第3話_食人婆
 その屍体は肉を喰われていた。
 その屍体は性器が消失していた。
 妖物の犯行であるかは、未だ調査中だと警察は会見で述べている。
 歯型が人間であることや、目撃証言でおそらく人間であろうとは言われているが、人間の皮を被った怪物が多いご時世だ。人間だという確たる証拠はない。
 連続殺人、それも猟奇殺人となれば、犯人に自然と通り名が付けられる。その名を最初に読んだが新聞社だったか警察だったか、そこは定かではない。
 その連続殺人犯に付けられた名は――食人婆。

「食人ババアってウケル」
 腹を抱えて華艶は笑った。
「ダッサイネーミング。都市伝説でジェットババアとかいたけど、食人ババアもどっちもどっち。せめて英語でカンニバル・ハッグとかにすればいいのに」
 ジェットババアとは都市伝説で語られる妖物のことで、その足のスピードは車を追い抜くほどだと云われている。
 コーヒーの薫るまろやかな店内にテレビの音と華艶の笑い声だけが響いている。
 喫茶店にいる客は華艶ひとりだけ。カウンター席に座って若い主人[マスター]と向かい合っている。
「華艶ちゃん、女の子が大きな口を開けて笑うものじゃないよ」
「だって婆って、あはは」
「日本には『婆』の付く妖怪が古来からたくさんいるんだよ」
「ここ日本じゃないしぃ」
「そういえば、そうだね」
 主人――京吾は春風が吹き抜けるように爽やかに微笑んだ。
 この〝場所〟を独立国だと認めていない国は多い。少なくとも新国連は断固として認めようとしていない。帝都エデンは日本国の帰属だというのが、国際社会の視方のようだ。
 第三次世界大戦の引き金となった聖戦の直後、日本の首都は死都東京から京都へと移された。
 コーヒーを飲み終えた華艶は小銭を置いて店を出た。
 外はすっかり夜闇に包まれ、街灯が道路を照らしていた。
 今日もすっかり喫茶店で時間を潰してしまった。ただ暇を潰していたわけではない。あの店は華艶の仕事を斡旋し、情報屋も兼ねているのだ。
 今日の収穫はゼロ。
 薄暗い道路を歩きながら、華艶は駅に向かうか自宅に向かうか悩んだ。
 まだ夜は訪れたばかりだ。夜の街に遊ぶにはまだまだこれからである。しかし、昨晩も大金を投げ捨てたばかりで、浪費癖を治そうと思った昨日の今日だった。
 なにも考えなしに歩いていた華艶はハッとして足を止めた。大変だ、駅に向かって歩いていた。
「危ない危ない」
 自分に苦笑する華艶。
 道を引き返して自宅に向かう。
 駐車場の横を通りかかったとき、女の叫び声を聴こえたような気がした。
 ――勘違いだった。叫び声ではなく、喘ぎ声だったようだ。
 すぐさま物陰に隠れた華艶はそこから駐車場を監視した。
 そこだけ直下型地震に襲われたように車が激しく揺れている。
 思わず華艶のにやけてしまう。こういうのは嫌いじゃない。
 車のフトントガラス越しに男のケツが見える。男が下半身素っ裸になって、助手席の女に襲い掛かっている。やってることは安易に想像ができた。
 残念なのは暗がりでよく見えないことだ。
 残念そうに華艶は舌打ちをする。暗視スコープかあれば、もっと鮮明に見えるのに残念だ。
 華艶の位置からでは女の顔もよく見えない。黒か茶髪か、とにかく髪が長くてソバージュっぽいことしかわからなかった。
 見ることはできないが、若い女の喘ぎ声がここまで聴こえてくる。
 特異体質を持っている華艶は男と寝ることができず、いつも欲求不満だった。寝たとしても、自分がイッてはいけないのだ。それは相手の死を意味した。
 華艶は寝た相手を焼き殺す。
 ここ最近で最後までイケたのは人間相手ではなかった。温泉街で遭遇した雪男だ。
 目の前でヤッてるところを見せ付けられ、華艶の手は自然とスカートの中に伸びていた。
 すでに愛液が滲み出し、パンツの割れ目はしっとりと濡れていた。
 口を閉じて声を出さないように華艶はゆっくりと割れ目を指でなぞった。
「……ん……んっ……」
 口を閉じていても鼻から熱い息が漏れてしまう。
 中指を立てて、敏感な部分を押すように刺激する。
 華艶は目を閉じ、すでに男女の情事など見ていなかった。
 パンツの上からでは我慢ができず、腹を滑られて華艶の指はパンツの中に進入した。
 すぐにでも挿れられる状態だった。
 指を割れ目に滑らせば、吸い込まれるように膣[ナカ]に入っていく。
「ひゃぁーーー……」
 華艶の声ではない。どこかから人の声とは思えない、苦悶する奇声が聴こえた。
 ビックリして華艶は目を開ける。その目は少し怒りを滲ませていた。
「なんなの!」
 揺れていた車が静かになっている。
 華艶は息を呑んだ。
 フロントガラスになにか液体が飛び散っている。それが血であると判断するのに時間は要さなかった。
 車から降りてくる上半身裸のスカートをはいた女性。
 ボサボサの白髪頭と干からびて垂れた乳房――乳首は申し訳なさそうに地面に頭を下げている。
 老婆だった。
「……そんなばかな」
 思わず華艶は言ってしまった。
 いくら暗がりだったとはいえ、自分の眼には自信があった。車に乗っていたときは、確かに老婆ではなかった。
 それが車から降りてきたのは見間違いようもない老婆だ。マジックショーでも見せられている気分だ。
 老婆は血のついた口元を腕から手の甲を使って拭った。そして、下卑た笑いを浮かべた口元には、鮫のような尖った歯が並んでいた。
 ヤバイ、目が合った。
 確実に華艶と老婆の目は合致している。しかも、華艶は股間に手を添えたままだ。
 ゆっくりと華艶は股間から手を離し、その手をスカートでこっそり拭き取った。
 華艶の脳裏に浮かぶTVニュース。
「発情ババアか……」 
 正確には食人婆だ。帝都を賑わす連続殺人犯。それも食人鬼だ。
 目の前の老婆は食人鬼という表現があっているかもしれない。振り乱したような白髪頭に鋭くギラつく眼。角がないのが残念だが、そこにいるのはまるで日本の昔話に出てきそうな鬼婆なのだ。
 こーゆー変人と戦うのも華艶の仕事だが、金にならない仕事までしたくない。
 運悪く係わり合いになってしまったが、これ以上係わる理由もない。
 華艶は無言でにこやかに食人婆に手を振った。
 そして、背を向けて歩き出す。
 だが、その背中に悪寒の走る怨めしい声が浴びせられたのだ。
「見~た~な~っ」
 お約束だった。
 肩を落とし、華艶は肺の空気を全部出してため息をついた。
「安全はお金で買えるかけど、命はお金じゃ買えないもんね。よしっ、かかって来い!」
 勢いよく振り返った華艶の眼前まで食人婆は迫っていた。それもまさに醜悪な鬼婆の形相を浮かべ、鋭い牙と長く伸びた爪で襲い掛かってくる。
 予想を裏切る老婆の移動速度に華艶は相手を押し抱えるのが精一杯だった。
「ちょっとタイム!」
 なんてことは聴いてもらえず、華艶は食人婆に押し倒されたしまった。冷たいアスファルトが背中に伝う。
 華艶は食人婆の両手首を押さえ、爪の攻撃は免れているが、涎を垂らす口が牙を覗かしながら華艶の鼻先でガチガチ音を鳴らしている。
 しかも、肉食のために口臭を酷かった。
「ババアでも口臭くらい気を付けろつーの!」
 華艶の膝が食人婆の腹を蹴り上げた。
 大量の唾液を顔に喰らいながらも、華艶は怯んだ食人婆を押しのけて立ち上がった。
 生理的にもう戦っていられない。
 華艶は逃げた。
 だが、その後ろをすぐに食人婆が追ってくる。
 髪の毛を振り見出し、垂れた乳が大きく揺れる。
 後ろを振り向いた華艶が吐き捨てる。
「あんなの放送禁止だし……てゆか、足速すぎ!」
 全速力で走る華艶の背中に食人婆の伸ばした指があと数センチと迫っていた。
「肉と皮しかない足でなんでアタシに追いつくわけ!?」
「逃がすかぁぁぁっ!!」
 咆哮のような叫びをあげる食人婆。
 こうなったら逃げるのをやめて別の戦法を取るしかない。
「炎翔破![エンショウハ]」
 火炎の塊が近距離で食人婆の胸にヒットした。
「ぐぎょえぇぇぇぇっ!」
 奇声を発して地面の転がりまわる食人婆。しかし、食人婆に大火傷を負わせた炎はすぐに消えてしまった。乾燥しているとはいえ、やはり生肌では引火せずに、食人婆を焼き殺すには至らなかったのだ。
 人間ならば痛みで立ち上がる気力もなかっただろう。しかし、食人婆は人外の怪物だったのだ。
 鷲爪を向けて食人婆が飛び掛ってくる。
 今度こそ華艶はヤバイと思った。
 だが、そのとき、乾いた風に乗って銃声が鳴り響いたのだ。
 食人婆の身体が仰け反った。
 華艶が叫ぶ。
「アタシに当たったらどーすんのよ!」
 その視線の先にはリボルバーを構えた男が立っていた。
 銃弾を身体に喰らった食人婆が逃げていく。
 残された華艶に警官がすぐに駆け寄ってきた。
「お怪我はありませんか?」
「怪我ってゆか、アタシに当たったらどーすわけ?」
「あなたを助けるために仕方なく……」
「いちようお礼は言ってあげる、ありがと」
 男に警官手帳を見せられ、華艶は簡単な事情聴取を受けることになった。
 華艶は自分が独りでしていた行為ははぶいて、それ以外の男女の情事を目撃したことを、若かった女が老婆に変身して自分に襲い掛かってきたことを簡単に説明した。
 どうやらこの刑事は食人婆などの事件を受けて、この辺りに張り込んでいたらしい。
 華艶の話を聞いて刑事は深く頷いた。
「やはり、普段は老婆ではなかったのか」
「やはりって?」
「いくつかの容疑者が挙がっていたのですが、目撃情報とは一致しなかったのです」
「なるほどね」
「私はひとり目星をつけていたのですが、これでそいつが犯人だと確信できました。ありがとうございます、では後日詳しい事情聴取を取らせてもらいます」
 一礼して刑事は華艶に背を向けた。この街では珍しい礼儀正しい刑事だ。しかも、若くて華艶好みの色男だった。
「ちょっと待って、今から鬼ババアを追うならアタシも行く!」
「えっ?」
 刑事は足を止めて振り返った。
「危険ですから絶対に駄目です。付いて来ないでください」
「アタシ、これでも怪物相手の仕事が多いトラブルシューターなの……モグリですけど」
 少し困った顔をしながら、刑事は尋ねた。
「駄目と言ったら私のことを尾行しますか?」
「さあ、どーでしょー」
 とぼける華艶。絶対に尾行するつもりだった。
「わかりました、尾行されて捜査の邪魔をされるより、一緒にいたほうがマシです。ただし、私の眼の届く範囲で法律に触れる行為はなさらないでください」
「オッケー、自己防衛程度にとどめまーす」
 刑事は草野と名乗り、華艶と目星をつけていた容疑者のアパートに向かうことにした。
 道すがら草野は容疑者の経歴について興味深いことを話した。
「容疑者は数年前に姉と雪山に登山に出かけ遭難した経験があります。食料が底を尽き、先に亡くなったのは姉だったそうです。そして、妹は空腹に耐えかね、姉を喰ったそうです。妹は無事に生還してから姉の死亡に関して裁判を受け、無罪になりました」
「で? そこで話は終わりじゃないでしょ?」
「それからその妹は引きこもる生活をするようになったのですが、あるとき若い男性が失踪する事件が起きまして、その妹が容疑者に挙がったのです。それからというもの、たびたび似たような事件が起きるたびに、その妹は容疑者に挙がるのですが証拠不十分で不起訴。ですがあるとき、行方不明になっていた被害者が〝食べかけの〟状態で見つかったんです」
「それで今回の事件と関係があるかもって考えたわけね」
「そうです」
 人が人でなくなることはこの街では十分にありえる。邪気を帯びて〝なにか〟取り付かれた平凡な主婦が、一瞬にして狂気の殺人犯になることもある。
 人の肉を喰っている間に、人が人でなくなる可能性も十分にありえるのだ。
「着きました」
 草野がアパートの2階を見上げながら言った。
 アパートの階段を上る途中、華艶は地面についている黒い染みに気づいた。
「血痕かな」
「そのようですね」
 血痕は点々としながらアパートの角部屋まで続いていた。
 拳銃を構え、草野が小声で釘を刺す。
「お願いですから、邪魔だけはしないでください」
「オッケー」
 注意を払いながら草野がインターフォンを押した。
 返事がない。
 念のため、もう一度押した。
 やはり返事がなかった。
「応援を待ってから突入します」
 と草野。だが、華艶は応援なんて待つ気はなかった。
「うりゃっ!」
 気合を込めた華艶の蹴りがドアを過激に揺るがした。
 それでもドアがビクともしなかったが、部屋中でなにかが動く音がした。しまった気づかれた。こうなったら仕方がない。
 草野がドアにタックルする。それでもドアが開かない。
 拳銃を鍵に向けて何発も放った。
 それからもう一度ドアにタックルする。
 だが、ドアは開かなかった。
「ちょっと離れて!」
 草野を突き飛ばして、華艶の蹴りがドアに炸裂した。
「開いた!」
 と小さく叫んで華艶が部屋の中に突入した。
 真っ暗な部屋の中。
 暗い闇が感覚を敏感にし、微かな血の臭いを嗅ぎ取った。
「ん?」
 玄関を入ってすぐの台所で、華艶はなにかを蹴っ飛ばした。
 眼を凝らして見ると、そこには?
「よくできた模型」
 苦笑いをする華艶。模型というのはジョークだった。
 華艶を押しのけて前に出た草野もそれを見た。
 それは人間の腕だった。他の部分は消失している。
 草野が唾を呑み込んだ音が聴こえた。
 ひとつ向こうの部屋から殺気が流れてくる。怪物がどこに潜んでいるかは見えない。
「逆かくれんぼなんてやってないで、鬼なら鬼ごっこしなさいよ!」
 華艶が声をあげた瞬間、部屋の隅から人影が草野に向かって飛び掛ってきた。
 銃声が鳴り、銃弾は天井を貫いた。
 こんな場所では華艶の必殺技も使えない。アパートごと全焼だ。
 草野は床に押し倒され、その上には食人婆が牙を剥いて馬乗りになっている。
 華艶は身の回りに武器になる物が探した。
 そこに手錠がたまたま落ちていた。なんでそこにそんな物が落ちているかは後回しにして、華艶はそれを拾って食人婆の腕とベッドの枠を繋いだのだった。
 そして、食人婆の顔面に一発喰らわせた。もちろん蹴りだ。
 這って草野は食人婆の魔の手を逃れ、華艶の横に立った。
「ありがとうございます、助かりました」
 と、食人婆から目を離した瞬間だった。
 奇声をあげながら食人婆が重たいベッドを引きずり襲い掛かってきたのだ。
 思わず華艶と草野は台所まで逃げてしまった。
 壁にベッドをぶつけ、食人鬼はこっちの部屋に来られないようだった。
 安堵のため息が華艶から漏れた。
「たぶん部屋から逃げれないと……思う」
 安堵はしたが、自信はなかった。
 目の前で食人婆は暴れ、引きずったベッドを壁に叩きつけているのだ。
 ケータイを取り出した草野が電話をかける。
「もしもし、草野ですが、連続殺人犯食人婆を確保しました。場所は――!?」
 草野は絶句した。
 食人婆は手錠で繋がれた自らの手首を喰おうとしたのだ。
 すぐに華艶がそれを止めようと入ったが、逆に食人婆の牙が襲い掛かってきた。
 銃声が木霊し、食人婆の後頭部が脳漿を噴いた。
 力なく食人婆は静かになった。
 静かになった部屋にケータイから声が聴こえた。
《草野返事をしろ!》
 ケータイを耳元に近づけ、草野は冷静に言う。
「容疑者は死にました」
 ぐったりとした食人婆の顔は、若い女性のものに戻っていた。
 帝都エデンの魔性はヒトを変える。
 草野は沈痛な面持ちでいつまでも屍体を見下ろしていた。
 この女性も都市に魅せられた被害者なのかもしれない。

 食人婆(完)


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