Scene1 ケモノの血再び
 リサは額の汗を拭うフリをした。
「ふぅ、やっとカイトを見つけられたー」
 コンクリの壁で密閉された巨大な部屋。その真ん中に寂しく椅子が置かれていた。全身を拘束され座っているのは戒十だ。
 項垂れている戒十。意識を失っているのかもしれない。
 辺りを見回したシンが床にあるモノを発見した。
「血痕だな」
 詳しく調べるまでもなく、臭いででわかる。
 掃除はされているが、それでも引き伸ばしたような朱い汚れが残っている。
 リサたちはまだその血痕が、カオルコのものであることを知らない。
 シンは戒十の拘束を解こうとした。ここまでの道のりは長かった。
 数時間前のこと、約束の場所にカオルコは姿を見せなかった。
 その場所にいたのは大勢の敵。戦いの中で、リサはその連絡を三野瀬から受けた。戒十が攫われたと――。
 すぐにリサとシンは敵を殲滅させ、マンションに戻り事の次第を訊いたあと、三野瀬に純を預け、カオルコが残したメモに書かれた場所に向かった。
 そこがここだった。
 郊外にある邸宅。門構えも立派で、敷地に進入してから本宅までの距離が。とても恐ろしく長く、敵も大勢待ち構えていた。
 敵の包囲網を潜り抜け、やっとここにたどり着いた。
 リサもシンもある疑問を思っていた。敵は本気だった。全精力をあげて二人を阻止しようとしていたように思える。では、なぜカオルコがまだ姿を現さないのか?
 現すとしたら、この場所だと思っていた。
 いや、戒十を救ったあと、脱出の間際に姿を見せるというのか?
 ドラマチックな演出であるが、現実的な戦法とは言いがたい。
 脱出の間際に待ち構える場合は、不意の進入に侵入者の捕捉が難しく、確実な場所で捕まえるために、出口となる場所で待ち構える。このようなケースが妥当と言えよう。
 今回のケースはメモで誘っている点から、侵入者が来ることは未然にわかっている。出口で待ち構える必要などない。人質を奪われたら手間になるだけだ。
 敵の意図はどこにあるのか?
 リサが不信に思っていると、シンが戒十の拘束をすべて外し終えていた。
 それはあまりに不意だった。
 戒十がシンに襲い掛かったのだ。
 咄嗟に躱したシンだったが、その胸元は服が破られてしまった。あと少し遅ければ肉を抉られていたところだ。
 虚ろな戒十の瞳。殺気も感じられない。それでいて目の前の獲物を殺す。まるで感情を持たぬ殺人マシーンだ。
 静観しながらシンは静かに呟く。
「厄介だな」
 救出するべき者と戦う破目のなるとは――。
 リサも不味そうな顔をしている。
「催眠術か、投薬か、洗脳ってとこかなー」
 心を失っている戒十は容赦なく襲い掛かってくる。それに対するシンは手出しすることができない。
 戒十の動きは恐ろしく早い。おそらくシンを超えているだろう。ここ数日で、戒十の身体能力は飛躍的に伸びた。
 だが、シンはすべての攻撃を紙一重で躱している。それを成せる業は経験によるところが大きいが、戒十の攻撃が荒く我武者羅であるところも大きい。
 シンと戒十の間にリサが割って入った。
「シン交代!」
 すると、戒十は近いリサを狙って攻撃してきた。その動きは機械的。もっとも近い敵を狙うようにプログラムされているようだ。
 リサは間一髪のところで攻撃を躱している。シンよりもさらにギリギリだ。だが、その動きに危なげなところはない。むしろ余裕だ。
「はい、シンくんに質問です。洗脳とマインドコントロールの違いはなぁに?」
「洗脳は価値観や記憶の改竄、マインドコントロールは誘導だ」
「じゃ、その方向で攻めるってことで」
 なにか良い作戦でも思いついたのか?
 逃げの一手に徹していたリサが拳を繰り出した。いや、違う。殴ろうしたのではなく、戒十の腕を掴んだのだ。
 リサは流すような動きで戒十を拘束した。そして、心の底からこう叫んだ。
「目を覚ましてカイト!」
 さらにリサは続けようとしたが、抵抗した戒十は拘束を逃れ、前にも増して攻撃の手を強めてきた。
 リサの意図を掴んだシンも加わり、戒十の近くに駆け寄って、それを行った。
「戒十、純を助けるのではないのか!」
 戒十の瞳は虚ろのまま。
 効果が見えないことにリサはボソッと呟く。
「……投薬だったら、言葉すら届かないから無意味なわけど」
 洗脳とは無理やり〝別人に仕立てる〟行為であり、そこには過去と現在の自分にギャップが生まれる。
 マインドコントロールは誘導であり、自らの意思で行動しているために、過去の自分と意識的に決別していることになる。
 つまり、洗脳には過去の自分を取り戻させる方法が有効だが、マインドコントロールは過去の自分を見せることで逆に反発をする。
 シンが叫ぶ。
「戒十思い出せ、純をキャットピープルにしていいのか!」
 決定的なキーワードがない。
 なにか、なにか戒十の心を揺るがすキーワードがあるはずだ。
 短い期間であるが、リサとシンは戒十の人生に多大な影響を与えた。けれど、深い関係であったか、どの程度二人は戒十のことを理解しているのか?
 けろっとリサはした。
「作戦変更しよっか?」
 シンは深く頷いた。
「止むを得ない、骨を折ってでも動きを封じろ!」
「担いで逃げるのシンだからね!」
 まだ戒十の状況を正確に掴めていない。わかるのは正気ではないということ。それを直す前の段階として、完全な拘束を実行することにしたのだ。
 ついにシンは刀を抜いた。だが、刃を返し、逆刃に握り直した。
 シンの一太刀が戒十に打撃を加える。すかさずリサは戒十の顎を蹴り上げた。
 地面から足を浮かせた戒十は、そのまま背中から倒れた。
 立ち上がろうとする戒十の顔面にリサがさらに一発、拳が入った。
 馬乗りになったリサは戒十の首を腕で固定し、小さく小さく耳元で囁く。
「夜、満月、黒猫、血……汝の血を妾に……」
「ぐわぁぁぁぁぁぁっ!」
 戒十が叫んだ。心に何らかの動揺が奔ったのは明らかだ。
 暴れ出した戒十によってリサの躰が大きく後方に飛ばされた。
 リサの囁きをシンは聞き取っていた。だが、理解ができなかった。
「リサ、何をした!」
「何って、別に何もー」
 起き上がりながらリサは苦笑いを浮かべた。
 床でのた打ち回る戒十。その躰に異変が起きはじめていた。
 膨れ上がる躰、伸びる髪の毛、服が破れ全身を覆いはじめた黒い毛並み。
 なにが起ころうとしているのか、わからぬはずはない。
 巨大な黒い猛獣――あの〝ケモノ〟が再びリサたちの前に姿を現した。

 無機質な部屋は広い。出入り口はただひとつ、2枚が開閉する両開きのドアだ。
「どうするリサ?」
 訊きながらシンは刀の刃を返していた。
「作戦変更、自分の身は自分で守るってことで、撤退!」
 素早くリサはドアまで移動して、外に出ようとしたのだが――。
「まあね、そりゃそーだよね」
 ドアはびくとも開かなかった。
 〝ケモノ〟は部屋中に響き渡る巨大な咆哮をあげ、シンに鋭い牙を剥いて喰らいつこうとする。
 反撃しなければ確実に殺られる。
 シンの刀が血を吸う。
 〝ケモノ〟の黒い毛が、血を浴びてどす黒く染まる。
 だが、傷はない。
 刀で傷を負わせても、すぐに再生してしまうのだ。
 リサも戦闘に加わって、〝ケモノ〟の注意をひきつけ、攻撃はシンに任せた。
「シン、足を狙って!」
「やっている」
「違くて、切断して!」
「それは……」
「死ななければそれでいい!」
 もはや〝ケモノ〟を止めるのには、それほどまでの方法を取らなくてならなかった。
 小蝿のようなうざったい動きで、リサは〝ケモノ〟の視線を奪う。
 その隙を突いてシンが〝ケモノ〟の前脚を狙った。
 神速の輝線[キセン]が趨る。
 迸る血の雨。
 空気を振るわせる〝ケモノ〟の咆哮。
 両前脚を失ってもなお、襲い掛かってこようとする〝ケモノ〟。
 後ろ脚で蛙のように跳ね、巨大な口を開けて、牙から涎を滴らせる。
 リサは高く飛び、〝ケモノ〟の頭部を踏み潰すように蹴る。
 打撃音を立てながら〝ケモノ〟は顎から床に激突した。
 血の海に沈んだ〝ケモノ〟の動きが止まった。
 前脚を失った割りには出血量が少ない。すでに脚の傷は塞がっていた。それどころか――。
「逃げてシン!」
 反射的にシンは後ろに飛び退いた。
 その場で立ち尽くすリサとシン。
 〝ケモノ〟の傷が、亡くしていた片腕が、今切られた脚が、細胞分裂を繰り返しながら再生していく。その治癒力は単細胞生物に優るかもしれない。
 驚いたふうもなくリサはその現実を受け入れた。
「やっぱりね……」
 まだ〝ケモノ〟の脚は完全に再生していない。
 リサはシンから刀を奪い、天井高く舞い上がった。
 そして、切っ先は〝ケモノ〟の背中から、一突きに心臓を貫いた。
 シンは唖然とした。
「なにを……」
 それ以上の言葉はでなかった。
 抜かれた刀にべっとりと滴る血。
 そして、驚くべきことに〝ケモノ〟に変化が起こっていた。
 見る見るうちに縮まる躰。
 〝ケモノ〟から戒十への急激な変化。
「シンは元から口が軽いほうじゃないけど、これは他言無用ね」
 さらに驚くべき事態が起ころうとしていた。なんとリサが刀で自らの手首を切ったのだ。
 手首から滴る血は戒十の背中の傷へ。
 染み込んだ血は穴の開いた心臓へ。
 生きた血は死んだ血管を駆け巡り、廻り廻って全身へ。
 そして、止まっていた再生がはじまった。
 戒十の両腕が再生を続け、ついには完全に指先まで生え変わった。
 そして、シンは戒十の心臓が鼓動を打ったのを聴いた。
 心臓を貫かれ生きていた例をシンは知らない。もしくは生き返った例を知らない。今、目の前でそれが起こった。
 ゆっくりと起き上がる戒十にシンは自らのコートを脱いで掛けた。
 頭を重たそうしておでこを支える戒十。
「……僕は……」
 毛だらけの躰を見て戒十は事情をぼんやりと把握した。
「また……」
 断片的な記憶。
 激しい痛みで目覚めた。いや、闇に堕ちたというべきか。そして、今に至る。
 戒十は床を覆う血の海を遠い目で眺めた。
 脳裏を過ぎる輝き。それはぎらつく眼だった。
 恐ろしい老人の顔。
 そうだ、それは〈夜の王〉だ。
 自分を見つめる眼は〈夜の王〉のものだった。
 記憶が遡る。
 カッと開かれた戒十の瞳。それが急に力なく閉じられた。
「……カオルコが死んだ」
 思い出してしまった。
 肉を千切る音、骨を砕く音、そして血を啜る音。
 そして、野獣の咆哮。
「ありえない!」
 リサは絶叫するように否定した。
 その感情はいったい何なのか?
 リサはカオルコの死に何を思ったのか?
 戒十はカオルコの死に絶望した。
 カオルコに対する悲しみや憐れみではない。純を救えなかったという絶望感。
「僕は……純を救えなかった」
 本当に手立てはないのか?
 戒十はコートを翻し立ち上がった。
「まだだ、まだ時間はあるんだ……僕はあきらめない」
 それは希望、これは未練。
「本当にカオルコが死んだの?」
 沈痛な面持ちでリサは尋ねた。
「僕の目の前で〈夜の王〉に殺され……喰われた」
 あの床に残っていた血の痕が死と繋がった。
 それでもリサは認めなかった。
「カオルコは死んでいない。死ぬはずがない」
 なぜそこまでして認めないのか?
 シンはリサに質問を投げかける。
「なぜそこまでカオルコに固執する?」
「カオルコは特別だから」
 それは自分が血を分けたからか?
 それとも別の感情かなにかか?
 リサは床を見つめながら話しはじめた。
「これは可能性が低いことだけど、〈夜の王〉がカオルコを喰ったというのなら、その血を使えば……」
「そんな話は聴いたことがないぞ?」
 すぐにリサの発言をシンが否定した。
 しかし、戒十はリサを信じるほかなかった。
「僕は可能性があるなら、それに賭けたいと思う」
 シンも頷いた。
「そうだな、まだ時間はある」
 シンはリサを横目で見た。
 多くの疑問。
 それをシンはあえて問うことはしなかった。
 急にリサが笑顔を作った。
「よっし、まずはここを脱出しよう!」
 2人はそれに同意して頷き、3人はこの部屋を後にしようとした。
 それを止める謎の声。
「儂ならここにおるぞ」
 部屋中に反響したその声。
 唯一の出入り口から入ってくる車椅子の老人。
 彼は言った。
「久しぶりだな、サリサ」


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