第7話「メタモルフォーゼ」
 ドンドンドンドンドンドン!
 ミケの部屋のドアをタコ殴りするパン子。
 今日でミケが学校を休んで三日。
 その間、パン子は毎日通い詰めたが、扉が開かれることはなかった。代わりに一度だけドアを蹴った衝撃と音があった。
 今日もめげずに部屋のドアを叩き続けるパン子ちゃん。
「(アタシ負けない!)」
 ドンドンドンドンドンドン!
 ガツン!
 中からドアを蹴る音がした。
「うっせーんだよパン子!」
 ついにミケの声がした。
 パン子は一歩前進した気分だった。
「ミケ様、学校行きましょうよー。今日もお弁当作ってきました。な、なんと砂糖入りの厚焼きたまごですよー!(ちょっとコゲちゃったけど)」
 ガチャ。
 カギの開く音がした。
 そして、勢いよくドアが開かれドゴッ!
 パン子は鼻を強打した。
「ううっ、ミケ様……開けるなら先に言ってくださいよ」
「うるせーな」
 そこにはミケが立っていた。立っていたのだが、立っているのはいるのだが、立っている姿を見てパン子は眼を丸くして驚愕した。
「ええええっミケ様?!」
「なんだよ?」
「だって、いつもと……」
 いつも被っているニットキャップはなく、髪の毛も黒じゃなくて白銀。しかも、男子の制服を着ている!
「ミケ様、不良になられたんですかーッ!」
「ちげーよ。髪の毛はこっちが地色なんだよ」
 睨まれたパン子はさらにミケの違いに気づいた。
「あっ!? ミケ様って黒い瞳でしたよね? 赤に変わってるーッ!」
「赤じゃなくて緋色だよ。今まで黒いカラコンで隠してたんだよ(そう、オレはなにもかも偽っていた)」
 瞳の色まで見ているパン子のストーカーっぷり。
 なぜミケのことなら気づくのに、父親が変わっていても気づかないのだッ!
 パン子は急にモジモジして顔を真っ赤にした。
「(ミケ様テライケメン。女装も良かったけど、まさか男装するとここまでとは。ああン、素敵すぎて萌え死ねる。今日もごはんがおいしく食べれそう)」
 そんなパン子を放置でミケはさっさと学校へ向かった。

 ミケの登校は瞬く間に騒ぎとなった。
 ――あの可愛かったミケちゃんが不良の道に走った。
 そんな噂が口々に囁かれたが、
「(あたしこっちのほうがスキかも)」
 女子のウケは好いようだった。
 しかし、男子生徒たちの見る目は良いものとは言えなかった。
 ミケを睨む者、蔑む者、避ける者。今日のミケの姿だけが関係しているのではなく、どうやらこの三日の間に不穏な空気が流れたらしい。
 ミケのことを睨んでいるヤツも、パン子が通り過ぎると笑顔で挨拶をする。さらにペン子に笑顔を向けられると顔がゆるむ。ついでにベルが通り過ぎると背筋を伸ばして、九〇度に頭を下げる。
 この学園にいる変わった女子三人は、決して嫌われ者ではない。たとえパンダでもペンギンでもデビルでも、中身である人間性によって好かれたり慕われたりウニョウニョされたりしているのだ。
 しかし、ミケの態度は転校初日から今日まで変わらず、人を避け、素っ気なく扱い、ときにシカトした。人望があるとは言えなかった。
 もともとアンチミケの流れがあることを、ミケ自身も気づいてはいたが、それが表面化してくることはなかった。
「(生ぬるい環境でオレの感覚が鈍ってたんだな)」
 キッカケに後押しされた流れは、急速に事を荒立てていく。
 そのキッカケはおそらくアレだろう。
 ミケの前から上級生の面々がやって来た。
「(オレが殴ったセンパイか。後ろからも気配がするな)」
 振り返るとやはり後ろからも獣の群れがやって来た。
 全部で二十人くらいだろうか。どんな格闘の達人であっても、この数を倒すのは現実的ではない。
 逃げるにしても、ここは狭い廊下だった。
 ミケは天井を見上げた。
「(もっと高ければあいつらのこと飛び越せるのにな)」
 次に開かれた教室のドアを見た。
 そこしかないと判断したミケは急いで教室に駆け込んだ。
 すぐに轟き声が後ろから迫ってくる。
 廊下では逃げ切れないという判断は正しかっただろう。
 しかし、こことて袋の鼠。
 ネコなのにッ!
 教室にある二つの出入り口は塞がれた。
 ミケは窓を見た。
「(二階なら平気なんだけどな。ここ三階だもんな、飛び降りたら足折りそう)」
 危険を感じた無関係の生徒たちが教室を出たり、端に寄ったりして嵐に備えた。
 一斉に襲いかかって来る男子生徒たち。
 ミケは突進して来る生徒を跳び箱のように飛んだ。
 机や椅子が倒され、瓦礫の山を築いていく。
 軽やかに机の上に飛び乗ったミケ目掛けて椅子が飛んで来た。椅子を投げたのはあのミケに殴られた阿久藤だ。
 椅子を躱そうと机を蹴り上げたとき、力が入り過ぎてバランスを崩してしまった。
「(ヤバイ!)」
 と思ったときには倒れて、脇と肋骨を椅子の背に強打していた。
 歯を食いしばりながら床に転がったミケ。
 すぐに何人もの男子が飛び乗って来た。
 山の下敷きになったミケは窒息しそうだった。
「引きずり出せ!」
 誰かが言った。
 ミケは足首を掴まれた。そのまま床を引きずられた。机や椅子に体中をぶつけたが、奴らが構うことはない。
 両腕も左右の二人によって固定され、背中に誰かが乗った次の瞬間には、顎を持ち上げられ海老反りにさせられていた。
 上に乗った阿久藤がミケの耳を引っ張った。
「ギャアアアアッ!!」
 強烈な痛みでミケはのたうち回りたかった。だが、体は身動き一つできないように押さえつけられている。
 耳が引き千切れそうだった。
 下卑た高笑いが聞こえて来る。
「この怪物野郎! キモイ耳なんかつけてんじゃねーよ、アハハハハハ!」
 ミケじゃない声がする。
「気持ち悪い耳で悪かったな、この猿どもがッ!」
 その声は?
 ドガッ、ドゴッ、ズゴン!
 次々と男性生徒が倒されていく音をミケは聞いた。
「なんだよコイツ!? コイツにも耳があるぞ!」
 そう、この場に現れたのはポチだった。
 ポチは次々と向かってくる猿どもをタコ殴りにしていく。
 気づけばミケの上に乗っている阿久藤以外、全員泡を吐きながら気絶させられていた。
 ミケは頭を後ろに大きく振り上げて阿久藤の顎に頭突きを喰らわせた。
「ガグッ!」
 怯んだ阿久藤は思わずミケの耳から手を放していた。その隙にミケは全力で立ち上がって背中から阿久藤を振り下ろした。
 阿久藤は尻餅をついて背中を床に打ち付けた。
 反抗的な緋色の瞳でミケは阿久藤を見下す。
 激昂した阿久藤がミケにタックルした。
 避けられなかったミケはそのまま椅子と一緒に押し倒され、再び阿久藤がミケの上に馬乗りになった。
「この野郎そんな眼で俺を見るなッ!」
 阿久藤の拳が何度も何度もミケの顔面を殴った。
 ポチが阿久藤の襟首を後ろから掴んで、そのまま引っ張るように投げ飛ばした。
 瓦礫の山の中につっこんだ阿久藤。
 そして、そのまま気を失った。
 この騒ぎを聞いて駆けつけたパン子が前のドアから飛び込んで来た。ほぼ同時にペン子がもう一つのドアから入って来た。
 パン子はペン子を確認するとプイっとそっぽを向いた。
 ミケは見るも無惨な姿だった。
 顔は痣だらけで腫れてしまい、鼻や唇から血が出ている。
 すぐにペン子はハンカチを出して駆け寄ろうとしたが、先にパン子がポケットティッシュを出して駆け寄った。
「ミケ様大丈夫ですか!」
「近寄るなよ!」
 ミケは立つのもやっとであったが、うまく上がらない手でパン子を振り払った。
 よろめきながら歩き出すミケ。ペン子はただ見つめるだけで近づけなかった。
 しかし、次の瞬間!
 ミケは椅子を倒しながら転倒し、そのまま気を失った。

 ベッドの上で目覚めたミケ。
 目を開けた先にはポチがいた。
「なんでいるんだよ?」
「貴様が気を失ってる間に報復がないとも限らん」
「報復するならアンタがオレにだろ?」
「誇り高きワンコ族はニャース族のような卑怯者ではない。やるなら正々堂々と戦う」
「いっそのこと意識がないうちに殺して欲しかった」
 体中が痛い。悲しいほど痛い。
 痛みで悲しいのではなく、この痛みの元凶になったモノが、痛みの大きさと比例しているように悲しさを呼び起こす。
 ポチは天を仰いだ。
「ニャース族で〈サトリ〉の能力を持つ者は忌み嫌われる。辺境の地であるここですら、貴様は嫌われ者だ」
「知ってるよ」
「そんな能力は不幸しか喚ばない(あるべきではない力だ)」
「オレもそう思う」
 ミケ自身がもっとも痛感している。自分の人格を形成した要因で、大きな割合を占めているのはこの能力にほかならない。
 ミケはベッドから体を起こした。
「オレと戦え」
「傷ついた貴様とは戦えん(無惨な貴様に勝ったとしても、後味の悪さを一生背負いそうだ)」
「真剣勝負にコンディションなんて関係ねーだろ」
 鬼気迫るほどミケの眼差しは真剣そのものだった。
 それにポチは根負けした。
「(傷ついた躰にも関わらず、戦うことを決意した戦士の申し出を断っては、逆に恥じる生き方をしたことになる……か)いいだろう、しかし勝負をするからには一切の手を抜かん」
「オレは端から全力でやるつもりだ(それで死ねればいい)」
 二人は屋上へ向かうことにした。
 まだ授業中で誰の邪魔も入らないはずだ。
 屋上は潮風が吹いていた。
 少し離れた位置で対峙する二人。
 ポチがミケの足下に鞘に入った長剣を投げた。
「俺の予備の剣だ。せめて武器くらい持て」
「オレに武器なんか与えて後悔するぞ」
 二人は鞘から剣を抜いた。
 どちらも仕掛けない。その場に立ち、神経を研ぎ澄ましている。
 ポチが口を開く。
「ペンギンのことどう思ってる?」
「嫌いだ。アンタは好きなんだろ?」
「うるさい、人の心を勝手に聞くな!(本当に嫌な能力だ)」
「(別に〈サトリ〉で聞かなくても見てればわかるけどな)どうしてこんな話した?」
「貴様がペンギンのこと影でこそこそ尾行しているからだ(どう考えてもペンギンのことが好きとしか)」
 緊張を解いてミケがフッと笑った。
「ペン子のストーカーしてたのはな、あのきぐるみを脱ぐ瞬間に立ち会いたかったからだよ」
「変態かッ!」
「違うわボケッ!」
 神速のツッコミだった。
 ミケはその理由を語りはじめる。
「ペン子には〈サトリ〉が効かないんだよ」
「〈サトリ〉の能力でもすべてを知ることはできないと聞いたぞ?」
 ミケ以外の事例の予備知識ならば、ポチのほうが豊富かも知れない。
「オレもそう思ってる。けど、まったく聞こえないなんてありえない。だからオレはあのきぐるみのせいじゃないかと思って、脱ぐ瞬間をずっと狙ってたんだよ」
「〈サトリ〉の能力は多くを知ることができるが、ときに酷く盲目なのだな。〈サトリ〉の能力が効かない人間がいると、それが心配の種になるというわけだろう?(貴様は〈サトリ〉の能力なしで人の心を知る方法を知らんのだな)」
「〈サトリ〉の能力で人の心を聞いた方が確実だよ。人はウソをつく」
「人を信じられないことは悲しいな」
「信じないんじゃない、事実が聞こえてしまうんだよ。だからオレは人といられない、孤独なんだ」
 その言葉にポチが首を横に振りながら言う。
「事実……すべてが聞こえないというのに事実か。ペンギンの心は見通せないのにな」
「…………」
 言葉を失ったミケは、すべてを消し去るように、がむしゃらにポチへ斬りかかった。
 ポチはミケの一撃を大剣で受け、そのまま薙ぎ払った。
 剣ごと押し飛ばされたミケはそのまま激しく地面に転がった。手から離れた長剣。これが最後の力だった。
 もう本当に身動きできないミケに、ポチは大剣を振り上げた。
 ミケが死を望んでいることを、〈サトリ〉などなくともポチは感じ取った。
 一瞬のためらい。
 強い風が屋上に吹き、その風と共に現れた真っ赤な男。
「犬っころ、我が息子から離れてもらおうかッ!」
 そこに立っていたのはバロンだった。
 ポチは大剣を下げた。戦う意志は消えていた。鞘を拾い上げるポチはミケとバロンに背を向けていた。
「邪魔が入ったから戦いをやめるのではない。貴様は決して孤独ではないからだ」
 ミケはこれまで多くの出会いと決別を経験してきただろう。きっと最後はことごとく別れたはずだ。
 しかし、バロンだけはずっと傍にいた。
 姿を消したポチ。
 バロンが手を貸そうとしたのを無視してミケは自力で立ち上がった。今は手を借りる気にはなれなかったのだ。
「我が息子よ、その怪我はあの犬っころにやられたのか?」
「違う。その前に学校のヤツらにやられた」
「またか。我が輩の目から見て、この学園は今までの中ではマシだと思ったのだがな」
「今までの中ではな。でもどこも同じだよ、結局は」
 ミケはバロンを置いてこの場をあとにした。

 まだ生徒たちは授業中だが、ミケは構わず寮まで戻って来た。
 部屋の中に入るとすぐにベッドで横になろうと思ったが、テーブルの上に牛乳パックが置いてるのを見つけて足を止めてしまった。
「(親父がしまい忘れたんだな。オレには絶対飲むなって言いながら、親父は牛乳大好きだから毎日飲んでるよな)」
 ミケは牛乳を片づけるのも面倒で、そのまま通り過ぎようとしたのだが、
「(牛乳アレルギーだから飲んだら死ぬぞって言われてるんだけど、飲んだ記憶すらないんだよな。本当に飲んだら死ねるのか?)」
 牛乳パックを手にとって、口を開けて匂いを嗅いだ。それだけではなにも起きない。
「(こんな世界滅んじまえばいい。でもそれは無理なのはわかってる。だとしたら道は一つだ)」
 ミケは牛乳を一気飲みした。
 パックのままでは飲みづらく、口の端から白い液体が垂れ流れる。
 空になるまで飲み干したが、なにも起きなかった。
「牛乳ってうまいな(しかもなんか力が沸いてきたような)」
 現に身体の痛みが消えていくような感覚だった。
 ドグゥンッ!
 急に心臓が大きく脈打った気がした。
「うっ……身体が……(クソッ、なんだこれは!?)」
 呼吸が乱れ、動悸が激しくなる。
「(これがアレルギーか)」
 胸が苦しく身体が熱い……しかし気分は昂揚していた。
「(なにか……来るぞ!)」
 ドグゥンッ!
 ミケの身体が跳ね上がった。
 白銀の髪がざわざわっと動き、凄い早さで伸びはじめた。
 ドグゥンッ!
 今度は躰が膨れ上がり上半身の服が破れた。露わになった皮膚は白銀の短い毛で覆われている。
 ミケの視線の先で、自らの手の爪が鋭く、まるで猛獣のように伸びはじめる。
 手の甲も毛に覆われてしまった。
 そのとき、玄関のドアが開きバロンが帰って来た。
「今帰ったぞッ! 我が息子よ帰っておるか……なんとあるまじき!」
 バロンはそこに気高く立っている獣を見た。
 白銀の鬣(たてがみ)を噴き出す氣によって靡かせながら、燃えるような緋の眼を持つ獣人の姿を――。
 ガゴォォォォォォン!!
 咆吼をあげたミケが鋭い牙を剥きバロンに飛びかかって来た。
「あれほど牛乳を飲むなとッ!」
 バロンは飛びかかって来たミケを受け止め、そのまま反動を利用して床に背中をつけて、足の裏でミケの腹を押し上げて、投げたァァァッ!
 投げられたミケは玄関の外まで吹っ飛び、四つ足で地面に着地した。
 そのまま走り去ってしまったミケ。
「我が輩を置いていくなッ!」
 ミケは完全に暴走していた。
 チョウチョを追いかけ、ミケは地面から校舎の三階まで飛び跳ね、そのまま窓から校内へ入った。
 ちょうどそこではペン子とパン子が授業を受けていた。
 生徒たちが口々に言う。
「巨大なネコ!」
「いや、ライオンだろ」
「狼男だろ?」
 だが、その正体にペン子はすぐ気づいた。
「綾織さん!」
 黄金の鈴がリンと鳴った。
 ミケがいつも首につけている鈴。
 そして、鈴鳴ベル!
「アタクシの授業を妨害しようなんて良い度胸してるわねぇん!」
 すぐさまベルは白衣のポケットからロケットランチャーを出して肩に担いだ。
 さらにすぐさま生徒たちが逃げ出してすぐさまロケット弾が発射された。
 シュオォォォォォォーーーン!
 ドゴォォォォォン!
 ロケット弾はミケに直撃して大爆発を起こした。
 煙が晴れると、窓の吹き抜けがだいぶ良くなっていた――というか、窓側の壁がすべて崩れ落ちていた。
 しかし、そこにミケは立っていた。
 美しい白銀の毛。そこに一滴の血すらついていない。
 ベルが叫ぶ。
「うんこ漏れそう!」
 このチャンスを逃してはならないとベルはトイレへ駆け込んだ。
 ミケは明確な目的はないらしく、そこにある机や椅子を滅茶苦茶にひっくり返して暴れた。いや、戯れていると言ったほうがいいかもしれない。
 そんな教室が大惨事になっている中、パン子は一番後ろの角席で、すっかり熟睡していた。授業中に眠くなったのだから仕方がないッ!
 生徒たちの大半はすでに避難して姿を消してしまった。数少ない逃げないで見守る者の中にペン子がいた。
 そして、勇敢にもペン子はミケに近づいた。
「綾織さんその姿どうしたのですか?」
 いつもと変わらぬ笑顔で投げかけた。
 だが、急にミケはその標的をペン子に定めた。
 鋭い爪をペン子に振り下ろされる!
「させるかエロリック!」
 キンッ!
 大剣がミケの爪を退けた。
 ペン子を守るように立つポチの姿。
「姫をお守りするのは騎士の勤め(今日の俺は決まってる!)」
 ガルルルルルル!
 ミケが低く喉を鳴らした。
 大剣を構えてポチはペン子を後ろに下がらせた。
「安全な場所に。どうやら今のエロリックは半端な超獣化(ちようじゆうか)をして、さらに自我が保てないらしいな」
 寝ぼけているパン子が手を挙げた。
「は〜い先生、超獣化ってなんですかー」
 そう言ってまた寝た。
「超獣化とは我ら獣人の一部が有している変身能力のことだ。学者たちは先祖返りだと言っているが、俺は進化だと思っている。超獣化した者は強力な力を手に入れるからだ。しかし、理性や知能が著しく低下することが多く、本能の赴くままに行動することを考えると、先祖返りという説が正しいのかも知れない。変身の切っ掛けには個体差がある……俺の場合は大量の血によって、エロリックの場合は?」
「牛乳だ!」
 と言って現れたのはバロンだった。
 ピピピピピ……
 アラームのような音が響いた。
 バロンの時計の音だった。
「おっと、営業の時間だ。では諸君、さらばだ!」
 バサッとマントを翻しながら姿を消したバロン。
 そんなこと構わずミケとポチは戦いを繰り広げていた。
 大剣はその大きさゆえに小回りが利かず、ミケの爪の攻撃にかなり踏み込まれてしまう。
 そしてついに覚醒(めざ)めるパン子!
「きゃっ、なにあの狼男!」
 寝起きで驚いたパン子にペン子が教える。
「綾織さんです」
「ペルシャ猫男だったの!?」
 ミケとの戦いで手が離せないポチだったが、どうしても修正したくて叫ぶ。
「ニャー帝国の皇族はアルビノの獅子。つまりホワイトライオンだ!」
「ライオンってネコじゃないじゃん……ポチって意外にバカなんだ」
 フフンと笑うパン子の横で申し訳なさそうにペン子が、
「ライオンさんはネコ科の動物ですよ」
「えええっ!」
 動物園の娘に衝撃が走った。さすが名ばかりの山田どうぶつ園の娘だ。
 追い詰められたポチはついに狂剣の力を解放しようとした。
「止むを得ん。我が狂剣ウルファングの力を今こそ――」
 などと言ってる間にミケはパン子に襲いかかっていた。
「やめてミケ様!」
 しかし、パン子の声はミケに届かなかった。
 鋭い爪が振り下ろされる。
 すぐにポチがパン子の前に回り込む。
「疾風斬り!」
 薙いだ大剣がミケの腕を斬った。
 ウォォォォン!
 鋭い爪はポチに振り下ろされた。
「クッ!」
 後方に大きく飛ばされたポチ。その漆黒の鎧の胸当てには、深い爪痕が穿たれていた。
「鎧を着ていなければ確実に即死だったな……」
 互いに牽制し合うミケとポチ。
 その間にペン子が立った。
「もうケンカは止めてください。これ以上誰も傷ついて欲しくありません」
 しかし、その声すらミケには届かず、あろうことかその牙をペン子に向けようとしたのだ。
 そのときだった!
「待ちな!」
 その声にミケは動きを止めた。それほどまでに鬼気迫る男の声だった。
「今日こそパンダだけに白黒つけようじゃねーか。帰ってきた正義のヒーローパンダマン参――ぶげッ!」
 ミケのフックパンチを喰らったパンダマンは、吹き抜けのよくなった窓から飛んでいった。
 自分で飛ばしたパンダマンを追いかけてミケが外に飛び出した。猫の習性だ。
 ペン子も三階から飛び降りてミケを追う。
 校庭に出たミケはパンダマンをボールにしてじゃれている。
「うぎゃ〜殺される〜いてーマジいてー!」
 血だらけになるパンダマン。
 ――一方そのころ、ホストからIT社長に転身したパンダマン弐号は、一〇〇億円の契約書にサインをしようとしている、まさにそのときだった。
 そのとき、パンダマンは血だらけになりながら、地面に血のサインを残していた。
『知ってるか?パンダのしっぽって白なんだぜ?わしは今日知った』
 そんなこと書いてるヒマあるなら逃げろよ。
 ペン子は両手を大きく広げて叫ぶ。
「もうやめてください!」
 ミケはペン子に飛びかかった。
 両手を広げたままペン子はそこを動かず、自分の胸に突進してきたミケを力一杯受け止めた。
「傷つくのも傷つけるのも……もう嫌なの!」
 高ぶった感情で叫んだペン子は、そのままミケに押し飛ばされて地面を何度も何度も転がった。
 ペンギンスーツがペン子の体を守ったが、頬は少し擦りむいてしまった。
 壁のない教室の縁に立つパン子は泣いていた。
「あんなのアタシがスキなミケ様じゃない!」
 今までミケに邪険に扱われても一途だったパン子が、ついにミケを突き放した瞬間だった。
 立ち上がったペン子は再び両手を広げた。
 再びミケがペン子に飛びかかる。
 ペン子はそれを全力で受け止め、ミケの躰を強く抱きしめた。
「あなたは孤独じゃない。だからひとを拒まないで……」
 しかし、再びペン子は押し飛ばされて地面を転げ回った。
 トイレから戻っていたベルがいつの間にかパン子の横に立っていた。
「ペンギンスーツの実力を持ってすれば、あんなネコ簡単に始末できるのにねぇん」
 まぶたを腫らしたパン子の中で気持ちが渦巻いていた。
 ミケに襲われたときの恐怖。鋭い爪があと一歩で自分の身体を切り裂いていた。そのときにミケと自分との間に、大きな隔たりがあると感じてしまった。
 でも……
「ミケ様はアタシが助ける、絶対に元に戻してあげるんだから!」
「それこそアタクシの求める青春ねぇん!」
 ベルは歓喜に打ち震えて身もだえたが、
「でも、ただのきぐるみでどうやって立ち向かうつもり? 弱点でも知っているのかしらぁん?」
「そうだ、ミケ様は寒いのが苦手!」
「ふ〜ん、ならアタクシが少し手を貸してあげましょうねぇん」
 そう言ってベルが自慢げに白衣のポケットから取り出した、謎のコントローラー。
 ジャジャーン!
「気象コントローラーよぉん! このコントローラーを操作して雪にセットしてボタンを押すと……」
 ゴォォォォォォォォ!
 いきなり猛吹雪に包まれ視界がゼロに等しくなった。もうペン子とベルのいる場所から、ミケやペン子は確認できない。
 吹雪に紛れた白銀のミケ。その姿はペン子にも発見できなかった。
 ペンギンスーツには防寒機能もついていたが、ここであえてペン子はペンギンスーツを脱ぎ捨てた。
 吹雪に包まれるペン子。かろうじて両手を広げる輪郭だけが見えた。
 白に閉ざされた世界の向こうから、獣の咆吼が聞こえた。
 雪を蹴り上げてミケがペン子に襲いかかった。
 鮮血が雪の上で迸り、刹那に消えた。
 腕から血を流しながらペン子はしっかりとミケの躰を抱きしめていた。
「ヒナの心の音が聞こえますか?」
 ミケはペン子の胸に抱かれながら、その心臓の音を聴いた。
 穏やかすぎるほど落ち着き、一点の乱れもなく、心地よく脈打つ心の音。
 風に乗ってミケの毛が抜け落ちていく。
 そして、膨れ上がった筋肉が徐々に縮んでいき、ペン子の胸の中にはいつものミケがいた。
「……ペン……子?」
 薄れゆく意識。まぶたが重く閉じていく。
 気を失ったミケの身体が膝から崩れた。
 ペン子はミケのことを優しく包み続けた。
 やがて吹雪は二人の身体を雪に沈め、冷たく閉ざされた世界に封じ込めた。

 ――燦然と輝く日差しがまぶたを照らす。
 ミケは目を覚ました。
 雪解けの春が訪れたような温かい陽気。
「ミケ様ー!」
 雪を掘り起こしたパン子がミケを見つけた。瞳に涙を溜めながらも、歓喜に満ちあふれた表情をしていた。
 〈サトリ〉で聴かなくとも、その表情がなにを意味するかミケは強く感じ取った。
 ほかのクラスメートたちも心配そう顔、嬉しそうな顔をしながら、ミケとペン子を雪の中から掘り起こしていた。
 ミケは自分の身体がペン子に包まれていることに気づいた。いつもと同じペンギンのきぐるみを着たペン子に――。
 超獣化したあとの記憶がミケはあやふやだった。それでもおぼろげに残る記憶から、暴れ回り、ペン子を傷つけてしまったことは覚えていた。
 ミケのすぐ目の前にあるペン子の顔は微笑んでいた。
「綾織さんだいじょうぶですか?」
「……ああ」
 その笑顔にミケは癒された気がした。
 見つめ合う二人。をパン子が引き裂いた。
「ペンギンのクセになんでミケ様に抱きついてるの信じらんない!」
 パン子は雪の中からミケを引っ張り出して自分が抱きしめた。
 ぽわ〜んとしながらペン子は、
「吹雪の中でぺんぎんさんたちがおしくらまんじゅうをして、体を温め合う行為をハドリングというのです。今回は二匹だけでしたので、そう呼べるかわかりませんけど」
「そんな話聞いてないしー!」
 わめくパン子をうっとうしそうにミケは押しのけた。
「オレに抱きつくなよ」
 だが次の瞬間、膝が崩れて倒れそうになったのを、いつかミケのことを裏切った宇田桐が肩を貸して助けた。
「あのときは本当にごめん」
 涙を流していた宇田桐にミケはなんと声をかけていいかわからなかった。
 ただ、小さく頷いて見せた。
 白銀の獣。
 飢えた獣はなに飢えていたのだろうか?
「……みんなありがとう」
 ミケは小さく呟いた。
 そして、校庭の真ん中には二つの尻尾が雪の中から生えていた。
 片方の尻尾が丸くて黒いことは言うまでもない。


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