第1話 双生児

《1》

 それは運命の糸に弄ばれた惨劇。
 山里の小さな村、そのはずれにある大きな屋敷。
 村の者は決して寄り付かない呪われた一族。
 その屋敷に訪れることになった、ひとりの少女。
 叔父は村の入り口までしか、美花[みはな]を送ってはくれなかった。
 明らかに様子の可笑しかった叔父。村が近づくにつれて、唇が蒼く染まり、顔から汗を噴出していた。
 なにを恐れることがあるのだろうか?
 美花が屋敷を訪れることになった理由。それは実の母と、つい最近に知らされた双子の姉に会うため。
 どこに恐れることがあるのか?
 本当に恐れられるのは自分だと美花は思った。
 こんな自分を今まで育ててくれた叔父夫婦。いや、本当は影で自分のことを恐れていたのかもしれない。
 ――悪魔の子。
 そう影で囁いていたのかもしれない。
 屋敷までの道を村人に尋ねると、皆一様に顔を伏せて、無言になってしまった。やっと教えてくれた村人も、屋敷の方向を指差すだけだった。
 美花は見ていた。屋敷を示す村人の指が酷く震えていたことを――。
 屋敷が大きなことは、外からでも十分に知ることができた。
 大きな門の前に小柄な娘が立っていた。
 服装はあまり上等な物ではなく、腰に巻かれた白い前掛けを見るに、侍女だということがすぐにわかった。
 いや、それにしては綺麗な娘だ。
 黒く美しい髪、端正な顔立ち、上等な着物を着せれば、和人形のように美しく飾られるだろう。ただ、この娘は表情と愛想に欠けていた。
 美花に軽く会釈した娘は、なにも言わずに屋敷の中へと歩き出した。
 慌てて美花は追いかけて歩いた。
 その瞬間、美花の足首が誰かに掴まれた。
 驚きにあまり美花は声も出せずに全身から血の気が失せた。
 しかし、何もなかった。
 こんな場所で誰かに足を掴まれる筈などないのだ。
 侍女は足を止めて待っていてくれた。
 美花は何事もなかったように取り繕おうとした――のだが、侍女の視線の先を追ってゾッとした。
 侍女は美花の足元をじっと見詰めていたのだ。
 何事もなかったように歩き出す侍女。
 美花も何事もなかったように努め、侍女に話かけることにした。
「あの、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「菊乃[きくの]と申します」
 最低限の礼儀は心得ているらしく、しっかりと名を答えてくれた。けれど、淡々とした口調と愛想のない顔。菊乃から話題を振ってくることはなさそうだ。
 さらに美花は会話を続けようとした。
「わたしは美花と言います」
 相手が自分の名前を知らないはずがないが、これは売り言葉に買い言葉だ。
 会話が途切れないように美花は話し続ける。
「菊乃さんは、ここのお手伝いさんですよね? 住み込みで働いているのですか? ここに勤めて長いのでしょうか?」
「…………」
 質問が多かったのか、それとも無駄話はしたくないのか、菊乃は黙ったまま淡々と前を歩いていた。
 そうしているうちに玄関までたどり着いた。
 玄関で美花を出迎えてくれる者は誰一人といなかった。
 実の母も、双子の姉も、まだその姿を現さない。
 家の中は静かだった。
 前を歩く菊乃の足音も聞こえない。
 聞こえるのは美花の足音だけ。
 そこへ騒がしい足音が聞こえて来た。
 廊下を走る二つの音。
 すぐに前方から幼い少女が駆けてきた。
 美花は少女をかわそうとしたが、運悪く避けた方向に少女も動き、二人はぶつかってしまった。
 少女は美花の顔を上目遣いで覗き込むと、すぐに駆けて行ってしまった。その後を追うように新たな侍女の娘が現れ、美花の顔を見ていつものように′yく頭を下げて立ち去った。
 美花は呆然としてしまった。
 不思議な光景を見たような気がした。
 あの幼い少女の頭から、角が生えていたような気がした。
 見間違え立ったかもしれない。でも、髪の毛に隠れた2本の角が見えたような気がした。
 考え込みながら美花が視線を上げると、菊乃がただじっと美花を見つめていた。
 再び廊下を歩き出す菊乃。美花はついて行くしなかった。
 大きな庭を見渡せる縁側を歩き、閉められた障子の前で菊乃は足を止めた。
 菊乃は何も言わなかったが、その障子を開けるように促しているのはわかる。
 この障子の向こうに誰かがいる。
 美花が部屋に入ろうと決意したと同時に、心を読み取ったように菊乃が障子を開けたのだった。
 部屋の奥を見た美花は息を呑んだ。
 そして、思い出したように言葉を喉から搾り出した。
「は、はじめまして……」
 それ以上の言葉を思いつかなかった。
 自分と同じ顔がそこにある。わかっていても驚いてしまった。
 いや、それよりも驚かされたのは母だ。
 直感的にそこに座っている着物の女が母だとわかった。その母の顔には、痛ましい痣があった。顔の半分を埋め尽くすほどの痣。
 とても美しい人だった。とても綺麗な人だった。だからこそ際立つ醜い痣。
 美花はその痣から視線を逸らした。
 何を思ったのか、母は静かに笑った。
「さあ、こっちへいらっしゃい美花」
 はじめて母から名を呼ばれ、戸惑いながらも美花は母のすぐ前に正座をした。
 母の手が伸び、美花の両手を優しく握った。
「逢いたかったわ」
「わたしもです」
「そちらのいるのがあなたのお姉さんの美咲[みさき]よ」
「こんにちはお姉さま」
 美花が笑いかけると、姉の美咲は不気味に笑った。
 自分はあんな表情をしたことがない。あんな恐ろしい笑みを浮かべたことはない。だが、まるで鏡に映った自分を見ているようで、美花はとても恐ろしく感じた。
 そう、まるで自分の裏の顔を見てしまった気分だ。
 顔は同じなのに、そこにいるのが姉だと信じることができない。
 中身が違いすぎる。直感的にそう感じられた。
 母は美花の手を愛でた。
「綺麗な手……美咲にそっくりだわ」
 そう言いながら母は美花の手を自分の頬にこすりつけた。そこはあの醜い痣がある場所。美花の手の甲に伝わるざらざらした感触。鮫の肌を触っているような感触だった。
 母が為すがままに美花は自分の手を委ねた。
 しかし、母の舌が手を這って、指を口に含もうとした瞬間、急に美花は手を引いて逃げた。
 驚いた美花の顔を見ながら微笑んでいる母。その傍らでは美咲も不気味に笑っていた。
 同じ血を引いている肉親の筈なのに、まるで蚊帳の外にいるような気分を美花は味わった。
 美花は不安だった。
 もう叔父夫婦の家に帰ることはない。今日からこの屋敷で暮らすことになる。この家に馴染むことができるか不安だった。
 積もる話もいろいろあったが、美花はなにから話していいのかわからない。向こうから投げかけられる言葉もなかった。
 美咲は依然として不気味に笑っている。母は美花を見つめて微笑んでいた。
 この場で戸惑っているのは美花だけのようだ。
 母が静かに口を開く。
「まだ来たばかりで戸惑うのはわかるわ。でも大丈夫、あなたはわたくしの娘なのですから、すぐにこの家にも慣れるでしょう。美咲、この屋敷を案内してあげなさい」
「はい、わかりましたお母様」
「わたくしは用事があります。夕食の時にまた会いましょう」
 静かな笑みを浮かべ、母はこの部屋を早々に後にした。
 残された姉と妹。
 緊張感が部屋を満たし、美花は息苦しさを感じた。
 ゆっくりと美咲が立ち上がった。
「わたしに付いておいでなさい、屋敷の中を案内して差し上げますわ」
「はい、お姉さま」
 同じ声音。同じ顔。しかし、同じ人間ではない。
 この姉妹はまるで朝と夜。
 夜はその闇の中に何を隠すのか?
 美咲の微笑みは昏い陰を含んでいた。
「家の者にはもう会ったかしら?」
「菊乃さん以外にもお二人とすれ違いましたが、お名前までは聞く時間がなくて」
「すれ違った二人には何かされませんでしたこと?」
「いいえ、会ったのはたぶんわたしと同い年くらいのお手伝いさんと、その方が追いかけていた小さな女の子でした。お二人とも悪い方には見えませんでしたけど?」
「それは侍女の瑤子[ようこ]と、我が家で預かっているるりあ≠ヒ。会ったのがその二人でよかったわ。この屋敷にはわたしたちに危害を加えるモノも多いから」
 危害を加えるモノ?
 わたしたちとは誰を示す言葉のなのか?
 それ以外にモノたちはいったい誰なのか?
 怖くて美花が問うことができずにいると、不気味に美咲は嗤った。
「目に見えるモノが全てではないわ。この屋敷は昔から怨念に血塗られているらしいから」
 眼を剥いた美咲は狂気の相を浮かべながら嗤った。今まででもっともおぞましい表情。
 背筋が凍りつく思いを美花はした。
 壊れている。
 ――貴女は本当にわたしの姉なのですか?
 それはまるで禁忌の問いかけ。口に出すことは恐ろしい。
 もしも肯定≠ウれてしまったら……。
 思い描いていた世界。
 思い描いていた姉の存在。
 全てが音を立てて崩れそうだった。
 その場に立ち尽くしていた美花に美咲が優しく微笑みかけた。
「どうしたの、行きましょう?」
 その笑みはまるで別人のようだった。

《2》

 平屋建ての屋敷だが、迷うほどの部屋数と入り組んだ廊下。そして、昼だというのに仄暗い。
 部屋の一つ一つを案内していては日が暮れるのか、それとも考えがあっての行動なのか、美咲は多くの部屋を素通りした。
 二人は無言だった。
 美花は口を開くことが恐ろしかった。
 相手を知ることが恐ろしい。
 相手の声を聞くことが恐ろしい。
 その恐怖は根深く美花を侵食し、自分の声を聞くことすら恐ろしく感じられた。
 赤い札の貼られたふすまの横を通り過ぎた時、美咲が声を潜めながら忠告をした。
「必要のない部屋には立ち入らないこと。決して開けてはいけないわ。うちの者でさえ絶対に入らない」
 なぜとは訊けなかった。
 美咲の足が止まった。
「ここがわたしの部屋、そして向かいがあなたの部屋よ」
 そう言ってから美咲は美花の部屋を開けた。
 張り替えたばかりの青い畳の香り。
 何もない淋しい部屋。
 雨戸も全て閉ざされ、光すらも遮断されていた。
 美咲は押し入れを開けた。
「ふとんだけは用意してあるわ。他に必要な物は菊乃に申し付けるといいわ。彼女が町まで調達しに行ってくれるから」
「はい、わかりました」
 二人は部屋を後にした。
 廊下を歩いていると、駆け足の音が響いてきた。
 あの少女だ。名前はるりあ。
 美花は見てしまった。やはりるりあの頭には角のような物が生えている。
 るりあは急に反転して走り出した。
 それを見た美咲は意地悪そうに言う。
「あの子わたしのことが嫌いなの。わたしは別に嫌いではないのに」
 本当にるりあが逃げたのかはわからない。
 ただ、今に思えば少し怯えたような表情をしていたかもしれない。
 るりあが廊下の角を曲がり、姿を消したと同時に小さく叫ぶ声が聞こえてきた。
 すぐに角から姿を現したのは瑶子だった。
「あっ、美咲さまがお二人?」
 美咲は意地悪そうに笑った。
「馬鹿ねあなた、わたしのこともわからないなんて、本当に頭が足りないのだから」
「申し訳ございません美咲さま。では、そちらにいらっしゃるのが美花さまなのですね。ということは、もしかして先ほど私と会ったのは美花さまでしたか、着物がいつもと違うと思っておりました」
 瑶子ははにかんで頬を赤らめた。
 素朴な顔つき、柔和な笑顔、この場には似つかわしくない存在だった。
 しかし、外の世界はどこにでもいる少女。
 美花はほっと胸を撫で下ろした。ここに来てはじめて緊張の糸が解けたかもしれない。
 瑶子の背中にはるりあが隠れていた。怯えたような、威嚇するような、そんな瞳でこちらを見ている。
 るりあは天井を眺め、急に逃げ出した。瞬時に美花も目をやったが、そこには何もなかった。
 瑶子は二人に頭を下げ、るりあを追って姿を消してしまった。
 多くの疑問を持ちながらも、美花は何一つ訊くことができなかった。
 美咲が歩き出す。
「次は慶子[けいこ]先生に会いに行きましょう。先生は離れに住んでいるわ」
 本館から渡り廊下で繋がっている別館。その別館にある部屋の一つを使っているのが慶子と呼ばれる部外者だった。
 二人が部屋に入ると、読書中だった慶子が顔を上げた。
 才色兼備を絵で描いたような眼鏡を掛けた女性だった。見た目から感じられる年齢は美花と美咲の母よりも上かもしれない。
「こんにちは美咲さん、そちらが美花さんね。よろしく、私は武内[たけうち]慶子。この屋敷の主治医で、美咲さんの家庭教師もしておりますの」
「はい、よろしくお願いします」
 慌てて美花は頭を下げた。
 内心で美花はほっとしていた。ここにも緊張せずに付き合えそうな人が居た。
 部屋にはたくさんの本があった。壁一面本棚と言っていい。読書家なのか、ほかにすることがないのか。
 美花が本棚を眺めているに慶子が気が付いた。
「本はお好きかしら? 気に入った物があれば持って行っていいわよ」
 慶子は木漏れ日のような優しい笑みを浮かべた。笑うと童顔に見える。
「はい、ありがとうございます」
「そんなに礼儀正しくしなくていいのよ。これから同じ屋敷に住むのだから、肩が凝ってしまうでしょう」
「でも年上の方ですし」
「うふふ、そんな小母さんに見えるかしら。静枝さんと比べたら十以上も離れているけれど、自分では若いと思っておりますの」
 静枝とは美花と美咲の母の名。その母の年齢すら美花は知らなかった。
 知らないことが多すぎる。
 いや、この屋敷に謎が多いのかもしれない。
 美咲の案内はここで終わりだった。
「家の者は慶子先生で最後よ。他にいるとすれば招かれざる客か、棲み付いてしまっているモノたち」
 それを聞いて慶子はにこやかに微笑んだ。
「そう言えば瑶子さんから聞いたのだけれど、最近食料がなくなっているらしいですわね。前からそういうことはあるけれど、最近は目に見えて減っているとか?」
 美咲は頷き答える。
「ええ、きっと屋敷に忍び込んだ者がいるのでしょう。馬鹿な人間ね、絶対に出ることはできないのに」
「そう、死んでも出られないもの。あたしもここに来て十年ほどになるかしら、たまには外の土も踏んでみたいもですわね」
「先生はまだ良いですよ、わたしなんて生まれてから一度も屋敷から出たことがないもの。美花のことも羨ましいわ」
 眼を向けられた美花はゾッとした。冷たい眼。呪われてしまいそうだった。
 ――自分は姉に怨まれているのだろうか?
 なぜ?
 育った環境が違うから?
 そんなにここでの生活は嫌なものなのだろうか。これからここで生活していけるだろうか。
 嫌なのは周りの空気、それとも自分の気持ちか、とにかく払拭したくて美花は笑顔を作った。
「どうして外に出ないんですか、わたしと一緒にいろんなところへ行きましょう、お姉さま」
「本当にこれがわたしの妹なのかしら、腹立たしいわ!」
 急に怒って美咲は部屋を出て行ってしまった。
 なぜこんなことになってしまったのか美花はわからなかった。
 悲しかった、嫌われてしまったこと、自分が誰かを傷つけてしまったこと。全ては自分が傷ついてしまうから。
「わたし……何か言ってしまったのでしょうか?」
「出られないのよ、この屋敷から」
「どうしてそんな決まりがあるんですか?」
「決まりではないのですのよ、変えられない摂理とでも言うのかしら。この屋敷を出られるのは菊乃さんだけ。後で試して見るといいわ……ただし、外との境界線は怨念が強いから不要に近づくのは危険かも」
「話がよくわかりません」
「うふふふふ、本当に何も訊かされていないのね」
 その笑いの奥に狂気を感じた。やはりこの女も異質だった。
 慶子は悪戯に笑いながら話し続ける。
「貴女を育てた養父母も知らないのですから、訊かされていないのも当然かしら。あたしもこの屋敷のことは目に見えることしか知らない、知るつもりもないわ。知りたいことがあるのなら静枝さんにお聞きなさい、彼女もどこまで知っているのか怪しいものだけれど」
 そう語って慶子は低い笑いを部屋中に響かせた。
 怖くなってきた美花は手に握った汗を着物で拭き、言葉を喉に詰まらせながらもやっと吐き出した。
「もう失礼します。姉を追いかけて謝りたいですから」
 美花は逃げるように部屋を出た。

 美咲を追いかけたい気持ちはあった。
 それと同時に会いたくない気持ちもあった。
 それ以前にどこを探したらいいのか、道も何もわからないこの屋敷で、すぐに迷ってしまった。
 周りの部屋の入り口には全て赤い札が貼ってある。いったいその先になにがあるのか、好奇心よりも恐怖が先に立つ。
 静かな廊下を歩くたびに軋む音が鳴る。
 廊下の先は光も届かない暗闇。
 美花は息を呑んで足を止めてしまった。
 聴こえたような気がした。
 歩く音。
 それも上を歩く音。
 美花は天井を見上げた。
 平屋建ての上に部屋はない。そこにあるのは屋根裏。そんな場所から足音が聴こえる筈がない。
 しかし、美花はそれを完全に否定することができなかった。
 先程の会話――忍び込んだ者がいる。
 本当にそんな人がいるのか、いたとしても忍び込む理由は何か?
 美花は考えないように首を振って思いを消した。
 慶子も言っていた。『知るつもりはない』と――。
 そうだ、この屋敷には知らない方が良い事が多いのだろう。いや、知ってはいけないのかもしれない。
 廊下の向うに光が見えた。
 少し早足で歩くと、縁側に出ることが出来た。
 外の空気、外の景色、夕焼けの空。
 ここから見える世界が全てではない。庭の先には高い垣根があり、その先に世界は広がっている。
 今日から垣根の中が美花の世界になってしまうのだろうか?
 本当に外に出ることができないのか?
 縁側の先にわらじ並んで置かれていた。迷うことなく、考えることもなく、自然と美花はわらじを履いて外に飛び出していた。
 美花は外の世界に向かって走り出した。
 垣根がどんどん近づいて来る。
 どうして外に出てはいけない決まりがあるのかわからない。
 だって、あんな人の作った垣根なんて、すぐにでも飛び越えられそうなのに。
 急に美花の足が止まった。
「……何これ?」
 気持ち悪い。
 胸の底から沸いて来る気持ち悪さ。
 頭も痛い。
 誰かが美花の足を触った。
 すぐに地面を見るが、居る筈がない。
 誰かが美花の背中を、胸を、腹を、尻を、舐め回すように触った。
 これが境界線の怨念?
 美花は泥のような汗を流しながら外に出ようとした。
 自分の背よりも高い垣根だが、越えられない筈がない。目の前に、目の前にあるのに越えられない筈がない!
「きゃ!」
 一瞬のことで美花にも何が起きたのかわからなかった。
 気づいたら垣根は手の届かない遥か遠くにあった。
 そんな筈はない。垣根に手を伸ばし、あと少し、あと少しで手が届いた筈なのに。
 身体中を濡らす油汗。
 不快な気持ちなのは汗だけのためではない。まだ鮮明に残る身体を触れられた感覚。
「本当に外に出られない」
 それは誰かが決めた掟ではなかった。出ようと思っても出られないのだ。
 美花は自分に起きたことを思い出す。
 垣根に触れようとした瞬間、後ろに引かれたのだ。それはまるで身体を縄で縛られ、急に後ろへ引かれたような感覚。とても諍うことすらできない力だった。
 もう一度試す勇気は起きなかった。
 後ろを振り返ると大きな屋敷がある。
 どうしてか屋敷の中に入る気にもなれなかった。
 怖いのだ。どちらも怖い。
 垣根に近づくことも、屋敷の中に入ることも、どちらも怖かった。
 そして、この場でじっとしていることも怖く感じ、美花はどこに行くでもなく歩きはじめた。
 屋敷を囲む大きな庭。庭といっても庭園ではない。木もなければ草もない。枯れた大地が延々と続く庭。
 玄関からは裏手になるのだろうか、そこには小さな祠があった。
 小さな鳥居から続く石畳の道。その先に祭られているモノが何なのか、美花がわかる筈もなかった。
 誰かの気配がした。
 祠の陰からるりあが現れ、すぐに逃げようとしたのを美花が止めた。
「待って」
 るりあは背を向けたまま足を止めた。
 思わず呼び止めてしまったが、何を話していいのかわからない。
 美花が困っているとるりあが振り向いた。
「お前誰だ、美咲じゃない誰だ」
 少し片言のしゃべり方だった。
 美花は相手を怖がらせないように、精一杯の笑顔で答えた。
「わたしは美花です。今日からこの屋敷でお世話になることになりました」
「お前美咲に似てるな」
「はい、双子の妹なんです」
「ならお前も嫌い」
 るりあは走り去ってしまった。
 嫌われてしまった。
 何も知れない筈なのに、双子だというだけで嫌われてしまった。
 ――姉はそんなに嫌われる存在なのだろうか?
 その答えを美花は出すことが出来なかった。きっと答えは出ている筈なのに、自分が姉をどう思っているのか、その気持ちに気づいている筈なのに、答えを出すことは絶対に出来なかった。
 光と影。
 同じ姿かたちをした存在。
 美咲を否定することは、自分の存在も否定しているようで怖かった。
 恐ろしい美咲の表情を思い出す。あんな表情を美花がしたことはない。けれど、同じ顔ならば出来る筈。
 ――自分の中にもあんな狂気が存在しているのだろうか?
 恐ろしくたまらない。美花は胸が苦しくて気分が悪くなった。
 その場にしゃがみ込み、自分の体を抱いて震える。
「……わたしも……わたしは人間じゃない……お姉さまを見ればわかる……わたしも人間じゃないんだ」
 認められない。認めたくない。
 物心が付けば自分でも気づいてしまった。周りの子供と自分が違うことに気づかない筈がない。
 友達は気づいていただろうか?
 その点は養父母が気をつけていてくれた。おそらく美花に気を使ったのではなく、自分たちが迫害されるのを恐れてだろう。数年おきに引越しを繰り返した。
 ――悪魔の子。
 今なら確信できる。影でそう囁いていたのだ。
 涙が零れ落ちた。
 止まらない、止まらない、涙が止まらない。
 溢れ出す涙は枯れた地面に吸い込まれる。
「……死にたい」
 この屋敷にも馴染める気がない。かと言って養父母のところには帰れない。彼らはきっと喜んで美花を手放したのだ。
 帰るところはどこにもない。
 ふと美花の脳裏に浮かぶ自分の顔。違う、それは美咲の顔だった。
 自分と同じ顔を持つ存在。
 背格好も同じなら、アレも同じ筈だ。そうでなければ、姿かたちが同じの筈がない。
 美咲との距離は近づいては離れ、離れては近づく。
 はじめて姉の存在を知ったときの歓喜。思いを馳せた。
 しかし、実際に会ってみると想像とかけ離れた存在だった。そこにあったのは恐怖。
 でもアレの呪縛に姉も苦しんでいると思うと、美花は親近感と悲しみを共有できるような気がした。
 美花は涙を拭いてゆっくりと立ち上がった。
 今なら屋敷の中へ足を踏み入れることができそうだった。

《3》

 食卓はとても淋しいものだった。
 侍女の菊乃と瑶子は主人たちと食卓を囲むことはない。るりあも姿を見せない。
 淡々と箸を進め、私語を慎み、三人だけの食卓。食器の音すら立ててはいけない雰囲気だった。
 この場に美花がいなければ、もっと淋しい食卓なのかもしれない。それとも、そんな感情すら抱かないのだろうか。
 山里にある偏狭の村だが、食卓には生鮮野菜や新鮮な魚が並んでいる。魚は川魚だが、いったい誰が届けてくれているのだろうか?
 この屋敷を出ることは出来ない。
 出られるのは菊乃だけと聞いたが、全て菊乃が調達して来るのだろうか。疑問は尽きない。
 美花は赤いお吸い物を口に運び、一番遅く食事を終えた。
 全員の食事を終わったところで静枝が席を立つ。
「美咲さん、美花さん、あとでわたくしの部屋に来なさい」
 静枝は姿を消した。
 美咲も美花に微笑みかけて姿を消した。
 片づけをはじめる菊乃と瑶子。
 慌てて美花も手伝おう茶碗に手を伸ばした。
「わたしも手伝います」
 しかし、菊乃が茶碗を先に取った。
「わたくしたちの仕事でございます」
 無愛想に菊乃は食器を運んでいってしまった。
 少し哀しそう顔をした美花に瑶子は笑いかける。
「美花さんは何もしなくてもいいんですよ。そのためにあたしたちがいるんですから」
「でも、そういうの慣れていなくて」
「大丈夫です、すぐに慣れますよ!」
「はい、そうですね」
 本当に慣れることができるのか、美花は自信が持てなかった。
 美花は後片付けを終えた瑶子に静枝の部屋まで案内してもらうことにした。
 日中の間でも暗い屋敷内は、黄昏時を過ぎるとその不気味さを増す。
 行灯の光は廊下の奥まで照らしてはくれない。
 美花は会話が途切れぬように努めた。
「瑶子さんはここに来て長いのですか?」
「いえ、まだ三年です」
「三年は十分長いと思います。その前は何をなられていたのですか?」
「実は覚えてないんです。行き倒れになっていた所をここの人たちに助けていただいたらしくって、それ以前の記憶は何も」
 瑶子の年齢は見た目から察すると美花と同じくらい。まだまだ若い十五歳前後くらいに見える。三年前の瑶子はもっと幼かったのだろう。そんな歳からこの屋敷に住み、奉公していると考えると、心中を察したくなるが、瑶子の表情に悲壮の欠片もない。
 こんな場所でなぜ屈託のない笑顔で居られるのか?
 他の者の笑顔は皆、どこか壊れていた。
 美花は訊かずには入れれなかった。
「ここを出たいとは思わないのですか?」
「思いません。ここはあたしの家なんです、ずっとずっと昔から住んでいるような、とても愛着のある住処ですから」
「そうですか……」
 瑶子を見習わなければならないと思った。この場所でもそんな笑顔で笑えるように。例えどんな場所でも、己の心構え一つで変わるのだ。
 二人が廊下を歩いていると、暗闇の先に物陰が見えたような気がした。驚いて美花は瑶子に顔を向ける。
「今、誰かいませんでしたか?」
「そうですか、あたし鈍感なんでわからないんです。他の人たちはみんな感じてるみたいなんでけど」
 この話を追求していいものなのか、けれど瑶子の口調からはまるで恐怖を感じない。日常的で当たり前のこと、そこに何も恐れることはない。
 美花が黙っていると、瑶子が悪気なく話しはじめた。
「るりあちゃんが一番良く見えているみたいです。そこら中にいるみたいで、いつも怖がって屋敷の中を走り回ってるんです。でもあたしはソレに何か危害を加えられたことはありませんし、たまに物音が聞こえるくらいで、ぜんぜん怖いものだとは思ってません」
「危害は加えないのですか」
 では、いったい美花の足を掴み、躰中を舐め回すように触れたモノは何だったのか?
 あれは危害と言わないのだろうか。
 それからすぐに静枝の部屋の前まで来た。
「では、あたしはこれで」
 軽く会釈をして去ってしまおうとした瑶子。
 独りにされるのは心細かった。部屋の中には静枝がいる。けれど、そこに入っても美花は独りだった。
 この屋敷で唯一心を許せる存在。
 美花は手を伸ばした。
「待って」
 その言葉をやっと言うことができた。
「何でしょうか?」
 柔和な顔で瑶子は振り返った。その顔を見ると安心できる。
「あの、ここで待っていてくれませんか。わたし自分の部屋にもまだ独りじゃ帰れなくて」
「あはははは、この屋敷は大きいですからね。大丈夫ですよ、ここでお待ちしております」
 にこやかに笑いながら瑶子は廊下で待っていてくれることになった。本当は部屋の中まで付いて来て欲しかった。けれど、それは無理な話だろう。
 美花は緊張した面持ちでふすまを開けた。
 部屋の中には二つの影が正座していた。静枝の他に美咲がすでにいたのだ。
 ふすまを閉めて部屋に入った美花は、用意された座布団の上に正座した。
 静枝が微笑みながら口を開く。
「二人とも良く聴きなさい。これから話すことは二人の命に関わることよ」
 美咲の目つきが少し鋭くなった。美花もまた、少し驚いたように瞳を大きくした。
 静かな、それでいて恐ろしさを背負う静枝。口を挟む隙をまったく見せず、二人を見据えながら話を続ける。
「美咲さんはもうわかっていると思うけれど、美花さんも気づいているかしら。貴女方とわたくしの違い。わたくしの見た目はそうね、二五歳前後……実年齢は数え年で十九歳」
 若く妖艶な母であったが、見た目よりもさらに実年齢が若い。
 そして、もっとも問題なのは、双子の姉妹の見た目は十五歳前後。
 十九歳の女が十五歳の子を持てるものなのか?
 本当は実の母子ではないのか、その疑問を持つのは当然かもしれない。だが、姉妹がその疑問を持つことはない。
 静枝は淡々と言う。
「貴女方の見た目は十五歳前後、そして数え歳は七歳。それがわたくしと貴女方の明確な違い」
 二人の姉妹は二倍の速さで成長し、老化していたのだ。
 そして、これが重要な一言だった。
「わたくしはその呪縛を絶った」
 つまりそれは静枝もまた、過去に姉妹と同じ運命を背負っていたのだ。
 二倍で老化していく恐怖。
 通常の人間よりも死を身近に感じ、特に外≠ナ育った美花はそれを強く感じていた。
 美花は決して口を開ける状態ではなかったが、美咲は堂々と口を開いた。
「それはお母様が行っているアレと関係あるのでしょうか?」
「アレ?」
 少し惚けた様子で静枝は答えたが、美咲は凛として核心を追及する。
「わたし知っておりますのよ、お母様と先生が何をしているか」
「何かしら?」
「人間を解体して丸ごと喰らっているのでしょう?」
「ふふふふ……きゃははははは……やっぱり気づいていたのね、お利巧さんだこと」
「そして、喰い切れない肉は食事に混ぜてわたしたちに喰わせていたことも。今日の夕食にも混ざっていたのでしょう?」
 それを横で聞いていた美花は口に手を当てて吐き気を催した。
 美花を見て鼻で笑う美咲。
「馬鹿ね、人間の血は呑めるのに、肉は喰えないの?」
「……だって……それは」
 仕方なかった。
 仕方なく人間の血を飲んでいた。
 それが嫌で嫌で堪らなかった。
 クツクツと嗤いながら静枝は話を戻した。
「人間の血を浴び、肉を喰らうのは美容のために過ぎないわ。貴女方は動物の血、特に人間の血を飲まなければ、老化の速さがさらに加速する。何もしなければわたくしよりも早く死ぬでしょうね」
 では、どうやって静枝はその呪縛を断ち切ったのか?
「貴女方が呪縛を解くためには、人間を喰らうしかない」
 静枝の言葉に気性を乱して美咲が食って掛かった。
「それでは無理とご自分で言ったではありませんか!」
「そんなことは言っていないわ。たしかに貴女方がわたくしと同じように人間を喰らっても呪縛を解けない。そう、同じでは駄目なのよ……」
 美咲と美花は息を呑んだ。
 そして、静枝はこう断言した。
「片割れを殺し、肝を喰らいなさい」
 寒気と静かさが部屋を包み込んだ。
 数刻の沈黙。
 美花が大声で叫ぶ。
「できません!」
 それは姉妹で殺し合うということ。同じ顔を持った相手を自らの手で殺めるということ。
 精神的な自分殺し。
 美咲は静かな表情をして、口を開く気配すら見せなかった。
 静枝は自らの顔に残る醜い痣に触れながら遠い目をした。
「わたくしにも姉がいたわ。別々に育てられ、出逢ったその日に殺せと言われた。代々我が家系は双子の姉妹が生まれ、同じ事を繰り返してきたらしいわ。だからわたしは姉を喰らって生き延びた」
 そんなこと美花にはできなかった。
「姉を殺すなんて、できるわけない……」
 涙ぐむ美花に静枝は頷いて見せた
「わたくしもそうだった。わたくしも美花さんのように外で育てられたから。別々に育てられるのが掟なのよ、双子に優劣を生むために」
 微かに美咲の耳が動いた。だが、口を開かず無言のまま。
 涙を流して躰を振るわせる美花。
 無言のまま動じない美咲。
 別々に育てられた双子の姉妹。
 美花は涙を拭った。
「やっぱりできません。そんなことしなくても、まだ三十年……四十年は生きられる。お姉さまを殺めてまで長く生きたいとは思いません」
 美咲も頷いた。
「そうね、長生きなんて興味ない。この鳥籠の中で何十年も生きなくてはいけないなんて苦痛だわ」
 美咲の言葉に美花は心から安堵した。殺し合いをしなくて済む。
 決して母を軽蔑しているわけではない。生きることに執着するのは動物の本能。
 ――でも、姉妹で殺し合うなんて間違ってる。
 美咲は席を立って部屋を出ようとした。
 すぐに静枝が呼び止める。
「待ちなさい美咲さん」
「まだ何か?」
「話は終わっていないわ」
「もう済んだでしょう」
「いいえ、まだ終わっていないわ」
 美咲は座布団に再び座ろうとしなかったが、足と止めて静枝の話に耳を傾けることにした。
 静かに語りだす静枝。
「先程、三十年と言ったわね。このまま二倍の速さで老化が進めばそうでしょう。しかし、過去に殺し合いをせずに生きようとした者がいたそうだけれど、数年と経たずに死んだそうよ。ちょうど十歳になったとき」
 あざ笑うかのように美咲は反論する。
「ただの偶然でしょう」
「違うわ。この呪縛は体質ではないの、呪いなの。諍うことのできない呪いなのよ。双子の血が途絶えても、一族のどこかで双子が生まれ本家の養子となる」
「だからどうしたって言うの。別に構わないわ、あと一、二年で死のうと」
 美咲はふすまを開けて部屋を出て行った、今度は止める間もなかった。
 残された美花もゆっくり立ち上がり、涙を堪えながら部屋を出た。
 冷たい廊下では瑶子が待っていてくれた。
 美花は膝から崩れ落ちた。それを抱き支える瑶子。
「大丈夫ですか美花さま」
「…………」
 美花は無言のまま、ただ涙を零した。

 瑶子は夜空の下で火を焚いて湯を沸かしながら、風呂場の中にいる美花に声をかけた。
「お湯加減はいかがですか?」
 檜の湯船に浸かっている美花は柔和な顔をしていた。
「はい、良い湯加減です……あっ!」
「どうなさいましたか!?」
「いえ……なんでもありません」
 美花の視線の先、湯煙の先に立っていたのは美咲だった。
 包み隠さず裸体を晒す美咲。発育途中の身体だが、腰はくびれ、尻は張りがあり、胸は小振りながら御椀型で美しい。
 その裸体を見ることが――いや、見られることが美花は恥ずかしくなった。
 美花が視線を背けたのに気づいて美咲は微笑んだ。
「自分の躰には見慣れているのではなくて?」
「恥ずかしいものは恥ずかしいですから」
「女同士よ。あと、双子なのだから、その口調はやめてもらえないかしら?」
「ごめんなさい、こんなしゃべり方しかできないんです」
 この口調は養父母に対するものと同じだった。美花は友達の接し方も知らない。自分と周りが違うと感じはじめたころから、友達や周りの人たちと距離を置くようになったからだ。
 美咲は湯船からお湯を桶に取り、背中に湯を浴びた。
 身体の曲線を滑るお湯。白い肌は水を弾き、ほんのりと桜色に染まった。
 美咲は湯船につま先をつけた。そのまま滑らかに湯に体を沈め、美花と向かい合った。
 真正面から向かい合う双子の姉妹。まるで鏡に映っているようだ。
 湯に緩やかな波を起こしながら美咲が美花に近づいた。
「本当に鏡を見ているみたい」
 美咲の指先が美花の頬を撫でた。
 鼓動を乱しながら美花はただじっとしたまま、美咲にされるがまま躰を預けた。
 繊細の指先は頬をなぞり、耳、首、肩、鎖骨、一つ一つの部位を確かめるように、美咲の指は細やかに肌を滑る。
 そして、形の良い胸が包むように触られた。
「そこは触らないでください」
 頬を赤らめながら美花は顔を背けた。
「自分の躰を自分で触っていると思えば恥ずかしくないわ」
「そんなことを言われても……嗚呼っ」
 胸を強く握られた。
 そのまま胸を揉みしだかれ、美花は抵抗しようともがいた。
 しかし、美咲はそれを許さず無理やり美花を押さえつけ力を込める。
 水飛沫が散り、美花の口に湯が入る。
「お姉さま……やめ……」
 揉み合う間に美花は頭まで湯に沈み、口から気泡が漏れ、足をばたつかせた。
 中の騒ぎを聴いて目を丸くした瑶子が窓から顔を出した。
「どうなさいましたか?」
「いいえ、別に何もないわ」
 美咲はにこやかに答えた。
 その腕にはぐったりと首を垂らした美花が抱かれていた。
「少しじゃれ合っていたら度が過ぎてしまったのよ。美花は湯にのぼせてしまったみたい、運ぶのを手伝って頂戴」
「はい、今すぐそちらに向かいます」
 瑶子が窓から姿を消すと、美咲は美花の頭を愛しそうに撫でて微笑んだ。

《4》

 暖かな温もり。
 人肌の温かさだった。
 美花が目を覚ますと目の前には美咲の顔。
「お姉さま……」
「目が覚めたようね」
 美花の頭を撫でながら、美咲は膝枕をしていた。
 ここは美咲の部屋。
 とても質素な雰囲気で、家具は最低限必要な物だけ。
 鏡台に映る二人の姉妹の姿は、母と子の様でもあった。
 愛しい顔をしながら妹の髪を撫でる姉。
 膝枕で安らかに心を落ち着かせる妹。
 しかし、美花はふと恐怖に駆られてしまった。
 意識を失う前の出来事。
 浴槽に強い力で沈められ、もがけばもがく程に口に浸入して来る水。咳をすればさらに苦しくなった。
 美花は躰を強張らせた。
 だが、そんな美花を見守る美咲の瞳。とても和やかな瞳だった。
「ごめんなさい美花」
「どうして謝るのですのか?」
「妹への接し方がわからないの。とても嬉しい出来事なのに、その気持ちをどうやって表していいかわからなくて、だから風呂場ではあんなことになってしまって、決して貴女を傷つけるつもりはなかったのよ、愛しい妹だもの」
「……お姉さま」
 美咲のことを誤解していたのかもしれない。
 はじめの印象はとても恐ろしいものだったが、今はとても温かい。
 ――きっと、姉も接し方のわからない人なのだ。
 生まれた時から、この屋敷で育ち、外との交流もなく、毎日顔を合わせる限られる人々。
 絶対的な主従関係ばかりのある世界。母と子、主と侍女、教師と教え子。同世代の友達など一人もいなかった。
 姉もまた、疎外感を感じていたのかもしれない。
 美花がにこやかな顔をして美咲を見つめた。
「わたしにお姉さまがいると知った時、とても嬉しかったです」
「こんな姉で幻滅したかしら?」
「いいえ、これからも一緒に生きていきたい」
「そう、永久に過ごしましょう……二人で」
 二人は同じ部屋で眠ることにした。
 美咲の部屋に並べて布団を敷き、姉妹揃って床に就く。
 部屋を淡く照らしていた行燈が美咲の息によって吹き消された。
 静かに眼を瞑る双子の姉妹。
 安らかな吐息。
 静かな夜。
 そして、暖かな布団。
 美咲は静かに手を伸ばし、美花の手を握った。
 驚いた顔をして美花が首を横に向けると、美咲が静かな笑みを浮かべていた。
 美花はとても心が温かかった。
 こんなに安心して眠れる日はあっただろうか。これからは姉が傍にいてくれる。心強く、愛しく、これから生きていける。
 もしかしたら、一年か、二年先に死が待っているかもしれない。
 長く生きられてもあと三十年余りの人生。
 砂時計の砂は残り僅かかもしれない。
 それでも姉がすぐ傍にいてくれる。
 精一杯幸せな日々を生きようと美花は心に誓った。
 美花の手が美咲によって強く握られた。
 ――絆。
 その手を強く握り返そうとした瞬間、突然に美咲が覆いかぶさって来た。
「わたしは永久に一緒よ。美花はわたしの身体の中で行き続ける」
 冷たく静かな微笑。
 美咲が背中に隠し持っていた短刀を翳した。
「お姉さま!?」
 寝首を掻こうとした短刀を美花は手で受けた。
 握られた手から滲み出す鮮血。
 激しい痛みは胸まで届いて美花を困惑させた。
 ――信じていたのに!
 臓腑を抉られる程の裏切り。
 憤りよりも悲しみが美花を支配した。
 無我夢中で美花は暴れて足を蹴り上げた。
 腹を押さえてよろめく美咲。
「よくも姉のわたしを蹴ったわね!」
「……だって……どうして……」
「死ね!!」
 般若の形相で眼を剥いた美咲が襲い掛かって来る。
 美花は逃げることしかできなかった。
 血が流れ出す手を押さえ、部屋を飛び出して廊下を必死で駆ける。
 短刀を受け止めた傷は骨まで達していた。とても痛く、躰が芯から震え、涙も零れた。けれど、その涙は痛みよりも悲しみが零れたもの。
 ――お姉さまはわたしを殺そうとしている。
 死ぬことは怖くなかった。姉が傍にいてくれると思ったから。しかし、殺されることは怖い。
 同じ顔をした者に殺戮され、腹を裂かれ肝を喰われる。考えるだけでぞっとする。
 暗い廊下。
 ほとんど何も見えなかった。
 振り返ることもできない。すぐそこまで美咲が迫っているかもしれない。だが、振り向くことは恐怖で出来なかった。
 助けを叫びたかった。
 しかし、叫んだところで誰かが助けてくれるだろうか?
 双子が殺し合うことを知ってるのか、そんなことが行われるのに知らない筈がないかもしれない。
 助けを求めても裏切られたら?
 この屋敷の中には誰も味方がいない。
 美花は今日来たばかり。生まれた時からこの屋敷で育った美咲とは違う。
 広い屋敷と言っても逃げ場はどこにもない。
 逃げ場の限られた閉鎖空間。さらに出入りを封じられた部屋ばかり。
 走れば走るほど鼓動は高まり、血流が激しく全身を駆け巡り、手から流れる血は止まらない。
 廊下の行き止まりに来てしまった。
 振り返るしかなかった。
 意を決して美花は振り返った。しかし、眼は開けられなかった。
 今度は眼を開けられなくなった。一度恐怖で閉じられてしまった眼はなかなか開くことができない。
 視界を閉ざされた分、聴覚が鋭く研ぎ澄まされた。
 空気が流れる音。
 風が戸を揺らす音。
 足音は……聴こえた。
 美花は唾を呑み込んで、静かに目を開けて天井を見た。
 足音は廊下から聴こえたものではなかった。屋根裏から聴こえたのだ。
 この屋敷に棲むモノ。
 何がそこにいる?
 耳をさらに澄ますと、足音が近づいて来るような気がした。おそらく降りて来ている。階段を下りているようだ。
 そして、近づいて来ていた。
 逃げようと思った。けれど、足が動かない。
 広がる闇の先。そこは来た道を戻る廊下。その先には美咲がいるかもしれない。
 確実に何かが近づいて来ている。
 後ろだ、行き止まりの筈の木壁から、その先から下りて来る微かな音が聴こえる。
 微かな物音。
 それが何かわからず、美花は息を潜めて気配を探った。
 静かに開かれた。
 そこは開く筈もない木壁だった。隠し戸になっていたのだ。
 眼が合ってしまった。
 美花は全身を凍らせて死を覚悟した。

 男は瞬時に美花を取り押さえ、口を手で塞ぎ、その首に短剣を付きつけた。
 抵抗する猶予すら与えられないまま、美咲は開いた戸の中に引きずり込まれた。
 男は短剣を付きつけたまま、戸を閉めて木製の鍵を閉めた。
 そのまま美花は階段を登らされた。
 屋根裏に存在していた部屋。
 最低限の家具がここには揃っていた。
 家の者はこの屋根裏の存在を知っているのだろうか?
 知っているならば、とうにこの男は見つかっていただろう。
 男は美花の手足を縛ろうとして、深く傷ついた美花の手に気づいた。
 自ら着ていた長袖のシャツの袖を破り、男は美花の傷口に強く縛り付けた。
 男は美花を縛り付けることをやめたようだった。美花も逃げる様子を見せない。怯え、床に座りじっとしている。
 美花の前に男は胡坐を掻いた。
 若い男だった。年齢はおそらく二十代後半、細身で色は白い。無精髭を触っている。人相はそれほど悪そうな人間には見えなかった。
「声を潜めて話してください。で、その傷はどうしたんですか美咲お嬢様」
「わたしは美咲ではありません。妹の美花です」
「ほう、それは初耳です。でも嘘をついてるとは思えない。見た目は似てるが、受ける印象がぜんぜん違う」
「わたしをどうするおつもりですか?」
「考え中」
 男は短剣を持ったままだ。
「それでわたしを殺すのですか?」
「あなたが俺……私を殺すんであればそうしますがね」
「そんなこと……」
「やっぱりあんた、いや、あなたは美咲じゃないようですね。ここに棲んでる者は皆狂ってる、あなたと俺を除いてね」
 男は短剣をしまって歯を見せて笑った。その笑みはとても人懐っこいものだった。
 少しだけ美花の緊張がほぐれた。
「あなたは誰なのですか?」
「私は、まあなんていうか、人の喜びそうな記事を書いて出版社に売り込みに行く職業ってとこですか。名前を言ってませんでしたっけ、立川克哉[たちばなかつや]って言います。名刺は切らせてるんで、あと煙草も」
 今なら逃げ出そうと思えば逃げられるかもしれない。恐怖で躰が竦むこともない、恐怖がなくなったから逃げる必要がなくなった。
 克哉が隠れ棲んでいるのには理由が必ずある。発言からも伺えるが、ここの住人をよく思っているとは思えない。つまり、ここの住人に見つからないために隠れている。
 美花も同じだった。もう外には出られない。克哉と同じ立場に置かれ、妙な信頼感も生まれはじめていた。
克哉が美花に手を伸ばした。思わずその手を美花は振り払った。まだ完全に打ち解けたわけではない。
すまなそうな顔をして克哉は頭を下げた。
「すまん。いや、傷がどうなったかと思って」
「こちらこそごめんなさい。大丈夫です、血は止まったみたいですから」
「深そうな傷だったが、やっぱりあなたも姉と同じで人間じゃないんですか?」
「わたしは……人間です」
 自信を持って言うことはできなかった。
 傷が治るのが人よりも早い。成長の早さが二倍ならば、治癒する早さも二倍だった。
克哉は再びこの質問をずる。
「で、その傷はどうしたんですか?」
「この傷は……」
 実の姉に殺されたなんて言えなかった。今でも信じられない。でも、たしかに手に傷が残ってしまっている。
 口ごもる不自然さを見逃さない克哉。
「この家の者だったら肉親でも殺しかねない。中でも人殺しを趣味にしてるのが、ここの当主の鬼塚[おにづか]静枝と医者の武内慶子。おっと、静枝はあなたの母親でした」
 美花は何も言い返せなかった。
 さらに克哉は美花の心を揺さぶるような話をする。
「最初は行方不明者とこの屋敷の繋がりを調べて記事にしようと思ったんですが、この屋敷は俺を思っていた以上に恐ろしい。殺すばかりかそれを喰う女たち、角が生えた娘、屍体を平然な顔して料理する奉公人、かたっぽの奉公人は一見して普通に見えるが、探れば何か出てくるかもしれないな。そして、あんたは人喰いの娘だ」
「わたしは……」
「そうだな、あんたも一見して普通だ。けど、美咲にそっくりなその顔、双子だろう。あの娘も狂ってる、この屋敷に迷い込んだ動物や虫を虐待して殺すのが趣味だ。あの調子だったら人間だって殺せるだろう、ただその人間が近くにいないだけ」
 克哉は美花の傷ついた手の手首を握った。
「この傷は誰にやられたんですか?」
「これは……」
「私はあなたが敵か味方か見極めたいんですよ。もう記事を書くどころじゃない、私はここから生きて帰りたいだけです」
「その話をわたしにするということは、わたしを敵だと思ってないということでしょうか?」
「世の中の裏も表も見て来たんでね、少しは人を見る眼があるつもりです」
 本当にこの男を信じていいのか?
 疑えば切がなく、だからと言って信じきれるものでもない。
 この屋敷に来てから目まぐるしく回る世界。
 思い描いた期待は全て裏切られた。
 今、目の前に居る男もいつ裏切るかわからない。
 しかし、美花には行くところがなかった。
 養父母のところにいた頃も、美花は小さな世界の中だけで生きていた。そして、この屋敷の中だけの世界がはじまり、さらに世界は狭まり屋根裏だけとなった。ここを出ればいつ殺されるかわからない。
 誰が敵か味方かわからない疑心暗鬼。
 美咲と出遭えばすぐに殺されるだろう。
 ここにいれば、この男は今すぐに美花を殺す気はなさそうだ。例え裏切られるとしても、今すぐではない。
 美花は静かに口を開いた。
「お姉さまに襲われました」
「理由は?」
「……言えません」
 おそらく動機は生きるため。片割れを殺し肝を喰らう。そうすれば死なずに済む。
 それが本当なのか美花にはわからない。ただ、静枝はそれを信じ、美咲もそれを信じたのだろう。
 美花が語らずとも克哉は勝手に推理をはじめる。
「新参者が現れたことへの嫉妬か、それは違うだろうな。この家は代々双子の姉妹が生まれるらしいですね、奇怪なことだ。そして、どうやら双子の片方は十年もしないうちに亡くなっているらしい。それと関係あるんですか?」
「あなたはどこまで知ってるんですか?」
 この男は何を知っているのか?
 おそらく美花よりも多くの情報を握っている。美花はつい最近まで、本当の家族が生きていることさえ知らされていなかった。死んだと教え込まれていたのだ。
「さあ、それほど知りません。皆さん口はとても堅く、誰もしゃべろうとしない。だから、こうして屋敷に忍び込んだわけですが、どういうわけか外に出られなくなってしまいました」
「ごめんなさい、わたしも何も知りません。今日ここに来たばかりで、ここに来てから知ったことが全てです」
「でも自分のことはわかるでしょう。あなたも人よりも早く歳を取り、人の血を飲んで生きているのでしょう?」
「……はい、でもわたしは何も知らない。何でこんな身体に生まれてしまったのか、何で何でこんなことに……」
 殺し合う運命。
 美花には美咲を殺すことはできなかった。そんな恐ろしいことはできない。けれど、この屋敷の外に出る方法が見つかったとしても、逃げるという選択を選ぶだろうか。
 美咲に襲われた時は咄嗟に逃げてしまったが、もしかしたら数年で死んでしまう美咲を置いて逃げることができるだろうか。
 ――わたしが死ねば姉が長く生きられるかもしれない。
 しかし、死は恐ろしい。
 自分も死にたいわけではない。出来ることならば生きたい。
 突然、何処かで大きな音がした。
 何度も何度も打ち付けるような音。
 それが止んだかと思うと、今度は階段を上る音が聴こえてきた。
 行燈の光に照らされた狂気の顔。
「こんなところに隠し部屋があったなんて、お母様も知らなかったでしょうね」
 姿を現したのは美咲だった。
 その手で光る短刀は血で彩られていた。

《5》

 美咲は深いため息を吐いた。
「きっと菊乃はここの存在を知っていたかもしれないわ。本当に使えない女、必要最低限のことしかしないのだから。あの馬鹿女のせいで、侵入者まで放置だわ」
 美咲は鋭い眼付きで克哉を睨んだ。
 克哉の警戒心は美花と出会った時と比べ物にならないほど強い。
「侵入者は殺しますか?」
「私は殺した覚えがないわ。気づくといつも気配が消えているの。きっと家に棲む何かが処分しているのね、悔しいわ」
「今まで覚えがなくても、機会があれば殺すと解釈しましたが?」
「そうよ!」
 美花が短刀で切りかかる。
 刃が交じり合った。
 克哉が抜いた短剣が美咲の短刀を受けた。
 二人の顔が互いの呼吸が聞こえる距離まで近づいている。
 美咲が不適に笑う。
「本物の男を見るのはこれがはじめて、それもこんな間近で見られるなんて。身体の隅々まで観察してみたいわ」
「それはお断りで」
 克哉は交合う刃ごと美咲を押し飛ばした。
 狂気に駆られているとはいえ、大の大人と少女の力の差は歴然。美咲は大きく飛ばされた反動で、近くにあった本の山に突っ込んだ。
 大量の埃が舞う。
 克哉が咳き込んだ。
 本の山に埋もれたまま美咲は動かない。
 美花は二人から眼を離せないで居た。
 二人が争っている間に逃げる機会はいくらでもあった。けれど、多くの想いが重なって美花が逃げることができない。
 倒れたまま美咲はいっこうに動かない。
 不安と心配で美花は美咲に一歩近づいた。
 まだ美咲は動かない。
 美花はまた一歩だけ近づいた。
 そして、もう一歩、二歩……三歩。
 美花が美咲に手を伸ばそうとした瞬間、その手を克哉が掴んだ。
 驚いた顔をして美花が見ると、克哉は首を横に振って自らが美咲の様子を探ろうと近づいた。
 まったく動かない美咲。
 だが、その手はしっかりと短刀を握り締めていた。
 気づいた克哉が避けようとした時は遅かった。
 短刀は美咲の手を離れて宙を趨った。
 眼を剥く克哉。その腹に刺さった短刀。
「糞ッ、俺としたことが……」
 汗が滲む手で克哉は短剣を握り締め、倒れる美咲に突き刺そうと振り下げようとした。
 美花が叫ぶ。
「殺さないで!」
 未だに姉を庇う妹。
 己を殺そうとする者を庇う心境。
 克哉の手が鈍った。
 その隙を衝いて美咲が動こうとするよりも早く、それは起きた。
 克哉の身体が宙を浮き、突然に後ろへ引っ張られたのだ。
 暗い闇の中に克哉が消えた。
 そして――。
「ギャァァァァァッ!」
 男の断末魔。
 ぐりゃりと肉が潰れる音。
 骨が砕かれる甲高い音。
 歯を鳴らしながら何かを喰らう音。
 何が起きているのかわからない恐怖。
 美花はその場に立ち尽くし、美咲ですら動くことを忘れた。
 暗い闇の向うに潜む者の影。
 微かに見えるその姿は、手足が長く虫のように床を這う影。
 美花の足元に何かが転がって来た。
 恐怖の形相を浮かべ、こちらを見る男の顔――生首。
 闇の向うから糸のような物が飛び、男の生首を絡め取り再び闇の中に引きずり込んでしまった。
「きゃぁぁぁぁぁ!」
 今まで腹の中に溜め込んでいた叫びを喉から出し、美花は周りを省みず逃げ出した。
 もはやあの場所に美咲がいたことすら忘れ、ただひたすらに逃げることだけしか考えられなかった。
 屋根裏を降りる階段。
 美花は足を踏み外し階段を転がった。
 膝を打ち、肩を打ち、腰を打ち、全身を強く打った。
 最後まで転がって階段の下で美花は床に這いつくばった。
 全身が痛かった。
 それでも無理やり立ち上がり、ただ逃げようと必死だった。
 足首が痛い。
 あれだけ転がったのだ、怪我の一つや二つは当たり前だろう。
 おでこに触れると、ねっとりと生暖かい血が手に付いた。頭も打っていたらしい。
 全身が痛い。
 それでも逃げなくてはいけない。
 あの場所で何が起きたのか、闇に潜んでいたモノは何だったのか、そんなことを考える余裕すらない。ただ逃げた。
 片足を引きずりながら美花は暗い暗い廊下をどこまでも逃げた。
 どこに逃げたらいいのか?
 逃げる場所などあるのだろうか?
 道がわからない。
 いったい自分がどこにいるのかすらわからない。
 美花は廊下の突き当たりまで来てしまった。
 足を止めたくはなかったが仕方がない。
 早く別の道を探さなくては。
 美花は来た道を振り向き、ここで急に冷静さが戻ってきた。
 こんな闇の中を自分はどうやって逃げて来たのだろうか?
 闇。
 静寂。
 聴こえるのは荒い呼吸と鼓動の音。
 美花は息を静めようと口を閉じたが、余計に息苦しく鼓動が高鳴る。
 木が軋む音が聴こえたような気がした。
 天井か、廊下か、それとも別の場所からなのか。風か、鼠か、それとも人か。
 美花は辺りを見渡した。
 封じられた部屋。
 赤い札で硬く閉ざされた部屋。
 また音が聴こえた。
 廊下の先だ、誰かが歩いている。
 美花の視線が泳ぐ。
 逃げなくは、逃げなくては、早く逃げなくては……。
 美花の手が赤い札を毟り取った。
 そして、無我夢中で封じられた部屋に飛び込んだのだった。
 戸を閉めて、息を潜める。
 もともと静かな屋敷だったが、この部屋はもっと静かだった。
 畳が異様に冷たい。
 流れる空気も氷のように冷たい。
 棺桶のような場所。その表現がもっとも適切かもしれない。
 この場所では何も生きていない。
 場違いな生者の美花は息を呑んだ。
 なぜ、この部屋は封じられていたのか?
 締め切られた雨戸。そこから屋敷の外に出られるかもしれない。
 屋敷の外に出ても、敷地内から出ることはできない。
 それでも屋敷を出る。そして、敷地内から出る方法も見つけたい。
 雨戸にも赤い札が貼られていた。それも一枚、二枚ではなく、戸の隙間を塞ぐように貼られている。
 その札の一枚に触れようと手を伸ばした時、風が流れた。
 風など流れる筈がないのに、札が次々と揺れる。
 部屋に明かりが差し込んだ。
 急に美花の腕が掴まれた。
 驚いた美花の瞳に映った無表情の少女――菊乃。
 菊乃は何も言わず骨が折れるほどの力で美花を部屋の外に引きずり出した。
 風――いや、唸り声。
 部屋の奥から次々と声が上がった。
 泣き叫ぶ女の声、怒鳴るような男の声。
 菊乃はまったく動じず、戸を閉め赤い札で部屋を封じた。
 そして、廊下に尻をついている美花に視線を向ける。
「封じられた部屋には決して立ち入り――」
 言葉の途中で部屋の中から戸にぶつかったような音を揺れ。何かが戸を突き破ろうとしている。
 二度、三度、大きな音を立てながら戸が激しく揺れた。
 それでも菊乃はまったく動じなかった。
「時が来るまで決して封印を解かないでくださいませ」
「時?」
「中にいるモノが消滅するまで。美花様が開けてしまわれたので、五十年ほどまた封じて置かなければなりません」
「……ごめんなさい」
 中に何が居たのか、なぜ封じて置かなければならないのか、漠然としつつも理由ではない。美花は理解できずとも話を受け入れることができた。
 戸を揺らした音もいつの間にか止んでいた。
 まだ廊下に尻をついていた美花に菊乃が手を貸した。
「夜はご自分のお部屋を出ることをお勧めいたしません。お部屋までご案内いたします」
 出るなと言われても、居たくてこんな場所にいたわけではない。自分の部屋に戻ることも不安だ。
 立ち上がった美花はその場から動くことができなかった。
「部屋には戻りたくありません」
 菊乃は無言で美花を見つめた。美花が何も言わなければ、ずっとその瞳で見つめられていそうだ。
「部屋には戻れません。お姉さまが……お姉さまに会いたくありません」
 菊乃から問うことはないのだろう。必要最低限の質問だけに答え、自ら相手に問うことはしない。菊乃はただじっと美花を見据えている。
 美花の喉の奥に詰まっている言葉。
 言わないのならば問わない。菊乃は歩き出そうとしていた。
「お部屋までご案内いたします」
 行燈で照らされる廊下。
 美花は歩けなかった。
「……お姉さまはわたしを殺そうとしています」
「知っております」
 やはり、そのような大事が屋敷内で行われることを、屋敷の住人たちが知らされてしない筈がなかった。
 美花は強く手を握り締めた。
「わたしはそんなことをしたくないのに。助けてください、助けてくださいお願いします」
「それはできません。わたくしが邪魔をすることは許されておりません。ただし、必要な物があればなんなりとお申し付けください、簡単な武器ならばすぐに調達いたします」
 敵でも味方でもない。かと言って中立と呼ぶのも適切でないように感じる。
 ただ美花は孤独だった。
 顔は無表情なままなのに、菊乃が慌てたように美花に駆け寄った。
 轟々と風が叫ぶ。
 次の瞬間、戸が破壊され黒い風が封印された部屋から飛び出した。
 美花を庇って菊乃が突き飛ばした。
 黒い風が菊乃と衝突した。
 風が叫ぶ。
 菊乃の身体が飛んだ。まるで体重を感じさせない。廊下の闇の中に行燈の光が飲み込まれていく。それは吹き飛ばされたというより、連れ去られたようだった。
 追うべきか、追わざるべきか、美花は重い足を引きずって菊乃の後を追った。
 暗い廊下。
 美花は何かに躓いた。
 廊下に転がるそれを見て、美花は全身を強張らせた。
 それはまるで人間の腕だった。
 美花は恐怖で顔を歪めながら逃げた。
 一心不乱で逃げる美花の足にまた何かがぶつかった。
 見るのが怖かった。
 美花は見て確かめることをせず逃げた。
 しばらくして、前方に明かりが見えてきた。
 行燈が床に落ちている。
 それに近づこうとした美花の足が急に止まる。
 行燈のすぐ近くに転がる何か。
 こちらを見ている。
 菊乃の見開かれた瞳がこちらを見ている。瞬きもせず、ただじっとこちらを見ている。
 ――躰はない。
 美花は急いで来た道を引き返す。
 見間違えだったかもしれない。しかし、近くでそれを確かめることはできなかった。
 あまりにも恐ろしすぎる出来事。
 嗚呼、どこに逃げても同じなのではないか?
 美花の全身から力が抜けた。
 壁に寄りかかり、冷たい廊下に尻を付ける。
 もう立つことはできない。
 一度、床に腰を下ろしてしまったら、もう立ち上がるのは難しい。
 ここで眼を閉じて視界から逃れてしまったら、再び瞳を開けることは難しい。
 しかし、眼を閉じ、今置かれている状況を忘れることができれば。
 眼を開けた時、全てが悪夢だったなら。
 美花は静かに瞳を閉じた。

《6》

 その声がするまで、気配すら感じることができなかった。
「お嬢様、どうかいたしましたか?」
 おそらく、この声は瑶子のもの。
 美花は目を開け、瞳孔を開いて絶句した。
 それはまるで着物に咲いた花のよう。瑶子の前進は血みどろに汚れていた。
 美花は息を呑んだ。
「ど、どうしたの?」
「驚かせてしまって申し訳ありません。気づいたらこんな姿で廊下にひとり立っていたんです。急いで着替えようと思いまして部屋に戻る途中、お嬢様の姿が見えたので……美花お嬢様ですよね?」
「はい、美花です」
「よかった、ちゃんと見分けがつくみたいです」
 にっこりと瑶子は笑った。
 こんな状況でよくそんな笑顔ができるものだ。瑶子は美花の身に起こったことを知らない。それを差し引いても、血で汚れた着物を自身が着ていて、恐怖に駆られたりしていないのだろうか?
 美花は恐る恐る尋ねる。
「その血に検討はないのですか?」
「さあ、何の血なんでしょう。よくあるんです、こんなこと」
 恐ろしいことを平気な顔をしてさらりと言った。
 美花はぞっとせずにはいられない。
 この屋敷の中で唯一親近感があった瑶子。だが、やはりこの娘も屋敷の住人。
「着物に血がついているのに、屋敷の誰も怪我をしてないんですよ。家畜を含めて誰も血を流す怪我なんかしていないのに、こうやって着物に血がついてるんですよ、不思議ですよね」
 それはいったい何の血なのか?
 屋敷のモノの血ではない。屋敷に他人がいるのか、それとも血ではないのかもしれない。
 現実を逃避して、これが悪夢であればどんなに心が安らぐことだろうか。
 嗚呼、この生臭い香り。
 瑶子が美花に差し伸べた手は赤く汚れていた。その手を取らずに美花は立ち上がった。
 疑心暗鬼に駆られる美花の心。
 目の前にいる瑶子を信じていいものか。
 血だらけの女。いたいけな笑顔。心の奥まで見ることは叶わない。
 いつ裏切られるのか。
 信じたい。
 何かを信じたい。
 屈託のない笑みを浮かべる瑶子。
「お部屋までご案内しますね」
 そこが帰るべき場所とは思えず、美花は首を大きく横に振った。
「部屋には帰りません。屋敷の外に案内してもらえないでしょうか?」
「こんな夜更けに屋敷の外へ?」
「この屋敷にわたしの居場所はありませんから。姉に殺されるのも殺すのも嫌。もう決めました逃げると」
 なぜか瑶子は絶句した。なぜなら瑶子は知らされていなかったからだ。
「美咲さまに殺される? そんな物騒なこと……いったい何が?」
 驚きに驚きで返す美花。
「聞かされていないの? わたしたちが殺し合わなければならないこと……」
「殺し合う? どうしてですか、血の繋がった姉妹なのに、どうしてそんなことをしなければいけないんですか!?」
「わたしだってわからない。けれど姉はわたしを殺そうとしたの、それは起きてしまった事実、変えられない事実なの」
 美花の躰に起こっている老化現象は事実。片割れの肝を喰らえば、それが止まるというのは不確定。美咲が美花を殺そうとしたことは事実。
 殺すか殺されるか、それだけが選択肢ではない。美花は逃げることを選んだ。ただし、その選択が成就されるとは限らない。
 今のままでは決して成就されることはない。もっとも大きな問題は屋敷と外の世界の境界線を越えられないこと。境界線そのものに何か≠ェあるというより、あの感覚は引っ張り戻される感じだった。
 瑶子は美花を屋敷の外に連れ出してくれた。玄関を通らずに渡り廊下から外に出た。
 履き物を履く余裕はなく、素足だったが、それでも構わない。いつどこから美咲が、それとも別の何か≠ェ現れるともしれなかった。
 巨大な屋敷を出て、庭先で瑶子の足が止まる。
「あたしはこれ以上進めません」
 垣根はすぐそこだった。
「ありがとう」
 と、美花は静かに言った。
 瑶子に背を向けて走り出そうとした美花。その背中に声をかける少女。
「どこへ行くの美花、わたしを置いて?」
 ぞっとして振り返ると、そこには美咲が佇んでいた。
 なぜか哀しい表情をしている美咲。
「どうしてわたしを置いていこうとするの?」
「わたしを殺そうとしているお姉様がどうしてそんなことを言うのですか?」
 美咲が美花を殺そうとしなければ、逃げる理由などどこにもないのに、なぜそんなことを言われるのかわからなかった。
 最初から逃げようと思っていたわけではない。残される姉のことを考え、躊躇っていたときもあった。けれど、姉が自分を殺そうとする現実を前に、逃げずにはいらないところまで追い詰められたのだ。
 ――追い詰めたのは貴女なのに。
「わたしを置いていくの?」
 美咲は言葉を繰り返した。
 虚ろげな哀しみ。姉のそんな表情に美花とまどった。それは人を殺そうとする者の表情なのか。
 しかし、虚ろなまま美咲はこう呟いた。
「……許さないから」
 その声はどこまでも響き、美花の胸に突き刺さった。
 短刀を握り直す美咲。
「逃がさないわよ、貴女だけ運命から逃れようとするなんて、わたしは絶対に許さない!」
 狂気に染まった美咲は美花に飛びかかろうとする。その前に立ちはだかった瑶子。
「駄目です、こんなこと!」
「退きなさい!」
「きゃっ!」
 美咲には瑶子を押し飛ばし美花を追い詰める。
 もう逃げる道以外ない。美花は全速力で走り垣根に手を伸ばした――刹那。
 体中を締め付ける糸。
 夜の闇に光る銀色の糸が美花の眼にもしっかりと見えた。
 糸は網の目のように、いや、逃げ場のない蜘蛛の巣のように、至る所に張り巡らされていた。
 一心不乱で糸を振り払いながら美花は逃げようとした。
 だが、糸は幾重にも美花の躰に巻き付き、決しては逃がそうとはしない。
 次から次へと飛んで来る糸。その糸の先にいる少女を美花は見てしまった。
 嗚呼、何かに憑かれたように白目を剥き、糸を口から吐き出す瑶子の姿。
 どうして、どうして、先ほどまで逃がそうとしてくれていたのに、どうして?
 すべては嘘だったのか、また裏切られてしまったのか、美花は為す術もなく垣根から引き離された。
 地面に這い蹲る美花を冷たく美咲は見下した。
「きゃはははは、この屋敷からは誰も逃げられないのよ。でも、やっと逃げ出す方法がわかったわ。まずはあなたを殺して、次にあの怪物も殺してくれる!」
 鋭い美咲の視線が瑶子に向けられた。
 獣というより、それはもはや蜘蛛のような格好で、瑶子は地面を這いながら闇の中へと逃げてしまった。
 月明かりに翳る美咲の邪悪な顔。
 短刀の切っ先が仄めく。
 美花は小石を砂ごと握って投げつけた。
 美咲が顔を伏せる。その手は額に当てられている。
 ゆっくりと退けられた美咲の手には、べっとりと血がついていた。そして、眉尻の辺りから流れる鮮血。
 冷たい風が流れた。
「よくも、よくもやってくれたわね!」
 美咲が美花にのし掛かり馬乗りになった。
 髪を振り乱しながら絡み合いもつれ合う双子の姉妹。
 姉が上になり、妹が上になり、地面を幾重にも転がった。
 いつしか星空は曇天に覆われ、夜更けだというのに空は赤黒く染まり、稲光が轟々と奔った。
 泥だらけになりながら姉妹は必死の攻防を続けた。
 上になったのはどちらか?
 短刀が振り上げられた。それを持つ少女の顔に傷はない。
 下になっている少女が嗤った。
「やりなさいよ、あなたにできるものならね!」
 できなかった。
 美花は短刀を遠くへ投げ飛ばした。そしてうなだれた。
「こんなことしたくないのに……なんで」
「なんでなんて愚問よ、生きるためだわ」
「生きるために殺し合うなんて間違ってる」
「それは人間の理屈ね。ほかの動物は生き残るためなら家族も喰うわ」
「だからって……本当に相手を喰らえば老化が止まって生きられるとは限らない」
「そうね、すべて嘘かもしれないわ。でも、この屋敷にいればどんなことだってありえる。死んでから本当だったと気づいても遅いのよ、だから……わたしはあなたを殺す!」
 下になっていた美咲が手を伸ばし、か細い美花の首を強く絞めた。
 声も出せないほどに絞まる首。
 ふつりと切れる理性の糸。
 恐ろしい鬼女の形相をしているのは美花。
 美花は美咲の首を絞め返し、そのまま何度も何度も美咲の後頭部を地面に打ち付けた。
 人形のように揺れる美咲の躰。
 もう美咲の手は美花の首から離され、泥水に浸かっている。それでも美花は美咲の首を絞め続け、頭を地面に打ち続けた。
 土砂降りの雨、泣き叫ぶ雷光、美花の叫び声も涙もすべて呑まれた。
 美花の腕が何者かによって強く掴まれた。
「なんてことを……」
 悲痛な声を漏らしたのは静枝だった。
 稲光に照らされた母の顔を見た美花は我に返り、頭から血を流す美咲の姿を見て絶叫した。
「いやぁぁぁぁぁっ!」
 そして、美花は気を失って泥の中に身を沈めた。

 目を覚まさない二人の姉妹。同じ寝室で隣り合わせに寝かされている。
 姉の美咲は頭に重傷を負いながらも、それは呪われた一族の力なのか、どうにか一命を取り留めた。しかし、まだ目を覚まさない。
 頭から血を流し動かなくなった姉の姿を見て絶叫し、そのまま気を失ってしまった美花も、それからいっこうに目を覚ます気配を見せなかった。
 部屋に差し込む優しい陽の光。
 寝かされている二人の姉妹を見守っていたのは瑶子だった。
 すでに姉妹が目を覚まさないまま数日の時が流れている。その間、瑶子は二人の世話をした。躰を濡れ布で拭き、着物は毎日着替えさせた。髪も時間さえあれば櫛で梳かしていた。
 姉妹はとても安らかな顔をしている。殺し合っていたとは思えないその表情。
 二人が目を覚ました時、それはただの悪夢だったと思えればいいのに。
「またあとで来ますね」
 にっこりと微笑みながら瑶子は会釈して、静かに部屋を後にして行った。
 それと入れ替わるように静枝が部屋に入ってきた。
 静枝はまず美咲の傍らに膝をついた。
「愛しい美咲、早く目を覚ますのよ」
 艶やかな髪を優しく撫で、麗しい瞳で愛娘を見つめた。
 だが、その目はすぐに狂気を彩った。その視線の先に寝ているのは美花。
「すべてお前のせいよ、どうして潔く死ななかったの。お前が死ねば美咲は生きられる、死ぬのよ、お前が死ぬのよ!」
 静枝は隠し持っていた短刀を握り、美花の首を切ろうとした時――。
 背中が急に熱くなり、全身に痛みが走った。
 眼を剥きながら振り返った静枝が見た者は、包丁を持った菊乃の姿。
 菊乃と静枝の躰が重なり合った。
 包丁は再び肉を貫いた。
 無表情な顔をして菊乃は何度も何度も静枝の腹を刺した。内臓はずたずたに傷つき、腹からは腸が飛び出している。
 それでも静枝は死せることなく菊乃につかみかかった。いや、もたれかかったというべきか。
「どうして……わたくしは鬼頭家の当主……なぜ……?」
「貴女様は双子を産み落としたその日から、すでに当主ではございません」
「そんな……やっと死ねる……ありがとう……ぐあっ」
 首を捌かれ口から血の泡を吐いて絶命する静枝。
 なぜ静枝は最期に礼を口にしたのか?
 力なく転がる静枝の骸。
 一つの生が失われ、双子の姉妹の瞼が微かに動いた。
 虚ろな瞳。
 魂を悪夢の中に置いてきてしまった。
 上体を起こして互いの顔を見合わせる姉妹。そこに感情はなかった。
 ただ互いの顔を見つめたまま動かない。視線の先にいるのが双子の姉妹だということ理解しているのだろうか?
 菊乃は感情のない顔で二人の姉妹に会釈をした。
「おはようございます、美咲様、美花様」
 無表情の少女たち。傍らに転がる無惨な死骸。

 その日の夕食――。
 食事を調理したのは菊乃だった。
 食卓に料理を運びながら瑶子が尋ねる。
「今日はめずらしく豪勢ですね。肉料理がこんなにいっぱい」
 顔を向けられて尋ねられた菊乃は何も答えなかった。
 それでも瑶子はしゃべり続けた。
「ところで奥様の姿が見あたらないんですけど?」
「この屋敷で人が一人二人いなくなって不思議ではございません」
 菊乃はにべもなくそう答えた。
 食卓で虚ろな表情をする二人の姉妹。
 美咲は頭を打った後遺症で重度の痴呆となり、美花は精神的な衝撃から精神を崩壊させた。
 二人が殺し合うことはもうないだろう。
 瑶子が肉を箸で摘み美花の口へ運ぶ。
「いっぱい食べて早く元気になってくださいね」
 肉を租借する。
 他の命を喰らい生き延びる。それはごく自然なこと。

 二人の姉妹は虚ろなまま、それから数年の時が流れた。
 数え年で十歳、それからまた一年、さらに一年。
 姉妹は現実を忘れたまま生き続けた。
 十歳になっても死ぬことはなく、呪いが嘘か誠か知る術はなかった。
 ただ姉妹は生き続けているという現実。
 そして、急速な老化も止まり、緩やかな成長をしているという現実。
 姉妹の平穏はいつまで続くのだろうか……?

 双生児(完)



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