月光姫譚(4)孵化
 塔の中はこれと言って何もなく、外観はあんなにも頑丈そうで天を衝く勢いで伸びていたのに、中身は空っぽだった。
 塔の内壁には螺旋階段が天井に向かって走り、試行錯誤しながらも確実に進んで行くようだった。その螺旋階段の途中の壁には扉があるが、扉の先は外のはずで、塔の外観には扉はなかった。つまり、扉は別の場所に通じている。扉の奥には何があるのだろうか?
 何もなかった石造りのフロアの中心に人の全身を映せるほどの鏡が現れた。
 美しく磨かれた鏡の前にメイは立ったが、そこに映し出されたのは一匹の黒猫であった。
 メイの頭に稲妻が走り、メイはよろけながら地面に手をついた。
「やっぱり、僕はあの女性に会わなきゃいけないんだ。僕はそのためにここに来た。あの女性はきっと……」
 黒猫の姿が消え、新たに何人もの人影が映し出される。それを見たファントム・ローズは疾風のごとく地面を駆け、メイの身体を抱き上げて宙に舞った。
 激しく地面が砕け飛び、メイのいた場所にはリング状の金属がめり込んでいる。そのリングには棒が取り付けられており、その棒はしっかりと何者かに握られていた。
 地面に軽やかに着地したファントム・ローズはメイを地面に優しく下ろし、低く響く声で呟く。
「ミラーズか」
 水面を打つ波紋に鏡の表面が揺れ、その中から何人ものミラーズが飛び出してきた。
 今先ほどメイを撲殺しようとしたのもミラーズだ。
 真上から見ると、つばがひし形をした大きな帽子を被り、白とクールブラウンを基調とした質素なドレス姿を着て、首には鎖が巻き付けられている。手には銀色の金属の棒の先端に大きなリングが付いている杖のような物を持っている。そして、何よりも目を引いたのは、目の部分に包帯のようにグルグルと巻かれた布だった。
 この場に集結したミラーズの数は四人。目には顔に巻きつけられた布の下についた口は微笑んでいた。
 ミラーズたちの狙いはファントム・ローズだった。
 怖ろしいほどに白い仮面が笑って見えた。
 銀色の杖を構えたミラーズがいっせいにファントム・ローズに襲い掛かる。
 ファントム・ローズの右手が揺らめき一瞬消失したかと思うと、その手には一輪の薔薇が握られていた。
 薔薇の匂いを嗅いだファントム・ローズはそれを天に掲げた。すると、ファントム・ローズの周りを無数の薔薇の花びらが竜巻のように舞い上がり、美しくも荘厳な薔薇の花びらはミラーズに向かって降り注いぐ。それはまるで血の雨のようで、紅い花びらは刃となり牙となり、ミラーズの身体を容赦なく切り裂く。
 薔薇の匂いが強くなる。
 激しく舞い散る紅に彩られたミラーズは地面に倒れ、そこにファントム・ローズは空かさず四本の白薔薇をダーツのように投げつけた。
 薔薇の花を突き刺されたミラーズは口元を酷く苦痛に歪ませ、人の声とは思えぬほどの呻き声を張り上げた。すると、白かった薔薇の花が見る見るうちに紅く染まり、それと同時にミラーズの身体が枯れ木のように萎んでいき、衣服だけがその場に残され、その衣服さえも最期には砂になって舞い散った。
 ファントム・ローズはミラーズの居た場所に残された一輪の真っ赤に染まった薔薇の花を拾い上げ匂いを嗅ぎ言った。
「哀しい匂いがするな」
 風を切り伸ばされたファント・ローズの手から鞭が放たれ、フロアの中心にあった鏡を叩き割った。
 鏡は悲痛な叫び声をあげ、舞い散る砂のように煌く破片は風に乗って滅びた。
 白い仮面がベレッタに向けられる。そこには銃を構えて立ち尽くすベレッタの姿があった。
「獣は殺せても、人型をしたものは怖くて殺せないか?」
「違うわよ、あんたに当たるといけないから撃たなかっただけよ」
「そうか……」
 呟いたファントム・ローズの表情は仮面に隠されて見ることができない。
 メイが叫び声をあげる。
「また鏡が!?」
 一つ二つ……と鏡が現れる。その鏡にはミラーズたちが映し出されていた。
 ファンム・ローズが螺旋階段を指差して叫ぶ。
「君たちは先を急ぐがいい、ここは私が引き受けた」
 先に動いたのはメイだった。そのあとをベレッタは慌てながらついて行った。
 螺旋階段を駆け上るメイは途中にあった扉に目もくれず、ただ一心不乱に導かれるままに天を目指した。その後ろにはベレッタ、その遥か下からはファントム・ローズが取り逃がしたと思われるミラーズが螺旋階段を駆け回ってくる。
「メイ、扉に入って奴らから逃げましょうよ」
「扉の中にはあのひとの思い出が詰まってる。けど、僕がいかなきゃいけないのはそこじゃないんだ」
 怒鳴ったわけでも、大きな声を出したわけでもなかった。搾り出すような小さな声には重く想い感情が込められていた。それを聴いたベレッタは押し黙りメイのあとを追うことしかできなかった。
 天井の一部から漏れた月光が塔の内部に差し込む。出口はもう少しだ。
 月光の扉を潜ったそこは塔の屋上であった。
 霧を抜けた塔の屋上からは雄大な宇宙を展望することができ、星々が静かにひそひそと輝いている。
 蒼い風の吹き抜けるそこで、メイとベレッタは姫とナイト・メアと対峙した。
 壮大な宇宙は流れる星を地面に幾つも降らせ、風は壮絶なる詩を世界に運び、今ここが世界の中心となった。
 喪服を着た姫は哀しい表情をして顔を両手で覆った。
「どうしてここに着てしまったの……、この城は誰にも侵入されたくない場所だったのに、誰も入れないはずだったのに、それなのに着てしまったのね……」
 泣き崩れた姫は地面に手をついて、肩を大きく振るわせた。
 ナイト・メアは姫を守るようにして、メイとベレッタの立ちはだかった。
「なぜ、姫を悲しませるのだ。姫を悲しませる者などこの世界に必要はない」
 ホルスターから銃を抜いたベレッタがメイを押し退けてナイト・メアに怒りをぶつける。
「アタシの望みはこの手でおまえたちを殺すことよ」
 銃を持つベレッタの手は微かに震えていた。
 ナイト・メアがベレッタに一歩近づく。しかし、銃の引き金は引かれない。
 また一歩、ナイト・メアがベレッタに近づく。しかし、銃の引き金は引かれることなかった。
 白い仮面の奥から嘲りが聞こえる。
「撃たないのか? その銃で私を殺すのではないのか?」
「撃つわよ、それ以上近づいたら撃つわよ!」
 金切り声をあげるベレッタにナイト・メアが近づいた。しかし、銃は引き金を引かれることなく、銃口は地面に項垂れた。
 ナイト・メアの手が鋭い爪に変わり、叫びながらベレッタを襲う。
「それが貴様の紅かっ!」
 動かずにいる紅い衣装を纏った少女に爪が振り下ろされる。
 無我夢中で動いたメイはベレッタの身体を突き飛ばした。だが、爪はベレッタではなく、メイを襲うことになってしまった。
「うああっ!」
 悲鳴をあげたメイの腕から鮮血が噴出し、床を色鮮やかに彩る。
 血汐をベレッタの顔をも紅く染めた。
「メイーーーっ!」
 床に倒れるメイをベレッタが抱きかかえ、力強く銃を握り直した。
 天を稲光が翔け、雷鳴が世界に轟いた。
 ――煙をあげる銃口。
 ナイト・メアはちぎれた薔薇を胸に抱いてよろめいた。
「よくも、よくもやってくれたな!」
 白い仮面は確かに狂気に歪み、荒々しい息を立てながら、鋭い爪をベレッタに向けようとした。
 再び銃口が連続して火を噴く。
 咲き誇る紅い薔薇。
 だが、ナイト・メアは動じずに爪を振り下ろそうとした。しかし、爪は振り下ろされることなく、白い仮面は宙を舞い飛ばされ、身体は地面に崩れ、萎んでいった。
「これが私の使命だ」
 そこに立っていたのはファントム・ローズだった。
 ナイト・メアの身体は消えてしまい、その場には紅い薔薇の花と白い仮面だけが残されていた。
 地面に残った白い仮面が宙に浮き、それに合わせるように身体が空間から滲み出すように現れた。それはナイト・メアのようであるが、少し違う。
「久しぶりだね、ファントム・ローズ。今回はボクの負けだ。だからこの娘の夢から出て行くとしよう。けれど、まだこの娘が目覚めるとは限らないよ」
 その声は明らかにナイト・メアとは違い、玲瓏たる少年の透き通った声だった。
 少年の声を持った仮面の使者の身体が空間に解けていく。それを見たファントム・ローズが手を伸ばして声をあげる。
「待て、ファントム・メア!」
「さよなら、ボクの愛しいローズ」
 高らかな少年の笑いが空間に消えていった。
 戦いの終えた静かな屋上では鳴き声が木霊していた。一つはうずくまる姫のもの。もう一つはメイの身体を支えながら抱くベレッタのものだった。
「メイ、しっかりしてよメイ」
「だいじょうぶ、血が出ただけだから」
 幼い少女の泣き顔をしたベレッタが声が震える。
「だって、こんなに血が流れて、メイの顔が蒼くなってく……」
「だいじょうぶだから、それよりも僕はあの人に話をしなきゃ」
 ゆっくりと立ち上がったメイは静かに泣いている姫のもとに向かった。
 姫は床にうずくまり肩を震わせ、小さな声で何かを言っていた。
「わたくしを守ってくれる人は誰もいない。もう駄目だわ、もう駄目なの……」
「顔を上げて」
 優しい言葉とともにメイは姫に手を差し伸べた。
 ゆっくりと顔を上げた姫。
「わたくしは誰も信じられない。わたくしが信じていたのはナイト・メアだけだった。あの人だけはわたくしを守ってくれたの」
「僕も守るよ、あなたのことを。だから、夢から目覚めて欲しいんだ、そのために僕はやってきた。僕にはわかる、この世界は夢なんだ」
「この世界が夢? そんなはずありません、わたくしにはこれが現実だったわかります。だからもう……」
 姫が突然立ち上がり、屋上の端に向かって走り出した。
 呆然と立ち尽くしてしまったメイの横を紅い影が擦り抜ける。
 塔の上から羽ばたこうとした姫の腕をベレッタが掴んだ。しかし、反動と重さに少女の腕は耐え切れず、二人は塔から落ちてしまった。
 煌びやかに水しぶきを上げた湖は二人を呑み込み、二人は深い深い水の底へと堕ちていった。
 湖は深紅に染まり、風が泣き叫びながら森を駆け抜け、森は木の葉を揺らしながらざわめいた。
 あまりのできごとにメイは言葉もだせず、床に膝をついて顔を両手で覆った。
「僕は……僕は……」
「君はここであきらめるのか?」
 メイが顔を上げると、そこにはファントム・ローズが立っていた。
「でも……」
「君があきらめないと言うのであれば、これを託そう」
 ファントム・ローズはどこからか宝石箱を取り出し、メイの顔の前に差し出した。
「これは?」
「数ある部屋の中から見つけて来た。そのせいでここに駆けつけるのが遅れてしまった。きっと、この中には大切なものが入っているのだろう」
「でも、今更開けたって、どうにもならないんじゃ?」
「この世界はまだ消滅していない。あの娘の想いは深い場所に沈んでしまっただけだ。それを呼び覚ますことができれば、おそらくは……」
 宝石箱を受け取ったメイが蓋に手をかけた時、ファントム・ローズが静かに言った。
「少女が目を覚ませば、君はこの世界から消えるかもしれない。それもいいのかい?」
「僕は本来、もういないんだ。それなのにワガママを言ってここに来た。あのひとが目覚めてくれればそれでいいよ」
 宝石箱の蓋が開けられる。
 解き放たれた想いは世界を巡り巡りて世界を呼び覚ます。
 メイは何かに誘われるままに塔の淵へと足を運んだ。
 夜空には雲ひとつなく、星が歌い、月は燦然と輝き世界を照らし、紅い湖の色が透き通る蒼へと変わっていく。世界は変わろうとしていた。
 宝石箱の中から美しいメロディーが世界に広がり、その音の波紋は水面を揺らした。
 湖の底から泡が溢れ出てきて、それは七色に輝くシャボン玉のように、いくつもいくつも天に昇っていく。
 シャボン玉が静かに弾けると、その中からオーロラ色に輝く蝶が生まれ、美しい蝶たちは可憐に宙を舞い、シャボン玉から孵った蝶は世界の成長を暗示していた。
 湖の表面が金色に輝き、荘厳たる輝きとともに崇高さを兼ね備えた白い繭が水底から浮上してきた。
 蘇る想い、目覚める想い、大切な想い。
 繭に小さな皹が幾つも入り、それはやがて大きな皹となり、白い繭から眩い光が漏れ出す。
 清らかなる魂を守っていた繭が硝子のように砕け飛び、中から美しい一糸も纏わぬ少女が生まれ出た。
 少女の顔は姫にもベレッタにも似ていた。けれど、その顔は二人のどちらでもなく、どちらでもあった。その顔は姫とベレッタの歳の真ん中を取ったほどの少女であったのだ。
 繭から生まれでた少女の成長した姿が姫であり、少女の幼い姿がベレッタであった。そして、この夢を見る少女の姿でもあった。
 世界に一筋の光が差し込み、天から天使たちが星の船を運んで舞い降りてくる。
 少女を乗せた船は光の道を通って、空に開いた光の扉に吸い込まれていく。それに合わせて鐘の音が世界に響き、空に掛かっていた黒い幕が開ける。目覚めの朝が来ようとしていた。
 少女は夢幻を抜け、空には青空が広がり、鳥たちが天を舞いながら世界を称える詩を謳いはじめた。
 澄み渡った青空を塔の屋上から見つめるメイの表情は安堵感に包まれていた。その傍らにはすでにファントム・ローズの姿はない。ファントム・ローズはこの世界の住人ではないのだ。そして、メイも……。
 活気に満ち溢れはじめた世界は輝きを増しはじめ、やがて世界はミルク色に覆われた。もう、メイの姿も呑み込まれてしまった。少女が完全に目覚めたのだ。

 その日、眠り姫とあだ名されていた美しい少女が病院のベッドで目覚めた。
 目覚めた少女の両親は大喜びであったが、少女の気持ちは沈んでいた。
 ――メイは?
 少女のその言葉に両親は重たい表情をして、少女が眠りにつく前に可愛がっていた猫が死んだことを告げた。
 静かに少女は息をついて、自分の胸に手を当てた。メイはこの中で生きている。そう考えると、気持ちが安らかになった。
 病室から見える窓の外では木枯らしが舞い、紅い花びらが天に昇っていった。

 おわり


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