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機械仕掛けの神(2) |
夕方から雨が降って来た。それは天気予報でも言っていたことなので、往来を歩く人たちは出かける前に傘を持って家を出ていた。 この街に巣食う邪気のせいか、魔導炉で造られているエネルギーのせいか、結局のところは何かわからないモノのせいで、この都市の天気予報は外れることが多い。それでも、人々は傘を持って出かける。だが、この二人は最初から傘など持っていなかった。 雨に晒された二人は少し身体を濡らし、屋根のついたバス停で雨宿りをしていた。 ベンチに座りながらファリスは横に立つ鴉を見上げた。 「どこに行くの?」 「決まっていない」 「お金持ってる」 「持っていない」 「あたしたちの居場所ってどこにもないんだね……」 少し哀しそうに言ったファリスは俯いて黙り込んだ。 ファリスは父親を知らない。母親の顔も覚えていない。ファリスにとって家族と言えたのは兄のザックだけであった。そのザックも今はいない。 今、ファリスが頼れるのは鴉しかいなかった。鴉が何者であるのかファリスは知らない。だが、手の届く場所にいたのは鴉だけだった。鴉は差し出した手をとってくれたのだろうか? 鴉の横顔は何処か遠くを眺めていた。その鴉の表情を見ているとファリスはなぜか哀しくなる。近くにいるだけで、鴉も自分の独りぼっちのような気がした。自分と鴉の距離は遠い。 近くにいたのは鴉だけだった。だが、本当に鴉は信頼できる存在なのか。あの時だってファリスは鴉に襲われそうになった。ファリスの中にある鴉への恐怖は消えることはない。 ――けれどファリスは鴉を必要としていた。 「あのね、鴉」 ファリスは鴉の横顔を見上げたが、鴉は横を向いたままだったので、ファリスは独り言のように話しはじめた。 「あいつと鴉って仲間っていうか、同じ生き物なんだね。鴉が人間じゃないのはわかってたけど、あたしの〈ホーム〉を奪ったあいつと鴉が同じ生き物だったのが、ちょっとショックだったかな……」 「……では、なぜ私に付いて来る。私の内にはハイデガーと同じ呪われた血が流れている。私がハイデガーの前に現れなければ、君の大切なものを奪わずに済んだかもしれない」 「鴉はあたしたちを守ろうとして戦ってくれたんだから……別に……鴉が、鴉が悪いわけじゃ……ない」 本当にそうだったのだろうか。鴉がいなければ、多くのモノを失わずに済んだのは事実かもしれない。けれど、鴉に悪意があったのではない。ファリスには鴉を完全に許すことはできなかった。 「私を恨むのなら恨むといい。それで君の気が晴れるのならばな」 「違う、鴉は悪くない! 悪くないんだ!」 悪くないのはわかっている。だが、ファリスは多くのものを現実に失ってしまった。その想いをどこにぶつけていいのかファリスは戸惑っているのだ。 鴉は再び遠くを眺め、ファリスもまた俯いて黙ってしまった。 やがて、バスがやって来た。何人かの人が降りて、バスを待っていた人々がバスに乗り込む。だが、二人がバスに乗ることはない。 今のバスから降りて来た人のひとりが鴉の前に立った。その人物は黒いドレス来た可愛らしい中に妖艶さを秘めた少女だった ドレス姿の少女は鴉の顔をまじまじと覗き込んだ。 「運命的って感じね」 「……いつか会ったな」 鴉は記憶の片隅に在った少女のことを思い出す。巨大都市エデンにゾルテが飛来して来た晩、鴉は彼女に出会っていた。確かトラブルシューターをしている夏凛という人物だったと思った 「アタシのこと覚えていてくれたの? チョー嬉しぃ~!」 はしゃいでいる夏凛の姿をファリスは白い目で見ていた。 「誰この人、鴉の知り合い……あ、あ、思い出した! この人雑誌で見たことあるよ」 思わずファリスは夏凛のことを指差して、大きな瞳をよりいっそう大きくした。 「お嬢さん、アタシのことをご存知なの? まあ、この街じゃあアタシのプリティぶりは有名で、ファンもいっぱいいるからね」 夏凛は可愛らしくファリスにウィンクして見せた。だが、ファリスは怪訝な顔をした。 「でも、オカマなんでしょ」 「うっ……、うるさいなぁ~可愛いんだからいいでしょ!」 そう、それは夏凛を知る者の間では広く知れ渡った話である。世間の人には女性の格好をした男として夏凛は認識されている。 雨が静まり、上空では強い風によって灰色の雲が流されていくのが見えた。 鴉はファリスに一瞬目を向けて歩き出した。 「待ってよ鴉!」 勝手に歩いて行こうとする鴉の横にすぐさまファリスが並び、夏凛も同じように鴉の横に並んだ。 「そっちのお嬢さんは鴉の連れなの?」 「勝手について来ているだけだ」 この言葉にファリスは少し顔を赤くした。 「あたしは鴉の……そう、恋人、恋人よ」 一時的に夏凛の顔が引きつり、夏凛は確認のために鴉に聞いた。 「本当?」 「知らん」 肯定でも否定でもない答えが返って来てしまった。夏凛は少し嫉妬した。こんな子供に負けたくない。 「あ、あのさぁ、ウチすぐそこなんだけど、ウチくる?」 「ねえ鴉、夏凛さんの家に行こうよ、お腹も空いちゃったし、何か食べたいなぁ」 「アナタは別に呼んでない」 夏凛はファリスを鋭い目つきで睨み付けた。だが、スラム育ちのファリスはそのくらいのことでは怯まずに睨み返す。 二人に挟まれて歩いている鴉は無表情だった。 横道が見えて来たところで鴉の腕が引っ張られた。鴉が下を見ると、自分の腕に夏凛が腕を回し強引に横の道に誘導していた。 「アタシんち、こっちだから。アナタはついてこなくていいの!」 鴉が横を見るとファリスも自分の腕に腕を回していた。 「あたしと鴉はどこに行くにも一緒なの!」 「お子様は、さっさと家に帰りなさいよ!」 悪気があって言ったわけではなかった。だが、その言葉はファリスを黙らせるのに十分な言葉であった。 急に黙ってしまったファリスを見て夏凛は不思議な顔をした。 「どうしたの?」 その口調は優しい口調に変わっていた。 ファリスは何も答えなかった。代わりに鴉が静かに口を開いた。 「彼女も一緒に君の家に行く」 「いいよ、別に。アタシの住んでるマンションは広いからいくらでも来いって感じぃ」 夏凛が鴉の腕から自分の腕を放すと、代わりにファリスは鴉の腕に絡めている自分の腕に力を入れた。 三人は無言で歩き、やがて夏凛の住まいである高級住宅街の一角にあるマンションに辿り着いた。 マンションの正面フロアには警備員が立っており、夏凛の姿を確認するや恭しく頭を下げて来た。夏凛もそれに応じて笑顔で手を振ってみせる。 夏凛がこのマンションに越して来たのは一ヶ月ほど前のことで、このマンションに越して来た理由は前に住んでいた部屋が敵に襲撃されて、近所に迷惑をかけてしまったために居づらくなってしまったので、このマンションに越して来た。 このマンションのセキュリティーは夏凛が前に住んでいたマンションより厳重であるが、夏凛は少し面倒くさいと思っていた。 警備員の見守る中で夏凛は手袋を外して、その手をディスプレーに乗せ、顔の前にある機械に空いた穴を覗き込む。すると、指紋や体温のチェック、眼球のスキャンなどがなされ、本人ということが確認されたのちに扉が開く仕組みになっている。 左右に開かれた扉の中に夏凛が入っていく。 「二人とも早く、ぼーっとしてると扉が閉まっちゃうから」 ファリスは慌てて夏凛の後を追い、鴉は軽やかな歩調でファリスに続いた。 一階のフロアは住居ではなく、ジムやコンビニなどが設置されている。マンションの外に出なくとも十分生活ができるようになっている。 高級マンションとは程遠い生活をしていたファリスは目を輝かしていた。 「スゴ~イ、なんで、マンションの中にショップがあるの!?」 「高級マンションだからねっ」 少し自慢そうに夏凛は言った。その言葉にファリスはすぐに顔を赤くして、そっぽを向いた。 「別に羨ましいわけじゃないからね、ちょっと、スゴイなぁって思っただけ」 「ふ~ん」 薄く笑う夏凛は少しファリスを見下しているようだった。こんなところで夏凛はファリスになぜか対抗意識を燃やしていた。 エレベーターに三人が乗り込むと、どんどん上がっていく。夏凛の部屋は最上階の角部屋だった。 エレベーターのドアが開かれると、そこはガラス張りの壁で、巨大都市エデンが一望できた。 地上三五階の景色は壮大であるが、交渉恐怖症の人には辛い。事実、ファリスはガラス張りの壁からなるべく離れて歩いている。 一方の壁がガラス張りになっている廊下を進み、角部屋のドアの前で夏凛の足が止まる。 「ここがアタシの部屋だよぉん」 ドアに夏凛が手を掛けると、自動認証システムにより鍵が自動的に解除され、ドアが開かれた。 部屋の中では電話が鳴っていた。 夏凛はすぐさま受話器を取り、しばらくして不機嫌な顔をして受話器を置いた。 「この近くで怪物が暴れてるらしくって、応援要請されちゃってけど……どうしようかなぁ~」 夏凛は二人の客人を見て腕組みをした。 鴉はファリスの頭を軽く撫で、黒衣を閃かせながら踵を返した。 「君はここで待っていろ。私は彼と出かけて来る」 「アタシとぉ!?」 驚いた表情を浮かべる夏凛であったが、すでに鴉は部屋の外に出ている。 夏凛はうんざりした表情でファリスを見つめた。 「テキトーに部屋で寛いでて、お腹空いたら冷蔵庫の中に入ってるもの食べて良いから。それから誰かが尋ねて来ても無視しちゃっていいからね。うんじゃ、大人しくお留守番しててね」 「えっ、え、あのさ……」 手を伸ばすファリスを尻目に夏凛は急いで部屋を出た。すると、鴉がドアを出てすぐのところに立っていた。 「早く行くぞ」 「あのさぁ、なんでわざわざアナタが行くの? アタシは今回の仕事、断る気満々だったし、別に仕事の依頼もされてないアナタが行くことないでしょ。まあ、怪物を退治したら懸賞金かなんかが貰えるけど、アナタは懸賞金目当てってわけでもなさそうだし」 鴉はなぜ戦い、何と戦っているのか? 「話は済んだか? ならば先を急ぐぞ」 「なにそれ!? アタシの質問には何一つ答えない気?」 「人間の命がかかっている、だから私は行く」 「それって正義の味方ってこと?」 「私は正義の味方ではない。強いて言うのならば悪魔だ」 鴉は不適に笑うとそれ以上は口を開かなかった。 ビルの屋上からゾルテは下界を見下ろしていた。 「いい余興が見つかった」 その言葉はビルから凄い勢いで落ち、地面に当たる寸前に跳ね上がり、その場で起きた爆発に呑まれて消えた。 車の屋根から屋根へと我が物顔でしなやかにジャンプする巨大生物。その姿は毛の長い白猫に似ているが、大きさは馬よりも大きく、猫とは言いがたい。 車の屋根が急にへこみ、中に乗っていた男が慌てて外に飛び出すが、屋根に乗っている巨大猫に驚き身動きひとつできなくなる。次の瞬間、男は叫び声をあげるが、その声は大きな口の中で鳴き止んだ。 大きな首を巨大猫が振り上げると、辺りに血飛沫が舞い、アスファルトの地面を華やかに彩った。 逃げ惑う人々を都市警察に誘導され、ほとんどいない。だが、残念なことに巨大猫の近くにいる車に乗った人々は車の中で震えることしかできなかった。今、外に出れば巻き添えを喰うだけだ。 対戦車用バズーカ砲が巨大猫に発射される。常識のない人間は街中でバズーカ砲を撃つなどとんでもないというが、大物のキメラ生物に拳銃で立ち向かうよりは常識のある行動だ。 空気を轟と鳴らすバズーカ砲を巨大猫は優雅なまでのジャンプで躱した。 跳躍する巨大猫は数多の銃弾を受けるが、その程度は傷にもならず、なったとしても驚異的な再生力で回復してしまう。 巨大猫は大きく鳴いた。それもただ鳴いただけではなかった。大きく開けられた口の中から渦巻く光が発射されたのだ。それはまるでレーザービームのように辺りを焼いた。 再び巨大猫にバズーカ砲が撃ち込まれるが、巨大猫はしなやかにジャンプして軽がると躱す。それによって後方の建物に大きな穴が空き、都民の税金がまた使われることになった。 これほどの大物のキメラとの戦闘は久しぶりで都市警察が手を焼いていると、空から誰かが舞い降りてきた。政府からの応援かと人々は思ったが、雰囲気が可笑しい。 漆黒の翼をはためかせ、風を纏い地上に降り立った美しき魔人――まさしく、それは魔王の貫禄を十分に兼ね備えている闇の王。 地上に降り立ったゾルテは自分を唖然と見ているノエルを見渡して嘲笑った。 「か弱いなノエルは、だからこそとても愛おしくも思える」 妖艶とした美しさを持つ男ゾルテが優雅な足取りで巨大猫に近づく。すると、巨大猫が腹を上に向けて喉を鳴らしはじめたではないか。 都市警察は巨大猫に銃口を向けながら息を呑んだ。威風堂々と悠然とした態度で美しきゾルテはなおも巨大猫に近づいていく。 誰もが目を見張った。ゾルテは膝を地面につき、巨大猫の首筋に噛み付いたのだ。 誰もがゾルテの行動が理解できずに頭を悩ました。だが、立ち上がったゾルテの口から血が地面に吐き出されたのを見て、ぞっとした。 口元を腕で拭ったゾルテは笑みを浮かべる。 「臭味があるな」 次の瞬間、巨大猫に異変が起こる。背中が開け黒い翼が生え、犬歯が伸び爪も伸び、巨大猫の身体は紅蓮の炎を纏い揺らめいた。 炎を纏う巨大猫――炎猫が身体を震わせると、辺り一面に炎の雨が降り注いだ。 一般人の退避は済んでいるものの、炎は街路樹を燃え上がらせ、アスファルトを焦がし、置き捨てられた車が炎上爆発する。 この場に駆けつけた鴉は小さく呟く。 「人間外のエスか、少々厄介だな」 「エスって何? ウィルスか何かの名前?」 小柄な夏凛が鴉を見上げて問うと、鴉は巨大猫の横で嗤うゾルテを指差した。 「あそこにいる翼を生やした男はソエル、人間ではない。そして、そのソエルがホストとなり、血を吸った相手を怪物にする。その怪物のことをエスという」 夏凛は少し考えた後、思いついたように手を叩いた。 「ヴァンパイアと血を吸われた人みたいなもん?」 「そういう伝説にもなっていたな」 鴉は苦笑しながら説明を続けた。 「ソエルもエスもヴァンパイアのように驚異的な再生力を持ち、弱点は身体のどこかにある核を壊すことのみ」 「十字架とか日の光とかは弱点じゃないの?」 「ソエルは日の光に弱いが、長時間日に晒されていなければ問題ないだろう」 夏凛は全身を黒衣に包まれた鴉を一瞬見てなにかを思ったが、あえてそれに関しては問うことを止めた。 腕を上げた夏凛の手にはいつの間にか現れた大鎌が握られていた。この大鎌は夏凛が別の場所に保管しておいたものをこの場に召喚[コール]したものだ。 大鎌を別空間から取り出した夏凛を見て鴉は感嘆した。 「数少ない魔導士のひとりであったのか。ならば、あの化け猫を君に任せよう」 「可愛い猫を傷める趣味はないんだけどぉ」 「私はあのソエルと話をしてくる」 黒衣を翼のようにはためかせた鴉は疾風のごとく駆けていった。 道路に置き捨てられた車の上を翔け、鴉は黒衣をはためかせた。 覇気を纏うゾルテは自然な体勢で鴉を出迎え、微笑った。 「余の敵となるか鴉?」 「どうやらそのようだ」 鴉に表情はない。かつては友であったとしても、鴉は過去を捨てられた者だ。 「余に勝てるか?」 「勝たねばならん」 「そうか……」 一瞬うつむいたゾルテはすぐに顔を上げ、戦闘の構えを取ると邪悪な笑みを浮かべた。 次の瞬間、ゾルテは地面を蹴り上げて鴉に襲いかかった。 ゾルテの右腕は〈ソード〉と化し、鴉の右手も鋭い爪と化していた。 振り下ろされた〈ソード〉は鴉の鋭い爪によって振り払われ、空かさず鴉のハイキックが繰り出される。 鴉の蹴りがゾルテに命中する瞬間、ゾルテの身体が黒い霧と化して消えた。 空気に溶けた黒い霧から声がする。 「嘆かわしい、余と肩を並べるほどの貴公が、ここまで堕ちていようとは!」 愁いを帯びた声が当たり木霊した。その声は空気を大きく振動させ、ビルの窓を割り、比較的近くにいた人々の鼓膜を破った。 黒い霧はやがてソルテをつくった。 「鴉、もしや貴公はエイースを十分に摂っていないのではないか?」 「理性を保てるだけ摂っていれば十分だ」 鴉の言葉を聞いて頷いたゾルテは武器を構え何もせずにいる人間たちを指差した。 「なるほど、それが原因であるか。エイースを飲むのだ、そうでなければ余の相手は務まらんぞ」 「断る」 「強情な奴だ。貴公に何があったというのだ? なぜエイースを拒む?」 「私に与えられし罰だ」 「無実の罪であろう」 「それでも罰は受けねばならん、それが天の意思だ」 頑なな姿勢の鴉にゾルテは憤怒した。 「それが間違っているというのだ。だからこそ、余は楽園[アクエ]を真の楽園[アクエ]とするために立ち上がったのだ」 「私は堕ちようとも神に使えるものだ」 「神などいない! そのような存在がいるのであれば、今ここで余の身体を雷で射抜いて見せよ!」 ――何も起きなかった。 ゾルテは高らかに笑い、鴉は無表情なままだった。 「はははっ、何も起きないではないか! やはり、神などいないのだ」 「神の意思は必ず遂行される、それが理だ」 「ならば、反逆者である余は必ず討ち取られるというのか?」 「そうだ」 鴉の黒衣が風もないのに、漆黒の翼のように大きく広がった 波打つ黒衣はまるで生きているようであり、その動きは呻きもがいているようにも見えた。 ゾルテの耳には叫び声が届いていた。その声は確かに鴉の黒衣から発せられている。 鴉の無表情な蒼白い顔は宇宙[ソラ]を仰いだ。 天に広がる灰色の雲。曇天が蠢き、太陽を隠してしまっている。あの厚い雲の先に楽園[アクエ]は存在する。 顔を下げた鴉の口元は笑っていた。 「還ることは許されん。これが罪と罰だ」 鴉が顔を上げたと同時に辺りに風が舞う。それが黒衣の成した業だとゾルテが知った時にすでに、彼の身体は触手のように身体に絡みつく黒衣によって捕らえられていた。 黒衣の闇に包まれ自由を奪われようともゾルテは臆することなく、笑みすら浮かべている。 「余は知っている。余を捕らえたこの〝闇〟が、嘗ては煌く〝光〟であったことを――」 「私の罪が衣を闇に変えたのだ」 ゾルテの身体を黒衣が締め上げる。だが、ゾルテの余裕に笑みは崩れることなく、鴉を見据えている。 「だから貴公は鴉と呼ばれるようになった。しかし、腑に落ちないこ――愚かなノエルどもだ」 言おうとしていた言葉を遮らせたのは帝都警察だった。黒衣に包まれたゾルテを見た帝都警察は今がチャンスと攻撃を開始したのだ。 すでに敵と認識されたゾルテに容赦ない銃弾の雨が浴びせられ、バズーカも撃ち込まれた。 煙に包まれた中から鴉の黒衣が引き戻される。煙の中にはゾルテがまだ居り、攻撃は続いていた。 黒い翼が大きく広げられると同時に煙が掻き消される。ゾルテは生きていた。傷を負ってはいるが、その傷は瞬く間に消えてしまった。あの程度の攻撃ではゾルテを倒すことは不可能なのだ。 「力の差というものを知らんのか。ノエルとはそこまで愚かな生物であるのか。嗚呼、嘆かわしいぞ、それを糧として生きていたことが嘆かわしい」 ゾルテは掌にエネルギーを集めはじめた。それは地上にも存在する魔導の一種。身体の一部に魔導力を集め銃のように解き放つ魔導だ。 人間たちにゾルテが魔導を放とうした瞬間、鴉はすぐさまゾルテを止めに地面を駆けた。しかし、間に合わない。 「止めろルシエ!」 友の名を呼ぶが、ゾルテは聞く耳を持ち合わせていなかった。 「ノエルなどいらぬ。この大地[ノース]から一掃してくれようぞ」 人間に向けられたゾルテの手が激しい光を放った。 炎を纏う巨大猫との戦闘は遠距離線を強いられていた。自らの肉体を武器にする戦闘を得意とする夏凛には不利な戦闘である。 背後からの援護射撃は巨大猫に命中するものの、その行為は巨大猫の神経を逆撫でする行為でしかなかった。 怒り狂う巨大猫は鋭い爪を夏凛に向ける。 炎を纏った猫の手は大きく振りかぶられるが、夏凛は軽やかなステップでそれを躱す。先ほどからこの繰り返しだ。新たな援護が来ない限り、状況は打開しそうもなかった。 夏凛は大鎌を構えるが、柄の長さよりも巨大猫を包む炎の方が大きい。これでは手の出しようがない。 その時だった、どこからかサイレンの音が聞こえる。ふと、その方向を見た夏凛は静かに笑う。 サイレンが止まると同時に赤い車体は止まり、中からすぐに消防士が降りてくるや長いホースを構えた。 巨大猫とじゃれ合いをしていた夏凛が素早くその場から離れると同時に、巨大な炎の塊に向けて放水が行われた。 危機感を覚えた巨大猫は逃げようとするが、その身体を包み込んでいた炎は弱まり、風前の灯となっていた。 逃がすまいと素早く動いた夏凛は大鎌を天高く振り上げて巨大猫に突き刺した。だが、巨大猫が激しく暴れ、夏凛は思わず大鎌から手を放してしまった。 鎌が突き刺さったまま逃げる巨大猫からは血が滴り、それを人間とは思えないほど瞬発力で夏凛が追い、巨大猫の鼻先に立つ。 「逃がさないよ」 夏凛の口から発せられた声は空気を凍らせ、その顔には慈悲の欠片もない。 大きく振れた夏凛の脚が巨大猫の顔面に炸裂し、巨大な身体を持っているはずの猫が大きく吹き飛ばされ、その衝撃でアスファルトの上を大きく滑った。 アスファルトに皮膚を削られた巨大猫は覚束ない足取りで立ち上がり、怒りの鳴き声を甲高くあげた。 「実力の差がわかってないのかね、この仔猫ちゃんは」 巨大猫は避ける間も与えられなかった。 舞い上がった夏凛は華麗に踵落とし巨大猫脳天に炸裂させた。 鈍い音と共に巨大猫は顎を地面に打ち付けられ、白目を剥いて地面に倒れた。 地面に倒れた〝仔猫ちゃん〟を見つめながら、夏凛ははっとした。 「きゃ~っ、こんな可愛い仔猫ちゃんに手をあげるなんてアタシとしたことが……エヘヘ」 照れ笑いを浮かべた夏凛はスカートの裾をふわりと巻き上げながら反転すると、地面に横たわる巨大猫に背を向けて歩き出そうとした。 軽やかなステップで歩いていた夏凛の足が止まる。 夏凛の背後から殺気が立ち昇る。 「まだなのぉ~!?」 驚いた顔をした夏凛が後ろを振り向いた時にはすでに、地獄の業火を纏う巨大猫が大口を開けて迫っていた。 天から飛来する白い影が槍を巨大猫の身体に突き立て、そのまま槍を巨大猫に突き刺したまま白い影は宙を舞いながら地面に降り立った。 「エスは驚異的な再生力を持っておりますゆえ、こうして核を破壊してあげなければなりませんよ」 柔らかな女性の声を発した白い影の背後で、巨大猫は灰に変わり、塵と化して風に運ばれて逝った。 呆然と立ち尽くす夏凛に白い影は恭しくお辞儀をした。 「政府組織ヴァーツに所属するフィンフと申します」 金色の流れる髪を靡かせながら、純白の衣を纏ったフィンフは地面に刺さった槍を軽々と抜いた。 細身の身体で槍を華麗に扱うフィンフを見て夏凛は顔を紅く染めた。 「アタシ夏凛っていいます、友達になってください。ケータイの番号は――」 腕に巻いた腕時計型モバイルの液晶画面に映し出された電話番号を読み上げようとする夏凛をファンフは慌てて止めた。 「あ、あの夏凛様のことは存じております。ですが、今は世間話をしている暇もありませんので、次の機会に。では――」 身体を地面から少し浮遊させたフィンフは、そのまま地面すれすれの距離を飛んだ。夏凛は誘われるままにフィンフを追った。 地面に立ったフィンフはすぐさま槍を回転させることにより、魔導で壁を作りあげて巨大な光を待ち構えた。 ゾルテの放った輝く魔導波はフィンフの構築した魔導壁によって防御された。 「危ないところでしたね」 呟くフィンフの目はすでにゾルテを見据えている。 ヴァーツたちの普段の仕事はエスと化した怪物を相手にすることなどだが、本来の仕事は地上[ノース]で問題を起こした堕天者[ラエル]たちと戦うことだった。 フィンフ、ゾルテ、鴉ともに互いを見据え動こうとしなかった。 ゾルテはゆっくりとフィンフに向かって歩き出した。 「ようやくヴァーツのご登場か。しかし、ひとりだけとは余も舐められたものよ」 ゾルテに姿はまだ遠くだが、フィンフの構える槍の切っ先はゾルテの心臓を狙っていた。 「堕天者[ラエル]などわたくしひとりで十分。鴉、貴方は動かないように。騒ぎを起こしたら貴方も処罰の対象となりますよ」 槍のグリップを強く握り直したフィンフはゾルテを睨付けながら言葉を付け加えた。 「夏凛様も手出しは無用です。戦いの邪魔となります」 ドキっとした夏凛は大鎌を背中の後ろに回して後退した。 フィンフの身体が霞む。影をその場に残してフィンフの身体は地面を滑るように移動し、対天人[ソエル]用の槍が雷のごとく走る。 常人では槍を躱すことはできない。それは並みの天人[ソエル]であっても同じことだ。しかし、彼は違う。 ゾルテを纏う覇気が物語るものが大地を震え上がらせる。 「さすがはヴァーツ、と言いたいところだが、余に速さという概念は通用せぬ」 「しまった!?」 手に相手の身体を突き刺した感触が伝わって来ない。フィンフはすぐさま槍を引き戻そうとしたが、それすら叶わなかった。 冷笑を浮かべるゾルテ。彼の手にはフィンフの槍がしっかりと握られていた。 槍を持つフィンフの身体がそのまま持ち上げられて、滑らかな曲線を描きながら地面に叩きつけられる。 凄まじいスピードであったために、フィンフは何もできずにアスファルトに身体を埋めた。 ――それは幻だった。 ヴァーツは大地[ノース]に堕ちた天人[ソエル]を管理する立場にある。ゾルテも今や堕天者[ラエル]に過ぎない。 地面に埋もれたフィンフが霞み、地面には〝痕跡〟すら残っていなかった。 槍は風の唸りをあげ、ソルテの核を狙う。 鬼の形相を浮かべるゾルテは〈ソード〉化した腕を振るう。しかし、それも幻。 〈ソード〉よって斬られたフィンフの影は霞み消え、ゾルテは遥か上空から飛来する白い影を見た。 音速を超える白い影はジェット機のような音を鳴らす。 地面が弾け飛び、破片が宙を飛び交い、砂が視界を遮る。 熱を帯びた槍先はゾルテの心臓の手前で止まり、槍を掴んだゾルテの手は焼け焦げて、彼の立つ地面はクレーターのように大きく抉られた。ゾルテはフィンフの槍を受け止めた。 ――だが、ゾルテの顔を歪んでいた。 感触は確かにある。ゾルテの掴む槍の先にはフィンフが宙に浮いた格好のまま動きを止めている。しかし、フィンフは別の場所にいるのだ。 二つの槍がゾルテの身体を左右から貫く。その槍を突き刺した人物は確かにフィンフであった。フィンフが三人いる。 身体を貫かれたゾルテであったが、最初に掴んだ槍を放すわけにはいかない。その槍は今も自分の心臓を貫こうとしている。 フィンフは静かに微笑んだ。 「あと一本です」 次の瞬間、ゾルテは背後から刺された。 腹から突き出る槍を見ながらゾルテは口から血を吐いた。 槍を握っていたゾルテの力が弱まったのをフィンフは見逃さなかった。 最後の槍がゾルテの身体を貫き、四人のフィンフは串刺しにしたゾルテを天に掲げた。 天に捧げられたゾルテの身体からは槍を伝って血が滴り落ち、地面を紅く彩っていく。 四人のフィンフは神々しいまでの笑みを浮かべた。しかし、その内面には何か恐ろしいモノが潜んでいた。 「〝わたくしたち〟は慈悲深い、殺生は好みません」 轟々と雲海が唸り声をあげた。 ゾルテは逃げることすらできなかった。普段ならば自らの身体を引き裂いてでも槍から逃れただろう。しかし、今はできなかった。 灰色に染まった天は時折雷を走らせ、誰もが息を呑んで空を見上げてしまっていた。 一際大きな雷光が幾つも天を泳いだ時、神々しい輝きとともに天に何かが現れた。それは巨大な門であった。 天に浮かぶ巨大な門を強烈な威圧感で場を萎縮させ、門の奥からはもがき苦しむ叫びが聞こえるような気がする。 無表情でゾルテとファンフの戦いを傍観していた鴉であったが、この時ばかりは目を細めて天を仰いでいた。 「〈裁きの門〉か……ルシエほどの堕天者[ラエル]ならば、相応と言える」 いつの間にか鴉の黒衣をぎゅっと握り締めていた夏凛は、天を仰ぐ鴉に息を詰まらせながら尋ねた。 「あ、あれってなに? 〈裁きの門〉って、太古の魔導書に載ってるやつ?」 「この地上が牢獄であるのならば、〈裁きの門〉の先にある世界は地獄だ」 側面的には脅えを見えていないものの、鴉の精神は〈裁きの門〉に明らかな畏怖を感じていた。そして、夏凛に内いる〝モノ〟も〈裁きの門〉に酷く脅えている。 鴉たちが見る中で、ゾルテの身体から槍が抜かれたが、ゾルテの身体は地面に落ちることなく緩やかなに天へと上がっていく。 「嫌だ、余はあそこだけにはいきたくない! 止めろ、止めてくれ!」 必死に叫び、ゾルテは身体を動かそうとするが、彼の身体は見えない鎖によって拘束され、逃れることは許されなかった。 ゾルテからはかつての覇気は消えうせていた。 重々しい音を立てながら〈裁きの門〉が口を開く。 鼻を突く死臭が冷たい風に乗って恐怖を運び、開かれた門の先には闇しかなかった。しかし、確かにその先で何かが蠢いている。 フィンフは恐怖に顔を引き攣らせたゾルテに最期の言葉を捧げた。 「いつの日か救世主[メシア]が解き放ってくれましょう」 天に昇る黒い影。 夏凛は酷い吐き気に見舞われ、足が大きく震えて地面にしゃがみ込んだ。 鴉の表情も険しかったが、彼は夏凛の身体を抱えて足早にこの場から立ち去ろうとした。 この場にいた人々が天から目を放すことも許されなくなっているなか、鴉と夏凛はゾルテが裁かれる前に逃げるように歩き出した。 天は怒り、雷光を地面に落し、人々は脅え、天に畏怖する。 一部始終を遠くから眺めていた天人[ソエル]は微笑んでいた。怒り狂う天を見ながら笑っていた。 「ゾルテが囚われるとは誤算だ。代わりを探さねばならん、やはり彼が適任か……」 この者から発せられた声は若々しく、まるで春の小川がせせらいでいるようである。それは〝リリス〟と通信をしていた時よりも柔らかな口調だった。 純白に輝く翼を持つ堕天者[ラエル]は天を仰ぎ、そして、口元を歪ませた。 彼が天を仰いでいると、白い影が近づいて来た。 「来ていたのですね、ツェーン」 「お久しぶりだねフィンフ。せっかく加勢に来たのに、貴女には必要のないことだった」 それがツェーンにとっての誤算であった。政府組織ヴァーツの中で自分が一番初めにゾルテの前に現れなければならなかった。 例え強固な城壁を築こうと、城の中に反逆者がいたのでは意味のないことだった。 最新型の電化製品を見渡しながら、ファリスはダイニングの大きなソファーに腰を下ろした。 することがない。ひとり留守番を任されてもファリスにはすることがなかった。 ファリスはソファーの上に横になりながら天井を見つめた。 「はあ……」 ため息が出た。 ソファーの感触はとてもふかふかしていて、ファリスが使っていたベッドよりも断然いいものだった。そのことでファリスは少し腹が立った。 夏凛のことは嫌いではないけど、なぜか腹が立つ。 部屋の中は静かだった。何も音がしない。それがファリスにとっては寂しく感じた。 窓の外に見える曇り雲もファリスの気持ちを憂鬱なものにする。 少しでも気分を紛らわせようと、ファリスはテーブルの上に置いてあったリモコンに手を伸ばした。 テレビの電源が入り、巨大な液晶画面に映像が映し出される。 チャンネルを適当に回し、ファリスはすぐにテレビの電源を切った。 おもしろいとかつまらないとかいう問題の前に、ファリスはすることがないのではなく、何もする気がしなかった。 テレビを消してしまうと部屋は静かな空間に戻ってしまった。 テレビリモコンの横にはオーディオ機器のリモコンもあった。ファリスはとりあえずプレイボタンを押してみる。すると、部屋中に取り付けられたスピーカーからけたたましいハードロックが流れはじめた。 ファリスはこういう曲は嫌いではなかったけど、今は耳障りにしか聞こえなかった。けれど、もう停止させるのもめんどうだった。 ゆっくりと目を閉じたファリスは全身の力を抜く。身体が重く、すごく疲れたような気がする。何もかも突然に起こりすぎた。 生まれ育った〈ホーム〉を失い、小さな家だったけど愛着のあった自分たちの家を失い、この世で一番近くにいてくれたひとも失ってしまった。 ファリスは失って困るものはないような気がした。けれど、死にたくない。別に命が惜しいわけではなく、悔しくて死ねない。自分から〈ホーム〉を奪った奴らが憎い。 しばらく目を閉じて考え事をしていたファリスは急に立ち上がった。特に何かをしようと思ったわけではない。ただ、じっとしていられなかった。 ベランダに続く窓にファリスは手を押し付けた。 空は灰色の雲に覆われ、ファリスの目で見る巨大都市エデンは倦怠な雰囲気を醸し出していた。 雷光が雲の上を走った。 激しい稲光。防音工事がされているので音は聞こえないが、だいぶ激しい雷だ。 まるで空が怒っているように連続した雷が起こり、地面に雷光が落ちる。 土砂降りの雨が降ってきた。強い風も吹き荒れ、雨粒がファリスの目の前の窓を濡らす。 出かけた二人は大丈夫だろうかと、ファリスはふと思って再びソファーに腰を下ろす。 まだ、二人は帰って来ない。 早く帰って来て欲しいとファリスは心から願った。ひとりは嫌だった。誰もいいから側にいて欲しい。 ファリスがすることもなく部屋を見渡していると、玄関の開く音が聞こえたような気がした。 二人が帰って来たと思ったファリスは逸る気持ちが抑えられず、玄関に急いで向かった。 玄関に立つ人影は一つだった。ファリスにとって見覚えのある人影。怒りが湧いてくるが、それよりも恐ろしさが優り、ファリスは身動き一つできなくなってしまった。 人影はおぞましい笑みを浮かべていた。 息を呑み込んだファリスは喉の奥から声を絞り出した。 「どうして……!?」 「ガハハハハ、どうしてだと?」 高笑いをする大柄の男はまさしくハイデガーだった。 「俺が死んだとでも思っていたのか? 重症を負いはしたが、この俺に死などあり得んのだ。わかるか、わかるか愚かなノエル!」 「なんで、ここに……!?」 きっと、自分ではなく鴉に関係あるのだろうとファリスは思った。けれど、その鴉は今ここにはいない。 足を震わせるがファリスは逃げられなかった。逃げたいという気持ちはあるが、足が動いてくれない。 巨大な手がファリスの首を掴んだ。ファリスは巨大な手を必死に振り払おうとするが、全く歯が立たない。 「は……なして……」 「どうやら鴉はいないようだな。残念だ、残念だ……。だが、それもおもしろい」 ハイデガーはファリスの身体を壁に押し飛ばした。 「げほっ、げほっ……」 床に尻をついたファリスは咳き込みながらハイデガーを睨付けた。 立ち向かっても勝ち目はない。ならば逃げるしかない。ファリスは部屋の奥に全力で走った。 必死に逃げようとするファリスとは対照的に、ハイデガーの動きはゆったりとしていた。 逃げ場は部屋の奥しか残っていなかった。しかし、それ以上の逃げ場はない。そのために、ハイデガーは余裕の笑みを浮かべてファリスとの距離を縮めていく。 後退りをするファリスの背中がガラス窓にぶつかった。後ろはベランダで、その先には巨大都市が広がっている。 ファリスの目の前で止まったハイデガー耳が微かに動き、彼は素早い動きで後ろに振り返った。 玄関のドアが開かれ、誰かが部屋の中に入って来た。 「ただいまぁ~っ。ああ、もぉ、急に降り出すんだもん、濡れちゃったよぉ」 衣服を濡らしながら歩いて来る夏凛は視線を上げた瞬間、ハイデガーと鉢合わせしてしまった。しかし、ハイデガーの視線は夏凛の後ろにある。 夏凛の横を黒い影が擦り抜けた。思わず夏凛は床に手を付いてしまったが、すぐに体制を立て直して大鎌を構えた。 黒い影はハイデガーを押し飛ばし、ファリスの真横のガラス窓をぶち破ってベランダまで飛び出した。 ガラス片が飛び散り、強風と大粒の雨が部屋の中に吹き込んでくる。 ハイデガーの上に覆い被さる鴉は硬質化させた腕を大きく振り上げ、ハイデガーの顔を抉るように力強く殴り飛ばした。 首がへし曲がり、血反吐を鴉に向かって吐き捨てたハイデガーは、鴉の身体を掴んで柔道の投げ技のようにベランダの柵ごと空へと投げ飛ばした。 空に投げ飛ばされた翼をもがれた堕天者[ラエル]は黒衣を大きく広げ、地上に落下していく。 ゆっくりと立ち上がるハイデガーに夏凛は大鎌を振り上げた。 大鎌がハイデガーの胸を抉る。血が滲み、床に紅い雫が滴り落ちる。だが、ハイデガーは薄く笑いながら夏凛との距離を縮めて来る。 「下賎なノエルが俺に勝てると思っているのか!」 「う~ん、勝てないね」 あっさりと認める夏凛の表情はにこやかだが、内心は非常に焦っていた。 勝てないと認めたのは真実だ。 夏凛は部屋の隅で震えているファリスをちらっと見た。自分ひとりならば逃げられるかもしれない、だが……。 悪魔と天使が夏凛の耳元で激しい論争をはじめる。 悪魔は夏凛に逃げることを推奨する。天使も逃げることを推奨していた。そして、夏凛は決断を下した。 「生きるが勝ち!」 夏凛は玄関に向かって失踪した。 足音が激しく床を揺らす。夏凛は焦りの表情を浮かべながら背中越しに後ろを見た。 「マジっ!?」 ハイデガーが追って来るではないか! 玄関は近い。玄関を出れば少しは状況がよくなるかもしれない。 夏凛の手がドアノブに伸びる。だが――。 玄関がぶち壊せれて、飛んで来るドアの直撃を受けた夏凛の身体が大きく飛び、ハイデガーを巻き込んで夏凛は床に倒れた。 黒い影が床に寝転がる夏凛の上を飛び越し、ハイデガーの上に飛び掛った。 ずぶ濡れになった黒衣から水を滴らせ、鴉は鋭い爪を振り上げる。 水飛沫が煌き、爪はハイデガーの心臓を狙っていた。 ハイデガーが嘲笑う。 天人[ソエル]が持つ特殊能力――組織構造変質能力[コーズエンシー]。 変化が生じた。ハイデガーの両腕が二丁の銃へと変貌し、すぐに銃口から魔導弾が発射された。 黒衣が鴉の身体を包み込もうとするが、間に合う筈もなかった。 胸を貫かれた鴉は後方によろめき、その胸には拳大の穴が二つ空いていた。あと少しずれていたら心臓を貫かれていたに違いない。 ハイデガーの表情が急に強張った。彼は耳につけていた超小型通信機からの声に畏怖したのだ。鴉への復讐という私情でここにやって来たが、事情は変えられた。 うずくまる鴉の身体を持ち上げたハイデガーはにやりと笑うと、鴉の胸に手を突き入れて何かを取り出した。 鴉の身体から取り出されたそれは紅く輝く宝玉に似ており、心臓のような鼓動を脈打っていた。紅い宝玉、それが〝核〟と呼ばれているものだった。 無造作に鴉を床に投げ捨てたハイデガーは、核をひと呑みにして胃の中に納めた。 軽くゲップをしたハイデガーは地面に転がって動かなくなっている鴉を見下した。 鴉の身体が枯れていく。それを見た夏凛はその場を動けずに、そこで起こった現象を凝視してしまった。 萎みいく鴉の身体は黒い塊と化し、灰と化し、塵と化し、消滅した。 鴉が消滅してしまったのを見て、夏凛は頭を抱えながら床に倒れ込んだ。 「……絶体絶命だね」 翼を背中に生やしたハイデガーは夏凛を一瞥したあと、何も言わずにベランダの窓から外へと羽ばたいていった。 ふらふらと歩いて来たファリスは床に溜まった黒い塵を見つめた。声は出なかった。何が起きたのか見ていなかったが、そこにある塵が鴉だったものだということを感覚的に悟った。 ため息をついた夏凛は立ち尽くすファリスを見上げてすぐに視線を下げた。 「たぶん死んだね。鴉は死んだ……、そう、死んだよ」 「うそ、うそだよそんなの! そんなの……」 死ぬはずがない、ファリスは信じられなかった。鴉は人間ではなかった――それを知るファリスは鴉が死なない生き物だと信じていた。しかし、それには根拠がない。死んで欲しくないから、死なないと信じていた。 壊れた玄関から武装した数人の警備員が駆け込んで来た。 床に溜まった塵が踏み荒らされ、ファリスは心から叫んだ。 「止めてよ!」 警備員たちはファリスに銃口を突き付けた。 銃口を突き付けられながら、ファリスは警備員を上目遣いで睨んだ。それを見た夏凛はファリスと同じく銃口を突き付けられながら、手を上げて吐き捨てるように言った。 「もう全部終わったから、帰ってくれないかな? いちよーここ、アタシんちなんだけど?」 二人に向けられていた銃口は下げられはしたが、警備員たちが帰るようすはなく、夏凛は言葉を続けた。 「玄関はぶっ壊れちゃったけど、何もなかったから。被害届も出てないのに捜査を開始するほど、ヒマじゃないと思うし、キミたちも慈善活動がしたいわけじゃないでしょ?」 夏凛の顔は多くの人に知れ渡っている。そのためか警備員たちは去って行った。しかしながら、後に通達か何かがあって、このマンションを追い出されるのだろうなと夏凛は心の中でごちた。 立ち上がった夏凛はファリスの肩に手を回して無言で部屋の奥に導いた。 三日以内に部屋を出て行くように連絡を受けた夏凛は、ため息をついてファリスが座る向かい側のソファーに腰を下ろした。 「引っ越して来て三ヶ月も経ってないのに……。別にね、鴉とファリスのせいだとは思ってないけどね、仕事が仕事だから部屋貸してくれるところが少なくて、しかも、襲撃を受けて部屋を追い出せれるのってこれで六回目だから、大きなマンションとかは、もういい加減部屋を貸してくれないかもしれないんだよねぇ~」 「マンションじゃなくたっていいじゃん、住もうと思えば路上にだって住めるよ」 「アタシに浮浪者になれっていうの!?」 「あたしは浮浪者じゃなかったけど、〈ホーム〉育ちだから路上でも生きていけると思う」 夏凛は頬杖を突きながらファリスをじっと眺めて呟いた。 「ふ~ん、どーりで品の乏しいお嬢さんだと思った」 「どうせあたしは下品だよーだ!」 「別に下品とかじゃなくてさ、髪の毛ボサボサとか、着てる服とか汚いし、ああ、それを下品っていうのか」 そう言って夏凛は悪戯な笑みを浮かべた。 ファリスは顔を膨らませて、近くにあったクッションを夏凛に投げつけた。夏凛は造作なくクッションを受け止め、ファリスに投げるフリをして横に放り投げた。 「アタシはクッションを投げつけるような下品なまねはしないの」 「下品下品って、あたしだってあなたみたいにお金持ちだったら上品に振舞えるよ!」 「たしかに貧乏なせいもあるかもね。でもね、アタシは自分の力でここまで稼いだの、わかる?」 「スラム育ちは安い給料でしか働かせてもらえないの!」 「言ってなかったけ? アタシの仕事はトラブルシューターなんだけど、スラム育ちでも有名なトラブルシューターはいくらでもいるよ。ヤル気さえあれば、アナタだって大金持ちになれるってこと、ただ、それなりの覚悟がいるけどね」 トラブルシューターの仕事は多種多様に渡り、トラブルシューターによって引き受ける仕事も違う。夏凛の引き受ける仕事は命がけの仕事が多い。だからこそ、夏凛は高級マンションに住むことができるのだ。 ファリスは夏凛の言葉を受けて少し考え込み、真剣な顔をして言った。 「じゃあ、弟子にしてよ」 「はぁ!?」 「あたしトラブルシューターになるって決めたから、だから弟子にして」 「アタシがトラブルシューターで一流になれたのは特別な理由があるから。それは人に教えてあげられるものじゃないから、弟子になるなら他の人に頼んだ方がいいよ」 夏凛は自分ひとりの力でトラブルシューターになったのではなかった。〝彼女〟は特別なのだ。 「じゃあ、家事手伝いでいいから雇って」 ファリスはトラブルシューターになる気でいた。だから、せっかく見つけたトラブルシューターを逃がしたくなかった。夏凛の側にいれさえすればチャンスはある。 「アナタを雇うくらいなら、自動人形[オートマタ]を買うね。そんなことよりも、〈ホーム〉に帰ったら?」 「あたしの住んでた〈ホーム〉はなくなちゃった」 「まさか、スラム三番街の住民だったの!?」 スラム三番街でのニュースは夏凛の耳にも届いていた。 「だから帰る場所がないの……」 「しょ~がないなぁ、弟子はダメだけど、住み込みの家事手伝いで雇ってあげる」 「ホントに!?」 ソファーから身を乗り出したファリスは飛び跳ねて喜びを表現した。 しかし、夏凛は少し困った表情をしている。そもそも彼は家事手伝いなどを必要としていなかった。 「でもね、別にアナタの仕事ってないんだよね。食事は出前か外で済ますし……」 「じゃあ部屋の掃除は?」 「掃除はアタシの趣味。言ってなかったけど、アタシ、トラブルシューターの副業で清掃員もしてるんだよね」 別にお金に困っているわけではない。清掃員をするのは本当に彼の趣味だからだ。 仕事がないと言われてファリスは少し困った表情をする。仕事がなければ夏凛が傍に置いてくれる理由もなくなるし、それでも夏凛がいてもいいと言われたとしても嫌だ。何もせずに人に養ってもらう気はファリスにはなかった。 「じゃあ、あたし、何すればいいの?」 「だ~か~ら~、今考え中」 「だったらやっぱり夏凛のアシスタントになる」 つまりそれは弟子にしろということである。 「それも考慮には入れておく。アナタの仕事内容については明日までに考えておく。それよりも――」 と言った夏凛はファリスを指差して、そのまま話を続ける。 「まず、その服をどうにかする。そうだなぁ、今から買い物して、そのまま外で夕食で決定。アタシの決定は絶対だからね」 「服代は?」 「アタシが出すに決まってるでしょ。まあ、でも返す気があるなら、将来返して」 将来返すという言葉を聞いて、ファリスの頭にあることが過ぎった。 「お金はあとで払うから、あたしの依頼を受けて」 「…………はぁ!?」 まさか突然そのようなことを言われるとは思わず、夏凛は驚きの表情をした。 ファリスは夏凛に詰め寄って、真剣な眼差しで見つめた。 「だから、夏凛はトラブルシューターで、あたしは依頼人」 「アナタお金ないでしょ」 「将来返すから」 「そーゆー不確定なことは信じない。アタシはチョー一流だから高いし、アナタが本当にお金を返せるとは限らない」 「だって、さっきは服の代金はあとでいいって!」 「それとこれは問題が別。さっきの服とか食事の代金は雇い主として、住み込みで働くアタナに施さなきゃいけない義務、そう義務だから」 夏凛はファリスに説明しながら、自分にも説明をしながら話していた。つまり、それは言い訳だった。 ファリスは夏凛の眼前まで迫って押し倒しそうな勢いだった。 「あたしの〈ホーム〉を奪って、鴉まで殺したあいつを殺して!」 「ちょっと待って今なんて言ったの……やっぱり言わなくてもいいから黙っていて」 腕組みをして考え事をしはじめた夏凛は宙を仰いで何かを思い出そうとしていた。 鴉を殺したのはあの男だった。そして、その男がファリスの〈ホーム〉を奪った。夏凛にはあの男の顔に見覚えがあったのだ。 「そうだ、あの男、ユニコーン社の社長のハイデガー!? あの地区の開発事業をしようとしていたのはキャンサー社で、住民の排除を委託されたのがユニコーン社。なるほどね、ユニコーンの社長さんがアタシんちに不法侵入したうえに、部屋を荒らしてくれちゃったわけね」 不適な笑みを浮かべた夏凛はファリスを見つめた。 夏凛は自分に害を及ぼした者に容赦しない。それに加えて相手が大物とあれば反発心がよりいっそう高まる。それに相手が大物であれば思わぬ金が自分に舞い込むことがある。 ファリスが夏凛の顔を覗き込む。 「依頼受けてくれるの?」 「考えておく」 この時すでに夏凛は事件に首を突っ込む気でいた。 ソファーから立ち上がって歩き出した夏凛は途中で振り返った。 「雨に濡れたからシャワー浴びて着替えてくる。ファリスもアタシと一緒にお風呂入る?」 「なにバカなこと言ってるの!? あなた男でしょ?」 「今はね……。じゃ、アタシがシャワーから出たらすぐに出かけるからね」 そう言って夏凛はバスルームに姿を消した。 ファリスは夏凛の『今はね……』という言葉が頭に引っかかった。見た目も声も夏凛は女性だが、世間一般には男として通っている。だが、ファリスは夏凛の裸姿を見たわけではないのでなんとも言えなかった。もしかしたら夏凛は女性なのかもしれないとファリスは思ったが、ではなぜ世間では男と言われ、夏凛の言った『今は……』の意味はどういうことだろうか? 結局考えが導き出せず、ファリスは再びソファーに腰を下ろして他の考え事をはじめる。 夏凛が自分に見せた不敵な笑みの裏には何かがきっとある。自分の依頼を受けてくれなくても、夏凛が事件について何らかの動きを見せることは確信できた。ファリスはそう思うと少しだけ希望が見えたような気がした。 しかし、まだまだだ。〈ホーム〉を奪った奴ら、そして、あのハイデガーに復讐しなくてはファリスの気はすまない。 ファリスの心に渦巻く感情は悲しみよりも怒りの方が勝っていた。ここままハイデガーを放って置いては誰も何もしてくれないだろう。ならば、自分で復讐をするとファリスは誓った。 今のファリスにできることは少ない。けれど焦る必要はない。時間をかけて復讐をすればいい。焦って犬死はしたくない。 ファリスは命を賭けても構わないと思っているが、自分だけが倒れるのは絶対に嫌だと思っているのだ 〈ホーム〉で亡くなった人たちに想いを馳せて、復讐の念を募らせるファリスの脳裏に鴉が浮かんだ。鴉は不器用な性格だったように思えるが、決して冷たい人ではなかった。 床に積もった塵が鴉であることはすぐに悟った。しかし、ファリスはまだ鴉が死んだとは思えなかった。どこかで生きているような気がする。 〈裁きの門〉が呼んだ豪雨は深夜まで降り注ぎ、明日も一日雨が降り続くだろうと天気予報でいっている。 「雨の中、わざわざ集まってくれてありがとう」 千歳はそう言いながら楕円形のテーブルに座る者を見渡して言葉を続けた。 「とは言っても、集まってくれたのはわたしを含めて三人。集まったとは言っても、ルシエルは相変わらず中継で参加、三人が欠席、欠員がひとつ。まったく、ドゥ・ラエルが聞いて呆れるわね」 実際にこの会議室にいるのは千歳とハイデガーだけであった。 「ガハハハ、俺がいれば他の奴らなどいらんだろう」 ハイデガーは上機嫌であった。 堕天者[ラエル]の中にも地位というものがあり、その地位は楽園[アクエ]にいた頃の地位が繁栄されることが多いのだが、地上[ノース]では楽園[アクエ]とは違い、その地位の変動が激しい。堕天者[ラエル]の中でも地位が高い者たちはドゥ・ラエルと呼ばれるが、その中にも上下関係がある。 七人の堕天者[ラエル]が同盟を組んだアンチ・クロス。その中でのハイデガーの地位は下であったが、今回の働きを考えると地位が上がる可能性は高い。しかし、千歳はそれが気に食わない。 「あの鴉を捕まえたことは認めるけど、スラム三番街を消失させた責任はとってもらうわよ」 「責任だと? どうせあそこは更地にする予定だったのだろう。手間が省けていいではなか」 「ふざけないでよ、あんな大事件起こしておいて、後の処理がどれだけ大変か考えてみなさいよ。あの事件のせいで当分の間ヴァーツに目を付けられてしまったじゃない!」 「ヴァーツに目を付けられているのはいつものことだろう!」 互いを睨みつける千歳とハイデガーの間にスピーカーからの声が割って入った。 《二人とも止めろ。スラム三番街で事件を起こしたことは問題だが、鴉を捕らえたことは功績が大きい》 千歳とハイデガーはモニターに映る顔を見て、すぐに興奮を抑えて沈黙した。 モニター越しに会議に出席しているのはツェーン――ここではルシエルと呼ばれていた。 ハイデガーが鴉を捕らえた功績は大きい。しかし、千歳には反論があった。 「そもそも、ルシエルがゾルテを止めていれば鴉を代用にする必要はなかったのではないの? あなたが自分で行くと言ったのをお忘れかしら?」 《他のヴァーツが先にゾルテを見つけたうえに、〈裁きの門〉を開けられてしまっては余にできることはない》 千歳は『そんなのは言い訳にしか聞こえないわ』と言ってやりたかったが、そこまで口にする力はなかった。アンチ・クロスで最も地位が高い者――それがルシエルであった。 ルシエルはアンチ・クロスの創設者メンバーであり、当初のメンバーで今も残っているのはルシエルと千歳だけである。そのため自然とルシエルと千歳の地位は高くなるのだが、千歳の前に聳え立つルシエルという壁は異常なまでに高い壁であった。 唇を少し噛み締めた千歳はハイデガーに顔を向けた。 「三番街のことは忘れてあげるわ。それよりも鴉はどうなったの?」 ハイデガーの代わりに答えたのはルシエルであった。 《鴉は余の研究所で核のまま捕らえてある。〈Mの巫女〉が見つかるまでは核のままでいてもらうことにする。リリス、〈Mの巫女〉の選定は終わったのか?》 「〈Mの巫女〉は見つかったわ、けれど、所在が掴めないのよね。その〈Mの巫女〉がスラム三番街にいたらしいから困っているのよ。もしかしたら、死んでるかもね」 そう言って千歳はハイデガーを睨みつけた。だが、ハイデガーも負けじと睨み返す。 「おまえが俺に仕事を委託したのだろう!」 「更地にしろって誰が頼んだのよ!」 千歳とハイデガーは自分の席を立ち上がって、互いを殴りかかりそうな勢いであったが、スピーカーから聴こえた咳払いによって二人は拳を握り締めながら席に座った。 《〈Mの巫女〉が死んだと決まったわけではない。それで、〈Mの巫女〉はどのような人物だった?》 ルシエルに問われた千歳はすぐさまコンピューターを操作して、3Dホログラム映像でひとりの少女を映し出した。 会議テーブルの上に投影された少女の映像を見たハイデガーが思わず声を張り上げた。 「この娘、この娘、見たことがあるぞ! 俺が鴉を捕らえた時に一緒にいた娘だ!」 「なんですって!?」 偶然にも〈Mの巫女〉が見つかった驚きもあるが、それよりもハイデガーに手柄を取られたという落胆の方が大きく、千歳は肩を落して椅子に深くもたれかかった。そこに追い討ちをかけるルシエルの言葉が続く。 《ならば、〈Mの巫女〉の件はハイデガーに任せるとしよう》 「ちょっと待ってよ、それはわたしの仕事――」 再び席を立った千歳の言葉をルシエルは遮る。 《リリスには〈アルファ〉の調整を行ってもらう。異存はないな?》 「あるわよ、〈アルファ〉の調整はとっくに終わってるじゃない!?」 声を荒げる千歳を見てハイデガーが声を押し殺してクツクツと笑っている。 画面に映し出される映像とともにルシエルの声には表情がなかった。 《〈Mの巫女〉の剣であり盾である〈Mの騎士〉がゾルテから鴉へと代わったのだ。〈アルファ〉を起動させるにはそれなりの整備が必要だろう》 巨大都市エデンの地下に眠る巨大コンピューター〈アルファ〉。巨大コンピューターと言っても、実際は巨大なヒト型をした兵器――いや、神を模った兵器である。〈アルファ〉とはアンチ・クロスは長い年月をかけて創り上げた人工の神なのだ。 〈アルファ〉を完全体にするためには〈Mの巫女〉と〈Mの騎士〉と呼ばれる存在が必要であった。しかし、そのことについてハイデガーには気がかりなことがあった。 「ゾルテから鴉に〈Mの騎士〉が代わっても不具合はないのか? 今の鴉が以前の力を持っていないことは戦った俺が知っている。あれは違う、違う存在であったぞ。まさに輝きを失った鴉であった」 《問題ない。鴉は余に匹敵するやもしれん存在。〈Mの巫女〉は〈アルファ〉の生贄である制御装置、〈Mの騎士〉は〈アルファ〉の動力源となる――鴉にはその器がある。〈Mの巫女〉には特殊な遺伝子構造を持つ者が求められるが、〈Mの騎士〉は〈アルファ〉を動かせるだけの強大な力を持つ者ならば誰でもよい。何も問題なく事は進んでいる、二人は自分に与えられている使命を果たせばいい》 いつからこのようになったのかと千歳は思う。いつから自分はルシエルに命じられてしまう立場になったのか。楽園[アクエ]での地位は確かにルシエルの方が上であったが……、これでは対等の同盟関係とは言えないではないか。 千歳は深く息を吐いて、『……まだだ』と心の中で呟いた。 「堕天者[ラエル]が会議をしても碌な会議にならないことはわかっていたわ――いつものことだもの。今日はお開きにしましょう、お疲れ様」 会議テーブルに片手をついて、千歳は俯いたままもう片方の手で出口を指し示した。 ルシエルの通信は切られ、ハイデガーも会議室を後にして行った。 残された千歳は俯いたまま唇を噛み締めている。身体が振るえ、怒りが込み上げて来る。自分はまだルシエルの掌の上で踊らされている。そのことが彼女のプライドを酷く傷つけていた。 身体が火照るように熱い。聖水[エイース]を欲している。怒りが渇欲に変わり、欲情に変わる。 千歳は舌なめずりをして急いで部屋を出た。 深夜のスコーピオン社には人は居らず、深々としている廊下はほとんど暗闇に近いほどの明かりしか点っていない。 近くに人でも歩いていればすぐにでも吸血行為[ケトゥール]を行いたい。そう思うと千歳の身体は発作によって震えた。 廊下の奥からライトの光が千歳を照らした。 千歳にライトを照らしたまま近づいて来る人影は警備員のものだった。 「社長? こんな夜遅くにどうしたのですか?」 「これで我慢してあげるわ」 千歳は女性の聖水[エイース]を好んで呑む。だが、目の前に立っているのは男。それでも千歳の手は動いていた。 長く伸びた爪が太い首を締め上げ、男は声をあげる間もなく首をへし折られた。 千歳は無我夢中で男の首に噛み付き、肉を喰い千切りながら大量の血を喉に流し込んだ。 口から零れる紅い雫を舌で舐めた千歳は徐々に精神を落ち着かせていった。 床に転がる男はエスに変異して怪物になることはない。もう、すでに息を引き取っているからだ。 甘い吐息を漏らした千歳は再び歩き出し、隠しエレベーターのある場所まで向かった。 エレベーターは社長室の中にあり、デスクに隠されたボタンを押すことによって壁の中から現れる。 隠しエレベーターは地下に降り、一瞬止まったかと思うと横に移動する。この時のエレベーターの速度は時速一〇〇キロメートルを超えて移動している。 キャンサー社ビルが建つ敷地内からはすでに出ていると思われる。いったいどこに向かっているのだろうか? エレベーターは緩やかに速度を下げて、やがて止まるとドアを左右に開いた。 巨大な格納庫のような場所。 千歳の足音が反響する金属やコンクリートでできた床。 どこからか微かにモーターが回転するような音が聴こえて来る。 千歳の足が止まった。 ゆっくりと首を上げる千歳の視線の先にはライトアップされた巨大な何かがあった。それは巨大なヒト型をしたロボットであった。 ヒト型と言っても、顔や手足や胴といった部位があり、二本足で立っているだけで、その姿は人間には似ても似つかなかった。これがスーパーコンピューター〈アルファ〉だ。 〈アルファ〉のボディには曲線が少なく、塗装も施されておらず灰色をしている。ただ、所々に向けられる血管が浮き出たような模様からは蒼白い光が淡く輝いている。 〈アルファ〉を見上げる千歳の口が綻ぶ。 「これはわたしの物……。そして、これを使ってわたしが王になるのよ」 千歳の静かな笑いが格納庫の中に響き渡った。 エデン総合掲示板【別窓】 |
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