第4話 紅い世界

《1》

 それは運命の糸が繋ぐ時の流れ。
 幼女は今日も髪を梳く。
 鏡に映り込んだ瓜二つの幼女。
 髪を梳いていた幼女は鏡越しに尋ねる。
「どうしたの静香[しずか]?」
 鏡に映っていたのは妹の静香。
 そして、髪を梳いているのは姉の静枝。
 二人は三つになるが、その見た目は六歳程度。
「お母様がお姉様を呼んでお部屋にいらっしゃいって」
「嫌よ、忙しいの。見ればわかるでしょう?」
「なにか大事なお話があるそうなの」
「大事な話?」
 不思議そうな顔を静枝はした。
 部屋に第三者が入ってきた。
「失礼いたしますお嬢様方」
 現れたのは表情に乏しい侍女姿の少女――菊乃。
 菊乃はすぐに言葉を紡いだ。
「智代[ちよ]様がお二人をお呼びになっております。早く智代様のお部屋へ」
 静枝は鏡に顔を向けたままだった。
「嫌よ、忙しいの」
 いつも静枝は時間さえあれば身だしなみを整えていた。はじめは母の真似をしたごっこ遊び。それがいつしか、女を目覚めさせた。
 歳は三つ、見た目は六つ、しかしその表情はすでに女の片鱗を覗かせている。
 一方の静香はまだ幼い表情だ。
 見た目は一卵性双生児だが、中身はどうやら違うらしい。
 菊乃は静香を見つめた。
「では静香様だけでもお出でください」
「うん」
 静香は不安そうな顔をして、後ろ髪を引かれながら菊乃と共に部屋をあとにした。
 ずっと鏡を見ていた静枝だったが、静香がいなくなってしまった途端、素早く後ろを振り向いて唇を噛みしめた。
 そして再び、鏡に顔を向けて髪を梳かしはじめる。
「きゃっ!」
 短い悲鳴をあげた静枝。
 鏡に一瞬、影が映り込んだような気がした。
 女の顔。
 おぞましい顔をした女の顔。
「だれか、だれか来て!」
 叫んだが誰も来ない。
 急に恐ろしくなってきた静枝は部屋を飛び出した。
 鏡に映った女の顔が頭を過ぎってしまう。
 その女の顔には大きく醜い痣があった。
「だれなのあれ……」
 見覚えのあるような顔だった。
 閉鎖された世界で過ごす彼女にとって、見覚えのある顔は少ない。
 すぐに静枝は首を横に振った。
「違う……お母様じゃない。ぜんぜん別人……でも似ていたわ」
 考えても静枝にはわからなかった。
 部屋を飛び出した其の足で静枝は母の部屋に向かった。
 固く閉じられたふすまを開けると、そこは蛻(もぬけ)の殻。
 すでに母の姿も、静香の姿もなかった。
 静枝は廊下を見渡した。
 気配はない。
 それから屋敷中を探し回ったが、誰もいなかった。
 まだ探していない場所は、そう赤い御札が貼られた部屋たち。
 札を貼られ、固く閉じられた部屋を前にして、静枝は動けなかった。
 部屋の中に何かがいることは知っている。
 それがなんであるかは知らない。
 恐ろしいものだということはわかる。
 静枝は駆け出した。
「菊乃! 瑶子! だれかいないの!」
 玄関まで走っていくと、ちょうど外から智代と菊乃が帰ってきた。
 智代はまだ十代の容姿であったが、物腰は落ち着きを払っていることから、妙な妖しさを兼ね備えていた。
「どうしたの静枝さん?」
 母に微笑みかけられた静枝は身を強ばらせた。
 静枝は知っていた。
 目の前の女は笑っていても、静かな物腰をしていても、目の奥にはいつも不気味な輝きを湛えていることを――。
「なにもありませんわお母様」
「そう」
 短く言って智代は歩き去っていた。
 菊乃も同じく静枝の横を通り過ぎようとしたが、静枝は素早くその腕を掴んで制止させた。
 もう母の姿はない。
「どこへ行っていたの? 静香は? 瑶子もいないなんて、あの馬鹿」
「瑶子は急病で伏せております。静香様はこの屋敷を出て行かれました」
「え?」
 静枝は理解できずに驚いた。
 すぐに静枝は怒りの表情を浮かべた。
「嘘をつかないで、私のことを馬鹿にしているの?」
「いえ、静香様はこの屋敷を出て行かれました」
「私を置いて静香が……そんな、だっていつも静香はどこに行くにも私にくっついて来て」
「どちらかおひとりが屋敷を出て行かなければならなかったのございます」
「嘘嘘嘘っ! 信じない、だって出ていこうにも庭の外には出られないじゃないのよ!」
「嘘ではございません。智代様にお聞きになってくださいませ」
「嘘つき!」
 静枝は強烈な平手打ちを菊乃に喰らわせた。
 しかし、菊乃は表情ひとつ崩さない。
 それを見た静枝はさらに怒りが増したが、どうしていいのかわからずとにかくその場から駆け出した。
 自室に引きこもると、畳の上に俯せになって唇を噛みしめた。
「嘘っ、嘘に決まっているわ」
 静香のいない世界。
 想像もしなかった世界。
 嘘か真か、母の元へ確かめに行かねばならない。
 静枝はその場を動けなかった。
 もし本当に静香がこの屋敷を出て行ってしまったとしたら。
 静香から血の気が引き、孤独な凍えが襲った。
 急に立ち上がった静枝は、目元を拭って部屋を呼びだした。
 早足で母の部屋へと向かう。
「お母様!」
 ふすまを開けると同時に大声で叫んだ。
「大声を出してどうしたの静枝さん?」
 智代は座布団に座りながら、顔だけを静枝に向けた。
「静香はどこへ行ったの?」
「この屋敷を出て行ったわ」
 同じ答えが返ってきてしまった。
 さらにあろうことか、智代は微笑んでいたのだ。
 静枝の心に渦巻く怒りと悲しみ。
 なのになぜ目の前の母は笑っているのだ!
「嘘よっ!」
 激しい静枝とは対照的に、智代は静かな物腰を崩さない。
「嘘ではないわ。親戚に子供のいない夫婦がいて、前々から貴女たちのどちらかを養子にくれないかと懇願されていたのよ」
「どうして静香が!」
「あの子、ここでの生活のすべてが嫌だったのよ。特に貴女に姉面されるのが嫌だったみたいね。同じ双子なのに、どうして静枝はわたしに姉面をするのか。あの子は進んでこの屋敷を出て行ったわ」
「なんでそんな嘘をつくの!」
「嘘ではないわ。あの子は自らの意思でこの屋敷を出て行ったのよ。でもわたくしはそれで良かったと思っているわ。だってわたくしが本当に愛している子は貴女だけ、貴女させ傍にいてくれればそれでいいわ」
「嘘嘘嘘っ!」
 涙を振り乱しながら静枝は部屋を飛び出した。
 廊下を駆けながら呪詛のように呟く。
「信じない信じない……嘘嘘嘘……全部嘘……」
 そして、子供とは思えない狂気の形相を浮かべた。
「すべて滅んでしまえ」

 女は今日も髪を梳く。
 鏡には厚布が被されている。
 その前で静枝は髪を梳いているのだ。
 静枝は髪の毛をまとめ上げて結わくと、ゆらりと立ち上がった。
 その瞬間、風もないのに鏡の布が落ちたのだ。
 紅い世界。
 血塗られた鏡の中に映った女の顔。
「きゃーーーっ!」
 映ったのは誰の顔だ?
 静枝は畳を這った。
「誰か! 誰か!」
 すぐに瑶子が急いでやって来た。
「どうかなさいましたか静枝さま?」
「嗚呼……が見てる……いやぁああああ」
 取り乱す静枝。
 答えは得られなかったが、瑶子は理由をすぐに見つけたようだ。
 掛けられた布が落ちている鏡。
 鏡は血塗られていた。
 大量の血はすでに乾いている。
 その血はいつ付けられたものなのか?
 鏡には誰も映っていなかった。
 すぐに瑶子は鏡に布を被せて鏡面を隠した。
「こんな鏡処分してしまってはどうですか?」
 髪を梳くときに布は被されたまま。鏡として機能していない鏡。さらに静枝は鏡に怯えているようだ。瑶子の意見は至極まっとうである。
 しかし。
 激怒の形相を浮かべながら静枝は、無言で瑶子の頬に平手打ちを喰らわせた。
「痛いっ!」
 瑶子は頬を抑えながら床に崩れた。
 そんな瑶子には気遣いもせず静枝は部屋を出て行く。
「菊乃! どこにいるの菊乃!」
 広い屋敷に静枝の叫び声が木霊した。
「ここにおります静枝様」
 菊乃が廊下の影から姿を見せた。
 すべては嘘だったと言わんばかりに、静枝は靜かにそこに立って艶やかに微笑んでいた。
「なんでもないわ」
 と、静枝は言ったのだ。
 菊乃が姿を消した途端に静枝は床に膝を付いて、胸を鷲掴みにして玉の汗を額から流した。
 苦しげな姿をする静枝だったが、その顔は嗤っていた。
「無駄な抵抗はやめなさい」
 戦慄すぐほど冷たい口調で静枝は言った。
「……早く……わたしの躰から出て行きなさい……」
 今度は苦しげな口調で静枝は言った。
「これはわたしの躰よ。それをお姉様が奪った」
 同じく口から発せられている言葉。
「静香の振りはやめなさい……わたしは絶対に……お前を追い出してやる!」
 独り言とは思えない。
「わたしは本物の静香。お姉ちゃんに殺されなければ、この血も肉もわたしのものになっていたのに」
 多重人格か、それとも?
「うるさい!」
 静枝は叫んだ。
 すぐに菊乃が駆けつけてきた。
「どうかなさいましたか静枝様?」
「なんでもないわ」
 静枝は何事もなかったようにしていた。
 さらに瑶子も駆けつけてきた。
「ど、どうかなさいましたか静枝さま!」
「なんでもないわ」
 表情はそう言っているが、大量の汗は隠せない。
 菊乃もその汗を一瞥したが、特に触れようとはしなかった。
「そうでございますか、それならよろしいのですが」
 一呼吸置いて菊乃は口を開く。
「もうすぐ美花様が到着する頃合いでございます」
「嗚呼、やっと娘と逢えるのね。この日をどんなに待ちわびたことか」
 恍惚とした表情で静枝は艶笑した。不釣り合いな表情に思える。
 瑶子は張り切った様子で笑顔を浮かべた。
「お屋敷にお掃除はばっちりです!」
 菊乃が瑶子に顔を向ける。
「るりあを探してどこかに押し込めておいてください」
「えっ、るりあちゃんをどうしてですか?」
「美花様に粗相をしてはなりません」
「るりあちゃんはそんな悪い子じゃないですよぉ」
「早くるりあを探してください。わたくしは美咲様にお知らせしたのち、外で美花様をお待ちいたします。静枝様はご自分のお部屋でお待ちくださいませ」
 菊乃は早足で去ってしまった。
 仕方なく瑶子はるりあを探しに行く。
 静枝は自室へと足を運ばせた。
 足取りは重い。
 静枝は足を引きずるように歩いていた。
「抵抗しても無駄。この躰はもうわたしの物なの。お姉様のことを消さないであげているのは、最後の仕上げが残っているから。運命は変えられない、殺されるのはどちらかしら……キャハハハハハ楽しみ!」
 自室に戻ってきた静枝は、部屋の中心に座布団を敷き、静かに正座した。
 静けさが部屋を満たす。
 音はとても静かだ。
 しかし、空気は違う。
 一見して静かに座っている静枝だが、その顔は込み上げてくる嗤いを抑えられないようだった。
 まさに般若。
 般若面を被ったような静枝がそこにはいた。
 時が刻まれる。
 どれほど経った頃だろうか、すぐ近くの廊下に足音が響いた。
 ふすまの向こうにある気配がある。
 少しふすまが開いて声がした。
「失礼いたしますお母様」
 部屋に入ってきたのは美咲だった。
「こちらに座りなさい。もうすぐ貴女の妹がこの屋敷に帰ってくるわ」
「いつにこの日が来たのね」
「わかっているわね美咲さん?」
「…………」
 美咲は無言で座布団に座った。
 いったい何がわかっているというのか?
 愛おしそうな表情で静枝は娘の横顔を見た。
「わたくしが愛しているのは貴女だけ。わかっているわね美咲さん?」
「…………」
 美咲はなにも答えない。
 そこから二人は無言だった。
 端から見れば気まずい空気だが、二人がどう思っているのかはわからない。
 それからだいぶ時間が経ち、廊下から気配が部屋に近付いてきた。
 ふすまが開かれた。
「は、はじめまして……」
 美咲と同じ顔がそこに現れた。
 少し驚いた様子の美咲だったが、それ周りに悟られぬ前に表情を固くした。
 自分の痣に目を奪われている美花に静枝は静かに笑いかけた。
「さあ、こっちへいらっしゃい美花」
 戸惑いながら近付いてきて、目の前に座った美花の手を静枝は優しく握った。
「逢いたかったわ」
「わたしもです」
「そちらのいるのがあなたのお姉さんの美咲よ」
「こんにちはお姉さま」
 美花が笑いかけると、姉の美咲は不機嫌そうな顔した。
 不安げな表情をする美花の手を静枝は愛でた。
「綺麗な手……美咲にそっくりだわ」
 そう言いながら静枝は美花の手を自分の頬にこすりつけた。そこはあの醜い痣がある場所。
 艶やかな舌を伸ばして静枝は美花の手を舐めた。
「わたくしが食べてしまいたいくらい」
 囁いた静枝。
 その口は大きく開かれ、美花の指を呑み込もうとした。
 咄嗟に美花は手を引いて逃げた。
 なぜだか静枝は嬉しそうな表情だった。
「まだ来たばかりで戸惑うのはわかるわ。でも大丈夫、あなたはわたくしの娘なのですから、すぐにこの家にも慣れるでしょう。美咲、この屋敷を案内してあげなさい」
「はい、わかりましたお母様」
「わたくしは用事があります。夕食の時にまた会いましょう」
 背を向けて静枝は部屋を出る。
 二人の姉妹に見えないその顔で、静枝は込み上げる嗤いを必死に抑えていた。
 そして、部屋を出て廊下を出すと、小さく小さく呟いたのだった。
「残念だったわねお姉様。姉妹はもう出逢ってしまったわ。運命の筋書き通りに」
 クツクツと静枝は嗤った。

《2》

 少女は今日も髪を梳く。
 鏡に映った顔は少女と大人の狭間を彷徨っている。
 静枝は七つとなった。
 見た目は一五歳前後になっていて、肉体的にも女らしくなって来ていた。
 静枝越しに菊乃の姿が鏡に映り込んだ。
「智代様がお待ちでございます」
「長年離れていた妹に逢えるのだから、時間をくれてもいいでしょう。静香よりも綺麗じゃなきゃ嫌なの」
 普段から上等な着物しか身につけていないが、町から届いたばかりの下ろし立てだった。
 黒地に紅い花をあしらった着物。
 櫛を置いた静枝は艶やかな髪を揺らしながら立ち上がった。
「できたわ」
「それではわたくしは外で静香様をお待ちして、智代様のお部屋までご案内いたします」
 菊乃は会釈をしてその場を去った。
 静枝は母の部屋へと向かう。
 四年ぶりに逢う妹。それを思うと気持ちが高揚する。
 母の部屋の前に立ちふすまを開ける。
「失礼いたします」
「遅かったわね」
「まだ静香が帰ってきていないのだからいいでしょう」
 つんと静香は顔を背けた。
 智代の横と前には座布団が一枚ずつ。静枝は智代の横に正座した。
 呼吸を整えながら静枝は瞳を閉じて高鳴りを鎮めた。
 どんな顔をして静香を迎えればいいのか?
 どんな第一声を発しようか?
 いろいろと静枝が考えていると、智代が声をかけてきた。
「わかっているわね静枝さん?」
「…………」
「わたくしが愛しているのは貴女だけ。生き残るのは貴女なのよ」
「……わかっているわ」
 視線を合わせずに静枝は答えた。
 少ししてから悟られぬように静枝は横目で智代を一瞥した。
 恐ろしいまでに不気味な笑みを浮かべている。
 眼の奥が狂っている。
 昔から母の眼は狂っていた。そこにあるの狂気だ。狂気は年々膨らみ、今では静枝が直視できないほど狂気で妖しく輝いていた。
 そんな母と静枝はある一定の距離を保ってきた。
 離れすぎず近すぎず、母の機嫌を害さないように慎重に、この世界に蝕まれないように。
 静枝はこの箱庭の世界を信じていない。
 外の世界のことは知らない。
 知らなくとも、この世界を信じていない。
 比較の結果――つまり、外の世界とこの世界を比べて導き出された結果ではなく、目の前にあるものすべてを信じない結果だった。
 母の眼は狂っている。
 静枝が生まれたときから同じ眼をしている。
 当たり前のことして、疑問を抱くということすら、頭を過ぎらないはず。だが、静枝は信じないことによって、比較対象をなしに狂っていると判断した。
 この屋敷でごくごく当たり前の事。
 そのすべてが静枝にしてみれば狂っている。
 当たり前のことを受け入れない。
 瞳には疑惑しか映らない。
 静枝の瞳がそうなってしまったのはあの時から――そう、静香がこの屋敷から出て行ってしまったあの時からだ。
 なぜ静香が屋敷を出て行ったのか?
 母の言葉を静枝はすべて嘘だと否定した。
 根拠などいらない。
 静枝は自分の想いをかたくなに信じ、それを通してこの世界を見てきた。
 だから静枝は恐ろしさを感じずにはいられなかった。
 あの時からこうなったのだとしたら、それ以前のもの、その原因となったものが、現れたとしたら、価値観が一気に変わってしまうことがあるのではないだろうか。
 そうなのだ、静香と逢うことが静枝は怖かった。
 嘘だとしていたものが、静香によって肯定されてしまったとき、すべてが崩壊するのだ。
 静香はなぜ屋敷を出て行かなければならなかったのか?
 悶々とする静枝を見透かしたように、智代は微笑みを投げかけてきた。
「わかっているわね静枝さん?」
「…………」
「静香が何を言おうと信じては駄目よ。あの子はわたくしとこの屋敷、そして貴女を捨てて自らの意思で出て行ったのよ。帰ってきた理由はわかるわね?」
 静枝は以前から聞かされていた。
 ――一族の呪い。
 母の語った内容が真実とは限らず、少なくとも静枝は信じていない。
 だが、静枝は現実と受け入れているものがある。
 それは糧。
 通常の食物だけでは生きていけない。
 智代が急須から液体を湯飲みに注いだ。
「貴女も飲むかしら?」
 尋ねてきた智代の顔が紅い水面でゆらゆら揺れた。
 赤い葡萄酒よりも濃厚な色彩。
「いらないわ」
 にべもなく静枝は返事をした。けれど、のどは乾いていた。緊張のせいかもしれない。
 静枝は思い出す。
 妹はこの液体があまり好きではなかった。
 それとは正反対の感覚を静枝は持っていた。ゆえに静枝はその気持ちや態度を妹の前はあまり出せなかった。
 智代ののど元が動いた。
 それを見て静枝はうっとりとしてしまう。
 ――飲みたい。
 あえて静枝は我慢をした。
 静枝は静かに目を閉じることにした。
 まぶたの裏に浮かぶ妹の姿。
 そこに浮かぶの自分と瓜二つの姿。
 妹の姿は別れたときから見ていなかった。にもかかわらず、想像の中の妹は静枝と共に成長した。
 鏡台の前に座る度に妹に想いを馳せた。
 瓜二つの双子。
 いつも妹は傍にいた。
 姿形を見れば、双子だということを疑う余地はなかった。
 しかし、静枝は静香を真に理解できずに、ときに苦悩することもあった。
 ただの姉妹であったなら、それは大きな問題にはならなかっただろう。双子であり、姿形が似ていることが問題になった。
 なぜ性格が大きく違うのか?
 近くて遠い存在。
 この屋敷で共に暮らしていたにもかかわらず、姉妹には性格の差違があった。
 双子であり、環境も同じでありながら、性格を分ける要素はなんだったのか?
 四年ぶりの再開。
 妹はべつの環境で育てられた。
 これによってさらに姉妹の差違は広がらないだろうか。
 静枝は変化を望み、変化を恐れた。
 まるで同じ日々が延々と繰り返しているような箱庭の世界。
 外の世界から帰ってきた妹は箱庭の世界にどんな変化をもたらすのだろうか?
 時間は刻々と過ぎ、廊下から足音が聞こえてきた。
 ふすまが少し開いた。
「静香様をお連れいたしました」
 深々とお辞儀をした菊乃の後ろから静枝と瓜二つの顔が現れた。
 静枝は自然と安堵の溜息を漏らしていた。
 離れていても顔も髪型も同じ、違うのは着物くらいなものだ。静香が着ていたのは白い布地に鞠の描かれた着物。顔は同じでも、衣装のせいで受ける印象はまったく異なる。
「お久しぶりですお母様、ただいま帰りました」
 智代の前に正座した静香は深々と頭を下げた。
「元気にしていたかしら?」
「はい、お母様」
「長旅で疲れたでしょうけれど、大事な話があるので聞きなさい」
 静香は不思議そうな顔をした。
 静枝は無表情のまま母を見つめた。そして、あの眼が妖しく輝いたことに気づいた。
「貴女たちに残された寿命はあと三年」
「っ!?」
 衝撃的な母の言葉に静香は驚いた。
 そして、そんな表情をした妹を見て静枝は訝しむ。
 静香は言葉も出ない様子で母の顔を不安そうに見つめている。
 だが、娘の不安をあざ笑うように智代は口元を歪めるのだ。
「生き残る方法はただひとつ。そのために静香さんは帰って来たのでしょう」
「初めて知りました。あと三年なんて、でも……どうして、嘘って言ってください」
「お黙りなさい!」
 怒号が轟いた。
 眼を丸くした静香は涙を浮かべて声を失った。
 静香はじっと口を挟まず動向を伺っている。
 どこか狂気を孕んだ柔和な笑みを浮かべて智代は口を開く。
「白々しい嘘はお止めなさい」
 ――嘘なんて!
 叫びそうな顔をしているが静香は声が出ていない。
 さらに静香は訝しんだ。
 歯車が噛み合っていない。
 静枝の疑惑の眼差しは母へ。
 この世界を信じずに生きてきた。
 もしも信じるものがあるとしたら……。
 静枝の視線は妹へ。
 そして、母と妹を同じ視界に収めた。
 閉めきられた部屋に風が吹いた。
 生ぬるい嫌な風だった。
 人の皮を被った物の怪がいる。
 その物は渦巻く狂気を口から吐くのだ。
「生き残る方法はただひとつ――片割れを殺し、肝を喰らいなさい」
 静枝はぞっとした。
 すでに静枝は母から聞かされていた。だからここでの話を驚かなかった。しかし、今という瞬間は、恐怖を感じたのだ。
 恐怖はどこから来た?
 静香も怯えている。その怯えと、今、静枝が感じているものは少し違う。
 急に静香が立ち上がった。
「それは静枝を殺すということですか! そんなこと、そんなこと……ましてや……嫌、嫌嫌ーっ!」
 部屋を飛び出す静香の背中に智代の怒号が飛ぶ。
「殺すのよ静枝!」
 般若の形相をする母を尻目に静香も部屋を飛び出した。

 廊下で蹲っている美花の肩を美咲がそっと抱いた。
「できるわけ……」
 美花は涙ぐんでいた。
 その泣き声は静枝の部屋まで聞こえてきた。
 畳に這いつくばり悶える静枝。
「嘘つきめ……静香の真似は止めなさい……なにが美花さんのように外で育てられたから……よ」
 静枝はつい先ほど双子の娘に告げたのだ。
 ――片割れを殺し、肝を喰らいなさい。
 過去に母が口にした言葉を自らも口にすることになった。
「残念だったわね静枝。運命には逆らえないと認めて受け入れるの、そうすれば楽になるわ」
 苦しんでいた声音が一変して、どこかあざ笑うような声音に変わった。
 そして、再び苦しそうな顔をするのだ。
「娘たちには決してわたしたちと同じ運命は辿らせないわ。それが例え寿命を縮めることになったとしても」
 片割れの肝を喰らわねば、寿命が尽きる。
 呪いの話は嘘か真か。
 少なくとも娘たちが通常よりも早く年老いていくのは事実。
 そして、静枝も同じだった。
 いつから通常の早さで年老いるようになったのか?
 それは静枝自身がよく知っている。
 では、十で死ぬというのは本当か?
 もしもそれが嘘であったら?
 老化現象は治まらなくとも、姉妹が殺し合いをせずともよくなるかもしれない。
 倍の早さで歳を取るとしたら、よければ四〇年は生きることができるかもしれない。
 姉妹二人がそれでもよいというのなら。
 だが、静枝は知っていた。
「娘たちには長生きして欲しいわ。それとは裏腹に十で死んで欲しいとも願うわ」
 苦悩。
 親として、これほどまでに残酷なことがあろうか。
 静枝が笑った。
「けれど、それはあの子たちの願いかしら? 死は恐ろしい、恐ろしさはひとを変える。どちらか一方が長生きをしたいと願ったらどうなるかしら?」
 苦痛。
「死よりも、死んだのに生かされていることのほうが恐ろしいわ。わたしも、娘たちも、わたしはそれを身を以て知ったわ。すべてはわたし過ちだった」
 いったいなにを言っているのか?
「静枝の過ちは運命を受け入れないこと」
 すぐに否定する。
「弄ばれるのが運命ならわたしはあらがい続けるわ。早く年老い、姉妹で殺し合い、たとえ姉妹の血肉を喰らっても六年あまりで寿命は尽きる。さらに死しても生かされ、わたしの目の前で娘の運命をも弄ばれる。こんな運命を受け入れろというの!」
 六年?
 話が違うのではないか?
 倍の早さで年老いる運命。
 七歳で殺し合った姉妹は片割れの肝を喰らう。
 それから六年しか生きられないというのか?
 十歳で――三年で死ぬ運命が、六年に伸びる。
 三年のために姉妹を殺すのか?
 そのことを姉妹は知っているのだろうか?
 当時の静枝は知らなかった。
 だからこそ静香は……。
 静枝の叫び声を聞きつけて菊乃が部屋に入ってきた。

《3》

「どうかなさいました静枝様?」
 部屋に入ってきた菊乃が見たものは、蒼い顔をした静枝だった。
「なんでもないわ。少し疲れているようね、いつの間にか寝てしまって悪夢を見るなんて」
 静枝の顔は蒼いだけではなかった。少し頬がこけている。目の下には隈がある。疲労は今にはじまったことではなく、蓄積されているものようだ。
「あまり無理をなさらぬように、生まれてくる子供のためにも」
 そう言ってお辞儀をして部屋を出て行こうとする菊乃に、少し驚いた顔をして静枝が呼び止める。
「貴女には冷たい印象を受けていたけれど、そういう気遣いもできるのね」
「静枝様に冷たい態度を取った覚えはございませんが?」
「表面的にはそうかもしれないわ。仕事をそつが無くこなし、わたしの身の回りの世話もしっかりしてくれている。気が利くほうだとも思うわ。けれどそれらすべては、感情を交えず規則どおりに物事を処理しているように感じていた」
「不愉快な思いをさせてしまったのなら、申しわけございません」
「別に謝らなくてもいいわ。貴女はそういうものとして見ているから。けれど先ほどの貴女からは感情が伺えたわ」
 今の菊乃は無表情だった。
「仕事がございますので失礼いたします」
 それはまるで逃げるような立ち去り方だった。
 静枝は微笑んだ。
「菊乃にも照れると言うことがあるのかしらね、知らなかったわ」
 静枝は机の本を少し持ち上げ、その下に隠してあった手紙をそっと滑らせ抜き取った。
 手紙は最近書かれたものではなく、静枝が書いたものでもない。記されてした署名は智代の名だった。
 同じ家にいながら手紙を書く理由は、口頭では伝えづらい、あるいは伝えられないことを形として残すため。
 いったい智代は何を伝えたかったのか?
 この手紙は誰に宛てた物だったのか?
 手紙の文末には署名。冒頭には宛名が書かれていた。
 ――生まれてくる娘たちへ。
 冒頭にはそう書かれていたのだ。
 つまりこれが書かれたのは、静枝が生まれる以前である。そして、双子が生まれることを承知していたことになる。
 手紙の上に置かれた静枝の指の間から見える文字。
 ――これを読んでいるのが娘たち、もしくはその子孫で。
 ――私は此の世に。
 ――呪縛から逃れる術を。
 手紙は数枚に及ぶ長いものだった。
 静枝は手紙を元の通りに折りたたんで、本の間に挟んだ。そして本は机の引き出しへとしまわれた。さらに引き出しは鍵を厳重に掛けられ封じられた。
 大きく膨らんだ腹を抱えて、静枝はゆっくりと膝を伸ばして立ち上がった。
 おぞましい寒気。
 恐怖に顔を引き攣らせながら静枝は素早く振り返った。
「きゃぁっ!」
 短く悲鳴をあげた静枝が見たものは、畳にできた血溜まりだった。
 それは決して幻覚などではなかったが、血溜まりにはほかになにもない。血を流したモノがいないのだ。
 静枝は目を閉じ、ゆっくりと目を開けた。
「よくもわたしを殺したなッ!」
 眼前に飛び込んできた血みどろの狂気に駆られた女の顔。
 思わず静枝は腰を抜かして尻餅をついてしまった。
 その一瞬の間に女の顔は消えた。
 脂汗を拭った静枝は急いで立ち上がり部屋を飛び出した。
 そのまま屋敷も飛び出し、壁に立て掛けてあった鍬[くわ]を土などを運ぶ深型の荷台がついた一輪車に乗せ、ある場所へと向かった。
 屋敷からだいぶ離れた場所――広大な庭の片隅に七五三縄[しめなわ]の巻かれた岩があった。
 静枝は両手で力一杯岩を動かし、その地面を鍬で掘り起こしはじめた。
 なにかに取り憑かれたように、妊娠した躰に鞭打ちながら静枝は黒土を掘り起こす。
 鍬が硬い物に当たった。
 黒土の隙間に見える白いもの。
 次々と出土するそれを静枝は掘り出した。
 それは骨だった。
 人間の骨――いや違う。
 放り出され転がっている頭蓋骨が人外であることを示していた。
 角だ、額から小さな角が二つ生えている。
 そして、この人外の死因はおろらくこれだろう。側頭部にある陥没した打撃痕だ。
 静枝は一輪車に骨を乗せて屋敷へと戻る。
 勝手口の前に一輪車を止めた静枝は屋敷の中に入り、しばらくすると大風呂敷と鉄槌を持って帰って来た。
 骨は大風呂敷の上にぶちまけられた。
 鉄槌を振り上げた静枝が一心不乱に骨を砕く。
 砕く!
 機械的にその作業をこなしているわけではない。
 ぞっとするような強烈な恐ろしさを込めながら鉄槌を振り下ろしているのだ。
 作業は数時にも及んだ。
 その間、静枝はひと時も休まず重い鉄槌を振り続けた。
 砕いた骨は台所へと運ばれた。
 かまどに火が付けられると、骨の欠片がその中に焼[く]べられた。
 火は古来から破壊と清浄の象徴である。
 骨は灰とまではならなかったが、それでも静枝は満足したようだ。炎の消えたかまどから骨を取り出して風呂敷に包んだ。
「まだよ」
 呟くと静枝は駆け出してどこかへ向かった。
 静枝の消えた台所に現れる影。
「存在していないモノへの怯えは、灰にしようと変わらない」
 女の眼が眼鏡の奥で妖しく輝いた。
「慶子様、夕餉[ゆうげ]の準備はまだしてございませんが?」
 菊乃の声が響き、慶子は柔和な顔をして振り返った。
「少しお腹が空いてしまって。育ち盛りなのかしらねぇ」
 おどけて見せる慶子は自らの豊満な胸を持ち上げた。
 軽い足取りで台所を出ようとする慶子。
「やっぱり夕飯まで我慢するわ。では」
 慶子の背中を見つめる菊乃の瞳は無機質だった。
 そして、すぐに静枝が壺を抱えて戻ってきた。
「そこを離れなさいすぐに!」
 いきなりの怒声。
「申しわけございません」
 頭を下げた菊乃は素早くその場から離れた。
 少し離れた場所から静枝を見守る菊乃。
 一心不乱の静枝は先ほどの風呂敷包みを壺に押し込めていた。
 すでにこのとき、静枝の眼中に菊乃はなかった。
 壺のふたが閉められると、そこに御札で封をされ、さらに布で壺を覆うと麻紐で厳重に縛られた。
 これで終わりではない。
 壺を抱えた静枝は再び外へと向かったのだ。
 行き先は先ほどと同じ場所。
 盛り上がった土の横に穿たれた地の底に壺が収められた。
 壺に土が次々と被せられる。
 重労働を苦ともせず、休まず静枝は穴を埋めた。
 埋めた穴は全力を持って踏み固められ――いや、蹴り固められた。それほどまでに力が走っていた。
 夕暮れの朱色が静枝の顔に差す。
 何時間にも及んだ作業はついに終わりを迎えようとしていた。
 静枝は全身の体重を掛けて岩を動かした。
 岩は埋められた穴の上へ。
 七五三縄の巻かれた岩が最後の封となった。
 大きく息をついた静枝。
 歩き出した静枝は屋敷には戻らず、鳥居に向かっていた。
 石で築かれた鳥居の先には祠がある。
 祠の中は広く、天然の洞窟を元に作られたらしい。
 静かで冷たい空気に満たされている。
 静枝は祠の奥へと進み、祭壇までやって来た。
 祭壇は石造りで、その上には銅鏡と香木が備えられていた。
 よく見ると祭壇の脇には引きずったような跡がある。この祭壇は動くのだ。
 静枝は祭壇を力一杯押した。
 その下に現れた空洞。子供がひとり膝を曲げて入れるくらいだろうか。
 中にはいくつかの物が収納されていた。
 額に入れられたセピア色の写真。そこに映っていたのは和服を着た一〇代後半とおぼしき女。なんと女の額には二本の角が生えていた。
 屋敷の閉ざされた部屋に貼られている御札と同じ物の束。
 そして、なぜか入っている煙草の空き箱。
 ほかにもいくつかの物が入っているが、静枝はその中から短剣を取りだした。
 祭壇の上にある香木を短剣で削ぐ。欠片は手ぬぐいで包み懐に収められた。
 短剣と祭壇を元に戻すと、静枝は早々にこの場から立ち去った。
 祠を出ると、東の空が蒼く染まっていた。
 屋敷へと戻った静枝は自室に籠もり、香を焚く準備をはじめた。
 香炉に入った灰の中心に穴を開け、そこに炭団[たどん]を熾した物を入れ灰を被せる。
 銀葉と呼ばれるものを灰に乗せ、さらにその上に香を乗せる。銀葉とは雲母の板で、雲母は絶縁体であるために、香が燃え上がらないように直接熱を伝えにくくする。銀葉と炭団の位置を調節することで、香りの量を決めることが可能だ。
 香は不浄を払い、心を鎮めるために用いられることがある。西洋では振り香炉が宗教で用いられている。
 静枝の表情は鎮まりとはほど遠く、恐ろしく歪んでいた。
「母の皮を被っていたモノは死んだのに、一族の呪いは未だ続いているのはなぜ?」
 自らに問う独り言。
「なぜ双子が生まれ、なんのために……繰り返す運命の糸をどこかで切らなくては。すべては生まれてくる愛しい子らのために」
 静枝は机に向かって筆を執った。
 書こうとしているものは手紙であった。
 宛名は――生まれてくる娘たちへ。
 その書き出しは智代からの手紙とまったく同じだった。
 手紙を書いていると、廊下から声がした。
「失礼いたします静枝様。夕餉の準備が整いましてございます」
「すぐに行くわ」
 筆を置いて書き途中の手紙をその場に残し静枝は立ち上がった。
 香り纏いながら静枝は部屋を出た。
 食卓に着くと食事の準備はひとり分――静枝の物だけ。
「慶子さんは?」
 と静枝が尋ねると菊乃が、
「忙しいので自室に食事を運ぶように仰せつかりました」
「そう」
 短くうなずき静枝は席に着いた。
 その後ろではなにやら瑶子が菊乃に耳打ちをしていた。
「あの……急に気分が優れなくなってしまって」
 顔色が悪く今にも倒れそうだ。
「わかっております。もう今日は仕事をせず、部屋で休んでください」
「ありがとうございます。では一足先に休ませてもらいます」
 菊乃に言われ部屋を出て行く瑶子。
 そして、静枝が呟く。
「香に当てられたのね」

 美咲は自室に美花を連れてくると香を焚きはじめた。
 香りが部屋に漂いはじめると、美花は少し眉をひそめて苦しそうにした。
「どうしたの美花?」
「急にのどが苦しくなったような気がして。ごめんなさい、この匂い苦手です」
「私もよ」
「え?」
「私もこの匂いを不快だと思うわ。好きで焚いているわけではないのよ。邪魔者を寄せ付けないため」
 邪魔者とは何か?
「美花も気づいているでしょう? この屋敷に棲み着いた得体の知れないモノどもがいることを」
「物音や気配のことですか?」
「ほかにもいるわ――この香に反応するモノたちが。瑶子もお母様も鬼の子も、この匂いが苦手みたい。唯一なんともないのは菊乃だけみたいね。慶子先生はわからないけれど」
「それではほとんどみんな反応することになるのではないですか? だって、わたしやお姉さまだって」
「香にたいしてどのような反応を示すのが正常なのか、それはわからないわ。無反応の菊乃は明らかに可笑しいと思うもの。重要なのはどの程度の反応をするかよ」
 香を嫌う得体の知れないモノども。
 香を嫌う表の住人たち。
 だれもが嫌うものならば、それが正しい反応だと思えてしまう。
 美咲は薄ら笑いを浮かべて静かな面持ちで美花を見つめた。
「お母様や瑶子は、得体の知れないモノたちと同じくらいこの匂いが嫌いみたい。この意味がわかる?」
 意味はわかるが美花は否定せずにはいられなかった。
「そんなこと……瑶子さんやお母様は普通の人間……もしそうだとしたら、子供である私たちはいったいどうなるのですか!」
「私はこの屋敷でずっと育ってきたわ。外の人間のことなんて知らない。私は私でしかない」
「…………」
 美花は外の世界と接してきた。
 周りの人間たちと自分との比較を美花はしてきた。
 疎外感や恐怖心、自分がいったい何者であるのかという疑問が付き纏わない日はなかった。
 美咲は机の中から一通の手紙を取りだし、それを美花に手渡した。
「読むといいわ」
 手紙の宛名は――生まれてくる娘たちへ。

《4》

 生まれてくる娘たちへ
 この手紙を読んでいるのが娘たちであることを願います。
 そして、この手紙がまだ存在しているということは、未だ一族は呪われたままであり、私の抵抗も成就せず、最悪の結果の代償として私は此の世にいないでしょう。
 万が一、あなたたちの前に母と名乗る存在がいたとしたら、今すぐにそいつを殺しなさい。そいつは私の皮を被った物の怪だからです。
 私の母もそうでした。私が生まれた時にはすでに遅く、母は母の皮を被った物の怪だったのです。そうと気づく前から私は母を疑っていました。それが確信へと変わったのは、本物の母が残した手紙でした。私は母に習い、あなたたちの手紙を残すことにしたのです。
 私は母と同じ場所にこの手紙を残しました。その場所がこの屋敷の中でもっとも安全な場所だからです。物の怪たちは例え手紙があの祠にあると知ることができても、直接手を出すことはできません。しかし、私の危惧するところは、間接的な方法を用いてこの手紙が物の怪の手に渡ってしまうことです。そうなれば、この手紙を残す意味も失われ、さらに最悪な事態を招いてしまう。過酷な運命をさらに私の娘たちに背負わせてしまうのではないかと、心が痛むと共に恐怖を感じるのです。
 あなたたちも知っての通り、我が一族は呪われています。それが自然によるものではなく、意図的なものであることは明白ですが、誰が何の為に呪いをかけたのかまではわかりません。原因を究明しようと今も奔走していますが、何の糸口も見つからない状態です。
 あなたたちが現在、どのような状況に置かれているか、それは現在の私にはわからないことです。しかし、この手紙があなたたちの手元、あるいはどちらか一方の手という可能性もありますが、そうであった場合、私の計画の一つは失敗した可能性が高いと言うことです。そこから導き出される未来の可能性は、一族が歩んだ道の繰り返しであろうということです。
 姉妹で殺し合いを命じられてはいませんか。もしそうであるならば、絶対それはしてはならないことです。それは呪いを繰り返すことにほかならないと私は考えるからです。呪い云々よりも、我が子が殺し合いをするなど私には耐えられない。どうかお願いですから早まった真似はしないでください。母の切なる願いとしてどうか聞き届けてください。
 双子の片割れを殺し、その肝を喰らわなければ数年と生きられないと脅されたと思います。残念ながらそれは事実です。死期を受け入れることが酷であることは十分承知しています。それでも姉妹で殺し合うなどということがあって良い筈がないのです。
 殺し合いを命じた者はあることをあなたたちに告げていないと思います。万が一、殺し合いが現実のものとなってしまった場合、生き残ったひとりはどうなのでしょうか。私はそれを知っています。急激な老化は治まりましたが、決められた死期は数年延びたにすぎなかったのです。たとえ殺し合いをしても、六年も生きることができないと忠告しておきます。
 なにもしなければ三年、殺し合いをしても六年。それが一族の呪いなのです。なぜ死期が決まっているのか、そこまではわかりません。もしかしたら、それこそが呪いを解く糸口なのかもしれません。だからあなたたちには最後まで諦めないで呪いを解く方法を探して欲しい。それを成就できなかった母を許して欲しい。この手紙が存在しているということは私の代で呪いを断ち切れなかったということ。本当に本当にごめんなさい。
 口頭でこの思いを伝えられていないということは、さらに早く六年も経たずに死んでいることになります。
 偽物の私があなたたちの前にいることを想像すると、悔しくて悔しくて

 静枝は書き途中の手紙を涙で滲ませた。
「こんな手紙!」
 破り捨ててしまおうかと思ったが、すぐに思いとどまった。
「こんな手紙……書きたくないわ」
 手紙は最悪の事態が起きた未来へ託すもの。まだその未来は訪れていない。抵抗の最中に、悲観的な未来へ事を綴ることに静枝は憤りを感じたのだ。
 しかし、静枝は手紙を書かなくてはいけないことを承知していた。母がそうしたように。自分にもしもことがあった場合、手紙を残しておかなければ未来は過去と同じ道を辿ることになってしまう。
「静枝さん、いるかしら?」
 部屋の外の廊下から慶子の声がした。
 静枝は書き途中の手紙をそっと隠した。
「どうぞお入りになられて」
 廊下に向かって投げかけると、慶子が部屋の中に入ってきた。
 机に置かれている墨の入った硯[すずり]と筆に慶子は気づいたようだ。
「また手紙を書いていたの?」
「ええ」
「今度の文通相手は誰ですの?」
「こないだも話した古本屋の店主よ」
「あなたに気があるっていう? 送ってきた写真を見る限り、いい男ですわよねぇ。あたくしもまた文通をはじめようかしら」
「それなら古本屋の店主は慶子さんに譲るわよ」
「嫌ですわ、静枝さんよりもいい男を見つけてみせますもの」
 慶子は笑って見せた。
 この屋敷の呪縛がある限り、外の人間とのやりとりは文通が有効な手段だった。
 笑顔の慶子とは対照的に、静枝は悲観的な瞳をしていた。
「聞いてもいいかしら?」
「世界の終わりみたいな顔をして、嫌ですわぁ。なんですの?」
「なぜこの屋敷に来てくれたのか今でも信じられないわ。あなたのようなひとが」
「手紙にも書きましたでしょう。どんな犠牲を払おうと、研究者として探求の欲望に勝てなかったからですわ」
「私は手紙にしっかりと、一度この屋敷に足を踏み入れれば決して外の世界には戻れないと――。外の世界で育ったあなたにとっては、不便以上に過酷であった筈だわ。それでもあなたは来てくれたわ」
 手紙のやり取りによって慶子はこの屋敷に来た。
 研究者と自ら言っていたが、その目的はなんだろうか?
 慶子は春の木漏れ日のような笑顔を浮かべていた。
「あなたには騙されましたわ。一生出られないと覚悟してきたら、それが嘘だっただなんて」
「たしかに容易ではないとはいえ、外に出る方法は存在しているわ。けれど外に出られない覚悟を持つほどの方でなければ、この屋敷ではやっていけないと思ったのよ」
「あたくしからも聞いてよろしい?」
「なにを?」
「なぜ静枝さんはこの屋敷を出ないんですの?」
 静枝は度肝を抜かれたように困惑した。
 俯いた静枝は数秒黙り込んだのち、口を開いた。
「一刻も早くこんな屋敷から逃げ出したいわ。けれどわたしは外の世界が怖いわ。わたしを受け入れてくれるのか、それよりもわたし自身が受け入れることができるのか」
「あたくしが連れ出してあげますわよ」
「なにもかも捨てられるものなら捨てて逃げ出したわ。けれどわたしにはこの屋敷でやるべきことがあるわ。そのためにあなたにも来て貰ったのですもの」
 慶子は自らの意思でこの屋敷に来たが、呼んだのは静枝だった。
 表向きの理由として静枝は菊乃や瑶子にこう話していた。生まれてくる子供たちの家庭教師よ――と。しかし、慶子を呼んだ真の目的は別にあった。
「何か用事があってわたしに会いに来たのでしょう。もしかしてなにか進展があって?」
 文通の話から広がってしまったが、慶子が静枝の部屋を尋ねてきた理由があるはずだった。
「正直、手詰まりですの。過去の文献や手紙など、この屋敷に何も残っていないのが不思議で仕方ないですわ。だってこんな重大な事、何かしらの形で後世に伝えるのが普通ですわよね?」
 何も残っていない。静枝は母からの手紙のことを慶子に伝えていないのだ。
「一族の呪いについては口伝でしか伝えられていないわ。それも偽物の母からしか」
 そう答えながら静枝も疑問を持っていた。
 母――智代と同じように後生に伝えようとした者はほかにいなかったのだろうか?
 いた可能性はあるだろう。ただし、智代がそうしたように、公に伝えることはできなかったはず。未だ見つからないままになっている過去からの手紙が存在しているかもしれない。
 もしくは――。
「処分されたと考えるのが妥当だわ」
 と、静枝は囁いた。
 偽りの母。それは真実を隠そうとする存在。そのような者が過去の手紙などを残しておくはずがなかった。
 静枝は唇を噛み絞めた。
「殺さないでもっと聞き出せばよかったわ。でもあの時はそんな余裕なんてなかったのよ」
 アレが一族に呪いを掛けた張本人だったのか?
 未だ呪いは解けず。
 母に成りすましていたアレを殺しても、なにも変わっていない。
 屋敷で生き残っている静枝は妊娠をした。
 なにも変わらないのであれば、双子を出産すると決まっている。
「過去を悔やんでも仕方がありませんわ。静枝さんは過去に干渉することができて?」
「過去は変えられないから未来を変えろといいたいのかしら? そうね、そうするつもりよ、生まれてくる娘たちのために」
 大きなお腹に手を置いた静枝を見つめる慶子。
「まだ聞いていないことがありましたわ」
「なにかしら?」
「なぜ双子の姉妹が生まれるかわからないんですの?」
「わからないわ」
「そこに呪いを紐解く糸口があると思いませんこと? 父親は誰ですの?」
「……父親」
 静枝は呟いて黙り込んだ。
 この屋敷に男はいない。
 文通相手や屋敷に町からの荷物を運んでくる者たち、その程度でしか静枝は男を知らなかった。
 静枝にとって男は非現実にも等しい存在だった。
 では、どうやって妊娠をしたのか?
「父親はいないわ。ある日突然妊娠したのよ。それが外の世界では考えられないことで、おろらく不気味な事とされるのは承知しているわ。けれど、この屋敷で過ごしてきた私にとって、外の常識など関係ないの。この屋敷で起こっていることがすべてなのよ」
 照らし合わせる常識がなければ、疑問の余地もない。
「本当に父親はいないんですの?」
「それは……」
「本当は何か心当たりがあるのではなくて?」
「…………」
 静枝は黙してしまった。
 そして、苦悶の表情を浮かべたのだ。
「生まれてくる子供が人間の子だと思う?」
 不安そうな眼差しで静枝は尋ねた。
 瞳に映っているのは慶子だったが、問うたのは自分自身かもしれない。
「なぜそう思うんですの?」
「外の常識なんて関係ないと言ったのは嘘よ。わたしは外の常識を恐れているだけ。だってわたしは人間なのよ、誰がなんと言おうと得体の知れないあんなモノたちとは違う。自分の子供が自分の子供とは思えない。わたしの躰から生まれてくるにも拘わらずよ。恐ろしいわ、なにが生まれてくるのか恐ろしくて堪らない。それとは裏腹にお腹が大きくなる度に、娘たちを愛おしく思うの。誰の子かなんて考えたくもない。わたしの子というだけでいいの。父親なんてはじめから存在しないほうがいいわ。もしも父親が……考えたくもないわ。そんなことあってはならないことなのよ」
 静枝の視線は泳ぎ、挙動不審になっていた。
 慶子は静枝の顔を押さえて自分に向けさせた。
「目を背けては何も変えられませんことよ。父親は誰ですの?」
「……わからないわ。本当にわからないの。ある朝起きたら、紅い血で汚れていたの。なにがあったのかは覚えていないのよ。わたしは怖くて、できる限り考えないようにした。でも月日が経って、妊娠を認めざるを得なくなった」
「父親は誰ですの?」
「わからないわ!」
 静枝は大声を張り上げて慶子を突き飛ばした。
 畳に腰を打ち付けた慶子を見ても静枝は治まらなかった。
「出て行きなさい、あなたの顔なんて見たくないわ! 消えなさい、消えるのよ!」
 鬼の形相をして怒鳴り散らした静枝。
 慶子は何も言わず部屋を出て、背中を向けてふすまを閉じた。
「父親が誰かなんて重要ではないわ。だってあんな顔をする女から生まれた子供が人間だと思って? うふふふふっ」
 小さく小さく呟いた慶子は嗤いながら廊下の闇へ消えた。

《5》

 美花は読み終えた手紙を震える手で美咲に返した。
「信じられません」
「何がかしら?」
「全てです」
「それが外の世界で過ごしてきた美花の反応というわけね」
 美咲は艶やかに笑い言葉を続ける。
「私もよ」
「え?」
「美花とは違う意味でしょうけれど」
「どういう意味ですか?」
「何が信じられないか具体的に言ってご覧なさい」
 少し高圧的な言い方だった。
「何よりも母が物の怪だなんてそんなこと」
「私はありえないことではないと思うわ。私が疑っているのはそこでなく、手紙を書いたのが本物の母かどうかという根本的な話。母ではないのなら、誰が書き、私たちに何をさせようとしているのか。ねえ、美花は自分のことを人間だと思っているのかしら?」
「……わたしは」
「外で過ごしてきて、感じることがあったでしょう?」
「人間です」
「嘘ばっかり。そんな自信のなさそうな顔しないで頂戴。私は別に自分が何者であろうと関係ないの。もしも母が物の怪で、その腹から生まれたのが私たちだとしても、何か困ることがあるかしら?」
 生まれてからずっと美咲はこの屋敷で過ごしてきた。
 片や美花は外の世界で過ごし、この屋敷という世界に戻ってきたのだ。
 黙り込む美花。
 美咲は物悲しい顔で美花から視線を逸らした。
「私はこの屋敷での生活が嫌で嫌で堪らないわ。でもこの屋敷でずっと過ごしてきた私よりも、外の世界を知ってしまった美花のほうがずっと不幸だわ。ねえどうして戻ってきてしまったの?」
「お母様から大事な話があると手紙が届きました。とにかく実家に帰ってくるようにと。わたし嬉しかった、だってずっと想像してきたお母さまやお姉さまに初めて会えるのですもの。それがこんなことになるなんて」
 双子の姉妹の殺し合い。
「私も美咲のことを想像していたわ。双子というだけで何も知らないのに、なぜか大切に思っていたわ。きっとお母様のお陰ね」
 美咲の浮かべた笑みは苦笑と艶笑の狭間だった。
「お母さまのお陰?」
 尋ねてきた美花を鋭い視線で美咲は睨んだ。
「教えてあげるわ、お母様になんて言われて来たか。殺せ、殺せ、殺せ、双子の妹が目の前に現れた殺しなさい! 気が狂いそうになるほど、何度も何度も言われ続けてきたわ。私はその度に、洗脳されるどころか、反発心を覚えていったの」
「嘘ですそんなの!」
 あまりの美花の勢いに美咲は息を詰まらせ後退った。
 次の瞬間、美咲は急にどっと笑ったのだ。
「あはははは、なぜか安心してしまったわ」
「えっ、なぜ笑うのですか?」
「気にしないで……うふふ……本当に安心したわ。よかった、本当によかった」
 そして、表情を一変させて美咲は真顔になったのだ。
「何があろうと美花のことは私が守るわ。美花はただひとりの双子の姉妹。私の一部と言ってもいい存在だと確信したわ」
「お姉さま……」
「だから美咲は私のことを信じなさい、何があろうとも、何が起ころうともよ」
 それは何か≠する宣言とも取れた。
「私はお母様を殺すと決めたわ」
 美咲の衝撃的な発言に美花は言葉を失ったのだった。

 静枝は臨月を迎えたお腹を摩りながら、祠の中で香を焚き、待ち人が姿を見せるのを眺めていた。
 祠にやって来たのは菊乃だった。
「お待たせいたしました。このような場所で、どのようなご用件でございますか?」
「誰にも邪魔されない場所で、あなたと向き合って見たかったのよ。この場所なら大丈夫でしょう、あなたが知っていることをすべて聞かせて頂戴」
「…………」
「黙りね。あなたはわたしが生まれた時にはすでに屋敷にいたわ。それを言うなら、瑶子も同じだけれど、あなたと瑶子は明らかに違う目的で存在していると思うのよ。この屋敷の中でもっとも異質なのはあなただと思っているわ。おそらくあなたは多くの秘密を知っている。にも関わらず、あなたは黙して語らず。でもそれを許すのも今日までよ。もう背に腹を変えられないの。どんな手段を講じようとあなたの口を割らせるわ」
「…………」
 菊乃は黙ったまま。
 静枝はそっと菊乃に近付き、その首に手をゆっくりと伸ばした。
 まったく動じない菊乃。顔色一つ変えない。
 か細い首が静枝の手によって絞められた。
 菊乃の黒瞳に映る女の顔。
「いやっ!」
 静枝は怯えて菊乃から離れた。
 蒼い顔をして脂汗を滲ませた静枝は咳き込んだ。立場が逆の反応だ。
「大丈夫でございますか静枝様?」
「うっふふ……わたしのほうが心配されるなんて。あなたが動じないことはやる前からわかっていたわ。あなたは例え躰をばらばらに切り刻まれようと、絶対に口を割らないでしょう。だからあなたから何か訊くことを諦めていたのよ。でもお願いよ、お願いだから、あなたの知っていることを聞かせて頂戴。生まれてくる娘たちのためなのよ!」
「…………」
 無機質な表情のまま菊乃は何も返さなかった。
「あなたしかもう頼れないのよ!」
 必死さは痛いほど伝わってくる。
 静枝は肩を落とした。
「あなたは何を頑[かたく]なに守っているの。なにが目的なの?」
「わたくしに与えられた使命は、生まれてくる子供たちを見守り続けることでございます」
「双子の姉妹が殺し合いをしようと、見守り続けるだけなのかしら?」
「はい、わたくしは能動的に干渉することができません」
「あなたの行動は制限されているということ? 誰の意思で?」
「…………」
 また黙ってしまった。
 静枝は考えた。
「能動的と言ったわね。とても意味深な言葉だわ。誰かの働きかけがあれば、あなたは行動することが可能ということよね? けれど、私がいくら頼んでも口を割ってくれない。わたしの命令では駄目なのね。あなたにとってわたしは仕える主人ではないということでしょう?」
「わたくしの主人は静枝様でございます」
「でも何でも言うことを聞いてくれるわけはないのでしょう。名ばかりの主人だわ」
 屋敷にいることが当たり前のように菊乃は存在していた。静枝が生まれたときにはすでにいた。いつから菊乃が屋敷にいるのかはわからないが、それはあまりに当たり前すぎる流れの中で、静枝はいつしか菊乃の主人となっていた。
 菊乃はいつ静枝を主人と認めた?
 それは智代が此の世からいなくなってからか?
「わたしはいつからあなたの主人になれたのかしら?」
「此の世に生を受けた瞬間からでございます」
「えっ」
 静枝は驚いて息を呑んだ。彼女が予想していた答えとは違ったのだろう。
「わたしはてっきり母が死んだときだと思っていたわ」
「そのとおりでございます」
「あなたの答えでは矛盾が生じるわ。けれどあなたが嘘をついているとは思えない。……母はいつ死んだの?」
 その質問は静枝にとって認識の崩壊をもたらすものだった。
 この目で見てきた母、自分を育ててくれた母、生まれた時にそこにいた母。菊乃の言葉によって、思い出したように理解してしまったのだ。あれは母ではなかったと。
 静枝は大きな誤解をしていた。
 主人となったのは母の皮を被ったアレが死んだときではなかった。
「先代の智代様は静枝様と静香様をご出産して間もなく、お亡くなりになりました」
 菊乃の答えに静枝は戦慄した。
「なにが原因で死んだのか言いなさい!」
 出産による死亡事故と考えるのが普通だが、この屋敷で起きていたこと――母が母ではなかったことを考えると、そこに因果関係を見いだそうと考えてしまう。
 答えない菊乃をさらに静枝は大声で問い詰める。
「あの化け物に殺されたのでしょう! そして母はあの化け物に取って代わられたんだわ!」
「それは断じて違います」
「だってそうでしょう、そうとしか考えられないじゃない! 何が目的なの、あなたもあの化け物の仲間なの!」
「それも断じて違います」
 取り乱す静枝と、淡々とする菊乃。
 あまりの温度差の違いに静枝も冷静さを取り戻そうと、顔を押さえて瞳を閉じた。
「そうね、わかっているわ。あなたがあの化け物の仲間ではないことは、化け物に殺されそうになった静香を救ってくれたことを考えれば。本当に嫌な世界だわ、なにを信じていいのかわからないわ。仇なす者と当たり前のようにいっしょに暮らしてるなんて。あなたも瑶子も、明確に仇なす者とわかったら殺しているところよ」
 静枝は呼吸を置いた。
「話を戻しましょう。母がなぜ死んだのか答えて頂戴」
「自らの意思でございました」
「生んだばかりの我が子を残して死ぬなんてわたしには考えられないわ」
「そうしなければならなかったのでございます」
「なぜ?」
「…………」
「大事なところでは黙ってしまうのね。それは生まれて来た子供に関係することかしら?」
「…………」
「本当に隠そうとするのなら、黙さずに嘘をつけばいいわ。それがあなたにできる最大限の譲歩と受け取ればいいのかしら」
 ふっと静枝は静かな笑みを浮かべた。
 急に哀しげな表情をした静枝は自らの大きなった腹を擦った。
「わたしが生まれたばかりの我が子を残して死ぬとしたら、それは我が子のためだわ。こんなにお腹が大きくなっているのに、まったく動かないのよ……不思議よね」
「…………」
「生まれてくる娘たちが死産であることと関係があるのかしら?」
「…………」
 静枝の衝撃的な発言。表情を崩さない菊乃は、知っていたのかいないのか。
 懐から手紙を出した静枝はそれを菊乃に手渡した。
「母がわたしたち姉妹に残した手紙よ。この祠で見つけたわ――香る枝≠フ下で」
 菊乃は受け取った手紙の中身を確認しはじめた。呼んでいる最中も表情は変わらない。手紙に書かれている内容、果たして菊乃はどこまで知っているのか。
 手紙を読み終えた菊乃はそれを静枝に返した。
「ここに書かれているとおり、智代様も出産を不安がり、死産を恐れておりました」
「それで実際に死産だったのかしら?」
「お聞きになられたらどうなさいますか?」
「あなたにしては珍しい返答ね。わたしはそれでも娘たちを生むわ。そして、もしものことがあれば最善の方法を探すでしょう。これで満足なら訊かせて頂戴」
「死産でございました」
 静枝は驚くことはなかった。悲しい表情もしなかった。受け入れる覚悟はできていたのだろう。冷静だった。
「生まれてきたわたしたちは死産だったのに、なぜわたしは生きているのかしら。なぜ母は死ななければならかなかったの、なぜ母の化けの皮を被ったモノが現れたの、それらは糸で結ばれるのかしら?」
 菊乃は何も答えず静枝は言葉を続ける。
「ここであなたの知る全てを聞き出せれば、呪いは解くことはできるのかしら?」
「残念ながら、静枝様に呪いを解くことはできません」
「断言するのね。できないと言えると言うことは、あなたはやはりいろいろと知っているのね。そして、知っているにもかかわらず、あなたの知ることを聞き出せても解くことができない。それは絶対に呪いは解けないという事かしら?」
「わたくしは解けると信じております」
「でもわたしには無理なのね。だとしたら、誰なら解けるのかしら?」
「わたくしに与えられた使命は、生まれてくる子供たちを見守り続けることでございます」
「あなたの目的が見えてきて良かったわ。ありがとう。もっと早くあなたと向き合えば良かったわ。ここでの暮らしは本当に嫌になるわ、毒されていくことにも気づけなければ良かったのに」
 静枝は優しい笑みを菊乃に送った。
 菊乃は相変わらずいつもと同じ表情だったが、今の静枝には別人のように映っていた。
「静枝様に呪いを解くことはできませんが、その行動が未来を変えることになるのでございます」
「そんな言葉をもらわなくても、わたしは最期まで抵抗を続けるわ。けれど、わたしに万が一のことがあった場合、頼まれて欲しいことがあるの……うっ!」
 静枝の腹が波打ちように揺れた。
 地面に落ちた大量の水。
 それは静枝の股から垂れ流れてした。
 静枝が動こうとすると、再び股から水が――破水だった。
 すぐに菊乃が静枝の体を支えた。
「出産の準備をいたします」
「まだよ、話が先よ、絶対に今言わなければ手遅れになるかもしれない!」
「これだけの破水の量、時間はあまりございません」
「わたしに万が一のことがあった場合、娘たちを――」

《6》

 たゆたうと揺れる紅い海。
 その海はとても浅く、海面からは横たわる静枝の顔や乳房や足先が見えていた。
 産まれたままの姿で眠る静枝。
 紅い海に揺られながら。
 世界を突如覆う黒い影が渦巻いた。
 渦巻くモノ≠ヘ静枝の肢体に覆い被さった。
 鋭く静枝は瞳を開いた。
 嗚呼、目の前でそのモノは世にも恐ろしく嗤っていた。
 影に覆われた顔。
 なのに嗤っているのが伝わってくる。
 やがて渦巻くモノ≠ヘ静枝の躰を犯しはじめた。
 股ぐらをまさぐられ、乳房を乱暴にこねくり回される。
 初めてではなかった。
 そのことに気づいて静枝は恐怖した。
 そうだ、あの時と同じだ。
 夢か現[うつつ]か。懐妊の夢。喪失の朝。
「わたくしの顔、思い出せたかしら?」
 渦巻くモノ≠ヘそう言った。静枝にはそれが女の声のように聞こえた。
 静枝は思い出してしまった。
 思い出したくはなかった。
 そうと気づいたとき、渦巻くモノ≠ヘ見覚えの姿に変わっていた。
「慶子!?」
「やっと思い出してくれたのね……わたくしの愛しい子」
 慶子と呼ばれるモノは静枝と躰を重ね交わり合った。
 大きく揺れる慶子と呼ばれるモノの乳房。
 そして、下半身でそそり立つ狂気。
 狂気は静枝の躰に侵入しようとしていた。
「いやっ!」
「これは夢、これは切っ掛けに過ぎない、妊娠したときもそうだった」
「いやっ、いやっいやっ!」
「貴女に新たな道を与えましょう」
「嗚呼っ!」
 狂気が静枝の躰を貫いた。
 渦巻く奔流が静枝の内を満たしていく。
 静枝の躰を包み込む影。
 どこからともなく聞こえてくる声。
「一つの糸から逃れようと、別の糸に絡め取られる。全ては箱庭での出来事」
 嗤い声。
 赤子、子供、大人から年老いたモノの声。
 大勢の嗤い声が世界を包み込んだ。
 紅い海に沈む静枝。
 夢か現か。
 再び目覚めた世界が果たして現実と言えるのだろうか?

 廊下に転がっている少女の首。傍らには巨大な蜘蛛の脚が落ちていた。
 床に滴る血痕は玄関まで続いていた。
 開かれたままになっている玄関から闇が覗いている。
 布に包[くる]まれた産まれたばかりの双子。
 屋敷の門をくぐり抜けた菊乃は、そこで赤子を向かいに来た男に手渡そうとしていた。
「これは前金でございます。無事に届けることができれば、届け先で残りをお支払いいたします」
 金の入った袋と一人目の赤子を渡したとき、闇夜を我が物のように纏った女が現れた。
「わたくしの屋敷で勝手な真似をしてもらっては困るわ」
 妖しく嗤う静枝。
 静枝の乱れた着物から覗く乳房に男が眼を奪われた瞬間、菊乃の首は高く飛んでいた。
 般若の形相を浮かべる静枝。その手で妖しく光るのは、隠し持っていた肉切り包丁。
 菊乃の首が口を開く。
「早く逃げなさい。赤子を届ければ、届け先であなたの命は保証されます。さあ早く逃げなさい!」
 恐怖で顔を歪めた男は赤子を抱えて必死に逃げた。
 たったひとりの赤子を連れて夜の山道を無我夢中で逃げた。
 残された赤子は――菊乃の躰が優しく抱きしめていた。
 運命が分かつ双子の姉妹。
 静枝は菊乃の躰から美咲≠奪い取った。
「ひとり残れば十分よ。貴女たちのやろうとしていたことは、半分成功半分失敗。しかし結局は、屋敷を出るのが早まったに過ぎないわ。ねえ、こんなことしでかして気が済んだかしら?」
「…………」
 無言の菊乃。
 静枝は鼻で笑った。
「本当に愛想のない子。瑶子を見習ったらどう?」
 背を向けて屋敷へと歩き出しながら、静枝は言葉を続ける。
「自分の躰は自分で直せるでしょう。貴女は明日から何事もなく寡黙にこの屋敷に仕える運命なのよ。だって貴女は産まれてきた子供を見守らなくてはいけないのだから」
 夜に木霊する女の嗤い声。
 静枝よ、おまえは何者だ?

 るりあは廊下で天井を見上げていた。
 そこへやって来た瑶子。
「どうかしました?」
 瑶子と目を合ったるりあはそっぽを向いて逃げるように走り出した。
 その途端、るりあの顔が何かにぶつかった。
「ちゃんと前を見て歩きなさい」
 顔を上げたるりあの瞳に映ったのは機嫌の悪そうな静枝だった。
 静枝はるりあを押しのけて歩きはじめた。
 その背中に瑶子の声が投げかけられる。
「お休みなさいませ静枝さま」
 あいさつも返さず足早に静枝は自室へ向かう。
 ふすまをぴしゃりと閉めた静枝は、敷かれていた布団の上に正座をした。
 そして、袖に隠し持っていた肉切り包丁を布団に突き刺したのだ。
「抑えるのよ、抑えなさい。血の繋がった双子の姉妹が殺し合うことに意味があるのよ」
 寝そべった静枝は悶えるようにして、布団に爪を立てながら涎を垂らした。
「この衝動に今まで耐えてきたのよ、あと少しくらい」
 静かな部屋に時計の針の音が鳴り響く。
 刻々と過ぎていく時間。
 廊下の向こうから大きな物音が聞こえてきた。
 不気味に嗤う静枝。
 甲高い悲鳴。
 そして、再び夜は静けさを取り戻した。
「ついに熟れた柘榴[ざくろ]が収穫されたのね」
 立ち上がった静枝は部屋を出る。
 蝋燭の薄明かりが仄暗く廊下を照らす。
 脈打つ鼓動。
 静枝は胸の高鳴りが表情にまで表れていた。
 狂喜の形相。
 だが、その感情は裏切られることとなった。
 静枝が悲鳴があった場所に着くと、そこにあったの干からびた屍体。下男らしい粗末な服を着ていた。
 歯ぎしりの音が響く。
 紅蓮の炎が世界を包む。
 それは静枝の瞳の色だった。
 真っ赤に血走った眼で静枝は屍体を滅多刺しにした。
 肉切り包丁を振り下ろし振り下ろし、振り下ろし。
 幽鬼のように蒼白い顔でゆらりと柳のように立ち上がった静枝。
 歩き出そうとした静枝だったが、その足が急に掴まれたように動かなくなった。
 鋭い眼光で足首を見たが何もない。
「……まだ抵抗する力が残っていたのね。ここまで抵抗をするということは、どこに向かうのかわかったのね?」
 それは誰に語りかけているのか?
 静枝は重い足を引きずるようにして歩き出した。
 肉切り包丁が柔肉を切り刻みたがっている。
 女の肉。
 若い少女に肉が好[よ]い。
 静枝は眼を剥いた。
 己の手が糸で引かれるように動き、なんと太股を肉切り包丁で突き刺したのだ。
「くく……う……おのれ……」
 顎が砕けるほどに静枝は歯を食いしばった。
 肉切り包丁を持つ手はさらに動き、捻るように回された。
「ギェあアッ……」
 はらわたから絞り出したような悲鳴。
 ぼとりぼとりと冷たい床に墜ちる黒血。
 肉切り包丁を太股から抜き、脂汗を垂らす静枝は構わず歩きはじめた。
「抵抗が大きければ大きいほど、その反発も大きいというもの。全ては無駄だったと嘆き悲しむがいい!」
 廊下に血の痕を引きながら静枝はついにその部屋の前まで来た。
 この部屋は美花の部屋だ。
 ふすまの先はとても静かだ。
 静枝は紅く濡れた繊手でふすまを開けた。
 部屋の中心に敷かれた布団で眠る少女。静かな寝息を立てている。
 静枝は肉切り包丁を握り直し、その刃を少女の細い首筋に突き立てようとした。
 その瞬間!
 布団が大きく跳ね飛ばされ、黒髪を乱しながら少女が静枝に襲い掛かった。
「痺れを切らせて、いつか来ると思っていたわお母様」
 その口調。
「美花ではないわね!」
 少女は妖しく微笑んだ。
「私は美咲よ」
 美咲は静枝に馬乗りになり、肉切り包丁が持たれた手首を床に押さえつける。
 そして、自らも隠し持っていた包丁で静枝の首を突こうとした。
「殺さないで……愛しい愛しい美咲、母を殺さないで」
 涙ぐむ静枝。
 だが、美咲は容赦ない冷たい瞳をしていた。
「どこに母なんているのかしら?」
「やめて美咲!」
 切っ先がのどに触れた瞬間、部屋に美花が飛び込んできた。
「やめて!」
 響く美花の嘆き。
 美咲の動きが止まり、その隙を突いて静枝は美咲の躰を押し飛ばした。
 足を引きずり這って逃げようとする静枝。
 体勢を直した美咲が静枝の背中に包丁を突き立てた。
「ギャァアアアッ!」
 包丁で刺されながら静枝は鋭い爪で美咲を振り払った。
 美咲の頬に奔った血筋。
 重傷を負いながらも静枝は立ち上がり、鮮血を乱しながら逃走した。
 すぐに美咲は後を追おうとする。
「逃げられたわ、止めを刺してやる!」
「嫌よお姉さま! そんなことをしてはいけない!」
「どうして! あの女は美花を殺そうとしたのよ、それでも庇うの!」
「わからない、わからないけど、お姉さまにそんな真似をさせられない!」
「だったら美花が手を下すの?」
「っ!」
 美花は息を呑んで固まった。
 そんな美花を美咲は構わずに、蝋燭を用意すると仄暗い廊下を歩きはじめた。
 血の道しるべが示す先。
 それは静枝の部屋へと続いていた。
 血塗られた襖の引き手。
 美咲は襖を力強く開き部屋の中を見た。
 部屋の中心に敷かれた布団の上で正座する静枝の姿。あまりに静かな面持ちが不気味だった。
「殺しなさい」
 と、顔を上げた静枝は静かに言った。
 警戒心を強めながら美咲は摺り足で静枝に近付いた。
 一歩、一歩と二人の距離が縮まる。
 静枝の形相が刹那に変わった。
「死ねーっ!」
 般若の形相をして静枝が肉切り包丁を振るった。
 咄嗟に庇って出した美咲の手のひらが血を噴いた。
 怯んだ美咲の腹を刺そうと肉切り包丁が鈍く光った。
 部屋に飛び込んできた美花。
「お姉さま!」
 美花はそのまま美咲を肩で突き飛ばした。
 肉切り包丁が柔肉を裂く。
 畳に倒れた美咲が叫ぶ。
「美花!」
 同じく床に倒れていた美花が手にしていたのは、美咲が落とした包丁。
 肉を裂かれたのは静枝だった。
 包丁を伝わって美作の手を彩る紅い息吹。
 よろめいた静枝は後退り包丁を腹から抜き、そのまま畳の上に倒れた。
 風もないのに、鏡台に掛かっていた布が落ちた。
 眼を見開く静枝。
 鏡に映った女の顔。
「嫌っ、嫌よ、こっちを見ないで静香、静香、しずかぁぁあッ!」
 鏡に映った顔は一つ。
 己自身の顔にほかならない。
 美花は眼を剥いたまま震えて動けずにいる。
 狂い躍る静枝が肉切り包丁を持って美花に襲い掛かる。
 美咲が微笑んだ。その口の端から溢れた紅い命。
 同時に二人が倒れた――美花の目の前で。
 そう、美咲は美花を庇ったのだ。その腹は背に達するまでの傷を負っていた。
 全身を紅く化粧した静枝も立つ気力も残されていなかった。
 美咲は美花にもたれ掛かった。
 そして、耳元で囁いた。
「どうせ死ぬのなら、美花に喰らって欲しい。この血肉は美花の物よ」
「お姉……さま」
 眼を開いたまま美咲は事切れた。
「いやぁぁぁぁああっ!」
 叫び声をあげたのは美花ではなかった。
 ――静枝。
 鏡を見ながら静枝は泣いていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい静枝=Bでもこれでやっと……」
 鏡に映る顔は一つ。
 その顔は誰のものか?
 呆然とする美花の手を大きな手が握った。
「すまない出るのが遅くなっちまった」
 沈痛な表情をした無精髭の男――克哉は美花の手を引き、美咲の亡骸を背負って走り出した。
 化けの皮が剥がれた幽鬼が絶叫する。
「逃がさぬぞ!」
 叫んだ首は床に転がった。
 傍らに立っていたのは斧を持った菊乃の姿。
「申しわけございません……さま」
 菊乃は火のついた蝋燭を布団に向かって投げた。

 遠く庭先から振り返った屋敷から煙が上がっていた。
 やがて屋敷は紅蓮に包まれるだろう。
 美花は地面に膝を付いて泣きじゃくっていた。
「お姉さま……お姉さまが……」
「すまない、俺がもっと早く出てれば」
 美咲の亡骸を背負う克哉は苦しげに言葉を吐いた。
 そして、克哉は夜空の星を見つめた。
「親父が交わした約束、半分しか果たせなかった。本当にすまなかった、もっと早く迎えに来ればよかったんだ」
 涙を流しながら美花は克哉を見つめた。言葉は出なかった。
 克哉が語り出す。
「数年前、俺の親父はある女性と手紙でやり取りしてたんだ。それであるとき、その女性から自分に双子が生まれたら、その子供を預かって欲しいと頼まれていたらしい。けど、まあその子供は結局うちに来ることはなかったんだ」
 驚いた瞳をした美花。
「親父は数年前に死んだ。それで息子の俺がその後どうなったのかと思って、こうしてやって来たわけなんだが……」
 結果は……。
 克哉は懐などを手で探って潰れた煙草の箱を取り出した。
「そういや切らしてるんだった。煙草でも吸わねぇとやってらんねぇってのにな……?」
 少し驚いた克哉は自分の傍らに角の生えた少女が立っているのに気づいた。
 るりあは無言で何かを克哉に押しつけた。克哉がそれを受け取ると、るりあは走って姿を消してしまった。
 煙草の箱。
 克哉が受け取ったのは煙草の箱だった。しかも、もう片手で握りつぶされているのと同じ銘柄だったのだ。
「なんで……?」
 疑問に思いながら克哉は箱の中を見た。
 残されていた最後の一本。
 克哉はそれを口にくわえて火と点けようとしたが、つかない。
「湿気ってやがる」
 それでもその煙草を捨てることなく、口に咥えてまま手を美花に伸ばした。
「行こう、お嬢ちゃんの面倒は俺が見る。嫌なら別にいいんだが、とにかく俺の住んでる町まで行こう」
 見知らぬ男にも等しい克哉。
 美花は克哉の手を取った。温かい手だった。
 いつしか止まっていた美花の涙。
 崩れゆく箱庭の世界を背に、手を繋いだ二人は歩き出したのだった。

 紅い世界(完)


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