封印するもの

《上》

 死都東京。
 その地は21年前、聖戦の舞台となった都市の名残。
 23区を中心に魔気を浴び、今や人間の住む場所ではなくなった。
 そこは異様な植物が根を張り、魔物たちが蠢いている。
 特に人知を超えた異界と化してしまった場所は、帝都政府によって巨大な結界が張られ、何人も立ち入ることは出来ない――とされている。
 その場所にセーフィエルはいた。
「さあ、本物の〈裁きの門〉を召喚しましょう」
 セーフィエルの傍らにはダーク・ファントムがいた。
「一時はキミに謀られたのかと思ったよ」
 ダーク・ファントムは雪兎との戦闘の際、シオンに覚醒した時雨と共に別空間に飛ばされた。それが再びここにこうしているのだ。
 では、時雨はどこに?
 彼もこの場所にいた。
「私は……ボクは……ここは……」
 錯乱している様子だった。
 その場にうずくまっている時雨をダーク・ファントムは不審に見ていた。
「だいぶまいってるみたいだけど、こんな精神状態で本当に大丈夫なのかい?」
「ええ、この状態だからこそできるのよ。シオンは絶対にわたくしに協力しないでしょうから。あなたを見た途端に斬りかかったのが良い証拠よ」
「今は混乱しててアタシを斬ろうとも思ってないみたいだけど」
「シオンの意識が強すぎても駄目。かと言って弱すぎると〈裁きの門〉は召喚できない。絶妙なバランスが必要なのよ。それが今」
 死都東京の中心。つまり結界の中心部には開けた円形の土地になっている。その場所には巨大な魔法陣が描かれており、この場所こそが本物の〈裁きの門〉が場所。その場所に3人はいた。
 これまで〈裁きの門〉は帝都でも幾度か召喚されてきた。けれど、それは幻影でしかない。言わば簡易版のような物だ。これから召喚しようとしている物は〈裁きの門〉の本体。
 セーフィエルはダーク・ファントムに顔を向けた。
「そちらの準備は整っていらっしゃる?」
「アタシの信者たちはすでに帝都で同時テロを起こしてるハズだよ。ワルキューレたちが出動しなきゃいけないくらい激しいヤツをね」
 〈闇の子〉を神と崇める魔導結社D∴C∴[ダークネスクライ]。その者たちがダーク・ファントムの言葉どおり、帝都各地でテロ活動を同時多発的に行っていた。
 時刻は朝の8時ジャスト。その時間を狙ってD∴C∴の団員たちは、通勤ラッシュを主な標的として攻撃を行った。
 のちにこの事件は世界最大のテロとして歴史に刻まれ、3・31事件という通称で呼ばれることになる。俗称ではブラッディ・ウェンズデーや血桜の変とも呼ばれている。
 それだけ大きな事件になりながら、D∴C∴は犯行声明もせずに自らの組織名も名乗らなかった。このことが人々の恐怖をより一層煽ることになった。得体の知れない者たちが凶悪事件を起こす恐怖。この事件で帝都の人口が一時的に現象したという統計が出ている。
 先ほどまだ雲一つない快晴だったというのに、すでに辺りは暗闇に包まれていた。
 空を覆う厚い雷雲。
 積乱雲の中を稲光が奔った。
 大地に轟いた雷鳴はまるで魔獣の咆吼。
 その場でうずくまっている時雨。セーフィエルはしゃがみ込んで、時雨肩を抱いて、耳元で囁く。
「なにも怖がらなくていいわ。『ノインの名において、〈裁きの門〉を召喚する』と言えば、全ては上手くいくわ。さあ、言ってご覧なさい」
 時雨はセーフィエルの体を振り払って、激しく首を振って髪の毛を掻き毟った。
「言っちゃダメだ……ボクは……私は……お母様……どうして!?」
 さらに時雨の混乱は激しさを増しているようだった。
 ダーク・ファントムをそんな時雨を見て、
「やっぱり使えないんじゃないの?」
「そうね、では別の方法を考えましょう」
 あっさりとしているセーフィエルにダーク・ファントは驚きを隠せない。
「バカなこと言っちゃイヤだね。もう計画は進んでるんだよ、アタシの信者も手駒として大勢使ってるんだ。これで失敗して手駒が減ったら、体勢を整え直すのにどれくらい時間が掛かると思ってるんだよ」
「時間が掛かるなんて人間みたいなことを言うのね」
 セーフィエルは静かに笑った。
「たとえそれが今まで生きてきた時に比べれば一瞬に満たないとしても、閉じ込められてる身としては時が経つのが遅くて遅くてね、やになっちゃうよ」
「それは言えるわ。シオンがいなくなってから、時が遅くなったような気がするもの。いえ、この感覚は人間になって身についてしまったものかしら?」
「キミも変わったねぇ」
「進化に乗り遅れた生命の末路は滅びの道……動き出そうとしているわ」
「なにが?」
「あなたの片割れが」
 その言葉にダーク・ファントムは驚きを露わにする。
「気づかれたの!?」
「でしょうね」
「でしょうねじゃないよ、そこらへんはキミの役割だろ」
「ズィーベンと〈ヨムルンガルド結界〉には、先日会ったときに目眩ましをしておいたのだけれど」
 先日とはセーフィエルが夢殿に侵入したときの話だ。実はあのとき、セーフィエルはダーク・ファントムを導いただけではなく、いくつもの仕掛けをしておいたのだ。
 ズィーベンはワルキューレにおいて結界を司っている。〈ヨムルンガルド結界〉や死都東京の結界、それらに異変が起きたときまずはじめに感知できるのがズィーベンだった。
 夢殿にダーク・ファントムが現れたとき、ズィーベンは〈ゆらめき〉や〈ヨムルンガルド結界〉の異常を感知できなかった。
「気づかれたのだとしたらあなたのせいでしょうね」
 セーフィエルは笑みを浮かべながらダーク・ファントムを見つめた。
「なんであたしのせいなのさ?」
「異常に気づいたのはあなたの片割れでしょうから。あなた自信の異変は、すなわちあなたの片割れの異変でもあるもの」
「なるほどね、やり過ぎたってことか」
「そう、いくつかの要因であなたの本体を取り巻く呪縛が弱まっているわ」
 〈ヨムルンガルド結界〉の異常や、D∴C∴の活動によって呪縛が弱まり、封印されている本体の力が漏れ出したのだ。
「ところでどうして姉上が動き出したってわかった?」
「夢殿の外に出たからよ。夢殿のシステムはすでに防御されてしまったけれど、帝都のシステムは未だにわたくしの監視下にあるわ」
「けど、まさか姉上が本体から離れるなんてね。切羽詰まってる証拠だね、あはは」
「対あなたであれば適任でしょうね。夢殿に残っているのはズィーベンとゼクスだけかしら。今なら夢殿も落とせるかもしれないわよ?」
「欲をかくとどうなるか身に染みてわかってるさ」
 〈裁きの門〉が開くまでもう少しなのだ。
 だが、肝心の鍵である時雨は未だあの調子だった。
 うずくまる時雨にセーフェルが囁く。
「〈裁きの門〉を召喚するのよ」
「できない……ボクには……できない……」
「できるわ。それがあなたの選択だと決まっているからよ……なぜならあなたは時雨だから」
 そう言ってセーフィエルはある者をここに召喚した。
 なんと呼び出されたのは、十字架に磔にされたハルナだった。
 時雨の瞳に光が戻った。
「ハルナ!」
「テンチョ……わたし、なにがなんだか……」
 ハルナは今にも泣きそうな顔をしていた。
 ダーク・ファントムは楽しそうに笑ってハルナに近付く。
「あははは、つまりこういうことだろ。門を召喚しなきゃこの女を殺す」
 その問いの答えなのかセーフィエルは妖しく微笑んだ。
 悩む時雨。
「ボクにはわかってるんだ。意識が流れ込んでくる。彼女の……彼女は絶対にダメだって言ってるんだ。でも……ボクはハルナを……救いたい!」
 時雨はハルナに向かって走った。
 その前に立ちはだかるセーフィエル。
「それ以上進めて?」
「ッ!?」
 驚く時雨。
 足が動かない。前に進もうとしても足が地面に張り付いてしまったように動かないのだ。
 セーフォエルは微笑んだ。
「影縫いよ。あなたの影と地面を固定したから、そこから動くことはできないわ。足を切断しない限り。足を切断する覚悟があっても、斬る物もなければ、そうしようとしても今度は全身を縫って差し上げるけれど」
「ハルナを解放しろ!」
「それはあなた次第よ」
 この場でハルナを救えるのは時雨のみ。
 しかし、時雨は口を噤んでしまった。
 痺れを切らしたダーク・ファントムはハルナの腕にそっと触れた。
「キャァッ!」
 ハルナが漏らした短い悲鳴。
 ほんの少しだけ、指先で一瞬触れられただけなのに、腕には小さな黒い痣が出来てきた。
 ダーク・ファントムが素早く時雨に近づき、その顔を舐めるように下から見上げた。
「強い強い〈闇〉の中では人間は生きていけないんだよ。アタシは〈闇〉そのモノだから、アタシに触れられた人間の皮膚は腐食しちゃうんだ」
 再びダーク・ファントムはハルナの近くまで戻り、
「人質が1人しかいないときは殺したら意味がないんだよね。殺しちゃったら相手が従う理由がなくなっちゃうし。だからこうやって痛めつけられる光景を見せつけてやるんだ」
 闇色の手がハルナの脚に触れた。
「アアアアーーーッ!!」
 ハルナの悲痛な叫び。
 思わず時雨は耳を塞いだ。
 手の跡がくっきりとハルナの脛に残っていた。
 それを見てしまった時雨は耐えることができなかった。
 渦巻く意識の中でシオンが訴える。
 しかし、その訴えは時雨には届かない。時雨にとっては目の前で起きていることが現実だった。
 〈裁きの門〉が開かれたらどうなるか、それよりもハルナが傷つくという現実に時雨は耐えられなかった。
「もう……やめて……ハルナには……手を出さないで」
 時雨は泣いていた。震えながら泣いていた。
 シオンの意識が前へ出ようとする。仮初の肉体。シオンはただの思念でしかなかった。それはダーク・ファントムと同じ。
 今は時雨の意識が優っていた。この躰は彼の物なのだから。
 感情の大きさが時雨の意識を増幅させていたのだ。
 それに張り合おうとシオンも意識を強くするが、それでも時雨の意識を押し込めることができない。
 セーフィエルが囁く。
「今よ、〈裁きの門〉を召喚する刻が来たわ」
 すべてはセーフィエルの思惑どおり。
 時雨は泣きながら叫ぶ。
「ノインの名において、〈裁きの門〉を召喚する!」
 大地に描かれた魔法陣が燦然と輝く。
 曇天の空から墜ちる稲妻たち。
 空間の中から何かが墜ちてくるように現れる。
 神々しい畏怖を放ちながら巨大な門が墜ちてくる。
 ――〈裁きの門〉光臨。
 天に浮かぶ〈裁きの門〉を見てダーク・ファントムは笑った。
「やっとここまで来たね。さあセーフィエル、早く門を開くんだ!」
 まだ門は開いていないというのに、その奥からは強烈な威圧感が漏れている。
 呻き声、叫び声、風に乗って苦悶の声が聞こえるような気がする。
 〈裁きの門〉を召喚できる者は。ワルキューレに名を連ねる者。
 〈裁きの門〉を開くことができるの者は、セーフィエルの血を引く者のみ。
「妾の血において開門を命じる!」
 悲鳴のような音を上げながら、重厚な左右に扉が開かれる。
 死者たちの臭いが鼻を突く。
 恐怖が風に乗って荒れ狂う。
 暗黒。
 開かれた門の先には漆黒の闇が広がっていた。
 その中で蠢く何か。
 何かが〈向う側〉の世界から手招きをしている。
 久遠の監獄。
 彼らが造り上げた煉獄の世界。
 〈裁きの門〉の本体が開かれたことにより、帝都各地で天変地異や異変が起きていた。
 アスファルトの下から這い出してくる甲冑を纏った大蛇のような生き物たち。大海龍の子らだ。
 東京湾や相模湾からも鯨のような生物が陸に上がってきた。それはまるで河馬にも似ている。
 虎や獅子よりも巨大な白銀の獣が、群れを成してどこからともなく現れた。
 すでに都民たちには緊急警告が出されていたが、もう手に負える状況ではなかった。
 帝都警察や機動警察が街中で戦闘を繰り広げ、ワルキューレたちが天を舞う。
 ワルキューレたちはすでに帝都を捨てた。
 二手に分かれ夢殿の護衛と死都に向かったのだ。
 帝都を支配する者たちにとって、人間の生活が脅かされることなど取るに足らないことだった。
 彼らは今までいくつもの文明都市を滅ぼしてきたことか。
 幾度でも繰り返す。
 どちらが勝でも負けるでもない双子の争い。
 表裏一体の存在に決着などつくものか。
 永遠の闘争。
 それこそがリンボウに堕とされた彼らの定め。

《中》

 帝都が未曾有の破滅への道を歩む中、セーフィエルたちはすでに〈裁きの門〉の中へと突入していた。ハルナは再び別の場所へと転送され、それを人質に時雨も同行させられた。
 そこはまさに地獄と呼ぶにふさわしい光景。
 赤く燃える天に渦巻く暗い雲。
 荒れ果てた赤い大地。
 強い酸が地面から噴き出し、化学反応を起こした岩肌は自然のものとは思えない鮮やかな青や黄色に染まっていた。
 大量の蟲たちや、底なしの裂け目から伸びる触手たち、ここには数多くの肉を喰らう者どもが蠢いている。だが、その1つとて姿を現さなかった。
 そこにいるのが誰の影だか知っているからだ。
 硫酸の海を越え、溶岩が噴き出す群山を遠くに眺めながら、セーフィエルたちは新たな門の前に来ていた。
 この世界の最深部へと続く〈タルタロスの門〉。
 〈裁きの門〉を召喚できるのはワルキューレに名を連ねる者。
 〈裁きの門〉を開けることができるのはセーフィエルの血を引く者。
 ならば〈タルタロスの門〉を開くのは誰か?
 ダーク・ファントムは何十メートルにもなる巨大な門を見上げた。
「残る難関は2つだ。どうするんだいセーフィエル?」
「難関は3つよ」
「2つだろ? この門と〈邪柩〉しかないけど?」
 セーフィエルの目つきが変わった。
「あのときのことをお忘れになって? なぜシオンは犠牲になったの? あの子は人柱になって呪縛を強固なものとしたのよ」
「じゃあその3つの問題はどうするのさ? 〈タルタロスの門〉は誰にも開けないように設計してあるハズだけど?」
「誰にもというのは、あくまでソエルの中にはいないという意味よ」
「ラエルとは言わないんだね」
「この世界に堕とされた者たちだけではなく、今ものうのうと遙かな世界で暮らしている彼らも開くことはできないわ。この門はリンボウのゲートを真似て創ってあるのだもの」
「じゃあ誰が開けるのさ?」
「もしも〈天帝〉と言ったら?」
「ふざけるな、そんな名前出すなよ!!」
 ダーク・ファントムの怒号が響いた。影は震えていた。怒りのためか、それとも恐怖か、セーフィエルが口にした名前が衝撃を与えたことは確かだった。
 気を取り直したダーク・ファントムは、
「君は恐ろしい奴だ。そこまで恐ろしい奴だとは思わなかった。アタシから生まれた者……いや、ラエルとも思えない」
「ええ、わたくしは人間ですもの。そして、〈タルタロスの門〉を開けるのも実は人間」
「なんだって!? そんなことアタシは知らないよ!」
「今あなたが考えたことは否定させてもらいますわよ。本物の〈ゲート〉をこちら側から開くためには、地球の全人口の半数以上の協力が必要ですから、到底無理ですわよ」
「そんな仕掛けがあったなんて……」
「このリンボウに堕として、実験でもしているのか、それとも試しているのか……意地が悪い」
 妖しく微笑むセーフィエルにダーク・ファントムは戦慄した。
「やはりキミは恐ろしい。でもアタシはそれを認めない。それは認められないことだからね、アタシたちはすでにその証明に失敗してる」
「だからここに堕とされた」
「もうこの話はたくだんさ。早く〈タルタロスの門〉を開くんだ。開くことができるんだろう?」
「模造品であるこの程度の門なら二人の承認で十分」
 人間にしか開けられない扉。
 二人の人間。
 セーフィエルともうひとりは――。
「ボクはこれ以上協力できない!!」
 時雨は強く拒否した。
 だが、まだ人質は相手の手中にある。
 ダーク・ファントムがセーフィエルに尋ねる。
「さっきの女をまた使おうよ?」
「やめろ!!」
 時雨が口を挟んで叫んだ。
 セーフィエルが時雨の耳元に近付いた。
 そして、ダーク・ファントムにも聞こえないほどの小声で何を囁いた。
 次の瞬間、時雨は気を失ってセーフィエルに抱きかかえられた。
 驚くダーク・ファントム。
「なにをした?」
「ちょっとした小細工よ。これで門は開くわ」
 セーフィエルは妖しく微笑んだ。
 訝しむダーク・ファントムだったが、セーフィエルの言葉のとおり、〈タルタロスの門〉が静かに開きはじめたのだ。
 吹き込んでくる極寒の風。
 大地を瞬く間に凍らせ、空気すらも氷結させた。
 セーフィエルは門が開く前に魔法によって防壁をつくっていた。それによってセーフィエルと時雨の肉体は極度の寒さから守られた。
 だが、意識を失っているはずの時雨は、うわごとを呟いていた。
「寒い……寒いよ……寒くて凍えてしまう」
 セーフィエルの魔法は完璧であった。だからその小声は〈タルタロス〉から吹き込む風のせいではない。
 時雨は普段から寒がっていた。
 夏であろうと冬物のコートを着ているほど、異常なまでの寒がりであった。
 それはなぜか?
 セーフィエルは優しく時雨に囁いた。
「もうすぐその凍えからも解放されるわ、シオン」
 凍えているのは時雨ではない。
 シオンなのだ。
 タルタロスの中は闇だった。
 大地や空があるのかすらわからない。
 中に踏み込んだセーフィエルは光を灯そうともない。光を灯しても闇に呑まれてしまうことを知っているからだ。
 闇の中を進む。
 方向感覚が麻痺させられる。
 しかし、ダーク・ファントムは迷うことなく進んでいた。
「こっちだよ、アタシがこっちにいる、もうすぐだ!」
 その声を頼りにセーフィエルは時雨を背負いながら進んだ。
 ダーク・ファントムが立ち止まった。
「ここだよ」
 視覚では確認できなかったが、そこには柩が置かれていた。
 そして、その柩の上には鎖に繋がれたひとりの女。片方の翼をもがれたその女こそがセーフィエルが探し求めていた娘。
「シオン!」
 セーフィエルは闇の中で娘の躯に触れた。
 冷たい躯。
 頬も胸も腕も脚も、死んだように硬く冷たくなっていた。
 しかし、この極寒の地にいても凍り付いているわけではない。
 なぜならシオンは死んでいるわkではないからだ。
 この地を守り、最後の封印として、〈邪柩〉を守り抜いていた。
 すぐ目の前まで迫った己の復活にダーク・ファントムは焦っていた。
「さあ、早く早く、柩を開けるんだ。まずはノインをどうにかするんだ!!」
 セーフィエルの耳にその言葉は届いていなかった。
 彼女は自らのすべきことをするだけ。
 セーフィエルは時雨の手をつかみ、その手を横たわるシオンの胸に乗せた。
 刹那、時雨とシオンの眼が見開かれた。
 ――還る刻が来た。

 それは時雨がハルナに拾われたあの日から、数日前のこと。
 その青年――時雨と名付けられる前のその青年は死都東京にいた。
 目的はある男を追って。
 生い茂るジャングルの中で青年はトラップが張られているのを確認した。
 傀儡士の妖糸だ。
 ムラサメを抜いた青年は妖糸を断ち切った。
 次の瞬間、巨大な丸太が青年に向かって飛んできた!
「二重トラップか!」
 妖糸に触れた時点で人間の肉はいとも簡単に切断させる。
 だが、妖糸を切れば丸太が飛んでくる仕掛けになっていたのだ。
 ムラサメは水飛沫が上げながら丸太を真っ二つに割った。
 紅い影が逃げていくのが青年の眼に映った。
 すぐさま青年は影を追って、ある場所に出たのだった。
 死都で広く開かれた土地。周りには異様な動植物が蠢いているというのに、その魔法陣が描かれた大地にだけは、少したりとも動植物は侵入して来ようとしなかった。
 紅い男は青年に尋ねる。
「あんたはここがなんだか知ってるか?」
「ボクはD∴C∴の末端だからね、あまりよく知らないんだ」
 青年は魔導結社D∴C∴の団員だった。
 そして、目の前の紅い男はD∴C∴に目下の敵とされている傀儡士。名は蘭魔と言った。
 蘭魔は深くうなずいた。
「そうだろうな。あんたはオレが結界に穴を開けなきゃ、ここに入ってくることもできなかったんだ」
{死都東京のドーム結界に入れるなんてボクも驚いてるよ}
 帝都にはD∴C∴を含め、〈闇の子〉の信者たちや、その復活を願う者も多い。だが、彼らは死都東京の結界を破ることすらできないのだ。
 それを蘭魔という男はやってのけた。
 だが、D∴C∴に狙われる男が、なぜ死都東京の結界を破って中に入った?
 青年はムラサメの切っ先を地面に向けた。
「ちょっと質問していい?」
「ああ、いいさ。オレも気になったら知らないと気が済まないタチでね。答えられる質問ならなんでも答えてやるさ」
「キミの目的が知りたい。ボクはさっきも言ったけど末端の駒だからね。たまたま団に指名手配されてるキミを追いかけて、ここまで来ちゃっただけんだ」
「そこ答えを知るためにオレもここに来た」
「はぁ?」
「知りたきゃそこでじっとしてろよ、今に見せてやる」
「そんなことできないよ。キミはボクの敵だからね、なにをするのかわかんないのに、やらせるわけないだろ」
「ならやるっきゃないだろ?」
 蘭魔は構えた。
 合わせて青年もムラサメを再び構え直した。
 妖糸が宙を翔る。
 ムラサメが妖糸を切断する。
 さらに蘭魔は妖糸を放とうとした。今度は両手から合わせて10本もの妖糸だ。
「喰らえ悪魔十字ッ!」
 十字を描く10本もの妖糸に青年は挑む。
 目にも留まらぬ速さでムラサメが舞う。
 煌めく水飛沫。
 青年の腕から鮮血が迸った。
 さらに脚からも血が流れていた。
 だが、青年はしっかりと大地に立っている。
 蘭魔は驚いたようすだった。
「あんたさ、マジで末端かよ?」
「そうだけど?」
「オレがやり合ってきたそこいらの団員より強いぞ?」
「入団したばっかりだからね」
 春うららかな青年の笑みは戦闘にはそぐわなかった。
 相手をする蘭魔も余裕のようで、まるで近所で世間話でもするような雰囲気で、さらに話を続けようとしていた。
「あんたさ、なんでD∴C∴になんか入ったんだよ?」
「う~ん、お給金がいいし……」
「そんな理由かよ?」
 蘭魔は呆気にとられた。
 さらに青年は、
「あとは世界の謎や不思議が好きで、資金を貯めたらトレージャーハンターになろうと思ってて」
 もう蘭魔は呆れっぱなしだ。
「D∴C∴って選択肢は間違っちゃいねぇけど、もっとマシな組織とか研究所とかあるだろ?」
「D∴C∴以上に隠された歴史や存在たちに迫れるところってある?」
 青年が言う隠されたモノは、女帝たちの存在とその歴史のことだろう。
 蘭魔は首を横に振った。
「ないな。人間のオレたちじゃ政府の中枢で雇ってもらうってこともできないだろうからな。政府がダメならその逆ってか?」
「そうなるでしょ?」
「だがオレはD∴C∴の団員じゃないけど、その辺りの事情をある程度は知ってるぜ?」
「だからボクもある程度取っ掛かりができたらやめるよ」
「だったら今止めろよ。あんたにだったらオレの知ってること教えてやるよ」
「ホントに!?」
 青年は眼を丸くした。まるで少年のような表情だ。
「ああ、あんた変な奴だからな。D∴C∴の熱狂的な信者ってわけでもなさそうだし」
「ならやめるよ」
「あっさりしてるな、あんた」
「だってD∴C∴に固執してるわけじゃないもん」
 その言葉に嘘偽りはないと蘭魔は確信していた。
「オレは傀儡士をやっていてな。多くのモノを使役してるせいか、人を見る目はそれなりにあるんだ。だからあんたには話をしていいと思う」
「それはありがとう」
「ならそこでじっとしてな、今からオレは空間を斬る」
 蘭魔はつい先ほどまで敵だった青年に背を向けた。
 もしもすべてが青年の演技だったら、今頃背中からバッサリと斬られていたところだろう。
 だが、蘭魔は斬られなかった。
 蘭魔は空を見上げながらそこら辺をうろちょろと歩いた。
「オレに斬れないモノはない。なぜならオレは天才だからな」
「そうだね、死都の結界を破ったくらいだもんね」
「あんた素直で良い奴だな。ひねくれた奴らはオレが天才だと言うと、すぐに食ってかかってくるもんだからな」
 蘭魔が立ち止まった。
「次元や空間を斬り場合はコツがいる。オレのような繊細な人間にしかできない作業だ」
「それは同意しかねるね」
「あんたオレに会ったばかりだろ。オレの繊細さを知らないだけだ」
「そうかなぁ?」
「とにかく黙って見てろよ」
 蘭魔は話し続けながら一点を見つめていた。
 そこに斬るべき何かがあるのだろう。
「オレも知りたいんだ。奴らがいったい何者で、奴らが重要視するこの場所になにがあるのか。斬ってみれば答えが出ると思ってな」
「短絡的だね。何が起こるかわからないのに斬るの?」
「発見には驚きが付きもんだよ。そろそろ斬るぞ?」
 何が起こるのかわからない。
 それに備えて身構えた時雨。
 刹那のうちに蘭魔の手が動いた。
 煌めく妖糸。
 風が絶叫した。
 裂かれた空間から覗く夜よりも暗い闇。
 傷口を開く空間が唸り、周りの空気を吸い込みながら広がっていく。
 闇色の裂け目から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。
 嗚呼、嗤い声が聞こえる。
 それは老人か、はたまた子供か、それとも異形の存在か。
 蘭魔が後退った。
「やっちまった」
 何が起こったのかわからなかったが、それが鬼気迫る状況だというのはわかる。
 裂けた空間から闇色の棘が降ってきた。まるでそれは矢の雨。
 蘭魔は十の指から妖糸を放ちそれを防いだ。
 しかし、青年は恐怖で身がすくんで動けなかった。
 一本の棘が青年の胸を貫いた。
 蘭魔が振り向く。
「だいじょぶかッ!!」
 その蘭魔の躰を闇色の影が突き抜けた。
「うっ……今のはなんて……」
 そのまま蘭魔は気を失って倒れてしまった。
 蘭魔の躰を通り抜けた影はまさしくダーク・ファントム。
 それを追うように空間の裂け目から輝く何かが飛び出してきた。
 だが、その輝きは今にも消え入りそうだった。
 女の声がした。
「このままでは……もたない……」
 輝く光は青年を見つけた。
 数秒もすれば死に至る青年が血の海に沈んでいた。
「しばし……借りるぞ……」
 光はそう言って青年の躰の中へ吸い込まれて行った。
 それこそがシオンだった。

《下》

 ついに眼を覚ましたシオン。
「お母様、なんてことをしてくれたのですか!!」
 鎖に繋がれていたシオンは叫んだ。
 シオンが目覚めたと同時に、その鎖もすぐに取れる状態になっていた。
 ダーク・ファントムは鎖を投げ捨て、シオンの躰を押し飛ばした。
「あと一歩だ! セーフィエル柩を開けるんだ!!」
「もうわたくしの利害とあなたの利害は一致しておりませんわ」
 淡々と述べた。
 ダーク・ファントムの焦りは募るばかりだ。
「セーフィエル!!」
「はじめから申し上げていた……ことじゃぞ?」
 途中からセーフィエルの口調と雰囲気が変わった。
 そこにいるのは人間セーフィエルではない。
 あと一歩のところで前に進めない。ダーク・ファントムは怒りを露わにする。
「アタシに勝てると思うな!」
 ダーク・ファントムが狙おうとしたのは未だ弱っているシオン。
 セーフィエルの最大の弱点こそがシオンだ。シオンを手中に収めてしまえば、セーフィエルはダーク・ファントムに従うしかない。
 だが、セーフィエルは微笑んだ。まるで月に照らされたようなその表情。
 なぜそこまで余裕なのか?
 ありえないことが起きてダーク・ファントムは思わずその動きを止めてしまった。
 光を呑む込む闇の中に光がある。
 まるで月のように輝く淡い光がそこにある。
 この世界に光が存在している。
 セーフィエルは静かに囁く。
「〈タルタロスの門〉を開くには3人の人間が必要。3人の過半数の承認が得られたからこそ、あの扉は開いたのじゃ」
「謀ったなセーフィエル!!」
「その言葉は返させてもらうぞよ。御主は妾を危険視しておったようじゃからな、いつか排除するつもりだったのじゃろう?」
 先手を打ったのはセーフィエル。
 夜闇を照らす月のように輝くその場所にあったのは神刀月詠だった。
 それを持っているのは雪兎。
 だが、そこにいたのは前までの雪兎ではなかった。
 その皮膚を覆う蛇の鱗。
 雪兎は蜿の呪いを断ち切った際、その呪いを受け継いでしまったのだ。
 月詠は月のように他者から光を得ていた。それこそが雪兎。
 刹那、月詠が薙がれた。
 迸る光の玉。
 ダーク・ファントムがついに斬られた。
「ギャァァァァァッ!!」
 因果を断ち切られたダーク・ファントムが消える。もう思念として蘇ることはない。また結界や〈邪柩〉に異変が起きない限り――。
「クソォ……セーフィエル……セーフィエル……お前が最大の叛逆者だ!」
 影は光によって消える運命なのか?
 それともただ姿が見えなくなるだけなのか?
「これで……終わりはしない……そう決められている……預言書にも書かれた運命だ……セーフィエル……次に会ったときは……」
 そして、ダーク・ファントムは跡形もなく消えた。
「次に会ったときはどうするというのじゃ?」
 嘲笑を浮かべたセーフィエルは、次の瞬間には優しい笑みでシオンに顔を向けた。
「行くぞ、シオン」
「できません、私にはここでの役目があります!」
 そこで口を挟んだのは雪兎だった。
「その役目は僕に移りました」
「なんですって!?」
 シオンは驚きを隠せなかった。
 すべてはセーフィエルの思惑どおり。
 だからと言って雪兎は完全に乗せられたわけではない。望んでこの場にいる。
 〈タルタロスの門〉が開いたとき、雪兎とセーフィエルが承認したからこそ、扉は開いたのだ。
 雪兎がここでダーク・ファントムを斬ることも決まっていた。
 そして、雪兎が新たな人柱になることも……。
「僕は〈ヨムルンガルド結界〉の一部となりました。そして、神刀月詠の力も持っています。あなたよりも僕のほうがより強力な呪縛となるでしょう」
「そんなことが許される筈がありません!」
 シオンは認めなかった。
 この場所に囚われていたシオンは、その意味を重々承知していた。
 だが、セーフィエルは、
「許されないというのなら、シオンが生け贄になった時点で言えることじゃ」
「私が生け贄なんて……私はワルキューレの一員として……」
「捨て駒にされただけじゃ」
「そんなことは!!」
「そこにおる雪兎は自らの望みでここに残る」
 雪兎はその言葉を承けてうなずいた。
「さあ、お行きなさい」
 もうこの場はシオンのいる場所ではなかった。
 それ以上の言葉はないまま、3人は〈タルタロス〉を去った。
 残された雪兎がつぶやく。
「さよなら……命」
 元の世界に残されることになるひとりの妹。
 たとえそれが雪兎が望んだことであったとしても、シオンを囚われたセーフィエルと何が違うのか?
 命にこの事が伝えられることはないだろう。
 だが、万が一知ってしまったら?
 静かに月詠が鞘に収められた。
 月が沈んだ世界に陽は昇らない。
 そこは闇に閉ざされた世界。
 いつまでこの世界は闇に閉ざされたままなのだろうか?
 もしかしたら久遠かもしれない。
 しかし、ダーク・ファントムは終わらないと言った。
 光が存在する限り、闇も存在するのだから……。

 3・31事件から数日が過ぎ去った。
 帝都の街は復興に向かっている。
 街に溢れていた強力な妖物たちはいつの間にか姿を消し、結界はさらに強力なものとなった。
 戦いで傷ついた多く者たち。
 ワルキューレたちの中にも重傷を負った者がいたが、彼らの驚異的な再生力ですでに完治していた。
 だが、その裏で女帝だけは病に倒れ、床に伏せっていた。
 セーフィエルが最後に残した復讐。
 〈ヨムルンガルド結界〉を弱らせたのは、シオンを救うためだけではなかった。
 月詠は〈ヨムルンガルド結界〉の力を得た。その〈ヨムルンガルド結界〉はセーフィエルが盛った毒に犯されていた。
 その月詠がダーク・ファントムを斬った。
 今やダーク・ファントムの本体は柩の中で毒に犯されて藻掻き苦しんでいる。その片割れである女帝にも同じ事が起きていた。
 すべてはセーフィエルの思惑どおり。
 シオンは外の世界に戻り、女帝にも苦しみを与えた。
 一方、シオンが躰から離れた時雨は――?
「はっくしゅん!」
 もう桜も散ったというのに、こたつを引っ張り出して中に潜っていた。
 そこへハルナが駆けてきた。
「テンチョったら、ちゃんと仕事してくださいよぉ」
「やだよぉ、寒いんだもん」
 寒さの後遺症は未だ残っているようだった。
「寒いってもう4月ですよ、しーがーつー!!」
「じゃあ7月になったら活動するよ」
 梅雨明けまでコタツに潜っているつもりだろうか?
「そんなこと言ってたらお米買うお金だってなくなっちゃいますよ!」
「それは困るね。じゃあちょっとバイト行ってくるね」
「ダメです、ダーメ! もう危ないことしちゃダメですから!」
「今までしてたじゃん?」
「もうダメなんです。そう決めたからダメなんです!」
 ハルナは自分が巻き込まれてみて、その危険を身に染みて実感したのだ。
 そうと決まれば時雨はコタツに潜るだけ。
「ああぁっテンチョったら!」
 叫んだハルナ。
 時雨の身体がコタツの中から引っ張り出される。
「ちょっとやめて……よ?」
 時雨は眼を丸くした。自分を引っ張り出した人物がハルナではなかったからだ。
「ひっさしぶりねぇん、時雨~っ♪」
 そこに仁王立ちしていたのはマナだった。
 マナの出現に時雨はバッと起き上がって身構える。だいたいマナが現れるとロクなことがないからだ。
 その予想は果たして当たるのか?
 マナはある物を無造作にコタツテーブルの上に置いた。
 それはシンプルな指環だった。しかも2個。
 思わす時雨は、
「はぁ?」
 そんな時雨にマナは、
「とりあえず付けてみなさい!」
「はぁ?」
「まあ、いいからいいから!」
「ちょっと!」
 時雨は無理矢理指環をはめてこようとするマナから身を守った。
 なにがなんだか時雨にはわからなかった。
「意味わかんないから、説明しようよ!」
「簡単に言うと、ちょっと旅行先の古代遺跡でちょっと拝借してきたのよね」
「盗掘したんでしょ?」
「そーゆー言い方もできるわねぇん」
「言い方の問題じゃないよね?」
「とにかくパクって来たのはいいのだけれど、どんな力を持ってるのかわからないのよね」
 パクったとハッキリ口にした。
 そんな得体の知れない指環なんて付けたら最後だ。
 これでもマナは魔導士としては一流。そのマナがわからないと言っている物を身につけるなんて、無謀というのもほどがある。
 ここで時雨が取る行動はひとつ。
「ちょっと出掛けてくるねハルナ!」
 逃げた。
 家を飛び出した時雨は近所の商店街を駆け抜けた。振り返ればそこにはマナの姿が!
「こんなこと前にもあったような」
 しみじみと今年の初旬を思い出す時雨。
 逃げ込む場所もあとのときと同じだった。
 時雨が逃げ込んだのは神威神社の境内。
 未だ復興作業が続けられていた。
 巫女装束を着て境内を掃除している命の姿。
 時雨は死にものぐるいで命に泣きついた。
「みこと~っ、マナにまた殺されるぅ~」
「……はぁ、またか」
 さすがに呆れているのか命は溜息を落とした。
 時雨は子犬のような瞳で命を見つめ、何度も何度も彼女の肩を揺さぶった。
「わぁ~ん、もうすぐそこまで来てるよぉ~」
「わかったら落ち着け!」
 命は時雨を振り払って、その肩越しにマナが迫ってきているのを見た。
 なぜか大鎌を持っているマナが凄いスピードで近付いてくる。なぜ指環をはめようとしているだけなのに、大鎌を装備しているのかまったくもって不明だ。
「し~ぐ~れ~ちゃ~ん♪」
 ブンブン風を切って回される大鎌。
 ここまで乗りかかってしまった船だ。命も諦めた。
「仕方がないのぉ」
 身構えた命。
 マナもそれに応じた。
「命ちゃんヤル気満々ってわけぇ?」
「仕方ないじゃろう、それも定めじゃ」
「前回はちょっとしたトラブルで負けちゃったけど、今回はそうはいかないわよぉん!」
「ならばこちらも初めから本気じゃ」
 命は念を込めた御札をマナに向かって投げつけた。
「同じ手は食わないわよぉん!」
 前回、マナはこの御札を貼られて身動きを封じられている。
 マナは大鎌で札を切断した。
「ふふ~ん、こうしてしまえば……っな!?」
 斬られた御札はヒモとなってマナの身体を拘束したのだ。
「いやぁん♪」
 イモムシのように地面でもがくマナを命は見下ろした。
「今回は呆気なかったのぉ」
 だが、往生際の悪いマナはこんなところではあきらめない。前回も黒猫になってしまってやむなく敗北したのだ。
 身体を拘束されたマナは念動力で大鎌を操った。
 大きな鎌で器用に身体に巻き付いた御札が切られていく。
 そしてマナ復活!
「おほほほほほっ、この程度でへこたれるアタクシではなくってよ!」
「じゃろうな」
 重々命も承知済みだった。
 命が空[クウ]に印を描く。
「汝は童の守護者なり、〝招〟!」
 命は右手の中指と人差し指で空[クウ]を突き刺した。
 その空間から飛び出してきた謎の影。式神を呼びだしたのだ。
 呼び出された式神の姿を見て時雨は唖然とした。
「……どう見ても」
 さらにマナも驚きを隠せない。
「ただのぬいぐるみじゃないのよぉん!」
 そこにいたのはクマのぬいぐるみだった。
 命は至って真面目に説明する。
「ポン太君じゃ」
 思わず時雨がツッコミを入れる。
「名前とかじゃなくて……ただのぬいぐるみだよね?」
「捨てられておったところを妾が保護した。それ以降、妾の式神となって家事手伝いなどをこなしてくれておる」
 前回呼びだしたのは掃除機だったような気がする。今度は家事手伝いだそうだ。ずいぶんと主婦思いの式神たちだ。
 命は輝く眼差しでマナを見つめた。
「お主にこの可愛らしいポン太君が倒せるというのか?」
 戦闘力とかの問題ではなかった。そもそも普段は家事手伝いという時点で戦闘力には期待できなかった。
 後退ったマナ。
「くっ……私が大のぬいぐるみ好きだと知っての所業ね。しかもクマのぬいぐるみを愛用してると知って!」
「知らん」
 命はバッサリ切り捨てた。
 しょんぼりした様子を見せるマナ。
「私の負けだわ。お詫びの印として時雨ちゃん、これを受け取って頂戴」
 と言われて、思わず時雨は手を出してしまったが最後。
 マナはすばやくあの指環を時雨の左手薬指にはめた。
「おほほほほほっ、引っかかったわねぇん!」
「ひどいよマナ!」
 わめいたところで後の祭りだ。
 時雨は指環を外そうとしたが、お約束どおり外れない。どうやら呪われていたらしい。
「外れないよこれ!!」
 だが、これと言って変化もなかった。
 命は時雨の手を取りまじまじと指環を見つめる。
「妖気は感じるが、妾にもわからんな。物理的に外した方が早いのではないかえ?」
 指環が外れなくなったときの最終手段は工具による指環切断だ。
 時雨は溜息を吐いた。
「はぁ……もっと大変なことにならなくてよかったけどさ。とりえず家に帰って石けん試してみよう」
 時雨はとぼとぼと家路に着いた。
 家に帰ると、いきなりハルナは飛び出してきた。
「テンチョ~っ!」
 半分涙目で焦っているのは見て明らかだった。
「どうしたの?」
 時雨が尋ねるとハルナは、
「指環が外れなくなっちゃんだですぅ!」
 見るとハルナの指にもあの指環が。しかもなぜか左手の薬指だった。
「はぁ、ボクもだよ。でもさ、なんでハルナまで?」
「えっ……そ、それは……」
 急にハルナは顔を真っ赤にしてしまった。
 そんなところへゴスロリ少女……もとい、ゴスロリ男子の夏凛が飛び込んできた。
「お兄様ぁ~、近所で仕事があったので遊びに来ちゃいましたぁ♪」
 時雨はまた溜息を吐いた。
「はぁ、だからさ……お兄様ってやめてくれるかな。なんの血のつながりもない近所の子だったってだけなんだから」
「お兄様……記憶喪失は?」
 時雨は過去の記憶を取り戻していたのだ。
 それにはハルナも驚いた。
「テンチョ、記憶が戻ったんですか!?」
「まあね」
「じゃあ、本当の名前も思い出したんですよね!」
「ボクの名前は時雨だよ。別に過去なんてどうでもいいんだよ」
 時雨は優しい笑みを浮かべた。
 ただならぬ雰囲気が時雨とハルナの間に漂っていることを夏凛は感知した。さらに二人の薬指の指環まで見てしまった。
「ぎゃ~~~っ、お兄様いつその女と結婚なさったんですか!!」
「え?」
 時雨はきょとんとした。
 そこへまた新たな訪問者が現れた。
「仕事の依頼が会ってきたのだが、中が騒がしいもので気になって無断で入ってきてしまった」
 紅葉だった。
 そして、紅葉もすぐに二人の指環に気づいた。
「いつに結婚したのか時雨。式を挙げるのでれば報酬の代わりに私が準備してやってもいいぞ?」
「はぁ?」
 時雨はとんとん拍子で進む話についていけなかった。
 ハルナは顔を赤らめながら時雨に寄り添った。
「わたしたちそう見えますぅ?」
 まんざらでもなかった。
 そこへ時雨を追ってやって来た命。
「ほう、それで日取りはいつにする?」
 さらにマナまでが、
「おめでたい話ねぇん。式当日には私からのプレゼントとして、魔法花火をガンガンに上げちゃうわよぉん!」
 そして、夏凛は泣きながら走っていった。
「お兄様のばぁん!」
 それを見た紅葉は、
「妹が出ていったぞ、追わなくていいのか?」
「だからボクの妹なんかじゃないから。あっちが勝手に自称してるだけなんだって……はぁ」
 どっと溜息を吐いた時雨はコタツの中に潜った。
 コタツの外ではあれやこれやと式の段取りが話し合われている。
 風に乗って窓から桜の花びらが舞い込んできた。
 春麗らかな日々。
 帝都で1つの物語が終わり、同時に新たな物語がはじまろうとしていた。
 そして、聞こえてきたのは誰かの溜息。
 穏やかな世界に相応しい溜息だった。

 封印するもの(完)


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