないのか。いや、少し時間がかかっているに過ぎなかった。 鉤爪が吸い込もうとするたびに巨大なクマがぶるぶると振動し、やがて少しずつ巨大なクマが明らかに大きさの違う鉤爪の中に喰われていった。 「少し喰らい過ぎましたね」 有りとあらゆるものを喰らうことのできる鉤爪だが、その要領は有限でも無限でもない。喰らえる量は変化し続けるのだ。 彪彦が辺りを見回すと雪夜の姿はすでになく、動物たちは何事もなかったように行き交っている。 「彼がどこにいるかわかりませんね」 強い魔導力を持った者を見つけるのには、その強い魔導力を感知すればいいのだが、それなりの魔導士などになると魔導力を隠すことができる。だが、雪夜の場合は自分の魔導力を隠す術を知らない。では、なぜ彪彦に感知できないのか? この世界を創り上げたのは雪夜であり、この世界には雪夜の魔導力が充満していてどこからでも雪夜の魔導力が感じられてしまうのだ。 ずれたサングラスを直す彪彦の視線に、巨大化された玩具の戦車が飛び込んで来た。 轟音とともに戦車から砲弾が発射された。 彪彦の口の端がつり上がった。 凄い速さで飛んで来た砲弾は開かれた鉤爪の中に吸い込まれるようにして飛び込んだ。衝撃で彪彦の身体が地面を擦り動きながら後退する。 「こんなこともできるのですよ」 轟音が鳴り響いた。砲弾が鉤爪の内から撃ち返されたのだ。 砲弾は見事に戦車を大破させた。 人間サイズの玩具の兵隊数体が一列に並んで銃を構えた。次の瞬間、玩具の銃が火を吹いた。 向かって来る銃弾を避けるために彪彦は鉤爪を瞬時に黒い翼に変化させて天高く舞い上がった。 彪彦の手首に生えるように付いている翼は上空で鉤爪に再び戻された。 約三〇〇メートルから落下する彪彦は風に煽られながら、照準を合わせるようにして鉤爪を兵隊たちに向けた。 高らかに彪彦は命じた。 「お行きなさい!」 鉤爪の内から闇色の何かが撃ち放たれた。それは〈闇〉だった。 悲痛な叫び声をあげて〈闇〉は兵士たちを喰らった。 彪彦は地面に軽やかに着地して〈闇〉が兵士たちを喰らい終わるの待った 頃合いを見計らって彪彦が鉤爪の口を開くと、〈闇〉はその中に還っていった。そして、〈闇〉は鴉の内で消化された。 鴉に喰われたものは普通ならば消化されてしまう。だが、消化せずに保管しとくことも可能だった。 今、彪彦が扱った〈闇〉は昨日の麗慈との戦闘で喰らった〈闇〉を保管して置いたものだ。 辺りを静寂が包み込んだ。 「近くにいるのはわかっているのですが、いったいどこに?」 バギー乗り場から一台のバギーカーが勢いよく柵を越えて歩道に飛び出して来た。それに乗っているのは雪夜だった。 「逃がしませんよ!」 バギーカー程度のスピードであれば彪彦の走りで追いつけぬはずがない。だが、彪彦があと少しでバギーカーに追いつくという時に相手がスピードを上げた。バギーカーはトゥーンマジックがかけてある特別製だったのだ。 バギーカーが通る道は動物たちが避けてくれるのだが、彪彦の場合は避けてくれない。已む無く彪彦は鉤爪で動物たちを切り裂いて先を急ぐ。 バギーカーはドラフト走行でうまく急カーブを曲がり逃げる。彪彦の走る速度は時速八〇キロメートルを越えている。それなのにバギーカーとはいい勝負だ。 雪夜はバギーカーで逃げながら時間稼ぎをしていた。自分では彪彦に敵わない。となるとあの男が帰って来るのを待つしかない。 猛スピードで走るバギーカーがメリーゴーランドの横を通った時に、メリーゴーランドの馬に乗っていた沙織が雪夜に嬉しそうに手を振った。 「あっ、雪夜くん!」 一瞬であったが雪夜も手を振って返した。その後ろを走る彪彦は不思議そうな顔をした。 「部外者が三人もいたのですか……」 女子三人組はひとまず保留として彪彦はバギーカーを追った。 雪夜はバギーカーをテーマパーク内にある湖の横を走らせた。 前方に客船の乗り場が見えて来た。 雪夜はアクセルを強く踏んだ。加速するバギーカー。客船が汽笛をあげて動き出した。 橋げたの上にバギーカーが乗り上げた。その橋の先は湖で、そのまた先には動き出した客船がある。 ガタガタと橋を走るバギーカーが揺れる。そして、バギーカーは途切れた橋からジャンプした。 いくら加速していたとはいえ、船と同じ高さから飛んだのでは船には届かない。 勢いでどうにか船の近くまで行くことができたが、バギーカーが落下をはじめてしまった。それと同時に雪夜はバギーカーから全力で船に向かってジャンプした。 船に手を伸ばす雪夜。あと、少し――。 ガシッと船の縁を雪夜は両手で掴んだ。身体が宙ぶらりんになる。 「くっ……くそっ!」 雪夜は手と腕に力を込めてどうにか客船の中に乗り込み、木でできた床の上に転がり込んだ。もし、手を離して水の中に落ちていたら、船の後ろのモーターに巻き込まれていたかもしれない。 雪夜は立ち上がって遠くの橋を見た。そこには彪彦が立っていて鉤爪を装着した腕を上げて何かをしようとしていた。 「まさか、追ってくるのか?」 そのまさかだった。 遠くにいる彪彦は腕に装着されていた鉤爪を黒い翼に変えて飛翔した。先ほど彪彦が同じ方法で空を飛んだのを雪夜は見ていなかった。雪夜はバギー乗り場でバギーカーを調達していたのだ。 「空も飛べるのか!?」 着実に船に追いついて来る彪彦から逃げるために雪夜は甲板に走った。 甲板には動物たちが数体いる。それ全てに雪夜はトゥーンマジックをかけた。 「トゥーンマジック!」 動物たちに外的変化はないが雪夜の護衛と化している。 黒衣を纏った彪彦が空から舞い降りて来た。その姿はそれ自体が巨大な鴉のように見える。 甲板に軽やかに降り立った彪彦に動物たちが襲い掛かる。 彪彦は襲い掛かって来る動物たちを揺れるようにかわし、瞬時に変化させた鉤爪で切り裂いた。切り裂かれた動物の中身は綿だった。 動物たちが全て倒されてしまい、逃げ場も失った雪夜は両手を上げて見せた。 「ボクは負けを認めるよ。ボクって戦闘が苦手で、ボクの能力をどう使って相手と戦っていいのかわからないんだよね」 「なるほど、良い心がけですが――」 彪彦は鉤爪を横に振り回して後ろにいた敵を攻撃した。 「危ねえっ!」 声をあげながら麗慈は間一髪で後ろにジャンプした。 「ククク……気配を消してたつもりだったんだがな」 「麗慈くんはまだまだですね。気配が消しきれていませんでしたよ」 戦いは二対一となった。 「ククッ、雪夜はそこで指をくわえて見物してな」 「言われなくてもわかっているさ、ボクは戦闘タイプじゃないからね」 雪夜は彪彦から視線を外さないようにしながら後退した。 戦線離脱したように思えても、いつまた襲い掛かって来るかわからないうちは、彪彦は雪夜から注意を逸らせない。 戦力から言えば彪彦にとって雪夜よりも麗慈の方が厄介だった。雪夜は自分でも言っているとおり戦闘タイプではない。だが、麗慈はまさに戦闘タイプだ。 麗慈の手が煌いた。妖糸が針のように彪彦に襲い掛かる。 「あなたの攻撃など簡単にかわすことができますよ」 妖糸は鉤爪によって弾かれ、彪彦は速攻を決めた。 だが、雪夜はそのチャンスを見逃さなかった。 一瞬の彪彦の隙をついて雪夜が飛びかかった。いったい雪夜は何をしようとしているのか? 雪夜は彪彦の鉤爪を掴んで高らかに声をあげた。 「トゥーンマジック!」 なんと雪夜は鉤爪にトゥーンマジックをかけたではないか!? いったい、鉤爪にトゥーンマジックをかけるとどんな反応が起こるのであろうか? 反応はすぐに出た。鉤爪はブリキの鴉の人形となって地面に音を立てながら落ちた。そして、彪彦もゆっくりと地面に崩れ落ちたではないか? 「わたくしとしたことが大きな失態をしてしまいましたね。まさか正体を見破られようとは……」 この声はブリキとなった鴉から発せられていた。 ブリキになった鴉を見て麗慈が嗤った。 「クククク……これがこいつの本体ってわけか、俺も知らなかったぜ」 そう、鴉が彪彦本人であったのだ。彪彦だと思われていた人間は腹話術の人形に過ぎなかったのだ。 ブリキの人形にされた彪彦は魔導力が少しは残っているようで、動いて逃げようとしたが麗慈の妖糸で縛り上げられてしまった。 「逃げようとしても無駄だ、ククク……」 雪夜はブリキの鴉を指で弾いてブリキの音を響かせた。 「トゥーンマジックは生き物にかけると玩具になっちゃうんだよ。でも、彼を玩具に変えるのにはだいぶ力を消費してしまった……みたい……」 雪夜は地面に膝をついた。 「ボクはちょっと休むから……彪彦さんのことは麗慈に任せたから、じゃ」 甲板の上に寝転んだ雪夜は眠りに落ちた。 「――だとよ、おまえの処理は俺に一任されたわけだ、ククッ」 「まあ、それは大変なことですね。可能性としては殺されるのが確率として一番高いでしょうか?」 他人事のようにしゃべる彪彦に対して、雪夜は弄ったらしく首を横にゆっくりと振った。 「いいや、殺しちまったらそれでお終いだろうが。おまえはこのままの姿で鳥かごの中で一生暮らすんだ。ククク……まるで昔の俺のようだ」 「それはそれは何と慈悲深い寛大な処置ですね」 圧倒的に不利な状況であっても彪彦はわざとらしく言葉を吐いて麗慈をおちょくった。 「クククククククク……」 可愛らしい動物が行き交う中でそこだけが異様な雰囲気に見えた。 「き、今日も、く、苦しい……」 今日も翔子は亜季菜と一緒に寝ることになってしまった。 今朝も亜季菜の腕や脚によって翔子の身体は拘束されている。 「起きないでくださいよぉ~」 翔子は自分に絡みついた亜季菜の身体を丁重に外した。そして、相手を起こさないように慎重にベッドから起きた。 「逃げる気!」 翔子の身体がビクっと震えて、心臓がぎゅっと鷲掴みにされたような感覚を覚えた。今朝もか、と正直思った。 「起きてるんでしょ亜季菜さん?」 「ええ」 ムクッと起き上がった亜季菜はすんなり認めた。しかも、よく見ると着替えが終わっている。 翔子よりも早く起きた亜季菜は着替えを済ませた後に、わざわざ翔子に抱きついて翔子が起きるのを待っていたのだ。 「あたし今朝は早いから、じゃ、出かけて来るわ」 亜季菜はきびきびとした動きで部屋を出て行ってしまった。 「……わかない、亜季菜さんってひとがわからない」 翔子は亜季菜という人間について考えながら着替えを済ませて部屋を出た。 キッチンでは今日も愁斗が朝食の準備をしていた。 「あ、瀬名さん、おはよう」 「おはよう愁斗くん。今日も朝食の準備してもらっちゃってごめんね」 ちなみに昨日は、翔子は家の中で愁斗と二人っきりで過ごし、昼食は愁斗に作ってもらい、夕食は帰って来た亜季菜が出前を取った。 「瀬名さんはテーブルで待っててすぐに料理を運ぶから」 「ありがとぉ」 翔子に手伝うという気は全くなかった。昨日から翔子は愁斗に甘えっぱなしで、全て愁斗に任せっきりだった。唯一、翔子がしたことを言えば自分の下着を洗ったことぐらいだった。 すっかり気分はお姫様の翔子の前のテーブルには料理が運ばれ、愁斗は飲み物まで注いでくれた。 「もう、愁斗くん優しくて大好き!」 昨日もほとんど二人っきりだったためか、翔子のテンションは上がりっぱなしだった。後で振り返ると、翔子は今の自分のことを恥ずかしがるだろうが、今の翔子はそんな気持ちなど微塵も感じない。 朝食をとりながら愁斗はまだあのことが頭に引っかかっていた。 「瀬名さん、やっぱり……」 「なあに?」 翔子は満面の笑みだった。それを見た愁斗は言い出せなかった。 「いや、別に。そうだ、何時に出発する?」 「朝食を食べたらすぐに行こう」 「そうすると正午ごろに着くけね」 ――朝食を食べ終えて、二人は身支度を済ませると、さっそくバスと電車を乗り継いでテーマパークに向かった。 テーマパークのある駅に近づくにつれて、愁斗たちと同じ場所に向かうであろう家族連れやカップルが多くなって来た。 電車の座席に愁斗と並んで座るというのは、翔子にとってなかなかドキドキする体験だった。 肩と肩が触れ合って相手の体温が伝わって来る。 「愁斗くん?」 「なに?」 「別に何でもないんだけど、名前が呼びたかっただけ」 相手に身体を寄せて存在を実感し、それでも満足できずに名前を呼んで相手がそこにいることを確認する。幸せが大きくなるに比例して不安も大きくなっていく。 「名前を呼びたかっただけ?」 愁斗は不思議な顔をしている。愁斗には翔子の微妙な気持ちは理解できていなかった。 「そう、名前を呼びたかっただけなの。愁斗くんも私の名前を呼んで」 「瀬名さん?」 不思議に思いながら愁斗は翔子の名前を呼んだ。それで翔子は満足した。相手に名前を呼んでもらって、自分が今ここにいることを実感できた。 「ありがとう愁斗くん、いつまでも一緒にいようね」 「いつでも傍にいるよ」 相手がこんなにも近くにいるのに、どうしてこんなに不安なのだろうか? 翔子は愁斗の愛しい横顔を見ていると胸がしめつけられる。未来の不安よりも今の不安を解消したい。 愁斗の肩にそっと翔子は自分の頭を乗せた。愁斗は少し驚いた顔をした。 「瀬名さん?」 「少しの間だけ、このままでいさせて……」 ゆっくりと目をつぶった翔子は愁斗の息遣いを感じながら眠りに落ちてしまった。 ――しばらくして電車がテーマパークの最寄り駅に着いた。 「瀬名さん、起きて」 愁斗に優しく声をかけられて翔子は健やかな眠りから目を覚ました。 「……ううん……おはよぅ」 「着いたよ」 「……うん」 もう少し寝ていたかったような気もしたが、翔子は愁斗とともに電車から降りた。 駅のホームは人々で混雑している。この駅は新しくできたテーマパークやショッピングタウンと隣接していて、今日も多くの人々がここに訪れている。 テーマパークに向かう人々の流れに乗って翔子は愁斗と歩いていたが、周りを見てちょっぴり恥ずかしくなった。家族連れも多くいるが、今日という日のせいだろうか、カップルの数が多い。それを見て翔子はちょっぴり恥ずかしくなった。 この場所に新しくできたテーマパークの総面積は国内最大とされ、開園前からテレビや雑誌の取材を多くされ、人々の話題を集める大テーマパーク、それが新しくできたジゴローランドだった。 二人がここに到着したのは十一時半過ぎで、そろそろ昼食を食べてもいい時間帯だった。 「愁斗くん、お昼どうしようか?」 「そうだね、テーマパークの中で食べる? それとも食べてから中に入ろうか?」 テーマパークの近くも飲食街やテーマパークの関連グッズを販売する店が点在している。 「う~ん、せっかくだから中で食べたいなぁ」 「じゃあ、そうしよう」 などと二人が話しているとテーマパークのセントラルゲートが見えて来た。 翔子は愁斗にチケットを手渡して、二人は幾つもある列の一つに並んだ。 「中に入るだけなのにドキドキするね」 心底嬉しそうな翔子だが、愁斗は中に入るだけで何でそんなに嬉しいのか理解できなかった。 「まだ中に入ってないのに、どうしてそんなに楽しそうな顔をするの?」 「愁斗くんはドキドキしないの? 何かさぁ、愁斗くんっていい言い方すればクールだけど、子供みたいにはしゃいでるの見たことないよね」 「う~ん」 考え込んでしまった愁斗の手を引いて翔子はテーマパークの中に入ろうとした。その瞬間、愁斗はもの凄い魔導を感じて翔子の手を引こうとした。だが、すでに遅かった。 そこは雪夜の創り出した世界だった。 一般客も知らないうちに紛れ込んでしまっている。誰も気づいていない。大きな魔導力に人々は自然と心を奪われてしまっているのだ。 二つの世界のテーマパークが混ざり合った世界。そこには人々もいれば、動物たちもいる。みんな何も考えずに楽しむことだけを考えている。 身体は大人でも、心は純粋な子供に戻ってしまっている。もう、誰も外の世界に帰ろうとは考えなかった。 異様な世界に目を奪われてしまっている翔子と愁斗の前にピエロが現れた。 「夢と冒険の世界、ネバーランドへようこそ!」 ピエロは大きな口で笑った。 愁斗は翔子の前に腕を出して、そのまま自分の後ろに翔子を導いた。 「ごめん瀬名さん、やっぱりこうなった」 「こうなったってどういうこと?」 この世界の異様さはわかった。だが、翔子には何が起きているのかわからなかった。 「デートは断るべきだった。僕らは自ら麗慈の罠に飛び込んでしまった」 この世界に迷い込んだ人々は、この世界にこもっている魔導に魅了されてしまっている。だが、魔導に耐性のある愁斗と造り変えられた躰を持つ翔子は異変に気づくことができた。 ピエロは嗤った。 「クククク……恋人を連れて来るなんてバカなヤロウだな」 愁斗と翔子の前に現れたのは麗慈であった。濃いピエロの化粧に下にある顔は確かに麗慈の顔だった。 麗慈の手が煌き、愁斗の手も煌いた。 空中で交じり合った光はゆらりゆらりと地面に落ちた。 「ククク……外したか」 「瀬名さんを狙ったな?」 今の麗慈の一撃は愁斗を狙ったように見せかけて、その後ろから顔を覗かせている翔子を狙ったものだった。 恐怖を覚えた翔子は愁斗の服をぎゅっと掴んで震えた。 「愁斗くん……」 「大丈夫だよ、瀬名さんは僕が守る」 「ククッ、ベタベタな熱い仲だな……クククククククク」 愁斗は氷の瞳で麗慈を見つめた。 「この世界は何だ? 組織が創り出した世界なのか?」 「いいや、俺は組織から追いかけ回されてる身だからな。この世界を創ったのは芳賀雪夜っていう小六のガキだ」 この話を聞いた愁斗の眉がピクリと動いた。 「個人が創り出したのか!? まさか、そんなことがあり得るはずがない。それは神と同等の力を手に入れるに等しいことだぞ!」 その時、愁斗は思い出した――いつか出逢った少年のことを。 その少年は組織の一員である影山彪彦に追われていた。世界を創り出す力を持つ少年を組織が見逃すはずがない。 「ククク……だから雪夜も組織から追われるハメになったがな、一人目の刺客は捕まえてカゴの中だ」 カゴというのは牢屋の比喩だと愁斗や翔子は思ったが、彪彦は本当に鳥かごの中に入れられている。 愁斗は驚いていた。雪夜を追っていた組織の人間とは恐らく彪彦のことだろう。だが、あの男が捕まるとは思っても見なかった。 「それはあの影山彪彦という男のことか?」 「そーだ、あいつだ。雪夜にブリキの人形に変えられちまった」 愁斗が彪彦に出会った時、愁斗は彪彦から底知れぬ魔導力を感じた。もし、戦ったら自分でも勝てるかわからない相手がやられた。そのことが愁斗に大きな衝撃を与えた。 だが、その衝撃が愁斗は冷たいほどに冷静にさせた。 「質問がある。この世界を創ったのは芳賀雪夜と言う人物だと言ったな?」 「ああ、あいつが創った」 「では、私の知り合いの力を混じっているのはなぜだ?」 愁斗がこの世界から感じた魔導力はひとつではなかった。そこには沙織の力も混じっていたのだ。 「クククク……よく気づいたな。この世界の基盤を創り出したのは雪夜だが、そこに手を加えたのはおまえらもよく知ってる沙織って女だよ」 愁斗は表情を崩さなかったが、翔子は心底驚いた。 「どういうこと? 沙織ちゃんがいるって……」 そういえば翔子は久美と麻衣子から沙織と連絡がつかないと聞いていた。だが、どうして沙織がここにいるのかがわからない。 「ククク……雪夜に気に入られて連れて来られた。そう言えば沙織の友達二人もこの世界を満喫してるぜ」 翔子は愁斗の背中を引っ張った。 「愁斗くん、三人をこの世界から出してあげて」 「わかっている、だが、今はこいつの相手が先だ」 「さっさとヤリ合おうぜ、クククク……」 「瀬名さんは遠くで隠れていて」 愁斗が腕を伸ばした方向に翔子が走り、その背中を麗慈が狙おうとした。 「あの時はヤッてやらなかったが、ククッ、愁斗の前じゃ話は別だ!」 麗慈の手から針と化した妖糸が放たれた。 「彼女に手を出すな!」 愁斗の手から放たれた妖糸は麗慈の放った妖糸を切り裂いた。 「ククク……逃げられちまったか。まあ、最初からあんなメスには興味はねえ。俺がヤリたいのはおまえだ紫苑!」 幾本もの妖糸が蛇のように動きながら愁斗に襲い掛かった。 「貴様は私には勝てない!」 襲い来る幾本もの妖糸を愁斗は一本の妖糸で華麗に切り裂き、すぐに空間を切り裂いた。〈闇〉が来る! 空間にできた闇色の傷が悲鳴のような音を立てながら空気を吸い込み大きくなっていく。 闇色の奥に潜む〈闇〉は慟哭した。苦痛が空気を伝わって世界に満ちる。 だが、愁斗や麗慈の周りを行き交う人々や動物たちは、笑みを浮かべながら何事もないようにテーマパークを満喫している。この世界は狂っていた。 「クククク……」 嗤った麗慈は愁斗と同じことをした。 空間に二つ目の闇色の傷ができた。〈闇〉と〈闇〉が互いを喰らい合うのか!? 闇色の裂け目から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。 愁斗の腕が前に伸びた。 「行け!」 裂けた空間から〈闇〉が叫びながら飛び出した。それは麗慈に襲い掛かった。 「ククク……同じ手が何度も通用するか! 喰らってやれ!」 放たれた二つの〈闇〉は互いに泣き叫んだ。そして、ぶつかった。 轟々と交じり合う〈闇〉と〈闇〉は巨大な渦を造り上げ、中から激しい呻き声が聴こえて来た。 愁斗は冷ややかな目をして〈闇〉を見つめた。 「麗慈、貴様は〈闇〉が何であるかを知らない。〈闇〉の恐ろしさを身をもって知るがいい!」 唸り声をあげていた〈闇〉が突如、麗慈に襲い掛かったではないか!? 「真物を知れ!」 愁斗がそう叫んだのと同時に〈闇〉は麗慈の身体に絡みついた。 黒い触手のようになった〈闇〉は麗慈の腕を掴み、脚を掴み、胴を掴んだ。 「放せーっ!」 口を開けたその中に闇色の触手が入り込んだ。〈闇〉が麗慈の体内を侵食しはじめた。 「クククククククク……ククク……」 麗慈は口に入った〈闇〉を喰いちぎった。 「ヤラれてたまるか……ククク……ククク……」 〈闇〉の侵食が途中で止まった。次の瞬間、麗慈の身体を包み込んでいた〈闇〉が辺りに撒き散らされはじめた。 〈闇〉が麗慈から離れた〈闇〉は周りにいた人々や動物たちを喰らいはじめた。 「麗慈、何をした!」 「クククク……〈闇〉を支配した。〈闇〉は強い者には絶対の服従をすることを知った」 〈闇〉に身体を包まれた麗慈は悟りを得たのだ。 喰われはじめた者たちは、それでも笑っていた。自分たちの身に何が起きているのかわかっていないのだ。何が起ころうともテーマパークを楽しんでいるのだ。 周りの者たちを十分に喰らった〈闇〉は裂けた空間の内へ還っていった。 「クククク……〈闇〉には決して自分の弱さを見せてはいけないようだ。絶対者は自分であると〈闇〉に知らしめることが〈闇〉を操るコツだな、そうだな紫苑?」 「貴様は真理に近づいた。だが、〈闇〉が何であるかを知らない以上は私には勝てない。奴らは支配するだけでは駄目なのだ」 「あれが何だって構わねえよ、俺の力になりゃあそれでいい、ククク……」 「貴様はいつまでも真物にはなれんな」 愁斗の手から妖糸が放たれた。麗慈がそれを余裕の表情で避けると、妖糸は鞭のようにしなって地面を砕き、その反動で再び麗慈に襲い掛かった。 麗慈の肩から紅い血が滲んだ。 「妖糸を放つスピードが上がってやがる」 そう言ったのもつかの間に、再び愁斗の手から妖糸が放たれた。空かさず麗慈も妖糸を放った。 光が交差し、互いに放った妖糸を避け合った。だが、そのことにより、近くにいた人々や動物たちが切り裂かれてしまった。 愁斗も麗慈も顔色一つ変えない。二人とも自分に関係ないものがいくら死のうが構わないのだ。 二人が妖糸を放ち、それを避け合うことによって、周りの者たちが次々と殺され、辺りには身体のパーツや綿が散乱していった。 目を覆うような光景が辺りに広がった。その中で二人は戦い続ける。 「ククッ、クククク……いい眺めだ。血に餓える俺には最高の眺めだ」 「貴様は狂っている」 「おまえも人のこと言えねえだろ?」 「そうだ」 愁斗は疾走した。麗慈の周りを素早く回り、網を作り上げた。 網が急速に縮み中心にいた麗慈を捕らえようとした。だが、麗慈は高く飛び上がり、そこから妖糸を放った。 針と化した妖糸が愁斗の太ももを貫いた。愁斗の表情は変わらなかった。決して痛みがないわけではない。敵と戦っている最中は痛みを忘れなければならないのだ。 愁斗は空に奇怪な魔方陣を瞬時に描いた。召喚を行う気だ。 奇怪な紋様が空に描かれ、〈それ〉が呻き声をあげた。 愁斗の作った網は網ではなく、これを呼び出すための〝巣〟であった。 〈それ〉は汚らしい嗚咽を漏らし、この世に巨大な蜘蛛の怪物を生み出した。 大蜘蛛は麗慈に向かって糸を吐き出した。 宙に網のように広がった蜘蛛の糸を麗慈は切ろうとした。しかし、放った妖糸は蜘蛛の巣を切ることができず、へばり付いてしまった。 「クソッ!」 ベトベトした蜘蛛の巣は麗慈の身体に巻きつき、彼の動きを完全に封じた。妖糸を放つ左手も動かせない状態だった。 愁斗は巨大蜘蛛に強い念を送った。召喚したものは召喚者が魔導力によって支配しなければならい。支配できぬ場合は召喚されたものが自らの意思で動くことになる。 愁斗は命じた。 「喰らってやるがいい」 大蜘蛛は麗慈の左腕に喰らいついた。肉が剥ぎ取られ、血が大量に流れ出る。 「クククク……うまそうに喰ってやがる」 大蜘蛛は咀嚼を終えて肉を呑み込むと、もう一度、麗慈に喰らい付こうとした。 「食事は終わりだ!」 自由を奪われていた麗慈の身体が強引に動かされ、大蜘蛛の身体に一筋の光が走った。 奇声を発した大蜘蛛は真っ二つに割れた。 「クククククククク……」 麗慈は喰われた腕から血がこれ以上出ないように妖糸で縛って止血した。 〈それ〉が呻き声をあげた。愁斗はすでに二つ目の召喚をしていた。これにはさすがの麗慈も苦笑を浮かべた。 〈それ〉の呻き声に合わせて何かか遠吠えをあげ、四つ足の獣がこの世に迷い込んだ。 魔方陣の中か現れたのは漆黒の毛を持ち三つの頭を持つ巨大な狼であった。 狼は喉を鳴らしながら歩き回ると、辺りに散乱していた肉片を喰らった。 愁斗は辺りに散らばっていた人肉をエサに召喚を行ったのだ。 「地獄の番犬は気性が荒いのでな、心して戦うがいい!」 三つの頭が同時に咆哮をあげた。その声自体に魔導がこもっている。 咆哮を聴いてしまった麗慈の身体を痺れが襲った。だが、麗慈は並みの人間ではない。 涎を垂らしながら狼は麗慈の襲い掛かった。 麗慈も妖糸を放とうとしたが、腕が痺れてワンテンポ遅れた。それでも頭の一つに付いた目を切り裂いてやった。 咆哮をあげながら激怒する狼は麗慈の身体に喰らい付こうとした。だが、麗慈は素早くジャンプして狼の頭の上に乗った。 「ククク、死ね!」 麗慈の手が煌き狼の頭が一つ大きな音を立てて地面に落ちた。 妖糸が放たれた。それを放ったのは同じく狼の身体の上にいた愁斗であった。 麗慈の右腕が宙を舞った。そして、何かが叫んだ。 「ぐあぁっ!」 痛みに悶える麗慈に〈闇〉が襲い掛かっていた。叫び声をあげたのは麗慈一人ではなかったのだ。 「……恐怖」 愁斗が小さく呟いた瞬間、麗慈の身体は全て〈闇〉に呑み込まれた。 〈闇〉が苦しそうに泣き叫びながら闇色の裂け目に還っていった。 「これで終わりだ」 以前、麗慈は〈闇〉に呑まれて連れて行かれたことがあった。その時は、妖糸を使って空間を切り裂いて帰還した。だが、今呑み込まれた麗慈は妖糸を放てる右腕を失っていた。 狼の身体から地面に降り立った愁斗は、地面に転がる狼の頭をもとの位置に縫合してやった。 咆哮をあげた狼は地面に転がった麗慈の腕を喰らいながら、愁斗の手を煩わせることなく自ら還っていった。 戦いを終えた愁斗は一息ついて安らかな顔つきに戻った。 「瀬名さん!」 大声で呼んだ。だが、翔子の姿はどこにも見当たらなかった。 翔子が消えた!? 愁斗は辺りを隈なく探したが見つけることはできなかった。そこでケータイで翔子に電話をかけようとしたが、この世界のせいであろう、ケータイのディスプレイには圏外の文字が表示されていた。 さすがの愁斗の顔にも動揺と焦りが走った。 物陰に隠れて愁斗を見守る翔子の背後から誰かが近づいて来た。翔子は全く気がついていない。 「にゃば~ん! 翔子ちゅあ~ん!」 「はあぁっ!?」 翔子は変な声をあげて驚き、後ろを振り向いた。そこに立っていたのは撫子だった。 「翔子奇遇だねぇ~、こんにゃ世界で出逢うにゃんて運命ビリビリ感じちゃうよねぇ」 「……何で撫子がいるの?」 「ちょっくら仕事に来たんだけど、まさか翔子プラスアルファに出会うとは思ってもみにゃかったよ」 プラスアルファとは愁斗と麗慈のことである。 撫子の任務の中には麗慈を捕まえることも含まれているが、できれば相手にしたくない。ここは愁斗に任せようと撫子は考えた。 「あの、撫子どうにかしてよ」 翔子は戦いをはじめている二人を指差して言った。だが、そんなことを言われても撫子は困るだけだ。はっきり言って撫子の力では二人をどうすることもできない。 「ムリムリィ、アタシはか弱い女の子だもん。それに仕事もあるしぃ~。どうする翔子?」 「どうするって何が?」 「ここにいてもきっと巻き添え喰うと思うしぃ、見たくないものまで見ることになるかもしれないよ」 途中から撫子の口調は真剣なものに変わっていたのを翔子は気づいただろうか? 『見たくないもの』とはいったい何なのであろうかと翔子は考えた。今の自分が知るべきではないものなのか。 「見たくないものって何?」 「それはひ・み・つ。知らにゃい方が翔子のためだよ~ん。だから、アタシと一緒にここを離れるか、それともここに残るか」 「う~ん」 見てはいけないと言われると恐いも見たさで見たくなる。 「早く決めてよ、アタシここにいるの嫌だから。今でも吐きそうにゃくらいツライ」 「でも……」 「アタシに付いて来ても危険な目に合うようにゃ気がするけど、ここよりはマシだと思うよ。決めるのは翔子だよ」 選択肢はいくつかあった。この場に残るか、撫子と行くか、それとも自分ひとりでどこかに行くか。 翔子は決めた。 「撫子と行く。だって、聞いた話だと撫子も結構強いんでしょ? 私のこと守ってね」 「大丈夫、翔子はアタシが命に代えても守るから」 撫子は翔子の手を掴んでこの場から急いで逃げた。 走り出してすぐに電気が身体を走るような感覚を撫子が感じた。 「翔子耳塞いで!」 わけもわからず翔子は撫子に言われて耳を塞いだ。この時、〈闇〉がこの世に呼ばれていた。 撫子は耳を塞いでいるのにも関わらず身体がビリビリした。 耳を塞ぎながらだいぶ走ったところで、やっと撫子が耳から手を外したのを見て、翔子も耳から手を離した。 「どうして耳を塞いだの?」 「この世のものじゃにゃい声が聴こえるから……ぶるぶるぅ~」 撫子が〈闇〉を見たことがあるのは一度だけだが、その恐怖は今でも鮮明に忘れることのできない記憶として身体に染み付いている。身体に巻きついた〈闇〉の感触は忘れることができなかった。 二人は走るのを止めて歩くことにした。撫子は体力が有り余っているが、翔子は息が上がってしまっている。 「翔子死ぬ間際の表情してるよ、体力ナサナサ~」 「だって撫子に合わせて走るのに全速力で走ったから、息が切れるのも当たり前でしょ」 「あれでも低速で走ったんだけどにゃ~」 「十分私の全速力だった」 息を落ち着いてきたところで翔子は改めて辺りを見回した。 人々やきぐるみと思われる動物たちが、無邪気な子供のように歩いたり乗り物に乗ったりしている。多くのきぐるみが歩いている時点で不自然な感じがするが、それよりも空気を伝わって来る何が可笑しい。 「撫子、いったいここは何なの?」 「異世界って感じかにゃ、見たまんまの世界だよ。小学六年生の芳賀雪夜クンが創り出した世界としか今のところ知らにゃいけど」 「沙織ちゃんたちがいるのは知らないの?」 撫子はいったん歩くのを止めて翔子の顔を思いっきり見た。 「にゃに~っ!?」 「麗慈くんが、沙織ちゃんたちがいるって言ってから」 「オーマイゴッド! にゃんでどういう経緯で!?」 「私に聞かれても知らないって……沙織ちゃんの友達が二人って言ってから、たぶん久美ちゃんと麻衣子ちゃんもいるんだと思う。それも、どうやら沙織ちゃんはその芳賀くんって子に好かれてるみたいで、ここに連れて来られたみたい」 「……はぁ、助けにゃきゃね」 撫子は頭を抱える動作をして『う~』と唸った。翔子と愁斗に出会っただけでも予定外の出来事だったのだが、そこに加えて女子三人組までもがいるとは、撫子は困り果てた。 赤の他人であれば撫子は冷たく見捨て、平気で殺すこともできる。だが、それが知り合いとなると撫子はどうにかしなければと使命感に燃えてしまう。撫子は友達とか友情と言う言葉に弱かった。 うな垂れる撫子に翔子はガッツポーズをした。 「撫子ファイト!」 「……あのさぁ~、芳賀クンに連れて来られたってことはさぁ、今回の事件のど真ん中にいるってことだよねぇ」 余計に撫子はうな垂れた。 しばらく歩いていて翔子はどこに向かっているのか気になった。 「あのさ、私たちってどこに向かって歩いてるの? 適当ってことはないよね?」 「あれ」 撫子は遠くに見える城を指差した。 二つの世界のテーマパークが混ざり合っても、あの城がこの世界の象徴であった。そして、あの城は雪夜の象徴でもある。 城を眺めた翔子は小さく呟いた。 「寂しい感じのする城だね。周りは全部明るくて楽しそうなのに、あの城だけが周りから隔離されてる感じ」 「あの城ににゃにかあるって報告受けてるんだけど、できれば行きたくにゃい」 「どうして?」 「翔子はわからにゃいかもしれにゃいけど、城に近づくに連れて身体がビリビリするんだよ」 「嫌な感じがするってこと?」 「それはわからにゃいけど、大きな力があそこに溜まってるのはたしかだね」 だいぶ城に近づいて来たところにあった観覧車乗り場を翔子はふと見て叫んだ。 「久美ちゃんと麻衣子ちゃんだ!」 「ドコドコ!?」 「観覧車乗り場から出て来た」 「行くよ翔子!」 撫子は翔子を置いて全速力で走った。 久美と麻衣子がちょうどベンチで休もうとした時に撫子は二人の前に到着した。 「二人とも久しぶりぃ~!」 撫子に気がついた二人は少し驚いた顔をしながらも嬉しそうな顔をした。 「撫子先輩こんにちは」 麻衣子が丁重にお辞儀をしながら挨拶をするのに対して、久美はちょっと頭を下げて挨拶をした。 「お久しぶり」 この場に翔子が息を切らせながらやっと到着した。 「二人とも……こんにちは……」 両膝に手を置いて肩で息をする翔子を心配してすぐに麻衣子が駆け寄って来た。 「大丈夫でしょうか?」 「うん、私なら平気。それよりも二人とも私たちと一緒にこの世界から出ましょう」 にこやかだった麻衣子と久美の表情が急に冷たくなった。 「出るのでしたら勝手に翔子先輩だけで出てください」 冷たい口調で麻衣子が言い、それに続いて久美も冷たい口調で言った。 「私たち、ずっとこの世界で遊びながら暮らすって決めたんです」 二人はこの世界にすでに魅了されていたのだ。今の状態では自らの意思でこの世界を出たいとも思わない。 翔子は心配そうな表情で二人を見つめた。 「二人とも帰ろうよ」 麻衣子と久美は翔子の言葉を無視して歩き出してしまった。それを追おうとした翔子の腕を撫子が掴んだ。 「追いかけても無駄だよ」 「何で!?」 「今の彼女たちはこの世界に魅了されてる。何を言っても無駄にゃんだよ。だから、まずはこの世界のもとをどうにかしにゃきゃいけにゃい」 「……うん、わかった」 そう口では言いながらも翔子は去って行ってしまった二人の背中を見つめていた。近くにいるのに何もできない歯がゆさを翔子は感じてしまった。 「翔子、いつもでも見てにゃいで行くよ!」 撫子は強引に翔子の腕を引っ張って歩き出した。 突然、翔子は愁斗のことを想ってしまった。自分が困った時、頼りにしているひとのことを思い出したのだ。 「愁斗くん、平気かな……そうだよ、勝手に撫子について来ちゃったけど、愁斗くん心配してるかも」 「愁斗クンのことだったら問題にゃいって。心配はしてるかもしれにゃいけど、他は大丈夫、翔子の彼氏にゃんだから」 「その彼氏って言い方、何かいいね。そうだよね、愁斗くんって私の彼氏なんだよね」 こんな状況で翔子はラヴラヴな気持ちに浸った。愁斗のことを想うだけで勇気が湧いて来る。 想いを馳せて上の空になっている翔子は見て撫子は少し羨ましくなった。 「彼氏彼氏彼氏彼氏彼氏彼氏彼氏彼氏、愁斗クンは翔子の彼氏」 「それってからかってるの?」 「もちろんそうだよ。にゃんか嫉妬」 撫子は顔を膨らませてそっぽを向いた。 「どうして嫉妬何てするのよ」 「だって、だってアタシの翔子ちゃんが愁斗クンに盗られちゃったんだもん」 「……あっそ」 翔子は撫子の言葉を軽く受け流して早歩きをした。 「待ってよ翔子!」 撫子は慌てて翔子を追いかけるが、翔子は背中を向けたまま怒っている。 「撫子さ、前も私のこと襲いたいとか言ったよね? やっぱりそういう趣味あるわけ?」 「それはどーかにゃ~」 「絶交」 翔子は走り出したが、撫子はすぐに追いついてしまった。 「絶交にゃんて言わにゃいでよ。撫子、涙が出ちゃう、ウルウル」 口調はわざとらしいが撫子は本気で号泣していた。 「もぉ、泣くのってズルイよ。許すから、泣かないで」 「爆マジ?」 「うんうん、爆マジ」 すぐに撫子は泣くのを止めて満面の笑みになった。 「じゃあ、翔子のこと襲ってもいい?」 「それしたら絶交だからね」 「にゃんで~、スキンシップだよぉ~」 「とにかく絶交」 「う~、しかたにゃいか……」 二人が自分たちの置かれている状況を忘れて会話をしていると、ついに城の目の前まで来てしまった。 「にゃんかスゴイ力を感じるんだけど……にゃにかが可笑しい」 撫子が城から感じる力は内から響いて来る力ではなかった。本来エネルギーソースは内にあるものなのだが、この城はまるで虚勢を張っているようだった。 城の入り口は真っ暗の闇で中が見えない。 「翔子、行くよ」 撫子が城の中に飛び込んで行ってすぐに翔子も中に入った。 二人は驚きの表情を浮かべてしまった。彪彦の時と全く同じで中身が空っぽだったのだ。ただ、今度は中に人がいた。 「センパイこんにちわぁ!」 「沙織さんの知り合いか」 中にいたのは沙織と雪夜であった。空っぽの中に二人がぽつんと立っていたのだ。 この場にいる四人のほかにも彼がいた。 「撫子さん、可及的速やかにわたくしを救出していただきたい」 「うっそ~、爆マジ!? 彪彦さん捕まっちゃったのってゆうか、その格好にゃに?」 「その件に関してはお話できません。ここはひとつ相手をうまく丸め込んで示談で解決していただきたい」 鳥かごに入れられたブリキの鴉としゃべる撫子の服を引っ張りながら翔子は聞いた。 「オモチャと知り合いなの?」 「そにゃとこ」 沙織は小走りで翔子と撫子に近づくと、二人の腕に手を回して腕組みをした。 「センパイ二人もこれから沙織と遊びに行こう!」 翔子と撫子は同時に沙織の腕を外した。 「私たち遊びに来たんじゃないの」 「沙織と一緒に遊びましょうよぉ~」 雪夜は翔子たちに駄々をこねる沙織の手を取って目の前にいる二人に話しかけた。 「お二人はここに遊びに来たんですか? それとも他の理由でこの城に?」 この世界に魅了された者たちは自らの意思ではこの城には入れないはずだった。 「アタシはとりあえず、そこのカゴに入った知り合いを助けることと、アナタとこの世界の処理」 「私はその付き添いです」 雪夜は二人の話を聞いて納得した。 「やはり、ボクの敵か」 沙織も撫子の言葉を聞いて怒り出した。 「雪夜くんとこの世界の処理ってどういうことですか撫子センパイ!」 「にゃんつーか、とりあえずこの世界は壊さにゃきゃいけにゃいかにゃ~」 この世界が壊される。そこ言葉を聞いた瞬間、沙織の内に秘めたチカラが目覚めた。 「センパイ嫌いですぅ、この世界は沙織の世界だもん!」 大泣きをはじめた沙織の身体を中心に爆風が巻き起こった。近くにいた三人の身体が大きく吹き飛ばされた。 地面に尻から落ちた撫子はお尻を擦りながら起き上がった。 「にゃんで沙織ちゃんが!?」 魔導の力を沙織が持っていたとは撫子にとって完全な誤算であった。そんな力を内に秘めていたとは今まで気がつきもしなかった。 雪夜は哀しい顔をしていた。 「誰も邪魔さえしなければ、いつまでも楽しく暮らせたのに……。世界が崩れる……」 大地震にでも見舞われたように世界が激しく揺れた。 撫子の頭上に石の塊が落下して来た。 「にゃ~っ!?」 揺れで自由に身動きができなかったが、撫子は辛うじて石を避けた。石は地面に激突して砕け飛んだ。このような現象が城のあちらこちらで起こっている。 沙織が激しく泣くとともに世界が振動する。沙織が肩を震わせるたびに世界が上下に揺れる。 揺れは激しさを増していき、立つことはおろか、座っていても身体が地面を滑る。 翔子は自分の方に転がって来る鳥かごをうまくキャッチすることに成功した。 「大丈夫ですか?」 翔子の問いに、鳥かごの中に入っている彪彦は目を回しながらも、しっかりとした口調で答えた。 「ええ、助けていただいてありがとうございます」 「あの、もしかして私たちどこかで会ってませんか?」 翔子の知り合いにブリキの人形などいなかったが、どこかで翔子は会っているような気がした。 「ええ、アーケード街で愁斗くんとあなたが一緒にいるところでお会いしましたよ。あの時は人間の姿でしたがね」 「ああっ、あの時の!?」 また世界が激しく揺れて翔子は掴んでいたはずの鳥かごを大きく投げ飛ばしてしまった。 鳥かごは地面に落ちた衝撃で扉が開き、ブリキの鴉は自ら外に出た。人形にされていても彪彦は自らの意思で身体を動かすことが可能だった。 空を羽ばたいた彪彦は揺れの影響を受けなかった。そして、彪彦は雪夜のもとに行った。 「雪夜さん、わたくしの身体を元に戻していただきたい」 「嫌だ」 「あの女の子の暴走を止めなくては大変なことになるのですよ」 「ボクはそれでもいいさ」 雪夜は上空を飛んでいた彪彦を素早く掴んで捕獲した。 「放しなさい!」 「それはできないね」 彪彦は必死の抵抗をするが所詮はブリキの人形だ。身動き一つすることはできなかった。 この城の外では世界は完全なる崩壊を迎えていた。 二つの世界が切り離され、沙織のイメージした世界が崩れていく。 楽しそうな顔をしながら動物たちが消えていく。アトラクションが崩れていく。空が落ち、地面が砕け飛んだ。 この世界に残ったものは、闇の中に浮かぶ壊れた城だけであった。 翔子がないという事実に愁斗は動揺した。本当に行方がわからなくなってしまった。 普段ならば愁斗は念のために翔子に自分の妖糸を巻きつけていた。だが、麗慈との戦闘に全力で挑むためにその妖糸を切ってしまった。 翔子の居場所を探る方法はもうひとつあるのだが、その方法はこの世界では無効とされてしまっていた。 もうひとつの方法とは、愁斗が所有する全ての傀儡の身体に埋め込まれた魔導具の発する気を探ること。だが、この世界の中ではその気が完全に掻き消されていた。 「さらわれたのか、それとも自らの意思で……」 自らの意思でどこかに消えるとは考えにくかった。きっと誰かに連れ去られたのだろうと愁斗考えた。愁斗は撫子がこの世界にいることを知らなかった。 どこに翔子が行ってしまったのかと愁斗が考えた時、遥か遠くに微かだが城の一部が見えた。愁斗はその城に何かを感じた。 あの城に翔子がいるとは限らない。だが、何も手がかりがない以上は城に行ってみる価値はありそうだ。 愁斗は城に向かって走り出した。 走りながら愁斗は自分を責めた。翔子を守ると決めたのに、もし、翔子に何かあったら……。 大切なものを守りたい。愁斗は失うことを何よりも恐れた。愁斗はまだ悪夢から覚めていなかった。 愁斗の悪夢のはじまりは母が死んだところからはじまった。そこから全て狂いはじめた。 いつ悪夢から覚めるのだろうか? 翔子を守らなくてはいけない。そう愁斗は何でも自分に言い聴かせた。 しばらく愁斗が走っていると誰かに声をかけられた。 「愁斗先輩!」 それは麻衣子だった。すぐ横には久美もいる。 足を止めた愁斗に麻衣子が近づいて来た。 「愁斗先輩もここに遊びに来たんですか?」 「いや」 麻衣子の顔つきが変わった。 「私たちをもとの世界に帰す気ですか?」 「そうだ」 この言葉を聞いた久美が麻衣子の腕を引いて歩き出した。 「行くわよ麻衣子」 「ええ、行きましょう」 怒った様子の二人は愁斗から離れようとした。 愁斗は二人を追おうとはしなかった。今は一緒にいても足手まといになるだけだ。それよりも今は翔子を見つけて、この世界を創った者に会わなければならない。 愁斗は何かを感じた。何かが起こる。 世界が急に激しく揺れた。 この時ばかりはこの世界にいた者たちも慌てふためき出した。 笑顔で遊んでいた者たちの顔が怒りつき、創られた動物たちは自分たちが消えて、世界も消えることを知った。 揺れているのは地面だけではない。空気も空も地面も、全てが激しく泣いているように揺れる。 混ざり合っていた世界が切り離された。 次の瞬間、愁斗たちはもとの世界のテーマパークにいた。他の人々も帰って来ている。あの世界が崩壊する直前にもとの世界に戻されたのだ。 テーマパークは本来あるべき姿に戻り、帰って来た人々の記憶からはあの世界のことはなかったことにされた。 大きな物事の変動により、人々の記憶は大きく改ざんされた。 何事もなかったようにこのテーマパークを楽しむ人々。その中には愁斗たちも含まれていた。 「愁斗先輩、次何に乗りましょうか?」 麻衣子が愁斗に尋ねた。 今日は愁斗と麻衣子と久美の三人で新しくできたテーマパークに遊びに来た。 「そうだな、次はねえ……」 次に乗る乗り物を決めようとした時、愁斗は不思議な違和感を覚えた。本当にこの二人とこのテーマパークに来たのか? 愁斗は急に激しい頭痛と吐き気に襲われてよろめいた。 倒れそうになった愁斗の身体を素早く久美が支えた。 「大丈夫ですか愁斗先輩。気分でも悪くなりました?」 「あ、うん、ちょっと何だか気分が……」 愁斗は久美に支えられながら近くのベンチに座った。 二人に心配そうに見つめられて愁斗は苦笑いを浮かべた。 「そんなに心配しなくても平気だよ」 「ですけど、もし愁斗先輩にもしものことがあったら沙織さんが悲しみますから」 麻衣子は自分の言葉にはっとした。沙織とは誰のことだったか思い出せない。そんな知り合いはいないはずだ。 久美も沙織のことを忘れていた。 「沙織って誰だれのことよ、麻衣子の新しい友達?」 「いえ、そんな名前の知り合いはいないはずです。変ですね、どうしてそんな名前が出てきたんでしょうね」 その名前に聞き覚えは三人ともあったが誰だったのか思い出せない。 考え込んでしまった三人は黙り込んでしまった。 愁斗は先ほどから大切なものをどこかに置いて来てしまったような感覚に襲われていた。しかし、何をどこに? 「僕たち電車でここまで来たよね?」 馬鹿げた質問だと思いつつも愁斗は二人に聞いた。 「ええ、電車を使って三人で来ましたけど」 麻衣子は不思議な顔をしながら答えた。 久美も同じことを言う。 「駅で待ち合わせして来ましたよね?」 久美も自分の言っていることに違和感を覚えた。 三人とも記憶は駅で待ち合わせして電車に乗ってここまで来たと言っている。映像としては夢のように漠然としてしか思い出せないが、三人で来たのは確かなようだった。 では、なぜ違和感を感じるのだろう。 愁斗は三人で来た電車の風景を思い出そうとした。 最初は座れなかったが途中から並んで座った。そして、自分の名前を誰かが呼んだ。それが誰だったのか、愁斗は思い出そうとしたが急に頭痛に襲われた。 「あれは……誰……?」 愁斗の頭の中で誰かが『愁斗くん』と呼んでいる。自分は誰に呼ばれているのか。それはとても大切なひとだったような気がする。 ――少しの間だけ、このままでいさせて……。 そう言った彼女はゆっくりと目をつぶって愁斗の肩に頭を乗せながら眠った。 自分の肩で眠るひとを愁斗は優しい眼差しで見守り続けた。 ベンチに座っていた愁斗が急に立ち上がった。 「どうして、どうして僕は大切なひとのことを忘れてしまったのだろうか……。僕が魔導に魅せられるとは……」 封じ込められていた愁斗の記憶が全て蘇った。 麻衣子は不思議な顔をして愁斗を見ている。 「愁斗先輩、どうしたのですか?」 愁斗の記憶を取り戻せたのは彼が魔導士であり傀儡師だったからだ。魔導の力を持っていない者は魔導によって封じられた記憶を取り戻すことはできない。 「僕は行くところがあるから、ごめん、また今度」 行こうとした愁斗の服を久美が引っ張った。 「待ってくださいよ、どうしたんですか?」 「急用ができたんだ」 「急用って何ですか? 私たちも連れて行ってくださいよ」 久美は愁斗の服を放さなかった。久美は自分でもなぜこのようなまねをしているのかわからなかった。ただ、愁斗ひとりで行かせたくなかった。 麻衣子も久美と同じ気持ちだった。 「愁斗先輩、どこに行くのでしたら私たちを連れて行ってください。なぜだかわからないのですが、私たちも行きたいんです。そして、誰かに会わなきゃいけないような……」 記憶が嘘をついていても、身体や心は覚えていた。 愁斗は迷った。自分の力を使えば二人の記憶を解き放つことができるだろう。だが、今ここでそれをする意味があるのか? 向こうの世界に行って問題を解決すればこの二人の記憶は自然に戻るだろう。わざわざ危険なところに二人を連れて行くべきではないと愁斗は考えた。 「僕ひとりで行きますから」 久美が愁斗の服をより一層力を込めて掴んだ。 「ひとりじゃ行かせないわ」 麻衣子が愁斗の腕を掴んだ。 「私たちも行きます」 「わかった、仕方ない」 愁斗は自分でもなぜそう言ったのかわからなかった。無理やり二人を突き放すこともできたはずだ。 「二人とも僕の目をしっかりと見るんだ」 言われるままに二人は愁斗の瞳を見た。 真っ黒で吸い込まれそうな瞳。瞳を見ているだけで不思議な術にかかってしまいそうだ。 急に久美と麻衣子が一瞬気を失って倒れそうになった。それを愁斗が同時に抱きかかえる。 「大丈夫?」 久美と麻衣子はうなずいた。二人の記憶は一瞬にして戻っていた。 「思い出したわ、こことは違う変なテーマパークにいたこと」 「沙織さんが少し変だったのですが、だんだんそんなことどうでもよくなって、いろんな乗り物などに乗って遊んでいたんです。でも、どうして愁斗先輩が?」 「二人はあの世界で不思議な体験をしたと思う、僕もそんなことができるのさ」 愁斗は近くを歩き回りながら〝接点〟を探した。 「ここか!」 愁斗の手が妖糸を放ち空間が煌いた。それは開かれた世界の扉。 二つの世界は繋がっている。それは距離や時間を超越し、そこにある。 開かれた扉の中へ愁斗は飛び込んだ。 二人も裂かれた空間の中に飛び込んだ。それを見ていた周りの人々は自分たちの目を疑った。 揺れが治まり、翔子はやっと立ち上がることができた。 「沙織ちゃん、私たちと元の世界に帰ろう!」 「ヤダもん、沙織帰らない」 「家族の人たちも心配してるよきっと」 沙織を説得しようとして言ったこの言葉が逆効果となった。これこそが帰りたくない理由。 「パパとママなんかいらない、沙織は帰らない!」 「帰る必要なんてないさ、ボクらはずっと子供のまま、未完成のままでいい……」 そこには雪夜が立っていた。その手には彪彦の入れられた鳥かごを持っていた。 雪夜は沙織を手放したくなかった。 「ボクらは同じ、同じ痛みを分かち合える……。ボクはボクが創り出したこの城の意味がやっと理解できた」 鳥かごを床に下ろした雪夜は微笑んだ。そして、沙織の傍らにそっと近づいた。 「ボクらにあるものは過去と現在。この空虚な城の中にはいつも誰かが必要なんだ」 この城は雪夜を象徴するもの。城とは雪夜の心であり、その中には常に誰かがいること必要だった。それが沙織だった。 沙織は涙ぐんだ瞳で雪夜を見つめた。 「雪夜くん……」 「世界は壊れてしまったけど、また創ればいいさ。けど、その前に彼女らをどうにかしなきゃいけない」 雪夜の言葉に沙織は無言でうなずいた。 撫子は雪夜に見据えられて身構えた。 「にゃ、にゃに? このスーパー美少女撫子ちゃんとヤル気!?」 戦闘体勢に入っている撫子を見ながら雪夜沙織に聞いた。 「彼女らをどうしたらいいと思う? きっとあっちの世界に還してもすぐにまたここに来ようとすると思うんだ」 「捕まえて牢屋とかに入れて置こうよ」 そう沙織は屈託のない笑みで言った。 魔導を使う才能があったとしても、目覚めたばかりの沙織には耐性がなかった。恐らく沙織も魔導に魅了されているに違いない。 雪夜は沙織の手をぎゅっと握り締めた。 「新しいマジックを見せてあげるよ」 新しいとはいったいどのようなものなのか? 雪夜の使うトゥーンマジックや世界を創り出す能力はもととなる材料が必要だった。 今は崩壊してしまったあのテーマパークも、雪夜がパソコン上でデータとして作ったテーマパークを実体化したのだ。新たな〝マジック〟も原理は近かった。 「ボクが沙織さんのイメージを具現化する。だから、沙織さんは彼女たちを捕まえる何かをイメージして」 それはテーマパーク造り変えた時の応用技だった。 沙織はたくさんのぬいぐるみを想像した。それを雪夜は握り締めた沙織の手から感じ取って創造する。 大中小いくつものぬいぐるみが突如いろいろな場所から現れた。この魔導を使えば銃でも戦車でも出せるかもしれない。だが、沙織の出したものはぬいぐるみだった。 ぬいぐるみが撫子に襲い掛かる。 「こんにゃのと戦うの!?」 鋭い撫子の爪がぬいぐるみを切り裂き、彼女の周りに綿が散乱する。 ぬいぐるみは決して強くもなく、攻撃をされても痛くもない。だが、その数は無限と思えるほど、次から次へと現れる。 「撫子ーっ!」 翔子が助けを求めた。撫子が翔子の方を振り向くと、翔子は人間サイズのクマのぬいぐるみに捕まっていた。ぬいぐるみと言えど、普通の女の子と変わらない翔子を捕まえるだけならば、何の問題もなかった。 「翔子のばかぁ! 捕まってどうするのって、わぁ!?」 撫子が後ろを振り返ると大波のようなぬいぐるみを押し寄せていた。これに立ち向かっても勝てない。撫子は逃げた。 幸い中身の全くない城の中は広かった。逃げ場ならばいくらでもある。 押し寄せて来るぬいぐるみから逃げ回る撫子。いつまでも逃げていてもしょうがない。この元を断たなければ。 撫子は沙織に向かって走り出した。その前に大きなぬいぐるみたちが立ちはだかる。 鋭い爪を振り回しながら撫子は沙織に接近していく。 もう、手を伸ばせば沙織に――。 「センパイ来ないで!」 沙織が叫んだのとともに撫子の身体が後ろに大きく吹き飛ばされた。 上空をくるくると回りながら吹き飛ばされた撫子は自慢の運動神経で軽やかに地面に着地した。 「近づくこともできにゃい」 それに近づいたとしても、撫子はその後どうしたらいいのかわからなかった。 できることならば撫子は沙織を傷つけたくない。では、雪夜ならば? 撫子は雪夜に狙いを定めた。だが、雪夜は沙織の近くにいる。どうやって近づけばいいの? やはり近づくことは無理だった。撫子は追って来るぬいぐるみから逃げ回ることしかできなかった。 辺りを走り回る撫子を見て雪夜は沙織に言った。 「このままじゃいつまで経っても捕まえられない。他のものを想像して!」 「他のもの?」 雪夜は撫子を捕まえることのできる何か的確に沙織に説明することができた。だが、雪夜は沙織に任せた。 沙織が考えごとをはじめたことによって、新たなぬいぐるみが現れなくなった。そして、隙もできた。 全速力で走った撫子は雪夜に近づき鋭い爪を大きく振り上げた。 接近して来た撫子に気がついた沙織が叫ぶ。 「センパイダメ!」 再び撫子の身体が吹き飛ばされそうになったが、撫子はその瞬間に雪夜の腕を掴んでいた。 吹き飛ばされる撫子に巻き添えを喰らった雪夜は思わず沙織の手を放してしまった。 大きく吹き飛ばされる二人。叫ぶ沙織。 「雪夜くん!」 吹き飛ばされつつ雪夜は掴まれた腕を掴む撫子の腕を掴み返した。 高らかに雪夜は声をあげた。 「トゥーンマジック!」 「にゃ~っ!?」 撫子はねこのぬいぐるみにされてしまった。 相手がこんな技を使えるなど撫子は全く知らなかった。どうりで彪彦がブリキの人形にされていたはずだと今になって思った。 ぬいぐるみにされた撫子は辛うじてしゃべることができたが、彪彦と違って動くことはできない。撫子は魔導士ではないので魔導力があるわけではない。撫子が持っているのは多少の耐性とズバ抜けた感知能力だけで、彪彦のように無理やり魔導力で身体を動かすようなまねはできないのだ。 「にゃーにゃーもぉヤダーっ! 早くプリティ美少女の身体に戻してよ!」 「それはできないよ」 この場に駆け寄って来た沙織は嬉しそうな顔をしてねこの人形と化した撫子を抱きかかえた。 「可愛いですぅセンパイ! 沙織が大事にしますからねっ!」 「大事にしにゃくてもいいから、もとに戻して!」 「だから、できないって――!?」 雪夜は首に違和感を感じ、何を見た翔子が声をあげた。 「愁斗くん! それに二人も!?」 全員の視線が愁斗と久美と麻衣子に集まった。 愁斗は妖糸をしっかりと手で握り締めている。その妖糸の先はしっかりと雪夜の首に巻きつけられていた。 「動くな、動くと貴様の首を飛ぶことになる」 冷たく言い放つ愁斗は本気だった。 雪夜は何もすることができず、近くにいる沙織も動けずにいた。 愁斗は命じた。 「まずは瀬名さんを解放してもらおう」 この言葉の後に翔子は身体を掴まれていたクマのぬいぐるみから開放された。 「あ~、助かった」 緊張の糸が解れて翔子は地面にへたり込んだ。 ぬいぐるみにされた撫子が沙織の腕の中で叫んだ。 「アタシも早く人間に戻してーっ!」 「ボクの首に巻きついた何かをどうにかしてもらえないと無理だよ」 「愁斗ク~ン、この子に巻きつけた糸解いてよ~ん!」 「駄目だ」 撫子の言葉に愁斗は即答した。 「そんにゃ~」 愁斗の手から妖糸が放たれた。それは雪夜を操る妖糸であった。 人形のように操られる雪夜は自分の意思とは関係なく沙織から撫子を受け取った。そして、愁斗が命じる。 「撫子を人間に戻せ」 「しかないな、トゥーンマジック!」 撫子は人間の姿に戻ってすぐに翔子のもとへ駆け寄って行った。 床に置いてあった鳥かごがガタガタと揺らされた。 「わたくしももとの姿に戻していただきたい」 「――だそうだよ」 雪夜はそう愁斗に告げたが、愁斗の反応は冷ややかだった。 「彼は……影山彪彦か、彼はもとに戻さなくてもいいだろう」 「にゃにゃにゃに言うの!? ちゃんと戻してくれにゃいとアタシが後で困るよぉ」 喚き散らす撫子を翔子が後押しした。 「愁斗くんお願い」 雪夜の身体が動き出し鳥かごの中に入っている彪彦を抱きかかえた。 「トゥーンマジック!」 彪彦の身体がもとの鴉に戻った。 「助かりました愁斗さん、ありがとうございます」 鴉の姿をしている彪彦を見て愁斗は何も思わなかった。すでに彪彦の本体が鴉であることには気づいていたのだ。 一段落ついたところで麻衣子がしゃべりだした。 「帰りましょう沙織さん」 「沙織帰りたくない」 後退りをする沙織に久美は怒鳴るような口調で言った。 「あんたね、せっかく私たちが迎えに来てあげたんだから、一緒に帰るわよ!」 「ヤダヤダヤダヤダ! 沙織はこの世界から出たくない。ずっと子供のままでいたいんだもん!」 「あんたわがまま言ってないで私たちと帰るのよ!」 久美は怒りながら沙織に詰め寄ろうとした。だが、沙織が叫んだ。 「来ないで!」 久美の身体が吹き飛ばされ、麻衣子が地面に倒れながらそれを受け止めた。 「久美さん大丈夫ですか? 沙織さんなんてことするんですか!」 「ヤダヤダヤダヤダ! 沙織は久美ちゃんと麻衣子ちゃんとこの世界で暮らしたいの!」 起き上がった久美は再び沙織に詰め寄った。 「私はもとの世界に帰るわよ、あんたを連れてね」 麻衣子も沙織に向かって歩き出した。 「一緒に帰りましょうよ沙織さん。なぜ、帰りたくないのですか?」 「あんな世界つまらないもん!」 沙織の言葉を聞いて怒った顔をした久美の手が沙織を掴もうとしたが、沙織はまた叫んだ。 「だから、帰りたくないの!」 久美の身体が再び後ろに飛ばされて麻衣子に受け止められた。 今ので久美は足をひねってしまったが、それでも再び沙織に近づこうとした。 「あんな世界ってどういうことよ! それって私や麻衣子と遊んでる時もつまらなかったってこと!」 「そ、そうじゃないよぉ」 「だったら私たちと帰って、あっちで遊べばいいでしょ?」 「だから、違うの違うの違うのぉ!」 再び久美の身体が吹き飛ばされた。 状況を静かに見守っていた愁斗が静かに口を開いた。 「この世界さえ消えれば、沙織がここにいる意味がなくなる」 それはつまり、雪夜を殺すということだった。 妖糸を持つ手に力が込められた。 愁斗が何をしようとしているのかを察した翔子は静かに言った。 「その子のこと殺さないよね」 こう翔子に言われなければ愁斗は殺していたに違いない。 雪夜の首に巻きついていた妖糸が地面に落ちた。 ため息をついた雪夜は微笑んだ。 「ボクは帰ろうと思う場所がない。けど、沙織さんは違うようだ」 何を感じ取ったのか沙織は雪夜を見つめた。 「どういうこと、沙織は帰りたくないよぉ。ねえみんなもこの世界で住もうよ!」 久美と麻衣子は沙織のもとに駆け寄って、沙織の腕を掴んだ。 「帰るわよ」 「帰りましょう沙織さん」 「ヤダよ、沙織帰りたくない!」 沙織は二人の腕を振り払って雪夜の手を掴んだ。しかし、その手は雪夜のよって振り払われた。 「どうしてなの雪夜くん!?」 「どうしてかな、ボクにもわからないよ。でもさ……」 雪夜は魔力のこもった瞳で沙織を見つめた。すると、沙織の身体から力が抜けていき地面にゆっくりと倒れ込んだ。 近くで見ていた久美が叫んだ。 「何した!?」 「大丈夫だよ、ちょっと眠ってもらっただけだから」 静かに言った雪夜は背を向けて手をかざした。すると、雪夜の前に闇色の扉が現れた。そして、彼は背を向けながら言った。 「なんだかどうでもよくなっちゃたよ。沙織さんを連れて帰るといい……ボクはもっと深い世界で誰にも邪魔されずに暮らすことするよ」 闇の中へ雪夜の身体が溶けて行った。 雪夜が消えたことにより世界が溶けていく。 愁斗の手が煌きを放ち、自分たちの世界の扉を開けた。 「早く出よう、世界が消える」 愁斗は気を失っている沙織の身体を抱きかかえて空間にできた裂け目の中に飛び込んだ。それに続いて全員が裂け目の中に飛び込んだ。 気がつくとそこはもとの世界のテーマパーク内だった。全ては何もなかったようになってしまった。 彪彦は最後の仕上げとして、沙織と久美と麻衣子――この三人組の記憶を催眠術で封じた。これで事件のことは全て忘れてしまった。これで本当に三人には何もなかったことになった。 催眠術をかけられた時に同時に気を失った久美と麻衣子、それにまだ気絶したままの沙織を彪彦と撫子に任せて、愁斗と翔子は歩き出した。 「瀬名さん、デートどうしようか?」 「もう、デートって気分じゃなくなっちゃった」 「そうだね、じゃあ帰ろうか」 「うん」 全ては終わってしまった。だから二人は何事もなかったように互いの手をしっかりと握り締めて帰路に着いた。 クリスマス当日、愁斗と翔子は色取り取りに飾られた街を出て、人里離れた静かな墓地に来た。 大きな墓地だが人の姿は二人以外ない。おぼんでもなければ人がいないのは当然かもしれない。 愁斗は途中の花屋で買った花束を持って墓地の中を歩き、翔子は誰の墓に行くのだろうと考えながら愁斗の横を歩いた。 今朝、食事をとっている時、愁斗と翔子はこんな会話をした。 ――ごめんね、昨日は散々なデートになちゃったね。あのさ、デートじゃないんだけど、今日一緒に行きたいところがあるんだ。 ――今日はひとりで過ごすって言ってなかったけ? ――瀬名さんは特別なひとだから、会って欲しい人がいるんだ。 そして、翔子が愁斗に連れて来られたのは墓地であった。 愁斗の大切な人とは誰なのだろうか? しばらく歩いたところで愁斗が足を止めた。 「着いたよ」 愁斗が見つめる墓石には〝秋葉家〟と刻まれていた。愁斗の家族の誰かの墓ということだろうか。 目の前にある墓が誰の墓石なのか、聞かなくても翔子は理解した。きっと、愁斗の母親の墓だ。 愁斗が小さい時に母親を亡くしたと翔子は聞いていた。そして、父親は現在行方不明らしい。 翔子は静かに尋ねた。 「愁斗くんのお母さんのお墓でしょ?」 「そう、僕の母の墓だよ。亡くなって随分になる」 愁斗母親とどんな人物だったのだろうかと、翔子は想いを馳せた。きっと、愁斗は母親似に違いないと翔子は何となくだが思った。 きっと、美人で優しくて、自分の母親と比べものにならないほどいいお母さんだったに違いないと翔子は勝手に思った。美人で優しくて、というのは翔子が想う愁斗のイメージでもあった。 愁斗はしゃがみ込んで花束を墓石に供え、そのまま手を合わせて目をつぶった。翔子も愁斗に合わせてしゃがみ込んで手を合わせて目をつぶりお祈りをした。 翔子は愁斗との仲をざっと愁斗の母に伝えて目を開けた。愁斗はまだ手を合わせて目をつぶっていた。 しばらくの間、翔子は愁斗の横顔を見つめていた――。 翔子が見守る中、愁斗がゆっくりと目を開けて、呟くように話をはじめた。 「前に母は僕が小さい頃に死んだって言ったでしょ?」 「うん」 「僕が四歳の時に死んだから、断片的な母の記憶しか残ってないんだ。でも、はっきりと目に焼きついた母親の笑顔があるんだ――僕はあの笑顔を忘れない」 「やっぱり優しいお母さんだったんだね」 笑顔でそう言った翔子に対して、愁斗は浮かない表情をしている。 「優しい母だったと思う……、けど、その笑顔は違うんだ」 「違うって何が?」 「死ぬ間際だって言うのに母は僕に向かって笑いかけてくれた」 「…………」 「体中、血まみれで苦しくかったはずなのに、血に染まった真っ赤な手で僕を抱きしめながら笑ったんだ」 「…………」 翔子は何も言えなかった。 血まみれとはどういうことなのだろうか? 愁斗の母はなぜ死んだのだろうか? 愁斗の過去に何があったのだろうか? 翔子は何とも言えない不安に襲われた。胸が苦しくて、悲しくて、翔子はどうしていいのかわからなかった。 「愁斗くん……」 やっと出せた声はこの一言だった。 愁斗は静かに呟いた。 「僕の母は殺されたんだ。それも僕の目の前で……」 翔子には考えられない不幸であった。 「瀬名さんには僕の全てを話さなきゃいけないと思ったんだけど、ごめん、これ以上は辛くて話せないみたいだ……」 愁斗は泣いていた。翔子は愁斗が泣くのを見たのはこれで二度目だった。 声を噛み殺して泣いている愁斗見ているうちに、翔子も涙が溢れて来て止まらなくなってしまった。 脳裏に焼きついた母の死に顔を愁斗は思い出して泣いていた。あの時の母の微笑を思い出すことによって、別の記憶も蘇って来る。それは、翔子が死んだ時の記憶だった。 翔子が腹を剣で突き刺され死んだ時、あの時の翔子も死ぬ間際に愁斗に向かって微笑んだのだ。だから、愁斗は翔子を蘇らせてしまったのかもしれない。その微笑を見てしまったから……。 愁斗は涙拭いて立ち上がった。 「僕さ、母が死んでから辛いことばっかりで……。翔子ちゃんに出逢えてよかったよ、本当によかった」 しゃがみ込んでいる翔子は潤んだ瞳で愁斗を見つめた。 「私も愁斗くんに逢えてよかったよ」 「こんなに人生が楽しいと思えるようになったのは翔子ちゃんのお陰だと思う。翔子ちゃんが傍にいてくれなかったら、僕は何も変われなかった」 翔子は泣きながら愁斗に抱きついた。ずっと傍にいて欲しくて、絶対放してはいけない存在だと翔子は思った。 愁斗は翔子の顔を自分の顔に向けさせて指で涙を拭き取った。 「ごめん、僕のせいで泣いてるんだよね」 「なんで謝るの? いいんだよ謝らなくても。私は愁斗くんのこと理解したいの、だから愁斗くんの気持ちを考えたら涙が出て来たの。愁斗くんだって泣いてたじゃん、だから私も泣くんだよ」 翔子は愁斗に抱きついてお互いを支えあう存在なのだと実感できた。 愁斗は翔子を強く抱きしめた。とても温かくて、翔子の心臓の鼓動が伝わって来るのがわかる。 「あっ!?」 翔子が声をあげた。 「どうしたの?」 「見て、雪だよ雪!」 愁斗が空を見上げると、灰色の雲の中から小さな雪がたくさん降って来て、手のひらを出すとその上に落ちて、すぐに消えてしまってなくなってしまった。 ひとつひとつは儚い雪――この雪は積もるのだろうか? 「愁斗くん?」 「何?」 「ホワイトクリスマスなんて滅多にないよ」 「そうだね」 「ロマンチックだよね」 ねだるようにして翔子は目をつぶった。そして、話を続ける。 「雪が消えないうちに……」 翔子は最期まで言わなかったが、愁斗の唇は翔子の唇にそっと触れた。 目を開けた翔子に愁斗は笑いながら言った。 「積もるといいね」 「そうだね」 雪降る中で二人は手を繋いで帰路についた。 未完成の城(完) 傀儡士紫苑専用掲示板【別窓】 |
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