帝國の影
 心身ともに疲れていたのか、セレンはいつもよりも遅い朝を迎えた。
 目を開けてベッドの上で上半身を起したセレンはふと思う。
「あれ、わたし……?」
 そうだ、聖堂で気を失って、きっと誰かがここまで運んでくれたのだろう。
 そして、セレンの脳裏にトッシュの顔が浮かんだ。
 セレンはおでこに片手の甲を当てて、背中からベッドの上に倒れ、口から息を吐き出した。
 とんでもない人と係わり合いになってしまったと思いながらも、過ぎたことはしかたないとあきらめ、これ以上深く関わらないようにしようとセレンは心に誓った。――二人とも。
 ベッドから身体重たげに這い起きたセレンは、少しずつ気持ちを切り替えながら僧服に着替える。ただのセレンから、シスター・セレンに変わる瞬間だ。
 シスターへと変貌したセレンは、胸の前で拳を二つつくり、気合を入れて頷いた。
「よし、今日も頑張ろう!」
 これが毎日の日課なのである。特に今日は気合が入っている。
 自分の部屋から廊下に出たセレンは、そこで鼻をくんくんと動かした。
「……なんだろ?」
 どこからかキツネ色に焦げたいい匂いが漂ってくる。きっと、トーストの焼けた匂いだ。だとすると、この匂いは食堂から?
 踵を鳴らしながら足早にセレンが食堂に向かうと、そこではトッシュとアレンが美味しそうに朝食をとっていた。
 キツネ色に焦げたトーストの上で蕩けるバター、白い食器の上に乗せられたハムエッグ、瑞々しい色鮮やかなサラダまであり、トッシュが飲んでいるのは湯気の立つコーヒーだった。
 セレンとトッシュの視線が合い、トッシュが先に挨拶をしてきた。
「おはようシスター」
「お、おはようございます」
 頭を下げて、再び頭を上げたセレンは食卓の上を見た。
 食卓にはセレンの分の朝食も置いてある。こんなに食卓の上に料理が並んだのは、いつ以来だっただろうか。食卓に一人以上の人間が着いているいつ以来だっただろうか。
 爽やかな朝の光景を見て、セレンは嬉しくて少し口元が綻んだが、すぐにある疑問が頭を過ぎる。
「あの、うちにこんな食材ありましたっけ?」
 トッシュはあくびをしながら首を横に振って答えた。
「いいや、なかった。だからこいつに朝市に買いに行かせた」
 こいつとトッシュが親指で示す先には、口元についたミルクを服の袖で拭き取るアレンいた。そして、アレンの口から手が退かされてとき、セレンはあることに気づいた。
「その頬どうしたんですか?」
 アレンの頬には紅い一筋が走っていた。なにかで切られたような傷痕だ。
「ああん、これ? ちょっとさ、ごたごたに巻き込まれちまってさ。ま、どーってことなんだけど」
「どうせすっ転んで切ったんだろ」
「ちげえよ、ばーか!」
 トッシュに向かってあっかんべーをしたアレンは、ヤケクソと言わんばかりにトーストに喰らい付いた。あっかんべーをされたトッシュはアレンに構うことなく、コーヒーを飲みながら黙々と食事を続けている。結局アレンはなぜ怪我をしたのか語らず仕舞いだった。

 それは今朝のことだった。
「おい、金渡すからパンと野菜と卵とハムでも買って来い」
 トッシュにいきなり金を差し出されたアレンは露骨に嫌な顔をした。
「なんで俺が行かなきゃいけなんだよぉ」
「俺様は街を出歩けんからな。家の中でガクガクブルブル震えてることしかできん」
「よく言うぜ」
 トッシュから金を奪い取るように受け取ったアレンは、鼻で笑って部屋を出て行こうとした。そのアレンの背中にトッシュが声をかける。
「あと、タイムズ紙っていう新聞も頼む」
「あいよ」
 アレンは背中越しに手を振って部屋を出た。
 セレンよりも早く起きたアレンとトッシュは台所で食材を確認し、食材が乏しいということで、トッシュがアレンに朝食の材料を買いに行かせた。
 街外れの静寂と物悲しさに包まれた教会を出て、石畳の上を散歩でもするように歩くと、やがて石畳の道が乾いた地面になり、アレンは少し大きな通りに出た。
 街は朝から活気付いている。その活気の質は夜とは全く違うものだが、根底にあるものは人間の生だ。
 生きるために必要なものとして、衣食住が挙がられるが、それを満たすことは難しい世の中だ。その衣食住のひとつである〝食〟がここにはあった。
 ビニール屋根の店が立ち並び、店には所狭しと野菜や肉や魚食材が敷き詰められている。
 彩り豊かな野菜や果物、生きたままの鶏やさばいたばかりの紅い肉、身が締まり鱗の輝く魚たち。ここに集まった食材はすべて街の外から輸入されて来たもので、食材の豊富さは文句のつけようがない。問題を挙げるとしたら、たまに食あたりを起すくらいなものだろう。
 声のデカイ親父や頭にタオルを巻いた丸顔の女主人が、今日も朝から客相手に汗を流している。そんな人々の往来する店と店の間を歩きながら、アレンは目的の品を買っていく。
 まずは豚のもも肉を加工したボンレスハムを二本買い、次は薫り立つパン屋の前で立ち止まり食パンを一斤買おうとしたが、やっぱりやめて一斤の三倍にあたる一本の食パンを買った。
 新鮮な野菜も買い、卵も買って、さあ帰ろうとしたところでアレンは立ち止まった。
「デザート喰いてえ」
 両手に食材の入った紙袋を持ち、アレンは〝胃〟の向くままに果物屋に向かった。
 赤や黄色や緑の色鮮やかな果物たちが並び、甘い香りが店の周りに漂っている。
 柑橘系の果物を見ただけで、アレンの口の中は甘酸っぱさで満たされ、彼女はゴクンと唾を呑み込んだ。
 柑橘類の横には真っ赤に染まった林檎があり、色艶良くてこれも食欲をそそられる。
 口元を拭ったアレンは結局両方買うことにして林檎に手を伸ばした。が、その林檎がアレンの手の先から突如姿を消した。
 林檎が消えた方向へとアレンが視線を移動させると、そこには金髪の〝ライオンヘア〟が立っていた。
「あら坊や」
 赤い林檎と真っ赤なルージュが妖艶と誘っていた。
 一番美味そうな林檎を取られたことも腹立たしかったが、それよりも昨日の一件がアレンの頭に血を昇らせた。
「テメェ!」
 アレンは持っていた紙袋を地面に置き、ライザの襟首に掴みかかろうとしたが、赤い林檎が宙に投げられライザの白コートが波打ち、ハンドガンがアレンの顔に向けられた。
「それで防ぐ気かしら?」
 ライザのハンドガンの先にはグローブに隠されたアレンの左手があった。
「防いでやるよ」
「アナタの手は鋼鉄でできているのかしら? でも、このハンドガンから出る玉は鉛じゃないわよ」
「ふ~ん」
 興味なさそうな返事だった。それは絶対に防げるという自信の表れか?
 ちょっとでも二人に触れれば、この争いに巻き込まれそうな危機に直面して、人々は後退りするようにこの場から徐々に離れて行った。
 ライザの持っていたハンドガンから、なにかが蠢いているような奇妙な音が聴こえはじめた。
「このハンドガンは〝失われし科学技術〟を使ってアタクシがこの世に生み出した傑作。グングニールとアタクシが名づけたこの銃から発射されるエネルギーは、一瞬にしてすべてを灰にしてしまうのよ」
「ふ~ん、魔導銃ってことか」
 魔導をつくられた武器や兵器の威力はどれも威力が凄まじく、つくり出すこともとても困難なために滅多にお目にかかれない。それを前にしてもアレンは『ふ~ん』で片付けてしまった。魔導銃ですらアレンの脅威ではないというのか?
 物怖じしないアレンを前にして、ライザは苛立ちを覚えるとともに、ある種の欲求に駆られて上唇を妖しく舐めた。
「アナタがアタクシの足元で屈服する姿が見たいわ」
「それは嫌だ」
「アタクシに反発する者を屈服させてときの快感……」
 いつの間にかライザの片手は自らの股間に宛がわれ、熱い吐息を漏らしながら、ライザは目の前にいる〝少年〟を今にも食べてしまいそうだった。
 目の前でよがる女を見ながら、アレンは背筋をゾクゾクさせながら蒼い顔をした。
「うげぇ~、早く俺のこと撃って殺してくれ……」
「もう駄目、愛しすぎて殺したい」
「だからさっさと撃てよ!」
「あぁん!」
 雌獅子が甲高い喘ぎ声をあげた刹那、グングニールから稲妻が迸り左手ごとアレンの身体を貫かんとした。だが次の瞬間、ライザは瞳を限界まで見開き、稲妻がアレンの手の中へ吸い込まれていくのを目の当たりにした。
「どういうことなの!?」
 冷静さを取り戻そうとしている最中で、ライザはグングニールをアレンに奪われ、その銃口を顔面に向けられた。
「俺の勝ち」
 悔しそうな表情をしながらライザは唇を噛んだ。屈辱だった。自分の理解の範疇を超えたできごとが屈辱だった。しかし、それが彼女を再び燃え上がらせた。
「最高だわ、最高よ、どうしてもアナタをアタクシのモノにしたい」
「はいはい、わかったから自分の立場理解しろよ。あんた絶体絶命のピンチなんだぜ?」
「アタクシが窮地に追いやられているとでも言いたいのかしら?」
 武器を奪われ、その武器で命を狙われている。これを窮地と言わずなんと言う?
 だが、ライザは自身に満ち溢れた妖艶とした笑みを浮かべていた。
「アタクシは科学者にして魔導師。アタクシに不可能なことはなくてよ。でも、今日はお預け」
「はぁ? あんたこの状況から逃げられると思ってんの?」
「アタクシはどろどろに熟れた果実が好みなの。では、御機嫌よう。そして、これがアタクシの印」
 ライザの手が風を鳴らして素早く動き、長く伸びた真っ赤な爪がアレンの頬を切った。
 そして、ライザの姿は空間に溶け込むように消えてしまった。それはまるで白昼夢のような光景だった。
 完全にライザが姿を消してすぐ、アレンは自分の頬を触れ、その指先についた鮮血を眺めた。これは夢ではない。
「空間転送か……いろんな意味で厄介な女」
 アレンの周りには人ひとりいなかった。
 途中まで何人かの人間がギャラリーとして残っていたが、ライザの持っていたグングニールが稲妻を吐き出し、辺りが激しい閃光に包まれた瞬間、ひとり残らず逃げてしまった。
 アレンは片手に握ったままだったグングニールを、近くに置いてあった自分の買い物袋の中に投げ込み、地面に転がっていた林檎を拾い上げた。
 拾い上げた林檎を服の袖で拭き、アレンは大口を開けて林檎に噛り付いた。
 汁が口から零れ出し、口いっぱいに広がる甘酸っぱい香り。
「さ~てと、買い物も終わったし帰ろっと」
 このときアレンはトッシュに頼まれた新聞のことなど、すっかりと忘れていた。

 朝食を食べ終えたアレンは懐から一丁のハンドガンを出して、顔の前で弄繰り回しはじめた。――見せびらかすように。
 見せびらかされたトッシュは、あまりにアレンがワザとらしくするので、無視しようとも考えたが、銃に施された紋様を見て気が変わった。
 紋様は雷のようなエネルギー感が溢れるデザインで、トッシュはそれをひと目見て、ただのデザインではなく、魔導的意味が込められていることを悟った。
「なんだそのハンドガンは、ただの銃じゃなさそうだが?」
「拾った」
 これは嘘だ。
 実際はライザの忘れ物だが、アレンはライザと出遭ったことすらトッシュに話してなかった。
「拾っただと? 嘘をつくな。魔導銃が道端に落ちてたとでも言うのか?」
「うん」
 真顔で頷くアレンにトッシュが一言。
「おまえの真顔はうそ臭い」
「じゃ、もらった」
 話の内容をコロコロと変える時点で、アレンの話は信憑性に欠けている。そもそも、この少女に本気で嘘をつく気があるのかどうか?
「誰にだ?」
「女」
「どこのどいつだ?」
「ライオンみたいな髪型の女」
「ライザかっ!?」
 声を荒げたトッシュが勢いよく椅子から立ち上がり、テーブルの上に置いてあったカップが倒れ、中の黒い液体がテーブルの上を侵食して、やがて黒雫が床の上で四方に弾けた。
 弾け飛んだ雫とともにトッシュの頭もぶち飛んでいた。
「この糞ガキがっ! なぜあの女に遭ったことを言わなかったんだ! 俺はあの女に狙われてるんだぞ!」
「そりゃご愁傷様で」
「ご愁傷様で済むか。おまえが奴らに付けられてたらどうするんだ?」
「そんときゃそんときで、逃げるなり戦うなり、どーにかなるっしょ」
「馬鹿だろおまえ」
「おう、ロクな教養も受けてない」
 ぬけぬけというアレンの言葉に、テーブルに両肘を付いたトッシュは頭を抱えた。
 こんな〝少年〟を雇った自分がどうかしてたとトッシュは悔やんだが、あのときトッシュが目撃したアレンの力は本物だ。なんとかと鋏は使いようという言葉があるように、アレンは使いようによっては自分のとって強い味方になるとトッシュは考えていた。だが、馬鹿を見るという言葉もトッシュは忘れてはいない。
 トッシュが思考を巡らせていると、戸口の方から情けない女の子の声が聞こえてきた。
「あぁ~~~ん、ごめんなさーい!」
 裏返った声を出したのはセレンだった。しかも、彼女はひとりではなかった。後ろにいる白いロングコートを着た〝ライオンヘア〟――ライザだ。
「こんなところに身を隠してただなんて、今ごろ神に命乞いかしら、トッシュ?」
「成り行きだ」
 静かの答えたトッシュの視線はライザの後ろに注がれていた。
 戸口の奥から蟲のように湧き出てきた重装備の男たちは、ライザお抱えの獅子軍の精鋭だ。その数、目で見えるだけで四名。その他に教会の周りに待機している可能性は高い。
 ライザは鈍く光るナイフをセレンの首元に突き付け、唇を濡れた舌で舐めて笑った。
「トッシュ、この娘を殺されたくなかったら、武器を全て捨てて投降なさい!」
「殺せばいいだろ、そのシスターとは赤の他人だ」
「そんなぁ~!」
 情けない声をあげるセレンの瞳は涙をいっぱいに溜め、今にも防波堤が壊れて大洪水になりそうな状態だった。
 そんな中、アレンはトイレに立ったセレンが残していった朝食のプチトマトを、指先でつまんで口の中に放り込んでいるところだった。
「甘すっぱー、このプチトマト」
 場違いな声をあげたアレンにライフルの銃口が四つ向けられた。つまり、ライザの後ろに控えていた男たち全員がアレンに銃を向けたということだ。
 アレンは銃口を向けられていることなど気にせず、わざとらしく口に手を当てて大あくびをすると、口元をつり上げて不敵な笑みを浮かべた。その眼は恐れを知らぬ魔人の眼差しだった。
「あのさ、そのシスターを解放してくんない?」
「駄目よ」
 間を入れずライザが言った。
「アタクシにメリットがないわ」
 人質を無償で解放するほどライザはお人よしではない。人質に捕った娘はトッシュとの交渉の道具でしかなかったのだが、トッシュは娘を殺してもいいと言う。この時点で、人質は人質の役割を果たさなくなった。つまり、セレンはいつ殺されても可笑しくない状態なのだ。
 セレンの首の皮一枚をこの世と繋ぎ止めているのは、ライザのアレンに対する欲求だった。
「トッシュとの交渉は決裂のようだけど、坊やはこの娘の命を案じてるみたいじゃない?」
 流し目を使うライザの交渉相手はアレンに移っていた。
 一人目の交渉相手であるトッシュは、『殺せばいいだろ、そのシスターとは赤の他人だ』と交渉の余地なし。
 二人目の交渉相手であるアレンは、『あのさ、そのシスターを解放してくんない?』と交渉の余地あり。
 ライザの本来の目的はトッシュの身柄確保であるが、彼女は仕事に私情を挟み、第一優先事項であるはずのものが覆される。――それが皇帝の勅令であってもだ。ライザと皇帝ルオの関係は地位も権力も及ばないところにある――との家臣たちのもっぱらの噂だ。
 自分のことを妖しい目つきで見るライザから視線を外したアレンは、深くため息をついてから懐に手を入れようとした。が、すぐに銃口を向けられて止めた。
「武器向けんなよ、肝が冷えるだろ。懐ん中に入ってる交渉道具を出そうとしただけだよ」
 しかし、それを出したらアレンは蜂の巣になっていたに違いない。
 不敵に笑うアレンの衣服の下で膨らみを見せる物体は、魔導銃――グングニールだった。これをアレンは交渉の道具に使おうとしたのだ。
 アレンはライザの姿を確認してすぐに、グングニールを懐に隠していた。呑気に他人のプチトマトなんて食ってるわりには、こーゆーところはしっかりしているのだ。
 懐を指差すアレンを見て、ライザは首を傾げた。
「そこにどんな物が入っているのかしら?」
「あんたの落とし物」
 このアレンの一言でライザは理解した。だが、果たして人と銃が同じ天秤にかけられるものなのか?
「いいわ、アタクシのグングニールとこの娘、交換しましょう」
 交渉はあっさりしていた。人の命など魔導銃に比べれば、取るに足らないものだとライザは判断したのだ。だが、彼女の気持ちは移ろい易い。
「やっぱりやめたわ。この娘、坊やの恋人? それとも愛人? だったら、坊やの目の前で甚振るのも一興ね」
「残念だけど、赤の他人。まだ一緒に寝てもない」
 可笑しなことを口にしたアレンに対して、人質のセレンが顔を真っ赤にして声を荒げた。
「やめてください、誤解されるようなこと口にしないで下さいよ! あなたと寝れるわけないじゃないですか」
 この言葉に深い意味はない。セレンは同性同士ということを強調したかったのだが、この場にアレンが女であること知る者はセレン以外いなかった。
「あら、フラれちゃったわね」
 悪戯にライザが笑った。明らかに勘違いされている。
 勘違いされようが気にしないのか、本当にそういう性癖があるのか、アレンは何事もなかったように話を戻した。
「それでさ、ここん中に入ってる銃とシスター・セレンを交換する話なんだけど、どーすんの?」
「そうね、まずグングニールをテーブルの上に出しなさい。少しでも可笑しな真似をすればわかるわね?」
 ライザの言葉に頷いたアレンは懐にゆっくりと手を入れはじめた。このとき、ライザの後ろに控える獅子軍の持つライフルの銃口は、すべてアレンに向けられていた。――ケアレスミスだ。
 トッシュの足が激しく床を蹴り上げた。
 銃口をトッシュにも向けるべきだったと気づいたときには、時すでに遅し。
 腰からハンドガンを抜いたトッシュとライザの目が合う。
 瞬時にライザがセレンを突き飛ばした刹那、トッシュのハンドガンが火を噴いた。
 一斉に奏でられる銃声の中で、呆然としていたセレンの手が引かれた。
「逃げるぞ!」
 セレンの手を引いたものは、グローブのはめられた硬い手だった。
 肩が外れるかと思うほどにセレンは手を引かれ、次の瞬間には小柄な少女の背中に担がれていた。
 銃弾を避けながらトッシュが前を走り、その後ろからセレンを担いだアレンが追う
 神聖な聖堂で銃が叫び声をあげ、セレンはアレンの背中で肩を震わせていた。
「どうしてこんなことに……」
「あんたがツイテナイんだろ」
 相手の気持ちも考えないで素っ気無く言うアレンに対して、セレンは殺意にも似た感情を覚えたが、それはすぐに心の奥底から来る哀しみ流されてしまった。
 もう一生、この教会に帰って来ることができないのではないか。そんな気がセレンはしていた。
 道を塞ぐ扉をトッシュが開けると、大量の光が寂れた聖堂に流れ込んだ。まるでそれは天へのお導きのようであったが、果たして本当にこの先は天国か。いや、地獄かもしれない。
 教会の前には数人の武装した獅子軍がライフルを構えて立っている――と思われたが、可笑しなことに、教会の前には誰もいなかった。
 すぐにアレンが教会前に止まっていた軍用ジープを見つけて叫んだ。
「乗り込め!」
「鍵がないだろ!」
 トッシュが叫ぶが、アレンは気にすることなく運転席に乗り込み、セレンを助手席に乗せた。
 どこかで微かに歯車が鳴り、アレンの左手が鍵の差込口に触れるや、バチンと閃光が火花を散らした。するとジープのエンジンが唸り声をあげ、アレンは床が抜けるくらいアクセルを踏んだ。
「俺様を置いて行く気かっ!」
 自分を置いて走り出したジープの荷台にトッシュは汗をかきながら乗り込んだ。
 走り去るジープに銃弾が浴びせられるが、一発も当たることなくジープは逃げ切った。
 遠ざかるジープの影を眺めながら、ライザが妖しく微笑んだ。

 巨大な鉄の塊がクーロン上空を旋廻し、街に影を落とした。
 シュラ帝國が世界に誇る巨大飛空挺――キュクロプス。一つ眼の巨人の名になぞられた、その飛空挺の船首には、巨大な眼のような穴が開いている。その穴こそが街を死の灰と化し、世界を恐怖のどん底に叩きつける失われし科学の脅威――魔導砲だ。
 過去に一度だけ実践で使用されたキュクロプスの魔導砲は、一撃で辺りを光の海に沈め、約四〇〇〇平方メートルが一瞬にして灰と化したと云う。その光景を遥か遠くで見た者は、天に光の柱が昇るのを目撃し、神々が戦争をはじめたのかと思ったそうだそして、その光景は目を閉じても、長い間、瞼の裏に焼きついてしまっていたと云われている。
 楕円形の機体をしたキュクロプスが風を震わせ大地に降り立ち、クーロン近くに横付けされた。
 巨大飛空挺の昇降口から延びる鉄の階段が大地に足を付け、朱色のマントを羽織る少年が足音を響かせながら一歩一歩と階段を下りてくる。その歩き方一つを取っても、王者――いや、魔王の風格に相応しい。
 地上で少年を待つ軍の者たちは、皆、直立不動で敬礼をして〝魔王〟を出迎える。その中でただひとり、〝魔王〟に敬意を払わぬ者がいた。
「貴方自ら赴くなんて、どういう風の吹き回しかしら?」
 ライザは吹き付ける風の中で、髪の毛をかき上げながら皇帝ルオに訊いた。
「地の底になにが潜んでいるのか、自らの目で見たくなったんだ」
「せっかく来てもらったのはいいけれど、お楽しみにはまだ早いわ」
「あと、どのくらいかかるんだい?」
「さあ?」
 などど皇帝の前で不確定な返事をしようものなら、気まぐれで拷問に掛けられて殺されるのだが、ライザだけは特別であった。
 う~んと唸ったライザは口元で人差し指を立て、蒼い空を仰ぎながら口を開いた。
「街の外に鍵を取りに行ったトッシュ次第ね」
「ほう、鍵を?」
「鍵がなんなのかわからない以上は、彼を泳がせて鍵までの道案内をさせる。鍵が見つかり次第、トッシュたちの抹殺を命じてあるわ」
「誰を向かわせたんだい?」
「手が開いていたスイキと、もうすぐ仕事が片付きそうなキンキにも、仕事を片付け次第と依頼を出しておいたわ」
「なるほど抜かりはないようだ」
 と、ルオは満足そうに笑うが、ライザは少し気がかりなことがあった。
「そうね、スイキとキンキなら……」
 シュラ帝國のお抱え殺戮集団〝鬼兵団〟の一員であるスイキとキンキ。この二人の手にかかれば、トッシュなど赤子のようなもの。だが、ライザの脳裏に浮かぶ〝少年〟の顔。
「あの坊やが気がかりだわ。あの子の内から生じる気は、たしかに魔の力だった」
 この女には珍しく、不安な表情を浮かべるライザを前にして、ルオの表情も曇る。
「あの子とは誰のことだい?」
「素性は不明。けれど、魔導師特有の気が感じられたわ」
「君を感じさせたか?」
「ええ、身体の中が熱く火照ったわ」
「盛りのついた犬みたいに欲情するなんて、穢らわしい女だ」
 ルオの手が大きく振りかぶられ、ライザの頬を力強く引っ叩いた。
 紅く色づいた頬を片手で押さえながら、ライザは甘い声を漏らす。
「でも、貴方が一番よ」

 砂海原の中を、砂を巻き上げ泳ぐように走るジープ
 茶色い布を頭から被り、砂から身を隠す三人の男女。一人は車の運転をするトッシュ。二人目は荷台で寝転がっていびきを立てているアレン。そして、三人目は頭を抱えて項垂れるセレンだった。
「どうしてわたしまで……」
 どうして自分はこんな場所にいるのか。それもこんな人たちと。
「どうしてって言われてもなぁ」
 笑って誤魔化すトッシュをセレンは横目で睨み付けた。
「自分が悲劇のヒロインだなんて言いませんけど、少しでもあなたに人を思いやる気持ちがあるのなら、わたしを街に帰してください!」
「用が済んだらあの街に戻るつもりだ」
「今すぐ!」
「今すぐは無理だ。それに俺様たちと一緒にいるところを見られてるから、シスターも奴らに狙われてるだろうな」
「わ、わたしも……あぁ~~~っ」
「心配するな、シスターをトラブルに巻き込んじまったのは俺様だ。シスターの命だけは俺様が責任を持って預かる」
「勝手にわたしの命を預からないでください」
「じゃあ、シスターが命の危機に晒されてるときに、知らん振りして立ち去れってことか?」
「そんなわけないじゃないですか!」
「だったら俺様に命を預けるんだな」
「…………」
 ぐうの音も出なくなったセレンは、首を横に振って悪夢を振り払おうとしたが、振り払えるのは砂埃だけで、悪夢は消えてくれなかった。
 ジープは砂漠の中を走り、ある場所に向かっていた。その目的地を知る者はトッシュだけだ。
「わたしたちはどこに向かっているんでしょうか?」
「さあてな」
「そんな返事は許しません。わたしの身にも関係することなんですから」
「シスターは俺様に命を預けたんだから、黙っ――」
「黙りません!」
 真剣な顔をするシスターに負けてか、トッシュは重い口を開いた。
「……そうだな、これも運命ってやつか。なあ、シスター、本当に俺様の話を聴くか?」
 聴けば後戻りはできなくなる。それはセレンにもわかっていたが、もうすでに足は踏み入れてしまっている。
「聴かせてください」
「帝國から一生命を狙われるぞ」
 この辺りで帝國と言えば、皇帝ルオの率いるシュラ帝国しかない。そして、シュラ帝国の悪評をセレンは嫌と言うほど耳にしている。それでも彼女は首を縦に――。
「やっぱり駄目ですよぉ。聴きません聴けません、わたし長生きしたいですから、これ以上トラブルに巻き込まれたくないです。トッシュさんに命預けましたから、必ずわたしのこと守ってくださいね!」
 先ほどまでの真剣な顔をしたシスターはどこいってしまったのか。トッシュは目の前で慌てふためくセレンを口を半開きにして見つめていた。
「シスター、あんた正直な人だな」
「ただの怖がりです」
「よくそれであんな街に住んでられるな」
「臆病者だから生き抜けたんです」
「まったくだ。俺も臆病者だから、これまで死なずに済んできた」
 そんな莫迦なとセレンは思った。
 〝暗黒街の一匹狼〟と呼ばれるトッシュの噂はセレンも耳にしている。拳銃を持ったやくざもん一〇〇人と素手で遣り合って勝ったと言うのは朝飯前で、警戒厳重なシュラ帝國が運営管理する銀行からキャッシュを根こそぎ奪い去ったのが昼飯前で、ある街に雇われてシュラ帝國の軍隊と遣り合ったのが晩飯前。そして、彼の最大の偉業と云われるのが、シュラ帝國の皇太后――つまり皇帝ルオの母君の寝室に侵入したことで、それが食後のデザートというところだろうか。
 トッシュのことを考えながら、ここでふとセレンの頭にあることが浮かんだ。
「トッシュさんて、職業なんなんですか?」
「なんだと思う?」
「金さえもらえればなんでもする、なんでも屋さんですか?」
「いいや違う。俺様はトレージャーハンターだ」
「はい?」
 目を丸くしてきょとんとするセレンを、ジープを運転しながら横目で見たトッシュは、少し口元を緩め恥ずかしそうな顔をした。
「聞こえてただろ、トレージャーハンター。宝探し屋だよ」
「わたしのことからかっているんですか?」
「からかってなんかないぞ。俺様の夢はガキの頃から世界を股にかける、トレージャーハンターって決めてたんだ」
 少し胸を張って大きな声を出したトッシュの横で、セレンが笑いを堪えながらクスクスと微かに声を漏らした。それを見て、トッシュが子供のように唇を尖らせて不機嫌そうな顔する。
「なにが可笑しい?」
「だって、可笑しいじゃないですか」
「なにがだ?」
「……やっぱり可笑しくありません。トッシュさんて、噂だと凄く怖い方のイメージがありましたけど、実際にこうして話してみると、悪い人じゃないかもと思います」
「噂なんてものは、尾ひれがどんどん付いていくものだからな」
 トッシュは鼻先で笑い、横のセレンから前方に視線を戻した。そこで彼は目を見開いた。
 大地が振動し、約二〇〇メートル前方が砂煙に覆われ、その先がまったく見通せない。
 竜巻か、いや違う。
 砂蛇か、いや違う。
 それは群れだった。
 トッシュの視線の先で、右から左へと影が次々と飛び跳ねるように上空を移動している。それはまるで、砂から砂へと飛び跳ねて泳いでいるようだった。いや、泳いでいるのだ。
 雲海のような砂煙の中から飛び出す生物の形状は、身体は菱形で平たく、尾が糸のように細長い。人々はこの生物にサンドマンタという名を付けた。
 何十匹というサンドマンタの大群を前にして、セレンは感激の声をあげた。
「こんな雄大な自然の光景を目の当たりにできるなんて感激です!」
「俺様もこんな大群の大移動を観たのははじめてだ」
 ジープを止めたトッシュは、サンドマンタたちが通り過ぎるのを待った。その間に、荷台から聞こえていたいびきが聞こえなくなり、変わりに大きなあくびの音が聞こえてきた。
「ふわぁ~~~っよく寝た。お、美味そうなのが空飛んでんじゃん」
 目を覚ましたと思ったら、すぐに食のことである。
 呆れ顔をしたトッシュが荷台に向かって振り返った。
「おまえは寝ることと食べることしか頭にないのか。あんな硬い骨格に覆われた生物をどうやって喰うんだ?」
「う~んと、普通に皮剥げばいいんじゃないの。蟹とかといっしょいっしょ」
「いっしょなわけないだろうが」
 ジープの荷台でサンドマンタを喰うとか喰わないなどと話されたら、せっかくの雄大な光景も台無しだ。セレンはため息をついてサンドマンタの大群から視線を外すと、手に顎を置いてふと横を見た。
「あ、二人とも見てください!?」
 セレンの声に誘われて、アレンとトッシュはそこに広がる光景を見た。
 砂漠の中で、そこだけが水の恵みに育まれ、草木が生える緑地――オアシスだ。だが、トッシュはすぐにそれを否定した。
「さっきまではなかった。〈蜃の夢〉だな」
「大蛤喰いてえ!」
 トッシュの言葉に、すぐにアレンが言葉を乗せたが、セレンには二人の言葉がさっぱり理解できなかった。
「あのぉ、〈蜃の夢〉とか、あとなんでいきなり大蛤の話になるんですか?」
「俺様が説明する。〈蜃の夢〉ってのは、つまり蜃気楼のことだ。〝蜃〟は大蛤のことで、〝気〟は息、〝楼〟は楼閣の楼。この砂の中に住んでる大蛤が吐く気が蜃気楼になってるってわけだ」
「そうなんですかぁ、だいたいわかりました」
 うんうんと首を縦に振って頷くセレンの首が、ガクンと揺れた。それはトッシュが急にジープを走らせたからだ。
「〈蜃の夢〉に囚われる前に早いとこ逃げよう!」
 アクセルを踏み、ハンドルを切るトッシュにセレンが声をかけた。
「逃げるってどうしてですか?」
「〈蜃の夢〉に囚われた者は、下手をすれば一生夢の中の住人ってことだ」
 幻のオアシスが水の中にあるように揺れ動き、遥か後方に消えていく。
 薄れゆく幻影を眺めながら、アレンがボソッと呟いた。
「俺の蛤ぃ……」
 燦然と輝く太陽は、まだ一番高い位置には到達していなかった。

 木製のドアが軋めきながら開けられ、中から無数の皺が刻まれた老人の顔が出てきた。
「どうぞ中へお入り」
 三人は老人に促されるまま家の中に入った。
 茶色いローブを羽織った老人の後姿は、まるで枯れ果ててしまった老木のようだ。幾星霜を生きた老人は、その姿からも声からも、性別を判断することすらままならない。
 石造りの家の室内には古ぼけた木製の家具が並び、この家で使われている金属はすべて真鍮だった。そして、どこからかお香を焚いた独特な匂いが漂ってくる。
 居間に通された三人が椅子に座って待っていると、老人が薫り立つコップを三つトレイに乗せて運んできた。
「どうぞ召し上がれ」
 枯れ枝のような手からセレンはコップを受け取り、コップの中身を覗き込んで鼻で息をした。
 鼻を抜ける心地よい花々の甘い香りが口の中で広がり、セレンは薫りに誘われてコップに口を付けた。
「美味しい」
 と、自然と口から零れた。
 至福の顔をするセレンを見て、老人がにっこりと微笑む。
「裏庭に生えていたハーブに、特性のシロップを三滴ほど加えたもんさ」
 老人の言葉は緩やかな川のせせらぎのようで、この家の中の時間は外の時間の流れよりも遅く流れているようだった。
 セレンはこの家に懐かしさと温かみを覚え、いつまでものんびりとティータイムをしていたい気分だったのだが、彼は違うらしい。
「俺様は前回ここに来たとき、まんまと惑わされちまったが、今日はそうはいかない」
 目をギラギラと輝かせ、気合十分なトッシュの横で、あくびをする音が聞こえた。
「わたし……なんだか、眠くなっちゃいました……」
 眠い目を擦りながらあくびをしたセレンは、腕を枕にしてテーブルの上に沈んだ。そして、すぐに彼女の鼻から安らかな寝息を聞こえてきた。
 眠りに落ちてしまったセレンを見て、トッシュは訝しげな表情をしていた。
「やはり、この飲み物に睡眠薬が入っていたのか」
 トッシュの言葉を受けて、アレンはカップの中を満たす液体を覗き込んでいた。
「ふ~ん、そーなんだ。飲まなくてよかった」
 食べることと寝ることが思考の大半を占める彼にしては珍しく、アレンは一口も飲み物に手をつけていなかった。もしかしたら、野生の勘とやらで危険を察知していたのかもしれない。
 老人が静かに笑う。
「ほっほっほっ、同じ罠には引っかからんか」
「俺様が二度も同じ罠に引っかかってたんじゃ、世間様に顔向けできんからな。さて、シスターが眠ってくれたのはちょうどいい、クーロン地下に眠るエネルギープラントの話でもしようか」
 以前にもトッシュはこの老人の家を訪ねている。そのときは話半ばで眠気に襲われ、気づいたらクェック鳥の背中に揺られ、砂漠の真ん中を彷徨っていた。同じ過ちは繰り返さない。
 クーロン地下にエネルギープラントがあるというのはアレンも初耳だった。トッシュはここに来るまで詳しい話をなにひとつしていなかったのだ。
「クーロン地下にエネルギープラントがねぇ。で、この〝姐ちゃん〟となんの関係があるわけ?」
 老人は表情一つ変えないでアレンの顔を見つめていたが、やがて破顔一笑した。
「おぬしはわしを〝姐ちゃん〟と呼ぶか。ほっほっほっおもしろい小僧じゃ」
 〝姐ちゃん〟と呼ばれたのが嬉しかったのか、老婆は不気味な笑いを低く立て続けている。
 トッシュは『この老人、〝婆さん〟だったのか』という感心した表情をしていたが、すぐに気を取り直して話を元に戻した。
「クーロン地下に眠るエネルギープラントの開発に、あなたが携わっていたという話は前回もしたと思うが、覚えておいでか大魔導師リリス殿?」
「わしを耄碌したただの婆と思っているのかい?」
 妖婆リリスは妖艶と笑った。その笑みを見たトッシュは、久しぶりに背中に冷たいものを感じ、自分が額から汗を流していることに気づいてすぐに拭った。
「いいや、失礼した。それでエネルギープラントの件だが、あそこの入り口を開けられるのは、この世でもうただひとり――あなただけと思っているのだが、やはり開ける気はないか?」
「ないね」
 リリスの返事はあっさりしていた。だが、ここまでは前回来たときと同じだ。
 正直トッシュには切り札もなにもなかった。彼はもとより考えるより身体が先に動く性質なのだが、ひとたび頭を使えば切れ者と早変わることから、その辺りを高く評価して彼を高額で雇う者も多い。だが、今回に限っては目の前にいる老婆の心を動かす材料が、なにひとつ見つからなかったのだ。
 う~ん、と深く唸って、それっきりトッシュは口を開かなくなってしまった。その代わりにアレンが口を開く。
「なあ姐ちゃん、金で雇われる気はないのかよ?」
「ないね、わしは金なんぞに興味ない」
 それは前回トッシュが条件として提示し、すでに断られている。金では動かないのだ。
「そんじゃ、姐ちゃんの望みを叶える代わりにってのは?」
「自分の望みは自分で叶えられる」
「じゃあさ、俺と一晩過ごすってのは?」
「ほほっ、おもしろいこという」
 平然ととんでもないことを言ってのけたアレンを見る妖婆の瞳は妖しく輝いている。その瞳は目の前にいる〝少年〟が、〝少女〟であることを見透かしているようだった。
 鼻を小刻みに動かしたアレンは、少し部屋を漂うお香の匂いが強くなったのを感じた。すると、すぐ隣でトッシュが顔面からテーブルに突っ込んで気を失った。香りにやられたのだ。
 この部屋での脱落者は二人目。セレンもトッシュも深い眠りに落ちてしまった。その中でアレンだけが平気な顔をしている。
 妖婆リリスの目は輝きを放っていた。それは嬉しさの表れだった。自分の妖術にかからぬ者に対しての興味関心。
「おぬしには効かぬか」
「ちょっと鼻が詰まっててさ」
 鼻をわざとらしく啜ったアレンは、まだ手をつけていなかったコップに口を付け、薫り立つ液体を一気に胃に中に流し込んだ。
「美味いね」
 ――なんともなかった。それどころか、アレンはトッシュのカップにも手をつけて、中味を一滴残さず飲み干してしまったではないか。
「ふほぉ~っほっほっほっほっ、おぬし何者じゃ?」
「唾飛ぶから大口開けて笑うなよ。俺は俺だ、ただのガキさ」
「魔導手術を受けた〝少女〟をただのガキとは言うまい」
「……なんだ、やっぱバレてたのか。だったら姐ちゃんもさ?」
「わしもわしじゃて」
「あっそ」
 素っ気ない返事をするアレンであるが、彼女は目の前にいる妖婆に関する秘密をなにか知っているようだった。だが、別に追求するつもりもないらしい。
 いつの間にかリリスの手にはポットが握られており、妖婆はアレンのカップに煌びやかに輝く液体を注いだ。
「このハーブティーが気に入ったのなら、いくらでも飲むがよい」
「お菓子ないの?」
「おぬしに食わす菓子などない」
「ケチ」
「わしをケチとな?」
「あーそうだね、あんたはケチさ。〈扉〉くらい開けてくれりゃあいいのに」
「その〝扉〟の向こうになにがあるか知っておって、そんな口を聞いておるのか?」
「いいや、知んないし、そんな興味もない。俺はただ横でぶっ倒れてる、この兄ちゃんに金でで雇われただけだし」
 深い眠りに落ちているトッシュは、当分目を覚ましそうになかった。
 妖婆はアレンの瞳を見つめていた。ただ見つめているだけではない。妖しい彩を放つ瞳で見つめている。妖婆でありながら、その艶かしい瞳は妖婆のものではない眼光。
 アレンは決して視線を逸らそうとはしなかった。これは二人の間で繰り広げられる壮絶な戦いなのである。だが、その静かな戦いもすぐに終わってしまった。
 ぐぅぅぅぅぅ~~~っ。
 アレンの腹が奇怪な音を立てて鳴いた。
「腹減ったんだけど」
「緊張感のない奴じゃ。わしの瞳で見つめられたものは男女問わず、獣であってもわしに魅了されるはずなのじゃが。食欲が性欲に優るか」
「ババアの身体になんて欲情しねえよ、ふつー」
 妖婆リリスの眼光は人の身も心も虜にするはずであった。それがいとも簡単に破れてしまったのだ。
「ほっほっほっ、おぬしになら〈扉〉の向こうになるが〝いる〟の話してやってもよいぞ」
「興味ないね」
「じゃが、そこで眠っておる若いのはどうかの? 若いのは〈アレ〉のことをただのエネルギープラントだと思っておるようじゃが、実際はもっと恐ろしい存在じゃ」
「で、なにがいんのさ?」
「〈アレ〉の正体は人型エネルギープラントとでも言っておこうかの」
「でさあ、あんた〈扉〉を開けてくれる気あんの?」
「さて、それはおぬし次第じゃな」
「条件は?」
「ない」
「はぁ?」
 『おぬし次第』と言っておきながら、条件はないという。これではなにをしていいのかわからない。
 突然、どこからか玲瓏たる鈴の音が家中に鳴り響いた。
「招かれざる客が来たみたいじゃな」
 リリスの意識は家の中ではなく、窓の外に向けられていた。
「外にずっといたの気づいてたクセに」
 アレンがボソッと言うと、リリスは妖々と微笑んだ。
「相手の出方を伺っていただけさね」

 青々と茂る草むらの一角に建つ、小さな木造立ての家。
 風が草木の匂いを運び、この男も運んできた。
 シュラ帝國のお抱え殺戮集団〝鬼兵団〟の一員であるスイキ。彼は息を殺し、身を潜めながら草を踏みしだき、古屋に一歩一歩近づいていた。
 スイキの首から下は、怪物の甲羅を切り抜いて作られた胸当てと、肩から二の腕にかけて保護する防具、足にはジェットエンジンを搭載したメカニカル・ブーツを装備していた。特質した装備として人々の目を集めるのはジェット・ブーツだが、人々が最初に見るのは別の場所だろう。
 スイキの顔は人のモノではなく異形のモノであった。鱗のついた青い顔から伸びる口は鳥の嘴のようで、眼は黄色く光り瞳孔が縦に長細く、尖がった耳が忙しなく動き、顎からは老人のような立派な白髭が蓄えられていた。その顔は河童によく似ていた。
 スイキ――水を操る鬼。〝鬼兵団〟のひとり水鬼は水を操る妖術に長けた刺客だった。
 古屋の石壁に近づいた水鬼は聞き耳を立てた。近くに窓があるが、そこから顔を出すなんてへまはしない。彼の聴力を持ってすれば、石の壁の向こう側で人がなにをしゃべり、何人の人がそこでなにをやっているかなど、手に取るようにわかってしまうのだ。
 中にいる標的は全部で四人。
 ――やがて、ひとりが寝息を立てはじめた。
 そして、またひとり。
 二人が眠りに落ち、残るは二人。水鬼にとっては好都合な出来事であった。
 話の内容を聴いていると、どうやら老婆が〈扉〉を開く鍵であるらしい。となると、残る三人を殺害し、老婆を連れ去るのが今回の仕事になりそうだ。
 狭い家の中での戦闘は水鬼の戦闘スタイルには合わない。そこで水鬼はジェット・ブーツ使用して、屋根の上に登り、標的が家の外に出てくるのを待つことにした。
 ジェット音は吹き荒れる強風に紛れ掻き消され、宙に浮いた水鬼は軽々と屋根の上に昇った。だが、水鬼が屋根に足の裏をつけた刹那、家の中で鈴の音が鳴り響いた。その音を水鬼もしかと聴き、苦い妙薬でも飲んだような顔をした。
「儂としたことが、家の外見に惑わされてしもうたわい」
 老人のような嗄れ声を嘴から発した水鬼は、この家をただの襤褸屋だと思っていたらしい。警戒を怠っていた理由はそれだけではあるまい。必要な情報を仕入れた今となっては、敵と正面からぶつかろうが、結果は同じだと絶大なる自信を持っていたのだ。
 水鬼は屋根から地面に飛び降り、玄関の前で敵を待ち構えた。不意打ちなどする必要もない。自分は絶対に勝つ。
 古屋の中から小僧と婆が、慌てもせずにゆっくりと出てきた。婆の方は大魔導師とか言われていたが、ただの枯れ木にしか見えない。ちょっと突付いてやれば、全身の骨が砕けてしまいそうだと水鬼は心の中で嗤った。
 お腹を擦りながらアレンが水鬼に向かって叫んだ。
「あんた誰さ?」
「儂は〝鬼兵団〟のひとり水鬼。うぬらの殺し、その婆さんをもらい受けようぞ」
「へぇ、そうですかぁ」
 あまりのヤル気のないアレンの言い草に、水鬼の米神に太い血管が浮き上がった。
「小僧、儂をおちょくっておるのか!」
「いいや、ただ腹が減ってヤル気がないだけぇ。なあ、姐ちゃん、俺の代わりにこいつやっつけてくんない、ここあんたの家だろ?」
「わしの庭じゃが、無駄な戦いは好まぬ。おぬしがどうにかせい」
「自分の庭に入った害虫くらい、自分で駆除しろよな」
 アレンに害虫と呼ばわりされ、水鬼の青い顔は徐々に赤みを差してきた。
「おのれーっ人をおちょくりおって、血祭りに上げてくれるわ!」
 水が滴り落ちた。水掻きのついた水鬼の手から水が滴り落ち、地面に生えた草を潤した刹那、水鬼の腕が大きく横に振られ、人の頭ほどの水の塊が投げられた。
 リリスの耳はどこかで鳴った歯車の音を聴いた。
 猛スピードで襲い来るボール状の水の塊を、アレンは間にも止まらぬスピードで躱した。
 水鬼の瞳孔が開かれた。このとき彼は、目の前にいる〝少年〟がただ者でないこと知らされた。
 水の塊を躱したアレンが後ろを振り向いて、しまったと口を開けた。
「あ~あ、穴開いちゃった」
 石造りの壁に一メートルほどの穴が穿たれ、家の中まで風通しがよくなっていた。こんな攻撃を一撃でも受けたら、全身の骨が砕けてしまいそうだ。相手の操る水の破壊力はわかった。
 開いた穴を指差して、アレンはリリスに話しかけた。
「ほら、器物破損。これであの野郎と戦う理由ができたじゃん?」
「こんなもん、すぐに直せるわ」
「ああ、そーですかーっ」
 作戦失敗。アレンはリリスの感情に揺さぶりをかけたつもりだったのだが、作戦は失敗に終わった。もとよりアレンは、この作戦が成功するとは思っていなかったが。
 気を抜いていたアレンの背中に水の塊が迫っていた。だが、アレンは前屈運動でもするように軽々と躱してしまった。
 攻撃が当たらぬことに苛立ちを覚えた水鬼は作戦を変えた。
 水鬼の両手から水がレーザービームのように連続的に放たれる。先ほどまで一球入魂の攻撃よりは破壊力が劣るが、こちらの方が連続的に発射できるため、標的に当たる確立が高い。
「儂の水撃から逃げられるものか!」
 二本の水撃をアレンは上手く躱すが、先ほどに比べて動きが可笑しい。理由は地面にあった。青草と大地が水を含み、地面が滑りやすくなっていたのだ。
 地面に足を取られながら、アレンは必死に水撃を避けて避けて、避けることしかできなかった。敵に近づけないのだ。
「糞っ、水遊びなんかキライだーっ!」
 水に遊ばれ、叫び声をあげるアレンを見ながら、水鬼はニヤニヤと醜悪な顔を歪めていた。
「ほうれ、ほうれ、逃げてばかりでは儂を倒すことおろか、触れることすらできんぞ」
 口ぶりは敵を甚振るようであったが、水鬼は内心焦っていた。こんなにまで自分の攻撃が当たらなかったことなど、今だ嘗てなかったのだ。
 ちょこまかと鼠のように逃げ回るアレンに、次第に苛立ちを増幅させていく水鬼。
 水撃の水圧が上がり、水が蛇のような動きを見せはじめた。水鬼の必殺技のひとつ――〝水竜〟だ。
 水がまるで生き物のように大きくゆるやかに曲がりくねり、二方向からアレンに襲い掛かる。その瞬間、アレンの眼には水が大きな口を開けて、牙を剥いたように見えた。
「飛べ姐ちゃん!」
 歯車が激しく回転し、アレンは地面を激しく蹴り上げ宙に舞った。その下で二本の〝水竜〟がぶつかり合って、激しい水飛沫を辺りに撒き散らした。
 水鬼は水が霧のように散乱する先で、アレンが屋根の上に乗って笑っているのを見た。
 アレンが懐から魔導銃――グングニールを抜いた。
「喰らえ糞ったれ!」
 怒号の声とともにグングニールの銃口から稲妻が吐き出され、それの稲妻は空気中を漂う水分子はおろか、水が浸透して湿地帯のようになっていた地面に電撃を走られ、そして水鬼の身体を稲妻の槍が貫いた。
 世界が眩いフラッシュに包まれる。
 やがて色の戻ってきた世界の中で、水鬼は立ったまま身体を痙攣させていた。
 勝ち誇った満足げな顔をしたアレンがグングニールを懐にしまうと、何者かに後頭部を殴打された。
「莫迦者がっ! わしも殺す気じゃったのか!」
「イテテテテテ……後ろから殴んなよ!」
 後頭部を手で押さえながらアレンが後ろを振り向くと、そこにいたのはリリスだった。
「老人に急な運動をさせるでない」
「自分で老人とか言ってるクセには、ちゃんと屋根の上までジャンプしてんじゃん」
「年の功というやつじゃ」
「意味わかんねえよ」
「それよりも小僧、あ奴まだ生きて居るぞ」
「えっ!?」
 勢いよくアレンが振り返ったその先で、水鬼が嗤いながら構えのポーズを取っていた。
「電撃の耐性くらい持っておるわ!」
 水鬼の両手から放たれる〝水竜〟が、回転しながら注連縄のように一つに混じり合い、アレンに襲い掛かる。
 大口を開ける〝水竜〟が間近に迫り、歯車が急回転するが、アレンは避けることができなかった。
 信じられないほどの水の圧力がアレンの胸を衝き、水が四方に爆発するように弾け飛び、アレンの身体は屋根の上から飛ばされて家に向こう側に消えてしまった。
 なにかが地面に落ちる鈍い音をリリスは聴いた。
「坊やは気を失ったみたいだね。じゃが、心臓は廻り続けておるわ」
 リリスはその身体を水鳥の羽に変えてしまったように、ふわりと地面に降り立った。地面に浸っていた水はまったく跳ねなかった。
 妖婆リリスと水遣い水鬼が対峙する。
 風が吹いた。
 土の香りが風に運ばれ、それとともにお香の匂いが水鬼の鼻を衝いた。
 妖婆が老婆とは思えぬ艶っぽい口元で微笑んだ。
「爺さん、わしと殺るかい?」
「うぬは殺さずに連れて行く」
「それじゃあ、力ずくでやってみるがいいさね!」
 強風がリリスの身体を包み込み、彼女の羽織っていた茶色いローブが天に舞う。そして、水鬼は見た。そこにいたはずの老婆が絶世の美女に変わってしまったのを。
「妾がリリスじゃ」
 玲瓏たる声が辺りに響き、妖女リリスが月のように静かに微笑んだ。
 老婆が一瞬にして二十歳半ばの美女に変化してしまった。果たしてどちらがリリスの真の姿なのだろうか?
 黒い喪服を着たリリスは艶めく長い髪を腰の辺りで揺らし、蒼白い月のような顔をして、ただひたすらに緋色の眼で水鬼を見つめていた。その眼差しは、恋人を愛する眼差しだった。
 この世にこんなにも美しい生物が存在していいのか。全ての存在をその美貌で否定し、足元に平伏せさせる絶対的な存在。もはやこれは神が手違いか、気の迷いで創り出してしまったとしか思えなかった。
 リリスの柳眉が微かに動く同時に、水鬼の身体が金縛りにあったように動かなくなってしまった。
「わ、儂に、なにをしたのじゃ!?」
「妾はなにも……汝の本能が恐怖したのじゃろうて」
 美に恐怖する。リリスの持つ美は、魔性のモノだったのだ。
「!?」
 水鬼の眼が限界まで見開かれた。そして――。
「世界に還して進ぜよう!」
 膨張した水鬼が一瞬にして弾け飛んだ。まさにそれは刹那の出来事であった。水風船が爆発したような現象だった。
 血まみれの肉片が辺りに散乱する中、目の前にいたはずのリリスの顔はおろか、衣服すらいっさいの汚れを付けていなかった。もしかしたら、壮絶なる美を前に、穢れが恐れおののき、自然の法則を破ってしまったかもしれない。
 地面に落ちる眼球を指先で拾い上げたリリスは、それを迷うことなく口の中に放り込んだ。
 喉元が艶かしく動き、眼球をひと呑みにする音がした。

 ジープを走らすトッシュは納得のいかない顔をしていた。自分が寝ている間に、なにがあったのかさっぱりわからない。わかることは、大魔導師リリスが助手席に乗っているということだけだ。
「まったく砂漠ってやつは埃っぽくて嫌いだよ」
 などと妖婆は愚痴をこぼしている。
 ジープの荷台では相変わらず誰かさんがいびきを掻いて寝ているし、いつの間にかその誰かさんに膝を枕にされてしまっているセレンは、そろそろ足が痺れてきて嫌な顔をしはじめている。けれど、結局なにも言えないところがセレンらしい。
 自分の太ももの上で豪快ないびきを掻く少女の寝顔を見つめながら、セレンは『いつもこんな可愛い顔しててくれればいいのに』なんて思っていた。
 トッシュは前方を見ながら、横でさっきからブツブツ文句を垂れているリリスに話しかけた。
「ところでリリス殿、封印されている入り口の封印を解いてくれる気におなりか?」
「さあてね、まだ決めかねてる途中じゃよ」
 相手にばれないようにトッシュは静かにため息を漏らした。ジープに乗ってくれているだけマシと言うところだろうか。
 ジープの荷台から奇怪な声が聞こえてきた。
「肉、肉、もも肉喰いてえ!」
 もちろんアレンの寝言だ。
 セレンは自分の太ももの上で『もも肉喰いてえ』と言われると、少し腹立たしくなる感じがして、あからさまに嫌な顔をした。
「わたしの太ももが必要以上に太いとでも言いたいんですか!?」
「太もも太もも……うひゃひゃ」
「もぉ、わたしのこと莫迦にしてるんですか!」
 寝言に話しかけて怒るセレンもセレンだが、いったいアレンはどんな夢を見ているのだろうか。口元から涎が垂れていることから、食べ物夢が濃厚だが……?
 太ももとべっとりとした涎で汚され、セレンは少し怒った顔をするが、それでもアレンを起さずに、自分のポケットからそっとハンカチを出した。
「もぉ、涎なんて垂らして……!?」
 セレンは自分の太ももに付いた涎を拭き取り、アレンの口元にも付いた涎を拭こうとしたときだった――消えた。
 目を丸くするセレンが素っ頓狂な声をあげて叫んだ。
「消えちゃいましたーっ!」
 声に驚いたトッシュがすぐにブレーキを踏んで、荷台に向かって振り返った。そして、彼もまた目を丸くした。
「あの小僧はどこ行った?」
「わたしに聞かないでくださいよぉ~」
 困った顔をするセレンの膝元には誰もいなかった。そこにはたしかにアレンがいたはずなのに、先ほどまではいたはずなのに、そこには誰もいなかったのだ。
 急ブレーキのせいで首を痛めたか、リリスは首の裏を手で擦りながら後ろを振り向いた。
「ありゃま、本当にいなくなちまったね」
 と言葉では驚いているが、リリスの表情はいたって平常だった。
 三人の中で一番驚いているのはセレンだ。アレンは彼女の膝の上から突如消えてしまったのだから、驚くのも無理もない。
「わたしの膝の上でいびき掻いてたんですよ。それがいきなりパッと消えちゃったんです」
 訝しげな表情をしていたトッシュが、お手上げして宙を仰いだ。
「ったく、普通は人が消えるわけないだろう」
「だって消えちゃったんですってば!」
 セレンは今にも泣きそうな顔をしていた。自分のせいじゃないのに、自分のせいのような気がしたからだ。
 遥か遠くの景色を眺めるような眼差しをしているリリスが呟いた。
「〈蜃の夢〉じゃな」
 天を仰いでいたトッシュも顔を首を下げて、リリスの視線の先を見た。そして、涙目になっていたセレンもまた――。
 そこには、そこにあるはずのない映像が映し出されていた。蜃気楼――それすなわち蜃の見る夢の幻影。砂漠の真ん中で〈蜃の夢〉を見た。
 そして、妖婆がその容姿に相応し声音で言った。
「あ奴、〈蜃の夢〉に囚われ堕ちたか……」
「世話の焼けるガキだ」
 鼻で息を吐いたトッシュは、頭に手を乗せながら目をゆっくりと閉じた。
 オアシスの幻影を前にして、セレンの頭は混乱していた。
「リリスさん、アレンが囚われ堕ちたってどういうことですか!?」
「あの坊やは〈蜃の夢〉の住人になちまったってことじゃよ」
「どうしたら、戻ってくるんですか!?」
「さて、あの坊や次第じゃよ。どうするトッシュ、あの坊やを待つかい?」
 トッシュは目を閉じながら返事をした。
「一時間くらいなら待つか。それ以上は待てないな」
「アレンを置いて行く気ですか!」
 そんなことセレンにはできない。だが、トッシュの言葉がセレンの胸を突いた。
「戻って来る確証のない者を待つつもりか?」
「でも……それでもわたしは……」
 戻って来る確証がないなんて言われたら、身も蓋もなくなってしまう。けれど、セレンは言葉を続けた。
「それでもわたし待ちます。人を置き去りにしたり、人を犠牲にしたり、そんなことわたしにはできません。ちっぽけなわたしにできることって少ないですけど、それでも目の前にいる人は放って置けませんから、できる限りのことはしたいと思うんです」
 帰って来ないかもしれない者を待つというのか。
 なにを思ったのか、リリスは荷台に転がっていた双眼鏡を指差してセレンに命じた。
「そこに落ちてる双眼鏡であのオアシスを見てごらん」
「双眼鏡ですか?」
 不思議に思いながらも、セレンは言われるままに双眼鏡でオアシスを眺めた。すると、そこにはアレンの姿が!?
 湖の畔でアレンが昼寝しているのを、セレンは双眼鏡を通して目撃した。
「どういうことですか!?」
「それが〈蜃の夢〉の住人になったってことじゃ」

 帽子の上から頭を掻きながら、大あくびをしたアレンは、湖の畔で目を覚ました。
 上半身を起したアレンはすぐに辺りを見回す。
「どこだよここ?」
 水底の砂まで見える透き通った湖の周りに、ナツメヤシなどの草木が生い茂り、その先に広がる砂漠を見て、ここはオアシスなんだと、アレンは頷きながら納得した。
 でも、どうして自分がこんなところにいるのか、皆目見当が付かない。
 寝ている間に置き去りにされたのかもとアレンは考えたが、その理由はピンと来ないような気がした。
 辺りには人の気配もなく、湖の水面は波風一つ立っていない。
 アレンは頭を悩ますばかりで、これが〈蜃の夢〉だということに、まったく気づいていなかった。
 しばらく考え込んでいたアレンであったが、考えるのは彼女の性に合わないらしく、地面の上に寝転んで蒼空を眺めはじめた。
「腹減ったなぁ」
 と、こんなときでも少女の口から出るのは、こんな言葉だった。
 鼻先をポリポリと指先で掻いたアレンは、雲ひとつない蒼空を眺めながら、自分の喉が渇いてることに気づいた。その渇きは通常の渇きよりも激しく辛く、まるで血を欲している吸血鬼のような渇欲だった。
 ――苦しい。
 喉を掻き毟りたくのを堪えながら、アレンは急いで水辺に駆け寄ると、頭から水の中に顔を突っ込んだ。
 口から吐き出される幾つもの気泡が、水面で弾け飛んでは消え、そしてまた消え。儚い夢のように消えて逝く。
 光差し込む水の中で、アレンは眼を大きく見開き、夢の中で夢を見た。
 アレンの口から大量の紅い血が吐き出され、水を真っ赤に染めていく。やがて、紅色に変わってしまったスクリーンに、紅よりも紅い血塗れの少女が映し出された。
 年の頃はアレンよりも若い、六、七歳の可憐な少女が血塗れになって倒れている。少女の右脚が股間からもがれ、右腕も肩から同じくもがれており、右脇腹から内臓がはみ出してしまっている。この悪魔の所業としか思えぬこの光景を、凄惨と言わずしてなんと言う。
 手足を失った少女が、この世のものとは思えぬ苦痛の中で死んでいったことを、アレンは知っていた。
 生きたままもぎ取られた腕や脚は、少女の見る前で貪り食われた。涙はでなかった、恐怖も感じなかった。残ったのは憎しみだけ。
 そして、少女の心臓はたしかに鼓動を打つことを止めた。
 だが、ここにいる。少女はここにいた。
 アレンは自分の心臓を鷲掴みするように、胸を強く強く握っていた。その瞳からは、自分でも知らぬうちに涙が流れ、止まることなく頬を伝って流れ落ちる。
 水の中にいたはずのアレンは、いつの間にか闇の中で独りぼっちになっていた。
 長い間、独りだったような気がする。
 多くの人とも出会ったが、みんな別れの時が来た。
 最後はいつも独りだった。
 闇の中で独りぼっちになっていたアレンの手を誰かが掴んだ。
 それは天使?
 それとも悪魔?
 それは光だったかもしれない。
 それとも闇だったかもしれない。
 手を引かれるアレンは導かれるままに黄泉がえった。
 人ではない、機械ではない、その中間の存在として、科学と魔導の申し子として。
 最大の罪。
 偉大なる大魔導師は、死人からヒトを創ったのだ。
 嗚呼、夢が溶ける。
 闇の壁がチョコレートのように溶けはじめ、光の世界が目を覚ます。
 夢の中の夢が目覚め、〈蜃の夢〉が発狂した。
 そして、アレンは還った。

 瞼の上に光を感じ、頬に落ちる熱い雫を感じたアレンは、ゆっくりと目を開けた。
「わたし見ました……」
 そう言いながらセレンは大粒の涙を流して泣いていた。
「あっそ」
 相手が驚くほど素っ気ない返事をアレンはした。
 果たしてアレンは自分が〈蜃の夢〉に囚われたことを知っているのだろうか?
 きっと、知っている。だから、そんな返事をした。
 運転席にはトッシュがいた。その背中はなぜか暗く重い。顔は見なくて、どんな表情をしているか察しはつく。
 セレンが観たということは、残りの二人も観ていたに違いない。それでもアレンの態度は素っ気なかった。
「胸糞悪ぃ夢見ちまった……オエェ」
 わざとらしく嗚咽したアレンは状態を起し、ふと助手席にいたリリスに目をやった。
「あんたが俺のこと助けたんだろ?」
「そうじゃ。地中で眠っておった蜃を一瞬だけ叩き起こしてやった」
「ところで俺とあんた今日が初対面だよな?」
「はて、最近歳のせいか物忘れが激しくてのお」
「俺も昔のことはよく覚えてない」
 そこでアレンは口をつぐんだ。
 セレンはまだ泣いていた。でも、なにも言わなかった。なにも言えなかった。ただ、アレンのことを見ているだけだった。
 見られている方のアレンは、わざとらしくはにかんで見せて、
「俺のこと潤んだ目で見つめんなよ。抱きしめて押し倒したくなるだろぉ」
 なんて冗談で言ったのだが、セレンが急に抱きついてきて、さすがのアレンも眼を剥いて驚いた。
 セレンの手がアレンの背中に廻され、服をギュッと掴む。
 自分の胸で泣きじゃくる女に、アレンは途方に暮れた顔つきをしていた。その表情もわざとらしい。
 なにも言わずジープが走り出す。
 タイヤが巻き上げた砂埃の中で、セレンはずっと肩を上下に揺らし、鼻を啜っていた。

 つづく



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