Scene2 キャットピープル
 起きてから外出せずに部屋の中で時間を過ごした。
 時間の流れは研ぎ澄まされていく感覚が教えてくれた。
 その変化は夕方を境に急激なものへと変わっていった。
 耐えられなくなった戒十はベッドでうずくまり、掛け布団を頭から抱えて耳を塞ぐ。
「うるさい……うるさい……うるさい!」
 その声すらも頭の中で響いた。
 感覚が研ぎ澄まされている。特に聴力が研ぎ澄まされ、今ならノミが歩く音すら聴こえそうだ。
 掛け布団が動くだけでジェット機が飛んでいるのかと思えるほどだ。
 もう限界だった。
 ベッドから跳ね起き、部屋の外に出た。
 同居人はまだ帰ってきていないらしい。そういえばここ最近、顔すら合わせていないような気がする。新しい男でも見つけたのだろうか?
 それが好都合だ。
 荒れている自分を他人に見られたくない。
「静かにしろ!」
 冷蔵を激しく蹴飛ばした。
 冷蔵庫が出すハム音が耳障りだった。
 水道管を流れる水の音が気に喰わない。
 生活音の全てが大音響を奏でている。
 このままでは気が狂ってしまう。
 床についてしまった手が汗を滲ませていた。
 自分の心臓の音が、血管を流れる血液の音が、激流のように激しく流れている。
 じっとしていられなくなった戒十はベランダに出た。
 普段なら聞こえてくるはずのない、遠くの声が次から次へと耳に飛び込んでくる。
「もう嫌だ」
 ベランダの手すりに手をかけた戒十は、そのまま勢いを付けてフェンスを乗り越えた。
 マンションの6階から地面までは数十メートルの距離があったが、落ちるのは一瞬だった。
 植え込みが眼前に迫ったとき、戒十は獣のように手と足を地面に向けていた。
 そして、思いもよらず着地してしまったのだ。
 身体に衝撃が走るが痛みはなかった。
 無傷で着地してしまったのだ。
 骨が折れて当然で、打ち所が悪ければ即死できた高さだ。それが死ぬことに失敗してしまった。
 四つ足で地面に立っていた身体を回転させて、土の上に仰向けになって寝転んだ。
 空には星が輝き、肌寒い風が吹いていた。
 どこかで囁く声が聴こえる。
「調節はできるようなったか?」
 忘れていないあいつの声。
 シンが覗き込むように戒十を見下ろしていた。
「調節はできるようになったかと聞いている」
「調節ってなんだよ?」
「大音量で聴こえている音を調節できるようになったかと聞いているんだ!」
 怒鳴り声を浴びせられ、訳も分からず戒十はむっとしたが、次の瞬間、その声の音量が普通に戻っていたことに気づいた。
「治ったみたいだ」
「治ったのではない、受信する音を調節できるように身体が学んだだけだ」
「僕の身体に何が起きてる?」
 通常の生活音が騒音に聴こえ、高所から落ちても無傷だった。
「変異だ。人よりも高等な生物に変異している」
「あはは、僕は人よりも優位な存在になったってことかい?」
「そうだ」
「そりゃいいね。最高じゃないか」
 邪な笑みを浮かべる戒十にシンは解せない視線を遣った。
「治したいとは思わないのか?」
「とんでもない、素敵な力を得たのに手放すはずがないじゃないか」
「代償もあるぞ」
「どんな?」
「血への渇欲だ」
 まるでヴァンパイアのようだと戒十は思った。けれど、ヴァンパイアになれるなら願ってもないと考えた。
「ヴァンパイアに似てるね。僕さ、ヴァンパイアとかになりたいと常々思ってたんだ。不老不死って最高だよね」
「残念ながら我らはヴァンパイアでも不老不死でもない」
 ――我々は?
 だとすると、目の前のシンも同じ〝存在〟だということになる。
 そういえば、はじめに姿を現したのは午前中だった。そのことを考えると、〝こいつら〟はヴァンパイと違って昼でも活動できることになる。ただし、サングラスをかけていたことからも分かるように、光には弱いらしい。
 〝こいつら〟はいったい何者なのか?
「僕は何になったんだ?」
「半人前のキャットピープルだ」
「なるほどね……」
 キャットピープル――すなわち猫人。少しずつ戒十は話が飲み込めてきた。
「キャットピープルの特徴は?」
「聴力と瞬発力が発達する。特に夜にその効果が発揮される……マンションから飛び降りたおまえのように」
 地上数十メートルの高さから落ちて無傷なら、瞬発力が上がった程度で片付く安易な問題ではない。これはもっと凄い力だ。オリンピックに出れば金メダルも取れるだろうが、怪物のレッテルを貼られるのがオチだろう。
 寿命はと考え、戒十はシンの言葉を思い出した。
 ――おまえの10倍以上は生きている。
 シンの外見で100歳以上生きていることになる。
「僕の10倍生きてるって言ったけど、それ本当?」
「本当だ。元は侍だった」
「あはは、嘘だろ?」
 シンの耳が微かに動き、鋭い眼差しで遠くの物陰を一瞥した。
「――人が来る、別の場所に移動しよう」
 戒十には人の気配も声も聴こえなかった。
「まったく聴こえないけど?」
「チャンネルが閉じられているからだ。慣れれば遠くの気配や物音の中から必要なものだけ感じられるようになる」
 すぐに慣れてやると戒十は思った。素晴らしい力を手に入れたのに、それを自在に扱えないなど宝の持ち腐れだ。
「僕の部屋に行こう」
「そうだな」
 二人は戒十の部屋に向かうことにした。

 玄関を開けた瞬間、玲瓏な鈴の音が鳴った。場所は廊下の先のリビングだ。
 足早に戒十がリビングに入ると、そこには学校の制服を着た女の子がソファにでーんと態度をでかく座っていた。
 女の子は無邪気に笑って戒十とシンを迎える。
「おかえりー」
 語尾を延ばす感じが戒十には気に喰わなかった。こういう奴がいる高校がうんざりなのだ。
 そんなことよりも、なぜ見ず知らずの女が自宅にいるのかが疑問だった。
 思わず戒十の口をついた言葉。
「あんた誰?」
 答えたのは女の子ではなく、シンだった。
「彼女はリサ。もちろんキャットピープルだ」
 年齢は中高生にしか見えないが、キャットピープルなら年齢は戒十よりも上かもしれない。
 リサはソファから立ち上がって戒十に近づくと、首を伸ばして戒十の体中を覗き込んだ。そして、不意をついて戒十の頬に軽くキスをした。
「あたしリサ。キミの名前、カイトって言うんでしょ、よろしくね♪」
 語尾についた音符マークが戒十には見えたような気がした。
 シンはリサの腰に手を回してエスコートして、ソファに再びリサを座らせ自分は向かいのソファに腰をかけた。
「さすがだなリサ。鈴の音が鳴るまでおまえの存在に気づかなかった」
「にゃはは、年の功って奴かな」
 間を開けてシンの横に腰掛けた戒十はリサを睨むように見た。
「こいつ、シンより年上なのかい?」
「俺がキャットピープルに覚醒したときにはすでにキャットピープルだった」
 シンよりも長生きのリサを見て、すっかり時代に溶け込んでいると戒十は思った。薄い茶髪にミニスカと、ただ靴下は紺の清楚な物だった。
 顔はというと、日本人が混ざっている感じはした。各々のパーツがくっきりとしており、日本人の純潔には見えない。無国籍な顔立ちだ。
 リサの顔をマジマジ見ていた戒十をリサが見返してきた。
「アタシに惚れた?」
 冗談っぽい台詞だが、自信が込められたひとことだった。
 それに間髪入れず戒十は言い返す。
「違うよ、日本人っぽくないと思っただけだよ!」
 少し怒った風に言うと、リサは無邪気に笑った。
「だって日本人の血なんて一滴も混ざってないもん。モンゴロイドの血は混ざってるけど。混ざってはないけど、飲んだりはするけどネ」
 また無邪気に笑った。尋常ではない行為をさらりと無邪気に言われたことで、その無邪気さに恐ろしさを感じる。
 吸血鬼は人の血を啜る怪物だが、血を吸うことに戒十はなんの嫌悪も感じていないし、人間の道理に反した悪魔的な行為だとも思わない。
 血を吸う生き物など身近に存在している。水辺や沼地には蛭がいるし、夏場には蚊が大量に飛ぶ。
 血を吸う蚊は雌で、出産に備えて栄養を蓄えるために血を吸う。
 キャットピープルも血を吸うらしいが、どの程度の血を欲するのか?
 それが優れた能力の代償であり、問題点として戒十が気になるところだった。
「血を飲むって言うけど、どのくらい必要なの?」
「好きなだけ」
 とリサが言い、シンが補足する。
「ただし、飲みすぎれば理性を失い、怪物と化す――〝成れの果て〟だ。そういうモノは我らの手で殺されるか、人間たちに狩られる」
「穏やかな話じゃないね」
 苦笑いを浮かべた戒十。
 戒十はシンの言葉からあることを読み取った。
「質問、人間たちは僕らの存在をもちろん知ってるわけでしょ。普段から命を狙われたりしないの?」
「俺たちのグループは人間と敵対はしていない」
「グループってことは、いくつか派閥があって中には強硬派みたいなのもいるわけね」
 頷きながら戒十は思っていたよりキャットピープルの数が多そうなことを知った。
 シンよりも年上で日本人の血が混ざっていないリサ。そのことを考えるだけで、キャットピープルが全世界的なものだとわかる。
 戒十はキャットピープルについてもっと詳しく知りたくなった。
「キャットピープルの原産国は?」
 質問をされた二人は答えずに難しい顔をした。
 堰を切って口を開いたのはリサだった。
「研究者が言うのにはイスラエル説が有力。さすがにその頃から生きてる人がいないから、よくわかんないんだけど。それにぃ、分布の広がりを見せてんのはイスラエルだけど、最初のキャットピープルが誰だなのか、てゆかキャットピープルの起源すら分かってない状態。宇宙からやってきたウィルスが人間に感染したとかって説まであるしー」
 キャットピープルたちも自分たちが何者なのか、完全に把握しているわけではないらしい。
 他にも質問したいことはいくつもあった。血液の摂取量も正確には聞けていない。
「話を戻すんだけど、一日の最低限必要な血の摂取量は?」
 戒十が尋ねるとリサが答える。
「体格や外見年齢による個人差はあるけど、平均1日100ミリリットル」
「少ないね」
「バカじゃないの、献血の呼びかけとか聞いたことない? 血液が不足してますってしょっちゅう言ってるでしょ。あたしたちは献血で集めた輸血用の血液から、自分たちの分を分けてもらってるの」
 そんなことリサに言われても、献血に興味のない戒十にはよくわからない。
 献血で抜かれる血の量は200ミリリットル~400ミリリットル。つまり、1人の献血で、キャットピープル2人~4人の1日の摂取量が確保できることになる。だが、献血は1人が毎日できるわけではなく、次の献血まで数週間から数ヶ月の時間を空けなければならないこともある。
 突然ケータイが鳴った。シンのケータイだ。
 ケータイに出るシンを戒十は不思議そうな顔で見ていた。見た目だけならケータイを操っていても不思議はないが、元は侍でチョンマゲだったかと思うと信じられない。
 それよりもリサがシンよりも年上だということが信じられない。
 戒十は自分に起きた現象はすんなりと受け入れた。マンションから飛び降りても無傷だったことと、優れた聴力が発達したこと。自分の身に起きたことは信じるほかないが、目の前の二人が、優に100年を超える歳月を生きているとは受け入れがたい。
 ケータイを切ったシンがソファから立ち上がった。
「〝成れの果て〟の駆除に行って来る」
 リビングを出て行こうとするシンをリサが立ち上がって呼び止める。
「新しい刀まだ手に入ってないんでしょ?」
「〝成れの果て〟は行方不明になっていたアヤカだ」
「シンがアヤカを覚醒させてから3年と持たなかったねー」
「だから俺がアヤカに引導を渡す」
 玄関を出て行くシンを戒十は無言で見送った。
 怪物と称された〝成れの果て〟がどんなものかわからない。駆除と単語をシンが使用したことから、優れたキャットピープルから害虫に身を堕とした――まさに〝成れの果て〟なのだろう。
「シンの後つけてみる?」
 とリサに言われて、物思いに意識を向けていた戒十はハッとした。
「行きたい」
 戒十は即決で答えた。
「カイトが行かなくてもアタシは行くつもりだったけど。だって刀持ってないシンはちょっと運動神経のいい人間と変わらないもん」
「彼って本当に侍なの?」
「新三郎[シンザブロウ]ってゆのが本当の名前。名前からして今風じゃないでしょ?」
「だから僕が聞きたいのは、彼が本当に侍なのかってことなんだけど」
「江戸時代の道場の跡取り息子で師範代。剣の腕は神業級だけど、丸腰じゃ戦力外……人間よりは強いけど、〝成れの果て〟と戦ったら殺されるんじゃない?」
 人事のように仲間の死を予言し、リサは玄関に向かって歩き出した。すぐに戒十はその後を急ぎ足で追った。


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