機械仕掛けの神(4)
 病院に着いた頃には夏凛の出血は止まっており、輸血だけをしてすぐに病院を出ることにした。ここに長居をするのは危険だ。うっかり普通の病院来てしまったことによって、敵に居場所がばれてしまう確立が大きくなってしまった。夏凛は今更ながら悔やんだ。
 雨はすでに止んでいたが、空に広がる曇天が地上を圧迫している。
 病院を出ると二人の人物がファリスたちを出迎えた。白い影のひとりは夏凛にも見覚えがあった。
「こんにちは夏凛様」
 夏凛に声をかけたのは政府組織ヴァーツに所属するフィンフであった。その横にいるのは同じくヴァーツに所属するツェーンだ。
 ファリスを後ろに押し退けて夏凛が前に出た。
「こんにわぁ、フィンフさん。アタシ今すご~くヒマなんですよぉ、だから一緒にお食事に行きませんかぁ?」
 夏凛の声のトーンはいつもよりも高めで、態度もぶりっ子している。
 失笑を浮かべるフィンフはすぐに表情を戻して落ち着いた口調で話しはじめた。
「夏凛様、嘘はいけませんよ」
「ウソだなんて、そんなことないですぅ」
「いえ、あなたは敵に命を狙われているはずです。ですから、こうしてわたくしとこちらに居りますツェーンで、あなた方お二人の保護と事情聴取に参りましたのですよ。事情がお分かりになられたらのなら、わたくしたちとあちらの車にお乗りください」
 フィンフは後ろに止まっているリムジンを指差した。
 夏凛が後ろを振り向くとファリスが心配そうな顔をしていた。
「この人たち誰なの、夏凛の知り合い?」
「申し訳ありません、わたくしとしたことがファリス様に自己紹介をするのを忘れておりました。政府組織ヴァーツに所属するフィンフと申します」
 続いてツェーンも自己紹介をした。
「僕も同じくヴァーツに所属するツェーンと言います」
 ツェーンの口調はとても柔らかで、それを聞いたファリスの心をほっとさせた。
 夏凛はフィンフがヴァーツであることを知っていたし、フィンフが戦っているところも見ている。そのため、何の疑問も抱かずにリムジンに乗り込んだ。
 ファリスもまた、夏凛がリムジンに乗り込んだのを見て安心してリムジンに乗り込む。そして、全員が乗り込んだのを確認してから、最後にツェーンは車に乗り込んだ。
 走り出した車は大きな通りを進み、巨大都市の中心に向かっている。
 都市の中心には円形の土地があり、その周りは濠で囲まれているその都市の中心に聳え立つ絢爛豪華な巨大建築物は天を突き、現代風というよりはバロック建築の宮殿を思わせる宗教かがったデザインがなされていた。その宮殿の名は夢殿――政府の総本山だ。
 リムジンの中で寛ぐファリスと夏凛は、フィンフに勧められるままに飲み物を受け取った。
 車内は広々としていたが、フィンフは夏凛の横に、ツェーンはファリスの横に、常に神経を尖らせながら座っていた。
 咳払いを軽くしたツェーンはファリスをちらっと見てから夏凛に目を向けた。
「僕たち二人で夏凛様とファリス様の護衛をさせていただきます。僕がファリス様を、フィンフが夏凛様の護衛をさせていただきます。そして、今向かっている場所は夢殿です。夢殿の中に入れば、お二人の安全は絶対に保障されます」
 ツェーンの言葉に真剣に耳を傾けていた夏凛の眉がぴくりと動く。ファリスも驚いて口をO型に開けてしまった。
 夢殿の出入りを許されているのは主に要人であり、一般人の出入りは基本的に許されていない。つまり、ファリスと夏凛は基本的外ということになる。それほどまでの重要人物のファリスと夏凛はなってしまったということだ。ヴァーツがわざわざ向かいに出向くだけのことはある。
 ツェーンは一息つき、
「質問はありますか?」
 とファリスと夏凛の顔を交互に見た。
 ファリスはいろいろと尋ねたいことがあったが、考えが錯綜して何を質問していいのかわからなかった。ファリスが難しい顔をしていると、夏凛が可愛らしく手を上げて〝魅せた〟。
「はぁ~い、質問で~っす。アタシたちはどこの誰に狙われているから、保護されるんですかぁ?」
 ツェーンが答える前に、フィンフが速答した。
「それは夏凛様たちもご存知のはずです。わたくしたちにはそれ以上申し上げられません」
 何かを隠すような言い方をしたフィンフに対して、夏凛は顔を伏せて舌打ちをした。
「では、僕たちからも質問をさせていただきます。夏凛様たちは誰に狙われて、狙われる理由を何かご存知ですか?」
 今のツェーンといい、先ほどのフィンフの回答といい、どちらも遠まわしな言い方だった。必要以上に政府の事情を知られたくないという意図と、それでいて夏凛たちが知ってしまった事情を聞きだしたいのだ。
 答える気のなさそうな夏凛は外の景色を眺めている。できれば夏凛から事情を聴いた方が、より詳しいことがわかるのではないかと考えていたツェーンであったが、相手に答える気がないのならファリスに訊くしかない。
「ファリス様は何かご存知ですか?」
「ユニコーン社のハイデガーって奴が――」
 話している途中で自分を睨みつける夏凛が目に入ったので、ファリスはすぐさま口を噤み俯いた。
 口を閉ざす二人に対して強引な手を使うこともできたが、あくまで二人は保護する対象であり、犯罪者の類ではない。ツェーンはお手上げという素振りを見せてフィンフに後を任せた。
「仕方ありませんね。夏凛様たちを狙っていたのはハイデガーだということはわかっています。しかしながら、夏凛様とハイデガーの接点はなく、ハイデガーとの唯一の接点はファリス様です。ファリス様はハイデガーが社長を勤めるユニコーン社によって〈ホーム〉から立ち退かされたというところまでは調べがついています。ですが、それがハイデガーに狙われる原因に成り得るのか。――そもそも、狙われたのはどちらなのか、それともお二人が狙われたのか、そのことについてお聞かせ願いたいのですよ」
 ファリスは夏凛に顔を向け、夏凛は無表情に外の景色を眺めている。
 あやふやな状況下であったが、それでも政府は二人を保護――というより野放しにできない理由があるのだ。最悪の場合、このようなことも検討されている。
「お話し願えないのなら、お二人を〝拘束〟もしくは、この世から消えていただく場合もありますよ」
 フィンフは微笑みながら言ってのけた。真横にいたファリスはぞっとする思いだった。これでは車に乗り込んだその時から、〝保護〟ではなく〝拉致〟されたようなものだ。
 人心に穏やかではない雰囲気が車内を満たし、ファリスは全てを告白したい思いだった。しかし、夏凛が話すようすを見せないのでファリスは想いを喉の奥へ呑み込んだ。
 場の雰囲気を汲んでツェーンが苦笑いをして見せる。
「夏凛様は一流のトラブルシューターとして名を馳せていますから、脅しには屈しないでしょうし、こちらのファリス様も口が堅いようで、〈ホーム〉育ちの人はみなさんこのようなのでしょうかね」
 突然車内が揺れた。
 リムジンは何かの攻撃を受け、近くを走っていた車に衝突しながら緊急停止した。
 運転手からの声がスピーカー越しに響いた。
「街中ではありえない数のキメラ生物が襲ってきます! どうしますか、このまま逃げますか?」
 窓の外ではリムジンを囲うようにキメラ生物が群がっていた。それを見たフィンフが車外へ飛び出そうとする。
「わたくしが足止めしている間にお行きなさい!」
 夏凛も席を立った。
「狙われてるのはファリスだから、さっさと車を出して!」
 急いでフィンフが車を降り、夏凛もそれに続いた。
 車を降りた夏凛を見てフィンフが渋い顔をする。
「わたくしひとりで十分でしたのに」
「加勢しますから、その後に食事に行きましょうねぇ」
 ニコニコする夏凛を見てフィンフは肩を落とした。
 二人をこの場に残してリムジンがタイヤを鳴らす。フィンフたちの手を溢れたキメラ生物たちが、高速で走るリムジンを追って来る。
 見た目が白い虎であるキメラ生物――その名も白虎と名づけられた四つ足の獣が長い道路を失踪する。空からは翼のある獅子に鷹の頭を付けたグリフォンが追って来る。
 風を切るリムジンは周りを走る車両にお構いなしに無謀な走行を続ける。車の往来が多い道路をジグザグに走り、道が空かないものなら体当たりをしてでも空ける。市民の安全よりも任務が優先なのである。
 道の脇から白い塊が出て来て道路を塞いだ。わき道はなく、逃げ場を塞がれてしまった。
 運転手の叫びが車内に木霊する。
「アーマーの大群に道路を塞がれました。でも、こんなにも多くのキメラを見つからずにいっせいに街に放つなんて……」
 道路を塞いだ白い生物の通称はアーマー。その全長は約五から六メートル、全身が硬い甲殻に包まれていて、濁った白色をしている。そう例えるならば白い色をした巨大ダンゴムシのような生物だ。
 多くの車がアーマーを見て引き返して来る。リムジンは動きを止めている。
 道路に並んだアーマーが五つの紅い眼を光らせて行進してきた。後ろからは白虎が来る。空からはグリフォンが飛来して来た。
 ツェーンがファリスの腕を引き車内に飛び出した。そこにすぐさまグリフォンが襲い掛かる。
 紅が道路を彩った。身体と切り離されたグリフォンの頭部が嘴を痙攣させて動かしている。
 ツェーン右手の手首から肘にかけて刃が生えていた。それは鮫の背鰭のような形をしており、拳を振りながら敵を斬るというものだった。
 息つく暇もなく白い四つ足の影が飛び掛かって来るファリスから手を放したツェーンの腕が槍と変わり、白虎を串刺しにした。
 血の雨がツェーンに降り注ぎ、身体中に血臭がこびり付く。微かに笑うツェーンは口元についた血を舌で舐め取った。
 白い波が道路にある車などを呑み込んでいく。足をばたつかせて移動するアーマーによって地面が揺れる。
 手を元に戻したツェーンがファリスを抱きかかえた。
「失礼します。しっかり僕に掴まっていてください」
 大きく広がった翼から羽が抜け落ち宙を舞う。ツェーンの背中に現れた白い翼を見てファリスははっとした。
 天高くファリスはツェーンとともに舞い上がった。
「ここまで来ればまずはひと安心と言えるでしょう」
 ニッコリと笑うツェーンの顔を不安げにファリスは見つめた。
 ファリスは夏凛のマンションで黒い翼を生やし空に飛び立つハイデガーを見た。翼を背中に生やすヒトが滅多にいるはずがない。ということは、このツェーンも鴉やハイデガーと同じ種族なのだろ、とファリスは思う。
 廃墟ビルではじめて出逢った鴉はファリスにとって信頼できる存在であった。ツェーンも政府で働いているのだから、信頼にたる人物なのだろう。鴉と同じ種族の人たちが、種族同士で戦っている。ファリスは自分がどんなことに巻き込まれてしまったのか、不安になった。
「あなたたちは何者なの?」
「僕に答える権限はありません。ファリス様も全てことが済んだら、僕たちのことを忘れてください。では、ここまま空を飛んで夢殿に向かいましょうか」
 翼を羽ばたかせたツェーンの後ろから何かが来た。ファリスはそれを見て叫ぶ。
「後ろに敵!」
「えっ?」
 ぽかんと口を開けたツェーンの身体が大きく揺れ、ファリスがツェーンの胸から投げ出された。
「きゃーーーっ!」
 声をあげながら落下するファリスをツェーンは追った。
 ファリスの手が天に伸び、ツェーンがそれを掴もうとした瞬間、横から割り込んで来たグリフォンが嘴でファリスを挟んで掻っ攫って行ってしまった。
 嘴に挟まれながらできる限りの抵抗をしたが、ファリスに逃げる術はなかった。肝心の護衛であるツェーンは新たに襲って来たグリフォンと交戦中で、ファリスを追うことができないようだった。
 ファリスの叫びは虚空に呑み込まれてしまった。

 千歳は巨大兵器〈アルファ〉を前でうろうろと歩き回っていた。その歩調は足早で、足音がよく響いている。鴉が逃げ出したという連絡を受けてから、千歳の怒りは治まることを知らなかった。
「ルシエルは何をしていたのよっ!」
 鋭い爪によって千歳の近くで機械の整備をしていた男の首が血飛沫を上げた。
 床に転がる首を力強く蹴飛ばした千歳は肩で息をしながら心を落ち着かせていく。
 千歳の気まぐれで殺された男は運が悪かったで済まされ、他の者たちは見て見ぬふりをして自分の仕事を続ける。
 〈アルファ〉の調整はだいぶ前から整っている。それなのに関わらず、〈Mの騎士〉であるゾルテが〈裁きの門〉によって審判を下され、代わりになるはずだった鴉は逃亡した。そして、〈Mの巫女〉を捕らえたという連絡はまだ来ない。千歳の苛立ちは募るばかりだ。
 天人[ソエル]に伝えられている伝説では、神は己の姿に似せて天人[ソエル]を創った。しかし、それは己を美化させた存在であり、その美しさの奥には神の持つ悪を備えていた。だから、楽園[アクエ]で反逆者が現われたのだと云われる。
 天人[ソエル]の次に神は己の姿に似せて地人[ノエル]を創り出した。天人[ソエル]を清らかな炎で創ったのに比べ、地人[ノエル]は天人[ソエル]を創った時に出た汚泥で創られたと云われる。しかし、この地人[ノエル]も神の望む種族にはならなかった。
 ――神は去った。全ての生けるものたちを置き去りにして去ってしまった。
 そして、千歳たちは神に代わる存在〈アルファ〉を創り出したのだ。
 地人[ノエル]の住む地上[ノース]に堕とされ、堕天者[ラエル]がなぜ身を潜めて暮らさねばならないのか。千歳は天人[ソエル]は地人[ノエル]の上に君臨するものだと信じている。それは自分が堕天者[ラエル]となった後も変わらない。
 堕天者[ラエル]たちが身を潜めて暮らさねばならないのは、地上[ノース]を管轄するヴァーツの存在があるからだ。
 地上[ノース]に堕ちた天人[ソエル]は楽園[アクエ]には還れない、それはヴァーツも同じことだった。還れないのなら、地上[ノース]を楽園[アクエ]にするしかない。ヴァーツも堕天者[ラエル]もそう思っている。
 千歳はもう待てなかった。
「この地上[ノース]を支配するのはヴァーツでもアンチ・クロスでもルシエルでもない。このわたしが支配するのよ」
 永遠とも思える時の流れを刻んだ。生きた時間に比べれば、地上[ノース]で過ごした時間など短いものだ。しかし、その時間は千歳にとって耐えがたいものだった。だから一秒も待てない。
 苛立ちを覚える千歳に近づいてはいけないという暗黙のルールがある。それを知っていながら、男が駆け寄って来た。それほどまでの事情があるということだ。
「千歳様、ハイデガー様が消滅したと連絡が入りました」
「ハイデガーが!?」
 驚きはした。天人[ソエル]には死という概念が抜け落ちているところがある。そのため、他者[ソエル]の死に対して実感がわかない。だが、ハイデガーの消滅を実感した千歳は妖艶とした笑みを浮かべた。
 例え力のある堕天者[ラエル]とて、自分に牙を向ける可能性がある者は必要ない。千歳の目の前には凄然と立つ〈アルファ〉がいる。千歳にはこの守護神がついている。この神に魂さえ宿れば、全ては千歳の手の内に治まる。
 巨大な神を見上げる千歳の横顔に男が話し掛ける。
「ハイデガー様の部隊は殲滅させられ、〈Mの巫女〉の所在は掴めていません」
「それで、ハイデガーを殺ったのは誰なの?」
「〈Mの巫女〉と行動を共にしているらしいトラブルシューターの夏凛という人物か、もしくはハイデガー様の向かわれた館の主である魔導師か……詳しいことはわかっていません」
「それにしても地人[ノエル]に殺られてしまうなんて、ハイデガーも悔しかったでしょうね。命令よ、〈Mの巫女〉を早急に探しなさい」
 艶かしい笑みを浮かべる千歳を見て男はぞっとした。〈Mの巫女〉を探さなければ命が幾つあっても足りない。
 男が去ってすぐに別の男が現われた。その男の顔を見た千歳は驚きの表情を隠せなかった。
「まさか……なぜ、どうやって〈裁きの門〉から出て来たの……?」
「余の主と名乗る者に連れ出された」
 そこに立っていたのはゾルテであった。それが千歳には信じられない。夢か幻としか思えないのだ。
「ありえないわ、そんなことができる者がいるはずがない」
「だが、余はここに存在する。余は〈裁きの門〉から出たのだ」
「いいわ、そう、別に構わない。あなたが戻って来てくれればM計画は遂行できる。〈アルファ〉の整備は整っているわ、あなたの核を捧げれば、〈アルファ〉は起動できる」
「〈Mの巫女〉はどうなっている?」
「心配ないわ、すでに〈アルファ〉に制御装置として組み込まれたわ。さあ、あなたの核を〈アルファ〉に捧げて」
 千歳は待てなかった。だから堂々と嘘をついた。その嘘をゾルテは見破ることができなった。堕天者[ラエル]の成り切れていないゾルテは疑うということを忘れていたのだ。
「よかろう、余の核を受け取るがよい」
 鋭い爪を自分の胸に衝き立てたゾルテは、そのまま一思いに自分の核を取り出した。
 表面は濃い紅色をしており、内側から発せられるダークレッドから明るいローズのモザイクの濃淡が心を奪う。この核を宝石に例えるならば、類稀なる美しさを持つルビーであるピジョンブラッドに似ている。
 鮮血の滴り落ちる核は天に掲げられ、ゾルテの手を離れて空にゆっくりと上がっていく。
 まだ、魂の宿っていない〈アルファ〉の瞳が、ゾルテの核と反応して緋色に妖しく輝く。
 低い重低音が格納庫に響き渡った。それは〈アルファ〉の咆哮であった。口を大きく開けた〈アルファ〉が叫んでいる。
 核が炎を発し、巨大な闇の中に放り込まれた。核を呑み込んだ〈アルファ〉に魂が宿る。
 〈アルファ〉の全身に浮き出ている血管のような模様が、蒼白い輝きから真紅に変わり、脈動感が溢れんばかりに生命根源の力が奮い起こされる。
 重低音が空気を震え上がらせ、千歳の身体をゾクゾクと痺れさせた。
 恍惚の表情を浮かべる千歳。目の前には千歳を地上[ノース]の覇者へと導く魔神が聳え立つ。
 全ては自分の中にあると千歳は確信した。だが――。
 壁が叩き壊され、地面に穴が空き、魔神〈アルファ〉の咆哮が響き渡る。それは暴走だった。制御装置となる〈Mの巫女〉を生贄として捧げなかった千歳の誤算。全てはわかりきっていた結果だった。
 暴走を起こすことなど千歳にもわかっていた。それでもどうにかなると思い込んでいたのだ。愚かな妄想を現実だと思い込んだ末路。
 けたたましいサイレンが鳴り響き、赤いランプが点滅を繰り返す。技術者や研究者たちが逃げる中、千歳は魔神を見上げていた。
「わたしの命令を聴きなさい! おまえはわたしを地上[ノース]の覇者とする道具なのよ!」
 千歳の声は木霊するだけだった。
 なぜ自分の言うことを聴かない。千歳は納得がいかず、怒りが腹の底から湧き上がってくる。
「わたしが支配者よ、わたしがおまえの創造主なのよ!」
 やはり、〈アルファ〉は言うことを聴かない。
 巨大な足が横に振られ、そこにたまたま立っていた千歳の身体を大きく飛ばす。骨が折れて肉を突き破り、全身血だらけになりながらも千歳は喚いた。
「わたしの言うことを聴かないものに用はないわ、おまえは塵よ、鉄屑よ!」
 千歳の眼が大きく見開かれた。巨大な影が千歳の頭上に迫っていた。
 骨が砕け、軟らかいモノが潰れた音がした。
 上げられた〈アルファ〉足の裏は真っ赤な色で染まっていた。
 〈アルファ〉に呑まれたゾルテの意思はない。では、〈アルファ〉には意思があるのか?
 巨大な腕を振り回し暴れまわる〈アルファ〉は、やがて天に向かって吼え、背中に鋼色の翼を生やした。翼に魔導力が集まり黄金に輝き出す。
 天井には地上へと続く道がある。
 模造の神が天に向かって飛び立つ。
 大きく羽ばたかれた金属の翼から、本物の翼のように羽根が抜け落ち舞う。
 強風に煽られ千歳が顔を覆った。次の瞬間、魔神〈アルファ〉が飛んだ。壁にぶち当たりながら、ぎこちなく地上に向かって行く。
 天井には光が見えない。地上に通じる昇降口は閉められたままだった。それでも〈アルファ〉は地上に向かって突き進んだ。
 強烈な音を立てながら鋼鉄の扉が破壊された。
 爆発が巻き起こり、地の底から唸り声がした次の瞬間、道路を破壊し、ビルを倒壊させ、巨大な影が街中に姿を現した。
 空に浮かび、地上を統べる者の風格を持つ〈アルファ〉が激しく吼えた。
 新たな神が今、人間たちの前に姿を現した瞬間だった。

 グリフォンに連れ去られたファリスは泣き叫んでいた。恐怖よりも悔しいという気持ちの方が強い。
 憎むべき相手だったハイデガーを自分の手で殺し、ヴァーツの保護により夢殿に向かうはずだった。あと一歩というところだったのに、敵に攫われたことが悔しかった。そして、自分の戦いがまだ終わってないことも実感した。
 ビルの合間を縫うように飛ぶグリフォンはどこに行くのか――などということは今のファリスには、どうでもいいことだった。今は逃げたい一心で身体を動かす。だが、両腕は嘴によって挟まれ、動かせるのは宙に浮いた足のみだった。これではいくら暴れてもどうにもならない。
 大声を出しても誰も助けに来てはくれない。声を出すのが虚しくなってくる。それでもファリスは諦めたくない。何も打つ手がなくても、何もできない自分が嫌だった。
 強引に腕を動かしていると右腕が偶然にも抜けた。ファリスは迷うことなく腰のフォルスターから銃を抜いた。
 こんな場所で魔導銃を撃ち放ったら、どんなことになるかファリスにもわかっていた。それでも彼女は銃の引き金を引いた。
 紅蓮の炎に包まれたグリフォンが叫び、思わず開いた口からファリスが落ちる。
 銃を放った際にファリスも軽い火傷を負った。近距離で銃を放って軽症で済んだのは炎が意思を持っているに他ならない。しかし、軽症で済んだと言っても、このまま地面に落ちれば意味がない。そこに待っているのは死だ。
 敵の手に落ちるなら、いっそ自分から死んでやる。ファリスはそう思いながら目を閉じた。自分はよくやったと思う。ハイデガーを倒したのだから、これで死んだ兄も少しは報われるだろう。
 ファリスは地面に向かって落ちる中、ビルの屋上から黒い影が空に向かって飛んだ。そう、それは鴉であった。
 黒衣を大きく広げ、鴉はファリスの身体を受け止めた。
 ファリスが目を開けると、そこには自分を見つめる黒瞳があった。とても愁いを帯びた瞳。
 血のように紅い唇が言葉を発する。
「衝撃に備えろ」
 同じような状況で、同じようなことを言われたことをファリスは思い出した。自分を助けてくれる人がいるうちは死ねない。
 黒衣が風に煽られ、地面に落ちる速度を緩めてくれるが、それでも地面に落ちた時の衝撃は激しい。アスファルトが砕け、隕石でも落ちて来たのかと思うほどの穴が空く。それでいて鴉もファリスも無事だった。
 地面にファリスを下ろした鴉は無言で歩き出す。
「待ってよ、どこに行くの?」
「静かに暮らせる場所を探す」
 ファリスは返す言葉を喉に詰まらせてしまった。鴉には自ら敵と戦う意思がないのだとファリスは思ったのだ。それはファリスにとってまさかの発言だった。鴉は敵を倒しに行くものだとばかり思っていた。
「ねえ、あたしはどうなるの?」
「好きにするといい」
「それって鴉に着いて行ってもいいってこと?」
「好きにするといい」
「何その返事! じゃあ、さっきはどうしてあたしのこと助けてくれたの?」
 鴉は答えなかった。
 命の恩人にファリスは腹を立ててしまった。決して憎いわけではなく、自分でも何に対して怒っているのかわからない。
「ハイデガーをこの手で殺してやったの」
 遠くを見つめながら歩く鴉の横で、ファリスが顔を上げながら話しかけるが、鴉は顔を向けようともせず無表情なままだった。
「ねえ、聴いてるの?」
「…………」
 何も答えない鴉にファリスは一方的に話しかけることにした。
「ハイデガーは死んだのに、あたしはまだ誰かに狙われてるの。さっきの怪物もそう。あとね、ハイデガーがあたしのことを第三の種族だとか言ってたの、だから狙われてるんだって。第三の種族って何のことだか知ってる?」
「天人[ソエル]でもなく、地人[ノエル]でもない、新人類[ニュエル]と呼ばれる者だ」
 やっと口を開いた鴉にファリスは質問をした。
「ソエルとかノエルとかニュエルって何? どこの言葉なの?」
「天人[ソエル]とは私たちの種族を言い、地人[ノエル]とはファリスたちの種族を言う。新人類[ニュエル]とは天人[ソエル]と地人[ノエル]の力を持つ者。しかしながら、それはエスと呼ばれる怪物とは違う。エスとは天人[ソエル]によって怪物に変えられた地人[ノエル]のことを言う。天人[ソエル]が怪物と化すことをエンシュという。エスとはエンシュから派生した言葉だ。そして、新人類[ニュエル]の存在は伝説でしかないと云われている。天人[ソエル]は新人類[ニュエル]を認めたくないのだ」
「全然わかんないよーっ」
「知る必要もない」
 その声はいつもの鴉の声であったが、ファリスにはとても冷たく聴こえた。
 昏い黒衣が揺れている。鴉はすでにファリスの先を歩いていた。このままでは置いて行かれてしまう――心が。
 ファリスは鴉の横に付くと、嬉しそうに顔を上げた。
「やっぱり生きてたんだね」
 今更の言葉だった。だが、そこにファリスの想いは詰められた。鴉に通じたかはわからないが、ファリスは満足した。
 街中はいつもと変わらない。先ほど空から鴉とファリスが降って来たことなど忘れられている。刻々と変化を続ける街。
 雲の流れも速くなっている。
 急に足を止めた鴉は天を見上げてファリスを抱き寄せた。ファリスは顔を紅く染めたが、次の瞬間には驚きに変わっていた。
 誰かが叫んだ。黒衣が触手のように天に伸びる。そして、再び悲鳴が上がる。甲高い悲鳴はグリフォンのものだった。
 黒衣が元の形に戻り、串刺しにされていたグリフォンが地に落ちる。
 地面で口をパクパクとさせるグリフォンを一瞥しながら鴉は言う。
「元凶を断たぬ限り、狙われ続けるだろう」
「だったら、やっつけちゃってよ」
「堕天者[ラエル]とて、共に楽園[アクエ]で――」
 言葉を途中で切った鴉の表情が険しくなった。視線は遠くを眺めている。それも地に底だ。
 地面が揺れる。地面を揺らしながら何かかが地上に上がって来る。
「来るぞ!」
 鴉が言ったと同時に激しい揺れが起こり、遥か遠くで地面が弾け飛んだ。
 地の底から黒い影が天に昇った。
 曇天の下で輝く翼を持つそれは、まさに天から光臨されたし天使のようである。しかし、この天使は地の底から這い出て来た。天使の名よりも堕天使の名が相応しい。
 天に向かって吼えた〈アルファ〉は翼を大きく広げた。巻き起こる風は叫び声のような音を立て、抜け落ち風に煽られた黄金の羽が刃と化して地に降り注ぐ。
 〈アルファ〉の発する魔気に誘われ、天[ソラ]に雷鳴が轟き巡る。
 人々は精神[ココロ]の底から震え上がり、次元の違う存在から逃げようとする。車の玉突き事故で道路が炎上し、倒れた人の上を踏みつけて我先に逃げるような状況だった。
 鴉はファリスの瞳を見据えた。
「どこにいても危険だ。しかし、私と来ればどこよりも危険になる。それでも私と来るか?」
「あのバカデカイロボット倒しに行くんでしょ。あたしが行くと邪魔になるよね。だいじょぶだって、あたしだって自分の身ぐらい守れるよ」
 そう言ってファリスは腰から魔導銃を抜いて見せた。
「――行って来る」
 走り出した鴉の背中にファリスは声を投げかけた。
「帰って〝来る〟だよね!」
 その声が鴉に届いたかはわからない。待つしか他にないのだから、ファリスは待つしかない。自分が付いて行っても邪魔になることぐらいわかっている。それでも……。
 ファリスは鴉の向かった方向に走り出してしまっていた。

 近場にいたキメラどもを倒し終えた夏凛とフィンフは、リムジンの激走して行った方向へと走った。
 フィンフの移動速度は異常なほど早かったが、夏凛は難なく付いて行く。そんな夏凛にフィンフは感嘆の声を漏らした。
「普通の人間がわたくしのスピードについて来られるとは。これでもヴァーツの中では最も移動速度が速いのですが」
「じゃあ、驚きついでに今度お食事でもぉ」
「全然ついでではないようですが?」
「じゃあ、フィンフさんを抜かしたらお食事を?」
「ならば、わたくしも〝本気〟で走らせて頂きますが?」
「いや、辞退させていただきます」
 夏凛にはこれが限界であった。すでに時速八〇キロメートルを超えているというのに、フィンフはまだ早く走れると言うのか。夏凛はフィンフが光速で移動できることを知らなかった。
 地面に足の裏を擦りながらフィンフが急ブレーキをかけた。夏凛も慌てて止まろうとする。だが、地面の窪みに足を引っ掛けてコケた。
 巻き上がってしまったスカートを素早く直して夏凛は苦笑いを浮かべた。常時スパッツ着用で本当によかったと思いながらも、フィンフに失態を見せたことが夏凛に残る乙女心を傷つけた。
 照れ笑いを浮かべながら、服に付いた汚れを払い、くるっとスカートの裾を巻き上げながら回転する夏凛。だが、その足は一八〇度回ったところで止まった。
「ム、ムシぃ~!?」
 ダンゴムシによく似たアーマーの大群が道路を爆走してくる。
 鳥肌を立てた夏凛はこれに乗じてフィンフに抱きつき、ニヤリと笑った。
「ムシ怖いですぅ~」
「夏凛様、大丈夫でしょうか?」
「あんなムシ早くやっつけちゃってくださぁ~い」
「夏凛様は蟲がお嫌いなのですね。わかりました、夏凛様はしばしここでお待ちください」
 巨大な槍を構えたフィンフは蟲の大群に向かって行った。
 敵を察知したアーマーはいっせいにフィンフに飛び掛かった。下腹部についた鋭い牙を持つ口が蠢いているのがよく見える。
 アーマーの頭脳は犬並みで、連係プレイを得意とする生き物だ。しかし、その連係プレイも虚しく終わる。
 飛び掛かってきたアーマーの吐いた粘液を巧みに躱し、フィンフは一匹、二匹と、次々に串刺しにしていく。
 空気を鳴らすように『キシャーッ』と叫ぶアーマーが次々と息絶えていく。
 華麗な戦いを前に夏凛はフィンフを惚れ直した。
 アーマーの甲殻はダイアモンド並みの強度を誇るが、腹部に当たる部分はぶよぶよしていて柔らかい。そこを攻撃してやればいとも簡単に仕留めることができる。夏凛ならばそうやって倒す。だか、フィンフは違う。硬い甲殻をいとも簡単に串刺しにしている。それは武器の性能か、それともフィンフの技量の成しえる業か――両方なのだろう。
 フィンフの戦いに見惚れていた夏凛の耳に地響きが届いた。その音は後ろから迫ってくる。
「ムシぃ~っ!」
 ビルの角を曲がり現れたアーマーの大群が、夏凛がいる方角へと走って来る。フィンフは夏凛の遥か後方で戦っている。夏凛は仕方なく大鎌を出してアーマーに向かって行った。
 嫌な顔をしながらも夏凛は大鎌を振るう。
「こんな汚らわしいの斬りたくないなぁ」
 アーマーは獲物に飛び掛かって襲う習性がある。そこが狙い目だ。
 飛び掛って来るアーマーに合わせて飛翔した夏凛は、意を決してぶよぶよした蟲の腹を斬り裂いた。斬り裂腹から勢いよく緑色の粘液が飛び出したが、夏凛はうまくそれを避けた、のも束の間で、次のアーマーたちが襲い掛かってきた。
 笑みを浮かべながら華麗に舞う夏凛は三匹同時に腹を斬ってやった。しかし、その瞬間、夏凛は身も凍る思いをした。
「イヤぁ~っ!」
 緑色の粘液が夏凛に襲い掛かる。夏凛は避けきれず、身体は緑色の粘液で汚された。しかも、顔までやられている。
 まだ、アーマーは残っているというのに、夏凛の手からは鎌が滑り落ち、地面にへたり込んでしまった。その表情はまるで魂の抜けた美しい西洋人形のようだ。しかし、顔は汚れている。
 蟲たちがいっせいに粘糸を吐き出す。それは夏凛の自由を奪い拘束する。
 糸のキレた操り人形の口元を少し上がる。
「下等な蟲の分際で粋がってんじゃねぇぞ、俺様の顔を汚した代償はつくぞオラッ!」
 粘液を豪快に引き千切った夏凛は大鎌を力強く構え、大きく円を描きながら乱暴に振り回した。
 爆裂風が巻き起こり、真空を作り出しことにより蟲たちは大鎌に吸い込まれるように斬り裂かれ、緑色の粘液が夏凛の全身を汚した。
 大鎌を持ち立ち笑う夏凛の周りには、原型を留めていないミンチがあった。
 急いで夏凛のもとへ駆けつけたフィンフは一部始終を傍観してしまっていた。
 ふと、フィンフと目があってしまった夏凛は、凄く慌てたようすで大鎌を地面に投げ捨てた。
「あ、えっと、蟲さんたちぃ~、アタシを怒らせると酷い目に遭っちゃいますで御座いますよぉ~……てへっ」
 今先ほどの夏凛とは別人であるが、これはこれで可笑しい。ずいぶんと動揺していることは間違いない。
 夏凛はポケットからハンカチを取り出し、顔をごしごし拭きポイっと投げ捨てると、後退るようにその場を離れてフィンフの横にぴったりとくっついた。
「怖かったですぅ~」
「ええ、わたくしも怖かったです」
 苦笑いを浮かべるフィンフは夏凛の本性を知った。それでも夏凛はめげずにブリッコをする。
「早くファリスとツェーンさんを探しに行きましょうよぉ」
「そ、そうですね。いや……」
「嫌?」
「何かが来ます、それも凄まじい鬼気を発しています」
 轟々という音を立て、地面が空に飛び砕け、地の底から巨大な何かが飛び出てきた。
 雷鳴轟く曇天の下で、輝く翼を持つ〈アルファ〉が吼えた。
 輝く黄金の槍が地面に降り注ぐ。
 フィンフは言葉を失った。
「あんなものが地上[ノース]に在ろうとは、信じられない」
「あるんだから、しょ~がないですよねぇ」
「わたくしひとりでは歯が立たない。ここは応援が来るまで、どこからか湧いて出たキメラたちを倒して回るしかないようですね」
「じゃ、アタシは行って来ま~す」
 夏凛はフィンフに背を向けて走り去ろうとした。
「行くのですか夏凛様は?」
「勝てない敵に立ち向かうほどバカでもないし、熱血でもない。でも、あっちの方って大好きなお兄様の家があるから」
 フィンフに見えない位置で夏凛は苦笑した。そして、〈アルファ〉に向かって走って行った。

 空を飛び移動し続ける〈アルファ〉の身体から何かが地上に降って来た。
 地上に降り立ったそれは女の顔を持っている。
 女は妖艶な上半身をさらし、豊かな乳房を揉みしだく。濡れた唇から熱い吐息が漏れる。紅い液体を口から滴らせる女は、舌を上手に使って口の周りについた液体を拭い取った。
 鴉の目の前にいる女の上半身は女体であったが、下半身は蜘蛛のようである。そして、その妖艶な顔はまさしく千歳のものだった。
 巨大蜘蛛の怪物と化している千歳は近くに止まっていた車の中で震える家族に狙いを定めた。
 千歳は車の窓を打ち破り、運転席にいた中年男を車外に引きずり出し、その頭から喰らい付いた。
 道路が血に染まり、車内に乗っている中年女性は失神し、男の子は目を大きく開けたまま固まり、女の子は悲鳴をあげながら泣きじゃくった。
 次々と千歳は車の中に乗っていた人間を喰らっていき、最後に残した女の子を車外に引きずり出した。
 この場に駆けつけた鴉は見た。怪物と化した千歳の周りには血を吸われ、挙句の果てに身体の一部を喰われた人間たちが転がっていた。凄惨な光景にまともな精神を持つ者なら目を覆いたくなる。
 鴉が深く呟いた。
「……エンシュか」
 千歳は幼い女の子の顔を舌で舐めると頭から喰らい付こうとした。
 黒影が風に乗る。次の瞬間には女の子は鴉の胸に抱かれ、千歳から遠く離れた場所にいた。
「早く逃げろ」
 女の子は震えながら瞬きを何度もして叫びながら走って行った。それを千歳がすぐに追おうとする。
「飲み足りないわ、もっと、もっとわたしの聖水[エイース]を頂戴」
 声をあげる千歳の前に黒い影が立ち塞がる。
「行かせはしない」
「嗚呼、その声、姿は誰かしら……、遠い昔に見た顔……、もう頭が蕩けてしまってわからないわ」
 恍惚の表情をした千歳が虚ろな目で鴉を見ている。
 鴉は遠い記憶を手繰り寄せた。楽園[アクエ]での日々を思い出す。そこに千歳の顔があった。
「確かリリスと言ったな。大量の地人[ノエル]を虐殺して血を貪り、挙句の果てには天人[ラエル]の血も飲んだ。そして、お前は堕とされた」
 天人[ソエル]の血は他の生物にとっては有毒でも、堕天者[ラエル]にとっては最高の美酒であり、地人[ノエル]の聖水[エイース]を飲んだ時よりも格段の力を得ることができると云う。
「そうよ、わたしは地上[ノース]に堕とされるのが嫌で抵抗したのでも、あなたは許さなかった。最終的にわたしを地上[ノース]に堕としたのは、あなたよ――輝ける称号をお持ちのアズェル様」
 千歳の口調は皮肉たっぷりだった。
 鴉は表情も変えず口を開かない。彼はただそこに立っているだけだった。
 天から稲妻が地に落ちる。鴉がここでこうしている間にも〈アルファ〉は街を――世界を滅ぼそうとしている。
 漆黒の髪が風に揺られ、美しき鴉の顔は愁いを帯びていた。彼の瞳は千歳を映している。しかし、彼の見ているものは全ての天人[ソエル]と呼ばれる生き物だった。
 千歳は六本の足を巧みに動かして鴉に近づき、自分の顔を鴉の眼前まで持って行った。
「もうわたしは成れの果て[エンシュ]になってしまうわ。醜く変わってしまう。あなたの美しい顔が憎い、憎い、憎い」
「おまえの核が嘆いている。エンシュと成れば消滅はすぐそこだ」
 微動だにしない鴉の瞳は千歳の双眸を見つめていた。
 静かに言う鴉が千歳は腹立たしかった。
「楽園[アクエ]にいた頃はあなたに嫉妬したものよ。でもね、あなたもわたしと同じ堕天者[ラエル]。嗚呼、嬉しくて堪らない。あなたの全てに嫉妬はしていたけれど、わたしはあなたに恋い焦がれていた……嗚呼、もう駄目よ、あなたに貪りつきたい」
 自分の胸を鷲掴みにした千歳の顔が崩れてく。妖艶な美しさを持っていた顔が醜くなっていく。口が裂け、目玉が飛び出し、舌がだらりと伸びる。
 長く伸びた舌が鴉の顔を舐めようとする。妖々と動く舌は鴉の拳に収まり強く握り締められた。
 千歳は自ら頭を後ろに引いて舌を引き千切った。鮮血が口からぼとぼとと零れ落ちる。
 ジャンプをしながら間合いを取る千歳の口から、何メートルにも伸びた舌が鞭のようにしり出る。
 残像を残し何本にも見える舌の間を潜り抜け、鴉は速攻を決める。巻き起こる風に血の臭いが混ざる。
 黒い影が巨大な翼を広げたのを千歳は見た。闇の中に浮かぶ蒼白い顔、血のように紅い唇。鴉の顔は無表情であったが、それが千歳の胸を強く締め上げた。
 鋭い爪に牙を向く千歳。黒衣がはためいた。
 鮮血が迸る。鴉の肩には骨をも砕く口がかぶり付いていた。
 鴉の爪が動く。彼の爪は千歳の喉元に突き刺さっていた。その爪を横に払うと同時に千歳の首が天に舞う。
 地面に落ちた首は尚も引き千切った鴉の肉を粗食していた。
「美味しいは、あなたの肉は今までわたしが喰らってあげた誰のものよりも美味しい。クセになりそうよ」
 地面に落ちている頭がそう言い終わると、頭のない首から赤黒い触手が伸びて、地面に落ちている頭を拾い上げると元の位置に戻した。
 冷たい双眸で鴉は千歳を見つめていた。
「おまえが堕とされた理由が実感できた」
「あなたも堕ちたのよ。天人[ソエル]の肉を喰らってみなさい、とても甘美な味があるわよ」
「天人[ソエル]は天人[ソエル]の肉を喰らい血を飲むこと禁忌とする」
「でも、わたしたちは堕天者[ラエル]よ。欲望の赴くままに生きるのよ」
 鴉は千歳の言葉を聞きながら別のことを考えていた。
「私たちは不死ではなくなった。だから生きているのだな……もとより死のないものには〝生きる〟という言葉は必要ない」
 儚げな鴉の瞳が天に吸い込まれる。その気を緩めた一瞬の隙であった。千歳の身体が鴉に飛び掛かる。
 黒衣が大鎌と化す。鴉は未だに天を見つめている。千歳は不意を衝いたつもりが、不意を衝かれた。
 六本の足を全て斬り飛ばされた千歳に鴉が視線を落とす。
「この黒衣は意思を持ち合わせている。黒衣は私を死なせまいとする――それが私への罰だ」
 すぐさま新たに足を生やした千歳が鴉に牙を向ける。その瞳は色を失いつつある――血が足りない。
 体内の血が極端に失われると天人[ソエル]の身体は変異し、無我夢中で血を求めるようになる。それがエンシュと呼ばれるもの。エンシュは天人[ソエル]の自己防衛本能であり、死への危険信号である。
 鴉の爪を巧みにジャンプして躱した千歳は上空から蜘蛛の糸を発射した。糸は鴉の四肢を捕らえ、鴉の動きを完全に封じることに成功した。
 アスファルトの地面に磔にされた鴉は身体を動かそうとするが、糸はまるで鋼のごとく硬いものだった。
 上空から飛来する千歳は全身で鴉に圧し掛かった。鴉の上に載る千歳は、自分の身体を鴉の身体に擦り付けながら、長い舌で鴉の顔を汚した。
 口からだらだらと零れる唾液が鴉の顔を覆う。鴉は無表情だった。そのことが千歳に酷い苛立ちを覚えさせる。
「どうして、あなたはこれからわたしに喰われるのよ。脅えなさい、恐怖に顔を歪めなさいよ!」
「黒衣は意思を持つ、それゆえに私の指示を聞かぬことがある。黒衣は私を死なせないとするが、少々意地が悪い」
「何が言いたいのよ!」
 数秒の間を置いて千歳の口が開けられる。その口からは唾液に変わって血が落ちた。
 鴉の身体から伸びた黒い幾本もの槍が千歳の身体を貫いていた。
 糸から開放された鴉は素早く立ち上がった。
 千歳の身体はすでに再生力を失いつつあり、身体全体から血が吹き出ている。それでも千歳はまだ動く。
「まだよ、まだわたしの核は生きているわ。もっと上手に突かなきゃ、わたしはやれないわよ」
「いや、私が止めを刺すまでもないようだ」
 突然、千歳の顔が苦痛に歪む。鴉には聴こえていた――千歳の核に皹が入ったのを。千歳はもう長くない。


 狂気の形相で千歳が鴉に襲い掛かろうとする。しかし、脚が動かない。
 脚が枯れていく、身体が枯れていく。千歳の脚は灰色になって砕け散り、その灰色は身体全体を侵食しようとしている。
「嫌よ、まだ飲み足りないわ!」
 すでに動けなくなった千歳を見ようともせず鴉は歩き出した。もう、鴉が何もしなくても千歳は消滅する。
 歩き去る鴉の背中を見ながら千歳の怨念は増幅していく。
「わたしは生き続けるのよ」
 下半身の蜘蛛の部分はすでに灰と化し、上半身についている両腕も灰と化した。
 この場には千歳以外誰もいない。千歳がいくら助けを求めようと、彼女の消滅は決まっている、はずだった――。
「わたしは、わたしは支配者になる存在なのよ!」
 地面で苦しみもがく千歳の前に、天から白い翼を持つ者が舞い降りた。
 天から舞い降りた者の顔はとても冷たく美しかった。それはツェーン――ルシエルであった。
「余を裏切ったなリリスよ」
 冷たく声に千歳は震えた。恐怖で口元が震える。
 何も言えない千歳の身体を持ち上げたルシエルは、微かに笑った。しかし、その笑みは悪魔の笑みだった。
「なぜ〈アルファ〉を起動させた? そんなにも貴女は辛抱のない女であったのか。いや、余の前で猫を被っていた貴女ならば待てたはずだ。貴様が余を裏切ろうとしていたことなど、百も承知であった」
「…………」
 自分がルシエルに逆らえなかった理由を改めて千歳は思い知らされた。千歳はルシエルの掌の上で踊らされていたに過ぎなかったのだ。
 ルシエルは自分の腕を千歳の前に差し出した。
「核は一度傷つくと元には戻らん。しかし、余の血ならば貴女を救えるが、余に救いを求めるか? 憎むべき余に救いを求めてみるか?」
 ルシエルの問いに千歳は消え入りそうな声で答えた。
「わたしは……堕天者[ラエル]よ……どこまでも堕ちて……身も心も……あなたの奴隷にでも……なってあげるわ」
 それは屈辱であった。しかし、千歳はルシエルの腕に被りついた。
 ルシエルの血は千歳の喉を潤す。何と甘美な味がするのだろうか。
 千歳は身も心の地に堕ち、ルシエルに屈服した。そして、いつの日か復讐することを胸の奥で誓った。

 疾走を続け鴉は〈アルファ〉の足元まで辿り着いたが、成す術がなかった。相手は空を飛びながら黄金の羽を地面に撒き散らしている。空を飛ぶ相手にどうやって近づくか。
 〈アルファ〉の飛ぶ進行方向に高いビルを見つけ、その方向へと鴉が先回りしようとしたその時、〈アルファ〉が突然地面に降り立った。
 巨体が降り立ったことにより地面が縦に揺れ、その振動は近くにいた鴉の足を掬うほどであった。
 鴉はすぐさま〈アルファ〉足に飛び乗った。
 聳え立つ塔のような脚に爪をかけながら、鴉は上を目指した。昇らなければならい、天に向かって。
 〈アルファ〉はビルを障害物とも思わずに壊して進む。倒壊したビル片が雨のように降り注ぎ、砂煙の中に魔神の影が浮かぶ。
 砂煙の中に浮かぶシルエットが天に向かって吼えた。制御装置のない〈アルファ〉は本能のままに行動し、あるものを探していた。
 〈アルファ〉は一度動きを止め、慎重に、建物や車などを壊さないように歩きはじめた。本能が感知した。探しものはすぐそこにいる。
 巨大な頭がビルの合間を滑らかに縫い動き、緋色の眼球がそこにいた少女と目を合わせた。
 ファリスは心の底から震え上がった。自分とあの魔神の目が合ってしまった。目を放そうにも放せず、そこに立ち尽くしてしまった。
 緋色の瞳の奥はファリスだけを映し、他のものは一切映っていない。他のものは必要ない。
 身動き一つできずにいるファリスに巨大な手が伸びる。その動きは決して乱暴なものではなく、美しい一輪の花を愛でるように、刈り取ってしまうように。
 巨大な手がファリスに触れようとした瞬間、上空から黒い魔鳥が飛来し、ファリスを魔の手から救い出した。
「私を追って来るとは、死を覚悟してのことか?」
「だって……」
 だってもなにもなかった。迷惑をかけるのがわかっていて、本当に迷惑をかけた。ファリスは居た堪れなかった。
 巨大な両手が風を切って動き、ファリスを掴もうとする。鴉はファリスを抱きかかえながら、アクロバティックを決めながら華麗に宙を舞い飛ぶ。
 だが、鴉が天に足を向けた時、その脚が巨大な手によって鷲掴みにされた。宙吊りにされた鴉はまるで蝙蝠のように宙にぶらさがり、その腕にはファリスが抱きかかえられている。ファリスがいては、鴉は大きな動きが取れない。
 鴉は腹筋に力を入れ、上体を上に向けると、片腕を硬質化させていた
 ファリスは両手で顔を覆った。次の瞬間、ファリスの手の甲に生暖かい液体が迸った。
 胴から下を失った鴉がファリスを抱えながら落下していく。
 黒衣から黒い触手が伸び、ビル屋上のフェンスに引っかかった。フェンスがガタンと揺れ、軋めき悲鳴をあげる。
 黒い触手を使って鴉は振り子のように宙を舞う。フェンスが外れた。勢いがついた鴉はそのままビルの窓を殴り割り、ビルの中に飛び込んだ。
 地面に落下したフェンスの反動で鴉の身体が窓の外へ引きずられそうになったが、爪を床に立てて、すぐに黒衣を元の形に戻した。
 ファリスは鴉の腕から離れ、口をあんぐり開けながら呆然としてしまった。その頬には硝子片で切ったと思われる、一筋の紅い線が走っていた。
 紅い線から流れ落ちる雫。鴉は唾を飲み、歯を食いしばった。
 ここ数日で鴉は極度の渇欲に襲われていた。多くの血を失い、核だけとなった身体を再生させなければならなかったこともあった。失われた下半身は血は止まってはいるが、再生していない。
「鴉、大丈夫!」
「死にはしない……だが、私から早く離れろ、ひとりで逃げろ」
「そんなことできないよ!」
「私を困らせないでくれ」
 鴉の身体に異変が起きつつあった。身体が血を求め、変異がはじまろうとしていた。
 身体を振るわせる鴉の横に跪いたファリスは、鴉の手を取ろうとした。しかし、ファリスの手は激しく撥ね退けられた。
「早く行け! 私がファリスを喰う前に!」
 ぞっとしたファリスは急いで立ち上がった。しかし、この場を離れることはできなかった。
 ファリスは急に窓の方に顔を向ける。
「きゃーっ!」
 窓の外から巨大な手が室内に入って来た。ファリスの身体が掴まれる。鴉は動こうとしたが、下半身がまだ再生していない。再生のスピードが明らかに遅くなっていた。
 鴉は腕の力だけで蛙のように〈アルファ〉の腕に飛びつこうとしたが、それも失敗に終わった。
 ファリスが連れ攫われた後に、鴉は唇を噛み締め、罵った。
「なぜ、私の言うことを聞かなかった、そこまでして私を苦しめるのか〝闇〟よ!」
 ファリスが付いて来たことにではない。自身にでもない。鴉は自分の命令を聞かなかった〝黒衣〟に罵った。
 下半身を失った鴉は地面に倒れながら、地面を殴り砕いた。その瞳は緋色に染まっている。
 黒衣は鴉の命令を聞かなかった。鴉はファリスが連れ攫われた時に、〈アルファ〉の手に向かって黒衣を伸ばそうとした。その命令を黒衣は無視したのだ。それで已む無く腕の力だけで〈アルファ〉に飛び掛かろうとしたが、それも失敗に終った。
 窓の外で〈アルファ〉が高らかに吼えた。
 ビルの中に再び巨大な手が伸びる。それは鴉を鷲掴みにしてビルの外に引きずり出した。
 緋色の目が互いを見据える。
 〈アルファ〉は鴉を捕まえたまま、上空へと羽ばたいた。〈アルファ〉は〈Mの巫女〉を手に入れたのだ。
 巨大な口から空気の波が発せられ、鴉の髪を激しく靡かせた。
《わかるか鴉、余は意識を取り戻した。これで地上[ノース]は余の支配下に置かれたも同じだ》
「ルシエか?」
《その名はもうない。ここにいるのは魔神ゾルテだ。そこで見ているがいい、神となった余の力を!》
 翼を広げた〈アルファ〉から、黄金の槍が、地獄の業火が地面に降り注ぎ、死が地上を覆う。
 〈アルファ〉の視線にジェット戦闘機が入った。
《無力なものよ》
 ジョット機から発さされたミサイルが〈アルファ〉に直撃する。しかし、傷一つ付かず、少し機体が黒ずんだだけであった。
 大きく広げられた黄金の翼から、ミサイルのように羽が飛び、ジェット機は空中爆発を起こして散った。ジェット機程度で〈アルファ〉を破壊することは不可能であった。
 ジョット機は次々と破壊されていき、やがて残った数機のジョット機は逃げるようにして旋回して行った。
 〈アルファ〉の瞳が再び鴉を掴んでいる手に戻された時、すでにそこには鴉の姿はなかった。下半身の再生を終えた鴉は〈アルファ〉の機体を飛び交い、上を目指した。
 鴉はどこからか〈アルファ〉の中に入れないかと考え、見つけたのが巨大に開けた口であった。
 口に並び尖った牙の一つに手を掛け、鴉は闇の中へと飛び込んだ。

 〈アルファ〉の中はまさに体内と言えた。その部屋は壁も床も天井も、脂肪のようなもので囲まれており、脈打ち動いている。
 肉の壁とも言えるその中に、上半身だけを出して誰かが埋もれている。それはファリスだった。
 ファリスの意識はないようで、深く項垂れている。〈Mの巫女〉となったファリスはまだ生きていた。
 鴉がファリスに近づこうとすると、彼の背後で複数の気配がした。どれもこれも冥府の風を纏う気配。それも複数でありながら単体だった。
 後ろを振り向いた鴉の目に飛び込んできたものは、何人もに増幅したゾルテであった。ゾルテが地面から生えているという表現が適切だろう。
「余の邪魔をする気か、鴉よ?」
「そういうことになるだろう」
「ならば相手をせねばならぬか」
 鴉を取り囲んだゾルテたちがいっせいに襲い掛かって来る。左右前後から襲い掛かって来る敵を、鴉は身体を回転させて黒衣を大鎌のように振るった。
 斬り裂かれるゾルテたち。肉片となったゾルテは床に吸収される。鴉が危険を察知した時はすでに遅かった。全てがゾルテなのだ。
 突然、鴉の脚が掴まれた。下を見ると地面から伸びた手が鴉を捕らえている。
「この程度か鴉という男は!」
「……まだだ」
 無理やり脚を振り上げてゾルテの手から開放された鴉は走った。
 鴉を追うように地面から次々と手が伸びる。壁からも天井からも手が伸びる。鴉は黒衣と爪を使って切り裂いていくが切がない。
 部屋を覆う肉が芋虫のように動き出し一部に集約していく。やがてそれはひとりのゾルテをつくり出し、その腕にはファリスが抱かれていた。
「あのままではどちらも切がない。余が直々に相手をしよう」
 そこは綺麗な花畑の真ん中であった。空に広がる青い空、白い雲、詠う風の音色。
 鴉は辺りを見回してゾルテに問うた。
「どこだここは?」
「余の精神世界だ。貴公は〈アルファ〉の体内に入ったその時に余の精神界に迷い込んだのだ」
「精神が死ねば魂も死ぬ」
「そうだ、もし貴公がここで死ねば、現実世界に残して来た肉体は死ぬ。余も然りだ」
「お前の精神は穏やかなのだな」
 この世界のことを言っている。美しい花々が咲き誇るこの場所に戦いは不釣合いだった。
 真剣な顔をしている鴉を見てゾルテが微笑う。
「これが余の望む世界だ」
「では、なぜ地上を支配する? なぜ血を流すのだ?」
「天に愛想が尽きた」
「それだけか?」
「それだけだ」
 天人[ソエル]には寿命がない。永遠に続く時間を持ち合わせているにも関わらず、楽園[アクエ]での日々は変化のない生活だった。何をするのにも十分な時間があるに関わらず、変化を恐れて暮らしている。
 ゾルテは深く息を吐いた。
「地上[ノース]は面白い。常に変化し続けている。地人[ノエル]は限られた時間の中で生きるからこそ、変化の速さも天人[ソエル]に比べて早いのだろう。しかし余は平穏が、楽園[アクエ]が恋しくも感じる」
「だから、この世界か……」
 不変の長閑な風景。そして、ゾルテの表情は戦いを忘れさせるほど安らかだった。
「余は天に愛想が尽きたと言いながら、天に思いを馳せている。可笑しな話だが、地上[ノース]になぜ堕ちたのか、余にもわからん。本当は楽園[アクエ]で永遠に過ごすはずだった」
「それなのに堕ちたか、確かに可笑しな話だ」
「誰かに呼ばれたような気がした……かもしれない。もう、過ぎたことだ。一度堕ちてしまえば楽園[アクエ]には還れぬ」
 ゾルテは地上[ノース]を支配するために堕ちた。しかし、本当にそんなことがしたかったのか、ゾルテにはわからなかった。
 揺れ動くゾルテの心に鴉が言葉を突き付けた。
「地上[ノース]で静かに暮らすことはできないのか?」
「できぬな。地上[ノース]を支配する気はまだ残っている」
「それはお前の意思か?」
「さあな。しかし、余には他にすることがない」
「そうか」
 二人はその場に立ち尽くした。沈黙の中で時間だけが過ぎ去っていく。
 地上[ノース]に堕ちて間もないゾルテは、この時間を早く感じた。
 地上[ノース]に堕ちて多くのものを見てきた鴉は、この時間を永く感じた。
 強い風が吹き、花びらが空に舞い上がった時、ゾルテの方が口を開いた。
「はじめよう」
 鴉は何も言わなかった。答えなくとも時間は流れる。
 戦いははじまった。
 漆黒の翼を大きく広げたゾルテが掌に魔導を溜めた。
「受けてみよ鴉!」
 放たれた光の弾が地面を抉りながら鴉に向かって飛ぶ。
 鴉は避けようとせず、地面を踏みつける足に力を入れた。
 ――当たる。
 光弾の前に黒い壁が立ちはだかる。それは鴉の黒衣だ。
 黒衣によって弾かれた光弾が空に向かって輝く尾を引いた。
 ゾルテは嬉しそうな顔をしていた。
「輝く翼がなくとも、貴公はその闇で戦うか」
「そうだ、この闇とともに生きる」
「しかし、今の貴公では余に勝つことはできん。十分な聖水[エイース]を摂っていない貴公は勝てない」
「いつかは必ず終わりが来る」
「何のだ?」
 鴉は答えずゾルテに向かって走り出した。
 黒衣が大きく風に揺られ、鴉は抉られた地面の上をゾルテに向かって一直線に突き進んだ。
「私もお前も、全てのものにだ!」
 大きく振るった鴉の爪が〈ソード〉と化したゾルテの腕に受け止められた。すぐさまもう片方の手を爪と化し、鴉はゾルテに爪を向ける。しかし、それは二本目の〈ソード〉に受け止められた。
 ゾルテの蹴りが鴉の腹に入る。一歩下がった鴉を二本の〈ソード〉が串刺しにしようとする。鴉はそれを華麗に躱して、回し蹴りを放った。
 鴉の足が突如空[クウ]で喪失した。脚から鮮血が噴出すが鴉は構わず、片足で飛び上がり、その脚でゾルテの顔面に蹴りを喰らわした。
 地面に着地した鴉の脚はすでに二本ある。しかし、この再生は鴉に極度の疲労を与えた。血が足りない。
 鴉は地面に片手を付いたゾルテの胸に、下から抉るように爪を突き刺した。ゾルテは笑った。
「そこにはない!」
 自分の身体に突き刺さっている腕を引き抜き、ゾルテはそのまま鴉の身体を遠く後方に投げ飛ばした。
 宙で回転し体制を整えながら鴉は地面に乱れなく着地した。
 鴉の着地した足元のすぐそこにファリスがいた。
 地面に横たわるファリスからは息が聴こえない。仮死状態のような状態に置かれているのだ。ファリスの精神は夢幻の世界に囚われている。
 ゾルテが声を張り上げた。
「鴉よ、その娘の聖水[エイース]を飲むのだ!」
「断る」
「今の貴公では余の相手にならぬと言うておろう」
「それでも断る」
 頑なな鴉の言葉を聞くや、ゾルテは拳を握り締め震えた。
「なぜ拒むのだ! 地人[ノエル]は天人[ソエル]の糧として創られた存在なのだぞ!」
「果たしてそうなのか?」
 この言葉にゾルテは愕然とさせられた。恐れていた言葉が鴉の口から発せられた。想っていても誰にも口にできなかった言葉だ。ゾルテは己の考えを否定した。
「地人[ノエル]は糧である。万物の頂点に立つ者は天人[ソエル]なのだ!」
「そうだな、今は。神は万物の法則から外れた存在であると云われるが、神は全能ではない。その神は天人[ソエル]を創り、次に地人[ノエル]を代わりとして創った。この意味がわかるか?」
「神などいない!」
「いいや、全能なる神ならば私も信じないが、神が己に〝似せて〟創ったと云われる天人[ソエル]や地人[ノエル]のような神であれば信じる」
 ゾルテは花畑の上に寝転がるファリスを見て震えた。第三のヒトと呼ばれる新人類[ニュエル]がそこにいるのだ。その娘の力を使って〈アルファ〉を制御しているのは紛れもない事実だった。
 〈Mの巫女〉を〈アルファ〉に取り込むまで、ゾルテの精神は完全に呑まれていた。それが〈Mの巫女〉の出現により、ゾルテは今ここで存在を保っていられる。
「鴉、その娘の聖水[エイース]を呑め、さすれば全てが明らかになる。その娘が新人類[ニュエル]であるのならば、エスとならずに済むはずだ!」
「断る」
「怖いのか、新人類[ニュエル]の出現を恐れているのか!」
「それはお前だ。不変を望む楽園[アクエ]の民よ、この地上[ノース]は天人[ソエル]の住む場所ではない。そして、堕天者[ラエル]の住む場所でもない。いつかは終わりが必ず来る」
 堕天者[ラエル]となった天人[ソエル]は地上[ノース]に堕ちて、そこで多くの終わりを見ることになる。楽園[アクエ]では己の存在が消えることなど考えもしなかったのに、長い時間を地上[ノース]で過ごすことにより、己にも終わりが来るのではないかと脅える者の中には出てくる。そういう死の恐怖に苛まれた堕天者[ラエル]は社会を乱しヴァーツに狩られる運命にある。地上[ノース]は不変ではないのだ。
「終らぬ、天人[ソエル]は永遠を生きる民だ、滅びはせぬ」
「終わりが安らかであることを祈るのみだ」
「まだ言うか貴様は! 滅びぬぞ、滅びぬ、天人[ソエル]も余もだ!」
 花畑が燃える。美しく儚く、一面が真っ赤に染まっていく。
 高笑いをするゾルテの身体をも炎は包む。
 ひらひらと火の粉のように舞い上がる炎の花びらは、光を閉ざした黒い空に吸い込まれて逝く。この世界が終わる。
 天の闇が急速に堕ちてくる。そして、闇は全てを呑み込んだ。
 次の瞬間には鴉は灰色の壁に囲まれた広い部屋にいた。その部屋の奥には十字架に磔にされたファリスの姿と、それを守るようにして立つゾルテの姿があった。
「余は眠りから覚めてしまった。即ち、〈アルファ〉は動きを止めた。鉄屑となった〈アルファ〉を落とすのは容易い」
 〈アルファ〉が激しく揺れて、壁が地面となり鴉は壁に向かって落下した。空を飛んでいた〈アルファ〉が地面に落ちたに違いない。
 鴉の上からゾルテが〈ソード〉を構えて落下して来る。
「最後の勝負だ鴉!」
 ゾルテはこの一刀に賭けた。鴉もまたそれを感じ取った。
 二人は一瞬という時の流れをとても永いものに感じた。
 ゾルテが来る。鴉が爪を構える。二人の視線が絡み合う。
 激しくも儚い一瞬。
 煌く閃光が世界を走る。
 爪が〈ソード〉が、突き刺さった。ゾルテの〈ソード〉が鴉の身体を貫き、鴉の爪もまたゾルテの身体を貫いていた。
 同時に爪と〈ソード〉は引き抜かれた。そして、胸を押さえて倒れたのは鴉であった。
 地面に気高く立つゾルテ。その翼は白く美しく輝いていた。
「先に行くのは余のようだ。しかし、貴公の核は傷つけた――相打ちだ」
「傷ついた核は治らん。すぐに後を追うことになるだろう」
 ゾルテの身体は死に侵食されていく。色褪せる身体は崩れ、灰になり、塵となった。
 膝を付き立ち上がった鴉は頭上を見上げた。磔にされていたファリスの身体が開放され、鴉に向かって落下して来る。
 黒衣が大きく広がり、ファリスは柔らかなその上に包まれながら着地した。
 ファリスを抱きかかえる鴉。すると、ファリスはゆっくりと目を開けた。
 しばらく見詰め合っていた二人だが、やがてファリスが口を開く。
「やっぱり助けてくれたんだね。全部見てたよ、夢の中で」
 鴉は何も言わなかった。その代わりに、鴉が微笑みを浮かべた。とても優しい微笑だった。そして、鴉はファリスを抱きかかえながら床に崩れた。
「どうしたの鴉!」
「永かった生命[ジカン]が終わりを告げる」
 鴉の胸に空いた穴は塞がっていなかった。血が止め処なく流れ出る。
「死んじゃヤダよ、あたしを残して逝くなんてズルイ。だったら、あたしのことなんて助けてくれなくてよかったのに……そうすれば、こんなの見なくて済んだのに……」
 鴉の身体が灰になって崩れていく。手足の先が徐々に崩れ、緩やかに緩やかに死が近づく。ファリスにとってこんなにも辛い別れはなかった。目の前の人が逝ってしまうのに、それを長い時間見ていなくてはいけないなんて辛すぎる。
「ばかばかばか! 死んだら一生呪ってやるからね。助けてくれたお礼なんて言ってあげないからね、言って欲しかったら生きてよ……」
 涙ぐむファリスは辺りを見回した。〈アルファ〉が揺れている。〈アルファ〉もまた逝こうとしているのだ。
「私もこの兵器も、人間の世界には不要のものだ」
 鴉の脚も腕もすでに灰と化していた。それなのに鴉は安からか顔をしている。それがファリスは気に入らなかった。
「最期みたいな顔しないでよ、鴉は不死身のヒーローなんだから、いつもであたしがピンチの時は駆けつけて来てくれるの……鴉がいないと、あたし……」
 ファリスははっとして口を開けた。彼女は夢の中で全てを見ていた。鴉とゾルテの戦い。そして、二人の会話も。
「もしかしたら、あたしの血を飲んだら助かるかもしれない!」
 灰に成ろうとしていた鴉は酷い渇きに襲われていた。彼はそれを必死に抑えていた。そうでなければファリスを襲ってしまう。
「私の死を見たくないのなら、早く立ち去れ!」
 いつもは静かな口調の鴉が発した激しい口調であった。だが、ファリスは鴉の瞳を睨みつけて一歩も引かない、それどころか噛み付くように言葉を発する。
「あたしの血を飲んだら助かるんでしょ、絶対そうなんでしょ? だから、そうやって怒ったんでしょ?」
「…………」
「そうやって黙るなんて、鴉ってわかり易いよ」
「地人[ノエル]の血を飲んだところで、私は助からない。しかし、第三のヒトならば可能性があるかもしれぬ」
「だったら、飲んでよ、あたしって第三のヒトなんでしょ?」
 ファリスは鴉の胴体を抱きかかえ、鴉の頭を自分の首元に持って行った。手も足もない鴉は抵抗することもできなかった。いや、抵抗しなかった。
「人間は人間として限られた時間の中に生きているからこそ、私たち天人[ソエル]の持っていないものを多く持っているのだと思う」
「御託はいいから早く飲んで」
 鴉の口は震えていた。渇欲は理性ではどうにもならない部分がある。そして、今の鴉は消滅に直面している状態にある。それでも鴉は歯を食いしばっていた。
 身体を振るわせる鴉の振動がファリスにも伝わって来る。
 鴉の口の奥に牙が光った。しかし、歯が砕けんばかりに口は開かれた。
 ファリスが小さく呟いた。
「飲んでいいよ」
 鴉の理性は限界にあった。そして、ついに鴉はファリスの首筋に牙を立ててしまった。
 ファリスは口を開け、目を見開き、自分の中からいろいろなものが吸われていくのを感じた。痛みはなく、身体が痺れたような感覚がするが、それも嫌ではなかった。
 鴉の中に生命が流れ込んで来る。渇きが癒え、腕が、脚が、再生していく。
 やがて、鴉はゆっくりとファリスの首筋から頭を離した。
 ファリスは喜び、鴉の身体を強く抱きしめると頬にキスをした。
「ほら、助かったじゃん。鴉が意地を張んなきゃ、すぐに済んだのに」
 笑い顔のファリスに対して、鴉の表情はもの哀しげな表情をしていた。
「永い時を生きるということが、いかに辛いことか……私は新たな罪を犯してしまった」
「何言ってんの? 鴉だって生きてきたんだから、あたしだって平気。だって、これからあたしは絶対鴉の側を離れないからね」
 〈アルファ〉が崩れる。〈アルファ〉の機体を構成していた物質が、灰と化していく。

 街に巨大な炎を降り注ぎながら飛んでいた〈アルファ〉が急に落下し、ビル街を破壊して大爆発を起こした。
 吹き荒れていた爆風が収まり、夏凛は再び〈アルファ〉に向かって走り出した。あの中にファリスが捕らえられている。生きているかどうかはわからないが、行かなければ夏凛の気は治まらなかった
「全くアタシも焼きが回ったなぁ」
 やがて〈アルファ〉の前まで辿り着くと、夏凛はそこに立ち尽くしてしまった。
 全く動く気配を見せない〈アルファ〉。身体を走っていた紋様も今では輝きを失っている。
「中で何があったんだか……?」
 夏凛の目の前で〈アルファ〉がガタンと揺れた。揺れたと言うより、崩れた。
 〈アルファ〉の身体が崩れていくのを夏凛は目の当たりにした。それも壊れていくのではない、機体が灰と化していくのだ。
 時間をかけて灰の山が形成され、それは一瞬にして空に舞い上がった。地上に灰が降り注ぐ――それはまるで灰色の雪であった。
 舞い散る灰の中から二人の人影が出てきたのを夏凛はしかと見た。それはまさしく、ファリスと鴉であった。
 思わずガッツポーズをした夏凛は笑顔で二人の元へ駆け寄った。
 ファリスも夏凛に気が付いたらしく駆け寄って来る。
「イエーイ、夏凛! 生きて還って来たよ」
 ピースをしたファリスを夏凛は抱きしめた。
「まあ、死ぬわけないと思ってたけど、よかった。でも、本当に生きてて嬉しいのは鴉っ! あれ?」
 夏凛は辺りを見回した。すぐにファリスも辺りを見回す。鴉がいない。
「ずっと傍にいてやるって言ったのにぃ~」
 顔膨らませたファリスは地面を蹴飛ばした。そして、ため息をついて笑った。
「まあ、時間なんていくらでもあるっぽいから、いつでも探しに行けるか」
 ファリスの言葉に夏凛の顔が固まった。
「……もしかして、ファリス?」
「うん、そういうこと」
「ズルイ、ファリスだけズルイぃ!」
「そういう問題じゃないでしょ」
「そーゆー問題」
 呆れた顔をするファリスは夏凛の腕に自分の腕を回して歩き出した。
「早く帰ろう、あたしたちの家に」
「家はまだ探してない」
「そっか」
「それにあくまでアタシが主で、アナタは使用人だからね。死ぬまでこき使ってやる」
「夏凛の方が先に死ぬから平気だもん」
 灰の雪が降る中、鴉は二人を見守っていた。
 鴉は背負った罪を償うために永遠にファリスを見守り続けるに違いなかった。

 (完)


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