CASE 01‐紫怨‐
 暗い暗い闇の中――。
 傀儡師である彼の悪夢は覚めることを知らなかった。
 彼は自由に操ることができるからこそ〝その〟心を知りたかった。

 放課後、夕焼けに染まる学校の屋上に、中嶋奈那子[ナカジマナナコ]は篠原香穂[シノハラカホ]を呼び出した。
「奈那子ちゃん、こんなところにわたしを呼び出して何の話ぃ?」
「遅かったじゃないの!」
「何でそんなに怒ってるの? わたしが遅刻するのはいつものことじゃん」
「自覚あるなら直しなさいよ!」
 今日の奈那子はいつもよりもカリカリしていて、香穂に対してなぜか冷たく、避けられていたように香穂は感じていた。
 奈那子が誰もいない放課後の屋上に香穂を呼び出した理由――その理由が香穂を避けていた理由でもある。
「今日の奈那子ちゃん変だよ……わたしのこと避けてたし、それに気づくと睨んでた」
「自分の心に聞いて見なさいよ。自覚あるんでしょ? 心の中であたしのことあざけ笑ってるんでしょ? ふざけんじゃないわよ!」
 奈那子は同じクラスの秋葉愁斗に想いを寄せていて、そのことを親友の香穂にことあるごとに話して相談していた。今日はそのことについて香穂を呼び出した。
 今にも泣きそうな顔をしている香穂は首を大きく横に振った。
「わかんないよ、わたし……奈那子ちゃんに何かしたかなぁ? したんだったら謝るから許してよぉ」
「そうやって泣いたフリして謝れば許してもらえるとでも思ってるの?」
「ウ、ウソ泣きじゃ……ないよ」
 消えそうな声と潤んだ瞳で香穂は奈那子に訴えかけたが、奈那子は全く信じようとしなかった。
 今日、学校で奈那子はある噂を耳にした。
 ――ねえ、知ってる? こないだの日曜日、香穂が秋葉[アキバ]くんと楽しそうにデートしてたんだって。
 ――ウソ、マジで!? あの香穂が?
 ――きっと、あの潤んだ瞳で秋葉くんに『付き合ってください』なんて言って見つめちゃったりしたのよ。
 ――秋葉くんもあの瞳には勝てなかったわけか、あはは。
 ――香穂きっとこれからイジメとかに遇うんじゃないの?
 ――あるある、絶対上級生とかに目つけられてイジメられるね。
 奈那子は噂話をしている横に座ってしたのだが、全てを聞いていたそして、腹の底から湧き上って来る何とも言えない感情で胸が爆発しそうになった。
 悲しみが憎しみに変わり、親友が一瞬にして敵に変わった。香穂を呪い殺してやりたいとも思った。
 休み時間に何食わぬ顔で香穂が奈那子のところに来た時は、思わず奈那子は香穂に飛び掛かりそうになってしまったが、感情を身体の奥底に抑え込み、机の下で強く握り締める拳はわなわなと震えていた。
 誰もいない屋上で、奈那子は自分の前に立っている香穂に飛び掛かって首を強く握り絞めてやりたかった
 自分の親友に裏切られた。奈那子はそう思うだけで憎悪が心の奥底から沸々と煮えたぎって来た。
 奈那子は凄まじい形相で香穂に詰め寄る。
「心当たりないの? あたしにあんなヒドイことしてとぼけてる気?」
「わかんないよ、わかんないよ……」
 ついに香穂は本格的に泣き出してしまい、目頭に両手を当てて肩をひくひくと震わせていた。
 相手が完全にウソ泣きをしていると思っている奈那子は、香穂の腕を掴んで無理やり下にやって、香穂の目を見て怒鳴った。
「うざいから泣くの止めなさいよ」
「……う……うう……ううん……」
 香穂は一生懸命涙を止めようとするが、身体が振るえ、嗚咽は止まらず、目からは止め処なく涙が流れては地面を濡らしていく。
 涙目で香穂は奈那子の瞳をしっかりと見据えていた。
「わからない……って言ってる……でしょ」
「何それ、もしかして罪悪感とかぜんぜん感じてないわけ? あんたってそういうやつだったんだ。今まであたしは騙されてわけ? 親友ごっこか何かのつもりだったの、そうやってあたしのこと裏切って遊んでるわけ? 答えなさいよ!」
 怒鳴りつけられた香穂の嗚咽が激しくなり、身体が異常なまでに震えている。
「ご、ごっこなん……うう……かじゃない……」
「何言ってるかわかんないでしょ、泣くの止めなさいよ」
 奈那子が怒ることを止めれば香穂は泣き止むだろうが、血が頭に上ってしまっている奈那子には相手を問い詰めることしか頭にない。
 いつまでも泣き止むことのない香穂に腹を立てた奈那子は、理不尽に香穂の頬を強く引っ叩いた。
 叩かれた香穂は反動でコンクリートの地面に倒れ込み、すぐに赤くなった頬を押さえて怯える表情で奈那子を見つめた。
「わ、わ……たし、奈那子ちゃんに叩かれる……ようなことしてないよ」
「まだ、とぼける気なの? わかったわよ、言ってあげるわよ!」
 地面にへたり込む香穂を見下ろして奈那子は怒鳴った。
「あんたが秋葉くんとデートしてたの見たって人がいるんだけど、どういうこと?」
「えっ……なに……それ?」
 驚いた顔をしたまま香穂は口を半開きにして奈那子を見つめた。こんな顔をする香穂を見て、奈那子はどこまでとぼければ気が済むのだろうかと余計に腹を立てた。
「こないだの日曜日に秋葉くんとデートしたんでしょ!?」
 奈那子はなおも香穂を問い詰めるが、香穂は大きく首を横に振って否定を続けた。
「違うよデートなんかしてないよ、たまたま買い物に行ったら秋葉くんと会って、そ、しれで、そのまま一緒に買い物しただけ……」
「もういい、もういいわよ!」
 香穂の言葉など全く耳に入らない様子の奈々子は、香穂の腕を強く掴んで強引に立ち上がらせた。
 他の人が秋葉とデートしていたらならば、まだ許せたのかもしれない。奈那子は親友だと思っていた人に抜け駆けされて裏切られたことが一番ショックだった。
 一番信頼していて、一番相談していた人。奈那子が秋葉のことについて香穂に相談すると、いつも香穂は親身になって聴いてくれた。
 泣きながら、激怒しながら、いろいろな感情が入り混じった奈那子は香穂に詰め寄った。
 自分がなぜ泣いているのかわからないまま、奈那子は香穂の肩を何度もゆさぶった。
「どうして、どうして、どうして!」
「奈那子ちゃん、信じて……」
「この裏切り者!」
「きゃっ!」
 奈那子に押し飛ばされた香穂はフェンスに激しく背中からぶつかった。その拍子に錆付いて古くなっていたフェンスがガタンと外れ、恐怖に歪む顔をした香穂はバランスを崩して後ろに倒れそうになった。
 奈那子はすぐに手を伸ばした。
「あっ!?」
 だが、奈那子が手を伸ばした時にはすでに香穂の姿はなかった。
 耳を塞ぎたくなるような悲鳴が聴こえ、それが途絶えて静かになってすぐに何かが地面に激しくぶつかった音が聴こえて来た。
 奈那子は息を呑み込み瞬時に何が起きたのかを理解した。見なくてもわかっている。いや、見るのが恐かった。
 しばらくその場で愕然としてしまっていた奈那子であったが、その顔が見る見る蒼ざめていき、意識が一瞬遠退きそうになってしまった。
 自分は人を殺した――それも友人を殺してしまった。けれど現実味が沸かない。奈那子は夢の中にいるような気分になった。
 壊れたフェンスの下を覗こうとしたが、足が竦み叶わなかった。もし、本当に死んでいたら――香穂が死んだことを認めるのが怖かった。
 結局、奈那子は香穂がどうなったのか自らの目で確認できないまま、逃げ出すことしかできなかった。
 校内に入り、廊下を全速力で走った。
 誰にも見られてはいけない、こんなところを見られてはいけない。そう思いながら奈那子は下駄箱に急いだ。
「中嶋、まだ残っていたのか?」
 後ろから声をかけられた。国語科の教師の声だ。だが、振り向けなかった。
 奈那子は声を無視して逃げた。
 下駄箱に着いてから、奈那子は声をかけられたのになぜ逃げてしまったのだろうと、酷く後悔をした。あんな不自然な行動をしたら疑われるではないか。言い訳か何かしておくべきだったのではないか。
 靴を履き替えた奈那子は再び走った。今は一刻も早く学校から離れたかった。
 香穂が落ちた場所は学校の裏庭だ。あまり人の行く場所ではないが、明日には絶対発見されるに違いない。
 無我夢中で正門を飛び出した奈那子は誰かとぶつかってしまった。
「きゃっ、ご、ごめんなさい」
 相手のことを少しだけ見て奈那子は逃げた。
 動揺して奈那子は無我夢中で走って逃げたが、ぶつかった人物があまりにも特殊な格好をしていたので強く印象に残ってしまった。
 大きな鍔のある黒い帽子から白銀の髪が胸元まで流れていて、身に纏っているものは黒いインバネスと呼ばれるコートだった。あの人物の全身は全て闇色に包まれていた。
 女性のようだった気がしたが、もしかしたら男性だったかもしれない。服装が強く印象に焼け付きそこまではわからなかった。
 ぶつかってしまった人物のことを考えている間は香穂のことを忘れられた。だが、すぐに再び香穂のことを思い出してしまう。
 学校からだいぶ離れたところで、奈那子は走るのを止めてゆっくりと歩いて自宅に帰ることにした。
 走ったせいで余計に心臓が激しい鼓動を打っている。苦しくてどうしようもない。
 息を整えながら奈那子は今後のことについて考えた。だが、冷静になれない。感情的になって頭が混乱している。
 気がつくと奈那子は自宅の前に立っていた。
 玄関に立った奈那子は大きく深呼吸をしてからドアノブに手をかけた。
 いつもどおりにしようとしたができず、奈那子は階段を駆け上がり自分の部屋に飛び込んだ
 部屋に入った奈那子は電気もつけずに、カーテンも全て閉め切って、ベッドに飛び込んだ。
 暗い部屋の中で奈那子はベッドの上で膝を抱えてうずくまって考えを巡らせた。
 震えが急に身体を襲った。
 自分の部屋に塞ぎ込んだ奈那子は、夕食も取らず、お風呂も入らず、母が心配して部屋に尋ねて来ても気のない返事を返すだけで、部屋から決して出なかった。
 ベッドの中に潜り、奈那子は何かから隠れるように怯え震えていた。
 自分は友人を殺した。人を殺したほど憎んだことはこれまでもあったが、それは言葉の綾だ。奈那子は殺したという真実に胸を潰されそうになった。
 明日から自分の生活は? 警察に捕まったらどうしよう? 自分はこれからどうなるのだろうか?
 いろいろなことが奈那子の脳裏を駆け廻り解決されることがない。問題が浮かんでは頭の中に蓄積されていく。
 まるで、世界の終わりが来てしまったようだ。
 夜の闇が深さを増していく――。

 よく眠れないまま夜が明けてしまった。
 奈那子は目覚まし時計を見た。七時半を少し過ぎたくらいだ。
 学校に行くべきかどうか奈那子迷った。できれば休みたい。しかし、昨日の今日で学校を休んでは自分が疑われるかもしれないし、香穂がどうなったのかも気になるし、周りの人々の反応も気になった。
 気になることが多過ぎていても立ってもいられなくなった奈那子は、意を決してベッドから飛び起きた。
 食卓についた奈那子は箸を持ったまま手を止めてしまった。いつもはちゃんと食べている朝食だが、今日ばかりは喉を通らない。
「やっぱり、いらない」
 箸を置いて立ち上がった奈那子は自分の部屋に戻ってしまった。そんな奈那子を心配そうな顔をしている母親が止めようとしたが、母の声は奈那子には届かなかった。
 自分の部屋に戻った奈那子は制服に着替えようとしたが、身体が妙に重くて着替えが億劫に思えた。
 香穂はもう発見されたのだろうかと奈那子は考える。もし、発見されているのならば、学校は臨時休校になって自宅に緊急連絡網が回って来るに違いない。ということは、まだ香穂は発見されていないのかもしれない。
 学校に行けば全てわかるだろう。そう思いながら奈那子通学用のバッグを探した。
「……あっ」
 奈那子の顔が蒼ざめていく。バッグを屋上に置いて来てしまったのだ。
 致命的としか言いようがない。壊された屋上のフェンス、その現場に残されていたバッグ、国語科教員の目撃証言。有りとあらゆるものが犯人は奈那子だと言っているようなものだ。
 学校に行くべきか再び迷う奈那子。このままどこか遠くへ逃げてしまうのがいいのではないかと考えるが、未成年の自分が警察から逃げ回るなど無理な話だと思い首を横に振った。
 奈那子はあることを思い出そうとした。犯罪を犯しても罪に問われない年齢があったような気がする。自分はどうなのだろうか?
 時計は八時を少し過ぎている。もう学校に行かなくては遅刻してしまう。
 吹っ切れた感じで奈那子は家を飛び出した。全てがどうでもよくなってしまい、自分自身の判断では何もわからなくなってしまった。
 学校に向かう途中、横道に入ろうと何度も考えたが、それが何の意味になるのかがわからず、流されるままに歩いてしまった。
 誰かが奈那子声をかけた。しかし、奈那子は気づかずに歩き続ける。
「中嶋さん、おはよう」
 やはり奈那子は気づかずに歩いている。
 前方に信号を見えて来た。
 ぐぐっと奈那子は後ろに引っ張られ、その前を車が通り過ぎて行った。
「信号赤だよ、大丈夫? 今日の中嶋さん少し変だよ」
 ここでやっとはっとした奈那子は自分の腕を掴んでいる人物を見た。
 同じクラスの秋葉愁斗。奈那子の腕を掴んでいたのは彼だった。
「僕があいさつしてたの気づいてた?」
「あ、ごめん……ぜんぜん気づかなかった」
 家からここまでの記憶が奈那子には曖昧で、気がついた時には学校近くの信号にいた始末だ。
「何かあったの?」
「ううん、別に何も……」
 何もないわけがない。奈那子の脳裏に焼きついた香穂が恐怖に顔を歪ませた時のあの表情。
 好きな人に偶然出逢えたというのに、奈那子はちっとも嬉しくなかった。むしろ、会いたくなかった。
 奈那子は秋葉と話すのが怖かった。自分が香穂を殺したのには彼も絡んでいる。彼のせいで香穂を殺してしまったと言っても過言ではない。
 目の前で自分のことを心配するひとにだけには、何があろうと奈那子は自分が香穂を殺したことを知られたくなかった。
「中嶋さん、本当に大丈夫?」
「うん、平気だよ、そんな顔しないでよ」
 無理やり奈那子は笑顔を作ったが、その顔を見る秋葉の表情は曇っている。
 吸い込まれてしまいそうな黒瞳を持つ秋葉愁斗。その妖しい魅力を持つ瞳の奥に、自分の姿を見た奈那子はすぐに顔を伏せてしまった。
「どうしたの?」
 不思議そうな顔をする秋葉だが、奈那子は何かに怯え、顔を伏せたままだ。
「何でもないの、何でもない……」
 急に奈那子は走り出した。
「待って中嶋さん!」
 手を伸ばす秋葉に構わず、奈那子は逃げるように走った。
 奈那子が気づいた時には、彼女は教室の前に立っていた。
 いつものクラス――だが、今日は入るのが怖かった。いつもは香穂が自分よりも早く来ている。
 奈那子は教室の中に入ると辺りを見回した。そして、いるはずのない香穂の姿を捜してみる。
 教室を見渡していた奈那子は信じられぬ光景を目の当たりにした。
 殺してしまったはずの香穂が何食わぬ顔で友達と楽しそうに話しているのだ。
 奈那子に気がついた香穂はにっこりと笑い無言であいさつをした。
 あり得ない光景を見て、奈那子は一瞬息をすることさえ忘れてしまった。
 目を見開き、息を呑み込んで何も言えなくなった奈那子のもとへ、香穂がバックを持って近づいて来る。あのバッグは屋上に忘れたはずの奈那子のバッグだ。
「奈那子ちゃん、おっはよ! 昨日さあ、バッグ屋上に忘れて行ったでしょ」
 屈託のないまぶしい香穂の笑顔を網膜に焼き付けながら、奈那子は恐怖のあまり声も出せないまま気を失って倒れてしまった。

 保健室で目を覚ました奈那子は、目の前にいる人物の顔を見て大きな悲鳴をあげてしまった。
「きゃーっ!」
 保健室の先生が何事かと仕切りになっているカーテンを開けて入って来た。
「どうしたの!?」
 原因は目の前にいる人物のせいだ。そう、香穂がいた。
 香穂は目を丸くしながら不思議そうな顔をして奈那子の顔を覗き込んでいる。保健室の先生も心配そうな顔をして奈那子を見ている。
「中嶋さん何かあったの?」
 〝何か〟なら目の前にいる。だが、奈那子はそのことには触れなかった。
「奈那子ちゃん平気?」
 すぐ近くにいる香穂とは決して視線を合わせないで、奈那子はどうにか口を開いて声を絞り出した。
「大丈夫です、叫んだりしてすみませんでした」
「何かあったら私のことを呼びなさいよ」
 保健室の先生はそう言うとカーテンを閉めて行ってしまった。
 近くに保健室の先生がいるとはいえ、二人っきりにされたのと変わらない状況だ。
 香穂が目の前にいる。死んだはずの友人がいる。それも自分が殺した友人がいる。奈那子は何も言えずにうつむきながら一点を見つめていた。
 なぜ、死んだ人間が生き返ったのか?
 もしかしたら死んでいなかったかもしれない。
 夢なのかもしれない――どちらが?
 これが夢なのか、あの出来事が夢だったのか?
 混乱する奈那子はあのバッグを思い出した。自分のバッグはどう説明すればいいのだろうか?
 香穂は『バッグ屋上に忘れて行ったでしょ』と確かに言っていた。
 恐ろしさ何が何だか奈那子はわからなくなってしまった。だが、そのことについてすぐ近くにいる香穂には恐ろしくて何も聞くことができない。
 香穂は〝何事〟もなかったように奈那子に話しかけて来た。
「今昼休みなんだけどね、ちょうどわたしが見に来た時に奈那子ちゃんが目を覚まして、いきなり叫ばれちゃったからビックリしたよぉ」
 そんな長い時間、自分は気絶していたのかと奈那子は思ったが、香穂に返事を返すことはしなかった。香穂と口を聞くのが死ぬほど恐い。
「どうしたの奈那子ちゃん、身体が震えてるよ?」
 震える奈那子に香穂が手を伸ばした瞬間、奈那子はその手を振り払って叫んだ。
「触らないで!」
「……ご、ごめん」
 哀しそうな顔をする香穂であったが、そんな顔など見ようともせず、奈那子は冷たく言い放った。
「ひとりにして、もう少しここで休む」
「ごめんね奈那子ちゃん、気が利かなくて。また来るね」
 泣きそうな声を出した香穂はそのまま行ってしまった。奈那子はもう来て欲しくないと思った。一生自分の前に現れて欲しくないというのが奈那子の正直な気持ちだ。
 死んだ人間が何食わぬ顔をして自分の前に現れるなんて、奈那子には到底信じられないことだった。
 奈那子の頭はだんだんと冷静さを取り戻して来た。香穂が屋上から落ちたのは絶対現実だったし、今も絶対に現実だ。では、なぜ香穂が生きているのか?
 屋上から落ちた香穂は実は死んでいなかった。奈那子は実際に死体を確認したわけではない。だが、何かが地面に落ちた音は聴いた。
 死んだ人間が生き返ったとしか考えられない。だが、そんなことが現実にあり得るのだろうか?
 とにかく今言えることは、香穂が生きているということ。結局それだけしか奈那子にはわからなかった。
 いつの間にか奈那子の心から香穂に対する恐怖心が消えていた。香穂は生きていて、いつもどおりの香穂だった。何も恐れることはない。
 奈那子が考え事しているうちに時間がだいぶ過ぎてしまったらしく、いつの間にか放課後になっていた。
 保健室の先生もどこに行ってしまった足音が聴こえたので、今は奈那子ひとりっきりで保健室にいる。
 保健室のドアが開く音がした。足音は迷わず奈那子のベッドに近づいて来て、カーテンが開けられた。
 奈那子は香穂が尋ねて来たのかと思ったが違った。尋ねて来たには秋葉愁斗だった。
「中嶋さん具合はどう?」
「う、うん、だいぶよくなった」
「いきなり教室で倒れたって聞いて心配だったんだ。それと、今朝のこともあるし」
 今朝のこととは奈那子が秋葉を置き去りにして、いきなり走り出してしまったことを言っている。
「ごめんね秋葉くん……今朝のあたしはちょっとどうかしてたんだ、でも平気、もう元気になったから」
 今の奈那子は無理せず笑うことができた。
 秋葉はほっとした顔をして微笑んだ。
「大丈夫そうだね、その笑顔を見て安心した」
「うん」
 好きな人に心配してもらって奈那子は本当に嬉しかった。このまま二人っきりの時間がいつもでも続けばいいのにと奈那子は思った。
 秋葉は自分の髪の毛の後ろを触りながら少し口ごもった感じで言った。
「実はさ、篠原さんに言われて中嶋さんの様子を見に来たんだよね」
 篠原香穂の名前が出て、奈那子の表情が少し曇った。どうして香穂が?
「篠原さんが『奈那子ちゃんは秋葉くんが顔を見せてあげるのが一番』だって言うから、それで来たんだ」
「あの、秋葉くん?」
「なに?」
 秋葉にどうしても聞きたいことが奈那子にはあった。昨日、香穂に聞いた内容と同じことだ。
「あのね、秋葉くんが香穂と付き合ってるって聞いたんだけど、本当?」
「それ本当? あはは、そんな噂が流れてるんだ。どうりで今日のみんなの態度が違うと思ったよ。嘘だよそれ、僕は誰とも付き合ってないよ」
「本当に?」
「ああ、本当に。今は恋人募集中って感じかな?」
 笑いながらも秋葉は困った表情をしていた。全く根も葉もない噂に少し困惑しているのだ。
 奈那子は秋葉の言葉を全て信じた。彼の言うことなら何だって信じられる。それに彼が嘘をついているようには全く見えなかった。
「秋葉くん?」
 顔を赤らめた奈那子は上目遣いで秋葉のことを見つめた。
「あのね、さっき……恋人募集中って言ってたでしょ? あたしじゃダメかなぁ?」
 秋葉は肯定とも否定とも受け取れる微笑を浮かべて静かに言った。
「中嶋さんが僕のことが好きなのは知っていたし、篠原さんはことあるごとに僕と中嶋さんをくっ付けようとがんばってた。こないだの日曜日に篠原さんと偶然会った時もさ、君のことをずっと褒めてて、僕に君と付き合うように延々と言われたよ」
「そう……なんだ……」
 酷い後悔が奈那子を襲った。まさか香穂がそんなに熱心に自分と秋葉のことをくっ付けようとしていたなんて夢にも思わなかった。
 奈那子は勝手な思い込みで香穂を怨んでしまったことに気がついて悔やんだ。
 大切で自分のこと想っていてくれた友人を殺してしまったことを奈那子は悔やんだ。自分は確かに香穂を殺した。どうして殺してしまったのだろうか。
 だが、香穂は生きていた。理由はわからないが生きていた。
「僕は中嶋さんのことを――」
 保健室のドアが開く音が聴こえ、香穂が保健室に飛び込んで来た。
「奈那子ちゃん、元気になった?」
 香穂と秋葉の目が合った。そして、香穂は場の空気を読んで酷く慌てた。
「ご、ごめんお邪魔だったかなぁ、すぐ出て行くね」
「いや、僕が出て行く。じゃあね中島さん、また明日」
 秋葉は返事をしないままに行ってしまった。だが、奈那子は秋葉がYESと言ってくれないことに気づいていた。あの表情を見ればわかる。
 返事を聞く前に香穂が入って来てくれたことに奈那子は感謝した。そして、香穂が生きていたことにも感謝した。
「奈那子ちゃんごめ~ん、せっかく二人っきりだったのに」
「いいのよ別に。帰ろうか?」
「うん!」
 ベッドから起きた奈那子に香穂が奈那子のバッグを手渡した。
 バッグを普通に受け取る奈那子。今度は気にもならなかった。もう、あの出来事は全部忘れてしまおうと奈那子は心で誓った。

 学校からの帰り道。二人は前のように楽しくおしゃべりをしながら帰っていた。その途中で香穂は急にこんな話を切り出した。
「あのねぇ、奈那子ちゃん」
「なに?」
「わたし、奈那子ちゃんと秋葉くんをくっ付けようとしてるうちに、自分でも秋葉くんのことが好きになっちゃったんだよね」
 それは奈那子にとって衝撃的な告白となった。押し込めていた感情が再び湧き上がって来た。
 香穂は奈那子と秋葉の仲をくっ付けようと秋葉に何度も接触しているうちに、自分も秋葉のことにいつの間にか惹かれていた。だが、これを奈那子は親友の裏切りとしか思えなかった。
 奈那子は怒りを覚え、その怒りを顔に出してしまった。しかし、夢の中だったのかもしれないが、香穂を一度殺している後ろめたい気持ちから、すぐに笑顔で怒りの感情を誤魔化した。
 潤んだ瞳で奈那子を見つめる香穂は震える声で言った。
「わたしはね、奈那子と秋葉くんがくっ付いてくれるのが一番嬉しいの、だから、わたしのことなんて気にしなくていいから。これからも、わたしは奈那子のためにがんばるね」
 これは、自分が身を引くからということなのだろうか? 少なくとも奈那子はそう理解した。
 奈那子は気ゆっくりと気を沈め、香穂が秋葉を譲ってくれると言ってくれたことにほっとした。
 あの保健室で秋葉からYESと言ってもらえなかっただろうとあの時は思っていたが、今は何でそんなことを思ったのか奈那子にはわからなかった。自分は秋葉と付き合えるかもしれないではないか。ライバルも一人減ったのだし……。
 誰もが心の内に持っている闇の種。闇の妖花が奈那子の心に咲いた。
 不安そうな顔をしている香穂に奈那子は笑って見せた。その笑顔の奥にある感情は……?
「香穂、あたしたち、いつまでも友達だよね!」
「うん!」
 笑顔を浮かべる香穂を見て、奈那子は何を思う?
 互いを笑顔で見つめ、この二人を繋ぐモノはいったい何なのだろうか?
 人の心は複雑で、そして単純なものだ。世界は矛盾に満ちている。
 仲の良さそうに見える二人が楽しそうに歩いている。
 香穂が前方の人だかりに気がついて指をさした。
「奈那子ちゃん、あれ見てよ、何かなぁ?」
「何かしらね?」
「ちょっと行ってみようよ!」
 香穂に腕を掴まれて、奈那子は人だかりに走って行った。
 人だかりの中心に誰かがいるらしいが、よく見えない。
 香穂は奈那子腕を引きながら人の中を掻き分けて中心に進んだ。
 人だかりの中心にいた人物を見て、奈那子ははっとした。あの人見たことがある。
 大きな鍔のある黒い帽子から白銀の髪が胸元まで流れていて、身に纏っているものは黒いインバネスと呼ばれるコート。いつか奈那子がぶつかった人物だ。
 中性的な妖艶な顔を持つその人物は操り人形を使って人形劇をしていた。
 奈那子の脳裏に恐怖で顔を歪ませながら香穂が屋上から落ちたあの時の表情が再び思い出された。やはり、奈那子は一度死んだ。
 人形遣いの指先がしなやかな動きを見せ、幻想的な世界を創り出す。
 生きているように動き出す二体の人形に、奈那子は魅了されて目が離せなくなった。
 劇はラストシーンであった。そして、そのシーンはあのシーンに似ていた。
 人形遣いは一言もしゃべらずに人形を動かしている。だが、ここにいる全ての人々には台詞がなくとも、人形が何を言っているのか不思議とわかってしまった。
 音も情景も感情までもが人形の動きだけで伝わって来る。まるで、この人形遣いは魔法使いではないかと思ってしまうほどだ。
 夕焼けに染まる空の下、ひとりの女の子が友人を屋上に呼び出した。
 女の子は好きな人を奪われたと友人を一方的に攻め立てる。
 友人は泣きながら女の子に何かを訴えかけるが、女の子は聞く耳を持たなかった。
 ――そう、この人形劇はあの時の再現だった。
 奈那子が香穂のことを殺してしまったあのシーンの再現をしているとしか思えない内容だったのだ。
 人形劇は進んでいく。
 奈那子は恐怖した。目を離すこともできず、釘付けになりながら見てしまった。目を離そうとしても何かに惹きつけられてしまうのだ。
 人形遣いの指が激しく動き、女の子の人形が友人の人形を突き飛ばした。その瞬間、友人の人形を操っていた糸がプツリと切れて、人形は地面に落下した。
 人形が地面に落下する時、実際には聴こえない悲鳴が聴こえたような気がした。
 ここいた人々は悲惨な顔をして、身を凍らせてしまった。誰もが悲痛な叫びを聴いてしまったのだ
 妖艶な顔をした人形遣いが奈那子を見つめ、そして、微笑んだ。
「いやーっ!」
 蒼ざめた顔をした奈那子は無我夢中で走り出した。
 果たして奈那子は何から逃げようとしているのか?
 奈那子を追うものは何か?
 香穂は死んだのか、生き返ったのか?
 奈那子は香穂を殺したのか、殺していないのか?
 これは夢なのか、夢ではないのか?
 何が現実なのか?
 やはり自分は香穂を殺したのだと奈那子は再確認した。
 いろいろな想いが堂々巡りする奈那子。彼女の感情は波を作り出していた。
 昨日の屋上での出来事によって引き起こされた奈那子の感情は消えることなく残っている。感情は無理やり押し込められては、何かの弾みで戻って来た。
 奈那子はわからなかった。あの人形遣いはなぜあの出来事を知っていたのか? 劇の内容が偶然同じだったのか?
 あり得ないと奈那子は心の中で叫んだ。あんな偶然があるわけがない。偶然にしてはでき過ぎている。
 あの人形遣いは一部始終を見ていたのか? どこでどうやって?
 あの人形遣いはいったい何者なのか?
 答えがひとつもでない。
 奈那子は学校に向かって走っていた。そう、あの屋上に何か手がかりあるかもしれないと思ったからだ。
 正門を通り抜け、校内に入った奈那子は屋上へ向かって階段を駆け上がった下駄箱で靴を履き替えることもしなかった。
 空が真っ赤に染まる夕暮れの屋上――あの時と同じだった。
 奈那子の視線の先には一部分が抜けてしまっているフェンスがあった。あそこから香穂は地面に落下した。
 いろいろなものがあの出来事は現実だったと言っている。ただひとつ可笑しなことは香穂が生きていたこと。それだけが可笑しい。
 奈那子は抜けたフェンスに近づいた。そこから下を眺めようとしたが、近づくだけで下を覗くことはできなかった。
 屋上に強風が吹き荒れた。
「奈那子ちゃん」
 ぎょっと顔をして奈那子が後ろを振り向くと、そこには薄ら笑いを浮かべた香穂が髪の毛を風に揺らしながら立っていた。
 香穂がゆっくりと奈那子のもとへ歩み寄って来る。
「ここで奈那子ちゃんがわたしのことを突き飛ばしたんだよね」
「……どうして……それなのに?」
 では、どうして香穂は生きているのか?
「わたしは奈那子ちゃんに復讐したくて蘇ったの」
「そんなことが……」
 奈那子は目の前にいるものを否定した。五感全てが目の前にいるものを感知していても奈那子は認められなかった。あり得ない。
「わたしね、秋葉くんのことあきらめてないよ。いつも奈那子ちゃんのこと蹴落としてやろうと思ってたの」
「そんな、ど、どうして……やっぱり全部嘘だったの?」
「うん、ぜ~んぶ嘘だよ、泣いたりしたのも全部嘘。みんなわたしの涙に騙されるんだもん、笑っちゃうよね」
 屈託がない純粋な笑顔を浮かべる香穂。何をもって純粋というのか? 香穂の笑顔は異様だった。
 愕然とすることしか奈那子にはできなかった。まさか、香穂がこれほど醜い心を持ち合わせていようとは……。
 香穂は笑みを浮かべながら奈那子に詰め寄って行く。
「まさか、奈那子に殺されるなんて思ってもみなかったよ。親友だと思ってなのになぁ、あはは」
 どこか可笑しい笑い。機械仕掛け人形の歯車が調子を狂わせてしまったようだ。
「来ないで、あたしに近づかないで!」
 どんどん後ろに追いやられて行く奈那子。香穂は足を止めることなく奈那子に詰め寄って行く。
「学校の帰り道に、秋葉くんのことが好きだって奈那子ちゃんに言ちゃった時の奈那子ちゃんの顔、絶対忘れない、スゴイ恐い顔してたよ。あの顔を見た時にね、わたしは思ったの……アナタは何度でも機会さえあればわたしを殺す、ってね」
 薄ら笑いを浮かべて香穂が足を止めた。それに合わせて奈那子の足も止まる。
「ご、ごめんね香穂……お願いだから許して」
 震える声を発する奈那子の目からは涙が零れ落ちていた。自分を悔いて出た涙ではなくて恐怖心から出た涙だった。
「ふふ……許して欲しいの? ヤダよ、許してあげないよ。だってわたしのこと殺したんだもん」
「お……願い……」
 風に奈那子の声は掻き消され、香穂は笑っているだけだった。
 奈那子のすぐ後ろには真っ赤な夕焼けが広がっていた。一歩でも後ろに下がれば地面に落ちてしまう。
「許して、許してよ」
「ヤダよ」
 香穂の手が伸ばされた瞬間、逃れようとした奈那子は足を滑らせそうになって、遥か下の地面を見てしまった。
 奈那子は絶句した。遥か先の地面の上で血みどろになって死んでいる人、それは香穂だった。それを見た瞬間、奈那子は悲鳴をあげて気を失い屋上から転落した。
 そして、地面に何かが激しく打ち付けられた音がした。

 暗い暗い闇の中――。
 傀儡師である彼は全てを見届けた。
 〝その〟心の行く末を観た。そして、何を想ったか?

 一筋の光もない闇の中で、奈那子は自分が死んだことを理解した。死んだ人はみんなこんな真っ暗で何もないところに来るのだと解釈した。
 暗闇の恐怖。闇と自分の心だけがそこには存在していた。
 もしかしたら、ここが地獄というところなのかもしれない。こんなところにいたら精神が壊されてしまう。
 これからどうなるのだろうかと奈那子は考えた。答えはすぐに出た。どうにもならないまま自分の精神が可笑しくなっていくのだろう。
 悲しくても涙が流せない。苦しくても逃げ出せない。
 暗闇の中で人の声が聴こえて来た。安心感が奈那子の心を包み込んだ。
 声は耳を通してではなく、心に直接語りかけて来た。
《おまえの肉体は滅び、魂だけが残った。そのままそこにいれば、精神が壊され魂は砕け散るだろう》
 奈那子は何かを言うおうとしたが、身体をなくしていては何もしゃべれない。
 声は話を続けている。
《おまえに選択肢を選ばしてやろう。魂の消滅をこのまま受け入れるか、傀儡の中で生き続けるか?》
 奈那子には傀儡という意味がわからなかった。
《私の傀儡に変われば、蘇ることができる。ただし、それには条件がある。躰は人形となるが、前とほとんど変わらぬ姿だ。そして、私がおまえの力を必要とした時、有無を言わさずに私の操り人形となってもらう。どうする、仮初の生が欲しいか?》
 仮初だろうが生き返ることができるのなら欲しいと奈那子は思った。こんなところにいたくない。
《承知した。その望み叶えてやろう》
 身体がないのに奈那子は何かに引きずられる感じがした。宙に浮いて凄いスピードで動いているような感じだ。
 光が飛び込んで来た。
 奈那子に五感が戻って来た。自分の身体があるのがわかる。だが、目を開けることはできない。
「香穂という女はおまえに復習がしたいと言って、再び現世に戻った」
 男の声がそう言うのと同時に、奈那子は胸から何かが抜かれる感じがした。そして、まぶたの上で閃光が幾本も走ったのを感じた。
「新しい躰に慣れるまで動くことができないだろうが、時期に慣れるだろう」
 男の足音が奈那子から遠ざかって行く。
 奈那子の周りから人の気配が消えた。
 身体があるとわかるのに動かせない。これでは先ほどの闇の中と同じではないか。
 奈那子は恐怖した。冷たい空気が頬に当たっている。自分がどこにいるのか全くわからない。
 周りには人の気配がない。風が吹く音だけが聴こえる。
 ひとり取り残されてしまった。
 身体を一生懸命動かそうとする奈那子。そして、
まぶたを開くことができるようになった。
 光の粒が瞳に入って来て、奈那子は何度も瞬きをした。
 ここは学校の屋上だった。日は沈み、空には星が瞬いているのが見えた。
 目を開けることはできたが、身体は少し指先が動く程度で、後は動かない。
 奈那子は目だけを動かして自分の身体を観察した。変わったところはない。何も変わっていなかった。
 男は奈那子を傀儡に変えると言っていたが、どこも変わった様子はない。いったいどこが変わったというのか?
 そして、身体全身が動くようになった。
 腕を高く伸ばした奈那子はそのまま立ち上がった。
 奈那子は結局、本当に自分は一度死んでしまったのかわからなかった。もしかしたら、全部夢だったのかもしれない。でも、どこからが夢?
 辺りを見回した奈那子の瞳に壊れたフェンスが映し出された。
 フェンスが壊れているということは、香穂を殺してしまったところまでは現実なのかもしれない。
 では、香穂はその後で本当に生き返ったのか?
 答えが見つからないまま奈那子が空を見上げていると、全く誰もいないはずだった屋上に人の気配が突然した。
「紫苑がいると思ったのだが、いるのは小娘ひとりか」
 闇に同化している黒尽くめの男が立っていた。その男の周りにも黒尽くめの男が六名立っている。彼らはいったい何者なのか?
 リーダー格と思われる男が奈那子に近づいて来た。
「紫苑を見なかったか?」
 突然そんなことを言われても、さっぱりわからない奈那子は首を横に振った。
 男は目を見開いて奈那子を凝視した。その瞳は金色に輝き、まるで獣の瞳のようであった。
「我々を見られては、この娘も処分せねばな」
 奈那子はこの言葉を聴いて後ろに下がろうとした。だが、身体がそれに反抗して勝手に動き出した。奈那子の意思に逆らって身体が勝手に動いてしまったのだ。
 煌く線が目の前の男の横を通り過ぎ、奈那子は目を丸くした。自分がそれをしたことに驚いたのだ。
「あたしがやったの!?」
 奈那子の手から光の筋が放たれた。今度は外さなかった。光の筋は目の前にいる男の肩を切り裂き、鮮血が地面にほとばしった。
「くっ……紫苑か!」
 男がそう叫んだ瞬間、他の黒尽くめの者どもが奈那子にいっせいに襲い掛かって来た。
 自らの意思とは関係ない動きをする奈那子の身体はバク転をして後ろに下がった。奈那子はバク転などできないはずだった。
 黒い六つの影が動き、奈那子を取り囲んだ。
 前後左右、そして上からも敵が襲い掛かって来る。だが、逃げようとする奈那子だが、身体はそれを許してはくれなかった。
 奈那子の手が煌きを放った刹那、腕を飛び、脚が飛び、首が宙を舞った。
 悲惨な光景を目の当たりにして、奈那子は吐きそうになってしまった。
「わ、わたしがやったの!?」
「貴様、よくも!」
 最後に残ったリーダー格の男が怒りを露にした。
 バラバラに切断された塊から血が流れ出ていた。辺りは血の海と化している。
「ううっ……」
 鼻につく血の香りで奈那子の胃が大きく動いた。口に手を当てて思わず再び吐きそうになってしまったが、どうにか堪えることができた。男の手にはナイフが握られていた。
 男が奈那子に襲い掛かって来る。だが、奈那子はそれどころではなく、うつむいて死にそうな顔をしていた。
 ナイフが奈那子の身体に突き刺されようとしているが、奈那子は気づかない。だが、奈那子自身が気づかぬとも身体が反応した。
 奈那子の足が急に振り上げられ、男は腹に激痛を覚えながら後方に吹っ飛ばされた。
 男の身体は信じられないほど後ろに飛ばされていた。その距離、六メートルほど。奈那子には不可能なことだ。
 奈那子の手が煌きを放ち、空間に一筋の光が走った。そして、空間には夜よりも暗い闇色の線ができていた。空間が裂かれたのだ。
 裂かれた空間の傷は唸り、周りの空気を吸い込みながら広がっていき、やがて大きな裂け目を造り出した。
 闇色の裂け目から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。
 奈那子の腕が前に伸び、口が勝手に開かれた。
「行け!」
 裂けた空間から〈闇〉が叫びながら飛び出した。それは男に襲い掛かった。
 〈闇〉は男の腕を掴み、足を掴み、胴までも掴み、身体中に絡みついた。
「な、何だこれは!?」
 男は〈闇〉を振り払おうとするが、すでに腕は〈闇〉に呑み込まれていた。
 〈闇〉が唸り声をあげると、男の身体は地面を引きずられて、空間の裂け目に呑み込まれていった。それと同時に辺りに散乱していた肉の塊も吸い込まれていき、地面には血が一滴も残ってはいなかった。
 空間の裂け目は閉じられ。奈那子は愕然とした。
 見てはいけないものを見てしまった。
 頭を抱えながら奈那子はふらふらと歩き出し、壊れたフェンスのところに向かった。
 綺麗とは決して言えない夜景が広がっている。
 奈那子は何かに引き寄せられるように下を覗いてしまった。
 あの時のように奈那子は絶句した。
 暗くてもなぜか見えた。遥か先の地面の上で血みどろになっている人、また香穂死んでいる。それを見た瞬間、奈那子は悲鳴をあげて気を失い屋上から再び転落した。

 ある日、二人の仲の良さそうな女子学生が楽しそうに歩いていた。
「ねえ、奈那子ちゃんあれ見てよ」
「なに、香穂?」
 人が集まる中心で人形遣いが劇を行っていた。
 二人はその光景を遠くから眺めながら通り過ぎて行った。
 そして、二人は顔を見合わせて不敵な笑みを浮かべたのだった。

 CASE01(完)


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