第9章 光臨
 タクシーに乗ること、約三〇分――夏凛はマモンカンパニーのビルの前でタクシーから降りた。
 夜明けが来た。東の空には燃えるような太陽が顔を出し、今日も猛暑になるに違いないと予感させていた。
 朝方でより一層冷やされた海風が吹く中、ビルを見上げ、どうやって中に侵入するかを思案していた夏凛の目線がビルの入り口へと向けられた。
 開かれた自動ドアの中から、マモンカンパニー社長ゲイツの秘書である女性がひとりで現れた。
 秘書は髪の毛を海風になびかせながら、長くスラリと伸びた足を短いスカートから覗かせながら、モデル歩きで夏凛の目の前まで来た。
「社長がお待ちです」
「えっ!?」
「ご案内いたしますので付いて来て下さい」
 夏凛は無言で歩き出す秘書の後を追いかけるように付いて行き、ビルの中へと入った。
 ビルの中は電気が付けられてはいるが、ひと気はなく静寂に包まれている。
 足音が響く中、玄関ロビーを抜けエレベーターへ二人が乗り込むと秘書は十三階へのボタンを押した。
 無言の時間が過ぎ、エレベーターのドアが開かれるとその中からまず夏凛が、その後に秘書が降りて来た。
「どうぞ、こちらです」
 秘書はまた歩き始める。そして、社長室の前まで来るとノックもせずドアを開けた。
 社長室には誰も居ない。
「また、罠じゃないよね」
 そう言う夏凛を無視して秘書は壁に隠されていたボタンを押した。すると、デスクの後ろの壁が真ん中から左右に開かれ中からエレベーターが現れた。全てを収納し隠すこの部屋は隠しエレベーターまでも隠していたのだ。
 秘書は現れたエレベーターに片手を向けた。
「社長がお待ちです」
「ありがとう」
 夏凛はエレベーターの中に乗り込んだ。エレベーターには下か上に行くどちらかに行くボタンしかなかった。
 下へのボタンが押され、閉まるドアへ秘書が軽く会釈をした。
「お気を付けて」
 エレベーターは下へとどんどん降って行く。そして、ドアは開かれた。
 部屋は静寂に包まれ、コンクリートで作られた壁は強いライトで照らされ、床には魔方陣が描かれている。
「やあ夏凛くん、また会ったね」
 暗がりの中からマモンカンパニー社長ゲイツが手を軽く上げながら現れた。
 夏凛は辺りの気配を探ったが、今ここにいるのは自分と目の前で不適な笑みを浮かべる少年だけらしい。
「絵画はどこにあるの?」
「ほら、あそこに見えるだろう」
 ゲイツの指し示す指の先は美しい天使の描かれた絵画が壁に飾られていた。
 その絵は美し過ぎる、人間が到底描ける絵ではない。中性的な面持ちの天使が薄での白い布で身体を包み優しい微笑を浮かべている。その瞳は全てを見透かすように夏凛を見ていた。
「あれは天使の絵なんかじゃない。悪魔の絵だ」
 薄ら笑いを浮かべながらゲイツはそう言い放った。
「なら、あの絵から出すわけにはいかなぁ~」
「それは残念だ。もう解呪は最終段階に入ってしまった」
「何だって!? ファウストの術を破ることができるの?」
 ヨハン・ファウストは帝都政府のお抱え大魔導士で、その実力は世界一と言われている。そして、絵画に厳重な封印を施し堕天使である悪魔がこの世界に出て来られないようにした人物でもある
「転生の魔導士ファウストがあの絵画に封印を施したのがざっと六〇〇年前、まだまだ彼の術は未熟だったんだよ」
「それでもファウストの術を破るなんてできっこないよ」
「そうでもない、この帝都にはそんなヤツはごろごろいるよ。僕もその一人だ」
「!?」
 夏凛の表情が強張った。それを見たゲイツは楽しそうに笑う。
「クククッ、そんなに驚くこともないさ。これでも大学では紅葉教授の元、魔導学の勉強をしていたんだ」
 魔導学とはルーン・カバラ・錬金術などありとあらゆる魔法や魔術を研究する学問である。
 ゲイツはスーツのポケットから小さな刃渡り一〇センチほどのナイフを取り出し見せた。
「このナイフが何だかわかるかい?」
「さあね」
 ゲイツの取り出したナイフの刃は何とも形容できない不可解な曲線を描き、その刃には象形文字のような神秘的な文様が刻まれていた。
 そのナイフが不思議な光を放つ。不思議な光、それ以外に形容しがたい光を見ているだけで、頭が真っ白になり催眠術にかかってしまったようになってしまう。
「このナイフは僕が錬金術とルーン、それに梵字も少し使って創り出した解呪刀だよ」
「解呪刀?」
「もう、すでに絵画にかけられていた何十もの封印は解いた。後はこのナイフで最後のもっとも強力な封印を切り裂いてやればいい」
 そう言ってゲイツは絵画へと歩み出した。
「そうはさせないよ」
 新品の鋭い光を放つ大鎌を異空間から取り出した夏凛はコンクリートの地面を激しく蹴り上げゲイツに後ろから襲い掛かった。
 大鎌が小さな少年を後ろから切り裂こうとしたその時、少年は悪寒の走るような狂気の目をしながら振り向き、大鎌を片手で受け止めた。
「有り得ない!!」
「ククッ……くははははっ。有り得ないだって? それはおもしろい!!」
 大鎌を握る手の間からはまだ酸化していない黒い鮮血が滲み、そこから滴り落ちる血は床を紅く染めて行った。
 大鎌を握る手に力が込められた。そして、大鎌は大きく振り飛ばされ夏凛の身体ごと宙を舞い、五メートルもの距離を飛ばされた。
 夏凛は鎌をしっかりと構えながらしゃがみ込むようにして着地した。飛ばされても戦闘態勢は決して崩さない。
「子供だと思って甘く見くびっていた私が莫迦だった」
 その声は先程との夏凛とは別の者の声のようであった。冷たく鋭い声は空気を冷やし凍らせた。
「そうだ、僕はただの子供じゃない」
 そう言ったゲイツの身体の突然異変が生じた。ゲイツ少年の顔がもの凄いスピードで毛に覆われていく。そして、身体は二倍三倍へと膨れ上がり、着ていたスーツをびりびりと破き、その下から現れた肌も毛で覆われていた。
 夏凛の前で変身を遂げたゲイツ少年は、先程とは別人、いや、人とも違うものに変身していた。巨大な身体全身を墨汁を紙に零したような色の毛で覆い、髪はライオンの鬣のように波打ち、そこから突き出た尖った耳は忙しなく動き、血のように紅く鋭い目は夏凛を凝視し放さない。
 毛に覆われた口が大きく開かれ鋭い牙を見せると中からくぐもった声が発せられた。
「僕の実験の成果はどうだい?」
「狼男!? 自らの身体を実験に使い、キメラになったわけか」
 ゲイツは自らの身体に狼との融合手術を施していたのだ。
 狼男となったゲイツの五感は研ぎ済ませれ、筋力も人間の比ではない。
 狼男は手に持っていたナイフを地面に放り投げると、両手を地面に付き五メートルもの距離を助走無しに跳躍し夏凛に襲い掛かった。
 猪突猛進の狼男に夏凛の大鎌がその鋭い刃を向け切り裂こうとしたその刹那、狼男の姿が夏凛の視界から消えた。
「莫迦な、空中で体勢を変えるなんて……」
「それができるんだ」
 鈍い音と共に夏凛は背中に激痛を覚え、次の瞬間には宙を飛び、地面を転がり回ってしまってした。
「……ぐはっ」
 咳き込んだと同時に夏凛の口から生暖かい血が吐き出され、手のひらを真っ赤に染めた。
「頭の悪いヤツだ、僕は魔導を勉強していたと言っただろ。この位の事できて当然、君も魔導士の端くれならわかってもいいと思うけどな」
 『魔導士の端くれ?』 夏凛が魔導士の端くれとはどういうことなのだろうか?
「魔導士の端くれだって? 私は清掃員兼トラブルシューターだ」
「君がファウストの弟子であり、そのファウストに施された君の特異体質についても調べがついてるよ」
 床に膝を付く夏凛の目つきが変わり、狼男を鋭い目で睨んだ。
「私は好きでこんな身体になったわけじゃない。ファウストが勝手にしたことだ」
「しかし、その体質が大いに仕事に役立ってるじゃないか。僕が知ってる君の能力は身体の重さや強度を変えるものだけだけど、他にもあるんだろう、おもしろい能力が?」
「あまりその話については触れられたくないな」
 そう言うと夏凛は素早く移動し狼男の視界からその姿を消した。
「僕の超感覚を見くびってもらっては困る」
 狼男の腕が大きく横に振られ何かにぶつかった。
「くっ……」
 そこには狼男の腕を鎌の枝で受け止めた夏凛の姿があった。
「まだまだだね」
 口から鋭い牙を覗かせながら笑うと、狼男は残りの腕を大きく振りかぶり夏凛の顔面へと強烈な一撃を喰らわした。
 痛烈な一撃を喰らった夏凛の身体はその勢いで飛ばされたが、彼は決して大鎌を手放すことはなかった。
 顔を押えうずくまる夏凛。しかし、手で覆われた顔から覗く口元は微かに笑っていた。
「俺様の顔を殴るなんざ、いい度胸してじゃねえかテメェッ!!」
 夏凛はコンクリートの地面を砕く勢いで地面を蹴り上げ、大鎌を大きく振り上げながら狼男に襲い掛かった。
「それが君の本性か……何っ!?」
 狼男の表情が曇る。夏凛が視界から消えたのだ、しかも先程とは違い、狼男の超感覚を持ってしても夏凛の位置を特定することができない。
「どこだ、どこに消えた!!」
 声を荒げ大声を上げる狼男の目の前に大鎌を優雅に構える死神が現われた。
「俺様をナメるんじゃねぇぞ、このクソガキがっ!!」
 突如現れた死神によって狼男の胸は大きく切り裂かれ、傷口から黒血が噴出し、不敵な笑みを浮かべる死神の顔を真っ赤に染め上げた。
「ぐおぉぉぉっっっ!!」
 咆哮を上げる狼男の胸を再度死神の大鎌が切り裂いた。クロスされた傷口から大量の血を噴出しながら、狼男はそのまま後ろに引っ張られるようにしてバタンと勢いよく音を立てながら倒れた。
「俺様の顔を殴ってこれくらいで済んだことに感謝しろ」
 そう言って夏凛は大鎌を大きく天上高く振り上げると、口の端を吊り上げ鼻で笑うと大鎌を狼男の胸へ振り下ろし突き刺した。
 狼男の身体がビクンと一瞬振るえ、そのまま動かなくなった。
 凍り付いたような表情を浮かべた夏凛は大鎌を狼男の胸に突き刺したまま手を放すと、急に後ずさりするようにその場から離れた。
「な~んちゃって」
 夏凛は苦笑いを浮かべながら、強張った表情でそう言った。『な~んちゃって』とは何に対しての言葉なのだろうか?
「さ、さてと、そうだ絵画は、あ、あ、そ、それよりもさっきのナイフをどうにかしないとダメかなぁ~」
 夏凛は明らかに動揺していた。先程の『な~んちゃって』は狼男を倒した時の自分の言動及び態度に対するものだった。
「ナイフ、ナイフはどこかなぁ~?」
 部屋中を隈なく探すがナイフはどこにも見当たらない。
「どこいっちゃたのかなぁ~」
「クククッ……探し…物はこ…れだろ……」
 声のした方を振り向くとそこには、ナイフを持った丸裸のゲイツ少年が血まみれになって絵画の横に立っていた。
「しつこい子は嫌われるよぉ~」
「あ…れくらい…の攻撃…で死んだ…らつまら…ないだろ」
 行き絶え絶えなゲイツ少年は吐血しながら、立っているのもやっとという感じだった。その少年がせせら笑った。
「ファ…イナ…ルス…テージだ!!」
 ゲイツ少年は絵画の前に立ちナイフを両手でしっかり握ると思いっきり力を込めて絵画に突き刺した。正確にはナイフは絵画には突き刺さっていない、ナイフは絵画とほんの数ミリのところで止まっていた。ナイフは絵画を守るようにして張られている”何か”に突き立てられたのだ。
「ふ…ふははははははっ!!」
 高らかに笑うゲイツ少年はナイフを勢いよく下へ下ろし〝何か〟を完全に切り裂いた。
 切り裂かれた空間の亀裂から光が零れ、そして、光は堤防を流れ壊すように一気に放射され、両手を広げて高らかに笑うゲイツ少年の身体を丸々包み込み跡形もなく消滅させた。
 あまりの凄まじい閃光に腕で顔を覆う夏凛。そして、腕をゆっくりと下ろす彼は見た。光の中から神々しいまでの重圧感を放ちながら、一歩、また一歩とこの世界に姿を現した堕天使の姿を――。
 絵画の中から飛び出した幻想世界の住人の姿は、この世界に住む生物の何よりも美しい。身体を作る美しいライン、白く輝く大きな鳥のような翼、極めが細かく透き通るような白い肌、太陽そのもののような金髪の長い巻き毛、そして妖艶で中性的な面持ちの顔。まさにこの世のものとは思えないとは、この者の為にあるかのようだ。
 圧倒的な力の差が空気を伝って、苦しい程に伝わって来る。
 その姿に愕然とした夏凛は言葉を失い、魂が抜けてしまったように、ただそこに立ち尽くしてしまった。
 絵画から現れた堕天使は、全てを見透かすような瞳で夏凛を〝視た〟。
「私の同族の血が混ざっているようだな」
 そうはっきりと堕天使は夏凛に向かって言った。同族とはどのようなことなのであろうか?
 堕天使の口の端が釣り上がり、柔らかな唇を舌がペロリと濡らした。そして、顔の骨格的には決して有り得ることのないほどの大口を空けると、堕天使は自分の出てきた絵画を一思いに丸呑みにした。
 ことを終えた堕天使は春のような微笑を浮かべて夏凛を見た。
 一部始終を見ていた夏凛は唖然とし、寒気と悪寒が身体を駆け巡り、顔は見る見るうちに蒼ざめていった。
「奇麗で何よりも美しいけど、生理的に嫌な感じがするぅ~」
 部屋が突如神々しい閃光に包まれ太陽の下のような明るさになった。光を発しているのは堕天使だった。
 建物全体が音を立てながら小刻みに連続して大きく揺れ、壁にヒビが入り、天上から砂埃と砕けたコンクリートの破片が落ちてくる。何か―― 恐らく堕天使の力によって建物が崩壊し始めているのだ。
「……ククク、クハハハハハ」
 突然笑い始めた堕天使は翼と両手を羽ばたくように大きく広げた。それと同時に堕天使の身体から七色の輝くオーラのような物体がいくつも流れるように飛び出し、それは哀しい表情をした顔のような形を持ち叫び声を上げ、部屋の中を駆け巡り、壁を突き破り、天井を突き破り飛翔する。
「魂の解放。人間の魂は死をもって浄化され真の自由を持つ光の領域へと上り詰め、大地に束縛されることなく神に取って代わる。私はその偉大な指導者となるのだ」
 堕天使の美しい横顔が上を見上げた。建物は激しく揺れ立っているのもままならなくなった。コンクリートの塊が天井から落ち床に当たり四方に砕け散け、建物が崩壊してしまうのも時間の問題と思われる。
 大きな翼を激しく一度羽ばたかせ爆風を起こすと共に堕天使の身体が宙に浮いた。そして、堕天使は天高く舞い上がろうとした。
 空かさず夏凛は堕天使を逃がさまいと堕天使の足首を掴むが、堕天使はそのことには気にも止めず夏凛ごと天高く飛翔した。
 天井は堕天使から発せられるオーラで身体に触れることなく砕かれ、天への道を開く。
 夏凛は決して堕天使の足を放さず、堕天使と共に天へと上がった。
 つづく


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