第18話_トランスラヴ

《1》

 放課後、薬品調合実習室で居残りをしているルーファス。その付き合いをさせられているローゼンクロイツと、そのおじゃまをしているビビ。
 今日の錬金術の授業で、薬品の調合が上手くいかずに、緑色の煙を教室に充満させるという事故を起こし、それを反省して自主的にルーファスは復習にいそしんでいた。
「そこの試験管、青いやつを取ってくれないかな?」
 目の前のビーカーを真剣に見つめながら、手だけを二人に向けた。
 が、だれも試験管を取ってくれない。
「あの、試験管を……」
 振り向くと、ローゼンクロイツとビビは楽しい錬金実験をしていた。
「この薬品とこの薬品を混ぜて、少しボクの魔力を加えてやると(ふあふあ)」
「なになに、なにが起こるの?(ワクワク♪)」
 大きめのビーカーに薬品を入れて、そこにローゼンクロイツが指先を浸けて、素早く離した。
 すると、ビーカーの中で錬金反応が起こりはじめた。
 はじめは小さな粒だった。それがだんだんとコンペイトウのようになり、やがて七色に輝き踊りだした。
「すっごーい、わぁキレイ♪」
 ビビは目を星のように輝かせて喜んだ。
 さらにローゼンクロイツは液体に指先を浸けて魔力を注ぐ。
「生まれる結晶は魔力を注ぐモノによって違うんだ(ふにふに)」
「アタシだったらべつのになるってこと? やりたいやりたーい!」
 楽しそうにはしゃぐビビを恨めしそうに、ルーファスは生温かい眼で見つめていた。
「(手伝ってくれるって言ったのに遊んでるじゃないか)」
 だれも試験管を取ってくれないので、仕方がなく目の前の調合中のビーカーから目を離して、青い液体の入った試験管に手を伸す。
「ん~、んん~っ(届かない)」
 あとちょっぴり届かない。ぷるぷると腕が震える。
 微妙に悪戦苦闘するルーファスを放置して、ふたりは楽しげに実験を続けている。
 新たに作り直した液体の中に、ビビはおそるおそる指を浸けようとしている。
「いきなり爆発することないよね?」
 尋ねるとローゼンクロイツは、横で新たな調合に夢中だった。シカト。仕方ない、彼は我が道を行くひとだ。
「ねぇねぇ、ルーちゃん見て見て!」
 だれにも構われないとつまらないので、ルーファスに声をかけるが、こっちも現在必死だ。
「ちょっと今忙しいんだ、あとでね」
「もぉ!」
 ぷくっと頬を膨らませて、ビビはプイッとそっぽを向いた。
「いいも~んだ。アタシだけ楽しいことしちゃうもんね!」
 大きな声で言ってから、ビビは一気に指をビーカーの中に入れた。
 ピューン、パンパンパン、パーン!
 ビーカーから打ち上げ花火が連続して上がった。
 弾け飛ぶ火花が煌めきながら躍り、直撃を喰らいそうになったルーファスが悲鳴を上げる。
「ぎゃっ!」
 髪が焦げ、慌てた拍子に試験管を倒し、ビーカーの中身をぶちまけた。
 そして、床にできた水溜まりに火の粉が落ちた瞬間!
「ルーファスはおらんか?」
 教室にカーシャが乗り込んできた。
 ピンクの煙で視界が奪われる。
「げほっ、げほっ……(なにごとだ、またルーファスがしでかしたか?)」
 煙を手で払いながらカーシャはルーファスを探した。
「ルーファス、ルーファス!」
 手探りをしていると、むにゅっとした感触に触れた。
 煙が晴れてきて、ルーファスとカーシャが目を合わせる。
「「ギャーーーーッ!」」
 一斉に二人は悲鳴を上げた。
 ビビが当たりをキョロキョロ見回す。
「どうしたの!?」
 凍りついているルーファスとカーシャ。それを見たビビも凍った。
 いったいなにが起きたのか?
 カーシャが口火を切る。
「なんだこの爆乳は!」
 ルーファスの爆乳を両手で揉みしだきながら叫んだ。
「あうっ、む、胸!? カーシャこそそのマッチョ……」
 喘いで驚き、さらにカーシャを指差して指摘。
 女体化したルーファスと男体化したカーシャ。
 爆乳とマッチョ。
 ムキムキのボディで服がピッチピチで、まるでクマのような巨体。荒くれる漢の中の漢だが、顔は基本カーシャ。
 華奢な体とはミスマッチな爆乳と、元々髪も長くシルエットはまさに女の子。メガネっ娘属性もプラスされ、顔立ちも悪くないので、まさかの美少女。でも、ちょっと背が高い。
 変貌した自分のボディにショックを受けたカーシャは、背を向けるとスカートを捲り上げて、ナニかを確認した。
「生えとる!」
 ぱお~ん♪
 ルーファスは恐くて自分の体を確かめられない。
 二人に起きた肉体変化。ほかの者は?
 ビビは自分の胸に手を当てて確かめた。
「(ちっちゃいけどある!)アタシ平気だよ?」
 小さくても胸は胸!
 全員の視線がローゼンクロイツに集中する。
 何事もなかったように調合を続けている。
 呆れたようにビビがつぶやく。
「いつもどおりだね」
 カーシャがあとに続く。
「どっちでも構わんだろう」
 はじめから中性!
 どっちにしろローゼンクロイツは我が道を行く!
 カーシャはそのマッチョボディでルーファスに詰め寄り、首を絞めながらブンブンと振った。
「いったい、なんの、調合を、しておったのだぁーっ!」
「こんなこと想定外だよ! 僕はただ中和剤を……」
「それがどうしてこうなる!」
「わかんないよ、ビビに聞いてよ」
 ふんぬっ!
 というかけ声が聞こえてきそうな勢いで、カーシャは振り返ってビビを睨んだ。
 ビビは一歩後ろに下がって逃げ腰。
「知らないよ、ローゼンクロイツに聞いて」
 全員の視線がローゼンクロイツに集中したが、以前としてマイペースに調合を続けている。
 ドスン、ドスン!
 象のような足音でカーシャがローゼンクロイツに詰め寄った。
「説明しろ!」
「ん?(ふに)」
 なんか今やっとカーシャがいることに気づいたリアクションだ。しかも、マッチョボディを見てもまったく驚かない。
「『ん?』じゃないだろう『ん?』じゃ! どうして性転換したと聞いておるのだ!」
「なにが?(ふにゃ)」
「見てわからんのか、妾も、ついでにルーファスも性別が変わっておるだろう!」
「ふ~ん(ふにふに)」
「おまえだって変わっておるかもしれんのだぞ!」
 ゴッドフィンガーでカーシャはローゼンクロイツの胸を鷲掴みにした。
「…………(ん?)」
 ぽか~んとするカーシャ。
 念入りに胸をまさぐってみる。
 つるぺた、つるぺた。
「…………(変わっておらんのか?)」
 さらにカーシャは禁断の一手を使った。
「これでどうだ!」
 股間を鷲掴みッ!
 真顔のローゼンクロイツはボソッとつぶやく。
「いやん(ふにゃ)」
 背筋がゾッとしてカーシャは空かさず手を引いた。
 そして、ローゼンクロイツは無表情のまま口元だけで悪意のある笑みを浮かべた。
「……変態(ふっ)」
 思いっきりカーシャが弄ばれている。
 鷲掴みの結果をビビは興味津々。
「ね、どうだったの? 男? 女?」
「いや……それが……(細くて長くて固かった)」
 重大事件が起きたような深刻な顔で考え込むカーシャ。
 その傍らで何事もなかったように実験を続けるローゼンクロイツは、何事もないようにスカートの中の股の当たりから試験管を取り出した。
 それを見て唖然と言葉を失ったカーシャだったが、すぐにカッと頭に血が昇った。
「それかッ! ふざけるな、どんな場所に試験管を入れておるのか! いつからそんなキャラになったのだ!」
「たまにはいいでしょ(ふっ)」
 無表情のまま口元だけで笑った。なんかすごいムカつく笑い方だ。
 結局、ローゼンクロイツの性別はわかないし、彼はべつにどっちの性別だろうが構わないだろうが、カーシャとルーファスは大いに困る。
 ローゼンクロイツでは話にならんと考え、ビビに矛先が戻る。
「おまえが説明しろ、なにが起きたのか順序よく、サルでもわかるように!(あ、バナナ食べたい。帰りにでも買って帰るか、ふふ)」
「ええっと、ローゼンクロイツがおもしろい液体をつくってくれて、そこにあたしの魔力を注いだらいきなりドーン、バーン、キラキラってなって……でどうなったの?」
 とルーファスに顔が向けられる。
「私が調合していた中和剤とそれが魔導反応を起こして、気づいたらこの有様で……(どうしよう、この姿じゃ人前に出られないよ)」
「わかった、とりあえず調合した物を全部並べろ」
 カーシャの指示でテーブルに薬品などが1つずつ並べられる。
 腕組みをして仁王立ちをしたカーシャが唸る。
「う~ん、わからん」
「わかんないの?」
 ぽそりと言ったビビをカーシャが睨む。
「おまえのせいだ。不確定要素のマナの成分がわからなければ、中和剤なり解毒剤をつくることはできない」
 が~ん、ルーファスショック!
「やだよぉ、ずっと女の子のままなんて」
「妾だってマッチョなんて死んだほうがマシだ(死なんがな、ふふ)」
 二人にとっては死活問題だが、ローゼンクロイツは相変わらず黙々と、ビビは楽しそうにしている。
「いいじゃん、おもしろいし」
「「よくない!」」
 二人の声が揃った。
 ビビはお構いなしだ。
「せっかく女の子になったんだし、アタシと同じ髪型にしようよ。ねっ、ルーちゃん♪」
「えっ(すっごくイヤなんですけど)」
 凍りつくルーファスに詰め寄ったビビは、予備の髪留めのゴムを両手でビヨーンと伸ばし、ニコニコしながらルーファヅに見せつけた。
 逃げ腰のルーファスは1歩、2歩、と後ろに下がる。
 攻めるビビは3歩、4歩と間合いを詰める。歩くたびにニコニコが、ニヤニヤに変化している。
「逃がさないんだからっ」
 ビビが飛びかかった!
 捕まるルーファス。後ろで雑に結わいていた長髪をほどかれ、髪を二等分されて素早く結わかれた。
 ぴょんぴょんっとルーファスの頭で2本の尻尾が揺れる。
「うんっ、カワイい♪」
 目をキラキラさせて自分の作品を見つめるビビ。女子のカワイイは信用ならない。
「あとは女の子の服を着ればばっちり!」
「勘弁してよぉ」
 困った顔をするルーファスを見つめていたビビの表情が曇っていく。
「でも……アタシの服じゃ入らない(とくに胸が)」
 貧乳でも胸は胸!
 だいじょうぶ、ローゼンクロイツだって胸ないし!
 女子の服を着てはいないが、元々ルーファスがいつも着ている魔導衣は、シルエット的には男女兼用なデザインで、裾も二股に分れていないスカートっぽい感じなので、この服でも十分に女子で通用するだろう。
 ただ、もうひとりの被害者は変態が女装しているようにしか見えない。
「おまえら遊んでおらんで、解決方法を考えんか!」
「私に思い付くと思う?」
「あたしぜんぜんわかんないし」
 二人の顔を見てカーシャは溜息を吐いた。
「…………(だろうな、役立たずどもめ)」
 はじめから期待していない。残るひとりの空色ドレスは、その類い希なる魔導センスがあるが、性格的にまったく期待できない。
 カーシャは手のひらの上にポンとグーを落として叩いた。
「そうだ、パラケルススがいるではないか。おいルーファス、ちょっとパラケルススを探して来い」
「えっ、なんでも私が?」
「行けったら行け」
「やだよ、こんな姿で行けるわけないじゃないか」
「だれのせいで妾がこんな姿になったと思っておるのだ?」
「(絶対に僕のせいではないと思うんだけど)」
 思っても口には出さなかった。
 ビビはルーファスにじとーっと見つめられた。
「ひっど~い、あたしのせいだってゆーの?」
「そうは言ってないよ」
 そう目は言っている。
 ぷくぅっと頬を膨らませたビビは、
「仕方ないなぁ、あたしもついってってあげるよ」
「(いやいやいやいや、ついてくとかじゃなくて)ビビが行って来てよ」
「え~っ、めんどくさぁ~い。ケーキ1個で手ぇ打ってあげてもいいよん」
「(……なにも悪いことしてないのに)ひとりで行ってくる(なんだよ、みんなひどいよ)」
 そそくさと教室を出て行こうとしたルーファスにカーシャが声をかける。
「ついでにイチゴジュースを買ってこい」
「は?」
 唖然としながらルーファスは振り返った。
 その瞬間、カーシャが第一投振りかぶった。
 ビューン!
「ぐえっ」
 潰れたカエルのように呻いたルーファスのおでこに小銭がヒット!
 デッドボールだ。
 おでこを抑えて言いたがっていると、さらに別方向からビューン!
「いてっ!」
 ルーファスの側頭部に小銭がヒット!
 投げられた方向を見るとビビが笑っていた。
「あたしもイチゴジュース」
「なんでビビまで投げるのさ」
「だって楽しそうだったんだもん」
 ビューン!
 また小銭が飛んできた。
 今度は素早くルーファスは避けようとしたのだが、なんと小銭が分裂した!
 4枚の小銭がトルネード回転をしながら迫ってくる。
 魔球だ!
「ぶえっ!」
 ルーファスの顔面にヒットした小銭が、チャリン、チャリン、チャリン、チャリンと音を鳴らしながら、床に次々と散らばった。
 ビビが目を丸くして驚く。
「お金を増やす錬金術!?」
 ボソッとカーシャが吐く。
「4枚投げただけだろう」
 魔球じゃねーし!
 ルーファスは小銭を拾いながら顔を上げ、困った顔をしてローゼンクロイツを見つめた。
「どうしてろーぜんくろいつまで投げるのさ?」
「そこに意味なんてあると思うのかい?(ふっ)」
 ほくそ笑みやがった!
 嫌がらせだ、絶対に嫌がらせだ!
「で、ローゼンクロイツはなに飲むの?」
 ルーファスが尋ねると、
「いらないよ、そんなもの(ふあふあ)」
 すっげー嫌がらせ!
 思わずカチンと来たルーファスは小銭を投げ返した。
 が、4枚とも目にも止まらぬ早さでローゼンクロイツはキャッチした。
「お金は大切にしないといけないよ、ルーファス(ふあふあ)
 おまえが先に投げたんだろう。
 嫌がらせを受けて時間を潰してしまっていると、カーシャは痺れを切らせて怒り出した。
「さっさと飲み物買って来んか!(のどが渇いて堪らん)」
 なぜのどがそんなにも渇くかって?
 カーシャはここにあった材料でわたあめっぽい食べ物をつくり、ビビと、ビビといっしょに食べていた。
 それを見たルーファスは声をあらげる。
「ビビまで!?」
 声に反応してビビがこっちを向いた。
「ん、ジュースまだ買ってきてないの?」
「…………(買ってきてないよ)」
 無言で思いながら、ルーファスはさっさと教室を出ることにした。ここにいたらまた絡まれそうだ。
「……なんで僕だけいつも」
 ビューンっと飛んできた小銭がルーファスの後頭部に当たった。
 振り返るとローゼンクロイツが指を一本立てていた。
「今はコーラの気分(ふあふあ)」
 やっぱり頼むんかいっ!

《2》

 小銭戦争のやりとりですっかり忘れていたが、現在女体化絶賛公開中!
 ルーファスはハッとして廊下の影に隠れた。
 このフロアには実習室も多くあるせいで、放課後も生徒たちがチラホラいる。
 学園都市と言ってもいいほどの生徒在籍数なので、知らない顔とすれ違う確率のほうが高い。とは言っても、知り合いじゃないからって、今の姿はあまり見られたくないものだ。
 今回のミッションを確認しよう。
 目的は二つ。
 その1、飲み物を買ってくる。
 その2、パラケルスス先生に助けを求める。
 飲み物は学院内のいたるところに自販機があるので、ミッションレベルは高くないだろう。ただ4本も持ち歩くのが大変そうだ。
「(しかもローゼンクロイツはコーラって)」
 炭酸は振ると危険だ。
 廊下をそろりそろりと気配を消して進む。
 ルーファスはビクッと背中をさせて振り返った。後ろから男子生徒が歩いてくる。
「(バ、バレないかな)」
 男子生徒に背を向けながら、壁の掲示物を眺めるフリをしてやり過ごす。
 とくに男子生徒はルーファスには気を止めずに歩き去っていく。その後ろ姿をチラ見したルーファスは、ほっと胸を撫で下ろして溜息を吐いた。
「(心臓に悪い)」
 ひととすれ違うたびにこの調子だったら、かなりの心的負担だ。加えて、こんな調子じゃいつまで経ってもミッションをクリアできない。
 さっさとミッションを終わらせてしまいたい。
「クイック!」
 一時的に瞬発力を高め高速移動を可能にする魔法を唱えた。
 ルーファスが廊下をダッシュする。
 そこの角を曲がれば自販機はすぐそこだ!
 一気にカーブを曲がった瞬間、目の前に人影が飛び込んできた。
 ぼにょ~ん!
 ルーファスの爆乳に男子生徒がダイビング!
 相手は尻餅をついて倒れ、ルーファスは咳き込んだ。
「げほっ、げほげほっ……いった~」
 声帯も変わっているため、あげた声まで女の子っぽい。
 高速移動していたためかなりの衝撃で、ルーファスは胸を押さえてうずくまった。
「(胸を潰されるとすごい痛い……はっ!?)」
 押さえている胸が自分の胸であって自分の胸でないことに、ハッと気づいて顔を真っ赤にして離して立ち上がった。
 頭から湯気を出して呆然とパニックになっているルーファスには、男子生徒が頭を下げながら声をかけてきた。
「すみません! 大丈夫でしたか?」
 ポロシャツにジーンズ姿のラフな格好で、腰のバッグにはいろいろな魔導具が詰め込まれていた。
 そして、顔を上げた彼はサラサラの髪を靡かせながら、メガネの奥の優しそうな瞳で笑った。
 キラリーンと光る白い歯。
 その精神的なまぶしさにルーファスはたじろいだ。
「だ、大丈夫です(人間と接触してしまった)」
 さっさとこの場から立ち去りたい。
 逃げるように背を向けて小走りで駆け出すルーファスに声がかけられた。
「待って」
 呼び止められたが振り返りたくない。声すら出したくない。できれば関わりたくない。
「キミの名前は?」
 名前を聞くなんて興味津々過ぎる。
 本名を名乗れるわけもなく、気の利いた偽名も浮かばず、ルーファス逃亡!
「マギ・クイック!」
 ルーファスは魔法を唱えた。マギはメギを最上級として、メギ・マギ・ラギ・ピコの上から2番目。ルーファスが扱える中では高等だ。
 目にも止まらぬ早さで一気に廊下を駆け抜け、クイックの効果が切れた瞬間、今までの勢いに体がついていけず、ルーファスはロケットのようにぶっ飛んで壁に激突した。
「ぶべっ!!」
 潰れたトマトにはならずに済んだが、全身を強打してかな~り痛そうだ。
 力なく床に倒れたままルーファスは動けない。
「(死ぬ)」
 学院内で壁にぶつかって死ぬなんて、しかも女体化したまま。
「まだ死ねない!」
 声をあげてバシッと立ち上がった。
 女体化したままなんてイヤすぎる。友人知人家族にまで、ルーファスは女として死んだと心に刻まれてしまう。
「(とくに父に知られたらと思うとゾッとする)」
 ただでさえ見放されて勘当寸前なのに、女になりましたなんて知られたらどうなることか。
「(世間体とか気にするひとだから、絶対に存在自体が歴史から抹消される。お墓も建ててもらえなくて、モンスターのエサにされて骨まで溶かされるとか)」
 最悪すぎる。
 そうならないために早く男に戻らなくては!
 と、その前に、ルーファスは床に落ちていた小銭に気づいた。壁に激突したときに、預かっていた小銭を落としてしまったらしい。
「ジュースなんか買ってる場合じゃ……」
 ぶつぶつつぶやきながら小銭を拾い、最後の1枚に手を伸したとき、男の手が伸びてきてルーファスの手に触れた。
 ゾゾゾっと寒気がして素早く手を引いて、顔を上げて見るとさっきの男子生徒がいた。
「はい、これで全部?」
 最後の1枚を拾った男子生徒が、さわやか笑顔で小銭を差し出している。
「ありがとう……ございます」
 手のひらを出して小銭を受け取った瞬間、手と手が触れた。
 ルーファス滝汗!
 心臓がバクバクして、その場から動けなくなってしまった。
 男子生徒は輝く眼差しでルーファスを見つめている。
「俺の名前はルシ・ハグラマ、魔導工学科の4年生。キミは?」
 魔導学院は4年生から魔導普通科と魔導工学科に分れる。ちなみにルーファスは魔導普通科の4年生だ。
 また名前を聞かれてしまって、やっぱり気の利いた偽名も浮かばない。
 そして再び逃走!
「マギ・クイック!」
 目にも留まらぬ速さで廊下を駆け抜けたが、途中で筋肉が悲鳴を上げた。この魔法は身体の負荷がハンパないのだ。
 グギッ!
 足首をひねってルーファスが転倒。
 そこへちょうど人影が通りかかった。
「危ない!」
 叫んだルーファスに顔を向けた人影。
 ぼにょ~ん!
 相手の顔面に爆乳アタックが決まった。本日2度目である。
 尻餅こそつかなかったが、片手を廊下に突いて、そのまま立ち上がろうとしている人影。
「廊下を走るのは危険だよ、お嬢さ……ん?」
 途中まで言いかけて唖然とした。
「ルーファス、ルーファスか!?」
 知り合いだった。爆乳アタックを食らわせてしまったのは、同級生のクラウスだ。
 その爆乳をガン見して驚くクラウスは、ハッとして顔を赤らめて背けた。
「(思わずレディの胸を直視して……レディではなくルーファスか)どうしたんだルーファス?」
「あはは、どうしたって……なにが?」
 言い訳すら思い付かなかった。
「なにがって、その……胸になにか入れているのか?」
「ちょっと腫れちゃって」
「声も高いというか、体付きも丸みがあるというか……」
 奇異なモノを見るような目つき。完全に疑っている。
 二人の間に微妙な空気が漂っているところへ、ルシが追いかけてきた。
「ハァ、ハァ……まだ名前を……」
 肩で息を切って膝に両手をついている。
 クラウスはルシを一瞥した。
「だれだいルーファス?」
 ルーファス。
 たしかにそう言った――ルーファス。
 気づいたルーファスはマズそうな顔をした。
「げっ(聞き逃してないかな)」
 聞き逃すハズがなかった。
「ルーファスっていうんだ。まるで男の子みたいな名前だね」
 てゆーか、男の子です。
 ササッとクラウスはルーファスの横に立ちそっと耳打ちをする。
「彼、ルーファスのことレディだと思っているのかい?」
「まあ、なんていうか、事故っていうか……(体は女の子だし)」
 コソコソ話をする二人にルシがニコニコしながら近づいてきた。
「仲がいいんだ、王様と」
 キリっとした目つきでクラウスは一瞬ルシを見た。
「(敵意を感じた)ただの友人だ」
 なぜか慌てるルーファス。
「そ、そうだよ、だたの友人だよ!」
 なぜか焦る。
 変なところで焦るものだから、すっごい疑惑の眼差しを向けられた。
「てっきり、王様の妾(めかけ)かなって」
 クラウスのこめかみがピクッと動いた。
「妾とは失礼な。そもそも僕は未婚だ」
「王様は女遊びがお盛んだってもっぱらのウワサだから」
「どこの噂だ!」
 身を乗り出して声を荒げたクラウスをルーファスが小声でなだめる。
「まあまあ、ほらクラウス女の子に優しいから勘違いされてるっていうか(実際、ストーカーっぽい子とかに付きまとわれたり、自分が彼女だって名乗り出る子も多いし)」
 親密なふたりのようすをルシは表面的な笑みで見つめている。
「ルーファスさんが王様のモノじゃないなら、別に俺がモーションかけてもいいよね?」
 モーション――異性の気を惹こうとする振る舞いのこと。うん、わかっていたけど確定だね!
 コイツ、ルーファスに惚れたなッ!
 ゾゾゾっと寒気がしてルーファスは後退りクラウスの後ろに隠れた。このクラウスを頼る行為が、絶賛疑惑を強めちゃいます。
 ルシが強引に出た。ルーファスの腕をつかんだのだ。
「院内にあるカフェで休まない?」
「えっ、えっ、えええ(な、なんだこの状況)」
 言葉に詰まるルーファスに変わって。クラウスがルシの腕を振り払った。
「レディはもっと優しく扱いたまえ」
 何気ない一言だったが、ルーファスの胸にズキューンと来た。
「(クラウスが僕のこと、レ、レディって……クラウスまでそんな目で……)」
 身体の芯から発汗してきて、顔は蒸気を噴きそうなほど真っ赤だ。心臓のバクバクが止まらない。
 そして、気づけばルーファスはクラウスの袖をギュッと掴んでいた。
 無意識だった行動にハッとして手を離すと、クラウスも気づいて微妙に顔を赤らめた。ふたりを包む微妙な空気。恥ずかしいやら、気まずいやら。知らない第三者からすると、どう映るのだろうか?
「俺とはダメなのかい?」
 寂しげな瞳。子犬の眼差しのような、キラキラうるうるの目からビーム攻撃。
 思わずルーファスはたじろいだ。
「ちょっとだけなら……」
 と折れたルーファスを身体ごとクラウスが遮る。
「いや、僕と約束があるんだ」
 ねぇーよ!
 ルーファス初耳。
「えっ、そんなのあったっけ?」
 ないない。
 クラウスがソッとルーファスに耳打ちする。
「彼とデートしたいのか? 僕に会話を合わせろ」
「デ、デデデ、デート!」
 目と口を丸くして声を張り上げたルーファス。ぷしゅーっと頭から湯気が出てふらっとしたところを支えられた。
 ルシがクラウスを睨む。
「離せよ」
「君こそ」
 クラウスは精悍な瞳で返した。
 ルーファスはサンドイッチ状態で二人に支えられたのだ。
 先に引っ張ったのはルシ。
「俺といっしょに」
 負けずとクラウスも引っ張り返す。
「僕と来るに決まっているだろうルーファス?」
 綱引きの縄状態でルーファスは両手を右へ左へ引っ張られる。
「ちょっと二人とも……(なにこの展開、男二人が僕を取り合ってる)」
 ポッと頬を赤らめ恥じらうルーファス。
 ルーファス、ルーファス正気を保て!
 おまえは男だッ!
「イチゴケーキと飲み物のセットおごるよ!」
 ルシが声を荒げながら今まで以上にグイッと引いた。
「店ごと、いや国中のケーキを買ってあげよう!」
 クラウスが乗せられてる。魔導産業で国を豊かに導いている名君が、国中のケーキとか暴言過ぎる!
 ルーファスは眉尻を下げてクラウスの身体を揺さぶる。
「クラウス、クラウス、君はそんなキャラじゃないだろクラウス!」
「はっ(僕としたことが、冷静さを欠いていた)」
 ふっとクラウスがルーファスから手を離した瞬間、ルシがグッと引っ張り抱き寄せた。
 熱く逞しい胸板に顔を置く形になったルーファス。
「(鍛えられてる)」
 同じメガネでもエライ違いだ。もやしっ子ルーファス。
 トク……トク……。 
 ルーファスの耳に微かな音が聞こえた。
 耳をすませば音は大きくなる。
 ドクドクドク……。
 脈打つ心臓の音色。早く力強い。
「(もしかして僕のことを想って……)」
 なぜかルーファスは胸がキュンとした。
 顔を上げるとルシがメガネの奥の真剣な眼差しでクラウスを見ている。猫背なので気づかれにくいが、ルーファスもそこそこ高身長だがルシはさらに長身で、こんな間近で殿方の顔を見上げるなんてドキドキものだ。ルーファスは男ですが。
 クラウスが腕を伸してルーファスの手を握った。
「僕と来るんだルーファス!」
 ぽわ~んと脳内お花畑な表情をしているルーファスにクラウスの声は届かなかった。
 勝ち誇った顔でルシがクラウスを見下ろす。
「しつこいよ王様、彼女は僕といっしょに行く運命なんだ」
 運命って!(笑)
 恋愛トキメキキーワードの上位にランクすると共に、スイーツ(笑)な雰囲気も同時に醸し出される魔法の言葉。今のルーファスにはキュンキュンきた。
「(イケメンな彼とデート……きゃは♪)」
 完全にキモイですルーファスさん。
 ルーファスは正気じゃないし、ルシは正気だけど大幅な勘違いに気づいてないし、クラウスは正気に返ったかと想われたが、剣の柄に手が触れそうな位置まできてる時点で冷静じゃない。
 3人とも空気がマトモじゃない!
 そこへ新たな風が吹いた。
 小走りでピンクのツインテールがぴょんぴょんやって来た。
「ルーちゃんおそ~い、カーシャさんがカンカンだよ……(ってなにこの状況)」
 一触即発な感じで乙女(男)を奪い合う構図になっている殿方ふたり。と、その片っぽの殿方に抱き締められているルーファス(絶賛心は乙女)。
 そのようすを見たビビがボソッと。
「キモッ」
 静かな廊下にはその発言は遥か遠くまで響き渡った。
 ルーファスとクラウスがハッと我に返る。
 そして、ルーファスはルシの身体を押し飛ばし、ビビをチラ見すると、真っ赤な顔を両手で覆い隠し小走りで駆けていった――内股で。
 ぜんぜん我に返ってねぇッ!!
 その後ろ姿にクラウスは片手を切なそうに伸した。
「……ルーファス」
 こっちもぜんぜん夢から覚めていないようだ。他人からしたら悪夢だ。
 ルシは呆然としている。
「なぜ逃げるんだ」
 同性だから。
 その事実を知らないルシはルーファスの後を追ったのだった。

《3》

 一方そのころカーシャは――。
「妾のプロテインはまだかーッ!!」
 注文の品が変わっていた。
 薄々わかっていたかも知れないが、じつはこの性転換は肉体のみの転換だけでは済まないようだ。
 つまり、ルーファスの一連のキモイ思考や行動も、決してルーファスが変態化したわけではなく、この性転換の仕業だったのだ。
 しかもどうやら、内面の変化は自然なモノというより、ちょっと振りすぎ――行きすぎてしまうようだ。
「妾の筋肉を見よ!」
 両腕に力こぶをつくってマッスルポーズ。
「この美しい筋肉を見るのだーッ!(ふふっ、筋肉バカ)」
 自分の筋肉に惚れ惚れしてニヤニヤするカーシャ。もう不気味すぎて勘弁して欲しい。
「この筋肉が目に入らぬかーッ!」
 マッスポーズを次々と変化させながら、自称美しいボディを見せつける。
 その見せつけられている相手はというと――無反応!
 黙々と調合実験を続けているローゼンクロイツ。
 彼、いや彼女、いや、彼……とにかくローゼンクロイツも性転換して、女体化しているハズなのだが、乙女チックに内面がなってないようだ。というより、なっていてもよくわからない。ローゼンクロイツはどんなときでも例外扱いだ。
 華麗にシカトするローゼンクロイツにカーシャが迫る。ついに服を脱いでその全裸まで披露した。
 ちょっとした過ちなので、カーシャの名誉のために詳細な全裸描写は控えよう。その変わり、その全裸をやっと顔を上げて見たローゼンクロイツの表情から察してみることにしよう。
 無表情。
 3秒後――無表情。
 5秒後――無表情。
 10秒後――無表情。
 30秒後――無表情。
 この間、瞬きもせずカーシャを見つめていた。
 そして、顔を下げて黙々と調合に戻る。
 この間、何十回とポージングを変えたカーシャは、相手の無反応っぷりに怒りを通り越して、ただただショック!
「(もうローゼンクロイツとは遊んでやらんも~ん)」
 傷心を背負いながら、猫背でカーシャはいそいそと服を着始めた。
 と、カーシャが見ていないところで、ローゼンクロイツは一瞬ニヤリと笑った。
 そして、何事もなかった空気感が流れる。
 無駄な筋肉披露に飽きたカーシャはお茶を啜る。
「やはり茶に限る」
 てか、飲み物あるじゃん!
 しかもイチゴジュースじゃなくてもいいのかよ!
 ホントもうテキトーだな!
 そして、一服を終えたカーシャがビシッとマッスルポージング!
「妾の筋肉を見よーッ!」
 と、結局筋肉を見せることをやめなかった。
 こんな強制筋肉披露会がイヤで、ビビは教室を飛び出してルーファスを探しに行ったんだったりする。

 そのころ逃走を続け、学院を飛び出していた。うっかり女体化のことを忘れ。
 街中で立ち止まったルーファスは苦しそうな顔をした。
「うう、胸が重い……(引き千切れそうだし、なんだか擦れて……)」
 思春期あたりで女子が急に足が遅くなったりするアレですね!
 周りを見回すと、人々の視線を感じた。まるでジロジロ見られているような感覚がする。
「(みんな僕の胸を見てる気がする)」
 まあ、たしかにそこに巨乳があれば見るのは当然!
 もはや脊髄反射的な反応と言ってもいい。
 が、女体化してしまっているという恥ずかしさで、必要以上に視線が気になっているということもある。
「(うう、恥ずかしい……)」
 学院方向を見渡し、さらに逆方向も見渡す。
「(戻ろうかな、でもまた彼や知り合いに会うかもしれないし。ここにいるのもイヤだし)」
 とりあえず学院に向けて歩いてみる。なるべく人と目を合わせないように、うつむきながら不安そうな顔で。
 しばらく歩くと、甘味料のよい香りが漂ってきた。
 ふと顔を上げると、クレープの販売馬車だ。
 秋の新作クレープののぼりが風でひらひら揺れている。
 瞬く間にルーファスの瞳が輝いた。
「チェックしてたのに忘れてた!」
 女体化する前からスイーツ好きの一面がある。
 さっそく短い列に並んでクレープを購入しようとする。
 秋の新作はマロンを使ったものや、
 どれにしようか迷いながら心が躍ってしまう。
 注文の順番が回ってきて、口を開こうとした瞬間、横から影が割り込んできた。
「ここは俺がおごるよ」
「げっ」
 思わずイヤな気持ちが声に出た。隠し事が苦手なので、思いっきり表情にも出ている。
「俺はチョコイチゴスペシャル。君は?」
「え、え~っと(ここまで並んでいりませんとは言えないし、かと言ってここで答えたらおごられてしまう)」
 男性店員がニコニコと笑っている。
 ふとルーファスが振り返ると、後ろには列ができている。
「○○、いや、××、やっぱり△△!」
「じゃあ、○○と××と△△」
「え……(3つも頼まれた)」
 けっきょく新作クレープを3つ頼み、しかも流されるままにおごられてしまった。
 で、なんだかわからないうちに並んで街を歩いてしまっている。
 ルーファスの両手にクレープ2つ、ルシの手にも2つ。
 じーっとルーファスはルシのクレープを見た。
「(あのクレープを最初に食べたいんだけど)」
「俺のこと見つめてどうかした?」
 すっげぇ勘違い!
 シカト&気を紛らわせるため、ルーファスはクレープにがっついた。
「(美味しいけど味わえない。さっさと食べ終えて逃げよう。彼の持ってるクレープはどうしよう)」
 またルーファスがじーっと見ていると、ルシが微笑んだ。
「そのクレープも美味しそうだね」
 と言った唇が大きく開いて近づいてくる。
 間近まで迫ったルシにドキッとしてルーファスは一歩下がる。
 パクっ。
 ルーファスが食べかけだったクレープを一口。
 顔を離したルシは、唇の端についたクリームをぺろりと舐め取って、ニッコリと微笑んだ。
「美味しいね」
 瞳を丸くしてルーファスは地面に足を引きずりながらどんどん後退る。
 ルーファスの脳内でエコーするフレーズ。
 ――関節キス、関節キス、関節キス、関節キッス♪
「ひゃ~ん!」
 不気味な声をあげて、顔を真っ赤にしたルーファスが逃げ出す。
「(もう耐えられない……居ても立っても居られない、穴があったら生き埋めになって死んでしまいたい)」
 ズボッ!
 忽然とルーファスの姿が消えた。
「いたたた……」
 ルーファスが見上げる青空が広がっていた。
 穴だ、工事通の穴に落ちたのだ。
 どこからか声が聞こえる。
「オーライ、オーライ!」
 なにかを誘導するかけ声だ。
 穴の仲で立ち上がったルーファスは、壁に手を掛けた。
「(微妙に高い、登れるかな)すみませ~ん、だれか……イッ!?」
 言葉を詰まらせて眼を剥いた瞬間、空から生コンクリートが振ってきた。
「ぎゃぁぁぁっ!」
 埋もれるルーファス。
「死ぬ、死んじゃう!」
 望みが叶ったじゃないかルーファス!
 もう目も開けられない。口を開くとこもできない。ただ必死にもがきながら、手を高く地上へと伸した。
「つかまれ!」
 だれかの声。
 生コンからかろうじて出ていたルーファスの手をだれかがつかんだ。
 ルーファスの腕が引っ張られるが、まったく持ち上がらない。
「大変だべ、だれか埋まっちょる」
「そりゃ大変だぁ、早く引き上げてやらんと」
「現場監督に怒られちまう」
「んだんだ」
 男たちの会話が終わり、ルーファスの身体が一気に持ち上げられた。
 地上に放り出されたように生還したルーファスはドロ怪人と化しており、見るも無惨な有様だった。すぐに固まることはないだろうが、このままだと怪作の彫像ができあがってしまう。
 急にルーファスの身体が浮いた。抱っこされた、お褒め様抱っこだ。
「シャワーを借りれませんか? そうですか……」
 ルーファスは目が見えずその声と抱えられていることで状況を判断するしかなかった。
 小刻みにルーファスの身体が揺れた。彼が走り出したようだ。
「学院まで戻ろう」
 生コンにまみれながらも、相手の温もりが感じられた。肌からだけではなく、その声からもだ。
「(きっと僕を助けてくれたのは彼だ)」
 その声でわかる。
 生コンの仲から助けられ、汚れを落とすために学院に運ばれる。お姫様抱っこで、こんなにも身体を密着させながら。相手の身体も生コンで汚れてしまっているだろう。けれど、きっと彼はそんなことなど気にしてもないだろ。
 ただ、ルーファスのことを想ってくれているだけなのだ。
 なんだかルーファスは胸が苦しくなった。嬉しさと言うより、なんとも言えない辛さが込み上げてくる。切なさとでもいうのだろうか……。
「(今まで女の子にだって、こんなに好かれたことないのに……彼は男だけど……どうしよう、もし彼が僕が男だって知ったら……)」
 決して相手を騙そうなんて思ってはいない。けれど言い出せない。はじめは女体化したなんて――という恥ずかしさで言い出せなかったが、今は別の意味で言い出せない。
「(どうしよう……)」
 モヤモヤとしながら考えていると、どうやら学院まで着いてしまったらしい。
「この先は着いていけないけど、ひとりで大丈夫? ゆっくり降ろすよ」
 丁寧に廊下に降ろされたルーファスは、目をこすって薄目で当たりを確認した。
 シャワールームの入り口だ――女子の。
「……………(ヤバイ)」
 男子と女子のシャワールームは隣接すらしておらず、離れた場所に部屋事態があるため、ここから入って男女のシャワールームに分れてるなんてころはない。つまり、途中で男子のほうにコソッと入るなんてこともできない。
 ここはまっすぐ行ったら、確実に女子のシャワールームに直行だった。
「(男子のシャワールームに……いや待てよ、男子のとこにこの身体で入ったら……)」
 絶対ムリ!
 どっちのシャワールームもムリだった。つまり学院のシャワールームを使おうとした時点で詰んでいたのだ。
 お姫様抱っこでモヤモヤ考えていたせいで、うっかり考えが及ばなかったのだ。
「(マズイ……マズイよコレ)」
「どうしたの、早く落としてこないと。俺もシャワーを……そうか、着替えがないな。ともだちの女の子に体操着借りてきてあげるから、それで我慢してくれる?」
「(よし、彼がどっかに行ってくれた隙に逃げよう!)はい、お願いします」
「あとでまたね」
 ルシが笑って手を振りながら歩き去って行く。
 チャンスが到来したルーファスは、ここぞとばかりに満面の笑みで手を振りながらルシを見送った。
「(よし、そのまま、そのまま消えてくださいお願いします)」
 角を曲がってルシの姿が見えなくなった。
 空かさずルーファスはダッシュでこの場を離れようとした。
 床を蹴り上げ一歩出た瞬間、目の前に現われた影に驚いて転倒してしまった。
「いったぁ~い」
 声をあげたルーファスにワラワラと影が近づいてきた。
「だいじょうぶ?」
「うわっ、どうしたのその姿?」
「早く落とさないと!」
 女子3人。
 ルーファスの前に現われたのは女子3人組だった。
 立ち上がって逃げようとしたルーファスが――壮大にコケたっ!
 ズルッ!
 女子たちが驚いて小さな悲鳴をあげた。
「手を貸してあげるから、ほらっ」
 腕をつかまれ脱衣所に連れ込まれる。
「えっ、あの……ちょっと(マズイ、非常にマズイ)」
 あたふたするルーファス。あれよあれよという間に服まで逃がされはじめた。
「これってコンクリートじゃない?」
「えっ、うっそー。なんでこんな目にあったの?」
「表面固まってきてない?」
 口々にしゃべるので、だれがだれだかわからない。
 生コンのついた帯が投げ捨てられ、魔導衣の襟がすっと肩から抜かれた。
「(いやっ)」
 衣がはだけ豊満な胸が波打った。
 脱がせた女子が瞳を丸くして一瞬だけ固まった。
「(デカイ……しかもノーブラ)」
 そのまま衣は下半身まで脱がされようとしていた。
 ルーファスは自分の裸体を直視できず、瞳を固く閉じた。自分の身体であって自分の身体ではない。見ず知らずの女性の身体と言ってもいいくらいだ。
「(恥ずかしい、恥ずかしいよぉ)」
 見ず知らずの女子に、服を1枚1枚脱がされ、しかも絶賛女体化中。
 ここでハッと気づいた。下半身はダメだ、このまま下半身まで脱がされたら――トランクスをはいている!
 相手はルーファスが本当は男だってことを知らない。トランクスをはいているなんて知られたら、変態だと思われる。
 大変だ!
 ルーファスは相手の手を必死に押さえた。
「自分で脱げます、大丈夫ですから、もうホントに……ゆるして」
 相手の顔がきょとんとなった。
 ――許して?
 言葉の意味なんて理解できるわけがない。
「ん~……ごめんね」
 とりあえず相手の子は謝った。
 そこへともだちが声をかけてくる。
「先入ってるよ!」
 と、声に反応してルーファスがそっちに顔を向けると――ポン!
 すっぽんぽん!
 あまりにも無謀な乳房が4つ。すでに服を脱いでいた二人の女子が立っていた。かろうじて、ひとりはタオルで下半身を隠し、もうひとりは前に立つ子が影になって花園は見えなかったが、あの山はしかと見た!
 聳え立つ連山がそこにはあった。
 とは言っても、ルーファスはすぐさま首が折れる勢いで顔を背け、ぶっちゃけほとんど見えてない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさーい!」
 脇目も振らず駆けて逃げるルーファスが飛び込んだ先はシャワールーム!
 個室から出てきたボインと鉢合わせ!
 ブハッ!
 鼻血のシャワーを流しながらルーファスが後頭部から倒れた。
 意識が遠くなりかけて視界がぼやけて中で、ルーファッスはシャワールームに飛び込んできたピンクのツインテールを見た。
「ルーちゃんの変態!」
 そして、ルーファスは気を失った。

《4》

 暗闇が白く明けていく。
 白い天井だ。
 目を覚ましたルーファスは辺りを見渡した。
 清潔感あふれる白いシーツのベッドと仕切りのカーテン。
「(……医務室か)」
 腹痛などなどで日頃からお世話になっている学院の保健室だった。
 天井を見つめていた視界の中に、ヌッと男の顔が現われルーファスは悲鳴をあげる。
「ぎゃっ!?」
「具合はどうかねルーファス君?」
 蒼白い顔に黒衣姿の男はこの大病院の医院長ディーだった。
「……ここクラウス魔導学院ですよね?」
 当然の質問だった。
「そうだがなにか?」
「いや……どうしてここに?」
「ルーファス君が倒れたと聞けば、灼熱の太陽が降り注ぐアウロの庭砂漠にでも馳せ参ずる」
「(こなくていいし)でもここにいるなんて都合よすぎでしょ?」
「ふむ、魔導衣学の講義をして欲しいと言われてね。今日は打ち合わせで来ていたのだよ。そんな折、ルーファス君が倒れたと聞いてね。まさに運命の巡り合わせとでもいうべきか」
「(迷惑な運命だなぁ)」
 ふとルーファスは気づいた。身体の汚れが綺麗さっぱり落とされ、アイロン掛けをされた自分の魔導衣を着せられていた。
「あの……シャワーと着替えはだれが?(イヤな予感)」
「私は悲しい!」
 突然、ディーが声を張り上げルーファスはビクッとした。
「な、なんですか?(こんなに声を張り上げたのはじめて見た)」
「そのおぞましい身体はいったい何事だ」
 ワシのような手が果実のような胸に伸びてきた。
 むにゅっ。
「ひゃん」
「その甲高い声も耳障りだ。嗚呼、なんたることだ、ルーファス君にいったいなにが起きたというのだ。こんな肉塊などもぎ取ってくれる!」
「ひゃっ、あうぅぅ、あふン……ちょっと……やめて……
 鬼のような形相のディーに胸を揉みくちゃにされ、吐息を漏らしながらルーファスが身悶える。
 揉み方もだんだんと激しくなり、柔肉に詰めを食い込ませて、本当にもぎ取ろうとしているようだった。
「邪悪な肉体よ、滅したまえ!」
「イタッ、タタタタタッ、もういい加減にしてくだ……ひぐっ」
 と、こんなあられもないシーンのところへ、保健室のドアが開いてピンクのツインテールが飛び込んできた。
「ルーちゃ~ん!」
「はぁぁぁぁン!」
 甲高いルーファスの声が木霊した。
 一瞬に凍りつくビビ。
「……へ……ルーちゃんの……変態っ!」
 力一杯叫ぶとビビは部屋を飛び出して行った。
「ちょっ……違うんだビビッ!」
 ルーファスが声をかけるが、そこにビビの姿はもうない。
 そこへビビと入れ替わりでルシがやってきた。
「倒れたって聞いたけど……なにやってるんだおまえ!」
 黒衣の変態が巨乳っ娘を襲っている構図。
 理由も聞かずにルシはディーに飛びかかっていた。
「彼女から離れろ!」
「邪魔しないでくれたまえ」
 ディーは注射器をどこからともなく取り出し、まるでダーツのように投げた。
 ビュン!
 注射器の針がルシの首元をかすめ、後ろの壁に突き刺さった。
 すかさずディーは次の注射器を投げようとしている。ルシも反撃しようと警棒のようなロッドを構えた。
 バトル展開が繰り広げられる中、ディーの魔の手から解放されたルーファスは、息を殺して部屋からこっそり抜け出そうとしていた。
「(もうやだ……こんなことに巻き込まれてないで、早く男に戻らなくちゃ)」
 そもそも、ジュースを買いに――ではなくって、パラケルススを探そうとしていたのだ。
 どうにか保健室から抜け出して、廊下を見渡すとそこに山吹色の後ろ姿を発見した。今日の講義でパラケルススがあんな魔導衣を着ていた。
「パラケルスス先生!」
 声をあげた瞬間、バトルをしていた二人がピタッと動きを止め、示し合わせたようにルーファスを射貫くように見た。
 逃げようとしているのがバレた。
 ここで立ち止まってはイケナイ!
 猛ダッシュで逃げるルーファス。
 豊満な胸が交互に激しく揺れる。
「パラケルスス先生!」
 ガシッ!
 伸した手で相手の肩を後ろから掴んだ。
 そして、振り返ったパラケル……スス?
「じゃない!」
 悲鳴に似た声を荒げてルーファスは目を丸くした。
 ガシッ、ガシッ!
 ルーファスの両肩が何者かによってつかまれた。
 苦い顔をしてルーファスは左右を確認する。もちろんそこにいたのはルシとディーだ。しかもこの場には部外者の知らないオッサンまで。
 ルーファスにつかまれたオッサンは不思議そうな顔で立ち尽くしている。
「どうかしましたか?」
「(人違いですって言ったほうがいいよね……)ひ、ひとさらいです、この人たち!」
「はい?」
「このふたり、あたしのこと誘拐しようとしている変態なんです!」
 まさかの発言に左右の二人は唖然として、ルーファスをつかんでいた手からすっと力が抜けた。
 今がチャンスだ!
「ミスト!」
 呪文を唱えたルーファスの周りに霧が発生して、この場の視界を覆い隠した。
 ゴン!
 壁になにかを強打する音。
「いった~い!」
 可愛らしい悲鳴。もちろんルーファスだ、
 ディーが黒衣でマントのように霧を払うと、瞬く間に視界が晴れた。
 そして、床で尻餅をついて倒れているルーファスの姿があった。
 自分で出した霧で視界が見えずに壁に激突。
 狼のような瞳で二人の男が乙女(ルーファス)にじわじわと近づいてくる。
「(喰われるっ!)」
 背筋が一瞬で凍りつく恐怖を感じたルーファスは腰が砕け立ち上がれない。
「大丈夫かルーファス!」
 突然現われた影がルーファスを掻っ攫って、お姫様抱っこをしながら駆け出した。
 見上げるとルーファスの瞳に映し出された白馬の王子様の顔。キラキラと輝くその顔は、王子様ではなく王様だった。
 後ろから男二人が追ってくる。
「ルーファス君は私のモノだ!」
「彼女をどこに連れて行くつもりだ!」
 クラウスは振り向きもせず走っている。その懸命な顔つきにルーファスはドキドキした。
 古い友人だったが、こんなに間近で、今までと違う印象を受ける。
「(クラウスって……やっぱり王様なんだ)」
 気高く気品のあふれる丹精な顔。
 ルーファスを抱いていたクラウスの手と腕に力が入る。
 ぎゅっとしたそのとき、ルーファスの胸もぎゅっとされてキュンとした。
 後ろからまだ二人が追ってきている。
 クラウスがつぶやく。
「やむを得ないか……」
 いったい何をするつもりなのか?
「テレポート!」
 その魔導は超高等であり、ライラよりも難しいとされ、この魔導都市アステアでも扱える者は確認されているだけでも二人。クラウス魔導学院の学院長であるクロウリー、そしてアステア王であるクラウスだ。
 テレポートとはすなわち瞬間移動。これと似たものに召喚術というものがあるが、あれとは原理が異なり、テレポートのほうが高位であり危険も伴う。
 クラウスも実用レベルで使用が可能だが、準備もなしに使うものではない。失敗すると、よくて死。最悪の場合は……。
 テレポートは厳密に言えば、場所から直接別の場所に移動するのではなく、〈魔の道〉と呼ばれる場所を通過する。通常は記憶にも残らないほどの時間で通り抜けることができ、目的地に辿り着くことができる。
 ルーファスとクラウスのテレポートも無事に移動でき、それは一瞬の出来事だった。ちなみに、複数でのテレポートは難易度と危険度が上がる。
 その場にテレポートしてきた二人が全身で跳ねた。下から突き上げるふわふわのスプリング。
「きゃふ」
 声をあげたルーファスはクラウスの上で抱き締められた。
 ベッドの上で!
「大丈夫かい?」
 クラウスが甘く囁いたような気がする。
 ベッドの上で!
 いったいここはどこなのか?
「うちのベッドより高級そうだ」
「すまない、急だったので私の寝室に飛んでしまった」
 テレポートは知らない場所への移動は、なんらかの補助がない限りは不可能に近く、逆に思い入れが深い場合やよく行く場所は飛びやすい。
 が、今のルーファスは脳内桃色レボリューションなので、なぜここにという問いがあらぬ方向の解答を導き出す。
「(ベッドルームに連れ込むなんて、しかもクラウスのプライベートな神聖な領域。そんなところに連れ込んでなにをするつもいりなのっ!?)」
「(いつも限界まで職務をこなし倒れるように眠ってしまうからな。緊急時に意識が朦朧としていても、この場に飛べように訓練していたからだ)」
 まだふたりは抱き合ったままだった。
 ベッドの上で!
 クラウスの両手がルーファスの背中を軽く押さえている。
「(いやん、クラウスったら奥手なんだから。もっとギュッと、ギュッと抱き締めて離さないでぇぇぇン!)」
 キモイ。
 声に出さないだけマシだが、表情にはすでに歓喜と苦痛の狭間で身悶えてます的な表情で、キモイ。
 辛抱堪らずルーファスからギュッと抱きしめた。胸部による窒息法――またの名をボインスープレックス。
「や、やめろッ!」
 声を荒げたクラウスがルーファスを突き飛ばした。
 瞬時にクラウスは後退り、部屋の隅に背中を押しつけた。その表情は蒼白く汗を大量に流していた。
 涙ぐむルーファス。
「ひどいわクラウス、ぐすん」
 口語まで女体化していた。
 ゆっくり近づいてくるルーファスにクラウスは明らかに怯えている。その視線は胸に向けられていた。
「来るなルーファス! ダメだ、絶対に僕のことを抱き締めたりするなよ! 絶対だぞ!」
「私のことが嫌いなの?」
「苦手なんだ」
 が~ん!
 ルーファスショック!
 ショックのあまり猪突猛進。
 両手を広げてクラウスに飛びかかった。
「クラウスぅ~~~っ!」
「ぎゃあああああっ!」
 ボインアタック!
 クラウスの顔面が縛乳に埋もれた。
「ふぐっ……やめろ……(苦しい……もう意識が……)」
 ルーファスの胸の谷間でクラウスからふっと力が抜けた。
 気絶したのだ。
「ク、クラウス!? どうしたのクラウス!」
 とりあえず気絶したクラウスをベッドに寝かせた。
「(どうしよう……?)」
 様子をうかがいながら、視線は自然と唇へと向けられていた。
 瑞々しい高貴な薔薇のような唇。
 ――人工呼吸!
「(ダメよ、そんな……緊急事態とはいえ、唇を奪うなんて……嗚呼、でもこの想いが止められない!)」
 早まるなルーファスーーーッ!!
 顔と顔が重なりそうな距離まで近づいた。
 ガチャ。
 突然、ドアの開く音がして声が飛び込んできた。
「今日もクラウス様のお部屋を……ッ!?」
 30代くらいの侍女らしき者が部屋に入ってきた。手には掃除道具のぞうきんの掛かったバケツとホウキを持っている。
 口と瞳を丸くしてルーファスは唖然としながら侍女と目を合わせた。
 言葉が出ない。
 侍女はホウキの柄をビシッとルーファスに向けた。
「どなたですか!」
「あ……いえ……そのクラウスの友達です」
 男女がベッドにいる状況。明らかにただの友達という感じではない。しかもじつは両方男っていう。
 侍女は深く頷いた。
「クラウス様がわたくし以外の女人をご自分の部屋に招くなんて……ついにクラウス様も大人の階段を! 嗚呼、今日はなんとおめでたい日なのでしょうか!」
 なんかズレたひとだ。見知らぬひとが王様の寝室にいたら、もっと大問題になるだろう。
 ルーファスはそっとクラウスの身体から離れた。
「あのぉ、抱き締めたらクラウスが気を失ってしまったんですけど?」
「まあ、本当に!? クラウス様、大丈夫でございますか!」
 クラウスが気絶していることにやっと気づいたようだ。
 侍女は豊満な胸を揺らしながらクラウスに近づき、その上半身をベッドから起き上がらせて抱き締めた。
「クラウス様、クラウス様、起きてくださいまし!」
「う、うう……」
 小さくうめいたクラウスは静かに瞳を開き、侍女の胸の中にいることに気づいて、恐怖で顔を引きつらせながら飛び上がった。
「モレナ!」
「嗚呼、クラウス様、お気づきになられたのですね。わたくし嬉しくて……」
 モレナは両手を広げクラウスに近づく。
「近づくな、その胸で!(やむを得ない)テレポート!」
「待ってクラウス!」
 声をあげてルーファスは慌ててクラウスの袖を掴んだ。
 一瞬のうちに二人がやってきたのはクラウス魔導学院の正門だった。
 クラウスは汗をぐっしょりとかいて息を切らせている。
「危なかった」
「だいじょうぶクラウス?」
「君には打ち明けるよ、だから秘密の話にして欲しい」
「(えっ、ふたりだけのヒミツ? きゃは♪)」
 脳内桃色。
「じつは胸の大きな女性に抱きつかれるのが苦手なんだ」
「そ、そんな……(なんて残酷な運命なの、こんな胸、こんな胸なんてなくなってしまえばいいのに!)」
 ルーファスはクラウスに背を向けて自分の胸をもぎ取ろうとした。
 沈痛な面持ちなクラウスはルーファスに構わず話を続ける。
「幼いころのトラウマがあって……さきほどのモレナは僕の乳母だったんだが、何度もあの胸で窒息死させられそうになって……見る分にはどうにか恐怖に打ち勝てるんだが、抱き締められて顔に胸を当てられると……」
 窒息でもすんじゃないかってほどクラウスは蒼い顔をした。
 ルーファスは瞳をうるませた。
「そうだったの……なんてかわいそうなクラウスなの! だいじょうぶ、私の胸で弥してあげる!」
 癒えねぇーよ!
 ルーファスが爆乳を揺らして飛びかかってくる。
 苦しげ表情のクラウス。
「(テレポートで逃げる余力もない)ライトニング!」
 激しい閃光を放って目眩ましだ。
 目を固く閉じて怯んだルーファス。逃げる足音が聞こえる。目を開けられるようになったとき、もうクラウスは30メティート(36メートル)は離れた位置で背を向け走っていた。
「待ってクラウス! 私を置いてどこに行く気なの! クイック!」
 猛ダッシュでルーファスが追いかける。
 学院内の廊下を駆け抜ける。
 途中の廊下で左右を見渡しながらなにかを捜しているようすのルシとすれ違った。クラウスは気づいたようだが、ルーファスはクラウスに夢中で気づいてない。
「待って!」
 ルシが声をかけたが二人は見向きもせず駆け抜けていった。
 さらに途中の廊下に巨漢が立っていた。
「見つけたぞルーファス!!」
 カーシャだった。ついに痺れを切らせて教室を出たらしい。でもルーファスの目には入らなかった。
 さらに途中の廊下でビビと遭遇。
「ルーちゃん捜したん……だ……待ってよ!」
 やっぱり目に入らず駆け抜けていく。
 そんなことをしているうちに奇妙な行列が廊下を駆け抜けるという光景になった。
 王様を追いかける女体化メガネっ子を追いかけるメガネ男子ルシ。さらにルーファスを追ってくる筋肉魔神とピンクのツインテール。混沌としている。
「クラウス待って! 私の愛を受け止めてぇ~!」
 もうルーファスは帰ってこられない。
「妾の筋肉を見よォォォォッ!」
 こっちは常人が達しない場所にイッてしまった。
 ルーファスは揺れる胸を苦しげに押さえた。
「(重たくて走れない……でも負けられない!)」
 いったいおまえはなにと戦ってるんだ?
 速度を落としたルーファスにルシが距離を縮めてくる。
「捕まえた!」
 ルシの手がルーファスの袖を掴んだ。
「俺は君のことが好きなんだ、だから逃げないでくれ!」
 そこへどこからどもなくふあふあっと空色ドレスが現われた。そして、無言で持っていたバケツの中身をぶちまけたのだ。
 バシャァァァッ!
 緑色のドロドロヘドロのような液体を頭から被ったルーファス。と、そのついでに被害者になったルシ。
「いきなりなにをするんだ!」
 声をあげたルシは、すぐさまルーファスを気遣った。
「大丈夫だったかい? また汚れてしまったね」
 指先で優しくルーファスの顔についたヘドロを拭っていたときだった。
 異変だ。
 ルシは微妙な異変に気づいた。
「(ん……顔つきが……)」
 顔から丸みがなくなり、骨格が浮き出ていく。
 大きく服を突き上げていた胸の膨らみも萎んでいく。
「ローゼンクロイツひどいじゃないか!」
 と張り上げた声も低めで男らしかった。
 ――男だ。
 ルーファスは男に戻っていた。
 目の前で起きた出来事にルシは放心状態だった。
「ウソ……だろ……」
 ローゼンクロイツはもう片手に持っていたバケツの中身を筋肉バカにぶちまけた。
 バシャァァァッ!
「妾の筋肉を……ハッ、妾はいったい?」
 女に戻った瞬間、正気に返ったようだ。
 ニッコリのビビちゃん。
「よかったねルーちゃん男に戻れて!」
「そ、そうだね……」
 苦い顔をしてルーファスは小さく答えた。
 壁に片手をついて憔悴しているクラウス。
 廊下に両手両膝をついて項垂れるルシ。
 事件の傷は深かった。
 そして――。
「妾のイチゴジュースはまだか!」
「あ、アタシのも」
 パシリにされるルーファス。身体も元に戻り、すぐに日常も戻ってきた。
「(女の子のほうが優しくされる気がする)」
 心に思うルーファスの視線の先には、空色ドレスの男の子がマイペースに歩いていた。

 第18話_トランスラヴ おしまい



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