第1章〜薔薇の記憶〜
見知らぬ大地
 少年が目を開けると、澄み切った蒼(あお)い空が目に入った。眩しい陽の下を鳥たちが羽ばたいている。そして、爽やかな風が少年を優しく包み込む。少年は広大な草原の上に寝転んでいた。
 こんな天気のいい日は、そよ風に吹かれながら草原の上で寝転ぶと気持ちがいい。風が生命の息吹を運び、青草の香りが心地よい。少年がこんな晴れ晴れとした日に外に出たのは久しぶりだった。
 少年がふと首を横に向けると、少年と同じように女の子が寝転んでいた。ただ、その女の子は普通の女の子と違っていた。姿形は少年と同い年か、それより下のほぼ人間と思われるが、頭から覗く猫のような耳、スカートから飛び出している長いしっぽがうにゅうにゅと動いていた。それはまるでファンタジーでよく見る獣人――猫人だった。
 少年は少し前の記憶を辿った。そう、さっきまで自分の部屋にいたような気がする。だとしたらこれは夢かもしれない。だが、少年はこれが現実であることを心の中で願った。
 上体を起こした少年は横で眠る女の子に声をかけてみた。
「こんにちは、起きてますか?」
「うう……はっ!?」
 猫耳の女の子は大きな瞳をクリクリさせながら飛び起き、少年の前に座って目を輝かせて少年の顔を覗きこんだ。
「こんにちわ、ご主人様!」
「……僕?」
 突然『ご主人様』と呼ばれて少年は戸惑った。
 この子にご主人様なんて言われる理由もないし、ましてや会ったのも初めてなのに、どうして?
「君はボクの新しいご主人様だよぉ〜っ!」
 猫耳の少女は少年の身体に抱きついて押し倒した。
「わぁっ、なにするの!?」
 驚き押し倒された少年は自分の目の前――少女の首輪に付いている金色のコインに注目した。あの猫と同じなのだ。金色のコインにはあの時に見た記号みたいな物が刻まれていた。偶然とは思えない。
「もしかして、君って僕が拾った猫?」
「さっすがはご主人様、ボクのご主人だけあって頭いいね。ご主人様がボクを拾ってくれたから、ご主人様がボクのご主人様!」
「あのね、その『ご主人様』って呼び方は恥ずかしいから……」
「じゃあ、所有者様!」
「僕の名前はセイっていうから、セイって呼んでもらえるかな?」
「おう、じゃあご主人様、よろしく!」
 顔いっぱいに笑顔を浮かべた女の子はセイに向かってピースをした。
 セイは思わず苦笑した。自分の言葉がどうやら通じていないらしい。
 猫耳の少女はセイが道端で拾った仔猫だった。この手の明るくて元気な少女と話すのが久しぶりだったセイは少し疲れた表情をした。でも、すぐに笑顔を取り戻した――久しぶりの笑顔を。
「僕こそよろしく。ところで君の名前は?」
「ボクの名前はファティマ。この首輪にもそう書いてあるんだよ」
 ファティマは自分の首輪についたコインを指差した。そこに刻まれていたのは文字だったのだ。そうではないだろうかとセイは察しが付いていた。実はそこに刻まれていた文字と、あの謎の本に書かれていた文字が似ていたのだ。
「あ、そう言えばあの本は?」
 少し声をあげたセイは辺りを見回してあの本を探した。セイはあの本が自分をこの世界に運んできたのだと考えた。だとすると、あの本はとても大切な物となる。
「セイの探してる本ってこれでしょ?」
 ファティマが胸に抱えていた本をセイの目の前に突きつけた。動物の皮に金字の表紙がセイの目に飛び込む。そう、この本だ。
「それだよ、その本」
「この本は大切な物だから手放しちゃダメだよ、はい!」
「あ、うん」
 電話帳みたいに厚くて重い本を渡されたセイだが、これを持って歩くのは少し大変だと思い少し怪訝(けげん)な顔をする。
 なにかバッグみたいな物があるといいのだが、セイはこの世界になにも持たずに来てしまった。だが、大切な本なので頑張って持ち歩くことを決めた。
 セイの脳裏にはじめてこの本を手に取った時のことが思い出される――魔導書。その考えはセイの中で確信されつつあった。
「この本ってなんの本なのかな? 僕には何が書いてあるか読めないんだ」
「ご主人様にこの本が読めないのは当然だよ。この本はこの世界の文字で書かれてる、それもずっと昔のある部族の文字でね」
「この世界……? やっぱり僕は僕の住んでいた世界に来たんだ……」
 セイは嬉しかった。そう、セイは想い憧れていた世界に来たのだ。セイは前の世界から解き放たれたのだ。
「そうだよ、セイが『誰も知らない世界を冒険したみたい』って言ったから、ボクがセイをこの世界に連れて来たんだよ」
「それで、この本はなんの本なの?」
「その本はこの世界のことを書き記した本だよ。この世界のことをいっぱいいっぱい書いてあるの。その本に書いてることなら、なんでもボクは知ってるよ。でも、世界のことを全部知ってるわけじゃなし、よく思い出せないことがあるの。だからこれからボクとセイと一緒にこの世界を冒険するんだよ」
「……うん」
 なんだか相手の勢いに押された感じだ。
 勢いよく立ち上がったファティマはスカートの裾を風に揺らしながら、遥か草原の向こうを力強く指差した。
「この草原の向こうに花人たちの住む〈ハナンの町〉があるから、まずはそこに行こう!

「花人?」
「そう、花人。花から生まれた種族の名前。見た目はほとんどセイと一緒だけど、髪の毛の中から花がアクセサリーみたいに咲いてる人とか、手が蔓(つる)みたいな人とか、まあ、行って見てみるのが一番だと思うよ」
「うん、楽しみだな」
 日がまだまだ高い草原の下を二人は〈ハナンの町〉に向かって歩き出した。
 セイの足並みは普段よりも軽く、その顔つきはいつもよりも生き生きしていた。
 〈ハナンの町〉に向かって歩きながら二人はいろいろな話をした。話と言ってもセイが質問をして、ファティマがそれに答えるというもの。そのお陰でセイはおもしろい話がいっぱい聴けた。
 ファティマの説明によると、この世界の呼び名はどの種族のどの言葉でもノースと読んでいるらしく、このノースには大地という意味が含まれているらしい。そして、このノースを造ったのは〈大きな神〉という存在とのことだ。
 この世界の創世神話はこうだ。
 ――外なる宇宙から来た〈大きな神〉は数多の星の中から水に溢(あふ)れる青い星を選び、その星に〈生命の粉〉を蒔(ま)いて木々や草花を生やし、粘土から昆虫や動物たちを造りだした。
 次に〈大きな神〉は自分の姿に似せて第一のヒトと呼ばれる天人という翼の生えた民を創り出した。しかし、その天人の間で戦争が起き、負けた多くの天人はどこか遠くの世界に逃げてしまい、勝った天人たちがノースを治めるようになった。やがてノースを治める天人の有力者は〈小さな神〉と呼ばれるようになり、それ以外の天人たちは身を潜めるようになっていった。
 〈大きな神〉は自分の創った世界の発展を気に入らず、天人から翼を取った第二のヒトと呼ばれる地人を創り出した。しかし、〈大きな神〉はそれでも満足せず、地人と動物や植物、ありとあらゆるモノを組み合わせて多くの種族を創った。それでも〈大きな神〉が納得する種族と世界は創り出すことはできなかったと云う。
 そして、いつしか〈大きな神〉は人々の手の届かぬ〈最果ての地〉に行ってしまったと云う。
 ファティマは歩きながら空のずっと向こうを指差した。
「〈大きな神〉様はあの空よりもずぅ〜っと上に住んでるの。そこで〈大きな神〉様はボクたちのことを見守ってるんだけど、ただ見守ってるだけで他には何もしてくれないんだよ」
「見守ってるだけで困ってる人を助けてくれないの?」
「〈大きな神〉様はこの世界と多くの種族を創って、あとは善いことも悪いことも全部黙って見てるだけ、だから〈大きな神〉様を信仰してる人は少なくて、〈小さな神〉様を信仰してる人の方が多いかな。〈小さい神〉様はたまにだけどみんなの前に姿を見せてくれるからね」
 この世界には神が本当にいるらしい。セイのいた世界に神がいないというわけではなかったが、こっちの世界の方がセイには真実味があるように思えた
 この草原には多くの動物たちがいた。セイのいた世界にもいたような草食動物の類だが、あいにくセイたちの位置からは、向こうが警戒しているのか、こちらが避けて通っているのか、その姿をよく観察することはできなかった。
 ファティマの足がふと止まった。
「ご主人様気をつけて……イヤ〜な感じがする」
「イヤな感じ?」
「そう、例えば獰猛(どうもう)な怪物の雰囲気……って上か!?」
 巨大な影が二人を呑み込んだ。なにかが二人の上空にいる!
 顔を上げたセイが大声で叫ぶ。
「わぁーっ!」
「ご主人様怖いよぉ」
 腰を抜かして尻餅を付いたセイに、混乱に乗じたファティマが身体を摺り寄せてきた。しかし、状況はファティマがわざとらしくご主人様に甘えてられるような状況ではない。上空には巨大な翼を持った蜥蜴(とかげ)のような生き物が飛翔していた。
「あ、あれなに?」
 巨大生物を指差すセイの指が地面に向かって下がるとともに、大地が轟音を立てながら激しく揺れた。
 固い鱗(うろこ)に包まれた体長六メートルの巨大蜥蜴に翼が生え、頭には二本の角と口からは剣のような鋭い歯、長く伸びた爪で引っかかれたら一撃で即死するに違いない。
 巨大な怪物を前にファティマは突然口調を変えて説明をはじめた。
「説明しよう。あの巨大生物はドラゴンといい、大まかに分類するとスカイドラゴンという種類に分類される。補足を加えると、こんな草原でドラゴンに出くわすなんて珍しいことなんだよ、ある意味ラッキーだね! しかも子供のドラゴンだから可愛いね」
「ラッキーなんかじゃない! 可愛くもない!」
 セイの叫びを掻き消すようにドラゴンが咆哮(ほうこう)し、巨大な舌を伸ばしながら二人に襲い掛かってきた。だが、セイにはどうすることもできなかった。
 その時突然、ファティマの身体が閃光に包まれ、セイの視界は真っ白になってしまった。
 ドラゴンの咆哮だけが木霊する――。


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