第4話_ベイビー・オブ・フレイム

《1》

「ぅうン……あぁン……」
 水滴の付いた窓。
 温かい部屋。
 ベッドで華艶はぬくぬく夢心地だった。
 ピンポーン。
 インターホンが鳴った。
 それでも華艶は夢心地のまま、どんな夢を見ているのかニヤけていた。
 ピンポン、ピンポン、ピンポン……。
 インターホンが連打された。
 眉間にシワを寄せて、しかめっ面をした華艶が目を覚ます。
「……ウッサイ」
 時計を見るとまだ朝の5時過ぎ。たしかベッドに潜ったのは3時ごろだったような気がする。
 ピンポーン。
 めんどくさいので無視しようとベッドに潜ると、また連打で鳴らされた。
「あったま来た!」
 裸体の胸を揺らしながら華艶はベッドから跳ね降りた。
 ショーツ1枚で華艶はドアホンに出た。こちらからはドアの外が見えても、向こうは見えないのでショーツ1枚でも問題ないだろう。
「朝っぱらからウッサイのよ!」
 怒鳴る華艶はドアの外を画面で確認した。けれど、人影がない。
 悪質な悪戯だと思い、華艶は再びベッドに潜った。
 頭に血が昇ったせいか眠気は覚めてしまった。起きるにはまだ早く、華艶は下腹部に指先を伸ばした。
 ショーツの上から恥丘をなぞり、残った手で胸を揉んだ。
「うン……」
 鼻から漏れる熱い吐息。
 細い指がショーツの中に入ろうとした瞬間――ピンポーン!
 華艶の手がピタッと止まった。
 沸々と蘇る怒り。
 ピンポンピンポンピンポン!
 ベッドから飛び起きて、そのまま猛ダッシュで玄関を開けた。
「誰なの!」
 静かな廊下に華艶の声が響いた。
 ――誰もいない。
 辺りを見回しながら、気配を感じた華艶は不思議な顔で下を見た。
 自分の足に抱き付いている赤子。
 華艶と赤子の目があった瞬間、赤子は舌ったらずの言葉を発した。
「ママぁ」
 凍りつく華艶。
「な、なんであたしがママなのよ! てゆか玄関出なかったらこの子どうなってたか……」
 玄関を出なかったら何度もインターホンを鳴らされた。裏返せば、出るまで鳴らしていたことになる。
 つまり――。
「近くにいる」
 改めて辺りを見回すと、階段の影に人影があった。しかもこちらの様子を窺っている。
 華艶に気付かれたと知り逃げ出す人影。
 まだ顔を確認していない。逃がすわけにはいかなかった。
 華艶はトップレスのまま走り出した。
 が、すぐに足が止まった。
「寒ッ!」
 急に思い出したように寒さが華艶の肌を刺した。人に裸を見られても恥ずかしくはないが、恥ずかしいのとご近所さんに変質者と思われるのは違う。さすがにショーツ1枚で追跡はできなかった。
 プラス赤子が華艶の足にしがみ付いている。
「まったくもぉ!」
 しかたなく追跡を断念して、華艶は赤子を出して部屋に戻った。
 リビングのソファに腰掛けて、抱いた赤子の顔をまじまじと見つめる華艶。
 愛くるしい瞳に華艶の姿が映りこむ。
「ママぁ」
「だからあたしはママじゃないし」
 赤子は生まれたばかりというわけもなく、だいたい1歳ぐらいだろうか。華艶の足にしがみ付いて立っていた様子から、つかまり歩きくらいはできそうな気がする。
 難しい顔をしながら華艶は天を仰いだ。
「ムリしてでも追いかけたほうがよかったかな……」
 華艶の目は赤子の背負っていたミニリュックに引かれた。
「その中になにが入ってるのかなぁっと」
 リュックを開けると、離乳食が少々と、1通の封筒が入っていた。
 封筒の中には現金5万円と1枚の手紙。
 手紙にはこう書き記されていた。
 ――しばらく預かってて頂戴。PS.他人に預けようなんて考えたらコロスから、アンタがちゃんとめんどうみるのよ。
 手紙を読み終えた華艶がボソッと呟く。
「なんか……この文面、てゆか口調……覚えがあるような……」
 華艶は時計を見た。
 まだ5時過ぎで、8時くらいになったら学校に行かなくてはいけない。
「他人に預けるなって言われてもなぁ」
 学校に子供連れで通うわけにもいかない。
 誰かに預かってもらおうと思ったが、その瞬間刺すような寒気が……。
 ――コロスから。
 そんな脅迫文に怯えるような華艶ではない。しかし、あの文面、あの文字だけには、なぜか屈服した。
「これは学校を休めって神託ね!」
 と、学校をサボろうと考えたが、出席日数が、進級が……なんか手遅れな気がしないでもないけど、ヤバイ。
「よし!」
 やっぱり赤子を学校に連れて行くことを決意。
 でも、どうやって連れて行くか?
 バッグに押し込んで連れて行く?
 ここで華艶はひらめいた。
 ちょうどいいリュックがあったような気がする。頭がちょこんと出てちょうどいいような気がする。
「そこで大人しく待ってて」
 赤子をソファに残して走り出す華艶。
 そして、リュックを掴んで部屋に戻って来た。
「……消えた」
 赤子の姿がない。
『では、次のニュースをお伝えします』
 そして、つけてもいないテレビがついていた。
 ソファの後ろから気配がした。
「そこか!」
 そのまま走ってソファの後ろに廻ろうとした華艶の足がピタッと止まる。
 華艶の瞳に映し出される光景。
 お札の噴水だ。ついでに小銭も宙を飛んだ。
「あーっ、あたしのサイフ!」
 赤子によって華艶のサイフの中身をぶちまかれていた。
 空を舞う札束、床を転がる小銭たち。
「ダメでしょ、そんなことしちゃ!」
 華艶は慌ててサイフを取り上げ、赤子を抱き上げた。
 赤子は無邪気に笑っている。
「ったく、親の顔が見てみたい」
「ママぁ」
「あたし、アンタの親じゃないから!」
「ママぁ」
「……はいはい」
 ため息をついて華艶は床を眺めた。
 小銭が遠くまで転がってしまっている。全て拾うのは一苦労だ。
 現金主義の華艶は普段から大量の現金を持ち歩いている。それが仇となった。
 とりあえずお金を拾うのはあとにして、この赤子をどうにかしなければいけないだろう。
 華艶は持ってきたリュックの中に赤子を押し込めた。顔がちょうど出る感じで、大きさ的には問題なさそうだが、少し窮屈そうだ。そこで華艶はリュックの底に2つの穴を開けて、赤子の足が出るようにした。
「完璧」
 が、背負ってみると結構重い。
 しかも、赤子は足をジタバタさせ、踵蹴りが華艶の背中に炸裂。
「ちょっと暴れないでよ」
「ママぁ」
「……はいはい」
 もう頭を抱えるほかなかった。
 無言で床に散らばるお金を拾う華艶。
 学校に登校するまでには、まだまだ時間がある。

 マンションを出るまでにも何人かとすれ違い、変な目で見られた。
 学校の制服を着て、自転車を漕ぐ華艶の姿。背中にはもちろん赤子がいる。
 やっぱり学校に行く判断は間違えだったのでは……と華艶の頭に過ぎる。
 学校に近づけば近づくほど、同じ学校の生徒たちが増えてきた。
 なるべく周りの視線を無視して、華艶は自転車を停めてさっさと教室に向かった。
 教室に入った瞬間、生徒たちの視線が華艶――というより赤子に向けられ、みな口を閉ざして時間が止まった。
 そして、魔法が解けたように時間が動き出した。もちろん華艶の存在は〝無い〟ことになっている。
 いつもと違う教室の雰囲気を肌で感じながら、華艶は無言で席についた。
 触れてはイケナイ他人の傷を見るような、そんな視線を華艶は感じた。
 誰かが最初に声をかけてくれれば弁解もできるのに、触れてはイケナイみたいな空気が流れているせいで完全にシカトされている。
 こんなにまで誰も華艶に触れないのは、みんなこう思っているからだ。
「うわーカワイイ! これ華艶の隠し子?」
 華艶の友人の碧流[アイル]だった。
 慌てて華艶は弁解する。
「違うってば、誰かの子かわかんないんだけど、なんか押し付けられたっていうか……」
「誰の子かわかんないって、行きずりの男ってこと?」
「そーゆー意味じゃなくて、朝玄関開けたらいた……みたいな」
 弁解の機会を与えられたのに、しどろもどろの華艶。
 教室にいた生徒たちは確信を得た。
 ――やっぱり華艶の隠し子なんだ、と。
 普通だったらジョーダンに聞こえる内容でも、華艶を知る者たちにとってはジョーダンに聞こえない内容だった。
 そして、止めの一撃。
「ママぁ」
 無邪気な赤子の声が教室に響いた。
 今まで耳だけ傾けていた生徒たちの視線が一気に華艶と〝その赤子〟に向けられた。
 華艶は勢いよく席を立った。
「違うってば、みんな誤解しないでよ。あたしがいつ妊娠してたっていうの?」
「ママぁ」
「だーっ、違うから、違うし、人工妊娠で他人に生ませたとかいうのも違うし、とにかくあたしの子供じゃないから!」
 ゼーハーゼーハー息を切らせながら、華艶の額から変な汗が流れた。
 そんな必死な華艶とは対照的に、にこやかに碧流は赤子とじゃれ合っていた。
「この子名前なんていうの?」
「知らない」
「目元とか笑い顔とか、華艶にそっくり。やっぱり華艶の子じゃないの?」
「だから違うって、何度言えばわかんのよ!」
 もうウンザリだ。
 やっぱり学校に登校したのは失敗だった。
 しかし今年も留年するわけにもいかず、赤子を預けようにも――コロス。脅迫を受けている。
 板ばさみ状態の華艶。
「ママぁ」
 と、また呼ばれ、板ばさみというか四面楚歌。
 碧流はいつの間にか赤子を〝たかいたかーい〟して遊んでいた。
「この子女の子だよね? 華艶の子供だからカエンJr.とかでいいよね、ねっ?」
 勝手に赤子の名前をつけられ、華艶はため息をつくばかりだった。
「ジュニアってあたしの子じゃないって……」
 最後まで言う気力すらなかった。
 それでもなんとか1時限目の授業がはじまり、教師が教室に入ってきた。
 教壇に立った教師に視線が華艶に向けられる。
 そのまま教師は華艶の近くまで歩み寄り、カエンJr.にツッコミ入れようとした瞬間、無言で華艶がガンを飛ばした。
 教師は背中に汗をかきながら、なにも見なかったことにして教壇に戻っていった。
 そのまま授業はただならぬ雰囲気の中で進んだ。
 だが、そのまま授業は終わってはくれなかった。
 少しずつ生徒たちがざわめきはじめた。
 華艶の周りの先に座る生徒たちが、嫌そうな顔をして鼻をしきりに触っている。
 異臭騒動勃発。
 シャーペンを握っていた華艶の手が止まる。
 まさかと思いながらも、それしか考えられなかった。
 そのとき、ポケットに入れていた華艶のケータイが震えた。
 コッソリ確認してメールを開くと、同じ教室にいる碧流からだった。
 ――華艶ちゃん18歳にもなってお漏らしでちゅか?びゃははは (≧ω≦)b
 笑い事じゃない。
 速攻で華艶はメールを返信した。
 ――あたしなわけないでしょ!
 顔文字を使う心の余裕すらなかった。
 華艶が碧流に顔を向けると、意地悪そうにクスクス笑って華艶を見ていた。
 ――みんな(((‥ )( ‥))) ソワソワしてるから、早くおしめ替えてきなよ。
 ――わかってるってば!
 送信ボタンを押して、華艶はゆっくりと挙手しながら立ち上がった。
「先生、ちょっとトイレ……」
 華艶じゃなくてカエンJr.が――。
 教師の返答を聞く前に華艶は教室をダッシュで飛び出していた。芳しい臭いを残して。

 カーテンで仕切られた保健室のベッドで、二人の女が授業中だというのに淫らな行為に耽っていた。
 制服を着たままパンティだけを脱がされ、四つん這いでケツを突き上げた女子生徒。
 女子高という隔離された世界では、風紀が乱れ、そのような女子生徒同士の関係が築かれることもあるだろう。
 しかし、女子生徒のケツを叩いて淫らに微笑んだのは、生徒ではなく保険医だった。
 白衣を着たまま、スカートとショーツを脱ぎ捨て、股間には男性のモノを模ったペニバンを装着していた。
 ペニバンはすでにねっとり濡れ、すでに女性のナカで仕様した後だった。
 女子生徒とは少しぐったりとした様子で、横顔をベッドに埋めている。
「先生……もぅ……わたし……はぁはぁ……」
「まだまだダメよ」
 倒錯感に浸りながら保健医はベニパンを手でしごいた。
 ベニパンに大量の唾液を垂らし、保健医は女子生徒の尻の谷間をなぞった。
 急に女子生徒が眼を向く。
「先生、ダメ、そこは!」
「ふふふ、そろそろココも開発してあげましょうね」
 ベニパンの先端がすぼまった肛門に押し付けられていた。
 そして、ぐりりっと一気に突貫された。
「ひぃ~っ!」
 甘美な悲鳴を聞きながら、保健医は女子生徒の太腿を掴んでさらに奥へと挿れた。
 括約筋に締め付けられる感覚を直接感じることはできないが、倒錯の中で保健医は恍惚な快楽を感じていた。
「いいわ、最高よアナタ」
「ひっ、抜いてください。裂けちゃう、裂けちゃいますぅ~!」
「少しくらい切れても平気よ、いい薬出してあげるわ」
 保健医は尻を叩きながら笑っていた。
 白い桃尻に真っ赤な楓の痕が残る。
 そして、保健医は腰をスライドさせはじめた。
「あら、奥でなにかが詰まってるみたいね」
「ダメです! やめて!」
 女子生徒はシーツをきつく握り締め、必死に悶え苦しんでいる。
「うぐぅ、ひぃ……あぁっン!」
 ぎゅるるるぅ。
 女子生徒の腹が奇怪な悲鳴をあげた。
「先生、漏れます、漏れちゃいます」
「ちゃんとフタをしてあげてるから平気よ、でもコレを抜いたらどうなるのかしらね」
 保健医は意地悪に微笑んだ。
「もうダメ!」
 と、女子生徒が叫んだのと同時だった。
 保健室のドアが勢いよく開き、仕切りのカーテンが開かれた。
「授業中になにやってんだか……」
 呆れたように言ったのはカエンJr.を背負った華艶だった。
 突然の出来事に女子生徒の気が緩み、ペニバンが押し出されそうになった。
「イヤ!」
 漏れそうになった肛門をきつく締め、女子生徒は蒼い唇をわなわなと振るわせた。
 平常時の顔つきで、何事もしていないように、保健医はさらりと華艶に尋ねる。ベニパンは挿れたままだ。
「なんのようかしら?」
「この子がお漏らししちゃって、とりあえずここに連れてきたんだけど……」
 華艶の眼は女子生徒に向けられていた。
「漏れます、先生漏れちゃいます!」
 こちらも漏らしそうだった。
「仕方ないわね」
 と、保健医がペニバンを抜こうとしたのを女子生徒が必死に止める。
「抜いたら漏れます!」
「漏らしたらアナタが掃除するのよ」
「だから抜かないで!」
 ぎゅる、ぎゅるるるぅ~。
 再び奏でる奇怪な悲鳴。
 保健医が抜かなくとも、ペニバンは今にも押し出されそうだった。
「先生、抜かないで! ディルドをディルド部分だけ外してください!」
「仕方ないわねぇ」
 保健医はペニバンの男性を模った部分だけを取り外し、解放された女子生徒は肛門にモノを差し込んだまま、無様に尻を押さえて保健室を小走りで出て行った。
 女子生徒のいなくなった部屋で保健医がボソりと呟く。
「臭いわね、漏らしたのかしら?」
「あたしの話聞いてた?」
 改めて華艶は背中に背負っていたカエンJr.を保健医に見せ付けた。
「なにその赤ちゃん? ここは育児所じゃないのだけれど?」
「とにかくこの子が漏らしちゃったみたいで」
「それでどうして保健室に来るの?」
「だからー、それは他に行くところがなかったからでー」
「ふ~ん、だったら早くおしめ替えてあげないさいよ」
「替えなんて持ってないし」
「ふ~ん」
 と、言ったきり、保健医はショーツを穿き、何事もなかったように丸椅子に座って事務をはじめた。
 華艶シカト!
「ちょ、ちょっとなんか手伝うとかしてよ!」
「どうしてわたしが?」
 真面目な顔で保健医は華艶の瞳を見つめた。しかも、いつの間にか掛けた眼鏡で真面目ドアップだ。
「困ってる人を助けてあげようって精神はないわけ? それでも保健室の先生!?」
「これ、仕事だもの」
「……はいはい、そーですね」
 華艶も人をいたわり、困っている人を助ける精神はない――ノーギャラでは。
 カエンJr.をテーブルに降ろし、頭を悩ませながら華艶は辺りを見回した。
 そんな華艶に保健医は仕事をしながら、棚の上を指差した。
「たぶんそっちにトイレットペーパーが積んであるでしょ、とりあえずそれ使いなさい」
「……少しはいいとこあるじゃん」
「ウェットティッシュはそっちね、ゴミは青いゴミ箱よ。赤と黄色のゴミ箱に捨てたら怒るわよ」
「はいはい、わかりましたー」
「そこにある流し台使ってもいいけど、使ったら丹念に洗うのよ。うんちとか残ってたら殺すから」
「……はいはい」
 華艶はトイレットペーパーをカエンJr.の横に置いて、さっそくおしめを脱がしはじめた。
「やっぱり臭い」
 大人に比べればそうでもないが、母乳から離乳食に切り替わった子供のは臭くなる。
「やっぱり女の子だったんだ」
 股間に〝無い〟ことを確認して華艶は深く頷いた。
 将来、カッコイイ男になる可能性が失われ、華艶は少しつまらなそうだった。
 丸椅子を回転させ、保健医がこっちを向いた。
「やっぱりうんちを拭いたトイレットペーパーはトイレに流しなさい。ウェットティッシュは青よ、青。それからおしめはビニール袋に入れて青よ」
「……はいはい」
 まるで小うるさい小姑のようだ。どうも親切で言っているようではない。

《2》

 ジャーッとトイレの水を流して、すべての処理を終えた。
「さてと、これからどうしたものか……」
 背中にはリュックに入れられたカエンJr.
 おしめを捨ててしまったのでノーパンだった。
「おしめってどこで売ってるの……スーパー、コンビニ……じゃ見たことないかな……ああ、薬局?」
 もう教室に帰る気ゼロだった。
 足も下駄箱に向かっている。
 廊下の前方から、掃除用具を入れたカートを押しながら、深めに帽子を被った清掃員が歩いてくる。
「ご苦労様~」
 と、軽く挨拶をした華艶はそのまますれ違おうとした。
 しかし、そのとき強い殺気を感じた。
「うわおっ!」
 海老反りした華艶の鼻先をモップが抜けた。
 すぐに体制を立て直して華艶は飛び退いて間合いを取った。
「アンタ何者!」
「まさかこんな仕事を請けるとはね」
 深めに被っていたいた帽子を投げ捨て、長い黒髪が靡いた。
 その者の顔を見た華艶が嫌そうな顔をする。
「どうしてアンタがあたしの命を狙うわけ?」
「別にあなたの命を狙ってるわけじゃないだけどぉ」
 同業者だった。
 ゴスロリをしたTS[トラブルシューター]の〝オカマ〟としてその道では有名だ。今日は清掃員の格好をしてゴスロリではない。
 其の名は夏凛[カリン]。
「その赤ちゃんを譲ってくれな~い?」
「どうして?」
「クライアントがそれを望んでるから、お・ね・が・い♪」
「ヤダ。てゆか、それって誘拐でしょ、ゆ・う・か・い。正規のTSがそんなことしていいのかなぁ。免許停止されちゃうかもよぉ」
 脅しをかける華艶だが、夏凛はそんなこと鼻にもかけない。
「自称親からの依頼だもん。免許停止されそうになったら裁判起こしてどうにでもするもん」
「相変わらずやり方が汚い、それでも政府公認のTSか……」
「モグリのあなたに言われたくない」
「低学歴のオカマに言われたくないしー」
「カマじゃないって何度も言ってるでしょう。この尻軽女!」
 いつの間にか口喧嘩に発展しそうだった。
「みんななんか勘違いしてるみたいだけど、あたしそんなに尻軽じゃないしー。てゆか、アタシのほうが年上なんだから、もっと敬うとかないわけ?」
「だったらぁTSの先輩として、ランクも上のアタシを敬うとかしてくれないかなぁ?」
「ランクが上でも、あたしより低学歴じゃムリ、みたいな」
「低学歴低学歴って、あなただってたがが高校生のクセに。しかも留年してるとか聞いちゃったけどぉ」
「留年してようがなんだろうが、お嬢様学校に通ってること変わらないでしょ!」
 夏凛が鼻で笑う。
「ふん、お嬢様学校? ただお金持ちが多いだけでしょう。お嬢様とお金持ちは次元が違うの、ここの生徒は問題児や不良が多いって有名よねー」
「うっさい、カマ!」
「ボキャブラリーが貧困だから、そんな罵声しか口から出ないのね。哀れ哀れ」
 だんだんと夏凛の口調は毒気を含んでいた。こっちが本性に違いない。
「カマカマカマ!」
「言いたいことが済んだら赤ちゃんを渡して頂戴ね」
「いーやーだ!」
「なら力ずくでやるもんねーだ!」
 モップをまるで槍のように扱い夏凛が攻撃を仕掛けた。
 その程度の攻撃を避けるなど容易い。だが、いつもと違って動きに制限があった。
「重いし、動けない」
 背中にカエンJr.を背負った華艶に分が悪い。
 しかも、校内で問題を起こすと、いろいろ困る事態が起こる。
 逃げるしかない。そう華艶は強く思った。
 廊下を逃走する華艶。下駄箱はすぐそこだ。
 上履きを履き替えているヒマはなかった。そのまま華艶は下駄箱を飛び出し、後ろを振り向くことなく自転車置き場に向かった。
 追う夏凛は出遅れていた。理由は見た目でわかる。白いレースの裾を揺らしながら、夏凛はゴスロリ姿で華艶を追っていた。わざわざ着替えたのはポリシーの問題だ。
 その間に華艶は自転車に乗り、門を突破していた。
 しかし、そこで待ち受けていた更なる刺客。
 ガラの悪い男たちがどこからともなく華艶の前に立ち塞がる。
 校外に出てしまえば、多少の問題は起こせる。
「炎壁[エンヘキ]!」
 炎の壁を作り刺客の視界と行く手を阻む。さすがの華艶も自分の通っている学校の前で人を焼くわけにいかない。
 更なる逃亡を計る華艶。
「ったく、なんであたしが追われてるわけ?」
 どうやら刺客はカエンJr.を追っているらしいが、その理由はまだわからない。
 状況が把握できていない現状では無駄な戦いはしていられない。たとえ追ってくる相手が悪人面でもだ。
 華艶を追ってくる男たちは車に乗り換え追ってくる。入り組んだ道や細い路に逃げ込めば巻けそうだ。
 だが、刺客は男たちだけではない。
 物陰から自転車に乗る華艶に夏凛が飛び掛る。
 危険を顧みない無茶な行動だが、それは確実に華艶を捉え、自転車を横転させた。
 華艶は抜群の運動神経でカエンJr.を庇い、瞬時に立ち上がり罵声を吐く。
「ちょっとこの子が怪我したらどうすんのよ!」
「あなたがちゃんと庇うの計算済みぃ」
「そんな危ない賭けしないでよ!」
 黒塗りの車が停車し、男たちが降りて来る。もう追いつかれてしまった。
 逃げ場はいくらでもあるが、逃げられるかは別問題。
 戦う力はあるが、人間相手の戦いは避けたい。
 華艶の技は炎を主体とするために、常に殺傷力を孕んでいるのだ。
「過剰防衛で警察にパクられるのイヤかなぁ」
 襲い掛かってくる〝人間〟を全て殺していくなど、いくら犯罪都市と悪名高い帝都でも、そんなバカな真似をする者はいない。
 帝都にも法がある。
「よし、かかって来い!」
 ファイティングポーズを華艶がした瞬間、男たちが一斉に銃を抜いた。
 華艶の頬を冷や汗が流れた。
 そもそもカエンJr.を背負ったまま戦えるハズがなかった。
「わかったから銃を下げて、もう抵抗しないからこの子も渡すから」
 華艶はリュックを降ろすそぶりをしながら、その視線は遠く前方を見ていた。
 トラックが来る。
 今だ!
 華艶はトラックの荷台に飛び移った。
「バイバ~イ!」
 悪戯な笑みで手を振る華艶。
 男たちと夏凛はすぐさま車に乗り込み華艶を追う。
 車はすぐにトラックの横につけ、助手席の窓から銃口がトラックの運転手を狙った。
「すぐに車を停めろ!」
 急ブレーキを踏まれたトラックは標識にぶつかりながら停まった。
 すぐに男たちはトラックの荷台を調べるが、華艶とカエンJr.の姿はどこにもなかった。
 首を傾げる夏凛。
「あのときかなぁ。1回曲がってトラックを見失ったとき」
 華艶を探すべく、夏凛は再び車に乗り込んだのだった。

 コーヒーの匂いが染み付いた店内。
 客の少ない喫茶店で、マスターの京吾はいつもの感じで――ただし裏口から客を迎えた。
「いらっしゃい、華艶ちゃん」
「すごっ、なんで振り向かないでわかるわけ?」
 そう、京吾はカウンターの裏から現れた華艶の顔を見ることなく当てたのだ。
「華艶ちゃんはうちの常連さんだからね」
 と、京吾は爽やかに微笑んだ。春の日差しのような笑顔だ。
 華艶はパンツを見せながらカウンターを飛び越えて、丸い回転椅子にどっしりと腰掛けた。そしてすぐに注文をする。
「いつもの」
「すぐに淹れるね」
 安物のコーヒーメーカーでゆったりとコーヒーを沸かす京吾。その視線は華艶の背負うカエンJr.に向けられていた。
「その子、華艶ちゃんの子かい?」
「そのジョーダンもういらない」
 もうさんざん学校で疑惑をかけられた。
「なら誰の子なのかい?」
「知らない」
 と、言った瞬間、次に返ってきたのは、
「ママぁ」
 だった。もちろんカエンJr.だ。
 慌ててカエンは否定する。
「違うから断じて違うから、妊娠してるあたし見たことある?」
「ないね。代理妊娠してもらったのかい?」
「だ~か~ら~、あたしの子供じゃないから」
「ママぁ」
 またカエンJr.だ。
 もう否定する気力もない。
 京吾はおもしろそうに言う。
「なかなか興味いね。どうして赤ちゃんの世話をすることになったのか、教えてくれないかい?」
「まあ、簡単に話すと――」
 それから数分間、華艶は簡単に自分が置かれた状況を話した。
 すべて話し終えたところで、忘れていたようにコーヒーが出された。
 コーヒーを飲みながら華艶はカウンターに片肩肘をついた。
「もぉやんなっちゃう。子供は押し付けられるし、変な奴等に追われるしー」
「そういえば、さっき華艶ちゃんを探して変な男たちが尋ねに来たよ」
「なんでそんな重要なこと黙ってたの!」
 勢いをつけて華艶は立ち上がった。
 もしかしてのことも考えて、華艶は裏口から店に入ってきたわけだが、その時点で教えて欲しかったものだ。正面から入って来ない時点で、トラブルを抱えているのはわかるだろうに。
「まあまあ、コーヒーでも飲んで落ち着いて」
 なだめられて華艶は顔をプイッとさせながら席についた。
「で、その男たちはどんな感じだったの?」
「華艶ちゃんの写真を僕に見せて、〝来てないか、来たら教えろ謝礼は弾む〟ってさ」
「他には?」
「いや、他にはなにも」
「他にもなんか言ってたでしょ? てゆか、情報屋なんだからなんか情報つかんでたりしないわけ?」
「さっぱり」
 と、そのまま京吾はボックス席に1人で座る老人に顔を向けた。
「トミーさんはなにか気になった点ありました?」
 呼ばれた名前は洋風だが、顔は生粋の日本人だ。ただ、服装は19世紀のロンドン、シャーロック・ホームズの時代の人間のようだ。
「葉巻の匂いがしたな。奴等が葉巻をやるとは思えんから、同じ車に乗っておった親玉が吸ったんじゃろうな」
「なんで同じ車ってわかるわけ?」
 華艶はいつの間にかトミーの目の前に座っていた。
「この窓から車が見えたからじゃ」
 トミーの座る席からは、外の道路をよく見ることができた。
「ナンバー見た?」
「いや、じゃが葉巻の銘柄ならわかるぞ」
「トミーさんの葉巻自慢とか別に興味ないから」
 トミーはつまらなそうな顔をした。
「では、結論から言うぞ。おそらくその赤ん坊を狙っているのは都議会議員の朽木じゃな」
 どんなヒントから灰色の脳細胞はその答えを導き出したのか?
 この老人のこの才能に、華艶はいつも驚かされるが、いつもさっぱりだ。
「どうしてわかるわけ?」
「車は都の公用車じゃった。そして、決め手は葉巻じゃな」
 トミーはテーブルの端で折りたたまれていた新聞を広げ、何ページか捲ると、とある記事の写真を指さした。
「この男が朽木じゃ。そして、手に持っているのが葉巻、わしが嗅いだ香りと同じ銘柄じゃな」
「珍しい葉巻なの?」
「そうじゃな」
 華艶は身を乗り出してトミーの顔をじっと見た。
「ほんとぉ~~~に、朽木なの?」
「決め手となるヒントはまだあるぞ、この男じゃ」
 トミーは先ほどの写真を再び指さした。
 この写真は朽木が報道陣から逃げるようにしている写真だった。その朽木を庇うようにガードしている男をトミーは指していた。
 いつの間にか京吾もカウンターから出て、写真をまじまじと見ていた。
「あーっこの男だよ、さっきここに来たの」
 京吾はガタイの大きかった男のことを思い出した。
 そして、トミーはさらに見切れて、腕だけ写っている写真を指さした。正確には時計を指さしていた。
「ここに来たもう一人の男がしていた腕時計じゃな」
 ここまで来ると関心するというより呆れてしまう。華艶はポカンとした。
「……目ざとすぎ」
 トミーの記憶違いでない限りは、ここまで証拠が揃えば99パーセント朽木の線で決まりだろう。ここの常連同士である華艶がトミーを疑う余地はない。
 華艶は新聞を奪い取り、その記事を読みはじめた。もちろん朽木の記事だ。
 事件はとある女子大生の死から、世間に公のものとなった。
 被害者の名前は非公開とされているが、ネット上では顔も名前も、その〝行為〟すらも配信されてしまっている。
 レイプ、画像配信、そして自殺。
 遺書にレイプ犯の名前は記されていなかった。警察の調べにより朽木の名が浮上するが不起訴、その後に遺族が訴えを起こした。
「で、なんでこの子が狙われるわけ?」
 華艶はカエンJr.を抱っこして、目と目を合わせた。
 被害者の子供であれば、DNAを調べて有力な証拠となるのは間違いないだろう。
「事件っていつ起きたの?」
 聞きながら華艶は改めて記事に目を通す。残念ながら記載はなかった。
 華艶に顔を見合わされた京吾は横に首を振り、トミーは首を傾げながらこう答えた。
「たしか被害者の女子大生が自殺したのは1年以上前だったかの?」
「びみょー」
 華艶はそう言ってため息をついた。
 ここで3年前とでも言ってくれれば、確実にこの子供は被害者の子供ではない。
 カエンJr.と仮称で呼ばれるこの赤子は、およそ1歳ちょっと。多く見ても2歳だろう。つまり、2年以上前に被害者が自殺をしていれば、この子供は被害者の子供ではないとなる。
 そして、2年に妊娠期間を足した年数、それ以前にレイプ事件が起きていた場合も、この赤子は被害者の子供ではないと推測される。
 再びカウンターに戻る華艶。
「ったく、どうしたもんかなー」
 都議会議員の朽木が関係しているとわかっても、どこまで踏み込むかが問題だった。
 相手が悪の組織だったら、単純にぶっ潰せば済む問題だが、法律的に白またはグレーの相手を叩けば、叩いたほうが逆に袋叩きになる。相手は権力を持っていればなおさらだ。
「やっぱり今のところ逃げ回るしかないのかなー」
 なんていうのは華艶の性格上、難しい。
 カエンJr.を背負いなおし、華艶はカウンターに小銭を置くと、喫茶店をあとにした。
 どこに行くかは決めていない。
 とりあえず華艶は適当に歩き出した。

 喫茶店を出てすぐに華艶は手を叩いて思い出した。
「そうだ、オムツ買わなきゃ」
 カエンJr.はまだノーパンのままだった。赤子とはいえ、レディに対する扱いではない。
 駅近くにドラッグストアがあったような気がする。そこにだったらオムツも置いてあるかもしれない。
 なんとなく駅に向かって歩き出すと、カエンJr.が足をバタつかせて華艶の背中を踵で蹴りはじめた。
「ママぁ、ママぁ!」
「はいはい、なんですか?」
「ママぁ!」
「だからなに……イタッ!」
 髪の毛を引っ張られた。
「言いたいことがあるならハッキリ言いなさいよ!」
 怒りながら華艶は背中に首を向けた。向けたと言っても、カエンJr.の手が見えるくらいしか首は回らない。
「それ以上暴れるとベビーカーに縛り付けるから!」
 そんなことを言ってみたものの、実際はベビーカーを使うとなると動きが制限される。追っ手が来たらベビーカーなど押していられない。
 たとえば今のような状況。
 黒いジャケットを着た2人組みの男が、華艶の後ろから迫って来ていた。
 すでに華艶はその存在に気付いている。相手の出方を窺っているのだ。
 なに食わぬ顔で華艶は駅前まで歩き続けた。ひと目の多い場所では、あちらも襲って来られないのかもしれない。
 学校で襲われたときも、夏凛は学校内に変装して侵入してきたが、他のものたちは学校の外で待機していた。
 駅近くの通りは学校前に比べて、明らかに人通りが多い。
 華艶はドラックストアの前を通り過ぎた。
 荷物が増えれば逃げるに邪魔になると判断したからだ。
 そのまま華艶は歩き続け、少し狭い路地に入った。後ろからはまだ男がつけてきている。人通りもなく、そろそろ頃合かもしれない。
 ジャケットの内に手を入れた男が前から歩いてくる。後ろからも同じような雰囲気を纏った男が迫って来る。
 挟み撃ちにする気だ。
 華艶の足が止まる。
「きゃー強姦。とでも叫ぼうかな」
 ヤル気なさそうに華艶は言った。
 ジャケットに手を入れていた男が拳銃を取り出した。
「その赤ん坊を渡してもらおう」
「なんで?」
「知る必用がないことだ」
「あっそうですかー」
 両サイドから詰め寄ってくる男は2人。華艶は2人が見えるように壁に背を向けて、左右に男たちを捕らえた。
 1人は素手、1人は拳銃。
 口径の小さな銃で、弾丸は肉体を貫通しそうにない。
 撃ってくるかもしれないと華艶は思った。
 正しく華艶にヒットすれば、赤ん坊は無傷だろう。けれど、狙いが外れる可能性もある。
 大きなリスクを負うはずがないと華艶は動いた。拳銃に背を向け、素手の男に殴りかかったのだ。
 カエンJr.を盾にして、華艶は素手の男の鼻をへし折った。よろめく男から目を離し、華艶は中段の回し蹴りを放った。
 蹴りは背後から迫って来た男の手にヒットして、拳銃を空に大きく飛ばした。
 鼻血を出した男が襲ってくるが、華艶は空かさず裏拳でもう一度鼻を粉砕してやった。
 今度は鼻だけでなく歯もへし折られ、男はノックダウンして倒れた。かわいそうに、アスファルトに後頭部をぶつけた。
 残る男は懐から折りたたみ式の電磁ロッドを出した。
「ぶっ殺してやる!」
「アンタばか? 電磁ロッドなんか使ったら、身体の小さい赤ちゃんがどうなるかわかるでしょ」
 強い電流が華艶の身体に奔れば、背負われているカエンJr.にも被害が及ぶ。
 華艶の助言が効いたのか、男はスイッチを入れずに電磁ロッドで殴りかかってきた。
 その瞬間、華艶はワザと背を向けた。
 男は慌てて振り下ろすロッドの位置を修正して空振った。
 バランスを崩して顔を地面に向ける男の後頭部に、華艶の踵落としが叩きつけられた。
 そのまま男はアスファルトに顔面を強打した。
「痛そ」
 まるで勝手に転んだみたいな口ぶりだ。
 華艶は視線を感じて振り向いた。
 見知らぬオバサンが慌てて華艶から姿を隠した。
「ヤバ、見られてた?」
 警察に通報される前にさっさと逃げたほうがいいかもしれない。
「さーてと、オムツでも買いに行こう」
 呑気な口調とは裏腹に、華艶は猛ダッシュで路地から姿を消した。

《3》

 飛んで火に入る夏の虫――輝きに引き寄せられた夏の虫が、炎で焼け死ぬことから、それを例えて自ら進んで災いに飛び込む様。
 華艶はそれをしようとしていた。
「もしもし仕事の依頼をしたいんですけどー」
「希望のTSはありますか? ないようでしたら、依頼内容から、ご予算、適任のTSをご紹介させていただきます。なお、依頼内容を黙秘される場合は、ご予算からTSのリストをお渡しいたします」
「夏凛さんを希望したいんですけど、予算は3億円くらいで、依頼内容は夏凛さんに直接話します」
『承りました。連絡先電話番号、またはメールアドレス、お名前をお教えください。折り返しご連絡を差し上げます』
「佐藤です」
『サトウ様ですね』
「電話番号は090-××××-××××です」
『090-××××-××××でよろしいでしょうか?』
「はーい。でも、連絡はメールでください。メアドは――」
 事務手続きを済ませ、華艶は連絡を待った。
 華艶が電話をしたのは夏凛が所属しているTS協会だ。政府公認の中では手続きが甘いと有名である。中には依頼者の身元が証明され、問題ないと判断されないと依頼を受けないところもある。
 ちなみに華艶はモグリである。依頼は彼女の気分次第で受けるか断るか決まる。
 数回の連絡を取り交わし、華艶は駅ビルのコーヒーショップに足を運んだ。
 すぐに華艶は奥の席で何かを飲んでいる人物を発見して、こっそりと近づいて突然顔を出した。
「こんちわ、夏凛〝さん〟」
「ブッ……」
 ブハーッ!
 驚いた夏凛は思わずカフェオレを口から噴出してしまった。
「な、なんであなたがいるのぉ!?」
「あたしが依頼人だからに決まってるじゃない」
 カフェを吹いた夏凛に店員が「お客さま大丈夫ですか!」と駆け寄ってくる。
 夏凛はニッコリ営業スマイルで「大丈夫ですからぁ」なんて言っているが、眼は華艶を睨んでいる。
 華艶はすまし顔で華艶の前に座った。公の場では夏凛が手を出してこない――出せないことはわかっている。
「さてと、仕事の話でもしよっかな、ねえ夏凛?」
「別の場所に移動しましょう?」
「い~や~だ」
「そんなこと言わないでぇ」
 夏凛の魂胆はわかっている。店の外には絶対に出ないと華艶は決めている。
 テーブルの下にあった夏凛の手を華艶が力強く掴んだ。
「そういう姑息な手はあたしには通じないんだけど?」
 華艶はそのまま夏凛の手をテーブルの上に乗せた。夏凛の手にはケータイが握られていた。
 苦笑いを浮かべる夏凛。
「バレちゃったぁ?」
「バレバレ」
「っそう」
 仕方なく夏凛はケータイを手放し、テーブルの上に置いた。
 華艶も夏凛も異様なまでにニコニコしている。けれど心の中では熾烈な戦いが繰り広げられていた。
 華艶はテーブルに置かれたケータイを見た。
「そのケータイ見せてもらってもいい?」
「ヤダ。なにを調べる気なのぉ?」
「あなたの依頼人」
「残念でしたぁ。依頼人の連絡先はケータイに登録しない主義なのぉ」
「で、依頼人は誰なの?」
「言うわけないでしょう」
「都議会議員の朽木なんでしょ?」
 直球の質問に夏凛はなんの不自然な仕草も見せず首を横に振った。
「さぁ?」
「そのオトコ、女子大生をレイプした容疑がかけられてるの知ってる?」
「さぁ?」
「女子大生は事件を苦にして自殺したって知ってる?」
「さぁ?」
 それで夏凛は押し通すのだろうか?
 華艶は少し質問を変えることにした。
「じゃさ、なんでこの子を狙ってるの?」
 もちろんカエンJr.のことだ。
「さぁ?」
「それで通す気?」
「もちろん♪ わかったらもう諦めて店を出て行くことを推奨するよん」
「あたしのあと付ける気でしょ?」
「さぁ?」
 堂々巡りだ。
 華艶は封筒を取り出し、テーブルを滑らせそれを夏凛に差し出した。
「これであなたを雇う」
 封筒を確認すると、中には5万円が入っていた。
「これでアタシを?」
「なんか不満でもあるの?」
「たったこれだけアタシを雇えると思ってるのぉ? これでもちょー一流のTSなんだけどぉ?」
 5万では協会所属のTSは誰一人雇えない。
 が、華艶はこれ以上払う気はない。
「まあ、話せば長くなんだけど、あたしもわけもわかんないうちに、この赤ちゃんを押し付けられたわけ。で、そのときにそのお金もあったってわけなんだけど」
「はぁ?」
「ま、そーゆーわけで、巻き込まれたあたしがなんでポケットマネーから、アンタを雇わなきゃいけないわけってこと」
「はぁ?」
「だから、とにかくその5万円で雇われてよ、ね?」
「ヤダ」
「ケチ」
「バカ」
「アホ」
「シネ」
「カマ」
「んだとテメェ!」
 グーパンチを握った夏凛は、ふと我に返って店内が静まり返っていることに気付いた。
「……な~んちゃって、あははは」
 笑いながら夏凛はグーをパーにした。絶対〝な~んちゃって〟じゃなくて本気だった。きっとアレが本性だ。
 夏凛は中身の入ってないカップを一口〝飲んで〟、軽く咳払いをした。
「コホン、まぁ、依頼内容くらいなら聞いてあげてもいいかなぁ~みたいなぁ~、あはは」
 笑顔を作る夏凛の顔を引きつっている。
「顔引きつってるよ」
「う、うるさいでございますよ、あははは」
「しゃべり方も変」
「あはは、アタシをホンキで怒らす前にやめとけよ」
 ここで華艶はもっとからかってやろうかと思ったが、今は話がややこしくなるのでやめておいた。
「ああ、依頼内容ね。朽木を有罪にする材料を集めて欲しいんだけど?」
 もし本当に夏凛が朽木に雇われ、カエンJr.を狙っているとしたら、こんな依頼を受けるはずがない。
 だが、夏凛は――。
「いいよん」
「はっ?」
 依頼しようとした華艶のほうが驚きだ。軽いジョーダンのつもりだった。
 ただし夏凛はつけ加えた。
「5万じゃ安すぎかもぉ」
「そーじゃなくて、朽木ってアンタの雇い主でしょ?」
「違うよ。黒幕は誰か知らないけど、〝あくまで違う人〟に依頼受けたもん」
「やっぱりアンタTSの風上にもおけないわ……」
「モグリに言われたくないもーん」
 急に華艶と夏凛の眼つきが鋭くなった。
 店に立ち込める殺伐とした空気。
 スーツを着た男を先導に、警察官が店内になだれ込んできた。
「帝都警察だ!」
 意味がわからないという顔をする華艶と夏凛は、意味がわからないうちに手錠をかけられていた。
 華艶が周りの警察官を振り切り夏凛の胸倉をつかむ。
「アンタなんかやったの!」
「知らないもん。連絡を入れたのは認める……ケド、警察なんか呼んでない!」
 ケータイの操作がバレた夏凛だったが、別の方法でコッソリ連絡をしていたのだ。おそらく雇い主に――。
 夏凛を掴んでいた手を警察に抑えられ、華艶が引きずられていく。
「ちょっと誰あたしの胸触ったの! 痴漢で訴えるわよクソッタレ!」
 そして強引にカエンJr.が奪われようとしていた。
「ちょっとその子になにすんのよ!」
 止めようとする華艶だったが、カエンJr.は警察の手に!
 ――その時だった。
 今まで泣かず、喚きもしなかったカエンJr.のまん丸な瞳に涙が漏れた。
「うぎゃ~~~っ!」
 耳を塞ぎたくなるほどの鳴き声。
 防波堤が崩れたように、一気に涙が零れ出した。
 カエンJr.を抱きかかえていた警察官が、なにを思ったのかカエンJr.を投げ捨てた。
 すかさず他の警察官が受け止めようとするが、その警察官もカエンJr.に触れた瞬間、叫びながら手放してしまった。
 床に落とされたカエンJr.はさらに大泣きをした。
 華艶は警官を振り切って駆け寄ろうとするが、思うように振り切れない。その間に他の警官がカエンJr.を拾おうとしたが――。
「熱い!」
 そう言ってカエンJr.から手を引いたのだ。
 華艶は思わず呟く。
「まさか……」
 次の瞬間、カエンJr.が猛火に包まれ燃え上がったのだ。
 近くにいた警官に火は移り、炎はさらに勢いを増してカエンJr.の姿を隠してしまった。
「消火器を持ってこい!」
 誰かが叫ぶが、すでに炎は木のテーブルや椅子、そして床を燃やしはじめていた。
 華艶はもうどうにでもなれと、自分を拘束している警官を半殺しにする覚悟で振り払おうとした。
 だが、急に華艶の意識がブラックアウトした。

 腹の肉を揺らしながら、真っ裸の男が腰を振る。
 四つん這いになった女を後ろからヤっていたのは、都議会議員の朽木だった。
 女のケツに腰が当たるたびに音が鳴り、朽木の弛んだケツも揺れてたぷたぷ音を立てる。
「ふんっ、ふんっ、ふんっ!」
 朽木は女のナカを深く突くたびに、鼻息を漏らしている。深くと言っても、短小なので実際は入り口でくすぶっているだけだ。
 激しくなってくると、朽木は無我夢中で腰を動かした。
 しかし、水を差すように……抜けてしまうのだ。
「クソ!」
 朽木は八つ当たりで女のケツを叩いた。
 女は取り繕うように、前を向き朽木のモノを前にした。
「怒らないで先生」
 甘い声で女は朽木のモノを握った。正確には親指と人差し指でつまんだ。朽木のモノは小指の先ほどもなかった。もちろん勃った状態でソレだ。
 女は包茎のそれを口に含み、舌で上手に皮を剥いた。
 朽木は身体を震わせ、女の髪の毛を鷲掴みにした。
「もっと動かせ、もっとだ!」
 女の頭部を両手で掴み、強引に頭を上下させた。
 短小なのでどうってことはない。咽喉の奥にも届かず、苦しくもない。
 ただ、腹の肉が顔面に当たって痛い。
「先生、ちょっと、痛いです!」
「うるさい! お前は黙って俺のモノをしゃぶってろ!」
「うぐっ……ふが……」
 女の顔は引っぱたかれたように赤くなっていた。それでも朽木は女にしゃぶらせ続けた。
「痛い……ふぐっ……先生……やめて……」
 涙目になった女のマスカラが流れだしている。やはりそれでも朽木はやめず、さらに激しさを増した。
 女の首を強引に動かし、自らの腰も激しく動かす。
 バチン、バチンという叩く音が鳴り響く。
 女は逃げようとするが朽木は許さなかった。
 朽木の身体がビクッと震えた。
「イク、イクぞ!」
「ンぐ……あがが……」
 ドクドクと止まることなく白濁した液体が女の口に注がれる。
 止まったかと思うと、再び朽木はケツをビクッとさせて大量に噴いた。
 信じられない量だ。
 まるでザーメンスプリンクラーだ。
 女は思わず口を離すが、止まることのないザーメンは女体を穢し、女の顔にベッタリと塗りたくられた。
 死にそうな顔をした女は、口に溜めていたザーメンを両手のおわんにして吐き出した。それを見ていた朽木が言う。
「全部呑め!」
 女は小さく頷いてそれに従った。
 手のおわんに溜められたザーメンを一気に飲み干す。
「……うっ……ごほっ、ごほっ」
 咳き込みながら自分のザーメンを呑んだ女に、朽木は満足そうな笑みを浮かべている。
 テクニックもなく、短小では女を満足させることもできない。それなのに大量に噴出すという、ただ自分が満足するだけのタチが悪い男だ。
 自分の股間にコンプレックスを持つ朽木は、強引にヤリ、大量のザーメンで相手を穢すことでしか、性欲を満たすことができなかった。
 そして、終わればすぐに冷める。
「さっさと部屋を出て行け!」
 女は怒鳴られ、泣きながら部屋を出て行った。
 ベッドに腰掛けて朽木が葉巻に火をつけようとすると、電話が鳴ってすぐに受話器を取った。
「俺だ、なんの用だ?」
『高橋です。例の赤ん坊を手に入れました』
「そりゃよくやった。あとは手はずどおりやれ」
『わかり――』
 相手が最後まで言う前に朽木は受話器を置いていた。
「これでアイツを炙り出せる。ついでに赤ん坊を人質に犯してやるか……?」
 下卑た笑いを浮かべながら朽木は葉巻を吹かした。
 果たして朽木は赤ん坊を使ってなにをしようとしているのか?

《4》

 ――ここはいったいどこ?
 おでこを押さえながら、朦朧とする意識の中で、華艶はゆっくりと目を開けた。
 冷たいコンクリの天井に、今にも消えそうな電灯がチカチカしている。
「やっと起きたぁ?」
 聴きなれた声が華艶の耳に届いた。
 横になりながら顔を向けると、夏凛が体育座りをしていた。その座り方は絶対営業用だ。
「ココどこ?」
「見ればわかるでしょ~?」
 言われて華艶は上半身を起こして辺りを見回した。
 床に倒れた男たちの山。
 鉄格子。
「留置所? じゃなくてファイトクラブ?」
「ファイトクラブのわけないでしょう。ここは留置所で~す」
「ファイトクラブじゃないんだ……」
 床でボコボコにのされている男たちが気になる。
 華艶が気を失っていて、起きたら夏凛だけが起きていた。答えは〝そーゆー〟ことなのだろう。
 パンツが見えることも気にせず華艶はあぐらをかいて、まだ回復しない頭を労わるようにおでこを押さえた。
「なんかいきなり意識が飛んで、気付いたらここなんだけど?」
「あなた麻酔針を打たれて気を失ってたの。アタシはなんの抵抗もしなかったら、なにもされなかったけどぉ」
「……あっそ」
 コーヒーショップで夏凛と話していたら、突然警察が乗り込んできて、それから……。
「ああーっ!!」
 華艶が突然大声をあげた。
「あの子は、あの赤ちゃんはどうなったの!」
 目を大きく見開いて華艶は夏凛に詰め寄った。
「さぁ?」
「さぁじゃないでしょ! あの子はどこに行ったのよ!」
「アタシ知らないもん」
「生きてるの死んだの?!」
「だ~か~ら、アタシ知らないもん。ショップが火に包まれて、そのまま警官に引っ張られてパトカーに乗せられたんだもーん」
 その話を聴いて華艶は頭を大きく抱えた。
「……絶望だ」
 絶望で床に顔を埋める華艶の横で、夏凛はひょいっと立ち上がり、鉄格子を爪先で蹴飛ばした。
「誰かいませんかぁ?」
 留置所内はシーンを静まり返っていた。
 振り向いた夏凛はため息をつく。
「完全にシカトされてるみたい。弁護士を呼べって叫んだんだケド、まったく反応なしだったし」
「なんか出る方法ないの?」
「誰とも連絡取らせてくれないんだもん。自力で出るしかないケド、脱獄したら警察に追っかけられちゃうよぉ?」
「無実の罪なんだから外に出て当たり前でしょ。絶対自力で脱出してやる」
 とは言っても、帝都の留置所はちょっとやそっとでは出られない。特別な能力を持った犯罪者たちに対応するため、諸外国の留置所が比べものにならないほど頑丈にできているのだ。
 壁には窓もない。外が見えるのは鉄格子の向こうだけ。
 再び体育座りをする夏凛に華艶は顔を向けた。
「出たくないの?」
「出たいケド、ムリして出なくていいかなぁ」
「1万出す」
「安すぎ」
「じゃ3万」
 首を横に振る夏凛に華艶は続けて、
「5万でどう?」
「やるだけやってみるケドぉ、ムリだったら諦めてね」
 金持ちのクセに5万でいいのかと華艶は内心思った。
 ゆっくりと立ち上がった夏凛は鉄格子を調べ、次に壁を調べてその前に立った。
「こっちのほうがいけそうかなぁ」
 次の瞬間、ゴスロリドレスのスカートを巻き上げて、夏凛が強烈キックを放った。
 砕かれた壁が粉砕して飛び散る。
「やっぱりムリかもぉ」
 クツについた砕けカスを払ってから、夏凛はお手上げのポーズをした。
 砕かれた壁の先には、超合金の板が埋め込まれていたのだ。
 破壊の爪痕を見ながら華艶は感嘆した。
「すごっ……前から思ってたんだけどさ、なんでそんな強烈な蹴りできんの?」
「企業ヒミツ」
「クツでしょ、そのクツにヒミツがあるんでしょ!」
 華艶は夏凛の足元に飛び掛った。
 クツを触り、叩いてみると、ものすごく硬い感触がした。
「なにこのクツ?」
 上目遣いで華艶が尋ねると、夏凛はやっぱりこう答えた。
「企業ヒミツ」
「……あっそ」
 華艶は壁にもたれかかり、天を仰いだ。
 こんな場所に入れられる覚えもなければ、長居をするつもりもない。
「そっちになんかコネクションとかないの?」
「だからぁ、外と連絡取らせてもらえないんだもん」
「……あっそ」
 なにか名案でもないかと考えていた華艶に、とある作戦が浮かんだ。
「放火してみようか?」
「意味不明」
「火事になったら鍵開けてくれるっぽくない?」
「ぽくない」
 夏凛に否定されたところで、華艶のヤル気は変わらない。
 燃えそうな物を探して辺りを見回す。
 そんな物などなく、建物の素材も燃えない物でできている。
 視線を下げた華艶の瞳にあるモノが映った。
「それイケそう」
 華艶が見つけたのは床で気絶している男たち。もちろん人間を燃やす気ではない。その服を燃やす気なのだ。
 華艶が男たちの服を一生懸命脱がしている間、夏凛は顔を真っ赤にしてそっぽを向いていた。
 男たちはパンツまで脱がされすっぽんぽんにされた。
 手に入れた服を華艶は持ち上げ、部屋の隅に投げて山済みにした。
「よし!」
「まさか中で燃やすなのぉ?」
 目を細めて疑惑の眼差し。
「もちろん中で燃やすに決まってんじゃん」
「バカでしょう?」
「だって外で軽く燃えてるだけじゃ出してくれないっしょ?」
「もぉ好きにすればぁ」
「言われなくても好きにするし」
 中で燃やしすぎるのもアレだと思い、華艶は鉄格子の外にいくつか放り投げた。
 そして、牢屋の外に散らばる衣服から火をつける。
「炎翔破![エンショウハ]」
 炎の玉が華艶の手から放たれ、衣服が一気に燃え上がる。
 それを何度か繰り返し、最後に牢屋の中で火をつけた。
 煙が巻き起こり、火災報知器が鳴った。ここまでは狙い通りだ。
 辺りが騒がしくなり、消火器を持った警官が牢屋の外で火を消しはじめた。それを見て華艶は叫ぶ。
「助けて!」
 ヤル気のなかったハズの夏凛も鉄格子を掴んで叫ぶ。
「助けて死んじゃうよぉ! 助けてくれたらいくらでもお金あげるから!」
 本気じゃなくて、もちろん演技だ。
 金という言葉が効いたのか、警官がすっ飛んで来た。
「今開けてやるが、変な気を起こすなよ!」
 鉄格子の扉が開けられた瞬間、夏凛が蹴りを放った。
 硬い扉に顔面を強打されて警官が気絶した。
 すぐに檻の中を抜け出すが、周りには消火活動にあたっていた警察がいる。もちろん同僚がぶっ倒れたことに気付き、華艶たちに飛び掛ってきた。
 だが、華艶と夏凛の相手ではない。
 二人は警官たちをなぎ倒し廊下を駆けた。
 警察署の中は騒然としたベルが鳴り響き、華艶たちに気を取られる者は少なく、なんなく混乱に乗じて外に出ることができた。
 もう外は夜だった。
 夏凛は近くで普通乗用車に乗り込もうとしていた男を背後から殴り、気を失わして車に乗り込もうとした。
 思わず華艶の口をついて言葉が出る。
「そんなことして平気なの?」
「背後から殴ったから顔見られてないもん。訴えられたらいい弁護士雇って勝つ」
「その際はあたしに罪が被んないようにして」
 華艶は気を失っている男からキーを奪い、二人は車に乗り込んだ。
 助手席に座ったのは夏凛。運転席に座ったのは華艶。
「運転できるのぉ?」
 尋ねる夏凛に華艶は正面を向きながらこう言った。
「免許は持ってない」
「アタシも運転できないよぉ」
「でも、ゲーセンのレースゲームは得意だから平気」
「…………」
 夏凛はなにもつっこまなかった。なるようになれだ。
 エンジンをかけて、アクセルを踏む。
 走り出した車は車道に出た途端、他の車にぶつかりそうになった。
「ブレーキ踏んで!」
 叫ぶ夏凛。
「ブレーキ使ったことない!」
 続けて叫んだ華艶はハンドルを大きく切った。
 タイヤが悲鳴をあげて焼ける。
 強い衝撃と共に華艶を乗せた車は側面に追突された。
 だが、それだけで済んだ。
 華艶はハンドルを回しながらアクセルを踏んだ。
 どうにか正しい進行方向に車は走り出したが、華艶はアクセルを床が抜けるほど踏みっぱなしだ。
 どんどん前を走る車を抜き去り、赤信号も無視して走る。これではいつ事故ってもおかしくない。
「レースゲームじゃないんだからぁ。別にそんなに車を追い越さなくても……」
「うっさい、追っ手がすぐ来るでしょ。今のうちにいっぱい逃げなきゃ!」
 呆れた夏凛はもうなにもつっこまないことにした。それでダッシュボードを開けたりして、そこらを調べはじめた。
「あ、いいものみっけ♪」
 楽しそうにそれを取った夏凛は、窓を開けてそれを車の屋根に乗せた。
 車の上で回転して音を出したのはサイレンだった。
 二人が盗んだ車は覆面パトカーだったのだ。
 と、ここで夏凛は思う。
「やっぱり見られたかも」
 車を盗んだときに、背後から殴り倒して気を失わせた。だが、警察は通常2人1組。同僚が近くにいたかもしれない。
 それ以前の問題として、警察署内で大暴れしたので、車を盗んだ罪くらい、どーってことないのだが。
 しばらく走っていると、サイドミラーにパトカーの影が見えた。
 華艶は後ろのパトカーを巻くように、交差点を急に曲がった。後ろで何台か衝突したようだが、振り返っているヒマはない。
「先に車盗もうとしたのそっちだから、この件に関する裁判費用そっち持ちね」
 華艶は事故を起こした張本人にも関わらず、裁判費用を夏凛に押し付けた。もちろん夏凛は黙っていない。
「じゃあ、警察署でのゴタゴタは火事を起こしたそっち持ちねぇ」
「アンタだって一緒に逃げたんだから割り勘」
「だったら車運転してるのアナタなんだから、これも割り勘でしょう?」
「あたしより稼いでるんだからケチくさいこと言わないでよ」
「そういう問題じゃないと思いま~す」
 二人が金銭でもめている間にも、大名行列のように後続のパトカーが増えていた。
「どこか逃げるあてがあるの?」
 夏凛が尋ねると華艶はきっぱり。
「ない」
「やっぱりねぇ」
 アクセルを踏んでるだけで、華艶はただ走っているだけだった。
 周りからパトカー以外の車が消え、ヤバイと思ったときには袋の鼠だった。
 華艶たちの車の前に立ちはだかるバリケード。
 パトカーが鎖のように道を塞ぎ、警官たちが銃を構えて立っている。
 メガホンから聞こえる怒声。
「止まれ! 止まらないと撃つぞ!」
 それを聴いた夏凛はひとこと。
「だって?」
 その返事を華艶はアクセルを踏むことで答えた。
 夏凛は目を瞑って座席にもたれかかった。
「もぉあなたが運転する車には乗らない」
 車はバリケードに向かって一直線。
 チキンレースでもするつもりなのか?
 だが、パトカーには人が乗っていないので逃げることはない。
 さらに華艶は車を加速させ、警官隊が逃げ出したところで、急にハンドルを切った。
 道路にタイヤが焼けた跡を引きながら、警官隊が見ている前で、華艶たちを乗せた車はショーウィンドウに突っ込んだ。
 ガラスを粉砕させ、店の中に姿を消した車。
 すぐに警官隊が店の中に突入して車を発見するが、すでに華艶たちは姿を消したあとだった。
 大破した車の上でサイレンだけが虚しく輝いていた。

《5》

「エアバックの偉大さを知ったぁ」
 夏凛は心の底から感心していた。
 どっかの誰かさんの無謀な運転のせいで、店のショーウィンドウに突っ込み死ぬかと思ったが、エアバックのおかげで無傷で済んだ。
 それから二人は使えなくなった車を捨て、店の裏口からさっさと逃亡したのだ。
 そして、今は入り組んだビルとビルの間を駆け抜けていた。
 警官も辺りを捜索しているだろう。早く安全な場所に身を隠さなければならなかった。
 ビルの間を抜けて、夜の繁華街に出た。
 ここからは何気ないふりをして歩く。
 どうやら駅前だったらしく、人通りも多かった。紛れるほどの多さではないが、下手な行動に出ないようにしたほうがよさそうだ。走っていたら確実に目立つ。
 が、華艶にはひとつ気がかりなことがあった。
「その服、目立ちすぎ」
 華艶は夏凛のゴスロリを見ていた。
「ポリシーなんだケドぉ?」
 商売用のまん丸な瞳で夏凛は華艶の瞳を覗き込んだ。子犬の眼だ。
 そんなのに騙される華艶でもないので、きっぱりと。
「着替えて」
「そんなに強く言わなくてもわかってるもん」
 プイっとすねる仕草は女の子そのものだが、夏凛は〝オカマ〟TSと有名だ。
 本人いわく本当は自分は女で、悪い魔法使いに魔法をかけられたなんて公言しているが、世間はそんな話を信用していなかった。どこまで行っても世間の認識は〝オカマ〟なのだ。
 二人が歩いていると、背後から駆け寄ってくる気配を感じた。
 振り向くと、十代半ばくらいの女の子が立っていた。
「夏凛さんですよね? ファンなんです握手してください!」
「いいですよぉ♪」
 ものスッゴイ営業スマイルで握手に応じる夏凛。
 華艶は夏凛が雑誌なんかにちょくちょく顔を出していること知っていた。読者モデルっぽいこととか、なんちゃってアイドルみたいなことをしているらしい。
 しかし、女の子と握手をする夏凛を見ながら華艶は思っていた。
 ――マジでファンなんかいるんだ。
 握手を終えた夏凛は女の子にとある提案をした。
「ボクの着ている服と、キミの着ている服を交換してくれないかなぁ?」
 〝ボク〟と〝キミ〟は営業用だ。
 女の子は飛び上がって返事をした。
「はい!」
 舞い上がってその場で服を脱ごうとする女の子を静止して、夏凛は女の子の手を引いてビルの陰に姿を消した。
 しばらくすると夏凛が服装を取り替えて戻って来た。
「お待ちどうさまぁ」
 ミニスカートの夏凛を見て華艶は思わず、
「それで動いてパンツ見えない?」
 自分のパンチラは気にしないが、夏凛のパンチラは気になるらしい。
「いつもスパッツ着用だから平気ぃ」
 クシュクシュと丸めていたスパッツを伸ばして、夏凛はニコッと笑った。その横ではゴスロリ姿になった女の子がニコニコで、目はハート。
「夏凛さんありがとうございました。家宝にします!」
 ――オカマの衣装が家宝なんて。と思いながらも、嬉しそうな女の子に水を差すようだったので華艶は口をつぐんだ。
 女の子と別れて二人は再び歩き出した。
 そのすぐ後ろで、あのゴスロリの女の子が警官に呼び止められていた。
 華艶は夏凛のほうを向かずに耳打ちする。
「あのあたしたちのこと言わない?」
「あの子はアタシに忠誠心がありそうだったから平気だと思うよぉ」
「……なにその自信」
 華艶は見ていなかったが、女の子は夏凛と間違われたらしく声をかけられ、ぜんぜん違う方向を指差して「あっちです」と警官に教えていた。やっぱり女の子は忠誠心は本物だったらしい。
 早歩きをしながら、二人はさっさと逃げ、駅とは逆方向に向かっていた。本当は足として乗り物を使いたかったが、警官が張り込んでいるのは行かなくてもわかる。駅、バスターミナル、タクシー乗り場はアウトだろう。
「行く当てあるぅ?」
 と、夏凛が尋ねた。
「匿ってくれそうなとこはあるけど、そのうち警察に見つけられそう」
「アタシもあるケド遠い。まずはタクシーでも拾わないと」
 また車を盗めばすぐに足がつく。法律を犯さない方法で足を見つけなければならなかった。
 が、華艶に反省の色はなかった。
「あのバイク、パクる?」
 ピザを配達しているバイクだった。配達人はエンジンを掛けたままどこかに消えてしまっている。
「あれ1人乗りでしょう?」
 夏凛と華艶が顔を見合わせて止まった。
 バイクは1台、人数は2人。
 顔を見合わせている2人の間に殺気が流れた。
 だが、2人はケンカになる前に引いた。
 無言で歩き出す2人。バイクのことは忘れることにした。ケンカをするのがバカらしいと思ったのではなく、ケンカをするとひと目を引いて警官に見つかると思ったからだ。
 その判断が幸運を呼んだのか、コンビニに停まっているタクシーを発見。
 華艶がタクシーの窓を叩いて、カップ麺を食べている運転手を気付かせた。
「乗せて!」
 運転手はめんどくさそうに窓を開けた。
「食事中なんだからあとしてくれよ」
「だったらすぐ喰え!」
 華艶の蹴りがドアをへこました。
 ビビッた運転手は窓を閉めようとしたが、華艶の動きのほうが早かった。
 窓の開閉ボタンを押そうとしていた運転手の手首を捻り上げた。
「イテテテテ……」
「ハンドルが握れるうちにあたしを乗せたほうがいいっぽくない?」
「……は、はい」
 怯えた声で運転手は返事をした。
 助けを叫ぶ選択肢は最初からなかった。叫んで助けを求めても、助けられるのは酷い目に合わされた後だと判断したのだ。賢明だ。
 2人はタクシーに乗り込み、夏凛が行き先を告げる。
「魔導区の成金ロードまでお願いしまーす」
 成金ロードとは俗称だ。魔導によって財産を築いた者たちの屋敷が立ち並ぶ高級住宅街をそう呼ぶ。
 タクシーは制限速度を少し破って走りだした。

 成金ロードの入り口で2人はタクシーを降りた。
 華艶は辺りの住宅を見回している。
「どこに行く気?」
「友達んち」
「どこの誰?」
「行けばたぶん知ってると思うよぉ」
「有名人?」
 この辺りに住む住人たちは、業界筋では皆有名な部類に入る。
 夏凛の足はこの辺りでもひと際大きな屋敷の前で止まった。前と言っても、ここは正面門で、屋敷は庭の先だ。
 夏凛は玄関ベルを鳴らして、防犯カメラに手を振って見せた。
「誰でもいいから門あけてぇー」
 するとしばらくして巨大な鉄の門が、悲鳴のような音を立てながら開いた。
 巨大な門を潜り、女神像のある噴水を通り越し、バロック様式の絢爛な屋敷の玄関に着いた。
 夏凛はドアを壊す勢いで強く叩いた。
「マナちゃんいるぅ~?」
 すぐにドアが開けられ、顔を見せたのは金髪蒼眼の少女だった。名はアリスという。
 メイド服を着たアリスは丁重に頭[コウベ]を垂れた。
「ようこそおいでくださいました夏凛様」
 そして、顔を上げて言葉を続ける。
「そちらの方がどなたでございますか?」
「あたしは華艶。で、ここ誰の屋敷なの?」
 まだここが誰の屋敷なのかわからなかった。
「ここはわたくしの主人[マスター]、神星[カミボシ]マナ様のお屋敷でございます」
 その答えを聞いて華艶は一歩引いた。
「マジで?」
 神星マナは代々魔導士の家系に生まれた娘で、帝都でも有名な魔導士である。だが、世間の認識は魔導士としてではなく、実業家としての認識が強い。彼女は帝都での魔導具販売シェアを、20パーセント以上を握っているのだ。
 夏凛は華艶の顔を見てニッコリ。
「マナちゃんとは幼馴染なのぉ」
「マジで?」
「マジでございます」
 と、答えたのは、無表情のフランス人形みたいな顔をしたアリスだった。その顔で〝マジ〟と言われると違和感がある。しかも、口調が淡々としていた。
 アリスは屋敷の中へ手を伸ばした。
「玄関先ではなく、屋敷の中にお入りください」
 アリスに促され屋敷に入り、そのままアリスに中を案内された。
 広い玄関ホールの先には、シンメトリーの階段が伸び、踊り場には有名画家の絵画が飾られていた。
 特注の赤絨毯が伸びる廊下を進み、なんか高そうな彫刻や壺の横を通り過ぎ、応接間に辿り着いた。
 夏凛はソファに全体重をかけて座った。
「あ~疲れたぁ。アリスちゃんアタシ紅茶ね」
「承りました。華艶様は?」
「あたしコーヒーブラック」
「少々お待ちください、すぐに持ってまいります」
 一礼して部屋を出て行こうとするアリスを夏凛が呼び止める。
「マナちゃんは?」
「主人は出かけております」
「また旅行?」
「はい、海外に行くと書き置きがございました」
「ふ~ん」
「では、失礼いたします」
 再び一礼して、今度こそアリスは部屋を後にした。
 華艶は物珍しそうに部屋を見回している。
 高そうな調度品も目を引くが、一番目を引くのは、この屋敷の主が描かれた絵画だろう。
「神星マナってナルシスト?」
「う~ん、そこそこかなぁ」
 絵画を見るだけでも、ナルシストと高飛車なオーラが出ている。
 しばらくして、アリスが紅茶とコーヒーをトレイに乗せてやってきた。
「お待たせいたしました」
 コーヒーを受け取った華艶はまずは香りを楽しむ。
「あれ?」
 ちょっと不思議な顔をしながら華艶はコーヒーを一口飲んだ。
「これって……神原の喫茶店と同じ味」
「はい、モモンガのマスターに豆を分けていただいております」
 アリスに教えられ、華艶はほくそえんだ。まさかこんな場所で、行きつけの喫茶店の味を堪能できるとは思っても見なかった。
 一息ついたところで、アリスが話を切り出した。
「ところで、本日はどのようなご用件でおいででございますか?」
 華艶は〝アンタが言ってよ〟と言わんばかりの目で夏凛を見た。
「簡潔に説明するとぉ……無実の罪で警察に追われてるの匿ってぇ~」
 子犬の瞳炸裂。
 夏凛は潤んだまん丸の瞳でアリスを見つめた。
「わかりました。お好きなだけご滞在ください」
「さっすがアリスちゃ~ん、呑み込みが早くて助かるぅ」
 これで万事安全と喜ぶ夏凛の横で、華艶はまだ心配を拭えなかった。
「本当にここにいて平気?」
「アタシたちがここにいるって警察にバレちゃっても、並大抵のことじゃ乗り込んで来られないもんねー、アリスちゃん?」
 話を振られたアリスはコクリと頷いた。
「帝都警察が使っている魔導具のほとんどは、マナ様の会社の製品でございます。加えて主人[マスター]のコネクションは、多方面の業界に及んでございます。帝都警察が主人[マスター]の許可なく屋敷に侵入した場合、それ相応の制裁があると考えて良いでしょう」
 マナが帝都で大きな権力を持っているのはよくわかった。
 この屋敷にいれば身の安全が保障されることもわかった。
 そういう保障が確保されてしまうと、じっとしていられないのが華艶の性格だった。
「朽木んとこに乗り込もうと思うんだけど、どこ行けばいいかわかる?」
「アリスちゃん、この人のサポートしてあげて、お願~い♪」
 ウインク、ウインク、ウインク、夏凛のウインク。
「承りました」
 無表情だったアリスがニッコリと微笑んだ。
「あ、笑えるんだ」
 ボソッと華艶は呟いた。
「必用があればわたくしも笑います」
 少しムスッとした表情をアリスは浮かべた。最初に見たときは、まるで人形みたいな子だと思ったが、どうやら思ったより表情豊かな子だったらしい。と華艶は思った。

 肌の色艶は20代前半。
 しかし、その色香は艶やかさに包まれている。
 シャワーの粒子を浴びながら、ふくよかな胸を揉み、肉欲を誘う尻を擦る。
 濡れた髪の毛をかき上げ、〝女〟はコックを閉めた。
 深い息が口から漏れる。
「……疲れた」
 まだ夜は明けたばかりだった。けれど、彼女の1日は今から終わる予定なのだ。
 ボロホテルのシャワールームを出て、髪の毛を拭きながらベッドに腰掛けた。
 視線の先にはハンガーに掛けられたスーツ。ボロホテルには似合わない高級品だ。
 〝女〟は少し冷えた腕を擦った。
「暖房壊れてるんじゃないの?」
 部屋に入ってすぐに暖房を入れたはずだ。
 なのにシャワーを浴びて出ても部屋は寒いままだった。
 〝女〟はベッドから立ち上がって、壁についた操作パネルを見た。
 設定温度は23度。
 ボタンを押して温度を上げてみたが、空調の音もなにもしない。
 〝女〟のこめかみに青筋が走った。
「シネ!」
 拳が操作パネルを殴りつけた。
 暖房を諦め、〝女〟はテレビのスイッチを入れた。
『昨日、××駅のコーヒーショップで起きた放火事件の続報です。逮捕された18歳の少女と17歳の少年が、××警察署の留置所から警官を多数負傷させ脱走したのち、警察の車両を盗み逃走、多くの車両事故を誘発し、その後警察の包囲網を掻い潜り逃走を続けています。警察はこの事件の重大性を認識し、少年少女の実名を報道すること決めました。18歳の少女の名前は火斑華艶[ホムラカエン]、神原女学園高等学校に通う高校2年生――』
 このニュースを見た〝女〟は頭を抱えた。
「ばっかじゃないの」
 罵声を吐きながら〝女〟はすぐに着替えをはじめていた。1日を終える予定が泡と消えた。
 濡れた頭にタオルを巻いて、テキパキとスーツを着こなす。
 その後、髪の毛をドライヤーで乾かし、メイクを整えると、部屋の電話を使ってある場所に電話をかけた。
 ホテルのフロント係を通し、ある客に取り次いでもらった。
 〝女〟が耳にする受話器から喘ぎ声が漏れてくる。
『連絡してくるのを待っていたぞ』
 その声は朽木のモノだった。〝女〟が電話をかけたのは都議会議員の朽木だったのだ。
「要点だけ短く言うわ。赤ちゃんはどこに?」
『メイ区の××にある3番倉庫へ夜の10時に来い。おまえ1人だぞ、変な考えを起こしたときはわかっているな?』
「そこで赤ちゃんを返してくれるのね?」
『そうだ』
「わかったわ。ではさようなら」
 〝女〟は強く受話器を置いた。
「女とヤリながら電話するなんて、いいご身分だこと」
 受話器の向こうから途絶えることなく、若い女の喘ぎ声が聞こえていた。
 〝女〟はパソコンの入った鞄を手に取り、部屋をあとにした。

《6》

 学校は二日連続サボリ決定。
 華艶は深い帽子を被り、マフラーで口を隠して街を歩いていた。冬だったので、街に自然と溶け込める変装ができた。
 冬の陽は昇るのが早く、沈むのが早い。すでに陽は落ちはじめていた。
 ――寝坊した。
 昨晩はマナ邸に身を隠し、部屋を借りて睡眠を取った。慣れない赤ん坊の世話をして、逃亡劇で追われる側を演じたために、精神的疲労がたまってぐっすり眠れた。
 華艶は信号待ちをしながら、向かいのビルに取り付けられた巨大スクリーンを見た。
 タイミングが悪いことに、華艶の顔写真が映されていた。
「……なんであの写真なの」
 ボソッと呟く華艶。
 使われていた写真は学生証の写真で、大ッキライな写真だった。目の下にクマができ、とても悪人面で写っているのだ。撮影の前の日にホウジュ区のホストで遊んだのが原因だった。
 流れるニュース映像はライブ中継に変わり、マナ邸の様子が映し出されていた。屋敷の門の前に詰め寄せる報道陣と、それを押さえる警官隊。
 華艶が屋敷を後にしてすぐ、警察と報道に潜伏先がバレ、多くの人が押しかけたのだ。それでもやはりアリスの言うとおり、屋敷の中には警察も手を出せないようだった。だが、屋敷に残っていた夏凛は外に出られない。
 華艶は若干俯き加減になって青信号を渡った。
 どうやら潜伏先の情報を提供したのは、華艶たちを乗せたタクシーの運転手だったらしい。
 またタクシーの運転手から行き先がバレることを危惧し、華艶は電車と徒歩である場所に向かっていた。
 朽木が滞在しているホテルだ。
 マナ低にいる間に、アリスに調べてもらった。今、華艶が着ている服もアリスが用意してくれたものだ。
 ホテルの前まで来た華艶は、その建物を見上げた。あの部屋のどこかに朽木がいる。
 華艶は何食わぬ顔でホテルのロビーを抜け、エレベーターで最上階に向かった。
 多くに人間、それも物騒な人間を使ってカエンJr.を探すような相手だ。自分の警護も固めているに違いない。
 静かに廊下を歩きながら華艶はある部屋の前を通り過ぎた。
 部屋の前には男が2人立っていた。
 男たちの視線が華艶の背中を刺している。
 華艶は廊下を曲がり、そこで止まった。
 外で見張りをする男たちは2人。部屋の中の人数は検討もつかない。
 見張りの男を倒したところで、部屋のカギが開くわけではない。部屋に入る方法を華艶は考えなくてはならなかった。
 頭を悩ませる華艶にあるモノが目に入った。
 カートを押して来るメイドの姿。
 華艶はあれしかないと思った。ホテルの部屋に侵入する王道の方法だ。
 近づいてくるメイドを捕まえようと、足を踏み出した華艶が突然止まる。その顔は驚きで彩られている。
 なにかを言いかけた華艶に、メイドは唇の前で人差し指を立ててから、俯きながらあの部屋に向かって行った。
 メイドは男たちとなにかを話し、持ってきたメニューを調べられていた。
 そして、しばらくして部屋のドアは開けられたのだ。
 その瞬間、メイドは見張りの男たちを蹴り倒し、華艶に合図を送った。
「行くよん♪」
「なんでアンタが?」
「話はあと!」
 それはメイドの姿をした夏凛だった。たしか警察と報道に見張られ、マナ低で缶詰になっていたはずだ。
 部屋の中に入った夏凛を追って華艶も急ぐ。
 外で見張りが倒されたとも知らず、部屋の奥からは女の喘ぎ声を聞こえていた。
 最初に侵入者に気付いたのは、騎乗位で朽木に乗っていた女だった。
 すぐに女は朽木に抱きついて怯えた。
「きゃあ!」
「交尾中のところごめんね、そっちの男に用があるのぉ」
 夏凛は女に顎をしゃくって退けと合図した。
 女はすぐに自分の服を持って姿を消した。
 朽木は怯えた様子もなく、夏凛を睨んでいる。
「おまえがTSの夏凛か」
「あなたがアタシを雇った本当の依頼主なんでしょう?」
「なんのことだね?」
「コーヒーショップでアタシたちが捕まったのも、あなたの差し金なんでしょう?」
「なんのことかさっぱりだ。早く出て行かないと警察を呼ぶぞ」
 朽木はベッドのすぐ脇にあった電話に手を伸ばした、が、その手は華艶によって押さえられた。
「赤ちゃんがどうなったか知らない?」
「わけのわからん質問をせんでくれ」
 朽木は全ての質問を軽く躱した。このまま惚けとおす気なのだろうか?
 しかし相手が悪い。
 華艶は握っている朽木の手を強く握った。
 骨の軋む音。
 苦痛を浮かべる朽木。
「放せ!」
「い~や」
「人を呼ぶぞ!」
 これに夏凛は素っ気無く、
「呼ぶって言っても、ボディガードの2人は廊下で夢の中だけどぉ?」
「……クッ」
 朽木は歯を強く噛み合せた。
 強気な態度を取っても、2対1のこの状況では朽木にあとはない。
 夏凛は近くにあった椅子を引き寄せ、ゆっくりと腰をかけた。
「まず、赤ん坊を捕まえるために、アタシまで罠に掛けたことへの謝罪」
 続けて華艶がしゃべる。
「そして、赤ん坊の行方」
 華艶は朽木の股間に指を滑らせ、萎んでいるモノを握りした。
「ぎゃぁぁっ!」
 断末魔のような悲鳴をあげて朽木は悶えた。
「早く話した方が身のためよ」
 華艶は冷笑を浮かべて朽木を見下した。
 脂汗を流しながら朽木は壁に背をつけ、ベッドの上でゆっくり立ち上がり、一瞬だけ窓を見た。
 その一瞬を見逃さなかった夏凛は、起こる出来事を短く言葉に出す。
「ベランダから銃弾!」
 銃弾が窓にいくつも穴を開け、夏凛は瞬時にベッドの後ろに身を伏せ、華艶は射程距離の外に逃げた。
 窓が蹴破られ、粉々に散る硝子片を浴びて男がベランダから駆け出してきた。
 男は銃を構えたまま朽木を庇いながら逃がし、銃弾を華艶と夏凛に放った。
 銃弾を避けることに精一杯で華艶と夏凛は全速力で追えない。
 その間にも朽木と男の影は遠く離れていく。
 エレベーターに乗り込む朽木を追い詰める夏凛。だが、エレベーターの扉は、無情に夏凛の目の前で閉まった。
「クソったれ!」
 歯を食いしばり、夏凛は悔しさを滲み出した。
 すぐにもう片方にエレベーターはまだだいぶ下の階で止まっている。
 だからと言って、高層ホテルの階段を下りるよりも、エレベーターを待ったほうが早いかもしれない。
 エレベーターのボタンを連打する華艶の横で、夏凛は近くにあった巨大な窓を蹴破った。
 割れた窓から強い風が吹き込み、夏凛は飛んだ。
 慌てて華艶は窓の外を覗いた。
 夏凛は急速に落下し、突然宙で止まったように見えた――違う。急激に落下スピードが落ちたのだ。それはまるで舞う羽根のように、夏凛は地面に着地した。
 それを見た華艶は信じられないと言った感じで首を振る。
「さすがにあたし、この距離は落ちれない」
 華艶の能力のひとつに驚異的な肉体再生力があるが、限度がある。
 やっと来たエレベーターに乗り込み1階を押した。
「早く降りろ!」
 機械に文句を言っても意味がない。
 イライラする華艶の目の前でドアが開いた。まだ途中の階だった。
 乗り込もうとしてくる客に華艶がガンを飛ばした。
「1階以外ならコロスから!」
 こんなことを言われたら、1階に行く予定でも華艶と同じ個室[エレベーター]には乗りたくない。
 客は震えながら首を横に振り、華艶は殴るような勢いで【閉】ボタンを押した。
 その後も何度か同じことを繰り返し、2階でドアが開いた瞬間、華艶は相手の顔も見ずに開いての顔面に一発喰らわせ、すぐに【閉】ボタンを押した。
 そして、ついに1階に辿り着いた華艶を待ち受けていたのは――。
「……マジ?」
 ドアが開いた瞬間、武装警官が一斉に華艶へ銃口を向けたのだ。
 おそらく朽木か誰かが警察を呼んでいたのだ。
 しかし、まだ警官の人数は少ない。
 軽く目で数えたが4名、それに銃を持ったホテルの専属警備員が5名。
 華艶はすぐに【閉】ボタンを押した。
 銃弾がエレベーターの中に問答無用で撃ち込まれた。
「ったく」
 銃声が止み、エレベーターに駆け寄ってくる警察たち。
 乗り込んで来ようとした警察に華艶は金的を喰らわせ、エレバーターのドアは閉まった。
 すぐに華艶は周りを見回した。
 またドアが開いた瞬間、待ち構えられていてはシャレにならない。
 華艶はすぐに天井のフタを開け、まだ動いているエレベーターの箱の上に登った。
 長方形に伸びる昇降通路で、華艶は向かいのエレベーターのワイヤーに飛び移った。
 ワイヤーを握った手が燃えるような痛みが走った。華艶が握ったワイヤーは高速で動いていたため、握ったときに手が擦り切れたのだ。だが、その程度の傷ならすぐに完治する。
 華艶が掴んだワイヤーは高速で華艶は下へ運んだ。
 その間、華艶はワイヤーを登り棒のように滑り降り、エレベーターの上に音を立てながら降りた。
 すぐに華艶は足元のフタを開け、エレベーターの中に入ると、周りの客にガンを飛ばして、すぐ近くの階のボタンを押した。
 エレベーターが開くと、華艶は飛び出して廊下を駆けた。
 広いホテルの中だ。逃げ場はいくらでもある。だが、最終的に逃げる場所は決まっている。
 外に出なくてはいけない。
 その最終地点がある限り、待ち伏せは必定。
 華艶は部屋から出て来た男を見つけ、すぐに男を押し飛ばして部屋に入り、すぐにドアのカギを閉めた。
 外では自分の部屋を奪われた男がドアを叩きながら喚いている。
 そんなこと気にせずに華艶はベランダに走り、フェンスから身を乗り出して地上を見た。
「この距離ならいけそう」
 ここは6階。地面との距離は数十メートルある。
 それでも華艶は躊躇することなく飛んだ。
 アスファルトに足の裏が触れた瞬間、関節を曲げなら衝撃を和らげ、両手を付いて歯を食いしばった。
 両足が折れた。
 少しの間、華艶は膝を付いて立ち上がれずにいたが、ゆっくりと身体を起こして歩きはじめた。
 足を引きずり、ゆっくりと歩いていたのが徐々に早足に、そして走りだした。
 街の雑踏に紛れた華艶。その後を追う者はもういなかった。

 夏凛は朽木を追って駐車場まで来ていた。
 タイヤの悲鳴が地下に響き、夏凛に向かって来るBMW。相手は夏凛をひき殺す気だ。
 しかし、夏凛は逃げなかった。
 まるで向かって来る車を受け止めるように立ち、ぶつかる瞬間にボンネットに飛び移った。
 振り落とされないようにしがみつく夏凛を落とそうと、運転手がハンドルを回して蛇行運転を繰り返す。
 車は駐車場を出て車道に出た。
 夏凛は蛙のような姿勢から、ゆっくりと部屋の上に移動しようとしていた。
 車の中では後部座席の朽木が運転手から銃を受け取ろうとしていた。
 狭い屋根の上では逃げ場はない。車内から天井に向け撃たれたら、夏凛は蜂の巣になって車から振り落とされるだろう。
 朽木はオートマを構え、一発天井に向けて放った。そして、間を置いてから連続して銃弾を撃ったのだ。
 反応はなかった。叫び声も呻き声も、屋根から落ちた様子もない。
 次の瞬間、後部座席後ろの窓が割られ、夏凛の腕が朽木の首を締め上げた。
 呻き声をあげて朽木は銃弾を放つが、すべて夏凛を外れて天井を貫いた。
「くそ……放せ……」
 後ろの異変に気付いた運転手はすぐに車を止め、後部座席に飛び込んで朽木から銃を奪い夏凛に放った。
 すぐに躱した夏凛だったが、その肩は血を滲ませていた。
 夏凛の姿が消え、屋根を叩くような足音が聞こえた。
 真下から襲い来る銃弾を避けながら、夏凛は車の屋根から飛び降りた。
 銃弾の音が止み、チャンスと見た夏凛は異空間に閉まってあった武器を召喚した。
 魔導士でない夏凛が唯一使える魔導。
 夏凛の手には大鎌が握られていた。
 瞬時に夏凛はボンネットに飛び乗り、超硬合金の大鎌で窓ガラスを斬り割り、運転席に戻っていた運転手の首を刈った。
 首を失った胴から吹き出した血の噴水が車内に飛び散る。
 割れたフロントから乗り込んで来ようとする血だらけの夏凛を見て、朽木は怯えきった表情で後部座席にドアを開けて車外に逃げ出した。
 ここまで来て夏凛が朽木を逃がすはずがない。
「待ちやがれクソ野郎!」
 夏凛は持っていた大鎌をブーメランのように、朽木の背中に向かって投げつけた。
 風を切る大鎌。
 だが、瞬時に伏せた朽木の上を通り過ぎただけだった。
 すぐに夏凛は残りのストックを召喚しようとした。が――。
「クソッ、こんなときに!」
 異空間に保管してある武器は無限ではない。ストックがゼロでなにも召喚できなかったのだ。
 その間にも朽木の背中は遠ざかっていく。
 走って夏凛はあとを追う。
 その耳に届くサイレンの音。パトカーのサイレンだ。
 朽木よりも先の道路からパトカーが列をなして向かって来る。
 パトカーに助けを求めて手を振る朽木の姿を見ながら、夏凛は舌打ちをした。
「……っ次は殺してやる」
 朽木を殺しても、すぐに警官に取り込まれたら捕まるだけだ。
 夏凛は近くを走り抜けようとしていた大型バイクを見つけ、急に前へ飛び出して止めようとした。
 突然な夏凛の出現にバイクは操作を誤り、横転しながら道路を滑り、運転手は道路に投げ出された。
 夏凛は横転した大型バイクを〝1人の力〟で起こし、座席に飛び乗るとアクセルを全開にした。
 バイクで走り出した夏凛の後ろをパトカーが追ってくる。
 今年になってバイクでパトカーに追われるのは2度目だった。
 しかも、同じ車種のパトカーだ。
 帝都が誇る最新鋭魔導式パトカー〝TK-009H〟。
 このパトカーは1台100億円以上するという代物で、その馬鹿高い値段から都民のバッシングを受けている。
 だが、その性能は値段に見合うものだ。
 銀色に輝くそのボディーはイルカを思わせる滑らかな曲線を描き、さながらそれは車というより戦闘機の機体に似ている。そして、そのボディーはあらゆる攻撃でも傷一つ付かず、実験で行った核爆弾攻撃にもびくともしなかったらしい。
 最高時速はマッハまで達すると言うが、地表でそれをやるためには広大な直線の道が必要となる。帝都の街でやれば、すぐにビルに突っ込んで大惨事だ。やはり、100億は無駄だったかもしれない。
 以前の逃走では、見事TK-009Hを巻いた夏凛だが、あのときと同じ手は使えそうにない。
 あのときは1台だけだったが、先頭を走るTK-009Hの後ろには普通車両のパトカーが何台もいる。
 こうなったら自首でもするか?
 夏凛は首を横に振った。
 放火かなにかの容疑で連行犯逮捕され、留置所を脱獄、車の事故を誘発。そして、今は返り血を浴びて血だらけだ。
 この状態でどんな言い訳をする?
 警察は今や敵でしかない。
 夏凛に残された道はただひとつ、逃げることしかない。
 TK-009Hはすでに夏凛の横を並走していた。ハンドルを少し回し、軽く車体を当てられるだけで、バイクに乗った夏凛はただではすまない。TK-009Hの運転手が良心的なことを願うしかない。
 しかし、そんな願いも見事に打ち砕かれた。
 TK-009Hの側面が軽くバイクに擦った瞬間、夏凛の身体は座席から放り出され、横転した大型バイクは斜面を転がる雪玉のように、どこまでも転がっていった。
 放り出された夏凛は瞬時に身体の重さは限りなくゼロにした。これが夏凛の持つ特殊能力なのだ。
 身体の重さ自由に変化させ、時に身体を軽くしてビルから飛び降り、時に重くした足で強烈な蹴りを炸裂させる。そのために夏凛の靴は特別製で、軽く丈夫に作られていた。
 軽くなった夏凛は地面に落ちたが、それは羽毛が地に落ちる衝撃に等しい。夏凛は無傷だった。
 立ち上がる夏凛はため息を肩で吐いた。
 パトカーが夏凛を取り囲み、下りて来た警官に周りを包囲されていた。
 数え切れない銃口を向けられ、ついに夏凛は観念して地面に胡坐を掻いて座った。
「もう好きにしやがれ!」
 男みたいな口調で怒鳴った夏凛は後ろから警官に押さえつけられ、屈辱的な姿で顔を地面につけられながら、後ろ手に手錠をかけられてしまった。
 そして、夏凛はパトカーに押し込まれ連れていかれたのだった。

 朽木には逃げられ、カエンJr.の消息もようとしてわからない。
 華艶たちが主犯とされたコーヒーショップの放火事件。報道を聞いている限りでは、赤ん坊の〝あ〟の字も出てこない。やはり手を回したと思われる朽木が、行方を知っていると考えるのが自然だろう。
 しかし、もう手がかりがない。
 朽木からカエンJr.を探すほうが早道か、それともカエンJr.の行方を捜したほうが早いのか?
 ホテルでの一件前は簡単に朽木の場所がわかったが、今はどこが早道なのかわからない。
 華艶の重たい頭を悩ませた。
 朽木を探すとしたら、クレジットカードなどの使用状況でも辿ればいいだろうか?
 カエンJr.を探すとしたら、コーヒーショップの事件担当者から辿ればいいだろうか?
「どっちもムリ」
 ホテルにいた朽木を見つけられたのは、相手が本気で姿を隠そうとしていなかったからだ。あのホテルに泊まっているのは報道関係には知れ渡っていた。
 コーヒーショップの事件担当者は、当たり前の話だが〝警察〟だ。追われている身で自ら警察に接触するなど、飛んで火に入る夏の虫だ。もうそれは懲りた。
 情報屋も人探し屋も探偵も、そんなに早く朽木の居所を見つけられないだろう。悠長な時間はない。そもそもケータイが警察に押収されたままで、普段使っている情報網と連絡がつかない。
 こうなったら最後の手段しかない。
「……あきらめよ」
 街を歩きながらボソッと呟いた。
 ――コロスから。
 刺すような寒気が華艶の背筋を走った。
 カエンJr.を押し付けられたときに、一緒にあった手紙の一文だ。それを思い出した瞬間、華艶は身の毛もよだつ思いをした。
 あの手紙を書いたのはいったい誰なのか?
 心当たりはあるにはあるが、事件とは結びつかない事柄多すぎて、それはないと華艶は除外していた。
 でも、まさか……。
 真相を確かめようにも、相手との唯一の連絡手段であるケータイがない。
 そもそもケータイがあったとしても、華艶はその人物と数年連絡を取っておらず、本当にその電話番号にかければ連絡がつくのかわからない。
 たった一文で自分をこんなにも怯えさせる人物は、世界でただ1人しかいないと華艶は確信している。けれど、やっぱりその人物と事件の接点がゼロなのだ。
 考えても考えても、接点が浮かび上がってこない。
 とりあえず華艶は近くにあったネカフェに入った。
 足がつかないように支払いはもちろん現金。しかも、そのお金はアリスに借りたものだった。
 ――あまりわたくしも蓄えはないのですが……。というアリスのポケットマネーを無理やり3万円だけ借りたのだ。持ち物を全て押収されていて、コンビニのATMすら使えないし、おそらく警察に凍結させられている。
 個室に入った華艶は普段使っているフリーのメアドから、1番使えそうな友人に連絡を取ることにした。さすがに警察もフリーのメアドにまで手が回るはずもなく、華艶の友人ひとりひとりが誰とメールを交換するかまで手が回らないはずだ。
 華艶がメールを送ったのは街の小さな喫茶店のマスター。その裏の顔は情報屋兼、モグリのTSに仕事を紹介する斡旋業。
 ――事件に巻き込まれちゃった、助けて。からメールのやり取りははじまった。
 マスターの京吾も事件のことを当然のように知っていて、華艶は朽木の現在の潜伏先、コーヒーショップから消えたカエンJr.の消息、そしてお金の工面を頼んだ。
 それから華艶はネカフェを後にして、ファミレスで京吾を待つことにした。
 これからの戦いを前に腹ごしらえをしていると、数十分ほどして京吾が姿を見せた。
「お待たせ、はいこれお金」
 お金の入った封筒をテーブルに滑らせた。
 華艶は封筒からお金を出して数えはじめた。1万円札が10枚あった。華艶の顔は不満そうだ。
「ちょっと少なくない?」
 向かいの席に座った京吾はため息を吐いた。
「十分でしょう」
「だって買収費とか必要になるかもしれないジャン?」
「華艶ちゃんなら別の方法でいくらでも買収できるでしょう」
「それにもしかしたら何日間か逃亡しなきゃいけないかもしれないしー」
「そうなったらまた届けてあげるよ」
 京吾はポケットからケータイを出して華艶の前に置いた。
「はい、これ僕のサブケータイだから使ってね。あと充電器も」
「さすがマスター準備がいい! で、朽木と赤ちゃんの行方は?」
「そんなに早くわかるはずないでしょう。わかったらそのケータイに連絡いれるから」
 さっそく華艶はケータイの操作をはじめた。電話帳に登録してあるのは1件だけだった。
「マスターの連絡先だけしか登録されてないけど?」
「普段は誰も登録してないのだけど、僕のだけ入れておいたから」
「そうなんだ」
「それじゃ、僕は店に戻るから」
 席を立った京吾を華艶は引きとめようとする。
「もう行っちゃうの?」
「店をトミーさんに任せてきたから早く帰らなきゃいけないんだ」
「……せっかくここの勘定払わせようと思ったのに」
「今までの分は僕が払っておくよ」
「さすがマスター、大好き!」
「おだてても10万円はちゃんと返してね。あとケータイは壊したら弁償だから」
「は~い」
 まるで幼稚園児みたいな返事をした。
 京吾はテーブルに置かれていたレシートを持って、なにかを思い出して華艶の顔を見た。
「そういえば、TSの夏凛さんが警察に捕まったよ」
「マジ?」
「朽木のボディガードを1人殺したそうだよ」
「惜しいとこまでは追い詰めたんだ」
「それじゃ、本当に帰るね」
「バイバーイ」
 軽く手を振って京吾を見送り、華艶は前髪をかき上げた。
「さてと、これからどーしよっかな」
 とりあえず、華艶はデザートを注文することにした。

《7》

 接見に来た弁護士に夏凛は首を傾げた。
「誰あなた?」
 自分が呼んだ弁護士ではなかったのだ。
 妖しい色香を纏った〝女〟だった。この〝女〟はたしか、ボロホテルで朽木と連絡を取っていた〝女〟だ。そんなやり取り夏凛は知る由もない。
「華艶と連絡が取りたいの教えて」
「はぃ?」
 自己紹介もなしにいきなりこれだった。夏凛は朽木の回し者かと思った。
 〝女〟は見るからに怒った顔をしている。
「早く教えてくれないかしら?」
「誰なのぉあなた? 朽木の回し者?」
「違うわよ。さっさと教えないとアナタ一生檻の中よ」
「それって脅迫ですかぁ?」
「脅迫っていうのはね……おんどりゃ! 早く華艶の連絡先教えんかボケカスがっ!!」
 鬼のような形相で〝女〟は強化プラスチックの仕切りを何度も殴り飛ばし、高く足を上げてパンチラも気にせず蹴りまで放った。
 接見室の異変に気付いた職員が慌てて部屋に飛び込んできたが、〝女〟は澄ました顔で何事もなかったように微笑んだ。
「早く出て行ってください」
 〝女〟は職員に金を握らせ、職員の背中を押して追い出した。
 正直、夏凛は引いた。ドン引きだ。
 軽く咳払いをして〝女〟は夏凛と再び向き合った。
「教えてくれる気になったかしら?」
「ちょっと考えてみてもいいケド、アタシのメリットは?」
「ハァ?」
 〝女〟は眉間にシワを寄せて、こめかみに青筋を浮かせた。
 夏凛よりもオトナのせいか、キレた夏凛よりも迫力が格段上なのだ。自分よりも怖い人だと夏凛は確信した。それと夏凛よりもキレやすい。
 17歳の乙女心を持つ少年は、手の平を返すことにした。
「どうすれば華艶と連絡が取れるか考えてみるので、少しだけ少しだけでいいので待ってください」
「1分よ」
 カップラーメンより断然短いタイムリミットだ。
 夏凛は頭をフル回転させた。
 ――そもそもなんでこの〝女〟は自分のところに尋ねに来たのか?
 夏凛と華艶は顔見知りではあるが、ぶっちゃけメアドも知らない仲だ。やはり、2人が一緒に逃亡劇を繰り広げたニュースを見て、仲良しさんだと勘違いしたのだろうか?
 一生懸命考えたが、なにも思いつかなかった。特別な状況で華艶と連絡を取る方法なんて、プライベートの付き合いゼロの夏凛に思いつくはずがない。
 しかし、ここで答えなければ絶対殺されると夏凛は思った。
 しかも簡単に殺してくれそういない。
 〝女〟は腕時計を見ながらカウントダウンをはじめた。
「10、9、8、7……」
 処刑のカウントダウンだ。
「4、3、3、2、1」
「わかりました、あれ、たしか華艶は神原の喫茶店でTSの依頼を受けたり、そこのマスターが華艶の情報屋だとか、そうそう、だから、たぶん、あれでそれで……」
「店の名前は?」
「モモンガです!」
 その情報はカエンJr.を強奪するため、夏凛が事前に調べていたことだった。
「ありがとう、礼を言うわ」
「どぉいたしまして」
 夏凛は顔を引きつらせて笑顔を作った。相手の〝女〟はお礼の言葉とは裏腹に冷笑を浮かべていた。
 〝女〟はローヒールを鳴らして姿を消そうとしていた。その後ろ姿を見て、ほっとしていた夏凛だったが、〝女〟が急に振り向いてぎょっとした。
 〝女〟は軽く会釈をして部屋を出て行った。
 今度こそ夏凛は胸を撫で下ろし、あの〝女〟はいったい何者だったのだろうかと頭を悩ませた。

 数時間前のこと、華艶は京吾からの電話を受けた。
 話を聴くと、匿名の女から電話があって、華艶に言付けを頼まれたらしい。
 ――PM10時にメイ区の波止場にある3番倉庫に来い。番地は××。
 そんな内容だったらしい。
 京吾から罠かもしれないと忠告されたが、情報不足の華艶は敵の懐に飛び込んででも、どうにか朽木を見つけ、カエンJr.を見つけなくてはならなかった。
 そして、華艶は電車を乗り継いで帝都の南、海に面したメイ区の波止場に来ていた。
 近くには人工灯もなく、月と星明かりを頼りに華艶は目的の倉庫を探した。
 華艶は誰が待ち受けているのか知らない。それでもこんなひと目のつかない場所で待ち受けている相手くらい容易に想像がつく。自分の協力者なら、もっと公共の場でいいものだ。
 3番倉庫を見つけた華艶は正面から乗り込んだ。
「こんばんは、かわいい女の子の配達デース」
 華艶の入ってきたドアが閉められ、倉庫の中は真っ暗になった。
 そして、誰かが指を鳴らすと一斉にライトがつけられた。
 勝ち誇ったような顔をしていた男が、急に驚いた顔に変わった。
「……なぜ貴様が?」
 それは朽木だった。周りには大勢の男たちが銃を構えて立っている。
 朽木にとっても予期せぬ事態だったらしいが、なにも聞かされずに来た華艶のほうが首を傾げたい。
「あたしもね、なんで呼び出されたのかわかんないんだけどー、とにかく赤ちゃん返して」
 華艶の目にはカエンJr.の姿が映っていた。
 朽木の傍らに立った男がカエンJr.を抱きかかえている。カエンJr.は薬で眠らされているのか、ぐったりして動かない。
 やはり、朽木が手を回して、カエンJr.を奪っていたのだと華艶は確信した。
「ねえ、早く返して」
「この赤ん坊はあの女を誘き寄せるために必用なのでな、貴様に渡すわけにはいかん」
 そう言って、朽木は仲間に〝殺れ〟の合図を送った。
 銃弾の雨を躱しながら、華艶は手に炎を宿した。
「爆炎![バクエン]」
 噴火口から噴出す岩石のように、いくつもの炎の塊が華艶の手から放たれた。
 ヒットされた的は刹那のうちに燃え上がり、壮絶な苦痛で床の上でのたうち回る。
 華艶は木箱の後ろに身を隠した。
 脳味噌を打ち抜かれない限りは死なない自信はあるが、問題は人質だった。相手がブチ切れでもして、カエンJr.を殺しでもしたら元も子もない。
「出て来い、赤ん坊を殺すぞ!」
 怒鳴り声が倉庫に響いた。
 こんな脅しをされているうちは、まだカエンJr.をすぐには殺さない。
 華艶は両手を頭の上にあげて、ゆっくりと姿を見せた。
「降参するから撃たないで。降参ついでに教えて欲しいことがあるんだけど?」
 朽木はなにも答えなかったが、華艶は話を続けた。
「本当はあたしじゃなくて、別の女がここに来るわけだったんでしょ。でさ、赤ん坊を人質に捕ってその女とどんな取引する気だったのよ?」
 華艶には依然として大量の銃口が向けられている。もう華艶を追い詰めたと思ったのか、朽木の口は軽くなった。
「……弁護士の女がくるはずだった。そいつは俺の事件の重要な証拠を握っている。次の法廷であいつはその証拠を必ず出してくる。そうしたら俺の人生は破滅だ」
「それってもしかして女子大生がアンタにレイプされた事件?」
「そうだ、俺にレイプされたくらいで自殺するなんてバカな女だ。だがな、いい身体していたからな、死んじまったのは残念だ」
 下卑た笑いを浮かべた朽木に華艶は嫌悪感を覚えた。
「他に何人レイプしたの? 自殺したのは1人でも、アンタに犯されたのは1人じゃないでしょ!」
「ククッ、覚えてないな。何人とヤッたかなんてイチイチ覚えてない。印象に残っているのは自殺した女だけだ。そうだ、お前も今からレイプしてやろうか?」
「外道め……」
 華艶は全速力で朽木に向かって走った。
 銃弾が華艶の肩を貫いた。
 血などすぐに止まる、華艶は走り続けた。
「爆炎!」
 華艶の放った炎が肉を焼く。次々と朽木の手下たちが灰と化して逝く。
 銃弾が華艶の太腿を貫いた。
 刹那、バランスを崩した華艶に銃弾の雨が降り注ぐ。
 心臓を押さえて華艶が背中から倒れた。
 身動き1つしなくなった華艶を、銃を向けた男たちが輪をつくって囲む。その輪を一歩抜け出して、朽木が華艶を見下した。
「惜しいことをした。旨そうな身体をしていたのだがな……」
 ねっとりとした視線で、朽木は華艶の太腿を視姦[シカン]し、スカートが捲りあがって見えているパンツを覗いた。
 朽木はゆっくりと華艶に近づき、心臓の上に置かれていた華艶の手を足先で退かした。
 驚愕する朽木。
 豊満な華艶の胸には血の痕などなかったのだ。
 朽木の理解と同時に華艶は跳ね上がり、バタフライナイフを抜いて朽木を人質に取った。
 首に刃を軽く押し当てられながらも朽木は余裕だった。
「いい胸をしているな」
 自分の背中に当てられた華艶の胸を褒める余裕の見せようだ。
 朽木は言葉を続ける。
「俺を人質にしたくらいでこの場から逃げられると思っているのか?」
 肉の焼ける異臭が倉庫内に漂い、黒焦げの屍体が床にはいくつも転がっている。だが、まだ朽木の手下は10人以上いる。それが皆、華艶に照準を合わせていた。
 ここにいる者たちは、おそらく朽木に金で雇われている者だろう。そんな者たちにとって朽木が死ぬことは望ましくない。ただし、朽木が死んだ瞬間、華艶は蜂の巣にされるだろう。この距離で撃たれれば確実に脳味噌も吹き飛ばされる。
 華艶は朽木を殺せない。けれど、男たちも手を出せない。一種の信頼関係が敵と味方で築かれる特殊な状況だった。
 ここで朽木と逃亡したところで、カエンJr.を救えない。
 華艶は深く息を吐いた。
 もし、朽木とカエンJr.をここで交換した場合どうなるだろうか?
 もっと言うならば、カエンJr.を手に入れれば、撃たれない保障はあるか?
「よし、交換しましょ。このオッサンと赤ちゃん」
 華艶の出した判断はそれだった。
 物陰に隠れていた男がカエンJr.を抱いて出てきた。近づいてこようとするその男を華艶は制止させた。
「待った、その子は向こうに置いてくれない?」
 華艶は指さしたのは、誰もいない倉庫の出口近くだった。
「言うとおりにしてやれ」
 朽木の指示で男はカエンJr.を出口の近くに置いた。だが、まだその場を離れない。
 ここからが取引の本番だ。
 華艶が朽木を放すのが先か、男がカエンJr.の元を離れるのが先か。
「俺のことを放してもらおう?」
 朽木は自分が先だと言った。
「だめ、あの男が赤ちゃんから離れるのが先」
 華艶も譲らなかった。
 信頼関係のない取引は、どちらも譲らない状況になる。
 バタフライナイフを握っていた華艶の手が素早く動いた。
「ぐぎゃっ!」
 刃先が朽木の太腿を突き刺し、すぐにまた首に当てられた。
「早くあの男に離れるように命じてくれない?」
「く……わかった……絶対にそのガキを渡すな!」
 朽木はブチ切れて叫んだ。
 脅しが逆効果になってしまった。
 華艶は軽く舌打ちをした。
 状況は最悪だ。
 もう絶対に朽木は譲歩しない。
 カエンJr.の傍らに立っていた男が、急に呻いて倒れた。
「はい、そこまで!」
 倒れた男を蹴飛ばし、その〝女〟はビデオカメラを持ったまま、カエンJr.の傍らに膝をついた。
 その〝女〟を見た華艶は叫ばずにはいられなかった。
「姉貴!?」
 そう、女の正体は華艶の姉――麗華だったのだ。
 麗華の持つビデオカメラは、もう片方の手に持っているバックの中に入ったPCに繋がれていた。
「確実な証拠を掴むにはこれがいいと思って、全部ネットで生中継させてもらっているわ」
 今この瞬間も、ビデオカメラの映像はネットを介して世界中に配信されていた。
 もうこれで朽木は破滅だ。
 華艶との会話の中で、朽木は自供をしていた。もう弁解の余地もない。
 力なく朽木は膝から崩れた。
 パトカーのサイレンの音がした。
 金で雇われている男たちが次々と逃げていく。
 朽木の味方は誰もいなくなった。そして、警官隊が突入してきて、朽木の身を拘束した。
 ビデオカメラを止めた麗華が、カエンJr.を抱いて華艶の前にやって来たと思った瞬間、強烈なビンタが華艶の頬を抉った。
「アンタね、ちゃんとめんどう見ないとコロスって書いてあったでしょ、ばっかじゃないの、シネ!」
「……ご、ごめんなさい」
 他の者だったら言い返して、殴り返していたところだが、姉にだけはぐうの音も出なかった。
「謝って済むと思ってんの?」
 ブチキレている麗華だが、カエンJr.に頬擦りをはじめた瞬間、急に聖母のような笑みを浮かべた。
「だいじょぶだったでちゅか呉葉たん。バカな妹のせいで怖い目に合わせてごめんなさい。でも、呉葉たんを連れて朽木から逃げるのは大変だと思ったの、でももうママは絶対呉葉たんのこと離さないからねー」
「……ハ?」
 華艶は物凄い言葉を聴いて自分の耳を疑った。
「今、姉貴……ママって言った?」
「ウッサイ、親子の感動の対面なんだから邪魔しないで!」
「違くて、その子……姉貴の子?」
「そうよ、だからなに?」
「はぁーーーっ!!」
 倉庫にいっぱいに響き渡る声をあげた。
 脳裏に浮かぶ質問の数々を華艶は一気に吐き出した。
「いつ産んだの? てゆか、結婚してんの? じゃなくて、いつ弁護士になったのっていうか、子供生んだなら連絡くらいしてくれたっていいじゃん!」
「なんでアンタになんか連絡しなきゃいけないのよ」
 めんどくさそうに麗華は薬指の結婚指輪を見せた。
「ありえない……姉気が結婚するなんてありえない」
 自分の結婚イメージも湧かないが、姉の幸せそうな結婚なんて断固としてありえなかった。
 華艶は頭を抱えてしゃがみ込み、麗華はまだ気を失っている呉葉に頬擦りを続けていた。その横を警官に連行されながら、覚束ない足取りの朽木が通り過ぎようとしていた。
 事件はそのとき起こった!
 両手に手錠を嵌められていた朽木が逃亡を計り、警官の制止も聞かずに気を抜いていた麗華に体当たりをしたのだ。
 思わぬことに麗華は朽木に呉葉を奪われてしまった。
 しかし、両手に手錠を嵌められていた朽木がどうやって?
 手錠はすでに片手にしか嵌められていなかった。もう片方の腕には手首がなく、代わりに機関銃の銃口がついていた。朽木は義手だったのだ。
 呉葉を脇に抱えながら朽木は機関銃を周りに向けた。
「近づくなッ!」
 血走った眼で咆えた朽木の表情は狂気そのもの。そして、その顔は別人のように老け込んでしまっていた。
「皆殺しにしてやる、アアアアアァァァァッ!!」
 機関銃から銃弾が連射され、警官たちが次々と負傷していく。
 そんな中、麗華ただ独りが朽木に向かって走っていた。
「呉葉たんを返せクソッタレ!」
 銃弾は麗華の身体を貫いた。しかし、麗華には華艶と同じ血が流れていた。血はすぐに止まり、麗華は決死の覚悟で朽木に飛びかかろうとしていた。
「姉貴!」
 華艶が叫んだ。
 たとえ驚異的な治癒力を持っていようと、痛みを感じ銃弾を多く受ければ回復もままならない。そして、脳に損傷を受ければ死に至る。
 それでも麗華は我が子を護るために走った。
「呉葉たん!」
 そのときだった。
 気を失っていた呉葉が目覚めた。
 そして、呉葉が大声で泣いた刹那、朽木の身体は猛火に包まれただのだ。
「ギャァァァッ!!」
 悲痛な悲鳴をあげて朽木は呉葉を落とした。
 地獄の炎は激しい恐怖で朽木を包み、黒い灰を天に舞い上げた。
 麗華が煤を被った我が子を拾い上げたとき、すでに朽木はこの世にいなかった。
 床に残された黒い人型の灰。
 麗華は蹲り、抱え込むように呉葉を抱きしめ、ただなにも言わずじっとしていた。
 すべて終わったのだ。
 華艶は麗華の傍らに立った。
「姉貴……」
 すると、麗華は何事もなかったような顔つきで立ち上がってこう言った。
「さっき思ったんだけど、アンタね、イチイチ炎を扱うときに必殺技の名前を口に出すのやめなさい。カッコ悪いわよ」
「はい? なに言ってんのカッコいいじゃん。それに叫んだほうが気合も入るしー」
「アンタが技の名前叫んでるの全部ネットで流れちゃったんだから、姉としてカッコ悪いったらありゃしない」
「はいはい、ごめんなさいねー」
 華艶は横目でチラリと姉の瞳を見た。その瞳からは涙が滲んでいた。誰のために流された涙か、華艶にはちゃんとわかっていた。
「姉貴みたいな子に育つんじゃないぞ~」
 呉葉の頭を撫でて華艶はニッコリと微笑んだ。

 事件後、被疑者死亡のまま裁判がはじまり、朽木の罪が全て世間の公になった。
 華艶と夏凛の誤認逮捕も証明されたが、逃亡の際に負傷させた警官や、引き起こした交通事故当等で、多額の賠償請金を払うことになった。
 そして、華艶はアリスと京吾に借金返済を待ってくれと頭を下げに行ったらしい。

 ベイビーオブフレイム(完)


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