第17話_目覚めのキスは新たな予感

《1》

 クラウス魔導学院に潜む影。
 ササッと物陰に隠れて今日もストーキング。
 学院で有名なストーカーといえば、ローゼンクロイツの追っかけアインだ。2代目として有名なのがユーリ。そして、このごろウワサになっているのがセツだ。
「嗚呼、ルーファス様。甘味処の割引券を手に入れたのでお誘いしたいのに……(小悪魔がちょろちょろと邪魔ですわ!)」
 物陰に隠れていたセツの遠い視線の先で、ちょろちょろとルーファスの周りを小走りしているビビ。
「ねぇ、ルーちゃんルーちゃん、割引券もらったから食べに行こうよ。ジャジャーン!」
 効果音を高らかに上げながらビビは甘味処の割引券を出した。
 よ~く目を凝らしてセツはビビの手元を見つめた。
「あれは同じ割引券!」
 しまった、先を越された。
「いいね、ちょうど小腹も空いてたし」
 と、ルーファスはセツの気も知らないで答えている。
 悔しそうにセツは袖口を噛みしめた。
「キィー! おんどりゃあ、血の雨を降らせたる!」
 ゴリラの形相で鉄扇を構えたセツ。
 そこへとある男が声をかけてきた。
「探したぞ」
 ゴリラが振り返った。
 あ、違った。ゴリラの形相のままセツが振り返った。
 思わずビビって後退った大の男は、武術大会で知り合ったハガネスだ。
 ハッと気づいたセツは苦笑い。
「おほほほ、ハガネスさんではありませんか?」
「あ、ああ……」
 完全にハガネスはドン引きしている。
 セツは取り繕うと必死になって、辺りを見回し適当な話の種を探した。そこで目に入ったのが、ハガネスが片手に持っていたトロフィーだ。
「それは?」
 白銀に輝くトロフィー。
「こないだの大会のトロフィーだ」
 先日の武闘大会の優勝者に捧げられるはずだったトロフィーだ。
「どうしてそれをあなたが?」
「大会は騒ぎで中止になったが、あの騒ぎを収めた功績ということでアステア王の使者がこれをもって来たんだが、俺にはこんな物をもらう資格なんてないから断ろうと思ったが、おまえのことが頭に浮かんでな」
 ハガネスはトロフィーをセツに差し出した。
「そうですか……」
 セツはトロフィーをつかんだが、手元に引き寄せようとはしなかった。その表情は暗い。
「どうしたんだ?」
「い、いえ、ありがとうございました。これでやっと故郷に帰ることができます」
 力強くトロフィーを受け取ったセツは、その顔を見られないように空かさず頭を深々と下げ、逃げるようにこの場から立ち去った。
 セツの背中を眺めながら首を傾げるハガネス。
「わからん、悪いことしたか?」
 悪気がなくても、物事が悪い方向に向かってしまうこともある。
 まさかハガネスがトロフィーをセツに渡したことで、王都アステアを巻き込む大事件になるとはッ!
 言い過ぎました。
 ルーファス周辺で巻き起こるドタバタ劇になるとはッ!

 笑顔爆発でビビが店内から出てきた。
「美味しかったぁ!」
 その後ろから、空っぽのおサイフを逆さに振りながら、ルーファスも店内から出てきた。
「割引券につられて逆に高くついたなぁ」
 それが店側の戦略だ。
 しょんぼりと肩を落とすルーファスの顔をビビが下から覗き込んだ。
「どうしたのルーちゃん、元気ないのぉ?」
「(ビビが片っ端から食べまくるからだよ)」
 とは口に出しては言えなかった。
「そうだ!」
 と、ビビがなにかをジャジャーンと取り出した。
 笑顔のビビ。
 表情の曇るルーファス。
 ビビの手に握られた10パーセントオフの紙切れ。
「駅前に新しいケーキ屋さんができたんだって!」
「却下」
「えーっ、即答!?」
「だってもうお金ないよ」
「無駄遣いばっかりするからだよぉ」
「(……ひとにおごらせておいて)」
 ビビと出会って以来、なにかといつもおごらされているルーファス。そういえばユーリにもよくたかられている。二人ともルーファスに召喚された当初、無一文だったため、その後もズルズルとルーファスにおごらせる構図ができたのだ。
「ルーちゃん仕送りで生活してるんだから、もっとお金は大切に使わないとダメだよ」
「そういうビビはどうなのさ?」
「う……」
 言葉に詰まるビビ。
 現在ビビも似たような生活だ。
「私は親に仕送りしてもらってるけど、ビビはパラケルスス先生にお小遣いせびってるらしいじゃないか」
「違うよ、くれるからもらってるだけだもん。おじいちゃんも孫ができたみたいでうれしいって」
「学生寮だって裏技使ってタダで使ってるんだし、ところで学費とはどうしてるの?」
「さぁ?」
「そこ『さぁ?』で済む問題じゃないでしょ」
 二人は話しながら街を歩き、ルーファスはビビの顔から目を離し、前方に顔を戻したときった。
 立ちはだかるセツ。
「大事な話があります――ルーファス様」
 周りを歩いていた一般人たちも足を止めてしまうほどの、気合いのこもった真剣な眼差しでセツはルーファスを見つめた。
 まだ話も聞いていないのに、ルーファスはどっと汗をかいた。
「な、なんでしょうか?」
 思わず敬語だ。
「わたくしといっしょにワコクに来てください」
 ガーン。
 ショックを受けたのはルーファスではなく、その横にいたビビだった。
 そんなビビのようすをセツはチラッと見て、すぐにルーファスへ視線を戻した。
「ルーファス様との結婚をあきらめておりません。ぜひ、ルーファス様にはわたくしの両親に会ってもらいたいのです」
「ちょ、ちょ、ちょっとぉ!」
 慌ててビビがルーファスを押し退けて前へ飛び出してきた。
 キリッとセツがビビを睨む。
「部外者は邪魔です」
「部外者じゃないもん!」
 ほとんど脊髄反射的にビビが言い返した。
「だったら何者だというのですか?」
「ともだち代表!」
「婚約者なら話になりますが、ただの友達なら黙っていてください」
「セったんだって婚約者じゃないクセに!」
「わたくしは少なくとも元婚約者です!」
 なんだかルーファスを置いて二人が白熱している。
 セツの後ろにはモヤモヤと角の生えた鬼神が見えるような気がするし、ビビの後ろには大きな鎌を持ったドクロさんが見えるような気がする。
 ちなみにドクロさんは一般人に取り憑くとかなりヤバイっていうか、死んじゃうが、ビビの実家の守護神なのでビビには無害だ。
 ビビがズンと一歩前へ!
「いつどこで?」
「ルーファス様と接吻を交わし、掟が無効になるまでの間です!」
 あのときのルーファスとセツのキスシーンがビビの脳裏に浮かんだ。
 馬乗りのセツに押し倒さているルーファス。ふたりの唇が……。
 カーッとビビの顔が沸騰した。
 セツがルーファスに近づいてくる。
 ビビがルーファスの前に立ちはだかり両手を大きく広げた。
「だったらルーちゃんの今の婚約者はアタシだもん!」
「ええええーっ!?」
 叫んだのはルーファス。裏返った叫び声で歩行者たちが立ち止まって振り向いた。
 ハッしてビビは我に返った。
「(うっかり変なこと口走っちゃった、ヤバイどうしよう!)」
 慌ててそのままルーファスに耳打ちをする。
「ああでも言わないとセッたんが納得しないと思って。ルーちゃんとアタシただのともだちもんね、ね!」
 不自然な強調だったが、ルーファスはそーゆーとこには気づかず納得した。
「つまり作戦ってことだね。よし、それで行こう」
 つくり笑いを浮かべながらルーファスがビビより前に出た。
「じつはそうなんだ。ビビと婚約したんだ、さっき」
 さっきとか思いっきり取って付けたような設定だ。
 見え透いたウソにセツが引っかかるわけがない。
「証拠はありますか?」
「し、しょう……こ?(そんなこと言われても)」
 困った顔でルーファスは後ろを振り向きビビと顔を見合わせた。
 ズンズンとセツが迫ってくる。
「婚約したというのなら、接吻くらいもうしたのでしょう? ここで見せてくれませんか?(そんなことふたりにできるわけない)」
 真っ赤な顔をしてビビは両手で口元を押さえた。
「で、できないよ!」
「ぼ、僕だってそんなこと!」
 ルーファスの頭からは湯気が出た。
 気づくとルーファスの眼前にセツの顔が迫っていた。
「わたくしはできます。これでまた掟が有効になります」
 なんとセツはルーファスの唇を奪おうとしたのだ。
「ちょっと待ったぁ!」
 二人の間に入ったビビちゃんのグーパンチがルーファスの顔面に炸裂!
「ぐはっ!」
 ぶっ飛ぶルーファス。キスは回避できたがこれは痛い。
 そして、ゴリラ現わる。
「なにしとんじゃボケカスがッ!」
 ゴリラに怒声を浴びせられたビビはちょっと足を後ろに引いたが、その足を一歩前に出して負けまいと身を乗り出した。
「ちょっと勢い余ってパンチしちゃっただけで、これを見せたかっただけだもん!」
 今ルーファスを殴ったばかりのビビの鉄拳。その指に輝く巨大な宝石。
「これがルーちゃんにもらった婚約指輪!」
 がーん!
 セツショック!
「そ、そんなまさか……(ウソや、ウソに違いない! ルーファス様がビビに婚約指輪を贈るなんてありえへん!)」
 素のセツはワコクの西方の方言が出る。
 しかし、この婚約指輪はどうしたのだろうか?
 立ち直ったセツは疑いの細い眼でビビの指でキラメク婚約指輪をガン見した。
「…………(う~ん)」
 ビビの頬を滑る冷や汗。
「も、もうじっくり見たからオッケーだよねっ!」
 ササッとビビは手を引っ込めようとしたが、ガシッとセツにつかまれた。
「あやしい……」
 つぶやいたセツはなにを思ったのか、舌をペロッと出した。
 焦るビビ。
「えっ、なにしようとしてるの!」
 必死に腕を引っ張り逃げようとする。が、ゴリラ並みの腕力で離してくれない。
 そして、セツはペロッと指輪の宝石を舐めたのだ。
「甘い」
 と、一言。
 瞬時にそしらぬ顔でビビはそっぽを向いた。
 冷笑を浮かべ勝ち誇った顔をするセツ。
「アメちゃんです。ただのお菓子のアメちゃんではありませんか!」
 指輪の形をしたアメだったのだ。
 ネタバレしてもビビはブッとぼける。
「お、おかしでもいいじゃん。気持ちさえこもってれば婚約指輪にはかわりないもん!」
「そもそもルーファス様から贈られたものなのですか、ルーファス様?」
 ここでビビに尋ねても普通にウソをつかれそうだ。ルーファスに顔を向けたの正解と言える。
「え、その……あげたような、あげなかったような……どっちかっていうとあげてない寄りのような気がしないでもするようなしないようなするような……」
 しどろもどろだ。
 強気に攻められるとルーファスは弱い。いつもそうだ。
 ルーファスを見つめていたセツの視界にビビが割り込んできた。
「勝手にルーちゃんを連れて行かないでくれる?」
 強気の口調。そして、ビビの手にはいつの間にか大鎌が握られていた。完全に実力行使に出るつもりなのだ。
 セツは怯まない。
「友達代表の部外者は黙っていてください」
「ともだちのなにが悪いわけ? カンケーないし、ともだちだって家族だって、いきつけの喫茶店の店員だって、ルーちゃんのこと思ってるひといっぱいいるんだよ、ここには。だから勝手に遠い場所なんかに連れて行かないでって言ってるの。それにルーちゃんだってイヤがってるじゃん」
 ルーファスの気持ち……。
 哀しげな瞳でセツはルーファスを見つめた。
「本当に嫌なのですか? 心の底から本当に……」
「…………」
 ルーファスは難しい顔をして黙っている。顔を伏せたりしてセツから視線を外さないが、言葉は出て来ない。
 ほっぺたを膨らませたビビが叫んだ。
「ルーちゃんはっきり言ってやって!」
「そ、その……(セツと結婚なんてできないよ。答えは決まってるんだけど、そんな真剣な顔で僕を見てるセツに言いづらい)」
 ダメ人間。
 なあなあで済まされる局面ではない。セツは真剣なのだ。
 ビビは怒っていた――ルーファスにだ。
「サイテーだよルーちゃん。なんではっきり言えないの? ぐずぐず煮え切らないルーちゃんイライラする」
「イライラするって言われても」
 溜め息をもらしながらつぶやき、ルーファスはビビからセツに顔を向けた。
 瞳を潤ませているセツ。
 ルーファスが動いた!
 逃げた!
 セツの顔を見た瞬間、一目散に逃げた!
 うわあ、ルーファスサイテー。
 顔を大きく振ってルーファスに向けたセツの瞳から一粒が散った。
「それでも構いません!」
 突然、セツの袖口から巨大なマジックハンドが飛び出した。魔導ではなく機械だ。
 びっくり仰天メカにルーファスが捕まった。マジックハンドに持ち上げられ、拘束されてしまったのだ。
 目の前で起きた捕物劇にビビは瞳をまん丸にしてその場から動けない。
 周りのギャラリーも呆然としている。
 叫び声が木霊する。
「ぎゃーっ、助けてーっ!」
 逃げられないルーファス。
 そのままセツは愛の逃亡劇を開始した。
 ルーファスを拉致しながら、素早くこの場から逃げ去ったセツ。
 残されたビビはハッと我に返った。
「逃げられたーっ!」
 すぐにビビはふたりのあとを追ったのだった。

《2》

 巨大なマジックハンドは街中でかなり目立つ。しかも、そこにひとが握られている。
「あのぉ、降ろしてくれないかな?」
「逃げないと約束して、ワコクに同行してくださるなら」
 というルーファスとセツの会話。ほぼ同じような内容ですでに10回ほどやり取りをしていた。
「トイレ行きたいから降ろしてくれないかな?」
「我慢してください」
「どこまで?」
「ワコクまで」
「それはさすがに無理です」
 今のところ逃げ出すチャンスはなさそうだ。
 ルーファスは話題を変えることにした。
「ところでどうやってワコクまで行く気?」
「この都には空港があったはずです」
 三大魔導大国の首都である王都アステアは、都市としての発展もめざましく、多くの公共施設のインフラも進んでいる。
 交通面での整備は、王都の西を流れる大運河シーマスにある港から船が出ており、都市の東西南北と中心にあるアンダル広場の5ヶ所に駅があり、これから向かおうとしているアステア国際空港は第2東地区という運河の向こう側にある。
 現在位置から空港まではかなり遠い。
「走っていくには遠いよ?」
「道をよく知りませんから、馬車を拾おうと思います」
「今すぐじゃなくて、旅行の準備とかしたりして、あしたとかじゃダメかな?」
「時間がありません」
 もうセツの気持ちは頑なだ。
 今は他人の気持ちなど考えない。ルーファスの気持ちすら今はいい。今は自分の気持ちのまま行動する。
「(わたくしは母上のように後悔しない)」
 母?
 セツの母に過去になにかあったのか?
 どうやらセツを突き動かしているのは、ルーファスへの想いだけではなさそうだ。
「セツが本気なのはわかるけど、私よりもいいひと見つかると思うんだよね。自分で言うのもなんだけど、そこら中にいると思うんだ」
「ルーファス様はわたくしが自分で決めたひとです」
「次に決めたひとが見つかると思うよ」
「次という選択肢がなかったらどうします?」
「それは困るなぁ」
「わたくしはルーファス様を強引にでも連れて逃げることにしました」
「でもさ、今回の場合は次があると思うよ。絶対、必ず(たぶん)」
「今はルーファス様のことをお慕い申し上げております。それがすべてです」
 今はそれがすべて。今はセツの気持ちが変わることはないだろう。なにか切っ掛けがなければ、もしくは刻が過ぎ去らなければ、ひとの気持ちは変わらない。
 恋は盲目!
 次の恋を考えているようなら、もうすでにその恋は終わっているのだ。
 逃亡を続けていると、セツたちの前に人影が立ちはだかった。
「ストォーップ!!」
 ビビではない。
 スーパーの袋を片手に持った巨乳の女。残念ながら人妻主婦ではない。カーシャだった。
 思わず足を止めてしまったセツ。
「いきなり大声で驚いてしまったではありませんか」
「どういう状況なのだ?」
 変な物を見るような目つきで、カーシャはマジックハンドと捕まってるナマモノを確認した。明らかに変だ。
 自力で逃げ出せないルーファスの頼りはカーシャしかいない。
「(素直に助けてくれるかな?)」
 頼るには不安いっぱいだった。
 ルーファスは不安を抱えながらも、助けを求めることにした。
「じつはさ、セツが私と結婚するためにワコクに連れて行こうとしてるんだ。だから助けてよカーシャ」
「嫌だ」
 即答。
「そんなこと言わないでよぉ、カーシャぁ(ぐすん)」
「(嫌だと思ってなくても言いたくなってしまう妾の悪いクセ……ふふ)条件によっては助けてやらんこともないが(どうせヒマだし遊んでやるか)」
「どんな条件?」
「ここにカレーの材料がある。が、うっかりルーを買うのを忘れてしまった。甘口のルーを買ってウチに届けてくれたら、そのあとで助けてやろう」
 ……あと?
「今捕まってるんだけど?」
「見ればわかる」
 平然とカーシャはルーファスの問いに答えた。
 助ける気ナッシング!
「行きましょう、ルーファス様」
 時間の無駄をしたと言わんばかりの溜め息を漏らしてセツが歩き出す。
「まてぇい!」
 ヒマ人カーシャ立ちはだかる。
 しかしセツシカト!
 スタスタとセツはカーシャの横を通り過ぎようとした。
「だからまてぇい! っと言っておろうが!」
 右手にニンジン、左手にはタマネギを構えて立ちはだかるカーシャ。明らかな不審者だポーズだ。
 こんな不審者とお友だちだと思われるとアレなので、さらにセツの足は速まってこの場から立ち去ろうとした。
 しかし、逃げようとする相手を逃がすハズがないのだ。そういうひねくれ者のカーシャなのだ。
「ライララライラ、大地の加護を受けしお野菜さんたちよ以下略、精霊ドリアードとか力を貸したまえ以下略!」
 呪文詠唱がかなりテキトーだった。通常ならこんないい加減な詩で魔導が発動するはずがない。だが、そこはいにしえの魔女カーシャだった。
 ニンジンとタマネギがカーシャの手を離れ巨大化し、なんと手と足がニョキニョキっと生えてきたではないか!?
「ふふふっ、ニンジンさんとタマネギさんから逃げ切れるか?」
 もはや勝ちを確信して不敵に笑うカーシャ。
 背丈は大人と同じくらい。ニンジンさんとタマネギさんにセツは挟み撃ちされてしまった。
 セツは眉をひそめてよろめいた。
「うっ……わたくしが大のタマネギ嫌いだと知ってのことですか!」
「(知らん)ふふっ、敵の弱点を突くのは兵法の基本中の基本!」
 知らないのかよっ!
 相変わらず今日のカーシャさんはテキトーである。
 しかし、たまたまタマネギが弱点というのは、セツにとってピンチである。
 そして、マジックハンドに捕まっている上空のルーファスもゲンナリしていた。
「ニンジン苦手なんだけど」
 ルーファスはニンジン嫌いだった!
 …………で?
 たしかに嫌いな食べ物に追い詰められたセツ&ルーファスペアだが、嫌いな食べ物が巨大化して目の前に立ちはだかってるからって、食べなきゃいけないわけでもなし、だからどうしたっていう状況である。冷静に考えれば。てゆーか、野菜さんたちはどの程度の戦力なのだろうか?
 カーシャがビシッとバシッとセツを指差した。
「ゆけっ、ジアリルスルフィドアタック!」
 タマネギさんがセツにビュッと液体を飛ばした。
 素早くそれを交わしたセツ。が、液体はすぐに気化して、猛烈な目の痛みでセツは目元を押さえてしまった。
 ジアリルスルフィドとはつまり硫化アリルのことである。だからその硫化アリルってなんじゃって話になるのだが、つまりタマネギを切ると目に染みる成分である。この成分は加熱すると甘みに変わり、カレーを美味しくしてくれたりするのだ。
 目つぶし攻撃を受けたセツは前が見えずに逃げることもできない!
 カーシャが笑う。
「ふふふっ、思い知ったかジアリル以下略攻撃を!」
 そーゆーカーシャも目元を押さえてフラフラしていた。すっげーダメ攻撃だ。
 このタマネギガスは、さらになんちゃってテロ攻撃として広がろうとしていた。
 辺りを歩いていた人々が目元を押さえながら次々と倒れていく。それを見た人々は悲鳴をあげたりして、さらにパニックは広がる。
「テロだ!」
 誰かが叫んだことでさらに辺りは混乱状態が激化してしまった。
 さらに最悪なことに、ジアリルスルフィドは可燃性があり、引火点が46度だったりする。気温が46度まで上がるなんてことは、アステア市中ではありえないことだが、たとえばちょっとした摩擦熱とか――。
 巨大なボディのタマネギさんが放出した液体は、放水したように道路に水溜まりを描いた。ちょうどそこへブレーキをかけた自転車がやってきて、車輪が水溜まりに突っ込んで炎上。
 火花が飛び散って、瞬く間に次々と炎上していった。
「(今夜はカレーじゃなくてバーベキューだな、ふふ)」
 なんてカーシャさんは呑気なことを考えてる場合ではない。もうけっこう大惨事である。
 だが、この程度の炎など、氷の魔導に長けたカーシャにかかれば、ちょちょいのちょいだ。
 しかし、セツのほうが迅速に動いていた。
「(芭蕉扇でひと扇ぎすれば)烈風!」
 大きく扇がれた鉄扇から凄まじい風が放たれ、炎を一瞬にして掻き消してしまった。
 人々から歓声が上がる。セツに浴びせられる讃辞の声。人だかりがセツを取り囲んで褒め称えたのだった。
 照れ笑いを浮かべるセツ。
「いえいえ、当然のことをしたまでです」
 なんて対応をしながら、セツはふと気づく。
「あれ?」
 マジックハンドの先にルーファスがいない。
「逃げとるやないけ!」
 ゴリラフェイスで怒鳴り散らしたセツの周りから、サーッと観衆が引いていく。
 周りから人がいなくなり、カーシャの姿も消えていた。とっくにカーシャも逃げていた。残されたのは焼けたタマネギとニンジン。
 このあと、タマネギとニンジンは地域住民が美味しくいただきました。食べ物を粗末にしちゃダメ!

 セツの隙を見て逃げ出していたルーファスは、とにかく東に逃げていた。東には空港がある。つまり逆を突いたルーファスなりの作戦だった。
 しかし、魚屋さんの曲がったところで、セツが立ちはだかったのだ!
「お待ちしておりました、ルーファス様」
 待っていた?
「(完璧な作戦だと思ったのに)どうしてここに?」
 とルーファスが尋ねると、セツはニッコリ笑って受信機を取り出した。
「発信器を頼りに」
 ちょーストーカーッ!
 慌ててルーファスは体中を手探りで発信器を探したが、まったくもって見つからない。
「いったいどこに……?」
「メイドインワコクの発信器は針の先ほどしかありません。肉眼で見つけるのは不可能だと思います」
「見えなくても、体になんかついてると思うと気になるよ」
「では、わかりました。ワコクに来てくださると約束して――」
「イヤです」
 先読みして即答。
「まだ最後まで言ってませんが?」
「約束したら発信器を外してくれるんでしょう?」
「いえ、結婚式を挙げましょうと言おうとしたのです」
「そっちの話っ!?(発信器の話はいつの間にか終了?)」
 セツビジョンは広がり続ける。
「急な式なので、親族のみのこぢんまりしたものでよいと思います。しかし、式はワコクの伝統に則って神前式でお願いします」
「いやいやいやいや、式とか挙げないから」
「新婚旅行は海が綺麗な南アトラス大陸のメスト地方で、美味しい海鮮料理を食べて、夜は浜辺で星を眺めながら、君のほうが綺麗だよ……なんて言われてしもうたら、ウチ、もぉ……」
「(言わないよ、絶対)」
 頬を赤くしてモジモジするセツを冷めた表情でジトっと見つめるルーファス。
 さてと、セツが妄想に浸っている間にルーファスは、そぉ~っと逃げようとした。
「そういうわけでルーファス様!」
 と思ったら、いきなり話しかけられた。
「うわっ、現実に帰還した!」
 叫びながら後退って、つまずいたルーファスは尻餅をついてしまった。
 ルーファスが立ち上がる前に、セツがジリジリと距離を詰めてくる。
「この方法だけは使いたくなかったのですが……」
「強硬手段なら拉致の時点でそーとーだと思うけど、それ以上のこと?」
「じつは……」
「じつは……?」
「爆弾型発信器をルーファス様の体に埋め込んだのです!!」
「エエェーーーッ!?」
 ルーファスの叫びに周りの通行人たちが反応して、こっちのほうを見はじめた。
 震える腕を掲げるセツの手には受信機型送信機。
 発信器とか、受信機とか、送信機とか、なにがなんだか混沌としてきた。とにかく重要なのは、ルーファスの体に爆弾が埋め込まれているということだ。
「ぼ、僕の体に爆弾だって!?」
「はい、この起爆スイッチを押せば、ポンとなります」
「……ポン?」
「はい、ポンです」
「(なんかポンってあんまり爆発力強そうじゃないけど、体の中っていうし、もしも爆発したら絶対に痛いよ、ヤダよ)」
 ポンの擬音では威力がイマイチわからないが、爆弾は爆弾である。
 そんな爆弾発言を聞いた通行人たちのひとりが叫ぶ。
「爆弾テロだ!」
 いきないこんな発言を聞いても、多くの人はなんのこっちゃとポカ~ンとしてしまうが、次に叫び声があがった瞬間、辺りは一気に騒然となった。
「きゃーっ!」
「助けてーっ!」
 叫んだの女性だ。甲高い叫び声というのは、恐怖心を煽るには最適だ。叫びが風に乗ると同時に、恐怖も伝播していった。
 そして、爆弾騒ぎの伝言ゲームは巡り廻ってこうなった。
「あのひと痴漢よーっ!」
 中年オバサンが叫びながら指を差したのは、もちろん我らがルーファス!
「え……僕?」
 伝言ゲームとはかくも怖ろしいものだ。どこでどう間違って爆弾テロが痴漢になったのか?
 とにかく痴漢犯にされたルーファスへの視線は冷たい。マゾには堪らないほどの尖った氷のような女たちの視線が浴びせられる。
 そして、女の敵となった副賞と男の敵にも認定された。被害者が若い娘とならば、なおさら男どもは張り切る。良いとこ見せたがりの精神だ。
 とにかく逃げようとするルーファス。それを追おうとする被害者セツ。
「あのひとを捕まえてください!」
 この発言が一連の勘違いに拍車を掛けた。
 ギラついた眼をした猛者どもがルーファスを追っかけてきた。
 ダッシュしながら後ろを確認するルーファス。
「ぎゃーっ!(なにあの先頭走ってるひとっ!?)」
 先頭グループから抜きん出て痴漢を追っているのは魚屋のオヤジだった。
 しかも裸にエプロン!
 オヤジは裸にエプロンと聞いて、かなりエグイものを想像した諸君もいるかもしれないが、そこまでひどいものではない。
 小麦色に焼けた筋肉モリモリの上半身が油でベトベトに輝いていて、首からかけるタイプのビニール製の前掛けをしてるってだけだ。裸なのは上半身なだけで、下半身はちゃんと赤ふんを装着しているのでなんら問題はない。手にはモリを持っているような気もするが、アレはモリではないので大丈夫、どう見てもモリではなく魚類だ。魚屋が魚を持っていてもなんら問題はない。
 魚屋のオヤジが魚を投げた!
 まるでそれはヤリのようにルーファスの脚に刺さりそうになった。
 ルーファスジャーンプ!
 ヤリ……じゃなかった、魚はルーファスの股の間の法衣を裾を貫通して穴を開けた。
 冷や汗を流すルーファス。
「(食べたら美味しいのに、刺さったら死ぬ)」
 ルーファスを仕留め損なった魚は、尖った口を地面に突き立てて刺さったままだった。
 じつはこの魚、王都アステアの東を流れるシーマス大運河で捕れるウナギなのだ。死後硬直が早く、その硬さは軍神ノーマスの拳ほどもあると云われ、つまりちょー硬いということである。これらのことから槍鰻[ジャベリンイール]と呼ばれ、250年以上前のアステア革命時には、物資不足の民衆たちがこのウナギを武器にしたなんて逸話も残っている。
 魚屋のオヤジが装備していたジャベリンイールは、もう一匹手元に残っていた。
「そりゃ、よっと!」
 かけ声と共にジャベリンイールが投げられた。
 が、滑って手から抜けた!
 この槍の難点は、ぶっちゃけウナギなので、ヌルヌルして投げるのに適さないってことだ。
 ほっと溜め息を吐いてルーファス命拾い。
 だが、ほっとしたのも束の間、まだルーファスは絶賛追われてる真っ最中。
 しかも、なんだか追っ手の群衆たちが騒がしい。
「馬だ、暴れ馬だ!」
 ……は?
 暴れ馬ですと?
 そして、振り返ったルーファスが眼にしたものとは!?

《3》

 ルーファスを追っている猛者どもが、ポップコーンが弾けるように、次々と宙へ跳ね飛ばされていく。
 なにかが、なにかが猛スピードで群衆を撥ね除け、嵐のごとくやってくる。
 それは馬だ。暴れ馬だった。白く輝く美しい白馬だった。
 その光景を見たルーファスは思わず唖然とした。
「……え(ローゼンクロイツ?)」
 白馬に乗るローゼンクロイツの姿。
 乗るっていうのは跨るっていう意味ではない。暴れ馬をサーフボードのように、2本脚で立って乗っかっているのだ。超人的なバランス感覚である。
 これだけでも衝撃的な光景であるが、異様なものがもう一点あった。
 なんとローゼンクロイツは暴れ馬の上で納豆をかき混ぜていたのだ!
 もはや意味がわからない。電波な住人のローゼンクロイツに意味なんてもとめちゃイケナイのかもしれない。さすがのルーファスも長い付き合いながら理解に苦しんだ。
「(どういう状況でそうなる?)」
 いくら考えてもわかりません。
 ローゼンクロイツは遠い目をしている。ルーファスのことなんか目に入っていないようすで、追ってきたわけでもないらしい。つまり通りすがりの暴れ馬に乗るひとってことだね!
 相手はただの通りすがりなのでスルーしとけばいいものを、ルーファスは声をかけずにはいられなかった。
「ローゼンクロイツ!」
「ふに(にゃ?)」
 ローゼンクロイツと目が合ったと同時に、ルーファスは馬とも目が合っていた。
 暴れ馬が突進してくる!
 ズドーン!
 ルーファスを跳ね飛ばして暴れ馬が去っていく。パカラッ、パカラッ!
 地面に這いつくばって息絶え絶えのルーファスの元へ空色ドレスの影が近づいてくる。
「そんなところで寝ていると風邪をひくよ(ふにふに)」
 いつの間にかローゼンクロイツは暴れ馬から飛び降りていたのだ。しかも、納豆を1粒も溢さず、かき混ぜ続けている。
「ね……寝てるんじゃ……なくて……暴れ馬に……ぐふ」
「ちょっと擦っただけなのに大げさだよ(ふあふあ)」
「えっ……ホントだ、ぜんぜん痛くないや」
 体を確かめルーファスは立ち上がった。ケガはまったくないようだ。服が少し破けて汚れたくらいで済んでいた。
 そこへやっとセツが追いついてきた。
「どうなさったのですかルーファス様!」
「べつにたいしたことないよ、ちょっと転んだだけ(げ……追いつかれた)」
 内心では隙を狙って逃げようとしている。
 チラッとローゼンクロイツはセツを見て目が合った。
「ルーファスの知り合いかい?(ふにふに)」
「わたくしのことお忘れですか!?」
「覚えてない(ふにぃ)」
 他人を覚えるのが苦手なので仕方ない。いつも通りの反応だ。けれど、その少し前にローゼンクロイツは普段と違う反応を示していた。
 ルーファスはそぉ~と片足を下げた。それにすぐさま気づいて鋭い視線を向けるセツ。
「もう逃がしません。絶対にルーファス様をワコクに連れて帰ります。逆らうというなら、爆弾をポンとさせます」
 ポンとされたら大変だ……たぶん。ポンだけにポント大変に違いない!
 ジト目で見ているローゼンクロイツ。こっちじゃない、あっちだ、セツのことをだ。
「旅行に行くのかい、ルーファス?(ふにふに)」
「そうじゃないよ、セツにさらわれそうになってるんだよ。誘拐だよ誘拐、ワコクなんか行きたくないよ」
「そうだね、引きこもり体質のルーファスには海外無理(ふにふに)。ワコクは納豆が美味しいらしいから、おみやげはそれでいいよ(ふあふあ)」
 他人の話を聞いていないのはデフォルトとして、自分の会話も前後で脈絡が合っていない。
 セツの鼻を刺激する独特の腐った臭い。腐ったというと怒られるので、独特の発酵した臭いが漂ってきた。
「まさか異国で納豆に出会えるとは驚きです!」
 未だにローゼンクロイツはコネコネしていた。
「わたくしは納豆が大好物で、朝は必ず納豆と決めています。もちろんルーファス様とひとつ屋根の下で暮らすことになったら、お召し上がりになってもらいます」
「納豆キライなんだけど……」
 リアルでイヤそうな顔をしてルーファスがつぶやいた。
 が~ん!
 セツショック!
「納豆を否定するのは、わたくしを否定するも同じ。しかし、納豆はわたくしのほんの一部でしかありません。ワコクにはまだまだ素晴らしいものがあります」
 気を取り直して、ビシッとバシッとルーファスを指差しセツが早口でしゃべる。
「王都アステアでも人気の和菓子店ももや本店はワコクにあります。たしかにここで食べる和菓子も美味ですが、本店で食べる和菓子の数々は此の世の至極ともいうべきもの。中でも本店でしか売っていない限定スイーツの本家特製ももどら焼きは、女子校生たちの間で大人気。ティーンエージャーの雑誌で何度も取り上げられるこれを食べなきゃスイーツ好きは語れない定番中の定番。食べてみたいとは思いませんか、ルーファス様ッ!!」
「ぜひ、食べたいですッ!」
 なぜかセツの気合いに押されて、ルーファスも熱がこもった返事をしてしまった。
「では、ぜひともワコクにお出でください」
 サラッとニコッとセツは言った。
「行……行かないよ!」
 サラッと乗せられて『行く』と言いそうになったがセーフ。
 王都のスイーツは食べ尽くしている隠れスイーツ男子のルーファスとして、心が揺さぶられるセツの話であったが、そんな甘い罠で結婚させられてはたまったもんじゃない。
 スイーツだけに甘い罠。
 ジト目で見ているローゼンクロイツ。こっちじゃない、あっちだ、セツのことをだ。
「ふ~ん(ふにふに)。で、ルーファスはおみやげを買ってちゃんと帰ってくるんだよね?(ふあふあ)」
「だから僕はワコクなんか行かないし、だからおみやげも無理だし」
「でも彼女はルーファスを絶対に連れて行くってオーラを発してるけどね(ふあふあ)」
 納豆が糸を引いた!
 その糸は切れない。ローゼンクロイツの魔力が込められ、妖糸[ようし]と化したのだ。これは構えの体勢であった。
 変化にセツも気づいていた。
「ルーファス様を守ろうというのですか、なぜ?」
 そうだ、ローゼンクロイツはルーファスを背にしている。
 ちょっぴりルーファス感動。
「さすがローゼンクロイツ。僕たちやっぱり友だちだよね、うんうん」
「道に迷って家に帰れないから、ルーファスに送ってもらわないと困る(ふにふに)。だからルーファスをワコクには行かせられない(ふあふあ)」
「……そうですよねー、友だちなら家まで送ってあげるの当然ですよねー、あはは(カーナビ体に埋め込め)」
 ルーファス空笑い。
 友情で助けてくれるのかと思ったら、道に迷って帰れないからカーナビをルーファスにやれってことだ。カレーのルー(甘口)を買ってこいというのよりはマシだが。
 真剣な眼差しでセツはローゼンクロイツの背に隠れるルーファスを見つめた。
「わたくしと来ませんか? ルーファス様の周りにはこんな方々ばかりです。わたくしならルーファス様に一生、身も心も尽くします」
 ちょっとローゼンクロイツの肩からルーファスが顔を出した。
「こんなって?」
「短い間ですが、ずっと見てきました。ルーファス様と取り巻く環境を――」
 つまりストーカーしてましたったことだ。
 セツは話を続ける。
「カーシャさんはあからさまにルーファス様を遊び道具としか見ておらず、いつも酷いことをしてきます。義理の姉のリファリスお姉様もルーファス様を家では召し使いのように顎で使っていますし」
「義理じゃないからね、そこ重要だからね」
「学園でルーファス様の話を聞くと、ドジ、マヌケ、へっぽこ、おまえの母ちゃんでべそ、とみな口々に言っていました」
「母はでべそじゃないから(本当は覚えてないけど)」
「ビビにだって、振り回されたり、たかられて驕らせたり、ルーファス様をいいように使ってるだけなのです」
 この話を聞いてルーファスは静かに瞳を閉じた。なにも言い返さない。
 そして、ローゼンクロイツは納豆に隠し持っていた七味唐辛子を振りかけた。
 思わずセツの気が削がれ、納豆七味唐辛子に視線が向いてしまった。
「納豆に七味なんて邪道です。香辛料はからしに決まっています!」
 七味を納豆に入れて食べるというのはけっこうある話だが、問題はその量だった。
 見る見るうちに七味唐辛子のビンが空になっていく。聳え立つ燃えるような赤い山。ひとビン丸々かけやがった。
「は、はくしゅん!(ふにゅ)」
 なんていか、つまりのところ、七味唐辛子が鼻にキタらしい。かけ過ぎなのだ。
 ぴょんとローゼンクロイツの頭から飛び出たネコ耳。いつものパターンである。そして、本日のビックリどっきり魔法は――。
 ローゼンクロイツの身体から、花粉が吹雪くように飛び出したねこしゃんたち!
 縦横無尽に暴れ回り、街中がパニックに陥る。
 ねこしゃん大行進だ!
 そんな中、ルーファスはとっくに逃げていた。ローゼンクロイツがくしゃみをしたら逃げる。もはや脊髄反射的な行動である。が、ルーファスは長年の付き合いなのにたびたび逃げ遅れて巻き込まれたりする。
 今回は運良く逃げられたルーファスだったが、その要因が大事件だった。
 なんとなぜかルーファスは白馬にまたがっていたのだ。
「ぎゃああああっ、だれかとめて! うわぁっ、ごめんなさあい道を開けてください!!」
 暴れ馬再び。
 ルーファスはロデオマシーンに乗った勢いで、振り落とされまいと滝汗を流して必死だ。ダイエットに効果的だねっ♪
 なんてお茶目に言える状況ではなかった。
 ハッキリ言って、振り落とされたら大ケガ間違いなし!
「とまっててばばばば!」
 夢中のルーファスは無意識のうちに馬の胴体をバシンと平手打ちした。
 ヒヒーン!
 暴れ馬がいなないた次の瞬間、なんと馬に白鳥の翼が生えたではないかっ!?
「ペ……ペガサス!?」
 イエス、ペガサス!!
 翼をはためかせ、天に舞い上がるペガサス。
 あっという間に、ルーファスの視界から見る地面のようすは、人影だが米粒くらいになっていた。
 今落ちたら死亡だねっ♪
「だめだって、高いの苦手なんだよ!(去年の校外学習で塔の上からカーシャに突き落とされそうになってからトラウマなんだ)」
 こんな状況のときに限って、ヤル気を出しちゃうペガサス。宙返りをしてグルンとキメやがった。アクロバットなファンタジーだ――ルーファスが。
 だって、この馬手綱もないんだぜッ!
 なかなか落ちないルーファス。
(空飛ぶ魔法空飛ぶ魔法!)
 空を飛ぶ魔法はいくつかあるが、ルーファスの属性である風を使う魔法での飛行は、かなりコントロールが難しくバランスを崩しやすい。こんな恐怖に彩られた真っ青な顔をしたルーファスの精神状態ではムリだ。てか、通常時でもルーファスは空を飛べない。
 2回転、3回転、4回転、高速5回転宙返り!
「うぇぇぇぇっ」
 吐き気を催した瞬間、思わず抱きついていた馬の首から手を離してしまった。
 慌ててたてがみを掴むが、暴れ馬は痛みでさらに大暴れ。首を縦横無尽に振り回し、反動でルーファスはついに振り落とされてしまった。
「ぎゃああああああぁぁぁぁぁ~~~」
 ルーファスの声が落ちて小さくなっていく。
 さよならルーファス。
 地面に向かって死のダーイビング!
 ――じゃない!?
「水っ!?」
 ルーファスの瞳に映る水。それは海のように大きいが違う。大河だ、王都アステアを流れるシーマス運河だった。
 これで助かるかもっていう甘い考えはルーファスにはなかった。案外、ここまで危機的状況だとスッと冷静だった。
「(この高さと速度で水に衝突したら……)」
 速度と重量があればあるほど、ぶつかった衝撃は大きくなる。つまり、見た目は水でも、ぶつかったときの硬度は石ってことだ。
「なんか魔法を!」
 この危機を脱する魔法はいくらでもあるだろう。が、冷静っぽく見えてもやっぱり焦って脳は必要以上に高速回転で情報が取り出せない。脳が回るたびに、びゅんびゅん情報が飛んで行ってしまってる状況だ。
 もうダメだ!
 ルーファスは水面まで顔を出していたお魚さんと目が合った。
 ぶつかる!!

 風が吹く。
 まるでその風は羽布団のように、ルーファスをふわっと乗せ、宙に浮かばせたまま、一隻の小舟まで運んだ。
 手こぎボートの上に仁王立ちして鉄扇を構えているセツ。その鉄扇が起こした風であることは言うまでもない。
 風から落ちたルーファスをセツがポトンとお姫様抱っこで受け止めた。女の子なのに以外というか、やっぱり力持ち。キレたときのセツを考えると、その腕力もあってもおかしくないとうなずける。
「お帰りなさいませルーファス様」
 ニコッと笑顔。
「た、ただいま(助かったのはいいけど、また振り出しに戻る)」
 ルーファスは苦笑した。
 見つめ合う2人。
 このときの心を覗いてみよう。
「(嗚呼、ルーファス様)」
 それしか頭にないセツ。
「(早く降ろしてくれないかな?)」
 という目をしているルーファス。
 掛け違う2人の視線だが、結果として見つめ合う状況になっている。
 しばらくその状態が続き、やっとルーファスが口を開く。
「降ろしてくれないかな?」
「わたくしなら平気です」
「僕が平気じゃないから、早く降ろして」
「どうしてもですか?」
「どうしてもお願いします」
「そんな瞳で見つめられたら断れないではありませんか」
 べつにどーって目をしているわけではなかった。ただただルーファスは降ろして欲しいだけだ。
 仕方なくセツはルーファスを降ろした。小舟が少し揺れる。
 大河の真上に浮かぶ一隻の小舟で二人っきり。
 逃げようと思えば泳いで――
「(いけないよね)」
 と、ルーファスは溜め息を吐いた。ちなみにルーファスは泳ぎが得意ではない。この王都アステアは海には面していないが、大河あるので幼いころから泳いで遊んで育つので、住民の多くは泳げる。
 河の流れに沿っていくと、このまま飛空場に辿り着きそうだ。
 不安を覚えながらルーファスはセツに横目をやった。和服のところどころが破れていることに気づく。煤や灰などの汚れも目立っていた。
「大丈夫?(あのあとローゼンクロイツに巻き込まれて大変だったんだろうな)」
「なにがでしょうか?」
「服が……あっ、手見せて!」
 ルーファスはセツの手を取った。その手の甲についた軽い火傷の痕。
「ご心配はなさらずに!」
 慌てて身を引いたせいで、セツは足下のバランスを崩して、よろめいて小舟から落ちそうになってしまった。
 すかさずルーファスは手を伸ばした。セツも手を伸ばす。目を丸くして見つめ合うふたり。互いの指先が触れ合った。
 まるで時間が止まったような感覚。
 そして――。

《4》

 再び時間が動き出した瞬間、大きな水飛沫を上げてセツが河に沈んだ。
 水面から顔を出して、手をバタつかせるセツ。
「泳げないのです! 内陸部の出身で泳ぎなっ……」
 セツの顔が沈んだ。
 パニックになるルーファス。
「わっ、えっ、マジ、あっ……うっ!(僕も泳ぎはちょっと)」
 しかも、服を着たままなど危険極まりない。布が水分を吸って重くなり身体に張り付き自由を奪う。ルーファスも溺れかねない自殺行為だ。しかも、たっぷりどっしりな布が使われている魔導衣着用。
 ならば和服のセツも事態は深刻だ。まったく泳げないとなれば、さらに状況は最悪へと進む。
 あれこれ考えている場合ではない。ルーファスは河に飛び込んだ!
「やっ!」
 水中で沈み行くセツの姿。眼を大きく見開いて水面に手を伸ばしもがくようすは恐怖だ。
 泳ぐと言うよりもがいてルーファスは潜っていく。
 セツの口から漏れた大量の泡。大変だ、セツの息が続かない。
 ふっと糸が切れた人形のようにセツの動きが止まる。
 慌てたルーファスは口を開いてしまい、大量の泡が水面に昇っていった。
「(うっ……苦しい)」
 ルーファスの息も続かない。だが、今から水面に戻って呼吸をしていたら、セツを助けられない。今このときも、セツはゆっくりと暗い水底[みなそこ]に落ちていく。
 真っ赤な顔をして懸命に潜り続けるルーファス。あと少し――ついにセツの服をつかんで抱き寄せた!
 やはりセツは気を失っている。ルーファスも息が限界だ。もう水面に上がる余力などなかった。
 真面目な顔をして目をつぶっていたルーファスが、瞳をカッと開いた。
「(そうだ!)」
 ルーファスは神経を集中させて、手のひらで魔力を練った。
 まるで沸騰するように、手のひらから小さな粟粒がいくつ沸き出す。
 急に大きな泡となり、ごぼっと水面へ上昇した。
 慌ててルーファスはその泡に噛みついて口に入れようとしたが、口に入ったのはほとんど水。
「(ダメだ、うまく魔力が練れない)」
 少量の酸素をつくることはできるが、それを自分だけでなくセツに与えるのは難しい。気絶した相手では、空気を呑み込むこともできず、誤って水を呑んで気道に入ってしまう可能性も否めない。
「もっと大きな泡で身体を包めれば……そうか、エアスクリーンだ!」
 再度、魔法を使おうとした。だが、全身から小さな気泡が出たのみ。
「やっぱりダメだ!」
 苦しげな表情をするルーファス。
 魔法とは唱えるもの。現存する魔導の原型となったライラの別名は〈神の詩〉。意味を持ち、言霊なったとき、最大限の力が引き出すことができる。念じるだけでも魔法の使用は可能だが、それでは力が弱い。
「(神様、僕に力を貸してください)」
 ゴボゴボゴボ……と泡の言葉を吐きながら、ルーファスは魔法を唱えた。
 しかし――なにも起きなかった。
 肺の空気を使い果たしたルーファスはセツを優しく抱きしめたまま、意識が遠くなり白い世界から真っ暗に閉ざされた闇に落ちそうだった。
「(ダメだ……もう死ぬんだ……でもセツだけでも……助けたい!)」
 カッと開かれたルーファスの両眼。
 片眼が蒼く輝いていた。魔力を帯びた輝きを持つオッドアイ。
 刹那、氷結した!
 ルーファスたちの水が一瞬にして凍りつき、球状の空間に閉じ込められたのだ。
 スノードームのようなその空間に小さな雪の結晶が舞う。
 そう、ここには空気があった。
 氷の壁が作られ、中には水がない。水系と風系の魔導系統を同時に使用したのだ。
 ふたりを乗せたスノードームは水面へと昇っていく。
 ルーファスは驚いた表情をしていた。
「……なにが?」
 この魔法はいったいだれが発動させたのか?
 ルーファス自身に自覚はなく、セツは気絶したままだ。
 直前に起きたルーファスの変化は、すでに何事もなかったように消えている。
「はっ……セツっ!!」
 慌ててルーファスは状況を思い出しセツの様態を確かめる。
 口元に耳をそっと近づけると、呼吸の音が聞こえなかった。
「うそ……だよね?」
 真っ白になりかける頭。
 腕から脈を取る。
「うまく測れなかった」
 自分自身の乱れている呼吸のせいでセツの脈をうまく測れなかった。
 太い血管を探して、今度は首から脈を測ろうとした。
「うそ……だよね?」
 同じ言葉しか出なかった。
 ルーファスはセツの顔を覗き込むと、紫に染まった唇を見た。
 すぐに人工呼吸が脳裏に浮かんだが煩悩も同時に沸き上がった。
「(キスなんて……でもやらなきゃ!)」
 こうしている間にも1分1秒と時間は過ぎ去り、セツの様態は深刻さを増していく。
 ルーファスは目をつぶった。
 そして、息を大きく吸いこむと、勢いよくセツの唇にぶつかっていった。
 冷たい口づけ。
 自分から他人に、ましてや女性にキスする日が来るなんて夢にも思っていなかった。だが、今はそんなことを考えている場合ではない。セツの鼻をつまんで、漏れることなく息が肺の底まで届くように吹き込んだ。
 ――――。
 口を離し、すぐに声をかける。
「セツ!」
 返事はない。
 もうキスをしたときに覚悟を決めている。ルーファスは臆することなくセツの鳩尾[みぞおち]あたりに平手を置いた。柔らかな胸の感触が伝わってくる。どうやらセツは着やせするタイプだったらしい。
 覚悟は決めていたとはいえ、実際に感触が伝わってくると、動揺して顔をが赤くなってしまった。
 それを振り払うように、ルーファスは魔法を放った。
 ドン!
 風系の衝撃で心臓マッサージを行ったのだ。
 そのまま立て続けに、繊細に注意を払いながら、幾度かマッサージをして、再び人工呼吸をした。
「お願いだから!」
 のどがはち切れんばかりに叫びながら、再び心臓マッサージをする。
 心臓マッサージなんて今までしたことはない。切羽詰まった状況で見よう見まねだ。リスクもあるだろうが、死はすぐそこに迫っている。
 ルーファスの頭によぎる。
「(電撃で……いや、危険すぎる)」
 不可能ではないが、ルーファスの技量では奇跡が起きない限りムリだ。
 ルーファスは今、自分にできることを精一杯した。
 再び心臓マッサージをして、人工呼吸をする。
 口づけをして息を吹き込んだ次の瞬間、セツが急に咳き込んだ。
 思わず叫ぶルーファス。
「セツ!」
 朦朧とする意識の中で名を呼ばれ、重たいまぶたで何度かまばたきをして、セツは静かに口を開く。
「ルーファス……さま?」
 自分の置かれている状況を理解できずにいる。目に入った者の名を呼んだに過ぎない。
 無意識にルーファスはセツの肩を力強く握った。
「セツ! セツ! セツッ! 生きてるんだよねセツッ!」
 鼻水を垂らしながら、ルーファスは顔をグシャグシャにして、大粒の涙を撒き散らした。
 セツは自分の身体が濡れていて、酷く凍えることに気づいた。けれど、1ヶ所だけは、ほのかに温かかった。そっと指先を伸ばしてセツは自らの唇に触れた。
 そのようすを見ていたルーファスはハッとして沸騰する思いだった。
「違うんだ、誤解だから、その、うん、だから、人工呼吸と心臓マッサージをしただけで、やましいことなんで一切してないから!!」
「わたくし……?」
「溺れて、その、なんでか、えっと……」
「ルーファス様が助けてくださったのですよね?」
「そう、そうなんだけど……へっくしょーん!」
 壮大なくしゃみをしてブルブルと震えた。まだときおり夏の暑さが尾を引く陽気もあるが、寒さも確実に近づいてきている秋だ。水に濡れた身体は冷えて体力を奪う。
 ふっと寄りかかるようにセツはルーファスに抱きついた。
「服を着たままでは余計に冷え込んでしまいますから……脱いで抱き合ったほうが……」
「いやっ! それは、ダメだから、うん。あれだよ、とにかく外に出よう、ここが寒いんだよ」
 氷の入れ物はすでに水面でぷかぷかと浮いている状態で、薄白い氷の壁の向こうに景色がぼやけていた。
「えっと、まずは氷を割って外のようすを……」
 ルーファスは少しセツに離れてもらおうと、肩を押そうとしたが、そのときに気づいた。
「セツ?(息が苦しそうだ)」
 苦しげで顔に力の入った表情で、セツは弱いながらも荒い呼吸をしていた。
 ルーファスはセツの身体を片腕で抱きながら、残った腕を天井に伸ばして氷の壁を確かめるように叩いた。
 その程度ではビクともしない。2.5ティート(3センチ)くらいの厚さがありそうだ。
 氷と言えば対極にある属性は炎だ。
「(けど、条件が悪い)」
 魔法は万能ではない。
 すべての魔力の源となる素は、究極的には1つのものであると魔導学では習う。が、だからと言って常にどんな条件でも好きな魔法が使えるわけではない。それは理論上は可能であっても、それを行えるのは神話の登場人物ですら一握りだ。
「エアプッシュ!」
 ルーファスは得意の風魔法で氷を割ろうとしたが、気体である風はこの手の作業には不向きである。強度もなく、放出時は圧縮されていても、すぐに拡散してしまう。
 ならばとルーファスは現状で好条件に使える魔法を放つことにした。
「アイスニードル!」
 強度もあり、尖った先端は衝撃には弱いが、瞬間的な破壊力はある。
 放たれた腕ほどのツララは、氷の壁を打ち抜き8ティート(9・6センチ)ほど貫いた。
 一度、穴さえ空いてしまえば、そこから脆くなる。ツララと氷壁の密接面を狙って、ルーファスは続けて魔法を放つことにした。
「アイスニードル!」
 先ほどよりも大きなツララは氷壁にヒビを走らせた。
「待っててセツ、外に出たらすぐに……(どうしたらいいんだろう)」
 外への道が開かれても、ここは大河の真ん中、このスノードームから出るなんて自殺行為だ。
 ルーファスはアイスニードを幾度も放ち、頭が通る程度の穴を天井に開けた。そこから腕を出し、
「(外と繋がればいける)」
 天に向けた手のひらに魔力を集める。
「ヒート!」
 一瞬にして、スノードーム内が暖かい空気に満たされた。静かに溶けはじめる氷壁。急速に溶けているわけではないが、氷壁がぬらりとしている。
 ルーファスはセツを抱きしめた。身体から熱を発し続けている。
「(セツを温めないと、でもあまりやりすぎるとここが保たない)」
 この場でこまねいていてもセツの様態は悪くなるばかりで、お互い助かるかどうかもわからない。
 どのくらい流されたのだろうか?
 まだ街や港に近ければ、人や船などが近くにいるかもしれない。
 パチパチっと弾ける音がした。
「サンダーシュート!」
 天に向かって放たれた稲妻が昇る。ルーファスは救難信号の代わりとしたのだ。
 すぐにルーファスは穴から首を出す。
「おーい、だれか!」
 辺りを見回しながら叫ぶと、遠くに小型船が見えた。
 歓喜に沸き立つルーファスの表情が明るくなる。
 頭を引っ込めた代わりに腕を出し、再び稲妻を放つ。今度は小型船がいる上空を狙うことにした。
「サンダーシュート!」
 すぐにルーファスは外のようすを確かめるため首を出す。
「おーい!(気づいて!)」
 が、その数秒後、小型船が魔弾砲を撃ってきたのだ。
 魔弾砲はいくつかのバリエーションがあり、こちらにグングン向かってくるのは炎の玉だ。はじめは豆粒程度だったが、すぐに野球ボール、バレーボール、バスケットボールほどになった!
「違うんだ!」
 叫びながらすぐさまルーファスはスノードームに身を隠した。
 氷壁を這うように広がった炎が目に飛び込んできた。
「あの距離から当ててくるなんて!」
 炎はすぐに消えたので、瞬間的な熱ならこのスノードームで耐えられる。が、いつかは溶けてしまうだろう。すでに危機が迫っているのは、炎を当てられた箇所ではなく、水に浸かっている部分、とくに足下の氷が薄くなっている気がする。
 ガタンッ!
 急にルーファスたちの身体が浮いた。
「また撃たれた!?」
 と思ったが、その衝撃ではなかった。
 塀だ。整備された沿岸の塀ということは、街や港はすぐそこだ。
 ゴン、ゴン、ゴンっと流されつつ塀に何度も衝突する。
 その振動が響いたのか、足下の氷にヒビが入り、そこから少しずつ浸水してきたではないか。
 ルーファスは天井を力一杯叩いた。
「割れろ!」
 魔法を使うことも忘れ、無我夢中で殴り飛ばす。
 水の滴りとともに紅い雫が落ちた。
 やっと思い出したように魔法を使う。
「エアダッシュ!」
 通常、この魔法は風の力を借りて、ほんの2,3歩を瞬時に移動するものだが、ルーファスは天井に向かって体当たりをした。
「ううっ、わっ!」
 苦しげに声をあげてルーファスは一瞬だけうずくまったが、すぐに天井を確認した。ひとが通れるほどの穴が開いている。
「今だしてあげるからね!」
 セツを背中に背負ってスノードームから出ようとした。が、思いのほか塀が高くて、手を伸ばして届きそうになく、セツを背負っていたらなおさら無理だ。
「セツ、ちょっと無理させちゃうけど動ける? 僕の身体をよじ登って上に!」
 強引にルーファスはセツを押して塀を登らせようとする。
「ルー……ファ……さま……」
 苦しげにつぶやくセツ。
 登る体力もないが、ルーファスを残していけないと、セツは積極的には登ろうとしていない。
 ルーファスは踏ん張ってセツを持ち上げ、お尻を押して塀の上へと放るように乗せた。
「はぁ……はぁ……」
 力尽きたルーファスはへたり込んだ。
 塀の上で横たわりながら、セツは顔と腕を出してルーファスに伸ばした。
 ルーファスは手を伸ばした。
 しかし、その手はセツの手を握る寸前のところで拳を握った。
 パキパキとヒビの入る音がした刹那、割れた足下の氷とともにルーファスが河に沈んだ。
「……っ!」
 息を呑むセツ。
 ルーファスの手を取れなかった。
 わかっていた。あそこで手を取っても引き上げる力はなかった。最悪、ふたりで河に沈んでいただろう。
「ルーファス……さま……」
 その名を呼び切は気を失いぐったりとした。
 閉じられた瞳から流れた一筋の涙。
 こちらに向かって魔弾砲を撃ってきた小型船が近づいてくる。船首で仁王立ちしている女の長い赤髪が風に靡く。
「酒の邪魔しやがったクソ野郎はどこのだれだい!」
 リファリスだった。まだ沈んだのが自分の弟だと気づいていない。
 埠頭に目をやったリファリスは気を失って横たわっているセツに気づいた。
「あの子はたしか……そんなまさかねぇ?」
 イヤな予感がする。
 リファリスの背後で図太い男の声がした。
「姐さん、クソッタレは見つかりましたかい?」
「それが……ひとりはそこで、もうひとりは河に沈んだっぽいんだけど……もしかしたら、わっちの愚弟だったかも、なんてなっ!」
「そりゃ大変ですぜ、今すぐおいどんが!」

 目をつぶりながら、静かに落ちていく感覚に包まれた。
「(もう死ぬんだ。あはは、ツイてない人生だったな。セツは助かったかな。ローゼンクロイツに借りたゲーム返してないや。カーシャには酷い目に遭わされっぱなしだたけど、あのひとはあれはあれで……やっぱり酷いひとだったなぁ、あはは。クラウスは今以上に立派な王様になって欲しいな。そうだ、ビビとなんか約束してた気がするけど、なんだったっけな。僕が死んだら母さんもローザ姉さんも悲しむだろうなぁ。リファリス姐さんには怒られそうだ)」
 まさかそのリファリスに沈められたとはルーファスは夢にも思っていない。
「(父さんは……どんな反応するんだろう)」
 ルーファスは瞳を開けた。最後に光が見たかった。水面の光はまだ見えるだろうか?
「(寂しいな。天国ってどんなところだろう。みんなが来るのはだいぶ先だろうからなぁ、ともだちできるかな……やだな、死にたくないな)」
 水面の光が揺れていた。
「(ん?)」
 少し驚くルーファス。
 人影らしきものがグングンと潜って近づいてくる。
「ゴボボボボッボッ!?(魚人!?)」
 残る空気を全部吐き出してルーファスは眼を剥いた。
 筋肉モリモリでヒゲモジャのほぼ全裸のおっさんが、赤いふんどしをなびかせて泳いでくる。
 逞しき漁夫の姿がそこにはあった!
 というのが、ルーファスが目に焼き付けた最後の光景だった。

 病室のドアがババ~ンと開けられた。
「お見舞いにきたよぉ~ん♪」
 ピンクのフリフリツインテールが凍りつくように止まった。
 ベッドに横たわる患者に顔を近づけ妖しげな行動をしている人影。
 ビビは力なく手に持っていたお見舞いの定番高級フルーツのピンクボムを床に落とした。
 黒衣の医師が気を失っている患者にキスする寸前だった!
 男が男にキスしようとしてたのだっ!
 ビビが叫びながら部屋を出て行く。
「へんたーい!」
 その声が届いたのか、ルーファスが目を覚ました。
「ぎゃあああああっ!」
 いきなり目の前にあった妖しげな色香を放つディー院長に驚いた。
 さっと顔を離したディーは舌打ちをする。
「チッ」
 未遂だ。未遂でよかった。
 ルーファスの脳裏になにかモヤのかかった光景がフラッシュバックする。
 そこへ新たな見舞い人が尋ねてきた。
「よぉ、ルーファス元気にしてるかい?」
 リファリスだった。その背後からクマのような男が顔を見せた。
 イエス、ふんどし!
「ぎゃああああああっ!」
 ルーファスの叫び声が病室に木霊した。
 かかっていた頭のモヤが一気に晴れた。
「僕は……(覚えてる、覚えてる、朦朧とする意識の中で魚人に濃厚なキスをされたのを……)うぇええええっ」
 吐き気がして、自分の身体をブルブル震わせながら抱きしめた。
「ルーファス……はぁはぁ……様、だいじょうぶですか!」
 息を切らせながら、よろめくセツがドアにもたれながら姿を現した。
 見る見るうちにルーファスの顔色がよくなり晴れていく。
「セツ!」
 思わずルーファスが両手を広げていた。
 駆け寄ったセツがルーファスに抱きつく寸前、ディーが首根っこを掴んで制止させた。
「ルーファス君は絶対安静だ。それに君も患者なら患者らしくベッドで安静にしてくれたまえ。休んでいられないというなら、強制的に休めるようにベッドに縛り付けておくしかないな」
 氷のように冷たい言葉。マジでやる気だ。
 セツは笑った。
「それで構いません」
 と前置いて、ルーファスに抱きついた。
「ありがとうございましたルーファス様! あなたに救われたこの命、もはや身も心もルーファス様のものです!」
 それを聞いたルーファス――の傍らに立っていたディーが口を半開きにした。
 ハッと我に返るディー。
「ルーファス君とはどのような関係なのだね! 返答によっては緊急オペを行うぞ!」
「妻です!」
 セツはキッパリと答えた。
 荒れる病室。
 そのようすをこっそりのぞき見していた影が去る。寂しげにツインテールを揺らしながら。
 病室からは廊下には、セツの明るさと自信にあふれた笑い声が、いつまでも木霊していたのだった。

 おしまい


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