第5話_ナイフキリング

《1》

 男は追われていた。
 梅雨空から降り注ぐ雨が泥と混ざって足の裏に蹴り上げられる。
 ズボンが汚れることなど気にしていられない。もとより傘など差していなかったし、服だってはじめから汚れていた。
 今着ている服が男の一張羅だった。持っている服の中で上等という意味ではなく、男は服をこれしか持っていないのだ。
 昔は多くの服を持っていた。服を買う金だってあった。
 走ることをやめて男は路地裏の壁に寄りかかった。
 男の口から吐き出されたのは、乱れた呼吸ではなくため息だった。
 ――昔はこんなじゃなかった。
 一流とまではいかないが、男は医大を出て医者になった。医者と言っても普通の医者ではない。数十年前から急速に世界を変えた魔導との融合――魔導医としての勉強を大学では学んだ。一流とは言えなくても、まだまだ魔導医の少ない御時世では、重宝される存在で収入も良かった。
 それがどうだ?
 今は財産をすべて奪われ、今日も借金取りに追われる毎日だ。
 いつから人生を踏み誤ったのか?
 都立病院に勤めていたころは良かった。
 独立して開業するために借金をした。それだけではない、金遣いは元より荒い方だった。それでも金を返す当てが当時はあった。
 すべてはただ1回の医療事故だ。開業医は廃業になった。
 それで人生を悔い改めればよかったものを、男はこれまでどおりの金の使い方をした。借金が膨らんだ理由はすべて男のせいだ。
 男は今になって過去を悔やんでいる。それというのも最愛の妻が、心労の末に自殺したからだ。それでやっと男は自分の犯した過ちに気付いた。
 そして、失ってはじめて妻を愛していたことを確認できた。
 しかしすべては過去。
 男はポケットに突っ込んであった金を手の平に乗せた。
 千円札が1枚と、細かい小銭が数えられるくらい。これが男の全財産だった。
 男の腹の虫が鳴いた。けれど、この金を今使うわけにはいかない。
 脳裏に〝自殺〟の二文字が浮かぶ。男は首を振ってそれを掻き消した。
 死にたくない。
 男は濡れた地面に尻をつけて座った。
 見上げた空から雨が降り注ぐ。
 明日からどうやって暮らそうか?
 住所不定、銀行の口座も凍結、身よりもない。バイトを探すにしてもまともなバイトにはつけない。そもそも安定したバイト先を見つけても、借金取りの奴等が職場まで取り立てに来る。それで職場に居づらくなって、金も貸せなくなる悪循環だ。
 野太い男の声が聴こえる。
「あそこにいたぞ!」
 借金取りの奴等に見つかった。
 男はすぐに立ち上がろうとしたが力が入らない。もう立ち上がる気力すらなかった。
 それでも男は身体に鞭を打って立ち上がった。
 強面の借金取りたちがすぐそこまで迫っている。男は必死になって走り出した。
 しかし、足がもつれて地面に手をついてしまう。
 泥水を顔に浴びながら男は涙を流した。
「どうして……こんな惨めな……」
 男はもう立てなかった。
 倒れたままの男を立たせたのは借金取り。男の胸倉をつかんで無理やり立たせた。
「おい、俺たちから何度逃げれば気が済むんだ!」
 恫喝されても男はピクリともしなかった。もう眼が死んでいる。
 借金取りの拳が男の頬を抉った。そのままなんの抵抗もなく男は地面に倒れた。
 それから後の記憶はあやふやだった。何発くらい殴られ蹴られたのか、とにかく袋叩きにあって気を失った。
 ――しばらくして目を覚ますと身体中が酷く痛んだ。
 ポケットに入れていた金はすべて巻き上げられてしまったらしい。
 金を返す当てがなくなって、臓器でもすべて売り飛ばされるかと思ったが、それは免れたらしい。とりあえず放置されたようだ。
 男は自分が生きていることが可笑しくなって笑った。
 このままではここで野たれ死にそうだ。それも男には可笑しかった。
 もう何もかもが可笑しかった。
 笑うと肋骨や脇が痛いが、笑うことを止められない。
 急に男は真顔になって歯を食いしばった。
「くそっ……死んでたまるか……」
 男は壁を這いながら立ち上がった。
 何かの鳴き声が聴こえる。
 異様にうるさい野良猫の声だった。
 威嚇するような鳴き声が細い裏路地に響いた。
 男はボロボロの身体を引きずりながら、ただの好奇心からそこに近づいた。
 いや、甘い匂いに誘われたのだ。
 集まっていた猫たちが一斉に逃げはじめた。
 その中心にある血溜まり。
 猫たちのむごたらしい惨殺屍体。まるで手で掻き裂かれたような有様だ。
 男は目を細めた。
 バラバラにされた残骸の中に心臓が落ちていた。猫の物よりも遥かに大きな心臓。血を浴びて染まる真っ赤な心臓。
 それはまさに人間の心臓そのものだった。
 しかも、心臓は〝生きていた〟のだ。動いているではなく、生きていると男は感じた。
 鼓動を打ちながら伸縮を繰り返す心臓。
 それを恐れるどころか、男は目を輝かせながら心臓を拾った。
 まるで何かに魅了されたように、男は生暖かい心臓に頬擦りをした。その口元は嗤っている。まさに狂気の沙汰。
 もう男の眼つきは袋叩きに遭っていたときのものではない。弱々しい負け犬の眼から、悪魔に魅入られた者のような妖しい眼。
 悪魔に魅入られた者の行く末は決まっている――破滅。

 梅雨が明けてから酷く暑い日が続いた。
 その暑さは8月に入ってからさらに厳しいものになっていた。
 ヒートアイランド現象で加熱するホウジュ区の余波を受けて、隣のカミハラ区もうだるような暑さだった。
 今年に入って最高気温を更新した。そのセリフを何度となく耳にしたことか……。
 マキは午後のワイドショーからチャンネルを変えた。
 面白そうなテレビはやっていないし、何よりこの暑さで何もヤル気がしない。
 夏休みだというのにこれといって予定もなく、今日も下着姿のまま家の中をうろちょろ。
 マキはリモコンをソファに投げてキッチンに向かった。
 冷凍食品のいっぱい詰まった冷凍庫を漁りながら、わりと手前にあった潰れた箱を出した。
 箱の中から取り出したのはアイスキャンディーだ。もう残りは2本しかない。
 1本を口に加え、箱をテーブルに投げて、最後の1本を冷凍庫の隙間に押し込んだ。
 再びリビングに戻ろうとすると、家のチャイムが鳴った。
 マキはすぐにインターホンに出た。
「だれぇ?」
 アイスキャンディーを加えたまま、あからさまにダルそうな態度だ。
 スピーカーからすぐに男の声が返ってきた。
《宅配便です》
「ひょっと待っちぇちぇ」
 口に物を入れたまましゃべり、マキは玄関に向かった。下着のままだが、そんな羞恥心などマキにはなかった。
 ドアスコープすら覗かずに、玄関の鍵を開けてドアを開けた。
 よく見る宅配業者の制服を着ている男が立っていた。帽子を目深に被って顔が見えないが、いつも来る宅配員と違うことはすぐにわかった。
 そして、男の口元は狂気を浮かべていた。
 寒気がするほどの恐怖をそのときはじめてマキは感じた。
 追い出そうにも男は既に玄関まで足を踏み入れ、持っていたダンボール箱を床に投げて襲い掛かってきた。
「来ないで!」
 アイスキャンディーが床に落ちた。
 逃げようと背を向けたマキに男を飛び掛かる。
 マキの口元に押さえつけられた布。布にはクロロフォルムが染み込ませてあった。
 すぐに意識を失ったマキを男は廊下に寝かせ、玄関の鍵を閉めてチェーンロックも掛けた。
 作業はあくまで淡々と、男は息すらしてないのではないかと疑うほど静かだった。
 男はマキの両足首をつかんで廊下を引きずり、リビングの入り口まで運んで放置した。
 次に男はリビングの家具を全部端に寄せ、部屋の中心に大きな空間を開けた。それが終わると男は玄関に戻って段ボール箱を運んできた。
 まだダンボールの箱は開けられることはなかった。
 何を思ったのか男は突然服を脱ぎはじめたのだ。上着をすべて脱ぎ捨て部屋の端に投げ、ズボンのファスナーを開けようと手を掛けた。
 男の股間は猛っていた。
 真っ裸になった男の剛直は脈打ちながら小刻みに動いている。そして、男はもう一つ凶器を持っていた。手に握るジャックナイフ。
 男はマキを部屋の中心に寝かせ、乱暴に下着をジャックナイフで切り刻みはじめた。
 胸の谷間にジャックナイフを差し込み、ブラを切ると大きな胸が左右に揺れた。
 唾液を垂らす男の口が乳房にしゃぶりついた。
 何日間もエサにありつけなかった野良犬のように、男は無我夢中で乳房を舐め回した。唾液で胸がぬめり妖しく光る。
 ショーツの腰あたりにジャックナイフが入った。すぐにショーツも切られてしまい、ついにマキは全裸にされてしまった。
 男の鼻が秘所の臭いを間近で嗅いだ。そして、まだ目を覚まさないマキの秘所が指で開かれた。
 腕のように巨大になった剛直が、まだ濡れてもいない花芯を貫いた。
 次の瞬間、男の握っていたジャックナイフがマキの心臓を一刺しにした。
 目を見開いたマキの死相。
 それを見ながら男は腰を動かした。乱暴にただ乱暴に、壊れるほどに乱暴に。無理やり広げられた花びらが血を滲ませる。
 快感に酔いしれながら男は屍体の腹を開き、小腸から大腸まで延々と引っ張り出した。
 男の顔は狂気を浮かべながら嗤っている。なのに声はひと言も漏らさなかった。
 屍姦という禁忌を犯しながら、男は屍体を解剖していった。
 軟骨を切りながら強引に骨を外し、乳首に歯を立てて食いちぎり、床は血の海に沈んだ。
 大量の返り血を浴びながら男は嗤う。
 もはやその顔は人間のモノではなかった。
 組み立て人形のように残骸が床に散らかされ、男はそれを見ながら手淫をした。
 血で濡れた手は潤滑して、剛直に鮮血が塗りたくられる。
 男が身を震わせた。剛直の先端から濃く白濁した雄汁が迸った。
 止まることなく噴き続ける汚れた液体は残骸にぶっ掛けられ、すぐに血と混ざってしまった。
 最後の一滴まで果てた男は余韻に浸ることなく、残骸の中から二本の腕を拾い上げた。
 その腕を舐め、恍惚とした表情を浮かべる。
 指先まで舐めようとした男の顔が曇る。
「太くて醜い指だ」
 はじめて男は言葉を発した。それも吐き出すような声だった。
 屍体の指を握り、男は力を込めて一気に折った。それも10本続けて折ってしまった。
 そして、止めと言わんばかりに手首を切断した。
 無残な手はゴミのように床に投げられた。
 男は残った腕に頬擦りをして再び舐め回した。
 綺麗に表面の血を舐め取ると、放置してあったダンボール箱を開けたのだった。

《2》

 夏休みに入って華艶は毎日のようにここに来ていた――喫茶店モモンガ。華艶の行きつけの店だ。
「ほかの仕事はないのー?」
 頬杖をついた華艶の視線の先には、カウンターに入っているマスターの京吾がいた。
「華艶ちゃんは仕事を選びすぎなんだよ」
「だって趣味だし、やりたい仕事だけやりたいもん」
 この店に足しげく通う理由はヒマ潰しと仕事探しである。この店のマスターは華艶のようなモグリのトラブルシューターに仕事を斡旋しているのだ。
 華艶の本業は女子高生で、TSはただの遊びだ。けれど、彼女はそれで生計を立てているので、本来ならば仕事もちゃんとしなければならない。
 だが、あるときを境にTSは完全に趣味になった。
 京吾はため息をついた。
「大金を稼いでからちょっと怠けすぎなんじゃないの?」
 2ヶ月ほど前に依頼を受けた事件。それで華艶は10億円のギャラを手に入れた。京吾はそれのことを言っているのだ。
「怠けてないし、暑くて何もヤル気が出ないだけだし。てゆか、なんでクーラー壊れてるわけ?」
 今日になって店の空調設備が壊れたらしい。日当たり良好の店はまるでサウナ状態だ。夕方になって余計に暑くなってきたように感じる。
「修理屋さんも忙しいらしくてね、明日にならないと来られないそうだよ」
「サイテー」
 華艶はアイスコーヒーを一気に飲み干した。
 すぐに京吾はグラスにアイスコーヒーを注ぎながら言う。
「暑いなら自分の家に帰りなよ。どうせ宿題だって溜まってるんだろうから、大人しく家でそれをやるとか……」
「まだまだ休みも長いんだから宿題なんてやってらんないし。それに宿題はお金出して誰かにやってもらうからいいの」
 写すではなく、やってもらう。ここが重要だ。
 店のドアが開いてベルがカランコロンと音色を鳴らした。
「ただいまー!」
 元気よく笑顔全快で入って来たのは、京吾の妹のさくらだ。京吾とはだいぶ年が離れているらしく、まださくらは中学生だ。
「おかえりなさい」
 と、笑顔で迎えた京吾は冷蔵庫から冷えたミルクを出して、コップに注ぐとさくらに手渡した。
 腰に手を当てて風呂上りのようにさくらはミルクを一気飲みした。帰宅時の習慣なのだ。
 さくらのことなど気にせず華艶はカウンターに突っ伏している。
「華艶さん元気ないんですかぁ?」
 さくらは目をクリクリさせて華艶を覗いた。
 ゆっくりと華艶は顔を上げた。
「さくらちんはいつも元気でいいわねー、若いって素晴らしい。オバサンは暑さに負けてもう死にます、さようなら……ばたっ」
 華艶は再びカウンターに突っ伏した。
「華艶さんだってまだ若いですよぉ!」
 さくらは華艶の肩を揺さぶった。
 突っ伏しながら華艶がボソッと呟く。
「……若い子に若いって言われるとカチンと来る」
 この発言でケンカを売られたと解釈して、さくらはそのケンカを買った。
「華艶さん夏休みだっていうのに、毎日ここに来て他にやることないんですか?」
 淡々とした口調にトゲがあった。
 むくっと華艶は上半身を起こした。
「仕事を探しに来てるの!」
「本当ですかぁ? ホントはただの暇人なんじゃないですか?」
「……ギクッ」
 わかりやすい華艶だった。
 夏休み中ということもあって、長期の依頼もこなせるし稼ぎ時であることは間違いない。だが、実際は友達が少ないからヒマなのだ。
 華艶は社交的ではあるが、友達として付き合うにはトラブルを持ち込んでくる。それに学校では2年も留年しているし、浮いた存在で友達が自然と少なくなってしまった。
 今ごろ大学に行った友達は大学の付き合いがあるし、就職した子はぶっちゃけ夏休みではない。同じ学年で中の良い友達は、『夏休みは稼ぎ時』なんて言ってバイトを入れまくっているらしい。少ない友達はいつも華艶を構ってくれるわけでもなかった。
 暑さとは別に華艶は気分が滅入ってきた。実は友達関係にデリケートだったりするのだ。
 黙ってしまった華艶にさくらが止めの一撃を刺した。
「彼氏でも作ったらどうですか?」
 華艶は言い返さずにただ目を伏せてしまった。けれど、すぐに立ち直ったらしく、鼻で『ふふん♪』と笑った。
「星の数ほどいるに決まってるじゃな~い。そーゆーアンタはどうなのよ?」
「華艶さんみたいに尻軽じゃありませんから」
「あのねえ、アタシなんかさ勘違いされ易いんだけど、別に尻軽でも男なら見境なく股を開いてるわけじゃないの」
「本当ですかぁ?」
 疑いの眼差しでさくらは華艶を見据えた。
「本当よ。てゆか、アンタ彼氏いんの?」
「えへへ、さっきまでデートだったもん」
 直後、京吾の磨いていたグラスが床に落ちて割れた。
「な、なななななー! お兄ちゃんお前に彼氏いるなんて聞いてないぞぉ!!」
 キャラが変わるくらいの取り乱しようだった。
 さくらはため息を吐いた。
「別にいちいちお兄ちゃんに報告することでもないでしょ」
「別にじゃないだろ別にじゃ、僕はお前の保護者なんだぞ。父さんと母さんが死んでから、僕がお前を育ててきたんだからな。保護者として彼氏を――」
「はいはい」
 さくらは京吾の口を手で塞いだ。
「お兄ちゃんは過保護過ぎなのぉ」
 と、言って、さくらはぷいっとそっぽを向いてそのまま店の奥に消えてしまった。
「さくらちゃんもう中学生なんだから彼氏の1人や2人いて当たり前じゃない?」
 呆れたようすで華艶は頬杖をついた。
 京吾はホウキとちり取りを持って床に散乱したガラスを掃除しはじめた。
「……ごめんね華艶ちゃん」
「はい?」
 なんのことを謝られているのかわからなかった。
 京吾は華艶と顔を合わせず、せっせと掃除をしながら話を続けた。
「さくらに悪気はないんだ」
「何が?」
「華艶ちゃんが彼氏を作らない理由……」
「ああ、それね。別に気にしてないからぜんぜん平気……って、そこ聞き耳立てないの!」
 華艶は座っていた回転イスをクルッと180度回して、後ろのボックス席にいた老人を指さした。19世紀のロンドンからタイムスリップしてきたような紳士の爺さんだ。あだ名はトミーというが、生粋の日本人である。
「別に聞き耳なんて立てておらんよ。狭くて客の少ない店で話しておれば、嫌でも耳に入ってくるじゃろう」
 店内にいるのは3人だけ。マスターと客2人だ。華艶とトミーは常連なので、いつもの風景と言える。
 華艶はボックス席に身体を向けたまま少し考えた様子で数秒ほど黙り、こう言った。
「聞きたい?」
「いや」
 と素っ気無く言われてしまって華艶はすぐに身を乗り出した。
「そんなこと言わないでよ、アタシがせっかく話してあげるって言うんだから聞いてよ」
「どんな話じゃな?」
 少し真剣な顔をしてトミーは読んでいた新聞を折り畳んだ。
「別にね、そんな長い話じゃないんだけど。トミーさんも知ってるでしょ、アタシの特殊体質みたいなの、炎のほうのね」
 その道での華艶の通り名は〝不死鳥の華艶〟。死んだと賭けた修羅場からも黄泉返り、炎を自在に操ることからその名がついた。
 途中で口を挿む者は居らず、華艶は周りのようすを窺いながら話を続けた。
「でね、その炎の力が一族でもずば抜けて高いらしくってさ、若い頃は特にコントロールができなくて……結論から言っちゃうと、えっちしてイッたときに人体発火を起こして相手を焼き殺しちゃったんだよねぇー」
 空っぽの笑い声を発して華艶はいろいろなものを誤魔化した。
「あはは、はじめての彼氏で、はじめてのえっち。ついでに初めてイって、はじめて人殺し。あとは……はじめて本当に人を好きになった人だったとか」
 笑いながら華艶はすべてを告白した。
 明らかに無理して笑っている華艶を見て京吾は何も言えなかった。
 時が止まったように静まり返る店内。古い掛け時計と華艶だけの時間が動いていた。
「ちょっと何2人とも、そうだ京吾の初恋の話とか聞かせてよ。それともトミーさんが話す? ってなんで二人とも黙っちゃうのよー。なんかアタシが悪いみたいじゃん。そうだ、テレビ点けていいよね?」
 焦ったような早口で華艶はしゃべり、カウンターの端につり下げられているテレビを点けた。
《ついに5人目の被害者が出てしまいました》
 リポーターらしき男が道路封鎖された黄色いテープの前でマイクを握っていた。警官たちの姿も見受けられ、カメラには他の局の報道陣やカメラのフラッシュが写っていた。
 華艶はテレビに近づいてその映像を食い入るように観た。
《〝ジャックナイフ〟は警察を嘲笑うかのように犯行を重ね、最初の被害者が発見されてから2ヶ月が経とうとしています》
 猟奇殺人の宝庫とも言える帝都の街で、世間を賑わす通称〝ジャックナイフ事件〟。犯行に使われた凶器がジャックナイフであることからその名がついた。
 事件の特徴はまずはその凄惨な現場である。警察の発表によると遺体はすべて解体され、その身体の一部が持ち去られているのだという。消えた身体の一部は発見されておらず、同じパーツが持ち去られることはない。
 被害者は女性ばかりで生前の共通点はとくになく、通り魔的犯行であることから、人間関係から犯人を割り出すことはできないらしい。その代わり、犯人は大胆不敵にも証拠などを現場に放置する傾向にあった。
《家の前に宅配業者らしきバンが止まっていたことから、警察はその車両の行方を追っている模様です》
 華艶は少し興味が薄れたようにテレビから離れた。
「つまんないの、帝都の切り裂きジャックとか言われるくらい大物になるかと思ったけど、なんかもうすぐ捕まりそう感じ」
 19世紀のロンドンの街を賑わした切り裂きジャック事件。帝都で起こっているジャックナイフ事件との共通点は多い。
 被害者が女性であったことや、解剖して特定の臓器などを持ち去る点などが挙げられる。切り裂きジャック事件でも医者が犯人であるという説があるが、〝ジャックナイフ〟もその線でも捜査が進められているらしい。
 ただし、向こうが解剖であったのに対して、こちらは完全な解体だった。
 京吾は他の共通点を挙げた。
「そう言えば同じジャックナイフが凶器だね」
 すぐにトミーが咳払いをした。
「切り裂きジャックの〝ジャック〟はジャックナイフの〝ジャック〟ではないぞ」
「そうなんですか?」
「あちらさんのジャックは名前がわからんものつける仮名じゃな。日本語でいうところの名無しの権兵衛じゃ」
 これに京吾と華艶は感心したように頷いた。
 京吾は何かを思い出したように手を叩いた。
「そうだ、〝ジャックナイフ〟に懸賞金が掛ったって聞いたな」
「いくら!」
 と、華艶はカウンターから身を乗り出して食いついた。
「さあ……ただレベルAのデッドオアアライブだとは聞いたけど」
「よしキタ、その賞金アタシが貰った!」
 デッドオアアライブとは、〝生死を問わず〟の意味である。
 帝都では警察が捌ききれないほどの事件が発生する。そのために賞金稼ぎ(バウンティハンター)制度がある。
 そして、レベルAとは専門の免許などを持っていなくても、犯人を殺しても罪に問われないという帝都政府公認の御布令である。それは誰もが賞金を手に入れるチャンスがあるという意味であり、専業主婦から学生まで、都民全員がハンターと化すのだ。
 華艶はこういうことに燃えるのだ。賞金が目当てということより、ライバルが大勢いるという状況に燃える。
 再びテレビに噛り付く華艶。
《以上、現場からの中継でした》
「うっそ~ん!」
 中継はタイミングよく終わってしまった。
 ただ、脳裏に残る映像に華艶は引っかかりを覚えた。
「今映ってたマンションって……ウチのマンションだったような……?」
「そう言えばカミハラ区って言ってたよう気がするな」
 京吾の言葉で華艶は確信した。
「そうだよね、やっぱウチでしょあの場所!」
 華艶はイスから勢いよく立ち上がって、カウンターに小銭を叩き付けた。
「ごちそうサマ、この事件の情報集めておいてね、バイバーイ!」
 突風のように華艶は店を出て行ってしまった。
 そして、京吾が呟く。
「これゲーセンのコインだよ」

《3》

 住宅街をダッシュで駆け抜け、華艶は現場に直行した。
 遠目からでも警官のパトカーや報道陣が集まっているのが見えた。
 バラバラ遺体が発見された一軒家付近の道路を封鎖した都合上、華艶の住むマンションの入り口まで封鎖地帯に入ってしまっていた。これではマンション住人ですらなかなか家に帰れない状態だ。
 まずは野次馬の海を掻き分け、先頭に陣取ってる報道陣も掻き分ける。そして華艶はバリケードの前に立っている警官に話しかけた。
「アタシあのマンションの住人なんですけど?」
「お名前と身分を証明する物を提示してください」
 かなり厳重な警戒態勢だ。
 華艶はサイフから学生証を出した。
「火斑華艶、これ学生証ね」
 警官はプリンアウトした名簿と照らし合わせて頷いた。
「そちらのロープを通って速やかにマンションに入ってください。なお、一度マンションに入ったら、なるべく外に出ないようにお願いします」
 警官が指を差した場所には、ロープで作った幅が1メートルもない道があった。寄り道せずにマンションの入り口に続いている。
 華艶はその道をゆったり歩きながら、現場となった家を覗いた。
 被害者の名前はニュースで聞きそびれたが、たしかのあの家には華艶と同じ女子高に通う1年生がいたはずだ。
 足を止めて華艶がロープから身を乗り出そうとすると、警官が怖い顔をして立ち塞がった。
「早くマンションに入りなさい」
「……チッ」
 あまり無茶をすると公務執行妨害とかで捕まりそうだ。
 華艶は渋々マンションの中に入った。
 そして、駆け足で自分の部屋に飛び込んで、すぐにベランダに出て現場を上から覗いた。
「上から見てもあんまわかんないし」
 犯行現場は普通に考えて家の中だ。外から覗いたところで大した情報も掴めない。周りの雑音などが混ざって現場の会話も聞こえてこない。
 だが、華艶に好機が訪れた。
「あれってもしかして……」
 目を細めて華艶はその人物を見た。
 私服の刑事がなにやら同僚らしき人と話をしている。
 華艶は急いでケータイを出して電話帳を開いた。
「たしかメモリーに登録したままだったような……名前なんだっけ?」
 現場に知り合いを発見したのだ。数少ない警察の知り合いだった。
 メモリーの中にその名前を発見してすぐに電話をかけた。
 相手はなかなか出ない。同僚と話を続けたままだ。
 このチャンスを逃して堪るかと華艶は電話をかけ続けた。
 ついにその刑事が同僚と話を終えてケータイをポケットから取り出した。
《もしもし、草野です》
 ついに相手が電話に出た。
「こないだはどーも華艶でーす」
《何の用ですか突然?》
 ぶっちゃけ、2人の関係は友達以下だ。とある事件でちょっと知り合いになった程度だった。
「向かいのマンションの5階見て、アタシが手を振ってるの見えるでしょ?」
 マンションを見上げる草野に華艶は大きく手を振った。向こうもそれに軽く手を上げて答えた。
《このマンションに住んでたんですか。それで私に何の用ですか?》
「その事件について大事な話があるから、アタシの部屋まで来てくれると嬉しいなぁ」
《本当ですか? どんなことを知ってるんですか!》
 華艶の作戦どおり食いついてきた。
「それは電話じゃちょっと……」
《わかりました、すぐに行きます待っていてください》
「はい、507号室で待ってまーす」
《わかりました》
 電話が切れた同時に草野が小走りでマンションに入ってくるのが見えた。
 華艶は小さくガッツポーズを決めた。
「よし、とりあえず家に呼び寄せるのは成功」
 華艶は玄関の前で今か今かと草野を待った。
 しばらくして家のチャイムが鳴り、ドアスコープを覗くとネクタイを閉めなおす草野姿があった。
 華艶もミニスカートの裾を上げて準備を整え、鍵を開けてドアを開いた。
「とにかく上がって」
「はい」
 勧められるままに草野はリビングまで連れて行かれた。
 ソファに座った草野に華艶が尋ねる。
「コーヒーか紅茶か、それともお酒とかいっちゃう?」
「飲み物は結構です。それより話を聞きたいのですが?」
「そっ」
 華艶はL字なっているソファに草野と距離を開けて座った。華艶のパンチラが見せそうで見えない位置関係だった。
 草野は華艶の太腿を見てしまって、慌てて視線を外した。それに気付いた華艶は『イケる』と小さく拳を握った。
 草野はまだまだ新米の刑事で歳も若い。そーゆーことに興味がないはずがない。と、華艶は勝手に思っていた。
 色目を使って華艶は草野を見つめる。
「草野さんってもしかして猟奇殺人課の刑事さんなの?」
「はい、あなたと解決した事件のあと転属させられました」
「ってことは、一介の刑事と違って事件の情報もたくさん入ってくるわけだ」
 華艶の態度に草野は疑問を覚えた。
「もしかして私から事件の情報を聞き出す気ですか?」
「もちろん、そのために家に呼んだんだもん」
「帰ります!」
 立ち上がった草野の腕に華艶は抱きつき、自分の胸を思いっきり押し付けた。
「そんなこと言わないで、ここはひとつ脱ぎたてのアタシのパンツで手を打ってくれない?」
「なんですかそれ! そんな方法で私を買収する気ですか?」
「じゃあストリップショーにする?」
「そういうことを言ってるんじゃなくて!」
 華艶は強硬手段に出た。
 いきなり草野の口を塞いだのだ……自分の口で。
 喰らい付くような濃厚なキスをして、華艶は舌を相手の口の中に入れた。
 最初は抵抗して唇を閉ざしていた草野だったが、次第にその手は華艶の腰に周り、応じるように舌を動かしてきた。
 唾液を交換するように互いの舌を絡め合い、草野の手が華艶の尻を擦った。そのまま我慢が利かなくなり、草野はついに華艶はソファに押し倒した。
 華艶のTシャツを脱がせようと草野の手が伸びたが――。
「ここから先は情報を貰ってから」
 そう言って華艶は草野の身体を押して、少し離れたソファに座った。生殺しだ。
 押さえられない身体は謙虚に草野の股間に現れている。ズボンを大きく押し上げて、アレが苦しそうにしている。
 しかし、ここまで来て草野は冷静に返ろうとしていた。
「やっぱりダメだ。こんなことしちゃいけない」
「あんなキスまでしといて、チャラにする気?」
 華艶は大股開いて、ショーツの上から自分の割れ目に指を這わせた。
 思わず草野が生唾を呑む。
「わかりました。でもこういう肉体関係を持つのはよくありません。その、お詫びとして情報はちゃんと渡しますから、それでどうにか……」
 冷静になろうとしているが少し取り乱している様子が見受けられた。
 しかも、まだ股間のモノは突き上げたままだ。
 華艶としては結果として、情報さえもらえればそれでいい。
「じゃあとりえず、ちょっと汗かいちゃったし飲み物でも取ってくるから。草野さんは股間を静めておいてね」
 悪戯に笑って華艶はキッチンに向かった。
 華艶が戻ってくるまでの間に、草野はジャケットを抜いてネクタイを緩めた。
 部屋は蒸すように暑く、ワイシャツが背中に張り付く。
 華艶はアイスコーヒーを持って現れた。
「アイスコーヒーでいいでしょ?」
「ありがとうございます」
 ワイシャツ姿になってる草野を見て、家に帰ってきて冷房を入れるのを忘れていたことに気付いた。
 リモコンでエアコンを入れて、華艶は氷の入ったグラスを鳴らしながらソファに座った。
「さーってと、まずは今回の被害者と現場の状況から話してもらっちゃおうかなぁ」
 草野は大きなため息を吐いた。今さらながら自分の過ちを悔いていた。
「……はい、被害者の女性は井上マキ。神原女学園高校に通う1年生です」
「やっぱりそうなんだ。アタシも神女に通ってるんだけど」
「……本当ですか?」
 疑いの眼差しで華艶は見られた。
「ヤンキー高校に通ってるとでも思ってたの?」
「……はい」
 正直な答えだった。
「なんか部外者は神女に幻想抱いてるみたいだけど、女ばっかで結構ドロドロしてんだから。不良だって多いし、女子高だから清純みたいなのバカの考えることだし」
「そうなんですか」
「そうなの」
 共学の女子高生より、校内では本性丸出しで恐ろしい。
 アイスコーヒーを一口飲んで、一息ついてから草野は話の続きをした。
「現場は酷い有様でした。今までと同じように身体を解体され、同時に犯されたようです」
「で、今回はなにがなくなってたの?」
「肘から先、手首までが持ち去られたようです。現場には犯人が残していったと見られる段ボール箱があり、おそらくその中に解体した腕を収める入れ物が入っていたのではないかと、警察の見方はそういう感じですね」
「ええっと、今まで持ち去られたのって身体のどこだっけ?」
「ちょっと待ってください」
 草野のジャケットから手帳を出して、それを開いてから話を続けた。
「被害者が見つかった順番で言います。胴から下腹部、太腿から脛までの脚、頭部、足、そして今回の腕です」
「殺された順番はわかってるの?」
「胴から下腹部、頭部、脚、足、腕です」
「ふ~ん」
 持ち去られた順番に何か秘密があるのだろうか?
 被害者の名前や持ち去られた部位、その程度の情報は少し調べればわかる。本題はここからだった。
「公にしてない警察が握ってる情報教えて」
「やっぱりダメですよ、教えられません」
「ええ~っ、アタシのこと犯そうとしといてズルくな~い!」
「お、犯すだなんて!!」
「裁判したらアタシ勝つよ、地味に小金持ちだから良い弁護士雇うから。それに、教えてくれたらちゃんとご褒美あげるからぁ」
 華艶はソファに座る草野の前に跪いて、長くて綺麗な指で草野の太腿を擦った。
「な、何するんですか!?」
「ご褒美の準備」
 仔悪魔的な笑みを浮かべて華艶の指はズボンのファスナーを抓んだ。
 草野は抵抗せずに目を白黒させてしまっている。
 ファスナーを開けられ、その中に華艶の手が入った。それだけなのに、我慢しきれずに草野のモノは大きくなった。
 華艶は猛っているモノを優しく手で包み込んだ。熱く脈打っているのが伝わってくる。
「いい情報くれたら口でしてあげる」
 鼓動が高鳴り、固い唾を呑む音がした。
「別にそんなことをして欲しいから教えるんじゃないですよ。訴えられるのが嫌だから教えるんですからね」
 その言葉が本当かどうかは関係ない。
「アタシは情報さえくれればそれでいいの」
「……はい。仮説では持ち去られる部位には順番があり、隣接する部位がぁはっ」
 華艶の手が動き出し、堪らず草野は変な声を出してしまった。
 硬くなったモノを手で擦られ、玉も同時に責められている。
「早く話続けてよ」
 そんな行為をしながらも口調はビジネスだった。
「はい、ええっと……つまり少なくとも〝胸〟の被害者がいるのではないかと」
「そんな情報、別にたいしたことないし。もっと別なのないの?」
 上下していた華艶の手が止められ、快感が引いてしまった。
「やめないでください」
 ついに本音が出てしまった。それを聞いて華艶は微笑んだ。
「だったらもっと良いの言いなさいよ」
「現場に残っていた精液から〝ジャックナイフ〟は日本人だということがわかっています」
「他に」
「足跡から推定される身長は175センチ以上。刺し傷から左利きだと推定され、右手の中指がないはずです」
「中指がない?」
「被害者の女性の口の中から犯人の物と思われる指が出てきました」
「なんか証拠いっぱいあるっぽいのに、なんで捕まえられないわけ?」
 その問いに草野は押し黙ってしまった。
 犯行は大胆で、証拠も数多く残っている。なのに容疑者すら挙げられない。帝都警察の面子は丸つぶれだ。
「犯行は派手ですが被害者女性には共通点もありませんし、おそらく犯人ともないでしょう。指紋や精液は残しても、顔を見られたことは一度もありませんし、DNA情報を握っていても、比較対照がないことにはそれも意味を成しません。今ある証拠だけでは、絞りきれないのが現状なんです」
「それに2ヶ月くらいで5人だもんね。ペースが早くて捜査が追いついてないんでしょ」
「時間さえあれば今ある証拠だけでもいつかは犯人に行き着くと思いますが……」
 次の被害者が出るのが先か、警察が〝ジャックナイフ〟を捕まえるのが先か。
 真剣な話をしていたせいで草野のモノは萎えてしまっていた。
 そこへ草野のケータイが鳴った。慌てて草野は電話に出た。
「はい、草野です」
 相手の怒鳴っているような声が漏れてくる。草野は見えない相手に頭を下げて謝っている。股間のモノはさらに萎縮していた。
「いえ……近隣で聞き込みをしていて……はい、すぐ戻ります」
 どうやら上司からの電話らしい。
 草野は通話を切って、気まずい顔をした。
「あの、現場に戻らなくてはいけなくて、失礼します!」
 草野は大慌てで部屋を飛び出そうとした。
「ちゃんと股間のモノしまいなさいよ」
 華艶に言われて、草野は慌ててファスナーを閉めようとした。
「ギャァッ!」
 草野が死にそうな悲鳴をあげた。そして、股間を押さえながら床の上でのたうち回った。
 それを見て華艶はおでこに手を当ててため息を吐いた。

《4》

 ジャックナイフ事件、第1に発見された被害者はホウジュ区の娼婦だった。
 遺体が発見され殺害現場とされているのはビルの屋上。
 草野は現場を見渡した。
 今はもう現場検証も終わり、惨殺現場だった痕跡はなにひとつ残っていない。
「誰だ!」
 気配を感じて草野は振り返った。
「アタシ」
 と現れたのは華艶だった。
「つけて来たんですか?」
「うん、だって他に手がかりないし」
 情報集めを京吾に依頼してあるが、まだこれと言った情報は来ていない。ではどこから手を付けるかと考えたとき、真っ先に尾行が思いついた。
 華艶は辺りを見回しながら草野に近づいた。
「ここで売春婦が殺されたんでしょ。野外プレイってわけだ」
 被害者の女性の顔と名前、殺害場所及び遺体発見場所など、基本的なデータは昨晩のうちに頭に入れてきた。
 この被害者から持ち去られたのは胴から下腹部。
「やっぱ名器だから持ってかれたのかな?」
 華艶が尋ねると草野は黙り込んだ。今日はなにも教えない気だ。
 帰ってしまおうとする草野の腕を華艶が掴んだ。
「ちょっと待ってよ」
「待ちません。今日は絶対に事件情報は漏らしませんから、早く私の前から消えてください」
「そんなこと言わないで、ね?」
 華艶の胸が草野の腕に当たる。今日も色仕掛けで攻める気だ。
「絶対に駄目です。私をクビにしたいんですか!」
「別にバレなきゃ平気じゃない? いろんなとこに情報をリークしてる刑事なんていくらでもいるし」
「私は正義に憧れて刑事になったんです!」
「青臭いなぁ。そんなことじゃ殉職しちゃうよ?」
「仕事中に死ねるなら本望です」
 草野の眼はマジだった。
 しかし、華艶も手がかりを逃すわけにはいかない。
「じゃあさ、色仕掛けはもうなし。純粋に協力関係を結ぼ、そんでいいでしょ?」
「駄目です!」
「あのさ、外部にコネとか持ってないと手柄も上げられないよ」
「別に手柄なんて興味ありません。犯人さえ捕まればそれでいいんです」
「ならさー、なおさら別にアタシと協力してもよくない?」
「…………」
 草野は考え込んで口を閉ざしてしまった。考えるということは、可能性があるということだ。
 そして、やはり折れた。
「わかりました、協力しましょう。ただし邪魔はしないでくださいね」
「話がわっかるぅ。うん、きっと出世するよ」
 協力関係を結び、まずはこの現場の検証からはじめることにした。
 現場に残っていた血液の量から、この場所で解体されたことは間違いなく、わざわざ屋上に残骸を持ってくる手間を考えれば、やはりこの場所で解体されたのが妥当な考えだ。
 運んで来るのに手間が掛る。逆に言えば運び出すのも手間が掛る。それが身体の一部だけだとしても、簡単には運べないだろう。
 運ぶための入れ物が必要となる。娼婦を連れてくる前に、あらかじめこの場所に用意していた可能性が高く、現場を下見していたこととなる。おそらく逃走ルートも確保していたことだろう。
 華艶と草野は犯行後の〝ジャックナイフ〟の足取りを追うことにした。
 屋上からの出入り口はひとつ。階段は建物の外にあり、そのまま地上まで下るか各フロアに出ることができる。
「残っていた血痕から犯人は犯行後、階段を下りてそのままビルを出ていることがわかっています」
 草野の説明を聞きながら階段を下りてビルを出た。
 道は左右に分かれている。一方は繁華街へと繋がる道。もう一方は裏路地へと続く暗い道。
 当然の心理としてひと目につく道には行かないだろう。大きな荷物を持っていることと、惨殺で大量の返り血を浴びているであろうこと。たとえ着替えなどしても、髪の毛などについた血までは隠し切れないだろう。その点から公共の交通機関を使うことも難だろう。
 シャワーを浴びるまでの移動手段。徒歩には限界があり、大きな荷物を持っていることか自然と車という選択肢が浮かぶ。
 大きな荷物というキーワードは過程の話で、実は別の可能性があることも考えられる。
 華艶はこんなことを言う。
「もしかして骨まで食べたって可能性は?」
「ないと言い切れないのが帝都の怖いところですね」
 持ち去られたのではなく、食べたという可能性。
 帝都で起こる猟奇・怪奇事件は一般常識を逸脱している。可能性が多岐に渡るために、それが捜査を困難にさせる要因でもある。
 現場からもっとも近い車を止められる場所。道幅だけで言うならばビルの手前だが、車がギリギリ通れるほどの幅であり、そんな道には粗大ゴミやいろいろな物が置かれていた。とても車が道に進入して来られる環境ではない。
 そこでもっとも可能性があるのは近くのパーキングエリアだった。
 そして、この駐車場が使われた可能性を高める情報を草野は握っていた。
「犯行時間ごろ、この駐車場に数台の車の出入りがあり、その中に白いバンがあったそうです。昨日の犯行で使われた宅配業者の車に偽造されたのも同じ車種でした。そして何より、その車の持ち主だけが不明なんです。ナンバープレートが偽造でした」
 ナンバーを偽造するくらいだ。車種から持ち主を辿っても、犯人には行き着かないかもしれない。
 ここで犯人の足取りは途絶えた。
 捜査の基本は現場百回と言うが、新たな手がかりは何も掴めなかった。けれど、現場はあと4箇所ある。
 草野の運転する車に乗せられ華艶も次の現場に向かうことになった。
 車内で華艶は事件を整理していた。
「残ってるのは頭部と手だけでしょ?」
「胸もあります」
「発見されてないだけだったりしてね」
「隣接する部位の順番で持ち去られているとしたら、少なくとも手は確実に残っています」
「最低あと1人の被害者は出るってことか……」
 おそらく〝ジャックナイフ〟は人間のすべてのパーツを集める気だ。
 屍体はまず滅多刺しにされていた。滅多刺しは怨恨に見られる傾向だが、解体もされていた。いらない部分を滅多刺しにして、必要な部位だけを持ち去る。
 解体は基本的に身元を隠すために行なわれる。中には頭部を持ち去り、指紋を切り取り捨てるという周到さ見せた殺人も過去にある。ただし、今回の事件に限っては証拠隠滅のための解体ではない。
 〝ジャックナイフ〟の真の目的は被害者の身体の一部を持ち去ること。
 解体や屍姦はその余興でしかない。
「なんで屍体の一部なんか持ち去ってるんだと思う?」
 華艶は真横で運転する草野に尋ねた。
「イヤリングや指輪、子宮を持ち去るという行為は証や征服欲などが考えられますが、別々のパーツを集めているとなると……」
「理想の女性を作り出すとか?」
「継ぎ接ぎだらけの女性ですか?」
「完璧なパーツを集めても継ぎ接ぎがあったら萎えるよね。そもそも違う人間の躰を繋ぎ合わせるなんてちょー大変そう」
「ただ……もしかしたら本当に……」
 そう思う理由があった。草野は言葉を続ける。
「好みの女性を狙っているためかもしれませんけど、被害者の背の高さはほぼ同じなんですよね」
 それはつまり腕の長さや脚の長さも似ている可能性を示唆している。
「好みってさっきの現場で殺された売春婦とOLじゃ天と地の差じゃん」
 現在発見されている被害者の中で、もっとも早く殺害されたのがOLである。このOLは大学のミスコンで優勝したことや、自身のブログで顔を公開しており、美人と定評のある女性だった。
 対して売春婦はどうかというと、顔は悪いがスタイルは良かったと娼婦仲間は答えた。たしかに生前の写真を見ると、お世辞にも美人とは言えない。つまりブスだった。
 しかし、持ち去さられたパーツを考えると納得がいく。
 OLは頭部を持ち去られ、娼婦は下腹部やヒップである。
 華艶は自分の発言が間違っていたことに気付き、あることを思い出した。
「そっか、持ってくパーツが良ければいいのか。そー言えばさ、井上マキってうちの子もスポーツやってて腕キレイだったし」
「3番目の被害者はモデルで脚が現場にありませんでした。4番目は海水浴客で足がありませんでした」
「で、次はどの現場に行くの?」
「ここから近い……なんですかあれ?」
 草野は目を大きく開けた。
 前方で車がクラッシュして玉突き事故を起こしていた。
 原因は車の屋根を跳ねる黒い魔鳥のような影。
 華艶は思わずその影を指さした。
「時雨じゃん!」
「時雨って誰ですか?」
 尋ねてくる草野に華艶はうんざりした顔で応じた。
「知らないの? 〝帝都の天使〟って呼ばれる帝都1の美形で、アタシと同じモグリのTS」
「あれが〝帝都の天使〟ですか!?」
「なんだ知ってんじゃん。てゆか、TSとしての活動時期も少ないし、最近結婚して引退したって聞いたのに……ぜんぜん現役じゃん」
 真夏なのに黒いロングコートを靡かせ、時雨は輝くビームソードで巨大な妖物と戦っていた。
 警察としてこの場をどうにかしたいところだが、草野は一般の警察官である。妖物や超人を相手するのは機動警察と決まっている。刑事と言っても草野は人間でしかない。
 巨大な妖物はまるでヘドロのようだった。汚い色をしたドロドロの身体で、眼も鼻も口もなく、まるで単細胞生物のようである。
 ビームソード1本でヘドロモンスターに立ち向かう時雨は苦戦を強いられていた。斬っても斬っても、細胞単位で活動できるためにすぐに斬られた部分同士が結合してしまうのだ。
 辺りには悪臭が立ち込めていた。殺人的な臭いだ。発信源はヘドロ怪人だ。
 ヘドロモンスターは凶悪な意思を持っていたり、意図的に人を襲うのではなく、本能的に周りの物を少しずつ呑み込んで行くらしい。強暴でないことが救いだが、この臭いは耐えかねぬ。
 華艶は車を飛び出した。
「しゃーないなぁ。アタシもちょっと行って来る!」
「危険ですからちょっと!」
 走り出してしまった華艶を追って草野も車を飛び出した。
 ヘドロモンスターの身体の一部が華艶に向かって飛んでくる。素早く華艶はヘドロを躱したのだが――真後ろを追ってきていた草野の顔面にヒットした。まるで糞を喰らったようだ。
 ヘドロは草野の口の中に入ってしまい、強烈な臭いが鼻を抜けて草野を気絶させた。
「バカ草野!」
 華艶の怒声が飛んだ。
 草野はアスファルトに仰向けになって、口からヘドロと泡を吐いて白目を剥いてしまっている。
 下水――それも汚水管からやってきたヘドロ。そんな雑菌だらけの物を喰らえば、猛毒を喰らったようなものだ。
 ため息を付きながら華艶は悩んだ。
 ヘドロモンスターを先に倒すべきか、それとも草野を病院に運びべきか?

《5》

 男は仕事の帰りに寄り道することなく、まっすぐボロアパートに帰った。
 1DKの小さな部屋だ。
 部屋の明かりを点けると部屋の奥まで見渡すことができる。
 男は奥の部屋に入り呟く。
「ただいま」
 その言葉はベッドで横たわる人影に向けられたものだった。
 赤いシーツのベッド。その上に横たわっていたのは、包帯を全身に巻かれた女だった。いや、おそらく女というべきか?
 包帯は顔すらも隠し、女と判別しえる点は、女性特有の丸みを帯びた輪郭と、ふくよかな胸の膨らみである。
 〝包帯の女〟の口元が包帯の下で動いた。
「おかえりなさい」
 柔らかく優しい声。男に警戒心を解かせ、脱力させてしまうような声だ。そして男を手のひらで転がす魔性の声。
 ベッドに横たわる〝包帯の女〟は両手を広げて男を誘った。
 男はそれに応じてベッドにゆっくりと登り、〝包帯の女〟の太腿を跨いで上に乗った。
 交わされる接吻。男は包帯の上から女の唇を吸った。〝包帯の女〟は男の背中に腕を絡める。
 手がなかった。
 〝包帯の女〟の腕の先には手がなかった。
「私のために早く〝手〟を取ってきて」
 〝包帯の女〟は甘えるようにねだった。聴いた者の身体に快感が走るような声だ。
 男は股間を大きくして優しく微笑む。
「ごめんよ、美しい〝手〟がまだ見つからないんだ。もう少し待ってくれ」
「イヤ、早くして。あとは手だけなのよ」
「僕だって君のために一生懸命やってるんだ。もう少し待っておくれよ」
「早くして、指先であなたを感じたい」
「僕だって君の指先を感じたい」
 そこに指先があることを妄想して、男は〝包帯の女〟の手首から頬ずりをした。そして、見えない指に舌を這わせる。
 甘い香りが部屋に充満した。
 それは〝包帯の女〟が発散する汗だった。
 男を狂わす魔性の香。それを鼻いっぱいに吸い込んだ男は、胸が締め付けられるほどの興奮を感じ、耐えきれずにズボンのファスナーを下ろした。
 ズボンもトランクスも脱ぎ捨て、男は自らの剛直を握った。
「もう我慢できない」
「早くあなたのを頂戴」
 〝包帯の女〟は股間をまさぐり、包帯を緩めて隙間を作った。
 また別の甘い匂いが男の鼻に流れ込んできた。男を狂わす香だ。
 剛直を握りながら、男は四つん這いになって花弁に鼻を押しつけた。
 甘い蜜が泉のように湧き出てくる。男は一心不乱で蜜を飲んだ。
 高鳴る男の鼓動。さらに剛直は硬くそそり勃った。
 男の目つきが急に変わった。肉食獣のような恐ろしい眼をして、女の花園を犯そうとしていた。
 なんの合図もなく、男は剛直を一気に花芯に突き刺した。
 もぎ取られそうなほど中はきつく、ミミズが蠢くように伸縮していた。
 男は壊れるほどに腰を振った。
 少し動かすだけで男の全身には電撃が快走し、口から垂れた涎が女の躰に墜ちた。
 狂おしい快感に精神を蝕まれ、男は1分もせずに絶頂を迎えてしまった。
 濃く熱い雄汁を飲み干そうと、剛直がバキュームのように吸われた。
 白目を剥きながら痙攣する男はやがてすべてを吸い尽くされ、ぐったりとして〝包帯の女〟に覆い被さった。その顔は果てる前に比べて、十歳以上も老け込んでいるように見え、頬は飢え死にするのではなかと思うほど削ぎ落ちていた。
 〝包帯の女〟が男の耳元で甘く囁く。
「もっと頂戴……」
 その言葉はまるで魔法の言葉のように、男のモノを再び弾けんばかりに奮い立たせた。
 そして、再び男は快楽の虜に……。

 昏睡状態だった草野が目覚めと聞いて、華艶は朝早くから病院に赴いた。
 個室のドアを開けると、朝食を摂りながら草野が出迎えた。
「おはようございます」
「おっはよ」
 華艶は挨拶を終えると、ベッドの脇に腰を下ろし、朝食のメニューを摘み食いしようとしたが、あまり魅力的でなかったために手を引っ込めた。
「昨日はご迷惑かけました」
 草野は肩を落として言った。
 ヘドロに当たって死にかけた草野は、〝最終的には〟病院に担ぎ込まれ、あと少し病院に来るのが遅ければ障害が残るか助からなかったと宣告された。それを聞いた華艶は『あはは』と乾いた笑いを発したのだった。
 そうとは知らずに草野は心底から華艶に感謝していた。
「ありがとうございました。あなたが病院に運んでくれなかったら、今ごろ私は……」
「あはは、あったり前のことしただけだし」
 後ろめたいモノが華艶にはあった。できればこの話はおしまいにしたかったのだが――。
「ところであのヘドロはどうなったんですか?」
「さあ? すぐに草野さんを病院に運んだから……あはは」
 ちょっと口元が引きつっていた。そしてそれを隠すように言葉を立て続けた。
「そうだ、退院祝いに何かご馳走してあげる。うん、それがいい」
「そんな別に気を遣ってもらわなくても結構ですよ」
「ほらだってさ、お見舞いに何も持ってこなかったし、パーッとお酒でも飲みながら美味しいもの食べよう、うんそれがいい」
「ですからそんなことしてもらわなくても……」
「いいっていいって、アタシこれでも小金持ちなんだから。それに臨時収入だってあったし……あっ」
 華艶は口をつぐんで回れ右。病室をさっさと出て行こうとした。
「あ、あああ、あーっと、そうだ用事があったの。大事な用事だから早く行かなきゃ」
「臨時収入?」
 不思議な顔をして草野は華艶を見ているが、聞こえないふりをして華艶は病室を出て行こうとした。
「じゃあね、またね。はいサヨナラ~」
 逃げるように華艶は早足で病室をあとにした。
 病室を出てすぐに華艶は胸をなで下ろした。
一息ついて華艶は廊下を歩き出す。
 この病院は帝都一の繁華街があるホウジュ区にあり、規模としては比較的大きな病院である。スタッフや入院患者も多く、診察に来ている者や見舞いに来ている者、すべてを合わせると膨大な人数がいることになる。
 華艶も廊下を歩きながら何人かとすれ違った。
 第六感が華艶に何かを告げる。そしてすぐにどこからか悲鳴が聞こえてきた。
 女の甲高い悲鳴。
 すぐに看護婦が病室から飛び出してきた。
 看護婦は華艶を見つけるなり、いきなり飛びついて来て泣きじゃくった。
「ひ、ひぃぃぃ」
 何かを訴えようとしているが、口がわなわな震えて、瞳孔を開ききっている。病室の中で何が起きているのか?
 好奇心から華艶は微笑んだ。
「大丈夫、安心してここで待ってて」
 看護婦を支えていた華艶の腕が退かされると、脚から崩れるように看護婦は床にへたり込んでしまった。
 華艶はすぐに病室の中を覗いた。
 ガタイのよい二人の男が床に倒れていた。
 俯せになった1人の男の首元は血に浸っていた。もう1人の男は片目を潰され、首から血を流して仰向けに倒れていた。
「蘇生するかな?」
 華艶は冷静と言うより、呑気に構えている。
 すぐに騒ぎを聞きつけて野次馬や病院スタッフが駆けつけてきた。
 医者がすぐに応急処置を開始する横で華艶は現場を見ていた。
 どうやら空き室だったらしく、ネームプレートもなく、ベッドが使ってある形跡もない。
 では、二人の男はなぜここにいるのか?
 他の場所でやられてここに運ばれたとは考えづらい、この場所に誘い込まれたか、呼び出されたか?
 まずは二人の身元を調べる必要がありそうだ。
 が、ぶっちゃけ華艶には関係のないことだった。
 鋭利な刃物で二人の男性が襲われた。華艶の興味を惹くほどの事件でもなかった。よくある事件だ。
 ただ、現場が特殊ではある。展開次第では華艶が首を突っ込みたくなる事件に発展するかもしれない。
 騒ぎを聞きつけて草野までやって来た。
「すみません私刑事です。何があったんですか?」
 担架に乗せられた二人の男が草野の横を抜けていった。続けて病室から華艶が出てきた。
「傷害事件、助かりそうもないから殺人事件になりそうだけど」
 華艶は親指で病室を指し示し、草野は親指の先を覗いた。
 現場に残された血痕。それは痕と言うには大きく、朱いペンキをぶちまけた感じだった。
 草野は周りの野次馬を見渡した――犯人がまだ院内にいるかもしれない。
「病院の出入り口を封鎖するように早く!」
 草野が叫んだ。
 犯人は確実に返り血を浴びていて、病室の外に出ればすぐに人の眼を惹く。
 窓の鍵はしまっている。
 草野は部屋にあったロッカーを開けた。すると中になんと血のついた白衣が入っていたではないか。
 犯人は病院関係者に変装していたのか?
 本当に病院の出入り口を封鎖できるかわからないが、されたら外に出られなくなるので、その前に華艶は急いで病院を出ようとしていた。そーゆーことに無駄な時間を取られたくないのだ。
 足早に廊下を歩き、角を曲がろうとしたとき、華艶の前に白か影が立ちふさがった。
 避けきれずに華艶は影とぶつかり、M字開脚で尻餅をついてしまった。
「いったーい」
 ワザとくさく愚痴る華艶に男の手が伸ばされた。その手を出したのは白衣を着た医者だった。
「すみません、大丈夫ですか?」
 言葉では相手の身を案じながら、医者は華艶の開かれた股間を卑猥な眼で見ていた。
 華艶は自分に向けられている左手をつかんで立ち上がった。
「だいじょぶじゃないし、お尻打ったし、パンツ見られたし」
「いや、申し訳ない」
 謝る医者は華艶の顔を見ることなく、握ったままの華艶の手を見つめていた。
「綺麗な手をしていますね」
 医者は舐めるような目つきで華艶の手を見続けている。
「3万円で手コキしてあげるけど?」
 男は口元を歪めながらニヤけていた。本当に金を出しそうな顔だ。だが、男は顔を横に振った。
「いや、結構」
 そう言って華艶の手を離した。
 何か不審さを胸に抱きながらも、その場を後にする華艶。途中で振り返ると、医者がこちらを見て笑っていた。
 そして、医者の口元はなにかを呟くように動いていた。
 その言葉を華艶が聞き取ることはなかったが、医者はこう呟いていたのだ。
 ――美しい手が見つかった、と。

《6》

 その日は結局何も収穫がなかった。
 華艶は帰路につきながらため息を漏らす。
 そろそろ情報が集まったかとモモンガに行くが、目新しい情報は何も入っておらず、被害者が発見された現場をすべて回り終えたが、やはり何も情報を得ないまま日が暮れてしまった。
 証拠は山のようにあるが、容疑者がいない。容疑者がいなければ証拠の比較検証ができない。おそらくこの事件は容疑者が浮かび上がったとき、一気に解決へ向かうような気がする。
 陽が沈もうとしているのに、まだ蒸し暑く素肌がべとつく。早く家に帰ってシャワーでも浴びようと華艶は考えていた。
 おとといこの近くで女子高生が惨殺されというのに、住宅街は静かなものだった。けれど、まだ被害者の自宅は立ち入り禁止のテープが貼られている。この家に住んでいた肉親は、近々遠くに引っ越すと耳にした。
 華艶はその家を横目で見ながら、自分のマンションに入ろうとした。その足が不意の止まる。
 狂気を孕んだ気配。
 華艶は気づいていた。一日中何者かに尾行されていた。それに気づかないふりをして、今までやり過ごしてきたが、今になって気配が強くなったのだ。
 そろそろ仕掛けて来るかと思ったが、何もアクションは起こらなかった。
 華艶は何食わぬ顔でマンションに入った。
 マンションの入り口にはセキュリティがあり、住人または住人の許可がなければ中に入ることはできない。防犯カメラも24時間駆動している。
 謎の追跡者がマンションの中まで入ってくることはなかった。
 華艶は自分の部屋に入り、すぐにバスルームに向かう。その途中で服を脱ぎはじめている。
 バスケットにTシャツを投げ込み、スカートを脱いだ。ブラはつけていない。
 ショーツに手をかけた瞬間、近くに置いてあったケータイが鳴った。
「もしもし?」
《草野です》
「なんの用?」
《今朝の病院で起きた事件のことで……》
「あっそう、で、犯人はもう捕まったの?」
《いや、それが事件は思わぬ方向に……》
「電話じゃ話しづらいなら外にご飯食べに行く?」
《外はまずいので、どこか別の場所はありませんか?》
「じゃ、うち来る?」
《それもそれで……》
 また華艶に弄ばれかねない。
「別に草野さんを今晩のメインディッシュにとか考えてないし」
 そーゆー発言をする時点で危ない。
《わかりました、あなたの家に行きます》
「じゃ30分後ね」
《1時間後でお願いします》
「じゃ45分後ね。はい、またねーバイバイ」
 ブチッっと一方的に華艶は通話を切った。
 ケータイを置いて、再びショーツを脱ぎはじめた。今日も残暑でお尻まで少し汗で湿っぽい。
 華艶は脱いだショーツをクシュクシュと丸めて、バスケットにシュートした。ちゃんと中に入ったのを確認してバスルームに入った。
 ユニットバスの広い浴槽、ゆったりお湯に浸かるのが好きだが、夏場はシャワーだけ済ませてしまうことが多い。
 コックを捻ってシャワーを出し、お湯になったのを確認して頭から浴びた。
 全身からため息が漏れる。至福の瞬間だった。
 お風呂に入っているとき、寝ているとき、ご飯を食べているとき、そんなことが華艶の至福の時間だった。だが、それしかない生活では華艶は満たされない。
 刺激的なこと。華艶は常にそれを求めている。危険な仕事をすることによって、華艶は欲求を満たしているのだ。
 華艶の欲求……それは?
 熱いシャワーを浴びながら、華艶は自らの股間に指を滑らせた。
 鼻から熱い吐息が漏れる。
 躰が熱く疼くのを華艶は感じた。とても熱い。躰の芯が煮えたぎるように熱い。
 バスルームが湯気に包まれ、乳白色の世界に沈んでしまった。
 胸の高鳴りを感じながらも華艶は股間から指を離した。まだオルガニズムに達していない。だが、華艶は肉欲を押さえ込んだ。
 シャワーのお湯が華艶の肌に触れてすぐに蒸発する。湯気ではなく、蒸発なのだ。
 お湯で躰を冷やしながら、華艶は鼓動を落ち着かせた。
 そして、しばらくして冷水に切り替えてさらに躰を冷やした。
 本気のえっちをしてはいけない。感情を入れたり、快感を感じてはいけない。それを破ると周りのモノをすべて焼き尽くしてしまう。
 何かを犠牲にしなくては、オルガニズムに達することができない。
 常に付きまとう欲求不満。それを解消するために、華艶は危険の中に身を投じていた。
 冷水を浴びていると急に電気を落ちて停電した。
「真夜中じゃなくてよかった……」
 バスルームには窓はなく、ドアの曇りガラスから差し込む微かな光が頼りだった。
 シャワーを止めて焦らずにバスルームを出た。
 バスタオルを頭に乗せて部屋の様子を伺う。すべての家電が落ちている。だが、ブレーカーが落ちる心当たりはない。
 念のためブレーカーをいじってみたが、まったく電気がつく気配はなかった。
 マンション全体が停電なのか、それとも地域全体が停電なのか?
 ベランダから外を覗いてみたが、まだ夕日が落ちる前なので、住宅街の明かりを確認することができず、どの程度の停電規模なのか知ることはできなかった。
 躰を拭いて素っ裸のままソファに腰掛けた。
普及までどのくらいの時間がかかるのか、テレビを見て時間を潰そうにも電源が入らない。
仕方なくベッドに俯せになって寝ることにした。
 目をつぶりながら考え事をする。まずは謎の追跡者について。
 徹底して気づかないフリをしていたので、相手の顔を確認することはできなった。男か女かも確認できなかったが、第六感は男だと感じていた。
 華艶に好意を持っているのか?
 好意にもいろいろ種類があるが、あまり度が過ぎると殺人につながる。
 華艶が感じたのは狂気を孕んだ気配。好意だとしても、あまりよくないパターンのほうだ。
 感じた気配から誰かに頼まれた尾行ではないと感じる。好意でないなら敵意ということになるが、その心当たりが華艶になかった。
 まっとうな生き方をしている覚えもないし、他人に恨まれる心当たりもいっぱいあるが、それでも今のタイミングで誰が?
 次にまた尾行されたら、今度は人気のないところに誘い込もうと考えた。
 そう言えば、もうすぐ草野が来る予定だ。
 大事な話があるようだったが、いったいどんな話なのか?
 病院での事件が関係あるらしいが、自分との関わりを華艶は見いだせなかった。被害者の男たちにも見覚えがないし、犯行現場をちょっと見たくらいの関わりしかない。
 いろいろ考え事をしながら横になっていたら、だんだん眠くなってきた。
「このまま寝ちゃおうかなぁ」
 約束をすっぽかそうか考えていたとき、強烈な狂気を感じて華艶はソファから跳ね起きた。
 ベランダの窓に拳ほどの穴が開き、床に何かが落ちた。
 部屋中は一気に煙に包まれる。
「煙幕!?」
 違う、視界を奪われただけでなく、躰が麻痺する感覚を華艶は覚えた。
 SWATみたいな特殊部隊でも突入してきたのかと思った。
 ガスマスクを被った男。背中には大きなリュックを背負い、手には〝ジャックナイフ〟を握っていた。
 華艶が叫ぶ。
「まさか、どうして!」
 なぜ自分のところにこいつが……。
 事件を調べている奴などごまんといるハズ。事件の核心に近づいている気はしない。ならば、それしか考えられなかった。
「次のターゲットはアタシなわけか」
 今日一日中、誰に尾行されていたのかはっきりした。
 謎のガスで通常の人間であれば完全に躰が動かなくなっていただろう。だが、〝不死鳥の華艶〟の名は伊達ではない。躰に入った毒や麻薬などを浄化する力も持っていた。
 しかし、それでもここの空気を吸い続けていては、浄化するスピードが追いつかなくなる。
 脚の痺れを感じながら華艶は逃げようとした。
 〝ジャックナイフ〟が人間とは思えぬ跳躍で襲いかかってくる。
 普段ならば難なく躱せるはずの攻撃が、思うように躰が動かない。
 華艶は口に当てていたバスタオルでジャックナイフを受けた。
 安物とは思えぬ切れ味を魅せるジャックナイフ。バスタオルが切り裂かれ、刃は華艶の肉体に向けられた。
 華艶は咄嗟に手を出してジャックナイフを受けようとした。だが、不意に切っ先が止まった。
 瞬時に華艶は悟った。敵の狙いは手だ。
 手を出すことによって鋭い刃を止めたが、ジャックナイフは華艶の腹を突き刺そうとしていた。
 躰を翻そうとしたが、自分の予想に反して躰が思うように動かなかった。
 歯を食いしばる華艶。ジャックナイフが脇腹を刺していた。
 後退しつつジャックナイフを腹から抜き、華艶は敵に背を見せて逃げた。
 部屋の中じゃ不利だ。得意の炎も扱えない。華艶は玄関を飛び出しマンションの廊下に出た。
 素っ裸のままだがこのさい仕方がない。
 上か下か、地上か屋上か?
 華艶の部屋は5階にある。その階層は華艶が飛び降りられる高さだった。
 廊下の塀に手をかけて、一気に地面に落下した。
 地面に足を付けた瞬間、荒れたアスファルトが足に刺さった。
「いったー!」
 骨もイッたついでに足の裏の肉まで抉られた。
 5階を見上げると塀から身を乗り出して下を覗くガスマスクが見えた。さすがにここまで追ってこないだろう。
 来たら来たで、ここでなら相手をぶっ殺す気だった。
 まだ折れた骨が回復しないまま、華艶は走り出していた。
 逃げたのはいいが、逃げたのは間違えだったことに気づいた。自分は〝ジャックナイフ〟を捕まえる立場だったことに気づいたのだ。
 すぐにマンションの入り口に回り込んで中に入ろうとしたが、自動ドアの前には小さな人だかりができていた。停電で自動ドアが開かないのだ。
 中には入れない。〝ジャックナイフ〟の姿は見失う。そして、素っ裸を見られた。
 自動ドアの前に立っている人々が華艶を見て見ないふりをしている。素っ裸ということもあるが、脇腹から血が流れたままだった。
 このままだとご近所さんに痴女だと思われる。華艶は焦った。
「バカには見えない服なの!」
 と叫んで華艶はその場から逃げ出した。

 華艶は車の助手席に乗っていた。
「いやぁ、草野さんに会えてよかった、うんうん」
 素っ裸のままどこに身を潜めようか考えていたとき、偶然にも華艶のところにやって来た草野と鉢合わせしたのだ。
 上下スーツを着ている華艶。ノーパンで、ジャケットのすぐ下は何も着ていない。
 横で運転する草野はワイシャツ姿で、下はトランクスだった。華艶にスーツを貸してしまったのだ。
 草野は心配そうに横目で時おり華艶を見ている。
「本当に大丈夫なんですか、刺された傷は?」
「まだちょっと出血してるけど、今日一日ぐっすり寝れば明日には直ってるから平気」
 二人はどこに行くでもなく、その辺をドライブしながら話を進めることにした。
「ところでなんかアタシに話があるんでしょ?」
「はい、病院で殺された二人の身元がわかりました」
「やっぱ死んだんだ」
「二人とも悪徳金融の社員で、どうやら病院には借金の取り立てに来ていたようです」
「ふ~ん、患者かそれとも病院関係者?」
「看護士から話を聞いたところ、新しく病院に赴任してきた外科医と揉めていたそうです」
「それで、その外科医が当然容疑者になったわけでしょ?」
「はい……」
 と、言ったきり、草野は黙り込んでしまった。この先に話の核心があるの違いない。華艶は問い詰めた。
「で、その容疑者がなんかあったんでしょ?」
「屍体が出てきました……容疑者の家に行ったところ、既に借金の抵当で押さえられ誰も住んでいなかったのですが、証拠を探して中に入ってみると……解体された屍体がありました」
「つまりその医者が〝ジャックナイフ〟の容疑者ってことか……」
「胸部が持ち去られたらしく、遺体は腐敗が激しく死後だいぶ経っているのではないかと。身元はまだ確定できていないのですが、あの病院では遺体がなくなるという事件が発生していて、おそらくその遺体ではないかと検証を進めている最中です」
「で、容疑者の行方はわかってるの?」
「いえ……それが……」
 ここで華艶は草野の度肝を抜くことを言う。
「アタシ会ったけど、2度も」
「はい!? 会ったって〝ジャックナイフ〟にですか!」
「1度目は病院で、2度目はさっき」
「なんで早く言わないんですか!」
「病院で会ったときは気づかなかったんだよねー。今思えば様子が可笑しかったし、犯人と同じ左利きだったし」
 華艶が病院で尻餅をついたとき、差し出された手は左手だった。
 話を続ける華艶。
「2度目はさっきなんだけど、部屋で襲われたとき裸だったから、そのまま逃げてすっぽんぽんで途方に暮れてたみたいなー」
「なんで裸なのかと思ったら、どうしてそれを最初に言わなかったんですか!」
「だってアタシ的にすっぽんぽんのほうが重大だったし」
ショックで草野は車を路上に止めて、ハンドルに頭を埋めて黙ってしまった。
 華艶は草野の背中をポンと叩いた。
「だいじょぶだって、きっと〝ジャックナイフ〟はアタシの前に現れるから」
 その言葉を聞いて草野は顔を起こした。
「どういうことですか?」
「奴の狙いはアタシの〝手〟だから。誰の手でもいいってわけじゃないの、あいつはアタシの〝手〟が欲しいの。それを手に入れるために、奴は必ずアタシの前に現れる……と思うんだけど」
 問題は〝ジャックナイフ〟が狙ってくる隙をつくることだった。
一度目の襲撃に失敗して、警官心を抱いていることは間違いない。二度目の襲撃は大きなリスクが伴うことから、慎重に攻めてくるのか、それともこれまでの犯行通り大胆に来るか?
 華艶としては狙われやすい状況を作ることが重要だった。
「アタシが〝ジャックナイフ〟に狙われてるって内緒ね」
「駄目ですよ!」
「だってアタシは警察と手を組む気はないし、アタシの目的は〝ジャックナイフ〟を殺すか捕まえるかして賞金を貰うことだし、本庁に連絡したりしたら協力関係は破棄するけどいいの?」
「それも困ります。けど、私の立場だってわかってくださいよ」
 板挟み状態の草野。
 草野はまだまだ新米刑事で、規律を乱すような行為を派手にすると、交番勤務に左遷されかねない。その反面、事件を解決できれば出世に繋がるかもしれない。
 しかし、そんなこと華艶には関係ない。
「アタシはアタシのやり方でやるから邪魔しないでね」
 言い出したら聞かない性格だ。ここは草野が折れるしかなかった。
「わかりました、でも無理はしないでくださいね」
「わかってるって」
 口ではそう言うが、絶対に無理をする気だ。
 ワザと狙われる時点で無理をしている。華艶はそうは思っていないが、それは命がけの行為だ。
 車は近所をグルッと回って華艶の住むマンションまで戻ってきた。
 入り口に溜まっていた人々の姿が消えていた。どうやら停電は直ったらしい。
 華艶は車を降りることにした。
「じゃ、そういうことでバイバイ」
「ちょっと待ってください服を返してくださいよ」
「返せってここで脱げってこと?」
「そういうことを言っているのではなくて、着替えてここにまた戻ってきてくれませんか?」
「めんどくさいなぁ」
本当にかったるそうな言い方だった。けれど草野としてもトランクスのまま車から出るわけにはいかない。警察官の不祥事になりかねない。
 華艶は仕方なくうなずいた。
「わかった。ここで待ってて、すぐ戻ってくるから」
「必ず戻ってきてくださいよ」
「念を押さなくてもわかってるから」
 華艶はうんざりしながら急いで自分の部屋に戻ることにした。

《7》

 不用心にも部屋の鍵が開けっ放し、これでは泥棒に入ってくれと言ってるようなものだ。
 華艶は部屋に入ったときから静かな気配を感じていた。
「ただいまー」
 ワザと大きな声を出して部屋の中を歩いた。
 すっかり日は暮れ、華艶は部屋の電気を付けた。
 特に変わったようすはない。窓ガラスが割れたままになっているくらいだ。
 華艶はなんとなく周りを見渡しながらベランダに出た。
「てゆか、どうやってここまで来たんだろ?」
 〝ジャックナイフ〟の進入路はここだった。屋上から降りてきたのか、それとも地上から登ってきたのか、どちらにしても常人のできる真似ではないことは確かだ。
「それにあの跳躍力」
 背を向けて逃げようとした華艶に襲いかかったとき、〝ジャックナイフ〟は人間とは思えないほどの跳躍力を見せた。
 人間以上の力を発揮できる可能性はいくつもある。
 まず方法として挙げられるのは、人間以上なのだから人間でなくなってしまえばいい。サイボーグ手術であったり、キメラ合成により多生物のDNAを組み込んでもいい。場合にとっては他の生物などに取り込まれる方法もあるだろう。
 他に取り込まれるという点では、超自然的な存在などに憑かれることも考えられる。狐憑きやなどが有名な例だ。
 もっと安易な方法で人間を超えたいならば、薬が1番よいだろう。ただし、副作用のあるものが多く、使用後のリスクを考えなくてはならない。
 どんな方法にせよ、人間が人間以上の力を得るためには、それ相応のリスクを背負わなければならない。
 華艶はベランダから遠くの景色を眺めた。
 すっかり日が暮れてしまったかと思ったが、遠くに微かに朱い空が見えた。
 涼しげなそよ風が華艶の髪を撫でる。今日の少し寝苦しい夜が解消されそうだ。エアコンを付けっぱなしにしながら寝る華艶には関係ないことだが。
 草野のことなど忘れたように華艶はずっと遠くを眺めていた。まるで自分の世界に入ってしまったようだ。
 刹那、華艶は振り向いて相手の腕を掴んだ。掴んだ腕にはジャックナイフが握られていた。華艶の目の前にはニットのマスクを被った〝ジャックナイフ〟が立っていた。
 〝ジャックナイフ〟のもう一方の手が華艶の頸に伸びる。すぐさま華艶はそれも受け止めた。すると今度は頭突きを喰らうわせてきた。
 華艶の軽い脳震盪を起こしながらも、〝ジャックナイフ〟の両腕を決して離さなかった。
 髪の毛の間から血をにじませながら、華艶の蹴り上げた膝が〝ジャックナイフ〟の股間を押しつぶした。
 確かに感触はあった。だが、〝ジャックナイフ〟は怯むことなく蹴り返してきた。
 強烈な膝蹴りが華艶の腹を抉る。薄い膜が張って血が止まっていた傷が、再び血を滲ませはじめた。
 ついに〝ジャックナイフ〟の両腕を握っていた華艶の手から力が抜けた。
 華艶の首筋に向かって振り下ろされるジャックナイフ。
 瞬時に華艶は〝ジャックナイフ〟を抱え込むように突進した。
 窓のサッシに踵を躓かせて〝ジャックナイフ〟がバランスを崩す。そのまま華艶は〝ジャックナイフ〟を押し倒して馬乗りになった。
 華艶の右手が炎を宿す。
「炎翔破!」
 炎を投げる遠距離ワザを近距離で放ち、炎の玉を〝ジャックナイフ〟の胸に押しつけた。
 押しつけられることによって炎は燃え上がらず、猛烈な熱が身を焦がして人肉の焼ける異臭が部屋に立ちこめた。
 大やけどを負わされながら、不適なことに〝ジャックナイフ〟は嗤っていた。
 馬乗りになっている華艶は股間に当たる硬いモノを感じた。〝ジャックナイフ〟は興奮している。剛直は華艶の割れ目に押し当てられていた。
「変態!」
 叫びながら華艶は馬乗りをやめて飛び退いた。
 華艶の視線は〝ジャックナイフ〟の股間に向けられた。立ち上がった〝ジャックナイフ〟は、おもむろにズボンのファスナーを開けて、中からパンパンに膨れあがった剛直を取り出した。
 華艶はうんざりため息を吐いた。
「1度失敗してんのにここで待ち伏せしてんのも大胆だと思ったけど、股間からそんなの取り出すなんてもっと大胆だこと……」
 この場所で待ち伏せをしていたのは大胆不敵だが、選択としては間違っていないだろう。華艶は裸のまま飛び出し、サイフもケータイもない状態だった。近いうちに戻ってくるのは明白だった。
 〝ジャックナイフ〟は片手でジャックナイフを握り、もう片手で自らの剛直を握った。
 華艶は部屋中に視線を配った。いっそのことマンションごと燃やしてやろうかと思ったが、それを思いとどまって深呼吸をした。
 この場所で華艶が炎を使うには制約が多すぎる。周りに燃え移らないようにするのが前提だった。素手で戦えばその問題は解決されるが、どうやら〝ジャックナイフ〟は痛覚が麻痺してるかどうにかしているらしい。そんな相手に素手で戦っても埒があかない。
 とりあえず作戦を思いつくまで、華艶は時間を稼ぐことにした。
「ひとつ聞いてもいいかな?」
 華艶の言葉に〝ジャックナイフ〟は何も答えない。それどころか手淫をはじめている。
 かまわず華艶は話を続ける。
「どうして女の躰の一部なんか集めてるの?」
 返事はなかった。代わりにジャックナイフを向けて襲いかかってきた。
 華艶は奥の手に打って出た。まさにそれは手だった。なんと華艶は鋭い刃を手で受け止めたのだ。
 ジャックナイフを握る手から大量の血が滲む。肉は切り裂かれ骨で辛うじて刃が止まっている状態だった。
 それを見た〝ジャックナイフ〟が叫ぶ。
「貴様、俺の手をォォォッ!」
「アンタの手じゃないアタシの!」
 炎を宿した華艶の拳が〝ジャックナイフ〟の顔面を抉るように横殴りした。
 床に大きく転がりながら、〝ジャックナイフ〟が被っていたマスクが燃え上がった。
 投げ捨てられるマスク。露わになった顔は赤く腫れ上がり、髪の毛も焦げて縮れてしまっていた。
 しかし、痛がるようすも、怯えたようすもない。
 華艶が呟く。
「やっぱ人間じゃないのか」
 もはや〝ジャックナイフ〟は怪物だ。
 華艶の目に床に落ちたジャックナイフが目に入った。殴られたときに〝ジャックナイフ〟が落としたものだ。
 ジャックナイフを取ろうと床にダイブする華艶。ジャックナイフも飛びかかってきた。だが、華艶は既にジャックナイフを握っている。
 穢れた血が華艶の顔を彩った。
 床に落ちて萎縮する肉棒。
 床に横になった体制から華艶が斬ったのは〝ジャックナイフ〟の剛直だった。
 〝ジャックナイフ〟の股間から吹き上げる血のシャワー。
「グオォォォォォォン」
 人とは思えぬ叫びが木霊した。
 華艶は反撃の隙を与えない。
 強くに握ったジャックナイフが再び肉を裂く。
 パックリと口を開けた頸が血を噴き、〝ジャックナイフ〟の口から吐き出された血の塊が華艶の顔をべっとりと穢した。
 次々と口から吐き出される血の塊と泡。
 華艶がジャックナイフを振り上げた。
「死ねクソッタレ!」
 とどめの一撃が突き刺されようとした。だが、ジャックナイフが心臓に突き刺さるよりも前に、〝ジャックナイフ〟の躰は背中から床に倒れていた。
 躰を痙攣させたまま、それ以上〝ジャックナイフ〟が動くことはなかった。
 戦いは終わった。
 胸を撫で下ろす華艶だったが、玄関の開く音がして新たな気配が飛び込んできた。
 瞬時に身構えた華艶。だが、その緊張感もすぐに解かれた。
「今さらおっそいし」
 視線の先に立っていたのは銃を構えた草野だった。しかもその格好と言ったら、ランニングシャツに、腰にはワイシャツを巻いている。無様な格好だった。
「大丈夫ですか!」
「そこでくたばってるのがたぶん〝ジャックナイフ〟」
 草野は床に横たわる男を見た。無惨な姿だった。頸を裂かれ、股間から血を垂れ流している。
「惨いですね……」
「こいつがしてきたことに比べれば、甘っちょろい死に様でしょ。てゆか、アタシだって部屋めちゃくちゃにされたし、ほら見てよ手だって切られちゃったんだから!」
 血で真っ赤に染まった手を華艶は見せつけた。まだ血は完全に止まっておらず、大きく肉が裂けていた。
「大丈夫ですか!」
「へーきーへーき、そのうち直るから」
 駆け寄って来た草野が腰に巻いていたワイシャツを奪い取り、華艶はそれを手に巻いて止血した。
 〝ジャックナイフ〟は死んだ。
「あとは持ち去られた身体が見つかれば事件解決か……」
 華艶は呟いた。

 被疑者死亡の速報がされて数日、時間の流れが早い帝都では次の事件が世間を賑わせていた。
 しかし、まだあの事件は解決されたわけではない。
 事件現場から消えた被害者の身体の一部がまだ見つかっていないのだ。
 DNA鑑定や現場の状況から、犯人が断定される日は近い。それで事件は一応の解決を見るだろう。そして、警察が本腰を入れて消えた身体を探すことはなくなる。
 華艶は今日もモモンガに通い詰めていた。
「なんかもう夏休みも半分以上過ぎちゃうしさ、学校ないとつまんないよねー」
「出席日数が毎年足りない人のいうセリフ?」
 京吾は皮肉っぽくながらシェイカーを振っていた。
 できあがったカクテルが華艶の前に置かれたグラスに注がれた。紅く透き通ったカクテルには〝華艶〟の名がついている。
 昼間は喫茶店、夜はバーに姿を変貌させるのだ。
 夜になると客の層も変わる。常連のトミー爺は姿を消し、モグリのTSや裏社会の住人、昼間は影に潜んでいる者たちの溜まり場となる。
 既に時計は深夜を回り、客たちは異様な熱を帯びはじめている。
「華艶ちゃんもこっち来て飲まないか?」
 ボックス席で打ち上げをしている男が声を上げた。華艶と同業だ。きっと報酬が入って上機嫌なのだろう。
「今日は遠慮しとく」
「そう言うなよ、こないだおごって貰った借りだからよ」
「じゃあちょっとだけね」
 ちょっとだけと言いながら、その後、華艶がグラスから手を離すことはなかった。
 夜は更け、いつの間にか閉店の時間が迫っていた。
 体質のせいか酔えない体質の華艶だが、今日はいっぱい騒げて楽しかった。酒で酔えなくても、周りの雰囲気で酔った気分になれる。
 宴も終わり、華艶は仲間たちに手を振って別れた。
 外灯が照らす町を歩き、夜の暑苦しさが嘘みたいな、涼しげな空気を肺いっぱいに吸い込む。
 虫の鳴き声が聞こえる静かな夜だった。
 近道をするために華艶は外灯のない暗く細い道に入った。
 人の気配を感じた。
 月光りの下で嗤う女の顔。
 華艶の足が止まった。
「誰?」
「あなたの手を頂戴」
 女はそう言って両腕を胸の前に出した。包帯が巻かれた腕には手がなかった。
 そして、女は急に襲いかかってきた。
 相手の正体がわからない華艶は戸惑いながら、女の両腕をつかんで押し合いになった。
 華艶は見た。薄明かりで今までわからなかった女の顔が、はっきりと見えたのだ。
「まさか……〝ジャックナイフ〟の被害者!?」
 その顔は〝ジャックナイフ〟に殺され、頭部を持ち去られた被害者の顔。
 すべてのピースがそろった瞬間だった。
 パーツを縫い合わせて一人の人間を作る。そんなことを冗談半分で言ったことがあったが、それが目の前に現実となって現れたのだ。
 人間とは思えない力で〝包帯の女〟は華艶の腕をねじ伏せた。
 華艶の目の前で開かれる〝包帯の女〟の口。その中に華艶は蠢く何かを見た。
 赤黒い触手が〝包帯の女〟の口から吐き出された。
 ねっとりと濡れた触手が華艶の首を締め上げる。
「首絞めたくらいで……死んでたまるか……バーカ」
 華艶の膝蹴りが〝包帯の女〟の腹を抉り、すかさず回し蹴りを後頭部にヒットさせた。
 よろめきながらも耐えた〝包帯の女〟に華艶は止めの一撃を放つ。
「炎翔破!」
 燃え盛る炎の玉が〝包帯の女〟の服に引火した。
「キャハハハハハ」
 炎に包まれながら〝包帯の女〟は嗤っていた。それどころか、まだ華艶に襲いかかってこようとしていた。
「あなたの手を頂戴」
 炎を巻いた腕を伸ばす〝包帯の女〟。
 華艶は口の両端を手で引っ張り、Eっと歯を見せた。
「いーっだ!」
 螺旋の炎が華艶の腕を巻く。
「焔龍昇華!」
 螺旋を巻く龍のような炎が華艶の両手から飛翔した。
 風がうなり声をあげ、巨大な炎が口を開けて〝包帯の女〟を丸呑みした。
「キャハハハハ!!」
 甲高い嗤い声が星夜に木霊した。
 炎翔破とは比べものにならない炎に焼かれ、それでも嗤う〝包帯の女〟の狂気。
 しかし、その嗤い声もいつしか聞こえなくなった。
 静かな夜に〝包帯の女〟の倒れる音が響いた。
 人の形をした黒い物体。それを見ながら華艶は頭を抱えた。
「しまった、この状況で正当防衛の立証難しいかも」
 とりあえず華艶はケータイを出すことにした。
「まずは草野さんに電話かな……。あ、もしもし草野さん、夜分遅くごめんね。実は人殺ししちゃった、えへっ」
 誰にも見られていないのに、華艶はお茶目に笑って見せた。

 消えた被害者の身体の一部が見つかり、それを丸焦げにした華艶が何かの罪で起訴されることはなかった。
 これで事件はすべての幕を下ろしたように思える。だが、これで本当に事件は解決したのだろうか?
 すべての謎が明らかになったわけではない。
 〝包帯の女〟の正体はなんだったのか?
 後日、華艶はテレビでこんなニュースを見た。
 警察庁の科学捜査班のラボから、灰だったはずの〝包帯の女〟が消えた。
 何者かが持ち去ったのか、それとも……?
 この帝都の街のどこかに、〝包帯の女〟は潜んでいるのだろうか……新たな従者[オトコ]を待ちながら。
 帝都の街に再びナイフキリングが現れる日は近いかもしれない。

 ナイフキリング(完)


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