サーガ\
 宴の興奮の冷めやらぬまま数日が経過し、ムーミストの力が最も弱まる四〇年に一度訪れる日。この日にレザービトゥルドがメミスの都に怪物を送り込んで来る。
 逢魔ヶ刻――空は黄昏色に染まり、昼と夜の境の刻。
 夕闇が訪れようとしているなか、怪物を迎え撃つために選ばれたラーザァーと、それを支援する魔導士及び戦士たちは、防壁の外で陣を組んで怪物の襲来を待ち構えていた。だが、情勢は悪い。正式なラーザァーはアレクひとりしかいないのだから。
 ただひとりの正式なラーザァーとなったアレクには当然に神器であるムーミストの弓が与えられた。
 このムーミストの弓はムーミストがレザービトゥルドと戦った時に使用したもので、普通の魔導士には使いこなすことができない。なぜなら、この弓は使用者の魔力を大量に使い矢を作り出し放つために命をも削られてしまう。血の雫を服用した魔導士だからこそ使いこなせる武器なのだ。
 この場で最も魔導力に長けているのは〈血の雫〉の力を得たアレクひとりであり、アレクには全軍を指揮し、自ら先陣を切って怪物に戦いを挑むという過酷な任務が化せられている。
 〈血の雫〉の力を得ずとも強大な魔導力を持ち十分な戦力となりえる神官長は、その役職の重要性から神殿に匿われている。神官長が自ら危険な戦いの場に赴くなど常識ではありえないのだ。
 騎獣イーラに跨るアレクの元へ血相を変えた魔導士が馬に乗って現れた。
「た、大変です、怪物が川を下って都市内に進入しました!」
 都市は川に接しており、その場所だけに壁がない。怪物はその場所から都市に侵入して来たのだ。
 怪物が川を下って来るなど前代未聞のことであった。この戦いにはムーミストとレザービトゥルドが定めたルールがあり、怪物は毎回、都市の正面門から攻め入って来ると決まっていたのだ。
 騎獣に乗ったザヴォラムがアレクに声をかける。
「囮やもしれん。半群を率いてアレクは港に向かえ。正門の指揮は私が取る」
「ここは任せたザヴォラム!」
 怪物たちの戦いは六人のラーザァーが取ることになる。しかし、正式なラーザァーはアレクだけであることから、必然的にアレクがその長となる。そして、残り3人のラーザァーの中で一番地位が高いのはザヴォラムであった。
 アレクは群を率いて都市の西側にある運河に向かった。先陣を切ってアレクが率いる飛空部隊が上空から運河に向かい、残りの部隊は都市内を駆けて運河に向かった。
 上空から見えるこの国の貿易の要となっている運河は酷い有様だった。船が壊され輸入されて来た物資や輸入するはずだった毛皮やワインがそこら中にぶちまけられていた。
 ここで働いていた人々はすでに逃げた後で誰もいない。だが、怪物の姿もなく、辺りは静けさに満ち満ちていた。
 飛空部隊は慎重に港に下り、アレクは辺りを見回しながら息を呑んだ。
 静か過ぎる。怖いくらいに辺りは静寂に包まれていた。これが何かの前兆でなければよいのだが――。
 上空に白鳥の翼を持った白馬が旋回する。そこに乗っているのはまさしく神官長キルスであった。彼は厳重な警護下であった神殿を抜け出してきたのだ。
 キルスの目が大きく見開かれた。
「敵は水の中だ!」
 二度と聞くことのないほどのキルスの怒号が響き渡る。
 誰もの視線が運河へと向けられた時、水面が波打ち激しい水しぶきが大気中に舞い、水面から大きな何かが咆哮を上げながら姿を現したのだ。
 大量の水が港へ流れ込み、飛空部隊の誰もが合図もなしに上空へと騎獣を翔けさせた。
 水面から出ている部分だけでも九メティート(約一〇・八メートル)を越えているであろうその長い身体は蛇のようであるが、鱗は見るからにゴツゴツとしていてまるで甲冑を纏っているようだ。
 禍々しい気を放つ怪物は大きな口を空けて人語を話した。
「我はレザービトゥルド。この都を滅ぼす者なり」
 誰もが驚き騒ぎ喚いた。まさか、今までその姿を見せることのなかったレザービトゥルドが襲って来るとは誰もが信じていなかった。
 遅れてやって来た地上部隊もレザービトゥルドの姿を見て、身体を震わせて恐れおののいた。
 アレクの声が士気を高める。
「怯むな! 望むところではないか、この怪物を倒せば40年に一度の悪夢に決着がつく!」
 雷光の槍をアレクがレザービトゥルドに投げつけたのを見て、屈強の戦士たちは剣を抜き、斧を構え、弓で狙いを定め、魔導士たちは遠距離魔法を放つ。
 アレクは紅蓮の炎をつくり出し、レザービトゥルドの口の中に投げ込んだ。
 渦巻く炎はレザービトゥルドの口の中に吸い込まれ消えてしまった。それを見てアレクは思わず声を荒げる。
「炎が効かぬのか!?」
 咆哮を上げるドラゴンの口の中には鋭い剣のような歯が並び、臭い息が吐き出された。
 弓が放たれが堅い鱗にはびくともせず、剣も斧も歯が立たなかった。
 戦士たちは次々とドラゴンに喰われ、呑み込まれていった。
 圧倒的な力の差の前にほとんどの魔導士や戦士たちは逃げ出してしまったが、アレクは逃げるわけにはいかなかった。せめて最期は誇り高いラーザァーとして……。
 どんな屈強な鱗を備えていても眼だけは弱点であるはず。アレクはイーラの手綱を引いて接近戦を挑んだ。
 普通の武器や魔導では歯が立たないことはわかった。アレクは腰に据えてあった〈ムーミストの弓〉を構えた。〈ムーミストの弓〉は寿命を縮め、膨大な魔導力を消費することから連続して矢を放つことはできない。できるだけレザービトゥルドとの距離を縮めて確実に狙いを定めなければならない。
〈ムーミストの弓〉を構えて果敢にもレザービトゥルドに向かったアレクであったが、巨大な口が開きアレクはひと呑みにされそうになってしまった。手綱を大きく引くが逃げる術もなくレザービトゥルドに喰われようとするその時だった。先ほどアレクが放った炎とは比べものにならないほどの地獄の業火が大きく開けたレザービトゥルドの口に中に放たれたのだ。
 アレクの視線の先には、ローゼンを従えたキルスが立っていたのが見えたが、次の瞬間には甲高い悲鳴にも似た咆哮を上げたレザービトゥルドが水の中に勢いよく飛び込み、津波が発生して運河のほとりにあったものを全て流してしまい、アレクは暴れたレザービトゥルドの直撃を受けて運河の中に騎獣もろとも沈んだ。
 意識を失ったアレクは激流に身を任せるしかなかった。
 川の流れの緩やかな場所でアレクは川岸に運良く流れ着くことができた。
 辺りはもうすでに日が落ち、夜獣たちのが徘徊する時間だ。
 気を失っていたアレクは獣の遠吠えによって慌てるようにして目を覚ました。
 アレクは手を強く握り締めた。
「よかった」
 自分が助かった安堵感から出た言葉ではない。アレクの手にはしっかりと〈ムーミストの弓〉が握り締められていた。激流に流され、意識を失いながらも、アレクはこの弓だけは決して放すことがなかったのだ。
 弓を握るアレクの指には蒼い宝石が輝いていた。
「シルハンド……」
 今は亡きシルハンドの形見。彼はムーミストの民を裏切った。しかし、アレクはこの指輪を捨てることができず、ずっと肌身離さず身につけていたのだ。
 シルハンドのことを思い出すと心が痛む。
 なぜ裏切ったんだ。
 アレクは自分でも気が付かないうちに頬を濡らしていた。人前では絶対に見せない涙。いつだって涙を流すことはなかったのに、今はどうにも涙が堪えられなかった。涙の流し方すら忘れていたのに。
 夜闇が川辺に寝そべるアレクの身体を包み、孤独感がアレクを襲う。
 拳を強く握り締めたアレクはシルハンドのことを頭から振り払い、力強く立ち上がった。
 初歩の魔導によって拳大の光を1つ作り出したアレクは、それを身体に纏わせた。光は身体の周りを纏わり付くように飛び周り、辺りを明るく照らしてくれる。この魔導ならば両手が空くので何かと便利だ。
 川辺から少し歩き、アレクは辺りを見回した。この場所にアレクは見覚えがあった。ここはメミスの都に程近いステップだ。思ったよりも早くメミスの都に辿り着くことができそうだ。
 アレクは〈ムーミストの弓〉をしっかりと握り締め、まだ見えぬメミスの都に向かって足を速めた。
 ひたすら歩き続けてアレクたちの目にメミスの都が見えてきた。都には明かりが灯っている。美しく輝く灯火はメミスの繁栄の証に思えた。しかし、アレクは眼を凝らして深い息を吐いた。
「なんたることだ!?」
 都は燃えていた。いたるところから火の手が昇り、メミスの都は滅びの一途を辿っていた。
 愕然としてしまったアレクは血相を変えて走った。
 都を守るために造られた壁が強大な力によって破壊され、火の手は治まるところを知らない。
 アレクたちは都の中に急いだ。
 全長約二一メティート(約二五・二メートル)の蛇に似た巨体をくねらせながら町中を縦横無尽に暴れまわる。それはレザービトゥルドであった。
 町中酷い有様だった。そして、町中の人々の多くやレザービトゥルドと戦った者たちは全員レザービトゥルドの吐いた毒の息にやられ、瀕死の重症を負っていたのだ。
 身体を震わせ口を揺らす男のもとにアレクは駆け寄った。その者はラーザァーのひとりであった。
 アレクが瓦礫の上に横たわる男の手を取ると、男は震える声で言葉を漏らした。
「ムーミスト様のご加護がありますように」
 それだけを言って男の手からは力が抜けた。アレクは男から願いを託された。アレクは最期の願いを託されたのだ。
 レザービトゥルドの巨大な頭が町の中心部から見えている。
 怒りを心に抱いたアレクは地面を蹴り上げ町の中心部へと急いだ。
 アレクたちが駆けつけた時にはキルスとザヴォラムが数少ない魔導士たちと戦っていた。多くの魔導士は毒で身動きが奪われ、ザヴォラムは毒で身体を起こすこともできないようで、キルスの身体もまた毒に汚染されつつあった。
 荒ぶるレザービトゥルドはアレクたちの前に巨体を這わせながら現れた。
「この都を滅する――それはムーミストの血を引きし者を滅することなり」
 ムーミストの血を引きし者とはキルスのことであった。
 レザービトゥルドの目的はメミスの都を滅ぼすこと、それはムーミストの血を引きし者を滅することであった。ムーミストの血を引きし者とはキルスのことであった。
 メミスに存在する巫女と神官長の家系はムーミストがこの土地に初めに集落を作らせた旅人末裔である。ムーミストがこの旅人と交わり双子を生んだのだ。つまり、キルスの中には神であるムーミストの血が受け継がれているのだ。
 キルスは闇色の瞳でレザービトゥルドを睨み付けた。
「メミスの民の毒を癒してもらおう」
「それはできぬ。我が体内にある魔導具を使えば毒を癒すことはできよう。だが、ムーミストの造り上げたこの国の民を根絶やしにするまで我が怒りは治まらん」
「ならばおまえの肉を切り裂き、魔導具を取り出すのみだ」
 キルスの身体からローゼンは上空を飛び回りレザービトゥルドの身体を魔方陣で包んだ。
「く、身体が動かんぞ!」
 レザービトゥルドは地響きを立てながらもがき苦しみ砂煙を巻き起こした。
「アレクよ、ムーミストの弓で奴を射抜け!」
 動きを封じられているレザービトゥルドに向けてアレクはムーミストの弓を構えた。
 アレクは魔導で光り輝く矢を創り出し、レザービトゥルドに向けて解き放った。
 空気を巻き込み飛んでいった矢はレザービトゥルドの硬い鱗に突き刺さった。
 咆哮をあげるレザービトゥルド。だが、その身体は拘束されており身動きが自由にできない。
「おのれ、おのれ!」
 アレクの放った矢がムーミストの弓から放たれたものだと知ったレザービトゥルドは激怒した。
 古の時代レザービトゥルドが神だった時、宝に執着が強かったこの神はムーミストとの戦いの末に醜い大蛇へと姿を変えた。
 ムーミストのことを思い出したレザービトゥルドは腹の底から打ち震えた。
 レザービトゥルドの身体を拘束していた魔方陣が粉々に引きちぎられた。
 上空を飛び交うローゼンに巨大な口が喰らい付き、ローゼンの半身を食い千切った。それを見ていたキルスが叫ぶ!
「ローゼン、私の身体の中に戻るのだ!」
 ローゼンは声にならない悲鳴をあげながらキルスの内に還っていった。
 怒り狂うレザービトゥルドにアレクは再びムーミストの弓を構える。アレクの身体から生気を奪われ、矢と共に放たれた。
 矢はレザービトゥルドの片目に当たり、レザービトゥルドは激しくのた打ち回った。それに巻き込まれてしまったキルスは激しく吹き飛ばされ地面に叩きつけられてしまった。
「キルス様、ご無事ですか!」
 瓦礫の山から立ち上がったキルスは血反吐を吐きながら叫んだ。
「奴の舌を狙うのだアレク! そこがレザービトゥルド弱点だ!」
 弱点を見抜かれたレザービトゥルドは高笑いをあげた。
「討てるものなら討ってみよ。だが、我を滅せば毒に犯された者も死ぬことになるぞ!」
 アレクは弓を構えレザービトゥルドの言葉の意味を問うた。
「それは何故だ!」
「我が舌に隠されし魔導具は我が吐く毒から自らを守るものである。この魔導具を壊せば我を滅することはできよう、だが、毒に犯された者を癒すことができるのもこの魔導具。どうする、我を殺すことができるか!」
 選択が迫られた。レザービトゥルドを殺すこと、それは毒に犯された人々の死も意味していた。
「アレクよ撃つのだ!」
 キルスは息絶え絶えになりながらも叫んだが、その声はアレクに届かなかった。
 アレクはキルスの声が届かないほどに悩み苦しんでいた。この都が小さな集落であった頃から人々に恐怖を与えて来た元凶であるレザービトゥルド。それを今ここで倒すことができれば、長年メミスの民が抱えてきた恐怖を消し去ることができる。だが、毒に犯せれた人々はどうなる?
 アレクが矢を放てないのを見て、レザービトゥルドはその大きな口でアレクに喰らいつこうとした。
「矢を貸せアレク!」
 怒鳴り声を上げたのはザヴォラムであった。
 やっとの思いで立ち上がったザヴォラムは全速力で走り寄って来て、アレクから〈ムーミストの弓〉を奪い取り、眼前まで迫っていた大きな口の中に矢を解き放った。
 巨大な力が弓に注がれ矢を放つ。ザヴォラムは全ての生で矢をつくり出したのだ。だが、すでにその時にはザヴォラムはアレクに代わりに巨大な口に喰われた後だった。
 巨大な穴のような口の中に輝く矢が飛び込んで行き、レザービトゥルドの舌の付け根に突き刺さった。
「ギアゴォォォォォッ!」
 レザービトゥルドの咆哮は空気を震わせた。
 のた打ち回るレザービトゥルド全身に大量の毒が周り、やがてレザービトゥルドは動きを止めて泡を吐き死んだ。
 屍となったレザービトゥルドの皮膚にひびが入りやがて塵と化し、塵は風に乗り巡り巡りて大気を満たし、毒で苦しむ人々を癒していった。
 だが、半身を喰われたザヴォラムは死に絶えようとしていた。
 アレクはザヴォラムの傍らに膝をついた。
「ザヴォラム……」
「私が死ねば貴公の秘密は告発できなくなるな、喜ぶがいいアレク……」
 皮肉を口にしてザヴォラムは息を引き取った。
 それはアレクに新たな苦しみを与えた。ザヴォラムの死によって自分の秘密は守られた。しかし、それで本当にいいのか?
 レザービトゥルドのいた場所には巨大な骨だけが残されていた。
 アレクは地面に膝を突き、長い時間に何も言えずにその場から動くことはなかった。


ローゼン・サーガ外伝総合掲示板【別窓】
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