偽りの春 漆章
漆章
 お紺から狐火が三発も放たれた。
 どうにかお蝶は躱すも、続けざまに三発の狐火が宙を焦がす。
 狐火を放ちながらお紺はお蝶との距離を縮めていた。
 鋭く伸びたお紺の爪が妖しく光る。
 お蝶は妖糸を放った。
 妖糸を躱しながらお紺は長い爪を振り下ろす。
 桜柄の着物に一本の線が奔り破けた。
 あと一刹那、お蝶が飛び退くのが遅ければ、線は三本、はたまた五本、胸を抉られていたかもしれない。
 危機一髪を乗り越えても、お蝶は汗一つ掻いていない。激しい運動を重ねているにも関わらず、やはり汗は掻いていない。やはり、お蝶は人間ではないのか?
 お蝶に攻撃を躱されたお紺はそのまま地を駆け、正座をする黒子に飛び掛っていた。
 慌てて黒子は横の地面に飛び込んだ。
 地面に肩肘から落ちた黒子は立ち上がろうとしたが、そこへ再びお紺が襲い掛かる。
 だが、それはお紺の目の前を抜けた輝線によって防がれた。
「あたいが相手だよ!」
 叫ぶお蝶。
 その隙に黒子は立ち上がり、乱れた息を整えた。
 ひと言も発することなく、影のようにお蝶に寄り添う黒子。生きておるか死んでいるか、それすら怪しい黒子が、深い呼吸をしながら息を整えている。
 お紺は黒子を見ながらお蝶に話しかける。
「あんたの連れは、あんたほど俊敏じゃなさそうだねえ」
「相手はあたいだよ、連れに手を出さないで貰おうじゃないか!」
「生憎、正々堂々なんて言葉は持ち合わせてなくてね。黒子はあんたの足手まとい、弁慶の泣き所と言ったところかねえ」
 黒子は打ちつけた肘をだらりと地面に垂らし、もう片方の腕は腰でも打ったのか、背に回している。
 お蝶は三点を見ていた。黒子、お紺とその近くにある柿渋色の葛籠。問題は葛籠がお紺のすぐ傍にあることだ。
 葛籠を見ているお蝶の視線に気付かれた。お紺は葛籠に目をやった。
「この葛籠がどうかしたかい?」
「いえ、ただの商売道具が入っておりやすだけで」
 その言葉を信じず勘ぐるのは当然だろう。
 葛籠に手を掛けようとするお紺をお蝶が止める。
「ちょいとお待ちを!」
「この中になにが隠され……て!?」
 葛籠は中から開き、人の膝丈ほどの影が飛び出した。
 輝線が流れた。
 紺が裂かれ朱が噴出す。
 腕を斬られたお紺が顔を醜悪に歪ませながら怯んだ。
 葛籠の前に立つ小柄な影。
 それは袴を身に纏った人形であった。人形は脇差よりも短い刀を抜いている。
 人形は糸が切れたように崩れた。すぐにお紺の背後にお蝶が襲い掛かる。
 迫った妖糸は金色の尾によって弾かれた。
 振り返ったお紺は憤怒していた。
「切り刻んでやる!」
 お蝶がお紺の気を引いているうちに、再び人形が動き出しお紺の背後を衝こうとする。だが、二度目はない。人形は尾に弾かれ遠く宙に舞ってしまった。
 その隙に黒子は迅速に駆けていた。葛籠に駆け寄り蓋を閉め、すぐさま葛籠を背負って間合いを取った。
 負傷したと思われていた黒子の片腕は自在に動き、拾い上げた自らの杖で地になにかを描いていた。
 蛇が張ったような文字を円形に描き、自分の周りをぐるりと囲う。
 もしやと思い、お紺は腕を斬られ血の付いた袖を破り取り、それを黒子に向かって投げつけた。
 血の付いた袖は火花を散らしながら、黒子の目の前で燃えた。妖魔を寄せ付けぬ魔法陣を黒子は描いたのだ。
 最初に描いたのは簡易処置。さらに黒子は最初に描いた魔法陣の外側に、二重三重と魔法陣を描いていった。
 魔法陣を見ているお紺は顔を渋らせている。
「今まであたしが見てきたものとはちょいと違うようだね」
「わかりやすかい?」
 と、にやりとお蝶は笑った。
「遠い異国の術でやす」
「伴天連[バテレン]かい?」
「いえ、欧羅巴[ヨーロッパ]魔術の類でやす」
 術を講じた黒子に代わってお蝶が説明をした。謎の葛籠に西洋魔術。黒子の謎は深まるばかりである。
 お蝶とお紺が対峙する。
 再び戦いがはじまり、熾烈を極めるかと思われた。
 しかし、事態は思わぬ方向に進みつつあった。
 どこかで悲鳴が聴こえ、耳を済ませれば喚き声も聴こえる。
 女郎屋の窓や縁側から急に煙が出た。立ち昇る灰色の煙が、休むことなく女郎屋から出ているではないか。
 縁側から駆け出してくる者も数人いた。その中に混ざり、幽鬼の形相でゆらりゆらりと歩く男の姿。男は肩を震わせクツクツと嗤っていた。
 ――弥吉だった。
 胸を紅く滲ませ、弥吉は空ろな眼で歩いていた。
「クククッ……燃えちまえ、全て燃えちまえ!」
 そう、弥吉が油を撒き女郎屋に火を放ったのだ。
 木造立ての女郎屋は見る見るうちに燃え上がっていく。
 弥吉は最後にお紺をも裏切ったのだ。
 お紺は憤怒した。
「人間てのは本当に醜い生き物だねッ!」
 狐火が放たれ火のついた弥吉は両手を高く掲げ広げた。
 地獄の業火に焼かれながら、弥吉は奇声にも似た高笑いを発していた。
 裏切りを繰り返した弥吉は炎によって裁かれた。
 火は密集した家々にすぐに飛び火するだろう。
「本当に潮時のようだね」
 と、お紺は呟き、狐火を放った。
 もう手加減をする必要はない。ここは火の海に沈む。
 お紺はところ構わず狐火を放ち、あたりはまさに火の海に沈んだ。
 建物に囲まれた裏庭は、このままでは火の壁に囲まれることになるだろう。
 炎を後ろにしてお紺は艶やかに微笑んだ。
「尻尾を巻いて逃げさせてもらおうかね」
 金色の尻尾を揺らし、燃え盛る女郎屋に消えていくお紺の影。
 その後を追ってお蝶は火の中に飛び込もうとしたが、屋根が崩れ落ち行く手を塞いでしまった。
 気付けば女郎屋以外の建物も燃え盛っている。
 熱風が吹いた。
「さて、どうしたもんか……」
 お蝶は辺りを見回しながら呟いた。
 目が留まった。
 お蝶も黒子も二階の屋根を見上げていた。
 煌きが屋根に向かって放たれる。
 不可視の妖糸を屋根に固定し、葛籠を背負った黒子を、さらにお蝶が黒子を背負う。
「屋根が崩れないことを祈るのみだね」
 そして、お蝶は軽やかな動きで屋根に登りはじめた。

 夜更け、代官は寝室の襖を開けた。
 すると敷かれた布団の横に、背を向けて座る女の姿があるではないか?
「何者じゃ?」
 尋ねた代官に女は背を向けたまま答える。
「わたしのことをお忘れでございますか?」
 ゆらりと立ち上がり、女は勢いをつけて振り向いた、その顔は般若の面。二本の角を生やし、恐ろしいまでに憤怒した般若面であった。
 代官は一瞬怯みながらも、威勢をつけて女に飛び掛った。
「誰の悪戯じゃ!」
 鷲掴みにした代官の手が般若面を剥ぎ取る。
 その下から現れた顔を見て代官はカッ開いた眼を剥いた。
 数日も前に抱いた女ならば忘れていたかもしれない。けれど、この顔は忘れるはずもない。
 ――お千代だった。
 そんな筈はない。確かに血を啜り、事切れた筈だ。
「儂が殺した筈……いや、絶対に殺した」
「では、ここにいるわたしは何者でございましょう?」
「幻影に決まっておる」
「なぜそう思うのですか?」
「桜の木の下に殺して埋めた!」
 躰の血を全て吸われ、お千代は暗い地面の底に葬られたのだ。
 お千代は嗤った。
 嗤いを木霊させながら、代官の手から般若面を奪い取り、部屋の外へと走り出した。
 後を追う代官は刀を取り、襖を開け、障子を開け、縁側に出た。
 お千代は何処へ消えた?
 女の嗤い声が静かな空気に木霊した。
 月明かりを浴びて庭に佇む女の影。
「わたしを殺した怨み。そして、殺されていった女たちの怨み。篤[トク]と味わうがいい」
「やれるものなら、やってみろ」
 代官は下卑た嗤いを浮かべ、すぐに人を呼んだ。
「皆の者、曲者じゃ、出合え出合えい!」
 大声に数人の武士が慌てて現れた。そして、仲間が仲間を呼び、次々と武士が沸いて出る。
 堂々と庭先に立つ女が般若面に手を掛けた。
「魅せやす、殺りやす、咲かせやす。この世には、悪の蔓延る処なし。今宵も華を咲かせやしょう」
 般若面は宙[ソラ]高く投げられた。
 そこにお千代はいなかった。いたのは桜柄の着物を着たお蝶。
「夜桜お蝶、毒を持って毒を制しに参上いたしやした」
 正体を現したお蝶に武士たちは一斉に抜刀した。
「曲者じゃ、斬り捨てい!」
 代官の命令で武士たちが次々とお蝶に襲い来る。自ら死に飛び込むようなものだ。お蝶は艶笑する。
 悪の蔓延る処なしと言いながらも、毒を毒で制すという。
 お蝶の浮かべた笑みは魔性だった。
 闇の中で細い細い輝線が宙を翔ける。
 呻き声があがったのが早いのか、それとも刎ねられたのが早いのか。生首が次々と宙を舞った。
 黒土に鮮血が染み入る。
 流された女郎たちの血に比べれば、穢れ、対価にもならない。復讐を晴らすには、まだ血が足らない。なによりも、代官が血に沈まなければ、女たちは浮かばれぬ。
 お蝶の技が冴える。
 呻き声や悶え声が闇の中で次々と木霊する。
 武士たちは怯んだ。
 見えぬお蝶の攻撃に恐れ慄[オノノ]いた。
 逃げ惑う武士も現れた。
 しかし、お蝶が逃がすわけもない。
 背を向けて逃げた武士は八つ裂きにされた。
 容赦ないお蝶の攻撃は続き、黒土は血で泥濘をつくり、地獄の沼を形成した。
 美貌を湛え、艶やかに笑いながら人を斬るお蝶は、まさに羅刹女そのものだった。人である武士たちが敵う相手ではない。武士たちは生きて地獄を見た。
 やがて立つ者は二人を残していなくなった。
 地面では虫の息をした武士たちが苦しそうに呻いている。
「お代官様、残っていらっしゃるのは貴方様だけでございやすよ」
 挑発するお蝶に代官は笑った。
「虫けらどもを倒したくらいで粋がるな。お前の相手など儂独りで十分じゃ」
 地獄絵図を目の前にしながら、代官は臆することなく抜刀した。さすがは人の血を啜る怪物だけのことはある。
 今の二人の距離ならば、刀よりも妖糸の方が有利か?
 枯れ細った躰からは想像もできぬ瞬発力で、代官が縁側から大きく飛翔した。
 すかさずお蝶が妖糸を放つ。
 刀と妖糸が交じり合い、宙で火花が散った。
 弾かれたのは妖糸。
 切断された妖糸が氣を失い消滅する。
 お蝶は頭上に振り下ろされる刀を飛び退いて避け、続いて来た衝きを横に退いて躱した。だが、それを予期していたかのごとく、刀は薙ぎ払われお蝶の前を掠めた。
 三段攻撃を仕掛けた代官は息も切らせていない。枯れた躰は偽りとしか思えない。老人の皮を被ったなにかなのだ。
 乱れ繰り出される刀の舞を、お蝶はひらりひらりと、こちらも舞うように躱す。
 血でぬかるんだ地面に代官が足を取られた。
 見過ごすわけもなくお蝶は妖糸を放つも、それはいともあっさりと断ち切られてしまった。
「やはり糸が見えやすか?」
「面白い技を使う手足[テダ]れじゃな。しかし、儂には勝てぬ!」
 疾風のように刀が薙いだ。
 ひょいとお蝶は躱したが紙一重。刹那違えば真っ二つに胴を斬られていただろう。その証拠に、腹の着物が少し口を開いていた。
 飛び跳ねながら刀を躱すお蝶を代官は嘲笑う。
「兎のように飛び跳ねおって、逃げることしかできないのか?」
「物事には機というものがございやす。例えば今とか」
 会話に挿んで妖糸を放つも、呆気なく斬られてしまった。
「汚い真似をしおる」
「外道には外道。殺し合いは是が非でも勝たねばなりやせん。負けは死を意味しやすから」
「ならばお主に待っておるのは死じゃ」
「さて、それはどうでございやしょうか……」
 お蝶は網を引いた。
 ぬかるんだ地面に隠されていた網状の妖糸を一気に上げたのだ。
 罠に掛りそうになった代官の刀が冴える。
 高く飛翔した代官は下から襲い来る網を切り裂いた。
 しかし、不意を衝かれた為か斬り損じた。
 刀を握っていなかった腕が、肘から撥[ハネ]ねられた。
 ぼとりと堕ちた腕は斬られてもなお動いている。
「おのれぇッ!」
 刀を捨てて血が吹き出す肘を押さえる代官の顔は、恐ろしく醜悪に歪んでいる。
 代官がお蝶に背を向けて駆けた。
 逃げる気かと思いきや、代官は不可思議な行動に出た。
 なんと凍えるような池の水に自ら飛び込んだのだ。
 水飛沫を上げた池は波紋を立ててやがて静かになった。
 代官は上がってこない。
 まさか池に秘密の抜け道があるとでもいうのか、お蝶は池に目を見張っていた。
 その時だった。
 火山が噴火したごとく水飛沫が上がり、お蝶の身長の二倍はあろうかと思われる巨大な影が飛び出したのだ。
 月光を浴びて煌く水飛沫の中に、その怪物はいた。
 暗がりではよくわからぬが、筋骨隆々の躰は水草のように緑色をしており、手足の指の間には水掻きが付いている。そして、その怪物の象徴とも言える皿が頭に乗っていた。
 巨大な河童だ。
 片腕のない河童がギラリと眼を輝かせ、眼下のお蝶を睨みつけていた。
「正体を現しやしたね」
 物怖じしないでお蝶は河童を見上げていた。
「儂の正体を見たからには決して生かして帰さぬぞ」
「あたいもお前さんを生かしちゃ置きやせんぜ。お前さんに殺された女の怨み辛み、きっと極上の味がしやすぜ。残さず召し上がるといいよッ!」
 速い。
 お蝶の動きは疾風のように速かった。
 繰り出される妖糸の雨。
 負けじと河童は鋭い鉤爪で妖糸を切り裂き、巨体を動かしお蝶に襲い掛かる。
 圧し掛かるように迫る河童をお蝶は嘲笑った。
「まったくお前さんという野郎は、頭が弱いんじゃないかね」
「なんだと?」
「魅せやしょう、傀儡士の奥義召喚術。篤とご覧あれ!」
 河童が立ってた地面が不気味な輝きを放った。その光は地に描かれた魔法陣であった。いつの間にか、またしても地面に罠が仕掛けてあったのだ。
 地の底から身も凍る、巨獣にも似た〈それ〉の咆哮が聴こえた。
 河童は動くことができなかった。自分の真下に何かがいるとわかっていながらも、恐怖で身がすくんで足が動かない。
 〈それ〉の恐怖は大地にも伝わったのか、黒土が生き物のように蠢いていた。
 否、まさにそれは生き物だった。
 〈それ〉の咆哮は大地を腐らせ、この世に大量の蛭を呼び出した。
 何千何万といる闇色の蛭は、動けぬ河童の躰を覆い、血を貪るように啜った。
「ぎゃぁぁ……な、なんだこれは……ぐげげぇ……」
「〈あちら側〉に棲む蟲の一種でやすよ。闇蛭と申しまして妖物の血が大好物でやす」
 闇蛭は河童の躰を這い回り、肘の傷から体内へと潜り込んだ。皮の下を波打って這い回る闇蛭に耐えかね、河童は巨体を振り回し暴れ狂った。そのたびに、地面が激しく揺れ、闇蛭の海が躍る。
「てめぇに殺された女の怨み、味わったかい!」
 お蝶の怒号もすでに河童の耳には届かない。
 耳の穴から侵入した闇蛭に鼓膜を破られ、超絶的な苦痛に悶えるばかり。
 鼻で嗤ったお蝶は口元を吊り上げた。
 これで悪代官も一巻の終わりだ。
 あとは残骸が腐る前に大掃除をするだけだった。
 物陰に隠れていた黒子がひょいと顔を出し、地面に下ろした葛籠の蓋を開けた。
 そして、お蝶は甘く囁く。
「おゆきなさい」
 葛籠に潜む闇から、甲高い悲鳴が聴こえる。号泣する声が聴こえる。轟々と呻く声が聴こえる。どれも惨苦に満ち溢れている。
 風となって〈闇〉は世界を翔け抜けた。
 散らばった肉を呑み込み、血を呑み込み、貪欲に貪り喰う。
 〈闇〉は河童の躰にも絡みついた。
 もはや河童に抵抗する力など残っていないかに思えた。
 しかし、河童は最期の力を振り絞って、艶やかに笑い続けているお蝶に一矢報いようと手を伸ばした。
 手を握られたお蝶は余裕で構えている。
「そんな物でいいなら、冥土土産にくれてやるよ」
 お蝶の腕はもぎ取られた。けれど、血が噴き出すこともなく、なおもお蝶は嗤っていた。
 憎しみを抱いた絶叫が木霊した。
 河童の躰は全て〈闇〉に呑み込まれ、全ては何事もなかったように消えた。
「さっ、自分の世界にお帰り」
 〈闇〉は泣きながら葛籠の中に還っていった。
 そして、黒子は葛籠の蓋を固く閉じた。


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