CASE 05‐潮騒の唄‐
 港ではなく漁村。
 観光地ではなく寂れた場所。
 コンクリの壁に打ち付ける波が風にさらわれ、潮騒[シオサイ]の臭いが鼻を刺激する。とてもじゃないが、爽やかな香りとはいえなかった。
「……腐臭に似てる」
 愁斗[シュウト]は小さな船着場から遠くの海を眺めていた。
 海をはじめてみた。
 しかし、感動できるような景色ではなかった。
 空を映したような濁った海水。
 海岸の横を通る道を愁斗は海を眺めながら歩いた。
 すぐそこの浜辺ではフナムシたちが群を成し、なにかあるたびに一斉にざわめき移動する。フナムシの量は、普段ここに人があまり訪れないことを物語っていた。
 8月の暑い時期だというのに、観光客の影はひとつもない。その要因は今日の曇り空だけではないだろう。やはりここは観光地ではないのだ。
 愁斗がここに来た理由も、もちろん観光目的ではない。
 理由を述べるとすれば、海に呼ばれたとでもいうのだろうか。ふと、気がつくと海を眺めていたのだ。
 愁斗はひとりだった。その姿を大人に見られたら、声をかけられてしまうに違いない。愁斗はまだ10歳にも満たない子供だ。
 幼い頃に家族を襲われ、父は行方不明、母は死んだ。そして、愁斗は魔導結社の施設へと送られた。
 魔導傀儡師である父を持つ愁斗はその才能を見出され、魔導に関する戦闘訓練をあくる日もあくる日も受けた。
 死と直面した訓練を受けるうちに、愁斗は自然と精神を閉ざす術を学んだ。
 施設を逃げ出してから6ヶ月も経たないが、やはり愁斗の瞳はそこらの子供のとは違う。残酷な悪魔ではなく、冷酷なマシーンの瞳。9歳の少年が宿す若さに輝く瞳はそこにはなかった。
 後ろからなにかが近づいてくるのは、500メートル以上後ろに近づいていたときから気づいていた。気にするほどでもないと愁斗は思っていた。世界に住む大半の人間は人を殺さないからだ。
 しかし、それは愁斗の予想を反した。
 自転車のベルを鳴らし愁斗を呼び止める。
 他人に関わるという思考が愁斗からは抜け落ちていた愁斗を殺そうとする者だけが、愁斗と関わりを持とうとするわけではない。思いやりなどで他人に関わるという思考が愁斗にはなかったのだ。
 振り向くと、そこには自転車に乗った制服姿の男がいた。警察官の制服だ。
 地元の駐在警官だろうか。
「どうした、母ちゃんとはぐれたか?」
 無視しようかと思ったが、愁斗は小さく首を横に振って見せた。
 関わりになりたくない。けれど、それが無理なことは警官の態度からもわかった。
「じゃあどうしてひとりなんだ? おまえこの辺りの子供じゃないだろう?」
 この警官は納得できる答えをもらうまで、愁斗の近くから離れないだろう。
 相手を納得させるだけの言葉を持ち合わせていない愁斗は黙り込んだ。
 鋼の瞳に警官の姿が映し出される。
 警官は無意識に怯えた。
 相手が怯えていることは愁斗も察していた。自分が異質な存在であることを知っているのだ。
 黙りこんだ二人の空気を打ち砕くように、野太い男の声がした。
「駐在さんどうしたんだ?」
 無精ひげを生やしたタンクトップの男。浅黒い肌と隆々とした腕の筋肉を見て、この辺りの漁師ではないかと想像ができた。
 しかし、男は片足を引きずるように歩いていた。
 二人の傍に来た男は警官に軽く会釈し、愁斗の頭に大きな手をポンと乗せた。
「どっから来た?」
 警官と同じ質問をされた。
 外の町からこの漁村に来るものは少ない。よそ者が来たというだけで、小さな噂になるようななにもない場所なのだ。
 大柄な男を愁斗は見上げ、鋼の瞳で男の眼を捕らえようとした。
 男は動じず、怯えることもなかった。
 すぐそこにいる警官よりも、強い精神を持っていると愁斗はすぐに判断した。
 警官が愁斗に覚えていることは、男にも伝わっているようだ。
「駐在さんは仕事を続けてくれよ。俺がこの子の面倒見るからさ」
「そうかいそりゃよかった。仕事が忙しくて、この子ばっかりに構ってられなかったんだ。それじゃノブさん頼んだよ」
 自転車のペダルに力を込め、警官は身のこなし素早く去ってしまった。
 二人が残され、愁斗は足早にこの場から去ろうとしていた。それを男の大きな躯が遮った。
「俺の名前は伸彦[ノブヒコ]ってんだ。おまえの名前はなんつうんだ?」
 愁斗は足を止めたが言葉は返さない。けれど足を止めただけで、大きな歩み寄りだ。
 なにも言わない愁斗に伸彦が一方的に話しかける形になる。
「両親と一緒じゃないのか?」
 愁斗は首を横に振った。
「家出でもして来たのか?」
 そう質問しながらも、ただの家出少年ではないことはわかっていた。
 また首を横に振った愁斗に伸彦は顎をしゃくって見せた。
「うちに来い、とりあえず」
 愁斗が答えを出すまで少し間があった。そして、出された答えは愁斗には珍しい答えだったのだ。
 縦に頷く愁斗を見た伸彦は破顔した。とても豪快な笑みだ。
 潮風のにおいがした。
 海に停泊している小型船が大きく揺れている。遠くの海は荒波を立て、空はどんよりと曇っていた。それでいて、辺りは静けさに満ちている。
 ――嵐の予感。

 愁斗が連れてこられたのは木造モルタル塗りの平屋建てだった。
 海から吹き付ける潮風のせいか老化が早く、とても古い家のように見える。嵐でも来たら屋根が飛ばされてしまいそうだ。
 小さな家の中には子供がひとりいた。
 年のころは愁斗と同じか、それよりも少し上だろう。
 子供は物静かに部屋の隅に座って本を読んでいた。愁斗たちが家に入ってきたときも、視線を少し向けただけですぐに伏せてしまった。
 そこにいる子供と親を見比べた愁斗は静かに呟く。
「似ていないですね」
 疑問を聞き返すような顔をした伸彦はすぐに笑って表情を変えた。
「俺と海男[ウミオ]のことか? 見た目も性格も海の男とは思えないがな、目元なんかは俺そっくりだろ?」
 本を読みながら目を伏せている海男。目元が似ているかどうかは、ここからでは判断がつかない。
 伸彦と海男の身体つきを比べる限りでは、似ても似つかない親子に見える。細い海男の二の腕は普段から使われていないらしく、体全体も細身で筋肉質な伸彦とは比べ物にならない。
 海男をひと目見たときから愁斗は伸彦との親子関係を疑っていた。血が繋がっているか、それだけの問題ではない。特殊な気配を愁斗は感じていたのだ。
 家が大きく揺れた。
 外を吹く風は強さを増し、嵐がすぐそこまで迫っていることを感じさせた。
 木造の窓から外の景色を眺めていた伸彦は窓をぴしゃりと閉めた。
「嵐が来たら外に出れないな。嵐が過ぎるまでゆっくりしてくれよ。なにもない家だけどよ、雨風くらいは凌げる」
 掘っ立て小屋のようなこの家が嵐に耐えられるのか。伸彦の言葉には嘘偽りはなかった。
 雨風が次第に強さを増し、荒々しく家の外壁を叩くと、家は物音を立てながら揺れる。それでも家は倒れることなく立ち続けている。
 家の中では特に目立った会話はなかった。物静かに本を読み続ける海男と積極的にしゃべろうとはしない愁斗。たまに伸彦が話をするが先が続かない。
「おめえと海男だったら似たもの同士だから、少しは気が合うかと思ってけど駄目だな」
 伸彦の眼には二人の少年が映っていた。どちらも背格好の割に大人びた雰囲気がある。この大人びた雰囲気がどこから来ているのか。それを考えると伸彦は恐ろしい気がするのだった。
 今までずっと本を読んでいた海男が突然に立ち上がった。
 そして、愁斗が静かに呟いた。
「唄が聴こえる」
 その言葉に伸彦はゾッとした。
「唄なんて聴こえるもんか、外は嵐だぞ」
 吹き付ける風と雨の音。
 海男はふらふらと夢遊病のように玄関へ歩いていた。
 血相を変えた伸彦が海男の腕を掴んだ。そのとき、信じられないことが起こったのだ。
 細い身体の海男が大柄な伸彦を殴り飛ばしたのだ。そんな力が海男のどこに秘められていたのか、驚かずにいられない。
 轟々と強烈な雨風が家の中に吹き込んできた。
 玄関から伸彦が素足のまま出て行ってしまった。
 慌てて伸彦も素足のまま玄関を飛び出し、辺りを見回すが海男の姿はすでにない。
 伸彦のすぐ横を愁斗がすり抜けようとしていた。
「探してきます」
 そう言って愁斗は駆け出していった。
「おい待て!」
 伸彦の声は愁斗の背中に向けたものだった。声は雨風に掻き消され届かない。
「ちくしょ」
 小さく吐き捨てた伸彦は玄関まで引き返し、急いで履物を履いて海男と愁斗を探しに出た。
 雨が顔を激しく打ちつけ視界を遮る。
 二人はどこにと辺りを見回すが人影すらない。海の恐ろしさを知る者が嵐の日に外に出ているはずがない。海岸沿いに近づけば高波に呑まれ、一瞬のうちに命の灯火を掻き消されてしまう。
 唄が聴こえた。
 嵐の中だというのに、澄んだ女性の歌声がどこからか聴こえてくる。
 伸彦は首を激しく横に振って唄を掻き消そうとした。
 唄は耳を塞いでも脳に直接届いてしまう。
 この辺りの船乗りならば、この唄の正体を誰も知っている。しかし、誰もそのことを口に出すものはいない。人間が決して踏み入れてはいない領域なのだ。
 気がつくと、伸彦は浅瀬近くに来ていた。普段は岩肌が見え、沢蟹や小魚が泳ぐこの場所だが、今は水量が増して高波が目の前まで迫ってくる。
 唄はさきほどより大きくなっていた。
 近くにいる。
 海男と愁斗と、もうひとつ違う存在が――。
 眼を凝らす伸彦の目に少年の影が見えた。
「ここは危険だ、早くこっちに来い!」
 伸彦の怒鳴り声に反応して振り向いたのは愁斗だった。
 愁斗はちらりと伸彦の顔を見ただけで、すぐに岩陰に消えてしまった。
「クソッ」
 吐き捨てながら伸彦は愁斗の影を追う。
 愁斗の消えた岩陰が曲がると、そこには海水の通る洞穴があり、その洞穴を避けるようになぜか周辺だけ波が穏やかだ。
 地元の者は決して足を踏み入れない洞穴。足を踏み入れれば必ず祟りが起こるとまで言われている。――唄はこの奥から聴こえた。
 伸彦は意を決して洞穴の中に足を踏み入れた。
 洞穴の中は膝まで水かさがあり、横幅は5メートル以上、高さも3メートル以上はあると思われる。外の荒波が流れ込んできても不思議ではないが、やはりここには不思議な力が働いているように思える。
 普段は中まで光の差し込む洞穴だが、曇天が陽を遮ってしまい、中は不気味に暗く口を開けている。しかし、伸彦は懐中電灯を持っていた。最初からここに来なくてはいけないことを知っていたのだ。
 奥に進むライトが人影を捕らえた。
 一人目は愁斗。その奥にいるのは海男だ。
「早くこっちに来い!」
 伸彦の叫びに耳を傾けるようすはない。
 ライトを奥に照らしながら伸彦が駆け寄ろうとすると、愁斗が大声で叫んだ。
「来ないで!」
 細い輝線が手から放たれた。
 刹那、奇声にも似た女の叫び声が洞穴に木霊し、伸彦は慌てて大きく跳ね上がった水しぶきにライトを当てた。
 なにかにライトが反射し、七色の光が伸彦の目を眩ませた。
 そこになにかがいた。
 伸彦は慌てて愁斗たちに駆け寄った。
 意識を失っている海男を抱き支えている愁斗の顔には苦痛の色が浮かんでいる。よく見ると、愁斗の腕に深く抉ったような傷があり、まるでそれは鑢[ヤスリ]で削ったような荒い傷だった。
「大丈夫か?」
 伸彦が聞くと、愁斗は軽く頷いた。
「大丈夫です。それよりも彼のことをお願いします」
 愁斗は海男を伸彦に預け、洞穴の行き止まりを眺めて聞いた。
「そこに潜ると海に繋がっていますか?」
「そういう噂もあるが、本当かどうかはわかんねえ。まさか潜る気かっ!?」
「残念ながら、僕は泳ぐことができません」
 泳げるのならなにかの跡を追う気だったのだろうか。
「まだまだ僕のレベルじゃ追えない……」
 悔しそうに呟く愁斗の横顔がそこにはあった。それを見た伸彦の心中に不安が過ぎる。海男と似た雰囲気を持つ少年。やはり二人は同じ存在なのだと伸彦は確信してしまったのだ。

 家に帰ってきた伸彦たちは海男をすぐ横の寝室に寝かせ、愁斗も海男の服を借りて濡れた服を着替えた。
 ――それからだいぶ時間が過ぎた。
 その間、愁斗は伸彦になにも聞こうとしなかった。不可解な事件に巻き込まれたというのに、伸彦になにも尋ねようとしないのだ。
 伸彦も聞かれても答える気がなかった――答えられる勇気がなかった。しかし、愁斗がなにも尋ねないために、伸彦は尋ねてしまったのだ。
「どうしてなにも聞かない?」
「あなたに話す気がないのならば、僕は聞きません。関わるなというのなら、もう関わりません。忘れろというのなら忘れます」
「いや話す。おまえにだったら話していいような気がするんだ」
「なぜ?」
 聞き返す表情はいつものそれとは違い、年相応の顔つきをしていた。
 その顔を見た伸彦の方から力が急速に抜けた。
「よかった。おまえは俺達に近いんだな」
 伸彦の言葉を聞いた愁斗は急に小難しい顔をして押し黙ってしまった。
 慌てた伸彦が取り直そうとする。
「悪かった、そんな気で言ったんじゃないんだ」
「やはりあなたにはわかりますか、僕や海男君が少し人間とは違う存在だということが?」
 今度は伸彦が押し黙る番だった。
 やはり愁斗は海男が普通の人間とは違うことに気づいているのだ普通の人間と違う――そんなことは海男を知る村人たちも知ってる。けれど村人達は変わり者程度にしか海男を見ていない。愁斗は海男の奥に潜んでいるモノを感じ取っているのだ。
 10年ほど前まで、伸彦は海の男として漁船の船長をしていた。村では勇敢で逞しい海の男と言われ、誰からも尊敬される存在だった。そんな伸彦の息子が海男だ。
 細身で病弱な顔色をした海男が伸彦の息子だと、誰もが信じていなかった。きっと母親が別の男と寝て作った子供だという悪い噂まであった。そんな悪女だから、子供と伸彦を置いて逃げてしまったんだと、そんな噂が広がったこともあった。
 噂話は全部、伸彦の耳に届いている。直接に聞かなくても、小さな漁村では嫌でも耳に入ってしまう。
「とにかく俺の話を聞いてくれ」
 伸彦は愁斗に重い口を開いた。愁斗はなにも反応しなかったが、伸彦はそれを承諾したと受け取り話をはじめた。
「10年以上前、俺は漁師をやっていた。そうだな、今日みたいな嵐の日だったんだ――」
 その日の天候は小雨。普段ならば海などには絶対に出ない。浅瀬は波が低くても、小雨とはいえ沖に出ると波は高く、海は荒れている。それに風も強く、漁師の勘が嵐を予感していた。
 それにも関わらず、伸彦はその日、海に出てしまったのだ。今思えばなにかに操られていたようにも思える。
 身寄りのない伸彦を止めるものは居らず、仲間の漁師達も伸彦が海に出たことをあとになって気づいた。
 沖はやはり荒れていた。
 曇天色をした海。
 波が普段よりも高く、船が大きく揺られた。
 唄が聴こえた。
 このときやっと伸彦は自分のしている過ちに気づいたのだ。
 急いで船を引き返そうとしたがもう遅かった。
 雷鳴が轟き、天から大粒の雨が降ってきた。
 波が荒れ狂い、大きく揺れる船の上で、伸彦は必死になって帆柱に抱きついた。
 聴いてはいけない唄。
 海に棲む美しい魔物の伝説。
 魔物の唄は嵐を呼び、船を沈める
 どんなに泳ぎの上手い者でも、嵐の海に飛び込めば命の保障などない。荒波に揉まれ海の藻屑と化す。遺体すら発見されずに海の底で眠ることになるだろう。
 嵐の中だというのに澄んだ女性の歌声が耳に届く。いや、耳で聞いているのではない。脳が直接――精神に直接響いている。
 船が大きく傾き、波の上で立ち上がった。そこに大波が襲い被さり、船を丸呑みしてしまったのだ。小さな漁船などひとたまりもない。
 荒れる海の中へ放り込まれた伸彦は必死にもがいた。もがけばもがくほど、海深く身体が沈んでいく。それでもなにもしないわけにもいられず、海面を目指そうとしたが、片足が思うように動かない。
 見ると脚からは血が流れ、刺すような痛みに気づいた。甲板から投げ出されたとき、なにかで脚を切ってしまったようだ。
 痛みなど気にしている場合ではなく、伸彦は必死に生きようとした。しかし、駄目だった。どんどん海面が遠ざかっていくのがわかった。
 そして、伸彦は生きることをあきらめた。
 全身の力を抜き、意識が深い海の中に沈んでいく。
 唄が聴こえた。
 女性の美しい歌声。そこにはなんの恐怖もない。慈しみに溢れた唄だった。
 天に召されるにはちょうどいいと伸彦は思い、そのまま意識が途切れた。
 それからのことはよくわからないが、伸彦が目を覚ますとベッドの上に寝かされていたのだ。
 どこだかはすぐにわかった。村の小さな診察所だ。
 しかし、どうやって自分は助かった?
 浜からは距離があったはずだ。万が一、打ち上げられたとしても屍体となってだろう。それなのに自分は生きている。
 脚を見ると大きな古傷が目に入った。動かしてみようとしたが、思うように動いてくれない。あのときの怪我に間違いないが、痛みはもうないようだ。
「俺はどうしたんだ……」
 永い眠りにでもついていたのだろうか。
 生死を彷徨いながら、あの事故から長い時間が経過してしまった。そう伸彦は考えたのだ。
 仕切りになっていた白いカーテンをめくり、白衣を来た老人が顔を見せた。
「よかった一生目を覚まさんかと思ったぞ」
 それは見覚えのある顔だった。診察所の医師だ。もとより老人であったが、記憶と老けた印象はない。
「3日も眠り続けておったからな」
「なんだって?」
 伸彦は思わず聞き返してしまった。思っていたよりも短い。たった3日で脚の傷が塞がったというのか?
 言い知れない恐怖が伸彦を襲った。自分になにがあったのかわからない。海で自分になにがあった?
 やはりあの唄と関係があるのだろう。そうとしか考えられない。
 海で唄を聴いたことを伸彦は誰にも言うまいと誓った。海でなにがあったのかと訊かれても、ただ嵐に巻きこまれたとだけ話をした。
 それからというもの、伸彦は海に出なくなった。誰もそれを悪く言うものはいなかった。海に死にかけたとなれば、あの勇敢な伸彦と言えど海が怖くなったのだろうと、同情すらする者もいた。
 しかし、伸彦は海が怖くなったのではない。あの唄が怖いのだ。決して恐ろしい歌声ではなかったが、あの唄には恐ろしい魔力があると伸彦は確信していた。
 しばらくはなにもなかった。
 平穏な日々が続き、海での出来事を忘れようと伸彦も努めていた。そんなとき、この小さな漁村に流れ者がやって来たのだ。流れ者は女性だった。
 女性は誰の目にも美しく垢抜けていた。しかし、都会からやって来たようにも見えない。自然が作り出したような美しさを兼ね備えていたのだ。
 こんな女性がひとりでこんな辺鄙な場所にどうしてと、誰もが思いはしたが、こんな場所に来るには深い事情があるのだろうと、深く詮索する者は誰もいなかった。
 民宿すらないこの場所で、女性の泊まる場所などなく、村人達も女性と少し距離を置いていた。よそ者と関わりになることを避けていたのだ。
 そんな中、ただひとりだけ女性に優しく接する者がいた。それが伸彦だったのだ。
 男ひとりの家だと言ったが、女性は疑うことなく喜んで伸彦の家に止めてもらうことになり、いつの間にか、長く逗留することになっていた。
 女性の名は瑠璃とだけ名乗り、それ以外のことは話そうとせず、伸彦も過去にはこだわらなかった。
 いつしか村人達も瑠璃に心を開くようになり、まるで昔からの顔なじみのように接してくれた。その要因は伸彦と瑠璃が愛を育んだことも大きいかもしれない。
 瑠璃は伸彦との間に男の子をもうけた。それが海男だ。
 どんな母親よりも瑠璃はしっかりしていると伸彦は思っていた。家事をそつなくこなし、性格も良く、おだらかな人柄をしていた。
 しかし、伸彦にはひとつだけ気になることあったのだ。
 瑠璃はたまに鼻歌を口ずさむことがあり、その唄を口ずさむと必ずといっていいほど雨が降るのだ。ただ、そのときはその唄のこと気にも止めずにいた。忘れていたのだ。
 あるときは、出かけてきますと瑠璃が言い残した後に、嵐が来たこともあった。伸彦は心配したが、嵐が治まった頃に瑠璃は何事もなかったように帰ってきた。
 そんなことが続き、忘れていた記憶を伸彦が取り戻すのは時間の問題だった。
 瑠璃の鼻歌が、嵐の海で聴いたあの唄だと気づいたときにはぞっとした。それでも伸彦は瑠璃になにも言わずにいたのは、それほどまでに瑠璃に惚れ込んでいたからだ。
 それでも伸彦の瑠璃を見る目は自然と変わり、態度には出なくとも瑠璃を恐れていたことは間違いない。それは瑠璃にも伝わってしまっていたに違いないと、今になって伸彦は思う。
 ちょうど海男が5つになったころ、事件は起きたのだ。
 すでにそのころには、大きくなった海男を見て、周りが変な反応をするようになっていた。伸彦と海男を見比べて、本当に血が繋がっているのかと疑う者が現れたのだ。
 噂が大きくなりはじめ、瑠璃がある日、突然に姿を消したのだ。
 伸彦には出かけて来ますとだけ言い残し――。
 その日も小さな漁村を嵐が襲った。
 波は激しく荒れ狂い、港に停泊していた船を何隻も呑み込み、碇を沈めてあった船までも沖へ流されしまった。
 そんな嵐の中、伸彦は唄を聴いたのだ。
 女性の美しい歌声だった。それは悲しい歌声だった。泣いていような歌声だった。
「それからはなにもない」
 と、伸彦は話を締めた。
 長い話を終え、伸彦はどっと肩を降ろした。
 外の嵐は徐々に静まりを見せている。
 風は弱まり、雨音も微かに聴こえるまでになっていた。
 愁斗はなにも口を挟まず伸彦の話を聴いていたが、疑問はある。
 では、今になってなぜ?
 伸彦は深く息を吐いた。
「なにもなかったんだ、最近まではな」
「なにがあったんですか?」
「海男が唄うようになったんだ」
 嵐を呼ぶ潮騒の唄。

 翌日の朝、伸彦が仕事に出たのを見計らって愁斗は海岸に向かった。
 伸彦も愁斗がここに来ることは予想していたに違いないが、あえてなにも言わなかったのは、愁斗が自分たちと住む世界が違うことを知っているからだ。
 海辺の洞穴に愁斗は来ていた。
 昨日よりも水かさが低く、洞穴の中に浸る海水は膝より下に位置する。昨日は膝より少し高い位置まで水かさがあった。
 差し込む光の加減も昨日よりも明るく、入り口の広い洞穴に光が流れ込んできている。深くはない洞穴なので、奥まで進んでも視界が闇に閉ざされることはないが、それでも薄暗く心地の良い場所ではない。
 行き止まり付近まで来ると、水かさは愁斗の膝よりも高い位置まで来ていた。
 愁斗は妖糸を垂らし、水の奥のようすを探ろうとした。
 すぐ手前の水の奥は愁斗が立っている場所よりも水深が深い。
「駄目だ……海の中じゃ上手く操れない」
 愁斗の指先が微かな手ごたえを感じた。海の底で魚が泳いでいる。すぐさま愁斗の妖糸は魚を捕らえた。
 傀儡師である愁斗が得意とする傀儡[カイライ]。並みの傀儡師であれば、生あるものを操れまい。しかし、愁斗の手にかかれば魚などいとも容易く操れる。
 戦闘に特化した傀儡師は、時に傀儡士とも言われ、自らの肉体を使う戦いよりも、他を操る戦いを得意とする。
 魚が視るビジョンが妖糸を伝わり愁斗の脳裏に流れ込む。
 操る魚は海水の通り道になっている穴を泳ぎ、やがて光度が高くなり穴を抜けた。
 海面が青く輝き、幻想的に揺らめいている。それは愁斗にとってはじめて観る景色だった。
 なぜか愁斗は母を思い出した。
 おぼろげな母の記憶。
 記憶の欠片を手繰り寄せる愁斗の目を覚ましたのは、魚から送られてくるビジョンに映し出された人影だった。
 海の中に人?
 泳げない愁斗には海女などという発想はなく、すぐにその人影を人間外モノと結びつけた。
 人影は女性だったような気がする。
 すぐにその影を追おうと妖糸を操ったのだが、魚からのビジョンが急に途切れ、妖糸を操る指先の感覚も魚を捕らえられなかった。
「食われてしまった」
 大きな魚が愁斗の操っていた魚を呑み込んでしまったのだ。
 この付近の海になにかがいることは間違いないだろう。あの唄と関係あることも間違いない。詳しいところまではわからないが、愁斗はその姿も見ていた。
 今ではない。昨日、この場所で見たのだ。
 海男を追ってこの場所に来た愁斗は、ここであるモノを見た。鱗に覆われた人間のような生物を見たのだ。
「……なにか違うな」
 愁斗は昨日の出来事を思い出しながら、小さく呟いた。
 なにが違うのだろうか?
 この場所が海と繋がっていることはわかった。
 愁斗は洞穴を出ようと来た道を引き返しはじめた。出口はすぐそこだ。
 洞穴を出る寸前、愁斗は背後に殺気を感じて振り返った。
 それは戦闘訓練で培った賜物に違いない。愁斗は飛んできた三叉の槍を瞬時に躱[カワ]し、体勢を立て直しながら、敵がなんであるかを見定めた。
 顔の皮膚まで鱗で覆われた人型の生物。毛は一本もなく、唇は魚のようで、眼もギョッと飛び出している。ひと言で表せば魚人と称するのはもっとも適切だろう。
 その魚人が2匹。洞穴の奥で愁斗を見ている。
 愁斗は異形のモノを臆することなく尋ねた。
「昨日の奴はどうした?」
 魚人たちは顔を見合わせ、意味不明な言語を交わしている。
 言語によるコミュニケーションは難しいかもしれない。
 一方の魚人は槍をまだ手に持っている。
 傀儡を持たない愁斗は苦戦を強いられることは必定。
 まだ傀儡師として一人前ではない愁斗。生身のままでは妖糸で敵を切ることもできない。施設にしたころに使っていた傀儡は逃走のときに破壊されてしまった。
 槍を構えた魚人が愁斗に襲いかかった。
 愁斗の指から輝線が放たれた。
 闇の傀儡師に伝わる秘伝。
 妖糸が空間に一筋の傷をつくった。
 洞穴に唸り声が木霊した。
 闇色の裂け目から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。
 紫苑の腕が前に伸びた。
「行け!」
 〈闇〉が触手のように伸び、槍を持った魚人に襲い掛かる。
 槍をがむしゃらに振り回し魚人は抵抗するが、〈闇〉は魚人の腕を掴み取り、無数に伸びた〈闇〉が近くにいた魚人の身体をも拘束した。
 奇声が木霊する。
 魚人たちは成す術ない。
 すでに魚人の身体は〈闇〉に呑まれ、裂け目に還ろうとしていた。
 が、〈闇〉は魚人を呑み込んだだけでは治まらず、愁斗に襲い掛かってきたのだ。
 愁斗の腕が〈闇〉に掴まれた。
「大人しく還れ!」
 決して〈闇〉に恐怖してはならない。
 まだ人を斬ることはできなくとも、〈闇〉は斬る。
 煌きが奔り、叫び声があがった。
 愁斗の腕を掴んでいた〈闇〉が放れ、急速に空間の裂け目に引き返していく。
 シュウシュウと蛇が鳴くように裂け目は塞がり、愁斗は額の汗を拭った。
 動悸が激しい。
 もう今日は〈闇〉を使うことはできないだろう。
 早く傀儡を手に入れなければ、次に襲われたらあとがない。
 だが、敵の影はすぐそこまで迫っていた。
 洞穴の奥で水面が水しぶきをあげた。
「昨日の妖物だな」
 呟く愁斗の視線に映る魚人の姿。七色に輝く鱗が先ほどの魚人とは格の違いを示している。そして、鱗に包まれたその肉体は、艶やかな曲線と豊満な胸を兼ね備えていたのだ。
 浅瀬に上がってくる魚人の身体から水が滴り落ちる。
「げに恐ろしきお子じゃ」
 魚人の声は深海のように深く、眼は愁斗を捕らえて放さない。
 愁斗の瞳は魚人の首元を見つめていた。
「傷の治りが早いな」
「あれほどの痛みを妾に与えたのはうぬが初めてじゃ」
「あの糸で切られた傷は治りが悪い」
 昨日、この場所で愁斗は目の前の魚人に妖糸を放った。実際に妖糸を繰り出したのは、愁斗に操られた海男だ。
 海男の意識が朦朧としていたために、どうにか操ることができたが、生のある人間を操るのは並大抵のことではない。そのためにしくじったのだ。妖糸は魚人の首を取られたが、落とすには至らなかった。
 使える傀儡はない。
 敵に不利だと悟られるわけにはいかない。
 鉄の表情で愁斗は指先を軽く動かしストレッチをした。
 〈闇〉を使うか、それとも別の方法で戦うか。
「……召喚の法」
 それはまだ完成に至っていない技。
 愁斗の糸が宙に幾何学模様を描いた。
「傀儡師の召喚を観るがいい。そして、恐怖しろ!」
 妖糸で描かれた幾何学模様は魔方陣だった。
 脛まで浸る海水が一瞬、波立つことを止めた。
 魚人の顔に不快の色が浮かぶ。
 奇怪な魔方陣のその先で、〈それ〉が呻き声をあげた。
 〈それ〉の呻き声は空気を振動させ、海水は水しぶきを上げ、洞穴の中で激しく木霊した。
 海水は〈それ〉の唸り声に共鳴し、集合した水の塊が巨大な水魔を作りあがる刹那、水風船が割れるように水魔が弾け飛んだ。
 ――召喚はあと一歩のところで失敗したのだ。
 〈それ〉の叫びが木霊する。
 巨大な毛の生えた触手が空間から出現したのを愁斗と魚人は見た。
 魚人はすでに愁斗など眼に入っていない。
「神か!」
 そこにいるモノがたとえ神だったとしても、慈悲深い神ではないだろう。そこにいるのは荒ぶる神。人智を超えた存在がそこにいた。
 見えているだけで5メートル以上ある触手が、支えを失い水の吹き出るホースのように暴れまわる。
 洞穴の壁がもろくも抉られ、天井の岩が崩落した。
「うぬの命は必ずもらう。待っておれ!」
 魚人は水の中に潜り姿を消してしまった。洞穴の底の抜け道を通って海に逃げ出したに違いない。
 愁斗もすぐに洞穴の奥に駆け出した。
 膝まで浸かる海水のせいで思うように走れない。
 地響きが天井からした。
 落ちてくる岩の破片。
 轟々と洞穴が唸り声をあげ、巨大な岩が天井から崩落してきたではないか!
 一瞬、上を見上げた愁斗はすぐに洞穴から飛び出した。
 崩落した岩が連鎖を生んで洞穴の入り口を塞ぎ、上がった飛沫で辺りは霧に包まれた。
 果たして愁斗は?
 愁斗は浅瀬の上に立っていた。だが、その片腕はだらしなく下に向けられ、赤い筋が腕から伝って指先から海面に滴り落ちていた。
 海水に落ちた血が儚く消える。
 崩落した岩の破片が愁斗に重症を負わせた。しかも、大事な利き腕にだ。敵の追っ手が来る前に逃げなくてはならなかった。
 岩場まで逃げついた愁斗は、そこから浜辺を目指し、道路を目指そうとした。
 だが、背後で気配がしたのだ。
 振り向いた愁斗の眼に入ったものは、陽光を浴びて輝く鱗だった。

「君は僕の敵か?」
 愁斗は鱗を持つ者に尋ねた。
「恐れないでください、私は人間の敵ではありません」
 殺気はないと愁斗は感じていたが、相手が鱗を持つ者である以上、現状では信用できない。
 波打ち際から砂浜に蛇のように這って来たのは人魚というべき存在だった魚の下半身を持ち、上半身は女性の裸体を包み隠さずさらしていた。
 その高貴な顔立ちに埋め込まれた瞳の色は宝玉のように美しく、瑠璃色に輝いていた。
 ――似ている。愁斗は瞬時に思った。
「あなたが海男の母か?」
 しばらくの沈黙の後、人魚は深く頷いた。
「はい、やはり海男をご存知だったのですね」
「やはり?」
「貴方様が真珠姫に襲われているのを見て、海男のことと関係があるのではないかと思ったのです」
「事情の掴めないまま僕は事件に大きく巻き込まれた。できれば、あなたから詳しい事情を聞かせてもらいたい」
「よろしいでしょう。その前に、貴方様の傷を治して差し上げます。こちらに来てください」
 傷とは重症を負った愁斗の腕のことだった。
 人魚は自らも愁斗に近づくが、足のない身体で砂浜を辛そうに動いている。それを見ながらも愁斗は人魚に近づこうとしなかった。
 これは罠か?
 愁斗は警戒していたのだ。
 しかし、人魚の優しい顔つきを見ていると、そこに亡き母の面影を投影させ、警戒心が次第に和らいでいった。
「無理して浜に来なくてもいい」
 愁斗は足早に人魚に近づいた。
 難しい顔をして近づいてくる愁斗に人魚はにっこりと微笑みかけた。
「なにも心配はいりません。お腕を見せてくださいますか?」
 愁斗は思うように動かない腕を、身体を横にして人魚に向けた。
「この程度なら後遺症も残らず治るでしょう」
 そう言って人魚は自らの腕に鋭く尖った犬歯を突き立て、肉を切り裂くように強くかじったのだった。
 なにをするのかと思うと、人魚は腕から口を離し、腕から滴る血を愁斗の傷口に擦り付けた。すると、どうだろう。愁斗の腕の傷は早送りのように傷口が塞がり、細い傷痕を残すまでに治ってしまったのだ。
 人魚伝説はあながち嘘ではないらしい。
 その肉を食ったものは不老長寿、もしくは不死になるという伝説があり、八百比丘尼[ヤオビクニ]という尼僧は、17の時に人魚の肉を食し不老長寿となり、800歳以上生きたとされている。
 傷の塞がった腕を軽く動かすと、多少の違和感が残ってはいるが、妖糸を操れる前に回復していた。ストレッチを繰り返せば、すぐに元通りの動きができるようになりそうだ。
 愁斗の傷を治した人魚は愁斗を別の場所へと誘った。
「もう少し人の来ない場所に行きましょう」
「そうですね」
 人が少ない漁村とはいえ、いつどこで人が現れるかわからない。人魚が見られたら大騒ぎになってしまうだろう。
 二人はひと目を忍んで、岩壁を背にできる浅瀬の岩場に移動した。
「私の名は瑠璃と申します」
「あなたの名前は聞いています。僕の名前は愁斗――秋葉愁斗。伸彦さんの家でお世話になり、伸彦さんとあなたの馴れ初め、あなたが歌うと天候が崩れるという話を聞きました」
「他にはなにかお聞きになりましたか?」
「昨日の嵐の中で歌が聴こえました。それに導かれるように出て行った海男を追って行ったところで真珠姫に会いました。海男を助けることはできましたが、真珠姫は逃がしました。てっきり僕はあなたが海男を呼んでいたのだと思っていました」
 そして、ここ最近、海男が唄を口ずさむようになったと伸彦は話した。唄を歌っている自覚は本人にはなく、同じ唄を歌おうとしても意識しては無理だったらしい。そのメロディーというのが、瑠璃が唄っていた鼻歌によく似ていたのだという。
 瑠璃は申し訳なさそうな顔で愁斗の眼を見つめた。
「無関係の貴方様を巻き込んでしまいましたね」
「後戻りはできません。僕はすでに真珠姫に命を狙われました」
「そうですね、全てお話いたしますのでお聞きください」
 海男が5つのとき、瑠璃は海に帰った。理由は瑠璃の一族と真珠姫の一族間で問題が起きたからだ。
 瑠璃が陸に上がった理由も一族間の問題であった。
 瑠璃族に伝わる秘法をめぐり、真珠族が争いを起こしたのが全ての火種。秘法の力を使い、人間を支配しようと真珠族はたくらんだ。それを知った瑠璃族の姫――瑠璃姫は秘法を持って陸に上がったのだ。
 陸に上がった瑠璃であったが、真珠族はそのことを知らぬまま一族間の争いは激化し、瑠璃族は一方的に押されていた。そのことを知った瑠璃は瑠璃族を助けるために海に帰ったのだ。
「秘法はどこに?」
 尋ねる愁斗に瑠璃は首を横に振った。
「それはお教えできません」
「では秘法とはなんですか?」
「龍封玉――古の時代、私達のご先祖様が海を荒らす海龍を封じ込めた玉です」
「なるほど……」
 その玉に封じ込めた龍を復活させるのが、真珠姫たちのおおむねの目的だろう。
 愁斗は海龍の復活を妨げることに協力しようと考えたが、その玉の場所は教えられていない。となると、真珠姫を討つのがいいだろう。真珠姫たちはまた愁斗を狙って来る。愁斗にとって真珠姫はすでに排除すべき存在なのだ。
 龍封玉の存在はわかったが、それとは別の疑問が残った。
「なぜ真珠姫は海男を呼んだんですか?」
「おそらく海男が私の子と知って、人質に取る気だったのではないでしょうか」
「なるほど」
「そのことでひとつお願いがあります」
「なんですか?」
「魚人種は人魚種と違い、陸上でも活動することが可能です。昨日、唄を使って海男を呼び寄せたのは、海男の姿や場所がわからなかったためにおびき寄せる方法を取ったのだと思います。ですけれど、今になっては陸地で海男の場所をつき止めるのも時間の問題です」
「海男を守ればいいんですね?」
「はい、よろしくお願いいたします」
 瑠璃は深く頭[コウベ]を垂れた。
 そして、瑠璃が頭を上げたときには、すでに愁斗の姿は遠く向こうを歩いていたのだった。

 伸彦の家に戻ってくると、海男はいつものように静かに本を読んでいた。
 海男は部屋に入ってきた愁斗を一瞥して、鼻を利かせ小声で呟く。
「潮騒の香りがする」
 海の近くの村だ。そこら中で潮騒の香りがしても不思議ではない。しかし、海男は続けてこう言った。
「懐かしい香りだ」
「わかるか?」
「んだ、母ちゃんの香りだ」
 愁斗は思う。自分は母の香りを覚えているだろうか。思い出されるのは血の香り。
 母親の死が強烈なイメージとして、良い思い出を覆い隠してしまう。
 炎の熱さと、血の香りと、母の残した最期の笑顔。
 全ては過去。
 母との思い出は、もう創ることはできない。
 愁斗は母のイメージを消し、海男に次げることにした。
「今、君の母に会って、君を守るように頼まれた」
 説明不足の会話だったが、それで海男は理解して深く頷いた。人間ではない種族の血が混じっている子だ。直感的に物事を理解してしまうのかもしれない。
 愁斗は畳の上の静かに座り、海男は本を読み続けた。
 静かに時間だけが過ぎた。
 時計の針を見た。
 もうすぐ正午になる。
 漁師を辞めた伸彦は村の小さな役場に勤めているらしい。
 まだ二人っきりの時間は続きそうだ。
 本を読んでいる海男は静かな時間を苦としない。愁斗もまた静かな時間を苦としていなかった。
 数時間前の真珠姫との戦いで、愁斗は召喚に失敗した。
 異形のモノを自在に操ること――それが闇傀儡師の真髄。
 まだまだ自分が至らないことを深く反省する。
 召喚もできなければ、〈闇〉の支配も完璧ではなく、歯向かう〈闇〉に呑まれかけた。
 この世の物体を切る切糸も生身のままでは使えない。これでは半人前以下だ。せめて新しい傀儡を手に入れなければならない。
 傀儡は傀儡師の右腕として動き、傀儡を使用することで技の能力も高められる。生身のままでは切れぬモノも、傀儡を操れば切れる。
 師である父がいれば……。
 なにかの音に気づき、愁斗はふと我に返って辺りを見回した。
 雨の音だ。
 大きな雨粒がトタン板を叩いている。
 唄が聴こえた。
 海男が急に立ち上がり、愁斗はやはりと思った。
「君を行かせるわけにはいかない。少し痛いけれど我慢してもらうよ」
 愁斗の手が妖糸を放った。
 身体を簀巻きにして絡みついた糸で海男は身動きを封じられた。
 絶対に外に行かせてはならない。唄を使ってきたということは、まだ海男の居場所が定かではない証拠だ。
 愁斗は残る手からも妖糸を放ち、両手の糸で海男を拘束した。
 指先に力を込める愁斗の表情に焦りが走る。
 海男は人間ではない。
 愁斗の指先に妖糸が切れたことが伝わる。
「これ以上は無理か」
 次の妖糸を放ってもすぐに切られることはわかっている。自分の力量は心得ている。ならば、今は海男を生かせるしかない。
 家の外に出る海男を愁斗はすぐに追った。
 海岸沿いの道路をゆらりゆらりと歩く海男の先に、灰色の影が立っていた――魚人だ。
 魚人が奇声を上げると、どこからか魚人たちが集まってきた。その数、3匹。真珠姫の姿はない。
 唄が聴こえた。
 道路を降りた砂浜のほうだ。
 真珠姫がいた。
 波打ち際から唄を響かせながら砂浜を歩いてくる。それに誘われ海男も砂浜に向かって歩き出す。
 無駄な抵抗と知りながら、愁斗の妖糸が海男の身体に巻きついた。先ほどよりも多く巻きつけたが、切られるものは時間の問題。それにすぐそこまで魚人たちが迫っている。愁斗は海男だけに構ってはいられなかった。
 愁斗の手から離れた妖糸は、その力を極端に失い強度も落ちる。そのため、海男を簀巻きにしても、その糸の先は愁斗が握っていなくてはならないのだ。
 迫る魚人。そこからは3匹の魚人。前方には砂浜を歩いてくる真珠姫。
 絶体絶命か!?
 唄が聴こえた。
 優しく温かい歌声。
 海男の動きがピタリと止まった。
 いったいなにが?
 愁斗は魚人たちが来る道路とは逆方向を振り返った。
 美しい裸体の美女がそこには立っていた。
 自らの足で唄いながら歩み寄ってくるのは、間違いなく瑠璃の姿だった。
 瑠璃は海男が眠るように眼を閉じて、道路に倒れるのを見取り、唄うことをやめた。
「変化の秘薬を手に入れるのに時間がかかりましたが、やっと陸に上がることができました。海男の傍に付いていてくださり、ありがとうございました」
 深く頭を垂れる瑠璃には人間の脚がたしかに生えていたのだ。
 ハンデがひとつ減り、愁斗の武器がひとつ増えた。
 輝線が宙を翔る。
 迫ってくる3匹の魚人の首が続けざまに宙に舞う。
 首から天に向かって血を吹き出しながら魚人は息絶え倒れた。
 愁斗は静かに嗤った。その指先から放たれた妖糸は、海男の躰が操り妖糸を放っていたのだ。
 仲間の魚人がやられたのを見て、真珠姫が奇声をあげて襲い掛かってきた。
「小僧の分際で、誇り高い真珠族をまたも許せぬぞ!」
 愁斗は妖糸をすぐさま放とうとしたが、それを妨害するように瑠璃が背を向けて立っていた。
「この争いは私たちのものです。真珠姫との戦いは私が……」
 瑠璃の手には矛が構えられていた。対する真珠姫は3つ又の槍を持っている。
 手出しは無用。
 愁斗は戦いを見守ることにした。
 雨脚はこの場所で地団駄[ジタンダ]を踏み、過ぎ去る様子を見せなかった。
 浜辺に打ち付ける波は大きくうねり、激しい潮騒を響かせる。
 瑠璃と真珠姫の戦いは互いに一歩も引かない状況だった。
 渾身の力で振るった瑠璃の矛を3つ又の槍が受ける。歯を食いしばった真珠姫の顔が醜く歪む。
 愁斗が見る限り、瑠璃の方が少し上手に見える。しかし、その差は微々たるもので、すぐに覆りそうなものだった。
 どちらが勝つかはわからない。
 瑠璃が負ければ、次に真珠姫と戦うのは愁斗だ。
 果たして今の自分に真珠姫と戦うだけの力量はあるか。
 瑠璃の血によって腕の傷を治されたとき、心身も浄化された。先ほどまで安静にしていたことも相俟って、今なら〈闇〉が使えそうだった。ならば〈闇〉で真珠姫と戦うか?
 問題は〈闇〉を真珠姫の精神のどちらが強いかだ。
 真珠姫が大きく振るった槍が躱[カワ]され、隙を衝いて瑠璃の矛が真珠姫の胸を突き刺した。
「惜しいな瑠璃姫」
 矛を抜きながら真珠姫が後ろに飛んだ。胸から流れ出る血はすぐに止まり、傷痕もなかったように塞がっていく。
「胸の肉がなければ心玉[シンギョク]を突かれて死んでおった」
 艶やかに笑う真珠姫の顔に死を手前で免れた恐怖はない。命が助かったから笑っているのではなく、死など最初から恐れていないという風だ。
 〈闇〉では勝てないかもしれない。
 脅威の自然治癒能力を二人の戦いは決着まで時間がかかりそうだった。
 しかし、真珠姫は奥の手を出してきたのだ。
「醜うての、この手は使いたくなかったのじゃが……」
 真珠姫を包む七色の鱗が毛のように逆立ち、肉体が波打つように膨れ上がり、しなやかな曲線を誇る肉体が、筋骨隆々とした肉体へと変貌を遂げた。
 角ばったエラから湯気を出し、金色の眼で真珠姫はギロリと瑠璃を睨みつけた。その表情に変身前の艶やかな色香はない。
「おぞましくて身震いするか、のお瑠璃よ?」
「その姿は貴女の心を映しているのですね」
「キェーッ! 戯けがッ!!」
 奇声を発した真珠姫はがむしゃらに槍を振るった。
 辛うじて瑠璃は槍を矛で受けるが、力押しされて後退りをしてしまっている。
 愁斗はついでも妖糸を震えるように指先を動かしていた。
 果たして今の真珠姫に二人掛かりでも勝てるかどうかわからない。
 それでも愁斗は手を出さなかった。
 瑠璃の矛が真珠姫の胸を捉えた。だが、真珠姫の動きは瑠璃を凌駕していたのだ。
 矛は真珠姫の肩に突き刺さり身動きを封じられた。
「ぎゃッ!」
 短い悲鳴と共に瑠璃の腕が地に落ちた。
 肘からが消失した腕から鮮血が吹き出し、瑠璃は出血を手で押さえながら後ろに引いた。驚異的な治癒力も、腕を瞬時に生やすことはできないらしい。
 落ちた腕は干物のように干からびて縮んでしまった。
 肩に矛を突き刺しながら真珠姫は下卑た笑いを浮かべた。
「痛烈な痛みであっただろう。次は貴様の矛で心玉を砕いてやるぞよ」
 肩に突き刺さる矛の柄に真珠姫が手をかけた刹那、泥水が沸騰するような音が木霊した。
「傀儡師の召喚に恐怖するがいい!」
 背筋を凍らす強大な気配。
 宙に描かれた紋様を真珠姫は驚愕の眼で見た。
 〈それ〉の叫びが闇色の裂け目を狂わせ、この世に闇色の羽虫を解き放った。
 群を成す大量の羽虫が奇怪な羽音を立てながら、真珠姫の肩の傷目掛けて飛んだ。
 悲鳴とも叫びともつかない声をあげて、真珠姫は闇色の蟲に包まれながら地面を転がりまわった。
 鋼の瞳で愁斗は諭すように呟いた。
「その蟲は闇蟲[アンチュウ]の一種。異形のモノの血が好きでね、行き過ぎて肉まで喰らってしまう」
 闇蟲に全身を包まれ、叫びをも闇の中に呑みこまれて聴こえない。
 骨まで溶かされ喰われれば、治癒力などないに等しい。
 闇蟲の群から手首が放り出されて地面に落ちた。
 もう決して真珠姫は助からまい。
 真珠姫を包んでいた闇蟲の群が波立ち、その矛先を腕から血を流す瑠璃に向けようとしていた。しかし、それを愁斗が許すはずがない。
「還れ!」
 愁斗が命じると、闇色の裂け目から〈闇〉が飛び出し、叫び声をあげながら闇蟲の群を全て呑み込み、跡形も残さず裂け目へと還っていった。
 召喚は全て終わり、完成した。
 脅威は全て去った。にも関わらず愁斗は殺気を感じ振り返った。
 地面に落ちていた真珠姫の手首が宙に浮き、道路に横たわっていた海男の心臓に突き刺さった。
「海男!」
 瑠璃の悲痛な叫びが木霊する。
 すぐさま瑠璃は海男の身体を片腕で抱きかかえ膝に乗せ、突き刺さった真珠姫の手首を抜き取った。
「海男、海男!」
 心臓が握りつぶされている。これでは瑠璃の血で癒すことはできない。それでも瑠璃は腕から流れる血を海男の胸の傷に擦り付けた。
「海男!」
 閉じていた海男の瞼が痙攣したように微かに動いた。
「生き返って!」
 母の願いが通じたのか、海男の眼[マナコ]が静かに開かれた。
「……母ちゃ……」
 海男の首から力が抜け、海男は静かな永久の眠りについた。
 瑠璃は声すら出なかった。
 ただ一筋の涙が頬を伝い、それは小さな宝石となって地面に落ちた。
 一部始終を見ていた愁斗の表情は読むことができなかった。鋼の表情を崩さぬ、無情の表情とも見て取れた。
 海男の身体を静かに横に寝かし、瑠璃は零れた宝石を拾い上げ愁斗に差し出した。
「これを伸彦様にどうぞ渡してください。海男が死んだ今、この子の身体の中で眠っていた龍封玉は力を失いました。私は海男と一緒に海に帰ります」
 瑠璃色の宝石が広げたてのひらに乗せられ、愁斗はそれを力いっぱい握り締め、海へ帰る親子の後姿を見送った。

 どのくらい愁斗はそこに立っていたのか時間は定かではないが、強く降り続いていた雨は静かに振る涙雨に変わっていた。
「おーい!」
 野太い声が愁斗を呼んでいる。
 振り向くと伸彦が愁斗に駆け寄ってきていた。
「胸騒ぎがして飛んで帰ってきたんだ」
「そうですか」
 愁斗は握り締めていた宝石を伸彦に渡した。
「瑠璃さんがこれをあなたに。海男は瑠璃さんと一緒に海に帰りました」
「……そうか」
 涙でできた宝石を受け取った伸彦はなにを思ったのか?
 しばらく無言だった伸彦が愁斗に背を向けた。
「そうか、海男のやつ俺よりも母ちゃんと一緒に暮らせて幸せだろうよ」
 むせび泣く声が荒波の音に呑まれて消えた。


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