CASE 06‐渦潮の唄‐

《1》

 ――助けて……で頼れ……あなた……だけ……。

 不思議な声を聞いたような気がして、愁斗は深夜に目を覚ました。
 母を思い出す優しそうな女性の声だった。
 しかし、あの声には緊迫した雰囲気も言葉からにじみ出ていた。
 あの声の主はいったい?
 ベッドから降りた愁斗はカーテンを開けて窓の外を見た。
 町は暗闇に覆われ、空からは小さな雪が舞っている。
 季節は12月の冬。
 先日、終業式を終えて、中学は冬季休校に入った。
 クリスマスは過ぎ、町は師走の慌しさに溢れている。
 それでも夜は静かなものだ――魔性以外は。
 なにか胸騒ぎを感じて、愁斗はすぐにテレビの電源を入れた。
 生放送の映像が飛び込んできた。
 チャンネルを回しても、回しても、その映像が映し出された。
 深夜だというのに、どこの局も同じ映像を流していた。
 ――大津波による被害。
 地震大国日本はそれに伴い、津波の被害も多い。だからこそ津波には慣れているはずだった。にもかかわらず、今回の大災害は起きてしまった。
 理由は地震など起こらなかったからだ。
 自然災害でもなかった。
 ニュースのライブ映像は暗黒の中で、包囲ライトに照らされた怪物を捕らえていた。
 大航海時代であればこう例えられた――シーサーペント。
 それは海に棲む大海蛇、またはドラゴンと称されるものだ。
 世界には未確認生物の情報も多く、日本にも水に棲むものといえば池田湖のイッシーなどがあげられる。けれど、あれは未確認であり、その正体を捉えた証拠映像はない。
 怪物などという存在は人々の幻想であり、本当に現れるなど想定していない。やはり怪物はどこかゲームや夢物語の住人でしかない。
 それが全国に生中継されてしまったのだ。
 時計の針は深夜二時を回っているが、この時間ならばテレビを見ている視聴者も多いだろう。ネットの住人ならばなおさらだ。
 ただし、愁斗に動揺はない。
 そのような存在がいることは知っている。現にそれらを使役し、近い場所で触れ合うこともある。
 いや、しかし、多くの人々の目に晒される日が来ることは想定外だったかもしれない。
 それも現代日本。
 突如、テレビから巨大な咆哮が聴こえた。人々が知る得る生物を遥かに凌駕した咆哮。画面の前でどれだけの人が身を凍りつかせたことか。
 そして、謎の生物は荒波を立てながら海に帰っていったのだった。

 翌日の新聞やニュースはこぞってその話題を取り上げた。
 世界にも今回の騒動は飛び火することとなった。
 当然の如く、特集番組が組まれ、肯定派と共に多くの否定派を出した。
 例え全国で放送されようと、国営放送で生中継されても、やはりそれはにわかに信じがたいことだった。否定派が現れるのは当然である。
 宗教団体は世界の終わりを訴え、カルト団体は我らの神が顕現したと叫ぶ。
 国会では過去に宇宙人に対する防衛作が答弁されたことがあるが、そのときの中継に国民は猛烈な批判をした。今回の場合はまだなにかわからないが、人智を超えた存在であることは確かで、国も本腰を入れて問題に取り組みしかなかった。しかし、誰もが手をこまねいているというのが現状だった。
 深夜の大津波以降、謎の怪物はその姿を消してしまった。
 まるで悪い夢だったかのように、海は静かだった。
 愁斗はあれから一睡もしていない。次のアクションがないか、それを待ち構えていたが、結局なにも起こらなかった。
 細かく起きたことをクローズアップするなら、翔子からのメールが届いたくらいものだ。
 内容は謎の生物についての驚きについて。そして、不安。
 彼女は愁斗と関わることによって、多くの超自然現象に立ち会うことになった。
 傀儡師の戦い、召喚される〈向こう側〉の存在、現実ではありえないと思っていたことの数々。それを体感していても、今回の騒動は衝撃的だったらしい。
 愁斗は翔子へのメール返信に『わからない』とだけ返した。
 まだ愁斗にもなにもわからなかった。
 ダイニングキッチンで遅い朝食の用意をしていると、愁斗のケータイに通話の着信があった。
 すぐに愁斗は通話に出る。
「もしもし?」
《愁斗クン、ニュース見た?》
 通話の相手は姫野亜季菜だった。
「海から現れた怪物に関してですか?」
《そうよあれ、スゴクない?》
「僕には関係ないことですから」
 気になる事件であるが、首を突っ込む理由はない。
《えーだって、愁斗クン専門家でしょう?》
「違いますから。あのような存在ついて、僕は人よりも知識があるかもしれません。しかし、それが事件に関わる理由にはなりませんから」
 ケンカが強いからと言って、ケンカの強い奴を見ると誰構わずケンカをするわけではない。モンスターハンターというわけでもなく、正義感で事件究明をしたいわけでもなく、愁斗には事件と関わる理由がやはりない。
 それでも亜季菜は食い下がった。
《アタシはあんな怪物がいることをずっと前から知っていて、それを周りに口外できずにウズウズしてたのよ。それが怪物というものが公の場で認知された今、大きなビジネス市場が開けたわけよ、わかる愁斗クン?》
「なにを企んでるんですか?」
《生け捕りにしましょう!》
「…………」
 少し無言になった愁斗は、なにも告げずに通話を切った。
 深いため息と同時に、再び亜季菜から着信があったが、愁斗は構わずケータイの電源を落とした。
 テーブルについて朝食を食べようとすると、玄関のチャイムが執拗に鳴らされた。最初は無視をしようと、黙々と朝食を進めていたが、チャイムは鳴り止まずに押すペースが速くなっていた。
 ついには玄関を叩く音が聴こえ、近所迷惑を考え愁斗は仕方なく玄関のドアを開けた。
 愁斗は無表情で客を出迎えた。
 相手は玄関の前にミニスカから覗く長い脚を仁王立ちにして、顔が少し怒ったように眉が吊り上がっている。
「愁斗クン、なんでもっと早く出ないわけ?」
 亜季菜だった。
「少し忙しくて手が離せませんでした」
「ケータイの電源も落としたでしょ?」
「電波状況が悪くなっただけですよ。僕の部屋ではよくあること亜季菜さんも知ってますよね?」
「……まあいいわ。お邪魔するわよ」
 ハイヒールを脱ぎ捨て亜季菜はドガドガと部屋に上がり込んだ。
 勝手に人の部屋にと怒りたいところだが、愁斗の資金源はすべて亜季菜から出ている。この部屋の借主は架空の人物だが、元を辿ればいつかは亜季菜にたどり着く。
 リビングで亜季菜はテレビをつけた。
 テレビはどこも同じニュースをやっていた。
 あの事件が世紀の大ニュースになることは間違いないだろう。
 テレビ画面には自衛隊が出動している様子が映し出されていた。
「ついに自衛隊が出動ですって。小耳に挟んだんだけど、アメリカが自分たちも調査したいって日本政府に圧力かけてるらしいわよ」
「当然でしょうね。あのような存在が存在しているとわかれば、どこの国も注目します。実用性の低かった生物兵器も研究が盛んになるかもしれません」
「そうよね、そうなったらなんとしてもウチの会社が市場を独占したいわよね」
 亜季菜には実業家の一面があり、職種は主に〝貿易関係〟である。
 愁斗は亜季菜をしばらく見つめていた。
「僕は手を貸しませんよ?」
「なんでよ」
「ただの人間が手を出していい領域ではありません」
「愁斗クンだって、怪物を操って戦ってるじゃない?」
「……そうですね」
 愁斗を難しい顔をして押し黙った。
 傀儡師の奥義――召喚。
 〈向こう側〉の存在を召喚して、自分の意のままに操る術。
 愁斗の召喚術はまだ完璧ではない。召喚して使役することはできるが、意のままに傀儡として操ることはできない。
 亜季菜はテレビの映像に釘付けだった。ライブ映像で海岸線が映し出されているが、海は波ひとつ立てない静まりようだ。あの海に怪物が現れたのが嘘だったと思わせる。
 しかし、海から海岸や道路を挟んた建物や商店、その被害は甚大なものだった。海岸に近い建物は見事に倒壊し、巨大な津波は少し先にある駅をも呑み込み、今日は電車不通になってしまった。
 津波以外の力が宿っていたとしか考えられない。大津波の被害は世界各地でもあるが、日本の近代建築がことごとく破壊されるなど、誰が考えただろうか?
「あれからぜんぜん音沙汰無しよね。愁斗クンどこにいるかわかる?」
 静かな海を見て亜季菜は残念そうにしている。
「僕に聞かないでください、そんなのわかるはず……」
 ――助け……さい……あなた……必要……です。
 訝しい顔をして愁斗は亜季菜に尋ねる。
「亜季菜さん、今なにか聴こえましたか?」
「ううん、なにも聴こえないわよ?」
「……そうですか」
「なにかあったの?」
「いえ……千葉に行きませんか?」
 唐突な提案に亜季菜は一瞬言葉を失った。
「えっ?」
「千葉県に行きませんか?」
「だからなんで千葉なんかに行かなきゃいけないのよ」
「もしかしたら、今回の事件に関わることがあるかもしれません」
「だって怪物が現れたの茅ヶ崎よ、千葉って結構距離があると思うけれど?」
 日本海と太平洋とまでの差はないが、それでも神奈川県茅ヶ崎と千葉県では多少の距離がある。
「確証はありませんが、僕を呼んでいる人は千葉にいます。あの場所しか心当たりがありません」
「どういうことよ?」
「亜季菜さんに出会う前、僕が訪れた場所のひとつです」
 施設から逃げ出して半年、当時9歳の愁斗は小さな漁村を訪れた。大よそ今から5年前の出来事だ。
 嵐の海と謎の歌声。
 海に棲む一族同士の抗争に愁斗は巻き込まれた。
 あの事件と今回の事件が関わっているか、その確証はまったくない。
 ただ、強くなにかを感じるのだ。

 東京湾アクアライン利用して、さらに千葉県の奥へと進む。
 車を運転する亜季菜は何度も愚痴を漏らした。
「遠すぎ」
 都内に比べて交通の便が良いわけでもなく、目的に地に着くまで異様に長く感じた。
「あーもぉ、伊瀬クン連れてくるんだったわ。愁斗クン18になったらすぐに免許取るのよ、いいわかった?」
「そういえば伊瀬さんはどうしたんですか?」
「置いて来たのよ、彼を巻くのなかなか大変なんだから」
「やはりそうですか、亜季菜さんを探して大変でしょうね」
「実はここだけの話、愁斗クンとの連絡用のケータイは普段アタシが使ってるケータイと違うのよ。ほら、GPS機能とかですぐに居場所わかっちゃうじゃない?」
「そうなんですか」
 愁斗は亜季菜に見えないところでケータイを操作していた。伊瀬に亜季菜の居場所を伝えるメールを送っているのだ。
 またしばらく運転して亜季菜は愚痴を言う。
「もうイヤ、運転したくない」
「たぶんもうすぐ着きます」
「さっきから同じことばっかり言ってるじゃないのよ」
 趣味がドライブの亜季菜だが、彼女の専門は〝峠〟だ。一般道なんて走ってもなにも楽しくない。
 またしばらく走っていると、遠くの景色に海らしき輝きが見えてきた。
 愁斗が呟く。
「見覚えがある景色のような気がします」
「で、この辺りのどこに行けばいいわけ?」
「さあ?」
「ヌッコロスわよ」
 急ブレーキでタイヤが悲鳴をあげた。
 車を停車させ、亜季菜は血走った眼で助手席の愁斗の襟首を掴んだ。
「さあってなによ、さあって!」
「長時間の運転をさせてしまったことは謝ります。ただ僕にも漠然としか……」
 ――助けてください。地上で頼れるのは貴方様だけなのです。貴方様の力が必要なのです。
 愁斗の脳に鮮明な声が聴こえた。
「近いです。海岸沿いを少し走ってください、きっといる」
「……わかったわよ」
 少し不機嫌さを残しながら亜季菜は車を走らせた。
 海岸沿いの道路から見る海は、とても寂しく波打っている。
 しばらくして愁斗が叫ぶ。
「あれです!」
 窓を開けて愁斗は外を指差した。
 砂浜に立つ白いワンピースの女性。夏ならば似合いそうだが、冬空の下に女性がワンピースを着て立っているのは、不気味としか言いようがなかった。
 間違いないと愁斗は確信した。
 車を停めて愁斗はすぐに飛び出した。
 砂浜を走り女性に駆け寄る。
「やはり僕を呼んでいたのは貴女でしたか」
「お待ちしておりました」
 女性は母のような優しい顔で愁斗を出迎えた。
 その名は瑠璃。

《2》

 魔法陣の上に浮かぶ亡霊に魔導士ゾーラは悪態をついた。
「ふんっ、龍封玉を盗んで来てやっというのに、海龍を操れんとは口ほどにもない」
「おのれぇ言わせて置けば」
 亡霊の影は赤く揺れる炎のように憤怒していた。
 揺れる影に時おり映る女の顔。
 妖艶な邪悪さを持った美を誇っている。
「肉体さえ、肉体さえ完璧ならば海龍など妾の思うが侭じゃ!」
「お前の肉体は死んだ。魂も私が召喚せねば久遠の闇を彷徨っていたのだぞ、少しは役に立ってもらわねば困る」
「貴様などに使われる妾ではないわ。己が復讐のため、お主と利害が一致しておるだけじゃ」
「それでもいい、とにかく海龍を操ってもらおう」
「言われなくともわかっておるわ!」
「ならばいいのだ、頼んだぞ」
 ゾーラはマントを翻し、小さな部屋を後にした。
 フローリングの廊下はリビングに続いていた。
 キッチンの横を抜けてリビングまで行くと、新聞を読むのをやめたタキシードの男が尋ねてきた。
「どうでしたか?」
「まだまだ時間がかかりそうだ」
「なら気長にやりましょう」
 タキシードの男――シュバイツは再び新聞を読み始め、コーヒーカップに手を伸ばした。
 しかし、そんな態度が気に食わない者がいた。ヨーヨーで遊んでいるキラという少年だ。
「なにまったりしてんだよ、早くドーンとガーンって派手にいこうぜ」
 ゾーラは首を横に振った。
「若いと気が短くてかなわん。もう少し悠長に構えたらどうだ?」
「なに言ってんだよアニキ、早く怪獣を操って町をぶっ壊そうぜ」
「こんな若造がいるとは、我らの組織も相当な人手不足と見える」
「んだと、オレより先輩だからってデカイ面すんなよ。なんならやっか? 相手になってやるぜ」
 2人が殺し合いをはじめる前に、シュバイツは新聞を置いて口を挿む。
「ゾーラさん、彼の実力は僕が保障しますよ。上の命令で何度かチームを組まされましたが、戦闘に関してのセンスはなかなかのものです」
「平気な顔をして嘘をつくお前の言葉だが、その言葉は信じよう」
 そのままゾーラはキラに顔を向けた。
「活躍を期待する」
「大活躍するぜ」
 自信に満ち溢れたキラの顔を見ることなく、ゾーラはマント翻して部屋を後にした。

 せっかく遠い漁村まで来たというのに、またすぐに移動する方向で話が進んでいた。
「ちょっとなによ、また何時間も運転しなきゃいけないわけ?」
 怒り出す亜季菜に愁斗は首を振った。
「いえ、もうすぐヘリの迎えが来ます」
「ヘリが来るってどういうことよ?」
「伊瀬さんを呼びました」
「愁斗クーン! 裏切ったわね!!」
「別にそういうわけじゃありません」
 怒る亜季菜と受け流す愁斗。
 それを横で見ていた瑠璃は申し訳なさそうな顔をしていた。
「私のせいでごめんなさい。本来は私の方から愁斗様の元へ出向かねばならなかったのですが、広い世界のどこに愁斗様がいるのかわからなくて、結果的に愁斗様の方に私を探させてしまいました」
 愁斗がする質問を代わりに亜季菜がする。
「どうして愁斗クンの力が必要なのよ?」
「それは――」
 瑠璃が答える前に愁斗が口を挿んだ。
「ヘリが来ました。続きは移動しながら話しましょう」
 波を立て、砂を巻き上げ、大型ヘリが上空から降下してくる。
 砂煙を浴びて亜季菜は咳き込んでいた。今日はなんだかツイてない日だ。
 砂浜に降りたヘリからスーツを着た伊瀬が降りてくる。
「皆様、お待たせいたしました。どうぞ足元にお気をつけてお乗りください」
 伊瀬の横を抜けるとき亜季菜はアッカンベーをした。
 3人を新たに乗せてヘリは上昇をはじめ、機内で先ほどの話が続けられた。
「私が愁斗様の力を必用とした理由ですが、それは地上人で他に頼れる方がいなかったからです」
 その言葉が意味するところは、海ではなく地上で問題が起きたということだ。
 亜季菜が口を挿む。
「ところで茅ヶ崎の海岸に現れた怪物なんだけど、あれあなたと関係あるわけ?」
「はい、あのような事態が起きぬように私たちはある秘法を守っていました」
 それには愁斗も心当たりあがった。
「たしか龍封玉でしたか?」
「そうです、その龍封玉が盗まれてしまったのです」
 以前、幼い愁斗が巻き込まれた龍封玉を巡る戦い。真珠姫の死と、瑠璃の子である海男の死によって、戦いは幕を閉じたはずだった。あれ以降の出来事は愁斗の知るところではない。
 あの戦いのときも、龍封玉の在り処が愁斗に教えられることはなかった。
「抜け殻となった海男の身体は海へ還り、龍封玉だけが私の手元に残りました。龍封玉は海男の体内に隠されていたのです」
 と、瑠璃は目を伏せて語った。
 その事実を知らなかった真珠姫の手によって、海男は刹那に止めを刺された。そして、死んだ海男は母と共に海に帰ったのだった。
 事情を知る愁斗には大よそが伝わったが、亜季菜にはまだわからない部分が多い。
「その龍封玉について詳しく教えてくれないかしら?」
 尋ねる亜季菜に瑠璃は深く頷いた。
「はい、龍封玉とは私たちの先祖が凶悪な龍神を封じ込めていたものです」
 亜季菜はこの言葉ですべてが理解できたような気がした。
「茅ヶ崎に現れた怪物はその龍封玉とかいうのに封印されていたわね。ならまた封印して一軒略着ね」
 口で言うならそれだけだが、実際は簡単にいかないのが世の常だ。
 先にも述べたが龍封玉が盗まれたらしい。まずは犯人を見つけることが先決かもしれない。
 愁斗が尋ねる。
「龍封玉を盗んだ相手の心当たりは?」
「確か魔導士の男がダークネス・クライと名乗ったと思います」
 それを聴いた愁斗は眼を見開き、辺りの空気が一瞬にして氷結した。
 D∴C∴[ダークネスクライ]とは、愁斗が復讐すべき最大の敵。社会の闇に潜む魔導結社の名前だ。
 しかし、現状ではD∴C∴との戦いは休戦状態であった。
 今の愁斗には失いたくないものがたくさんある。いざ、D∴C∴との全面戦争になれば、大切なものを失うことは目に見えていた。
 ――もうなにも失いたくない。
「僕は協力できないかもしれません」
 愁斗の言葉を聴いた瑠璃は哀しそうな顔をしていた。
「なぜですか?」
「僕はD∴C∴に目を付けられています。僕がD∴C∴に手を出せば、多くの人の命が危険にさらされます」
「だからと言って龍神を野放しにするのですか、そうなれば多くの人の命が失われるのですよ」
「……僕には関係のない人たちですから」
 塞ぎこんだ愁斗は遠くの景色を眺めた。
 愁斗は自分が正義だと思ったことはない。どちらかというのならば悪だろう。恐ろしい〈闇〉の力を操り、多くの人を殺してきた。
 それが、なぜか最近、正しい道について考えてしまうことが多くなった。
 昔の愁斗とは変わってしまった。
 愁斗は自分の心が弱くなってしまったと感じていた。
 守るべきものができて弱くなってしまった。〈闇〉を操ることにすら不安を覚えるようになってしまった。そのうち戦うことすらできなくなるのではと、恐怖にも似た想いを抱いていた。
 ヘリは都内に入り亜季菜が所有する会社の屋上に降りた。
 そこについても愁斗は塞ぎ込んだままだった。
 自分が今何をするべきなのか、未だに迷ってしまっている。
 関係ないという決断ができれば、この場で瑠璃たちと別れただろう。
 しかし、その決断のできなかった愁斗は、瑠璃や亜季菜と共に社長室へと足を運んだ。
 社長室に集まったのは4人だけ。外部の者には話を聞かれたくない。
 愁斗、瑠璃、亜季菜、伊瀬。4人はテーブルの周りにソファを囲み座った。
 未だに愁斗は塞ぎ込んだまま、伊瀬は必要となければ無闇に口を挿まない。話し合いは大よそ亜季菜と瑠璃で勧められていくだろう。
 まずは亜季菜が口を開く。
「今回の件に関して、アタシは瑠璃さんに全面的に協力するわよ」
「本当ですか、ありがとうございます」
 純粋な気持ちでお礼をいう瑠璃の気持ちとは裏腹に、やはり亜季菜にはビジネスの思惑がある。
「龍封玉のことなのだけれど、取り戻せば再び怪物を封印できるわけなの?」
「そうです、龍封玉を盗み出したのは地上人ですから、きっと地上のどこかにいるはずなのです」
「検討はないわけなの?」
「本来ならば大よその位置がわかるはずなのですが、なにか特殊な措置をしたらしく、まったくどこかわかりません。このままでは龍神を操り、地上の人々だけではなく、私たち海の民にも甚大な被害がでるでしょう」
 亜季菜の眼つきが変わった。
「ちょっと待って、操るって言った?」
 これはチャンスかもしれなかった。
「はい、龍封玉に封じられた龍神は、完全に解き放たれない限り操ることができます。ただし、それには力のある海の民が必要ですが」
 誰にでも操れるわけではないらしいが、操れるとわかればビジネス利用の可能性が高くなる。
 急に愁斗が席を立った。
「急用ができました、失礼します」
 背を向けて立ち去る愁斗。
 瑠璃は哀しそうな顔をして呼び止めた。
「愁斗様……」
 それでも愁斗は振り向かずに部屋を後にした。

 愁斗はケータイである人物を呼び出した。
 カラオケ店の前で待ち合わせの相手を待つ。
 待ち合わせの場所に現れたのは、同じ学校に通う同級生の撫子だった。
「愁斗クンお待たせ~!」
「中に入ろう大事な話がある」
「大事にゃ話って……ま、まさかアタシに告白!?」
 カラオケ店に入ろうとしていた愁斗の足が急に止まり、無表情ながらも怖い顔をして愁斗は振り返った。
「誤解だ」
「そうだよねー、愁斗クンには翔子って大切なひとがいるもんねー」
「…………」
 これに関して愁斗は無言だった。足早にカラオケ店へ消えていく。
 撫子もすぐに後を追った。
 2人はカウンターで受付を済ませ、個室へと足を運んだ。
 個室に着いた撫子はすぐにリモコンを手にして曲を入れようとした。その撫子の手を愁斗が掴んで止める。
「歌わなくていいから」
「えぇ~っ、カラオケ来て歌わにゃいってありえにゃーい」
「〝組織〟のことで大事な話があるってメール送っただろう」
「まあまあ、そんにゃ話は置いといて、まずは飲み物でも注文して歌でも歌おうよ」
 撫子は壁に備え付けてある受話器を取った。
「飲み物お願いしまーす、ミルクティと……愁斗クンにゃにする?」
「なんでもいいから」
「じゃ、ミルクティ2つお願いしまーす」
 受話器を置いて撫子は振り向いた。
「そんじゃ歌っちゃおうかにゃー!」
「だから……歌わなくていいから」
「大事にゃ話してるとき店員が来たらイヤでしょ~、それまでアタシのオンステージです!」
 さっそく曲のイントロが流れ、撫子が振りつきで歌いだす。
 隅に座っている愁斗はヤル気なさそうだ。
「愁斗クンも次歌うんだよぉ」
「……さっきお前のオンステージって言ったじゃないか」
「翔子カラオケ好きにゃんだよ、ちゃんとデートで連れて行ってあげにゃきゃダメだよん」
「…………」
 愁斗がこっそり曲の検索をしようとしているところで、店員がドアを開けて飲み物を運んできた。
 今までなにもしてなかったように、飲み物を受け取ってやり過ごした。
 歌い終わって新たな曲を入れようとしている撫子。愁斗は軽い咳払いをした。
「もういいだろ、急用なんだ」
「えぇ~っ、あと1曲だけ、ねっねっねっ?」
「ダメだ。多くの人の命が関わっていることなんだ」
「はーい。で、話ってにゃに?」
 やっと本題の話に入れた。
「〝組織〟が関わっていると思われることを調べて欲しい」
「それって逆スパイしろということですか?」
 元々、撫子は魔導結社D∴C∴の施設〈白い家〉から脱走した子供、秋葉蘭魔の息子であるということを調べるために、愁斗と同じ学校に派遣されて来たのだ。
 今や愁斗がその子供であることは明白で、D∴C∴と愁斗が停戦している今も、撫子は愁斗の傍で監視を続けていた。
 もちろん、愁斗は撫子に監視されていることは承知である。
「無理なら誰でもいいから〝組織〟がやってる活動に詳しい奴を教えて欲しい」
「ムリムリ。ところでにゃに知りたいの?」
「茅ヶ崎に現れたドラゴンに関して」
「にゃ!? あれってウチがやったの! ……知らにゃかった」
「やっぱりお前じゃ話にならない、あの事件に詳しそうな奴を紹介してくれ」
「ムリムリ、アタシにそんにゃ権限にゃいもん。アタシはただの使いっパシリ」
 そのとき、撫子のケータイが鳴った。ナンバーディスプレイを見て撫子が嫌な顔をする。しかし、出ないわけにはいかなかった。
「もしもーし撫子ちゃんでーす」
 相手の言葉を聴いてさらに撫子は嫌な顔をした。
「はーい、わかりましたー」
 通話を切って撫子は愁斗と顔を見合わせた。
「来るって」
「誰が?」
「今のアタシの上司」
「……彼か?」
「愁斗クンの想像でたぶん当たり。実はあの人、ちょー変態にゃの。四六時中アタシのこと盗聴して、可憐な乙女のトイレの音も聴いてるんだよ」
「その愚痴も聴いてるんじゃないか?」
「はっ、しまった!!」
 ヤバイと撫子が表情に出したとほぼ同時、部屋のドアが開けられ黒尽くめの男が入って来た。
「わたくしを変態扱いするとは許せませんね」
 微笑む男を見て撫子は凍りついた。

《3》

 鴉のようなロングコートを着た肩には、鋭い眼つきをした本物の鴉が停まっていた。
 丸いサングラスの下で唇が嗤っている。
「あなたはいつ〝組織〟を裏切るかわかりませんから、そのための監視です」
 影山彪彦は撫子に顔を向けていた。
「にゃ、アタシが裏切るわけにゃいじゃん。そんにゃことしたらコワイコワイ」
「過去に嘘の報告をしたことをお忘れではありませんよね?」
「げっ、あ……あれは本当に愁斗クンが死んだように……思えたかも?」
 かなり動揺する撫子。
 過去に撫子は愁斗を追ってから巻くために、死んだと虚偽の報告をしたことがあったのだ。けれど、その報告もすぐに嘘とバレてしまった。
 彪彦はソファに腰掛け、撫子に注文を頼む。
「わたくしにも飲み物を。そうですね……外は寒かったですから、この中国茶なんて良さそうです」
 メニュー表の写真を指差して撫子に見せた。
「はいはい、そのお茶1つね」
 カウンターに注文を入れる撫子を置いて、彪彦は『さて』と前置いて愁斗に顔を向けた。
「茅ヶ崎に現れた龍について知りたいのでしたっけ?」
「そうだ、あれは本当に〝組織〟の仕業なのか?」
「そうとも言えますが、違うとも言えますね」
 どっちつかずの言い方に愁斗は眉をひそめた。
「どういうことだ?」
「うちの〝組織〟の組員がしたことには変わりないようですが、この頃うちの〝組織〟は内部で多く問題をかけておりまして、いわゆる内部分裂と言うものですね」
「それはつまり今回の件は本体の意向ではないと?」
「そういうことになりますかね」
 ならばもしかしたらという気持ちが愁斗に過ぎる。
「僕が今回の件に首を突っ込んでも問題はあるか?」
「どのように突っ込むかによりますが?」
「今回の計画を阻止する」
「なるほど……本部としては大喜びでしょうが、今回の件に関わる過激派に目を付けられるかもしれませんね」
 50:50と言うところだろうか。
 今の愁斗が〝組織〟に牙を向けば周りにも被害が及ぶ。けれど、今回の件に関しては、手を出しても〝組織〟本体からの制裁はない。それでも、本体以外からの制裁はあるかもしれない。
 彪彦は言葉を付け加えた。
「愁斗さんのことを知る者は〝組織〟でもごく一部です。そもそも施設から逃げ出した子供を知る者も少ないですから。過激派に狙われるとしても、我々が愁斗さんを探していた理由ではなく、今回の件を邪魔された件についてだけでしょう」
 当たり前の話として組織などの構成員が、組織の活動や事情を全て知っているはずがない。愁斗のことを知る者もいれば、知らない者もいる。彪彦は今回の過激派は知らないと判断していた。
 ここで愁斗は推理を働かせていた。
「もしかして今回の事件に関わっている者を知っているのか?」
「大よその検討はついていますよ。実は、わたくしは今回の件の収集を命じられている1人でして、多くの情報を握らせていただいております」
「教えて欲しい」
「無理をなさならいと約束であれば」
 愁斗が無言で頷き、彪彦も静かに頷いた。
「ではお教えしましょう。情報によりますと、鎌倉に潜伏しているとのことです。現地にはすでに〝組織〟の構成員が忍び込んでいます」
「鎌倉のどこに?」
「さて、そこまではわかりません。わかっていれば、わたくしがここでのんびり話しているはずもありませんから」
「相手のメンバーは?」
「おそらく3人。それはあくまで実行部隊の数ですが。名前はゾーラ、シュバイツ、キラ。能力まではお教えできませんが宜しいですか?」
 親切に答える彪彦。
 それにたいして愁斗に疑心がないわけではない。
「あと1つだけいいか?」
「1つと言わず、わたくしが答えられる範囲ならばなんなりと」
「なぜ僕にそこまで情報を流す?」
「あなたが望んだ情報ではありませんか?」
「僕は今でもお前たちを恨んでいる。機会があればいつでも復讐する覚悟だ。なのになぜお前らは僕に手を出さない、そればかりか情報まで教えるなんて……」
「不満ですか?」
「…………」
 愁斗は押し黙った。
 不満などではない。理解ができないのだ。彪彦の態度も信用できない。相手の掌で躍らされているようで、気に食わないのだ。
 沈黙する部屋に店員が飲み物を運んできた。
 明らかに気まずい雰囲気に、店員は早々に仕事を済ませて出て行く。
 彪彦の肩に乗っていた鴉がテーブルに降り、湯気と香りの立つティーカップに口をつけた。
 そして〝彪彦〟が口を開く。
「安っぽい味ですね」
 半分以上残ったカップを置いたまま彪彦は立ち上がった。
「では、わたくしは仕事がありますので、失礼いたしますよ」
 黒いコートを靡かせてドアに手を掛ける彪彦は、そこで急に振り返って撫子に顔を向けた。
「来月の振込みは10パーセントカットです」
 その言葉を残して彪彦は消えた。
「今でも生活厳しいのに!」
 撫子が叫んだ。
 難しい顔をして愁斗が立ち上がった。
「僕も先を急ぐから」
 そう言って財布から5000円札を出してテーブルに置いた。
 撫子が手を伸ばした先で部屋を出て行く愁斗の後姿。
 独り部屋に残されてしまった撫子はリモコンを手に取った。
「もぉ、独りで歌いまくってやるんだから!」
 マイクを握る手はいつも以上に力が入っていた。

 その頃、亜季菜たちは愁斗よりも早く鎌倉に向かっていた。
 愁斗のように情報を得たわけではなく、瑠璃の胸騒ぎがするという言葉を信じた。
 今度は伊瀬が運転手を務めている。その助手席に瑠璃が座り、後部座席に亜季菜が座っていた。
 瑠璃の勘とも言える言葉を信じたわけだが、それでも確証のないことに亜季菜は不満を漏らした。
「本当にこっちの方向でいいわけ?」
 瑠璃は小さく頷く。
「はい、感じるのです、禍々しい怨念とも言うべき力を」
「禍々しい怨念って龍封玉が発してるわけ?」
「違います、私を呪っている者の力です」
「誰それ?」
「まだわかりません。もしかしたら罠かもしれません」
 信号で車を止めた伊瀬が口を挿む。
「罠なのでしたら危険でありませんか?」
「罠だとしても、なにか手がかりがつかめると思います」
「そうよねー、情報が不足してるのだから、こっちから罠に飛び込んでやるっていうのよ」
 と、亜季菜は後部座席にそっくり返っていた。
 鎌倉市内に入りしばらく経ったところで、急な震えが瑠璃の身体を襲った。
「今、なにか嫌な〝死念〟を感じました」
 後部座席から亜季菜が乗り出した。
「〝思念〟?」
「はい、向こうも私に気付いているようです。確実に私を呼んでいるのを感じました」
 その後、車は鎌倉駅を外れて住宅街の方向へと走った。
 瑠璃は自らの体を抱き、不安と戦っていた。
 自分を呼ぶ者の輪郭が現れ、正体が浮き彫りになっていく。
 そして、それは確信へと変わっていった。
 待ち受けている敵は亡霊だ。そこまでわかっていて、瑠璃は自分の考えを否定した。黄泉がえってはいけない存在。
 悲鳴とも叫びともつかぬ過去の幻聴が瑠璃の耳に響いた。
 醜く恐ろしく、凄惨な死を遂げた姫の名。
 あの戦い以降、その姫の名を呼ぶことは禁忌とされた。一族では名を喚ぶと死者が来ると恐れられているからだ。
 心の臓を抉られるような激しい痛みが瑠璃を襲った。
「止めてください!」
 玉の汗を掻きながら瑠璃は叫んだ。
 急ブレーキが踏まれ車が止った場所は、平凡なマンションの前だった。
 車から降りてマンションに入ろうとしたが、入り口はオートロックでロビーにすら入れない。
 亜季菜は少し考え、
「宅配便でも装おうかしら」
 と、適当な部屋の住人を呼び出そうとしていたところで、中から住人が出てきた。
 すれ違う住人に軽い会釈をしながら、何食わぬ顔で3人は開いた自動ドアに身体を滑り込ませた。
 先を歩くのは瑠璃だ。
「こちらの方向です」
 なにかの力を感じながら歩いているためか、エレベーターには乗らずに階段を使い、もっともなにかを感じるフロアを選んで出た。
 ある部屋の前で瑠璃の足が止まった。
「おそらくこの部屋だと思います」
 ドアノブを回したが、カギが掛っていて開きそうもない。
 亜季菜は伊瀬に目で合図をした。
「適当な理由をつけて管理人を呼んできて」
「はい、すぐに」
 身体の向きを変えた伊瀬の瞳に、コンビニ袋を持った少年の姿が映った。
 ひと目でただの少年でないと感じた。
 外観のわりに大人びていて、眼の奥に狂気が宿っている。
 少年はコンビニ袋を地面に置いた。
「あんたらなにやってんの?」
 最初から喧嘩腰の声音だった。
 伊瀬はすぐに瑠璃と亜季菜を背中に隠した。
「あなたはこの部屋の住人ですか?」
「だったらなに?」
「少々お話したいことがあります」
「ヤダね、オレには話すことなんてねぇーよ」
 少年はパーカーの腰ポケットに両手を突っ込んだ。
 伊瀬は来ると感じて瑠璃に尋ねる。
「瑠璃様は戦えますか?」
「はい」
「では、亜季菜様のことは任せました」
 伊瀬が背広の内ポケットに手を入れた瞬間、少年はパーカーから手を抜いた。同時に拳より一回り小さい丸い物体が飛んだ。それも2つ同時だ。
 軽いフットワークで伊瀬はそれを躱し、優れた動体視力でそれがヨーヨーだと知った。
 少年はすぐに背を向けて廊下を駆けた。
 逃げたというより誘っている。その誘いに伊瀬は乗った。狭い廊下でいつ人が来るとも限らない。伊瀬としても場所を替えたかった。
 少年は俊足で階段を駆け上がり、屋上を目指しているようだった。
 格子状の扉を乗り越えて少年は屋上へ出た。そのすぐあとを伊瀬が追いつく。どちらもまったく息を切らせていない。
 伊瀬は両手を背の後ろに隠していた。
 再び少年の手から2個のヨーヨーが放たれる。
 1つ目のヨーヨーを伊瀬は身を低くしながら避け、2つのヨーヨーは体勢を変えるよりも早く隠していた手を出した。
 手には合金のグローブが嵌められ、逆手に握っていたナイフがヨーヨーを弾く。
 身を低くした体勢のまま、伊瀬は勢いをつけて地面を蹴り上げた。
 2個のヨーヨーを引き戻すスピードと伊瀬のスピードはほぼ互角。ただ、ヨーヨーは引き戻してから攻撃に移る。
 輝くナイフの刃が少年の眼前を薙ぎ、刹那にして伊瀬の背中からもう1本のナイフが姿を見せた。
 ナイフが少年の生首を裂く寸前、ヨーヨーが伊瀬の腹を殴った。
 とてもヨーヨーとは思えぬ衝撃に伊瀬は後方に吹き飛ばされ、苦しそうな顔をしながらナイフを握ったままの手で眼鏡を直した。
「ただのヨーヨーには思えませんね」
「ただのヨーヨーじゃねーもん。オレの魔力を込めてあるんだぜ」
「少年だと思って甘く見れませんね。敬意を称して自己紹介をさせていただきます。わたくし伊瀬俊也と申します」
「オレにもしろってこと? オレはキラ、魔導結社D∴C∴の構成員。彼女募集ちゅー」
 D∴C∴の名前は愁斗から何度も聞かされている。
 伊瀬は逆手に握るナイフを握り直した。
「では、参ります」
「おう、かかっておいで兄ちゃん」
 キラは余裕の笑みで伊瀬を迎えた。
 魔導結社D∴C∴の構成員が常人であるはずがない。方や伊瀬は亜季菜の専属秘書である。
 2人の力の差は?
 キラに比べて伊瀬の腕はリーチが長い。だが、ヨーヨーの長さを入れれば優劣は変わってくる。尚且つ、ヨーヨーは通常のヨーヨーに比べて変則的に動いてくるのだ。
 ヨーヨーを躱しながら伊瀬はチャンスを窺う。
 キラはまるで遊んでいるように、軽いステップを踏みながらヨーヨーを繰り出していた。
「あんたなかなかやるじゃん。そこらのクズどもに比べたら大したもんだよ」
「それはありがとうございます」
 ナイフがヨーヨーの糸を切ろうとした。
 伊瀬の眼つきが変わる。
 糸は切れずにナイフに巻きつき持って行こうとしたのだ。
 すぐさま伊瀬は絡みついた糸からナイフを抜いて死守する。
 やはり狙われ易い糸は一筋縄では切れないようだ。
「糸を切ろうとしてもムダムダ。この糸は人肉と特別に調合された薬を与えて育てた蚕が出す糸で作ってんだ、ただのナイフじゃ切れないぜ」
「生憎ただのナイフではないんですけどね、切れませんね」
「ただのナイフじゃないのに切れないんだダッセーな。そのナイフなにでできてんの?」
「隕鉄を鍛え、特別な術法を施し、呪文を刃に刻んでいます」
 隕鉄とは隕石に含まれる金属のことである。
「マジか、魔術使用かよ。あんた何者なんだよ」
「ただの会社員です」
「ウソつくんじゃねーよ」
「ただ、昔お世話になっておりましたお屋敷で、この世のモノではないモノと戦う術を仕込まれました」
 相手が自分たちに近いと知って少年は心を奮い立たせた。
「おもしろいじゃん。でもオレには勝てないぜ」
「私もまだ負けられません」
 亜季菜を残して死ぬわけにはいかない。
 それは遠い日の約束だった――。

《4》

 伊瀬がキラを追って消えたあと、玄関を開けようと亜季菜は立ち往生していた。
「んもぉ、管理人なんて呼んでる余裕ないわよ」
「あの……私が開けましょうか?」
「できるなら早く言ってよ」
「あまりにも一生懸命な様子だったので声がかけづらくて」
 亜季菜と瑠璃は場所を交替して、ドアに向かって瑠璃の掌が叩きつけられた。
 物凄い打撃音と共にドアがへこむ。
「もうちょっと静かにできないわけ?」
「すみません、でも他に方法が……」
「人が来る前に早くやっちゃって」
「はい」
 再び瑠璃の掌が叩きつけられ、ドアを固定していた留め具が緩んだ。
 続けてもう一度、叩きつけると留め具が飛び、すぐ次の攻撃がドアを玄関に飛ばした。
「入りましょう」
「見た目に反して怪力なのね」
「ごめんなさい」
「別に謝ることじゃないけど」
 2人は土足のまま部屋の中に踏み込んだ。
 瑠璃は迷うことなく廊下を走り、とある部屋のカギが閉まっていることを確かめ、再びドアに掌を喰らわせた。
 今度は玄関とは違い、一発でドアが外れて飛んだ。
 その瞬間、禍々しいまでの鬼気が部屋から吹き込んだ。
 思わず亜季菜は噎せてしまった。
 瑠璃の鋭く眼つきが変わり、部屋に床に描かれた魔法陣の上に揺らめく影を見た。
「やはり貴女でしたか」
「ほほほっ、お主なら来ると思っておったぞ瑠璃姫や」
「――真珠姫」
 瑠璃は禁忌の名を口にした。
 揺らめいていた影は燃え上がるように激しく動き、醜く恐ろしい般若の形相をした真珠姫の顔を笑った。
「ほほほほほっ、恨みを晴らす機会を与えてくれた地獄の鬼に感謝するぞ」
「亜季菜さん、下がっていてください」
 そんなこと言われなくてもわかっている。亜季菜は身を隠すように廊下に出て、顔だけ覗かせて動向を窺った。
 瑠璃は真珠姫を正面に捉えながら、視線を動かして部屋の様子を探った。
 部屋は10畳ほどしかなく近距戦に限られる。床の大半は魔法陣で占められ、壁や天井にはお札が貼られ、窓は完全に塞がれている。
 瑠璃はあることに気付いた。
「もしや、貴女はここから出られないのではないですか?」
 真珠姫が言葉を返すのに、少し間があった。
「……さて、それを知ってどうするのかえ?」
「無駄な戦いはしません」
 瑠璃は前を向いたまま部屋を出た。
 狂気した真珠姫が襲い掛かるも、ドアの前で見えない壁に当たって引いた。
「おのれ、入って来い!」
「嫌です」
 廊下に下がり、瑠璃は亜季菜に顔を向けた。
「どうしましょうか?」
「あたしに訊かれても困るわよ」
「そうですよね、ごめんなさい。では真珠姫、龍封玉はどこですか?」
「そんな物知らぬわ!」
 吠えるように真珠姫は叫んだ。
 だいぶ怒っている真珠姫から、必用な情報を訊き出すのは困難に思える。
 しかし、なんとしても訊き出さねばなるまい。
 瑠璃は部屋の入り口ギリギリに立った。
「龍封玉が盗まれ、貴女がこの世にいる以上、その関連性を疑うのは当然です。早く龍封玉の在り処を言いなさい」
「嫌じゃ、言うてやるものか」
「龍神の力は私たちの手に余ります。眠らせて置かなければいけない力なのです」
「妾の手に余るじゃと? 笑止じゃ、妾を誰だと思っておる?」
「驕り高ぶった咎人です」
 はっきりと言い切った瑠璃の眼前まで真珠姫の顔を迫った。
 まさに目と鼻の先で、歯を鳴らして怒る真珠姫。
 瑠璃はまったく動じず、澄んだ瞳で相手を見据えていた。
 その瞳から真珠姫は目を逸らした。
 あまりに眩しい瞳の輝きに、真珠姫の心に宿る闇が負けた。
「おのれおのれおのれーッ!! 妾と勝負をするのじゃ!」
「嫌です」
「この臆病者め!」
「臆病と言われてもかまいません。戦いは虚しく、悲しみと憎しみしか生みません」
「戦ずして、どうして民がついて来ようぞ。民は強い者に仕え敬うのじゃ!」
「私は海男が死んだその日に、矛を捨てました」
 愛する男との間に生まれた息子を失った悲しみは、瑠璃を戦いから遠ざけ年月を重ねた。
 未だに癒えぬ悲しみを瑠璃は背負っていた。
 陸の男を愛したことが罪だった。
 海を捨てて陸で暮らしたことが罪だった。
 生まれて来てはいけない子を産んだことが罪だった。
 そして、平穏に暮らしていた我が子を殺してしまったことが最大の罪。
 いつの間にか、瑠璃は涙を零していた。
「どうか龍封玉を返してください」
「ほほほっ、お主が苦しむ姿のなんと極上なことか」
「私への復讐が目的なのですか? ならば私の命を差し出しましょう。それで終わるのならば、喜んで差し出します」
「喜んでじゃと? お主が喜ぶことを妾がすると思うてか?」
 真珠姫は嘲笑いながら、部屋中を風のように舞った。
「ほほほほほほほっ、愉快じゃ愉快じゃ!」
 その姿を見ながら瑠璃は哀しい瞳をしていた。
 歪んだ真珠姫の心を見ると哀しくなる。その心と触れ合い、正しい道に導けない自分に瑠璃は無力さを感じた。
 海男が死んでしまったときと同じ、無力な自分が哀しかった。
 俯いた瑠璃は急に何者かの気配を感じた。
「きゃ!」
 亜季菜の短い悲鳴。
 振り向いた瑠璃の瞳に映る背の高い男。
 魔導士ゾーラは亜季菜を後ろから拘束していた。
「キラめ、留守番を破約するとは許せん」
 冷静な顔をしながら怒りを口にした。
 亜季菜を人質に捕られ、目の前で瑠璃は身動きを封じられた。
 こんな近くまで迫っていたのに、気配を気づかせなかったとは、かなりの手足れである。
 ゾーラは亜季菜の首に手刀を食らわせ気絶させた。
「瑠璃姫と言ったかね。陸まで追って来るとはな、厄介なことだ」
「龍封玉を返してください」
「奪ったものをたやすく返すと思うかね?」
「だからお頼み申し上げます。どうかお返しください」
 ゾーラはゆっくりと首を横に振った。
「できぬな、あれは世界を導くために必用なのだよ」
「世界を導く?」
「そうだ、愚かな人間どもが知らぬ存在を世に知らしめるために必用だ」
「そんなことをしてなんの意味があるのですか?」
「それは引き金となり、身を潜めていた存在たちが世界の表舞台に出るだろう。そして、異界からも多くの存在が訪れることになる。古い時代は終わり、新たな力により世界は生まれ変わるのだよ」
 茅ヶ崎に現れた龍神はテレビで放映され、それだけでも世界は変わったかもしれない。いや、変わった。
 地上に蔓延る人間は、自分たちを遥かに越えた存在を認め、畏怖し、崇拝し、絶望するかもしれない。
 幻想でしかなかったことが、次々と目の前で繰り広げられ、世界は確実に変わるだろう。
 それが正しいことか、間違ったことか、世界が変わったときに人々は思うだろう。
 多くの人が思うこと。それが正しい道となる。
 ゾーラは自らの行いが正しいと思っている。
「人間は自らが頂点に立つ存在だと驕り高ぶっている。それは目の前に人間よりも力のある存在がいないからだ。それゆえに存在しない神などを崇め、驕りを認めようとせずに偽善で隠すのだ、莫迦らしい」
「驕っているのは貴方ではありませんか。龍神の力は貴方の自由にはなりません!」
「仮にも龍神と呼ばれる存在だが、君たちにとっては神かもしれぬが、広大な宇宙、外宇宙、異界の住人たち、数え切れぬ超存在がいる。あの龍神などせいぜい都市をひとつ破壊する力しかあるまい」
「龍神の力を軽んじることが驕りだというのです」
 なにを持って神とするか?
 人間を越えた存在ならば、それは全て人間にとっての神になりえるか?
 それとも世界を創造したものが神か?
 全知全能の存在なら神と呼ばれるか?
「存在である以上は絶対者ではありえない。崇拝の対象はいても神などおらぬよ。私は龍神の力を軽んじているわけではない、計り知れる存在であるが故に、崇拝はできないということだ。私が驕っているか否か、それは私が成し遂げることを見て判断して欲しいものだ、龍神を操れば文句あるまい」
 自信を饒舌に口にするゾーラから瑠璃は目を放さなかった。
 瑠璃の瞳には力が宿り、澄んだ輝きは一点の曇りもない。
 当然、ゾーラが動いた。
 掌を瑠璃の眼前に突き出し、人外の呪文を口にした。
 次の瞬間、瑠璃は気を失って後ろに倒れそうになってしまった。
 すぐ後ろには真珠姫が死を持って待ち構えている。
 瑠璃が真珠姫の手に掛る瞬間、ゾーラが抱き寄せて防いだ。
「お前の毒牙にかけられては困る」
「瑠璃姫を妾に殺させるのじゃ!」
「困ると言っただろう。まだ使い道のある女だ。それが済んだら煮るなり焼くなり切り刻むがいい」
 ゾーラは気を失っている2人の女を抱きかかえ、奥の部屋へと姿を消した。

 亜季菜と瑠璃が捕まったとは知らず、伊瀬はキラと戦い続けていた。
 ナイフを武器とする伊瀬の格闘センスは良い。そうでなかればナイフなどでは戦えない。その格闘センスをキラは超えていた。
 息こそ切らせてないが、伊瀬はキラの遊びに付き合わされていた。
 2個のヨーヨーを手足のように操り、一定の距離から伊瀬を決して前に近づけない。
 ナイフは深く刺されば一撃で死を与える。
 その一撃を繰り出す距離に近づけない。
 ナイフを投げれば届くかもしれないが、武器を投げる以上は仕留めなければ次はない。
 チャンスを窺う伊瀬の前で、繰り出されるヨーヨーは一刹那遅れた。
 好機に伊瀬は踏み込みナイフを振るう。
 切っ先がキラの頬を撫で、一筋の赤い線が引かれた。
 お返しにヨーヨーが伊瀬の頬を殴る。
 吹き飛ばされながらも伊瀬は倒れることを耐え、口から血の混ざった唾を吐いた。
 すぐにキラに視線を戻すと屈辱とも取れる行動をしていた。
 キラは片手を休めてヨーヨーの代わりにケータイを持っていたのだ。
「ヤベっ、ゾーラのアニキ……留守番ならしてたしてた……だからさ……うんうん……じゃなくって、今敵と戦ってんの、だから仕方ないだろ」
 相手と会話しながら明らかにキラの手は鈍っていた。
 甘くなったヨーヨーの攻撃を軽やかに躱しながら伊瀬が速攻を決めた。
 一撃目のヨーヨーをナイフで弾き返し、ニ撃目を繰り出せないキラにナイフが迫った。
 ヨーヨーが繰り出せなくとも、避けることはできる。
 飛び退き躱すキラに連撃のナイフが迫り来る。
「おおっと!」
 声をあげたキラの後ろは空だった。飛び退きながら屋上の端まで追いやられたのだ。
 フェンスのない屋上の端で、キラはそれでもケータイから手を離さなかった。
「だから今すぐ帰るって言ってんだろ……ウソじゃねえよ、本当に戦ってんだよ。お前からも何か言ってやってくれよ」
 話を振られた伊瀬は言葉の代わりにナイフで返事をした。
 切っ先は首擦れ擦れで風を鳴らした。
 そして、キラはそのまま後ろに身を任せた。
 背中から地上にダイブしたキラは、瞬時にヨーヨーをベランダのフェンスに引っ掛け、糸を腕に巻いて体重を支えた。ケータイは未だに手から離していなかった。
「おい、逃げたわけじゃねーぞ。帰って来いってうるさいから奴がいるから、そいつと直接話つけて来るだけだからな!」
 キラは大声を出してからフェンスを登ってどこかの部屋に消えた。
 帰って来いということは、あの部屋に戻れという意味だろう。
 あの場所に残してきた亜季菜と瑠璃が心配で、伊瀬は全速力で屋上を出て階段を駆け下りた。
 〝帰れ〟ではなく〝帰って来い〟という意味には、〝来い〟すなわちその場所に人がいることになる。
 第三者に亜季菜と瑠璃が危害を加えられたことを伊瀬は瞬時に想像した。
 あの部屋の前まで戻るとドアが破壊されていた。
 すぐに伊瀬は部屋に踏み込み、廊下の横の部屋から禍々しい気配を感じた。
 部屋を覗くと壁一面に張られた御札と床の魔法陣が目に入る。だが、この場所に真珠姫の姿はなかった。
 部屋を出てリビングまで走った。
 そこには床に寝かされた亜季菜と瑠璃の姿が、そしてゾーラとキラもそこにいた。
 ゾーラは鼻でため息をついた。
「またお客さんかね」
 キラはゾーラの横で伊瀬を力強く指さした。
「コイツだよコイツ、な、オレが言ってたこと信用しただろ?」
「信用したが、玄関を壊されたのは大失態だ。すぐに別の場所に移らねばならない。真珠姫の降霊もはじめからやらねばならぬ」
 2対1の不利な状況に、さらに2人の人質がいることで不利に拍車がかかる。
 それでも伊瀬はこの場を引くわけにいかない。
「お2人を返していただきましょう」
「だとよ?」
 キラはゾーラを見上げて尋ねた。
 もちろんゾーラの答えは決まっている。
「それはできぬ。が、貰って行くのは1人だけだ」
 必用なのは瑠璃だけだった。必要ない人質はただの足手まといだ。
 ゾーラは瑠璃を抱きかかえて背中に背負った。そしてキラに合図を送る。
「人が来る前に引くぞ」
「はいはい」
 人が集まれば厄介だ。
 キラはヨーヨーを伊瀬に放ち、その隙にゾーラが玄関に走った。
 ヨーヨーを躱しながら伊瀬は追おうとした。
 それを許さぬヨーヨーの追撃。
 キラが喚く。
「おいゾーラ、足封じの術ないのかよ!」
「お前のヨーヨーで相手の足を狙え」
「狙ってるつーの!」
 廊下を駆けながらキラは伊瀬の追跡を封じようとする。その2人が全速力で走れないうちにゾーラの姿が消えた。
 階段を跳ねながら逃げるキラを追い詰めようとする伊瀬だったが、その足は階段を下りる前に止まった。
 悔しさを顔に滲ませながら伊瀬は追うことをやめた。
 奴等が逃げた理由は人が集まることを危惧したからだ。それは伊瀬にも言える。部屋に残してきた亜季菜のところへ戻らねばならない。
 伊瀬はすぐさま道を引き返し、亜季菜の身柄を確保するために全速力で走った。

《5》

 愁斗の操る紫苑はすぐに鎌倉へは向かわず、茅ヶ崎を経由することにした。
 龍神が現れた場所を確認するためだ。
 事件の当事者は鎌倉にいるかもしれないが、龍神自体はまだ近くの海域に潜んでいるかもしれない、そう考えたのだ。
 やはり予想通り、海岸の近くには報道陣が集まっていた。けれど、倒壊した建物や大津波のあった地域には立ち入りの規制が敷かれていた。この一帯を取り締まっているのは警察と自衛隊だ。
 空を見上げれば自衛隊の大型ヘリが旋回している。
 辺りは物々しい雰囲気で喧騒していた。
 集まっている人だかりの中には、津波で行方不明になった人や、家財などを心配する人々が、自衛隊や警官ともめている姿もあった。
 他にもただの野次馬や、怪物を見ようと集まって来た者もいる。
 紫苑も周りに溶け込んだ格好をしている。目深に帽子を被りマフラーで口元を隠しているが、冬場ではそれほど気にならない格好だろう。けれど、人間離れした妖艶さは隠しきれなかった。
 紫苑の目がある男で止まった。
 ロングコートを着て葉巻を吹かしている若い男が、楽しそうに辺りの人々を観察していた。
 紫苑が見ていることに気付いたのか、相手の男は軽く微笑んで姿を消そうとした。
 直感が働いた紫苑はすぐさま男を追う。
 人ごみに紛れてしまった男。
 しかし、周りの人々とは違う気を放っている者がひとり混ざっている。
 紫苑は人ごみを掻き分けて広い場所に出た。
 遠くを颯爽と歩くロングコートの背中。
 男は紫苑が見る視線の先で細い路地を曲がった。
 紫苑は見失わないように追って、男の曲がった路地を曲がった。
 すると男はビルの壁に寄りかかって葉巻を吹かせていた。
「僕になにか用かな?」
 男は優しい顔で紫苑に尋ねた。
 しかし、紫苑はその優しい顔の奥に潜む悪魔を見抜いていた。
「何者だ?」
「初対面で何者だとは、レディにしては不躾だねえ。貴女こそ何者なのか気になるね」
「……紫苑。貴様の発する気が常人でないと語っている。あの場所でなにをしていた?」
「人間ウォッチングさ。世紀の大事件が起き、人々がどんな反応をしているのか、生で見たくなってね、足を運んだわけだよ」
 まだ正体の掴めない男に紫苑は鎌をかけることにした。
「D∴C∴」
 その単語に男はより柔和な顔になった。
「ああ、君もそっちの世界の人間か。もっと君のことを知りたくなったよ。そうだね、これからデートでもどうかな?」
 男はポケットから車のキーを出して、指先で摘んで揺らして見せた。
「断る」
「つれないヒトだ」
 相手がD∴C∴である可能性が高い今、油断はできない。
 仮にD∴C∴だとした場合、なぜこの場所にいるのか?
 彪彦の話を信じるならば、今回の事件に関してD∴C∴の構成員が動いているらしい。
 他の可能性を考えるなるば、追われる者。
 龍封玉を盗んだD∴C∴の一派である可能性だ。
 男はなにかを思い出して目を丸くした。
「そうだ、まだ自己紹介もしていなかった。自己紹介もしないでデートに誘うなんて失礼なことをしたね。僕の名前はシュバイツ、ファーストネームだよ。親しみを込めて名前を呼んでもらうためにファミリーネームは教えないよ」
 シュバイツ――それはまさに後者。龍封玉を盗んだ一派の仲間だった。紫苑はその名を彪彦から聞いていた。
 紫苑から漲る魔気を感じてシュバイツは一歩引いた。
「ヤダね、モテる男は命がいくらあっても足りない」
「龍封玉の在り処を教えてもらおう」
「なんだ、僕が誰だか完全にわかってるみたいだね。恋した女性が敵で命を狙われるなんて、まあ脚本としてはB級だけど現実に起こると面白い」
「たわ言はそこまでだ、龍封玉を渡せ」
「顔を隠しているけれど、きっと君は凄い美人だと確信してる。そんなレディにはプレゼントをあげたいところだけど、残念だけど龍封玉はゾーラって人が持ってるんだ」
「ならばそいつの場所まで案内してもらおう」
「それをすると僕が怒られる。代わりに僕のピアノ演奏で勘弁してくれないかな、これでもピアノには自信があるんだ」
「教えないなら吐かせるまでだ、ピアノを弾けない手にしてやる」
 構えた紫苑の前でシュバイツが消えた。
「残念だけど、僕の拳は頑丈にできていてね」
 声は紫苑の後ろからした。
 振り向くと、道路に出て電柱にもたれるシュバイツの姿あった。
 余裕なのかシュバイツは葉巻に火を点けていた。
「ピアノを弾くんだけど、僕は拳で戦うんだ。ピアノ奏者は指を大事にしなきゃいけないのは常識なんだけど、僕の拳は丈夫だからまあいいかなって。ボクシングもピアノも同じ手を使う仲間だろ?」
 同じ手を使うにしても、シュバイツの言葉は常識はずれだ。
 シュバイツが道路に出たことによって戦いづらくなった。
 少し離れた通りには人々の集まりがある。
 すぐそこを走る道路には車の往来もあった。
 煙を吐いたシュバイツは戦う意志がないようにリラックスしていた。
「ここで戦うのは君にとっても不都合じゃないかな。特殊な能力を持った者が人前で戦える時代はまだ来ていないからね」
 シュバイツはそう言ってから顎で車を示した。路上に止まっている車は高級車のジャガーだ。
「デートでもしようじゃないか、そして2人っきりになれる場所に行こう」
 その提案に紫苑は乗らなかった。
 常人の眼では限りなく不可視に近い妖糸が紫苑の手から放たれ、ジャガーのタイヤをパンクさせた。
 車高が低くなる愛車をシュバイツは見ながら、おでこに軽く手を添えて首を横に振った。
「君ね、少しじゃじゃ馬だよ。せっかく場所を替えようって言ってるのに、どこでヤり合うに気なの?」
「一瞬で貴様を仕留め、姿を晦ませばいいことだ」
「なかなか大胆だね、君。好きだよそういう子。でもね、この場所は警官が多くて、自衛隊までいることをお忘れなく」
「そして、わたくしのような者がいることもお忘れなく」
 第三の声がした。
 シュバイツは驚いて紫苑から視線を外して、愛車のボンネットに腰掛ける男を確認した。続けざまに空を見上げて電線に停まる鴉を見つめた。
「影山彪彦さん……か」
 シュバイツは嫌そうに呟いた。
 彪彦はサングラスを直しながら、こんな話をした。
「そうですね、例えば鴉に襲われた不幸な人と言うのはどうですか?」
 ひと目があっても人を殺す方法。
 電線の上から鴉が鋭い眼でシュバイツを狙っている。
 シュバイツはため息をついて両手をあげた。
「降参するよ。2人と1羽を巻くのは大変そうだし、影山さんがいるということは、他の奴等もうろちょろしてる可能性もあるからね」
 他の奴等とはシュバイツらを探しているD∴C∴の構成員だ。
 彪彦は通りの向こうに停めてある自分の車を指さした。
「ではわたくしの車にお乗りください。仲間の居場所まで案内してもらいます」
「男とデートだなんてツイてないね」
 シュバイツは逃げることを本当にやめて歩きでした。
 彪彦はシュバイツの横を歩きながら紫苑に声をかける。
「あなたも来ますか?」
「行かせてもらう」
 3人は車に乗り込み、シュバイツを運転手にして車は走り出した。

 とあるマンションまで車を走らせ、駐車場に車を停めてマンションの中に入った。
 シュバイツの横に彪彦がぴったりと付き、少し離れた後ろを紫苑が歩く。
 エレベーターを降りた瞬間から、なにやらざわめき立った声が聴こえていた。
 廊下の向こう側に人だかりができている。
 警官の制服が人ごみの中に見えた。
 シュバイツは足を止めて彪彦に顔を向けた。
「たぶん人だかりができてる辺りの部屋かな。騒ぎを起こしたようだから、もう別の場所に移動したと思うね」
 丸いサングラスの奥の瞳で彪彦はなにか言いたそうだ。それに気付いてシュバイツは言葉を付け加えた。
「僕はなにも知らなかったよ。だからここまで来たんだ」
「次の潜伏先に心当たりは?」
「ないね」
 警官がいるこの場所に長いは無用だ。部屋の中を調べたいところだが、それは諦めて場所を移動するしかない。
 駐車場まで戻って車に乗り込む。
 車内で紫苑はシュバイツに尋ねた。
「例えばケータイとかに仲間からの連絡はないのか?」
「さあ、君たちに見張られててケータイも弄れなかったからね。しつこくバイブしてたけど無視してた」
 彪彦は淡々と、
「そういうことは報告しなさい」
「年末は取締りが厳しいからね、運転中にケータイを使って取り締まられたら嫌だから。ほら、やっぱり公の場では警察のお世話にならないように気をつけないと、そんなところで別の犯罪が露呈したら嫌でしょう?」
 紫苑が呟く。
「私の知り合いは運転中でも構わずケータイで通話するが、一回も取り締まられたことがない」
 亜季菜のことだった。
 シュバイツは口の近くで指を立てて『ノンノンノン』と横に振った。
「それはね、運がいいだけ。やっぱり念には念を入れるべきだよ。僕は自慢じゃないけどゴールド免許なんだ」
「そんな話はいいですから、早くケータイを確認しなさい」
 と、彪彦に促されてシュバイツはポケットからケータイを出した。
「ああやっぱり、キラくん連絡が入ってるね。着信履歴だけじゃなくて、メールも来てるみたいだ」
 メールを開いて、その画面をシュバイツは彪彦に見せた。
 文面を読んだ彪彦は深く頷く。
「横浜方面に向かいましたか……シュバイツさん、なにかわたくしに隠していることはありませんか?」
「同じ組織の仲間だからね、なるべくいざこざはしたくない。嘘はつきたくないけど、教えたくもないね」
「嘘は普段から付くでしょう。そういうところが嘘つきだと言われるのですよ」
「嘘をついてるつもりはないんだけどね、口が先にしゃべってしまう。そういう病気だと思って勘弁してくれないかな?」
「おしゃべりはいいから、早く隠していること言いなさい」
 彪彦に追求されてシュバイツは小さく唸った。
「ペラペラしゃべるとゾーラに怒られるんだよ。彼は力のある魔導士だけど、ユーモアに欠けるところがあるからね。ほら、いつだったか覚えているかい?」
「時間稼ぎはよしなさい。しゃべらないのならとりあえず車を走らせなさい。横浜に向かいましょう」
「それは階位の高い彪彦さんから、階位の低い僕への絶対命令ですか?」
「そういう気持ちがあるなら、隠していることも吐いたらどうですか?」
「まあまあ、横浜までは時間があるから、ゆっくり話してあげるよ」
 エンジンを掛けてアクセルを踏む。
 再びシュバイツの運転で車は走り出した。
 鎌倉市から北上して横浜市に向かう。
 シュバイツは運転をしながらラジオを掛けニュースを聴いた。ニュースの内容は茅ヶ崎の怪物騒ぎで持ちきりだ。
「茅ヶ崎に出る予定じゃなかったんだ」
 と、何気なくシュバイツは言った。
 助手席の彪彦が尋ねる。
「どういうことですか?」
「なかなか龍神サマが言うことを聞かなくてね、目的地とぜんぜん違う方向に行ったんだよ」
「当初の目的地はどこですか?」
「今向かってる方面だよ」
「やっぱり心当たりがあるのではありませんか。嘘を付きましたね?」
「嘘とかじゃなくて、ちょっと思いつかなかっただけさ……ああ着信だ、僕のポケットに手を突っ込んで取ってもらえますか?」
 仕方なく彪彦はシュバイツのポケットからケータイを取ろうと、頭を低く瞬間に強烈な肘打ちを脳天に喰らわされた。
 急ブレーキを踏んでシュバイツは車の外に飛び出した。
 すぐに紫苑も追おうとしたが、後ろから衝突した車が車内が揺らして、後部座席から運転席に飛ばされてしまった。
 紫苑はダッシュボードに頭を打ち付けて、倒れている彪彦に上に乗ってしまった。
 その間にもシュバイツは行き交う車の間を縫って姿を消す。
 上空を飛んでいた鴉がシュバイツを追う。
 車内が再び揺れた。
 後ろに衝突した車に、他の車が衝突したのだ。
 見事な玉突き事故を起こして、辺りは騒然とした空気に包まれた。
 彪彦は愁斗の潰されながら淡々としていた。
「早く退いてください」
「すまない」
 紫苑は上体を起こして、足の付いていた後部座席に戻った。
 続けて彪彦も起き上がって運転席に移動した。そして、車を走らせようとしたが、キーが抜かれていてエンジンすら掛けられなかった。
「ゴールド免許が聞いて呆れますね」
 ぼやく彪彦を残して紫苑はすでに外に出ていた。
 渋滞になってしまった車の間を抜けてシュバイツの行方を追う。
 その後ろから彪彦が追いかけてきた。
「シュバイツさんは車を奪って逃げました。わたくしたちも新しい足を捜しましょう」
「まずはひとまずこの場から逃げよう」
「そうですね、シュバイツさんはわたくしの〝本体〟が追っていますから大丈夫です」
 2人はこの場を一刻も離れようとした。
 走って逃げる途中で紫苑が彪彦に話しかける。
「今、知り合いから連絡があった」
 紫苑がどこかと連絡を取っている様子はなかった。
「ああ、愁斗さんの方にですね」
「龍封玉の本来の持ち主が敵に捕まったらしい」
「詳しくは存じ上げませんが、海に棲んでいる方だとか。龍封玉が盗まれたあとに、今さら捕まりましたか」
「龍封玉を探すために陸に上がってたんだ」
「なるほど、その辺りの情報はまったく知りませんでしたね。ですが、こういう情報なら知っていますよ」
 彪彦はポケットからケータイを出した。それはシュバイツのケータイだった。
「車のキーは抜かれましたが、ケータイをわたくしから奪うのは忘れていたようですね」
 丸いサングラスの下で彪彦の口がニヤリと笑った。

《6》

 紫苑と彪彦は亜季菜たちと合流しようとしていた。
 鎌倉駅近くで2人が待っていると、キャデラックが現れて中から伊瀬が降りてきた。
「お待たせしました、どうぞ中へ」
 伊瀬は助手席と後部座席のドアを開けた。彪彦が助手席の乗り、紫苑が後部座席に乗り込む。後部座席には亜季菜もいた。
 彪彦は後部座席に顔を向けて亜季菜に頭を下げた。
「はじめまして姫野さん、姫野グループ会長の妹さんですね?」
 問われた亜季菜が紫苑に顔を向けると、紫苑は首を横に振った。
「亜季菜さんのことを私の口からは話してませんよ」
「じゃあなんでよ?」
 それは彪彦が答えた。
「もうお聞きかもしれませんが、わたくしはD∴C∴に所属しております」
「ええ、知ってるわ。愁斗クンからほとんど聞いていると思うわ」
「愁斗さんの周りの環境について徹底的に調べさせていただきました。物凄いパトロンが付いていたものです、貴女が隠蔽していたせいで愁斗さんを探すのに手間取りました。しかし、見つけてしまえば後は芋づる式に調べることは可能です」
 その話を聞いて亜季菜は小さく舌打ちした。
 愁斗がD∴C∴に監視されていることは、自分も監視されていると亜季菜は呑み込んだのだ。
 すでにアクセルを踏む準備をしていた伊瀬が問う。
「話に区切りがついたようでしたら、目的地を言ってください」
 彪彦はポケットからケータイを出して、メール本文を伊瀬に見せた。
「ここです、舞浜にある日本最大のテーマパークです」
 アクセルにかけていた伊瀬の足が外された。
「おそらく車より電車の方が早いですね」
 と、提案しつつも伊瀬は亜季菜の顔色を窺った。
「電車とかありえないわよ、普通列車ってみんな自由席なんでしょう?」
 確かに言い方によったら自由席だ。
 そのまま亜季菜は続けた。
「ヘリ呼びなさいヘリ」
「停める場所が……」
 少し小声で言う伊瀬に亜季菜は大声を出した。
「今の時期冬休みでしょう、学校とかないの学校? 校庭使っちゃいなさいよ」
 茅ヶ崎から鎌倉に来る途中、鎌倉駅の近くに学校らしきものがあったことを彪彦が覚えていた。
「ここの道路を海に下る途中にそれらしき物があったような気がします」
 亜季菜のゴー合図が出る前に伊瀬はアクセルを踏んでいた。
 大きな道路を海沿いへと下り、彪彦が行ったとおり学校があった。
 無許可で学校の敷地内に入ってヘリを待った。その間にシュバイツをとある駅で見失った鴉が合流した。
 ヘリは車や普通電車に比べて断然早い。
 しばらくして遠く上空から猛スピードでやって来たヘリが、小学校で4人と1匹を拾って、軽く時速180キロを越えるスピードで、ほぼ直線で舞浜に向かって飛行した。
 冬空は日が落ちるのが早く、すでに辺りは薄暗くなりはじめている。
 テーマパーク周辺のパーキングエリアに無理やりヘリを停めさせ、ヘリから降りるとテーマパークに入る前に彪彦が全員を止めた。
「ちょっと待ってください、電話をかけたい相手がいます」
 そう言って取り出したのはシュバイツのケータイだった。
 誰かに通話した彪彦は無言で相手が出るのを待った。
《おいシュバイツ、今まで何してたんだよ!》
 少年の声がスピーカーの向こうから響いた。キラだ。
「残念ながらシュバイツではありませんよ」
《誰だてめぇ!》
「影山彪彦です」
《……マジかよ、シュバイツはどうしたんだよ》
「途中まで追跡していたのですが、電車に乗られたところからわからなくなりまして」
 電話の向こうでキラが小声で話しているようだった。そして、何か物音がしてキラではない声がした。
《電話を代わったゾーラだ》
「ゾーラさんお久しぶりですね、お元気にしていましたか?」
《用件を手短に言え》
「このケータイに送られたメールにはリゾートと書いてありまして、ランドですかシーですか、それとも別の場所にいらっしゃるのですか?」
《キミはどこにいるのだね?》
「駐車場です」
《ならばこの場所から見えるかもしれんな。せいぜい頑張って探したまえ》
 通話が一方的に切られた。
 考え込む彪彦に視線は集中して、彪彦が発する次の言葉に耳が傾けられた。
「もしかしたらテーマパーク内ではないかもしれませんね、それらしい声や音がありませんでした。後ろから聴こえて来る音は強風の音くらいでしたかね」
 東京湾の近いこの場所は風の強い場所も多い。
 近くにいることはわかっているが、探すのは困難を極めそうだ。
 先ほど彪彦が言ったように、2つのテーマパーク内にいなければ範囲が狭まる。だが、もしもテーマパーク内にいた場合、その人口密集度から探すのは困難を極める。
 駐車場でじっとしていてもはじまらず、3組と1匹に分かれて散らばることにした。
 紫苑、彪彦、亜季菜と伊瀬、そして上空から鴉が探す。
 この場所で彼らはなにをしようとしているのか、そのことから紫苑は考えることにした。
 当初の目的地がここと言うことは、目的はテーマパークに集まる大勢の人と考えるのが自然だろう。水辺からも近く人が多く集まる場所だ。
 茅ヶ崎の被害から考えて、襲う標的に近ければ自分たちの命も危険に晒される。ならば、テーマパーク内というのは、彪彦の言葉を総合しても考えづらい。
 テーマパークの様子が見れて安全な場所。
 この周辺には多くのリゾートホテルが存在している。
 龍神は海からやって来る。
 紫苑は敵の狙いをランドではなくシーに絞った。理由はランドよりシーの方が湾に近いからだ。
 景色などを見渡すのであれば、高ければ高い場所のほうが良い。
 そして、最後に彪彦が言っていた強風と言うキーワード。
 総合して考えるにシーに一番近いホテルの屋上が適当だろう。
 紫苑を操る片手間で愁斗はパソコンも操っていた。ネットで自分が推理した場所に当てはまる場所を探す。そして、目星が付いた。
 モノレールを使ってリゾート全体囲うラインを走り、ベイサイドステーションから目的のホテルへと向かった。

 ホテルの屋上でキラは双眼鏡を覗いていた。光学ズームで遠く海面を眺め、波の動きを見張って胸を高鳴らせていた。
 一方ゾーラはキラのすぐ横で、魔法陣を描き再び真珠姫を招喚していた。
「今度こそ私をがっかりさせないで欲しい」
「わかっておる、手はず通り妾を瑠璃姫の肉体に移すのじゃ」
 揺らめく影のような真珠姫のすぐ近くには、気を失って縛られている瑠璃の姿があった。
 現在肉体を失い魂だけの真珠姫は、瑠璃の肉体を得ることにより、生前の力を取り戻すばかりか、瑠璃の力をも吸収する魂胆だった。
 迫る魔の手に気付いたのか、今まで気を失っていた瑠璃が突然目を覚ました。
「ここは……真珠姫!?」
 目を開けたすぐ先に般若の形相をした真珠姫の顔があった。
 横を見るとゾーラやキラの姿もある。
 縛られている瑠璃は首から上しか動かすことができない。絶体絶命とも言うべき状況に追い込まれていた。
 真珠姫は邪悪な笑みを浮かべていた。
「今からお主の肉体をもらうぞ」
 その言葉に瑠璃は驚きを隠せなかった。
「私の肉体を……肉体を手に入れてなにをする気なのです!」
「ほほほっ知れたこと。龍神を思うが侭に操るためじゃ」
「まだそんなことを……龍神の力を甘く見てはいけません」
「お主こそ妾を甘く見てはおらぬか?」
 炎が燃え上がるように真珠姫の影が揺れ、風のように翔ける影は瑠璃の背後に回った。
 そして、瑠璃の足元に描かれた魔法陣が淡く輝きはじめる。
 ゾーラも瑠璃の背後に立っていた。
「では行くぞ……ハッ!」
 ゾーラは掌底で真珠姫を突き飛ばし、瑠璃の肉体へと押し込めた。
 大きく肩を揺らした瑠璃。
 急に瑠璃は縛られたままの身体で地面を転がり回った。
 肉体の中で魂と魂が闘っているのだ。
 苦悶する瑠璃の顔の筋肉が動いた。皮が動き、肉が動き、骨格が動いている。
「大人しく消えるのじゃ!」
 瑠璃の口から真珠姫の声が発せられた。
 その間も瑠璃の顔は変化を続け、瑠璃と真珠姫が混ざったような顔に変化していた。
「やめ…て……ください……」
 弱々しい瑠璃の声が零れた。
「ほほほほほっ、そのまま消えてしまえ!」
 顔は真珠姫の相が強くなっていた。
「ゾーラ、縄を解け」
 真珠姫に命令されゾーラは縄をナイフで切った。
 立ち上がった真珠姫の身体は、瑠璃とは比べ物にならないほど豊満で妖しかった。
 しかし、まだ微かに瑠璃の面影がある。
 ゾーラはそれに気付いていた。
「まだ完全に肉体を乗っ取っていないようだな。あの女の相が残っている」
「案ずるな、この躰の支配者は妾じゃ。彼奴にもう力などない」
「ならばいいが……ではさっそく龍神を呼ぶとしよう」
 ゾーラは蒼く拳ほどの大きさの玉を懐から取り出し、それは真珠姫の掌に握らせた。この玉が龍封玉だった。
 龍封玉は龍神を封じた玉。けれど、それ自体に封印しているわけではない。この玉は一種の鍵であり、制御装置でもあるのだ。
 人間には発音できないような音で真珠姫は呪文を唱えた。
これとほぼ同時に、大津波を起こして移動する巨大生物によって、東京湾アクアラインの海底トンネルが上から押しつぶされて破壊された。
 真珠姫が頭を抱えた。
「無理じゃな、水深が低すぎて泳いでくることができん」
 東京湾の水深は30メートルにも満たない。アクアラインの手前までは水深もあり、相模湾から入ってくることができたが、これ以上は泳いで入って来られない。
 自衛隊のヘリが海面から巨体をビデオカメラで撮影していた。
 その全長は世界最大の豪華客船に迫るほどで、300メートルを越えているのではないかと思われる。それに伴い全高も相当なもので、アクアラインを腹で潰して海面から躰が半分以上出てしまっている。
 カメラをズームするとその躰が、岩のような鱗に覆われていることがわかった。まるで岩に覆われた蛇だ。
 龍神は蛇のように這いながら進みはじめた。
 そのスピードは信じられないほど速く、津波を起こし海底を削って舞浜に向かって進んでいた。
 ホテルの屋上でゾーラはまだ肉眼では見えぬ龍神の方角を見ていた。
「あと10分ほどか……泳げればもっと早かったのだがな」
 双眼鏡を覗いているキラも愚痴た。
「のんびり這ってなんか来たら、テーマパークで遊んでる奴等に逃げる隙を与えちまうもんな」
 この時点では、まだテーマパークに避難勧告は出ていなかった。
 龍封玉を胸で抱く真珠姫は目を瞑って呪文を唱え続けている。全神経を集中させて、滝のような汗を噴いている。
 ゾーラは何者かの気配を感じて振り向いた。
「誰かね?」
 口に巻いたマフラーを強風に靡かせながら、シルエットは凛とその場に立っていた。
「……瑠璃と龍封玉を返して貰おう」
「残念ながら瑠璃と言う海人の肉体は真珠姫に奪われてしまった」
 ゾーラの言葉に紫苑は視線を真珠姫に動かした。その姿は以前、幼き愁斗が見たものとは異質だった。言われれば真珠姫とわかるが、どこか違う。
「真珠姫であって真珠姫ではないな」
 まだ瑠璃の魂がそこにあるのなら、元の姿に戻すことは可能かもしれない。
 以前、龍神を操れるのは海の民だけだと聞いた。真珠姫が持っている蒼い玉が龍封玉であり、真珠姫が龍神を操ろうとしているのは明白だった。
 問題はそれをどうやって阻止するかだ。
 紫苑は戦闘の構えを取った。
 まずは周りを片付けるしかあるまい。
 紫苑は地面を蹴り上げ、氣を練り上げて妖糸を放った。まず倒すはゾーラ。
 目を見開いたゾーラは常人ではほぼ不可視の糸を見切った。コートを巻くって腰に下げていたチェーンを握り放つ。
 銀色のチェーンは鞭のように紫苑の妖糸を弾いた。
 双眼鏡で海を見ていたキラは、そのレンズを海から屋上に向け、逆に双眼鏡が邪魔なことに気付いて肉眼で見た。
「ヤベッぜんぜん気づかなかった。いつ来てたんだよ?」
 紫苑の登場にまったく気付いていなかったらしい。
 こちらに顔を向けるキラにゾーラは注意を促す。
「キラ後ろに気を付けろ」
「はぁ?」
 後ろはすぐに空中だ。
 押柄な感じでキラが後ろを振り向くと、その瞳に巨大な魔鳥の影が映った。
「ごきげんよう」
 手首に黒い翼をつけている彪彦は空を飛び、空中から回し蹴りを放ってキラの顔面に喰らわせた。
「ガァッ!」
 アヒルが絞められたような声を出してキラがぶっ飛んだ。
 彪彦はひょいと屋上に降り立ち、手に装着されていた大きな翼は、そのまま嘴のような鉤爪に変化した。
 地面に肩膝をついてキラは口を手の甲で拭った。
「クソッタレ、よくもやったな!」
「わたくしが降りるのに邪魔でしたので、思わず蹴り飛ばしてしまっただけですよ」
「くだらねージョーダン言いやがって、死ね!」
 パーカーのポケットからヨーヨーを取り出してキラが彪彦に襲い掛かる。
 一方、紫苑とゾーラの戦いも続いていた。
 薄闇の空の下、戦いはまだまだこれからだった。

《7》

 彪彦に続いて亜季菜と伊瀬も屋上に駆けつけた。
「伊瀬クン、あの蒼い玉がアレじゃないの?」
「かもしれません」
 真珠姫の持つ蒼い玉に2人の視線は注がれた。
 龍神を操ることに神経を集中している真珠姫は、周りの様子が見えていない。今が龍封玉を奪うチャンスかもしれない。
 伊瀬が走った。
 魔法陣の上に立つ真珠姫に飛び掛ろうとした。
 その足が不意に止まる。
 他の者も戦いながらも視線はそちらに配っていた。
 海面から躰を出す怪物が、浅い湿地を這うように迫って来る。龍神だ、龍神がすぐそこまで迫っていた。
 このときやっとテーマパークに避難勧告が出て、四六時中やっていたニュースの怪物が現実にいるという恐怖でパニックになった。
 このリゾート全体の入場者数は年間で約2500万人、1日平均7万人もの人が訪れる。夜10時に閉園することや、近隣ホテルの宿泊数を考えると、数万もの人を一斉に避難させなければならなかった。
 避難勧告をリゾートに通達したのは日本政府だが、その遅れは有事は有事と言っても相手が生物であったことが要因だろう。進路の予想ができても、いつ進路を変えるともわからず、東京湾に隣接している県民たちを全員非難させるのは不可能である。ギリギリまでの見定めがあったと思われる。
 自衛隊と在日米軍との連携によって、すでに攻撃態勢の準備はできていた。
 しかし、踏み切れるはずがない。あまりにも人が多すぎる。
 津波がもっとも湾に隣接していたシーに流れ込んだ。茅ヶ崎で起きた大津波に比べれば些細なものだが、それでも人々を混乱させるには十分に足りる。
 東京湾の水深が低く、水の量が少ないためか、大津波を起こせない代わりに龍神は陸に上がった。
 モノレールの路線が破壊され、シー内に侵入した巨体が動く。
 人工的に作られた園内の海は超巨大な龍神にとっては、小さな水溜りでしかなかった。
 とぐろを巻くだけで敷地の大半を占拠し、尾の先を少し振るだけで巨大な建物が破壊される。
 まさにその光景は黙示録である。
 巨大な怪物によって脆くも破壊される世界。
 ゾーラは紫苑の妖糸を躱して、科学が破壊される様を見つめていた。
「この場所では物足りなかったようだ」
「なにが物足りないだ!」
 紫苑は怒りを露にした。静かな怒りではなく、爆発するような怒り。それは紫苑には珍しいことであった。
 怒りに任せて振るう妖糸は深い〈闇〉を纏い、泣き叫びながらゾーラに襲い掛かる。
 瞬時にチェーンで弾いたはずの妖糸は勢い治まらず、翻ったゾーラのマントを軽く斬った。
 斬られたのはマントの先だったが、その断面が少し腐ったのをゾーラは眼にした。愁斗の放った妖糸が物を腐食させたのだ。
 一方、伊瀬は再び真珠姫から龍封玉を奪おうとしていた。これ以上世界を壊させはしない。
 相手の手を掴もうと伊瀬が手を伸ばした瞬間、真珠姫の眼がカッと見開かれた。
「邪魔はさせぬわ!」
 長い爪を持った手が振り上げられ、伊瀬の顔面を抉ろうとした。
「伊瀬さん!」
 紫苑は叫びながら妖糸を放った。放った妖糸は目の前のゾーラではなく、真珠姫の振り上げられていた手首を飛ばした。
 元は瑠璃の躰であるが已むを得ない判断だった。
 真珠姫の手首を飛ばし終えた紫苑にゾーラのチェーンが襲い掛かる。
 それを避ける余裕など紫苑になかった。
 キラと戦っていたはずの彪彦が鉤爪から魔弾を飛ばした。
 魔弾は振るわれたチェーンを弾き返して紫苑を守った。
 彪彦はそのまま敵をゾーラに代えた。
「わたくしがお相手しますよゾーラさん」
 残されたキラが怒鳴る。
「おい、オレを放置すんじゃねぇ!」
「二人一緒にお相手するに決まっているじゃありませんか」
 丸いサングラスを直しながら彪彦は口元を緩めた。
 紫苑は伊瀬を助ける為に真珠姫に立ち向かった。
 腕を落とされた真珠姫は憤怒していた。
「おのれ人間めッ!」
 真珠姫の肉体が膨れ上がり、角ばった骨が筋肉の下から盛り出し、躰を強靭な鱗が覆った。尻からは長い尾が生えており、それを千切って槍とすると、新しい尾がすぐに生えてきた。過去に戦ったときのように、驚異的な再生力は健在であった。
 紫苑が繰り出す妖糸の雨を真珠姫の槍がことごとく弾く。
 その紫苑の技を見て、憎悪が真珠姫の底から沸々と湧き上がった。
「まさか……別人に決まっておる!」
 真珠姫の脳裏を掠める幼い子の残像。
 紫苑は低く声を響かせる。
「生きたまま蟲に喰われた悪夢を再現するか?」
 それは過去に真珠姫が愁斗に葬られたときの恐怖だった。
 急に真珠姫は壊れたように笑い出した。
「ほほほほっ、ほーほほほほっ、なんという好機。うぬにまた出逢えるとは、嬉しいぞ、妾は嬉しいぞよ」
 真珠姫は龍封玉を口に含み、咽喉を大きく動かして呑み込んだ。
 心底から真珠姫に漲る力。
 姫でありながら雄々しく槍を構えて真珠姫は嗤った。
 紫苑と真珠姫が対峙するときも、猛威を振るう龍神は暴れ狂っていた。隣接する二つのテーマパークを横断しながら、その進路を東京都心に向けていたのだ。
 今度はすでに避難勧告が広範囲に出されていたが、それでも避難には時間がかかる。再び自衛隊や米軍は地団太を踏むことになると思いきや、米軍は被害を〝最小限〟に留めるために攻撃を開始したのだ。
 厚木の海軍基地から飛び立った飛空部隊が、空に轟音を響かせて龍神に迫り、ミサイルの雨を発射した。
 町が破壊され、硝煙が辺りを包む。
 この世のものとは思えぬ咆哮が天を突いて響く。
 巨大な龍神の頭が硝煙を雲に見立てて空に昇った。
 強靭な鱗には傷一つ付いていない。傷付いたのは逃げ遅れた人々だけだった。
 爆発の煙はホテルの屋上からも見えていた。
 伊瀬は硬い表情をしながら眼鏡を直した。その向かいにはキラが構えていた。
 彪彦はキラを伊瀬に任せ、ゾーラだけに力を注ぐことにしたのだ。
 2本のナイフを構える伊瀬と、2個のヨーヨーを操るキラ。再戦である。
 キラはヨーヨーを操りながら伊瀬と間合いを取る。
「あんときは逃げたんじゃないからな、ここで決着つけてやるぜ」
「一刻を争います、すぐに決着をつけましょう」
「そんなこと言うなよ、ゆっくり遊んでやるぜ!」
 2人が戦う間も、龍神は街を壊し続けている。
 他の者たちの戦いも続いている。けれど、その戦いは伊瀬とキラの戦いに比べ、十分な力が発揮できない戦いだった。
 彪彦の目的は制裁でありながら、拘束を主としていた。
 紫苑は真珠姫を元の瑠璃に戻すため、致命傷を与える攻撃が繰り出せずにいた。
 傷付いてもすぐに再生する真珠姫であるために、多少の攻撃は可能だが殺してはいけない。なにか瑠璃を取り戻す方法はないかと、模索しながら紫苑は槍の追撃を躱していた。
「ほほっ、どうした逃げるばかりでは芸がないぞ!」
 真珠姫の華麗な槍捌きをいつまでも躱しているのは限界がある。
「瑠璃の躰を出て行け」
「もうこの躰は妾のものじゃ、瑠璃など死んだわ!」
 槍が紫苑の耳を掠めた。
 避けながらも紫苑は真珠姫から目を離していない。離したが最期、串刺しにされる。
 真珠姫の顔にはまだ瑠璃の面影がある。まだ瑠璃が消滅したとは思えない。そう信じたかった。
 槍を構えて紫苑に襲い掛かろうとしていた真珠姫が、なぜか驚いた顔をして動きを止めてしまった。
 このとき、葛西を越えて荒川を渡ろうしていた龍神の動きが不意に止まっていた。
 そして、なにを思ったか川を下って東京湾に向かって進み出したのだ。
 真珠姫は必死になって龍神を制御しようとするが、なにか大きな力に阻まれているようにうまくいかない。
 焦る真珠姫を前に紫苑は理解に苦しんだ。なにが起こっているのかわからない。紫苑以上に当事者の真珠姫は理解できなかった。
 なんの力に阻まれているのかわからない。
 まさか瑠璃が力を吹き返したのかとも思ったが、そういう感じはまったくしないのだ。躰はまだ言うことを聞き、真珠姫自身には問題はない。
 なのに龍神は東京湾を渡り広い海に向かって進んでいるのだ。
 戦いなど忘れ、目の前に紫苑がいることなど忘れ、真珠姫は龍神の制御に全神経を集中させた。
 なにか大きな力が働いている。
 このとき、ホテルの屋上にいた誰一人知らない事実であったが、龍神と戦闘を続けている飛空部隊は微かに気付いていた。
 目を疑うことであるが、龍神の頭に人影あるのだ。
 辺りは暗くなっていると言うのに、その色だけは眼に焼き付き離れない。
 鮮やかに紅い影が龍神の頭に乗っている。それは確かの事実だった。
 そんなことを知らない真珠姫は狂気を露にした。
「なぜじゃ、おのれおのれおのれーッ!」
 鮫のような尖った歯を鳴らしながら真珠姫は眼をギラ付かせた。
 龍神に気を取られている今がチャンスかもしれない。今なら真珠姫から瑠璃の肉体と魂を取り戻せるかもしれない。
 しかし、その術を紫苑は知らない。
 どうしていいのかわからず紫苑は立ち尽くしてしまった。
 そのとき、龍神に気を取られている真珠姫の内で、変化が起ころうとしていた。
 自らに起こる変化に気付いて真珠姫は抵抗しようとした。
「おのれ瑠璃姫かっ!」
 肉体の内で瑠璃の魂が必死の抵抗していた。
 やはりまだ瑠璃の魂は消滅していなかったのだ。
「私を……私を……」
 瑠璃の声がした。それを消そうと真珠姫が言葉を被せる。
「勝手にしゃべるでない!」
 まるで腹話術をしているようだ。
「殺して……私はもう消えてしまう……だから……肉体を奪われるくらいなら、私を殺して……」
 これは瑠璃の最期の抵抗だった。
 もう瑠璃に力は残っていない。己の消滅を悟って最期の力を振り絞ったのだ。
 紫苑はゆっくりと手を上げた。
 そして、煌く輝線が世界を翔けた。
 絶叫と共に割られた真珠姫が血を噴き、何かが砕ける音がした。
 脅威の生命を根源たる彼女たち一族が持つ心玉が割られた。
 砕け散る心玉は瑠璃の心を象徴するかのように、美しく輝きながら散って逝った。
 核を失った肉体は急激に干からび、黒い湯気のような霊体が抜け出した。瑠璃は死んだ。しかし、邪悪な真珠姫の霊魂はまだこの世に存在していたのだ。
「おのれ、もう容赦はせぬぞ!」
 紫苑に襲い掛かる真珠姫。
 だが、紫苑は冷酷に言い放った。
「……永劫の闇に苛まれるがいい」
 すでに紫苑は空間を切り裂いていた。
 闇色の裂け目から哀しき鳴き声が聴こえた。
 泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。
 渦巻く悲しみ。
 裂け目から飛び出した〈闇〉は渦をつくって真珠姫の霊体を呑み込んだ。
 歪んだ真珠姫の顔が遠い世界へ引きずられていく。
「呪い殺してやるわ!」
 最期の捨て台詞を吐いて真珠姫は裂け目に〈闇〉と一緒に消えた。
 そして、裂け目は固く固く閉ざされたのだった。
 龍神は大人しく大海原へと進み続けている。
 真珠姫を失い、龍神が暴れることをやめた今、ゾーラとキラは追い詰められた。
 3対2ならまだやれる。
 ゾーラは決して負けを認めようとしなかった。
「お前たち勝ったと思うな、最後に勝つのはこの私だ!」
 そして、事態はまた大きく動こうとしていた。
 物陰に隠れていた亜季菜が何者かに捕まり、屋上に次々と男たちが現れたのだ。その一団を率いていたのはシュバイツ。
「遅れて申し訳ないね。真打は最後の登場するのがセオリーだろ」
「おお、シュバイツ!」
 ゾーラは歓喜を声をあげ、キラも続いた。
「アニキ、おっせーぞ!」
 シュバイツはにこやかに微笑んだ。
「それではゾーラさん、観念してもらいましょうか」
 その言葉にゾーラは一瞬言葉を失った。
「……なんだと?」
「聴こえましたよね、あなたの負けです。ま、早い話が私は寝返ったということですよ」
 そう、シュバイツはゾーラを裏切り、元の鞘に納まったのだ。
 シュバイツが引き連れて来たのはD∴C∴の構成員。みなゾーラたちを追っていた者たちだった。
 そーっとキラはシュバイツに歩み寄った。
「そゆことならオレも」
 キラもゾーラを見捨てた。
「おのれ貴様ラァァァァァッ!!」
 人外の獣と化してゾーラは咆えた。
 味方を失い四面楚歌となったゾーラは握っていたチェーンを捨てた。
 降参したのではない。
「お前たちに私は裁けぬ!」
 背を向けて走り出したゾーラはそのまま屋上から空に飛んだ。
 そのまま下に消えたゾーラ。
 すぐに皆は屋上から身を乗り出して地面を確認したが、辺りはすでに暗がり包まれよく見えなかった。
 その後、隈なく辺りが捜索されたが、ゾーラの死体が見つかることはなかった。
 事件は多くの人々の命を奪い、多くの被害を出し、主謀者の失踪によって幕を閉じたのだった。

 龍神は太平洋に出たのちに深い海の底に沈み、再び人々の前に姿を見せることはなかった。
 例え龍神が海に還ったとは言え、人々は想像を絶する存在を目の当たりにした。
 この事件を切欠に、ゾーラが望んだように世界は変わるかもしれない。
 戦いを望まぬ瑠璃の想いは……。

 暗い部屋の中で、独り愁斗は胸の苦しみを覚えた。

 CASE06(完)


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