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機械仕掛けの神(3) |
壁は金属で頑丈に造られ、薄暗い部屋の中には大きなガラス管がいくつも置いてある。そのガラス管の中にはキメラ生物たちが入れられ、時折口や鼻から泡を吐いている。 キメラ生物は毛のない猿のようなものやアメーバのようなもの、角のある犬のような生物もいたが、その中のひとつはまるで宝石のようであった。 紅く輝くそれは弱々しく脈打ち生きている。それは鴉の核であった。 核こそが鴉であり、核の内に鴉という存在がいると言ってもいい。 激しく核が脈打った。鴉の内で何かが起こっている。 鴉は自分自身の中に封じられている。彼はそこから無意識の内に出ようとしていた。 意識は朦朧としている。辺りは暗闇に包まれ、五感は頼りにならなかった。 鴉が目を開けるとそこは花畑だった。辺り一面に咲き誇る花は蒼くきらきらと氷の結晶のように輝いている。 蒼い花が風に揺られ、いくつもの鈴の音が鳴り響く。 地平線まで続く花畑の真ん中で、鴉は空を見上げた。空は海中から見た水面のように揺らめき、その先には何かがあるが、揺ら揺らと動く空のせいでよく見ることができない。 空に黒い幕が下り、強風が吹き荒れる中で蒼い花が紅い花に変わった。 紅い花びらは天に舞い上がり、世界を燃やす。 突然鴉の身体が天に引きずられた。堕ちている、鴉は天に向かって堕ちていた。 天地が逆さまになり、鴉の身体は闇となった天に堕ちようとしていた。 鴉は翼を広げようとしたが、彼には翼がない。 翼を失った天人[ラエル]は堕ちることしかできなかった。 闇が徐々に近づいて来るにつれて、それが蠢いていることがわかり、それが蛭のような無脊椎動物の群れであることがわかってきた。あそこに堕ちれば苦しみの末に全てを失うだろう。 鴉が気づくと、彼の身体は見えない鎖によって繋がれていた。迷いの中に生まれた魔物がその鎖を掴み、闇の中に鴉を引きずり込もうとしている。 頭上にある地に鴉は手を伸ばしたが、誰も彼を救ってはくれなかった。 闇の中に鴉が堕ちた。それはまるで泥の中に飛び込むような感触で、闇が鴉の身体にべとべと纏わり憑いてくる。 心理に巣食う檻に鴉は捕らえられてしまった。 蛭のような闇たちが鴉に喰い付き、鴉の肉を剥いで内へと進入する。 酷い苦痛で鴉は思わず叫び声をあげた。しかし、声が出ない。 闇が貪り喰われながら、鴉は手を伸ばした。 鴉の伸ばす手の先からは、白い羽根がいくつも揺ら揺らと降って来る。 白い羽は暗闇の淵に捕らえられた鴉の頭上から、いくつもいくつも降り注ぎ、鴉の周りにいる闇たちを溶かしていく。しかし、溶かしていくのは闇だけではなかった 白い羽根が鴉の身体に触れるたび、鴉の身体は焼け爛れていく。 焼け爛れた肌は腐臭をあげて腐っていく。 鴉の腐った背中から黒い翼が生え、それは大きく広がって鴉の身体を包み込んだ。 黒い翼は鴉のことを白い羽から守った。しかし、黒い翼は翼ではなく、黒衣であった。 辺りに風を巻き起こしながら鴉が黒衣を広げた。 鴉の髪は風に遊ばれ、その風に運ばれた香が花をくすぐる。 天は眩く輝き、色取り取りの花が咲き誇り、小川の近くでは白い翼を生やした者たちが神に贈る詩を謳っていた。そこは楽園の名に相応しい場所のように思えた。 黒衣を広げた鴉が見た光景は夢幻の世界。遠い過去に見た光景であった。 鴉が眺める視線の先で誰かが会話をしている。 「わたくしは信じております」 そう言って白い衣を纏った女性が小川の辺に座る男性に声をかけた。 男性はゆっくりと女性の方を振り向いて微笑んで見せた。その顔は類稀なる美しさを持ち、天で最も輝ける者の称号も持っていた。その称号に相応しく、彼の持つ羽は黄金色に輝き、見る者を魅了する力を秘めていた。 「そのことについては明日にならねばわからぬ。全ての判断は審問会によって下される」 「もし、それで地上[ノース]に堕とされることになったら、わたくしは……」 「恐らく私は処罰を下され、地上[ノース]に堕ちることになるだろう」 「ですが貴方は何もしていない!」 「それでも私は神の意思に従うのみ。それに私は何もしていないわけではない。いや、何もできなかったことが罪だ」 女性は黙り込み、涙を流しながら羽ばたいて行ってしまった。 残さされた男性は小川のせせらぎに耳を傾けながら、ゆっくりと目を瞑った。 遠くから眺めていた鴉の胸はきつく締め上げられ、彼の心は哀しみに溺れた。 鴉の頬を滑り落ちた雫は天の光を受けて輝き、雫の落ちた地面は水面のように哀しく揺れた。 世界が液体と化し、鴉はこの世界から解き放たれた。 弾け飛ぶガラス片は砂のように宙を漂い煌き、床に放り出された紅い核は脈打つ。 紅い核が細胞分裂をはじめ、ぶよぶよと細胞が膨れ上がり肉体を構成していく。やがてそれはヒトの形を形成し、類稀なる美しい顔はまさに鴉のものであった。 生まれたままの姿でそこに立ち尽くす鴉。長い黒髪を靡かせ、引き締まった筋肉は決してゴツゴツとした感じではなく、美しくスリムであった。 鴉の身体が一瞬脈打ち、彼の背中から黒い翼が生え、それは黒衣に変わり鴉の身体を包み込んだ。 鴉は翼を失う代わりに黒衣を得た。黒衣は鴉の身体の一部であり、矛であり、盾である。しかし、それを捨てることはできない。鴉が黒衣を纏うのは彼に課せられた罰であり、呪いなのだ。 鴉は辺りを見回し、ここがキメラ生物の研究所らしき場所だということは理解したが、それ以上のことはわからなかった。 疾風の如く走った鴉は金属のドアを蹴り破り廊下に出ると、そこはけたたましいサイレン音とともに赤いランプが点滅を繰り返していた。 金属でできた廊下に金属を叩き付けた音が大量に鳴り響いた。 全長五〇センチほどの蜘蛛型ロボットの群れが川の流れのように鴉に向かって来る。 蜘蛛型ロボットは床だけでなく、壁や天井を歩き、まるで建物が蠢いているよう見えた。 鴉は蜘蛛型ロボットに背を向けて走り出した。廊下は一本道で逃げ場は一方しかなかったのだ。 蜘蛛型ロボットとの距離を離し走る鴉の前に、白いボディを持つロボットが立ち塞がった。 ロボットの足はキャタピラ型で、腰にあたる部分から上はヒト型になっている。そして、一方の腕は銃器となっていた。 建物のことなど関係なしにロボットから銃が乱射される。鴉はそれを躱しつつ、硬質化させた手でロボットの顔面を殴りつけた。 顔面を破壊されつつもロボットは巨大な手で鴉の胴を掴み、残った腕から銃を乱射させて鴉の身体を蜂の巣にしようとした。しかし、鴉は自分を掴んでいる腕をへし折って逃げると、その腕をロボットに目掛けて投げつけた。 投げつけられたアーム部分はロボットのボディをへこませはしたが、ロボットの動作性にはなんら問題はない。 ロボットの背中から巨大なバズーカ砲が出てきて、轟音を立てながらバズーカ砲は鴉に向かって発射された。 黒衣が鴉を包み守る。 金属の通路が黒くくすみ、黒衣を広げた鴉は瞬時にロボットに爪を向けた。 鋭い爪が何度も何度もロボットの身体を貫通し、火花を撒き散らしながらシュートしたロボットは動きを止めた。しかし、鴉に脅威が迫る。 蜘蛛型ロボットの群れが鴉にいっせいに飛び掛った。 群れを成す蜘蛛型ロボットは鴉に噛み付き肉を剥ぐ。黒衣が徐々にどす黒く染まっていく。 鴉は表情ひとつ変えず素早く回転し、広がった黒衣は大きな鎌へと変わり、蜘蛛型ロボットが薙ぎ払われる。 蜘蛛型ロボットは地面に転がりショートするが、壁一面には蠢く群れは鴉を狙っている。 計ったように蜘蛛型ロボットがいっせいに鴉に飛び掛る。地面を蹴り上げた鴉は廊下の奥へと走って逃げる。 金属を鳴らしながら群れが鴉を追って来る。 走っていた鴉の脚が後ろに引きずられ、片腕が大きく後ろに引かれる。鴉の四肢は蜘蛛型ロボットから吐き出された糸によって捕らえられていた。 鴉は腕に力を入れ、強引に巻きついた糸を引き破ると、すぐに手を硬質化して脚に絡みついた糸を断ち切った。 再び鴉に向かって糸が吐き出される。鴉は床を転がり避けると、再び立ち上がって走った。 蜘蛛型ロボットとの距離は広がっていくが、鴉の足が急に止まってしまった。 鴉の前に立ちはだかる壁。後ろからは蜘蛛型ロボットが迫ってくる。そして、右手にはドアがあるが、鴉の目に入ったのは左手にあったダストシュートであった。 ダストシュートの蓋を開けた鴉は、その中に勢いよく飛び込んだ。 滑り台のような坂を滑り降りた鴉は瓦礫の山に降り立ち辺りを見回す。 金属片やプラスチック、薬品の入ったビンなどが分別されずに捨てられている。効率を優先されたこのようなダストシュートにはリサイクルなどという概念はない。そして、このようなダストシュートの中には決まってある種の生物が飼われている。 鴉の立つ瓦礫の山が大きく揺れた。 低い唸り声が部屋中に響き、生臭い臭いが地面の下から上がって来る。 鴉の立つ地面が揺れるとともに大きく下がり、瓦礫の隙間からギロリと輝く目が覗いた。 地面が激しく揺れ、瓦礫を噛み砕く音が鳴り響き、巨大な何かが瓦礫の山の下から姿を現した。 ナメクジのようにぶよぶよとした身体はヌメヌメとした粘液に覆われ、褐色の身体は一定の形を持っていないらしく、変幻自在に動き回る。通称ジャンクイーターと呼ばれるキメラ生物だ。 ジャンクイーターが臭い息を吐きながら大口を開けと、そこには鋼鉄をも噛み砕く三角形の刃が並んでいる。 伸縮自在の身体を活かし、ジャンクイーターが鴉に襲い掛かった。 鴉は飛び上がり、ジャンクイーターガシッと歯を鳴らし空に喰らい付いた。あの歯で噛み付かれては鴉とて無事ではすまない。それにジャンクイーターの強靭な胃の中に放り込まれでもしたら、助かる見込みはまずないだろう。 黒衣を大きくはためかせながら、鴉は硬質化させた爪でジャンクイーターを切り裂こうとした。しかし、軟らかだったジャンクイーターの肉が硬く変化して鴉の攻撃を弾いた。 弾かれた鴉は暴れ回ったジャンクイーターに体当たりをされ、黒衣を靡かせながら瓦礫の山に叩きつけられる。 瓦礫に倒れる鴉の黒衣が蠢き幾本もの槍と化し、ジャンクイーターに襲い掛かる ジャンクイーターは身体を硬質化させるが、槍と化した黒衣には通用しなかった。 闇色の槍がジャンクイーターの身体を串刺しにし、傷から出た粘液が迸り瓦礫を溶かす。 暴れ狂うジャックイーターは大きな口を開け、鴉を喰らおうとする 黒衣が激しく揺れる。鴉はジャンクイーターを見据える。次の瞬間、鴉はジャンクイーターにひと呑みにされた。 ジャンクイーターの胃液はありとあらゆるものを溶かす。その胃の中で鴉は生きていた。黒衣に全身を包むことによって、鴉はジャンクイーターの胃で生き抜くことができたのだ。 黒衣から闇色の針が幾本も飛び出し、ジャンクイーターの身体を内側から突き破った。 ジャンクイーターはのた打ち回り、胃液とともに鴉を吐き出すと、ゆっくりと息を引き取った。 どこからか水の流れる音がする。 鴉は辺りを見回した。すると、微かに見える壁の下部が鉄格子になっている。その鉄格子は人が寝そべって通れるほどの大きさで、その奥から水の流れる音がする。 鴉は瓦礫を掻き分けて鉄格子に手を掛けると、そのまま力強く後ろに引いた。頑丈な鉄格子はいとも簡単に外れ、鴉は小さな隙間に身体を滑り込ませた。 鴉が出た場所は帝都大下水道であった。 オレンジ色の埋め込み式ランプが取り付けてあるが、下水道は薄暗くどんよりとした雰囲気が漂い、鼻を衝く強烈な臭いが汚水から立ち上ってくる。 帝都の大下水道は危険極まりない場所であり、帝都政府ですら立ち入ることを拒む。突然変異で体長一メートル~二メートルまで大きくなった巨大ネズミなどはまだ可愛いもので、下水に棲む大海蛇リヴァイアサンの全長は六〇メートルから大きいものでは一〇〇メートルにも達し、時には帝都に局地的な地震を起こすことで有名だ。 闇の奥からいくつもの生物が鴉のようすを窺っているが、出て来る気はないようだった。それどころか生物たちの気配が鴉から遠ざかって来る。 ――っ来る! 鴉は感じ取った。去って行く生物たちとは別に、鴉に向かって何かが近づいて来る。 静寂の後、下水が波打ち、水面から切るように進む背鰭が見えた。 身構える鴉の瞳が見開かれる。 水面が波打ち激しい水飛沫が大気中に舞い、水の底から大きな何かが咆哮をあげながら姿を現したのだ。 水面から出ている部分だけでも一〇メートルを越えているであろう、その長い身体は蛇のようであるが、下水とは不釣合いに美しい輝く透き通る鱗はゴツゴツとしていて、それはまるでオーロラの甲冑を纏っているようだ。 長いニ本髭がまるでそれ自体が生きているように動いている。そうこれが帝都の下水に棲むキメラの中で最も出遭いたくない大海蛇リヴァイアサンだ。 奇声をあげるリヴァイアサンの口には剣のような歯が並び、下は蛇のように忙しなく動いている。 互いを見据える鴉とリヴァイアサン。先に仕掛けたのはリヴァイアサンであった。 唸り声をあげる大きな口が槍を突き刺すような動きで鴉に襲い掛かる。 円舞を踊るようにリヴァイアサンの攻撃を躱した鴉は、そのまま黒衣によってリヴァイアサンも首を断ち斬る。 巨大な首が地面の上に落ち、巨体は水飛沫を上げながら下水の中に沈んだ。しかし、まだ終わりではない。 驚異的な生命力を持つリヴァイアサンの頭部が口を開けて鴉に飛び掛る。 鴉は黒衣を巻き上げるようにしてリヴァイアサンの髭を切った。するとリヴァイアサンは方向感覚を失うが、髭はすぐに生え変わる。そこで鴉は空かさず自分の手首を切って、滴り落ちる血をリヴァイアサンの口に垂らした。 リヴァイアサンの頭部が枯れていく。干からびて、灰になり、塵と化した。 鴉の血は生物にとって有毒であり、リヴァイアサンはそれによって塵となった。 水面が動いた。 再び身構える鴉。 激しい咆哮とともに水底からリヴァイアサンが現れた。先ほど水の底に沈んだリヴァイアサンが再生したのだ。 鴉に襲い掛かろうとしたリヴァイアサンであったが、その動きが急に止まる。鴉も動きを止めて"それ〟を感じていた。 目の前にいるリヴァイアサンよりも強大な何かが近づいて来る。 下水が海のような大きい波をつくり、鴉が頭から下水を浴びた。 けたたましい咆哮が下水道に響き渡り、巨大な影が水底から頭を出した。それは鴉が先ほどまで戦っていたリヴァイアサンの二倍はあろう、超巨大リヴァイアサンの頭部であった。それを見た小さなリヴァイアサンは恐れを成して一目散に逃げ出した。 巨大なリヴァイアサンはギラギラと輝く瞳で鴉を見据え、ヒトの言葉をしゃべった。 「おまえが鴉か……随分と違うな……」 低く重々しい声が下水道の奥まで響き渡った。 リヴァイアサンを前にする鴉は無表情で、そこから彼の思いを窺い知ることはできなかった。 腹から唸り声をあげたリヴァイアサンは、その大きな瞳を鴉の目の前まで近づけて、臭い息を吐き散らした。 「鴉、俺がわかるか? おまえも随分と変わってしまったが、俺も負けてはいないぞ」 「過去は捨てた――おまえとは〝初めて〟会った」 「そうか、俺も楽園[アクエ]」を夢見るのは止めた。しかし……いや、いい。同じ堕天者[ラエル]同士で争うのは莫迦らしい。今は俺とおまえは戦う理由がない、それでいい。それに俺が動くたびに上に被害が出ていてはヴァーツに目を付けられる」 ここにいる理由はない。鴉は踵をきびしてゆっくりと歩き出した。 鴉の背中にリヴァイアサンが声をかけた。 「知っているか鴉。もうすぐ地上[ノース]におもしろいことが起きるぞ。おまえはどうするのだ、おまえは誰の見方だ?」 鴉は返事をしない。リヴァイアサンの言葉など耳に入っていないように歩き続ける。 無表情のまま歩く鴉の背中に大きな笑い声が届いた。 ベッド上で目覚めたファリスは部屋を見回し夏凛を見つけた。朝食を食べ終えた夏凛は紅茶を飲みながらテレビニュースを見ている。 「おはよう夏凛」 「うん、おはよ。昨日はよく眠れた?」 「……うん」 昨日はショッピングをして、夕食をファーストフードで済ませた。玄関が破損し、窓が割れて雨が吹き込む部屋に戻るのが嫌で、夏凛は高級ホテルに泊まったが、いっしょにいたファリスは少し落ち着かなかった。 ファリスは大きな窓から外を眺めた。窓は高い位置にあり、地上を行き交う車が小さく見える。雨が深々と降っていて、空はどんよりとしていた。 テレビを消した夏凛がファリスに声をかける。 「朝食食べるなら運ばせるけど、どう?」 「うん、食べる」 夏凛は朝食を頼み、フロントに電話を掛けてからしばらくして、部屋のベルが鳴った。 食事が届いたのだと思った夏凛はドアに向かった。ドアスコープを覗くとボーイと食事を乗せたカートが見える。 夏凛がドアを開けるとボーイがカートに朝食を乗せて部屋の中に運んでくれた。 「ありがと」 そう言って夏凛がボーイにチップを渡そうとした時、ボーイが不可解な行動を起こした。 瞬時にジャケットの内から銃を抜いたボーイは、ファリスを捕まえ銃口を夏凛に向けた。 「動くな!」 叫んだボーイを見て夏凛は大きな欠伸をして眠そうな表情をしている。 「誰に向かって口を訊いているのかな?」 夏凛の手が素早く動き、突如現われた大鎌によってボーイの手首が切断され、銃と手が宙を舞った。 ボーイが怯んだ隙にファリスは夏凛の後ろに素早く隠れた。 床に転がった銃を拾おうとするボーイの手を誰かの足が踏みつけ、ボーイが上を見上げると、そこには可愛らしい表情をした夏凛がいた。 「殺すんだったら、さっきの一撃で殺ってるよ。ちょっとお話がしたいの」 「話すことなんかない!」 「じゃあ、バイバ~イ!」 大鎌が振り下ろされる瞬間、ファリスは強く目を閉じた。暗闇の中で男の断末魔が聞こえた。 目を瞑っているファリスの手を夏凛が引いた。 「早く逃げるよ」 「どこに?」 「どっか」 夏凛はファリスの手を引っ張って半ば強引に部屋の外に出た。 廊下に出たところで、遠くにいる男たちと夏凛の視線が合う。次の瞬間には男たちは夏凛たちの方へと駆け出して来た。 ファリスの手を放して夏凛が大声を出す。 「全力ダッシュ!」 夏凛が先を走り、ファリスが後を追って走る。その後ろからは男たちが追いかけて来る。 エレベーターの横を抜け、非常階段に差し掛かった夏凛は下ではなく上に向かった。 「どうして下に逃げないの!?」 「そんな普通なことしないの」 階段を上りきった夏凛は屋上のドアを蹴破って外に出た。 屋上は強い風が吹き荒れ、雨が二人に吹き付ける。ファリスには逃げ場があるように思えなかった。 「こんなとこに来てどうするの!?」 「ついて来て」 夏凛は大鎌でフェンスを切り裂いて下を覗いた。 地上は遥か下。人や車の往来が激しい道路が小さく見える。 夏凛が呟く。 「飛ぶよ」 この言葉を理解するのにファリスは少し時間を要した。 「えっ!? どういうこと?」 「そのまんま」 「無理だよ!」 屋上のドアから銃を構えた男たちが流れ込んで来た。もう、逃げ場はない。しかし、飛び降りるなど無謀だ。 「アタシは人間じゃない。行くよ!」 夏凛はファリスの身体を抱きかかえて屋上から飛び降りた。 落下する二人を風が煽り、轟々という音が耳に響き渡る。 あまりの恐怖にファリスは顔面蒼白になり、叫び声すら出せない失神寸前だった。それに引き換え夏凛は微笑んでいる。 地面が見えて来た。落ちて来る二人に気が付いた人々が指差して目を見開いている。 「衝撃に備えて!」 夏凛はそう叫んだが、もはやファリスの耳には届いていない。 激しい音が鳴り響き、コンクリートの地面が激しく砕け飛び、揺れを起こしながら夏凛は着地した。 「さすがに今のは身体の芯まで痺れたぁ~!」 「…………」 ファリスは放心状態だった。夏凛が地面に下ろしてもまともに立てず、結局夏凛に担がれながらこの場から逃げた。 夏凛は路地裏に入り、物陰にファリスを下ろして自分も壁に凭れ掛かりながら座った。 「大丈夫、精神は還って来た?」 「……うん」 ファリスは小さくうなずいて見せたが、目の焦点が合っていない。 「ぜんぜん大丈夫じゃないじゃん」 「……大丈夫、少しずつ落ち着いてきた」 徐々にファリスの心臓はゆっくりと脈打ち出し、呼吸も静かになってきた。 ファリスはゆっくりと息を吐きながら空を見上げた。細いビルの一筋の隙間から、微かに灰色の空が見え、雨が顔を濡らす。 どうしてこんなことになってしまったのだろうと、ファリスが考えていると、横では夏凛がため息をついていた。 「もぉ、今日もサイテー。あのホテルには二度と泊まれないし、追いかけられるし、服は汚れるし、雨には濡れるし、しかも清掃員の仕事無断欠勤決定だよぉ」 「どうしてホテルにあんな人たちがいたんだろう。夏凛が誰かの恨みを買ったとか?」 「バカでしょアナタ。明らかにファリスを狙ってに決まってるじゃん」 ファリスは酷く驚いた表情をした。自分が狙われるようなことがあるとは思えなかった。 「そんな、どうして? 夏凛なら仕事のトラブルとかでわかるけど、あたしが何で?」 「あのボーイに化けてた奴はファリスを捕まえて、アタシに動くなって言ったでしょ? アタシを殺すなら動くなって言う前に銃で撃っただろうし、あいつはファリスに銃を向けずにアタシに銃を向けた。アタシに用があってファリスを人質に取るなら、ファリスに銃を向けるでしょ。だから、たぶん用があったのはアタシじゃなくてアナタだと思う。勘だけどね」 ファリスが狙われたのかもしれないが、理由が思い当たらない。 「狙われるような覚えないよ」 「本当に?」 「ないって、夏凛が狙われたんだよ」 「まぁ、どっちでもいいや。それよりも、これからどうするかが問題。ホテルに泊まっているのがバレるくらいだし、しかもボーイに変装して襲撃に、男たちが持っていた銃はいい代物だった。それなりの組織に狙われちゃってるのかもね。そーなると、ここがバレるのも時間の問題ってことになるね。最近の偵察衛星って高性能でイヤになっちゃう」 「じゃあ、早く逃げなきゃ」 「どこに?」 それを問われてファリスは黙り込む。ファリスには行くところもなければ、頼る人もいない。強いて言えば目の前にいる夏凛くらいが頼れる人だった。 ファリスが返事を返さないのを見て夏凛が口を開く。 「逃げ込む場所の候補はいろいろあるけど、その人たちにあまり迷惑かけたくないし、逃げ隠れしていてもダメ。アタシなら敵を完膚なきまでにやっつける」 悪戯な笑みを浮かべた夏凛は立ち上がった。ファリスもそれにつられて立ち上がる。 「どこに行くの?」 「まずは電話。ケータイホテルに置いてきちゃった。で、財布も置いてきちゃったから、お金の調達をして、服を買う」 「はっ?」 ファリスはこんな事態に、と思った。 「何か疑問でもあるなら受け付けるよ」 「服なんか別にいいじゃん」 「レディーの嗜み」 「夏凛って男でしょ?」 「それについてもそのうち詳しく話す」 そういえばと思い、ファリスの頭にある言葉が思い出される。あの時は動揺していて聞き違えだったかもしれないが『アタシは人間じゃない』と夏凛が言ったような気がする。もしや――。 「夏凛ってアンドロイド!?」 「はぁ、何言ってるの? そんなこと言ってないで早く行くよ」 夏凛は呆れ顔をしながら歩いて行ってしまった。ファリスは慌てて夏凛の背中を追った。 人々が傘を差す中、二人は雨に濡れながら街中を歩いた。追っ手が来ているようすはないが、油断は許されない。 ファリスは再びこの質問を投げかけた。 「どこに行くの?」 「だから、電話を掛けられるところ探してるんだけど。や~めた、電話じゃなくてタクシーに乗る」 「お金ないんでしょ?」 「あとで払えば済むから大丈夫」 夏凛は道路に出てタクシーを止めた。 びしょ濡れの二人を見て運転手は嫌な顔をしたが、相手が夏凛だとわかり態度を変えた。 「夏凛さんですよね?」 「うん、そうだよ。今はお金持ってないんだけどぉ、着いたら払うから乗せて」 「いいですよ、どうぞ乗って下さい」 びしょびしょの二人が後部座席に座ると、シートもびしょびしょになったが、運転手は嫌な顔ひとつしなかった。 「雨の中大変でしたね、タクシーの中なら濡れなくて済みますよ、当たり前ですけどね」 声を出して笑う運転手に合わせて夏凛も楽しそうに笑って見せた。横にいるファリスは夏凛の二面性を見て苦笑いをした。 二人を乗せたタクシーは大きな洋館の前で止まった。 絢爛豪華な装飾の施されたバロック建築の屋敷。この辺りでは有名な屋敷だ。特に魔導に関するものならばよく知っている場所だ。 タクシーを鉄門の前に待たせた夏凛はファリスとともに屋敷の敷地内に足を踏み入れた。 蔓の生い茂った鉄格子の門を潜るとそこには、白い女神の石像の置いてある噴水に出る。この噴水の水は聖水であり、魔物や悪魔などの類をこの一帯に寄せ付けない魔除けの力を持つ。 夏凛はこの噴水の横を通る時、いつもなぜか気分が悪くなる。 足早に夏凛は噴水の横を通り抜け、屋敷の玄関まで辿り着き、呼び鈴を鳴らした。 「マナちゃんいるぅ~?」 しばらく待ったが返事がない。 この洋館の主人は海外に出かけることが多く、家を空けることが多い。今も外出中なのかもしれない。 ややあって、扉が軋む音を立てながら開き、蝋燭を手に持った小柄な少女が現れた。 少女はゴシック調の黒いドレスに身を包み、長く美しい金髪を腰まで垂らし、蒼く透き通る瞳を上目遣いにしながら夏凛をまじまじと見つめていた。 「夏凛様、こんにちは。何用でございましょうか?」 「アリスちゃん、お金貸してぇ~」 機械人形アリス――。機械仕掛けである彼女は自称超美人天才魔導士マナの自宅である洋館に住み込んでいるメイドのような存在である。 「御話は中でお伺い致します。どうぞ中へ御上がり下さい」 胸に手を当て軽く会釈をしながらアリスはもう片方の手で夏凛を洋館の中へと招き入れた。だが、夏凛は屋敷の中に入ろうとしないで、遠く道路を指差した。 「お金ないのにタクシーに乗っちゃったの。だから、立て替えて置いて」 「承りました。夏凛様はいつもの部屋でお待ちになっていてください。コード000――20パーセント限定解除。コード002――〈シールド〉召喚[コール]」 光り輝く〈シールド〉を傘代わりにしてアリスは鉄門へと向かって行った。それを見送った夏凛は屋敷の中に入り、ファリスもその後に続いた。 屋敷の中はシャンデリアによって煌びやかに照らされ、玄関ホールは天上が高く、目の前には上る箇所が双方にある階段が交差しながら二階へと伸びている。下を見ると華をモチーフにした昏い色の絨毯が敷き詰められている。 夏凛はここに何度も来ているようすで、広い屋敷の中を迷うことなく進んでいく。 長い廊下を抜け、客間についた夏凛はソファーに座った。ファリスはソファーには座らず、部屋に置いてある調度品や高級そうな置物を眺めていた。 しばらくして、アリスが二着の洋服と大き目のタオルを持って現れた。 「ひとまずこのご洋服にお着替えになられてください。すぐに服を洗って乾燥してまいります」 アリスに着替えとタオルを渡されたファリスは夏凛の顔を睨んだ。 「あっち行って、絶対こっち見ちゃダメだからね」 「別にファリスの裸なんて見たくないから平気。見るんだったら、もっと可愛い娘[コ]かカッコイイ男の人じゃないとぉ」 少しにやけた夏凛にファリスの投げたタオルが直撃する。 「早く向こう行け、変態!」 「変態とは失礼な」 夏凛は怒って部屋を出て行った。 乾燥機によって乾いた服に着替え終え、テーブルに着いてお菓子と紅茶を飲みながら、夏凛とファリスはアリスにことのあらましをざっと話し終えた。 アリスは深く頷いた。 「主人[マスター]が外出中なので、私がお金を工面いたしましょう。それで、これからどうなさるおつもりでしょうか?」 出された紅茶を飲みながら、夏凛は宙を仰いだ後に答えた。 「ファリスを狙った相手についてははっきりとわからないから保留。今は昨日の借りを返しにユニコーン社に行ってみるつもり」 夏凛に意見を求められるように視線を向けられたファリスは、口いっぱいに詰め込んでいたクッキーを紅茶で流し込んで、息を吐いた。 「そのユニコーン社にあたしと夏凛で殴り込みに行きたいんだけど?」 「実際に行くのはアタシひとりでいい。ファリスはここにいた方が安全だから。そーゆーわけでぇ、アリスちゃんにファリスの面倒を見てもらいたいんだけどぉ?」 「よろしいですよ」 ニッコリと微笑んだアリスだったが、ファリスは椅子から立ち上がって大きな声を出した。 「あたしも行く!」 「足手まといになるだけ」 さらっと言った夏凛にファリスは少し頭に来た。自分が足手まといになることはわかっているが、それでも一緒に連れて行って欲しかった。 「あたしも行くの!」 「だ~か~ら~、足手まといになるって言ってるでしょ~。アナタに何ができるの、言えるものなら言ってみて」 「……行ってみなくちゃわからないよ」 行ってみなくてもファリスにはわかっていた。自分には何もできない。最悪、殺されてお仕舞いだろう。それでも、行きたかった。 困った表情をしているファリスを見て夏凛が嘲笑う。 「ほら、そんなことじゃ足手まといになるだけ。だから、ここにいるのが一番なの。マナちゃんは留守だけど、アリスちゃんも強いから、どんな敵が来てもへっちゃらだし」 「私を頼られても困ります。主人[マスター]の屋敷で敵と戦うわけにはいきません」 アリスは魔導師によって造られた戦闘兵器であり、その実力は計り知れない。そのことを知っているからこそ、夏凛はファリスをここに置いて行こうとしたのだ。 「この屋敷が全壊することになっても、アタシからマナちゃんにちゃんと話しするから平気平気だから、敵が来たらコンテンパンにしちゃってね」 席を立ってどこかに行こうとする夏凛をファリスが呼び止めた。 「待って、ホントにひとりで行っちゃうの?」 「当たり前でしょ。アタシとアナタじゃ住む世界が違う。アナタは普通の人間でも、アタシは違うから、だから敵と戦える」 「でも! あたしが行かないと意味がないの。そうしないと、一生後悔すると思う」 「死んでもいいなら来てもいいよ――でも、アタシは思う。刺し違えて復讐するなんてバカじゃない? アタシはアタシのために生きてるから、刺し違えるなんてしないの。死んだら楽しいことも悲しいことも味わえなくなるからね」 夏凛の話を聞き終えたファリスは席を立って反論を唱えた。 「それは違うよ。死んでもやらなきゃいけないことってあるの。死んだ〈ホーム〉の人たちのためにも、あたし自信が何かをしなくちゃいけない」 「あっそ、死んだ人のことなんてアタシにはカンケーないね。アタシはアタシのために生きてるって言ったでしょ?」 「でも、〈ホーム〉を奪われて住むところがなくなちゃった人が、この都市のどこかにいるから……その人たちのためにも……」 「アタシだったら死んで誰かのために何かを果たすくらいなら、自分のために生きるね」 「なんで!? 違うの……だから……」 ファリスは泣きそうな表情になり、何を言ったらいいのかわからなくなった。夏凛と自分が思っていることは違う。でも、自分の気持ちを夏凛にもわかって欲しい。それなのに夏凛は否定ばかりする。 泣くつもりなどないのに涙が零れてきたファリスに、アリスがそっとハンカチを手渡してくれた。 「私にはどちらが仰る意見が正しいのか判断しかねますが、夏凛様がついて来てもいいと仰りました。夏凛様と意見が合わなくとも、夏凛様はファリス様にチャンスは下さった。あとはファリス様の判断次第ではないでしょうか?」 頷いたファリスは夏凛を見つめた。それを見た夏凛は薄く笑い椅子を指差した。 「じゃあ、なるべく死なないように準備しなきゃね。アリスちゃん、ファリスでも使える魔導具をチョイスして」 「承りました」 アリスはお辞儀をして部屋を出て行った。 夏凛は椅子に再び座り、ファリスも椅子に腰掛ける。 ティーポットから空いた二人分のカップに夏凛が紅茶を注ぐ。 「え~と、ファリスの分の魔導具の料金は給料から引くからね。そうすると等分の間ただ働きになるけどいい?」 「うん、食事と寝るところさえあればいい。それだけあれば給料なんて別にいいよ」 「じゃあ、一生ウチでただ働き」 「それは嫌」 「ワガママだなぁ~」 夏凛は笑うと、息を天に向かって吐いた。これからしばらくの間、ファリスと暮らすのかと思うと、とてもおもしろい気がした。そして、一緒に暮らすのであれば、あの話もしなくてはいけないと思い、夏凛は急に真剣な顔になった。 「話して置きたいことがある」 「何を?」 「キメラ生物って知ってる?」 「なんとなくだけど」 ファリスの認識でのキメラ生物は怪物でしかない。 夏凛はファリスの顔を見つめて黙り込んだ。そして、しばらくしてため息を吐き出すように言葉を吐き出した。 「あんな物と一緒にされるのは侵害だけど、アタシもそんなもん。ある魔導師に魔導手術の実験台に無理やりされて、悪魔と呼ばれる存在の力を得たの。それに加えて、あのクソ魔導師はアタシの身体を男にしたの、信じられる? そっちの方が性格に合ってるなんて言って……」 「えっ、どういうこと……?」 ファリスはいつか夏凛が言っていた『アタシは人間じゃない』という言葉を思い出す。だが、ファリスにはいまいち理解ができなかった。 「だから、アタシに向かって〝男〟って今後一切言わないでね。知らない人に言われたら、笑って済ますけど、知ったアナタに言われたらキレるから、覚えて置くよ~に。質問は一切受け付けないからね、今後これについて話をするかはアタシ次第」 「でも、どうして男に?」 「だから質問は受け付けないって言ったでしょ」 「……わかった」 口ではわかった言いながらも、聞きたいことは山ほどある。 夏凛は何かを思い出したように手を叩いた。 「そうだ、あとアタシに能力についても少しだけ教えといてあげる。アタシの能力は身体の硬質化させることと重さを自由に変えること。あの時ビルから飛び降りた時には身体を硬質化させたの。普段は自分ひとりだったら身体の重さをゼロに近くするんだけどね、硬質化にも限界があるから。他にもいろいろあるけど、企業秘密。あっ、そうだ、それから、もう一つ大事なことがあるんだけど、他言しないと誓って」 「えっ、うん、誓う」 「ホントにぃ?」 「誓うよ」 「満月の晩には普通の女の子になるの、これはアタシの最大のヒミツ。この時に敵に襲われたら堪ったもんじゃないからね。絶対他言しないでよ、したら殺すからね」 殺すと言うのは本気であった。この秘密が多くの敵に知られでもしたら、夏凛の命がいくらあっても足りないだろう。夏凛は自分の命に関わる話をファリスにしたのだ。 ファリスにも夏凛が自分に話してくれた秘密の重みがわかった。それとともに、その話を自分にしてくれたことが嬉しかった。 しばらくしてアリスが一つの木箱を持って現れた。 「こんな物しかありませんでした」 アリスはテーブルの上に置いた木箱の蓋を開ける。木箱の中には紅い布に包まれた何かが入っていた。その布をアリスが丁重に取り払うと、中から装飾の美しい銃が現れた。 この銃はアリスの主人[マスター]である魔導師マナがつくり出した魔導具である。 銃を手に取ったアリスはホルスターと一緒にファリスに渡す。 「使用の仕方は普通の銃と同じですが、銃は扱えますか?」 「うん、まあなんとか」 ファリスの言葉に頷いたアリスは説明をはじめる。 「使用方法は普通の銃と同じですが、弾は無限で御座います。ですが、エネルギー源は魔導であり、サラマンダーと呼ばれる存在の力を借りて炎の玉を出しています。そのため、条件が悪い場合に使用ができなることが御座いますのでお気をつけください」 銃を物珍しそうにファリスは見てアリスに質問をした。 「条件って何?」 「簡単に言いますと、サラマンダーの気分次第でございます。弾が出なくなることは早々あることではありませんので、ご心配なさらずにお使いください」 フルメタルのボディに紅蓮の炎がデザインされている銃。その銃の形状はセミオートピストルで握り[グリップ]に弾倉[マガジン]を差し込むタイプになっているが、その部分が外れることはなく、あくまでデザインだった。 アリスの耳が微かに動く。 「――来客です。ですが、不法侵入の招かれざる客のようで御座います。それも多勢の乱暴者たちのようで御座いますね」 アリスの耳はこの屋敷に侵入した者たちを感知していた。 この屋敷は特殊な魔導結界によって守られているはずだった。妖物やキメラ生物の類は庭にも立ち入ることができず、人間なども中から入り口を開かない限り、外から進入できないはずだった。 夏凛は大鎌をどこからか取り出し構える。ファリスも受け取った銃を構え、辺りを見回しながら呼吸を落ち着かせる。 窓と扉が同時に打ち破られた。流れ込んで来る戦闘員。ライフルがファリスたち向かっていっせいに構えられた。 夏凛が不適に笑う。 「敵意丸出し、つまり敵ってことだねぇ~。アリスちゃんに任せるから、屋敷が破損したらアタシのところに請求しちゃっていいからね」 夏凛は敵から目を放さないようにファリスに近づこうとしたが、銃弾が夏凛の足元に打ち込まれ、歩くことを妨害された。 機械人形の口元が微かに動く。彼女は何かを小声で唱えていた。 「コード000アクセス――80パーセント限定解除」 コードを唱えるアリスに気が付いた夏凛は急いでファリスに近づき、ファリスの身体を抱きかかえると発射される銃弾を死ぬ気で避けながら敵を掻い潜り、窓から外に逃げ出した。 アリスが不適に笑い、高らかに声をあげる。 「コード008アクセス――〈ショックウェーブ〉発動!」 水面にできた波紋のようにアリスを中心として空気が震える。家具が揺れ、シャンデリアが砕け散り、戦闘員が持っているライフルが暴発する。戦闘員たちは床に転げまわりながら身体を痺れさせて振るえている。 「コード002・005・006・007・013連続アクセス――〈シールド〉召喚[コール]・〈ウィング〉起動・〈ブリリアント〉召喚[コール]・〈メイル〉装着・〈シザーハンズ〉装着」 アリスは手に〈シールド〉を構え、背中には黄金に輝く骨組みだけの翼、身体の周りには四つの球体がダイヤのようにきらきらと輝きを放っている〈ブリリアント〉が浮かんでいて、右手には鳥の嘴のような鉤爪が装着された。 「屋敷中に塵が散らかっているようでございますね。主人[マスター]がお帰りになられるまえに掃除をいたしましょう」 ふわりと宙に浮いたアリスは、そのまま上空を高速で飛んで部屋を出て行った。 底なし沼の大地。紅蓮の炎でできた雲。稲光の走る黒い空。 闇色の翼を大きく広げ、ゾルテは出口を探して夢幻の世界を彷徨っていた。 泣き叫ぶ風がゾルテの耳を腐食するが、驚異的な再生力によって元に戻る。しかし、痛みはある。すぐに再生するといっても、痛みは人間と同じように感じるのだ。 ゾルテの身体には大量の蟲が群がっていた。黒い蟲が蠢いている。振り払っても、振り払っても、すぐにゾルテの身体を覆ってしまい、やがてゾルテは振り払うことを止めた。 蟲はゾルテの肉を喰らい、内臓を喰らう。それでもゾルテは死ぬことなく、ただ苦痛に耐えるのみであった。 底なしの沼から次々と黒い触手が現れ、それはゾルテの行く手を塞いだ。黒い触手は十メートル以上の長さがあり、太さは一メートルほどだった。天を貫く先端には楕円の穴があり、そこにはギザギザした歯が並んでいる。 黒い触手に囲まれたゾルテは大きく両腕を広げた。 「滅す!」 ゾルテの言葉とともに轟々と黒い風が巻き起こり、黒い触手が沼から引き抜かれ、ゾルテの周りで竜巻となって回った。 回り続ける黒い触手は身体を引き千切られ、黒と赤の破片が上空に舞い上がり、地面に落ちた。 「余を誰と心得る! このような空間に閉じ込めおって、許さぬぞ、決して許さぬ!」 ゾルテは炎で身を焦がしながら飛び続けた。 どこまでもどこまでも広がる空間。果てなどあるのだろうか? 沼から時折、炎が吹き上げ、遥か遠くからは呻き声が聞こえてくる。 陽の光はなく、人間ならば凍え死ぬ寒さがゾルテを襲う。 天などないのに天から煌く星が降り注いでくる。 針に覆われた幾つもの星がゾルテに直撃する。ゾルテは避けることをしなかった。数の多さから避けられないことは判りきっていたし、避ける気すら起きなかった。 ゾルテは傷つき、大量の血を流す。身体に取り付いた蟲たちもいる。これでは再生のスピードも遅くなっていく。ゾルテは骨になろうとも、空を飛翔し続けた。 多くの血を失ったことで、ゾルテは急激な渇きに襲われる。しかし、ここには聖水[エイース]などなく、永遠に渇欲が付きまとい、喉を掻き毟りたくなる。 そして、ついにゾルテは壁に到達した。 光り輝く門が見える。その傍らには何者かが立っていた。 ゾルレはすぐさま門に近づき、そこいる者を見定めた。 門の傍らにいたのは女性であった。女性と言っても、姿は人ではなかった。 上半身は女体であったが、下半身は鱗に覆われて醜く、とぐろを巻いたそれはまさに蛇そのものであった。 ゾルテはこの者は何者なのかと訝った。 「凄惨な姿をした異形の者よ、貴様は何者だ。門番ならば余に道を開けよ、さもなくば灰と化して塵となる運命を負うことになるぞ!」 大胆な態度でゾルテは異形の者に詰め寄るが、異形者とて負けじと冷然たる態度でゾルテを睨みつけた。 「何人たりともこの門をお通しするわけにはいきません――ルシエ」 いと高き楽園[アクエ]にいた頃のゾルテの名――それがルシエ。 「なぜ余の名を知っている!?」 「まさか、貴方までもがここに投獄されようとは思いもしませんでした。わたくしをお忘れですかルシエ。無理もありません、今のわたくしはこんなにも醜い姿に成り果ててしまいました」 「まさか、貴女は!」 異形の者の微笑みは崇高さを感じさせた。 「やっとおわかりになられましたか。楽園[アクエ]での長閑な日々が懐かしい。しかし、アズェル様が〝鴉〟の烙印を押されてしまってから、全ては変わってしまった」 「貴女は鴉が地上[ノース]に堕とされた後、審問官たちに抗議をして貴女も地上[ノース]に堕とされてしまったと聞いていた」 「確かにわたくしは審問官に抗議いたしました。ですが、わたくしに与えられた罰は地上[ノース]に堕ちることではなく、ここの門番をすることだったのです」 ゾルテは目の前にいる嘗ては美しき天人[ソエル]だった者を見て酷く悲しんだ。 罪を犯した者は地上[ノース]に堕とされ、大罪を犯した者は〈裁きの門〉の審判を受ける。それ以外の罰はないはずだった。では、なぜこの門番はここにいる? ゾルテは肩を大きく下げて深くうなだれた。 「天は何をしたいのだ。やはり、天の真意は天人[ソエル]が思っている理想とは違うようだ。余も楽園[アクエ]では崇高な地位にいた。しかし、それでも偽りばかりを教えられてきた。もはや、天は信じられん。だからこそ、余は余の理想のために地上[ノース]に堕ちた」 「ルシエは自らの意思で地上[ノース]に堕ちたのですか、なぜ?」 「地上を這って生きる者、それが第二のヒトである地人[ノエル]」だ。嘗て楽園[アクエ]に叛逆者が現れた時、そ奴らは新しく創造された地上[ノース]とこの空間に閉じ込められた。そして、神と呼ばれる存在は他の天人[ソエル]たちにも罰として、〝渇き〟を与えた。自然の摂理から外れた存在であった天人[ソエル]が食物連鎖に組み込まれたのだ。ノエルの聖水[エイース]を糧として生きている天人[ソエル]だが、生物の頂点に立つのは我ら天人[ソエル]だと信じていたしかし、違うらしい」 「貴方は神に刃向かう気なのですか?」 「余は神など信じてはおらぬ。天は体制であり、その体制によって楽園[アクエ]の秩序は守られている。しかし、その体制は余の望むものではないようだ。天の体制はノエルこそを――いや、ノエルの中から生まれる第三のヒトこそを真の支配者として世界に君臨させる気なのだろう。全ては余の勘に過ぎぬが、余と同じ考えを持つ者が多くいることも事実」 ゾルテは自分よりも下等だと思っていた存在に支配されることが屈辱であった。ノエルは天人[ソエル]の糧でしかない、とゾルテは今でも思っている。そのことを地上[ノース]でのうのうと生きているノエルたちに思い知らせねばならない。 楽園[アクエ]で聖水[エイース]が創られるようになってからか、太古に比べてノエルの数は増殖している。地上[ノース]を支配しているのは他でもないノエルだ。そのこともゾルテは気に喰わなかった。 天人[ソエル]の絶対数は増えることがない。その代わりに〝死〟というものも最初はなかった。しかし、楽園[アクエ]で叛逆者が現れた後、天人に〝死〟が与えられてからというもの、天人[ソエル]の数は徐々に減少している。幾星霜を経るかはわからないが、いつか天人[ソエル]はひとりもいなくなる時代が来るだろう。 ゾルテは神を否定するが、神を憎んでいた。 「神がいたとしても、その存在は全知全能でもなけらば善なるものでもない。それを貴女は信じ敬うというのか?」 「神はわたくしたちをお創りになられた」 「だから何だというのだ、そのような証拠はあるまい。余は余の意思を持っている。わかったらその門を開けてくれ」 「それはできません」 「なぜだ!」 ゾルテは憤怒した。しかし、開けられないというのは事実であった。 「わたくしには門を開ける術がないのです。この門には鍵がない」 「貴女は門番ではないのか?」 「わたくしは門番です。見えない鎖で繋がれ、門から離れることが許されない。わたくしは貴方と違いここに棲むモノたちに襲われることはないのです」 門番はゾルテに群がる蟲を見てそう言った。確かに門番には一匹たりとも蟲が寄り付いていない。そして、門番の役目は門を守ることではなかった。 「わたくしの役目はこの空間を見つめ続け、ここに囚われた全てのモノたちを見つめ続け、哀しみにくれることなのです。ですから、ルシエが門を通りたいと言うのでしたら、わたくしは止めません。しかし、門は一方通行であり、向こう側からしか開けることしかできない。嘘だと思うのならばお試しください」 ゾルテは門番に言われるままに門の前に立ち力を込めて門を打ち破ろうとした。 衝撃とともに世界が揺れ、ゾルテを覆っていた蟲は吹き飛ばされ、雷鳴が轟いた。 「クッ……ググ……」 ゾルテの顔が苦悩に歪む。彼の両腕は吹き飛んだが、門はびくともしなかった。 門には鍵穴はなく、ゾルテを拒み。門番はいるが、それは門を守っているわけではない。門は向こう側からしか開くことはない。 ゾルテはその場に呆然と立ち尽くした。彼には門を開ける術がなかった。 「余はここで死ぬことも許されず、永遠に囚われたままなのか……?」 「多くの者が、この門を訪れました。しかし、何人に対しても門は開くことを拒みました」 「ならば、余を殺してくれ。天人[ソエル]は自ら死ぬことができないように、魂にそのことが刻まれているのを貴女も知っておるであろう」 「それはわたくしにはできません。〈裁きの門〉の中では天人[ソエル]を殺めることができぬように魂に刻まれるのです」 力を失ったゾルテは落下した。 ゾルテの身体は底なしの沼の中に飛び込み、沈みゆく。 堕ちても堕ちても底はない。 沼の中にはゾルテを喰らう魚のようなモノがいた。魚はゾルテの核には決して手を出さない。ゾルテを殺してはくれないのだ。 強烈な光が沼に落下し、汚泥を吹き飛ばすとともに上に伸びる光の道をつくり出した。 堕ちていくゾルテの腕を何者かが掴んだ。 「我が子よ、お前にはまだやるべきことがある」 光に包まれた存在がゾルテの身体を沼の底から引き上げる。 ゾルテは自分を助けた者を睨みつけた。 「なぜ余を助けるのだ。貴様は何者だ!」 「余はルシエル。お前の元となった主だ」 「主とはどういうことだ、貴様は神だとでもいうのか!?」 「余は余でしかない。お前は余の身体から生まれた、云わば余の分身である」 「わからぬ、貴様の言っていることは余には理解できん」 「天人[ソエル]の祖となった者とでも言っておこう。最初の者である余たちは今の天人[ソエル]よりも多くの能力を持つのだ。天人[ソエル]の多くは最初の者たちの複製でしかなく、その能力は最初の者に比べ劣る」 沼を抜けた先では門番が顔を手で覆い、ルシエルに恐れおののいていた。 「なぜ門が開かれたのですか!? 門を開いた貴方はいったい何者なのですか?」 門は開かれていた。門の外から大量の光がこの空間に差し込み、遥か遠くまで照らし輝かせる。その光を見た者たちが軍勢となって押し寄せてくる。 外に出るチャンスが訪れたことを知る罪人たちは我先にと門を目指す。 ルシエルが鼻で笑った。 「まだその時ではない、救世主が現れるまで貴様らにはここいいてもらおう」 身体の前に突き出されたルシエルの手から光の壁が現れた。現れた壁の高さは永遠を思わせ、壁は光速で動き出し全ての罪人を押し流した。 ゾルテは理解できなかった。そして、悔しかった。自分は誰かの掌の上で踊らされているのでは、と考えたのだ 「放せ、余を放すのだ!」 叫ぶゾルテに対してルシエルはただ不適な笑みを浮かべるだけだった。 「放せというのか、愚か者が。ここに永遠に囚われている気か? 余と来るがよい」 ルシエルはゾルテの腕を強引に引き、開かれた門から発せられる光の中に飛び込んだ。 二人が門に飛び込んですぐに、門は重々しい音を立てながら閉じられた。 門番は顔を覆って泣き叫んだ。恐ろしいことが起きた。未だ嘗てないことが起こってしまった。それは何かが起こる前兆としか考えられなかった。 〈裁きの門〉を開くことができる者は限られているはず。門を開くことができる者は天人[ソエル]を罰する立場にある者のはず。では、なぜにゾルテを外に連れ出すようなまねをした。そもそも、〈裁きの門〉を開けることのできる者でさえ、その中に入ることはできないはずであり、中に入れたとしても外に出ることはできないはずであった。 雨が降り続く中、ファリスを抱えながら走る夏凛が怒鳴り散らす。 「ったく、雨降ってるし、戦いに巻き込まれたら服が汚れるし、まだお金貸してもらってなかったのに!」 「そんなこと言ってないで早く逃げなきゃ」 「ファリスに言われなくったってわかってる。それにアタシのこの屋敷の敷地ないじゃ力が封じられて、分が悪い」 走り続けた夏凛は屋敷を囲う鉄格子の前まで来た。普段の夏凛ならばファリスを抱えて楽々飛び越えることができるだろうが、今は無理だった。 夏凛は息を切らしながらファリスを地面に降ろし左右を見渡した。 「門での待ち伏せは基本だけど、そこ以外に出る場所がない。どうするファリス?」 「どうするって聞かれてもあたし困るよ」 鉄格子の壁はジャンプして登れる高さではなかったし、鉄格子の先端は槍のように尖っている。 「夏凛見て!」 ファリスが後方を指差した。追っ手が迫っていた。この場で立ち尽くしている暇はない。 夏凛は大鎌をどこからか出して大きく振りかぶった。 金属音が鳴り響き、大鎌は鉄格子に弾かれた。 「手が痺れたじゃん。やっぱ普通の鉄格子じゃないし、切れるわけないじゃん」 夏凛が逆切れして喚き散らしている間にも追っては迫っていた。 ファリスは夏凛の腕を掴んで強引に走り出した。 「逃げなきゃ!」 「アリスちゃん助けに来て~っ!」 爆音と共に発射された魔導弾が光の尾を引きながら追っ手に襲い掛かる。その光を見た夏凛は、それがすぐにアリスが発射した〈コメット〉と呼ばれるロケットランチャーだということがわかった。 轟々と地面ギリギリに飛ぶ魔導弾は、大地を剥ぎ取り、風を巻き起こす。巨大な光は追っ手を呑み込み、そのまま夏凛たちの横を掠め飛んだ。その反動で夏凛は巻き起こった風によって大きく飛ばされた。 「この機械人形がっ! アタシらまで殺す気!?」 地面に倒れた夏凛は身体を泥だらけにしながらすぐさま立ち上がり、近くに倒れているファリスに手を貸して立たせると、再び走り出した。 追っ手の姿は今のところは見えないが、いつどこで出くわすかはわからない。 正面門まで辿り着くと、そこにはやはり敵が待ち伏せをしていた。そこにいたのはハイデガーだった。それもひとりで立っていて、屋敷の敷地内の入ってくるようすはなかった。 夏凛はすぐに察した。 「中に入って来れないんでしょ?」 「ガハハハ、よくわかったな、その通りだ。だから早く外に出て来い」 ハイデガーは嘘をつくことをしなかった。それに対して夏凛が微笑う。 「アナタ交渉ごとか下手でしょ。こっちに来れないのがわかって、わざわざ出るはずないでしょ……と言いたいところなんだけど、こんなところでいるわけにもいかないんだよねぇ~。中の敵はいつかはアリスちゃんが殲滅させるとしても、居場所がばれている以上は次の敵が来る。つまり、ここは何があろうと外に出なきゃいけないってわけ」 夏凛は何時にもない真剣な顔をしていた。それを見たファリスに不安が過ぎる。 「夏凛……」 「ファリスのことはウチの使用人をやってる限りは守ってあげるから。アナタはここにいるように、中にいればハイデガーは手を出せないから。それから中の敵はアリスちゃんに殲滅されている頃だと思うから、そっちもたぶん平気」 大鎌の柄を強く握り直した夏凛は足に力を入れた。ここを出たらすぐに力を取り戻すが、出たと同時にハイデガーも襲ってくるだろう。 夏凛は屋敷と外の境目に立って、後ろを振り返った。 「やっぱりぃ、裏門に逃げるって作戦に変更しようか?」 と言った次の瞬間には、夏凛は身体を回転させて外に飛び出し、大鎌を大きく天に向かって振り上げていた。 大鎌は見事にハイデガーの首を跳ね飛ばした。それでも夏凛は攻撃の手を止めずにハイデガーの左腕を切り落とし右腕も切り落とそうとした。しかし、ハイデガーの右手の方が早かった。 拳が夏凛の横を掠め、夏凛は後ろに飛び退いて間合いを取った。 「核ってのがあるらしいけど、アタシはそれがどこにあるのか詳しく知らないの!」 大鎌を地面に投げ捨てた夏凛は素手で構えた。 ハイデガーの再生していく。首が生え、腕が生え、不死身を思わせる。 「ガハハハ、武器を捨ててどうするのだ? 今更命乞いをしても無駄だ」 「命乞いなんてしない。する前に走って逃げる。アタシが大鎌を使うのはそっちの方が見た目的にいいと思ってるからで、実は素手の方が強いの!」 「おもしろい、おもいろいぞ。ノエルが俺たちに素手で挑むか?」 「それはちょっと違う。今ならわかる。アタシはアタシの中に組み込まれた存在が何であるか詳しく知らなかった、でも鴉と出逢ってわかったの。アタシはアナタたちの力をこの身体に組み込まれた。アナタたちが悪魔――堕天使ってところだね」 妖艶とした笑みを浮かべた夏凛に力が漲ってくる。 ハイデガーが目を見開く、こんなことがあるはずがなかった。 「なんということだ、なんということなのだ。そんな莫迦なことがあってたまるものか……ノエルが天人[ソエル]の力得るはずがない、まさか貴様も〈Mの巫女〉なのか!?」 「〈Mの巫女〉って何?」 「俺たちが最も恐れる未来に現れるであろう第三の種族のことだ。その遺伝子を持っているのが、そこにいる娘だ!」 ハイデガーに指差されたファリスはびくっと震える。やはり敵はファリスを狙っていたのだ。 ファリスが狙われているとわかれば、それだけで状況はある程度好転する。 夏凛がファリスに向かって叫ぶ。 「裏門まで逃げて! 運が良ければアリスちゃんと一緒に外に逃げるの。こいつはアタシが喰い止めるから……」 夏凛から表情が消え、氷のような瞳でハイデガーを見据えていた。 「ガハハハ、いい度胸をしている。俺を喰い止めるというのか、いいだろう相手になってやる」 「相手をしてあげるのはこっち。ファリス何してんの、早く逃げろって言ったでしょ!」 夏凛に怒鳴られてファリスは走り出した。夏凛はすでにファリスを見ていない。ハイデガーもそうだ。二人は互いを見据えている。 「今のアタシは前のアタシとは違うって言いたいところだけど、雨に濡れるとどういうわけだか力が出ない」 「そうだ、俺たちは水に濡れると運動能力が下がってしまう」 「なるほどね、それはアナタも同じでしょ?」 「そうだ、だが、俺は強い。お前が持つ天人[ソエル]の力見せてもらおう」 「今日は特別サービスでね」 地面を蹴り上げ天に舞う夏凛から水雫が落ちる。 ハイデガーの頭に夏凛の回し蹴りが炸裂する。夏凛はそのまま地面に手を付き着地しつつ飛び上がり、間合いを取って地面に落ちていた大鎌をハイデガーに向かって投げつけたしかし、大鎌の刃はハイデガーの胸に突き刺さる寸前に受け止められてしまった。 「そんな攻撃では俺は倒せんぞ」 「でも、アナタは自分の生命力を鼻にかけて防御が甘い。乱暴な戦い方をしているうちはアタシの繊細な攻撃を避けられない」 「それがどうしたというのだ、攻撃をしても俺を仕留めることができないのだろう」 ハイデガーは大鎌の柄をへし折って後ろに放り投げた。 夏凛はハイデガーと間合いを取りながら考える。確かにハイデガーに攻撃を喰らわすことができても、ダメージをならないのでは意味がない。 鴉は夏凛にこう説明したことがある。ソエルを倒すには『弱点は身体のどこかにある核を壊すことのみ』だと。この説明から察するに核はそれぞれのソエルで違う場所にあることになり、もしかしたら移動することが可能なのかもしれない。 自分にとってこの戦いが不利であることを悟った夏凛は軽くした打ちをした。 ハイデガーの両腕が二丁の銃へと変化する。 銃口が火花を噴き魔導弾が夏凛目掛けて連続発射された。 アクロバットを決めながら、夏凛はヒトとは思えぬ洞察力と瞬発力で銃弾を躱す。夏凛はそのままハイデガーとの距離を縮め、回し蹴りを放つ。 夏凛の右足がハイデガーの頭部に炸裂し、そのまま回転を維持し左足が胴を蹴り飛ばし、もう一度回転した夏凛の手にはどこからか取り出した大鎌が握られており、その刃はハイデガーの膝を切断した。 足を失い倒れつつもハイデガーは銃を放った。銃弾が夏凛の右肩を貫き、彼は後方に吹き飛ばされ、左手を地面に付きながら着地を決めた。 右肩は重症だった。 「くっ……アタシの再生力はアンタらほどじゃないけど、それなりにあるつもり。でも、さすがにこれは……」 大鎌をどこかに消した夏凛は右腕で肩を抑えた。それで血が止まるはずもなく、夏凛の表情は厳しい。 ハイデガーの脚が生え変わり、ゆっくりと立ったハイデガーは銃口を夏凛に向ける。 魔導弾を一発受けただけで重症だ。あれを二発も三発も受けてはいられない。 夏凛は冷静になれと自分に言い聞かせる。 核の位置を考えなければいけない。再生は核を中心に起こっていると推測される。つまり、首を切り飛ばした時も、腕を切り飛ばした時も、脚を切り飛ばした時も、胴体から再生した。いつか鴉が核を奪われた時は、心臓の位置に核があったが、ハイデガーも同じ場所にあるのか。普段は心臓の位置に核があり、それは自分の意思で移動することができるということなのか。 どこに核があるのかわからない以上は、可能性の高い場所を狙うしかない。 夏凛はハイデガーに向かって走り出した。飛び掛る銃弾を避けるが、その動きは先ほどに比べて切れがない。自然と身体が左肩を庇う動きをしてしまっているのだ。 銃口が火を噴き、その銃弾を夏凛は避け損なってしまった。夏凛の頬に紅い線が走った。かすり傷であったが、夏凛は地面にうずくまり、顔を伏せて震えた。 ハイデガーは銃口を夏凛に向けているが撃つ気配は見せない。 「どうした、どうしたのだ。もっと俺を楽しませろ!」 ハイデガーは何があろうと負けるとは思っていない。だから、この戦いを楽しみ、夏凛を弄んでいる。簡単には殺さない。 俯き震える夏凛は嗤っていた。 「……ふふっ」 「何が可笑しいのだ、恐怖のあまりに精神を病んだのか?」 高笑いを張り上げながら夏凛が凄い勢いで顔を上げた。 「ざけんなクソ野郎! 俺様の顔に傷つけやがって、いい度胸してじゃねえかテメェッ!」 狂気の目をした夏凛はアスファルトの地面を砕きながら地面を蹴り上げ、ハイデガーでも捉えることのできなかったスピードで拳を大きく振った。 夏凛の拳が顎を砕き、ハイデガーの巨体が大きく吹き飛ばされ、落下しながら地面を滑った。 地面に転がるハイデガーに夏凛が上空から襲い掛かる。身体の重さを重くした夏凛の足がハイデガーの顔とともに地面を大きく砕き飛ばす。 攻撃の手を止めない夏凛は大鎌を天高く構え、ハイデガーの胸に大きく振り下ろした。 銃口が火を噴く。大鎌は肉を貫く前に止まり、夏凛は腹を押さえながら地面に背中から倒れた。 首のないハイデガーが夏凛の首倉を掴んで持ち上げる。 夏凛は抵抗を止めた。 ハイデガーの首が生える。その顔についている双眸は燃えるように紅い。 「なかなかだったと褒めてやろう、だが終わりだ。血を多く失ってしまったので、お前の血を飲んでやろう、光栄と思え」 「嫌だね」 不適に笑った夏凛は両足でハイデガーの腹を蹴り、うまいこと逃げ出すと、大声で叫んだ。 「心臓を狙って!」 銃口が炎を噴いた。紅蓮に燃え上がる炎は咆哮をあげ、銃弾が纏っていた炎は大きな口をハイデガーを呑み込み、銃弾そのものはハイデガーの胸を貫いた 何かが弾ける音がした。それは硝子が割れた時の音に良く似ている。 ハイデガーが大きな口を開けて喉を押さえた。彼の身体に流れる血が枯れていく。 灰は灰に塵は塵に。ハイデガーは消滅した。その先には銃を構えたファリスが地面に尻餅をついていた。 ファリスはすぐさま地面に横になっている夏凛に駆け寄った。 「大丈夫、夏凛!」 「そうじゃなくって、どうして戻ってきたの、行けって言ったのに!」 「だって! 助けてあげたんだから、ありがとうぐらい言ったらいいじゃん!」 「助けてくれなんて言ってない」 「今の見たでしょ、あたしだって役に立てる」 「銃が自動照準で念じた方向に飛んだだけ。それに相手も油断してから」 ファリスは顔を膨らませて、すぐに笑った。よかった、夏凛は大丈夫そうだ。 しばらくしてアリスがこの場にやって来て、重症の夏凛を見て驚いた表情を見せた。 「まあ、夏凛様がこんな重症を負うなんて、すぐに救急車をお呼びいたします」 「早く呼んで……そうしないとマジでアタシ死ぬから」 そう言いながらも夏凛の右肩の血は止まっている。じきに腹のから出る血も止まるだろう。 夏凛は近くで自分を見つめるファリスの顔をちらっと見てから目を瞑った。 ――命賭けるなんて自分らしくもない。そう思って夏凛は苦笑したが、近くにいたファリスはその笑いの意味を理解できなかった。 エデン総合掲示板【別窓】 |
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