第7話 隠された物語

《1》

 それは運命の糸を断ち切る瞬間。
 永遠と無限の狭間で、一筋の糸が煌めく。
 この世界にもしもは存在していない。
 失敗は許されない。やり直しなどできない。それが自然の摂理。
 静けさが怖ろしさを孕む夜更け。
 当主間には女がいた。
 鎖で手足を縛られ、車椅子に拘束され、自らは動くことのできない女当主。
 自由を奪われて、なにが当主だろうか?
 いや、手足が自由になろうとも、彼女に自由などなかった。
 この屋敷は鳥かご。
 手足の自由を奪われるくらい、なんのこともない。真の苦痛は魂の自由を奪われることだ。
 当主となった静枝はこの屋敷で生まれ育った。
 双子の片割れとして生まれ、三歳のとき、妹の静香がこの屋敷を出た。
 静枝はこの屋敷に残された。
 七歳になり、静香は屋敷に帰ってきたが、すぐにまた静枝ひとりが残される。
 この屋敷に残されるのは、いつも静枝だった。
 そのおよそ一年後、屋敷の敷地の外れにある祠で、静枝は双子を出産した。
 出産後から静枝は目立って変わりはじめた。出産のときになにかあったのか、それともそのあとになにかあったのか。娘たちには狂気を逸していると思われている。それゆえの拘束である。しかし、拘束を命じたのは静枝本人。
 静かに閉じられていた眼をカッと開く。
 天井からの物音。押し入れが開き、男が中から現れた。天井の住人――克哉。
 彼は数日前からこの屋敷の屋根裏に潜伏していた。この当主の間に入ったのは今日がはじめて。覗き見はしていた。
 顔を合わせた二人。克哉は柔和な笑みを浮かべ、静枝は硬い表情。
 娘たちが静枝のこの顔を見たら驚くだろう。見せたことのない真剣な眼差しだったからだ。普段の彼女の眼はいつも血走っていた。
 しかし、今は違う。
 先に口を開いたのは女当主。
「老けたようですわね」
「十年以上も経てばな、そのころ俺はまだ高校生だ」
 思い耽ったように遠い目をした静枝は、少し頬を赤らめたが、すぐに哀しげにうつむいた。
「わたくしはまだ十五歳、魄[パク]は二二歳かしら」
 静枝は齢十五。しかしその見た目は二十と少しくらいだ。
 顔を上げた静枝は克哉を見ているようで見ていない。
「どちらにせよ貴方は遠い。やっとあのころの貴方の年齢に辿り着けた……あっという間、しかしとても苦しく長かった月日」
 二人は以前から知り合いだったのか?
 いや、静枝≠ヘこの屋敷から一歩も出たことないはずだ。少なくともこの屋敷で静枝≠ニ名乗っていた者は。
 あのときのように、歴史は繰り返されている。三つのお祝いに、双子の片割れは外の世界に出され、七つのお祝いに屋敷に帰ってくる。そして、代々この一族は双子で殺し合ってきた。
「明日、美花が帰ってくるわ」
「あの子は元気に育ったよ」
「それはよかった……本当によかった……あの子は一族の希望ですもの」
 静枝の瞳から一筋の煌めきが零れた。
 あの子とは美花のことだろうか?
 克哉も美花のことを知っているのだろうか?
 一族の希望とは?
 鬼塚家は女児しか産まれない。それも必ず双子である。
 双子は心身共に通常の二倍で年を取る。それが呪いといわれている。これは単純な遺伝子の異常ではない。なぜなら双子で殺し合ったのちに――通常の歳の取り方になるからだ。
 静枝は嗚咽を漏らしながらむせび泣いていた。娘たちには決して見せたことのない姿。
「わたしにとって孤独な闘いだった……だれにも話せず……だれからも話を聞けず、信じた夜道を進み続けることしかできなかった」
「静……静枝は決して孤独じゃなかったよ。直接のやり取りはできなかったが、菊乃が繋いでくれていた。君からの言葉ではなく、菊乃が見聞きした情報を一方的に聞くだけだから、どうしても足らない部分はあっただろう。けど、彼女は君の想いを汲んでいてくれたと思う。君は本当によくやってくれたよ」
「ええ、わたし……私はどんなモノになろうと、自分を偽ってでも、やらなくてはならないことがまだあるわ」
 眼が紅く輝いた。
「私は愛する者たちのためなら、鬼でも邪でも、なんだってなりましょう」
 それはヒトの眼ではない。
「俺だって後戻りはできない。こうやって俺は姿を見せて、君と話したこともすぐに気づかれるだろう」
 克哉の視線は辺りを見回していた。
 これまで静枝と克哉は直接的なやり取りをしていなかった。二人の間には口伝だけでなく、
手紙でのやり取りもなかった。二人の間には菊乃が入っていたが、菊乃は静枝からなにも聞か
されていない。この屋敷から出られない静枝は監視されていると感じていたからだ。
 逆に菊乃が静枝に情報を伝えることもなかった。菊乃の役割は客観的に見聞きした情報を克哉に伝えること。そして、克哉の情報をもとに菊乃は独断で動く。
 菊乃という存在は、重要な存在でありながら、ある意味蚊帳の外にいる存在。
 屋敷の呪い、一族の呪い、菊乃はどちらの呪いにもかかっていない。
 静枝も克哉も口にはしないが、なんらかの力を感じていた。その外に菊乃はいるのだ。
 地響きがした。
 下から突き上げるような揺れだ。
 それはこの屋敷のみを襲う奇っ怪な地震であった。
 これがなんらかの力だろうか?
 部屋の隅で影が動いた。この場には完全に気配を消していた者がいた。菊乃だ。
「そろそろお時間でございます」
 夜は更けている。夜の住人以外は深く寝静まっている刻。
 静枝は恐ろしく冷たい表情をした。
「どうにか間に合ってよかったわ。残す封印の間はただ一つ」
「俺も手伝うよ」
 そう言われた瞬間、静枝の表情が柔和になった。
「あのころが懐かしく思える」
 静枝の瞼の裏には学生服の後ろ姿。
 克哉が部屋を出て行く。
 そのあとを静枝が菊乃に車椅子を押され追った。

 この屋敷には開かずの間がいくつもあった。
 時折、その部屋の中から殺気を感じ、激しい物音がすることもよくあった。
 この屋敷にはなにかいる。ヒトではないなにかだ。この屋敷の住人であれば、皆気づいているが、それがなんであるか知る者は限られている。
 屋敷は静かだった。これまで通り過ぎた部屋には、封印の護符が張られていなかった。静枝は言っていた――残す封印の間はただ一つ、と。
 開かずの間がいくつもあったのは、過去のことだった。
 最後に残された場所は、地上ではなかった。
 この屋敷を支える根だ。
 湿気が肌にまとわりつく、薄暗い地下であった。
 屋敷の地下、そこの地にひとが足を踏み入れたのは、何百年ぶりだろうか。
 光のなかったこの場所に、菊乃が薪を各所に置いて火を点けていく。火を結ぶと六芒星になっている。部屋の明かりだけでなく、呪術的な意味もあるのだ。
 地鳴りがして、空気が恐怖するように震えた。
「久しぶりだなァ、カツヤ」
 男の声が響いた。酷く嗄れた声だったが、芯は強く狂気を孕んでいる。
「俺はあんたのことを知らない」
「ここ数日か、おまえのことを感じてたぞ。カツヤ、カツヤ、カツヤーッ!」
 獣――それ以上、此の世の者とは思えない咆哮。
 その者は鎖に繋がれていた。金属ではない紙で編まれた鎖だ。弱い紙でありながら、それはこの怪物を捕らえ続けていた。
 元はヒトであった。今は骨と皮だけになり、土気色をした木乃伊のような存在。肉体からは力を感じられない。しかし、眼や内からは、凄まじい鬼気を放っているのだ。
 怒り、憎しみ、孤独。
 幾星霜の月日の内にその者が内包する力は強くなっていた。
 今までここに封じられていたのも奇跡に近かった。
 切っ掛け――切っ掛けさえあれば、封印は解かれる。
 その切っ掛けこそが克哉≠セったのだ。
 呪文の書かれた紙の鎖が黒い炎に焼かれる。
 思わず克哉は後退りをした。
「肌が焼かれそうな鬼気だ。こんな凄まじい妖力を浴びたのははじめてだぞ」
「あのころの私とは違いますわ。克哉さんは下がっていらして」
 車椅子が押されて静枝が前に出た。けれどその身体は拘束されてまま、自由を奪われている。
 地面がひび割れた。
 封印が解かれ、骨と皮だった躰が、筋肉質に隆々と盛り上がっていく。その者は片手でヒトの首をへし折るだろう。その牙はひと噛みで虎を仕留めるだろう。その眼は見つめられただけで、気の弱い者は死に至るだろう。
 かつてその者は賊の頭領であったが、今や鬼人。
 ヒトが鬼と化した姿。
「おれがなにをした? カツヤ、おまえにはよくしてやっただろう。なのに、この仕打ちはなんだ?」
「だから俺は知らん。知らんが、退魔師としての仕事はいつも通りする。あんたが何者でもそれは変わらない」
 克哉は短剣を握った。呪文の刻まれた魔導具だ。
 魔力、妖力、巫力、呼び名はいろいろとあるが、それらは精神と精神の勝負に用いる。つまり相手が物理的な存在ではない場合に直接的な攻撃を与えることのできる力だ。
 目の前にいる鬼人は、妖力と腕力を備えた存在だった。すでに克哉は敵の妖力に当てられてしまっている。たとえ克哉が妖力で優っていたとしても、筋骨隆々の巨人相手では肉体的に歯が立たない。
 正攻法では克哉に勝ち目はないのだ。
 克哉は地面を蹴って相手に飛び込んで行った。
 武器は短剣。攻撃距離が短く、それだけ危険に晒されることになる。
 だが、それは囮だった。
 隠し持っていたなにかを克哉が投げた。それは拳に収まるほどの物だったが、一瞬のして鬼人を被う蜘蛛の巣と化した。黒い網縄だ。
 網の中で藻掻く鬼人。
 その機会を見逃さず克哉は短剣を握り直した。しかし、ぞっと寒気がして後ろに飛び退いたのだ。
 鬼人の爪が空を掻いた。間一髪で克哉は本能的に躱したのだ。
 網縄を破って鬼人の太い腕が出ている。
 克哉は眼を剥いた。
「ご先祖様の髪で編んだ縄だぞ、なんて妖力だ!」
 網縄を引き裂いた鬼人はすぐそこまで迫っている。逃げなくては殺される。一撃でも鬼人の攻撃を受ければ、躰が引き裂かれるのは必定。
 世界が軋むような悲鳴があがった。
 静かな瞳をした菊乃の手には錠。
 ぽつんと残された車椅子。
 天井に巨大な影が張り付いている!
 八本の長い脚。
 まるでそれは……しかし、そこにある顔は女。
 いつの間にか克哉の横に立っていた菊乃が囁く。
「どうか、目をつぶっていてください」
 その声には愁[うれ]いが含まれていた。
 克哉は静かに瞳を閉じた。それが危険な行為なことはわかっていた。だが、静枝の願いだ。
 すぐに聞こえてきたのは猛獣の悲鳴。
 骨の折れる音が聞こえた。
 克哉は汗ばむ拳を強く握り、瞼が痙攣するほど目を強く閉じた。
 ばり……ぐしゃ……がり……
 やがて聞こえてきたのは咀嚼音。
 地下室に腐臭が漂った。
 微かにすすり泣く声が聞こえた。若い女の声だった。物悲しい声だった。
 克哉は胸を締めつけられながら瞳を閉じ続けた。

 その少女は屋敷の敷地内の中にいた。
 しかし、もっとも懐かれているのは瑶子だが、その一日の行動の大半は知られていない。
 まるで風のような少女だった。
 その少女は突然この屋敷に現れた。瑶子に話によれば、あの鳥居の傍で見つけたのだという。素性は不明だが、名はるりあというらしい。
 夜が深くなりはじめると、るりあは姿を消す。決して屋敷には近づかない。いったいどこを寝床にしているのか?
 広大な庭の片隅に鳥居がある。その先には祠があった。ずいぶんと昔からある祠だ。
 昼間でも中は暗い。夜ともならばなおさら。洋燈などがなければ、奥まで辿り着くことはできないだろう。
 克哉と静枝が当主の間で会うよりも数時間前、るりあは寝床である祠に帰ってきていた。
 少女は明かりを持たず、その眼だけを頼りに奥へと歩いて行く。ヒトには見えない祠の中が見えているのだ。
 最奥に辿り着いたるりあは近くにあった小石を拾い上げた。
「だれだ?」
 警戒した声音だ。
 静かな暗闇だった。
 ヒトの目ではその暗闇の中になにがあろうと見えない。
 ふっと気配がした。
「警戒しないで、私はあなたに嫌なことはしない。名前は……私には名前がないの。存在のしてないモノには名前なんてないでしょう?」
 少女の声だった。一見して柔らかい花咲く春のような声だが、芯はしっかりとしている。
 るりあはなにかを握った。それは少女が差し出した手だ。
 小さな手だが、るりあよりも大きい。
 るりあはその手に鼻を近づけ、よく匂いを嗅いだ。
「あいつの匂いがする」
「あいつ?」
「上に棲んでる男だ」
「うふふ、鼻がいいのね。あのひととはいっしょに住んでいたから」
 まだるりあは嗅ぎ続けている。そして時折、不思議そうに首を傾げるのだ。
 そっと少女の手が引かれた。
「ほかに行くところがないの。いいでしょう? 今日はここに泊めて。ううん、もしかしたらしばらくここにいることになるかも」
 るりあは頷いた。
 この屋敷では瑶子にしか懐いていないのに、この者には心を許したのだ。

《2》

 今日は七歳になった美花が屋敷に帰ってくる日だ。
叔父の家に預けられていた――とされている。
屋敷の正門に姿を見せたのは、美花ただひとりだった。少女がひとり歩いて来られる場所ではない。
美花を出迎えたのはたったひとり。菊乃のみ。
「お久しぶりでございます。お疲れかと思いますが、静枝様がお待ちしております」
「はい、もうへとへとです。麓[ふもと]の里までは叔父様に送っていただいたのですが、この山道は歩いてきたので」
すでに菊乃は先を歩いていた。慌てて美花はあとを追う。
「あの、待ってください」
「…………」
「お母さまやお姉さまは元気ですか?」
「会えばわかります」
「そうだ、瑶子さんは?」
「彼女はなにも変わっておりません」
庭は広く屋敷までの道のりは長い。
だんだんと菊乃と美花に距離が出はじめた。菊乃の歩調は変わっていない。美花の足取りが重くなっているのだ。
「菊乃さん……屋敷の雰囲気が変わりましたよね?」
「さあ、わたくしにはわかりかねます」
静かに、気配を殺したように、屋敷はただそこに佇んでいる。
母も、双子の姉も、まだその姿を現さない。
屋敷はまるで死んでいるようだ。
それは屋敷の中に入ってからもそうだった。異様に静かなのだ。
モノどもはただ息を潜めているだけなのか、それとも……?
そんな静寂を破る騒がしい足音。廊下を駆ける幼い足音だ。床はとても音を響かせる。
姿を現したのはるりあだった。
突然の幼女を美花は躱すことができず、ぶつかると思った瞬間、るりあが急に足を止めたのだ。そして、そのまま逆方向に向かって駆け出した。
少女の慌てた悲鳴がした。
「きゃっ」
るりあを追ってきた瑶子の声だった。
瑶子は菊乃といっしょにいる見覚えのある顔に気づいたようだ。
「あっ、美咲さまごめんなさい。るりあちゃん待ってぇ〜っ!」
深く頭を下げて瑶子は姿を消してしまった。美花と美咲を間違えたのだ。
再び歩き出す菊乃。向かう先は当主の間。
「失礼いたします。美花様をお連れいたしました」
と、菊乃が先に入り、続いて美花も部屋に足を踏み入れた。
息のを飲む音が聞こえた。
この部屋には鬼気が渦巻いていた。
すでに部屋にいたのは静枝。
そして、美咲。
美咲は冷たい眼差しを美花に送った。口元は笑みを浮かべている。
「お帰りなさい美花」
「はい、ただいま帰りました。お母さま、お姉さま、お久しぶりです」
正座をして頭を下げた美花を見下ろしている静枝。彼女は高い位置にした。
何重ものベルト、そして鎖によって拘束され、車椅子に乗せられている。その片眼には真新しい眼帯。静枝は焦点の合っていない目で天を仰ぎ、頭をゆらゆらと揺らしていた。
「会いたかったわ美花。私の可愛い可愛い娘。そう、食べてしまいたいくらい愛する娘だわ。さあ、もっとこちらへいらっしゃい美花、美花、美花」
美花はひざを浮かせて前へ出た。
「もっとこちらへ」
さらに美花は促され近づく。
「手を貸して頂戴、私は美花に触りたくても、このような状態ではなにもできないわ。さあ、手を伸ばして、私の頬に触れてみて」
言われるまま美花は手を伸ばし、静枝の頬に触れた。
痩せこけた頬。肌は酷く荒れ、体温はほとんど感じられない。まるで死に向かっているような顔。
「傷にも触れてちょうだい」
顔半分を被う火傷の痕。美花は指先でその痕に触れた。
「あ……」
と、喘ぐような声を漏らした静枝。
「そう、そのまま……眼帯にも触れてくれるかしら」
美花の手は震えていた。その指先でそっと眼帯に触れた。
瞬間、静枝がもう片方の眼を剥いた。
「この眼はくれてやったわ。代わりに私は心の臓を喰らってやった。きゃははははは!」
狂気。
口を大きく笑う静枝に驚いてか、美花は全身を震わせて腰を抜かし後ろに下がった。
そのようすを見て美咲は不気味にほくそ笑んでいる。
静枝は頭をゆらゆらさせながら天を仰ぐ。
「さあ、戯れはおしまいよ。なぜ美花が本家に戻されたか、理由は言わなくてもわかっているわよね。そう、生き残ることができるのは片割れのみ。殺し合いなさい、そして相手の肝を喰らうのよ!」
合図は突然だった。
美咲が隠し持っていた短刀を抜いて、美花に襲い掛かったのだ。
肌を刺す殺気。
「死ねーっ!」
鬼の形相をする美咲を前に美花はたじろいだ。
「なにをお姉さま!」
短刀は美花の腕を掠めた。
傷が浅かったのか血は出なかった。
刹那、美花は憎悪に満ちた瞳をした。が、すぐに瞳を潤ませ怯えた表情になった。
時を同じく、静枝は冷静な眼光を光らせていた。だが、こちらもすぐに眼を泳がせ宙を仰ぐ。
刃を再び向けられた美花は、背を向けて逃げ出した。
目頭目尻が切れるほど眼を剥いて静枝が叫ぶ。
「追うのよ、すぐに追って殺しなさい!」
無言で美咲は美花のあとを追った。
当主の間に木霊する嗤い声。
女の嗤い声は屋敷中に響き渡ったのだった。

夕暮れの中、息を切らせながら美花は屋敷の外まで逃げてきた。
屋敷の敷地を囲う柵は高いが、足をかけて登れないこともないだろう。
美花は柵の竹に足をかけた。
ぼきっ。
弱くなっていた竹が折れ、片足が吸いこまれるように落ち、そのまま美花は状態を崩して転んでしまった。
ぎょっと美花は眼を剥いた。
躰が引きずられる。
砂塵を巻き上げながら美花の躰が、足を引っ張られるように胴を引きずられる。
すぐに止まったが、柵は遠ざかった。
「はぁ……はぁ……」
息を肩で切りながら立ち上がろうと地面に両手をつき、顔を上げた先に――美咲が迫っていた。
すぐに逃げようとした美花に声がかかる。
「待って、美花を傷つけるつもりなんてなかったの。演技のつもりが手元が狂ってしまっただけなの、許してちょうだい!」
美咲は追うことをやめて足を止めている。距離を保っているのだ。
それを確認した美花は足を止め、いつでも逃げ出せるように、背を向けたまま顔だけを美咲に向けた。
「どういうことですか?」
「お母様は狂ってるわ。姉妹で殺し合うなんて馬鹿げてる。あんなの迷信だわ、私は信じていない。美花は私にとって、ただひとりの妹なのよ」
「お姉さま……」
心に深く感じたように呟いた。
自然と二人の距離は縮まっていた。向かい合う双子は瓜二つ。
美咲は鞘に収まっている短刀を差し出す。
「美花が持っていて。私が美花に危害を加えなくても、もしかしたらお母様が……」
「まさかお母さまが……そんな」
「自分の娘たちに殺し合いをさせるような外道よ、やりかねないわ。だったらこちらからやるしかない。そうよ、お母様を殺すのよ!」
美咲の眼は血走っていた。
動揺した素振りを見せる美花。
「そんなこと……そんなこと……できません」
「二人ならできるわ。……まあいいわ、考えておいて頂戴。お母様が痺れを切らす前に」
短刀を手渡すと、美咲が足早に去っていく。
姉妹が殺し合いをせずにいっしょにいるところを見られるのは不都合だ。
しかし、すでに見られていた。
屋敷の屋根のあたりでなにかが微かに輝いた気がする。あまりに一瞬で気づく者などいないだろう。それはレンズの反射だった。
屋根裏部屋の小窓から双眼鏡を覗かせていた克哉。会話は聞こえなかったが、一部始終を見ていた。美咲が短刀を美花に手渡した場面もだ。
「さて、と。どうしたもんかな」
屋根裏部屋を静かに歩き、足下に書かれた数字を確認すると、克哉はそこにある穴を覗いた。穴の真下は当主の間だ。
車椅子の静枝。そして、もうひとりの女が部屋にいた。慶子だ。
「美花さんが帰ってきたんですって? まだ会ってないのだけれど、どこに行ったのかしらねぇ」
「さあ、もう二度と会えないかもしれないわ……うふふ、きゃはは」
壊れた笑い声が響く。
ふっと慶子が天井を見上げた。
胸を鷲掴みにされるほど驚いた克哉だったが、その場を動かず穴から眼を離さなかった。今動いては危険だ。
すぐに慶子は顔を下げた。
「気のせいかしら……それとも鼠かしらね。この屋敷には珍しい」
そして、慶子は部屋を出て行く。
「美花さんを探してくるわね」
ひとり部屋に残された静枝が、しばらくしてから天井を見上げた。静枝は克哉の存在を知っている。だが、何事もなかったように顔を下げた。
ほっと溜め息をつく克哉。
「そう言えば腹が減ったな」
安心して腹が空いてきたようだ。時間も頃合いである。
克哉は別の覗き穴まで移動することにした。今度は台所だ。
覗く前から美味しそうな匂いが香ってきていた。煮物だろうか、醤油の香りがする。
台所では菊乃と瑶子はいつものように働いていた。日常どおりの行動。特に変わったことはしていない。指が五本ある腕をぶつ切りにしているいつもの光景。少し違うとしたら、配膳が一人分多いことくらうだろうか。
白米と味噌汁と山菜、それに謎の生肉を菊乃はおぼんに乗せた。そして、それが当然というように勝手口から出て行く。
その背中に瑶子が声をかける。
「ちょっと待ってください!」
味噌汁を揺らさずに菊乃が振り返った。
「なんでございますか?」
「これもお願いします」
おぼんに瑶子は柿を乗せて、にっこりと笑った。
と、思ったらすぐに瑶子は不思議そうに首を傾げた。
「あれ? いつもより多くありません?」
「…………」
返事をせずに無表情のまま菊乃は勝手口を出て行く。
向かう先はどこか?
菊乃は鳥居をくぐった。
向かう先は祠だ。
祠の入り口で菊乃は足を止めた。
「お食事をお待ちしました」
と、声をあげてからおぼんを地面に置くと、早々に立ち去る。
菊乃の背後に気配がした。
陶器が微かにぶつかる音。
「少ない」
不満そうな幼女の声。
菊乃が振り返るとるりあがおぼんを持って立っていた。
「そうでございますか、ならこれで」
隠し持っていた梨を菊乃はおぼんに乗せた。
仏頂面だった幼女が、無邪気に笑って祠の奥へ姿を消す。
微かだが菊乃は微笑んだ。
そして、何事もなかったように屋敷に戻っていくように思われたが、足が止められた。
菊乃の顔が向けられた先には美花が立っていた。
近づいてきた菊乃に気づいて顔を上げた美花。その瞳は潤んでいた。
「……菊乃さん」
「どうかなさいましたか?」
「いえ……なんでもありません」
「もうしばらくすると夕餉(ゆうげ)になります。それまでお部屋でお休みになられては? 部屋は昔となんら変わっておりません、もうお入りになられましたか?」
「……いえ……夕餉……えっ」
美花は明らかに言葉を詰まらせて見せた。
この屋敷の出来事を菊乃は見てきた。姉妹の殺し合いも何度も目にしてきただろう。当主の間の前の廊下に控えていた菊乃は、逃げる美花と追う美咲の姿も見ていた。
にも関わらず、菊乃は何事もなかったようにしていた。夕飯の準備をして、部屋で休むことを勧め、殺し合いなどないように淡々としている。
美花が眉尻を下げて尋ねる。
「夕飯はやはりお姉さまもいっしょなのでしょうか?」
「はい、昔も家族三人で食卓を囲んでいたではありませんか?」
「菊乃さんはご存じなのですよね? わたしとお姉さまがどのような関係にあるか?」
「はい、一族の仕来りでございますから」
菊乃の声にも表情にも、感情が伺えなかった。
美花は背筋をぞっとさせた。
「知っていて……今日は自室で夕食をとります。部屋まで案内していただけませんか?」
「かしこまりました。では美花様のお部屋まで」

《3》

「まったくお食事に手を付けていないみたいです」
「それは困ったわね」
廊下が話しているのは瑶子と慶子だった。
「あたくしが少し様子を見てきましょう」
と、慶子は瑶子と別れ美花の部屋に向かった。
廊下に置かれている夕食。まったく手を付けられていない。目の前の部屋は美花の部屋だ。
慶子はふすまを開けた。
「おじゃまするわよ」
声と同時に入ってきた無頼者に美花は酷く驚いた顔をした。
「け……慶子……さん」
「久しぶりね、なかなか挨拶に来てくれないから、あたくしのほうから来てしまったわ」
慶子はぐっと美花に近づき、その距離は鼻と鼻が付きそうなほどだった。
息を呑み込んで美花は躰を震わせた。
「挨拶はすみませんでした……いろいろあって」
「でも食事は摂らないと元気が出ないわ」
艶めかしい音を立てながら慶子は舌舐りをした。
「ひっ」
小さな悲鳴をあげて美花は一気に部屋の隅まで後退り、壁に背中を強くぶつけて止まった。
悪戯に慶子はほくそ笑んだ。
「あたくしはあなたの味方よ、わかっているでしょう? こんな屋敷にいては疑心暗鬼になるのも無理はないわね。そうだ、湯でも浴びていらっしゃい。憑きもの落ちるかもしれないわ」
「…………」
美花ののどが大きく動き、唾を呑み込む音がした。
「そ、そうします」
「懸命な判断だわ。着替えなどは瑶子さんか菊乃さんに運ぶように言っておきましょう」
慶子は笑った。
空気が冷えたように感じる。
美花は脇目も振らず部屋を飛び出した。
すぐに廊下でつまずいて床に手をついて倒れた。声もあげず、美花はすぐに立ち上がって、再び駆け出す。
その背中を慶子はいつまでも眺めていた。美花が廊下の闇に消えるまで。

脱衣所の籠[かご]に瑶子は寝衣を手拭いを入れた。
「着替えを置いておきますね」
「ありがとうございます」
風呂場から美花の声が返ってきた。
桶の湯を頭から浴びた美花。つぶっていた目元の水を拭おうとしたとき、背中に生温かいなにかが触れた。
「ひっ!」
悲鳴をあげて美花は崩れるように倒れた。
「だ、だれ!?」
「私よ、美咲よ」
「お姉さま!?」
急いで目元を拭い、開けた視界で美花は美咲の姿を確認した。
一糸まとわぬ姿でそこに立っている瓜二つの少女。
「昔はいつもいっしょに入っていたわね」
美咲は微笑んだ。
それは昔のことだ。今はあくまで殺し合う仲。にも関わらず美咲は堂々と浴室に入ってきたのだ。
急に美咲は訝[いぶか]しんだ。
その視線は美花の胸に注がれている。
瓜二つの双子のはずが、そこだけが違った。
「どうしたの……それ?」
美咲の声音には憎悪が含まれていた。それとも怒りだろうか。
「これは……」
と、囁きながら美花はその傷痕に手を触れた。
胸のちょうど真ん中。切り開かれ、縫い合わされたような手術痕。古そうな傷だ。
「心臓の手術を……」
「心臓ですって? どうして、なぜ、病気かなにか?」
怪訝そうに美咲が詰め寄る。
美花は両手で傷痕を隠しながら尻をつけたまま後退る。
「心臓の疾患で……その……」
「私の心臓はなんの問題もないのに? 私たち双子なのよ? どうしてあなただけ?」
「どうしてって聞かれても……病気まで同じなんてことは……」
「見せなさい、触らせて、あなたの心臓の音を聞かせなさい!」
伸ばされた美咲の手を振り払って、美花は風呂場を飛びだそうとした。
だが、美咲は逃がさない。美花の華奢な腕を掴んで、振り回すように自分に引き寄せた。
「待ちなさい!」
「きゃっ!」
体勢を崩した美花が足を滑らせ転倒した。
鈍い音がした。
浴槽に後頭部を打ちつけて美花が気絶してしまった。
まったく動じず、美咲は冷笑を浮かべ美花を見下していた。
「呆気ないわね。嗚呼、つまらない」
そして、美咲は風呂場を静かに出て行った。

夜が更ける。
丑三つ時。
巨大な影が廊下を通り過ぎた。
その影を見送って、小さな影は息を殺しながら、静かに静かに廊下を進んだ。
静かにふすまが開けられる。
盛り上がっている掛け布団に手を掛けた。もう片手には鈍く光る短刀。
美花は狂気の形相で掛け布団を剥ぎ取ったのだった。
――だが、そこには丸められた座布団。
「いないだと!?」
美花は背筋に鬼気を感じて振り返った。
怖ろしいほど妖艶に微笑む美咲の姿。
肉切り包丁が振り下ろされた。
眉間に刃を受けて美花はうずくまった。
「ぎゃあああっ、おのれおのれおのれ糞餓鬼がっ!」
傷は浅くなかったが、血は一滴も流れない。
なぜならこのモノには血が通っていないからだ。
美咲は容赦なく肉切り包丁を振り下ろす。何度も何度も、機械的に美花を切り砕いていく。
「ひぃぃぃっ、痛い、痛いぃっ!」
「死人なのに痛いだなんて不思議ね、うふふ」
ずたずたに美花の顔が破壊されていく。
指が散らばった、腕が落ちた、足が飛んだ。
腹から内臓が崩れてきた。
半ば肉塊にされながらも美花は動いた。鷲のように鋭い爪で美咲の顔面を抉ろうとしてきたのだ。
しかし、その手も切り飛ばされた。
「ぎゃあああっ!」
「あんたなんて死ねばいいわ。何度でも何度でも死になさい。美花の敵[かたき]よ!」
「うおぉぉぉっ、知っていたのか、おれが入れ替わっていたことに!」
「だって美花は私の中にいるのだもの。すでに私は美花を喰らっているの、その肝をね」
「くそぉぉぉっ、なんて怖ろしい奴らだ。この屋敷の奴らは狂ってやがる!」
肉塊が蠢く。その中に浮かび上がった男の顔。
化け物は触手のようなもの伸ばして美咲を締めようとしてきた。
肉切り包丁が触手を断つ。
しかし、その触手は無限の地獄を体現するように、いくつもいくつも伸びて、美咲をなんとしても捕まえようとしてくる。
「きゃっ!」
ついに美咲の腕が触手に捕まった。
肌が焼ける。触手に掴まれた肌が焼かれている。
突然、押し入れが開き、中から黒い網縄が蜘蛛の巣のように広がった。
煌めく短剣が美咲を捕らえていた触手を断った。
現れた男を見て美咲は驚く。
「だれ!?」
「正義の味方って奴ですよ、美咲お嬢さん」
網縄に捕らえられた肉塊が呻く。
「オオ、カツヤ……謀ったなカツヤ……許さんぞ……呪い殺してやる」
「そうだよ、俺はおまえさんを利用した。美花お嬢さんに取り憑きやがったおまえを使役したんだ、すべて終わったら自由にしてやると約束してな。昔からそういう約束だったらしいからな」
「カツヤめ、おれたちになんの恨みがある……毒を盛って殺し、使役までして苦しめるなど、人間のすることか!」
「それは俺の知らない克哉だ。けど、その後始末は俺がする。じゃあな、おまえさんが本当の最後だ」
浮かび上がっていた男の眉間に克哉は短剣を突き刺した。
そして、それはただの肉塊と化した。
かつて屋敷には悪霊たちが封じられていた。ひとの道を外れて毒殺された外道たちの成れの果てだ。そのすべてがついに此の世から消えたのだ。
一つの呪いが解かれた。
部屋に漂う腐臭。
廊下から大きな気配がする。
「場所を変えよう」
と、克哉が押し入れの中に入っていく。
「あなたはだれなの?」
尋ねた美咲に克哉は柔和な笑みを浮かべた。
「君の遠い血縁さ。さあ早く、掃除屋がこの部屋に来る」
「どこへ?」
「この屋敷には屋根裏部屋がある」
「知らないわ、そんなもの」
大きな気配はすぐ部屋の傍まで来ていた。
二人は急いで屋根裏部屋に上がった。
ひとが住めるように家具が置いてあることに、美咲は疑問を感じずにはいられなかった。
「いつの間に?」
「ずっと昔からさ」
「わからないことだらけだわ。あなたは何者なの? 美花に成りすませていたアレはなに?」
「一族とこの屋敷の呪縛を解こうとしている者。まあ本業はルポライターなんですけど。ところでアレが美花さんじゃないっていつから気づいてたんだい?」
「ひと目見たときから。美花が死んでいるのは前から気づいていたから」
「やっぱりそうか」
美咲の行動はだれかに教えられたものではなかったのだ。
ひと目見たときから。当主の間で美花を刺し殺そうとしたのは本気だった、し損じたのだ。そのあとはすべて演技。味方のふりをしつつ美花を追い詰め、最後は美花から仕掛けてきて罠にはまった。
「あの美花の躰は本物のものでしょう。心臓の傷を見て、すべてが確信に変わったわ」
「それについてはすまないことをした。もう手遅れだったんだ、だからそうすることにした」
「私に美花を喰わせたのね」
場の空気が一気に冷え込んだ。
克哉は深く頷く。
「そうだ」
「ある日を境に美花を躰の中に感じるようになったわ。それでお母様の話を思い出したわ。姉妹で殺し合い、相手をの肝を喰らわなければ十歳で死んでしまう。だから美花を殺しなさい、殺しなさい、殺しなさいと頭が割れそうなほど普段から言われていたわ。私は信じていなかったけれど、自分の中に美花を感じたとき、本当だったのだと知ってしまった。そして、おぼろげに美花の死を悟った」
気丈な顔をしている美咲だったが、その瞳からは静かに雫が零れていた。
克哉は咥えた煙草に火を点けた。
「美花さんは三歳のときにこの屋敷を出てすぐか、その前後か詳しいことはわからないが、あの鬼に躰を乗っ取られたんだ。その鬼は代々この屋敷の各部屋に封印されていたうちの一人だ。どうやって封印を解いたのか、なんの理由があって美花さんに取り憑いたのか、俺に使役されてもそのことは口を割らなかった……というより、あの苦しみ具合を見ると、言ったら地獄に落とされるって感じだったな。つまり、本当の黒幕がいるんだろうよ」
「黒幕?」
「目星があったが違った。鬼たちのボスかと思ったんだがな。だから本当にいるかどうかわからないさ。ただ藻掻いても藻掻いても絡め取られるっていうのかな。これまで君の一族は何度も呪いを断ち切ろうとしたが無理だった。俺も含めてね」
「あなたはどんな呪いにかかっているの?」
「それは難しいな。呪いにかかることが決まってるいる呪いとでもいうのか。簡単な話が、君たち一族の呪いを解かないと、俺も呪われるんだ」
詳しい説明をしなかった。できないというほうが正しいかもしれない。
克哉の一族は代々ある目的を持っていた。はじまりは菊乃≠ニ名乗った少女がもたらした。退魔師の家系に育ち、先祖から口伝されてきた秘密を克哉も聞いて育った。
それでも克哉は懐疑的であった。気持ちが変わったのは、先祖から受け継がれていたとされる古い手紙を受け取ってからだ。克哉は驚いた、その手紙は自分が自分に宛てたものだったからだ。それでもにわかには信じがたい。
そして、菊乃が克哉の前に現れた。克哉が高校生のころだった。
菊乃は六歳くらいに見える少女を連れていた。
――この子を預かって欲しい。
名は静香。
引き取られた静香は克哉と分け隔てなく育てられた、つまり、退魔師として仕込まれたのだ。
七歳になった静香は菊乃に引き取られ、再び屋敷に帰っていった。それから数年後、克哉もこの屋敷に来た。
この屋敷にもう静香≠ヘいない。
「呪いを解く糸口はあるひとが残してくれた」
呪いが解けるとは喜ばしいことではないか。なのに克哉は哀しそうに囁いたのだ。
美花は克哉の瞳を見つめていた。その瞳になにかを感じている。
「あなたの目、美花に似ているわ……いいえ、私にも。そして、お母様も時折そんな目をしている」
「静枝さんか……そうだな、詳しい話を君にするなら、彼女には話をしてもらったほうがいいだろう」
「嫌よ、お母様は狂っているわ。あんなひととまともに話なんてできるわけがないわ!」
「君は静枝さんの目に気づいているのに?」
「…………」
「とにかく行こう」
二人は屋根裏から当主の間に向かった。
しかし、静枝はいなかった。
 屋敷の中は完全に静まり返っていたのだった。

《4》

 月が嗤っていた。
 冷たい風は異様な湿気を含んでいる。
 その女は髪を靡かせ、屋敷の屋根に立っていた。
「なにか用かしら?」
 慶子は不気味に微笑みながら振り返った。
 その先に立っていたのは、強ばった顔をした静枝。
「貴女を殺しに」
 脅迫して静枝のほうが額に汗を滲ませている。
 禍々しい。
 慶子の周りで渦巻く不穏な空気。
「あたくしたち友達でしょう?」
「わたしを孕ませたのは誰か……おぼろげな記憶、おぼろげな幻影」
「なんの話をしているのかしら?」
「人間をやめて鼻が利くようになったわ。人間でないモノを嗅ぎ分けられるようになった。そして、わたしは思い出した……悪魔の顔を!」
 にやりと慶子が嗤った。
「なんの話をしているのか、さっぱりわからないわ」
「一つだけ聞かせて頂戴。美咲と美花は誰の子?」
「――悪魔の子」
 ざわざわざわ……静枝の肌が粟立った。
 殺気。
 膨れ上がった狂気が爆発して、静枝の躰を突き破り八本の長い脚が飛び出した。
「美咲と美花はわたしとお姉さまの子よッ!」
 巨大な蜘蛛の影が月に描かれた。
「ええ、悪魔の子なんて嘘よ。あれは正真正銘、あなたの子よ」
 その言葉を聞いた静枝の動きが鈍った。
 カッと開かれた慶子の眼はまるで蛇。
 白い月を背にして飛び散った紅い血。
 ――いったいなにが起きたのか?
 口元から血を零した静枝は穏やかに微笑んでいたのだった。

「キャァァァッ!」
 甲高い女の悲鳴が早朝から響き渡った。
 場所は屋敷の外だ。おそらく玄関先。
 菊乃は足音を響かせながら廊下を駆ける。
 開かれたままになっている玄関先には、瑶子が眼を剥いて立ち尽くしていた。
 彼女はいったいなにを見て固まっているのか?
 血の気の失せた蒼い顔。瑶子ではなく、そこにあった首だ。
 静枝の生首が玄関先に置かれていたのだ。
「お母様……ッ!」
 遅れてやって来た美咲が絶句した。
 不気味なことに、生首は魔法陣の上に置かれていた。星を模様を用いる図形を日本の陰陽道にもあるが、ここに描かれたものには得体の知れない文字が描かれている。この書式は和語や漢語というよりも、洋語に見えるような気がする。
 最後にやって来たのは慶子だった。
「なんてこと、静枝……が……なにがあったの……おそろしい、おそろしいわ!」
 怯えたように慶子は喚いた。
 このとき美咲は冷静に周りの顔を確かめていた。
 取り乱し怯えた慶子。
 眼を剥いたまま固まっている瑶子。
 無表情で静かに佇む菊乃。
 そして、屋敷の物陰から視線を感じた。
 美咲がそちらに目を遣ると、逃げていくるりあの後ろ姿を見えた。
「いったいだれが……?」
 呟いて美咲はうつむいた。
 事故では決してありえない。静枝は殺されたのだ。
 美花にとって、『何者に殺されたのか?』という疑問は、以前であれば愚問であった。この屋敷は得体が知れず、なにが起きても、理由はわからずとも、それが当たり前だったからだ。過去にも人間の躰の一部が、まるで食べ残したように、廊下に落ちていたことがあった。
 しかし、静枝の死は違う。
 ずっと黙っていた菊乃が口を凜と開く。
「この屋敷の当主は美咲様でございます。この首の処分も、これからのことも、美咲様がお決めになってください」
 無情であった。
 美咲は迷うことなく、すぐに返事をする。
「首は菊乃に任せるわから適当に処分して頂戴。それから全員当主の間に集まって頂戴。私は用を済ませてから行くわ」
 この場からまず離れたのは美咲だった。皆を残して足早に歩き去る。
 用とは屋根裏にある。廊下の隠し扉を開け、美咲は屋根裏部屋の階段を静かに上がった。
 克哉は眩しそうな目で小窓の外を眺め、煙草をふかして煙で遊んでいた。
「お母様が殺されたわ」
 冷たく強ばった声音で囁くように言った。小さな声だったが、その声はとても響いた。
 灰から白い煙を深く吐き出した克哉が振り返る。
「殺された……だれに?」
「あなたでしょう?」
 決めつけた口調だ。けれど、本当に決めつけているわけではない。相手の反応を見たいのだ。
「どうしてそう思う?」
「魔法陣の上にお母様の首が置かれていたわ。あなたの使っていた短剣を私はしっかりと覚えていたわ。西洋のものでしょう? それと魔法陣の雰囲気が似ていたわ」
「俺じゃない。証明するのは難しいかもしれないが」
「そうね、私はお前のことを信用していないもの」
 信じなければ、どんな証拠も意味を成さない。
 克哉は煙草の火を机に押しつけて消した。
「現場を見せてくれないか?」
「もう菊乃に片付けさせたわ」
「どこで亡くなっていた?」
「玄関先よ」
「なるほど……見せつけるためか、それとも別の意味が、とにかく意図があるはずだ」
 ただの殺人ならば屍体を隠す。なぜならば、屍体とは犯人に繋がる証拠だからだ。
「意図?」
「それはわからない。ただ目的はどうであれ、犯人は自分の存在を誇示する結果になった。つまり、いるんだよ、存在してるんだ。何者かが実際に存在してるんだ」
「なにを言っているの?」
「もうこの屋敷に封印されていた鬼はいない。奴らがいたら、俺は真っ先にそいつらを疑っただろう。屋敷の関係者、俺も含めてな――の犯行か、それとも外から新たな存在が来たか。この屋敷に侵入するのは容易だが、生き残るのは簡単じゃない。ましてや、あの静枝さんを殺すなんて」
 まだ克哉の耳には残っている。鬼人の断末魔。骨と肉を喰らうおぞましき音。
 しばらく黙した克哉は、気持ちを切り替えるように顔を上げて、美咲を真剣な眼差しで見つめた。
「この屋敷に必要ないのはだれだと思う?」
「全員よ」
「美咲お嬢さんにとってはそうかもしれない。俺は君が新たな当主となった今、静枝さんはもう用済みだったと思ってる。必要なら、中身を殺して、外見だけを美花お嬢さんのように使うことだってできた。まあ、同じ手を使ってくるとも考えづらいが」
「しいていうなら、この屋敷に必要なのは、私と菊乃と瑶子よ。あとは部外者だもの」
「その部外者がじつは重要なのかもしれない」
 克哉と美咲では立ち位置が違う。見えているものが違えば、もっている情報も違う。
「そろそろ行くわ。全員、当主の間に集まるように言ってあるの。あなたも来る?」
 と、美咲は尋ねたが、克哉は手を振った。
「いや、俺はここから覗いてるよ」
 そして、美咲は元来た隠し階段を下りていった。
 残された克哉が静かに呟く。
「俺からしてみれば、本当の部外者はあの女先生だけだ」

 当主の間に美咲が入ると、三人が正座をしていた。
「るりあは?」
 美咲が尋ねると、すぐに返事をしたのは瑶子だった。
「探したんですけど、どこにもいなくて。やっぱりもう一度探してきたほうがいいでしょうか?」
「必要ないわ、居ても邪魔なだけだもの」
 美咲は座った。その場所は静枝がいつもいた場所。静枝の時代にはなかった座布団が敷かれていた。
 視線が美咲に集中する。
 そして、新たな当主は話しはじめた。
「菊乃には伝えてあったけれど、妹の美花は一族の掟に従って、昨晩、私が殺したわ。そして、母も亡くなり、この屋敷の当主は私となった。まずはじめに、あなた方の処遇について話しましょう。とくに慶子先生は元々部外者、この屋敷に留まる理由はまだあるかしら。とは言っても、この屋敷からは出られないけれど」
「あたくしは静枝さんに呼ばれてこの屋敷に来たわ。目的は家庭教師として、真の目的は一族の呪いを調べるため。どちらの目的も静枝さんが亡くなったあとも継続するものだと思っているわ。だからあたくしはこれまで通りね」
 慶子の続いて菊乃が口を開く。
「わたくしはこの屋敷に仕えるのが役目でございます」
 慌てて瑶子は身を乗り出す。
「はい、あたしもがんばってお仕事させていただきます!」
 美咲は三人を順番に見てから、小さく頷いた。
「次にお母様の死について。みんなは誰が殺したと思う?」
 挑発するように不気味に美咲は微笑んだ。
 周りは凍り付いたように口を閉ざし固まっている。
 美咲は声を出して笑う。
「うふふふ、本当は興味なんてないの。むしろ狂った老害がいなくなってよかったと思っているわ。でも……私にも危害を加えるつもりなら容赦しないから」
 鋭い眼をして美咲は三人を睨み、周りを見回し、天井を見上げ、この屋敷全体を睨みつけた。見えない敵への警告。
 このとき慶子は誰にも悟られないように、微かな艶笑を口元に浮かべていた。
 息をついて美咲は菊乃に顔を向けた。
「当主になってなにかすることがある?」
「特にはございません。当主になった者は――」
 障子が開かれ、男が部屋に入ってきた。
「ちょっとその話待ってくれませんかねえ」
 入ってきた克哉に瑶子は驚いた。
「だれですか!?」
「ルポライターが本業ですが、まあ今は個人的な用事で参上しました」
 面識のある美咲は知らない振りをしている。瑶子はあたふたとし、慶子は口元に艶笑を浮かべている。口を開いたのは菊乃だった。
「どこのどなたが存じ上げませんが、早々に立ち去ってください。ただし、この屋敷の敷地内からは出ることができませんが」
 茶番だった。
「知ってますよ」
 克哉は隠し持っていた護符を刹那うちに瑶子の額に貼り付けた。
 意思を失い倒れた瑶子。息はある。
「驚かせてすみませんねえ。本人の前では話しづらいもんで」
 人なつっこい笑みで克哉は笑い、畳にあぐらを掻いて座った。
 慶子が克哉に尋ねる。
「あなた何者ですの?」
「先ほども言いましたがルポライターです。もう見られてしまったので隠していても仕方ありませんが、裏の顔は退魔師でして。この屋敷のこともいろいろと調べさせてもらいました。この屋敷に足を踏み入れると、出られなくなる原因もすでにわかってます」
「教えて」
 と、すぐに食い付いたのは美咲。
 克哉は頷いた。
「美咲お嬢さんには秘密にしてあったみたいですがね。原因はそこで眠ってる瑶子です。彼女は蜘蛛の化身であり、この屋敷の狩人。夜更けに大きな気配を感じたことないですかね。大蜘蛛が屋敷を徘徊して、迷い人を食い殺してるんですよ。で、代々の当主は瑶子を使役してきた。そうですよね、菊乃さん?」
「外の方に教えることはなにひとつございません」
「なら続きも俺の口から話させてもらいますよ。たしかに普段は敷地内から外に出ることできない。けど不思議なことに、双子の一人が三歳になったとき、外に出ることができるんですよね。疑問に思っていたでしょう美咲お嬢さんも?」
「ええ、外に出られないとされながらも、本当は出る方法があると疑っていたもの。ああ、突然思い出したわ。あの日、たしか瑶子の姿を見かけなかったような気がする……なにか関係あるのかしら?」
 克哉は話を少し変えることにした。
「美咲お嬢さん、もしも外に世界に出ることができたら、出たいと思いますか? この屋敷を捨て、一族の名も捨て、自由に生きてみたいと思いますか?」
「ええ、だってこの屋敷の生活なんて大嫌いですもの。いつも屋敷に火でも放ってやろうと思っているわ。なにもかも灰になってしまえばいいわ」
「そうですか、なら方法を教えたらすぐにでもやりそうですね。でも外に世界に逃げ出しても一族の呪いは解けませんよ。あなたがあと六年もしないうちに死ぬのは変えられない」
「私があと六年で死ぬですって!」
 恐い顔をして美咲が腰を浮かせた。
「あなたのお祖母さんに会ったことはありますか?」
 黙る美咲に克哉はさらに続ける。
「生きていれば肉体年齢的には三十くらいですかね。人間の平均寿命を考えれば、曾お祖母さんだって、曾々お祖母さんだって、さらに曾々々、何代先まで生きてることになるんですかね。なのに誰も生きちゃいません。双子を喰らって老化が通常の早さになってから、およそ六年で死ぬんですよ」
「お母様はもっと長生きしていたわ!」
「そのとおり、あなたのお母さんの場合は、魔のモノと合体することで寿命を先延ばしにすることに成功したんですよ。この方法は歴代の当主を参考して編み出した方法です。歴代の当主は美花さんのように、鬼に乗っ取られてたんですよ。静枝さんの代では、鬼に乗っ取られることはなかった。その代わりに美花さんが乗っ取られてしまったわけですがね」
「美花が死んだのはお母様のせいなのね!」
「そうとも言えますがね、それは静枝さんの意図したことでも望んだことでもない。それはわかってあげて欲しい。本当に悪いのは取り憑いた鬼、そして……」
 言葉の続きが美咲の脳裏に浮かんだ。克哉が示唆していた黒幕の存在だ。
 突然、屋敷全体が大きく揺れた。下から突き上げるような激震。屋敷が軋み畳が浮いた。座っていることすらできなかった。
 このままでは屋敷が倒壊してしまうかもしれない。
 それほどまでに恐ろしい揺れであった。
「克哉様、美咲様、早く外へ!」
 菊乃が叫んだ。
 しかし、激しい揺れで這いつくばって移動するのも困難だった。
 そんな揺れが突然止まったのだ。
 ――新たな少女が現れたのと同時に。

《5》

 まず口を開いたのは怪訝そうな慶子だった。
「誰?」
 鋭い口調は相手を殺すほどの鬼気を孕んでいた。
 そこに立っていた少女は巫女装束を着ており、歳は十歳くらいだろうか。長い黒髪、その瞳、その顔立ち、誰かに似ている。
 したりと克哉が笑った。
「この家の当主はまだ決まっちゃいけない。彼女こそがこの家の長女、静枝の本当の娘だ」
 衝撃が走った。
「嘘よ!」
 叫んだのは慶子だった。
「子供なんているわけがないわ!」
 美咲も追随する。
「そうよ、私たちを生む前に子供いるなんて、そんなことありえないわ! 何者なのこの女!」
 澄ました顔で少女は優しく微笑んだ。
「鬼頭静枝の第一子、花咲[かえ]と申します」
 その声も誰かに似ている。そうだ、美咲に、美花に似ているのだ。その姿も声も、物腰も双子の姉妹に似ているのだ。
 しかし、美咲の見た目は十四歳程度、花咲と名乗った少女は明らかにそれよりも年下だ。
 慶子は猛獣が咆えるように立ち上がって花咲を睨んだ。
「これのどこが長女なの、美咲よりも若いじゃないの! それに子供なんて……ッ!?」
 慶子はハッと眼を剥いた。なにかに気づいたのだ。
 克哉は花咲の真横に立った。
「この子が本当に静枝の娘だと証明するのは難しい。だが証言ならできる。なぜなら俺が父親だからだ」
 衝撃の連続に美咲は髪を振り乱した。
「ありえないわ、お母様とあなたが!? 馬鹿なこと言わないで!」
 けれど、美咲は二人を見て息を呑んだ。並んだ克哉と花咲が似ているのだ。
 克哉は少し哀しげな表情をした。
「君のお母さんじゃない」
 その言葉を美咲は理解できる黙した。
 克哉が続ける。
「君のお母さんは静香……だ。この屋敷の当主は、姉の振りをし続けていた静香だった。本物の静枝は俺の元でしばらく暮らし、子を産み、それからしばらくして、ある事情で命を落としたんだ」
 絶句した美咲は声も出せなかった。慶子も同様だ。菊乃だけが表情を崩さず、自らの意思で黙していた。
 衝撃の連続だった。
 克哉は煙草に火を点けた。微かに聞こえる咳き込む音。口を押さえているのは慶子だ。
 構わず克哉は煙草を吸いながら話しはじめる。
「どうして命を落としたのか、それは一族の呪いに関係する話だ。老化と寿命、その要因。君たち双子を蘇らせるために、静枝は命を捧げたんだ。静枝だけじゃない、歴代の当主たちはみんなそうしてきた」
「私は嫌よ」
 すぐに美咲が口を挟んできた。
「美咲お嬢さんは静香の子だが、その性格は静枝によく似ている。でも静枝は命を捧げた。静香の子のために、自分の命を捧げたんだ」
 克哉は吸いはじめたばかりの煙草を、縁側に出て庭先に投げ捨てると、当主の間に戻ってきた。
「生まれる子供は死産と決まっている。当主である母は、自分の魂を分割して双子を蘇らせるんだ。類魂の概念という奴で、魂は分割することができる。問題は別にあるがゆえに、呪いが発生するわけだが。
 静枝と静香の代では、二人とも生きているという特別な状況が生まれ、静枝は静香を生かすために、自分の魂を君たち双子に捧げた。本来ならば、命を捧げた当主は、鬼にその肉体を乗っ取られ、死人として生かされることになるんだが、鬼はそのときいなかった。静香は命を捧げず、鬼にも乗っ取られず、双子の肝を喰らうこともせず、一族の流れを確実に変えた。しかし、それだけでは一族の呪いの根本的な解決にはならない。この子は俺たちの希望だ」
 ――花咲。
 克哉は花咲の頭を撫でた。
「この子は七つになる。美咲お嬢さんと同じだ。しかし、花咲のほうが若く見えるだろう?」
 美咲の見た目は十四歳ほど。花咲の見た目は十歳ほど。
 一族が抱えていた急速な老化が軽減されているのだ。
 克哉が咳払いをして一気に話す。
「類魂というのは、一つの大きな魂の塊と考えてくれ。たとえば、静枝、静香、美咲、美花、個別の人格を備えた魂を持っているが、元は一つの大きな魂の塊から切り離された存在で、同じ集まりに属している。集まりは一つだけではなく、たとえば俺の魂が属している集まりや、女先生の属している集まりがあるわけだ。
 次に魂魄の概念だ。魂[こん]とは魂[たましい]のことだ。魄[ぱく]は躰の設計図だと思ってくれ。一族が欠落してたのは、この設計図のほうなんだ。双子ふたりを合わせて二十歳までの設計図しか持っていないがゆえに、急速な老化と早死にを招いてしまった。
 歴代の当主たちは、ある日突然懐妊した。本当に相手が存在していないのか、それはわからないが、相手の魂魄や遺伝子、それらを受け継がず自立して子供を産んだ。二十までの設計図が延々と受け継がれていたわけなんだ」
 気持ちよさそうに慶子が笑った。
「素晴らしい着目点だわ。花咲さんはあなたと静枝、二人の要素を受け継いだ子だから、呪いが薄れたわけね。双子の一人が生き残り、その一人が双子を懐妊していた状況では、絶対に生まれなかった状況ね。まさか双子が二人とも子供を産む自体が起きるなんて、一族の歴史の中では、永い長い歴史の中ではありえなかったことだもの」
 新たな分岐が生まれた。
 しかし、美咲はどうする?
「ねえ、私も妊娠するのかしら? 双子を死産するのかしら? あと六年で死ぬんでしょう? 私の問題は解決してないわ。当主になりたいわけでもない、そんなものこの女にくれてやるわ」
 立ち上がった美咲が当主の間を出て行く。誰も止めなかった。誰もあとを追わなかった。
 慶子は微笑みながら花咲を見つめた。
「当主の問題はどうしましょうね。美咲さんと花咲さんに殺し合いをさせて、生き残って者が当主になるっていうのはどうかしら?」
「私が美咲さんと殺し合う理由なんてありません。双子の片割れを喰らわなくていけないのは、設計図の補完ためです。設計図を補わずに、自立妊娠すれば、老化はさらに倍早く、死も早く訪れることになりますから、一族の存続に関わります」
 今でも二倍の早さで老化する。それが四倍、八倍と倍掛けになれば、三年も生きられないことになる。
 菊乃が気配を発した。
「当主の選定はこれまでの歴史で一度もございませんでした。資格のある者が、一人しか生き残っていなかったからでございます。例外的に静香様の例がございますが、静枝様は死んだものとされておりましたから」
「美咲お嬢さんは放棄したんだ。なら花咲が当主で問題ないだろう。一族の問題に使用人や部外者が口を挟む余地はないだろう? 花咲と美咲お嬢さんの合意があれば問題ない」
 克哉の意見に慶子がゆったりと口を挟む。
「そうね、でも花咲さんが本当に静枝さんの娘だったらの話だわ。それが証明できない以上は、当主は美咲さんよ。そもそも静枝さんと静香さんが入れ替わっていた話だって信じがたいもの」
「それはわたくしが証明いたします」
 菊乃は二人が入れ替わっていたことを知っていた。そして、支え続けていたのだ。
 髪の毛をかき上げて慶子が立ち上がった。
「まあいいわ。当主が誰になろうと、あたくしの目的さえ果たせれば。家庭教師として、呪いのほうは解明されてしまったけれど、うふふ」
 笑いながら慶子が当主の間を出て行こうとした。が、寸前で振り返った。
「当主の儀式はするのでしょう? 今日にも? それとも明日かしら? 七つのうちにしなくてはいけないのではなかったかしら?」
 言葉を残して慶子は去っていった。
 急に汗を流しはじめた克哉は、深い溜め息を吐いた。
「さっきの地震は警告か、それとも本気で潰しに来たのか。おそらく後者だろうな、花咲が姿を見せた途端収まりやがった。敵も様子見をすることにしたってことか?」
 言葉を終えると、瑶子の額の御札を剥がした。
 すぐに瑶子は目を覚まして飛び起きた。
「はっ、あたし……ええっと、どうしてたんですか?」
 何事もなかったように菊乃も部屋を出ようとしていた。
「朝餉[あさげ]の準備をいたします。瑶子さんも手伝ってください」
「は、はい!」
 瑶子は克哉と花咲の顔をじろじろ見ながら、仕方がなさそうに菊乃のあとを付いていった。
 屋敷は異様に静かだ。
 それが何かの前触れのようで怖ろしい。
 克哉はふと天井を見上げた。
「下りて来いよ」
 がたっと天井で物音がした。
 この屋敷には鼠すら棲んでいない。
「仕方ないなぁ」
 克哉は押し入れを開け、そこから天井に上った。
 屋根裏部屋にいた童女が逃げようとする。空かさず克哉は腕を掴んだ。
「鬼ごっこはおしまいだ。逃げることないだろ、俺のこと嫌なのか?」
 ふるふるとるりあは首を横に振った。
「だったら逃げるなよ。なあ、話はどのくらい聞いてた? 理解できたか?」
 別に睨んでいるわけではないだろうか、仏頂面でるりあは口を閉ざしてしまっている。眼はじっと克哉を見たままだ。
「怒ってるのか?」
「…………」
「どうしてだ?」
「…………」
「少しはしゃべってくれよ。花咲のことはもう知ってるだろ? あれ俺の娘なんだ。でも浮気じゃないからな、まだ起きてもないことなんだから……ってお前に言っても意味ないか」
 るりあが克哉の手を振り払い、そのまま飛び出して、屋根裏から消えてしまった。
 克哉は追わなかった。その小さい背中を見つめていただけだった。
「未来の俺、それとも別世界の俺は……どうしてあんなのと?」
「お父様」
 声をかけられて克哉はびっくりしたような顔で振り向いた。立っていたのは花咲だ。
「これからどうしますか?」
「正直ここからが難しいところだな。ここから先はわからないことだらけだ、たぶん代々の俺が体験したことのない歴史の分岐に突入したんだと思う。一族の寿命に関する問題は道筋が立ったが、俺が過去に行くことを食い止めるすべ……というか、その根本的な原因、つまりそれが以前発生したものなのか、仕組まれていることなのか。まあおそらくは後者だろうが、なら俺を過去に送り込むなにかを仕掛けてくるはずなんだ。そもそも俺を過去に送り込んで、一族の歴史を繰り返させる理由がわからない」
「仏教には『人間は悟らなければ、何度でも生まれかわり、生の苦しみを味わうことになる。これから抜け出すには解脱し 輪廻を断ち切るしかない』とあります」
「これが仏の所業と言いたいのか? 悟りを開けば、俺は繰り返す世界から抜け出せるのか?」
「いいえ、たぶん悟らなくてはならないのは……」
 花咲の瞳は澄んでいた。その中に世界を映し出している。克哉はその瞳の中に、ある面影を見た。
「まさか、そうなのか……いや、口に出してはいけない。これ以上は危険だ」
 その言葉を受けて花咲は深く静かに頷いた。

 たゆたうと揺れる紅い海。
 その海はとても浅く、巫女装束の少女が浮かんでいた。
 紅い水は少女を穢すことができなかった。その装束、その肌、その髪にすら、水の一滴も染みこむことはない。侵蝕を決して許さない。
 世界を覆う黒い影が渦巻いた。
「小賢しい娘だ」
 その声は童[わらべ]のようであり、老人のようであり、男か女かもはっきりしなかった。
 花咲が鋭く瞳を見開く。
 目の前で渦巻くモノ≠ェ嗤っている。影で覆われた顔なのに、怖ろしく嗤っていることは伝わってくるのだ。
 装束の上から渦巻くモノ≠ヘ、花咲の躰をまさぐりはじめた。
「お前には三つ子孕ましてやろう。それとも五つ子にしようか。それでお前たちのやったことは泡となる。もう二度と我が眼を盗んで外のモノと交配などさせるものか」
 これまでそうして来たように、渦巻くモノ≠ヘ一族の当主を孕ませようとしている。
 だが、花咲は少女とは思えぬ艶笑を浮かべ、渦巻くモノ≠あざ笑ったのだ。
「私を孕ませる? どうやって?」
 刹那、渦巻くモノ≠ェ禍々しい鬼気を発した。
 花咲の股が装束の上からまさぐられている。
 そして、気づいたのだ。
「謀ったな!」
 狂風が吹き荒れた。
 渦巻くモノ≠ェ怒気を発している。
 花咲は闇を振り払いながら凜と立ち上がった。
「ええ、私は克哉と静枝の嫡男なのです」
 なんと花咲は男だったのだ。
 渦巻くモノ≠ェ後退る。
 紅い海が花咲を中心に浄化され、無垢に透き通っていく。
「ここは私の精神世界です。逃がしません」
 花咲はいつの間にか手にしていた神楽鈴を鳴らした。
 得体の知れない呻き声がした。
 渦巻くモノ≠ェ纏っていた闇の衣の一部が消失した。
 まるでそれは蛇のような眼。
 しかしそれは、山羊のような角。
 花咲は破魔矢を構えていた。
 波紋が立つ。
 そして、弓が引かれ、矢が放たれたのだ!
 射貫くまで刹那であった。
 遅れてやってくる絶叫の波。
 海が粟立つ。
 渦巻くモノ≠ェ螺旋の渦を描きながら消えていく。
「この苦しみ何倍にもして返してやる。新たな呪いを受けるがいい、永遠の輪廻の中で苦しみ藻掻くがいい!」
 邪悪な気が消えた。
 静まり返る世界。
 花咲の精神世界は穏やかに返ったのだった。

《6》

「起きてください花咲様!」
菊乃の悲鳴めいた声が響き渡った。
 当主の間で目覚めた花咲。
世界が真っ赤に染まっていた。熱い。屋敷が燃えているのだ。
 布団から飛び起きて花咲は辺りを見回した。
「いったいなにが起きたの!?」
「何者かが屋敷中に火を放ったようでございます」
「ほかの人たちは?」
「わかりません。わたくしの使命として、真っ先に花咲様のご無事を確かめに参りました」
「……っお父様!」
花咲は天井を見上げた。
煙は高い場所に昇っていく。
「私のことは大丈夫、ほかの人たちと早く屋敷の外へ逃げてください!」
 花咲は言い残して押し入れから屋根裏に上った。
 やはり煙はすでに屋根裏に充満していた。
「げほげほっ」
 巫女装束の袖で口元を押さえて花咲は克哉を探した。
「お父様!」
 克哉はベッドの上にいた。眠っているのか、気を失っているのか、それとも……。
 駆け寄って花咲は克哉を揺さぶった。
「お父様! お父様!」
反応がない。
焦る花咲だったが、その横には冷静な菊乃が立っており、脈と呼吸を確かめていた。
「まだ生きております。今はとにかく外へ運びます」
菊乃は人とは思えぬ力で軽々と克哉の躰を持ち上げ、背中に担ぐと来た道を引き返し当主の間に下りた。すぐあとを花咲が追う。
 当主の間から縁側、そこから雨戸を開ければ外はすぐそこだ。
 先を走る菊乃は雨戸に体当たりをした。
 外れた雨戸が大きな音を立てて庭先に倒れた。その上を菊乃と花咲が駆ける。
 強風が吹いた。
 開かれた雨戸から屋敷の中に風が吸いこまれていく。
 次の瞬間、炎が龍のように屋敷の中から飛び出して来た。
 地面に放り出された克哉。
 花咲が叫ぶ。
「菊乃さんッ!」
 燃える華の中で菊乃の躰が溶けていく。炎に焼かれ、爛れたように顔が崩れ落ちる。泥にように特殊な肉体が溶けていくのだ。
「申しわけ……ご……ざ……」
 溶けた唇から言葉が零れ落ちる。
 地面に崩れ落ちた菊乃は炎に抱かれ魂も焦がされた。
 屋敷の中から甲高い奇声が聞こえた。
 般若の形相をした美咲が屋敷の中から飛び出してきた。髪を振り乱し、その手に持っているのは肉切り包丁。
「死ねぇぇぇぇぇッ!」
 妖しく光る刃は花咲に向けられた。
 刃は血を吸った。
 前に突き出された花咲の手が肉切り包丁を受けていた。刃は人差し指と中指の間に入り、手首まで切り裂いていた。
重傷を負いながらも花咲は凜としていた。
「肉は断てても、この魂は断てません」
 芯の強い声だった。
 美咲は怯えた。眼を剥きながら口元を歪め、肉切り包丁を引き抜いて後退った。
「キィィィィッ! 美花、美花、美花ーっ!」
 肉切り包丁を振り回す美咲に大量の影が群がった。それは子蜘蛛だった。子蜘蛛と言えど、その大きさは人の顔ほど。十数匹の子蜘蛛が糸を吐きながら美咲に飛びかかる。
 美咲は糸を切り、子蜘蛛を真っ二つに断つ。
 しかし、子蜘蛛は次から次へと屋敷の中から這い出てくる。
 嗚呼、炎の道だ。
 身を焼かれた子蜘蛛どもが屋敷の中から波となって押し寄せてきた。
 炎を纏う子蜘蛛が美咲の躰にしがみつく。
燃える燃える美咲。
 揺れる炎の中で美咲は狂い躍った。
「肉は焼かれても、この魂は焼くことはできない」
 美咲は艶笑を花咲に向けた。怖ろしい微笑みだった。
 着物が燃え、裸体となった美咲の股から、一筋の血が太股を伝わった。
 花咲は悟った。
 いつしか美咲は安らかな笑みを浮かべてた。そして、炎の華の中で息絶えたのだ。
 屋敷から蛍火のように光が夜空に昇る。
 その光景はまるで死者の魂が天に召されていくようだった。
 音を立てて崩れる屋敷。
 一つの世界がこの夜に消える。
 そして、訪れる朝。
 すでに東の空が輝きはじめていた。
 花咲は克哉に駆け寄った。
「お父様!」
 気道を確保して、唇を重ねる。
 命を吹き込むように、息を吹き込んだ。
 続けて心臓マッサージをした。
「お父様、お父様、お父様!」
 胸に手を置いて断続的に押す。
 人工呼吸と心臓マッサージを交互に何度か続け、ついに克哉が目覚めた。
「はっ! はぁはぁはぁ……静枝と静香がいた……臨死体験……か」
 からからの喉で声を吐き出し、額の汗を克哉は拭った。
 そして、克哉はなにかを探すように辺りを見回した。
「そういうことか!」
 克哉はなにかに納得したようだが、花咲は訝しんで何事かわからない。
 そして、短剣を抜いた克哉は、なんと美咲の屍体に刃を突き立てたのだ!
 肉の焼ける異臭がまだ立ちこめている。
 熱の残る黒い屍体の胸を切り開く。外側は焦げて炭になっていたが、中は生焼けだった。
 手を血みどろにする克哉の姿に花咲は戦慄く。
「お父様なにをなさっているのですか! 死者の肉体を陵辱するなど!」
「死の狭間で静枝と静香が教えてくれたんだ。魂の記憶は受け継がれると……もしもそうなら!」
克哉は肉の中に手を突っ込んだ。
屍体の胸から取り出される心の臓。
 まるでまだ生きているような美しい色をしていた。
 命の色だ。
 克哉は生温かい心臓を大事に抱えて走り出した。
 まだ花咲は克哉の行動を理解していなかった。けれど、ここは付いていくしかあるまい。
 向かう先に鳥居が見えてきた。
 るりあが立っていた。怯えた表情で洞穴の入り口から一歩入ったところに立っていた。
 朝日に落ちる巨大な影。
 克哉の躰を謎の影が覆い呑み込んだ。上空だ。克哉の頭上になにかいる。
 大蜘蛛が天から落ちてくる。
 間一髪で克哉は避けて地面に転げ回った。心の臓を大事に抱きかかえながら。
「糞ッ、ここに来て敵に回りやがったか!」
 すぐさま立ち上がった克哉は心の臓を花咲に託した。
「これをるりあに喰わせろ、怪物は俺がなんとかする!」
 短剣を構えて克哉が大蜘蛛に飛びかかった。
 花咲は父を信じて決して後ろを振り向かなかった。地面を力強く蹴り上げ、鳥居をくぐり、祠へと続く細道を駆ける。
 るりあは逃げた。洞窟の奥へと逃げ込んでしまった。
 朝日が差し込んでいるが、奥は深い闇の中。
 構わず花咲は奥へと進んだ。
「止まれ!」
るりあの声が暗い世界に響いた。
声はすぐ目の前から聞こえた。足を止めた花咲のすぐそこにるりあがいるのだ。
「美咲さんの魂です。どうかこれを喰らってあなたの一部にしてください」
闇の中に花咲は心の臓を差し出した。
呼吸の音だけが聞こえる。
二人とも動かなかった。
ふっと花咲の手のひらが軽くなった。心の臓が消えた。
嗚呼、咀嚼音が聞こえる。
るりあが美咲の命を喰らっているのだ。おそらく血を滴らせながら、唇を真っ赤に染めながら、むしゃぶりつくて喰らっている。暗闇の中でそれを感じることができた。
「ううっ……あああ……」
突然、るりあが呻きはじめた。
驚く花咲。
「どうしましたか!?」
「ああっ……おらは……苦しい……頭が……怖い怖い……」
「大丈夫ですか?」
暗闇を手探りで花咲はるりあの躰を抱き寄せた。
「……違う」
と、呟いたのは花咲。
自分よりも大きな躰がそこにはあった。
ここにいるのは、るりあではないのか?
髪の間から生えていた大きな二本の角に花咲の手が触れた。
「あなたは誰ですか?」
「おらは……るりあ」
その声は幼女のものではなく、もっと大人びた声だった。
「おらは輪廻を彷徨っていた……繰り返し繰り返し、同じような世界を繰り返し、何度も何度も時間を繰り返し……嗚呼、また過去に戻るのか……」
洞窟の中まで響いてきた背筋を凍らす咆哮。外になにか強大な存在がいる。それも禍々しい存在だ。
突然の咆哮を聞いて、花咲は震え上がった。
そっと花咲の躰が抱かれた。温もりと安心感。まるでそれは母の胸の中。
唸るように低い声が外から聞こえてくる。
「腐った世界はもういらない。世界などいくらでもあるのだから。充分にこの世界は楽しんだ。我に必要なのは廻り巡る世界」
世界が揺れた。激震だ。大地の悲鳴、風の絶叫、雷鳴が轟いた。
「お父様……」
不安に駆られながらも花咲はその場を動くことができなかった。
穴蔵の中で息を潜め、震えることしかできなかった。
外でいったいなにが起きているのか、想像するだけで恐ろしい。
揺れが治まり、世界が静まり返った。
「ゆくぞ」
るりあが花咲の手を引いて外へと向かう。
暗い暗い世界から、明るい世界へ続く細道。
外からの光が差し込み、るりあの姿がおぼろげに見えてきた。
凜とした女の姿。幼女から幼女へ、るりあは変貌を遂げていた。
魂と魄。
美咲が持っていた設計図をるりあは取り戻した≠フだ。
外の世界には鳥居だけが残っていた。
屋敷が跡形もなく消えてしまっていたのだ。
完全な消失だった。
「お父様は!?」
人影すらなかった。
辺りを見回した花咲は愕然とした。顔彩ったのは絶望の色。
まるでそれは丘だった。
屋敷の敷地内をぐるりと囲う巨大な蛇。その蛇は山羊のような角を持ち、自らの尾とを咥えていた。
世界を震わせる声が響いてきた。響くというのは正しくないかもしれない。それは震動ではない。音として頭の中に入ってくるのではなく、精神感応だったからだ。
《鬼女るりあは再び過去を取り戻した。つまり再び永劫廻帰の輪が繋がれたのだ》
「なにを言っているの!?」
花咲は言葉に出して問い質した。
《るりあは廻帰の歯車に囚われた存在なのだ。忘れていた過去を取り戻すことにより、時空を越える事象は発生する》
時空を越える?
まさか克哉は……。
「お父様はまた過去に行く運命を辿ったと言うこと?」
《この箱庭の世界にあったモノはすべて過去に還った。汝たちは力に守られた別の世界にいたために回避できたのだ。しかし我はそれを許さない》
大蛇の片眼が零れ落ちた。
それは大地を転がり、膝を抱えた人の姿になり、翁面を被った背の曲がった老人になった。
「わしの永劫を守るために、るりあには廻帰を繰り返してもらわねば困るのじゃ」
翁面が不気味に嗤っている。
汗すらも乾く鬼気。
本物の鬼女が翁面の老人に押されている。
「覚えてるぞ、お前はおらに反魂[はんごん]の法を教えた神だな?」
るりあの言葉に花咲は驚きを隠せなかった。
嗄れ声で翁面の老人が嗤う。
「ふぉふぉふぉ、いかにもわしは神じゃ」
「神……あなたは荒ぶる邪神……いったいなんの神なのですか?」
震える声で花咲は問うた。
「元はこの山に棲む蛇であった。いつしかこの山の主となり、土地神になったのじゃ」
「なぜ神のあなたがこんな真似をするのですか?」
「神も老いる。そして、死ぬ。忘れられた神、力を失った神の運命に諍[あらが]いたかったのよ。あたくしは永遠に美しい存在でありたかった」
老人が女に変わっていく。
艶めかしい裸体をくねらす妖女。蛇の眼をして、頭に山羊の角を生やした慶子に変貌したのだ。そして、その片眼には蛆が湧いていた。
「卵が先か、鶏が先か、どちらが先か。はじめは偶然だった。この廻帰の世界が生まれたのはね。あたくしはこの世界に眼をつけた。永劫に繰り返す世界を維持できれば、時間を支配することができるのではないかと。これはあたくしの実験なのよ。この箱庭は実験装置なの」
慶子は愉しそうに笑った。
壮大な実験であった。
廻る廻る小さな歯車。
花咲もその一つの歯車でしかなかった。
しかし、この装置は歯車を一つ失っても動き続ける。
「すでに多くの分岐世界が存在しているわ。あなたたちが呪いだなんだと騒ぎ、それをこの世界で解決したところで、大きな渦は廻り続けるのよ。あたくしにとって、あなたたちのやろうとしていることは、無意味でしかないの」
「無意味といいながら、なぜこんなにも干渉してくるのですか?」
 鋭い声音で花咲は射貫くように言った。
るりあが慶子に鋭い爪を向け飛びかかった。
二人の躰が触れた瞬間、火花が飛び散りお互い後方に弾かれた。
 牙を剥いた慶子が微かに呟く。
「干渉している……」
 るりあも異変に気づきはじめていた。
「今の力は……大きな力同士がぶつかり合ったような……そして、なにか視[み]えたぞ」
慶子の姿がいくつも視えた。違う場所、違う行動、無限にも思える慶子の姿が視えたのだ。
 禍々しい邪気を発して慶子が地獄から業火を喚んだ。
「再び地獄に堕ち、輪廻を繰り返すがいいわ!」
 るりあは構わず炎の中に自ら飛び込み、そのまま慶子の躰を押さえつけた。
「こいつとの繋がりを断て! この世界はこいつで繋がれている!」
 叫ぶるりあ。
 花咲は理解できなかった。
数多の分岐世界。平行世界。永劫廻帰の輪はるりあによって繋がれた。世界の輪を繋ぐのはるりあの役目。しかし、世界と世界を繋ぐのは――。
なぜ慶子は干渉する必要があるのか?
 分岐する世界は別世界として存在している。別世界として存在していては、歯車は噛み合わないのだ。
 すべての世界に同時に干渉する存在。
るりあが視た慶子は個であり全である存在。
 まだ花咲は理解できずにいた。
激震が起きた。
稲妻が落ちる。
るりあと慶子が歪んで見える。時空が歪んでいるのだ。二人が交わることで謎の干渉が起こっている。
「離せ、離しなさい、大変なことになるわよッ!」
 甲高く慶子が叫ぶが、るりあは羽交い締めにしたまま逃がさない。
 激しい音を立てながら慶子の角が折られた。
「ギィィヤァァァッ! 魔力の源を……おのれ、おのれ、お前の角もへし折ってくれるわ!」
慶子の手がるりあの角に伸びる。だが、るりあは動じなかった。へし折った慶子の角を花咲の足下に放り投げたのだ。
「それで止めを刺せ! 毒をもって毒を制せ! ためらうなッ!」
 この状況の中で、るりあは母のような優しい微笑みを浮かべた。
花咲は角を拾い上げ、全体重を乗せて慶子の胸に突き刺した。
「グガガガ……ギャアアアアァッ……」
血の気の失せた顔で慶子は眼を剥き花咲を睨みつけた。
角は慶子の躰を貫通し、そしてその後ろにいたるりあの躰も――。
 血の花がるりあの唇から咲いた。
 狂風が渦巻き、花咲の躰が吹き飛ばされた。
 慶子の逆立った髪が蛇の群れに変わる。
「下賤[げせん]な人間風情がァァァッ!!」
大地に奔る蜘蛛の巣のような亀裂。
 天に現れた渦巻く空間が世界を吸いこむ。
 なにもかも、なにもかも、なにもかもを吸いこんでしまう。
慶子とるりあが天に昇り渦に吸いこまれた。
さらに花咲の躰が浮く。
 掴めるものはなにもなく、花咲は地面に爪を立てた。爪の間に滲む血。
しかし、花咲も為す術なく渦に吸いこまれてしまったのだ。
残されたのは鳥居。
 そして、屋敷があった敷地を囲み円を描く謎の土塊の丘。

 つづく


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