CASE 04‐怨霊呪弾‐
 影の悪戯か、蒼白い仮面が嗤ったように見えた。
「貴様に召喚[コール]を見せてやろう」
 召喚とはそこにいながらにして、時間と空間を超越し、超常的な力を持つ異界の住人をこの世に呼び寄せること。そして、〈それ〉を使役することができれば、あらゆる望みが叶えられると云われている。
「傀儡師の召喚を観るがいい。そして、恐怖しろ!」
 紫苑の妖糸が空に奇怪な魔方陣を描いていく。
 その魔方陣はまるで巨大な網のようであった。
 網目のような紋様から、〈それ〉の呻き声が聞こえた。
 そして、〈それ〉は汚らしい嗚咽を漏らし、この世に巨大な怪物を生み堕としたのだった。

 真夜中の峠を一台の真っ赤なフェラーリが走り抜ける。
 一寸先が闇という状況で、車のライトだけが頼りだった。それにも関わらず、フェラーリを運転している女はアクセルを強く踏む。いつ事故が起きてもおかしくない状況だった。
 ヘアピンカーブに差し掛かっても、女はスピードを緩めることなく、ハンドルを激しく切ってカーブを乗り切ろうとした。
 タイヤが悲鳴を上げ、道路に黒い跡が伸びる。
 車体はガードレースすれすれのところを抜け、どうにか直線道に入ることができた。ガードレールを突き破り、谷底に落ちていたら、まず助からない。落ちた衝撃で死ななかったとしても、真冬のこの時期では、暗闇の中で凍え死ぬのがオチだろう
 熱を帯びてハンドルを握る女に対して、助手席にいる青年の眼は冷めていた。
「亜季菜[アキナ]さん、もっとスピードを落としてください」
「ふっ、嫌よ。峠に来るとあたしの魂に火がつくの。走らずにはいられないのよ!」
 再びタイヤが悲鳴をあげた。
 車内にGがかかり、シートベルトをしていても、身体が左右に引っ張られてしまう。
 どうにか今回も谷底に落ちずに済んだ。
「もしかして亜季菜さんって、若いころ走り屋だったんですか?」
「今も十分若いわよ。峠に通っていたのは免許取立てのガキの頃の話」
「いくつの時に免許取ったんですか?」
「十八になってすぐ」
「なるほど」
 免許を取ってすぐに峠に挑む亜季菜の度胸に、青年――愁斗[シュウト]は呆れ返った。今も無茶をするひとだが、やはり昔からなのだと愁斗は納得し、彼は口を噤んで亜季菜の運転に身を任せた。
 いくつものカーブを抜け、そのたびに車体はガードレールを突き破りそうになったが、亜季菜の運転テクニックは神業と言えた。
 加速を続けていたにも関わらず、ガードレールに車体を擦らせることもなく、峠越えは間近に迫っていた。
「亜季菜さん、ブレーキを踏んで!」
 愁斗が叫び、車のライトが照らす前方に突如カーブが現れた。闇で見えなかったのではない。この峠を走りなれた亜季菜はそのことをよく知っていた。もう、カーブはないはずだったのだ。
 ブレーキを踏みながら、亜季菜はハンドルをめいいっぱい切ってカーブを曲がろうとした。
「なんなの!?」
 悲痛の混じった声で亜季菜は叫んだ。ハンドルが動かない。いくら力を込めても腕が震えるだけで、ハンドルは一向に動かなかった。
 悲鳴をあげるタイヤに混じって、甲高い女の笑い声が聞こえた。
 闇に浮かぶ亡者の顔を愁斗は見た。
 次の瞬間、車体はフロントからガードレールを突き破っていた。
「きゃぁぁぁぁぁぁっ!!」
 女の絶叫と共に赤いフェラーリは真っ暗な谷底に落ちていったのだった。

 眼を開けると、辺りは闇だった。その闇に浮かび上がる顔を見て、亜季菜は声があげてしまった。
「きゃっ!」
 そして、眼をぱちくりさせて、恥ずかしそうに声を漏らした。
「……あ」
 亜季菜の眼前に浮かび上がった顔は愁斗のものだったのだ。
「亜季菜さんの運転が乱暴だから――と言いたいところですが、悪霊かなにかの仕業でしたね」
「あたしのフェラーリは?」
 ここで初めて亜季菜は自分が宙ぶらりんになっていることに気がついた。
 片手を挙げた愁斗が残った手で亜季菜を抱えている。例え女性と言えど、中学生の愁斗が抱きかかえるのは無理がある。それを成せる業は、愁斗の操る妖糸が二人の身体をしっかりと固定しているからだ。宙で留まっていられるのも妖糸の成す業だ。
「フェラーリは谷底です。僕と亜季菜さんを固定して車内から脱出しました」
 谷底と聞いた亜季菜は足元に広がる闇に眼を見張ったが、一寸先は闇で何一つ見えなかった。
「なにも見えないわ。どうせなら爆発炎上してくれればよかったのに。映画なんかだとすぐ爆発するのにね」
 滅多なことをいうものではないが、今の亜季菜が置かれている状況を考えれば頷けるかもしれない。明かりがないのだ。
 夜空で雲が蠢き月を隠す。
 闇が怖い。亜季菜は闇が怖いのだ。昔から闇が怖かったわけでない、愁斗に出逢ってから闇を恐れるようになった。
 世界に二人だけ取り残された感じだった。闇が音を奪ってしまったように、木々のざわめきも、生きとし生けるものが放つ〝生命〟が感じられない。聞こえるのは自分の心臓の音と凍える息の音だけ。
 恐怖による振るえだけでなく、寒さにも震えていることに気づき、亜季菜は愁斗の身体に両手を廻した。
 二人の身体が密着する。
 愁斗の静かな息遣いが聞こえ、温もりも感じられる。そこにいることを感じ、亜季菜の心に安堵感が広がった。〝いる〟とわかれば、亜季菜は強い女性に変貌する。
「どーすんのよ愁斗。ずっとこのままでいるつもり? あなたと一緒に心中なんて嫌よ」
「このままだと凍死でしょうね」
「だったら早く地面に降りて、人のいる場所に行くわよ」
「下りても地面があるか確信が持てません」
「なに言ってるの?」
 足元に広がる闇。そこには地面などなく、奈落に続いているのではないかと思わせる。だが、地面がないなどありえないことだ。
「僕はガードレールに糸を巻きつけました。なのに壁がないんです」
 この言葉を聞いた亜季菜は慌てて闇に手を伸ばした。手で辺りを探るが何もない。ガードレールに糸を巻きつけたのであれば、吊られている自分たちは崖の近くにいるはずだった。その崖が存在しないのだ。
「もうひとつ」
 愁斗は落ち着いた口調で言った。
「さっきから糸を地面に垂らしているのに、地面に付いた感覚がないんです。ざっと五〇〇メートルほど伸ばしているはずです」
「そんなまさか?」
「どうしますか?」
「あたしに訊かないでよ。こういうのは愁斗の方が慣れているでしょ?」
 こういうのとは、この手の怪異のことだ。
「じっとしていても凍え死ぬだけです。上と下、どちらに行きますか?」
「どっちに行けば助かりそう?」
「どちらも危険な感じがします。特に下は死の臭いが立ち込めてる」
「じゃあ上ね」
「わかりました」
 ふぅっとエレベーターが上がる時のような浮遊感を亜季菜は感じた。
 身体が上がっていく。
 辺りの気配が変わった。風の流れが違う。妙な圧迫感。そして、水の臭い。
 頭上を見上げると灰色の光が見えた。
 二人は長いトンネルを抜けた。石でできた縁に手をかけて這い出る。二人の通ってきた道は井戸だったのだ。
 愁斗は頭上を見上げた。
「少し空の色が変ですね」
 物悲しい灰色の空が広がっている。曇りではなく、青空が色褪せて灰色になってしまったようだ。
 辺りを一周見渡すと、井戸を囲むように木造立ての廃れた家々が立ち並んでいた。どうやらここは小さな集落のようだ。
 一軒の家から腰を曲げた老婆が出てきた。銀髪のぼさぼさ頭の老婆は桶を持って、井戸に向かってくる。
 腰を曲げて地面ばかりを見ていた老婆が愁斗の前で顔をあげた。
「どこから来なすった?」
「道に迷って、気づいたらここに」
「外から人が来るのは、一年ぶりじゃったかのぉ?」
 老婆はところどころ歯の抜けた口でにこやかに笑った。
 すぐ横でケータイをいじっていた亜季菜は不機嫌そうな顔で愁斗を見つめた。
「圏外でケータイも使えないわ」
「使えたとしても使わないほうがいいですよ。繋がってはいけない場所と繋がるかもしれません」
 神妙な顔つきをする愁斗の発言の意味を亜季菜は理解できなかったが、愁斗の言うことに間違いはないと思い、ケータイをポケットの中にしまい込んだ。
 いつの間にか水を汲み終えていた老婆は顎をしゃくって家を示した。
「狭い家だが、わしの家で休むといい」
「ありがとうございます。その桶、僕が持ちましょう」
 愁斗は老婆の申し出を受け、水の満たされた桶を老婆から受け取った。しかし、亜季菜は嫌な顔をして口を挟んだ。
「あたしは休むよりも、早く大きな町か交通量の多い通りに出たいわ。お婆さん、大きな町にはどう行ったらいいのかしら?」
「山道を十里ほど行ったところに村があるよ」
「十里……十里……四〇キロも先なの!?」
 山道を四〇キロメートルも歩くなど、亜季菜は自分の体力では絶対無理だと判断した。しかも、あるのが〝村〟ときた。いったいどこに迷い込んでしまったのかと、亜季菜は頭を抱えた。
「亜季菜さん、この方の家で休ませてもらいましょう」
 すでに愁斗は老婆について歩き出していた。今はそうするしかないと亜季菜は思い、老婆と歩く愁斗の後を追った。

 そこは家と言うよりは小屋だった。雨露をしのぎ、寝泊まりに足りるだけの粗末な家床は今にも抜けそうで、障子は破れたまま放置されていた。
 金持ちの亜季菜の生活水準では考えられないほどの襤褸家で、彼女は靴のまま家に上がろうとしまったくらいだ。
 適当に座っておくれと老婆に言われ、二人が座った畳はささくれ立ち、服に細かいごみが付き、少し脚がチクチクする。
 落ち着かないようすの亜季菜は辺りを見渡しながら、襖の奥から人が咳き込むような音がするのに気が付いた。
「病人がいるのかしら?」
「わしの孫娘じゃよ。昔から身体が弱くてね、いつも床に伏しておる」
 襖がゆっくりと開き、蒼白い顔をした着物を来た娘が顔を出した。
「お客様かしら?」
 長く美しい黒髪を腰まで垂らし、端整な顔立ちをした娘の声は少しか細い。しかし、その体つきは若さに相応しく、着物から除く白い脚はもち肌で、少しはだけた襟首から除く胸も大きな膨らみを備えていた。
 娘は愁斗たちの前まで来ると、正座をして深く頭を下げた。
「私はこの家の娘で、お紗代[サヨ]と申します」
 相手のあまりに畏まった態度に、亜季菜は背筋を伸ばしてしまった。
「あたしは亜季菜、こっちは弟の愁斗よ」
 亜季菜から愁斗に視線を移したお紗代の頬に、ほんのりと赤みが差した。
 にこやかに微笑むお紗代は、亜季菜ではなく愁斗に話しかけた。
「しばらくここに滞在するのですか?」
「いいえ、できれば早くここから一〇里離れてるという村に行きたいのですが。姉もそれを望んでいます」
「そうですか……。ですが、今から村に向かったのでは、夜の山道を通ることになってしまいます。今日はどうぞこの家でゆっくり休まれて、明日の早朝にお出かけください」
「そうさせていただきます」
 愁斗は軽く頭を下げて亜季菜に視線を送った。やはり亜季菜は嫌な顔をしている。彼女はこの家に泊まるのも嫌だし、山道を約四〇キロも歩くのも嫌だった。
 とは言っても、この集落にある家はどれも同じで、亜季菜を満足させる家はないだろう。それに、交通手段があるとは思えないこの場所では、歩かなければ山を越えられないのも明白だった。
「最悪だわ」
 小さく呟いた亜季菜はすっと立ち上がった。
「少し外を歩いてくるわ」
「僕も行きます」
 外に出ようとする亜季菜の腕を掴み、愁斗の同行することにした。
 家を出ると、先ほどより辺りが暗くなっていた。空は依然として灰色で、朝なのか昼なのか夕方なのか、まったく区別がつかない。お紗代の話からすると、夜が近いらしいが、灰色の空からはそれを察することはできない。
「あたしあの家に泊まるなんてまっぴらごめんよ」
 吐き捨てるように言う亜季菜に対して、愁斗は淡々としていた。
「じゃあ、村まで歩きますか? もうすぐ夜が訪れるらしいですが」
 愁斗が空を見上げると、灰色が少し暗くなっているようだった。やはり夜が来るのかもしれない。
「歩くのは嫌よ。でもここにいるのも嫌」
「わがままですね。でも、いつかはここを出なくてはいけない。とは言っても山道に出たら最期かもしれません」
「どういう意味よ?」
「一〇里先に村などないかもしれないという意味です」
「あの人たちが嘘をついてるってこと?」
 愁斗が次の言葉を発するまでに少し時間があった。
「――ここは僕たちの住むべき世界ではないかもしれません。僕たちは異世界に迷い込んだのかもしれない」
「そんな……」
 ――莫迦な、と言おうとして亜季菜は口を噤んだ。
 現実と呼ばれる世界を生きている者としては、異世界という存在はにわかに受け入れがたい。いや、本来は受け入れてはいけないのかもしれない。魔導に通じる愁斗と関わりを持ってしまってはいるが、亜季菜はまだ人間なのだ。
 亜季菜はたまに思う。目の前にいる青年は人間ではない存在なのかもしれない。
「亜季菜さん」
「なに?」
 呼びかけによって愁斗をぼんやりみていた亜季菜の意識が戻された。
「亜季菜さんのジャケットに蜘蛛がついてますよ」
「ヤダ、取ってよ。愁斗ほら早く払ってちょうだい」
 身体を振り乱して慌てる亜季菜の前に立った愁斗は、ジャケットについている蜘蛛を片手でさっと払った。
 糸を引きながらジャケットから落ちる蜘蛛は、ふわりふわりと地面に降りた。そこへ赤いヒールが叩きつけられた。
「ぎゃぁぁぁぁぁっ!!」
 それは亜季菜が蜘蛛を踏み潰したのと同時だった。
 耳を塞ぎたくなるような苦悶に満ちた叫び声。
「お紗代さんの家ですね」
 走り出した愁斗を追おうと亜季菜は、蜘蛛を潰したヒールを地面にすり合わせ走り出そうとした。しかし、その脚は止まってしまった。
 民家から顔を出す人影。ひとつ、ふたつ、みっつ――村中の人々が民家から顔を出したそして、みな亜季菜を見ているのだ。無表情な瞳で。
 怖くなった亜季菜は全速力で愁斗の後を追った。
 まず愁斗が家に駆け込み足を止めた。
 すぐ後ろを追ってきた亜季菜も、家に入ったとたん顔を真っ青にして足を止めてしまった。
「なによ、これ……?」
 どうやって死んだら、人はこんな恐ろしい表情をできるのだろうか?
 四肢を曲げ、仰向けになっている老婆は白目を剥き、口からは泡を吐き、苦悶に満ちた形相をしていた。
 事切れている老婆の傍らで、お紗代は膝を付いて肩を揺らしていた。その頬から雫が流れ落ち、お紗代は振り向いた。
「亡くなりました」
 なぜ?
 とは訊けなかった。
 ゆらりと立ち上がったお紗代は老婆の両脇に自分の腕を差し込み、老婆の上半身を持ち上げた
「手伝っていただけますか? お婆様を家の外に捨てます」
 お紗代の言葉に亜季菜は訝しげな表情をした。
 亡くなった人間を家の外に捨てるなどという常識は、亜季菜の常識には当てはまらなかった。捨てるということは、死者を雨風に晒して朽ち果てさせるということなのだろうか。それは亜季菜にとって死者に対する冒涜にも思えた。
 立ち尽くす亜季菜を尻目に、愁斗は淡々とお紗代を手伝い、老婆の足を持ち上げていた。
「亜季菜さんは胴を持ち上げてください。死人は生者より重いですから」
 生きている人間は寝ていたとしても身体に力が入っている。しかし、死人は身体にまったく力が入っていない分、生きているときよりも重く感じられるのだ。
 胴を持ち上げた亜季菜は老婆の身体がまだ生暖かいのを感じた。心地よい温かさとは決していえない。できればすぐに手を離したかった。
 家の外はすでに人だかりであった。
 襤褸をまとった人々が輪を作るように集まってきている。農作業の途中だったのか、鎌などの刃物を持った者もいる。この集落に住む者たち全員が駆けつけて来たようだ。
 老婆を地面に降ろすと、人の輪が小さくなり、人々が老婆に群がった。
 お紗代は悲しみくれることもなく、足早に家の中に戻って行く。愁斗もその後を追った。亜季菜は一瞬後ろを振り向こうとしたのをやめて、すぐに愁斗の背中を追って家の中に入った。あの場に長居をしてはいけないような気がしたのだ。

 夜は更け、灰色の空は闇色へと変わった。
 結局、この襤褸屋で一晩を過ごさなくてはいけなくなってしまった。
 どうも落ち着かない。寝ようと目を閉じても、すぐに目を開けて寝返りを打つ動作をしてしまう。
 横で眠る青年は恐怖など微塵も感じさせない安らかな表情をしている。
「愁斗、起きてる?」
 ――返事はなかった。
 すぐ傍で寝ているにも関わらず、亜季菜は孤独感を感じた。まるで闇の中で独りぼっちになってしまったみたいだ。
 ガサガサと部屋の隅から物音が聞こえた。亜季菜は耳を済ませながら、部屋の隅を凝視する。物音のした場所は天井の隅だった。そこでなにかが動いている。
 針のような八本脚を持った奇怪な生物と目が合ってしまった。しかも、こちらの眼が二つに対して、あちらは五つもある眼で見ている。それは巨大な蜘蛛であった。体長一メートルはあろう、大蜘蛛が天井の隅に蹲っていたのである。
「愁斗起きて!」
 金切り声をあげた亜季菜を目掛けて、蜘蛛が糸を吐いた。
 幾本もの粘糸が闇の中に広がった。
「なにこれ!?」
 蜘蛛の吐き出した粘糸は亜季菜の四肢に絡みついた。手が動かない。足も動かない。身体の自由が奪われてしまったのだ。
 天井の隅にいた蜘蛛が亜季菜に目掛けて跳躍した。
 もう駄目だと思った瞬間、亜季菜の目の前で煌きが放たれた。
 長細い脚が一本、音を立てて床に落ちた。
「すみません亜季菜さん」
 蜘蛛の脚を切断したのは愁斗の放った妖糸であった。
 脚を切断された蜘蛛は、愁斗が亜季菜の安否を気遣っている間に、闇の中に消えてしまった。
「逃がしましたね」
 淡々と呟きながら、愁斗は亜季菜の身体に纏わり付いた粘糸を引きちぎる。蜘蛛の吐いた粘糸によって亜季菜の身体は自由を奪われていた。もし、愁斗が気付かなければ、亜季菜は逃げることもできず、蜘蛛の腹の中に納まっていただろう。
 慌てたような足音が聞こえ、亜季菜の声を聞きつけたお紗代が姿を見せた。
「どうかなさいましたか?」
 お紗代は口に手を当てて、息を呑み込んだ。
 粘糸に捕らえられている亜季菜の姿と、床に落ちている長細い脚。この場で奇怪なことが起きたのは一目瞭然だった。
 床に落ちている脚を見たお紗代は、それがなんであるかすぐに悟った。
「蜘蛛が現れたのですね」
 愁斗と亜季菜の視線がお紗代一身に注がれた。お紗代がなにかを知っていると、すぐに察することができたのだ。
 少々手こずりながらも、亜季菜の身体に絡みついた糸を取り払った愁斗は、立ち尽くしているお紗代を促した。
「蜘蛛についての話、詳しくお聞かせ願いたい」
「この地には古くから土蜘蛛が棲んでおります。普段は人里に姿を見えることはないのですが、食料の少なくなるこの時期になりますと、時折、子供の土蜘蛛が姿を現すことがあるのです」
 土蜘蛛とは日本古来からの怪物の一種である。
 愁斗は脱ぎ捨ててあった自分の上着を亜季菜に手渡した。
「僕の上着を着てください。そのベトベトの上着のままじゃ嫌でしょう?」
「ありがとう」
 短く礼を言って亜季菜は上着を受け取った。
 亜季菜の来ていたジャケットは蜘蛛の吐いた糸が絡み付いて落ちない状態だった。タイトスカートにも粘糸はついていたが、これは替えがないのであきらめるしかない。手足に付いた糸も後で洗い流さなければならない。
 着替えようとしている亜季菜にお紗代が声をかけた。
「私の着物をお貸ししましょうか?」
「いいえ、けっこうよ」
 少し強い口調で断った。お紗代の着ている着物は、お世辞にもいいものとは言えない。みすぼらしいと言えるその着物を着ることは、亜季菜のプライドが許さなかったのだ。
 お紗代はなにも言わず奥の部屋に姿を消した。その一瞬、亜季菜は振り返ったお紗代が自分を睨んだような気がした。しかし、なぜ睨まれたのかが見当も付かない。
 嵌め殺しの窓から微かに光が差し込んでいた。
「もうすぐ夜が明けるみたいですね」
 愁斗の横顔は光を浴びて輝いていた。
 どこか妖香の漂う青年の顔に見惚れている自分に気づき、亜季菜は大きく頭を振った。たまにこういう気持ちにさせられるときがある。お子様には興味のない亜季菜でさえ、魔法にかけられてしまうのだ。
「夜が明けたら、さっさと出かけましょう。もう、ここに長居するのはイヤよ」
「そうですね、お紗代さんに道を訊いて出かけましょう」

 やはり空は灰色だった。灰色の先に太陽はあるのだろうか?
 家の外に出た亜季菜は灰色の空よりも先に、地面に広がる黒い染みを見て顔をしかめた。
 赤黒い染みが地面にこびり付くように広がっている。その傍らにある襤褸布に、亜季菜の視線が移った。見覚えのある襤褸布は、あの老婆の着ていた服だったのだ。
 捨てられた老婆の逝く末になにがあったのだろうか?
 亜季菜はすぐに考えることをやめた。恐ろしい考えが頭を過ぎってしまったからだ。
 家の奥からゆらりゆらりと歩く蒼白い顔をしたお紗代が姿を現した。
「私が途中まで道案内をいたします」
 この蒼白い肌の娘が道案内をするというのか。亜季菜は愁斗と顔を見合わせようとしたが、愁斗は、
「よろしくお願いします」
 と、お紗代を見つめた。
 少し頬をほんのりと紅く染めたお紗代は、愁斗の横に寄り添うように立った。
「実は近道があるのです」
「近道ですか?」
 眼前に迫るお紗代の顔を前に、愁斗は少し首を傾げて尋ね返した。
「はい、地元の者しかしらぬ洞窟がありまして、そこを通り抜ければ、隣村まで六里ほどで行くことができます」
 六里はメートル法に直すと、二三キロメートルほどになる。
「では、参りましょう」
 静かな微笑を浮かべ、お紗代が歩き出す。愁斗はなにも言わずお紗代についていくが、亜季菜は乗り気ではなかった。目の前を愁斗と歩くお紗代を見ていると、自分の可愛がっているモノに変な虫が付いたようで嫌なのだ。
 前を歩く二人を追う途中で、亜季菜は家の物陰に小さな子供がいることに気が付いた。
 襤褸を纏った小さな男児が、憎悪と狂気に満ちた眼でこちらを見ている。なにがそんなに怨めしいのか、亜季菜にはわからなかった。
 自分の胸だけに留めることにし、亜季菜は愁斗たちを追った。しかし、もし亜季菜が男児の片腕がないことに気づいていたら、なにも言わずに立ち去ることはなかったかもしれない。

 多くの木々が生い茂り、薄暗く、不気味な獣道を進んだ。
「最悪だわ」
 と、亜季菜は歩き始めて数分で愚痴をこぼし始めたが、少し前を歩くお紗代は黙々と歩き続けていた。蒼白い肌をして、足音も立てない弱々しい歩みをして、それにも関わらず、お紗代のほうが亜季菜よりも体力があるように思える。身体が弱いというのが嘘のようだ。
 あの集落を出る前に、亜季菜は愁斗に言われてハイヒールの踵を折ったが、それでも運動靴に比べ歩きづらい。
「もう限界よ」
 弱音を吐いた亜季菜を引きずって、三キロほど歩いただろうか、前方に岩場が見えてきた。
 崖になっているその一角に、黒い口を開けている洞窟の入り口が見える。あそこが近道に違いない。
 洞窟に入る前に、お紗代は持参していた松明に火と灯した。
 明かりが闇に隠れていた洞窟の手前側を彩る。何かしらの道具で掘ったように整った洞窟は、自然にできたというより人工洞窟のようだ。過去に鉱石の発掘か、街道への近道として掘られたのだろう。
 薄暗い洞窟の中を各自持った三本の松明の明かりだけを頼りに歩く。
 ゆっくりとした歩調で慎重に歩く亜季菜は、足元や壁を注意深く見ていた。洞窟に潜む洞窟動物――ホライモリやホラトゲトビムなどの類がいることを心配しているのだ。
 闇の奥からガサガサとなにかが蠢く音が聞こえた。
 引きつった顔をした亜季菜は松明を前に翳して、
「ちょっと見てきてよ」
「僕がですか?」
「愁斗が行かなきゃ誰がいくのよ」
「――僕が行く必要がなくなったみたいです。急いで来た道を戻りましょう」
 巨大な影がこちらに近づいてくるのを確認して、亜季菜は愁斗の言葉の意味を理解して来た道を走って帰ろうとした。
「ごめんなさい、お帰しすることはできません」
 そこに立っていたのは背中に白い光を浴びるお紗代であった。
 愁斗と亜季菜の背後からは、巨大な塊がゆっくりと向かってきている。
 焦る気持ちを抑えながら亜季菜はお紗代に尋ねる。
「どういうこと?」
「ひいお婆様の糧とお成りください」
 一瞬、眼の錯覚と思い、亜季菜は目を擦ったが、それは錯覚ではなかった。
 身体の左右から一本ずつ突き出た枯れ木のような物体。それは脚であった。四つん這いならぬ、六つん這いの姿勢を取ったお紗代は、まるで昆虫のようであった。
 呆然と立ち尽くす亜季菜の腕を愁斗が掴んだ。
「出ましょう!」
 走り出す二人の前に立ちははだかるモノは、怪物と化したお紗代であった。
 顔はお紗代のままだが、身体はすでに変異し、蜘蛛と化していた。
 飛び上がったお紗代が愁斗たちに襲い掛かる。
 シュッと愁斗の手から放たれる妖糸。その糸は確実のお紗代を捕らえるはずであった。しかし、お紗代は糸を吐き出して、空中で身を翻して移動方向を転換して見せたのだ。
 自分の攻撃を躱[カワ]したお紗代に目もくれず、愁斗は亜季菜の手を引いて洞窟内から逃げ出した。
 草木の生い茂る道なき道を逃げる。
 風の音に紛れて何者かが蠢く気配がした。
「亜季菜さん、息を潜めて身を隠して」
「…………」
 亜季菜は固唾を呑み込んで無言で頷くと、愁斗と共に背の高い草むらの中に身を潜めた。
 草むらの隙間から見えた小柄な人影は、なにかを探すように辺りを見渡しながら歩いている。その人影に亜季菜は見覚えがあった。あの集落で見た片腕のない少年だったのだ。
 しかし、少年には腕があった。それはまさしくお紗代が変異した、あの姿に似ている。少年もまた蜘蛛の物の怪であったのだ。
 少年がギロリと目を動かした――次の瞬間!
 人間の跳躍力では成し得ぬ高さを少年は飛んだ。
 草むらから飛び出した紫苑の手から煌きが放たれる。
 少年の脳天から股間に紅い一筋の線が奔[ハシ]った。ずるりとズレる半身。すでに少年の身体は縦に真っ二つにされていたのだ。
 亜季菜は目を見張った。真っ二つにされて地面に落ちているはずの少年の残骸がない。換わりそこにあったのは、身体を真っ二つに割られた蜘蛛の死骸だったのだ。
「やっぱり、今朝方あたしたちを襲った蜘蛛だったのね」
「あそこにいた人々全員です」
 予想はしていたが、それでも亜季菜は驚愕した。
「どうして早く教えてくれなかったのよ!」
「それを知れば、亜季菜さんは過度の警戒をするでしょう。それは相手にも伝わります。あそこにいた全員を一気に敵に廻したくはないですから」
 蜘蛛の化け物に囲まれながら一晩を過ごしたと考えると、亜季菜は全身から血の引く思いだった。
「それに――」
 静かに呟きながら、愁斗は振り返った。
「君からは殺気を感じなかった」
 そこにいたのは、愁いの帯びた瞳を持つ儚げな娘――お紗代であった。
 人間と寸分変わらぬ姿に戻っているお紗代は、静かな落ち着いた声を発した。
「最初から私が蜘蛛の化身であることを見抜いていたのですね。あなたなら私たちを殺すこともできたでしょうに」
「僕は異形のもの全てが敵とは思わないよ。敵は同族の中にもいるからね」
「……そうですね。ですが、私たちはあなた方を喰らおうとしました。けれど、最初からあたなたちを喰らおうと思っていわけじゃありません。全てはあなたのせいです」
 お紗代が視線を移した先には、呆然とする亜季菜が立っていた。
「あたしのせい?」
「ええ、あなたが私たちの仲間を殺したから」
 殺した覚えなどない亜季菜は否定しようとしたが、脳裏を掠めた老婆の死相と、老婆が絶叫を発する寸前に自分が殺した蜘蛛とが、ひとつの糸に結びついたのだ。
「あたしはそんなつもりで……」
 口ごもる亜季菜にお紗代は詰め寄った。
「私たちは罠を仕掛けて狩りをする。自分たちが傷ついてまで食料を確保したいとは思いません。だから私たちはあなた方を見過ごすつもりだったのに……」
 哀しそうな瞳をするお紗代を黒い影が覆った。
 それは巨大な蜘蛛であった。
 体長五メートル、脚を入れればもっとだ。その蜘蛛はまさにあの洞窟の奥に潜んでいた蜘蛛であった。
 巨大蜘蛛の紅く光る五つの目は、愁斗と亜季菜の二人を捕らえていた。そして、片言ながらも人語をしゃべりはじめたのだった。
「我ガ領土ヲ侵シタノミナラズ、愛シイ我ガ子ヲ殺シタ罪、我ラガ贄トナリ償エ!」
 巨大蜘蛛は尻からのみならず、全身から粘糸を放出させた。
 投げ網のように宙で広がる粘糸に向かって愁斗の妖糸が放たれる。だが次の瞬間、愁斗の眼が見開かれた。
「まさか!?」
 放った妖糸は蜘蛛の巣を切ることができず、粘着性のある蜘蛛の糸に捕らえられてしまったのだ。
 そして、粘糸は愁斗の放った妖糸だけではなく、愁斗の身体をも捕らえてしまったのだ。
 簀巻き状態にされてしまった愁斗に巨大蜘蛛が飛び掛かるその牙からは猛毒が分泌され、ひと噛みされれば、全身は痙攣を起こし心臓麻痺を引き起こしまう。
「愁斗!」
 亜季菜の叫びが木霊した。
 巨大蜘蛛によって引きちぎられる肉。傷口から紅い血が噴出し地面を染めた。
 ――刹那。
 一筋の煌きが巨大蜘蛛の身体を引き裂いた。
 それはかろうじて動く指先で放った愁斗の一撃であった。
 着物を紅く染め、お紗代は簀巻きになって地面に寝転ぶ愁斗の上に覆いかぶさった。お紗代の左肩は喰い千切られ、腕は地面の上に転がっていた。
「何故ダ、何故ダ!!」
 巨大蜘蛛はお紗代を睨付けながら命を引き取った。そう、巨大蜘蛛が牙をかけた相手は、愁斗ではなく、お紗代だったのだ。
「嗚呼、私はなんてことを……。敵を助けたと知れれば、私は未来永劫同族に呪われることでしょう」
 生き絶え絶えになりながら、お紗代は口から分泌液を出して、愁斗の身体に巻きついた粘液を溶解していった。
 愁斗が自らの身動きができるようになった時、蒼白い顔をしたお紗代は愁斗の胸に顔を埋めた。
「できれば、貴方様のお傍にいたかった。同じ種族に生まれたかった」
 自分の胸の中で眠りの落ちようとする娘に、美しき顔を持つ堕天使が囁きかけた。
「僕の傀儡になれば、仮初の永久をあげよう」
 お紗代は愁斗の言葉の意味を理解できなかった。それにも関わらず、お紗代は魔法にかかってしまったように、目の前の美しい悪魔に魅了され、無言のまま頷いてしまったのだ。
 儚く散ろうとしている娘の頷きに、愁斗は静かな微笑で迎えた。
「禁じられた契約を交わそう」
 まだ息のあるお紗代の胸に煌きが放たれ鮮血を噴いた。
 剥き出しになった心臓が弱々しく鼓動を打っている。なんと、愁斗のそこに手を突き入れたのだ。
「君のアニマは僕の糸によって束縛される」
 魔導の力によって細工されるお紗代の心臓。
 生物から物へ造り変えられる躰。
 仮初の永久を与えられ、開かれた胸の扉は妖糸にとって縫合された。
 蒼白い顔がほのかに紅くなっていく。
 そして、愁斗はお紗代の胸の中心に契りを交わした証拠として秘密の印を残した。
「同族に呪われるより、僕と共にある方が何倍も苦しいだろう。しかし、君が選んだ道だ」
「貴方様と入られるなら」
「さあ、闇の中にお入り」
 愁斗の手から煌きは放たれ、宙に一筋の傷をつくった。
 闇色の傷は唸り声をあげながら広がっていく。
 鎮魂歌[レイクエム]がどこからか聞こえた。いや、違う。それは鎮魂歌などではない。
 歌声は悲鳴のようで、泣き声のようで、呻き声のようで、どれも苦痛に満ちている
 目を閉じならが、その場にしゃがみ込んでしまっている亜季菜は、両耳を強く強く塞いだ。
 愁斗の胸からお紗代の身体が離された。
「さあ、連れて行くがいい」
 裂けた空間から〈闇〉が泣きながら飛び出した。
 嗚呼、お紗代の白く美しい肌を、〈闇〉が犯していくではないか。
 〈闇〉がお紗代の腕を掴み、細い脚を掴み、豊かな胸を掴んだ。
 全身を〈闇〉に呑まれたお紗代が開かれた門[ゲート]の中に引きずり込まれていく。
 愁斗に召喚[コール]されるまで、蜘蛛の化身お紗代はあの世界で過ごさなければいけない。
 いつか愁斗に召喚[コール]されるまで……。
 しゃがみ込んで震えている亜季菜に、繊手が優しく差し伸べられた。
「亜季菜さん、僕らの世界に帰りましょう」
 亜季菜が顔を上げるまで、少し時間があった。
 けれど、亜季菜はしっかりと愁斗の手を握ったのだった。

 奇怪な紋様が空に描かれ、〈それ〉が呻き声をあげた。
 愁斗の作った網目の魔方陣は、これを呼び出すための〝巣〟だ。
 〈それ〉は汚らしい嗚咽を漏らし、この世に巨大な蜘蛛の怪物を生み出す。

 傀儡として与えられた運命[サダメ]。

 CASE03(完)


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