■ サイトトップ > ノベル > シャドービハンド > 第2章 夜の侵蝕(1) | ノベルトップ |
Scene1 謎の女 |
夏はまだ先だというのに、梅雨の合間のその日は、雲ひとつない日差しの強い日だった。 額に滲んだ汗を体操着の袖で拭いて、戒十は乾いた下唇を舐めた。 「暑いな」 そう呟きながら、戒十は床に落ちているボールを拾おうと背を丸めた。 視界が揺れる。 伸ばした自分の手とボールが2重に見えた。 次の瞬間、全身に痺れが走り、意識が落ちたのだった。 ――戒十は保健室のベッドで目を覚ました。 身体に違和感はなく、すぐに戒十は上体を起こす。 カーテンで仕切られたベッド。 保健室は静かだった。 まるで誰もいないような静寂。 彼らの仲間となった戒十はすでに、日常から意識せずに気配を消していた。 この部屋には戒十の気配すらないのだ。 ベッドから降りた戒十は仕切りのカーテンを開けた。 そして、戒十は心臓を鷲づかみにされた。 思いもよらなかった。 まさかヒトがいるなんて――。 肉欲を誘う太ももを組んで座る女。 黒のジャケットを押し上げる豊満な胸が、大きく開かれたシャツの合間から覗いている。その上で、ショートボブの女は妖しく笑っていた。 戒十は驚きのあまり言葉を忘れていた。 気配がない女。 その答えしか頭に浮かばなかった。しかし、それを口にいたのは、戒十ではなく女。 「キャットピープル」 吐息のような甘い声音だった。 思わず戒十は息を呑んだ。まだ声は出せない。 いったい目の前にいる女は誰なのか? 保健医ではない。 まだ教員の顔を全員覚えたわけではないが、明らかにそれとは異質なもの。 そう、女自身も言ったではないか――キャットピープルと。 女は片時も戒十から眼を離そうとしない。だが、戒十は何度も眼を逸らした。 ケモノの摂理に戒十は負けた。 言い知れない不安。 目の前の女が、自分よりも各が上だと、戒十はひしひしと感じだ。 このプレッシャーはまるで、あの晩と似ている。 背筋に寒気が走った咆哮。 底知れぬ力。 あの時のリサと似ている。 〝成れの果て〟と戦いを終え、独り森に残されたリサ。その咆哮を戒十は遠くから聴いた。 ヒトの皮を被ったケモノ。 手に掻いた汗を握り締め、戒十は出口に向かって逃げた。 気配はない。 ただ風が吹いた。 「なぜ逃げるの?」 女の肉厚な唇から漏れた息が戒十の顔にかかった。 瞬時に女は戒十の前に回りこんでいたのだ。 戒十の足から力が抜け、思いもよらず床に尻をついてしまった。 そして、やっと戒十の喉から絞り出した言葉は――。 「なんだ?」 それは何を問うたものなのか? 女は床に両膝を付き、未だ床に尻を置く戒十の胸に軽く触れ、そのまま押し倒して四つん這いで跨った。 「私の名前はカオルコ、貴方とお友達になりたいの」 お友達の誘いにしては、最初から大胆だ。 四つん這いの女――カオルコは戒十の上で微笑んでいる。 ようやく戒十は平常心を取り戻そうとしていた。 「僕はお断りだ」 その口調は冷たく固い。クラスメートに接するのと同じだ。 カオルコの口元が静かに動く。 「なら死になさい」 鋭く伸びた爪が戒十の喉を掻っ捌く寸前、カギを掛かったドアが音をガタガタと音を立てた。 気が付くとカオルコは消えていた。 開いた窓から吹き込む風でカーテンが揺れていた。 戒十は冷静を装いながら立ち上がり、ドアのカギを開けた。 開いたドアの向こうからこっちに倒れこんだ少女が声を上げる。 「わっ!?」 倒れ掛かってくる少女を抱きかかえた戒十。 すぐ間近で戒十の瞳を覗き込んだ少女は、慌てて戒十の身体から離れて顔を少し赤くした。 「ごめんなさい!」 頭を下げる少女を背にして立ち去ろうとする戒十。その背中に少女が声をかける。 「もう大丈夫なの三倉くん?」 「別に……」 意識が霞んだ。 床に手を付く戒十。 慌てて駆け寄って来た少女の手を振り払おうとするが、床に手が張り付いたように動かない。 身体が重い。 この感覚はまるで……。 戒十の身体の内でなにかが変わろうとしている。 ヒトからキャットピープルに変異する途中も、これと同じよう感覚が戒十を襲った。 あの朝と同じ感覚。 いや、それよりも酷い。 「三倉くん大丈夫なの?」 声が遠くに聞こえる。 「三倉くん、ここで待ってるんだよ、すぐに先生呼んでくるから」 「……呼ばなくていい」 「呼ばなくていいって……」 戸惑った表情をしながら少女に戒十は念を押す。 「大丈夫だから、水城さん」 その言葉のどこに反応したのか、水城純は少しはにかんだ。 「わたしの名前覚えててくれたんだ」 そんなくだらないことで笑ったのかと戒十は思った。 水城純は戒十のクラスメートだ。特に仲が良いわけでもなく、交わしたことのある会話と言えば、事務的な会話くらいものだ。 戒十は立ち上がろうとした。だが、身体がまだ言うことを聞かない。それどころか身体が重くなる一方だ。 「やっぱり先生呼ぼうか?」 「大丈夫だから」 そう言って戒十は無理にでも立とうとした。 しかし、脚が崩れて立てない。 結局、純の肩を借りて立つのが精一杯だった。 今になって、なぜ、という気持ちが戒十の中で沸いた。 自分の身体に降りかかった不調や謎の女カオルコに気を取られ、純がなぜここにいて、なぜ自分は純に肩を借りているのか、そこに考えが及んでいなかった。 それは珍しいことだった。 「どうして水城さんがここに?」 戒十から話題を切り出した。 「……それは……三倉くんが倒れたって聞いて心配で……放課後になっても教室に戻って来ないからもっと心配になって……」 「もう放課後なのか……」 倒れたのは確か4時間目の体育だった。ずいぶんと意識が落ちたままだったらしい。 「三倉くんの家まで送ろうか?」 「別にいいよ、水城さんが遠回りになるだろ」 「ううん、実は三倉くんと同じマンションに住んでるんだ。高校生になって越してきたばかりなの」 戒十は声には出さなかったが、少し驚いた表情をした。 興味もなかったし、同じマンションに住んでいるなんて知るはずもなかった。 独りでは立つこともままならない戒十は、この場にずっといるわけにも行かず、純の手を借りて帰宅するほかなかった。 女の子の肩を借りて歩くなんて、戒十にしてみれば恥辱に近いものがあったが、それでもワガママを言っていられる状況ではない。 生徒の帰宅ラッシュはすでに過ぎ、校内で他の生徒に出くわすことは少なかった。 二人が校門を出てすぐ、壁に寄りかかっていた少女が声を掛けてきた。 「授業中に倒れたんだって、カイト?」 他の学校の制服を着た少女――リサだった。 リサは戒十に肩を貸している純に眼を配ったが、話かけることはせずに戒十の前に立った。 「心配して来てみたら、女の子とイチャイチャしちゃって、もしかしてお邪魔だったぁ?」 それは少し意地の悪い言い方だった。 「うるさい、そんなんじゃない」 言い返した戒十とリサを純は交互に見ながら、二人の関係を模索しているようだった。 そして純は、 「もしかして三倉くんの彼女? 可愛い人だね」 と、笑顔を作る純に戒十はすぐさま反論しようとしたが、口を開いたのは純が先だった。 「そうだ、わたし大事な用があったんだ。ごめんね、送ってあげるってわたしから言ったのに……でも大丈夫だよね、彼女が来てくれたんだから」 この場から早く立ち去りたいというの気持ちがにじみ出た早口で、純は言いたいことだけ言うと、戒十をリサに預けて逃げるように走り去ってしまった。 二人は残され、リサは意地悪く言う。 「あの子、カイトの彼女?」 「そんなんじゃないのわかるだろ」 「でも、あの子はカイトに気があるみただけど?」 「うるさい!」 声を張り上げた瞬間、戒十の脚から力が抜けた。 地面に倒れそうになった戒十をリサが瞬時に支えた。 「はいはい、病人が無理しないの」 リサは意地悪く笑っていた。 相変わらず、今日も両親はいない。 母親は今日もどっかで若い男と遊んでいるのだろう。離婚した父親の顔なんてどのくらい見ていないのか、戒十は考えることすらしなかった。 そんな日常にも戒十は慣れしまっていた。 ソファに座らされた戒十のもとに、水の入ったコップを持ってリサが現れた。 「はい、水」 「ありがと」 受け取った水を一気に飲み干した。 酷く喉が渇いている。それは水を飲んだだけでは収まりそうもなかった。 戒十はリサが自分の顔を、じっと食い入るように見ていることに気づいた。 「なに?」 「そろそろ日常生活に限界が来たんじゃない?」 「僕が倒れたことを言ってるのか?」 「第2次変異期に入ったんだと思うんだよねー」 「なんだよそれ?」 キャットピープルの世界や生態について、リサやシンから話を聞かされていたが、その単語ははじめてだった。 「あれ、言ってなかった?」 「聞いてない」 「そうだっけ、あたしも歳だかんね、ボケちゃってるのかなー」 そう言ってリサはわざとらしく笑って見せた。 「第1次変異期は俗に覚醒とも呼ばれ、我々の血を受けた直後に起こる」 その声は戒十でもリサでもなく、ベランダから現れた長身の影が発した。 戒十は呆れたように呟く。 「ちゃんと玄関から入って来いよ」 6階にある部屋のベランダから入って来たのは、長い黒髪を揺らすシンだった。 聴力の発達したシンに戒十の声が届いていないはずがないが、まるで聞こえていないように彼は話を続けた。 「第2次変異期は覚醒から間を置いてから起きる。この時期は光、主に日光に敏感になり、高い気温にも弱くなる。それも異常なまでに過敏になるため、もっとも酷い時期は日中の外出が不可能に陥る」 「どのくらいで治るんだよ?」 戒十が尋ねると、リサがさらっと言い放った。 「数年」 「うそだろ?」 怪訝な表情をする戒十。 今の時代、日中に外出しなくてもいくらでも生きていける。家から一歩も出なくても生きていける世の中だ。だが、その生活は今の日常を壊さなければできなかった。 シンがリサの言葉に補足を加えた。 「数年というのは最悪の場合だ。早ければ数週間で日差しの下を歩けることになる」 「ウチらみたいにね」 リサは世間では中学3年生という設定で通している。日中は普通の学校生活を送っているのだ。 「で、どうするカイト?」 リサは戒十の瞳を覗き込みながら尋ねた。 「何が?」 「今の生活を捨てる時期が来たんじゃないのってこと」 これから人前で倒れることも増え、日中の活動が制限されれば学校に通えない。それを周りに隠し続けることは不可能だ。 では、日差しの下を歩けるようになるまで姿を消すか? しかし、またいつか今の生活を捨てるときが来る。 リサの実年齢は定かではないが、シンは江戸時代から生きているらしい。キャットピープルは長い時間の中で、外的な年齢が変化しないのだ。 戒十は高校1年生だ。心も身体も変化が激しい時期、いつまで〝平凡〟な日常を演じ続けられるか? 深い息を吐きながら戒十は言う。 「もう覚悟はできてるよ。もとから今の生活に未練もないからね」 両親は元から存在してないようなもの。学校の付き合いは表面上だけで思い入れはない。今の生活で捨てて惜しいモノはない。 今すぐにでも家を出る覚悟する戒十にリサは促す。 「住む場所はカイトの希望もあるだろうし、まだこっちで決めてないんだけど、ウチでいい?」 「ウチって……リサって独り暮らし?」 「そうだけど?」 その言葉を聞いて戒十はシンに助けを求める視線を送った。 「シンの家はダメなのか?」 シンは無言で首を横に振った。 満面の笑みでリサは戒十の腕に抱きついた。 「ひとつ屋根の下で男女が二人っきり。どうしちゃう~カイトぉ?」 「どうもしないよ」 と、吐き捨てながらも戒十の頬は少し赤らんでいた。 「カイトちゃんったら、顔赤くしちゃってぇ」 「してないってば!」 「ふふん、照れなくてもいんだよぉ。じゃ、そゆことで、さっさと荷造りして引越しは明日の早朝ね」 話は急速に進んでいた。 だが、ここで突然、シンがこんな話題を振った。 「ところでマンションの前に変な奴らがいたぞ」 「ウチらが入ったときは気づかなかったけどー?」 「俺がそこから入ったのはそのためだ」 そことはベランダのことだ。 リサはめんどくさそうにソファから立ち上がった。 「ったく、なんで早く言わないかなぁ……そんな面白いこと」 無邪気に笑うリサ。だが、その瞳の奥は闇色に染まっていた。 シャドービハンド専用掲示板【別窓】 |
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