偽りの春 伍章
伍章
 先日のお蝶の唄と黒子の人形劇がいたく気に入ったらしく、代官の御付きに推挙してもらい、今日は日の高いうちに料亭に呼ばれていた。
 秋めいていた今日この頃から急に、夏の暑さがぶり返えしたことから、道を行き交う町人たちの中には、額に薄っすらと汗をかいている者もいた。
 そんな日差しの中でも、黒子はいつものように真っ黒な装束を着て、重たいであろう荷物を背負って歩いている。
 お蝶たちが呼ばれたのは、静かな町外れにある情緒が溢れる料亭だった。その場所でお蝶たちの芸を見たいというのだ。
 開かれた玄関を潜り抜け、出迎えた店の主人に連れられ、中庭に面した座敷に連れて行かれた。
「この中でしばらくお持ちください」
 と、早々に主人は姿を消した。
 落ち着いた様子でお蝶と黒子は畳に腰を落ち着かせた。
 しかし、黒子は葛籠を背負ったままだ。
 お蝶がひと言。
「あたいら、この町で人に怨まれるようなことをしたかねぇ?」
 そこら中から気配がした。それを承知で畳の腰を落ち着かせる、まさに落ち着きよう。部屋の周りは殺気を殺した野郎どもに囲まれていた。
 堰を切ったように襖が蹴破られ、押し寄せる男たちが荒波をつくった。
 すぐさまお蝶と黒子は障子を開けて逃げた。
 障子ごと敵を押し飛ばし、軽やかな足並みで縁側から庭に降りた。
 お蝶の桜柄の着物が舞い揺れ、描かれた花弁がゆらりと映る。
 庭に出たお蝶たちは、囲い込み漁に掛ったように、逃げ場もないくらい取り囲まれてしまった。
 若い衆を掻き分けて、天狐組の親分が姿を見せた。手に握られているのは珍しい短銃だ。密貿易かなにかで大枚をはたいて手に入れた品だろう。
「お紺の奴がお前さんたちのことを臭うというもんだからな。うちの若い衆が行方知れずになってるんだが、知らねえかい?」
 人に物を尋ねるにしては物騒な装いだ。周りを取り囲んでいる人数を見ると、余程お紺に気を付けろと言付けられたのだろう。
 それだけ二人は警戒されているということだ。
 この緊迫するはずの状況で、お蝶は微笑を絶やさなかった。
「親分さんのところの若い衆になにがありやしたか? あたいらはしがない旅芸人ですよ、こんな大勢に囲まれる道理はごぜえやせんぜ?」
 このお蝶の物腰を見て、親分はお蝶の実力のほどを計った。お紺の勘が騒いだように、やはりお蝶たちは只者ではないと親分は悟った。
 しかし、お蝶が行方不明になった若い衆たちをどうこうしたという、一本の線には繋がっていない。まさかこの二人が多勢に無勢をどうにかできる、そこまでの想像をするのは突拍子すぎる。たとえそれが事実であってもだ。
 そのためにまだ親分には貫禄という余裕があった。
「なんにせよ、なにか知ってることには違えなさそうだ。おれが仏の顔をしてるうちに大人しく吐いてもらおうか」
「では、ここでお魅せしましょうかい?」
 お蝶はこの世のものとは思えない美貌で艶笑した。仏の笑みではない、それは魔性そのものだった。
 親分は怯えた。この感覚は誰かと似ている。そうだ、お紺と似ている。お蝶とお紺はどこか似ているのだ。
 じっとりと滲む汗を掻きながら、親分は子分たちが見ている手前、恐怖でおののくわけにはいかなかった。
「な……にを見せてくれるっていうんだ?」
 隠そうとしても隠し切れない怯えが言葉に出た。
 お蝶はそれに気付いてされに嗾[ケシカ]ける。
「昨晩、親分さんの子分がどうなったのか、ここで再現しましょうかと、言ってるんでやすよ」
 生唾を飲み込む音がそこら中からした。
 余裕があれば、恐ろしさ半分、興味半分で見たいと思うかもしれないが、ここにいる誰もが見たくないと思った。それがなんであるかわからずとも、見たくないと本能的に危機を感じたのだ。
 なにも言わない周りの野郎どもに、お蝶はさらに言う。
「どうです? 見たくはありやせんか?」
 親分は瞬きもせずに固まっている。
 今日は夏のような季候だというのに、この場は氷結してしまったように冷える。
 お蝶はあくまで返事をまった。この時間がとても甘美なものであるように、至極の表情で艶笑している。
 息遣いが聴こえてきそうなこの場に、ガタンと葛籠を下ろした音がした。
 黒子は葛籠を下ろして、その横に正座をした。いつもで葛籠を開くことができる。
 親分の片足が地面を擦りながら引かれた。その足は爪先から酷く震えている。お蝶はもちろん見逃していない。
「このままでは埒が明きませんぜ、親分さん?」
 もう親分に言葉を返す力はなかった。
 口をパクパク動かし、今にも泡を噴いて気絶しそうだ。
 お蝶が一歩、親分に詰め寄った。
「もう十分にお前さん恐怖を味わいなすった。まだ恐怖を味わいやすかい? それとも刹那に殺して欲しいと、あたいに土下座でもしやすかね?」
 お蝶はゆっくりと目を閉じた。
 それがきっかけで子分たちが逃げ出した。親分も逃げ出したが、それを咎める子分は誰一人いないだろう。逃げるが勝ちというが、まさに今がそれだと子分も親分も思ったに違いない。
 勝ち目のない勝負を選ぶ誉れもあるが、犬死となれば話は別だ。
 お蝶は親分の背中に不吉な言葉を投げかけた。
「逃げるんですかい? 逃げられませんぜ?」
 囲まれていたのはお蝶たちではなかった。本当に捕らわれ囲まれていたのは、親分たちであった。
 それは死の罠だ。
 ところてんを押し出すように、男たちが細切れにされた。お蝶も黒子も指一つ動かしていない。男たちは自ら死の罠に飛び込み、鋭利な網≠ノよって細切れにされたのだ。
 目の前で細切れになった肉塊を見て、後続の男は足を止めようとしたが、その後ろから押し寄せる男によって、次々と将棋倒しになってしまった。
 細切れになって事切れたものは、まだ幸運だろう。中途半端に切られ、生きながらえた者の苦しみは壮絶だ。
 発狂した一人の男がお蝶に襲い掛かった。
 お蝶はひらりと躱し、猪突猛進の男はそのまま黒子に飛び込んだ。
 葛籠の上に座る黒子は動かない。男が自分のところまでたどり着けないと踏んだのだ。
 その予想通り、男は途中で腹から地面に落ちた。
 それはなぜか?
 男の膝はすでに断ち切られ、男は勢いだけで黒子に飛び込んでいたのだ。
 悲惨な光景に血の香りが立ち込めた。
 生き残った者たちを、お蝶はゆっくりと見回した。
「そろそろご覚悟をお決めになったらどうですかい?」
 この場に立っている者の中には親分もいた。
 震える親分の手には短銃が握られている。
 地面に向いていた銃口が、震えながら上に上げられた。
 銃口の先でお蝶は堂々と立っていた。撃てと言わんばかりだ。
「アァァァァァッ!」
 野獣のような雄叫びを上げて親分は引き金を引いた。
 銃弾は明後日の方向に飛び、快晴の空に消えていった。
 お蝶の表情はずっと変わっていない。魔性の笑みを浮かべている。
「銃なんてものはそうそう当たるもんじゃありやせんよ。そんなに震えていては余計にってもんです。あたいの業は百発百中ですがね」
 刹那、お蝶は腕を振った。
 あまりの恐怖に親分は震えすら止めてしまった。
 しかし、なにも起こらなかったかに見えた。ただ、お蝶が腕を振っただけ。
 数秒の時が流れた。
 息を呑んだ親分が急に笑い出した。
「ははははっ、なにが百発百中だ。なにも起こらんじゃないか――ッ!?」
「いえ、あたいは確かに斬りやした」
 それを理解した親分は、すでにこの時ずれていた。腰に乗っていた胴が、声を発し、躰を動かしたことによって、ずれた。胴はすでに輪切りにされていたのだ。
 血管がずれた胴が急激に動き、悶絶しながら親分の上半身は血に落ちた。まだ意識があるが、放っておけばそのうち事切れるだろう。それまでの間、存分に土を掻き毟るといい。
 生き残っていた子分たちは止めを刺されたように、次々と地面に尻を付いていった。けれど、本当の止めはこれからだった。
 黒子の手が葛籠の蓋に掛かる。
 そして――。

 ふんどし姿で弥吉は天井から吊るされていた。
 竹棒で打たれ、気を失えば冷水をぶっ掛けられる。その繰り返しが続いていた。
 男たちに仕置きをされ、弥吉は死と生の境を彷徨っている。意識は朦朧として、躰が麻痺しはじめている。
 この地下部屋に足音を鳴らしながら下りてくる影。
 お紺は抑えきれない笑みを浮かべて姿を見せた。
「もうだいぶ痛めつけられたようだね」
 弥吉の前に立ったお紺は舐め回すように物色した。
「本番はこれからだよ」
 お紺の長い指が項垂れた弥吉の顎を持ち上げ、人払いをするためにお紺は片腕を横に振った。
「お前たちはお行き、あとはあたしがやるよ」
 妖しく輝くお紺の瞳に見られ、仕置きをしていた男たちは早々に逃げた。
 二人きりになった部屋で、お紺は積極的に責めた。
 弥吉の脚に自らの脚を絡め、竹棒で打たれた赤い傷に指先を這わせた。
 小さく痙攣する弥吉の反応を楽しみながら、お紺はさらに責めて攻めた。
 長く伸びたお紺の舌が、汗を噴出す弥吉の胸板を這う。雄臭を嗅ぎながら、お紺の指先は次々と弥吉の敏感な部分を攻めていく。
「前からあんたには目をつけてたのさ、いつか喰ってやろうってね」
 お紺の前歯が弥吉の乳首を甘噛みする。
「本当はもっと熟してから喰いたかったんだけど……仕様がないね!」
「ギャァァッ!」
 眼を見開きながら弥吉は口を大きく開けた。
 胸板から顔を離したお紺の口は紅く濡れていた。そして、胸板は乳首ごと皮を喰われていた。
 本当に喰われると弥吉は恐怖した。
 竹棒で叩かれるよりも恐ろしい。生きたまま喰われるなど、底の知れぬ恐怖と苦痛だ。
「た、助けてくれ!」
 弥吉は叫んだ。
 恐怖に歪む相手の顔を、さぞ至極であるようにお紺は嗤って見ていた。
「できないね」
「お、おおお願いだ!」
「あんたはあたしを裏切った、二度も」
「…………」
 ごくりと弥吉の咽仏が上下した。
 お紺の指先が弥吉の胸の傷をなぞる。
「ギャ!」
「一度目は、名前はなんだったかね、あの娘。ほら、あんたが惚れてた娘だよ」
 それはお千代の姉であるお千佳だと知れた。お紺は二人の仲に気付いていたのだ。
「あんたがあの娘に惚れてるのを知ってね、わざと代官に売ったのさ」
 嗜虐症のお紺は、弥吉を苦しめるためにお千佳を売った。
 しかし、弥吉は認めなかった。
「おれはそんな女知らねえ、だから助けてくれ」
「そうだね、あんたはあの娘を忘れたように、献身的にあたしに尽くしてくれた。だから許してやろうかと思ったけど、二度も裏切られるなんてねえ」
「おれが姐さんを裏切るなんて……」
「あんたが連れ出そうとしてたあの娘。前にあんたが惚れてた女の妹かなにかだろう?」
 ぎょっと弥吉は眼を剥いた。お千佳の名前すら覚えていないお紺になぜわかる?
「あんたの惚れてた娘の顔も名前も覚えちゃいないけど、臭いは覚えてね。臭いが同じなんだよ、あの娘」
 臭いというのが比喩なのか、弥吉には判断できなかった。お紺に感じる底知れぬ恐怖は、人智を超えたものだ。つまり人間とは思えなかった。
 次の物色をするために、お紺は弥吉の爪先から股間に向けて舐めるように見た。
「どこを喰おうかね?」
「や、やめてくれ! もう嘘はつかねえ、姐さんに魂を売る。だから助けてくれ!」
 その言葉は本心だった。
「あたしに魂を売る?」
「売る、売る、だから助けてくれ!」
「醜い人間だねえ」
 裏切りだった。お千代への裏切り。そして、愛したはずの女への裏切り。
 弥吉は女を裏切った。
 鼻水と涙を混ぜながら弥吉は泣きじゃくった。
「助けてくれ、なんでも言うことを聞く……」
「その言葉、嘘偽りはないね?」
 暗がりでお紺の瞳が金色に光り、弥吉は震えるように首を縦に振った。
 お紺は人の魂を買った。
「助けてやろう」
 その見返りは?
「あんたがあの娘を代官の所へ連れてお行き」
 裏切りの上塗りと、お紺への忠誠を見せること。
 お紺は弥吉の返事など待たない。魂を売ったお紺に弥吉は拒否する権利はない。必ず成し遂げなくてはいけない。
 縄を解かれた弥吉は力なく地べたに崩れた。
 背を向けて立ち去っていくお紺が振り向いた。
「もし、あたしをまた裏切るようなことがあったら、地の果て地獄の果てまで追いかけて喰い殺してやるからね」
 今が地獄。
 弥吉は地獄から、さらに深く堕ちようとしていた。
 クツクツと嗤う男の声が地下に響いた。


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