偽りの春 肆章
肆章
 代官屋敷の奥座敷でお紺は代官にお酌をしていた。
「少し早くはございませんか?」
 酒を飲む早さではない。
「腹が空いておるのだ。全ておまえのせいだぞ」
「一人ずつと、お約束したじゃあございませんか……」
「良いではないか。女に逃げられたのはお主の責めじゃ」
「だからと言って今日入った子にまで、目をつけることはないじゃあございませんか?」
「女などいくらでもいるだろう。なにを案じておるのだ、儂を誰だと思っておる?」
 その問いに答える代わりにお紺は目を伏せた。目はなにかを言いたげだ。
 月に一人という約束だった。
 それが今月は、一人目に逃げられた挙句に死なれ、二人目にも逃げられ子分たちに探させている最中だ。代官は二人目がいるにも関わらず、堪え性がなくお千代にも目を付けた。お千代に印を付けたのは、二人目が逃げたという話が入る前だ。
 代官という地位があれば、政[マツリゴト]の範囲内ではいくらでも隠し事が利くだろう。
 しかし、悪い噂が立てば立つほど女郎たちは言うことを聞かなくなる。
 それにもうひとつお紺は危惧していた。
「逃げた娘を探しに出した子分から連絡がございません」
「逃げた娘がまだ見つからんだけだろう」
「それだけなら宜しいんでございますが、お代官様もくれぐれもご注意を……」
 お紺はゆらりと艶やかに立ち上がり軽い会釈をした。
「それでは御機嫌なすって」
 奥座敷をあとにして、障子を閉めたお紺は呟く。
「……糞爺め」
 その呟きは完全に雨音に掻き消された。
 代官屋敷を出たお紺は御付きを従え歩き出した。
 雨風が強く、御付きが持つ行燈が激しく左右に揺れている。
 灯していた行燈が雨に濡れてすーっと消えた。
 闇の中でお紺の形相は見る見るうちに歪んでいった。
「どいつもこいつも、腹の立つ奴らばかりだね!」
 怒りが最高潮に達したお紺は、その長い爪を前にいた御付きの背に振り下ろしていた。
「ぎゃぁぁぁ!」
 御付きの背が血を噴いた。
 地面に両手をついた御付きにお紺は冷笑を浴びせ、裾を捲し上げて御付きの腹を蹴り上げた。
「ぐがっ……」
 胃の内容物を吐露した男にお紺を軽蔑した。
「汚らしい真似すんじゃないよ!」
 御付きの後頭部は力強く踏みつけられ、頭を地面に激しく打ち付けられた御付は絶命した。
「こんな下男を殺しても腹の虫が治まらないよ」
 嵐の夜道を歩きながらお紺は気を静めていった。
 面を被ったように荒れた気性を隠し、お紺は何食わぬ顔で天狐組みに戻って来た。
 すると子分たちは慌てふためいていた。
「姐さん! 一大事ですぜ、早く奥の部屋に来てください」
 子分に連れられ奥の部屋にいくと、片耳に布を当てられた男が呻いていた。傍には親分も付き添っている。
「畜生め、誰にやられたかはっきり言え!」
 親分の怒号が子分たちの耳を振るわせた。
 部屋に入ってきたお紺は冷静を装って辺りの子分たちを見回した。
「いったいなにがあったんだい?」
 子分たちが黙り込む中、答えたのは親分だった。
「いや、それが……わからねぇんだ」
「わからないってどういうことだい!」
 お紺の米神に血管が浮いた。それを見た子分たちは震え上がり、親分まで腰が引けている。
「だってよぉ、おまえ。帰ってきてからこの状態で話も聞けねぇんだ」
「ウチの組は役立たずばっかりだね、おまえさんもだよ」
 お紺を上から親分を見下ろした。
 町民や子分たちには強い親分も、お紺だけには頭が上がらない。
「役立たずなんて言われてもよ、いちよう子分たちを探しに出したんだぜ」
 女郎を探しに出た子分たちの中で、ただひとり帰ってきたのは片耳を失った男だけ。他の子分を探しに、新たに子分たちを探しに出したが、一向に見つかったという連絡はない。
 外は嵐だ。それに夜だ。外に出された子分たちも嫌々だろうに。
 お紺は親分の顔をぎろりと見た。
「で、どうなったんだい?」
「なにもない。さっき一度帰ってきた子分に話を聞いたが、前に出た子分たちの足取りをまったく掴めんそうだ」
「嵐の晩に隣村まで女郎一人を追う根性はウチの若いもんにはないだろ? 真昼間だって途中で戻ってくるさ。じゃあどこに消えたのさ? 死んでるにしても、大勢が死んでりゃあ、どこかに痕跡が残ってるもんだろ。まさか神隠しにでもあったというのかい?」
 片耳を失った男から察するに、なにか暴力沙汰があったのは確かだろう。と、お紺は察したが、自分でも言ったように屍体すら出ないことが頭を悩ませる。
 まさか葛籠に吸い込まれたなど誰が想像しようか。
 片耳を失った男は、それからひと言も発せず、眠ることすらできずに恐怖に震え続けた。
 雨の中を走り回った子分たちも、なんの収穫もないまま帰ってきた。
 今宵のお紺は嵐よりも激しく荒れ狂いたい気分だった。
「どいつもこいつも……」
 しかし、お紺は理性で怒りを沈めた。
 敵の正体が知れないうちは下手に動かないほうがいい。
 いや、正体には心当たりがあった。
 知りたいのは目的だ。目の届くところで自由に泳がせたが、今ひとつ相手の目的がはっきりとしていなかった。
 そして、お紺は不気味にほくそえんだ。

 嵐の過ぎ去った翌朝は雲ひとつない快晴で、夏が戻ってきたように朝から気温が高かった。
 女郎屋ではまた女郎がひとり消えたと、噂にするまでもなく女郎の間に広まっていた。
 足抜けした女郎がいても、探す時と探さない時がある。
 天狐組み若い衆が探しに出ている様子を見ると、本当≠ノ逃げ出したようだ。
 いつもよりも張り詰めた空気なのは、まだ帰ってこない者がいるためだろう。唯一帰ってきた片耳の男も、一睡もせずに正気を取り戻していない。まだなにが起きたのかわからず仕舞いだった。
 女郎の世話役の弥吉はお千代の見張りを命じられていた。これ以上、印をつけられた者に逃げられるわけにはいかない。けれど、お千代に逃げる気などない。
 狭いふとん部屋で弥吉はお千代に詰め寄った。
「逃げてくれ!」
「嫌よ、わたしは逃げない」
「どうしてだよ!」
「姉さんを見つけるまで逃げない!」
 お千代の決意は固い。弥吉の想いもそれに負けないほどだった。
「お千佳はおれが見つける……おれとお千佳は恋仲だったんだ……」
 思わず目と口を丸くするお千代。
 弥吉は村を飛び出す前から、幼馴染のお千佳に惚れていた。村を飛び出し、やくざになってからも、度々村にいるお千佳へ想い耽っていた。
 そのお千佳と女郎屋で再会した弥吉は、今までの想いが爆発した。お千代のほうも、放り込まれた地獄の中で、弥吉のことを頼りにしているうちに気持ちが揺れ動き、成り行きのままに自然と二人は男女の仲となった。
 しかし、二人の仲はご法度。
 女郎の世話を任されている弥吉が、売り物に手を出したことが知れれば、どんな仕置きが待っているか、お紺の性格を考えるだけで恐ろしい。
 そのため二人の恋は密やかに育まれた。
 弥吉はやくざから足を洗い、お千佳も足抜けをしようと、そう考えていた矢先だった。
 お千佳の首筋に青い痣が付いた。
 まるで死刑宣告でもされたようにお千佳は狂い、弥吉も頭を抱えて悩みに悩んだ。
 その頃、弥吉はお紺に目を付けられていることに気付いていた。だから迂闊な行動に出れず、二人で逃げる勇気が雲ってしまった。
 そして、弥吉がおずおずしている間に、お千佳は姿を消した。
 お千佳を失った弥吉は人が変わったように、冷淡な性格で女郎たちに接するようになった。それを見ていたお紺は、弥吉から疑念を徐々に消していった。弥吉にとって長い冬の日々がはじまったのだ。
 心を閉ざしてしまった弥吉。
 その心が再び開かれたのは、あの日だった。そう、お千佳の妹のお千代が女郎屋に売られてきた日。
「おれは……おれは……おれのせいなんだ」
 弥吉は拳を震わせ、零れそうになる涙を目を閉じて抑えた。
「おれはお千佳を連れて逃げる勇気がなかった。親分やお紺姐さんが怖かった。お代官様に悪い噂があると知っていても、おれにはなにもできなかったんだ」
 それゆえに弥吉のお千代を助けたいという気持ち強い。
 しかし、お千代はその気持ちを振り払った。
「わたしに構わないで、わたしは逃げない、絶対に姉さんを村に連れて帰るんだ」
「おまえがなんと言おうとおれはおまえを連れ出す」
 逃がさまいと弥吉はお千代の腕を掴み、強引に部屋の外に連れ出した。
 店の表は昼間だというのに客が出入りをしており、裏手は裏手で見張りが立っている。縁側の横にある渡り廊下は天狐組の家に繋がり、縁側のわき道を通ると組の真横に出る。逃げ場はどこにもないように思えた。
 だが、弥吉は迷わずに二階に行こうとしていた。逃げるとしたら、あの場所しかないと目を付けていた場所があるのだ。
 弥吉に引きずられるお千代は必死の抵抗をした。腕を上下に振りながら、廊下に足を踏ん張る。けれど、声をあげるわけにはいかない。声をあげれば騒ぎが大きくなり、弥吉や自分の身が危ない。
 辺りに気を配りながら弥吉は頭を左右に動かした。客の出入りが多い夜だったら、二階に上がる前に誰かと鉢合わせだ。
 誰もいないことを確かめ、弥吉は階段を上がろうとした。だが、嫌がる相手に階段を上らせるのは容易ではない。廊下を引きずるようにうまくはいかなかった。
 それまで気配などしなかったのに、急に背筋を凍らせるぞっとする気配がした。
「どこに行く気だい?」
 弥吉は驚いて階段を見上げ、弥吉から顔を背けて逃げようとしていたお千代も、弥吉の先にいる紺色の着物の裾を見た。
 目尻が切れ長に上がったお紺がゆっくりと階段を下りてくる。
「どこに行くのかと、あたしは尋ねてるんだ!」
 お紺の激昂に弥吉は躰の芯が震えた。
「へ、へい……」
 一階の離れにある厠に行くという嘘は、二階に上がろうとしているので使えない。
「そ、それが……客が二階で……」
 待っていると続けたかったが、お紺は鼻の先で嘲笑う。
「その子には客を取らせるなと言ったはずだけどねえ?」
 弥吉は観念した。
 そして、お千代の躰を突き放した。
「逃げろお千代!」
 突き放されたお千代は逃げなかった。
 その場に正座をしてお紺に深く頭を下げた。
「わたしは逃げも隠れもいたしません」
 その言葉に弥吉は落胆した。足から崩れるようにして、力なく階段に座り込んでしまった。
 お紺が辺りを見回しながら人を呼ぶ。
「誰か、誰か早く来て頂戴!」
 すぐに数人の若い衆が駆けつけてきた。
 お紺はまだ頭を下げたままのお千代を見下した。
「その子をふとん部屋に押し込めておきな!」
 それから弥吉に目をやる。
「こいつにはどんな仕置きをしようかね?」
 舌なめずりをしたお紺の眼は妖しく輝いていた。


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