偽りの春 陸章
陸章
 今、このふとん部屋にいるのは二人きり。外には見張りがいる。
 弥吉は声を忍ばせてお千代に話しかけた。
「おれの匕首だ。これを懐に忍ばせて置け」
 匕首を渡されたお千代は深く頷いた。
 いつもは料亭で娘を抱く代官だが、今日はお千代を自らの屋敷に呼ぶという。これを逃す機はない。全ての真相を探るため、お千代は意を決した。
 そして、弥吉がそれに同行する。
 しかし、お千代には腑に落ちないことがあった。
「どうして弥吉にわたしを?」
 女郎を逃がそうとした男と、その女郎を外に出すはずがない。
「逃がそうとしたお前をおれの手で届けさせて、苦しませようとしてるんだ。お紺姐さんってのはそういう人だよ。でもよ、これを逆手に取ってやろうぜ」
「そうね」
「おれも一緒にお代官様のお屋敷に行けるんだ。お前になにかあったらすぐに助けてやるからな」
「ありがとう」
 真相は近い。だからお千代は弥吉の言葉を盲目的に信用した。
 代官屋敷までの道のりは、弥吉の他に二人の組の者がついた。お千代と弥吉が不審な行動をしないか見張りだろう。
 日は西の空に傾いている。夏のような暑さも、秋の陽気に戻りつつあった。
 代官屋敷の前まで来ると、弥吉たち玄関の前で待たされることになった。
 何気ないそぶりで弥吉はお千代に耳打ちをする。
「なにかあったらすぐに逃げるんだぞ」
 言葉はお千代の胸に届いたが、周りに悟られないように、無表情のまま女中に連れて行かれた。
 姉と同じ道を歩くお千代。
 廊下を歩くお千佳は首元がむず痒くなって、指先で軽く押さえた。その場所には小さな痣がある。代官の吸うような接吻で付いた痕だ。
 とある障子の前まで来ると、女中は足を止めた。
「こちらに……」
 促されるままにお千代は障子に手を掛けた。
 故郷に残してきた母の顔を浮かぶ。そして、別れたときの姉の顔が浮かんだ。
 障子を開けると、代官が一人で酒を嗜んでいた。
「近う寄れ、酌を頼む」
 枯れた声が耳の中にへばりつく。
 お千代は代官の横には座らず、正面に捉えて正座をした。
「恐れながらお代官様に申し立てが御座います」
「なんじゃ、言うてみい?」
「消えた女郎はどこで御座いましょう?」
 包み隠さない真っ直ぐな質問をした。
「女郎が消えた?」
 枯れた躰に惚けた表情は本当に呆けた老人に見える。
 しかし、瞼の奥で光る眼は野獣のように鋭い。
 お千代は目を逸らさずに立ち向かった。
「ここに痣を付けられた者に限って姿を消しております」
 襟首をずらし、白い首筋についた痣を見せ付けた。
 それを見た代官は腹の底から低い嗤いを発した。
「確かに、儂は知っておるぞ……女郎はここじゃ」
 代官が指さしたのは自らの腹だった。
 なにを意味しているのかお千代は戸惑った。
 下卑た顔で代官は乱杭歯を剥いた。
「生き血を吸うてやった」
「なんで……そんな……」
「女の血は美酒じゃ。女の生き血はこの上ない美酒じゃ」
「……許せない」
 お千代は懐に忍ばせていた匕首に手を伸ばした。
「この人でなし!」
 金切り声をあげてお千代は代官に襲い掛かる。
 刹那に取った代官の動きは恐るべきものだった。
 枯れた躰からは想像も出来ぬ俊敏さ。
 掛台から刀を取り、疾風を靡かせ抜刀した。
 鋭い切っ先がお千代の咽喉に突きつけられた。お千代が腕を伸ばしても、匕首の刃は代官に届かない。
 代官を睨んだままお千代は足を引いた。その時、背中に当たった温かい壁。焦った時にはお千代の躰は何者かに羽交い絞めにされていた。
 腕を捻られ落ちた匕首が畳に突き刺さる。
 お千代は首を曲げた後ろにいる顔を見ようとした。
「……なっ!?」
 信じられない出来事に、お千代は息を呑んだ。
 急に潤んだお千代の瞳に映る男の顔。
「なんで……」
「すまねぇお千代」
 お千代を羽交い絞めにしたのは弥吉だった。
 やはり弥吉は裏切ったのだ。
 目の前の真相を追いすぎて、お千代は弥吉の闇に盲目だった。
 今まで湧いたこともないほどの憎悪が、ふつふつとお千代の腹の底から沸き上がる。
「この、この、人でなし! 殺してやる!」
 我武者羅にお千代は暴れて弥吉を振り払い、素手で代官に飛び掛った。
 鈍く煌いた切っ先がお千代の背を抜けた。
 刀はお千代の躰を衝いた。
 刃を滴る鮮血が柄に溜まっては畳に堕ちる。
 お千代は刃を食いしばり、自ら前へ進み刀を深く躰に突き刺した。
 そして、震える両手で細い代官の首を絞めた。
 爪を喰い込ませて、力いっぱい絞めた。
 なのに代官は下卑た嗤いを浮かべている。
 力は入っていなかった。
 精一杯の力で憎き相手を殺そうとしているのに、お千代の手には力が入っていなかった。
 貧血で手足が痺れ、視界が霞む。
 お千代が最期に見たものは、醜悪な代官が近づくその時だった。
 そして、お千代の瞼は幕を下ろした。
 まだ微かに息があるお千代の柔肌に乱杭歯が突き刺さる。
 女の首筋から血を啜る光景は、げに恐ろしく、弥吉は目を放さずにいられなかった。
 そのまま弥吉は無言のままに座敷を出て、肩を震わせながらクツクツと嗤った。
 裏切りの代償は弥吉の精神を蝕んだ。
 ふらりふらりと歩く背中、弥吉は幽鬼のような蒼白い顔で、何処行く当てもなく歩き続けた。
 弥吉を信じたお千代は死んだ。
 憎しみを胸に抱いたまま……死んだ。

 料亭から宿に戻って来たお蝶は、冷静な顔をしながらも、辺りを世話しなく見回していた。
 昨晩、お蝶たちが助けた娘がいない。
 もとより荷物のなかった娘だ。痕跡が何一つないと言っても、厠に立っているだけかもしれない。
 しかし、胸騒ぎがする。
 すぐにお蝶は番頭を呼んで問い詰めた。すると、娘は天狐組が来てかど勾引[カド]かしたというではないか。銭を握らせて置いたというのに、糸も簡単に裏切られたものだ。
「銭を返せとは言わないよ。けどね、あの娘さんになにかあったら、承知しないよ!」
 番頭に睨みを利かせ、お蝶は急いで宿を出た。
 向かうところは天狐組の他はない。あそこでなければ、他に見当もつかない。
 天の字が書かれた戸を開けると、奥座敷で誰かが煙管を吹かしていた。
 乱れた着物から覗く艶かしい脚。
 肩膝を立てて胡坐を掻いていたのは、お紺だった。
「あんたがここに来て、うちのひとが帰ってこないってことは、みんなやられちまったのかねぇ?」
「さて、どこにお逝きなさったのか、あたいも検討つきやせん」
「この期に及んで惚ける気かい?」
「いえいえ、本当にあたいもどこに逝くのか知らないんで」
「あんたの言葉はさっぱりだよ」
「それは申し訳ありやせん」
 笑顔でぺこりと軽く頭を下げたお蝶にお紺はほくそえんだ。
「本当に惚けた奴だ。でも、そろそろ本性を見せてくれるんだろう?」
「そちらさんは魅せてくれないんですかい?」
「そうさね、ここじゃあんたもやり辛いだろう。裏庭にでも出ようかね」
 紺色の着物を揺らしながら、お紺はすらりと立った。
 敵に背を向けて歩き出すお紺。後ろから攻撃をするような、無粋な真似はしない。お蝶と黒子はお紺の後をついて行った。
 裏庭は閑散としていた。
 背を向けて歩いていたお紺が振り返った。
「うちの組はあらかた壊滅状態。そろそろ潮時かねぇ」
「そんなことありやせんよ。あたいの見たところ、ここの組はお前さん一人の力で成り立っているように思えやしたが?」
「かしら≠チていうのは頭≠ニ書くのを知ってるかい? 実際に躰を使って動くのは手足≠ウ」
「つまり自分独りじゃなにもできないと?」
「あはは、なかなか言うじゃないか。試して見るかい?」
「滅相もない」
 と、言葉は下手に出ているが、表情は不敵だ。
 お蝶の後ろでは黒子が葛籠を下ろして、地べたに正座をしていた。それはこれからはじまることを予兆している。お蝶とお紺の戦いがはじまるのだ。
 どちらも妖気を纏った魔人。
 まだお紺の実力は定かではないが、妖々とした氣がお紺の周りを渦巻いている。
 しかし、お蝶は掌を返したように肩から力を抜いている。
「ここはひとつ穏便に済ますことはできやせんか?」
「怖気づいたようには見えないけど、どんな魂胆があるんだい?」
「魂胆なんてありやせん。宿から連れ戻された娘を返していただければ、早々に退散いたしやす」
「返すもなにも、あれはうちの商売道具だよ」
 もし、あの娘を渡しても、本当にお蝶が引き下がるとは思えない。それに加えて、お紺には晴らしたい仮がある。
「大勢の組の者がどこかに逝っちまったんだ。あんたを生きて帰すわけにはいかないよ」
 と、お蝶に言われても、やはりお蝶は惚ける。
「さて、本当に何処にいきやしたんでしょうねえ?」
「もういい加減にしな!」
 ついにお紺が声をあげた。目じりを大きく吊り上げ、本性を見せた。けれど、それもすぐに治まる。
 すぅと息を吐いてお紺は艶やかに微笑んだ。
「まあいいさ。あんたがなんと言おうと、邪魔者には変わりない。始末するに越したことはないよ」
 空は黄昏に染まっていた。妖魔が跋扈する時間が近づきつつあった。戦いには相応しい。
 お紺が構えた。
 しかし、先に仕掛けたのはお蝶。
 振られたお蝶の指先から輝線が翔けた。
 ひょいとお紺は横に退いた。
 お蝶は腕を振ったままの体勢で動きを止めてしまっている。
「避けなさるとは……視えやしたか?」
「視えたよ。氣を集束させた線だろう?」
「そうでやすか……いえ、あたいには視えないもんで……やはりお前さんは人間じゃありやせんね?」
「そういうあんたは?」
「さて?」
 お蝶は惚けた。
 視えたとなると厄介だ。
 お蝶が放った技は氣を練り糸状にしたもの。お紺は線と例えたが、もっと柔軟で撓[シナ]りが利く。罠を張ることもできるが、視える相手には意味を為さない。人間の目にはほぼ不可視の妖糸なのだ。
 妖糸といえど物理法則に左右される代物だ。放たれる速度は術者の身体能力に比例し、手から遠くなればなるほど速さは落ちる。
 しかし、お蝶の身体能力は常人を遥かに凌いでいた。
 その躰からは想像もできない瞬発力でお蝶は翔け、神速で妖糸を放った。人間とは思えぬ速さだ。
 だが、お紺は高い下駄で軽く躱す。こちらも人間を越えていた。
 そして、ついにお紺が反撃に出た。
 空気が焦げたかと思うと、火の玉がお紺から撃たれた。
 すぐさまお蝶は後ろに飛び退く。
 四散した火の粉の痕が地面を焦がした。
 やはりとお蝶は頷く。
「狐火ですかい?」
「さて、どうだろうね?」
 惚けたのは、今までのお蝶の態度への軽い仕返しだ。
 お蝶は視線を左右させ辺りを見回した。広い裏庭といえ、周りは家に囲まれた中庭のような場所だ。ちょいと先には女郎屋の縁側もある。ここでの戦いは多少の幸運といえた。
 お紺も馬鹿ではない。火の玉は斜め下に撃たれた。矢鱈滅多ら撃って、よもや辺りを火の海に沈めるようなことはないだろう。
 妖糸は視られたが、狐火も自由に放つことはできない。
 お紺はお蝶から一定の距離を保って離れていた。減速する妖糸は離れれば離れるほど、躱しやすくなることを知っているのだ。一方のお蝶はもう少し近づきたい。けれど、近づき過ぎるのも危険だ。どの程度、お紺が肉弾戦に長けているかによる。
 黒子は依然として静かに正座をしている。
 切り札の葛籠はどうした?
 理由は色々≠ニあるが、一番の問題は呑み込んではないモノがあることだ。女郎屋の縁側や民家の窓、言うことを聞かなかった〈闇〉が飛び込み可能性がある。
 お蝶はお紺との距離を縮め、渾身の氣で妖糸を煌かせた。
「しまった」
 と、誰かが漏らした。
 獣ように四つ足で立ったお紺の上を妖糸が抜けた。そのままお紺は後ろ脚で地面を蹴り上げ、肉食獣のようにお蝶の咽喉元に飛びかかった。
 自ら背中から倒れたお蝶は真上を通り過ぎるお紺の腹を両足で蹴り上げた。
 蹴り飛ばされお紺が滞空している間に、すぐさまお蝶は体勢を整えて立ち上がり翔けた。
 地面に四つ足をついて着地したお紺のすぐ横に立つお蝶。
 お紺は眼をギラつかせた。
「気安く触るな!」
 お蝶に手はお紺の尻から伸びた金色[コンジキ]の尾を握っていた。
 その尾を引っ張ろうとしたお蝶の手をなにかが素早く引っぱたき、思わず尾を放して咄嗟の判断でお蝶は退いた。
 立ち上がったお紺の後ろから伸びた尾が、頭よりも高い位置まで立っている。それは三本あった。
 金色に輝く尻尾を見て、お蝶は感嘆を吐く。
「神々しいまでに輝いておりやすね。尻尾が妖力の源だとか……」
「あたしは三本もある。少しはあたしの恐ろしさがわかったかい?」
「水を差して悪いんですが、確か殺生石に封じられた狐は九尾だとか?」
「……くッ」
 嫌そうな顔をしてお紺は歯軋りをした。
 お蝶はすまし顔の奥で、目は不敵に笑っている。
「妖狐の実力とやらを魅せてもらいやしょう」
「肝を喰らってやる。あたしの恐ろしさを思い知るがいいよ」
 真の戦いがはじまる。
 果たして決着の行方は――?



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