機械仕掛けの神(1)
 満天に輝く星々の下で、星よりも強い輝きを放つ巨大都市エデン。
 魔導と科学の融合により生まれた魔導炉により、膨大なエネルギーが二十四時間、止まることなく都市にエネルギーが供給される。――この都市は決して眠らない。
 小規模なビルが立ち並ぶビル街。ビルの屋上から下を眺めると、深夜だというのに車の往来が多い。
 月が見守るビルの屋上にいる、闇に溶ける黒衣を身に纏った長身の男性。彼は美しく長く伸びた黒髪を風に靡かせながら、ビルからビルへと飛び移り、執拗なまでに追いかけて来る敵の追撃から逃げていた。
 黒衣の男の後ろを追って来るモノは人ではなかった。――キメラ生物だ。
 キメラ生物とは、異なった遺伝子型が身体の各部で混在する生物のことで、ここ数十年の間に研究が急速に進み、生物兵器として世界規模で爆発的に創られた。しかし、キメラ生物の危険性や倫理の問題で、国際条約によってキメラ生物を創ることを禁止され、この国もその条約に加盟しているのだが、この国の裏社会は世界トップのキメラ生物の研究と生産を誇っていた。
 キメラ生物に追われている男の名は鴉。しかし、それ本当の名ではない。なぜ彼が鴉と呼ばれるようになったかには多くの説がある。常に黒衣で身を包み、その黒衣を着て彼が戦う姿が黒く巨大な魔鳥のように見えたからなどとも言われるが、彼が鴉と呼ばれた真実の理由を知る者は極僅かだった。
 鴉の足が広いビルの屋上で止まった。彼はただ逃げていたわけではなかった。敵と十二分に戦える広い場所を探していたのだ。
 鴉を追って来たキメラの姿は人間のような形をしているが、衣服を全く着ていないその身体は緑色をしており、毛の一本も生えていなかった。
 キメラの数は全部で三匹だ。腕をだらりと地面に垂らし、皆、ギロリとした光る双眸で鴉を睨みつけていた。
 月光を浴びた鴉の横顔は美しかった。長く伸びた鼻梁も、血のように赤い唇も、そして、蒼白く透き通るような肌も、人間のものとは思えないほどに美しい。しかし、表情に乏しく無表情だった。
 夜風が屋上に吹き込み、鴉の纏う黒衣が大きく揺れ動く。
 三匹のキメラが鴉の周りを取り囲んだ。だが、鴉は全く動かずに静かに目を瞑った。
 人間では決して出すことのできないスピードで二匹目のキメラが鴉の横から襲い掛かり、残りの一匹は蛙のように飛び上がり鴉の頭上を狙った。
 鴉が目を開けたと同時に黒衣が激しく広がり、うねるようにして〝黒衣〟が三匹のキメラを次々と叩き飛ばした。それはまるで黒衣が〝生きている〟ような光景だった。
 地面に叩きつけられたキメラが立ち上がる前に鴉は飛翔し、その途中で鴉は自らの腕と手を硬質化して、ダイヤモンドよりも硬い鋭い爪へと変えた。
 天から舞い降りた鴉は餌を狙う魔鳥の如くキメラの顔面を鷲づかみにした。だが、獲物を掴んだ魔鳥は再び天に昇ることなく、そのままキメラの頭を固いコンクリートの地面に激しく叩きつけて潰した。
 地面にしゃがみ込む体勢になっている鴉の背後から、二匹のキメラが襲い掛かって来たが、鴉が円舞を踊るように立ち上がると同時に、黒衣が大鎌の役目を果たした。
 二匹のキメラの頭は呻き声をあげることもできぬまま宙を舞い、地面に鈍い音を立てながら落ちた。
 薔薇の蕾のような鴉の唇から言葉が発せられた。
「刺客か……!?」
 ビルを飛び交う人影を鴉は見た。鴉の瞳は夜でも昼間のように遠くまで見通すことができる。
 ビルと飛び交う人影は、黒を基調とした生地に白いレースをあしらったゴシック調のドレスを着ている。そして、手には月の光を反射する巨大な鎌を構えている。
 鴉のいるビルの屋上にやって来たドレス姿の人物。歳の頃は、十七、八ほどで、小柄な身体に腰の辺りまで伸びた美しい黒髪が風に靡いている。そして、顔はとても可愛らしい中に妖艶とした雰囲気を持っていた。
「早く逃げた方がいいと思うよぉ」
 可愛らしく空気のように澄んだ声であったが、鴉はその裏にある性格の悪さを瞬時に感じ取っていた。
 何から逃げた方がよいのか? 鴉はそれを問うまでもなかった。
 ドレス姿の人物の後ろからヒトのような生物が追って来た。その生物に目を血走っており、とても正気とは思えない形相をしている。
 鴉が呟く。
「躱せ」
「わおっ!?」
 ドレス姿の人物は声を荒げながら、後ろからの攻撃を避けた。そして、すぐに持っていた大鎌を勢いよく後ろに振る。
 ビュンという音とともにドレス姿の人物を追って来たモノの首が宙を舞う。だが、これでは死なない。それは、このドレス姿の人物も、――そして、鴉も知っている。
 斬られたはずの首の付け根から新たな首が生える。もちろん、斬り飛ばされた首は地面に転がったままだ。
 強靭な再生力を持つ怪物を前にドレス姿の人物が声を荒げる。
「もぉ、さっきから斬っても斬ってもキリがないよぉ!」
 ドレス姿の人物の横を黒い風が擦り抜ける。それは鴉だった。
 鴉は硬質化させている手を怪物の胸に突き刺して何かを握りつぶした。手が引き抜かれ、激しく血が吹き出ると同時に怪物は地面に倒れた。
「灰は灰に、塵は塵に、永遠など無いのだ」
 鴉がそう呟くと同時、地面に倒れている怪物は灰と化してしまった。
 自分がいくら斬っても倒せなかった相手を意図も簡単に倒されて、ドレス姿の人物は驚愕した。
「あなたはいったい!?」
「鴉とヒトからは呼ばれている」
 ドレス姿の人物も鴉のことは知っていた。裏社会では有名人物の名だった。
「あなたが鴉なの? やっぱり噂ど~りのチョー美形のお兄様。アタシの名前は夏凛、ヨロシクね」
 自己紹介をして黒い手袋した手を差し出した夏凛であったが、鴉の手は出されることはなく、彼は夏凛を無視するように歩き出した。
「アタシを無視する気!? これでもチョー一流の美人トラブルシューターなんだけどぉ」
 トラブルシューターとは簡単に言うと〝何でも屋〟のことで、迷子の仔猫探しから怪物退治までありとあらゆる仕事をこなす職業のことである。そのトラブルシューターの中でも夏凛の実力はこの街で五本の指に入るほどであり、その容姿はこの街で三本の指に入るほどの美しさを持ち合わせていた。だが、鴉にとっては関心のないこと。
 隣のビルに飛び移ろうとする鴉の前に夏凛が立ち塞がる。
「待ってたら、さっきはありがとぉ。で、今度お礼の意味も込めて一緒に食事に行かない?」
 夏凛は自分よりも美しい存在に目がなく、鴉の姿を一目見た瞬間に恋に落ちてしまった。
 鴉は隣のビルに飛び移るのを止めただが、その瞳は天を向いている。
 夏凛も〝それ〟を見た。長い光の尾を引く彗星。彗星が飛来して来るなどというニュースはなかったはずだ。つまり、この彗星は観測所に見つからずに突如、宇宙から降って来たことになる。
 堕ちて来た彗星の大きさはそれほど大きくはないが、その光は〝それ〟自体が輝きを放っているように眩しい。もしかしたら、彗星ではなく兵器という可能性もある。だが、鴉は〝それ〟が何であるか知っていた。
「……新たなラエルだな」
 鴉の立つビルの屋上からよく見える輝き。宇宙から堕ちて来たモノの光がよく見えたのは、その大きさからではなく、近くにあったからだった。
 光り輝く物体は猛スピードでこの都市に落下した。落下地点から閃光と共に爆発音が深夜の街に鳴り響く。
 大きな爆発ではあったが、その規模は半径二〇〇メートルを吹き飛ばした程度で済んだ。だが、この街にクレーターができてしまったには違いなかった。
 堕ちて来た物体のことを知っている素振りを見せた鴉に、目を丸くした夏凛が何かを尋ねようとしたが、鴉の姿はすでになかった。
「あれっ? もぉ、連れない男性だなぁ」
 可愛らしい仕草で顔を赤らめた夏凛はすぐに気持ちを切り替えて、先ほど片付いた仕事の報酬を貰いに行くことにして、三〇メートルほどある高さのビルから地面に飛び降りた。

 巨大都市の光と闇。
 繁栄を続ける都市の影である象徴の一つと言えるのがスラム街。アンダーグラウンドな世界にのみ許された、人々の放つ猥雑な価値観と逞しさ。そこに都市の裏の顔が存在している。
 スラム街の一区間は〈ホーム〉と呼ばれ、そこでは〝表よりも〟非合法なモノが多く売られ、二十四時間いつでも売春婦たちが歩き回っている。そして、スラムの地下では新興宗教集団や可笑しな実験をする組織などが根城としている。
 スラムの一角にあるとある廃ビルには悪霊が住み着き、スラムの人々でも決して近づかない場所がある。そのビルの中に鴉は棲んでいた。
 電気もない真っ暗な闇の中で鴉は身を潜めていた。鴉がこのビルに住み着くようになったのは三週間ほど前のことである。それ以降、ここにいた悪霊たちは何処かに逃げてしまった。それでも、ここに集まる邪気に惹かれて度々悪霊が現れることがある。
 蒼白く輝く物体に照らされ、鴉の顔が妖艶と映し出される。輝く物体は相手の大きさを知らぬ愚者な悪霊であった。
 全く動くことのない鴉を見て、ヒトの顔を持った悪霊は大きな口を開けて鴉を呑み込もうとした。だが、悪霊は鴉に触れる瞬間、霧のように掻き消されてしまった。格が違い過ぎるのである。
 目を瞑る鴉の耳に人間の足音が聴こえて来た。鴉の超感覚には、それが小柄な人間であることがすぐにわかった。
 鴉は瞼の上に淡い光を感じて目を開けた。
「私に近づくなと何度も注意をしたはずだが、それでも君はここに来る」
 ランプを持った子供の衣服は汚らしく、幼い顔をしている。この子供の名はファリスと言い、スラムで暮らす十二歳の少女だ。
「だって……」
 三日前にこのビルに迷い込んだファリスは鴉と出会った。最初に鴉の姿を見たファリスは恐怖を覚えたが、それ以上に鴉の美しさに目を惹かれた。だが、その美しさには翳があった。
 ファリスは異質な存在である鴉に興味を抱いた。
 二日目まではファリスが一方的に鴉に話しかけていたが、さすがに三日目ともなると話題がなくなってしまった。
 鴉は決してファリスのことを無視しているわけではなかった。口数は少ないが返答はしてくれる。だが、その返答は一言で終わってしまうために会話が続かないのだ。
 ファリスは鴉の横に壁に寄りかかりながら座った。
「昨日の爆発見た?」
 昨晩この街に堕ちて来た光を見た者は多い。そして、激しい光と爆音を聞いて目を覚ました者も多い。そして、テレビなどのメディアは大々的にそのニュースを取り上げている。
 鴉は静かに口を開いた。
「知っている」
「あたしは落ちて来るのは見なかったんだけど、大きな爆発で目を覚ましたの。ラジオで聞いたんだけど、半径二〇〇メートルくらいのクレーターができただけで、落下して来た物体は見つからなかったんだって」
 落下現場からは落下物の破片すら見つかっていない。そんなことは通常あり得ないことだ。
 ファリスの持って来たランプの光が弱まり出した。
「あっ……」
 消えゆくファリスの声と共にランプの光が消えた。辺りは暗闇に包まれる。
 自分の身体すら見えない暗闇の中で、ビルの外まで出るのは至難の技である。ファリスは困り果ててしまった。
「どうしよぉ。――わぁっ!?」
 暗闇の中で急にファリスの身体が宙に浮いた。そして、闇の中から声が聞こえた。
「外まで送って行く」
 ファリスの身体を持ち上げたのは鴉であった。
 静かな闇の中に鴉の足音が響き、ファリスは鴉の首に腕を回してしがみ付いた。
 体温は感じられなかった。鴉の首元はとても冷たく、まるで血が通っていないように思えた。
 ビルの出口から強い光が差し込む。ここでファリスの夢は醒める。もう少しファリスは鴉に抱かれていたかった。
 鴉はゆっくりとファリスを地面に降ろした。
「私に関わるな、君は君の世界で生きろ」
 鴉はファリスの背中を優しく押して外に送り出そうとした。だが、ファリスの足は動くことはなかった。
 光を背に受ける黒い人影。
「探したぞ〝鴉〟よ」
 黒い人影の声は男のものだった。
 黒い厚手のローブに付いた頭巾を頭にすっぽりと被っていることと、逆光によって顔は全く見えない。しかし、鴉はこの人物のことを知っていた。
「ルシエだな?」
 鴉はファリスを自分の後ろに押し込め、ルシエに詰め寄った。
 ルシエの顔は鴉に優るとも劣らない美しい顔だった。そう、鴉と同じ雰囲気を醸し出す、この世のものとは思えない崇美さを兼ね備えていた。
 ファリスは心の底からルシエに脅えた。ルシエから鴉と同じモノを感じる。だが、鴉とは全く違う威圧感がある。
 鴉の後ろの隠れながらもファリスはルシエから目が離せずに、足は小刻みに震えていた。足が震えるのはルシエのせいだけではない。鴉からも殺気は発せられているのだ。
「何が目的で堕ちて来たのだ?」
 鴉は知っていた。昨晩この都市に飛来して来たモノがルシエであったことを――。
 空からの堕天者のことを鴉たちは〝ラエル〟と呼んでいた。
「鴉よ、ここが地上――〝人間たちの大地[ノエル・ア・ノース]〟か?」
「ここは〝人間たちの楽園[ノエル・ア・アクエ]〟だ」
 静かに冷たく鴉はそう言い放った。だが、それをルシエが嘲笑う。
「フンッ……ここは我々ソエルの為に神が創られた牢獄だ! 余は天から煌く都市を見下ろした。それはまさに楽園[アクエ]を夢見る者たちが造り上げた虚像の幻想都市だった」
 この言葉に鴉は目を閉じては空を仰いだ。その表情は哀しげだった。
 鴉は知っている――空の先に広がる闇が無限でないことを……だが、天の広さは鴉にとって無限に広がるに等しいものだった。
「我々が再び神への反逆を企てぬ為の楔だ」
「確かに……だが、今や、天で聖水[エイース]を造ることが可能な時代となった。ノエルにもう価値は無い」
 ルシエはそう言うと黒いローブを脱ぎ捨て、背中に巨大な漆黒の翼を生やし、空気を激しく仰ぎながら大きく広げた。その姿は圧巻であった。まさに闇の王と言っても過言ではないだろう。
 激しい風がビルの中に吹き荒れ、鴉の身体を揺さぶり長く伸びた髪を靡かせるが、彼は動じることなくルシエの瞳を見据えた。
「ルシエよ、だから天から堕ちて来たのか?」
「そうだ、これは神への反逆だ。鴉よ――いや、天では輝ける称号を持っていた気高き戦士よ。貴公は自分をこの地上[ノース]に堕とした天人[ソエル]たちが憎くはないのか?」
「私はこの地上[ノース]で己の罪を……」
 ルシエは鴉の言葉を遮った。
「鴉よ、余は知っているぞ。貴公が無実の罪を着せられたことを――策略に陥れられたことを――余と共にこの地上[ノース]の支配者に成ろうではないか!」
「断る」
 静かな一言ではあったが、その言葉は何よりも意味のある、鴉がこの地上[ノース]で生きて来た時間の重みを持っていた。
「そうか……ならば、余にとって貴公は脅威でしかない。どうする鴉、余と戦うか?」
「ルシエ……」
 鴉は手を硬質化させて戦闘に備えた。だが、ルシエは鴉に背を向けて歩き出した。
「今はまだその時ではない。だが、余の邪魔をすることがあれば、鴉、貴公とて余の敵と思え」
 漆黒の翼を羽ばたかせ堕天者[ラエル]は輝く天に羽ばたいた。その際、彼は大きくこう叫んだ。
「天から堕ちた時にルシエの名は〈命の書〉からその名を消された。余の名はゾルテ!」
 ゾルテ――その名は古の時代にこの世界の人間たちに信じられていた闇の魔王の名。ルシエは今、その名を継いだのだ。
 ファリスは何が起きたのか全くわからなかった。今の二人の会話も理解できなかった。ただ、わかることはルシエが鴉の敵であることだけ。
 自分の後ろで脅えるファリスに鴉は冷たく言い放った。
「今あった出来事は忘れろ。そして、今後一切私に決して近づくな。これ以上、私と関われば命がないと思え」
 動けずにいるファリスをこの場に残して、鴉は深い闇の中へ溶けてしまった。
 ファリスは最初からわかっていた。鴉から死の匂いを感じ、鴉の近くにいれば自分にも死が降りかかることがわかっていた。しかし、それでも鴉に対する興味や好奇心が先立ってしまった。
 だが、ルシエを前にしてファリスは自分の考えが甘かったことを悟った。〈ホーム〉で生き抜いて来たファリスですら、ルシエを見ているだけで身体が震えた。次元が違う生き物であることを本能的に感じ取ったのだ。
 ファリスは鴉に会うことを止めて自分の家に戻ることにした。

 スラム街にも格差があり、テントが密集する地区やプレハブ小屋が密集する地区、ファリスの住む地区は〝比較的〟治安がよく、魔導炉からのエネルギー供給も行き届いている。
 鉄板を何枚も無造作に貼り付けたような小屋の一つにファリスは入った。これがファリスの家だ。
 家の中は四平方メートルほどで、拾って来たテーブルやソファーに修理途中のテレビなどが乱雑に置いてある。ファリスはこの家で三歳年上の兄と二人で暮らしている。
 昼間の間ファリスの兄であるザックはジャンクショップで働き、夜からファリスは兄と入れ違いでレストランに働きに行く。だが、今日はザックの仕事が休みで一日中家に中にいた。
 ザックは工具類を床に広げ、つい先日拾って来たテレビ修理をしていた。
「ただいまー!」
 テレビの修理に集中しているザックは顔を上げずに何も言わなかった。そんなことなどファリスは気にしない。ザックは何かに集中していると周りが見えなくなるのだ。きっと、ファリスが帰って来たことにも気づいていないに違いない。
 床に落ちている雑誌を拾い上げたファリスはそのままベッドに横になった。
 広げた雑誌のページにはファリスの住む巨大都市エデンの観光マップが載っていた。料理のおいしい店や流行のブティックや武器専門店など、ありとあらゆる情報が載っているが全てファリスには無用な物でしかなかった。ファリスの収入ではこの雑誌に載っているような店にはいけない。だから、こんな雑誌を見てしまうのだ。
 ファリスの目がファッションを紹介しているページで留まった。羨ましくないと言えば嘘になるが、これも自分にも不要なもの。スラムで暮らすには生きる最低限のものがあればいいのだ。
 ため息をついたファリスは雑誌を投げ飛ばした。
 投げ飛ばされた雑誌はザックにぶつかった。
「いてっ! ……なんだ、帰って来てたのか」
「遅い、遅~い。泥棒が入って来ても気づかないでしょ?」
「どうせこの家には盗むものなんてないから平気だって」
 それもそうだとファリスは思って再びベッドにゴロンと寝転がった。
 ザックは分解していたテレビを元の形に戻して、プラグをコンセントに差し込んで電源スイッチをオンにした。
 二三型液晶ディスプレイに画像が映し出される。
「イエーイ! 付いたぜ。ファリス、テレビが付いたぞ!」
 歓喜するザックは声を張り上げてファリスを叩き起こした。
 ゆっくりと目を開けたファリスは気だるそうに身体を起こして、ザックに腕を引っ張られながらテレビの前に座らされた。
「テレビなんて電気代かかるだけじゃん」
「そんなこと言うなよ、テレビの電気代なんて大したことないだろう」
「リモコンはないの?」
「リモコンは落ちてなかった」
「ふ~ん」
 電気代がかかると言いながらもファリスは興味津々でテレビのチャンネルを回しはじめた。
 ローカルテレビ局のニュース番組でファリスとザックの目が留まった。生放送のニュース番組に映し出されている映像はファリスたちの住むスラム三番街の映像だった。
 大企業の一つがスラム三番街を取り壊して歓楽街に造り替えるというニュース。このスラムに住む者たちは誰も聞いたことのないニュースだった。
 画面に映し出される重機類の数々。その中には対キメラ生物用の兵器まであった。
 ニュースの映像に向かってザックは声を張り上げた。
「なんてこった!? 奴らは力ずくで俺たちを――」
 大きな音によってザックの声が掻き消された。
 地面が揺れ、重機の動く音に混じって怒り狂う人々の声が聞こえて来る。
 ファリスは血相を変えて家の外に飛び出した。
 外ではすでに建物の取り壊し作業がはじめていた。
 ドラム缶型のボディにドリルアームを装着した小型ロボットたちが壁に穴を開け、ブルドーザーが人々をひき殺す勢いで走り回っている。
 スラムに住む人々には市民権がない。そこに住む人々はまるで塵のように扱われ、多少の非合法的行為の適応も暗黙のうちに許されてしまう。
 ドラム缶型のロボットがドリルの回転音を立てながらファリスの家の取り壊しを開始する。
「止めてよ!」
 ファリスはドラム缶型ロボットのアームにしがみ付くが、人間の力など及ぶはずがなく、振り回されるようにしてファリスは投げ飛ばされてしまった。
「イタタタタ……」
 尻を擦りながら起き上がったファリスは、再び自分の家を壊そうとするドラム缶型ロボットに飛び掛かろうとしたが、それを万能ベルト装着したザックが止めた。
「俺がどうにかするから下がってろ!」
 ザックはベルトから工具を抜いて、ドラム缶型ロボットの背中を開けて配線をいじりはじめた。やがてドリルアームは緩やかに停止して、ドラム缶型ロボットは完全に止まった。だが、喜ぶのはまだ早い。辺りにはまだまだ数え切れないほどのロボットたちが忙しなく動いている。
 建物を構成していた鉄板がもとの鉄屑に戻り、人々の抵抗は空しく終わっていく。
 所々から爆発音が轟き、火の手が上がっている場所もある。スラムに住む人々がついに銃器で応戦に出たのだ。
 これでは大型のキメラ生物が街で暴れた時と同じで、まるで戦争のような状況になってしまった。こうなってしまってはファリスに成す術なく、流れ弾などに当たらないように物陰で身を潜めているしかない。
 鉄の壁の後ろに身を潜めていたファリスとザックであったが、ザックは熱戦放射銃を構えて飛び出して行こうとした。
「俺も行って来る!」
「待ってザック、危ないから止しなよ」
「自分の〈ホーム〉が滅茶苦茶にされて黙ってられねぇよ」
 ザックはファリスに腕を掴まれたが、それを強く振り払って駆け出して行ってしまった。
「ザック……」
 ファリスは兄の名前を呟くが、自分にできることは兄の安否を祈るのみ。
 相手が武器を持って攻め入れば、それこそ相手の思う壺であった。抵抗するスラムの人々に対して、ついに対キメラ用の兵器が投入された。
 ユニコーン社の造り出した対キメラ用兵器〝YJ参型〟は腰を据えた人間が膝を曲げたような形をしており、ベースは手足のある全長三メートルほどのヒト型ロボットであるが、ゴツゴツとしたボディをしているために、もはやそれは岩のようにも見える。
 ジャンクショップのオヤジがタバコを銜えながら、対戦車用バズーカをYJ参型に向かって撃ち込んだ。
 轟々と音を立てながら発射された弾はYJ参型に見事命中して、辺りは砂煙と硝煙に包まれ視界が覆われた。
 銃声に反応してザックが叫ぶ。
「オッサン危ねぇ!」
 ジャンクショップのオヤジをザックは突き飛ばした。オヤジのいた場所にはバルカンによって空けられた穴が無数に広がっていた。
 立ち込めていた煙が治まり、その中から無傷のYJ参型が姿を現した。それと共に四つのキャタピラ型の足に四角い箱を乗せたようなボディの乗り物が現れた。この新たに現れた乗り物は通称ヒッポーと呼ばれる乗り物だ。
 ヒッポーの屋根の上には大層な髭を生やした体格のいい軍人風の男が立っていた。
「ガハハハハハハ、思い知ったか屑どもが!」
 大口を開けて馬鹿笑いをしているこの男の名はハイデガー。ユニコーン社の社長である。
 ユニコーン社は重機類の開発から販売に加え、民間の警備会社としての名は世界でも通っているほどの大会社である。
 今回、スラム三番街の人々の退去と建物の取り壊し、そして歓楽街の建設計画を打ち出したのはキャンサー社であり、ユニコーン社はその処理を委託されたのだ。
 ユニコーン社の兵器を前に戦力の差は明らかだった。だが、スラムの人々は命に代えても〈ホーム〉は守り抜く。
 銃声が鳴り響く中、ファリスは物陰で頭を抱えて震えていた。
「負けるに決まってるのに……」
 負けることはわかっていた。そうわかっているファリスですら〈ホーム〉から逃げ出すようなことをしなかった。自分たちが生きていける場所はここしかない。
 ファリスの肩が誰によって掴まれた。
「……っ!?」
 顔を上げたファリスが見たものは最新型のコンバットスーツを着たユニコーン社の戦闘員だった。手にはハンドライフルを持っている。
「大人しく投降すれば危害は加えない」
「嫌っ!」
 ファリスは戦闘員に静止を振り切って無我夢中で走り出した。足元にハンドライフルの弾が警告として打ち込まれるが、それを無視してファリスは走った。
 逃げたファリスを戦闘員は追うことはない。目的はあくまでスラム三番街に住む人々が退去することにあって、ファリスをわざわざ追って仕事を増やすまでもない。
 戦闘員から逃げたファリスは瓦礫の山を踏み分けて廃ビルの近くまで来ていた。
 突然の爆風。ファリスは腕で顔を覆いながら地面にしゃがみ込んだ。
 腕の隙間から見える廃ビル。そのビルが大きな音を立て、砂煙と共に倒壊していく。
「あぁっ!?」
 ファリスは愕然とした。今、目の前で倒壊したビルは鴉が寝床としていたビルだったのだ。
 あんな爆発に巻き込まれて人が生きているはずがない。だが、ファリスは鴉が生きているのではないかと思った。鴉の見た目は人間だが、内に秘めた人間ならず力は人間のものではない。
 裏社会では鴉の名は知れ渡っているが、ファリスはそれを知らない。鴉が戦うところを見たわけでもない。ただ、それでも鴉が普通の人間ではないことはわかった。鴉は美しい魔人だ。
 瓦礫の中から巨大な闇が出現した。それは闇色の衣だった。
 ハリケーンの巻き起こす風が目に見えるならば、あのような動きに違いない。
 闇色の衣が渦を巻き辺りに散乱していた瓦礫を激しく吹き飛ばし、中から黒衣を纏った男が現れた。
 日の光を浴びる男の顔は妖々しいまでに蒼白かった。
 ビルの周りにいた重機やロボットに取り付けられていたセンサーが黒衣の男を捕らえた。そう、それは巨大都市エデンの魔鳥――鴉だった。
 近くにいた機械を操作するオペレーターには鴉が敵であるか味方であるかわからなかった。だが、鴉が脅威であることはすぐにわかった。
 オペレーターの背負っている機械からキーボードとディスプレイパネルが飛び出し、オペレーターは自分の前に来たキーボードに打ち込みをはじめた。それはこの場にいる機械たちへ出した鴉の攻撃を命令であった。
 はじめにドラム缶型ロボットがドリルアームで鴉に襲い掛かる。
 ドラム缶型ロボットの数は四機。四方向から連携して襲って来る。だが、このロボットは工業用に過ぎない。鴉にとってはただの鉄屑に過ぎなかった。
 一機のロボットに向かって全速力で走った鴉は目にも留まらぬ速さでアームを掴んだ。回転するドリルの根であるアームを掴んだのだ。
 アームを掴んだ鴉はそのまま回転しながら遠心力に任せてロボットを放り投げた。
 ドラム缶型ロボットが別のドラム缶型ロボットに激しく激突し、大きな爆発と共に炎の中に消えた。
 鴉のことを挟み撃ちにしようとする二機のドリルアームが、ストレートパンチのように繰り出される。
 黒衣を羽ばたかせ舞い上がる魔鳥――鴉。その下では二機のドラム缶型ロボットが同士討ちをして爆発を起こしていた。
 オペレーターは額から冷たい汗を垂らして、一目散にこの場から逃げ出した。そして、オペレーターの制御がなくなったロボットたちは停止した。
 地面に舞い降りた鴉の元へ物陰からファリスが駆け寄る。
「だいじょうぶ鴉?」
「問題ない。それよりも、何が起きているか完結に説明しろ」
 鴉がファリスに対して質問を投げかけたのはこれが初めてであったが、ファリスは全くそれに気づかなかった。
「ユニコーン社がここに住む人たちを追い出そうとしているの!」
「ユニコーン社か……なるほど、やり方が手荒い」
 鴉の視線はスラム街の住居などから立ち上る煙を見ていた。
 黒衣を翻した鴉は戦闘が起きているスラム街とは逆の方向に歩き出そうとした。
「待って、行っちゃうの! 助けてよ、あなた強いんでしょ、あたしたちのこと守ってくれてもいいじゃん!」
 鴉は無言のまま立ち去ろうとしたが、ファリスは鴉の腕を強く掴んだ。
「お願いだから助けてよ!」
 少し涙ぐんでいるファリスだが、鴉の反応はとても冷たいものだった。
「今ここで奴らを追い払っても次がある。毎日毎日奴らを追い払うくらいならば、怪我人の多く出ないうちに立ち去るのが身のためだ」
「ヤダよ、ここはあたしの〈ホーム〉なんだから、他に行く場所なんてない!」
「…………」
 鴉の瞳がファリスの瞳をじっと見据えた。ファリスは決して目を放さなかった。
 しばらくして鴉が自分の腕を掴むファリスの手を魔法のように優しく解き呟いた。
「安全な場所にいろ」
 鴉はファリスをこの場に残して風のように走って行った。その向かう方向はスラム三番街居住区――ファリスの家がある場所だ。

 その場にいた者たちは黒い風が次々と重機やロボットたちを壊していくのを見た。それはあまりにも一瞬の出来事で、まるで白昼夢を見ているようであった。
 爆発で燃え上がる景色の中に陽炎が立っていた。
 揺らめく闇色の影。その中に浮かぶ蒼白い顔。そう、それは美しき魔人の顔であった。
 予期せぬ強敵の出現にハイデガーは狂喜した。彼の中に流れる血が沸き立ち、全身が喜び震える。まさか、ここで鴉に出逢えるとは……。
「ガハハハハ、鴉、鴉、鴉ではないか! 久しいぞ、久しいぞ、まさかこの地上[ノース]で逢えるとは思っても見なかった。貴様がラエルとなったという噂は真であったのだな、ガハハ!」
「久しぶりだハイデガー元将軍」
 無表情であった鴉が失笑を浮かべた。
 ハイデガーは鴉の元部下であったが、今は互いに昔の地位を剥奪されている。今や二人とも罪人であるラエルでしかないのだ。
 ヒッポーの屋根に立っているハイデガーは機体の中に乗っているオペレーターに命じた。
「スラムの制圧はどうでもいい、奴を奴を全精力を上げて殺すのだ!」
 対キメラ用兵器YJ参型が三機、鴉を取り囲んで左腕に装着されているバルカン砲を構えた。
「撃て、撃つのだ!」
 ハイデガーの合図と共にYJ参型のバルカン砲とヒッポーの両脇に装着されているバズーカ砲が発射された。
 避ける間もなく放たれた弾は鴉に命中して辺りに砂煙が舞う。さすがの鴉もこれでは無傷とは言えまい。だが、次の瞬間、黒衣が波のように広がり中から無傷の鴉が現れた。黒衣が弾を全て防いでしまったのだ。
 YJ参型が三機同時に鴉に襲い掛かる。
 YJ参型の右手は人間の手のような構造になっており、その手で鴉を掴もうとするがなかなかうまくいかない。
 鴉は俊敏な動きで相手の攻撃を躱す。
「これも鉄屑だな」
 硬質化させた鴉の腕がYJ参型のボディにめり込んだ。
 腕を抜かれ穴から火花が散る。そして、停止。鴉はYJ参型を一撃で仕留めてしまったのだ。
 あとの二機も同じ方法で倒せる。機体の頭脳であるコンピューターを破壊すれば機体は停止する。わかりやすい原理であった。
 襲い来る二機のYJ参型の掌に装着された穴から光の粒子が発射された。それは科学と魔導の融合が生み出した魔導砲であった。
 渦を巻く蒼白い光を鴉は紙一重で躱した。鴉が先ほどまでいた場所には直径五メートル、深さ三メートルほどのクレーターができてしまっている。
 クレーターは赤く光り、まだ高い熱を帯びていることがわかる。魔導砲はそのエネルギーから、物体を砕く前に消失させてしまうのだ。
 バルカン砲を避けつつ、鴉はバルカン砲を撃っていないYJ参型と間合いを詰める。
 鴉がYJ参型と眼前まで間合いを詰めると、YJ参型の右手が鴉の顔に向けられた。それは魔導砲を放つ構えだった。
 身を翻した鴉はYJ参型の腕を掴んで、その腕をもう一機のYJ参型に向けた。
 次の瞬間、光り輝くエネルギーの塊がYJ参型のボディを貫き溶かしてしまった。ボディの中心を溶かされたYJ参型は腕を足だけを残して地面に崩れ落ちた。
 YJ参型の腕をまだ掴んでいる鴉はすぐさま鋭い爪でYJ参型のボディを貫いた。
 襲い来るYJ参型を鴉は簡単に仕留めてしまった。
 最後の一機から腕を抜いた鴉を見てハイデガーが怒りを露にする。
「なかなかだ、なかなかやるな鴉!」
「機体の最も頑丈な場所に頭脳を設置していては、そこを壊してくれと言っているようなものだ」
「さすがだ、さすがだぞ輝かしい称号を持つ〈輝星の君〉――アズェル!」
「その名はすでに〈命の書〉から消されてしまった。茶番は仕舞いだ、貴様自ら来るがいい」
 静かな挑発にハイデガーは乗った。この時をハイデガーは待ち侘びていた。
「ガハハハ、俺を昔の俺と思うなよ。今の、今の俺の力を持ってすれば貴様とて敵うまい」
「さて、それはやってみなくてはわからんな」
「いいぞ、いいぞ、相手に申し分はない」
 ヒッポーの屋根から地面にハイデガーを降りると、地面に乾いた土が砕けた。
 鴉とハイデガーに一騎打ちがはじまることにより、周りで動いていたロボットや戦闘員、そしてスラムの住人の動きが止まってしまった。
 静寂に誰しも嵐が巻き起こることを感じていた。
 ハイデガーはごつごつした指を鳴らし、首を回して柔軟をしはじめた。それを見たユニコーン社の戦闘員たちは物陰でカメラを回す報道陣に規制をはじめた。
 埃を舞い上げる風が鴉の黒衣を靡かせる。
 先に仕掛けたのは鴉であった。
 天に舞い上がった魔鳥は黒い翼を広げ、地上に鋭い爪を向けた。
 落下する鴉の爪はハイデガーの眼前で止められた。
 強い力で掴まれている鴉の腕はぐるりと捻り回され、鴉は捻れた方向に身を任せて宙を回転しながら身体をしなやかに曲げてハイデガーの顔面に蹴りを喰らわせた。
 顔面に衝撃を受けたハイデガーはよろめき、鴉の腕を掴んでいた力を緩めた。その隙に鴉はハイデガーとの間合いを取る。そして、すぐに地面を蹴り上げて鴉へ鋭い爪をハイデガーに向けた。
 血の出た口元を舌で拭ったハイデガーは腰元から銃を抜き撃ち放った。
 楽園[アクエ]の技術を似せて作った銃からは雷光に似たビームが放たれ空気を焼いた。
 雷光は直線的に幾度も曲がり相手を翻弄する。そして、速度を上げて一直線に鴉に向かう。
 硬質化させた鴉の左手が雷光を受け止めようとした。だが、左手は鴉の身体をその場に残して後方に持っていかれ、身体から引きちぎられた。
 血飛沫が鴉の左肩から止め処なく吹き出る。
 鴉は表情を変えない。そして、やがて血は止まった。
 ハイデガーの眉が少し上がった。
「ガハハハ、血を止めることが精一杯か? そうなのだな、そうなのか鴉!」
「…………」
「そうか、そうか、それが貴様の力か。だが、なぜケトゥールをしない?」
「その問いに答える口を持ち合わせてはいない」
 黒衣が翼のように広がり、鴉はハイデガーに向かって行った。
 再び雷光を吐き出すハイデガーの銃。
 二度目はない。鴉は雷光の軌道を見切っていた。
 鴉は柔軟な身体を捻って雷光を軽やかに躱す。しかし、その瞬間、鴉の表情が変わり後ろを凄い勢いで振り返った。
 後方で人家が吹き飛んだ。それの鉄片が近くにいた人の身体に突き刺さり、即死させた。
 死んだ人間は小さな子供であった。
 次の瞬間、鴉の移動速度が上がった。
 ハイデガーは目を大きく見開いたが、避けることができなかった。
 鋭い爪がハイデガーの首を跳ね飛ばす。だが、ハイデガーの指は引き金を引いていた。
 放たれた雷光は鴉の胴体を貫き。鴉は地面に倒れた。
 乾いた地面の上に転がるハイデガーの首。そして、血を吹くハイデガーの身体。だが、やはり血は止まった。それどころではない。
「ガハハハハハハハ、なかなかやるな鴉。おもしろい、おもしろいぞ、俺の血が沸き立って来るのがわかるぞ!」
 ハイデガーはそう〝言いながら〟自分の首を拾って元の場所に固定させた。
 急速な早さでハイデガーの首の傷は感知してしまった。首が飛んだ形跡など見つけられない。
 ハイデガーは首を回して柔軟をすると、口元を少し吊り上げて地面に倒れる鴉を見下ろした。
「血をだいぶ使ってしまった。少しケトゥールが必要だな」
 ハイデガーは物陰に隠れていた青年に気が付き、鴉はハイデガーが何をしようとしているのかに気が付いた。
 物陰に隠れていた青年は猛スピードで自分に近づいて来るハイデガーに熱線銃を無我夢中で放った。だが、手が震えてどうにもならない。
 鴉はハイデガーの行動を止めようとするが重症を追った身体が動かない。
 ハイデガーは青年の身体を高く持ち上げた。
 陽光に照らされる青年の顔はザックにものだった。
「は、放せ!」
 熱線銃を握り締める手はガタガタと振るえ、ザックは熱線銃を地面に落としてしまった
 鴉は何もできなかった。握り締めた拳からは血が出ていた。
 陽光の下。持ち上げられた青年の身体から、紅が滴り落ちていた。
 物陰にいたファリスは見てしまった。ハイデガーがザックの首筋に噛み付いたのを――。
 長い時間、ハイデガーはザックの首に噛み付いたまま動かなかった。
 ザックの首から流れ出す紅い血。そう、ハイデガーは吸血行為[ケトゥール]をしているのだ。
 やがて満足に血を吸ったハイデガーはザックの身体を塵として放り投げた。ハイデガーにとって〝ノエル〟は糧でしかない。
 蒼い顔をしたザックは二度と動くことはなかった。
 ファリスは言葉を失い呆然と立ち尽くした。出来事が範疇を超えている。何が起きたのかわからない。
 ハイデガーは口元を拭って、地面に倒れる鴉の元へゆっくりと向かった。それを見たファリスはすぐさまザックの元に走りよった。
 地面に倒れているザックは身動き一つしない。息もしていないし、脈もない。
 否定したい出来事であった。だが、事実だ。ザックは死んでいる。
 多くの死を見てきたファリスであったが、まさか兄が死ぬとは思っていなかった。
 いつか人は死ぬものだが、それでも死が本当に訪れるなど思っていなかった。
「あーあ、あたし独りになっちゃった」
 悲しいはずなのに笑ってしまった。自分でもなぜ笑っているのかわからない。涙が次から次へと零れ落ちて来るのに笑ってしまうなんて、もう、わからない。
 ファリスは地面に落ちていた熱線銃を拾い上げ、そして、構えた。
 高熱の赤い光が熱線銃から放たれると同時に、小柄なファリスの身体が反動で動き、腕も上に持ち上げられてしまった。だが、高熱の光は的を焼いた。ファリスは反動を計算に入れて最初から下を狙っていたのだ。
 改造を施されていた熱線銃の威力はとんでもないもので、それはハイデガーの右肩を消失させるほどだった。
 恐ろしい形相で振り向いたハイデガーの顔を見てファリスは身を強張らせた。だが、すでに指は二度目の攻撃をしていた。
 高熱の光はハイデガーの身体を掠めた。今度は外してしまったのだ。
 震えるファリスの元へ歩み寄るハイデガーの右肩が徐々に再生していく。
「気の強い小娘の血は特に美味い」
 舌なめずりをした醜悪なハイデガーがファリスとの距離を縮めていく。
 ファリスは逃げられなかった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、食われることを悟って身動きができなくなってしまった。
 死んでもいいとファリスは思った。そうしたら、可笑しくて笑ってしまった。
「殺したいなら殺せば、もう、いいよ……」
 笑いながら立ち尽くすファリスの頬にハイデガーのゴツゴツした手が触れる。
 ファリスは死を受け入れようとした、だが――。
「ファリスに手を出さないでもらおう」
 ファリスは見た。醜い顔をしたハイデガーの後ろに、美しい黒鳥が翼を広げていた。
 背中から突き刺さった爪はハイデガーの〝核〟を突き、ファリスの身体のすぐ前で止まっていた。
 ハイデガーの口から血が吐き出され、ファリスの顔を紅く彩った。 
「ガハハハハ、残念だな鴉。俺の〝核[クゥーク]〟は移動してある」
「何っ!?」
 驚いた表情を見せた鴉はハイデガーの身体から引き抜いた。その手には銀色に輝く機械が握られていた。
 突如、背中に漆黒の翼を生やしたハイデガーは猛スピードで天に上昇した。その反動で巻き起こった風によりファリスは身体のバランスを崩し地面に手を付いた。
 手に握っている物体が何であるか悟った鴉は、それをハイデガーに向かって力強く投げ飛ばした。そして、すぐにファリスの身体に覆いかぶさり、黒衣が鴉とファリスの身体を包み込んだ。
 鴉にできることはファリスだけを救うことだった。
 次の瞬間、上空が激しく輝き、鼓膜を破る爆音を共に大爆発が起こった。
 爆発音以外は何も聞こえなかった。爆発は〝全て〟を奪ったのだ。
 爆発は地上を抉り、紅蓮の炎が遥か遠くの地上にまで降り注いだ。
 その現象は消失だった。凄まじい破壊力の中で、人々は泣き叫ぶことも許されぬままに死んで逝った。それは不幸か幸福か?
 スラム三番街居住区の大部分を消失させた爆発は巨大都市エデンに住む多くの人々の目に留まった。その規模は昨晩、謎の飛来物がつくったクレーターよりも大きい半径二五〇メートルであった。
 クレーターのほぼ中心でファリスは黒い物体に包まれていた。最初はそれが何であるか理解できなかったが、やがて黒い物体が自分の身体から離れ、鴉が姿を現した。だが、鴉は目を閉じており、そのまま背中から地面に倒れた。
 何が起きたのか理解できなかったファリスであったが、すぐに倒れた鴉の横に跪いた。
「鴉、大丈夫!? 目を開けてよ!」
 鴉は目を開けなかった。それどころか、いつもよりも顔を蒼い。その顔にファリスは兄を重ね合わせてしまった。
「死なないでったら!」
 悲痛な叫びは届いていた。身体が自由に動かない。だが、もう少し時間が経てばしゃべるくらいはできるだろう。
 この時、鴉を急激な渇欲を襲った。身体が燃えるように熱く、聖水[エイース]を欲している。
 鴉は喉の奥から声を搾り出した。
「私から離れるのだ」
「えっ、なに?」
「行け! 早くこの場を立ち去れ!」
 怒鳴り声は震えていた。それは身体全身に伝わり、鴉の身体は寒さに凍えるように震えている。
「どうしたの、大丈夫? ダメだよ、ほっとけるわけないじゃん」
「行くのだ!」
「でも――きゃっ!?」
 急に動いた鴉の身体がファリスを押し倒した。
「は……やく、逃げ……ろ」
 早く逃げろと言われてもファリスの身体は地面に押しつけられ、その上には鴉が覆いかぶさっていた。鴉の行動は矛盾していた。
 ファリスはわかってしまった。苦痛に歪む鴉の口元から長く伸びた糸切り歯が覗いていたのだ。
 大きく開けられた鴉の口は今にもファリスの首筋に噛み付こうとしていた。だが、鴉の歯は大きな音を立てながら閉じられた。
 鴉はファリスの上から素早く退いて地面に屈み、自分の首を力強く握っている。指の間から幾本もの紅い筋が流れ出ている。
「治まれ!」
 大声を出した後、鴉は自分の首から手を離し、荒い呼吸を何度もした。どうにか発作は治まった。だが、まだ聖水[エイース]が足りないことには変わりなかった。
 今にも倒れそうな足つきで立ち上がった鴉はゆっくりと歩きはじめた。その足取りはおぼつかず、まっすぐ歩けていなかった。
 鴉の腕が誰かの肩に勝手に回された。この場にいるのはファリスしかいなかった。
「心配で見てられないよ」
「私に近づくな」
「ヤダ。だって、別に行くとこないし、いつ死んでもいいよ、もう……」
 この場でファリスのことを突き放さなければならなかった。だが、鴉はしなかった。
 意識の朦朧とする鴉はファリスの肩を借りながら歩いた。それが何故か心地よかった。
 二人はスラムを出ることにした。行き先はない――。

 短いスカートから覗く美脚が艶かしく見るものを誘う。
 彼女は地上[ノース]では葉月千歳と名乗っていた。
 ソファーに座る千歳は短いスカートにスーツのジャケットを素肌の上から着ており、豊満な胸の谷間には大きなダイヤのネックレスが輝いている。
 紅い液体の満たされたグラスを千歳は相手に差し出した。差し出された相手は妖艶たる美貌の持ち主で、昨晩この巨大都市エデンに堕ちて来た。その美貌の持ち主の名はゾルテ――いつか鴉の前に現れた男だった。
 キャンサー社の一室で二人は杯を交わしていた。
 グラスを受け取ったゾルテは紅い液体を口の中へと流し込んだ。
「懐かしい味だ。楽園[アクエ]では一生呑めぬ味だな」
「この街ならいくらでも上質な聖水[エイース]が手に入るわよ。特にわたしが好みなのは処女の聖水[エイース]よ」
「聖水[エイース]は聖水[エイース]だろう。味に大差などあるものか?」
「楽園[アクエ]に住む天人[ソエル]たちは本物の聖水[エイース]の味も忘れてしまったのね、可愛そうに」
 濡れた唇で妖しく微笑んだ千歳の口の中に紅い液体が流れ込んでいく。
 千歳はわざと液体を口から零すように飲み、紅い液体が胸の谷間にポタポタと滴り落ちる。
 グラスに入った聖水[エイース]を飲み干した千歳を見てゾルテは嘲笑った。
「地上[ノース]は堕落している」
「だってわたしは堕天者[ラエル]よ。それにここはそういう者たちのために造られた鳥かごだもの」
「なるほど、そのとおりだ。だからこそ私の堕天者[ラエル]となったのだ。だが、私は堕されたのではない、自らの意思でこの地上[ノース]に赴いた」
「地上[ノース]を支配するため、楽園[アクエ]でのさばる天人[ソエル]を滅ぼすため、それはつまり神への反逆」
 突然、窓の外から眩い光が差し込んで来た。差し込んできたなどと言う生易しいものではなかった。窓の外から光が襲って来たのだ。
 千歳は何事かと壁一面に広がった窓から地上を見下ろした。
 最上階である三二階――高さは約一一二メートルの一室から見渡す巨大都市エデン。高層ビルの高さは年々高さを増していき、神をも恐れぬバベルの塔を思わせる。
 人々は天まで届く巨塔を建設しようとしたのだが、神はそれを見て人間の行為は傲慢であるとして、建設が進まぬようにひとつだった言語を多くに分けて人間たちを混乱させ言葉を通じないようにした。高層ビルの建設は神への反逆ともとれるかもしれない。
 千歳は嬉しそうに笑った。
「どの位のノエルが死んだのかしらね?」
「あそこは確か……」
 千歳の横に立ったゾルテは巨大都市エデンにできたクレーターを見ていた。その場所は都市の東に位置するスラム三番街の方角だった。
 電話が鳴った。千歳はすぐに電話に出た。
 千歳のデスクに取り付けてあるモニターに女性秘書の顔を映し出される。
《スラム三番街で謎の爆発が起こり、ユニコーン社のハイデガー社長と連絡が取れなくなりました。詳しい情報が入り次第、折り返し連絡いたします》
「いいわ、連絡しなくて。それよりもクレーターの埋め立てをして、今日から歓楽街の建設をはじめて頂戴」
《承知いたしました。それでは失礼いたします》
 モニターの電源が自動的に切れた。
 ゾルテはまだ窓の外を眺めている。――そして、呟く。
「あの場所に鴉がいたのを知っているか?」
「あら、そうなの。どおりでハイデガーが派手にやったと思ったわ」
「ハイデガーが生きていると思うか?」
「さあ、わたしには関係ないことよ」
 千歳はゾルテの腰に手を回すが、ゾルテは軽くそれを払い、天のその遥か先にある何処かを見つめた。
「なるほど、この都市を影で支配するドゥ・ラエルたちに仲間意識はないか」
「大きな動きをするとヴァーツに目を付けられるわ。奴らはノエルが多少死のうが構わないみたいだけど、堕天者[ラエル]同士の衝突や反逆には厳しく目を光らせているわユニコーン社に仕事を委託したのはこのわたしだから、これ以上は首を突っ込みたくないわね」
 あの爆発からしてハイデガーと鴉が衝突したのは間違いないだろう。しかも、あの規模だ。巨大都市エデンを統括する政府組織ヴァーツが動くことは間違いなかった。
 ゾルテは不適に笑い部屋を出て行こうとした。
「ヴァーツの奴らに挨拶に行って来る」
「待ちなさい、勝手な真似はしないで頂戴! これからの計画を全て台無しにするつもり!?」
「私が堕天して来たことはすでに知れていることだ。ならば、奴らを少し煽ってやろうと思ってな」
「だから、勝手な真似はしないで!」
 ゾルテは詰め寄って来た千歳の腰を抱き寄せて口を塞いだ。
 重なり合う唇と唇を離し、何も言えなくなった千歳をこの場に残してゾルテは去って行った。
 残された千歳は髪の毛をかき上げてため息をついた。そして、すぐに自分のデスクに座りどこかに連絡をする。だが、モニターには映像は映し出されず、音声のみの連絡だ。
「わたしだけど」
《リリスか、何用だ?》
 若々しい男の声がスピーカーの奥から響いた。
「ゾルテが政府に喧嘩しに行っちゃったわ。だから、M計画を早急に進めないと政府にバレちゃうわよ」
 スピーカーの奥から失笑が微かに聞こえ、しばらく経ってから再びスピーカーの奥から声が聞こえてきた。
《強大な力を持っていようとも、所詮は長い時を楽園[アクエ]で過ごした天人[ソエル]だな。この地上[ノース]が牢獄であることを理解していないらしい》
「全くよ、長い時を費やしたM計画が台無しにする気かしら」
《それがわかっているのならば、早くルシエを止めに行け》
 ルシエとは楽園[アクエ]にいた頃のゾルテの名である。そして、リリスも同じ――それが千歳の名である。
 千歳は返事をしなかった。
《行けと行ったのが聞こえなかったのか?》
「そういうのはわたしの仕事じゃないわよ」
《わかった、ルシエについては泳がしておこう。その間に君は引き続き〈Mの巫女〉を探せ》
「了解。じゃ、またね」
 千歳は電話を切り、深いため息をついた。あの男と話しをすると疲れる。だが、全てはM計画遂行のため。
「支配者はひとりでいいのよ……」
 千歳は妖艶な笑みを浮かべるとデスクの裏に備え付けてある隠しボタンを押した。
 どこからかモーター音が聞こえ、千歳の座っていた後ろの壁がゆっくりと動きはじめた。そう、隠し部屋だ。
 千歳は薄暗い部屋の中へ足を運んだ。そこは冷たい壁で囲まれており、静かな息遣いが複数聞こえてくる。
 薄暗く、普通の人間にはよく見えないだろうが、千歳には見えていた。そこには複数の人間――年端も行かぬ少女がいた。それも皆、手錠を嵌められ、首輪から伸びた鎖は壁にしっかりと繋がれていた。
「さぁて、今日は誰を頂こうかしら?」
 千歳は品定めをはじめてひとりの少女の前に跪く。
「アナタにしましょう」
 少女の顎を持ち上げた千歳はそのまま少女の唇を奪う。少女は抵抗する素振りも見せない。もう、泣き叫んでも無駄なことを悟ってしまっているのだ。それに、もう千歳に魅了されてしまっている。
 千歳は少女の頬に舌を這わせ、そのまま首筋を舐めた。
 少女の身体が一瞬苦痛に歪み、そして恍惚とした表情へと変わっていった。
 天人[ソエル]は吸血行為[ケトゥール]を行うと同時に、相手を快楽に酔わせる〝物質〟を与えている。その〝物質〟はノエルの身体に突然変異を与えてしまう。だからこそ必要性がない限りは死を与えねばならない。
「もう、いらないわ」
 少女はまだ死んでいない。
 ビクンと少女の身体が跳ね上がり、変化がはじまった。
 腕が伸び、脚が伸び、胴体からも腕が伸びた。皮膚の色は褐色に変わり、顔についた五つの目玉が千歳を見据えた。その姿は蜘蛛と人間を掛け合わせたような姿をしていた。
 怪物の胴体から伸びた手が千歳の首を絞めようとした。しかし、その手は千歳によってもぎ取られ、大量の血が地面に吹き荒れた。
「美しくない娘[コ]は嫌いよ」
 振り上げられた千歳の手が怪物の胴体にめり込む。そして、心臓を握り締め引き抜かれた。
 血の滴る心臓を艶かしく見つめた千歳はそのままかぶり付いた。
 口から零れる血が千歳の身体を穢し、彼女は高らかに笑った。


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