夢見
 周りの壁や床は鼠色の金属でできており、走りなどしたら大きな足を音が立ってしまう。横幅三メートルほどの大きな通路を、セレンはなるべく摺り足で歩いていた。
 足音だけに注意を払っていてはいけない。いつどこから人が飛び出してくるかわからなので、聴覚を研ぎ澄ませて耳を常に立てておかなければいけないのだ。そのため、セレンの疲労は雪のように深々と積もっていった。
 シュラ帝國が世界に誇る超巨大飛空挺〈キュプロクス〉の内部は、そこが飛空挺の中であることを忘れてしまうほど広く、まるで巨大な鉄の要塞の中にいるような感覚だ。
 セレンはここに連れて来られたときの記憶を辿り、出口までの道順を思い出そうと勤めるが、そもそもセレンは出入り口から入ったのではなく、空間転送によって艦内に連れて来られたのだった。それにここに連れて来られた当初は、極度のパニック状態にあり、通ったはずの道ですら覚えていなかった。
 セレンの足が不意に止まり、顔が強張る。
 金属の床に響き渡る足音。
「その場を動くな!」
 男の声が響き渡り、セレンは泣きそうな顔をして後ろを振り向いた。
 二人組みの兵士が駆け寄ってくる。
 ライフル銃、ハンドガン、ナイフを装備しているが、そのどれ一つも構えていない。兵士たちはセレンを無傷で捕らえろと命令されていた。だが、セレンをそんなこと知らないので、殺されると思って必死で逃げる。逃げれば当然、相手も必死で追って来る。
 僧服の裾を激しく揺らしながら走るセレンの視線に、エレベーターが飛び込んで来た。
 運がいいことに、ちょうどエレベーターはこの階に停止中で、セレンは手動のドアを急いで横にスライドさせ、エレベーターの中に乗り込んだ。
 手動ドアを閉めようとしたセレンだが、ドアの隙間に男の手が伸びる。
「ごめんなさい!」
 と叫んだセレンは、男の手に構わずドアを閉めた。
 ドアに手を挟まれ、『うがっ!』と重い空気の塊を口から吐いた男が、苦痛に表情を歪ませながら手を引いた。
 エレベーターは兵士たちの目の前で下がって行った。
 密室の中でセレンはパニック状態に陥っていた。
 ――逃げなきゃ!
 それだけが頭の中を駆け廻り、逃げるためにどうしたらいいのかまで頭が廻らない。
 冷静になろうと呼吸を整えようとするが、呼吸は荒くなるばかりで、心臓の鼓動は激しいドラム演奏のように鳴り響き、セレンは足元から崩れて床に尻餅を付いた。
 頭の天辺から意識がすーっと抜けていくような感覚に陥り、目がチカチカしはじめた。
 壁にもたれ掛かろうとしたところでエレベーターが停車し、セレンは必死の思いで立ち上がると、渾身の力で手動ドアを開けた。
 待ち伏せはなかったようだ。それもそのはずで、このフロアにいるのはセレンを含めて人間は二名。このフロアに来るための唯一の道はエレベーターのみだった。だが、セレンはそんなことなど知る由もない。
 覚束ない足取りで歩くセレンの前に、とある部屋から出てきたばかりの白い影が立ちはだかった。
「あら、シスター、御機嫌よう」
 甘ったるい声を漏らしたのはライザだった。
 セレンの運もここまでのようだ。
 逃げることをやめたセレンにライザが踵を鳴らしながら歩み寄ってくる。
「アナタも見かけによらずおてんばさんなのね。あの部屋がお気に召さなかったのかしら?」
「別にそんなんじゃありません。わたしはただ……!?」
 ライザの白い繊手は伸ばされ、紅いマニキュアを塗った指先がセレンの頬を包んだ。
「アタクシと行動している間は、アナタの命を保障すると言ったはずよ? 少なくとも、アナタに利用価値がある間は」
 紅い爪がセレンの頬を傷つけた。
 柔らかな頬に一筋の紅い線が走り、痛みを覚える前にセレンはビックリして眼を剥いた。
 頬に伝わる生暖かく柔らかい感触。それは艶かしく動き、紅い血を美味しそうに舐め取った。
 セレンの頬から顔を離したライザは恍惚とした表情を浮かべた。
「アナタ処女でしょ?」
「はい!?」
「血の味でわかるのよ」
「変なこと言わないでださい!」
「アタクシは魔導師だからわかるのよ。あの坊やとはまだ寝てないみたいね。あの子、意外に奥手なのかしら?」
「勘違いしないでください! あたしたちそんな関係じゃありませんし、だってアレンは――」
 セレンが最後まで言い終わる前に、エレベーターから大量の兵士が流れ出してきた。
 一本道でセレンは逃げ場をなくした。
 すぐ目の前にはライザ、後ろには隙間なく通路を塞いでいる兵士。
 セレンは床を力強く蹴り上げた。
 白いロングコートの隙間を抜け、セレンは伸ばされるライザの手も振り切った。そして、開きっぱなしになっていた扉の中に飛び込むと、ドアの開閉ボタンを叩いてドアを閉めた。
 兵士たちの声に紛れてライザが叫んだが、それはすぐにドアの向こう側に消えた。
 閉められたドアは向こう側から開かれることはなかった。なぜなら、ドアの開閉ボタンは、セレンが火事場の馬鹿力で叩いた衝撃で、バチバチと火花を散らし壊れてしまっていたのだ。
 口を半開きにするセレンだったが、これは好機だ。いい時間稼ぎになった。セレンの運はまだ続いているようだ。しかし、これは今まで運が悪かった反動か、これから運が……。
 部屋の中は薄暗く、蒼白いライトだけが心細げに点っていた。
 セレンは見た。硝子の向こう側にいる世にも美しい存在を――。
 紅白の翼を持つ〝少女〟は、膝を抱え壁の一点を見つめているようだった。
 硝子の向こう側にいる〝少女〟に気づいてもらおうと、セレンは硝子を力いっぱい叩いたのだが、硝子は衝撃も音も吸収してしまった。魔導的なコーティングをされた硝子は、物理的な衝撃及び、音などを吸収してしまうのだ。
 ドアの前に廻るが、そこでセレンの動きが停止する。――開け方がわからない
 電子ロックを解除するには、カードキーを差し込み、暗証番号を入力する必要がある
 恐る恐るセレンは指を伸ばし、番号の描かれたボタンを三つほどプッシュした。が、なにも起こるはずがない。
 再び硝子板の前に立ったセレンは深く息を吐いた。中にいる〝少女〟は先ほどからまったく動いていない。
 もはやセレンにはどうしようもない状態だった。
 この部屋から逃げるすべもなければ、唯一の出入り口の扉は、そのうち外側から壊されるだろう。これでセレンも万事休すだ。
 だが、セレンが万事休すになっても、この場にはもうひとつの存在がいた。
 まったく動かなかった〝少女〟が、ついに自らの足で立ち上がったのだ。
 大きな翼を広げ、光の粒子を散らすも、〝少女〟の瞳は未だ夢現。完全に覚醒め切っていない。それでも〝少女〟は本能か、それともプログラムか、なにかに呼ばれるようにフラフラとしている。
 はっとするセレンが見守る中、〝少女〟は硝子の向こう側でなにかを呟いた。
 その呟きは硝子のこちら側にいるセレンには届かなかったが、中に備え付けてあったマイクはしっかりと〝少女〟の声を拾っていた。
 ――迎えに来る。
 その呟きは誰に対してのものか?
 〝少女〟は軽く硝子に触れた。それだけだった。それだけで硝子は煌びやかな粒子に姿を変え、霧のように辺りに四散した。
 思わず顔を伏せたセレンが元の位置に顔を戻したとき、そこには〝少女〟は空気のように立っていた。
「……迎えに来る。私……行かなければ……ならない」
 虚ろな眼をした〝少女〟は上を向いた。
 その眼は何処を見る?
 それは果たして天井か、その先の空か、宇宙か、それよりも先のセカイか?
 セレンは虚ろな〝少女〟の腕にそっと触れた。
「あの、どこに行かなければならないんですか?」
「……わからない」
「はあ、そうですかぁ」
 間延びした返事を返したセレンは途方に暮れた。虚ろな〝少女〟を見て取って、まともなコミュニケーションができないと判断したのだ。
 天を見上げふらふら歩き廻る〝少女〟に付き添いながら、セレンはとにかく言葉による意志伝達をしようと頑張った。
「ええと、お名前は?」
「……行かなければ……ならない」
「どこに?」
「……名前?」
「そう、あなたのお名前は?」
「……名前?」
「あなたをつくった人は、あなたをなんと呼んでいたんですか?」
「つくった……そう、私は創られた。二人の魔導師に創られた」
 〝少女〟の思考が晴れて来たのか、口調が少しずつだが明瞭になり、瞳に光が微かに輝きはじめた。
 糸口を掴んだセレンは、この糸が切れないように話を続けようとした。
「ええと、それで、あなたのお名前は?」
「私を創った魔導師の名前はリリスとレヴェナ。二人の姉妹が私を創った」
「その二人は、あなたになんという名前を付けてくれたんですか?」
「私の名前……私の名前……レヴェナは私をこう呼んだ――エヴァ」
 〝少女〟の瞳が爛々と輝き、翼が煌きを放った。
 だが、セレンの目は〝少女〟とは別の方向に向けられていた。
 ドアにレーザー光線が走り、それは長方形の線を描くと、切り取られたドアが外側から激しく蹴破られた。

 太陽が西の地平線に沈み、空で踊っていた朱たちがどこかに消え、代わりに東の地平線から月が昇りはじめると同時に蒼が世界を包む。――夜が来る。
 砂塵の吹き荒れる大地に立ったアレンは、遥か前方も見える鉄の塊を視察していた。
 問題は〈キュプロクス〉のどこにセレンがいるのかなのだが、それに検討をつけるのは用意ではない。なぜならば、〈キュプロクス〉が超巨大飛空挺だからだ。
 〈キュプロクス〉の全長は三五〇メートル以上にも及び、全高と全幅もともに一〇〇メートルを越す。この中からセレンを探すのは容易ではない。それに、皇帝ルオ専用機とのこともあって、中に乗っている兵士の数も尋常ではない。
 砂を踏みしだき、アレンは一歩一歩慎重に〈キュプロクス〉に近づいた。手にはすでに魔導銃〈グングニール〉が構えられている。
 飛空挺の一〇〇メートル以内に近づくと、警備用の丸いライトが幾つも地面の上を飛び交い照らしていた。アレンはそれに照らされぬように、吹き抜ける風となって地面を駆けた。だが、その途中で敵に見つかってしまった。
 アレンを見つけたのは人の目ではない。機械の眼によって熱探知をされてしまったのだ。
 飛空挺側面に取り付けられたレーザー銃が光線を発射する。
 空高く跳躍し、翔けるアレンの後を光線が追う。
 飛び交う光線の中を縫うように翔け抜け、光の線は天を突き、地平線の彼方に消え、地面を焦がした。だが、どれ一つとしてアレンを焼け焦がすことはできなかった。
 そして、アレンは金属の壁に背を当てた。
 どうやら飛空挺と直角の位置にいれば、レーザー銃の射程距離から外れるらしく、光のイリュージョンは止んだ。
 レーザーの攻撃は止んだものの、敵にアレンのことがバレた明白で、これから先、警備が強固なものとなるのは間違いない。もはや、こっそり進入というわけにはいくまい。となると、強引にいくしかない。
 今アレンがいる場所から斜め頭上を見上げると、艦尾から迫り出している壁が見えた。飛空挺を横から見ると、そこはバルコニーのような場所だということがすぐにわかる。
 バルコニーまでの高さは三〇メートル以上ある。
 歯車が廻る音がどこからか聞こえ、〈グングニール〉を懐にしまったアレンは右膝を屈伸させた。
 そして、飛蝗か蛙のように高く飛翔した。
 天に伸ばされたアレンの右手はバルコニーの柵を掴み、飛んだときの反動と右手の力で、ひょいと柵を飛び越えてバルコニーの中に入った。
 広々とした辺りを見廻したアレンが苦笑いを浮かべた。
「あはっ、お邪魔なようで……」
 次の瞬間、アレンに銃口が一斉に向けられた。
 兵士の数はざっと一〇名。アレンを待ち伏せしていたわけではない。たまたまここに居合わせたのだ。
 ライフル銃を構える七名の兵士と、ハンドガンを構える他の兵士たちとは井手達の異なる三名。アレンの目を惹いたのは、その三名に取り囲まれたひとりの少年だった。
「朕の晩餐に招待した覚えはないが?」
 大人びた――否、悪魔の笑みを浮かべる少年は皇帝ルオだった。
 手にフォークとナイフを握っているルオは、夜風を浴びながら夕食を摂っていたのだ。今日のルオは食事を邪魔されたことを怒るでもなく、慌てるでもなく、〝少年〟に気さくに声をかけた。すべては気の向くままのである。
「ところで君は誰かな? まさか単身で朕の命を狙いに来たというのはあるまい?」
「俺はただの通りすがりー」
「あはは、おもしろいことを言うね」
「そりゃどーも」
 いつも通りのアレンだった。
 相手が皇帝ルオだということは、ひと目見てすぐにわかった。ルオを取り囲んでいる三名の兵士の質や発する気が、他の屑とは違うことも一目瞭然であったし、なによりもルオ本人のなんとも言いがたい魔性の気が、至上最悪ならぬ至上災厄の暴君を示していた。
 銃口を向けられていても余裕か、アレンは鼻の頭をポリポリと掻いた。
 こんな状況に置かれたことならいくらでもある。つい先日もどっかの中華飯店で機関銃を乱射されたばかりだ。逃げようと思えば逃げることはできるが、あのときとは決定的に違う点がある。皇帝ルオがいることだ。
 アレンにとって皇帝ルオはただの餓鬼とは思えなかったのだ。
 それはルオにとっても同じであった。
「君さ、普通じゃないよね。うん、余興が観たい」
 ナイフを持ったルオの手がアレンに向けられた刹那、それを合図として銃口が火を噴いた。
 いつ撃たれるともわからない状態ではあったが、これは不意打ちだ。
 高速で襲い掛かる銃弾を避けるべく、アレンは床が抜ける勢いで金属板を叩き蹴り上げ、宙を舞った。だが、これでは標的にしてくれと言っているようなものである。飛び上がったあとは、物理法則に従って落ちるしかない。
 落下するアレンに当たった弾が甲高い音を立てて火花を散らし、他の弾が頬に一筋の紅い線を走らせても、アレンは冷静さを保ち、懐から銃を抜いた。
 〈グングニール〉が吼えた。
 雷鳴が轟き、稲妻がまるで亀裂のように降り注ぎ、天に向かって降る銃弾の雨を呑み込んだ。
 古の老神が持っていた凄まじい破壊力を持つ槍――その名がグングニール。魔導銃〈グングニール〉の名の由来はそこから来ており、銃に刻まれた紋様は失われし古代ルーン文字であった。
 アレンは〈グングニール〉を我が手中に収めたのだ。
 雷光が轟き、稲妻が翔け翔け、兵士の身体を槍の如く貫いた。
 燃え上がる衝撃の炎。
 兵士たちが燃え揺れ、黒く焼け焦げた人影が崩れ落ち逝く。
 金属板の上に膝を付き着地したアレンが、凛と顔を上げた。恐れを知らぬその顔が向けられた先にいるのは、この場でただひとり無傷でいる少年――皇帝ルオ。
 自分を守っていた兵士が次々と殺られていく中で、ルオは優雅に食事を続けていた。そして、何事もなかったように、口を拭いたナプキンを投げ捨て、ゆっくりと席から立った。
 ルオの周りには、彼を守るように一本の大剣が宙を廻っていた。この剣こそがアレンの攻撃をすべて防いでいたのだ。
 大剣は最初から鞘に納まってなどいない。常に牙を剥き、妖々とした輝きを放っている赤黒い剣身には、読むことの叶わない古代文字がびっしりと刻まれ、剣の周りで風が唸り声をあげている。
 大剣が宙を舞いながらルオの手の中に納まった。
「朕の愛剣〈黒の剣〉が君を斬りたくて仕方ないそうだ。ほら、風の音が聴こえるだろ?」
 〈黒の剣〉の周りで風が唸っている。それは『早く血を飲ませろ』と言わんばかりに荒々しく殺気立っていた。まるで剣が生きているようだ。
 歯車は廻り続けている。だが、それ以上はない。〈グングニール〉を構えたアレンはルオと距離を縮めることなく、その場から足を動かすことはなかった。
「俺飛び道具、あんた剣。それでどーやって戦う気なんだよ?」
「知りたくば、早く掛かってくるといい」
「あとさあ、そんなデカイ剣、あんたに使えんの?」
 ルオの構える大剣は、彼よりも少し背が低い程度で、一五〇センチほどあるだろうか。通常の剣より長く、大の大人でも使いこなすのが大変なこの剣を、小柄な少年が本当に使いこなすというのだろうか?
「朕が皇帝ルオと知っての口の聞き方かい?」
「だからどーだってんだよ? 俺あんたの国民じゃないし」
 こんな口の聞き方をされたのは、ルオにとって初めてだったのだろう。微かにルオの口元が緩んだ。
「くくくっ……あはは、なんて愚かな。朕もまだまだ絶対者には遠いか」
「絶対者なんか、この世にいねえよ、ばーか」
「ならば、朕が最初で最後の存在となろう。恐怖こそ力、ゆくぞ〈黒の剣〉!」
 朱色のマントが舞い上がった。
 切っ先を床に向けて構えるルオが駆ける。
 迎え撃つは、アレンの魔導銃〈グングニール〉。
「喰らえ糞餓鬼!」
 稲妻が空を横に裂き奔る。だが次の瞬間、アレンの表情が曇る。やはり無駄だった。
 銃口から放たれた稲妻が〈黒の剣〉の呑み込まれていく。
 魔導を無効としたルオは、そのまま臆するなくアレンの懐に斬り込んだ。
 びゅんと風が唸る。
「くおっ、危ねえ!」
 鼻先で切っ先を感じたアレンは、後ろに飛び退いて体制を整えようとするが、その隙すらルオは与えない。
 襲い来る剣技を前に押され気味のアレンが、再び引き金に指を掛けた。
 銃口が吼え、眩い雷光が辺りを包む。だが、それも一瞬の輝き。見る見るうちに稲光は〈黒の剣〉に呑まれた。
 ルオは辺りを見廻した。アレンの姿が消えた。眩い光に眼が眩んだ、その一瞬にアレンが消失したのだ。
「後ろか!」
 振り向いたルオが見たものは、上空から金属板の上に着地し、艦内に飛び込むアレンの姿だった。
「逃げるが勝ち!」
 この勝負、分が悪いと判断したアレンは逃げることを選択したのだ。
「待て!」
「待てと言われて、待つ奴なんていねえよ!」
 だが、アレンの足は止まった。
 蒼白く巨大な輝きが艦内の廊下を飛んで来る。
 光とともに空激破がアレンの横を擦り抜け、アレンの身体が宙に浮いて吹っ飛ばされた。
 金属板に尻餅を付いたアレンが見たものは?
「…………!?」
 歯車が激しい音を立てて廻りはじめた。

 ――ルオも見た。この場に現れた輝ける天使の姿を。
 果たして天使がもたらすものは愛か平和か、それとも破壊か?
 月明かり照らすこの場所で、輝ける天使とも言うべき〝少女〟はセレンとともに現れた。
 巨大な翼から落ちる煌く粉が、風に揺れて消えていく。
 〝少女〟は無邪気な笑みを浮かべながら口を開いた。
「私と……同じ……」
 その言葉はアレンだけに向けられたものだった。
 自分の胸を鷲掴みにしているアレンの表情は苦悶に満ち、額から大量の汗が零れ落ちていた。
 歯車が廻る。
 苦しい。
 けれど、それはアレンには制御できないことだった。
 床に膝をついて崩れ落ちたアレンに、すぐさまセレンが駆け寄った。
「大丈夫ですかアレンさん!?」
「ぜんぜんへーき。つーか、助けに来なくても平気だったじゃんか、損した」
「もしかしてわたしのこと助けに来てくれたんですか?」
 アレンはなにも答えず立ち上がると、ルオに視線を向けた。
「ついでにその子ももらってく」
「朕を倒せたらね」
 ルオの手はしっかりと〝少女〟の腕を掴んでいた。
「下がってろ」
 アレンはそう言うと、セレンの身体を自分の後ろに押し退けた。
「アレンさん大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃねえよ、ばーか」
「莫迦って、酷くありませんか!?」
「ギャーギャー喚くな。今の俺マジだから」
「…………」
 まだなにか言いたそうなセレンを黙らせて、アレンは一歩前へ出た。
 〝少女〟を捕らえているルオも一歩前へ出る。
 二人の戦いが今またはじまろうとしていた。
 が、女性の声が二人の間に割って入った。
「タイムよタイムよ。少しお時間をいただけないかしら?」
 白い影がブーツの踵を鳴らすのを見て、ルオが低く呟いた。
「ライザか……神聖な戦いに水を注しに来たのかい?」
「いいえ、貴方が戦いたいと言うのなら、アタクシはお止めしませんわ。ただ、その前に準備を」
 ライザとともに出入り口から流れ出して来た兵士がルオと〝少女〟を取り囲んだ。二人を取り囲んだ兵士は一・五メートルほどの筒状の物体を持っていた。
 なにかを合図するようにライザが手を上げた。
「ルオ様、〝少女〟を放し、お下がりください」
 〝少女〟から離れ、素早くルオが後退すると、筒を持っていた兵士機械的な動作で〝少女〟を取り囲み、筒を床に設置した。
 筒は〝少女〟を囲み、その効果を発揮する。
 ライザが指を鳴らすと同時に、天に向けられた筒の先端から煙と光が放出された。それは煙幕のように〝少女〟の周りを覆い、やがてきょとんする〝少女〟の前に壁ができた。それは半透明の壁。筒が結界を作り出し、〝少女〟を結界の中に封じたのだ。
 自分を取り囲む壁に子供が興味を抱くように、好奇心の塊と化した〝少女〟が軽く触れた。壁に波紋が生じ、すぐに消えた。薄い羊膜のようなのに、決して破れることはない。それがこの結界の力だった。
 結界の効果を確認したライザがルオに視線を向けた。
「あとは貴方のお気の召すまま」
「これで思う存分戦えるよ、ありがとうライザ」
 〈黒の剣〉を一振りしたルオがアレンの顔を凝視した。
「手出しは無用。手を出した者は、あとでミンチにして家畜の餌だ」
 この言葉でアレンとセレンに向けられていた銃口が床に向けられた。
 帽子の上から頭を掻いたアレンが少年のように無邪気に笑う。
「大した自身だな、俺にマジで勝つ気でやんの」
「朕は絶対に負けない」
「勝手に言ってろ。すぐに痛い目見せてやんから。お尻ぺんぺんしてやるぜ!」
「朕が負けるわけがないだろう、神が下郎に」
「神なんざいねえよ!」
 攻撃するは魔導銃〈グングニール〉。
 迎え撃つは魔剣〈黒の剣〉
 だが、〈グングニール〉の雷撃は、〈黒の剣〉によってすべて無効とされている。
 いかにして戦うアレン?
 アレンの手から雷撃が放たれた。それと同時にアレンがルオとの距離を詰めた。接近戦に持ち込む気だ。
 稲妻は刹那のうちに〈黒の剣〉に呑まれてしまった。やはり、ルオを前に〈グングニール〉の雷撃は太刀打ちできないのか。だが、アレンはルオの懐に飛び込んでいた。
 歯車が鳴る。それはルオの予想を超えたスピードだった。アレンの左フックがルオの顔面に炸裂した。
「ルオ様!」
 頬を抉られて後方に吹っ飛んだルオの姿を見て、ライザが叫び声をあげた。
 地面に片手を付き、口から血を吐き捨てるルオの姿を見て、アレンがガッツポーズを決めた。
「よっしゃ、1ポイント先取!」
「朕を殴ったな!」
 口を拳で拭い、ゆっくりと立ち上がったルオの肩は震えていた。
「くくく……母君にも父君にも手を上げられたことのない、この朕を殴ったね……あははははっ!」
 アレンはルオを殴った最初の者となった。それがどのような意味を持つか、ルオを知るものならば震え上がり泣き叫ぶだろう。だが、アレンはアレンだ。
「殴られて笑うなんて、頭イッてんな、あんた」
 悪態を吐くアレンを睨みつけたライザは、ルオの元に駆け寄ろうとしたが、それをルオが切っ先を持って静止した。
「手出しは無用と言ったはずだが?」
「わかりましたわ」
 首に剣の切っ先を突きつけられたライザは、それ以上はなにも言わず、後退りをしてルオから離れた。
 ルオは〈黒の剣〉を構え直すと、踵を弾ませて微笑んだ。
「あはは、今日はとっても楽しいよ君のこと、子供だと思って甘く見たのが間違えだった。だから、次は本気で行くよ」
 子供とは思えぬ邪悪な笑みを浮かべたルオと共鳴するように、〈黒の剣〉が意思を持つように低く唸った。
 アレンが〈グングニール〉を懐にしまい、右手をフリーにした。今度は〝右手〟で殴ってやるつもりなのだ。
「俺も本気で行くぜ。謝るなら今のうち。それとも一対一は止めにして、そこにいる兵士たちに助けてぇって頼めよ」
「一対一は朕の美学。美のなんたるかを知らぬ者に口出しされたくない」
「なにが美学だよ。喧嘩なんつーものは、勝ちゃいーんだよ、勝てば。卑怯な手を使ってもな!」
 歯車がフル回転で廻り、アレンが床を蹴り上げた。
 目にも止まらぬ速さとは、まさにこのことだろう。
 アレンの残像だけがその場に残り、瞬き一つした間にアレンは忽然とルオの前に現れた。このアレンの一瞬の動きを眼で追えたのは――ただひとり。
 まさかの出来事にアレンが眼を剥いた。
 剣戟の響き。
 ルオも眼を剥いて驚いた。彼の一撃は確実にアレンを捕らえたはずだったからだ。しかし、アレンは受けた。
「たかが掌で朕の一刀を受けようとは」
「たかがじゃねーよ、特別製」
 大剣を受け止めているのはアレンの右手だった。そう、人ならぬアレンの右手がルオの一撃を受け止めたのだ。
 どちらも動かぬ状況だった。アレンもルオも動かない。だが、四肢は振るえ、全身の力はただ一点に注がれていた。気を抜いた方が負けだ。
 柄を握るルオの両手に力がこもる。
 例えルオが超一流の剣技を持っていようとも、その腕力には限界がある。その点、アレンの右手が持つ力は計り知れない。だが、二人の力比べは五分と五分。
 〈黒の剣〉が激しく唸った。
 それはアレンにとって予期せぬ出来事であった。
 四本の指が親指を残し、硬い床に落ちて音を立てた。
 そして、次の瞬間には、アレンの右腕が斬り飛ばされ、宙を回転しながら飛んでいたのだ。
 言葉も出ないアレン。
 すべてを見ていたセレンが両手で顔を覆った。
 不敵に嗤うルオに握られた〈黒の剣〉が再び低く唸る。

 寒空の下で、空気が震えた。
 自然の摂理すらが、あるモノに恐怖したのだ。
 大剣を振りかざし、アレンに止めを刺そうとしていたルオの動きが止まった。
 動きを止めたのはルオだけではなかった。この場にいた皆が動きを止めてしまった。それは本能的なものだったに違いなく、セレンは自分で気づくまで呼吸を止めてしまっていた。
 美しくも恐ろしい力を秘める存在。
 再び空気が震える。
 それは怒りか悲しみか、それとも別の感情か。
 〝少女〟は結界の中で慟哭していた。
 二対の羽根は枯れた花のように垂れ下がり、〝少女〟が肩を震わせるたびに空気が震える。それはあり得ぬことだった。結界の中にいるモノが外に影響を及ぼすはずがない。空気が震えるはずがないのだ。
 危機感を覚えたライザが叫んだ。
「破壊されるわ! 退却なさい、ルオ様もお引きください!」
 〝少女〟を包む結界が、大波に揺られるように激しく波打つ。そして、液体のような壁に蜘蛛の巣のような皹が入り、みしみしと音を立てながら、少しずつ壁が剥がれ落ちていく。もう、長くは持たないと誰もが確信したとき、轟々と風が唸り声をあげ、結界が爆発した。
 結界の破片が煌く粒子となって、風に乗って天に昇る。〝少女〟はその真下に立っていた。
「私と同じヒト……傷つけるなんて……許さない……」
 掲げられた〝少女〟の片手にエネルギーが溜められ輝き、それを見たライザがルオに向かって叫んだ。
「お逃げください!」
「朕の辞書に逃げるなどという言葉はない!」
 不敵に笑い〈黒の剣〉を構えたルオに、〝少女〟の手からレーザービームとも言うべき攻撃が放たれた。
 突風がどこからか吹き込んだ。その風は人の形となり、ルオと〝少女〟の間に立ちはだかった。
「もうおよし、わしの可愛い娘――エヴァ」
 その声はまさしく老婆リリスのものだった。
 放たれたレーザービームはリリスの前で光の壁に弾かれ、天に向かって飛んで消えた。
 突然のリリスの登場に、眼を丸くしているセレンの背中に、大柄な男が声をかけた。
「シスター、ぼさっとしてないで早く逃げるぞ」
「はい?」
 セレンの振り向いた先にいたのは、気を失っているアレンを背中に担いでいるトッシュだった。
「シスターを助けに来たのはいいが、グッドタイミングだったのか、バッドタイミングだったのわからんな」
 バッドタイミングだ。
 〝少女〟――エヴァは銀盤の上を滑るように、床の上を低く飛翔し、セレンとトッシュの前に立った。だが、二人のことなど眼中にない。エヴァが見つめるのはただひとり――アレンのみだ。
「……私と同じ」
 これだけだった。なにをしたわけでもない。無邪気に笑うエヴァが、ただ一言の言葉を漏らしただけで、セレンとトッシュは全身が弛緩し、腰を砕かれたように床に倒れてしまった。
 床に寝転ぶアレンの頬に、エヴァの蒼白い繊手が伸びる。
「待つのじゃ!」
 ゆっくりとエヴァが振り返った先にリリスが立っていた。
「よい子じゃエヴァ。わしの言葉をちゃんとお聞き」
 幼子を諭すようにリリスが話しかける。だが、エヴァは聞く耳を持たずアレンを抱きかかえようとした。
 空気が激しく震え上がった。
 エヴァが声にならない叫びをあげ、超振動の波紋が広がり、エヴァを止めようとした兵士たちが散り散りに吹き飛ばされた。その場で耐えたのはリリスのみ。
「聞き分けのない子じゃな。まったく誰に似たのやら……」
 愚痴を溢したリリスは、優雅に片手をエヴァの額に乗せようとした。再び眠りにつかせようとしたのだ。だが、見えない衝撃によって、リリスの身体は後方に五メートルほど吹き飛ばされて止まった。
「わがままなところはわしに似たか……」
 少し笑いながら呟くようにリリスが言った直後、彼女の眼は大きく見開かれた。
 大きく広げられた紅白の翼から、大量の煌きが零れる。
 羽ばたいた。
 ――飛ぶ。
 アレンを抱きかかえたエヴァが、天に向かって羽ばたこうとしている。
 大事な実験サンプルに逃げられると思ったライザがエヴァに向かって走った。だが、エヴァの身体から放たれた光柱が天を衝き、激しい閃光とともにライザの身体は後方に吹き飛ばされた。
 光が天に昇る。
 飛び立とうとしているエヴァの前で老婆リリスの姿形が変化した。老婆リリスから妖女リリスへ。
「妾の話を聴くのじゃ。その子は重症を負って、放っておけば死ぬ。全機能停止じゃ」
 〈黒の剣〉のよって腕を切られたアレンの傷口からは、煌く砂とも液体ともつかぬ物質が流れ出し、顔は生気を失い蒼ざめている。
 『全機能停止』という言葉を聞いて、エヴァの顔に陰が差すが、それでも〝少女〟は〝少年〟を連れて行こうとした。
 舞い上がるエヴァの身体。
 逃がさまいとリリスが手を上げた。
 宇宙へ昇ろうとするエヴァの足に黒い触手が絡みつく。その触手はリリスのナイトドレスから伸びていた。
「妹の言うことしか聴けぬのかえ?」
 月のような静かな激昂だった。
 黒い触手がアレンの身体を包み、エヴァはアレンを奪われまいとするが、〝創造物〟は〝創造主〟には勝てなかった。
 黒色に包まれたアレンがリリスの胸に抱かれ、一筋の流星が天に向かって降り注ぐ。
 金属板の床が激しく揺れ、足場が崩れようとしていた。
 衝撃波が巻き起こり、床が落ち崩れる。
 ルオは気を失って倒れているライザを抱え出入り口に走り、トッシュはアレンを抱えながらセレンとともに走った。しかし、床は轟音を立てながら崩壊した。
「きゃっ!」
 足を滑られせたセレンにトッシュが片手を差し伸べるが、彼の立っていた足場も崩れた。
 崩れ落ちた金属板たちは、遥か三〇メートル地上に叩きつけられ、砂煙が辺りを包み込み、視界をゼロとした。
 すべては砂煙に埋もれ、姿を消してしまった。
 夜空には二つの輝きが昇っていた。
 静かに微笑む月と、月よりも美しく輝く儚げな〝少女〟。

 意識は微かにあった。
 薄く開けた瞼の先に見えるライトが眩しく、視界がぼやけ、黒い人影が自分の顔を覗きこんでいるのに、誰だかまったくわからない。
「エーテル体が不足しているようだわ」
 誰の声なのかわからない。
 前にもこんなことがあったような気がする。
 もしかしたら意識は戻っていないのかもしれない。
 過去の回想かもしれない。
 アレンにはどちらでもいいことだった。
「エーテル体の流出が激しいようじゃな」
 ――過去と現在がリンクする。
「オリハルコンとの合金を――」
「オリハルコンの合金のようじゃが――」
 過去の声と今の声が交差する。
「わたくしの力で――」
「わしの力で――」
 凍てついた手術台の上にひとりの少女が横たわっていた。
 一糸纏わぬ少女の身体は紅い血で覆われ、右脚も右腕も欠損し、内臓も飛び出してしまっている悲惨な状態だった。
 凍てついた手術台の上にアレンは寝かされていた。
 服を脱がされ、鼠色の金属が右半身を覆い、右腕はルオとの戦いで失われていた。
 造り変わる身体。
 造り直される身体。
 過去の偉大な魔導師は、死人からヒトを創った。
 現在の偉大な魔導師は――。
「これで完璧じゃ。修理だけでこれほどまでに身を削る思いをするとは、此奴を創った者は……」
 そこでリリスは口を噤んだ。その表情に刻まれた皺は深い。
 手術台の上で寝ていたアレンが、ゆっくりと瞼を動かした。
「……胸糞悪ぃ」
 機械の右手をゆっくりと天井に向けたアレンが、自分の右手を眺めながら状態を起した。
「あんたが直してくれたのか?」
「わし意外に誰がおる?」
 しんと静まり返った金属の部屋にはリリス以外の者はいない。さきほど聞こえていた声も、やはり幻聴だったようだ。
「あんたが直したのか……。これでひとつはっきりしたことがある。やっぱあんたじゃねえ」
「なにがじゃ?」
「別にぃ。あと、あんたと初めて会ったとき、初めてじゃない気がしたけんど、あれ俺の気のせい」
 死人からヒトを創った偉大なる魔導師は誰か?
 その問いはアレンに解けることはなかったが、ひとつだけはっきりしたことがある。
 ――リリスではない。
 手術台から飛び降りたアレンはリリスから服を受け取ると、素早く着替えて帽子を被り、最後にゴーグルを頭の上に乗せた。
「あんがと」
 そう呟いてアレンはリリスを残して部屋を後にした。
 部屋の外は長方形の筒のような廊下が続いていた。
 所々が茶色く錆びている廊下を照らす明かりは、等間隔に天井にぶら下がっている裸電球だけで、廊下全体が薄暗いために遠く先は闇だった
 見覚えのある廊下だった。
「アレンさん、あの、もう大丈夫なんですか?」
 部屋の外でアレンに声をかけたのはセレンだった。その表情は沈痛な面持ちだ。
 それに対して、アレンの言葉は素っ気無いものだった。
「へーき」
「……わたし心配してたんですよ。それなのに、そんな返事……」
「心配すんのはあんたの勝手だろ。それとも〝ありがとう〟とか言って欲しいわけ?」
「別にそうじゃありませんけど」
「じゃ、ちょーへーき。これでいいだろ」
「…………」
 セレンは言葉を失った。
 悲しいとか、怒りといった感情を越え、ただ唖然と言葉を失ってしまった。アレンの神経構造が、セレンの理解の範疇を越えたのだ。
 そして、アレンは前の話がなかったように、
「つーかさ、ここどこ?」
「トッシュさんの隠れ家だそうです」
「やっぱね。どーりで見覚えがあったと思った」
 アレンがここに来たのは二度目だった。その二度とも、意識を失っているときに運ばれた。
 自分勝手に歩き出したアレンが、いきなり後ろを振り向く。
「で、トッシュはどこにいんの?」
「えっと、そっちじゃなくて、こっちです」
 セレンが申し訳なさそうに指を差したのは、アレンがいるのとはまったく逆の方向だった。
「早く言えよ」
「だって、アレンさんが勝手に歩き出したのが悪いんですよ」
「気が利かねえなぁ」
 ぶつくさ言いながらアレンはセレンに連れられて廊下を歩いた。
 いつもよりもアレンの機嫌が悪いことをセレンは感じていた。自分の知らないうちに、なにかあったのかもしれない。けれど、なにがあったのかは想像も及ばなかった。セレンにとって、アレンは未だ正体不明なのだ。
 廊下に二人の足音が響く中、アレンは点々と割れた電球たちに目をやった。その電球はエヴァの封印が解かれたときに割れたものだ。エヴァの解放はクーロンの街に大きな爪痕を残したのだ。
 だが、アレンは感じていた。
 ――まだだ。
 封印は解かれても、覚醒めてはいない。
 幾星霜を経て眠りから醒めたが〝少女〟が、真に覚醒めるとき、世界にどのような影響をもたらそうか?
 封印を解いたリリスは知っているのだろう?
 知らぬはずがない。
 事の解決にはリリスの力が必要かもしれない。けれど、アレンはリリスに話しても無駄だろうと思っていた。――だったら、最初から封印を解いていない。それがアレンの考えだ。
 しかし、リリスという女は気まぐれだ。物事がどう転ぶかはわからない。一寸先は闇だ。
 電球が割れてしまっているせいで、普段よりも暗い廊下を進み、セレンはアレンをトッシュの部屋の前まで案内した。
「ここがトッシュさんのお部屋です」
 セレンがドアをノックしようとすると、アレンがノックなしにドアを開けた。
「お邪魔しま~す」
 と言うくらいなら、ノックくらいすればいいものを。
 ドアを開けると廊下に大量の光が流れ込んだ。
 突然部屋に入って来たアレンの顔を見て、トッシュはあからさまに嫌な顔をする。
「ノックくらいしろ。どんな教育を受けて来たんだ」
「悪かったな、俺はガッコーも行ってねえよ」
 小さなテーブルに着いているトッシュは、コーヒーを飲みながらアレンの右腕を見た。
「それで、腕は治ったのか?」
「直ったんだけど、そんなことより――」
「なにも言うな」
 コーヒーカップに口を付けようとしていたトッシュの動きが止まり、空いている手をパーにして力強く前に突き出した。
「話くらい聞けよ」
「いや、聞かない」
 断固として自分の意見を曲げないトッシュに詰め寄ったアレンは、彼のコーヒーカップを持っている手を下げて言った。
「聞けってば」
「聞かないと言っているだろう。俺様は二度もおまえを助けて、俺様のせいで危険なことに巻き込んだシスターもちゃんと助けた」
「じゃあ、ついでに」
「ついではない」
「じゃあ、そのついでのついででいいからさ」
 ここでトッシュがため息をついて折れた。
「話だけは聞いてやる、言ってみろ」
「まずさあ、人型エネルギープラントはどうなったんだよ?」
「空の上に飛んで行った」
 そう言ってトッシュは人差し指を立てて天を示した。
 天に昇ったエヴァはクーロンの街からも見ることができ、今もまだ夜空で星のように輝いている。それ以上の動きは見せない。エヴァはクーロン上空で、ただじっとしているのだ。
 アレンはトッシュの指差す方向を見た。そこには天井があるが、アレンはその先を見て、なにかを考えるように目を閉じた。
 歯車が廻っている。
 こんなに離れているのに、歯車が廻っている。
 なぜ、歯車は廻る?
 ゆっくりと目を開けたアレンはトッシュに尋ねた。
「あのさ、飛空機とか持ってないのかよ?」
「この街にそんな高価な代物を持っている奴がいると思うか?」
「あんただったら持ってそうだし。小型のプロペラ式でいんだけど?」
「だから持っていないと言っているだろう。それと、この街中を探しても無駄だと先に言っておくぞ」
「使えねえなぁ」
 腕組みをしたアレンは、そのまま床に胡坐をかいて黙り込んでしまった。
「アレンさん、床に座るなんて汚いですよ」
「うっせーよ」
 セレンに悪態をついたアレンは再び黙り込む。
 少し顔を膨らませてドアの前で突っ立っていたセレンを押し退けて、リリスが足音も立てずに部屋に入って来た。
「空飛ぶ乗り物なら、この街の地下に眠っておる」
「マジか姐ちゃん!?」
 床を叩いて飛び上がったアレンを、リリスは老女とは思えぬ艶やかな瞳で見つめた。
「ほほほっ、ついて参れ」

 月光が鋼色の機体に反射する。
 けたたましい爆音を静かな夜に鳴り響かせながら、巨大な鉄の塊が砂煙を上げなら空に舞い上がる。
 魔導を動力源とし、巨大なエンジンに膨大なエネルギー送り込む。
 全長は三五〇メートル以上もの巨体が宙に浮いた。
 シュラ帝國が世界に誇る、世界最大級の飛空挺〈キュプロクス〉が、夜空を支配しようとしている。
 幾つものライトを灯台の光のように撒き散らし、〈キュプロクス〉が天へ天へと昇っていく。
 風が少し強い。
 まるで風が唸り声をあげているようだ。
 〈キュプロクス〉が目指す航路は、夜空に燦然と輝く巨星――エヴァのもとへ。
 艦内では慌ただしく兵士たちが動いていた。
 武器の整備から小型飛空機の整備に時間を追われ、ひとりの〝少女〟を捕獲するために万全の準備が進められていた。
 皇帝ルオの前での失態は許されない。それは死に直結するからだ。それゆえ、兵士たちの士気は高まり、〝少女〟捕獲の準備は万全に万全を期した。
 艦内のほぼ中心部にある広い司令室では、皇帝ルオが艦長の椅子――つまりルオの特等席に脚を組んで座っていた。
「ライザ、どうするつもりなんだい?」
 ルオは斜め上を見上げて、不機嫌そうなライザに尋ねた。
「アタクシといたしましては、捕獲を第一優先事項、それができなければ破壊を推奨いたしますわ」
「破壊は勿体ないね」
 まったくそのとおりだとライザは思っていた。破壊と口にはしたが、ライザはエヴァを破壊する気など毛頭ない。
「では、人型エネルギープラント捕獲のために、〝黒い翼〟を投入いたします」
「朕は参謀ではないから、君の好きなようにやってくれればいい」
「御意のままに」
 ルオに軽く頭を下げたライザは、前方の席にいるオペレーターに命令を下した。
「〝黒の翼〟に出動の命令をなさい」
 それだけを言った。そう、すでに作戦は決まっていたのだ。〝黒の翼〟を投入することは最初から決まっており、艦内ではそれに沿って準備が進められていたのだ。
 シュラ帝國のエースパイロットで構成された、小型飛空機の精鋭部隊が〝黒の翼〟である。彼らの任務は常に戦闘の最前線に立つことであり、空での仕事を一手に引き受けるスペシャリスト集団でもある。〝黒の翼〟は常に模範でなければならないのだ。
 〝黒い翼〟の名のとおり、黒い翼を持つプロペラ型飛空機の周りには、黒尽くめの服に身を包む隊員たちが出動の要請を待っていた。
 格納庫で待機していた〝黒の翼〟部隊長に通達が下る。
 通信機を口元から下げた部隊長が、すぐさま隊員たちに指示を下す。
 隊員たちが慌ただしく動き、格納庫になんともいえぬ緊張感が走る。
 月明かりの下での作戦は困難を極める。その困難さと危険さは昼間の比ではない。それでも彼らは行く。ある者は愛する者のため、ある者は名誉や誇りのため、ある者は己のために空を翔け巡る。
 飛空機を運ぶための昇降口が開かれ、一機目の飛空機が飛空挺上部の発着場にエレベーターで運ばれていく。
 開かれた昇降口の先は闇だった。暗い夜空が広がっている。星々の煌きだけでは心もとない。それでも機械制御のエレベーターは上へと向かう。
 長く伸びる甲板の上から観える星はいつもよりも騒がしく輝いていた。
 ――二一時ちょうど作戦開始。
 プロペラが高速で回転し、助走をつけた飛空機が夜空へ飛び立った。
 後に続けと次々と黒い機体が空に飛び立つ。
 六機の黒い機体が群れをつくり、魔鳥のごとく夜空を舞う。
 星よりも、美しく輝く月下の〝少女〟――エヴァ。彼女は未だ夢現であった。
 〝黒い翼〟が近づいてくるのに気づいているのかいないのか。エヴァの瞳は遠くを見据えていた。
 六機の雲に映る黒い魔鳥の影が迷いなく、船を導く灯台のように輝くエヴァに向かって飛んでいく。
 〝黒の翼〟に課せられた任務は、エヴァの破壊に非ず捕獲だ。だが、どうやって宙に浮かぶものをプロペラ型飛空機が捕獲するのか?
 この手の任務は他に類を見ないと思いきや、〝黒の翼〟はこれまでに数多くの捕獲作戦を成功させていた。
 〝黒の翼〟のターゲットは必ずしも人や機械だけではない。中には宙を泳ぐ空魚や、巨鳥、空竜などもいた。この手の作戦をさせたら、〝黒の翼〟に優る飛空部隊はいないだろう。だが、今回の作戦は今まででもっとも困難が予想された。
 〈キュプロクス〉艦内の司令室にいるライザが、オペレーターに向かって喚くように指示を出す。
「無傷で捕獲するのよ!」
 そう、〝無傷〟で――という言葉が今回の作戦を困難なものにさせていた。しかも、相手はあくまで〝生物〟ではなく、〝機械〟なのだ。生物であれば、麻酔弾で眠らせることもできるが、姿形がいくらヒトに似ていようと機械に麻酔弾が効くはずがない。
 宙でじっとしているエヴァに近づいた〝黒い翼〟は、陣形を崩さぬまま減速する。
 エヴァに動きは見られない。逃げることもなく、戦う気配もなく、魂が抜けてしまっているようだ。
 黒い機体を操縦する部隊長が通信機を通して仲間に指示を出す。
《魔導ネット発射!》
 これを合図に六機の飛空機がエヴァを取り囲み、機体の先端から七色に輝く捕獲ネットを六機同時に発射した。
 輝く捕獲ネットは蜘蛛の巣のように広がりエヴァの身体を捕らえ張り付く。
 現代科学技術と〝失われし科学技術〟のアンバランスな融合。プロペラ機が超科学の粋を使っているのだ。
 伸縮自在の魔導ネットは見事エヴァを捕獲して捕らえた。
 エヴァはなんの抵抗もしなかった。それゆえに作戦がスムーズに進んだのだ。
 並んで飛ぶ六機の飛空機の先端から垂れ下がる六本の紐の先には、七色に輝く魔導ネットに包まれ毛糸玉のようになってしまっているエヴァがいる。あとはエヴァを〈キュプロクス〉まで運べば、作戦のほとんどが終了する。だがしかし、エヴァは空竜などとは違い麻酔弾によって眠らされていない。ただ、夢現なだけ。
 自由の象徴である翼を無理やり丸められ、身動き一つできないエヴァが、やっと目を大きく開けた。
 魔導ネットを破り白い翼が出た、紅い翼が出た。万が一、空竜が目を覚まし暴れても破れないはずの魔導ネットが破られた。紅白の翼から零れる煌きが、魔導ネットの力を中和させてしまったのだ。
 星よりも、月よりも、世界に昼をもたらす太陽よりも、エヴァは力強く燦然と輝いた。
 あまりに眩しすぎる輝きは、エヴァを包んでいた魔導ネットを、煌く炎によって燃やしてしまった。
 燃えがる炎の中でエヴァは巨大な翼を力いっぱい広げた。
 〝黒い翼〟の一機を光の柱が下から突き上げるように貫いた。
 夜空に儚い爆発音が響き渡る。
 エヴァの身体から幾つもの光の筋が放たれ、無差別に世界を照らし、上空で火炎の華が咲き乱れる。
 六機の機体は、花火のように儚くも美しく散った。
 〈キュクロプス〉の司令室で、〝黒の翼〟が壊滅させられたことを聞いたライザは、苦い顔をして皇帝の顔をちらりと覗きこんだ。
 ルオは素っ気無い表情をしていた。
「やっぱり駄目だったようだね。君も無理だとわかっていたのだろう?」
「はい、わかっておりました」
 〝無傷〟でエヴァを捕らえるなど無謀だった。それはライザも十分承知していた。だが、そうとわかっていても、彼女はエヴァを無傷で捕らえたかったのだ。
 前の席に座っているオペレーターが後ろを振り返った。
「ターゲットがカメラの撮影可能圏内に入りました」
「すぐさまスクリーンに映像を出しなさい」
 ライザが指示を出すと、前方の巨大スクリーンに白一色の映像が映し出された。スクリーンの故障かと思われたが、すぐに白はその大きさを縮め、闇に浮かぶ光球を映し出した。エヴァの身体は光の膜――球体状のバリアによって優しく包まれていた。
 オペレーターが激しく振り切られたメーターの針を見て叫んだ。
「測定不能のエネルギー反応を検出!」
 魔導師でもあるライザは背中に冷たいものを感じた。本能がなにかを恐れている。そして、彼女は発狂するように声をあげた。
「最大出力で防御フィールドを張りなさい!」
 スクリーンを見ていたライザは眼を見開いて言葉を詰まらせる。
 皇帝ルオは不気味に笑う。
「来るよ」
 ルオは畏れてなどいない。彼は心から楽しんでいた。危機的な状況の中に彼は至福を感じるのだ。
 夜空に浮かぶ光の玉は膨張し、縮んだ。
 エネルギーの集束。
 そして、放出。
 巨大なエネルギー光線がエヴァから放たれた。
 轟々と唸る光線は大気を燃やし、よりいっそう輝きを増して〈キュプロクス〉の真横を掠め、全長三五〇メートルを越す巨艦を激しく揺らした。そう、巨大な光の光線は〈キュプロクス〉を外れたのだ。
 だが、それだけでは終わらなかった。
 巨大な光線は輝きを増しながら〈キュプロクス〉の横を抜け、地上に向かって降り注ぐ。その先には巨大都市クーロンがあった。今、巨大な光は巨大都市を呑み込もうとしていたのだ。
 街に住む人々は、誰もが空を見上げ慌てふためいた。――巨大隕石が振って来る。そうとしか思えない巨大な光だった。

 空飛び乗り物を求めるアレンはリリスとともに、坑道入り口がある空き地の近くに来ていた。
「本当に空飛び乗り物なんてあんのかよ?」
「わしを信じておらぬのか?」
「ぜんぜん信じられないね。あんたって得体が知れないし、目的がハッキリしねえんだよ」
「得体が知れないのはお主とて同じことじゃ。お主はなぜ行くのじゃ?」
 どうしてアレンはエヴァのもとに行こうとしているのか?
「そんなの俺の勝手だろ」
「じゃったら、わしもわしの勝手じゃ。あの子の封印を解いたのも、お主に力を貸すのも、わしの勝手じゃ」
 舗装されていない乾いた道を進み、空き地の入り口までやって来たアレンは、顔を少し出して空き地のようすを窺った。
 地下遺跡でエヴァが見つかってもなお、坑道の入り口は帝國の兵士によって守られていた。だが、前よりは数がぐんと少なくなっている。これなら大暴れはしなくて済みそうだ。
 〈グングニール〉を構えたアレンが、リリスをこの場に残して空き地の中に飛び込んだ。
 アレンに気づいた兵士が小型マシンバルカンをいち早く撃った。
 夜の静寂に銃声の華々しい音が乱れる。
 兵士の誰かが大声をあげた。
「指名手配リストに載っている〝少年〟だ!」
 すでにアレンは帝國の指名手配リストに名を連ねていたのだ。しかも、この〝少年〟を生け捕りをした者には、七〇万イェンもの賞金が懸けられていた。三万イェンあれば、困ることなく一年間暮らせる額だということから、七〇万イェンがいかに高額かということがわかるだろう。そして、この賞金を懸けたのはもちろんライザだ。
 ちなみにトッシュに懸けられている懸賞金は、生け捕りならば一〇〇万イェン。死亡した場合は半額の五〇万イェンである。
 兵士たちはチャンスを逃さまいと必死になっていた。
 目の前にいる〝少年〟を生け捕りにしなけらばならない。だが、無傷というのは条件に含まれていない。兵士たちは銃で〝少年〟の足元を狙った。
 アレンは地面の上で躍らせれた。
「糞野郎どもが!」
 〈グングニール〉が吼える寸前だった。老婆リリスが風のように地面を滑り移動し、戦渦の真っ只中に立った。
「お眠り、童子たち」
 温かい風が吹き荒れた。
 その風は春の薫りを運び、花の蜜のような甘い香りで場を満たした。
 甘い香りは夢への誘い。
 小型マシンバルカンの音が静かな小雨になり、やがて止んだ。
 バタンと一人目の兵士が倒れたのを皮切りに、二人、三人――と兵士が次々と深い眠りに堕ちていく。
 その中でアレンもまた、目を両手で力いっぱい擦っていたが、プツンと糸が切れて背中から地面に倒れた。
 いびきをかいて大の字になって眠るアレンの頬にリリスが平手打ちをした。
「お主まで眠ってどうするのじゃ!」
 それは仕方あるまい。リリスの魔導によって眠りに堕ちたものは、ちょっとやそっとでは目を覚まさない。もしかしたら一生目を覚まさないこともある。それはリリス次第なのだ。
 リリスによって眠りから覚まされたアレンは、眠気眼の夢心地で魂が抜けてしまっているようだった。夢の世界はそれほどまでに魅惑的だったのである。
「もう肉喰えねえ……腹いっぱい……」
 どんな夢を見ていたのかは想像ができた。
「しっかりするのじゃ!」
 呆れたリリスは、もう一度強くアレンの頬を打った。
「痛ぇっ!? なにすんだよ!」
「あの程度の魔導に魅了どうするのじゃ」
「あんたが悪いんだろ、無差別に眠らせるんじゃねえよ!」
「五月蝿い小僧じゃ。ささ、先を急ぐぞよ」
「自分勝手な女」
「お主も自分勝手な――」
 ――女。と言おうとしたときだった。輝きはリリスの口をつぐませた。
 空の上でなにかが一際輝いている。
 アレンは見た。流れ星が堕ちてくる。いや、違う。エネルギーの塊が飛来してくる。
 強風が吹き荒れ、物が上空へ吸い込まれるようにして舞い上がる。
 人の身体が持ち上げられ、看板が上空を飛び、外に干してあった洗濯物は一つ残らず空に吸い込まれた。
 光が世界を包み込む。
 目は開けられるはずがない。目を開いてしまったら、その眼は一生使い物にならなくなってしまう。
 アレンは反射的に眼を閉じて、地面に這いつくばった。
 その中でただひとりリリスだけが全てを見定めた。
 クーロンに飛来してくるエネルギーの塊は、流れ星のように長い尾を夜空に描き、大気を燃やし輝きを増した。
 その輝きは〝失われし科学技術〟の最悪の恐怖――魔導砲の光に似ていた。
 古の戦いで使用された魔導砲の光は世界の大半を焼き、今もなお世界にその爪痕を残す。クーロン一帯に広がる砂漠地帯も、その戦いの名残だった。
「外れたようじゃな。じゃが、砂の雨が降るぞよ」
 リリスが呟いた次の瞬間、巨大なエネルギーの塊がもっともクーロン上空に近づいた。
 そして、尾を引く輝きはクーロンの遥か先の砂漠地帯に激突し、世界を昼に変えて巨大な茸雲に姿を変えるとともに、世界に砂の雨を降らせた。
 空から降り注ぐ砂は真っ黒に焦げており、クーロンの街はたちまち黒一色になってしまった。
 砂を払いながら立ち上がったアレンは、すぐさまリリスの首元に掴みかかった。
「あんた、なんであんなもんの封印を解いたんだよ! 今のとんでもねえ攻撃はあいつの仕業だろ!」
「心を持つ者には、自由に生きる権利があるじゃろう?」
「はぁ?」
「例えヒトの創り出した生命であろうと、自由に生きる権利はあるじゃろう?」
「はぁ?」
「強い者が生き残る。それが自然の摂理じゃろう?」
「意味不明」
 自分の首元を掴んでいるアレンの手をそっと外したリリスは、それ以上はなにも言わず歩き出した。
「おい、待てよ!」
 リリスは返事を返さなかった。
 小声でぶつくさ言いながら、アレンは仕方なくリリスについて坑道の中に入った。
 オレンジ色のライトは、そのほとんどが壊れており、坑道の中はほとんど闇に近かった。
 リリスの足音を追うようにアレンは歩き、やがて前方に白い輝きが見えてきた。その輝きは白銀の部屋から発せられているものだった。そう、リリスがアレンを連れてきた場所は、エヴァが封印されていたあの部屋だったのだ。
 部屋の中心にはエヴァが眠っていた円柱状のケースがだけがあった。
「マジでここに空飛ぶ乗り物があんのかよ?」
 アレンは半信半疑だった。
 艶やかにリリスは微笑んだ。
「この部屋ではない。この先の部屋じゃ」
 この先の部屋?
 扉は今アレンたちが入って来た扉しか見当たらない。それに部屋には切れ目すら入っていないのだ。そのどこに扉など隠されていようか。だが、部屋の中心にあるケースも最初は床の下に隠されていたのだ。
 なにも見当たらない壁にリリスの手が触れると、切れ目一つ入っていなかった壁に線が入り、扉のように左右に開けた。その先には別の部屋があるようだ。
 別の部屋に移動するリリスに続いてアレンもその部屋に入った。が、ここもなにもない白銀の箱だった。きっと、この部屋に物も全て収納されてしまっているのだろう。
 リリスはまた壁に触れ、別の部屋への入り口を開いた。次の部屋にもなにもない。これと同じことを三回繰り返し、ようやくリリスの足が止まった。
「ここじゃ」
 やはり、この部屋にもなにもない。だが、もうアレンはなにも言わなかった。
 しゃがみ込んだリリスが床を叩いて小声でなにかを呟くと、床に切れ目が走り、床の下からなにかがせり上がってきた。
 それはスクーターに似ていた。しかし、タイヤがない。車体の下部は平らにできていた。 
 タイヤのないスクーターを見て、アレンはすぐに理解した。
「空飛ぶから、タイヤはいらないのか」
「そうじゃ。わかったら、さっさと乗るのじゃ」
「マジで飛ぶのかよ?」
「さあて?」
「なんだよ、その返事は?」
「わしがこのエアバイクに最後に乗ったのは……?」
 途方もないくらい前だったことは確かだ。
 ちょっと嫌な顔しながらも、アレンはリリスに促されてスクーターに乗った。しかし、エンジンの掛け方がわからない。そもそもエンジンというものがあるのかも怪しい。
「エンジンはどうやって掛けんだよ?」
「わしの声に反応する」
 そう言ってから、リリスはエアバイクに向かって小声で囁きかけた。すると、エアバイクがアレンを乗せたまま少し浮いた。
 音もなく浮いたエアバイクを見て満足そうにリリスは頷き、言葉を続けた。
「バイクの乗り方はわかるじゃろ?」
「前に一回だけ乗ったことある」
「それなら心配ないの……?」
 宙に浮いていたエアバイクが力なく床に落ちていく。
「なんだよ、飛ばねえじゃねえか!」
「可笑しいの……やはり、整備もせんと放っておいたのが悪かったようじゃ」
 ガン!
 リリスの足がエアバイクの尻を蹴った。すると、エアバイクが再び宙に浮きはじめてでないか!?
「直ったようじゃ、早う行け」
「空から俺が落ちたらあんたのせいだかんな」
 エアバイクが強い風を巻き起こした。
 アレンが頭に乗せていたゴーグルを目に装着する。
「そんじゃ、行ってくるわ」
 エアバイクが床の上を滑るように走り去り、リリスは子供の背中を見守るような母の眼差しでアレンを見送った。

 アレンを乗せたエアバイクは狭い坑道の中を走り、まだ運転に慣れてないアレンは壁にぶつかりそうになりながらも、そのスピードを緩めることなく、絶叫マシンにでも乗るようにアレンは無邪気に笑っていた。
「ヤッホー! こりゃすげえ」
 坑道の出口が見えてきた。
 爆風とともに出口を抜けたアレンは、ハンドルを上に引くようにして、車体の前方を上に傾けた。すると、エアバイクは上に向かって進路を変える。
 夜空を我が物のように飛ぶアレンは、全身に風を感じながら光に向かって突き進んだ。目指すは星よりも、月夜よりも、燦然と輝くひとりの〝少女〟。
 風と一体になったアレンの目に、巨大な黒い影が飛び込んできた。
 空に浮かぶ巨大な鉄の塊――超巨大飛空挺〈キュプロクス〉だ。
 巨大な〈キュプロクス〉の船首にある巨大な眼のような穴――魔導砲の遥か先にエヴァはいた。
 アレンは〈キュクロプス〉の横を飛び抜け、夜空を翔けて光り輝くエヴァのもとへ向かった。
 空の上は風が強く、エアバイクに乗ったアレンは風に煽られ遊ばれる。だが、風はただ強く吹いているだけではなかった。風が魔導を孕んでいる。
 煌く光の粒子がエヴァを包み込むように集まっている。
 〈キュプロクス〉艦内にいたライザは再び背中に冷たいものを感じた。
 オペレーターが激しく振り切られたメーターの針を見て、また叫んだ。
「測定不能のエネルギー反応を検出!」
 脚を組んでゆったりと座っていたルオが立ち上がった。
「次はないね。さっきと同じのを喰らったら、この飛空挺もただでは済まない。いいねライザ?」
「わかりました」
 皇帝の言葉に〝ライオンヘア〟が深く項垂れた。
 ライザはエヴァの捕獲を諦めたのだ。
「魔導砲の準備をしたまえ!」
 声高らかにルオが命じた。
 〈キュプロクス〉の船尾にエネルギーが集中する。
 ちょうどそのとき〈キュプロクス〉の船尾近くを飛行していたアレンは見た。
 巨大な眼に蒼白い光が灯った。
 エネルギーを充填する魔導砲は轟々と地獄の風を鳴らし、深い穴の中から妖しい輝きを放つ。
 すぐにアレンは魔導砲が放たれることを悟った。もちろん、魔導砲の標的は夜空に浮かぶあどけない〝少女〟。大地を炎の海に変える魔導砲が、ただひとつの存在のために使われようとしているのだ。
 エヴァの輝きが増し、魔導砲が迎え撃つ。
 魔導を孕んだ空気の対流が乱気流を起し、アレンはエアバイクから振り落とされそうになり、被っていた帽子が空に舞うが、そんなことにかまっていられなかった。
「糞っ、操縦が利かねえ!」
 アレンを乗せたエアバイクは、どんどんエヴァから離されていく。
 轟々と叫ぶ風がアレンの耳元で鳴り響く中、夜空に二つの光線が奔った。
 光の世界で風が荒れ狂い、アレンを乗せたエアバイクが、まるで強風に煽られる木の葉のように回転しながら落下していく。
 光と光が空で交差したとき、激しい輝きとともに、煌く粒子が雨のように地面に降り注いだ。
 大爆発を起した光の渦から、一筋の光線が抜けた。
 ゴォォォォォォッ!!
 巨大な鉄の塊が傾いた。
 世界を恐怖のどん底に落とす力を持つ魔導砲が負けたのだ。
 大爆発とともに煙を上げる〈キュプロクス〉が、ゆっくりとしたスピードで地面に落ちていく。
 落ちていくのは巨大な鉄の塊だけではなかった。
 紅白の翼が色褪せ、煌きが失われていく。
 夜空で星よりも一際輝いていた〝少女〟が地に堕ちる。
 〝少女〟の夢は醒めることなく、そのまま地の底へ深い眠りに堕ちようとしていた。
 ――どこかで歯車の鳴る音が聴こえた。
 大きく広げらた腕。それは決して大きくはないけれど、〝少女〟は〝少年〟の胸の中に包まれた。
 〝少年〟を乗せていた乗り物は地に向かって落ちてしまった。けれど、〝少年〟は夜空の上に浮かび、月光を浴びながら〝少女〟と抱き合っていた。
 ――二つの歯車が鳴る。
 光の宿る瞳で〝少女〟は〝少年〟を見つめた。
「私と同じひと」
 〝少年〟は頷く。
「俺たちは〝ひと〟だ」
「……嬉しい」
 〝少女〟は顔を赤らめ微笑んだ。
 紅白の翼に煌きが還る。
 封印が解かれたときは、まだ覚醒めてはいなかった。
 けれど、今――。
 〝少女〟の柔らかな蕾が〝少年〟の口に触れ、巨大な翼が〝少年〟の身体を優しく包み込んだ。
 繭に包まれた〝少女〟は、美しい〝大人〟へ。
 堕ちる堕ちる堕ちる。
 夜空からふたりはどこまでも堕ちていた。
 このとき、地中に眠る蜃は夢を見た。
 〝少女〟が大切にしまっていた宝石箱の蓋が開けられる。それは夢や憧れが叶うとき。
 宝石箱から飛び出した煌きたちが、美しいメロディーとともにダンスを踊りながら想いを乗せて、巡り巡りて世界を呼び覚ます。
 夜空には雲ひとつなく、星が歌い、月は燦然と輝き世界を照らし、オアシスの湖が水面を揺らす。世界は変わろうとしていた。
 湖の底から泡が溢れ出てきて、それは七色に輝くシャボン玉のように、いくつもいくつも天に昇っていく。
 シャボン玉が静かに弾けると、その中からオーロラ色に輝く蝶が生まれ、美しい蝶たちは可憐に宙を舞い、シャボン玉から孵った蝶は世界の成長を暗示していた。
 湖の表面が金色に輝き、荘厳たる輝きとともに崇高さを兼ね備えた白い繭が水底から浮上してきた。
 蘇る想い、目覚める想い、大切な想い。
 繭に小さな皹が幾つも入り、それはやがて大きな皹となり、白い繭から眩い光が漏れ出す。
 清らかなる魂を守っていた繭が硝子のように砕け飛び、中から美しい一糸も纏わぬ〝大人〟が生まれ出た。
 ――突然、世界は弾け飛んだ!
 〈蜃の夢〉が無理やり壊されたのだ。
 アレンはいつの間にか、砂の上に膝をついていた。エヴァに包まれたアレンは、無事に地面に降りることができたのだ。しかし、エヴァはどこに?
 エヴァは〝少女〟のままで砂の上に横たわっていた。
 風が吹き、老婆リリスが姿を現した。
「エネルギーを全て使い切ってしまったようじゃな」
 哀愁に満ちた瞳でリリスは横たわる〝少女〟を見た。すでに〝少女〟から輝きは失われている。そして、紅い翼も色褪せ、白く変わっていた。〝少女〟の翼は煌きを失っても、白く美しく輝いていたのだ。
 歯車が激しく音を立てる。
 アレンは切れんばかりの胸を掴み、歯を食いしばった。
 創られた存在に魂はあったのか?
 頬から零れ落ちた雫が、枯れた砂の大地を潤し、アレンの顔は砂の中に埋もれた。
 〝少女〟は永遠に〝少女〟のままに――。

 第1章 完
 そして、第2章へ つづく



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