Scene3 姉
 自分の感情が抑えられない。
 今まで感じたことのない感情の激しさ。
 戒十は自分が自分でないような気がした。
 これがキャットピープルの血なのか?
 自分がどうなってしまうのか、戒十は底知れぬ恐ろしさを感じていた。
 もう人間ではない。
 肉体面では感じていたが、今になって精神面でそれを感じることになった。
 そう、もう自分は人間ではないのだ。
 この感情が続けば、もしかして……誰かを傷つけてしまうかもしれない。
 朱色の夕焼けが沈もうとしている。
 揺れる黒い影。
 苦しそうに胸を鷲づかみする戒十の前に現れた人影。
「苦しそうね」
 そうあざ笑うかのように言い、カオルコは戒十に手を差し伸べた。
 野獣のような鋭い眼光で戒十は睨んだ。
「僕になんの用だ?」
「私たちの仲間になりなさい」
「またか……断れば、また僕を殺そうとするのか?」
「あれは冗談よ、殺す気なんかないわ」
「ならどうする?」
「無理にでも生け捕りにするだけよ」
 その言葉を聞いて、なぜか戒十は伏目がちになった。
 戒十の躰は震えていた。
 恐怖か……それとも?
「無理にでも……か。今の僕は少し感情のブレーキが効かない……誰にも負ける気がしない」
 上げられた戒十の顔は嗤っていた。
 ――狂気。
 カオルコも同じ感情を胸で躍らせながら、やはり嗤った。
 暴力の臭いがした。
 それがはじまる寸前、カオルコの狂気が抜けるように消えた。
 気配――この路に何者かの気配がした。
「人間に見られるのは不味いわね。また会いましょう、三倉戒十クン」
 カオルコは風のように去ってしまった。
 すぐに追おうとした戒十の肩が後ろから掴まれる。掴んだのはシンだった。
「追わなくていい、感情を沈めろ」
「うるさい」
 戒十はシンの腕を振り払おうとした。だが、シンの指は強く肩を握り放さない。
「俺たちは闇に生きている。だが、闇に呑まれてはならない。そのまま感情の思うが侭に行動すれば、おまえはすぐに理性を失い人を殺すぞ?」
 自分が誰かを殺す。
 虫や動物の命を奪うのではなく、人間の命を奪う。
 戒十はハッと息を呑んだ。
 〝成れの果て〟と呼ばれるモノ。
 自分もアレになるのかと思ったとき、戒十の感情から熱が奪われた。
「僕はケモノじゃない」
 暗示のように呟いた。
 シンはカオルコが消えた方向を眺めている。
「同属らしいが……見たことがない顔だ。実力はリサと同格かそれ以上、絶対に1人で闘おうと思うなよ」
 冷静になった今、その言葉は言われなくとも理解できる。逃げることすら出来ないのではないか、そうとすら感じてしまう。
 感情はすでに静まっている。だが、まだ戒十の躰は燃えるように熱かった。
「どうする?」
 と、シンは尋ねた。
 戒十はしばらく考え、静かに答える。
「独りになりたい」
 また襲われるかもしれない。それに戒十は心身ともに不安定で、独りにすることは望ましくないように思えた。
 だが、シンはそれを認めた。
「わかった、マンションまで送ろう」
 こうして戒十は自宅に送り届けられた。

 リサは明日の早朝に引っ越すと言っていたが、まだ戒十は決めかねていた。
 ベッドで横になりながら、天井を仰ぎ見る戒十。
 荷造りはまったくしてない。それどころか、何を持っていくのか、それすら決めていなかった。
 それよりも頭を過ぎるのはカオルコという女のこと。
 そして、自分の運命。
 退屈だと思っていた生活が一変した。
 はじめは人間以上の力を手に入れ心が躍った。くだらない周りの人間とは、違う存在になったのだと感じだ。
 しかし、徐々に感じる底知れぬ恐怖。
 キャットピープルが持つ闇。
 それだけならば、いつかは克服できたかもしれない。
 今、抱えている問題はこれだけじゃない。
 謎の女カオルコ。
 〝姫〟と呼ばれる存在のことは、まだよくわからないが、その〝姫〟の力を受け継いでしまったせいで、狙われることになってしまったらしい。
 戒十はあの晩のことを思い出す。
 すべてがはじまった夜のこと。戒十がキャットピープルになったあの夜のこと。
 あれは本当に〝黒猫〟だったのか?
 〝姫〟と呼ばれる存在と、戒十が襲われた〝黒猫〟と思われるモノ。
 果たしてあれは本当に〝黒猫〟だったのか?
 今になってみれば、記憶が断片的で、夢の出来事だったように、よく思い出すことができない。
 〝姫〟とはいったい何なのか?
 リサは言っていた。
 キャットピープルの中でも絶大な力を持っている存在なのだと。
 まだまだキャットピープルの世界は知らないことが多い。
 身体も精神も、知識すら付いていけない。そんな状態で今の生活を捨てられるのか?
 戒十はうつぶせになって、枕に顔を鎮めた。
 時間は待ってはくれない。
 すでに日中の生活に支障が出てきた以上、後戻りなどできないのだ。今の生活を維持することなどできないのだ。戒十は先に進むほか選択肢がなかった。
 再び戒十は天井を仰ぎ見た。
 家を出た後、しばらくの間はリサの家で厄介にならなくてはいけないらしい。他に行く宛がないのだから、仕方がないとあきらめるしかないのだろう。
 その生活に必要な物は何か?
 荷造りをするほど荷物はないだろう。
 しばらくの間は今の家とリサの家を行き来して、その都度に必要な荷物を運べばいいかもしれない。けれど、決心を付けるという意味では、もうここには戻らないほうがいいのかもしれない。
 ――後戻りはできないのだから。
 まだ荷造りをする気にはなれなかった。
 後戻りができないのはわかっている。今の生活に未練があるわけでもない。ただ、先に進むことが怖いのだ。
 まるで真っ暗な闇に足を踏み入れるように、今後自分が送る人生の想像がつかない。
 キャットピープルになってしまったのだって、突拍子もないことだ。そんな人生を送るだなんて、なる前は1度だって考えるはずがない。
 そのことすら想像も及んでいなかったのに、今度はそのことでカオルコに狙われるハメになった。この先、まだまだ想像もしなかったことが起こるに違いない。
 もう戒十は人間の道を外れてしまったのだ。
「……どちらが良かったのかな?」
 人間のまま人生を終えたほうがよかったのか、それともキャットピープルとして生きることがいいのか?
 くだらないと思っていたあの生活。未来になれば変わっていたかもしれない。
 問題に巻き込まれてしまっている今。未来はどうなるのか?
 戒十は跳ねるようにベッドから起きた。
「夕飯でも食べるかな」
 今日も家には誰もいない。
 キッチンに向かう途中で、部屋の明かりが急に消えた。
 明かりがなくても目は昼間のように見える。
「……停電?」
 この部屋だけブレーカーを落ちていると考えづらい。電力を食うことなどしていない。
 マンション全体か、地域で起きているのか、雷などの自然災害もないのに、なぜ?
 戒十はベランダに出て町の様子を伺った。
 町は明るかった。
 電気が落ちているのはこのマンションだけらしい。
「ついてないな」
 食事の準備をやめて、戒十はベランダから飛び降りた。
 人間なら死ぬ可能性がある高さだが、戒十は難なく地面に着地した。
 夜空に浮かぶ星が綺麗だ。
 散歩でもしようと戒十は歩き出した。
 キャットピープルになってから、無駄に夜の散歩が増えた。
 梅雨時の今、夜もじめじめした風が吹くことが多い。それに比べて、今日は心地よい夜風が肌をくすぐる。
 戒十は人気のない場所を選んで歩く。
 まだまだ夜と呼ぶには賑やかな時間だ。少し路を外れれば繁華街に出て、その賑やかさは騒がしさに変わる。だが、また路を少し外れれば人気のない路に出る。
 公園と予備には遊具がない、空き地のような場所。
 昼間は子供たちの遊び場になっているが、夜は該当もなく人影も無い。
 戒十はベンチに座って空を眺めた。
 静かな夜だった。
 しかし、それを壊す気配。
 目の前に来るまでわからなかった。
 再び戒十の前に現れたのはカオルコ。
 戒十はうんざりそうに息を吐いた。
「またか……」
「目的を達成するまでは何度でも姿を見せるわ」
「僕を仲間にしてどうする?」
「クイーンの力を持つ貴方は磨けば光るわ。戦力としての魅力かしらね」
「戦力なんて集めて誰と戦おうとしてるんだ?」
「私たちに抗う者すべてかしら」
 カオルコの背後に垣間見える組織の影。
 質問をしても、核心の外れた答えしか返ってこない。
 カオルコたちはいったい何を企んでいるのか?
 それを知るには仲間になる他ないのか?
 戒十は嗤った。
「もし、僕が君たちに仲間になったら、何を得ることができる?」
「人間を支配する地位」
「悪くない条件だね」
 本気で戒十はそう思った。
 しかし、それは実現可能なのか?
 人間を支配する――すなわちカオルコたちが戦う相手は、人間なのだ。
 キャットピープルは生物的に人間より優れているかもしれない。けれど、数の上では圧倒的に不利なのだろう。もし、キャットピープルという種族が、人間ほどの人口を持っていれば、すでに世界を支配、もしくは共存しているはずだ。
 本気でカオルコは人間を支配できると思っているのか?
 だとすれば、なにか〝手立て〟を持っているか、もしくは手に入れようとしているのか?
 戦力は1人でも多いほうがいいが、なぜ戒十を勧誘するのか?
 例え秘めたる力を持っていても、1人くらい増えたくらいで、なにが変わる?
 仲間を増やすのならば、何度も説得して仲間になる相手より、思想の同じ者を仲間にしたほうがデメリットもないし、手駒としても扱いやすいはずだ。
 カオルコが戒十の前に現れたのはこれで3度目。
 なぜ、そこまでして戒十を必要としているのかという問いは、考え過ぎなのだろうか?
 そして、戒十は言った。
「仲間になってもいいよ」
 その言葉は夜風に乗り、この場に身を潜めていたシンの耳にも届いた。
「本当にいいのか、戒十?」
 戒十たちの前に姿を現すシン。彼はずっと戒十を見張っていたのだ。でなければ簡単に独りにするはずがなかった。
 そしてもう1人、小柄な少女が姿を見せた。
「マジでカイトが決めたならしょーがないケド、ウチら敵同士になるかもよぉ?」
 リサは戒十に告げ、さらにカオルコに向かって言う。
「久しぶり、カオルコ」
 その言葉にカオルコは微笑んだ。
「久しぶりね、お姉さま」
 シンと戒十は注意を払って眼を光らせた。
 明らかに面識がある二人の関係。
 カオルコはリサと距離を縮めたが、まだ手を伸ばして届かない距離に立っている。
「お姉さまったら、だいぶ変わってしまったわね……見た目が」
「今風な感じでイイでしょ? カオルコは変わらないんだね、髪形」
「あれから何年経ったかしら、覚えてるお姉さま?」
「さぁ、100年はまだ経ってないけど、一目見てカオルコだってわかったよ」
「私もよ、貴女のことを忘れるハズがないもの」
「アタシも忘れるハズない。だって長い人生の中でも、最上級の汚点だから……」
 苦笑いするリサに対して、カオルコは妖しく笑っていた。
 知り合いと呼ぶにはふさわしくなく、二人の関係はもっと深いように思われる。
 リサは再び戒十に顔を向け、軽い口調で話し始めた。
「でさ、カイトはアタシとカオルコ、どっちと仲良くしたわけー?」
 黙る戒十にリサは畳み掛ける。
「言っとくけど、アタシとシンは人間と争う気ゼロだから、いつかはカオルコの敵になるよ、でしょカオルコ?」
「そうね、人間との全面戦争の前に、キャットピープルを手中に収める必要があるわ。すなわち、従わないキャットピープルは力ずくってことになるかしら」
 両方と仲良くすることは困難らしい。
 戒十の考えでは、リサについて行ってもいつかは、カオルコの組織に潰されるように感じた。ならば付くならカオルコ側か?
 ゆっくりと歩き出した戒十はリサの横で止まった。
「まだ反抗期が治らなくてね。大きな権力に反発したくなるんだ」
 戒十が選んだのはリサだった。
 リサは戒十の顔を見て嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱりアタシに惚れてるから?」
 冗談交じりの言葉に、戒十はきっぱり否定した。
「違う、あの女の性格が悪そうだから。あいつの下で使われるなんてごめんだね」
「にゃはは、正解。カオルコってば昔から性悪女だから」
 リサに言われたカオルコは少しムッとした。
「言ってくれるわ。お姉さまのほうが性質の悪い性格でなくて?」
「アタシのどこが性格悪いっていうの?」
「ご自分で気づかないあたりかしらね」
 いつの間にかリサとカオルコは向かい合い、二人だけの世界を作っていた。
 言われずとも手出しは無用。シンは殺気を放ちながらも武器から手を離し、戒十もただ二人を見守った。
 リサが地面を強く蹴り上げた。
「カイトが欲しいならアタシを倒してからね!」
「望むところよ、お姉さま!」
 二人の闘いが幕を開けた。


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