第1章 還りし朱

《1》

 夢殿を奇怪な地震が襲った頃、東京湾の上を浮かぶ豪華客船では、海上パーティーが開かれていた。
 シャンペングラスを片手に、着飾った紳士淑女がおしゃべりの華を咲かせ、楽団のメロディーに合わせて優美なシルエットがダンスを舞う。上流階級の人々が集まっていることは、ひと目でわかる。
 頬を赤らめたタキシード姿の男は、女の腰を優しく抱きながら、潮風を浴びて海を眺めていた。
 男は海に浮かぶ明かりに気付き、傍らの女に教えるように遠くを指さした。
 客船に迫って来る眩いライト。それも一つや二つではない。ジェットスキーを引き連れた小艇が向かって来る。
 ライトは客船ではなく、海面を荒立てて進む波を照らしていた。
 仄暗い海から伸びる危機という名の長い触手。
 危機に気付いたタキシードの男は刹那、海から飛び出した触手に胴を掴まれ、その近くにいた女性が甲高い金切り声をあげた。
 悲鳴を聴いた人々は眼を剥き、海から這い上がって来た幾本もの触手を凝視した。長く伸びた白い烏賊(いか)のような触手が、蠢きながら踊っているではないか。
 触手に巻き付かれ、高く掲げられた男が短く絶叫を漏らし、人々は眼を背けながら各々に逃げ出した。
 パーティー会場は一瞬にして惨劇の宴に変わってしまった。
 真っ赤な鮮血が女の顔とドレスを彩り、足元に転がって来た男の生首を見る間もなく、女は触手に締め上げられ、海の底に引きずり込まれて消えた。
 ひと足遅れで、妖物を追って来た艦艇とジェットスキーが到着し、客船の周りをライトで照らしながら取り囲んだ。
 海上を走るジェットスキーヤーの暗視ゴーグルがなにかを捕らえる。
 空間にできた傷が叫び声をあげた。
 広がった次元の裂け目から黒い影が飛び出し、ジェットスキーが走っていた真横に水飛沫を上げて落ちた。
 ――いったいなにが?
 次の瞬間、ジェットスキーヤーの躰に細い糸が巻き付いた。気付いたときにはジェットスキーヤーは後方に飛ばされ、操縦者を失ったジェットスキーは妖物の触手に当たって爆発炎上してしまった。
 焼けた烏賊の香ばしい匂いがする。
妖物が次の獲物を狙おうと触手を振り上げた刹那、その触手に海の底から奔った輝(き)線(せん)が巻き付き、触手を振り下げたと同時に海面から黒い影を釣り上げたのだ。
 黒い魔鳥のごとき人影は、水飛沫を散らしながら軽やかに客船に甲板に降り立った。
 逃げるのに必死だった人々が行動を忘却し、突如として現れた人影に視線を奪われた。
 赤黒いローブから紅い雫がボトボトと零れ堕ちている。
 血の香を纏った若者。
 塩水に濡れた髪を掻き上げ、若者は艶やかな口で宣言する。
「……俺は還って来た」
 それは遥か遠い銀河から帰還したような口ぶりだった。いや、真実はもっと遠い場所と言えるかもしれない。この者は〝向こう側〟の世界から、空間の断ち割って還って来た〝還り人〟なのだ。
 すでに艦艇は妖物への攻撃準備を整えていたが、乗客がいるために迂闊に手を出さないでいた。
 そのことは〝向こう側〟から還って来た若者には好都合だった。〝向こう側〟で磨いた技が、〝こちら側〟の妖物にも通用するか、小手調べにはちょうどいい獲物だ。
 血の香を放つ赤黒いローブに誘われるように、数え切れない触手が若者に襲い掛かる。
「喰うか喰われるか、貴様を喰うのは俺だ!」
 絶叫する若者の右手から輝線が次々と放たれ、触手が空中で細切れにされていく。
 まだ海の底で全容を見せぬ妖物の触手は、次々と海面から魔の手を伸ばし、斬られた触手もすぐに新しいものに生え変わる。これでは切りがないが、若者は余裕の笑みを浮かべていた。
「指のストレッチはおしまいだ、少し本気でいくぞ」
 若者は指揮者のように両手を動かし、放つ輝線は闇色に変化した。
 斬り飛ばされた傷が再生しない。それどころか傷は、紫に色に変色して腐りはじめていた。
 触手を斬るたびに鮮やかな血が飛び散り、返り血を浴びたローブがさらに血を吸って濃く染まる。赤黒いローブの意味はここにあり。
 何十本もの触手を瞬く間に切り刻み、無限とも思えた触手が海面から伸びることをやめた。
 静まり返っている海面。
 数秒の時が流れ、冷たい潮風が若者の頬を撫でた。
 爆発した水飛沫が天を突く。
 土砂降りの塩水を浴びながら、若者は妖物の本体を見定めていた。
 全身の触手を切り刻まれた妖物は、タワシのような格好をしており、その中心には硬いものを砕く歯が円形に並んでいた。
 若者が仕留めるよりも早く、海の底から空中に飛び上がった妖物は、艦艇から撃たれたミサイルを喰らった。
 妖物が空中で大爆発を起こし、甲板の上にまで血肉を四散させた。
 瞬時に甲板に伏せていた若者が吐き捨てる。
「クソッ、俺の獲物を……」
 最後に獲物を横取りされた。悔しさが若者の口調から滲み出していた。
 若者は立ち上がると同時に自分が細切れにした肉片を拾い上げ、野獣のように生肉に噛り付いた。
「こっちの肉は俺の口には合わないな」
 肉片を投げ捨てた若者の顔に、艦艇からスポットライトが当てられる。
 目を細める若者の顔は中高生くらいだろうか。ただ若いだけではない中性的な妖艶さを兼ね備え、深い闇を湛えた黒瞳には魔力が篭っているようだ。
 スピーカー越しに若者へ質問が投げかけられる。
「お前は何者だ!」
 妖物を相手に戦った若者がただの人であるはずがなかった。
 若者は口も元を艶笑させた。
「闇の傀儡士(くぐつし)――呪架(じゅか)」
 そう答えた呪架は艦艇から目を離し、なにかに誘われるように宇宙を見上げた。他の者も同様になにかに誘われて〝それ〟を魅た。
 遥かな彼方から、煌く尾を引きながら堕ちて来る物体――〈箒星〉だ。
 大気圏で燃え尽きる流星が多い中、その〈箒星〉は確実に地上まで到達すると推測された。
 煌きは煙の尾に変わり、〈彗星〉はついに地上へ落下した。
 抉られた大地はドーム型に爆発を起こし、閃光が夜を一転させて昼に変える。
 〈彗星〉が落下した方角は死都東京。復興作業が順調に進んでいたが、あれでまた瓦礫の山と化してしまったに違いない。
 人々の感じた胸騒ぎは正しかった。

 ――来た。

 女帝は〈箒星〉の落下をベランダから見届け、そのまま想いに耽っていた。
 部屋の奥から人影がそっと女帝に近づく。
 振り返った女帝の瞳に映る翼を背に生やした麗人――ズィーベン。翼は鳥のような羽根で覆われ、左右の翼は白と黒の非対称の色をしていた。
 眼鏡と一体化したイヤホンを直しながら、ズィーベンは真摯な眼差しで女帝を見据えた。
「あの隕石は突如として地球付近に現れたそうでございます」
「そっかァ、なっるほっどねぇー」
 大人の色香を漂わす容貌とは裏腹に、女帝の口調はまるで少女か少年のようであった。
 女帝は天を仰ぎ、親指の爪を噛んだ。
 思考を巡らす女帝。
 地球上空に突然現れたことから、ただの〈彗星〉とは考えにくい。星術師ですら、落ちる寸前に気がついたくらいだ。
 ズィーベンは女帝の微かな想いを読み取った。
「なにかお心当たりが?」
「まァねー」
 軽い声音で返事が返されるが、女帝が柳眉を寄せているのをズィーベンは見逃さない。
 ズィーベンを含むワルキューレたちも、あれがただの〈箒星〉でないことは勘付いている。そして、女帝はもっと深いところ、核心に迫るところまで勘付いているに違いない。
 女帝は宙で軽く指先を動かし、魔導の力を使って煌く線で絵を描いた。
 星マークとそこから伸びる三本の線は子供の落書きのようだった。女帝は〈箒星〉を簡単に描いたのだ。
「あの〈箒星〉は乗り物のような気がするなァ」
「宇宙船ということでしょうか?」
「SFであるでしょ、ワープ航法みたいなの。だからさ、突然現れたんじゃないかなとか言ってみたり」
「ゼクスが聞いたら喜ぶでしょう」
「だね」
 ゼクスとはワルキューレのメンバーで科学顧問を務める者の名だ。
 テレポートを行なえる魔導師が地球上にいないこともないが、それを乗り物に応用する技術はまだ完成していない。
「けど……」
 と女帝は前置いて、言葉を続ける。
「ゼクスは複雑な思いをするかもよ」
「どうしてでございますか?」
「彼女を銀河追放した装置を作ったのはゼクスだからさ」
 それは答えを導くヒントとなり、ズィーベンは〈箒星〉に乗って来た魔女の顔を思い浮かべた。
「夜魔の魔女……彼女が地球に戻って来たと?」
「そ、セーフィエルが還って来たんだよ、きっとね」
「まだ半世紀も経っておりません」
「だね。銀河追放したつもりなんだけど、これじゃあ日帰り旅行だよ」
 約四十年前、夜魔の魔女と呼ばれるセーフィエルは、女帝に叛逆した罰として地球から追い出された。そのセーフィエルが地球に戻って来たと女帝はいうのだ。
 女帝は人差し指を立てた。
「一、地球に還って来た理由はなにかなァ?」
「戻って来るということ自体が目的とも考えられますが、彼女のことでしょうから、他になにかあるかと思われます」
 女帝は二本目の指を立てた。
「二、〈箒星〉の調査は誰にさせようかなァ?」
「セーフィエルが相手ならばアインが適任かと思いますが、〈箒星〉が落下した地点は日本の領土内でございます」 
「死都東京は緩衝地帯みたいなもんだから、コッソリやれば平気じゃない?」
「では、アイン不在のワルキューレの指揮及び、帝都警察と機動警察の指揮はわたくしが行ないます」
 ワルキューレとは女帝直属の部下であり、アインはその最高責任者である。
 メンバーは女性だけの九人で構成され、戦闘要員や科学顧問、広報担当などに役職が分担されている。
 常に女帝の傍に仕えるズィーベンは、お世話役でありインペリアルガードだ。
 女帝は三本目の指を立てた。
「じゃあ三番目。〈箒星〉に関してもしも政府に報道陣が質問して来たら、いつものようにフィアに煙に巻いてもらってね」
「伝えておきます」
「そんじゃ、とりあえずまずはセーフィエルを探し出して目的を尋ねるのが第一だね」
 セーフィエルの目的はなにか?
 過去の叛逆に関することではないかと、女帝もズィーベンも危惧していた。
 その危惧はズィーベンのイヤホンに受信された、新たな情報によって現実味を帯びてきた。
 耳に取り付けられたイヤホンに軽く指先を当てながら、ズィーベンはその情報に聞き入った。
「〈箒星〉が堕ちたのは旧千代田区付近との報告が入りました」
「あちゃー、自分の娘たちを取り返しに来た可能性大だね」
「しかし、彼女たちのいる〈裁きの門〉を召喚できるのは、ヌル様とわたくしたちワルキューレのみでございます」
 セーフィエルの娘たちは〈裁きの門〉の奥にいるらしい。その門を召喚できるのは女帝ヌルとワルキューレの九人のみ。
「けどさ、セーフィエルなら召喚しちゃうかもよ」
 相変わらず軽い口調の女帝に比べて、ズィーベンの口調は重々しい。
「アインを推薦したのは帝都を守ることよりも、セーフィエル確保を優先したからでございます。この件にゼクスも当たらせましょうか?」
「ううん、それはマズイよ。少なくとも全面的にはマズイと思う。ゼクスはセーフィエルのこと慕ってたからね」
 少し前に女帝は述べている。
 ――彼女を銀河追放した装置を作ったのはゼクスだからさ。
 ゼクスという人物はセーフィエルに対して、複雑な想いが交差しているに違いない。
 突如、女帝とズィーベンの躰が揺れた。
 地震だ。
 震度三程度の弱い地震。
 すぐに地震は治まり、女帝の肩を抱いていたズィーベンが尋ねる。
「〈箒星〉が死都東京に落ちる前にも同じような地震がございましたが?」
「〝メシア〟クンがセーフィエルを感じて暴れてんじゃない? 彼のご先祖様だもん」
「ならば〝メシア〟の結界を強めた方がよろしいですね」
「だね」
 本当にそれだけなのかと、女帝は小さな胸騒ぎを覚えていた。セーフィエルが地球に戻って来ただけなのか、それとも他になにかあるのか、確証のない不安感が募る。
 イヤホンに耳を傾けていたズィーベンがため息を漏らした。
「セーフィエルとは別件なのですが、気になる事件がひとつございます」
「にゃに?」
「東京湾で巡視艇に追われていた妖物が、海上パーティーを行なっていた客船と遭遇してしまったそうでございます」
「案外普通の話だね。そんで気になる点は?」
 妖物が帝都の街で暴れることは多々ある。それが海の上に現場を変えただけの話だ。
「客船には帝都の権力者も多く出席しており、妖物を追っていた海上保安部隊との通信は途絶えました」
「妖物に全滅させられたの?」
「おそらく違います。詳しい話は連絡が半ばで途絶えてしまった為にわかりませんが、突然現れた少年らしき人物と応戦していると連絡が入ったそうでございます」
「なんかよくわからない話だね」
「情報が錯綜しておりまして、申し訳ございません。ただ、客船とも巡視艇とも連絡が取れないことだけが確かなことのようでございます」
 難しい顔をする女帝にズィーベンは話を続けた。
「テロリストの可能性も視野に入れて置いた方がよろしいかと思います」
 客船に乗っていた権力者たちを狙った犯行と妖物の襲来が重なったのか、もしくは妖物もテロリストに仕向けられたのか?
 〈箒星〉が地上に堕ちるよりも前に、ある者が〝こちら側〟に還って来たことを、女帝とズィーベンがまだ知る由もなかった。
 闇の傀儡師――呪架。
 しかし、予兆が因果の糸で結ばれているのならば、邂逅の時は近いかもしれない。
 ズィーベンが目を閉じて沈黙したことに女帝が気づいた。
「どうしたの?」
 尋ねる女帝にズィーベンは思案顔をする。
「悪いお知らせがございます」
「聞きたくないなァ」
「先ほどの地震は帝都全域のみに発生したものとのことでございます」
 〈彗星〉が堕ちる前の地震は夢殿の敷地内のみで起こった。
 先ほどの地震は帝都エデンの領土内のみで起こったのだ。奇怪な地震の意味することを女帝もワルキューレも心得ていた。
「それはとても悪いお知らせだねー。アインの死都派遣はちょっと待った方が良いかもね」
 地震も〈箒星〉も、すべて予兆でしかないのかもしれない。女帝は予感していた。

《2》

 死都東京に〈箒星〉が堕ちて数日経った今も、この事件は日本や帝都のみならず、世界各国でも大きな関心を集めていた。
 あの規模の隕石が地表に落下することは稀で、なによりも天文台が衝突の数分前まで発見できなかったことがミステリーとして話題を集めた。
 しかし、〈箒星〉の情報が正しく一般人に伝わることはなかった。
 日本政府と帝都政府は〈箒星〉について情報を一切公開せず、〈箒星〉の落下地点も完全封鎖をしてしまっていた。これにより、憶測だけが膨らみ、突拍子もない話がネット上で流れ、隕石は実は兵器だという噂も飛び交っている。
 そんな噂話も届かない帝都の外れにある山奥。人里はなれたこの場所に洋館がひっそりと建っていた。
 洋館の廊下を足音も立てずに歩く人影。着慣れた赤黒いローブから、歩いた道に死の香りを残す。
 呪架がこの洋館を見つけ出したのは、ほんの三日前のことだった。
 幸運にも海の上で〝金品〟を手に入れた呪架は、それを元手に複数の情報屋を雇ってこの屋敷を捜し出した。正確には屋敷を見つけたのは情報屋ではない。雇った情報屋を介して、手紙が呪架に届けられたのだ。
 差出人は不明であったが、香水の匂いが微かに便箋からした。
 手紙に書かれた場所には洋館があった。けれど、これが本当に探している屋敷なのか呪架にはわからない。そこで情報屋に詳しく屋敷について調べさせたところ、二重三重の偽造工作を抜けた先に、屋敷の所有者として姫野アキナという女社長の名前が挙がった。
 もしかしたら、手紙の差出人の正体もその女かもしれないが、呪架にとって聞き覚えのない名前だった。この人物がどのように呪架に関わっているのか?
 疑問の解決には姫野アキナとの接触が必要だったが、〝こちら側〟に還って来た呪架は誰も信用していなかった。そのため、姫野アキナとの接触は避け、呪架は直接屋敷に赴いて調べることにした。
 そして、呪架はひと目、屋敷を見て確信した。
 それから三日間、呪架はこの屋敷で寝泊りをしている。
食堂のテーブルに着き、呪架は台所の棚の中にしまってあった缶詰を開けた。
 シーチキンだ。
 缶詰を鼻に近づけると、塩と魚の香がした。
 そして呪架はシーチキンを指で摘んで口に運ぶ。
「物足りない味だな」
 〝向こう側〟の味に慣れてしまったためか、〝こちら側〟の物はなにを食べても物足りなさを感じてしまう。
 缶詰の賞味期限が数年過ぎていることは隠し味にはならなかったようだ。
 台所に残されていた食料はすべて賞味期限が切れており、製造年月日を確認すると全て十年以上前だった。つまりそれは一〇年ほど前まで、この屋敷に誰かが住んでいたことになる。
 呪架と同じ血を引く者が住んでいた可能性は高い。
 なぜならば、この屋敷全体は目に見えない力に守られており、玄関は硬く閉じられていたが、呪架は難なく屋敷に入ることを許された。理由は呪架が一族の血を引いていたからだ。
 軽い腹ごなしをした呪架は食堂を出て書庫に向かった。
 書庫は二階建ての屋敷の一階にあり、何万冊もの本が部屋を埋め尽くす本棚に収納されている。
 ここにある本を片っ端から調べ、おそらくこれらは先祖が残した資料だと思われた。少なくとも娯楽ではないように思えた。
 思うという推測の域を出ないのは、呪架が本を読むことができないからだ。
 呪架が〝向こう側〟に連れ去られたのは一〇歳にも満たない頃。サバイバル生活をしていた〝向こう側〟では、教育機関で学ぶような知識は望めなかった。
 しかし、それがここにある本を読めない理由ではない。
 呪架は幼い頃から読書家であった。それは学業にも反映され、学校での成績もトップクラスだったことから、飛び級を重ねた結果、、〝向こう側〟以前の最終学歴は高校在籍だ。
 ここにある本を読めない理由は、書物があらゆる言語で書かれていたためだ。中にはラテン語や古代ヘブライ語で書かれた書物もある。
 それでも呪架は本の中身を一冊ずつ確認し、昨日、偶然にもある物を見つけたのだ。
 本の一冊がスイッチになっており、割れた本棚の間から隠し階段が現れ、それは地下室へと続いていた。
 地下で呪架が見つけたのは研究室だった。
 化学めいた実験器具のフラスコやビーカーをはじめ、棚には薬品に漬けてある植物や生物が見つかった。
 ここで呪架が見つけた一冊の本が、書庫にあった本などの謎を解き明かすヒントになっていた。
 数ある書物の中でも、比較的新しい装丁の日記帳。それは日本語で書かれていたのだ。
 過去に誰かが残した日記を読みながら、呪架は書物の多くが魔導関連の物であると知った。そういえば、挿絵の中に魔術めいた図形のような物があった。
 昨晩のうちに呪架はその日記をすべて熟読し、自分が必要としていた多くの知識を得た。
 日記は呪架の父――愁斗が残した物だったのだ。
 内容は主に闇の傀儡士と傀儡に関してのことだった。他にも同じ筆跡の資料がいくつか残っていた。
 それによると、傀儡士は専用の傀儡を使用することにより、持っている力以上の力で戦うことができる。つまり、傀儡とは傀儡士の技を増幅させる装置ということになる。
 中でも呪架の興味を惹いた内容は、愁斗が単なる戦闘のために傀儡を作っていたのではなく、ある目的のために用途の異なる傀儡を作ろうとしていたこと。
 ヒトの器を造る。
 愁斗は殺された自分の母を蘇らせるために、魂を加工する術と、魂を移す器を造ろうとしていたらしい。それを知った呪架は衝撃を受けた。
 呪架が求めていたことを、過去に父が同じように成し遂げようとしていたことを知り、父が自分と同じような境遇にあったことも驚きだった。
 資料の中のひとつ〈ジュエル〉法についての記述。呪架の祖父である蘭魔が考案した〈闇〉を原材料にする傀儡製造法を基礎として、当時の蘭魔の共同研究者が考案した〈ジュエル〉法によって、死者の黄泉返りを実現する。
 魂=アニマを結晶化したものを〈ジュエル〉に加工して、それを傀儡に取り付けるという方法。これこそ呪架の求めていたものである。
 親子二代に渡って母を殺されていた。これは因果だろうか?
 愁斗の母――呪架の祖母がどのように殺されたのかは、呪架の手元にある資料だけはわからない。けれど、呪架は自分の母が殺される瞬間を目の当たりにしていた。
 白と黒の色違いの翼を持った女が、母――エリスの胸に手を突き刺し、そのまま心臓を抉られたエリスは朱に染まって死んだ。
 死に際に自分に向けた母の顔が、安らかだったことを呪架は覚えている。
 未だにあのときの殺人者が誰だったのか、何の目的で母を殺したのか見当も付かない。
 ただ、母が死んだとき、呪架は闇の傀儡士として覚醒め、恐ろしい〈闇〉を世界に解き放った。
 呪架の放った〈闇〉は、叫び声をあげながら黒い風となって吹き荒れた。それはまるで呪架の心を写しているようだった。
 〈闇〉は殺人者の手に巻き付き、そのまま殺人者を呑み込もうとしたが、殺人者の放った神々しいまでの光に〈闇〉は脅え、術者である呪架に襲い掛かって来てしまった。
 結果として、当時の呪架には〈闇〉を操る技量がなく、〈闇〉に捕らえられて〝向こう側〟へと連れ去れられてしまったのだ。
 力の至らなかった自分を呪架は悔やんだ。
 〝向こう側〟での生活は〝こちら側〟の常識を逸脱し、呪架は死に物狂いで生き延びた。そのことによって、呪架の闇の傀儡士としての技は、身を守る術として自然と修練された。
 そして、呪架はついに傀儡士としての業で、空間を断ち割って〝こちら側〟に還って来たのだ。
 〝向こう側〟で過した時間は推定五年ほどと考えていたが、どうやら〝こちら側〟とは時間の流れが違うらしく、〝向こう側〟に連れ去られてから約一〇年もの月日が流れていた。
 〝こちら側〟に戻って来た呪架のすべきことは、母を殺し、自分の運命を奈落に突き堕とした者への復讐。今の呪架にはそれを成し遂げる力があると自負していた。
 そして、母の黄泉返りという新たな目的もできた。
 さっそく呪架は傀儡づくりを学ぼうとしたが、作業は思うようにはかどらなかった。できないことへの焦りが募る。幼い頃の栄光が今も心に染み付き、できないことが恥に思えるのだ。
 材料のほとんどは屋敷の中に残されていたが、傀儡づくりは呪架にとってゼロからの作業である。
 生まれたときから離れ離れだった父が、実力のある傀儡士だったと母に聴いたことはあった。けれど、会ったこともなければ、当然傀儡士としての技を教えてももらったわけでもない。
 呪架の技はすべて死の淵で自ら編み出した業。
 傀儡つくりを教えてくれる者は誰もいない。
 手元に残された資料だけが頼りだが、本物の傀儡すら見たことのない呪架には頼りにならない資料だ。
 傀儡づくりは失敗の連続であり、日を増すごとに呪架は自暴自棄になっていき、屋敷にあった割れ物などに当り散らした。それでも呪架が傀儡つくりを諦めなかったのは執念。〝向こう側〟での地獄の日々から考えれば他愛もないこと。
 復讐心と母への愛だけが呪架を支えた。
 希望の光の代わりに灯るのは朱色の炎だった。

《3》

 数日のときが経ち、屋敷での生活も慣れてきた。
 傀儡づくりは依然として上手くいかず、呪架は憂さ晴らしも兼ねて屋敷を出た。
 陽はまだ頂点まで昇っていないが、燦然と輝く光が眼には眩しい。
 見通しの悪い森の中に足を踏み入れた呪架は耳を澄ます。
 風に揺れる木の葉のざわめき。
 小鳥のさえずり。
 動物の足音。
 呪架の手が素早く動き、輝線が指先から放たれた。
 傀儡士の技のひとつ。氣を練ることにより、細い妖(よう)糸(し)を作り出す業。
 呪架の放った妖糸は小動物の後ろ足に巻きついていた。
 捕らえられたのは兎だ。
 兎は逃げようと暴れまわるが、巻き付いた妖糸は取れず、呪架は素早く妖糸を手繰り寄せた。
 呪架は近くまで手繰り寄せた兎の首根っこを鷲掴みにして、機械的な手並みで兎の首に妖糸を巻きつけ、一気に締め上げた。
 屠られた兎は鳴き声をあげる間もなく絶命した。
 今晩の食料を手に入れたが、呪架の憂さは晴れなかった。〝こちら側〟の狩りは張り合いもなく、死が隣り合わせでもない。呪架は物足りなさを感じた。
「クソッ!」
 呪架の手から放たれた妖糸が木を薙ぎ倒し、倒れた木の轟音を聴いて鳥たちが一斉に空に舞い上がった。
 狩った兎を持ち帰ろうと呪架が屋敷の前まで来ると、急に肌寒さを感じて辺りを見回した。
 昼間にも関わらず夜風が背中を撫でた。
 呪架は兎を投げ捨てて身構えた。
 久しぶりに感じる心地よいプレッシャー。
「誰だ!」
 辺りを見回す呪架の耳に、静かな女性の含み笑いが風に乗って届いた。
「うふふふ……血の気の多い小僧じゃ」
 玲瓏な声は呪架の真後ろからした。
 すぐに呪架は腕を後ろに振ったが手ごたえはない。空を切った。
「ここじゃ」
 声はまた呪架の後ろからした。
 振り返り、蒼白い女性の顔が眼と鼻の先にあると視認した刹那、呪架の躰は見えない力によって後方に吹き飛ばされた。
 躰をくの字に曲げながら呪架は地面に足を付き、足捌きで耐えようとしたが止まれず、思わず片手を地面に付けてどうにか躰を止めた。
 そのままの姿勢で呪架は顔を上げ、猛獣のような鋭い眼つきで相手の顔を睨みつけた。
「誰だお前!」
「汝(なれ)に名乗る名などない」
 黒いナイトドレスに身を包み、妖々しくスレンダーなボディーから伸びる脚線美。ドレスは質素で、アクセサリーはイヤリングだけだが、着飾らなくとも躰の形そのものが芸術の域に達していた。そして、鼻梁の下では蒼白い肌に紅い唇が浮かび、この世のものとは思えない艶笑を浮かべていた。
 初めてあったこの人物に、なぜか呪架は親しみと畏怖を覚えた。
 直感的に呪架は感じたのだ。この女性の美しさは魔性のものであり、母の醸し出す雰囲気にどことなく似ていると――。
 夜の風を纏った女がそっと吐息を漏らした。吐息は凍える吹雪となって呪架を呑み込もうとする。
 殺意を持った相手の攻撃に呪架はすぐさま戦闘態勢を整え、吹雪を躱すと妖糸を女の首目掛けて放った。
 輝線が宙を翔け、迷いのない直線で女の眼前まで迫っていた。
 しかし、妖糸はその先端から凍りつき、空中で粉々に砕け散ってしまったのだ。
 氷の結晶が宙を舞い、その先で女は艶然と佇んでいた。
「汝の実力はその程度のものかえ?」
 その言葉は呪架のプライドに火を点けた。
「てめぇなんか八つ裂きにしてやる!」
「その意気じゃ」
 余裕を含んだ相手の声に呪架のやる気は増した。
 左手から妖糸を放ち、すかさず右手からも妖糸を放つ。
 業の切れが良い右手の妖糸が先に放った左手の妖糸に追いつき、二本の妖糸が同時に女を切り裂こうとする。
 女は左右から同時に迫る妖糸を一刹那で薙ぎ払った。疾風に迫る妖糸をそれよりも早い動きで防いだのだ。
 金属の扇を構える女は優雅に舞う。
「うふふふ、妾に速さの概念は通じぬ」
「どうやって防いだ?」
 呪架の眼には女が立ち尽くしているだけに映った。それなのに妖糸は確かに弾かれたのだ。
「亜音速で動いただけのことじゃ」
「不可能だ!」
 物体は運動スピードを上げれば上げるほど質量が増える。つまり、亜音速で運動をすれば、躰は重さに耐えられずに崩壊する。はずだった。
「嘘だと思うのならば試してみるかえ?」
 と、女は言い残し、その場から消えたかと思うと、呪架の眼前に立っているではないか!?
 呪架は目の前にいる女の顔を殴ろうとしたが、拳は宙を空振り、躰のバランスを大きく崩された。
 崩したバランスに追い討ちをかけて殴られ、呪架はその反動で地面に伏した。
 腕立て伏せの体勢からすぐに立ち上がった呪架の首元に突きつけられる扇。
 開かれた扇の先端は研ぎ澄まされ、鋭い凶器になっていた。
 扇と喉頸までの距離は一ミリもない。
 死を前にしても呪架の瞳は猛獣のようにギラついていた。
 それに比べて女の瞳は静観している。
 女の躰に残像を見た刹那、呪架は扇の腹で頬を叩かれていた。
 世界が揺れる感覚を覚えながら呪架は両膝に手をつく。
 呪架は口から唾のように血を地面に吐き飛ばし、唇を舌で舐め回した。
「クソババァッ!」
 呪架の手から放たれる闇色の妖糸。受け止めた金属の扇を腐食させ、一瞬にして赤茶色へと変色させてしまった。
 女は扇が完全に腐食する前に地面に投げ捨てた。すると、扇は地面の上で粉々に砕け飛んでしまった。
「余興にしてはおもしろい。じゃが、技の磨きが足りぬ」
 夜風が吹いた。
 呪架はまた女を見失った。
 耳を済ませても足音は聴こえない。
 夜風の吹く音がする。
 耳をくすぐる冷たい吐息を吹きかけられ、そのとき初めて呪架は女が自分の真横にいることに気づいた。
 神速で呪架は妖糸を振るった。次から次へと闇雲に妖糸を振るい、闇色が放射状に広がる。
 残像を残しながらその場に突如現れた女は、夜月のような笑みを顔に浮かべていた。
「妾があと一刹那、亜音速に入るのが遅ければ、この腕も腐ってしもうていた」
 ナイトドレスの袖が片方だけ破り取られていた。破られた布片は地面の上で腐食している。妖糸で斬られた腐食が全身に達する前に、女が自ら袖を破り取ったのだ。
 初めて攻撃を当てることができ、呪架はこの勝負に勝機を見出した。
 次の攻撃を仕掛けようと呪架が右手を振り上げようとする。だが、腕が上がらない。それだけではない。全身がなにかに固定されてしまったように動かない。
 唯一動く首を廻し、呪架は辺りを見回した。
 自分の影に刺さっている数本の短剣を見て呪架は眉を顰める。
 動けぬ呪架に優雅な足取りで近づいて来る女。
「影縫いじゃ。影を固定し、本体の動きを封じる技」
 短剣の刺さっている位置は、影の四肢や関節を固定していた。
 動くことのできる首から上を大きく揺らして呪架が咆える。
「俺を殺せるチャンスがあるのになぜ殺さない!」
 幾度となく女には呪架を殺せるチャンスがあったのに、弄ばれてしまっている。
 呪架は自分の技がまだまだだと自覚していた。けれど、それは〝向こう側〟でのこと。
 〝向こう側〟では微生物にも劣る力しかなかったが、〝こちら側〟ではそれなりの自信を保持していた。
 にも関わらず、この様だ。
 女は慈しむように呪架の頬にそっと指先を伸ばした。
 その指を呪架は噛み切ろうとしたが、頬を叩かれ失敗に終わった。
「まだ妾に逆らう気かえ?」
「俺は誰にも従わない」
「うふふふふ、汝の威勢には感服する。技も認めてやろう。じゃがな、蘭魔に比べれば月とすっぽんじゃ」
 その名を聴いて呪架は眼を大きく開いた。顔も見たこともない祖父の名前を女は口にしたのだ。
「お前、何者だ!」
 呪架は目の前の女を初めて目にしたときから、なにか感じるものがあった。
「妾の話を蘭魔から聞かされておらぬのかえ?」
「会ったこともない奴から話なんか訊けるか」
「会ったこともないとな? 汝は蘭魔の嫡子ではないのかえ?」
「蘭魔は俺の祖父の名前だ」
 この発言を訊いて女は破顔した。
「うふふ、そうか、彼奴の孫か……人間の時は流れるのが早いのお」
「だからお前は何者なんだ!」
「妖魔の姫、名はセーフィエルと申す。汝の曾祖母じゃ」
 叛逆の罪により銀河追放をされ、〈箒星〉に乗って地球に帰還した者の名。
 呪架とセーフィエルが邂逅した。

《4》

 敵意の消えたセーフィエルを呪架は屋敷に通した。訊きたいことが山のようにあるからだ。殺してしまっては口が聞けなくなる。
「初めから殺す気など毛頭あるはずがなかろう。汝の力量を知らんがためじゃ」
 と、セーフィエルは語った。
 客人など通したことのない応接室は埃が積もっており、とても客人を迎えられる状態ではなかったが、部屋に入ったセーフィエルが吐息を吐くと、部屋中の埃は窓の外へ飛ばされてしまった。
 長い足を組んでソファに座るセーフィエルの向かいには、呪架が注意を払いながらソファに腰掛けている。
「なんの目的で俺に会いに来た?」
 尋ねる呪架の瞳の奥を見据えながらセーフィエルは答える。
「こちらの方角から妾の血を感じた。汝じゃ」
「曾孫の顔を見に来ただけかよ?」
「曾孫……ひとつ気になることがあるのじゃが、確かめても良いかえ?」
「なんだ?」
「じっとしておれ」
 ローテーブルを乗り越えてセーフィエルの顔が呪架の唇に近づく。
 間近に迫ったセーフィエルの顔は、呪架の顔に触れることなく迂回した。
 なんとセーフィエルは呪架の首元に歯を立てたのだ。
 首に当たる柔らかい唇と、肌に突き刺さる硬く鋭い歯の感触。痛みは虫に刺された程度だった。
 呪架の首から口を離したセーフィエルは血の付いた唇を艶めかしく舐めた。男ならば唾を呑み込んでしまう仕草だ。
 相手の行動に噛み付くことなく呪架はセーフィエルの言葉を待つ。
 眼を深く閉じているセーフィエルの顔は、賢人が宇宙の真理を紐解く瞬間に見えた。
「やはり……妾が感じていたのはこれじゃったか」
 独り言を呟いたセーフィエルに呪架が問う。
「なにがだ?」
「汝は妾の曾孫であり孫じゃ」
「はっ?」
 思わず素で呪架は口から言葉を漏らした。
 なぜ呪架の祖母であり曾祖母であるのか、呪架には理解ができなかった。
「汝はなにも聞かされておらぬのか?」
「なんだよ、知らねぇよ」
「祖父母の蘭魔とシオンの話を聞いたことがないかえ?」
「つい先日に名前を知ったばっかりだよ」
 この屋敷に残っていた資料からその名前を知った。蘭魔もおそらく傀儡士であったと思われ、シオンは愁斗の母であるということぐらいしか呪架には情報がなかった。
 セーフィエルは宙を仰いだ。その瞳は愁いを帯びている。
「シオンもエリスも妾の子じゃ」
 祖母と名乗り、曾祖母と名乗り、姉妹の母と名乗ったセーフィエル。その容貌は二十代後半にしか見えない。魔性の若さと美貌を持っているのだ。
 セーフィエルの言葉を信じるのならば、呪架の父である愁斗はセーフィエルの子供であるシオンの子供であり、愁斗はのちに同じくセーフィエルの子供であるエリスとの間に呪架をもうけたことになる。
「近親相姦か……」
 呟く呪架にセーフィエルは軽く答える。
「妾の一族では優良な種を残す為のごく当たり前の行為じゃ。下等な人間とは遺伝子の根本が異なる故、問題はなにも生じぬ」
 これを聞いた呪架は急に笑い出した。
「はははっ、やっぱりな……お母さんは人間じゃなかったのか。なにか違うと小さい頃から思ってたんだ」
 呪架はセーフィエルをひと目見たときから人間ではないと感じていた。セーフィエルが人間ではないのなら、その子供のシオンとエリスも人間ではない。つまり、呪架も純粋な人間ではないことになる。
 ここで呪架は疑問を投げかけた。
「祖父は人間だったのか?」
「人間じゃった。のちに魔人となったがな」
 祖父が人間だったならば、呪架の躰に流れている血の3分の1だけが人間の血だ。
 残りの3分の2は何の血が流れているのか?
「人間じゃないお前は何者だ?」
「くだらぬ愚問じゃ。獅子が獅子であり、鼠が鼠であると同じこと。人間とは別の存在――便宜上、妖魔といふ言い方が良いじゃろう」
 セーフィエルの黒瞳は呪架の瞳の奥から、なにかを読み取った。
「エリスの話を聞きたくないかえ?」
「俺の知らないお母さんの話か?」
「さて、それは知らぬが、重要な話じゃ」
「訊かせろ」
 呪架は息を呑んだ。
「妾の娘子たちは遠い場所におる。帝都政府に幽閉されて居るといふのがわかり易いじゃろう」
「お母さんは死んだんじゃないのか?」
「死と消滅は意味が違う。消滅といふのはアニマまでも滅びること。肉体が滅びているだけならば、黄泉返りは可能じゃが、問題は娘子たちのアニマが降霊術では呼び出せぬ、〈裁きの門〉の奥に幽閉されているといふことじゃ」
「とにかくお母さんが黄泉返る可能性はゼロじゃないてことだろ?」
「蘭魔の傀儡と妾の研究していた〈ジュエル〉法を組み合わせれば器はできる」
 その〈ジュエル〉法とは、呪架がこの屋敷に来てから成し遂げようとしていた方法だった。
 しかし、それだけでは黄泉返りは不可能だ。
「じゃが、器を完成させても、肝心のアニマ――娘子たちを助けに行かねばならん。それに妾は傀儡をつくることができぬ。そこで相談なのじゃが……」
 呪架は頷く。
「わかった、俺らの利害は一致してると感じた。俺のお母さんとおばの黄泉返り、そして帝都政府への復讐だな?」
「そうじゃ、そのために汝には器となる傀儡をつくって欲しいのじゃ」
 呪架は復讐の相手がわかり、〈ジュエル〉法を開発したセーフィエルとの利害も一致した。
 問題はまだ呪架に傀儡をつくる技量がないことだ。
「俺もお母さんを黄泉返らせようと、この屋敷にある資料を読んで傀儡をつくろうとしていたんだ。けど俺は傀儡士の業を誰かに教えてもらったわけじゃない、傀儡つくりが上手くいかないんだ」
「うふふ、妾は汝を気に入ったぞ。妾に見せたあの技は自ら編み出したものか、あっぱれじゃな。傀儡をつくる技量はあると見たが、それを教える者がおらぬのか」
「傀儡の原動力は〈闇〉だと書いてあったが、その〈闇〉についての知識も俺にはない」
 呪架の傀儡士としての技は、すべて自らが生きるがために編み出したもの。荒削りで洗練されたものとはとても言えない。今の呪架には師が必要だった。
 呪架は驚きで眼を見開いた。
 有無を言わせぬままセーフィエルの唇は呪架の口を吸っていた。
 口を離したセーフィエルが艶やかに微笑む。
「学んで来るが良い……傀儡士の業を」
 ぼやける呪架の視界。蒼白いセーフィエルの顔が揺れている。
「俺になにをし……」
 呪架の意識は闇の中に吸い込まれ、視界はゼロになった。

《5》

 水面に雫が落ちる音と共に呪架の視界は開けた。
「ここは……?」
 どこだろうか?
 朱色の空の下、乾いた大地が果てしなく地平線まで続いている。ビルや鉄塔など、視界を遮る物はなにもない。そこには空と大地があるのみだった。
 セーフィエルの声が世界全体から聴こえる。
《汝の遺伝子に眠る先祖を顕現させる。気を抜くでないぞ、精神界で死ねば現実でも死ぬぞよ》
 蒼白い月のような哄笑が世界に響き渡り、セーフィエルの声は遥か遠くの世界に消えてしまった。
 残された呪架は強烈なプレッシャーを感じて振り返る。
 眼に焼きつくほど鮮やかに紅いインバネスを羽織った男の姿。魔導を帯びた特有の色香を漂わせる黒瞳が呪架を魅了していた。
 男とは思えぬ妖艶な笑みを浮かべて、紅い男は艶やかな声を出した。
「傀儡士の基本は妖糸を操ることだ」
 この声音は悪魔が乙女を誘惑するときに出す声だ。声そのもが魔性を孕み、ひと言ひと言が心の奥まで響く。
 目の前の紅い男が人の皮を被った魔性の者だと呪架は感じ、不快な汗が全身から滲み出してしまっていた。
 金縛りに遭ってしまった呪架の顔を輝線が掠め飛んだ。
 それは紅い男が放った妖糸だった。
「妖糸は太さよりも質を重んじろ。より大きな力を細い糸に集約し、不可視に近づけることに意味がある。お前の業を私に見せろ」
 呪架は紅い男を見据え、己の持つ改心の一撃を放った。
 闇色をした蛇のような妖糸が紅い男を目掛けて飛ぶ。呪架は相手を殺す気で放った。
 が、なんと呪架の放った妖糸を紅い男は片手で易々と受け止めてしまったのだ。
 これには呪架も絶句した。
 紅い男の掴んだ妖糸は霞のように消えた。
「力を細く集約しろと言うたのを聞いておらなかったのか?」
「そんなやり方知るかよクソッタレ!」
「もうひとつ、今のお前にはその妖糸は扱いきれん。早死にしたくなくば通常の妖糸で戦え、この意味はお前の躰が一番知っておろう?」
 なんのことを相手が言っているのか呪架にはすぐ理解できた。
 闇色の妖糸を使うたびに、躰の内から滲み出す疲労感を感じていた。これがただの疲れではないと呪架は薄々と勘付いていた。闇色の妖糸は呪架の躰を少しずつ蝕んでいるのだ。
 紅い男は十本の指を軽く慣らした。
「通常の妖糸でも十分に戦えることを証明しよう。その前に、真物(ほんもの)の傀儡士というものを魅せてやろう」
 紅い男は十本の指を目にも留まらぬ速さで動かし、宙に奇怪な紋様を描いた――魔法陣だ。
 宙に描かれた巨大な魔法陣の〝向こう側〟から、獣ともヒトともつかぬ恐ろしい〈それ〉の咆哮が世界に響き渡った。
 世界を萎縮させる強大な力を持った存在が、魔法陣の〝向こう側〟にいる。
 紅い男が語る。
「傀儡士は〈闇〉を操り、異界の者たちをもその糸で操る。そして、〈それ〉を使役することができれば、あらゆる望みが叶えられると云われておる」
 〈それ〉の咆哮に合わせて馬が嘶くような声が聴こえた。
「観るがいい傀儡士の召喚というものを!」
 大地を踏みしめる音と共に魔法陣の〝向こう側〟からニ角獣を飛び出した。
 ヤギか馬のような四つ足の魔獣は、人間のような長い鬣(たてがみ)を地面まで垂らし、その黒髪の間からは二本の角が鋭く伸びていた。
 ニ角獣は前脚の蹄で地面を掻き上げ、鼻からは熱気を帯びた息を荒立てている。
 紅い男が指揮者のように手を振ると同時に、ニ角獣は呪架に尖った角を向けて駆けて来た。
 呪架は恐れることなく妖糸を振るう。
 伸びた輝線は首を振ったニ角獣の角に弾かれてしまった。
 歯軋りをする呪架に紅い男は優雅に舞いながら助言をする。
「ニ角獣の角はただ硬いだけではない。魔力の源がそこにある。二流の傀儡士には到底斬れぬ」
 斬れぬと言われて引く呪架ではない。
 斬れぬと言われれば斬って見せると心に誓う。
 呪架は指先に意識を集中させた。
 一撃に魂を込める。
 ニ角獣の角がすぐそこまで迫っていた。
「喰らえ!」
 呪架の手から放たれた煌きはニ角獣の角に当たり、蒼白い火花を散らした。
 ニ角獣の動きが止まり、呪架は息を呑んで咽喉元を動かした。その咽喉にはニ角獣の角が突きつけられていた。
 しかし、呪架とて報いていないわけではない。
 一本は斬り損ねたが、もう一本は地面に転がっていた。
 それを見た紅い男は大そうに拍手をした。
「ようやった。一本斬れれば上等。だが、私がニ角獣を操っていなければお前は死んでいたぞ」
 ニ角獣は呪架の咽喉元に角を突きつけたまま動かない。けれど、髪の奥から覗く赤い瞳は呪架に凄みを利かせ、荒立てる熱い鼻息を呪架の顔に吹き付けている。紅い男が操り糸を解けば、呪架の首は大量の血を噴出すことになるだろう。
 呪架はゆっくりと後退して、額の汗を拭うと紅い男を睨みつけた。
 紅い男は呪架の気迫を軽く受け流し艶笑した。
「これが傀儡士の召喚術。傀儡士の技量があれば、どんな存在でも操ることができる。このニ角獣はほんのお遊びだ。さて、次は通常の妖糸のみで戦う戦法」
 紅い男は宙に妖糸で目にも見える蜘蛛の巣を描く。
 蜘蛛の巣を見上げていた呪架は躰に違和感を覚えた。肢体になにかが巻き付き、強引に蜘蛛の巣まで吊り上げられ、虫のように蜘蛛の巣に捕らえられてしまった。
「なにをする気だ!」
 喚く呪架に紅い男が説明をする。
「基本動作として妖糸は斬る以外に、巻きつける、モノを操ることができる。そして、他にもお前を捕らえた〈蜘蛛の巣〉をつくることもできる。その妖糸は柔らかいために、粘着性がある」
 〈蜘蛛の巣〉に磔にされた呪架は身動きひとつできなかった。粘着性があるどころか、鋼で躰を固定されたみたいに頑丈だ。
 今まで動きを封じられていたニ角獣が急に暴れ狂い出した。紅い男が〈操り糸〉を解いたのだ。
 角を斬られたニ角獣は憤怒し、前脚を高く上げて嘶き、紅い男に向かって突進して来た。
「熟練した傀儡士は同時に複数の妖糸を放つことができる」
 そう前置きをして、紅い男は右手から放った三本の妖糸を縦に払い、左手から放った三本の妖糸を横に払った。
 六本の妖糸はニ角獣を十字に斬り裂き、鮮血の雨が地面に降り注いだ。
 細切れにされたニ角獣の肉片を見ることもなく、紅い男は上を見上げて〈蜘蛛の巣〉に捕らえられている呪架の顔を見つめた。
「今はお前に見せるために遅く妖糸を放った。これが私の秘伝〈悪魔十字〉。本来は六本同時に放つが、今回は三本ずつ放った」
 その技を呪架はしかと見た。
 妖糸は一本だけでも練るのが大変なのに、それを片手で三本。呪架は両手を合わせて二本が限度だ。しかも、左手から妖糸を放つことを不慣れとしている。今の呪架に〈悪魔十字〉を不可能だった。
 傀儡士のことをなにも知らないと呪架は思い知らされた。自分の技はお遊びだった。召喚など知りもしなかった。
 紅い男は新たな魔法陣を宙に描いた。
 〈それ〉の呻き声が羽音と共鳴し、〝向こう側〟から蛾のシルエットが飛び出した。
 蛾のような翅を持っているが、躰は灰色の毛を生やしたゴリラのようで、顔には大きく紅い昆虫のような眼が二つある。
 蛾男と呼ぶべき怪物は鋭い嗅覚を働かせ、地上の血溜まりを発見した。肉塊にされたニ角獣が沈む血の海だ。
 鋭い爪の付いた前脚を血溜まりに下ろし、蛾男は口からストローのような器官を出して血を啜りはじめた。
 血は見る見るうちに吸い上げられ、蛾男は更なる食料を探して嗅覚を研ぎ覚ませた。
 蛾男の眼が〈蜘蛛の巣〉に掛かった呪架に向けられる。
 赤黒いローブが放つ死の香に誘われて、不気味な羽音を立てて蛾男が呪架に近づく。
 躰が張り付いてしまっている呪架は逃げることもできない。
「クソッ!」
 短く怒りを発する呪架。その耳に叫び声が聴こえた。
 紅い男の前の空間が裂け、風を吸い込みながら叫び声をあげている。
 闇色の裂け目。
 その奥から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。常人であれば耳を塞がずにはいられない。
 紅い男が蛾男を指さした。
「〈闇〉よ、喰らうがいい!」
 裂け目から飛び出した〈闇〉が荒れ狂う風のように、絶叫しながら蛾男に襲い掛かる。
 〈闇〉は触手のように伸び、蛾男の胴を掴み、足首を掴み、眼を覆い、やがて全身を呑み込んでしまった。
 蛾男を呑み込んだ〈闇〉はそこら中を飛び交い、呪架や蘭魔が呑み込まれるのも時間の問題と言えた。
 だが、紅い男が威厳を込めて命じる。
「自分の世界に還れ!」
 〈闇〉は荒れ狂っていたのが嘘のように静まり、元来た裂け目の中に還っていった。
 そして、閉じられる闇色の裂け目。
 世界は何事もなかったように静まり返り、ニ角獣の肉片や血の一滴までもどこかに消えてしまっていた。
 紅い男は両手から妖糸を放ち、呪架を捕られていた〈蜘蛛の巣〉を切り刻んだ。
 地面に軽やかに着地した呪架は地面から顔を上げようとしなかった。
 呪架の額から零れ落ちた汗が乾いた大地に染み込む。
 あの〈闇〉こそ、呪架を〝向こう側〟へ連れ去ったもの。それを紅い男が見事に使役していた。
 呪架の視線の先に紅い男の靴が見えた。顔を上げると紅い男が呪架を見下している。
「喰われたくなくば〈闇〉を決して恐れてはならぬ。逆に〈闇〉を恐怖させ、我が僕とするのだ。〈闇〉を従えてこそ真の闇の傀儡士と云える」
「俺にそれができるのか……」
 不安は〈闇〉が付け入る材料だ。
 呪架は静かに瞳を閉じ、心を鎮めた。
 瞼の裏で泳ぐ残像。
 〝向こう側〟に連れ去られたときの光景を呪架は頭を振って消し去った。
 再び呪架が目を開けると、木の天井が見えた。
 全身を濡らす大量の汗はソファにまで染み込んでいた。
 呪架は精神界から現実の屋敷に戻って来たのだ。
 ソファの上に寝かされていた呪架は上体を起こそうとしたが、内臓が激しく痛み、急な咳が襲い、口の中に鉄の味が広がった。
 躰が〈闇〉に侵蝕されているのだと呪架は感じた。これは〝向こう側〟にいたときからだった。このまま闇の傀儡士として戦えば、その代償として命を削ることになる。
 悠長に構えている時間はない。
 口の中に広がる血を飲み込み、呪架は上体を起こした。
 傍らにはセーフィエルが立っているが、その表情は月のように無機質なものだった。
「全て見させてもろうていた。傀儡が完成したら、今後はそれで戦うのが良いじゃろう。それで躰への負担は少し軽減されるはずじゃ」
 しかし、呪架は召喚を知った、〈闇〉が操れることを知った。
 まだ使い方や使役の仕方はわからず、今後の課題となったが、あの力を使うには〈闇〉に身を置くことになる。強力な力は大きな代償を必要とする。
 その覚悟を呪架はとうの昔にしていた。
 己の躰が滅びるのが先か、目的を果たすのが先か……。
 時は流れを止めることなく呪架を闇に導く。

《6》

 帝都の東方に位置するミナト区。
 リニアモーターカーが停車するギガステーションがあることや、千葉県が東京湾を挟んあることから、帝都でも三本の指に入る大都市だ。
 臨海公園を見下ろすように立っている通称ツインタワービル。ノースとサウスに分かれる一〇〇階建ての双子ビルだ。帝都でもっとも夕焼けが綺麗に見える場所としてデートスポットになっているほか、ノースビルはショッピングビルとして機能しているため、観光マップでも大きく取り扱われている。
 ノースビルには帝都で一般的に買える物ならば、全て取り揃っていると言ってもいいだろう。もちろん武器も売っている。
 家族連れの観光客がノースビルに正面ゲートを潜ろうとしたとき、それは起きた。
 地鳴りが響き、大地が揺れる。
 震度五強の地震が都市を揺るがした。
 人々はすぐさまビルの中に逃げ込む。耐震性を兼ね備えたビルは意図的に揺れることにより、地震の揺れとシンクロさせて揺れを相殺する。
 ビルは揺れに耐えたが、並木道の木々は根を地中に張っているにも関わらず、臨海公園の多くの木々が倒れた。
 被害状況を夢殿の官邸で受けた女帝は嫌そうな顔をする。
「日に日に余震の規模が大きくなってるよねー」
 女帝は円卓の上に突っ伏した。地震のニュースはもううんざりだ。
 帝都エデンでは地震対策に世界で一番力を入れているため、被害の規模はそれほど広がっていないが、問題は地震の背後に潜むモノだと女帝は考えていた。
「地震の影響で〈ゆらめき〉が発生していなか心配だよね、まったくもー」
 一〇人掛けの円卓はその半分以上が空席で、女帝の嘆きを拾う者はいなかった。
 ズィーベンは事務的に資料を読み上げる。
「今回の地震は一連の地震の中では最大規模となり、やはり震源地は帝都の外周とのことでございます」
 ツインタワーのあるミナト区は帝都の最東端だった。
 帝都領内だけを襲う奇怪な地震は、通常の地震ではありえないエネルギーの広がり方をしていた。外から内へ震度が軽減していたのだ。
 通常、震源地は一点であるが、この地震の震源地は円の外周のように帝都を包み込んでいた。加えて、帝都以外の土地ではまったく揺れを感知していない。自然災害とは言えぬ代物だ。
 円卓に着いている四人の中で、ベレー帽を被ぶり、軍服を着た凛々しい女性が立ち上がった。腰には銃ではなく、大剣が差してある。ワルキューレの最高責任者アインだ。
「この地震の原因は〈ヨムルンガルド結界〉が引き起こしていると皆も承知しているはず。にも関わらず、他のワルキューレはどこでなにをしているのだ!」
 両拳でアインは円卓を激しく叩いた。地震よりも酷い揺れが突っ伏していた女帝を襲う。
「わおっ、地震?」
 女帝はまん丸の瞳で当たりを見回した。それを見て失笑する白い甲冑を着たフュンフに、アインが軽い咳払いをして牽制した。
「弛んでいるぞ!」
 アインの袖を女帝が掴んで、引っ張って座るように促す。
「まぁまぁ、アインってばカリカリしないで。カルシウムはね、ミルクを飲むのが一番いいんだよー」
 相手が仕える君主だとわかっていても、このときばかりは睨みつけてしまった。
「ヌル様、貴女様がそのようなことだから、ワルキューレたちの気が緩んでしまうのです!」
「アタシのせいにしないでよー。ワルキューレの最高責任者はアインじゃん」
 アインは震える拳を円卓の下に隠した。
 場に流れる殺気を感じてズィーベンが咳払いをする。
「〈ヨムルンガルド結界〉は正常に作動しており、地震が起きるのはその証拠でございます。結界師としてのわたくしの見解ですが、信用できぬようであればヌル様にお尋ねください」
 ここにいるワルキューレたちに視線を注がれた女帝は深く頷いた。
「ぜんぜんへーき、あいつが目覚めればアタシが一番に気づくし。それにさ、あいつを封印してるのは〈ヨムルンガルド結界〉だけじゃないしさ」
 〈ヨムルンガルド結界〉とは帝都全体を囲っている結界の名称。この結界に異常が現れるということは、封印しているあるモノが、なんらかアクションを起こしているということだ。
 問題は〈ヨムルンガルド結界〉が起こす地震ではない。それをアインは危惧していた。
「自分は〈ゆらめき〉を危惧しているのだ。〈ゆらめき〉が発生すれば〈闇の子〉の思念が漏れる。〈ヨムルンガルド結界〉が揺れる原因が〈闇の子〉にあるのか、それとも別の要因があるのか、それすら解明できてないではないか」
 それに対して眼鏡を直しながらズィーベンが速やかに回答する。
「科学的な見地からはゼクスが調査中でございますが、推論でよろしければセーフィエルとの因果関係が考えられます。なぜならば、〈闇の子〉を封じている最後の砦はノインの魂。妹のエリスの魂も〈タルタロスの門〉を守っております」
 コードネーム〝ノイン〟。
 セーフィエルやエリスの名前が出たことからわかるように、ノインとはシオンのワルキューレでの名前だ。
 セーフィエルの存在がシオンとエリスの魂に影響を与えている。と、ズィーベンは推測したのだ。
 このとき、帝都政府は呪架の存在にまだ気づいていなかった。
 女帝はローラーの付いている椅子で後ろに滑るように移動し、円卓の上に足を乗せて腕組みをした。
「あのさー、別次元にある〈裁きの門〉、そのさらに奥にある〈タルタロス〉にいるノインが本当に影響を受けてるとしたらさ、事態は大深刻だよねー。ちょっとみんな聞いてよ、だとしたらさ、ここの地下にいる〝メシア〟クンも異常をきたすかもしれないよね。実はさっきから胸騒ぎがしててさー」
 女帝は話し終えると円卓に土足で上り、会議室を飛び出そうとして、ドアの前で振り返って叫んだ。
「妹の思念を地下から感じる!」
 ズィーベンは女帝にロッドを投げ渡し、自らもロッドとスピアが一体化したホーリースタッフを持って女帝の後を追う。
 遅れてアインとフュンフも駆け出した。
 石造りの螺旋階段を滑るように下りる女帝の前に、黒い影が二つ立ちはだかった。
 半裸状態に拘束具を着せられている少年――コードネーム〝メシア〟。
 〝メシア〟は少年とは思えぬ艶やかな笑みで女帝を出迎えた。その背後から少女の〝影〟が顔を見せる。
「やあ、姉上、久しぶりだね」
 女帝の声とまったく同じ声だった。そして、〝影〟は本当に〝影〟であり、本体がそこにはない。
 姉上と呼ばれた女帝はもちろんこの〝影〟の正体を知っている。知りすぎている。〈闇の子〉と呼ばれる双子の妹だ。
 危惧されていた〈ゆらめき〉が発生し、〈闇の子〉の思念が外に漏れ出してしまったのだ。ここにいる〝影〟は〈闇の子〉の幻影――ダーク・ファントム。
 横幅が一メートルほどもないこの場所での戦闘は難しい。
 この場所で有利なのは形を持たぬ存在。
 ダーク・ファントムが女帝に被さるように襲い掛かる。
 柄の長いロッドを構えた女帝が迎え撃つ。
「幻影なんてアタシの敵じゃないね、光よ!」
 ロッドがダーク・ファントムに当たると同時に、眼も眩む閃光が世界を包み込んだ。
 ダーク・ファントムに押し倒された女帝の真上を小柄な影が飛び越えた。
「ボクは逃げさせてもらうよ」
 澄んだ少年の声を発して〝メシア〟が螺旋階段を駆け上る。
 〝メシア〟が引きずる鎖を女帝は掴もうとしたが、鎖は指の間を擦り抜けてしまった。
 閃光が治まり、その場にいたはずのダーク・ファントムは、まさに幻影のように姿を消していた。
 急いで螺旋階段を駆け上がる女帝。
 上の階に辿り着いた〝メシア〟は、ドーム型の広い堂で足を止めていた。
 ワルキューレ三人に囲まれる〝メシア〟。背後には女帝が立っている。
 ホーリーロッドを構える女帝。
 アインはホーリーソードを構え、ズィーベンはホーリースタッフを持ち、フュンフはホーリースピアを掲げた。
 対する〝メシア〟は武器を持っていない。両手を上げて指を開いてみせる。指の一本一本に嵌められていた枷がない。
 メシアが両手を素早く動かした。流れるように宙を奔る輝線。傀儡士の妖糸だ。
 妖糸は同時に六本も放たれ、それは全てズィーベンに向けられていた。
 亜音速に突入したフュンフが全ての妖糸をホーリースピアで弾き返し、アインが〝メシア〟の背後から首に剣を廻し、ズィーベンが呪文を唱えた。
 唱えられた呪文により、〝メシア〟の肢体に取り付けられていた四つのバンドが互いに引き合い、前屈の格好のまま動きを封じられてしまった。
 前屈の姿勢のまま横倒しになった〝メシア〟にズィーベンが近づく。
「次からはもっと重い枷を付けることにいたしましょう」
 見下す四人の女性にメシアは毒づく。
「ボクのこと苛めてそんなに楽しいかい? 足にも手にも枷を嵌められ、アイマスクと猿轡までされて、キミらのSM趣味にはうんざりだよ」
 アインの大剣がメシアの首に突きつけられる。
「貴様に声は必要ない。口が過ぎるようであれば声帯を切ってやっても良いのだぞ、〝メシア〟?」
「その〝メシア〟って呼び名もやめてもらえるかな。ボクには慧夢(えむ)ってカッコイイ名前があるんだケド?」
 本当に慧夢の声帯を切ろうと動いたアインの手を女帝が止めた。
「まぁまぁ、〝メシア〟クンはうちの大事な戦力なんだから、傷物にしちゃ駄目だよ」
「しかし……」
 最後まで言わずアインは口を噤んだ。
 女帝は慧夢に背を向けて歩き出しながら言う。
「ズィーベン、今度からはアタシたちに逆らったら、悶絶して死んじゃうような枷を〝メシア〟クンに付けてあげて」
「承知したしました」
 女帝の背中に頭を下げるズィーベンや、他の者たちを見ながら慧夢は言葉を吐き捨てる。
「みんな嫌いだよ」
 三人のワルキューレに引きずられ、慧夢はまたあの暗い地下に封印されるのだった。

《7》

 小柄なパーツを組み合わせ、形だけだが少女の傀儡が完成した。
 初めてつくった傀儡ということもあり、関節の接合部もすぐにわかり、作り物だということがすぐにわかってしまう。それでも先代が残した素材が良いために、肌の質感や、肉の弾力は本物そのものだ。
 次にこの傀儡に必要なものは、原動力となる〈闇〉の注入。
 〈闇〉の注入には危険が伴うらしく、つくった傀儡が壊れてしまうこともあるらしい。
 呪架はつくった傀儡を抱きかかえて屋敷の外に出た。
 裸のままの傀儡を地面に寝かせる。胸部の少し上に透明のクリスタルが嵌め込まれている。ここに〈闇〉を注入する。
 柔らかな日差しを浴びる少女の傀儡から、呪架は数歩後ろに下がって気を静める。
 少し離れた場所からはセーフィエルは佇み見守っている。
 ここ数日、呪架は傀儡づくりだけをしていたわけではない。精神界から戻った呪架は傀儡士としての技を磨き、より高みを目指して修行を重ねた。
 傀儡に嵌め込まれたクリスタルに意識を注ぐ呪架。
 軽く右手をストレッチして、呪架は空間に向けて妖糸を放った。
 断絶された空間の傷が唸り声をあげ、徐々に広がりを見せる。
 裂けた空間の先に広がる闇。
 闇色の裂け目から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。
 〈闇〉が世界に解き放たれ叫び声があげた。
「俺の言うことを聞きやがれ!」
 怒鳴りながら呪架は指先をクリスタルに向けた。
「大人しくその中に入れ!」
 〈闇〉が呪架の命令を聞き、クリスタルに向かっているかに見えた。だが、クリスタルの上に来た途端、方向転換をして呪架に向かって飛んで来た。
 向かって来る〈闇〉を見て、呪架の脳裏に吐くほどに辛い過去の残像が浮かぶ。
 朱に染まる母の幻影と、恐ろしい〈闇〉に連れ去られた〝向こう側〟の世界。
 呪架の心を蝕む恐怖。
 向かって来た〈闇〉を呪架は紙一重で避けた。
 心に隙間を蝕もうとする〈闇〉。
 悲鳴、鳴き声、呻き声、苦痛に満ちた絶叫が呪架の耳を犯す。
 方向を変えた〈闇〉が再び呪架に襲い掛かる。
 呪架は息を呑んだ。
 〈闇〉は支配するものだ。
 決して〈闇〉を恐れてはならない。恐れは心を殺す。
 絶対的な力によって〈闇〉を屈服させるのだ。
 呪架の瞳が闇色に染まる。
 全身から魔気を発する呪架。
「俺の前に屈服しろ!」 叫ぶ呪架の躰に〈闇〉が飛び込んだ。
 〈闇〉の強烈な一撃を腹に喰らいながらも、呪架は恐れなかった。
「俺に逆らってんじゃねぇよ!」
 全身から荒波のような魔気を発した呪架から〈闇〉を飛ばされた。
 そのまま呪架は手を掲げた。
「〈闇〉よ、傀儡の力となれ!」
 呪架が手を下げたと同時に〈闇〉が急落下をしてクリスタルに吸い込まれた。
 透明だったクリスタルの中で闇色が渦を巻いている。
 ついに傀儡士の傀儡が完成した。
 事を終えた呪架は腹を押さえながら地面に膝をついた。
「さっきの一撃でまた臓器が犯られた……」
 歯を食いしばりながら呪架は立ち上がった。
 呪架は完成した傀儡の傍らに膝を付き、つま先から指先、髪の毛の一本一本までをいとおしく眺めた。
 闇色の渦巻いていたクリスタルはすでに純粋な透明に戻っている。〈闇〉が全身に行き渡った証拠だ。
 呪架は少女の傀儡を抱え、力強く抱きしめた。
 傀儡の肌は熱を帯びており、皮膚の下からは血流のようなエネルギーの流れを感じる。
 この傀儡は初めてつくった試作品であるが、それでもあとは〈ジュエル〉さえあれば、エリスの黄泉返りは達成される。
 しかし、その〈ジュエル〉はまだ呪架の手元にない。
 エリスの魂は〈裁きの門〉の奥に幽閉されているらしい。
 呪架はさきほどまでいたはずのセーフィエルを探した。
 辺りにセーフィエルの姿も気配もない。
 すぐさま呪架は傀儡を抱きかかえて屋敷中を探したが、どこを探してもセーフィエルの姿はなかった。
「クソッ、どこに行きやがった」
 せっかく傀儡ができたというのに、〈裁きの門〉のことを知っているセーフィエルが姿を消した。
 手がかりを握るセーフィエルが消えたことにより、呪架の心は苛立ちを覚えずにはいられなかった。
 そして、呪架はあまりのも大胆な強硬手段を思いついたのだった。


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