Scene4 夜の王
 それが頼みの綱であることはリサも予想していた。
 リサのケータイに通話してきたのはカオルコだった。これで2度目だ。
 今度はリサに1人で来いと命じられたが、人質を取られているわけでもないゆえ、その義理はない。
 急なカオルコの連絡のせいで、あの質問にリサが答えはまだなかった。
 リサはいったい何者なのか?
 その質問に答えにぬまま、戒十を残し、リサはシンと共に部屋をあとにした。
 残された戒十は歯がゆかった。自分もカオルコを捕らえに行きたい。だが、陽の下を歩けない自分は足手まといになる。
 今、できること。
 戒十は純が休む部屋のドアを開けた。
 上体を起こした純と目が合い、視線を逸らした戒十はドアを閉めようとした。
「あ、休んでいていいよ」
「待って三倉くん、なにか用があったんじゃないの?」
「う、うん」
 本当は特になにかあったわけじゃなかった。
 ただ、純の傍にいて、守りたい。
 戒十はベッドの脇に置いてある椅子に腰掛けた。
 互いに少し恥ずかしそうな様子で視線をうまく合わせられない。
 無言のまま時間が過ぎ去り、しばらくして話を切り出したのは純だった。
「あの雨の日のこと覚えてる? 三倉くんが学校からいなくなった日のこと」
「うん」
「わたしね、あのとき気が動転しちゃって、三倉くんに嫌われたんだと思っちゃって、すごく悲しかった」
「それは……違うよ」
 あのときは血が抑えれず、今にも純を傷つけてしまいそうだった。だから、無理にでも純を拒絶した。
 純は優しく微笑んだ。
「うん、わかってる。今はわかってるから平気だよ」
 会話はここで途切れてしまった。
 またしばらく時間が過ぎた。
 再び純が口を開く。
「三倉くんは転校したって聞かされたんだけど、わたしは信じられなかった。なのに、学校は三倉くんがいなくなっても、なにも変わらなくて……それが、悲しかった」
 自分がひとりいなくなったくらいではなにも変わらない。戒十もそう思っていた。本当にだったらしい。
 でも、純は違った。
 純は戒十がいなくなった生活を悲しんだ。
「わたしね、ずっと三倉くんのこと見てたんだ。三倉くんは覚えてないと思うけど、幼稚園のときも、小学生のとき、ずっと三倉くんのこと見てた」
 戒十は少し驚いた顔をした。
 純と同じ学校になったのは高校からだと思っていた。
「僕と同じ幼稚園と小学校だったの?」
「あは、やっぱり気づいてなかったんだ。幼稚園のときは一緒に遊んでいたこともあったんだよ。それからわたしは小学3年生のとき引っ越しちゃって、高校でまた逢えたんだ」
 嬉しそうに純はハニカミながら語った。
 ずっと視線を感じていた。戒十は高校に入学してすぐ、その視線に気づいていた。最初は誰に見られているのかわからなかったが、それが純だと気づくのに時間はかからなかった。
 なぜ自分を見ているのか?
 少し変な人だとは思ったが、それ以上の疑問を抱かず、会話をする機会があっても、そのことについて聞くこともしなかった。
 なぜ自分を見つめていたのか?
 もう戒十も気づいている。
 だからとても恥ずかしくて、だから目を合わせられなくなってしまって……。
 戒十はベッドの脇に置いてある時計に目をやった。
「そろそろ注射を打たなきゃ」
「大丈夫、自分で打てるから」
 注射の打ち方はリサに教えてもらって、戒十も純もいちよう扱えるようになった。
 1時間ごとにワクチンを打つ。
 もっと時間を置くことができないかと戒十が尋ねたが、リサもシンも無理だと返答した。
 このワクチンはあくまで進行を遅らせるもの。しかも、副作用や摂取量の制限から、一度に多くの量を注射することもできない。
 この注射を繰り返す作業は苦痛だ。寝ることすら許されないのだから。
 純は穏やかな表情をしているが、その目の下は黒くくすんでいる。疲労はこれからどんどん濃くなっていく。
 戒十のケータイが鳴った。三野瀬からだった。
《三野瀬だ》
「はい、なにか用?」
《睡眠導入剤を渡すのを忘れた》
「睡眠導入剤?」
《患者が寝ている間にワクチンを打て》
 すぐに戒十は意味を理解した。
 1時間ごとに注射を打っていては眠ることもできない。無理やり深い眠りに落としたところで、第三者が純に注射を打てということなのだろう。自然な眠りでは、注射を打っている最中に起きてしまう可能性もあるからだ。
 戒十はケータイを口から離し、小さな声で愚痴った。
「……藪医者」
《聴こえているぞ?》
 それを承知で戒十も言っている。
「早く来いよ」
《もう向かっている》
「わかった」
《では、用件はそれだけだ》
 通話が切られた。
 戒十は少し優しい顔をして純を見た。
「もうすぐまたあの医者が来るから、そうしたらゆっくり寝れるようになるから、もう少し我慢してね」
 純はニッコリ笑ってうなずいた。
 それから数分して、チャイムが鳴った。すぐに戒十は玄関まで駆け、なんの躊躇もなくドアを開けた。これでやっと純を休ませてあげられる。
 だが、そこに立っていたのは仮面の女――カオルコだった。
 抵抗する間もなく、戒十は押し倒され、その上にカオルコが馬乗りになった。
「探したわよ」
 長く鋭い爪が戒十の首をなぞる。動けばすぐに殺される。
 戒十は冷静さを欠きながら叫ぶ。
「どうしてお前がここに!」
「うふふ、お姉さまのケータイからこの場所を割り出したのよ」
「だって、お前はリサを呼び出したハズじゃ?」
「きゃははははっ、罠に決まっているでしょう。お姉さまとの決着は必ずつけるわ。でも、その前に貴方を捕まえろって、老いぼれ爺が五月蝿くて」
 騒ぎを聞きつけて、純が部屋から出てきた。
 すぐに戒十が叫ぶ。
「逃げろ純!」
 純は眼を大きく開けてその場に立ち尽くしてしまった。
 カオルコの鋭い眼が純を見据える。
「今日はあの娘には興味ないから平気よ、目的は貴方だけ」
 カオルコは隠し持っていた注射器を戒十の腰辺りに刺した。
「何をした!?」
 戒十はカオルコから逃れようと抵抗したが、もう力が入らなくなっていた。遠のいていく意識。
「おやすみなさい」
 嗤うカオルコの顔を最後に、戒十の全身から力が抜け、完全に意識が落ちてしまった。
 カオルコは戒十を担ぎ、床にへたり込んでいる純に眼をやった。
「そうだわ、貴女にはメッセンジャーになってもらおうかしら。今見たことをリサお姉さまに伝え、このメモを渡しなさい」
 メモを純に投げつけ、風のようにカオルコは姿を消した。
 純はなにもできなかった。
 ただ、恐ろしい瞳に見つめられ、怯えていただけだった。

 どれくらい意識がなかったのか、それを判別する術はこの部屋にない。
 戒十はコンクリートの壁に囲まれた部屋で目覚めた。
 頑丈な椅子に座らされ、手足は当然のように固定され、1ミリたりとも動かせない。
 叫ぼうと思ったが、それも特に意味がないと感じ、戒十はただひたすら待った。
 しばらくしてカオルコが姿を見せた。
「お目覚めのようね」
「酷く寝覚めが悪いよ」
「悪夢はこれからよ」
「僕になにをするつもりだ?」
「最終的には切り刻んで実験に使わせてもらうわ。けれどその前に、私の遊び道具になってもらうわ」
 邪悪な艶笑を浮かべ、鞭を構えたカオルコ。いつもと違う皮の鞭だ。
 カオルコの鞭が撓った。
 弾ける音が響き、鞭は戒十の服を破り、胸を擦り切った。
 続けて何度も何度も鞭が振られ、戒十の全身を甚振り、血が噴き出るほどの傷を作った。
 戒十は歯を食いしばりカオルコを睨む。それによって、さらに鞭は激しく振られた。
 全身の傷はすぐに瘡蓋になって再生する。
 満足げに嗤うカオルコ。
「きゃはははは、きゃははははは、さすがクイーンの血を引く者。もっと傷つけてあげる」
 傷はすぐに治る。だが、痛みはその都度ある。
 決して死ぬことのない拷問。
 今までになく激しく鞭が叩かれた。
 戒十の肉が抉れた。それもすぐに再生する。だが、それに伴う耐え難い苦痛。
 壊れた鞭をカオルコは投げ捨てた。
「まだまだよ! まだまだ怨みは晴れないわ!」
「恨み?」
「アナタに対する怨み」
 突然、カオルコは服を脱ぎだし、ショーツ1枚になった。
 カオルコの腹には大きな傷があった。見るに耐えない無残な傷だ。そう、リサに開けられた穴だ。だが、それは少しずつ直りかけている。
 怨みとはこの傷だ。
 カオルコは仮面を投げ捨て、その顔を戒十に顔に近づけた。
「見るのよ、この顔を!」
 おぞましい顔が戒十の眼前にあった。
 抉れ、爛れ、骨が覗き、血管が動いている。醜悪で無残な顔。
 美しい顔半分が、よりその醜さを際立たせている。
「貴方に喰われたこの顔、なぜか治らない。それどころか、少しずつ顔全体を蝕もうとしているわ」
「僕が?」
 記憶になかった。
 〝ケモノ〟と化した戒十。断片的に、夢の出来事のような、曖昧な記憶しか思い出せなかった。
「怪物になった貴方が喰ったのよ、この顔を!」
 カオルコの手が戒十の首を締め上げた。
 声すら出せずに、戒十は眼を白黒させた。
 カオルコは唾を戒十の顔に吐きかけ、その手を首から離した。
 咳き込む戒十を見ながらカオルコは嘲笑った。
「だからこれから時間をかけて甚振ってあげるわ」
「……ゲホッ……うぅ……おまえ……おまえだって僕の腕を奪っただろう、お相子だ!」
 戒十の失われた片腕。それを肩からもぎ取ったのはカオルコだ。
「お相子ですって? 貴方の腕はそのうち再生するわ。お姉さまにやられたこの腹の傷も。けどね、私の顔は治らない。原因不明の病気としか言いようがないわ」
 醜い顔を抑えながらカオルコは狂ったように嗤い出した。
 嗤いながらカオルコは戒十の頬に自分の指を滑らせた。
「そうだわ、この顔の皮を剥ぎましょう。そして、顔の皮がまた再生しはじめたら、また剥ぐ。剥いで剥いで剥いで剥いで、何度も剥いでやるわ。剥いだ皮は貴方から見える場所に積み上げてあげる、きゃははははははっ!」
 狂喜しながら、カオルコは鋭い爪を戒十のこめかみに突き立てた。
 滲み出た血が珠になって頬を伝わり落ちる。
 そのまま爪で顔の皮を剥ぐつもりだった。
「そこまでにしておけ」
 男の嗄れ声がカオルコを止めた。
 部屋に入って来たのは車椅子の老人だった。いや、それを老人と形容していいものなのか?
 何百年を生きればそのような姿になりえるのか?
 何十もの皺を重ねた顔、点滴を受けている腕は枯れ木のようだ。干からびたミイラのようで、誰もが生きていることを疑いたくなる。
 だが、垂れた瞼の奥で光る眼。鋭く、猛々しい獣のように、強い眼をしていた。
 それが何者なのか、すぐ戒十にもわかった。
「〈夜の王〉」
 そう口から漏らしてしまった。
 老人は答える。
「いかにも」
 やはりこいつが〈夜の王〉。殺戮を繰り返して、世界を支配しようとした男。今の老いぼれた姿からはそのことは想像しがたい。その眼を見るまでは――。
 しかし、肉体的には衰えている。この男がどれほどの力を保持しているのか、どれほどまでの権力を持っているのか?
 カオルコは嗤っていた。
「この子をどうしようと私の勝手でしょう?」
「儂が許さん」
「あはは、私に命令する気? 私は貴方の召使でもなんでもないわ、ただ一時的に手を組んでいるに過ぎない。貴方は金と権力で私に協力していればいいのよ!」
 〈夜の王〉が邪悪な笑みを浮かべた。
「いつから貴様は儂と同等になった、否……儂の上を行った?」
「老いぼれが……貴方は確かに人を動かす力は持っているわ。でも、私がいなきゃなにもできないのよ!」
「己惚れるな!」
 その老体のどこにそんな力が残っていたのか。激しい恫喝が飛んだ。
 他の者であったならすくみ上がっていただろう。現に戒十は恐ろしいほどに躰が震えた。
 しかし、今のカオルコは相手を鼻で嘲笑った。
「己惚れているのは貴方のほうでしょう、いつまでも過去の栄光にすがってるんじゃないわよ!」
 ついにカオルコは〈夜の王〉に牙を向けた。
 鋭い爪で襲い掛かってくるカオルコ。
 〈夜の王〉は車椅子に座ったまま動かない。
 鋭い煌きが趨った。
「ギャァァアアグアガガァッ!!」
 声にもならない絶叫をあげたのはカオルコだった。
 床に溢れ出る血の海。
 刃を隠した仕込み杖を持つ〈夜の王〉。一歩もそこを動いていない。ただ、その刃は微かに血で濡れていた。
「糞ォォォォォッッ!!」
 血の海に腹ばいになって倒れているカオルコが叫んだ。
 膝がない。カオルコには腿から下がなかった。両脚とも切断されたのだ。
 車椅子から〈夜の王〉はカオルコを見下した。
「貴様が儂を裏切ることなど百も承知だった」
「どうして、どうして……糞ッ!」
 カオルコは太ももで立ち上がり、体当たりするように〈夜の王〉に飛び掛った。
 艶やかな口から吐き出された血が老人の顔を彩った。
 〈夜の王〉が握る刃はカオルコの心臓を一突きにして、さらに抉るようにそこから斬り刻まれていた。
 口から血の泡を吐きながら、それでもカオルコは〈夜の王〉を殺そうとした。
 長い爪で〈夜の王〉の首を掻っ捌いてくれる!
 しかし、掻っ捌かれたのはカオルコの首だった。
 黄ばんだ牙がカオルコの首に噛み付き、頚動脈からなにから噛み千切った。
 大きく見開かれたカオルコの瞳。
 最期にカオルコの瞳が映したモノは……邪悪な瞳の奥で恐怖に顔を歪める女の顔だった。
 戒十は眼を強く瞑った。
 肉を千切る音、骨を砕く音、そして血を啜る音。
 そして、野獣の咆哮。
 カオルコは死んだ。


シャドービハンド専用掲示板【別窓】
■ サイトトップ > ノベル > シャドービハンド > 第4章 夜の叛逆(4) ▲ページトップ