解呪

《上》

「依頼に来た」
 短く紅葉[クレハ]はハルナに告げた。
 並々ならぬ気配を感じたハルナは、慌てて紅葉を家の中に通した。
「時雨さんなら2階のいつも部屋にいます」
「お邪魔する」
 おじぎをして紅葉は二回へ上がった。
 3月も下旬だというのに時雨はこたつの中に潜っていた。
「依頼に来た」
 再び短く紅葉は告げた。
 時雨はこたつに潜り直した。
「別の人に頼んでよ。夏が来るまで仕事はしたくないんだ」
「弟が仮死状態になった」
 その言葉を聞いて慌てて時雨はこたつから飛び出した。
「なんだって!?」
 驚きを隠せない。
 紅葉の弟は仮面の医師――蜿[エン]。
 〝大蛇〟の呪いを背負ってしまった者。
 すなわち〈ヨムルンガルド結界〉と繋がる者。
 紅葉は立ったまま話をする。
「すでに原因究明には多くの人間が動いていた」
「いた?」
「帝都病院の威信にかけても、院長である蜿を直そうと躍起になっていた。我が秋影コーポレーションも全勢力をかけて動いていた。医師、科学者、魔導師、そしてTSにも依頼済みだった。だが、帝都政府が乗り出してきたことにより、すべての情報は隠蔽され、我々の介入はすべて規制されることになったのだ」
「ボクはなにをすればいい?」
「原因そのものについては予測はついているが、それを多くの者に口外するわけにはいかない。君には神威神社の神主である神威雪兎[カムイユキト]という人物を捜し出して欲しい」
「あの神社の神主は命[ミコト]じゃないの?」
「命には行方不明の兄がいるのだ」
 記憶を失った時雨がこの場所に辿り着いたときには、すでに雪兎はいなくなっていた。
 雪兎がこの街からいなくなったあと、紅葉は彼に会っている。その時点でまでは対外的には行方不明になっていたが、紅葉は雪兎の居場所を知っていたことになる。それを今になって捜索依頼をするということは事情が変わったということだ。
「手がかりは?」
 時雨が尋ねると紅葉は首を横に振った。
「なにもない。なぜ行方不明になったのか私は知らない」
 明らかな嘘だった。つまり時雨に開示できる情報はないということだ。
 人捜しをするには情報量が少なすぎる。
 わかっている情報は雪兎が神威神社の神主であることと、その妹が命であること。そこから新たな情報が見つからなくては、行き詰まることになるだろう。
「ほかにはなにかある?」
 さらに時雨は尋ねたが、やはり同じように紅葉は首を横に振った。
「今のところはない。新たな情報があれば君に伝える。では、よろしく頼んだ」
 有無を言わせぬまま紅葉は急いでこの場から立ち去ってしまった。無礼とも取れるが、切迫した状況とも取れる。
 時雨はすぐに冬物のコートを羽織り出掛けた。
 目的地は神威神社。
 ハルナに店を任せて、そのまま商店街を抜ける。
 神威神社はその先にある。あると言ってもまだそこは跡地だ。
 長らく命はホテル住まいを強いられていたが、このほど仮設住宅を神社の建設現場近くに建て、そこで暮らしていた。
 ホテルよりも明らかに不自由な暮らしだが、それでも命はこの場所で暮らしている。
 命は無事だった境内の掃除をしていた。竹箒を掃く手を休め、時雨に顔を向ける。
「久しぶりじゃの」
「やあ、元気にしてた?」
「今はもうすっかり元気じゃ」
「うん、それはよかった」
 言い終えた時雨の足下が揺れた。
 世界が回転する。
 突然、時雨は意識が途切れそうになり倒れてしまったのだ。
 命は倒れそうになった時雨を抱きかかえた。
「大丈夫かえ?」
「……ちょっと、最近調子が悪くて」
「おぬしの躰……はじめて触るが、異様に冷たいな……まるで死びとのようじゃ」
 そう言った命の瞳も凍り付いていた。
 時雨は微笑んで見せた。
「冷え性なんだよ」
「粗末な仮住まいじゃが、休んで行くかえ? 美味しい茶を淹れてやろう」
「また今度にするよ。それよりも用事があるんだけど?」
「なんじゃ?」
「お兄さんのことなんだけど?」
 その言葉は命の表情を変えた。真剣な表情というか、どこか切迫したような怖い表情だ。
「わらわの兄のことかえ?」
「そうだよ。人に頼まれて探してるんだ」
「どのような用件で?」
「言っていいのかな。政府が規制に乗り出してるみたいで、ボクが動いてるのも本当はよくないんじゃないかなぁ。でも人の命がかかってるんだ」
 少し命は考えているようだった、口を閉じて数秒、動かずに石畳を見つめている。
 そして、顔を上げて時雨を見定めた。
「兄上はこの世にはおらん」
「え!?」
 驚いた時雨は雪兎が死んでいると思ったのだ。それを察して命は言い直す。
「死んではおらんぞ。ただ別の世界におる……らしい。わらわにも正確なことまではわからぬのだ」
 時雨は安堵した。もしも死んでいたら、ここで依頼は終わってしまう。
「どうやったら会えるの?」
「それもわからぬ。しかし、セーフィエルという女なら知っておるだろう」
「セーフィエル!?」
 時雨も驚いたが、それを見た命も少し驚いた。
「知っておるのか?」
「別に知ってるってほどじゃないんだけど、マナと姉妹弟子らしいよ」
「そうか、ならばあとはマナを当たってくれ。わらわが力になれることは、もうないじゃろう」
「ありがとう。じゃあ、行くね」
「力になれんですまんの。またな時雨」
 別れを告げ、時雨の背中が遠ざかっていく。
「待ってくれぬか!」
 命は思わず呼び止めてしまった。
 振り返った時雨。
「なに?」
「いや……なんでもない」
「ホントに?」
「……兄上に会えたら、わらわのことは言わないでいい。ただ、兄上の様子がどうだったか教えてくれぬか?」
「わかった、伝えに来るよ。じゃあね」
「うむ」
 今度こそ時雨は去って行った。
 残された命が呟く。
「兄上……」

 高級住宅街の一角にある屋敷。
 魔導産業界では知らぬ者はいない魔導士マナ。
 屋敷の中に通された時雨は客間の猫脚のチェアーに座り、しばらくするとアリスが紅茶を運んでやって来た。
「マスターはあと3分ほどで参ります」
「急用で呼び出しちゃってごめんね」
「いえ、マスターはいつもヒマをしておりますから」
 二人が話していると、洗い立ての髪の毛の匂いを振りまきながらマナが現れた。
「ア~リ~ス~、あたしがヒマですってぇん?」
「いえ、間違えました。マスターは遊ぶことで忙しいようで」
「ちゃんと仕事をしてるから、遊ぶ時間が多いのよ」
「先月の労働時間は10時間にも満たないようですが?」
「天才だから仕事の効率がいいのよぉん!」
 マナの全身からみなぎっている自信。本気で言っている。
 髪をふわりと両手で掻き上げたマナは時雨の前に腰掛けた。
「さて、なんの用かしらぁん?」
「セーフィエルの居場所を知りたいんだけど?」
「そんなの知らないわよ」
「え?」
 にべもなく言われ、時雨は驚いてしまった。
 時雨は食い下がる。
「ほら、えっと、姉妹弟子だったんだよね?」
「そうだけど?」
「なのに連絡先も知らないの?」
「そんなの知らないわよ」
 またもや同じセリフを吐かれてしまったが、まだまだ時雨はあきらめない。
「なにか手がかりとかは?」
「さぁ、情報屋に訊いたほうが早いんじゃない?」
「……ホントになにもない?」
「ええ」
 短く断言された。
 とんだ無駄足でセーフィエルを辿る情報も途絶えてしまった。
 マナの意見を借りるなら、情報屋を頼る手立てもあるが、見つかる確証はない。
 紅茶を一気に飲み干し時雨は席を立った。
「ありがとう。じゃあ、行くね」
「まだいいじゃなぁい。ゆっくりしていってちょうだい」
 引き止めようとするマナの顔からアリスへ時雨は視線を移動させた。
「ホントにヒマなんだね」
 アリスの言葉に確信を得た時雨だった。
 歩き出す時雨。その背中にマナが言葉を浴びせる。
「べ、べつにヒマなんかじゃないわよぉん!」
 ムシして時雨は屋敷の外に急いだ。
 最後の頼りの綱は情報屋だ。運がいいことに時雨は帝都一と謳われる情報屋と知り合いだ。ツインタワーにオフィスを構える情報屋の真[シン]は、彼のオフィスでしか依頼を受けない。彼自身、いとも簡単に情報が漏洩すること知っており、万全の場所であるオフィスしか信用していないからだ。
 さっそく時雨は予約の電話を入れることにした。
 屋敷の庭を抜けながら、ケータイを取り出し電話帳を開いていたときだった――いや、門を出たときだったというのが正しいだろう。
 まだ陽が高いはずなのに、まるで夜のような静けさがした。
 ゆらめく空間。
 闇色の影。
 夜魔の魔女セーフィエル。
「わたくしをお探しなのでしょう?」
「わおっ!」
 時雨は腰を抜かしそうなほど驚いた。
 まさか、ここでセーフィエルに会えようとは思いもしなかった。
 しかもセーフィエルの口ぶりは、事情を知っているようだ。
 落ち着きを取り戻して時雨が口を開く。
「よくボクが探してたってわかったね?」
「つい先ほど知ったわ。けれど捜す理由までは知らないわ。教えてくださる?」
「神威雪兎という人物を捜してて、どうやらこの世界じゃないところにいるらしくって、会う方法を知ってるのがあなただって話なんだけど?」
「あの場所は閉ざされたわ――前よりも強い結界において」
 時雨は落胆した。
「もう行けないってこと?」
「おそらく行けるのは女帝のみ」
「女帝ってこの街の女帝!?」
「そうよ」
 この帝都エデンを造り上げた人物。そして、世界に魔導を浸透させた人物。その偉大さはほかの誰の比でもない。時雨にとっても天と地以上の存在だった。
 政府の介入ですら厄介なのに、この地球上でもっとも偉大であり、もっとも恐られる人物が相手では手の出しようがない。
 だが、ここでセーフィエルは、
「あの場所に行く必用はないわ」
「え!?」
「もう雪兎はこの街に帰って来ているのですもの」
「それを早く言ってよ」
 この情報はかなりの進展だ。捜索の範囲が狭まってきた。
 さらに時雨は絞るために尋ねる。
「もしかして居場所知ってる?」
「それはわからないわ」
「だよね」
 そこまで虫のいい話もないだろう。
 しかし――。
「会える可能性はあるわ」
「どうやって……それよりも、どうしてあなたは雪兎のことを詳しく知ってるの?」
「それはあなたに関わる運命の駒だからよ」
「はぁ?」
 不思議な顔をする時雨に向かってセーフィエルは微笑んでいた。
「月を詠むには今宵はちょうどいいわ」
「はぁ?」
 セーフィエルがなにを言っているのか時雨には理解できなかった。
「まだ訊いていなかったわ。なぜ雪兎に捜しているのかしら?」
「それは守秘義務ってことで」
「教えてくれなくてはわたくしも力を貸すことはできないわ」
「それは……う~ん、ちょっと待ってね、依頼主と相談するから」
 時雨はすぐにケータイで紅葉に通話をかけた。
 コールをしても出ない。
 しばらくコールしたがやはり出なかった。
 通話をやめてケータイをしまおうとしたとき、紅葉からの着信があった。
「あ、もしもし」
《すまない、手が離せなかったのだ。それでなにか進展はあったのかね?》
「それが神威雪兎に会う方法を知ってる人に会ったんだけど、事情を詳しく教えてくれないと力を貸せないって言うんだ」
《素性の知れない者には事情は話せない》
「ええっと、ボクの知ってる限りでは、マナと姉妹弟子の魔導師で名前はセーフィエルって言うんだけど」
《セーフィエル……まさか。『人工満月はどうかね?』と尋ねてみれくれないかね?》
「うん、わかったけど……」
 時雨にはなんのことかわからなかったが、セーフィエルに顔を向けて、
「『人工満月はどうですかー』だって?」
 それを訊いてセーフィエルは月のように微笑んだ。
「『わたくしが差し上げた魔導書はお役に立ちまして?』とその依頼主に伝えてくださる?」
「……うん」
 やはりなんのことかわからなかったが、時雨はケータイに話を戻して、
「『わたくしがあげた魔導書が役に立ったか?』だってさ」
《電話を代わってくれないかね?》
「いいの?」
《すでに互いの素性は知れている》
「そう」
 時雨からセーフィエルはケータイを受け取った。
「もしもしプロフェッサー紅葉。お久しぶりですわね」
《君が何者であるかずっと気になっていたのだ。どこであんな魔導書を手に入れたのか、この街を……いや、世界を支配し続けてきた者たちとどのような関係を持っているのか、君がなにを知っているのか?》
《あの魔導書はわたくしが書いた物ですわ》
「なに!?」
 驚く紅葉の声はケータイの周囲まで漏れるほどだった。
 セーフィエルは淡々と冷静だった。
「今はそのことよりも、あなたの弟のことが大事ではなくて?」
《なぜ……いや、君が知っていても不思議ではないのかもしれないな。私の弟がどのような病に冒されているか知っているのかね?》
 セーフィエルは微笑んだ。
「〈ヨムルンガルド結界〉とリンクしてしまった不幸な人間」
《どこまで知っているのか……その通りだ。おそらくそれが原因だろう、弟が謎の昏睡状態に陥っている。それを救う手立てを知る者が神威雪兎と私が考えた》
「それは正しいでしょう。わたくしも彼の力を使う……正確には彼の持つ刀があなたの弟を救うことになるでしょう」
《あの刀が必用なのか?》
 紅葉の声は重い。
「ええ、神刀月詠」
《あの刀は折れてしまった》
「新たな月詠を雪兎はこの街に持ち帰ったわ」
《雪兎がこの街に……さらに月詠まで……君は雪兎の居場所がわかるのかね?》
「いいえ、うふふ居場所はまでは知らないわ。ただ現れる場所なら知っているとでも言うのかしらね」
 なぜセーフィエルは笑ったのか?
「今宵の深夜、雪兎に会うことができるわ。夜明け頃には帝都病院まで雪兎を連れて行きましょう」
《なにか必用な準備はあるかね?》
「できる限りの魔防対策と広い場所を用意してくださるかしら」
《承知した》
「では、さようなら」
《よろしく頼む》
 セーフィエルは通話を切り時雨にケータイを返した。
「零時過ぎにお迎えに行くわ。あなたのお店の前で待っていてくださる?」
「別にあの店はボクのじゃ……」
 すでにセーフィエルは消失していた。

《下》

 丑三つ時の少し前から、その男はそこにいた。
 さらにその前から二人の男女がいた。
 後からやって来たのは雪兎。
 先にいたのは時雨とセーフィエル。
 静かな森の中。
 湖に浮かぶ丸い月。
 雪兎がこの場に現れたとき、姿を現そうとした時雨はセーフィエルによって止められた。
 ――ここでわたくしたちが先に出たら、ここに雪兎が現れなかったことになってしまうわ。
 そうセーフィエルは言った。
 意味がわからなかったが、時雨はそれに従った。
 雪兎はその物腰から手練れであることは用意にわかる。時雨たちの居場所が探られないのは、セーフィエルが講じた魔術によるもの。つまりそれはセーフィエルの術の高さを意味する。
 水面[ミナモ]が揺れた。
 風はない。
 揺れたのは影。
 人影が水面を歩く。
 この場に現れた〝影〟はダーク・ファントム。
「……セーフィエルは?」
 不思議そうに尋ねながら、ダーク・ファントムは雪兎と間合いを詰めた。
 雪兎が月詠を抜いた。
 その刀を目にしたダーク・ファントムは笑う。
「おもしろい刀を持ってるね。まさかそれでアタシを切るっていうんじゃないよね?」
「因果を切る」
 いきなり雪兎はダーク・ファントムに斬りかかった。
 素早くそれを躱したダーク・ファントムは水面に逃げる。
「なるほどね、因果を切るか。言い得て妙だね」
 水面で踊るダーク・ファントム。
 雪兎は腰まで水に浸かりながら、そこまでしか追うことができない。
「目と鼻の先にいるというのに……」
「それは残念だね。月詠はキミになにを教えてくれた? アタシをここで斬ると出ていたのかな?」
「月詠の予言はここにお前が現れるということのみです」
「そうさ、月詠と言えどその程度しかわからないのさ。ただアタシによって厄介なのは、その刀が持つ別の能力。キミはそれを使ってアタシを切ると言ったんだろ?」
「月詠は運命を詠む。そして刃は詠んだ運命の因果を断ち切ることができます」
「もしもここでアタシが切られたら思念が消えちゃう。そしたらアタシはこっちの世界に干渉できなくなっちゃうね。それは困る困る」
 ダーク・ファントムは辺りを見回して気配を探った。
 動物はいない。
 感じられるのは雪兎の殺気のみ。
 だが、ダーク・ファントムは探し続けた。
「いるよね、きっと。セーフィエル、アタシになにをさせたいのかなセーフィエル。まさかアタシをハメる気じゃないよね? それは違うね、こんな小僧じゃアタシを倒せないことはお見通しだよね。キミの目的は何なのかなセーフィエル?」
 ダーク・ファントムの視線の先で空間が揺れた。
 現れた。
 それはものすごいスピードで地を翔かけ、煌めく刃を薙ぎ払った。
 紙一重で躱したダーク・ファントムが笑う。
「やっと会えたね、ノイン」
 ダーク・ファントムの視線の先で、水面に立つ金色の人影。
 骨組みだけの翼から零れるフレア。
 時雨の顔を持ちながら、それは時雨ではない存在。
「影は影らしく、自由な真似は謹んでもらおう」
 ムラサメの切っ先がダーク・ファントムに向けられた。
「アタシの思念が外に出れたとき、キミもいっしょに着いて来ちゃったからね。いつかは出会
うとは思ってたよ。それでどうする気かな、そんな物でアタシを切っても意味がないことくらいはわかってるよね?」
「〈ゆらめき〉を断ち切らねば、いくらでも貴様はこちら側に思念を送り込んでくる」
「だからここでアタシを消してもムダムダ」
 無駄に終わらぬ方法がすぐ近くにある。
 ――神刀月詠。
 雪兎が叫ぶ。
「僕の刀なら〈ゆらめき〉を断ち切ることができます!」
 すぐにノインは雪兎に顔を向けた。
「ならばその刀を貸せ!」
「我が一族の当主である僕にしか使えないのです!」
 雪兎は湖に腰まで使った位置から動けない。泳いで戦うなど分が悪い。
 一方のダーク・ファントムは水面を優雅に動き回る。
「残念だねぇ。やっぱりアタシを倒すのは無理そうだね。そんじゃサヨウナラ、思念とは言え消されると復活するのが大変だからね」
 〝影〟が揺れる。
 このままダーク・ファントムは逃げる気だ。
 ムラサメが輝く。
「逃がすかッ!」
「逃げるさ」
 笑ったダーク・ファントムの影が脳天から真っ二つに割られた。
 その攻撃も悪あがきに過ぎない。
 闇に溶けていく〝影〟。
 しかし、ダーク・ファントムが予想しなかった事態が起きた。
 水面で輝く月が燦然たる光を天に向かって放った。
「謀ったな、セ――」
 言葉ごと光の柱がダーク・ファントムを呑み込んだ。
 いや、呑み込まれたのはダーク・ファントムのみならずノインもだ。
 光は消えた。
 何事もなかったかのごとく静まり返る水面。
 雪兎は唖然としていた。
「いったいなにが?」
 わからなかった。
 一瞬の出来事であった。
 夜空に浮かぶ月は微笑み。
 水面で揺れる月は嗤っていた。
 静かな森。
 そこへ現れた夜魔の魔女。
「こんばんは、神威雪兎さん」
「あなたは!?」
 雪兎は驚きを隠せない。まさかまたセーフィエルに会おうとは、しかもこんな場所で――。
「わたくしのことを覚えていてくださるなんて光栄だわ」
「忘れるはずがないでしょう。この刀を修復したのはあなたなのですから。今ここで起きたことを説明していただけませんか?」
「さあ、わたくしもよくわからないわ。わたくしがしたことは、あの〝影〟をここに誘き出し、あなたに会わせようとしたことのみ」
「それは本当ですか?」
 疑う根拠があった。
 雪兎はダーク・ファントムの言葉を忘れてはいない。
 ――こんな小僧じゃアタシを倒せないことはお見通しだよね。キミの目的は何なのかなセーフィエル?
 それはあくまでダーク・ファントムの意見だが、もしもそれが当たっていたら……?
 セーフィエルは水面に映る月のように微笑んで見せた。
「ええ、本当ですわ。あなたにあの〝影〟を伐たせようと画策してみたのだけれど失敗でしたわ」
「では、今起きた現象については知らないと?」
「ええ」
 短く答えた。
 状況を考えればセーフィエルは疑わしい。だが、それを攻めるだけの材料を雪兎は持ち合わせていない。
 ダーク・ファントム、そしてノインの身になにが起きたのか?
 それは誰にとって有意義なことなのか?
 雪兎にとってはどのような意味を持つことなのか?
 ダーク・ファントムを伐つことができなかった。その事実だけははっきりとしている。
 これからなにをするべきか雪兎は迷った。
 目的はダーク・ファントムを伐つこと。けれど、ダーク・ファントムは消え、今起きたこともわからない。
 手がかりはやはり……
「本当に知りませんか?」
「何度訊かれても同じですわよ」
 セーフィエルの答えは変わらなかった。
 仕方がなく雪兎はこの辺りを調べはじめた。
 光の柱は水面に浮かぶ月から発射されていた。ならばここに謎を紐解く鍵があるかもしれない。藁にも縋る気持ちで雪兎は手がかりを探した。
 そんな雪兎にセーフィエルが声をかける。
「あなたを探している人がおりますわよ」
 振り返った雪兎は、
「妹ですか?」
「いえ、秋影紅葉があなたの力を必用としているわ」
「僕の力を?」
「彼があなたの力を必用としてきたことは一つ」
「弟の蜿くんのことですね?」
「ええ、すぐに帝都病院に行ってあげなさい。そこで紅葉が待っているわ」
 セーフィエルが消える。
 闇に呑まれるように霞み消えてしまった。

 まだ夜が明ける前、雪兎は帝都病院に赴いた。
「お待ちしていた」
 頭を下げてから道を案内する紅葉。
 病院の廊下を歩きながら紅葉は尋ねた。
「お一人でここまでおいでになったのか?」
「はい、セーフィエルという人物に言われて来ました」
「時雨という人物にはお会いにならなかった?」
「あの躰の持ち主が……名前は存じ上げていますが、顔は知らないもので。ここに来るまでいろいろありまして、僕一人でここまで来ることになりました」
 雪兎の言葉になにか引っかかったのか、紅葉は訝しむ表情をしたが、あえてなにも言わなかった。
 帝都病院は一般的な施設も世界最高水準であるが、魔導施設は帝都一、すなわち世界一を有している。
 眠らない街にある病院らしく、24時間体勢が整えられているが、やはり夜も明けないうちは静まり返っている。
 薄暗い廊下を進む二人。
 通常の手術などには、通常の施設を使う。
 だが、魔導の関わる処置となれば、魔導的な施設を使う。さらにそれは多岐にわたる。
 二人がやって来たのは、魔法陣が床に描かれた施設。
 その中心に蜿は寝かされていた。
 雪兎は蜿の様態を診た。
 病院での魔導処置は魔導医以外の者が行うことも多い。それだけ通常の医学の範疇を超えていると言うことである。
 蜿の様態は魔導医ではない雪兎が診る。それが方法として正しい診察となる。
「やはりあの蛇が原因ですね。ただ……今までと少し違うような。いつも僕が診るとき、蛇は荒ぶっていました。今は……弱っている」
「結界が弱くなってると言うことか?」
「そうですね。政府はどう動いていますか?」
「弟は写し鏡に過ぎない。弟を調べてもあまり意味がないと考えているのか、情報規制を敷いて弟はほぼ放置だ」
「たしかに原因その物は〈ヨムルンガルド結界〉でしょうし、そちらが解決すれば自ずとこちらも解決するでしょう。政府にとっては蜿くんを助ける気などはじめからないでしょうけど」
 雪兎は蜿から離れ、深呼吸をして全身から力を抜いた。
「とりあえず喚びだしてみましょう。離れていてください」
 床を蹴り上げて翔た雪兎が正拳突きを蜿の腹に喰らわせた。
 蜿の躰が跳ねた。
 すぐさま雪兎は後ろに大きく飛び退き、深呼吸して柄を握った。
「来ますよ!」
 蜿の躰がうねる。まるで蛇のようにうねり狂う。
 まるで蛇のように蜿の口が大きく開いた。
 口からお産をするように、巨大なモノが頭を出した。
 世にも恐ろしい汚い音とともに、大蛇が蜿の口から飛び出したのだ。
 先の割れた舌で風を鳴らしながら、金色に輝く眼で威嚇を放つ。
 蜷局[トグロ]を巻いた大蛇は部屋いっぱいに広がり、その尾の先はまだ蜿の口と繋がっている。
 雪兎と大蛇が対峙する。
 睨み合いが続く。
 だが、急に大蛇が気力を失い躰を倒してしまった。
「やはり」
 呟いた雪兎。
 月詠が抜かれた。
 はじめてこの大蛇と交えたとき、月詠は折られた。
 それから月日が経った。
 雪兎も成長した。
 そして、月詠も生まれ変わった。
「今ならできるかもしれない」
 雪兎は呟いてから紅葉に顔を向け、
「今ならこの呪いの因果を断ち切れるかもしれません」
「本当か!?」
「ですが問題があります」
「なんだね?」
「切り離したあと、この大蛇は行き場を失うことになります。この部屋にずっと封印しておくわけにもいかないでしょう?」
 考え込む二人。
 目の前にいる大蛇は〈ヨムルンガルド結界〉の化身。その一部分とでもいうべき存在。消すわけにはいかない。
 紅葉が静かに口を開く。
「ならば私が新たな依代[ヨリシロ]となろう」
「それではなんの解決にもならないではないですか」
「だが、少なくとも弟は苦しみから解放される」
「政府の力を借りましょう」
「今までなんの対処もできなかった政府の力だと?」
「たしかに政府は今まで蜿くんと結界のリンクを解く方法すらなく、なにもできませんでした。しかし、今は月詠の力でリンクを切ることまではできます。そのあとの処理を政府にお任せしましょう」
「私は帝都政府など信用しておらんよ」
 夜の風が部屋に吹いた。
 静寂。
 そして、気配。
「その通り、帝都政府は人間のことなど鼻にかけていないわ。彼らから見れば人間など労働力でしかないのだから」
 現れたのはセーフィエル。
 紅葉は驚きを隠せない。
「どこから?」
 帝都病院のセキュリティは魔導対策にも余念がない。部屋に突然現れるなど、できるはずがないのだ。そもそも魔導など万能ではないのだから。
 セーフィエルは質問には答えず、
「人間は強大な力の前に踊らせれているだけ。いつまで経ってもこの世界は彼らのモノ。しかし、人間も進化している――道具を使いこなせる程度には」
 ゆっくりとセーフィエルは雪兎に近付いた。
「その月詠が以前の刀とは違っていることはわかっているでしょう?」
「はい」
「もうそれは詠むだけはなく、喰らうことができるわ。まるで月が太陽を喰らう日蝕のように、新たな月詠は相手を喰らう。この意味がわかるかしら?」
「喰らう?」
「その刀の力を持ってすれば、そこにいる化身などひと呑みにできるわ。そして、刀の中で化身は生き続ける」
「それが解決の方法ですか?」
「まず、彼と化身との因果を断ち切る。その後、すぐに化身本体を完全に斬る」
「あなたを信じてよろしいのですか?」
「それはあなたが決めることよ」
 セーフィエルは微笑んだ。
 聞いていた紅葉が口を挟む。
「私は弟が救われればそれでいい」
 雪兎は考え込む。
 もしもセーフィエルの話が嘘で、化身を葬ってしまうことになったら?
「わかりました」
 雪兎は頷いた。
 月詠を構えて呼吸を整える。
 大蛇は弱ったまま動かず頭を下げている。
 二人は雪兎を見守った。
「いざ!」
 雪兎が翔けた。
 薙ぎ払われた月詠から水しぶきのようなフレアが迸った。それは時雨の持つムラサメと同じ。
 刃は蜿の鼻先を掠め、口から伸びていた尾の先を切断した。
 今まで大人しくしていた大蛇が暴れ狂う。
 眼は雪兎に敵意を向け、そのまま頭部から突進してきた。
 雪兎は動じない。
 月詠を振り上げ踏み込んで面を打つ。
 大蛇の眉間に刃が食い込み、そのまま突進の勢いのまま、刀の中へ吸い込まれていく。
 もの凄い圧力に押されまいと雪兎は踏ん張る。
 爆風が巻き起こる。
「くっ……耐えられ……ない!」
 雪兎の躰が大きく後方に飛ばされ、激しく壁に叩きつけられた。
 床に落ちた雪兎――その手にはまだ刀がしっかりと握られていた。
 あの大蛇の姿をした化身はどこにもいない。
 すべて月詠に喰われてしまったのだ。
 そして、セーフィエルの姿もなかった。
 紅葉が雪兎の躰を抱きかかえた。
「大丈夫か?」
「大丈夫です……それよりも、蜿くんの様子を診てあげてください」
 言われてすぐさま紅葉は艶に近付いた。
 そして息を呑んだ。
 呪いのよって蜿の全身を覆っていた蛇の鱗が、跡形もなく消えていた。
 紅葉は弟の顔を感慨深く見つめた。
「それが……お前の顔なのか……」
 紅葉は蜿の躰を抱きしめた。人肌の温もりがそこにはあった。そして、紅葉の頬を零れ落ちた一筋の光。
 ついに蜿は帝都の呪いから解き放たれたのだ。

 解呪(完)


 †あとがく†

 とりあえず1つの事柄について終わりを迎えました。
 しかし、これはこの先の物語へと続く糧となるのです。
 セーフィエルはいったいなにを考えているのか?

 物語はそろそろ佳境に向かいます。


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