第4章 光に潜む闇

《1》

 帝都を襲う地震の規模は前にも増して大きくなっている。
 〈裁きの門〉が開かれ、エリスは外へ連れ去られた。〈ヨムルンガルド結界〉の〝動揺〟が地震を起こしていることは間違いない。早急に対策を練らねばならなかった。
 帝都で暴れまわる妖物たちの数も先月、例年にくらべ異常に多い。すべての厄災は因果の糸で結ばれている。
 異常な事態に帝都から逃げ出す者も増えたが、他の都市で同様の事件が起きた場合を想定すれば、帝都から逃げ出す者の数は少なすぎる。これも魔導に魅入られた帝都の魔性か?
 ヴァルハラ宮殿の会議室で今日も女帝は頭を抱えていた。この会議室に連日、入りびたりだ。
「ズィーベン、今日は明るいニュースが聞きたいかなァ」
 悪いニュースはもうたくさんだ。
「アインが全面的に指揮にあたる機動警察との連携もあって、被害は予想より抑えられてございます」
「びみょー。それっていいニュースなのかなァ?」
「しかしながら、予想に反して帝都を逃げ出さない住民が多いので、そのあたりが心配かと」
「ぶっちゃけ人間なんてどーでもいいんだけど、守ってあげないと女帝の顔が立たないからねー」
 今もワルキューレのメンバーは帝都を飛び回って、事態の収拾と妖物狩りに追われている。
 元々帝都に巣食っていた妖物も凶暴化して手を焼くが、より脅威となるのは〝向こう側〟の存在たちだ。
 〈ヨムルンガルド結界〉などの余波を受けて、各地で発生してしまっている〈ゆらめき〉から、〝こちら側〟に流れ込んでくる脅威。小さな〈ゆらめき〉のため、強大な存在は〝こちら側〟に出ることはできないが、それでも〝こちら側〟で〝育つ〟場合もある。
 帝都の街を徘徊する銀色の野犬は〝向こう側〟の存在だと認定されている。発見されて野犬はすべて生まれたての仔狗だ。フェンリル大狼の末裔である。仔狗が狩られずに育てば大変なことになってしまう。
 現状で白銀の野犬よりも猛威を振るっているのは、地下から這い出てきた大海龍の幼生だ。都民の間でも噂になっている、帝都大下水道に棲むと云われるリヴァイアサンの幼生である。
 女帝は難しい顔をして、視線だけをズィーベンに送った。
「なんかいいアイディア頂戴」
「もっとも良い手は結界の強化でございます」
「〝メシア〟を〈裁きの門〉の奥に送り込むとか?」
 セーフィエルの血族であり、エリスの子供――慧夢。
 ズィーベンが問題を口にする。
「しかし、〝メシア〟は絶対に拒否をするでしょう。加えて、彼は人間との混血でございます」
「混血が純血に劣るとも限らないでしょ? 問題はそこじゃなくてさ、属性転換しているとこだよ」
「確かに光属性の〝メシア〟では負荷が大きく、〈闇〉の力に侵されてしまうでしょう」
「それにさ、躰は光でも、心は闇のままだよ。あっという間に〈闇の子〉に誘惑されるよ、きっと、たぶん、なんとなくだけどさ」
 帝都政府に反感を持っている慧夢が、自らの意志で人柱になるとは考えづらい。なったとしても危険な賭けなのだ。
「ところでさ、〝メシア〟はどうしてるの?」
 と、女帝が尋ねた。
「呪架とエリスを取り逃がしてから、夢殿の地下に塞ぎこんでしまっております」
「〝メシア〟はエリスが自分の母だと気付いたかな?」
「それはわかりませんが、気付いたとなれば衝撃を受けているでしょう」
「それが引きこもった理由かな。だって彼、母親はどこかで幸せに暮らしてると思ってたんでしょ?」
「はい。母も妹も平凡で幸せな暮らしをしていると、聞かされていたようでございますから」
 双子の兄妹は生まれてすぐに別々の場所で育てられた。兄の慧夢は愁斗の手で、妹の紫苑はエリスの手で、一切の交流もなく育てられたのだ。
 女帝はため息をついた。
「双子同士で戦うなんて皮肉だよねー」
 それは慧夢と呪架のことを言っているのか、それとも……?
 突然、地震が夢殿を襲った。
 また〈ヨムルンガルド結界〉が揺れている。
 地震の揺れが治まったところで女帝が愚痴を溢す。
「また不意打ちだよ。地震予知くらいできないの?」
「〈ヨムルンガルド結界〉が起こす地震は、通常の地震よりも予知が難しいと思われます」
「エリスをさっさと見つけて地震を抑えないとね。そのエリスがどこにいることやら」
「〈箒星〉がセーフィエルの本拠地である可能性は高いのでございますが、防護フィールドを破壊する術がまだ見つかっておりません」
 魔導具や魔導兵器に関する技術と知識でセーフィエルは他を凌駕している。
「ゼクスは未だに師匠を越えられないのかァ」
 女帝は呟いた。
 ワルキューレの科学顧問であるゼクスの師はセーフィエルなのだ。
 ぽんと女帝は手を叩いた。
「そうだ、アタシの戦闘用の義体は準備できてる?」
「はい、すでにゼクスから整備が終わったと連絡を受けております」
「じゃあ、ゼクスの研究所に行こうかな。彼女と顔を合わせるの一年ぶりじゃない?」
「正確には一年と八ヶ月ぶりでございます」
 同じ夢殿内にいても、引きこもりの科学者ゼクスとは顔を合わせる機会があまりない。女帝とゼクスが顔を合わせるのは義体を交換するときくらいだ。
 戦闘用の義体に女帝を乗り換える。それは女帝自ら出陣することを意味していた。
「アタシが帝都から離れると霊的バランスが崩れて大変だけど、そこら辺はみんなに頑張ってもらうとして、夢殿の管理は誰がいいと思う?」
 女帝に尋ねられズィーベンは難しい顔をした。
「アハトが良いのですが……」
「まだ帰って来てないもんねー」
「ですからフィアを夢殿に戻し、わたくしの代わりを務めさせましょう」
 女帝の傍には常にズィーベンが仕えている。帝都の外に出るときもそれは変わらない。
 どこに女帝は出かける気なのか?
 ズィーベンは聞かずともわかっている。
 死都東京だ。
「アタシら帝都の外に出るの久しぶりだね、ワクワクしちゃう」
 呑気な顔で女帝はニッコリ笑った。

《2》

 女帝が死都東京に向かった直後、入れ替わりで呪架が帝都に姿を見せた。
 向かうは帝都の中枢夢殿。
 夢殿の警備はいつも以上に厳しい。動員されている人数はいつもの倍以上はいるだろう。盲点は女帝とズィーベンが不在というところだろうか。
 今の呪架は当初の目標を失っている。エリスの復活に失敗をして、残すは帝都政府への復讐――のはずだった。けれど、それもいつしか慧夢への個人的な復讐に変わっていたのだ。
 夢殿の中に慧夢がいると呪架は考えたが、そこに乗り込むまでの作戦はない。怒りの赴くままに、呪架は正面から突っ込む気でいた。決死の覚悟はすでにできている。
 帝都政府に関わるものは皆殺しにする。
 呪架は警備兵を惨殺しながら、エデン公園の中を抜ける道を駆けていた。一本道の先には夢殿が聳えている。
 妖糸を振るい、銃弾の雨を交し、呪架はただ前だけを見て突き進んだ。
 夢殿の周りは水を張った濠と高い壁で囲まれ、上空には結界が張られている。敷地内への道は一本の架け橋のみ。
 まだ呪架の前に現れる警備兵の数は少ない。これから夢殿に近づくに連れて、この数は急激に増えていくだろう。戦いはまだまだこれからだ。
 しかし、呪架の額からは玉の汗が滲み出していた。
 息が上がり、躰が鉛のように重い。
 内臓を抉られる痛みに耐えながら呪架は歯を食いしばった。
「クソッ」
 眼を細めた呪架の瞳に映る白い戦乙女。
「ええっと、ご無沙汰しておりますです」
 ホーリースピアを構えたフュンフはにこやかに微笑んだ。
「俺が首を刎ねて殺したはずだ」
 幽鬼にしては生気を感じた。呪架はフュンフが再生装置で復活したことを知らなかったのだ。
「死の淵から蘇ったです」
「なら何度でも殺してやる」
 呪架の躰から漲る殺気をフュンフは柔和に受け流していた。
 しかし、呪架の技は受け流せるか!
 神速の妖糸がフュンフを狙う。
 スピアの先で妖糸を軽くあしらい、フュンフが姿を消した。亜音速に突入したのだ。
 呪架の視界から消えたフュンフ。
 目で追わなくとも呪架は感じるままに妖糸を振るった。
 背後に向けて放った妖糸がフュンフの兜をなぞる。
 呪架の攻撃に驚いた顔をしてフュンフは飛び退いた。
「まぐれではなさそうですね」
「殺気を感じた」
 亜音速から攻撃に移る一刹那、フュンフは通常のスピードに戻る。呪架は勘でそこを捉えたのだ。
 フュンフはホーリースピアを構え直して体勢を整えた。
「亜音速モードはこけおどしです。本当の戦いには向きませんです」
 亜音速での戦いは失敗したときのデメリットが大きい。奇襲や不意打ち、各下の敵には有効だが、今の呪架には得策ではない。
 通常のスピードでフュンフが呪架に速攻を決める。
 自ら近づいて来る的へ呪架は妖糸を放った。
 煌く妖糸がフュンフの胴体を薙いで真っ二つに割った。だが、血も出ずに霞み消えたかと思うと、そこから白い影が天に昇った。
「残像かッ!?」
 声をあげた呪架は頭上に気配を感じた。
 地にスピアの刃先を向けて飛来してくるフュンフの姿。
 すかさず呪架は妖糸を放った。
 再び斬られ霞み消えるフュンフ。その霞んだ残像から、新たなフュンフが飛び出すのを呪架は目撃した。
 慌てて飛び退いた呪架の目の前で、フュンフはスピアを地面に突き刺した。躱すのが遅ければ、槍で串刺しにされているところだった。
 地面を砕いたフュンフが次の攻撃に移る前に、呪架は妖糸でフュンフの躰を確実に八つ裂きにした。
 しかし、八つ裂きにされたフュンフは霞み消えたのだ。
 霞の中から再び飛び出す実体を持ったフュンフ。
 あまりの近距離に呪架は成す術もなかった。
 歪む呪架の口元。
 スピアの刃先が呪架の左肩を貫通していた。
 貫かれた刃先から滴り堕ちる血の雫。
 痛みなどかまわず呪架は残る右手から妖糸を繰り出した。
 この距離で妖糸を外すわけもなく、煌きはフュンフの首を刎ねた。
 だが、やはり霞み消えた。
 次の瞬間、呪架は残る右肩もスピアで貫かれていた。
 無残なまでに無表情のフュンフは容赦なかった。
 スピアを肩から抜き、すぐさま柄で呪架の側頭部を殴りつけた。
 フュンフは横転する呪架の足を払い転倒を促進させ、地面に仰向けで倒れた呪架の腹に足の裏を押し付けた。
 止めは呪架の咽元に突きつけられたホーリースピアの切っ先。
「チェックメイトです」
「……クッ」
 腕は思うように動かず、動けたとしても咽喉を掻っ捌かれるの先だろう。
 敗者を見下しながらフュンフはにこやかに微笑んだ。
「わたくしが五人いることをお忘れでしたですか?」
 前回の戦いのときも、フュンフは五人となって呪架とエリスを苦しめた。だが、呪架は前の戦いとは違うものを感じていた。
「おまえ、前に戦ったときよりも強くなってるな。前の戦いはお遊びだったのか?」
「いいえ、わたくしたち戦乙女は死の淵から蘇ることにより、飛躍的に戦闘力を上げられるのです。それに……前回の戦いでは何者かの妨害が入りましたです」
「なにッ?」
「あの、そのですね、簡単に言いますと、貴方がわたくしに勝てたのは何者かの助けがあったからです」
「クソッ!」
 実力で勝ったのだとばかり思っていた。けれど、今ならばフュンフの言葉が事実であると理解できる。
 呪架の脳裏に浮かぶ鮮やかに美しい紅。
「あいつか……」
 呟いた呪架。
 いつまでも人の手の上で躍らせれているわけにいかなかった。
 なのに躰が動かない。
 フュンフに動きを封じられているのに加え、内蔵を蟲に喰われているような激しい痛み。
 呪架の口から黒血が吐き出された。
 それを見てフュンフは瞬時に悟った。
「〈闇〉に蝕まれているのですか?」
「…………」
 呪架は沈黙した。弱みを見せたくなかった。
「わたくしたちの仲間になりなさいです」
「クソッくらいだ!」
「躰を光に変えて生きながらえることができるです」
 それは慧夢が辿った道。
「クソッくらいだって言ってんだろッ!」
 唾を飛ばしながら呪架は拒否した。
 女帝の犬の成り下がるつもりも、慧夢と同じ躰になるつもりはない。
 フュンフは少し困った顔をした。
「貴方が拒否しても結局――ッ!?」
 呪架の顔からフュンフの目が放された。
 その視線の先に見えるモノ。
 大地を割って甲冑を纏った蛇のような頭が突き出した――リトルリヴァイアサンだ。
「リヴァイアサンの幼生がこんなところまで!」
 叫ぶフュンフにリトルリヴァイアサンが頭を槍のようにして襲い掛かる。
 フュンフは呪架に向けていた切っ先を放さなければならなかった。
 力を込めて突いたスピアがリトルリヴァイアサンの眉間に突き刺さる。
 激痛にリトルリヴァイアサンは暴れ、眉間に刺さったままのスピアを握っていたフュンフが躰を右往左往に振られた。
 その間に逃走しようとしていた呪架にフュンフが叫ぼうとしたが、その口は不意に噤まれた。
 なんと呪架はリトルリヴァイアサンに向かって走っていたのだ。
 今の呪架は両肩を負傷し、妖糸を自由に振るえないはず。気でも狂ったのか?
 否――呪架の瞳は冷静だった。
 大地を割って地の底から這い出て来たリトルリヴァイアサン。呪架はその亀裂へ身を投じた。
 蠢くリトルリヴァイアサンの腹の横を擦り抜け、呪架は亀裂の奥深くで水の流れを見た。リトルリヴァイアサンが通って来た地下水脈だ。
 水の流れに身を任せ、呪架は逃げた。
 まだ死ねない。
 死ぬくらいならば、屈辱を背負っても生き延びなければならなかった。
 復讐は終わっていない。

《3》

 特設テントの中で女帝は呑気にクッキーを摘んでいた。そのボディーはすでに戦闘用に乗り換えられているが、前との変化はあまり見受けられない。絢爛で重そうな魔導衣から、柔軟さと強度を兼ね備えた白いボディースーツに着替えてくらいだろう。
 クッキーを口いっぱいに頬張る女帝の傍らにいるズィーベンの表情は険しい。
「わたくしの力を持ってしても、あの結界を破るのには数日を要するかもしれません」
 ズィーベンの言う結界とは〈箒星〉を覆う防護フィールドのことだ。
 女帝はクッキーを咽喉に詰まらせ、近くにあったペットボトルを逆さにして、ジュースを口と咽喉に流し込んだ。
「ウゲェ……死ぬかと思ったー」
 喜劇を演じる女帝を見るズィーベンの目つきは冷たい。
「わたくしの話を聞いておりましたか?」
「聞いてるってば、アレがソレってことでしょ。あんま悠長なこと言ってられないし、魔導砲の使用許可出せばいいんでしょ?」
「はい? 魔導砲とおっしゃいましたか?」
 自分の耳を疑ったズィーベンに女帝はさらりと言う。
「耳のイヤホンを補聴器に変えたほうがいいよ」
「……考慮いたします」
 思ってないことを口にして、ズィーベンは気を取り直して話を続ける。
「魔導砲の使用は日本政府のみならず、世界各国から非難される要因になりかねませんが?」
「死都街がこれ以上吹っ飛ぼうと無害じゃん? てゆーか、妖物の巣食ってる大地を浄化してあげるんだから感謝されるべき?」
「しかし……」
「ただし、宣戦布告と勘違いされるのは嫌だから日本政府には事前連絡を入れて置くように。その答えがNOでも魔導砲を使用することに変わりないけど。まっ、日本が帝都に戦争を仕掛けてきても、どーせ勝つしー」
 子供のように女帝は無邪気な笑みを浮かべた。
 なにを言っても女帝は意見を変えないと判断し、ズィーベンはすぐさま今いる仮設基地に撤退命令を出し、〈箒星〉の周辺で他にも調査している日本政府に撤退の通達を出した。
 女帝権限で事は速やかに進められ、魔導砲の準備も着実に行なわれていた。
 魔導砲がある場所は地上から数百キロメートルの高みだ。人工衛星として空に浮かんでいるのだ。成層圏を越えた位置にあるが、静止衛星に比べれば非常に低い高度に位置している。
 ――数時間の時が流れ、女帝とズィーベンは空の上にいた。軍事ヘリで上空に向かい、遥か遠くの空から〈箒星〉を窺っていた。
 ヘリの搭乗口から身を乗り出し、女帝はサングラスの上から双眼鏡を構えた。
 電子双眼鏡のズームを合わせて標的を確認する。
「そんじゃ、そろそろ発射しちゃう?」
 事の重みが言葉にまったく感じられないのはいつものもことだ。
「了解いたしました」
 ズィーベンは女帝の命を受けてカウントを開始した。
「十秒前……五秒前、三、二、一、発射」
 大空の一点でなにかが星のように瞬いた。
 天から降り注ぐ蒼白い光の柱を見て女帝が声をあげる。
「たっまやーッ!」
 鼓膜を振るわせる轟音と共に視界が白で覆われた。
 遅れて強風がヘリを煽ぎ機体が斜めに傾いた。
 機内で女帝の躰を後ろから支えていたズィーベンが囁く。
「玉屋という掛け声は花火のときに言うのでは?」
「まあ、いいじゃん。これも一種のお祭りだしー」
 世界を震撼させる魔導兵器を駆使しながら、それを祭りに例える女帝の神経は並大抵ではない。
 網膜に焼きつくほど白かった世界は元の色を取り戻していく。
 双眼鏡を覗いていた女帝が声を荒げる。
「超特急で〈箒星〉上空へ向かって!」
「なにがございましたか?」
 冷静に尋ねるズィーベンに女帝は再び声を荒げた。
「結界が再構築しはじめてるよッ!」
 女帝の言葉どおり、砕け散った防護フィールドは地面に近い場所から、徐々に頂点に向かって再構築をはじめていた。
 五角形のピースがドーム型の防護フィールドを再構築する前に、なんとしても中に入らねばならなかった。
 ヘリはスピードを上げて〈箒星〉に向かう。その間も休まることなく五角形のピースが並ぶ。
 女帝とズィーベンはヘリから降りる準備をしていた。
 〈箒星〉を開けた深遠のちょうど真上まで来たヘリはそこで制止した。
「参ります」
 ズィーベンは女帝を抱えて搭乗口から飛び降りた。
 下からの風を受けながらズィーベンが左右の翼を大きく開く。白と黒のコントラストが美しい羽根。女帝を抱えながらズィーベンは空に羽ばたいた。
 防護フィールドは五角形のピースを積み終え、頂点の六角形のピースを残すのみだった。
「間に合わなかったお仕置きだよー」
 女帝の言葉に焦ったズィーベンは頭を地上に向けて急落下を試みる。
 氷が氷結するような音と共に、ズィーベンの足の先で防護フィールドは閉じられた。間一髪だ。
 数十メートルの大空洞を下りながら女帝はため息をついた。
「はぁ、惜しかった……もうちょいでズィーベンをお尻ペンペンの刑に処せたのにぃ」
「それは困ります」
 生真面目に返答するズィーベンに女帝は腹を抱えて笑った。
「ウケりゅ~」
「ヌル様、お暴れになると落としましてございますよ?」
 〝落ちる〟ではなく、〝落とす〟だ。
「この距離なら落ちてもへーきだもん」
 女帝はズィーベンの腕を退かし、数メートル下の地面に降り立った。
 軽やかに着地した女帝は地面から前方に目を向けた。
 大きな岩石の塊のような物体。外観からはそれが乗り物だとは判断できない。ただ、一箇所の扉を覗いて――。
 扉を潜った女帝とズィーベンを迎えた絢爛な部屋。
 ロココ様式の部屋でセーフィエルは優雅に二人を出迎えた。
「久しゅう……〈光の子〉ヌル」
 余裕の挨拶をしてセーフィエルは月のような笑みを湛えた。傍らでは少女がセーフィエルの服を怯えて掴んでいる。
 ズィーベンの視線は少女に注視された。
「その少女は誰でございますか?」
「妾の娘じゃ」
 ズィーベンは少女の正体を察して驚愕し、驚愕は女帝にも伝染した。
「まさか……エリス!?」
 そんなはずはない。目の前にいるのは金髪蒼眼の少女だ。けれど、中身がエリスだと女帝は感じた。
 それがエリスだと感じても、この状況の理解に女帝は苦しんだ。
「エリスになにが……?」
「妾は肉親を次々と失った。今ここに居るのはアリスとエリスの生まれ変わりじゃ」
 セーフィエルはアリスの躰を優しく包み込み抱いた。
 そして、セーフィエルは言葉を紡ぎ出す。
「〈闇の子〉と其方たちの戦いにも興味はない。〈闇の子〉が復活しようと妾は一向に構わぬ。妾の興味は……シオンの復活じゃ」
 急に辺りが暗転した。
 夜空に流れる輝く星々の大河。
「ようこそ、妾の夜へ」
 セーフィエルの囁きが、さらに辺りを深い夜に誘った。
 絢爛な部屋から一瞬にして、プラネタリウムの世界へ。セーフィエルのテリトリーに女帝とズィーベンは囚われたのだ。
 傀儡エリスの姿はすでに消えている。この世界に残されたのは三人のみ。戦いの幕はセーフィエルによって開けられた。
「うふふふ、夜の雫をとくと味わうがよい」
 夜風に乗ってセーフィエルの声が響くと同時に、ズィーベンが持っていた杖と槍が一体化したホーリースタッフが地面に吸いつけられた。
 そして、傍らにいた女帝にも異変が起きた。
 女帝が急に腹ばいになって地面に張り付いたのだ。
「ヌ……さ……!?」
 驚いたズィーベンが声をあげようとしたが、その声は蝕まれてしまった。自分では叫んでいるつもりなのに、声が世界に解き放たれないのだ。
 歯を食いしばりながら女帝は上目遣いでセーフィエルを睨んだ。口は大きく動かされているが声は出ていない。
「説明が必要かえ?」
 セーフィエルが訊くと女帝は首を縦に振った。
「この世界の法則は妾の支配下にある。其方の躰には魔導金属が使われておるじゃろう、それが原因じゃ」
 ズィーベンのホーリースタッフも、女帝の躰も魔導金属が使われているために、地面に吸いつけられてしまったのだ。まるで磁石と鉄の関係だ。
 戦闘不能に陥った女帝の分もズィーベンは素手で戦わねばならなかった。
 ズィーベンがセーフィエルに飛び掛る。
「結……ッ!」
 言霊を蝕まれながらもズィーベンは魔法を発動させた。
 力強く伸ばしたズィーベンの手がセーフィエルの躰に触れた。その部分からセーフィエルの躰がクリスタル化しはじめたのだ。
 まるで物体が氷に包まれるように、セーフィエルの躰が透き通るクリスタルになろうとしていた。
 だが、優勢のはずのズィーベンが眼鏡の奥で瞳を見開いた。
 逆流している。
 セーフィエルに触れている指先から、ズィーベンの躰がクリスタルになりはじめていたのだ。
「うふふふ、呪詛返しが成功したようじゃな。どうじゃ、自分の術で敗れる気分は……結界師ズィーベンの名も地に堕ちようぞ」
 もうすでにズィーベンは口を開けることすらできなかった。彼女の躰は純粋なクリスタルへと物質転換してしまったのだ。
 一部始終を見ていた女帝は声にならない怒号をあげた。
 重い躰を持ち上げ女帝は必死の思いで立ち上がった。
 懸命な女帝の姿を見てセーフィエルは艶笑した。
「立ち上がれるとはあっぱれじゃ。〝闘将〟の名は伊達ではないようじゃな」
「……ま……ね……やっ……この……世界に……順応してきた」
「うふふふ、良い義体を造ったゼクスに感謝するのじゃな」
「ゼクスの欲しがってた限定フィギュアでもプレゼントしようかなー」
 余裕の笑みを女帝は浮かべた。
 しかし、内心ではまったく余裕などない。
 過去に銀河追放したときも手こずった相手だ。一筋縄でいかないのはわかっている。なによりも注意しなくてはいけないのは、その正攻法ではない戦い方だ。
 セーフィエルが艶やかに口元を緩ませた。
「〝闘将〟と賛美され、恐れられようと、その真の実力を発揮できなくてはかわいそうにのお」
「今から見せてあげ……りゅ!?」
 ヤバイと女帝が悟ったときには、すでにその足は宙に浮いていた。
 重力反転。
 女帝の躰が天に向かって堕ちていく。果てしない宇宙へ吸い込まれるように、抵抗もできないまま女帝は堕ちる。
 天に堕ちる女帝を見上げながらセーフィエルが呪文を呟く。
「シャドウビハインド」
 刹那にしてセーフィエルの姿は女帝の足を掴んでいた。
「うわっ離せ! じゃなくて、止めろ!」
 喚く女帝の顔を見上げながらセーフィエルは美しい艶笑を浮かべた。
「さらばじゃ」
 夜の風よりも冷たい挨拶。
 星のひとつが強烈な光を放って膨張した。
 それは刹那だった。
 スーパーノヴァ。
 超新星爆発がセーフィエルの創り上げたコスモを一気に呑み込む。
 莫大なエネルギーが世界を乱し、閃光爆発の渦にセーフィエルと女帝は消えた。
 同時刻、〈箒星〉が大爆発を起こし、核爆弾が投下されたという誤報が世界を駆け巡った。

《4》

 地下水脈から下水道を通り、やがて呪架は川に放流され下流へと流されていた。
 幅の広がった川で流れが緩やかになり、呪架は川岸に向かって必死にもがきはじめた。
 両腕が使えないために足だけで水を蹴り、死の荒野を這う思いで川岸に上半身を乗り上げた。
 呼吸が異常なまでに乱れ、視界も意識も霞んでしまっている。
 死神の足音は刻淡々と迫っていた。
 一日か、半日か、数時間か……残された時間はあと僅かだ。
 ――その僅かな時間で自分になにができる?
 呪架は歯を食いしばった。歯の隙間から滲み出す血は、胃や肺からの出血である。生きていることだけやっとなのだ。
 死に対する恐怖心はない。
 しかし、死は望んでいない。
 呪架は生きたいと魂の底から願った。
 今、呪架を突き動かしているモノは復讐心に他ならない。母を葬った世界に対する憤りと、狂った世界への報復。なにもかも破壊してしまいたかった。
 自らが死ぬことと、たった独りで世界に取り残されること、自分の存在を他に見出せない点では、どちらも死んでいる。違いは背負う辛さだ。呪架は苦しみを背負っていた。
 あの頃のエリスは決して戻らぬ過去の幻影。
 セーフィエルは遠い親戚か他人にしか思えない。
 血の繋がった双子の慧夢でさえ、殺すべき敵と化した。
 呪架は世界に生きながら孤独を感じた。
 生きながら死んでいる。
 なぜか呪架の脳裏に顔も知らない父のことが浮かんだ。
 父――愁斗はおそらく死んでいる。マルバス魔導病院の院長との契約により、死して腕を切り取られた。その腕は今、呪架の右腕として生きている。
 傀儡士が大事な腕を捨てるはずがない。
 呪架の腕はもう動きそうもなかった。下水や川を流されたことにより雑菌が傷口を侵し、傷口の奥までも腫れ上がってしまっている。
 例え妖糸が振るえなくても、生きてさえいれば機会が巡って来ることもある。
 呪架は立ち上がろうと川に浸かっていた下半身を動かそうとした。だが、動かない。
 死の呻き声が呪架の耳に届いた。
 幻聴ではない、確実な死が呪架に迫っていた。
 血の臭いを嗅ぎ付けた四つ足の獣が呪架にゆっくりと近づいて来る。
 白銀の毛が生え揃ったフェンリルの末裔。三メートルもある白銀の野犬が呪架の命を奪おうとしていた。
 呪架の近くまで来た白銀の野犬が遠吠えをあげた。群の仲間を呼んでいるのだ。
 仲間で皮を剥ぎ、肉を抉り、内臓を噛み千切り、獲物を分け合う。
 野犬の腹を満たす肉が呪架の末路なのか?
 一匹だった白銀の野犬が、二匹、三匹……と増えていく。
 呪架は近づいてくる白銀の野犬に向かって野獣のように咆えた。
 負けずと白銀の野犬も咆え返した。
 呪架は再び咆え返そうとしたが、口から出たのは声ではなく黒血。
 ついに白銀の野犬どもが呪架に喰いかかろうと襲って来た。
 死を目前にして紅い戦慄が奔った。
 白銀の毛並みが紅く染まり、舌をだらしなく垂らした野犬の生首が地に堕ちた。
 鮮やかに紅いインバネスを翻し、仮面の主は次々と煌きを指先から放った。
 前脚を斬り飛ばされ、尻尾を切り落とされ、首を断絶される。
 紅い残骸が川の水に浸り、絵の具を垂らしたように、紅い色が下流へ流れて逝く。
 残り一匹になった野犬が背を向けて逃げようとした。だが、容赦ない煌きは野犬を縦に切断した。
 目を覆いたくなるような無残な光景の中で、無機質な仮面が呪架を見下した。
「死にたくないのならば、私の手を取れ」
 冷徹な声を発し、ダーク・シャドウは細い繊手を呪架に伸ばした。
 呪架は心を決めていた。
 ――人の足元を這ってでも、屈辱を背負ってでも、強かに生き延びてやる。
 呪架は腕を伸ばそうとしたが、もうすでに両腕とも死んでいる。仮面の奥でダーク・シャドウもそのことに気づいているだろう。だが、あえて手を伸ばすのみ。
 必死の思いで呪架は躰を地面に這わせ、背筋を使って躰を海老反りにさせ、汗の滲む額をダーク・シャドウの掌に押し付けた。
「腕が動かない、これで勘弁してくれ」
「おまえの魂は私が貰い受ける」
「助かるなら悪魔でも売ってやる……」
 呪架の意識は静かに落ちた。
 死の淵に旅立った呪架の躰をダーク・シャドウは抱きかかえた。
 再び呪架がこの世で目を覚ますかは、すべてダーク・シャドウの手にかかっている。
 空間を妖糸で断ち割ったダーク・シャドウは呪架を連れてその中に消えた。
 〈闇〉の叫びが木霊する暗闇を歩き、腐食する空気を己の魔気で払い、ダーク・シャドウは出口に向かっていた。
 なにかを感じてダーク・シャドウの足が止まった。
 ダーク・シャドウは渾身の一撃で妖糸を放つ。
 切り裂かれた空間の裂け目に流れ込んでくる閃光の波。
 光の渦にダーク・シャドウは迷わず飛び込んだ。
 消毒液の臭いが鼻を衝く。
 その部屋にいた白衣の男が振り返った。
 獅子の頭部を持つマルバス院長。
「なんのようじゃな?」
「手術室を借りる」
「ふぉふぉふぉ、よかろう。自由に使え、わしは休業の看板を出してくる」
 マルバス院長は白衣を翻して部屋を出て行った。
 ダーク・シャドウは抱えていた呪架を凍てつく手術台に寝かせた。
 死の淵を彷徨っているというのに、呪架の顔は安らかに瞳を閉じている。過酷な運命を生きる者の顔ではなく、本来の歳である思春期を謳歌すべき少女の寝顔。
 ダーク・シャドウは素顔を隠していた白い仮面を外した。
 仮面の下から現れた恐ろしいほどに端整な顔立ち。二十歳前半か、あるいはもっと若いかもしれない。中性的で魔性を帯びた顔立ちは、どこか妖艶さを漂わせ、深い黒瞳に映り込む呪架の顔と雰囲気が酷似していた。
 女性のように細い繊手でダーク・シャドウは呪架の服を脱がしはじめた。
 露になる呪架の裸体はすでに赤らみが鋼へと変わっていた。全身から生気が抜けつつある。事は一刻を争っていた。
 だが、ダーク・シャドウは小川のように、ゆっくりと作業を進めていた。
 ダーク・シャドウは考え深げな瞳を閉じた。その指先は呪架の胸の中心で止まっている。
「一族の呪いは……おまえで終止符が打たれる」
 ダーク・シャドウの指先から妖糸が放たれ、それはまるでメスのように呪架の胸を刻んだ。
 その胸に今、刻印された血の紋章。
 滲み出す血は黒いまま、紅くは染まらない。
「後戻りはできない!」
 叫びと同時にダーク・シャドウは呪架の胸に手を突き刺した。
 大きく眼を見開いて呪架の上半身が跳ね上がった。
 絶鳴はなかった。
 生命としての呪架は死んだ。
 ダーク・シャドウは呪架の胸の中で手を動かし、なにかを鷲掴みにすると一気に引き抜いた。
 血を滴らせながらダーク・シャドウの手に握られているものは、闇色のクリスタルだった。
 〈闇〉の侵蝕されている呪架の〈ジュエル〉だ。
 呪架のすべてはただひとつの漆黒の結晶に込められた。
 すでに呪架の新たな躰は用意されていた。呪架に瓜二つの傀儡の躰。傀儡士の業が創り上げた傑作。
 鮮やかな手並みで傀儡の胸が裂かれ、闇色の〈ジュエル〉が胸の奥深くへとしまわれた。
 セーフィエルも知らぬ秘儀。
 新〈ジュエル〉法。
 目にも留まらぬ速さで作業は進められ、傷口も残らず生まれたままの肌で生まれ変わった。
「紫苑は死んだ……蘇れ呪架」
 囁くダーク・シャドウの声に反応して、呪架の瞼が微かに痙攣した。
 儚い人の時間は終わり、傀儡としての永久がはじまる。
 闇を帯びた深い黒瞳が開かれた。
 その瞳がはじめて見た者は、白い仮面の主。すでに素顔は隠されてしまっていた。
「俺は……どうなった?」
 全身の痛みは消えていた。躰が前よりも軽く、力がひしひしと漲ってくるのを感じた。
「傀儡になった」
 淡々と言ってダーク・シャドウは鏡を指さした。
「姿見がそこにある。生まれ変わった自分の姿を見るといい」
 呪架は言われるままに手術台から飛び降りて、大きな鏡に自分の姿を映し出した。
 なにも変わっていないように思えた。
 違和感もなにもない。
 ただ、肌は瑞々しく透き通り、染みや無駄な毛穴はなくなっていた。小奇麗な絵画のようだ。
「俺は本当に傀儡になったのか?」
 鏡に映るダーク・シャドウに訊いた。
「それ以外に方法がなかった。魔人と呼ばれた天才傀儡士も、躰を侵す〈闇〉には勝てなかった。その息子も同じ運命を辿った。二人とも自らの躰を傀儡とすることで、〈闇〉の侵蝕を克服し、更なる力を得た」
「おまえはいったい誰だ?」
 呪架は振り返り白い仮面を見つめた。
「躰を傀儡にすれば、〈闇〉をいくら使っても躰に負荷がない。傀儡にならなければ、〈闇〉に喰われ久遠の苦しみに囚われる運命だった」
「そんなこと訊いてない。おまえは誰だって言ってんだよ!」
「…………」
 ダーク・シャドウは質問には答えず、呪架に背を向けて空間を妖糸で裂いた。
 闇色の裂け目に消える紅いインバネス。
 呪架は後を追えなかった。
 ただそこに立ち尽くし、鮮やかな紅を眼に焼きつかせたのだった。

《5》

「あはははは、ボクは今、最高の気分だよッ!」
 舞い踊りながら慧夢は歩道をスキップで歩いていた。
 慧夢の首に付けられていた首輪が消えている。あの首輪が慧夢の制御装置だったはずだ。叛逆を起こせば首輪が作動して慧夢は死ぬはずだった。
 しかし、慧夢は自由気ままに暴れていた。
 夢殿から逃げ出したあと、帝都政府の追っ手を振り切り、いくつかの区を跨いでマドウ区までやって来ていた。
 腹を空かせた慧夢は塀を越えて民家の庭に忍び込んだ。
 庭先から妖糸を放ち、窓ガラスを切断した。切られた窓の断面は、まるでレーザーで切られたように鮮やかだ。
 ちょうど慧夢が土足で上がりこんだ部屋はリビングだったらしく、若い女性がひとりでテレビを見ていた。
「ご、強盗!」
 声をあげる女に慧夢は口の前で人差し指を立てて見せた。
「しーっ、騒ぐと殺っちゃうよ」
 慧夢は満面の笑みを浮かべていた。
 異常者だと瞬時に感じて女は叫び声をあげそうになった。
 その叫びを止めたのは女本人ではなかった。
 慧夢は二メートルほど跳躍して、ソファに座っていた女の躰に飛び乗った。
 そして、女の口と自分の口を重ねたのだ。
 ゆっくりと女から顔を離し、慧夢は艶やかに自分の唇を舐めた。
「ボクが声を出していいって言ったとき以外はしゃべっちゃダメだよ。次は本当にコロスからね」
 震えながら頷く女の首には、すでに慧夢の指先が食い込んでいた。
 自分の服従したことを感じて慧夢は女の首から手を離した。
「イイ子、イイ子、素直な子はボク大好きだよ」
 女の頭を撫でながら慧夢は無邪気に笑った。
「さってと……」
 慧夢はぐるりと部屋の中を見回した。
「お腹空いちゃって、食べ物どっかにないかな。デリバリーでピザ頼もうよ、ボクねピザがスキなんだ……チーズ剥がして生地だけ食べるんだけどさ、あははは」
 腹を抱えて慧夢は自分の発言に爆笑した。
 背を丸めていた慧夢が不意に動きを止めた。
 感じる殺気。
「動くな止まれ!」
 威勢のよい男の声が響き渡った。
 慧夢が庭先に目線を向けると、口径の大きなハンドガンを構える男が立っていた。着こなしている制服は帝都警察の物だ。
 警察官の姿を見て女が泣き叫ぶ。
「助けて!」
 追っ手の現われに慧夢は唇を尖らせた。
「また腹ごしらえもしてないよ。トイレと食事とお風呂くらいは自由にさせて欲しいよね!」
 突然、慧夢と男の間に割って入った人影。ソファで怯えていたはずの女だった。しかも、なぜか両手を広げて男の妨害をしているではないか?
 血迷った行動をする女を男が押し飛ばそうと手を伸ばした。
「邪魔だ!」
 男が女を突き飛ばした瞬間、女の首が地面に滑り落ちた。
 それを見た男は思わず視線を生首に奪われ、慧夢は額を掌で軽く叩いた。
「あちゃー、死んでるバレたら囮の意味ないじゃん」
 すでに女は死んでいたのだ。男に助けを求めて叫んだとき、慧夢との約束を破っていた。だから殺された。
 傀儡士の技のひとつ〈操り糸〉だ。
 首を失った女の屍体が動き出し、男の躰に覆いかぶさった。
 その間に慧夢は背中を向けて部屋の奥へ逃げ込んだ。
 慧夢は殺せた相手を敢えて殺さなかった。慧夢はこの追いかけっこを楽しんでいるのだ。
 廊下を抜けて慧夢は玄関を飛び出した。追っ手は待ち伏せしていない。
 慧夢の躰が不意に傾いた。
 大地が唸り声を上げて大きく揺れた。
 〈ヨムルンガルド結界〉が暴れているのか?
 いや、違う。
 アスファルトの地面を吹き飛ばしながら地の底から這い出た頭。リトルリヴァイアサンだ。
 長い二本の髭を触覚のように動かし、リトルリヴァイアサンは辺りの様子を窺っている。
 巨大な口を蛇のように開けてリトルリヴァイアサンが慧夢に襲い掛かる。
「ボクを殺ろうなんて、あったま悪いねキミ」
 慧夢の両手から六本の妖糸が放たれた。だが、斬るのではない。妖糸はリトルリヴァイアサンの躰に巻き付いた。だが、拘束するためでもない。
 急に大人しくなったリトルリヴァイアサンの頭部に慧夢は飛び乗った。
「さあ、出発だ!」
 慧夢を乗せたリトルリヴァイアサンが地面を這いはじめた。傀儡士としての慧夢が見せた技。リトルリヴァイアサンを自らの乗り物としたのだ。
 慧夢を乗せたリトルリヴァイアサンが住宅街を激走する。奇妙な乗り物を乗り回す者が多いマドウ区でも、リヴァイアサンの幼生を乗り回すのは前代未聞だろう。
「全身に感じる風の心地よさ、最高だ!」
 上機嫌になりながら慧夢は大空を見上げた。恵みの太陽が少しずつ翳りはじめている。世界が黄昏に染まる時が来ようとしていた。
 前方に視線を戻した慧夢は目を細めて訝しげな顔をした。
 最初は帝都の追っ手かと慧夢は思った。
 だが、違うようだ。
 道路の真ん中に立つ赤黒い影。
 リトルリヴァイアサンは構わず影を轢き殺そうとした。
 慧夢が歓喜に打ち震える。
「キミに逢いたかった紫苑!」
 赤黒い影が放った輝線が道路の上を駆け抜けた。
「紫苑は死んだ、俺は呪架だ!」
 鳥類のような甲高い絶叫があがる。リトルリヴァイアサンが頭を落とされた鳴き声だった。
 驚異的な生命力を持つリトルリヴァイアサンは、頭だけになっても呪架に牙を剥いて飛び掛ってきた。
 呪架の放った輝線がリトルリヴァイアサンの頭部に奔る。
 重い音を立てて地面に落ちた頭部は左右に割れた。どんな驚異的な生命力を持ってしても、脳を半分に裂かれてしまっては死しかないだろう。
「ボクの可愛いペットになんてことを……なーんてね」
 慧夢はブロック塀の上に座っていた。
 ひょいと軽やかに慧夢は塀から飛び降り、無防備な姿を呪架に晒して立った。
「ボクはついに女帝の呪縛から解き放たれたんだ。ボクらが戦う理由はどこかにあるかい?」
「……ある。おまえのせいでお母さんは戻らぬ人になったんだ!」
 呪架の叫びを聴いて慧夢は難しい顔した。
「あのときの……ボクの一撃で母さんは死んだのかい?」
「…………」
 呪架は無言のまま答えなかった。ただじっと慧夢の顔を睨みつけている。恨みの込められた憎悪の眼差し。
 復讐の時が来た。
 血を分けた双子だとしても、呪架の心は変わらない。
 呪架の手から妖糸が放たれた。速さも、威力も、孕む鬼気も前とは比べ物にならない。生まれ変わった呪架の業を慧夢は目の当たりにした。
 だが、慧夢の業は真物だ。
 呪架の妖糸を軽くあしらい、慧夢は妖糸の雨を降らせた。
 剣山を横にしたように慧夢から放たれる妖糸の猛撃。計り知れない妖糸が放たれているように見えるが、一度に放っているのは六本の妖糸。それを連続して放っているのだ。
 迎え撃つ呪架もまた六本の妖糸を同時に放ち応戦する。
 いつの間に呪架が自分の足元まで迫っていたのか。そう考えると慧夢は心の底から身を振るわせた。総毛だった思いは、歓喜。
「強くなったね、紫苑……いや、呪架!」
「おまえを殺すために」
 呪架は片手で慧夢に攻撃を仕掛けつつ、残った手で宙を切り裂いた。
 闇色の裂け目から怒号が聴こえる、怒号が聴こえる、怒号が聴こえる。〈闇〉はこの上なく怒り狂っていた。
 慧夢も〈光〉を呼び覚ます。
 光色の裂け目から鎮魂歌が聴こえる。〈闇〉を鎮めるための静かな唄声。
 鬼神の形相で呪架が咆える。
「喰らえ!」
 妖艶に微笑みながら慧夢が謳う。
「甘美なる世界へ招待するよ」
 膨大なエネルギーを孕みながら〈光〉と〈闇〉が激突した。
 吹き荒れるエネルギー風に呪架と慧夢は後方に吹き飛ばされた。
 体勢を整えようと呪架は足を捌いて躰を止めた。そのまま次の行動に出ようとしたとき、大きな爆発が起きた。
 光と闇の粒子が硝子片のように渦巻きながら舞い、爆撃は住宅街の一角にクレーターを掘った。
 爆発の衝撃で道路に背を付いていた慧夢は見た。
 ミサイルが凄まじい轟音を立てて空を飛空していた。
 慧夢はすぐさま立ち上がり、ミサイルを追って後方の空に目を遣った。
 ミサイルは上空を飛翔していた翼竜と激突し、空中で大爆発を起こして煙雲の渦をつくった。
「いよいよ帝都も終焉を向かえそうだね」
 笑いかける慧夢に呪架は妖糸を放ちながら叫ぶ。
「俺は世界の破滅を望んでる!」
「ボクはカミサマになりたい。狂った世界をぶっ壊して、新しい世界を創るんだ。ステキだろ?」
 慧夢は呪架の妖糸を躱し、天に輝く魔法陣を描いた。
 光の傀儡士が召喚を魅せるのか!
 だが、裏切られた。
 宙に描かれた魔法陣が刹那にして八つ裂きにされたのだ。
 なにが起きたのか理解できなかった。特に慧夢は唖然と立ち尽くした。
 呪架の瞳は慧夢の後方に迫っている帝都警察を映した。
 しかし、それよりも強烈プレッシャーが迫っている。
 慧夢の瞳は呪架の背後に鮮やかな紅を映した。
 白い仮面の主ダーク・シャドウ。
「廃滅の宴に相応しい場所に案内しよう」
 ダーク・シャドウの放った妖糸が呪架と慧夢の肢体を一瞬にして拘束した。
「なにしやがる!」
 呪架が叫んだ。口は動かせても、躰は完全に動きを封じられている。こんなにも簡単に捕らえられてしまうとは、油断ではなく力の差を呪架は感じた。
 ダーク・シャドウは空間を裂き〝向こう側〟への〈ゲート〉を開く。
 そして、拘束されていた呪架と慧夢は妖糸に引きずられ、〈ゲート〉の奥へと姿を消してしまったのだった。

《6》

 蒼白い夜の世界が広がっていた。
 生臭い黒土が広がる大地を冷たい月が煌々と照らしている。生命は寝静まっているのか、死んでいるのかわからない。この世界を包み込んでいたのは静寂だった。
 その静寂を壊す呪架の叫び。
「なんで!」
 ダーク・シャドウの傍らにいる少女の姿を見てしまった。
 傀儡エリスの姿がそこにはあったのだ。
 ダーク・シャドウに腕を掴まれ、必死になって逃げようとしているエリス。
「離して、離して!」
 嫌がるエリスを助けようと呪架が駆け寄ろうとしたが、それは呪架の躰を掠めたダーク・シャドウの妖糸に制止させられた。
「おまえの戦うべき相手は私ではない」
 無機質な仮面が向いた先にいるのは慧夢だった。
「他人に踊らされてる感じでイヤだな」
 そう言いながらも慧夢はストレッチで躰を解していた。
 この世界に連れて来られたときに、呪架と慧夢を拘束していた妖糸は解かれていた。
 二人のために与えられた戦いの舞台。
 誰にも邪魔をされない死闘。それはどちらか一方の死を持って終結する。
 ダーク・シャドウは白い仮面を投げ捨てた。
「この戦いは素顔で見守る義務がある」
 仮面の下から現れた険しい麗人の顔を見て慧夢は微笑んだ。
「やっぱりネ、生きてたんだ……父さん」
 その言葉を聞いた呪架の脳に電撃が走った。
 呪架は悟ってしまった。肉体は死んでいた。父――愁斗は自分と同じ傀儡に身を堕としていたのだ。
 はじめて見る父の顔に呪架は複雑な想いを交差させた。
 母と自分を残して消えた父。悲しみなのか、憎しみなのか、呪架は自分の感情がわからなかった。
 ただ――なぜこんなことをするのか、わからなかった。
「……お父さん……わからないことが多すぎる……なんでわたしたちを置いて、お兄ちゃんを連れて姿を消したのか……」
「生まれる前から、おまえたち双子は呪われていた」
 沈痛な面持ちで愁斗は声を絞り出した。
 呪架はエリスからなにも聞かされていなかった。もしかしたら、エリスも知らなかったのかもしれない。
 愁斗に育てられた慧夢もなにも聞かされず、ただ傀儡士としての技を叩き込まれた。
 生まれる前から呪われていたとはいったい?
 愁斗が淡々と語りはじめる。
「元凶は僕の父にあるが、新たな呪いを君たちに背負わせたのは僕の罪だ。生まれてくる双子は殺し合う運命にあると予言されていたんだ」
 ではなぜという疑問を呪架がぶつける。
「俺たちをこんな場所に連れて来たのはなんでだ、俺らを戦わせるためだろ!」
「僕が運命に抵抗しなかったと思うのかい。君たち二人は傀儡士になると予言されていた。二人ともに技を教えないこともできたが、傀儡士しての業を後世に残す必用もあった。だから敢て僕は慧夢にしか技を教えなかった。なのに君は覚醒たんだ傀儡士として……」
 それが生まれたばかりの双子が引き離された原因だった。
 運命はさらに悲劇へと向かった。
「慧夢は帝都の手に堕ち、紫苑は帝都に牙を剥き、二人は争う結果となった。僕は運命に逆らうことを諦めた。これは僕に与えられた罰でもあるんだ、愛した人を裏切った代償」
 そう語って愁斗は視線を落とした。
 今からでも二人の戦いを止めることはできるはずだ。なのに愁斗は疲れ果てた老人のように動こうとしなかった。彼は心底から運命を変えることは不可能だと痛感しているのだ。
 慧夢はすでに運命を受け入れていた。
「ボクは今の状況を楽しんでるからいいよ。強い者と戦えるなんて感じちゃうだろ。つい最近まで顔も知らなかった妹に思い入れなんてないからね」
 しかし、呪架はここに来て心が揺れていた。
 慧夢を血の繋がった双子だと意識しはじめてしまっていたのだ。
 この場所には皮肉にも家族が揃ってしまっている。
 幼い心に返ってしまったエリスの前で、血で血を洗う争いをできるのか。
 エリスは静かに愁斗の腕に抱きついている。記憶を失い幼子になっていたとしても、なにかを感じているのかもしれない。とても哀しそうな瞳をしているのだ。
 呪架は構えた。
 ここで戦わなければ生きる意味を失う。けれど、戦いの果てにも生きる意味が残っているのか、それは呪架にもわからなかった。
 惑う呪架の頬を慧夢の妖糸が掠めた。
「今のが戦いの合図だよ。ボクを楽しませてくれることを期待してるからねっ?」
「望むところだ!」
 ――本当に自分は戦いを望んでいるのか?
 エリスの黄泉返りが失敗に終わったのは慧夢のせいだ。それによって呪架は激情と怨嗟に駆られた。
 今は……呪架は慧夢に渾身の一撃を放つ。
 一本の妖糸に全神経を注ぎ放った一撃を慧夢は軽々と躱した。
「殺しの一手は遊びの中に混ぜて使うものだよ」
 慧夢の放った妖糸が呪架の足元を掠め、飛び上がった呪架に二本目の妖糸が襲い掛る。
 空中では自由に体勢を動かすことができず、呪架は妖糸を放って迫り来る妖糸を相殺した。だが、二本目の妖糸は囮だったのだ。
 六本の妖糸が同時に呪架に襲い掛かり、二本目を防ぐために使われた手は次の動きに入れず、残った手から三本の妖糸を放つことしかできない。
 三本の妖糸が呪架の躰を切り裂いた。
 腕と胸を軽く薙がれ錆色の液体が滲み出した。香りも血とよく似ているが、おそらくまがい物だろう。ヒリヒリするような痛みも感じた。ただの傀儡ではないと呪架は己を感じた。
 呪架の製作者は真物の人間を創造するつもりで傀儡を創ったのだ。想いがこもっていなければ、こんな精巧な傀儡はつくれまい。
 視線だけを動かし呪架は愁斗の顔を見た。翳る顔から表情を読み取ることはできなかった。
 風が飄々と鳴り黒土の腐臭が舞い上がった。
 土を踏みしめながら呪架が疾走する。
 呪架の猛撃が開始された。
 輝線が煌きを迸らせ連撃が繰り出され宙を奔る。
 相手の妖糸を注視して慧夢も神速で技の応酬をする。
 熾烈な死闘の中で慧夢の首筋が微かな血の筋を滲ませる。
 呪架の赤黒いローブが徐々に刻まれていく。
 刹那でも集中力を切らせれば、妖糸は死神の鎌と化して首を刎ねる。
 濃密な鬼気が噎せ返るほどに充満していた。常人がこの場に居合わせれば失神しかねないほどだ。
 慧夢の額から零れ落ちた汗が煌くと共に妖糸によって切断された。妖糸に切られ四散した汗が再び妖糸によって切られる。紙一重の攻防が繰り広げられているのだ。
 魔鳥のように舞った呪架が地面に着地したとき、その足がぬかるんだ黒土に攫われてしまった。
 眼を剥きながら躰のバランスを崩した呪架に、容赦ない妖糸の嵐が吹き付ける。
「ぐッ!」
 歯を食いしばった呪架の左腕が回転しながら宙を舞う。
 切断された痕から大量の紅い液体が爆発したように噴出し、黒土を赤黒く染めて泥濘を形成した。
 すぐさま噴出す液体が止まったのは傀儡としての仕様だろう。
 本物の肉体が受けた傷ではないのに、酷い痛みに呪架は襲われていた。戦いにおいて傀儡が痛みを感じるなど非合理的である。なのに敢て痛みが残されていた。
 腕を切られた呪架を見る慧夢の眼差し優越感を湛えていた。
「もちろんまだヤるよね?」
「おまえが死ぬまでなッ!」
 怯むことない呪架の闘志は紅蓮に燃えていた。
「そうでなくちゃ」
 艶やかに笑う慧夢の表情がとても残酷に映る。
 慧夢が三本の妖糸を放ち、呪架も残った腕から三本の妖糸を放つ。これで互いの攻撃は相殺された。
 しかし、慧夢には残りの腕がある。
 宙に描かれる魔法陣。
 慧夢は呪架に攻撃を仕掛けると共に、残る腕で華麗な魔法陣を描いていたのだ。
 魔法陣が激しい閃光を放った。
「光の遊戯に魅せられといい!」
 慧夢の高らかな宣言に合わせて魔法陣の〝向こう側〟から、歌うように清らかな〈それ〉の声が心を震わせた。
 〈それ〉の息吹は世界に花の香を運び、魔法陣の〝向こう側〟から翅の生えた乙女が顔を魅せた。
 七色に輝く蝶の翅を持つ乙女は愛くるしい笑顔を浮かべた。〝フェアリー〟と称するのが適切かもしれない。
 〝フェアリー〟は死の黒土を自由気ままに飛び交い、通った大地に色取り取りの花を咲かせていった。
 瞬く間に辺り一面は芳しい花畑となり、夜だった世界に光が差しはじめた。
 絶景ともいうべき世界に生まれ変わったのだ。
 しかし、それは偽りだった。
 花々が次々と枯れて逝く。
 差しはじめていた光もどこかに消えうせ、夜の世界を紅い月華が照らした。
 そして、〝フェアリー〟にも異変が起きはじめていた。
 愛くるしい顔の下でなにが蠢いている。皮膚を喰い破って湧き出てくる蛆。乙女の顔は髑髏と化してしまった。
 それを見て慧夢は艶笑していた。
「ボクは光属性に躰をつくり変えられた。けどね、心は深い闇のまま。光が正義だと誰が決めた? ボクが司っているのは偽善さ!」
 慧夢は薔薇色の背徳を背負っていたのだ。
 〝フェアリー〟の手は蟷螂のような大鎌に変貌し、髑髏の形相は死神を思わせた。
 耳を塞ぎたくなるような絶叫をあげて〝フェアリー〟が呪架に襲い来る。
「死神が俺の命を狩りに来たか……」
 邪悪な笑みを呪架は浮かべた。
 刹那、呪架の手から放たれる妖糸の戦慄。
 大鎌と妖糸が一戦交える。
 勝ったのは大鎌だった。
 けれど、呪架は動じていない。むしろ嗤っていた。
 呪架の少し前方の地面が妖しく輝いた。
 魔法陣だ!
 呪架は慧夢に気付かれぬように、地面に魔法陣を描いていたのだ。
 おぞましい〈それ〉の呻き声が世界に木霊し、怯えあがった〝フェアリー〟の動きが凍りついてしまった。
 〈それ〉の呻き声は大気を振動させ、花枯れた死の荒野を震えさせ、おぞましい〈死〉をこの世に解き放った。
 巨大な黒馬に似た怪物に跨る異形。黒く逞しい筋骨隆々の巨躯から伸びる太い腕の先には、投げ槍と蠍の尾でできた鞭を持っている。そして、皮膚の全くない頭蓋骨には王冠が戴いていた。
 異界の〈ゲート〉を守っていると云われる者――それが〈死〉だ。
 黒馬が嘶き前脚を高く上げ、〈死〉が槍を〝フェアリー〟に向けて投げつけた。
 〝フェアリー〟の背を抜けて貫通する槍。
 〈死〉の雄叫びと〝フェアリー〟の絶叫がシンクロした。
 蠍の鞭が〝フェアリー〟の首を刎ねた。
 地に転がった髑髏の頭部に湧いていた蛆が干からびて逝く。〝フェアリー〟が〈死〉に殺された。
 慧夢は実に楽しそうだった。
「ボクもそんな子を召喚したいケド、ボクはこんなのしか召喚できないよ」
 慧夢はすでに新たな魔法陣を宙に描いていたのだ。
 魔法陣の〝向こう側〟で〈それ〉は〈死〉を慈しんでいた。
 黄金の風が世界に吹き込み、魔法陣から巨大な純白の翼が飛び出した。その巨大さは他を圧倒しており、〈死〉の巨躯を遥かに凌ぐ大きさだった。
 翼が大きくはためき、両方の翼が〈死〉を優しく包み込んだ。翼が〈死〉を呑み込んでしまったという方が正しいかもしれない。
 〈死〉を呑み込んだ翼は魔法陣に〝向こう側〟へと還っていく。
 呪架よりも慧夢が召喚においては優れていたようだ。
 両腕を広げて慧夢は歓喜に打ち震えた。
「どうだい、カッコイイだろ?」
 艶やかに嗤う慧夢は魔の手が迫っていることに気付いていなかった。
 〝純白の翼〟が還った魔法陣はまだ消滅していなかった。まだ〝向こう側〟と〝こちら側〟が繋がっている。
 魔法陣の〝向こう側〟から蠍の鞭が放たれ、広げていた慧夢の左手首を切り飛ばしたのだ。〈死〉の最後の抵抗だった。
 慧夢は言葉では表せぬ狂気の絶叫を発した。
 鮮血が噴出す手首を妖糸で縛り上げ止血し、髪の毛を汗でぐっしょりと濡らし、玉の汗を地面に溢し続けた。
「ボクの……ボクの手がァァァッ!」
 慧夢の顔は幽鬼のように蒼白く変わっていた。
 互いに腕と手首を失った呪架と慧夢。死闘は更なる苦境に進もうとしていた。
 対峙する二人の間に死の風が吹き抜けた。
 妖糸を放とうと構えたのはほぼ同時だった。
 しかし、邪魔が入った。
「我が子が殺し合う姿はもう見たくない!」
 少女の叫び。それは記憶が欠けているはずのエリスの叫びだった。
 だが、もう遅かった。
 ひとりは妖糸をすでに放っていたのだ。
 戸惑いながらも呪架の手からは輝線が奔っていた。
 血の薔薇が花びらを散らせた。
 残っていた慧夢の腕が地に堕ちた。
 両膝を地面に付いた慧夢にエリスが駆け寄る。
「慧夢!」
 それは母の悲痛な叫びだった。
 エリスは我が子を胸に強く抱いた。
「死なないで慧夢!」
「これが母さんの温もりか……ボクも母さんと暮らしたかったよ」
 慧夢の憔悴した瞳からは一筋の涙が零れ落ちていた。
 すぐに駆け寄って来た呪架は無我夢中で慧夢の傷口を妖糸で止血していた。今しがたまで殺そうと戦っていた相手なのに、呪架は悲しくて胸が張り裂けそうだった。
「お兄ちゃん……ごめんなさい……」
「あははは、今さら謝られるなんてね。でもさ、お兄ちゃんっていい響きだよね。もっと普通の形で紫苑とは出逢いたかったよ」
 慧夢は呪架との死闘で大きな嘘をついていた。
 父から妹の存在を聞かされたときから、慧夢は顔も知らない妹に想いを馳せ、心から愛していたのだ。そして、妹は傀儡士とは無縁の生活を送り、母と幸せに暮らしていると夢を見ていた。
 慧夢は思わず苦笑していた。
「ボクは誰にも愛されていなかった。父さんも母さんも、愛していたのはキミだ。紫苑なんて名前をつけられたのが証拠だよ」
 紫苑は愁斗の母の名前。呪架と同じように愁斗は母を心から愛していた。だから、娘の名前に紫苑とつけたのだ。
 エリスは慧夢を抱きしめて肩を震わせていた。泣きたいのにこの躰では涙が流せなかった。
「自分の子供を愛さないはずがないでしょう。愁斗に連れられたあなたが、どんなに苦しい修行をさせられているのか、想像しただけで毎晩泣いたわ」
「父さんはスパルタだから嫌いだよ」
 悪戯に慧夢は笑ったが、顔色は優れずに徐々に生気を失っていた。
 呪架は死に逝こうとしている兄を見捨てることができず、遠くに立ち尽くしている愁斗に顔を向けた。
「お兄ちゃんを助けて!」
 涙や鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして呪架は悲痛に叫んだ。
 慧夢も傀儡になれば助かることができる。
 しかし、慧夢の想いは違った。
「ボクは疲れたから眠りたい……今すぐにでも殺して欲しい……」
 呪架とエリスが反対の言葉を泣き叫ぶよりも早く、愁斗の手が動いていた。
 無情の煌きが慧夢の首を刎ねた。
 無機物のように地面に転がる慧夢の首を見て呪架は絶叫し、血飛沫を全身に浴びたエリスは絶句して気を失った。
 怨嗟の念が呪架の心を激しく締め付けた。
「どうして殺したッ!」
 狂気に操られるままに呪架は愁斗に飛びかかった。
「慧夢の最期の望みだった」
「クソッタレ!」
 泣き叫ぶ呪架の頬が愁斗の拳によって抉られた。
 地面に横転して転がる呪架。
 傀儡士が大事な手で人を殴ったのだ。
 頬を押さえて今にも噛み付かんばかりの呪架に対して、愁斗は無言を貫いて紅いインバネスを翻した。
 空間を切り裂き別の世界へ消えようとする紅い背中に、呪架は渾身の一撃で妖糸を放った。
 振り返った愁斗の手から放たれる輝線が呪架の妖糸を切り裂き、勢いを衰えさせないまま呪架の手首を落とした。
 愁斗はとても哀しい表情をしていた。
 そして、再びインバネス翻し空間の裂け目の中へと姿を消した。
 残された美しく儚い紅い残像。
 慧夢の流した血の海に溺れるエリスの躰を、呪架は不自由な腕で抱き起こした。
 朱に染まったエリスの躰を抱く呪架の心は果てない地獄に堕ちた。
 その嘆きを反映するように、夜の世界はいつしか朱空に……。


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