第3話 土蜘蛛

《1》

 それは運命の糸で編まれた住処。
 誘われた者、囚われた者は、捕食者によって今宵も狩られる。
 来る者は拒まず、去る者は逃さず。
 その幾つもの眼で獲物を捕らえ、その幾つもの足で獲物を追う。
 里の青年はそこで働く奉公人の少女に興味を持った。
 大人たちは無闇に近付きたがらない。
 しかし、青年はまだ心が幼かった。
 それは無知か無垢なのか。
 惹かれるとは引かれること。すなわち手繰り寄せられるということ。
 誰もが恐れる屋敷に青年は忍び込んだのだ。
 住人たちが寝静まったであろう夜更け。
 ――会いたいがために。
 屋敷の敷地には難なく忍び込むことができた。
 問題は屋敷の中にどのようにして入ることができるのか。
 この屋敷は普段から雨戸が閉め切られ、傍目からは閉鎖されているように見える。
 しかし、玄関の戸に手を掛けると、静かに開いたのだ。
 まるで誘われている。
 青年はそれを幸運と思った。
 逸る気持ちを抑えられず、青年は足早に廊下を進んだ。
 気配がした。
 闇の向こうで何かが蠢いている。
 ――手招きしていたのは、大蜘蛛。
「ぎゃああぁぁぁっ!!」
 青年は肝を潰し尻餅をついた。
 大蜘蛛がようすを伺いながら迫ってくる。
 生きたまま食い殺される。
 逃げなくて、逃げなくては、青年は床を掻きながら逃げようとした。
 しかし、その糸に一度絡め取られれば、逃げることなど叶わない。
 すでに青年の四肢は蜘蛛の糸によって捕らえられてしたのだ。
 青年の眼前で触肢が蠢いている。
 声も出せず口を開けていた青年の口腔に蜘蛛の消化液が流れ込んできた。
 大蜘蛛の接吻。
 まるでそれは生き血を啜るように見えるが、蜘蛛のは消化液によって獲物を体内から溶かし、それを飲み込み食事をするのだ。
 まるで躰が内側から焼けるよう。
 胃が腸が、じゅくじゅくと焼けていく。
 のどが爛れ、もう声すらも出せない。
 恐怖を味わい、苦しみながら、糸に囚われ暴れることもできず。
 最期の瞬間まで青年は悶絶しながら喰われて死んだ。
 やがて残された搾り滓。
 大蜘蛛が闇の中へと消えていく。
 しばらくして、その場に侍女の菊乃がやってきた。
 淡々と掃除をし跡形もなく、何事もなかったように終わる。
 やがて、朝を迎えれば、家族は何も知らず一日がはじまるのだった。

 眼を開けると、ぼんやりと人の顔が見えた。
「お目覚めでございますか?」
 すぐ近くでしゃべられているはずなのに、意識がはっきりとしないためか、遠くに聞こえる。
「あなたの名は瑶子。姓は土田、土田瑶子という名でございます」
「よ……う……こ」
「お上手です。そして、わたくしの名は菊乃」
「き……く……の」
「焦らずともすぐに喋れるようになります。三日もすれば前のように生活できるようになるでしょう」
 瑶子は躰を起こそうとした。
 うまく力が入らず、起き上がれない。手足の感覚も少し麻痺したように、鈍感になってしまっている。
「焦らずともと申し上げた筈です。無理をなさらず、もうひと時お休みなさいませ」
 菊乃は瑶子を寝かしつけた。
 虚ろな目をしてうなずいた瑶子。
 姿形は少女なのに、その表情はまるで赤子のよう。
 まん丸な瞳を瑶子は閉じた。
 まぶたの裏に広がる暗い暗い闇。
 その先に何かがいる。
 八つの眼。
 違う。
 それは青年の瞳に映った光景だった。
 眼の中に映り込んでいた八つの眼。
 そして、世にも恐ろしい表情をしている青年。
「きゃあああああ!」
 叫びながら瑶子は飛び起きた。
「どうかなさいましたか?」
 静かな声で菊乃は尋ねた。
 瑶子は震えたまま答えない。
 菊乃はそっと瑶子の手を握った。とても冷たい手だった。それでも握られていると安心です。
 記憶の糸を辿る。
 今見た光景はいったいなんだったのか?
 思い出せなかった。
 それどころか瑶子はなにも思い出せない。
 自らの名前でさえ。
 ようこ。
 呼ばれた感覚は違和感なく馴染んだ。
 きくの。
 傍にいる少女の名も違和感がない。
「あ……たし……は……だれ?」
 舌が回らない。
「名は土田瑶子」
「よ……う……こ」
「ご自分の顔をごらんになりますか?」
 瑶子は小さくうなずいた。
 すっと立ち上がった菊乃は引き出しから手鏡を取って来た。
 鏡面が瑶子に向けられる。
「だ……れ?」
 見知らぬ顔。
「それがあなたの顔でございます」
「よ……う……こ?」
「そのお顔が瑶子の顔」
「ようこ」
「発音がお上手になってまいりました」
 言葉を覚え、言葉を発音できる度に褒められる。まるで言葉を覚えた手の赤子のようだ。
 瑶子は再び起き上がることに挑戦した。
 今度は上半身が起き上がった。
 菊乃はすぐに瑶子の背に手を添えた。
「素晴らしい。そのまま立ち上がる気でございますか?」
 立ち上がろうとする瑶子に手を貸す。
 しかし、膝が震えすぐに瑶子は倒れてしまった。
 菊乃は瑶子の長い脚を揉んだ。
「焦らずともすぐに立てるようになります。歩けるようになったら、この屋敷を見て回りましょう」
「やしき」
「これからあなたが暮らす屋敷でございます」
「やしきでくらす」
「生まれたときからあなたはこの屋敷の奉公人。そして、使命は違えどわたくしも同じ奉公人。わからぬことがあれば、なんでもわたくしにお聞きください」
 生まれたときから。
 以前からということか?
 ならば失われた記憶もここにあるのか?

 目覚めてから一日目は寝床で過ごした。
 二日目の朝、何気ない動作で瑶子は立ち上がり布団から出た。
 まだこの部屋の外に出たことがない。
 躰が動くようにって、外に出ようかと迷っていると、菊乃がやってきた。
「わたくしがいない間にお目覚めになりましたか」
「はい、目が覚めてしまいました。とっても気持ちいい朝ですね」
 言葉もすんなりと出た。
「わたくしたちはご家族の誰よりも早く起きねばなりません。早く目が覚めることをよいことでございます。まずは着替えを済ませてしまいましょう。その姿でご家族の目に触れるのは失礼にあたります」
 菊乃は箪笥の中から瑶子の服を取りだして手渡した。
 少し粗末な着物と前掛け。
 瑶子は自分ひとりで着替えはじめた。
 寝衣を脱いだ裸体は手足が細くしなやかに伸びていた。
「きゃっ!」
 瑶子は短く叫んだ。
 躰に触れた冷たいもの。
 それは濡れ布だった。菊乃によって躰が拭かれる。手足の先から、顔まで、隅々まで拭かれるがまま。
「お躰を拭いて差し上げるのは今日まででございます。お躰が自由に動くようになった今、お一人で入浴して汗を流してください」
 躰を拭き終わると、着物に着替えるのも菊乃が手伝ってくれた。
 袖にその長い腕を通し、帯を締める。
 最後に前掛けを付ければ、すっかり姿はこの屋敷の侍女だ。
 菊乃は鏡台の前に瑶子を座らせた。
「髪を梳かし結いましょう。今はまるで乞食のような汚らしい髪です」
 鏡台の掛け布が取られた。
 正座をする瑶子の後ろで膝立ちをしながら菊乃は櫛を手に取った。
 瑶子の髪は細く艶やかで、それでいて弾力性があり強い。
 小枝が折れたような音。
「あっ」
 と、瑶子は声を漏らした。
 櫛の歯が欠けたのだ。
「ご心配なさらずに、よくあることでございます」
 それほどまでに瑶子の髪は強かったのだ。
 梳かされた髪は一本に大きく三つ編みにされた。
 瑶子は菊乃を姉のように感じた。
 鏡に映る菊乃の姿は、淡々と作業をこなしているだけ。それでも瑶子は嬉しく思う。
 ふっと鏡に何かが映り込んだ。
「菊乃さん……見えましたか?」
「なにかございましたか?」
「綺麗な女の人が部屋にいました」
 しかし、部屋のどこを見渡しても、ここにいるのは瑶子と菊乃だけだ。
「ご心配なさらずに、よくあることでございます」
 身支度を済ませると、瑶子は部屋の外に連れ出された。
「まずは静枝様にご挨拶をしましょう。静枝様はこの家の当主、何があろうとも、静枝様のおっしゃることが絶対ということを肝に銘じておくように」
「はい」
 瑶子は思った。静枝とはいったいどのような方なのだろうか?
 とある部屋の前に来ると、そこで菊乃は正座をし、瑶子の同じように座らされた。
「失礼いたします、菊乃でございます。瑶子を連れて参りました」
 そう言うと、部屋の中から声が返ってきた。
「お入りなさい」
 戸を開けると、その先にひとりの女が正座をしており二人を出迎えた。
 すぐに菊乃は頭を下げたが、瑶子は呆然として、その女の顔を見つめてしまった。
 年の頃は一〇代後半。瑞々しい肌と整った綺麗な顔立ち。しかし、顔の半分を覆う痛々しい痣。
 そして、瑶子はこれとそっくりな顔を見ていた。
「さっき見た顔」
 つぶやいた瑶子に菊乃は静かな目をして耳元で囁いた。
「そうであるなら、決して静枝様のお耳には入れないように、絶対でございます」
 内々に話す二人に静枝は声をかける。
「なにかあったのかしら?」
「いえ、なにもございません」
 すぐに菊乃が答えた。
 まだ瑶子は呆と静枝の顔を眺めてしまっている。
 鏡に映ったあの顔を瓜二つ。違うのは痣があるかないかくらいだ。
 痣の他にも気になる点があった。
 大きく膨れた静枝の腹。
 その視線に静枝も気づいたようだ。
「もう半月もせず生まれるわ、双子の姉妹よ」
 瑶子は驚いた。
「双子、それも姉妹とわかるのですか?」
「そういう定めなのよ」
「旦那様は?」
 一瞬、空気が凍り付いたような気がした。
 菊乃は無表情のまま口を結んでいる。
 静枝は妖しく微笑んだ。
「此の世にはいないわ。それも定めなのよ」
 よく瑶子には理解できなかった。
 とりあえずは一見させたので、菊乃は早々に去ることにしたらしい。
「わたくしどもはあさげの準備がございます。これにて失礼いたします」
「あ、失礼します」
 慌てて瑶子も頭を下げて、先に出て行ってしまった菊乃を追いかけた。
 部屋を出て廊下を歩き出すと、瑶子は不思議そうな顔で菊乃にあることを尋ねる。
「ほかのご家族にご挨拶をしなくていいのですか?」
「今この屋敷で暮らしておられるのは静枝様だけ、わたくしたちを加えるなら三人だけでございます」
「だってほかにも家族が?」
 なぜほかにも家族がいると思ったのか?
 そうだ、菊乃がいつだったか「ご家族」という言い方をしたのだ。ひとりしかいないのであれば、そのような言い方はしないだろう。
「もうすぐ双子のご息女がお生まれになります。そして、しばらくしたら家庭教師を向かい入れるともおっしゃっておりました。わたくしたちの仕事も増えることになりましょう」
 と菊乃は言ったが、家族はこれから増えるのであって、今いるわけではない――筈だ。
 言葉を細かく気にしすぎなのだろうか?
 二人は台所がある土間に向かっていた。これから朝食の準備をするためだ。
 侍女としての勤め。
 当たり前のように事が進んでいく。
 瑶子は今になって疑問に思った。
「ところで、なぜあたしはここにいるのですか?」
「それはこの屋敷の奉公人だからでございます」
「そういうものなのですか?」
「あなたが生まれた時からそう決まっております」
「生まれたとき……そう言えば昨日以前のことを覚えてないのですが?」
「それは特に気にするほどのことではございません。あなたはここで自分の勤めに精を出せばいいのです」
「そういうものなのですね」
 とても不思議だが、なぜか納得してしまった。
 こうして二人は朝食の準備をした。用意したのはもちろん静枝の分。ほかにあとで頂く物として、自分たち二人分も別に用意した。
 やはりこの家には三人しかいないのか?

《2》

 朝食が終えると、次に瑶子は屋敷の中を菊乃に案内された。
 屋敷は広く、たった三人にはあまりある大きさだ。これから家族が二人増え、家庭教師も来ると言う話だが、それでもあまりある。
「あの、この赤い札のお部屋は?」
 瑶子は不思議そうに尋ねた。
「開かずの間でございます。あなたも決して開けてはなりません」
「なぜですか?」
「そのうちあなたも感覚が磨かれ、おのずとそれでなんであるかわかるでしょう」
 突然、赤い札の部屋の中で物音がした。
 さらに戸が激しく揺れる。
 驚く瑶子。
「なんですか!?」
「戸を開けさえしなければ、強風と同じでございます」
 部屋の中から低い唸り声が聞こえてきた。
 それに対しても菊乃は涼しげな顔で応じる。
「風も同じような音を立てるでしょう?」
「はあ、そうですね」
「少し騒がしいかもしれませんが、馴れれば気にも留めなくなります」
 そういうものなのだろうか?
 屋敷の端から端までやって来て、壁の前で菊乃は足を止めた。
「近い将来、この壁が壊され、廊下が造られる予定でございます」
「そういうことは、この先に部屋ができるのですか?」
「家庭教師を迎えるための離れになります。洋風とのご注文で、今回は少し建設に時間が掛かっているようで」
「今建設中ということですか?」
「ええ」
「なら大工さんたちのお世話もあたしたちの仕事ですね!」
 はりきって仕事に精を燃やそうとした瑶子だったが、菊乃の次の一言は思わぬものだった。
「それに関してわたくしたちの仕事はなにもございません。なぜなら、建設はわたくしたちの知らぬところで勝手に進んでいくからでございます」
「勝手にですか?」
「わたくしたちはわたくしたちの仕事をすればいいのです」
「まだ自分の仕事についてよくわからいのですが?」
「常時するべき事はご家族のお世話。それには掃除洗濯炊事などの家事が含まれております。加えて静枝様のお言いつけを守ること。そして、自分自身のなすべき事をやること。最後の事は自然と見えてくるものなので、あえてわたくしがお教えする必要のないこと」
 またご家族≠ニ言った。
 瑶子は菊乃の言葉をすべてなぜだか納得できた。
 過去の記憶がなくとも、やはり瑶子もこの屋敷の住人。外の者が不可思議に思う内容の話でも、そういうものなどすぐに納得してしまう。
 二人は来た道を引き返した。
「次はどこへ行くのですか?」
 瑶子は興味津々の顔で尋ねた。
「機織り室に参りましょう」
「あたし機織りは大好きです!」
「今日のところはあなたに任せられる仕事は夕げまでございません。それまでの間、機織りでもしているとよいでしょう」
 部屋に向かって歩いている途中、ふと菊乃の足が止まった。そこにあったのは赤い札が貼られた部屋。
「近々、この部屋を開放することになります」
「開けてはいけないって?」
「双子のご息女のお部屋が今はございません。ここと、隣の部屋が間取りもよいのです。解放の際にはあなたにも手伝ってもらうかもしれません」
「手伝うってなにを?」
「それはそのときにお話しします」
 二人はこの場をあとにした。
 織機のある部屋にやって来た瑶子はさっそく織物をしようとしたが――。
「あの、どうやって使うのでしょうか?」
 たしか機織りが好きと自分で言った筈だが?
 とくに不思議がることなく、菊乃は淡々と説明をはじめる。
「まずここに踏み板がございます。踏み板を踏むと――」
 この後、説明を一通り聞き終わると、瑶子はすぐに織機が扱えるようになった。その動きは手慣れたものだ。
 機織りを瑶子に任せ、菊乃は自分の仕事をするため去っていった。
 調子よく鳴り響く織機の音。
 緊張をほぐして、瑶子は童謡を歌いはじめた。
 歌いながらそれがなんの歌だったか、どうして自然に口ずさんでしまったのが疑問に思う。

 とおりゃんせ とおりゃんせ
 ここはどこの細道じゃ
 はりてい様の細道じゃ
 ちょっと通してくだしゃんせ
 ごようの無いもの通しゃせぬ
 この子の七つのお呪いに 御札を納めに参ります
 いきはよいよい かえりは怖い
 怖いながらも とおりゃんせ とおりゃんせ

 その歌詞は一般的なものとは違うものだった。自然に口ずさんだ瑶子は、それをそうとも知らぬのであろう。
 しばらく機織りを続けていた瑶子だったが、次第に疲れてきたので休憩するこのにした。
 自然と足は庭の外へと向かっていた。
 清々しい空。
 瑶子は青空を見つめた。
「とっても綺麗」
 まるではじめて空を見たような感嘆。
 昨日、この屋敷で目を覚ましてからはじめて庭に出た。
 あれ以前の記憶は失われている。
 そもそも記憶などはじめからなかったように、何もかもが目新しい。それでいて、何もかもすんなりと受け入れることができる。瑶子はすでにこの屋敷に溶け込んでいた。
 屋敷に沿って周りを歩くと、木材などが置かれている、建設中の離れを見つけた。
 静かなもので、だれもその場にはしなかった。
 今日はたまたま建設が休みなのか?
 菊乃は言っていた。
 ――建設はわたくしたちの知らぬところで勝手に進んでいく。
 それはいつなのか?
 瑶子は建設現場をあとにした。
 屋敷の裏手のほうまで来ると鳥居が見えてきた。
 小さな鳥居から伸びる細道――その先には祠がある。
 鳥居の前に立った瑶子は不思議なものを見つけた。
 黄金に輝く細い糸。
 その糸は鳥居からずっと先の祠まで伸びていた。
 瑶子はその糸を握った。
 ぴんと張り詰められた糸。
 少しずつ手繰り寄せる。
 重い。
 何かが糸の先にある。
 動かないものではない。
 しかし、重い。
 重いというより逆側から引っ張られているような感覚だ。
 やがて糸の先に何かが見えてきた。
 蠢いている。
 それは塊だった。
 毛のない猿のようなものが、糸その先に群がって引きずられてくる。
 そんな不気味なものを自ら手繰る者がいようか?
 しかし、瑶子は手繰り続けたのだ。
 その群れの中に微かに見えた少女の顔。
 少女はしっかりと糸を掴んでいる。不気味なものどもは、少女の躰にしがみついているのだ。
 瑶子は糸を手繰り寄せながら、その場を動かない。自ら糸の先に近付くことはしない。そのほうが早く糸の先にたどり着けるだろう。だが、瑶子は鳥居の手前から手繰り寄せ続けたのだ。
 おそらく瑶子の行動は本能的なものであったのだろう。
 不気味なものの一匹が、少女の躰からずり落ちそうになった。それでも不気味なものは、あがいて少女の髪に捕まった。
 少女が浮かべる苦痛の表情。
 髪が引っ張られ、その髪を掴む不気味なものも、細道の先になにやら引っ張られているようだった。
 少女の躰にしがみついていなければ、来た道を戻されてしまう。そんな感じが見受けられた。
 あと少しで少女の躰が鳥居をくぐる。
 瑶子は足に力を入れ、地を踏みしめながら最後の力を振り絞った。
 少女の上半身が鳥居をくぐった。
 不気味なものどもは、まるで見えない壁に阻まれるように、ずるずると脱落していく。
 少女の躰から落ちた不気味なものは、瞬く間に還される。その先には祠は見えず、代わりに真っ暗な闇があった。
 奇声をあげながら、一匹、また一匹と、闇の中に不気味のものが呑まれていくのだ。
 少女の躰はあと足のみを越して鳥居をくぐった。
 最後の一匹となった不気味なものは、少女の足首に捕まり、最後の最後まで抵抗するのだ。
 不気味にものに掴まれている足首は血まみれだった。
 鋭い爪が足首に食い込み、今にももがれそうなほど痛々しい。
 瑶子にできることは糸を手繰り寄せること。
 足首の皮膚が削げ落ちる。
 不気味にものが落ちていく。
 深い闇へと落ちていく。
 ついに少女は鳥居をくぐり抜けた。
 瑶子の手元から糸は消えていた。
 そして、細道の先には闇などなく、小さな祠が元のように存在していた。
 か細い息をしている少女を瑶子は抱きかかえた。
「だいじょうぶですか?」
「…………」
 返事はなく、少女は睨むような眼で瑶子に訴えている。
 この少女の髪の間からは、二つの角のようなものが生えていた。
「お名前は?」
「…………」
 やはり返事はない。
 瑶子は少女を背負うことにした。それに対して抵抗はなかった。
「傷の手当てをしてあげます。だいじょうぶですよ、怖がらなくても」
 少女の躰は酷く震えていたのだ。それが背から伝わっていた。
 ゆっくりと歩き出す瑶子。
 その背中で小さな声がした。
「……る…りあ」
「えっ、なんですか?」
「るりあ」
「それがお名前ですか?」
「…………」
 また無言になってしまった。

 少女――おそらくるりあ≠ニいう名の少女の手当を済ませ、瑶子はとりあえず菊乃を探すことにした。
 るりあの手を引き屋敷の中を歩き回る。
 廊下を歩いていると、急にるりあが瑶子の背に隠れた。すると、すぐに菊乃がやって来た。
「あなたの背に隠れているそれ≠ヘ?」
「すみません菊乃さん。祠の近くで見つけたのですが、怪我をしていて、それで……」
 どう説明していいのか瑶子は困った。
「祠……で見つけたと?」
「はい、そこで見つけた糸を引っ張ったら、この子が引きずられてきて……」
「今までに類を見ない出来事が起きてしまいましたね」
 この謎めいた屋敷にあって、類を見ないとは――。
 菊乃はるりあを静かな瞳で見つめた。
 睨まれていた。
 背に隠れるという動作は怯えだが、その眼は好戦的だ。
 菊乃は睨まれたことは気にも留めていないようだ。
「それ≠ェなんであれ、まずは静枝様にご報告いたしましょう」
 三人は静枝の元へ向かった。
 静枝は自室で大きな腹を摩りながら、静かに時を過ごしていた。
 部屋に入ってきた三人を見ても、静枝は特に表情を崩さない。
「その子は?」
 静枝が滑らせた視線の先で、先ほどと同じように睨んでいるるりあ。
 瑶子は慌てて口を開こうとしたところ、菊乃が先に口を開いた。
「祠で瑶子が見つけたそうでございます」
「あの場所に……里の子……ではなさそうね」
 静枝の視線はるりあの角に向けられていた。
「どうなさいますか?」
 何をとは言及せず菊乃は尋ねた。
 少し間が置かれた。
 未だにるりあは瑶子の背に隠れている。
「客人としてもてなし、お世話は瑶子に任せましょう。頼んだわよ」
 静枝の言いつけを守ること。
 その言葉に従い瑶子は、目覚めてはじめての言いつけを承けた。
 静枝は言葉を続けた。
「さあ、客人を連れてお行きなさい」
 瑶子はそそくさとるりあと部屋を出て行った。だが、菊乃は部屋に残った。残れと直接言われていないが、菊乃は静枝の視線でそれを察していた。
「なんなりとお申し付けください」
「まずは、あれがなんであるか……菊乃も知らないの?」
「はじめて見ました。しかし、おそらく鬼女の子。だとするならば、この家にまつわるモノかと思いますが、古い資料を調べて見ましょう」
「禍[わざわい]とは、鬼のなす業[わざ]のさま。なにかの前触れかしらね」
「…………」
 菊乃は黙っている。
 静枝は菊乃を見つめている。なにかを菊乃に促しているのは明らか。だが、菊乃は口を開かず。
 沈黙を破ったのは静枝だった。
「下がりなさい」
「失礼いたします」
 静かに菊乃は部屋を出て行った。
 残された静枝は大きな腹を摩った。
「何か変わるのかしらね。あなたたちはどう思う?」
 腹の中からはなんの反応もなかった。

《3》

 瑶子は呆然と眺めていた。
「あれっ、工事が進んでるような?」
 その視線の先にあったのは、離れの建設現場であった。
 昨日よりも工事が進んでいる。
 いつの間に?
 今日も大工らしき姿は見当たらない。
 瑶子は地面をまじまじと見つめた。
 大量の足跡だ。地面には大量の足跡が残っていた。
 足跡はひとりのものではなく、その大きさの違いから複数人いることがわかる。
 いや、そもそもこの足跡を人と呼ぶべきものなのか。
 残された足跡は大きなものともなると、瑶子の顔が収まってしまうほどもある。
 謎の多い建設現場だ。
 瑶子はここ場から移動した。
 散策目的で歩き続けていると、微かな羽音が聞こえてきた。
 辺りを見回した瑶子は屋根近くの壁にそれを見つけた。
「きゃっ」
 見る見るうちに瑶子の顔色が悪くなる。
 そこにあったのは蜂の巣だった。まん丸く太った蜂の素だ。瑶子の顔などよりも遥かに大きい。
 巣の周りには無数の蜂が飛び交っている。
 獰猛かつ凶暴なスズメバチだ。
 すでに蜂は警戒行動を取りはじめ、瑶子の周囲を忙しなく飛び交っている。
 かちかちと堅い物が連続して打ち鳴らされている。それは蜂の大顎だ。すぐにこの場を離れた方がいい。
 しかし、瑶子は足がすくんでその場を動けなかった。
 蜂の群れが瑶子に襲い掛かってきた。
「きゃーっ!」
 もう駄目だと思ったとき、小柄な影が瑶子の前に立った。
 それはるりあだった。
 なんと、るりあは襲い来る蜂を素手で次々と叩き落としはじめた。
 驚く瑶子。
 角を覗けば童女であるるりあが、今はまるで大熊のように見える。
 るりあに群がる蜂。無傷で済むはずがない。すでにるりあは体中を刺されているはずだ。それでもるりあは怯むことなく、暴れ狂いながら蜂を殺していくのだ。
 瑶子はるりあの中に鬼神を見た。
 蜂の襲撃は際限ない。いくらるりあが強くとも、多勢に無勢だ。瑶子のこともひとりでは守りきれない。
「逃げろ」
 るりあに命令されるも、瑶子は膝が震えて立っていることもできなかった。
 そんなるりあを抱きかかえた冷たい手。
「逃げましょう」
 菊乃は瑶子を強引に引きずった。
「でもるりあちゃんが」
「今はあなたのほうが心配です。天敵の蜂の気配すら気づかないなんて、まだあなたは本調子ではないのです」
 るりあを残してはいけないと瑶子は思いつつも、震えていうことを利かない躰では抗うこともできず、菊乃に引きずられるがまま。
 るりあの姿がどんどんと小さくなっていく。未だ蜂と果敢にも戦い続けている。
 群れから離れた蜂が執拗に瑶子をたちを追ってくる。
 菊乃が蜂を素手で握りつぶした。毒針など気にも留めてない動作だ。
 やがて蜂を振り切った二人は屋内へと逃げ込んだ。
 菊乃は瑶子をその場に残し、戸締まりをして再び蜂の元へ向かった。
 ひとり残された瑶子の躰はまだ震えていた。
「躰がすくんで何もできないなんて……ああ、るりあちゃん……」
 るりあのことが心配だ。
 今からでも助けに行きたいという気持ちはある。けれど気持ちとは裏腹に躰が動かないのだ。
 今でも羽音や顎を鳴らす音が蘇ってくる。
 血の気が引いて、手足から痺れが全身に伝わり、やがて動けなくなるのだ。
 酷い恐怖だ。
 蜂に刺されれば死に至ることもある。それにしても瑶子の恐怖は尋常ではない。
 玄関先でぐったりとしていると、菊乃がるりあを連れて戻ってきた。
 るりあの姿を見た途端、瑶子は声をあげた。
「るりあちゃん大丈夫!」
「……おら強いから平気だ」
 るりあは小さくうなずいた。
 体中には蜂に刺された痕がある。とは言っても、その傷は蚊に刺された程度にしか見えなかった。
 菊乃が瑶子に尋ねる。
「もう自分の足で歩けますか?」
「はい、どうにか」
「ならば、ご自分の部屋でお休みください」
「あの、るりあちゃんの手当を!」
「それはわたくしがやって置きましょう」
 言った途端、るりあは駆け出して逃げしまった。
「あっ、るりあちゃん!」
 瑶子が名前を呼ぶが、その姿はもうなかった。菊乃もわざわざ追うことはなかった。
 まだ調子がすぐれないが、瑶子はるりあを探そうと歩き出した。それを見透かされたのだろうか、菊乃が声を掛けてきた。
「お部屋までご一緒しましょう」
「あの、あたしは……」
 口ごもる瑶子に菊乃は間髪入れなかった。
「無理をされては困ります。あなたひとりの問題ではないと覚えておいてください」
「あたしひとりの問題ではない?」
「そうです、あなたにはあなたのやるべきことがあります。体調を崩され、それがおろそかになれば、皆が困るのですよ」
「……はい」
 少し沈んだ返事をした。
 菊乃に連れられて部屋に戻る。
 瑶子の部屋は六畳一間で、同じ奉公人である菊乃とは別々の部屋になっている。
「しばらく部屋で大人しくしていてください」
 と言って、菊乃は部屋を立ち去ろうとする。
「あの」
「なんでしょうか?」
 菊乃が振り返った。
「あたし……お役に立ててますか?」
「どういう意味ですか?」
「仕事もあまりさせてもらっていないし、逆に迷惑を掛けているような」
「此の世に存在する以上は、なんらかの役割を担っております。あなたにはあなたのするべきことがございます。自然に身を任せていればいいのですよ」
「……はい」
 沈んだ返事。気分が晴れない。
 再び立ち去ろうとする菊乃をまた瑶子は呼び止めようと口を開いた。
「あの」
「まだなにか?」
「どこに行くのですか?」
「蜂の巣の駆除をしなくてはなりません」
「……あ……っ」
 瑶子は立ち眩みを覚えた。すぐさま菊乃が抱きかかえる。
「大丈夫でございますか?」
「……すみません。さっきにことを思い出してしまって、蜂が怖くて怖くてどうしてこんなに怖いのでしょう。菊乃さんにもなにか怖いものありますか?」
「ございません」
 その返事を聞いて瑶子は肩を落とした。あると言ってくれれば、少しは気分が晴れたかもしれない。さらに瑶子は落ち込んでしまった。
 三度立ち去ろうとする菊乃。今度は呼び止めることなく見送った。
 ひとりになった瑶子は物思う。
 このまま奉公人として仕事をまっとうできるのだろうか。
 現状では仕事の多くは菊乃がひとりでこなしていた。瑶子がいなくても、家事や静枝の世話は菊乃だけでこなせるだろう。
 なにかをしなくてはいけないという焦りが瑶子の中で生まれていた。
 早くこの場に馴れたい。屋敷の住人として溶け込みたい。ここが自分の居場所だと強く瑶子は感じたいのだ。
 なぜそう思うのか?
 瑶子はふと思い付いた。
 過去の記憶がないからではないかと――。
 今まで過去の記憶がないことにたしいて、なぜか自然と受け入れてしまっていた。本来であれば、もっとそれについて思い悩むだろう。瑶子にはそういう考えがなかった。
 それが今やっと大きな疑問として育ちはじめたのだ。
 記憶を失う前のこと。
 どこで、なにを、していたのか。
 菊乃の態度や言動から、記憶がない以前の瑶子を知っているように思える。
「記憶を失う前も……同じ生活をしてたのかな?」
 だとしたら、役立たずの自分が余計にもどかしい。過去にも同じことをしていたはずなのに。
 そうだ、菊乃は瑶子が本調子ではない≠ニ言っていた。
 記憶を失う要因があり、それによって目覚めても調子が悪い。その要因を知りたいと瑶子は思った。尋ねるとしたら菊乃か静枝の二つしか選択肢がない。話しやすいのは菊乃だが、過去に似たような質問をしたときも、具体的な答えは得られなかった。
 静枝はどうか?
 菊乃が具体的に答えない答えを、主人たる静枝が答えるだろうか?
 それに瑶子はなぜ静枝に尋ねることが怖かった。
 怖いというのは畏怖、もしくは恐れ多いとでもいうのか、静枝に尋ねることはなぜか躊躇われるのだ。
 瑶子は考えることをやめた。
 休めと言われたのだ、部屋でじっとして心身を休めることにした。
 必要最低限の家具しかなく、部屋での楽しみはとくにない。けれど、瑶子はじっとしていることが嫌いではなかった。
 まるで悟りでも開くかのような瞑想に近い状態。
 部屋と一体化するように、ただじっとなにもせずに気配すら消す。
 ゆるやかに時間が流れた。

 翌日になり、まだ蜂のことを引きずっていた瑶子は、外に出ることをためらっていたが、午後になり決心をした。
 本当は近付くのも嫌だ。足がすくんでしまう。けれど、菊乃からは駆除したと聞いている。この目で確かめなければ、いつまで経っても恐怖に苛まれたままだ。
 昨日と同じ道のりを歩む。
 工事現場で足を止めた。
 やはり昨日よりも工事が進んでいる。
 瑶子はさらに先へと進んだ。
 動悸がしてくる。
 耳を澄ませば羽音が聞こえてくるような気がする。
 足が震えて思うように動かない。
 これ以上もう歩けない。
 瑶子は立ちすくんでしまった。
 また蜂に襲われたら今度こそ駄目かもしれない。
 足がすくんで逃げることもできないのだ。
 そっと瑶子の手が温かさに包まれた。幼い小さな手だ。小さくともとても心強い。るりあの手。
「るりあちゃん」
「…………」
 るりあは口を閉ざしているが、その気持ちはちゃんと伝わってきた。
「ありがとう、心配してくれてるのね」
「…………」
 つんとるりあはそっぽを向いてしまった。けれど、その頬は少し赤く染まっていた。
 歩み出す瑶子。
 あの場所に蜂の巣はなかった。
 安堵感で全身の力が抜けそうだった。
 気持ちも晴れやかになり、足を弾ませながら瑶子はるりあと手を繋いだまま、この場をあとにした。
 屋敷の中へ戻ろうとしていると、るりあが遠くを眺めた。
 庭よりも遥か先、屋敷の敷地外に微かに見える人影。
 急にるりあは瑶子の手を振り払い駆け出してしまった。
「あっ」
 瑶子は小さく声を漏らしただけで、また追いかけることができなかった。るりあは一度駆け出すと、あっという間に消えてしまうのだ。
 るりあのとこも気になったが、それ以上にあの人影が瑶子は気になって仕方なかった。
 垣根は高く侵入者を拒むように見えるが、目は荒く外からも中からも互いにようすが伺える。
 瑶子が垣根に近付いていくと、その青年は明らかに敵意を持って睨みつけてきた。
「どうかしましたか?」
 瑶子は笑顔で尋ねた。
 けれど青年の表情は変わらない。
「おい、弟さどこにやったんだ!」
 突然怒鳴り掛かってきた。
 瑶子はなにがなんだかわからない。
「はい?」
「弟さどこやったか聞いてるんだ!」
「なにを言われているのか、よくわかりませんが?」
「おめぇ、この家のもんだろ!」
「はい、この屋敷で奉公人をさせていただいている瑶子と申します」
 さらに青年の顔つきは憤怒し、垣根を掴んで揺さぶってきた。
「おめぇが瑶子か! この尼、弟を返せ!!」
「何か勘違いか人違いをなれてるいるのでは?」
「弟をたぶらかして、弟は……弟は……」
 急に青年は歯を噛みしめて涙を流した。垣根を掴んだまま、力が抜けていき、地面に両膝をついた。
 瑶子は背を低くして青年を見つめる。
「大丈夫ですか?」
「おめぇに心配なんかされたかねえ。そうやって弟のことも騙したんだろ!」
「ですから、なにを言われているのか……」
「弟は毎日に毎日おめぇに会いに行ってたんだ。おらがもうよせと言ったのも聞かねぇで、あいつ……弟を返せ!」
 垣根の隙間から青年の手が入ってきて、瑶子の服を掴んだ。
「きゃっ、なにを!」
「弟をどうした! やっぱり……やっぱり……もう……殺されちまったのか!」
「えっ!?」
「弟を弟を返せ!」
 両の手で服を掴んで青年は激しく揺さぶった。
 瑶子は恐怖した。
「いやっ、やめてください!」
「殺してやる!」
「ですから、なにを言っているのか、もうやめてください!」
 瑶子はどうにか青年の手を振り払ってその場を離れた。
 青年は垣根の向こうで喚き続けている。
 恐怖を背にしながら瑶子は屋敷の中へと逃げ込んだ。

《4》

 来る者は拒まず、去る者は逃がさず。
 またも誘われた若者がひとり。
 このまま囚われれば、捕食者によって狩られるだろう。
 弟が謎の失踪を遂げた。
 その当日の昼まで、連日に及び弟はある場所に通い詰めていた。
 里の者は無闇には近付かない。
 親から子へ、子から孫へ、幼い頃から言い付けられてきた。
 里の者が謎の失踪をしたと知れたとき、確証も証拠もなかったが、暗黙の了解として皆それを認識した。
 そして、兄の言葉によって、弟と屋敷の関わりが明らかになると、失踪した弟が咎められて自業自得とだれも口を揃えた。
 ある者は『なんてことをしてくれた』と、兄や残った家族を罵った。
 触らぬ神に祟りなし。
 類が及ぶことを恐れている。特に迷信深い老人たちは、残った家族を里から追い出せと言う者もいた。
 若かった兄はそれらに納得できなかった。
 弟がいなくなった悲しみや不安はだれも心配してくれないのか。それどころか、迫害まで受けている。
 あの屋敷がなんだというのだ。
 やがて兄の感情は怒りに染まり、ついに屋敷へ忍び込む決意をさせた。
 夜も更けた。
 垣根は難なくよじ登って越えることができた。
 問題は屋敷の中にどのようにして入ることができるのか。
 勢いに任せてしまったため、なんの準備も下調べもしてこなかった。
 しかし、玄関の戸に手を掛けると、静かに開いたのだ。
 それがまさか弟のときを同じとは知らず、兄は屋敷の中へと誘われた。
 弟をなんとしても連れて帰る。
 住人に見つかってしまったら仕方がない。住人と揉み合いになっても、住人を人質にしてでも、弟を捜し出す決意を兄はしていた。
 周りの者にはなにも言わせない。弟の心配をしてくれなかった者たちの心配などしない。ほかの者のことなど構いはしない。弟さえ無事に帰ってきてさえくれればそれでいいのだ。
 青年は廊下を進んだ。
 そして、妖しげな部屋を見つけた。
 赤い札で閉ざされた部屋。
 不自然なその部屋を見つけて、兄はこの中に弟が閉じ込められているのではないかと考えた。
 赤い札を剥がそうと手を触れた瞬間、火花が散って兄は大きく後ろに吹き飛ばされた。
 部屋の向こうから恐ろしい風の音が聞こえた。
 がたがたと激しく戸が揺れる。
 腰を抜かした兄は床を掻くようにして逃げ出した。
 しかし、前に進まない。
 藻掻けば藻掻くほど躰が何かに絡め取られる。
 恐ろしい気配で兄は寒気を覚えた。
 闇の向こうで何かが蠢いている。
 八つの眼がこちらを見ている。
「ぎゃああぁぁぁっ!!」
 兄は弟と同じ運命を辿るのか。
 大蜘蛛が兄のようすを伺っている。
 今宵の餌食はすでに巣に捕らえられ、逃げることも叶わない。
「た、助けて、助けて……」
 ぐしゃぐしゃの顔で涙を浮かべて兄は懇願した。
 大蜘蛛はすぐそこまで迫っていた。
 蠢く触肢。
 このままでは消化液が体内へと流されてしまう。
「この虫野郎……こうやって……こうやって弟のことも喰い殺したのか!!」
 大蜘蛛の動きが一瞬止まった。
 刹那、赤い札が破け飛び戸が開くと同時に強風が吹き荒れた。
 大蜘蛛が叫び声があげながら切り刻まれる。
 かまいたちだ!
 大蜘蛛は天井まで飛び上がり張り付いた。
 廊下の闇の中で何か≠ェ蠢いている。
 禍々しい鬼気を兄も感じていた。
 大蜘蛛にも勝るとも劣らない、何か°ーろしいモノがいるのだ。
 その何か≠ニ大蜘蛛が目の前で敵対している。おちらが勝つのか兄にはわからない。そして、どちらが勝っても運命は同じだと悟っていた。
 死に手招きされている。
 廊下の先から静かな足音が響いてきた。普段なら聞こえなかっただろうが、死を目前にした兄は感覚が研ぎ澄まされ、それを知ることができたのだ。
 やって来たのひとりの少女――菊乃。
「侵入者……まさか封印まで解けるとは厄介ですわね。本来なら解けるはずのない封印が解かれるとは、以前から綻んでいたとしか考えられない。だとするならば、それに築かなかったわたくしはなんたる過ちを犯したのか……ご主人様に申し訳が立ちません」
 菊乃は大蜘蛛と何か≠謔閧熕謔ノ、兄の前に立った。
「助けてくれ!」
 無意味と承知で兄は懇願した。
 しかし――。
 振り下ろされた斧。
 そして、鮮血が廊下を彩った。
 顔に迸った血など気にも止めず、菊乃は廊下の先に広がる何か≠見つめた。
「どの道、近々あの部屋は開ける予定でございましたが――道理、すなわり理には道があるとのご主人様の教えでございました」
 斧が大きく振られた。
 ――束の間。
 その出来事は束の間で終わりを迎えたが、収集までには至らなかった。
 やがて時は経ち、朝を迎える。
 そこに何か≠フ気配も大蜘蛛の姿もない。
 しかし――。
 起きてきた静枝はそれを見つけた。
 ぐったりとして死んだように動かない菊乃の姿。眼を見開き、瞬きすらしなかったが、その口が言葉を紡ぎ出す。
「申しわけございません静枝様。お見苦しいものをお見せしてしまったことは深くお詫び申し上げます」
「酷い有様ね」
「躰がまったく動きません」
「そうね、少しでも動くのなら、こんなことにはなっていないものね。こんなに散らかった廊下、はじめて見たわ」
 静枝の視線の先に広がる光景。
 血みどろ廊下と、生首を抱きかかえたまま動かない瑶子の姿。
 その瑶子の瞳が濡れていたことにはだれも気づかなかった。

 その部屋は少し湿気を帯びていた。
「素晴らしいわ。もうすぐ生まれそうね」
 嬉しそうに言ったのは慶子だった。
「ええ、もうすぐよ」
 答えたのは静枝。
 しかし、静枝の腹は大きくはなく、生まれるのは別のモノ。
 部屋に張り巡らされた糸。
 巨大な繭玉がいくつもそこにはあり、ときおり中で何かが蠢いている。
 そこは巣ともいうべき場所だった。
 一番大きな繭玉が激しく動いた。
「嗚呼、生まれそう!」
 慶子の声とほぼ同時だった。
 みしみしと内側から破られる繭玉。か細く蒼白い人の手が出てきた。まだ精気の感じられない手だ。
 その手は紛れもなく人間の手だが、このような繭から生まれ出るものが人間なのか?
 不気味な繭の中から裸の少女が這い出してくる。
 生まれたときにはすでにその姿――瑶子。
 繭玉の中から生まれ出たのは、姿形は紛れもなく瑶子だった。
 静枝は近くで待機していた菊乃に目をやった。
「生まれたばかりでお腹がすいていることでしょう。餌をやってちょうだい」
「畏まりました」
 菊乃は大きな麻袋を引きずり瑶子の近くまで移動した。そこで麻袋の中から大きなものを引きずり出した。
 出されたのは血の気を失っている裸の少女。
 その少女も――瑶子。
 まさかこの世に瑶子が二人?
 そして、おぞましい出来事が待ち受けていた。
 瑶子が瑶子を喰らう。
 無我夢中で生まれたばかりの瑶子は自分と同じ姿形の餌を喰らった。
 血みどろになりながら、むしゃむしゃと音を立てながら、肉を喰らっている。
 その光景をうっとりした目つきで静枝を見ていた。
「わたくしも肉が食べたくなってきたわ。ねえ慶子さん、これからすぐにやりませんこと?」
「もう少し調教したかったけれど、あなたがそういうなら仕方がないわね。うふふ、欲望に忠実なあなたが大好きよ」
「わたくしも貴女と知り合えた本当によかったわ。貴女がやって来るまでは本当に虚しいばかりの生活だったもの」
 二人は連れ添って部屋を出て行こうとした。その途中で、静枝は菊乃に顔を向けた。
「落ち着いたら娘たちに悟られないように運んでおくのよ。あとのことはわかるわね?」
「すべて心得ております」
「ならいいわ」
 菊乃にあとのことはすべて任せ、静枝は部屋を出た。
 慶子と廊下を二人で歩いていると、前から幼い少女が駆け寄ってきた。
「おかあさま、おかあさま!」
「どうしたの美花さん?」
「ようこはまだ帰ってこないの?」
「もうすぐ元気になって帰ってくるわ。けれど、病気のせいで記憶を失ってしまったみたいなの」
 幼い美花は驚いた顔をして、すぐに悲しい顔をした。
「わたしのこともわすれちゃってるの?」
「そうよ、しばらくすれば昔のようにこの屋敷で働けるようになるけれど、記憶だけはどうしても戻らないのよ」
 美花は今にも泣き出しそうだ。
 慶子がそっと美花の頭を撫でた。
「記憶を失うなんて本当に些細なことでしかないわ。またいっぱい遊んでもらって、たくさん楽しい思い出をつくればいいだけの話よ」
「……けいこせんせい……うん、わたしそうするね!」
「うふふ、本当に美花は良い子ね。さあ、行きなさい」
 慶子は美花の背中を軽く押した。
 駆けて行った美花の姿が見えなくなると、慶子は静枝と話をはじめた。
「ところでお肉を捌くとき、まずはわたくしに任せてくれないかしら?」
「なにかおもしろいことでもあるのかしら?」
「どこまで生かすことができるのか、挑戦してみたいのよね」
「それは楽しそうだわ。いつも殺すことばかりで、思いつきもしなかったわ」
 二人は笑いながら廊下を歩いて行った。

 荷物を麻袋の詰め終えた菊乃は、それを台車に乗せて瑶子に顔を向けた。
「捨ててきてください」
「はい、わかりました!」
 元気よく瑶子は返事をした。
 瑶子が記憶を失った状態で目覚めたのは数年前のこと、今では屋敷での仕事をなんでもこなすことができる。
 台車を押しながら屋敷の外に出ると、ちょうど出くわしてしまった。
 すっかり成長して、このごろは女らしくなってきた双子の姉妹。歳は七つだが、その見た目は一五前後で瑞々しい。
「す、すみません!」
 慌てて瑶子は来た道を引き返そうとした。
「気を遣わなくていいわ。美花は嫌がるでしょうけど、私はなんとも思わないから」
 美咲の視線は麻袋にあった。
「そうですか、それでは失礼します」
 瑶子は頭を下げて急いで台車を押した。
 屋敷の裏手には大きな穴がある。
 その中に瑶子は麻袋の中身を放り出した。
 大量に積まれていたその山が崩れる。
 骨骨骨、血がついたままの頭蓋骨。
 穴から溢れんばかりの骨がそこにはあった。
「わぁ、もうすぐいっぱいになりそう。静枝さまにお知らせしておかなきゃ」
 ごみ捨てを済ませて、急いで戻ろうとすると、その袖が何者かによって引かれた。
 瑶子が振り向くと、そこにはるりあの姿があった。
「どうしたのるりあちゃん?」
「…………」
 るりあは心配そうな顔をしてなにも言わない。
「もしかしておやつですか?」
 るりあは首を横に振った。
「なにか悩み?」
「ようこ心配」
「あたしのことが?」
「……嫌な感じがする」
「またですか?」
 瑶子はこれまでのことを思い出した。
 るりあが『嫌な感じがする』と言うと、必ず何かが怒る前触れなのだ。
 先月は大雨で庭の真横にある崖が大きく崩れた。被害がこれといってなかったのは幸いだった。
 今回は瑶子と具体的な名前まであがっている。
「あたしなら平気ですよ。病気一つしませんし、いつも元気いっぱいですから!」
「禍はどんな状況でも起こる」
「そういう不吉なこと言ってると呼び込んじゃうんですよ」
「………」
「ああっ、ごめんなさい。別にるりあちゃんのこと責めてるわけじゃなくて、心配してくれるのはありがとうございます。でも本当に平気ですから!」
「……ようこのばか」
 るりあは駆け出して行ってしまった。追おうと思ったときには、もう姿がない。
「ああ、るりあちゃんに嫌われちゃった。あとでこっそり果物をあげて機嫌を直してもらおう」
 肩を落としながら瑶子は台車を押した。
 屋敷に戻ってきた瑶子は台車を片づけて台所に向かった。るりあにあげる果物を探しにきたのだ。
 台所までやってくると、目を丸くした美花と目が合った。
「美花さま……こんなところでどうかなさいましたか?」
「えっ、べつに……なんでもありません!」
 慌てたようすで美花は背中になにかを隠した。
 じいっと瑶子はその背中に視線を向ける。
「なにか隠しましたよね?」
「だからべつに……あの……」
 口ごもる美花。
 瑶子は美花の背中に回ってそれを見た。
「あ、おなかすいちゃいました?」
 瑶子が見たのは果物の山だった。今にも落ちそうなほど持たれていた。
 見つかってしまった美花は、果物の山を胸に抱きかかえ直した。
「すみません……盗み食いみたいな真似をしてしまって……」
「ぜんぜん気にしないでください。美花さまは育ち盛りなのですね」
「お返しします」
「ここにある物はすべて美花さまたちご家族の物なのですから、どうぞ自由に持ってってください」
「ありがとうございます」
 頭を下げた美花は慌てたようすで走り去ってしまった。
「あんなにいっぱい美花さまひとりで……あっ、美咲さまといっしょに食べる気だ。やっぱりなんだかんだ言っても仲のよい姉妹なんですね!」
 ひとりで納得して瑶子は大きくうなずいた。

《5》

 夕食の準備が済んだころになると、続々と食堂に住人たちが集まってくる。その中に、いつも比較的早くやってくる美花の姿がないことに瑶子は気づいた。
 瑶子は美花を呼びに行くことにした。
 廊下を歩き、美花の部屋の前までやって来た。
「失礼します」
 と、いつものように言うと同時に戸を開けた。
 いつもなら『どうぞ』と声が返ってくる。返ってくるとわかっているから、返事を確認する前に戸を開ける癖がついているのだ。それが今日はどうだろうか――。
「あれ、美花さま?」
 部屋にはだれもいなかった。
 ほかの場所をあたることにした。
 屋敷の中には瑶子が入れない部屋がいくつかある。赤い札の貼られている部屋。離れの一つである鍵の掛かった部屋。ほかにも瑶子がその存在を知らない部屋があれば、入るという発想すら一生浮かばないだろう。
 廊下を歩いていると、るりあとばったり出会った。
「るりあちゃん、美花さま見ませんでしたか?」
「……見てない」
 と、言いながらるりあは天井を見上げた。
 釣られて瑶子も天井を見る。
「またなにか見えてるんですか?」
「聞こえる」
「天井からは物音がするのはじめてですよね。ねずみですかね、今まで一度も見たことありませんけど」
「もっと大きい」
「大ねすみですか? そう言えば最近食料の減りが早いような……あ、それは美花さまが……そうだったんだ、今気づきました」
 ひとりで納得する瑶子をるりあは不思議そうな顔で見つめている。
 慌てて瑶子は顔の前で手を振った。
「な、なんでもありませんよ。まさか美花さまがるりあちゃんみたいに盗み食いをしてるなんて、そんなこと……あっ」
 口に出してしまっていたことに自ら気づいた。
 ひとり慌てる瑶子を置いて、るりあは天井を見ながら歩きはじめた。
 気になった瑶子はそのままるりあについて歩く。
 天井の気配は屋敷の道に沿って進んでくれるわけもなく、るりあの視線は真上ではなく遠くを見つめたりしている。
 やがてるりあがやって来たのは美花の部屋。
 躊躇いもせずるりあは何も言わず戸を開けた。
 同時に開かれた押し入れの中にいた美花と目が合った。
 瑶子と美花は互いにはっと目を丸くしている。
 るりあはまだ天井を見続けていた。ちょうど押し入れの上あたりだろうか。
 慌てて美花は押し入れから出てきた。
「あの……その……」
 焦って言葉に詰まっているようだ。
 瑶子はるりあと共に部屋に入り戸を静かに閉めた。
「美花さま、どうしてそんなところから?」
「探し物を……」
 こちらの探し物は移動したようだ。るりあの視線は真上へと向けられた。
 るりあが走り出した。
 押し入れの二段目に飛び乗り、すぐに天井板が動く事に気づいた。
 美花は必死になってるりあを止めようとした。
「るりあちゃん!」
 声は掛けるがそれ以上はなにもできなかった。
 瑶子も不審に思いながらるりあのあとを追った。
 天井裏への入り口。
 そこを登っていったるりあ。あとを追って天井裏についた瑶子はその男を見つけた。すぐに美花もやって来た。
 男は頭を掻いた。
「見つかっちまったなぁ。決して美花お嬢様のせいじゃありませんよ。運が悪かっただけですよ」
 視線を送られた美花は沈痛な面持ちをしていた。
 るりあは瑶子の背に隠れた。男を睨む視線を外さない。
 謎の侵入者。
「だれですか?」
 瑶子が尋ねた。真剣な表情だ。
 すぐに美花が割って入った。
「決して悪い方ではありませんから、皆には黙っていてくれませんか。お母様やお姉様に見つかったら……ああ、どんなことになるか」
「美花さまがそこまでおっしゃるなら……まずはお話を聞こうと思います。美花さまはお食事の時間ですから、早く行ってください」
「でも……」
「美花さまの姿を見えないと、怪しまれるかもしれませんよ。この方を悪いようにはしませんから」
「……本当に頼みましたよ」
 自分が去ることは心配であったが、瑶子の意見も一理ある。美花はこの場を瑶子に預けることにして、食卓へと向かって行った。
 美花がいなくなると、さらに緊張の糸は張り詰めた。
 だが、この男の物腰は柔らかかった。
「まあまあ、立ち話もなんですから、どうぞこちらで話しましょう」
 男は無防備にも背を向けて歩き出す。
 瑶子は用心しながらあとをついていく。るりあは瑶子の背に隠れたままだ。
 案内されたのは屋根裏の一角にある部屋のような場所。
 家具一式が揃っていることに瑶子は驚いた。
「屋根裏にこんな物が……いつからここに住んでるのですか!?」
「ここに来たのは三日ほど前ですよ。家具は元々ここにありました」
「家具があった?」
 瑶子の知らないことだった。そもそも屋根裏の存在すらしらなかった。
 男は椅子に腰掛け、二人にはベッドに座るように手を向けて促した。
「椅子が一つしかなくて、ベッドで我慢してください」
 ベッドに腰掛けると埃が舞った。
 落ち着いたところで男が話しはじめる。
「名刺は切らせてるんですが、ルポライターをやってる立川克哉っていう者です」
「るぽらいたー?」
 瑶子は首を傾げた。
「ルポライターっていうのは平たく言えば記者ですよ。雑誌記者をやって飯を食ってます」
「雑誌はあまり読んだことがありません。慶子先生に貸してもらったことがあるのですが、あまりおもしろいと感じなくて」
「書いてる俺自身もつまらないと思いますよ。うちの場合は三流雑誌なせいですが」
 克哉は何かを探すそぶりを見せて自分の服のあちこちを探った。
 そして、溜息を落とした。
「はぁ……そうだ切らしてるんだった。煙草なんてもってませんよね?」
「慶子先生なら吸ってますけど」
「あのひと煙草吸うのか! 一本でいい、たった一本でいいからもらって来てくれませんかね?」
「無理に決まっているじゃありませんか」
「だよなー。食料を調達するだけでも大変なのに、煙草は無理だよな。でもあると知ったら吸いたくて堪らなくなってきた」
 瑶子ははっと気づいた。
「もしかして美花さまが持って行った大量の果物って……」
「美花お嬢様にはよくしてもらってるよ。彼女に見つかったときが駄目かと思いましたが、水や食料は運んできてくれるし、俺のことばらさずにいてくれたし……なのに、あんたらに見つかっちまうなんてな。そっちのちっこい嬢ちゃんには警戒してたんだ」
 視線を向けられたるりあは瑶子の袖を掴んだまま、未だ克哉を睨みつけている。
「るりあちゃんは勘が鋭いですから」
 と、傍にいることが多い瑶子が言った。
 さらに瑶子は話を続ける。
「食料が必要なら、これからはあたしが持ってきてあげます」
「ありがたい!」
「美花さまにやらせるわけにはいきませんから」
「ということは、あなたも俺……いや、私のことをほかに者には黙っていてくれると?」
「いいですよね、るりあちゃん?」
 自ら返事をする前にるりあに確認を取った。
 るりあは黙ったままなにも答えない。
 瑶子はるりあの顔を正面に捕らえて覗き込む。
「美花さまのためです。るりあちゃんも美花さまのこと好きですよね?」
「……ようこのほうが好き」
「あはは、でも美花さまのことも嫌いじゃありませんよね?」
「…………」
 るりあは小さくうなずいた。
「だったらこの方のことは秘密です。約束ですよ、指切りしましょう」
 瑶子は強引にるりあと小指を結んだ。
「指切りげんまん、うそをついたら大叫喚地獄[ダイケウクワンヂゴク]におーちる」
「やだやだ、あんな怖いところに落ちたくない!」
 るりあは真っ青を顔をして心から震えた。
 大叫喚地獄とは八大地獄の一つ。大叫喚地獄は主に殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄言などを犯した者が落とされ、さらに小規模な地獄があり、細かく罪が分けられている。大叫喚地獄の十六小地獄の一つ、吼々処[ククショ]は自分を信頼する古くからの友人にたいして嘘をついた者が落とされ、罪人の顎に穴を開けて舌を引きずり出し、毒を塗って焼け爛れた舌に蟲がたかると云う。
 二人のようすを見ていた克哉は小声でつぶやく。
「この嬢ちゃん笑顔で酷い約束させるな」
 どうやら仏教の知識があって理解できたらしい。
 こうして克哉は一つの安心を得た。はじめに見つかったのが美花で本当によかったと思う。そうでなければ、この二人の口止めはどうなっていたのか?
 ここでさらに克哉は厚かましくお願いをすることにした。
「そうだ、食事件なんですが、私じつは菜食主義者なんで……」
「さいしょくしゅぎしゃ?」
 また瑶子は首を傾げた。
「つまり野菜や果物しか食べないんだ」
「神の教えですか?」
「まあ、そんなところだな。だから運んできてくれるなら、肉類は避けて欲しい。でも魚は食べていいことになってるから、たまには魚も食べたいもんだ」
「わかりました。食事の件も承知しましたけど、どうしてあなたここにいるのですか?」
 それがもっと重要なことだった。
「取材で山に入ったら道に迷ってしまって、この屋敷に入ったら出られなくなってしまったわけですよ」
「道に迷ったなら、こんなところに隠れていないで、家の者に道を尋ねればいいのに……あっ、もしかして今のうそですか? うそをついたら地獄に堕ちますよ?」
「まいったなぁ。家のひとにこんなこと言いたくはありませんが、この屋敷、地元では鬼屋敷って呼ばれてまして、大変恐れられてるそうなんですよ。なんでそんな噂をされるのかなっと思いまして、記者として取材に来たわけなんですよ」
「鬼屋敷? 恐れられている?」
 どちらの言葉も瑶子には実感できなかった。
 突然、瑶子は何かを感じ取った。
「あ、お客さんが来たようです」
「客? どうしてわかったんですか?」
 克哉は驚いた。なにも感じなかったからだ。
「すみません、急用ができましたので、お話はまたあとで」
 瑶子は軽く頭を下げて屋根裏を下りた、るりあもいっしょに屋根裏を下りたが、すぐに別れた。
 ここからまず向かったのは菊乃のところだ。
 菊乃は食堂にいた。
「あっ、菊乃さん、どなたか来たみたいです」
「宅配でしょう。今日はずいぶんと遅い時間のようですが」
 二人は早足で玄関に向かい、屋敷を出ると正面門まで急いだ。
 門を開くと数人の男がリアカーから荷物を下ろす作業していた。
 菊乃が門を出た。
「ご苦労様でした」
 と言って菊乃は男の一人に小袋を渡した。金品かなにかが入っているのだろう。
 大量の荷物を下ろし追えた男たちは逃げるように去っていく。
 まずは菊乃が門の中へと荷物を一つずつ運び入れる。その荷物を今度は瑶子が台車に乗せて運ぶ。
 二人が作業を進めていると、この場に美花がやって来た。
「私の荷物もあるから、丁重に私の部屋に運んで頂戴。ほら、そこの箱とそこの箱、印がついているでしょう?」
 美咲はいくつかの箱を指差した。箱には咲≠ニいう文字が書かれていた。
 その荷物を台車に乗せながら瑶子は尋ねる。
「いつの間に美咲さまの荷物なんて、あたし聞いてませんでしたけど?」
 菊乃は知っているのか知らないのか、黙々と作業を続けて答えない。
 自ら美咲が答える。
「別にあなたたちに関係ないでしょ」
「中身はなんですか?」
「だから関係ないって言ってるでしょう、しつこいわね!」
「……すみません」
 瑶子は肩をすくめた。
 美咲は自分の荷物が運ばれる一部始終を見守った。部屋に荷物が運び終わると、艶やかに微笑んだ。
 結局、荷物の中身は教えてもらえなかった。
 瑶子は再び荷物運びの作業へと戻った。
 荷物はまだたくさんある。屋敷の中へ運んだあとは、仕分けの作業なども残っている。仕事が終わらせるのには、まだ時間がかかりそうだ。
 正面門まで戻ってくると、菊乃はまだ黙々と作業を続けていた。
 瑶子が戻ってきたのは確認した菊乃は別のことを頼んできた。
「ここはもう大丈夫ですから、夕げの片付けをお願いいたします。それが終わったらもう今日は休んでよいですよ」
「はい、わかりました」
 いつも瑶子は夜の仕事が少ない。菊乃は瑶子が部屋に戻ってからも仕事をしているらしいが、なぜか毎日瑶子だけ早く仕事が終わり、部屋で休むようにと言い付けられている。一〇時ごろになると、一切部屋を出ずに寝るようにと、きつく言い付けられていた。
 瑶子は多少疑問に思うが、この屋敷には決まり事も多く、それらの理由は教えられないことが多いので、その一つとして特に気にせず過ごしていた。
 瑶子の一日の仕事が終わり、入浴をすると就寝の準備をする。
 そして、夜は更ける。

《6》

 激痛と共に瑶子は目覚めた。
 自然と腹に手を伸ばすと――。
「きゃっ、血!?」
 じゅくじゅくと痛む腹の傷。深い傷はまるで刃物で斬られたようだ。
 そして、これはいつのことなのだが、寝る前に着た服が朝になると脱げてしまっている。菊乃に相談すると、寝相の悪さを指摘されたが、この傷は寝相の悪さだけでつくようなものではない。
「ううっ……とりあえず菊乃さんを探そう……」
 薄衣を羽織った瑶子は廊下に出た。
 菊乃は瑶子よりも早く起きているらしく、今の時間も自室ではなくどこかで仕事しているはずだった。
 とりあえず台所へ向かっていると、その途中で菊乃を見つけることができた。菊乃は廊下の拭き掃除をしている最中だった。
「おはようございます菊乃さん」
「おはようございます」
「あの……」
「血でございますね」
 菊乃の視線は瑶子の薄布に滲んだ血に向けられていた。
 ぱたりぱたりと、瑶子の足下に血が落ちる。まだ血が止まっていないらしい。
 菊乃は瑶子の足下を拭きはじめた。
「掃除したばかりなのですが……」
「ご、ごめんなさい! 自分で拭きますから!」
 瑶子は菊乃が持っていた雑巾を奪うように借りて床を拭きはじめた。けれど、拭いている最中も血が床に落ちてしまう。
 いつも表情の乏しい菊乃だが、今はその無表情さが呆れている顔に合致している。
「切りがございません。まずは傷の手当てをしましょう」
「ご迷惑おかけしてすみません」
「いつものことでございます」
 瑶子は菊乃に連れ添われて自室に戻った。
 全裸にされ横になった瑶子の傷口を菊乃は観察した。
「寝ながら料理でもしたのでしょうか?」
「あたしそんなに器用じゃありません」
「器用ではないから怪我をしたのでしょう。本当にあなたは寝相が悪い」
 寝相が悪いことは自覚をしている。起きると自室から離れた廊下などにいることはしょっちゅうだ。だとしても斬られた傷≠ェつくだろうか。
「本当に寝ながら料理してたのでしょうか?」
「なにを料理するつもりだったかは存じ上げませんが、きっとそうでしょう」
「そうですかぁ?」
「そうです」
 納得はできないが、菊乃は言い切っている。真面目なそうな表情をいつもしているので、冗談なのかもわからない。
 瑶子の傷口に薬が塗られる。
「いたたた、それ染みます」
「傷が染みるのは当たり前でございます。傷は塞がりはじめているので、薬を少し塗り込んで布を当てておくだけにしましょう」
「痛いです、とっても痛いです、なにもしないほうが痛くなかったですよ」
「傷口が化膿するよりはよいでしょう?」
「……はい、そうですね」
 瑶子は押されるとなんでも認めてしまう。そういう性分だった。
 傷の手当てが終わると、早々に菊乃は部屋をあとにしようとした。
「それでは失礼いたします」
「もう行っちゃうのですか?」
「ご家族が起きてくる前に廊下を掃除しなくてなりませんから」
「それならあたしが……うっ」
 立ち上がろうとした瑶子だったが、傷口がずきりと痛んだ。
「痛みが治まるお休みください」
「いえっ、でも掃除させてください!」
「仕方がありませんね。しかし、あさげの支度はわたくしひとりで行います」
「すみません」
 こうして菊乃は朝食の準備を、瑶子は廊下の掃除に向かった。
 床に残っている血痕をすべて拭き取る。
 まだ乾いてない新しいものだ。
 しかし、その中にすっかり乾いて大きな血痕があった。
「あれ……これってあたしの血?」
 瑶子は濡れた舌を伸ばして、床の血痕を舐めた。
「やっぱりあたしの血じゃないなぁ」
 血の味でわかるものなのだろうか。もし本当に瑶子の血でないとしたら、いったい誰の血なのだろうか。
 掃除を終えた瑶子は雑巾を洗って干すと、やることもなくなり部屋に戻ろうとした。
 その途中で美花と出会った。
「おはようございます美花さま」
「おはようございます」
 そのまますれ違おうとしたが、急に瑶子は腹が痛んだ。
「うっ」
 小さな声だったが、美花は気づいたようだ。
「どうかしましたか?」
「いえ……ちょっと怪我をしてしまって……」
「怪我!? それは大変、少し見せてください」
「もう菊乃さんに手当はしていただいたので平気ですよ」
「自分で手当てできないほど酷い怪我だったのですか、どうしてそんな怪我を……」
「どうしてなんでしょう……起きたら怪我をしていて、寝相が悪いのはいつもことなのですけど」
 怪我の原因はまだはっきりとしない。
 美花は心配そうな顔をしていた。
「お部屋でお休みになってください。早く良くなってくださいね」
「菊乃さんからも休みようにいわれてますから。美花さまは本当にお優しいですから、そんなに心配しすぎないでくださいね、本当に平気ですから。それでは失礼します」
 長く話し込んでも美花を心配させるだけだと思って、瑶子は笑顔でその場を早々に立ち去った。
 自室に戻ってきた瑶子は、布団で横になることにした。
 じっとしていることは嫌いではないが、菊乃に仕事をすべて任せてしまったり、だれかに心配をかけることは申し訳なく思う。かと言って無理をして元気に見せ、もし悪化してしまったら逆に周りに迷惑をかけることにしなってしまう。瑶子は静かに休むことにした。
 まぶたを閉じると広がる闇。
 視覚が閉ざされると聴覚が研ぎ澄まされる。
 気配がした。
 屋根裏からの気配だ。
 その気配は移動を続けながら、押し入れで静かな物音を立てた。
 瑶子は目を開けてそちらを見た。
「おはようございます、克哉さん……でしたよね?」
「休んでるとこすみませんねぇ。なにか病気ですか?」
「ちょっと怪我をしてしまって」
「寝こむほどの怪我?」
「そんな大したことないんですよ。ただみなさんが休むように言うので、心配をお掛けしたくないので安静にしてして早く直したいだけです」
 克哉は一定の距離を保ちながら、その場で立ったまま話を続けてきた。
「それでどこを怪我したんで?」
「お腹が切れちゃってて、なんで切れてしまったのかわからなくて、菊乃さんは寝相が悪いからだなんて言うんですよ」
「ちょっと傷を見せてもらってもいいですか?」
「嫌ですよぉ」
「ですよね。怪我人なら休んでてくださいよ、ではまた」
 克哉は再び押し入れから屋根裏に戻ろうとした。
 そのとき、瑶子は克哉が手に巻いている布がふと見えた。朱い何かが染みていた。きっと血だろう。
 不思議に思いながらも、瑶子は深く考えずに目を閉じた。
 躰が傷を治すためだろうか、なんだかとても眠くなってきた。
 そのまま瑶子は自然に身を任せることにした。

 ――アツイ、アツイ、アツイ。
 そして、無数の叫び声。
 泣き叫んでいる。
 何かが何処かで絶叫をあげている。
 大量の汗を掻きながら瑶子は飛び起きた。
 部屋は暗い。
 胸騒ぎがした。
 瑶子は蝋燭台を持って廊下に出た。
 静かな廊下。
 すでに夜更けになってしまったらしい。
 ――タスケテ、タスケテ。
 瑶子の頭の中で言葉が木霊した。
 呼ばれている。何かに呼ばれている。
 廊下の先で轟々と燃え揺れる灯り。
 それが火事だと瑶子はすぐに悟った。
「なぜ、どうして……火事なんて……」
 ――アツイ、アツイ、カラダガモエル。
 また声が聞こえた。
 目の前の火事も気になったが、呼ばれている場所はそこではない。
 瑶子は廊下を掛ける。
 火の手は一つや二つではなかった。屋敷のあちらこちらから火がついている。
 普段は近付かない細い廊下。その先には離れの一つがある。鍵の掛かっている筈の扉が、今は開かれ中が赤く輝いていた。
 すぐさま瑶子は部屋の中に飛び込んだ。
 そこら中から絶叫が聞こえた。
 部屋中に張り巡らされていた糸が火の橋を描いている。
 繭玉が燃えている。
 いくつもある繭玉が燃え、中から黒こげになった何かが這い出してくる。
 それは這って瑶子の足下まで来た。そして、溶けて崩れかけている顔を上げたのだ。
「きゃあぁぁぁぁっ!!」
 瑶子は絶叫をあげた。
 見てしまった。
 醜く崩れた自分そっくりな顔。
 他の繭からも瑶子≠スちが燃えながら這い出してくる。
 業火に焼かれ苦しみ悶える自分と同じ少女たち。
 瑶子は助けることも見ていることもできす、その場から必死に逃げ出した。
 絶叫が木霊する。
 ――イカナイデ、イカナイデ。
 呪詛のように降りかかってくる言葉。頭の中でいつまでも響く。
 なにが起きたのかわからない。
 ただ、屋敷中に火が放たれ、このままでは屋敷が崩れ落ちるだけはわかる。
 瑶子はこの場所からもっとも近かった静枝の部屋に向かった。
 まだ静枝の部屋までは火の手が回っていなかった。
「静枝さま!」
 叫びながら部屋に飛び込んだ。
 そこで待ち受けていたのは瑶子には信じがたい光景であった。
 包丁を握った美咲が怯える静枝の元へにじり寄っている。
 静枝は眼を剥いてわなわなと唇を振るわせている。
「嗚呼、やはりお姉様はわたしのことを……靜香お姉様、お姉様、お姉様ーっ!!」
 静枝は息を呑んだ。
 心臓をひと突きした包丁。
 傷口から垂れてきた血が美咲の手を穢した。
 ぶしゃあああああっ!
 包丁が抜かれると同時に迸った黒い血。
 血に彩られた美咲は振り返った。
「あなたも今すぐ殺してあげる」
「ど、どうして……美咲さまが……」
 後退る瑶子。
 酷く躰が震えた。それは内からの振動。鼓動が激しく脈打っている。
 瑶子は心臓を押さえた。
 熱い。
 打ち震える心臓が熱い。
 呼吸もだんだんと荒くなっていく。
 耐え難い動悸。
 美咲は艶やかに嗤いながら近付いてくる。
「来ないで……くださ……い」
 今、自分を殺そうとしている者への恐怖ではなかった。
 瑶子が恐れていたものは――。
 まるで内側から喰い破られるように、瑶子の躰から毛の生えた八本の脚が飛び出た。
 美咲が飛び掛かってきた。
 しかし、脚の数でも、その長さでも瑶子が優っていた。
 美咲の躰は宙に持ち上げられながら八本の脚で捕らえられていた。
 今の瑶子には人間の二本の手と足が残っている。だが、もうそれらに感覚や機能は残っていない。
 それはまさに脱皮であった。
 瑶子の背が開かれ、中から巨大な大蜘蛛の尻が出た。
 それが元の躰のどこに収まっていたのか、瑶子の躰を遥かに凌ぐ大きさの大蜘蛛が姿を見せた。
 美咲は必死な抵抗を見せた。
「この化け物めっ!」
 振りかざした包丁が大蜘蛛の脚を一本落とした。
 怯むだ大蜘蛛は美咲を解放してしまった。
 すかさず美咲は再び大蜘蛛に飛び掛かろうとした。
 だが、そのときだった!
 燃える小蜘蛛たちの群れ、群れ、群れ。
 全身を赤く燃やした小蜘蛛たちが美咲の躰に群がった。
「ぎゃああぁぁぁぁっ!」
 小蜘蛛と共に炎に呑まれた美咲の断末魔。
 それを聞きつけ部屋に飛び込んできたのは克哉と美花だった。
「出たな大蜘蛛!」
「そんな……お母様、そこで燃えているのはまさか……」
 美花は立ち眩みがして床にへたり込んでしまった。
 短剣を抜いた克哉が大蜘蛛に襲い掛かる。
 糸が吐かれた。
 嗚呼、糸までも燃えている。
 炎を纏った糸が克哉の腕に巻き付いた。
「くっ、こんなやられ方って……」
 克哉を捕らえようとしたのは糸だけではなかった。
 足下から躰に登ってくる燃える小蜘蛛たち。
 大の大人の人影が燃え上がる。
 それは影絵か陽炎か。
 炎による虐殺の終幕。
 生き残った美花はその場から動けない。動かなければ、いつかは火に焼かれる。
 不気味な絶叫が木霊した。
 それは大蜘蛛の叫び。
 大蜘蛛のが背中に激しい衝撃を受けて床に腹をついた。
 噴き出す血が天井を彩る。
 大蜘蛛の背は巨大な刃によって叩き斬られていた。
「美花様さえ生き残れば、因果は続くのです。まだここで糸を断ち切られるわけには!」
 斧を振りかざす菊乃。
 だが、まるで刃のように鋭い大蜘蛛の脚が菊乃の胴を貫いた。
 菊乃は表情ひとつ変えなかった。
 そのまま斧は大蜘蛛の脳天を割った。
 大蜘蛛は息絶えた。斧が脳に達した刹那だった。
 菊乃の胴には脚が突き刺さったまま。どうにか抜こうとするが、引っかかって抜けない。
 火の手は広がり続けている。
 手を伸ばして菊乃は斧を握った。そして、胴に刺さる大蜘蛛の脚を切断した。
 そして、すぐさま美花に掛けようとしたときだった。
「美花様!」
 焼け落ちた天井が美花を押しつぶした。
 菊乃の瞳の奥で赤い炎がゆらゆらと揺れている。
 もう助からないかもしれない。瓦礫の衝撃、身を焼く炎、そうだとしても菊乃は美花を助けようとした。
 炎の中に手を突っ込み、瓦礫を退かして放り投げる。
「美花様、美花様!」
 瓦礫の隙間から美花の顔を見えた。
 ここまで来て菊乃は思わず手を止めてしまった。
 美花の顔半分を覆う火傷――それはまるで静枝の生き写し。
 動きを止めた一瞬が命取りになった。
 再び崩れ落ちてきた炎に包まれた瓦礫。
 菊乃までも潰され炎の餌食となった。
 それでもなお、微かな声が響いてくる。
「み……は……な……」
 屋敷が崩れ落ちる。
 炎が焼くのは住人だけではない。
 この屋敷の歴史も焼き払う。
 庭から業火に包まれる屋敷を見つめている女がひとり。
「結局、いつも最後は破壊で終わってしまうのね」
 つぶやいたのは慶子だった。
 その手には透明な小瓶が持たれており、その中には小蜘蛛が一匹入っていた。
 いつの間にか、この場にはるりあの姿もあった。
 るりあの視線は小瓶に注がれている。
 慶子は微笑んだ。
「欲しいならあげるわ」
「…………」
 るりあは奪うようにして慶子から小瓶を取り、そのまま駆け出して姿を消した。
「大事にするのよ」
 と、慶子の呟き声が響いたが、そこにはすでに慶子の姿はなかった。
 炎はまだ燃え続けていた。

 土蜘蛛(完)


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