Scene1 黒い猫
 怨霊呪弾。
 幼女が泣き叫び、男が吼え、老婆が嗤う。
 怨霊たちが蠢き、闇を形成する。
 蒼白い仮面の奥で紫苑はなにを思うのか?
 リボルバーから発射された怨霊呪弾を紫苑が迎え撃つ。
 人の怨念を孕んだ呪弾は、発射された直後から紫苑へ向かう途中、辺りの怨念を吸収してさらに力を増していた。
 暗い路地のこの場所は、別名〈切り裂き街道〉と呼ばれる通り魔の多発地帯だった。
 紫苑の目の前で〈闇〉が産声をあげた。それは呪弾の産声か――否。魔導師であり傀儡師である紫苑が呼び出した〈闇〉。
「喰らえ、叫べ、恐怖しろ!」
 仮面の奥から響く声と共に〈闇〉が咆哮をあげた。
 迫り来る怨霊呪弾を〈闇〉が大きな口を開けて迎え撃つ。
 ヘドロが泡立つ音がした。
 〈闇〉が、〈闇〉が怨霊を喰らう。より強い怨念が、弱いモノを喰らったのだ。
「あんた、なかなかやるじゃないか!」
 薄暗い路地に、西部劇から飛び出してきたみたいな、テンガロンハットの女ガンマンの声が響いた。その怨霊を扱うとは思えない容貌と活発な声。
 紫苑は相手に言葉を返さずに、〈闇〉を還すと女ガンマンに背を向けた。
 再び紫苑に向けられる銃口。
「逃げる気?」
「私は君に心の弱さを見た。哀れで殺す気も起きない」
「なんですって!?」
「強がるのは疲れるだろうに。疲れたときは、その銃を捨てればいい」
「バカいうんじゃないよ!」
 上ずり声をあげ、逆上した女ガンマンはリボルバーの引き金を引いた。
 路地に一筋の煌きが放たれた。
 紫苑の放った妖糸は実体のない怨念を容赦なく切り刻んだ。
 耳を塞ぎたくなる絶叫が木霊する。
「〈操りの糸〉で葬られたモノは、成仏できずに縛られ苦しみ囚われる。それらの存在は私を呪い、私の力の糧となる。君は派手な装いと、気丈な態度で怨念に憑かれないようにと必死なのがわかる。君は自分の扱っている力に恐怖している。それではいつか怨念に呑まれるぞ」
 紫苑はそういい残し、夜闇の中に消えていった。
 残された女ガンマンは、紫苑が語る最中も、背を向けて立ち去る最中も、再び銃を構えることができなかった。
 圧倒的な力の差。いや、それだけが理由ではない。再び怨霊呪弾を使ったとき、果たして今の気持ちで怨念に飲み込まれずに済むか。紫苑の言葉により、女ガンマンの心には確実に恐怖が広がっていたのだ。

 グラスにビールを注ぎながら亜季菜はソファーにどっしりと腰を掛けていた。
「その女ガンマンが出てきて標的[ターゲット]に逃げられたの?」
「そうです」
 愁斗は短く答えた。その口調は機械的で、感情がまったく感じられない。
 鼻でため息をついて亜季菜はグラスの中身を一気に飲み干した。口の周りの泡を手の甲で拭うと、ついで亜季菜は唇を艶かしく舌で舐め取った。
「今日のビールは苦いわね」
「皮肉ですか?」
「そうよ」
 再び瓶からグラスにビールを注ごうとするが、グラスの中には滴が落ちるのみで、亜季菜はビール瓶を持ちながらキッチンを指差した。
「ビール取ってきて」
「それが最後です」
「うっそ~ん」
 床には空瓶が一本、二本……六本もある。飲みすぎだ。それでも酒豪の亜季菜はまったく酔った様子もない。
「ビール切れたなら、こっち来て肩揉みして頂戴」
 酔ってなくても絡むのは普段からだった。
 愁斗は嫌な顔をしながらも亜季菜の肩を揉み始める。昔は嫌な顔すらしなかった。
 嫌な顔をするのは、感情を表に出すようになって来た証拠だと亜季菜は思っている。ただ、仕事のことになると、機械的で感情が乏しくなる。仕事の内容を考えれば感情を消したほうがいい。けれど、亜季菜は愁斗にただの人形になって欲しくないと思っていた。
「肩はもういいから、次は脚」
 そう言って亜季菜はソファーの上でうつ伏せになる。肘置きに両腕をクロスさせながら置き、頭と足がソファーから少しはみ出る。
 ミニスカートから伸びた脚はスラリと長く、引き締まってはいるが女性特有の柔らかさも備えていた。食べてしまいたいとはよく言ったものだが、亜季菜の脚はまさにそれと言えよう。
 ふくらはぎを揉まれる亜季菜の表情は至福の笑みを浮かべている。
「あぁん、やっぱり愁斗のマッサージが一番効くわ。そのまま腰も揉んで頂戴」
「わかりました」
「昨日ホテルで呼んだマッサージが下手で下手で、すぐに帰ってもらっちゃったわよ」
 マッサージをする愁斗の手つきは成れたものだ。妖糸を扱う傀儡師ということもあってか、指先の動きは卓越しており、並みのマッサージ師よりよっぽど上手い。
 腰に手を掛けたところで愁斗の指に力だ入った。
「ところで亜季菜さん」
「なにかしら?」
「女ガンマンについてなにか心当たりは?」
「まだ仕事の話する気?」
「はい」
「嫌よ」
「困ります」
「明日」
「わかりました」
 愁斗は粘ることはなかった。気分屋の亜季菜にごり押しをしても駄目なときは駄目だ。明日というなら明日まで待つしかない。だが、必ずしも明日まで待つ必要はない。
「マッサージ終わったら伊瀬クンに調べさせるわ」
「今日も伊瀬さんは外で待機ですか?」
「そうよ」
「たまには部屋に呼んだらどうですか?」
「愁斗ってば、いつからそんな気遣いできるようになったの?」
 問いに対して愁斗は無言で答えた。それっきり愁斗は口を開くことなく淡々とマッサージを続けた。
 亜季菜はため息をつく。沈黙を好まない彼女はめんどくさいそうにテーブルの上からケータイを取った。掛ける相手は今出たばかりの名前だ。
「もしもし伊瀬クン部屋に来て頂戴」
《緊急事態でしょうか?》
「違うわよ。たまには部屋で一杯やりましょうよ」
《勤務中なので丁重にお断りします》
 すかさず愁斗からもツッコミが入る。
「お酒はもうありませんよ」
「わかってるわよ」
《わかっているなら、誘わないでいただきたい》
「そうじゃなくて!」
 怒ったように亜季菜は声を張り上げた。
「そうじゃなくて、今のは伊瀬クンじゃなくて愁斗に言ったのよ」
《そうですか》
 二人そろってこの口調だ。どちらも機械的で、性質の違う亜季菜を疲れさせる。友達ならばとっくに疎遠になっているタイプだ。それでも亜季菜が二人と付き合うのは、彼女にとって〝メリット〟があるからだ。
「とにかく、部屋に至急来て頂戴。愁斗も会いたがってるわよ」
 伊瀬の返事を待つ前に亜季菜はケータイを切った。
「僕は別に会いたいだなんて言ってませんけど」
「気にしない気にしない」
 マンションのインターフォンはすぐに鳴った。
 もちろん亜季菜に否応なしに呼ばれてしまった伊瀬だ。
「愁斗君こんばんは」
「こんばんは」
 玄関からすぐに愁斗によって伊瀬はリビングに通された。
 リビングでは亜季菜がタバコを吹かせている。
「さっそくだけど伊瀬クン仕事よ」
「仕事なら『一杯』などと言わずに、最初からそう言ってくださればよかったのに」
 視線を落としながら伊瀬はソファーに腰掛けて眼鏡を掛けなおした。これが彼の準備万端の合図だ。
 亜季菜は愁斗に促し、女ガンマンについての情報を語らせた。
 背格好やおよその年齢、愁斗が女ガンマンの特徴を語るのを伊瀬は静かに目を閉じて耳を傾けていた。もちろんただ聴いているだけではない。このとき伊瀬の脳内では、常人では考えられないほどの情報量が瞬時に処理されていた。
 俗に記憶屋と呼ばれる者たち。その者たちの仕事は物事を記憶すること。使う道具は己の脳のみ。脳をまるでハードディスクのように、瞬時に記憶し、検索し、必要な情報を取り出す。それが記憶屋だ。
 記憶屋の中には亜種もおり、サイボーグ手術によって記憶媒体を身体に――主に脳に埋め込むタイプもいるが、脳に及ぼす影響や、環境の変化に弱い。そのため、人数も少ないことも相まって、ナチュラルタイプは重宝される。
 今ここにいる伊瀬は両親共にナチュラルのサラブレッドだった。しかし、両親共にナチュラルタイプであっても、子供がその能力を必ず受け継ぐわけではない。あくまで確立が高くなるだけだ。
 記憶を伝達するシノプシスに電気が走る。
「該当件数は1ですね。第一予備候補と第二予備候補を加えると数に変動がありますが、特徴的な人物ですから一桁以内には該当者がいると思います」
「その第1候補の名前は?」
 愁斗が尋ねた。
「ヴァージニア――若手のヒットマンですが、ここ最近の間にランクを上げているようです。その名前が裏の世界に現れたのは3年ほど前、それ以前のデータんいついては私も記憶していません」
 ランクとは殺し屋などの総合ランキングのことである。もちろんランキングが高いということは報酬も高くなり、ランキングを上げるということは殺し屋たちステータスになるのだ。
 しかし、ランキングに名前を乗らない、トップレベルの殺し屋もいることを忘れてはならない。
 愁斗――裏の世界での名は紫苑。その紫苑が狙った今回のターゲットは、姫野亜季菜が別の人物の名義で興した会社の技術者であった。その技術者が開発した新兵器と一緒に逃げ、別の会社にその新兵器を売ろうとしているというのだ。
 幸運なことにまだ取引は行われていないらしく、紫苑に設計図などのデータと逃げた技術者の取り押さえが命じられたのだ。しかし、技術者を目の前にして女ガンマン――ヴァージニアが現れたのだ。
 ヴァージニアの狙いは技術者だった。なぜ技術者を狙うのかわからないが、同じく技術者を狙う紫苑と鉢合わせし、紫苑を妨害したのだ。つまり、技術者を誰が殺しても構わないというわけでないらしい。それは紫苑とて同じだった、技術者から設計図などのデータも取り返さなければならないため、葬るのそのあとだ。
 ということは、ヴァージニアもまた設計図を狙う別の企業に雇われたのだろうか?
 それはおそらく違うだろう。ヴァージニアは純粋なヒットマンであり、ターゲットを殺すことだけが仕事だ。それ以外の仕事はしないのだ。ではなぜ?
 仕事を終えた伊瀬が立ち上がった。
「ヴァージニアについて詳しく調べてみます。では、私は外での待機に戻ります」
 部屋を出て行こうとする伊瀬を亜季菜が止めた。
「ちょっと待ってよ伊瀬クン、たまにはウチでのんびりして行きなさいよ」
「私の仕事は24時間、のんびりなどしていられません」
「あっそ」
 亜季菜が突き放したように言うと、伊瀬は雇い主に背を向けて部屋を出て行ってしまった。

 ヴァージニアはベッドの中で震えていた。
 怨霊呪弾は人の怨念を封じ込め作られた邪道の呪弾。それを扱うものは強い精神力を持っていなければならない。さもなくば、自らの呪弾に呑まれてしまうのだ。
 今まで使っていた怨霊呪弾が怖い。怨霊呪弾が恐ろしいとヴァージニアははじめて思った。いや、自分の使っている怨霊呪弾が子供の玩具だと思い知られされたのだ。
 あの仮面の男は何者なのか?
 違う、そんなことじゃない。
 あの男が扱った〈闇〉が問題なのだ。
 〈闇〉とそれが這い出てきた〈向こう側〉の異界。あんなおぞましい狂気を孕んだモノがこの世のモノのはずがない。だから異界なのだ。
 ヴァージニアは怨霊呪弾の技を日に日に磨いていた。呪弾の孕む怨念が増し、強力な力となる。それを扱うためには精神力も鍛えなければならなかった。
 いつか自分の扱う怨霊呪弾もあの〈闇〉のようになるのだろうか?
 ――無理だ。
 いくら自分が精神力を鍛えても、あんな異常なモノは扱えない。
 きっとあの仮面の男も人間じゃないんだ。
 仮面の奥には悪魔か魔物が棲んでいるに違いなんだ。
 ヴァージニアは必死に震えを止めようとした。このままでは自分自身が怨念に呑み込まれてしまう。それは死よりも苦しい。
 ベッドから起きたヴァージニアは、脇に置いてあったリボルバーを見た。
 幾何学模様の刻まれたリボルバーと怨念を封じ込めてある呪弾。これを捨ててしまえば、恐怖から開放される。
 ――強がるのは疲れるだろうに。疲れたときは、その銃を捨てればいい。
 あの男の声がヴァージニアの脳裏に響いた。
「大丈夫、アタシは大丈夫さ。アタシにはこれが必要なんだ。アタシが頼れるものはこれしかないんだ」
 自分に言い聞かせ、ヴァージニアはリボルバーを手に取り、そっと胸に押し当てた。
 二つの鼓動が共鳴する。
 ヴァージニアはリボルバーを台の上に置き、再びベッドに入った。
 そして、意識は安らかな闇の中に落ちていくのだった。

 いつもと変わらぬ授業風景。
 学生服を着た生徒たちが黒板に机を向けて授業を受けている。
 教師の話を聞かずにおしゃべりをする者、机の下でこっそりマンガを読んでいる者、堂々とケータイをいじっている者。
 そして、真摯な眼差しで黒板を見つめ、ノートを取っている者。だが、その者の片手は机の下で忙しなく動かされていた。――愁斗である。
 愁斗は遥か遠くにいる〝傀儡〟を遠隔操作しているのだ。
 学校を休むこと自体は問題ではないが、中学生である愁斗が真昼間から堂々と町中を歩くのは問題がある。補導される可能性は低いが、人目について印象に残るのはまずい。
 愁斗が操っているのは以前、傀儡に造り変えた若いOLだった。普段はどこにでもいるOLとして生活している彼女だが、愁斗との契約により、時として愁斗の傀儡として活動する。操られている最中の記憶はない。事が終われば彼女は普通の生活に戻っていくのだ。
 今は個人ではなく、ただの傀儡だ。
 愁斗の操る傀儡は町中を歩いていた。
 どこにでも有り触れた住宅街。まばらだが、たまに車の通る。
 平凡の中にこそ、非凡が身を潜めているのだ。
 傀儡はアパートの前に立っていた。築20年以上の安アパートだ。
 かつんかつんとヒールを鳴らしながら傀儡は鉄製の階段を上る。そのまま向かう先は203号室だ。
 インターフォンが鳴った。
 203号室の奥からは物音ひとつしない。
 もう一度インターフォンが鳴った。
 やはり、物音ひとつしなかった。
 再度インターフォンが鳴ると、部屋の奥で微かに物音が鳴った。このとき、生身の体であれば、ドアのすぐ側に立つ人間の気配を感じられただろう。住人がドアスコープで外の様子を伺っていたのだ。
 しつこくもう一度インターフォンを鳴らした。
 すると今度は明らかな物音がして、ドアが微かに開かれた。
 チェーンロック越しに、眼鏡をかけた男の眼が覗く。
「どなた?」
 男の声は微かに怯えていた。
「保険会社の者です」
 これは嘘ではない。普段この傀儡は保険会社で訪問セールスをしているのだ。
「そういうのは結構だから」
 男はそういうとドアを素早く閉めてしまった。
 愁斗は傀儡の眼を通して男の姿を確認していた。間違いない探している男だ。
 目の前の現実で鐘がなった。
 教師が教室を出て行き、教室が一気にざわめき立つ。
 愁斗も何気ない仕草で席を立ち、ポケットからケータイを出すと窓辺に寄りかかり、伊瀬に電話をかけた。
「もしもし」
《ご用件は?》
「探し物を見つけました――」
 その後、愁斗は住所だけを言って通話を切った。
 愁斗の仕事はここまでだ。後は誰かが引き継いで男を確保するだろう。
 日常の景色に溶け込んでいく愁斗。
 授業の開始を知らせるチャイムが鳴る。

 学生だけに与えられた時間――放課後。
 夕焼け空の下、愁斗はひとりで帰路についていた。
 学校での友達はいない。転校して来たばかりということもあるが、愁斗自身が意図的に友達を作らないようにしていたのだ。
 愁斗のケータイが鳴った。
「もしもし」
《伊瀬です。男に逃げられてしまいました》
「それで僕になにをしろと?」
 自分に電話をかけてきた以上、なにか頼み事があるに違いなかった。
 とても簡潔でスムーズに話が運ぶ。
《どこで嗅ぎ付けたのか、あの女ガンマン――ヴァージニアとも遭遇してしまいました。愁斗君には女ガンマンの処理をお願いします》
「場所は?」
《愁斗君がいる駅から1つ前の駅から、愁斗君のいる駅方向へ走っている電車です》
 足を止めて通話をしていた愁斗だが、伊瀬の言葉を聞いてすぐに階段を上がり駅内へと急いだ。
「桂木もその電車にいるんですか?」
 桂木とは亜季菜たちが探している設計図を盗み出した研究者の名前だ。
《はい、ですから、すでに桂木とヴァージニアが遭遇した可能性は大いにあります》
「電車の中で殺されると思いますか?」
《では、よろしくお願いします》
 答えは返されず通話を切られた。
 愁斗は急いで改札口を通り抜け、ホームに目をやった。電車は来ていないが、すぐに電車が到着するとアナウンスで放送されている。
 下り線のホームに電車が到着する。愁斗はすぐに乗り込むことをしない。辺りの様子を伺いながら、降りてくる乗客の確認をしていた。
 ――いた。
 眼鏡の男にぴったり寄り添うブロンドヘアーの女性。二人には見覚えがある。ひとりは桂木、もうひとりは前に会ったとき違いラフな格好をしているが、テンガロンハットだけは前と変わっていない。
 カップルとは思えない。援助交際にも見えない不釣合いな男女の前に愁斗が立ちはだかった。
「お二人にお話があります」
 桂木は額にも鼻の頭にも脂汗をじっとり滲ませていた。後ろにいるヴァージニアは不信の目で愁斗を見つめて黙っている。
 学生服に身を包んでいるが、中身はただの学生ではない。ヴァージニアはそれを瞬時に悟っていた。自分と同じ、血の香りがする。
 ヴァージニアは桂木の腕を掴んで走り出そうとした。しかし、桂木の身体は石のように硬くびくともしない。愁斗が桂木の身体を妖糸で固定していたのだ。
 だが、愁斗はこのとき致命的なミスに気づいていた。
 ヴァージニアがリボルバーを抜いたのだ。
 人の大勢いるホームで騒ぎを起こすわけにはいかなかった。少し前まではヴァージニアもそう考えていただろう。しかし、目の前に謎の中学生が現れてしまったのだ。
 銃口が愁斗の眉間にターゲッティングされる。
「この男に掛けた術を解きな!」
 ヴァージニアは桂木の身体が動かなくなったことを瞬時に謎の中学生と結び付けていた。
 向かいのホームに電車が到着しようとしている。
 駅員がそろそろ駆けつけて来るかもしれない。
 〝愁斗〟として騒ぎを起こすことは絶対あってはならなかった。
「早くこの男を動けるようにするんだよ!」
「望みどおりにしよう」
 愁斗が呟く。
 すると次の瞬間、桂木がぎこちない足取りで走り出したのだ。
 ホームを駆け出す桂木を見てヴァージニアに一瞬の迷いが生じる。彼女は桂木を選んだ。目の前の中学生を見ながらも、逃げ出す桂木を追ったのだ。
 逃げる桂木よりもヴァージニアの方が明らかに早い。このままでは追いつかれるのは時間の問題だ。
 生きている人間を操るのは難しい。〈操糸〉の術はまだまだ完成されていないのだ。
 後に使えることになる〈切糸〉も、今の愁斗は生身のままでは使うことができなかった。
 急いで愁斗はケータイを取り出した。
「もしもし、伊瀬さん桂木を〈操糸〉で確保しました。大至急駅の東口に車を回してください」
《白いバンがすぐに向かいます》
 桂木の後をヴァージニアが、その後を愁斗が追っていた。
 遠隔操作している対象から絶対目を放してはならない。傀儡であればその眼を通して映像を〈視る〉ことができるが、生きてる人間ではそうもいかなかった。生きている人間は肉眼で確認して操作しなければならなかったのだ。
 気を失っていない人間を操るのは最悪だ。
 階段を転げ落ちないように慎重に下り、桂木の身体は駅前のロータリーに運ばれた。
 本来タクシーだけが進入を許された場所に白いバンが乗り込む。
 バンはスピードを緩めながらも停車することなくドアが開けられ、帽子を目深に被ったスタッフが桂木に向かって手を伸ばした。
 ガシッと桂木の手首が捕まれると、桂木の身体は呑み込まれるようにして車内に引きずり込まれた。
 バンのケツにヴァージニアが銃口を定める。
 悲鳴があがった。
 この世のものではない叫び。
 幼女が泣き叫び、男が吼え、老婆が嗤う。
 怨霊呪弾がバンに向かって発射された。
 発射された呪弾はバンを後部を掠め、金属を溶解したように溶かしてしまった。
 的を外れ呪弾は通行人に当たり、通行人の身体は〈闇〉色の傷痕を残し、痛みよりも恐怖で発狂し、蒼い炎によって焼かれて死んでしまった。
 辺りは一瞬にして騒然とし、なにが起きたのか理解できないまま人々は逃げ惑った。
 桂木に逃げられ、ヴァージニアは辺りを見回すが、謎の中学生の姿もすでに消えていた。
 駅前の交番から警察が駆けつけてくる。
 ヴァージニアもまた雑踏の中へ姿を消したのだった。

 身体の自由を奪われたまま、桂木は車内の座席に座らされていた。
「設計図はどこにある?」
 体つきのいい近藤が桂木の尋問に当たっていた。
 車の中にいるのは運転手を含める男3人と、桂木の計4人だった。
 線路沿いに走っていた車はとある駅前で停車し、5人目を乗せることになった。電車で移動してきた愁斗だ。
 桂木の身体は愁斗によって拘束されたままだ。これを自由にできるのは愁斗だけだ。だが、今はまだ解くわけにはいかない。
 改造されたバンの中は機材が詰まれ、ほとんどの座席は取り払われてしまっている。
 愁斗は桂木の前に立った。
「設計図はどこにありますか? しゃべっていただけないのなら、今あなたを拘束している〝力〟であなたの身体を締め上げますがよろしいですか?」
 この〝力〟について、桂木は身にしみて理解していた。あのとき、自分の意思に反し身体を動かされ、抵抗するが激しい痛みが身体の芯を貫き、抵抗をすることも止めても無理やり動かされる身体には痛みが走ったのだった。あれが意図した痛みでないとしたら、意図して痛みを与えたときの痛みは想像を絶する。
 桂木の表情は怯えきっていた。いつか傀儡を通して愁斗が見たときよりも怯えている。
 設計図を盗み出し転売しようとした割には、小動物のように震え上がる小心者のようだ。
 恐怖は限界まで達し、防波堤が崩れたように桂木は口を開く。
「駅だ、駅にある。駅のロッカー、コインロッカーに隠してある」
「鍵はどこに?」
 愁斗の口調は刃物のように研ぎ澄まされていた。
「鍵はここだ。私の背広の内ポケットに入ってる」
 近藤が無造作に桂木の背広の内ポケットを探り、小さな鍵を見つけ出した。確かにそれはコインロッカーの鍵のようだった。
 近藤が桂木の胸倉を掴んだ。
「どこの駅だ!」
「羽呂[ハロ]駅だよ、羽呂駅の南口にあるコインロッカーだよ」
 脂汗をじっとりと掻き、蒼ざめた顔をする桂木の言葉に嘘はないように思える。そこに愁斗が追い討ちを掛ける。
「嘘だった場合はそれ相応の手段を取らせてもらいます」
 桂木は震えながら頷いた。震えすぎて首を縦に振っているのか横に振っているのかわからない。
 羽呂駅は現在いる駅から、6つ行ったところにある駅だ。今来た道とは反対方向にある。だとしても、ヴァージニアと鉢合わせということはまずないだろう。
 車は一路、羽呂駅へと向かう。念のため、この場所で他の色のバンに乗り換えるという念を入れた。あの駅で騒ぎを越したことと、ヴァージニアへの警戒のためだ。
 線路沿いに車を走らせ、5つの駅を跨ぎ辺りの景色にビルが増えてきた。もうすぐ羽呂駅だ。
 羽呂駅近くで近藤が車から降り、桂木や愁斗たちを残して駅の中に入っていった。
 いくつかの路線が交わる羽呂駅は大きく、ショッピングモールも隣接しているために人通りが多い。この街で人を探すのは大変だろう。紛れてしまったら見つからないかもしれない。
 ――しばらくして、近藤が早足で戻ってきた。
 近藤はバンの中に戻るなり、桂木の胸倉に掴みかかった。
「おい、設計図はどこだ! ロッカーの中は空だったぞ!」
 この言葉を聞いて桂木は飛び出しそうなくらい眼を見開き、血の気の引いた蒼白い顔を振るわせた。
 否定の言葉を発したかったが、喉もカラカラで桂木は口をあんぐりままだ。
「あ……あが……そ、なんな……」
 『そんなばかな』とでも言いたかったのかもしれない。だが、近藤の追及は激しさを増した。
「よくも騙したな、まずは手の指からへし折ってやる!」
「……違う、ちが……違うんだ」
「なにがだ!」
「嘘なんて言ってない信じてくれ!!」
 心の底から叫んだ。そこ叫びが通じたのか、桂木と近藤の間に愁斗が割って入る。
「近藤さん冷静に、彼の言い分を聞きましょう」
 無感情の声に近藤の頭からすっと熱が抜け、踵を浮かせていた桂木の足が地面につくことを許された。
 桂木の胸倉か手を放した近藤は、腕を組んで再び追及をはじめた。
「ゆっくりでいい、話せ」
 ごくりと唾を呑んで桂木が話しはじめる。
「だから違うんだ、私は嘘なんかついていない。あの確かにロッカーに入れておいたんだ、本当だ、本当なんだ、信じてくれ」
 もし、桂木の言っていることが本当ならば、設計図はどこに行ってしまったのか?
「盗まれたということでしょうか?」
 愁斗は周りの男たちを見回して同意を求めた。
「おそらくそうだろう」
 と近藤。
 だが、盗まれたとしたら、誰が盗んだのか?
 設計図は新兵器の設計図で、それを狙うものは数知れない。ライバル企業かもしれないし、軍関係かもしれない。その中から盗んだ相手を特定するには情報が少なすぎる。
 すぐに設計図が紛失したことを連絡し、桂木の身柄は別の場所に移されることになった。だが、その前に桂木がコインロッカーまで連れて行ってくれと申し出をしたのだ。設計図が盗まれたことに納得していないのかもしれない。
 桂木を連れ近藤が再びコインロッカーまで行くことになった。これに愁斗は同行し、桂木の身体の一部を一時的に自由にした。
 駅ビルは人で混雑している。
 コインロッカーが並ぶ一角で足が止まる。
 近藤がコインロッカーを再び開けるが、やはり中にはなにもない。中が空であることを全員で確認し、一斉に桂木へと眼が向けられた。
 靴紐を直していたらしい桂木が立ち上がり、コインロッカーの前に歩み寄った。
「違うんだ、そのロッカーじゃないんだ」
 誰もが『なにを言ってるんだ?』という顔をした。
 桂木は近藤が開けたロッカーとは違うロッカーを開け、中から茶色い紙袋を取り出した。
 刹那、閃光が辺りを包んだ。
 視界は白で遮られ、辺りであがった叫び声だけが耳に届いた。
 眼をやられながらも、愁斗の指先は微かな動きを捉えた。
「逃げました、桂木が逃げました!」
 だが、桂木の身体には妖糸が巻きつけられている。これを辿ればすぐに追いつくことができる。
 視界が直らないまま愁斗は桂木を追って走りはじめたのだった。

 桂木は見事に逃げたのだ。こうやって何度も危険を潜り抜けてきた。
 ダミーのコインロッカーの鍵を渡し、逃げるチャンスを作るためにバンの外に出て、コインロッカーまで行くのも桂木が話を誘導したのだ。あとは靴紐を直すふりをして、靴の中に隠してあった鍵を取り出した。
 駅内を走り、愁斗たちと距離が開いたところで早足に代えた。人ごみに紛れてしまえば勝ちだ。そう桂木は高をくくっていた。
 だが、恐怖は後ろから迫っていた。
 数多くの危険を掻い潜る才能を持つ桂木は、その手の雰囲気を感知する能力に長けていたのだ。
 後ろから迫り来るプレッシャー。
 自分を追ってくる者がいることを感じた桂木は後ろを振り返った。
 人ごみの中にいても、その自分物だけが浮いたように見える。他の人から見ればただの学生だ。どこにでもいうそうな学生にしか見えない。しかし、桂木の目には鬼気迫るモノが見えたのだ。
 どうやって自分を追ってきた?
 可能性はあった。
 あの不思議な術だ。
 身体を拘束していた謎の力。あの力がまだ身体についているのかもしれない。それを追ってきたに違い。
 身体のどこを見回しても、その力がどこについているのかわからない。不可視の力がついている。それを取り払わなければ、どこまでも追われてしまう。だが、桂木にはどうする術もなかった。
 逃げ回っていても捕まるのは時間の問題だ。
 桂木は足を止めた。
 すぐに桂木の方に手が乗せられた。
「逃げても無駄ですよ」
「わかってる。だから足を止めたんだ」
 一切の震えも含んでいない声音。
 桂木は振り返って愁斗に顔を向けるが、やはりその顔は怯えを含んでいなかった。
「逃げ切れる計算だったのだが、どうやら君の方が私より上手だったらしい」
「そんなことはありません。すっかり僕はあなたの演技に騙されてしまいましたから。しかし、もうあなたのことは決して逃がしませんよ」
「……くっ」
「その紙袋を渡していただきたい」
 桂木がロッカーから取り出した紙袋、この中に設計図があると愁斗は踏んでいた。
 だが、渡された紙袋の中を覗いた愁斗は訝しげ眼差しだった。
 リボルバーと換えのマガジン、他にも謎の装置があるが、設計図らしく物や、それを記録する記憶媒体も見つからなかった。
「設計図はどこだ?」
「ずっと私が持っている」
「身体検査ではなにも見つからなかったはずだ」
「簡単なことだ、設計図はここに詰まっているのだから」
 桂木は脳を指差して笑った。
 精密機器の設計図お頭に叩き込むなんてできるはずがない。
「まさか、信じられない」
「本当だ。他のデータは全て廃棄してしまった。設計図はもう私の脳の中にしかない」
 愁斗は桂木の腕を掴んで、近藤と合流しようと歩き出した。
 もう逃がすわけにはいかない。
 辺りの人ごみがどっとどよめいた。
 すぐに愁斗も気づき、辺りを見回す。
 なにが起きた?
 叫び声が聞こえる。
 いや、泣き声が聞こえる。
 違う、笑い声だ。
 怨霊呪弾だ!
 愁斗が桂木の身体を地面に押し倒す。その真上を抜けていく怨念。
 呪弾は愁斗たちを掠めて、通行人を蒼い炎で包み込んだ。
 本物の叫び声があがり、逃げ惑う人々。
 押し倒し合い、我先へと逃げていく。その醜さが呪弾の力となる。
 2発目の呪弾が発砲された。
 愁斗は桂木の腕を引き、階段の物陰に隠れた。
 狂気を孕んだ呪弾は壁に当たり、闇色の渦を巻く穴を作った。
 こんな場所で騒ぎを起こすわけにはいかない。
 騒ぎはすでに起きてしまっているが、愁斗はその渦に自ら飛び込めない事情がある。あくまで愁斗は一般の学生であり続けなければならない。
 物陰に隠れていた愁斗たちの傍に、近藤が駆け寄ってきた。
「ここは俺に任せて行け!」
 愁斗が頷く。
「わかりました」
 駅前に止めてあるバンまで逃げるのが得策と考えたが、その出口がある道にヴァージニアが立っていた。
 遠回りするか、無理やりヴァージニアの横を抜けるか。
 近藤が銃を構え物陰から飛び出した。
 物陰から飛び出してきた大柄の男にヴァージニアの目が向けられた。
 その隙を突いて、愁斗は遠回りの道を選んで逃げる。
 銃声が響く。しかし、それは狂気を孕んでいた。
 しまった!
 蒼白く燃え上がる桂木の片腕。
 愁斗の手が煌きを放ち、蒼い炎に包まれた腕が飛んだ。
 再び愁斗の手が妖糸を放ち、斬られた桂木の腕をきつく縛り止血する。
 痛みに耐えかね桂木は呻きながら地面に膝をついてしまった。
「腕が腕がぁぁぁっ!!」
「斬らなければ全身が灰になっていた。立て、逃げるぞ!」
 すでに切り落とされた腕は黒焦げの灰と化していた。
 銃声が響く。
 今度は近藤の銃が火を噴いた。
 ヴァージニアの太ももが血を吹き、痛みで身体のバランスが崩れる。それでもヴァージニアは呪弾を放っていた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!」
 蒼い炎が巨体を呑み込む。
 一部始終を見ていた愁斗が叫ぶ。
「近藤さん!」
 業火に焼かれ床で転げまわる近藤の姿は無残としか言いようがなかった。生きたまま焼かれる苦しみを誰が理解できようか?
 冷静な愁斗にも焦りがよぎり、床にうずくまる桂木を必死に立たせようとする。
「立て!」
「腕が……私の腕が……」
 こうなったら仕方あるまい。妖糸で無理やりにでも歩かせるしかない。
 リボルバーを構えるヴァージニアが走り寄って来る。
 だが、愁斗はすでに別のモノを操っていたために桂木を動かすことができなかった。
 桂木に銃口を向けようとしたヴァージニアだが、危険を掻い潜ってきた勘が働いて後ろを振り返った。
 サングラスと帽子を被った長身の人物。顔は見え長いが、タイトスカート姿と胸の膨らみから女性ということがわかった。しかし、そこにいる気配はするが、人間のような気配がしないのだ。
 ヴァージニアは動けなかった。
 とても恐ろしい存在が目の前にいる。
 その隙を衝いて愁斗は桂木を抱きかかえて無理やり走らせ逃げた。

 ヴァージニアの前に立つ女性は言う。
「おまえと会うのは2度目だな」
 中性的で男性とも女性とも取れる声だった。
 さっきの中学生が〝こいつ〟じゃなかったのか?
 二人の存在は同じ気配を持っている。だが、こちらの方が強い。はじめて〈切り裂き街道〉で出会ったのは〝こいつ〟だ。
 女性――紫苑が動く。
 愁斗よりも優れた運動能力。その手が放つ妖糸も愁斗の腕を逸脱していた。
 身体が動かない。ヴァージニアの四肢はすでに妖糸によって動きを封じられたのだ。
 早すぎる。ヴァージニアの目のには、紫苑は手を一振りしかしていない。それで四肢を全て封じられてしまったのだ。
 圧倒的な実力の差を前にヴァージニアはなす術がない。
「あたしの負けだよ、殺すなら殺せ!」
「女性は殺したくない。手を引け」
「それはできないね!」
「強がるのもいい加減にしろ。おまえの震えはすべて私に伝わっている」
 妖糸はヴァージニアの動揺すらも紫苑の手に伝えていたのだ。
 力の入らない手で、ヴァージニアは辛うじてリボルバーを握っていた。
 弾の数はあと一発。
 身体が動かなければ弾を撃つチャンスもない。
 異変が起こった。
 紫苑の身体から力が抜け、ヴァージニアの身体を縛っていた妖糸も緩んだのだ。
 その隙を自分の物にしたヴァ-ジニアが、至近距離から紫苑に向けて銃を放った。
 怨霊呪弾は紫苑の胸に大きな穴を開けて、遠くの壁に当たって四散した。
 胸に穴から紅い液体が滝のように流れるが、辺りを満たした匂いはオイルのような臭いだった。
 人間じゃない!
 ヴァージアニがそう悟ったときにはすでに異変ははじまっていた。
 紫苑の身体から流れ出ていた紅い液体はやがて黒く変わり、液体とも気体ともつかぬ物資が流れ出した。
 その黒いモノを吸い込んでしまったヴァージニアは、胸が焼けるような痛みに襲われ、咳き込みながら地面に倒れこんでしまった。
 身体が痺れ動けないヴァージニアの耳に、苦痛に満ちた悲鳴が聴こえた。
 〈闇〉が宙を飛び交っている。
 視界の先に2人組の警察官の姿が見えた。
 ヴァージニアはわかったいた。来てはいけない。
 宙を飛び交っていた〈闇〉が警察官に襲い掛かる。
 骨が砕ける音と共に肉がミンチのようになって弾け飛んだ。
 相棒の警察官の顔にも肉がへばりつき、放心状態になったまま〈闇〉に呑まれた。
 ヴァージニアにはなにが起こったのかよくわからなかった。わかることは紫苑の身体に開いた穴から〈闇〉が噴出しているということだ。
 気力を振り絞りヴァージニアはこの場から逃げ出した。
 背中の後ろで泣き声が聞こえる。振り返ってはいけない。逃げなくてはさっきの警察官と同じ目に遭う。
 駅の外まで逃げたヴァージニアは辺りを見回した。まだ身体が重く、視界が少しぼやけている。
 多くの人々が集まりざわめき立っている。
 その先を走る男の姿をヴァージニアは捉えた。片腕の無い男――桂木だ。
 愁斗いたはずの桂木が一人で走っている。もしかして逃げ出したのかもしれない。
 ヴァージニアはすぐに桂木のあとを追った。
 人ごみを掻き分け、ヴァージニアの手が桂木の肩に掛かった。
「逃がさないよ!」
 ぎょっとした桂木が後ろを振り向いた。
「今度はおまえかっ!」
「あんたはあたしが殺すんだ!」
「クソッ!」
 桂木は全身の力を込めてヴァージニアにタックルした。
 後ろに飛ばされたヴァージニアには目もくれず、桂木が車道に飛び出して逃げる。
 ヴァージニアの目が見開かれた。
「お父さん危ない!」
 自分を呼ばれた桂木に耳にその言葉は届かなかった。
 恐怖に顔を歪ませた桂木の身体を大型トラックが跳ね飛ばした。
 激しい衝突音に歩行者たちの目がいっせいに向けられた。
 人が宙を飛ばされている。
 地面に叩きつけられた桂木にヴァージニアと愁斗が駆け寄った。
 桂木の脈を取った愁斗が静かに告げる。
「即死だったらしいな」
「いいざまだよ」
 吐き捨てたヴァージニアは愁斗に目を向けようとしなかった。
 誰も呼んでいない救急車が事故から30秒も立たないうちから到着し、桂木の屍体を搬送していく。この救急車は桂木の腕の怪我で呼ばれた救急車だった。しかし、この救急車は本物ではなく、亜季菜の手が回った偽者の救急車だった。
 愁斗の横に来た黒服の男が小さな声で告げる。
「桂木の脳が損傷を受けていないことを祈るのみです」
「僕は紫苑の回収をしてきます。手回しのほうをよろしくお願いします」
 事件は呆気なく幕を下ろした。
 ヴァージニアも戦う理由をなくし、人ごみの中に消えていった。


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