第3章 深冥の母

《1》

 雨の中を傘も差さずに呪架は歩いていた。
 マドウ区は女帝のお膝元とも云われ、魔導産業で栄えた街だ。
 外から魔導師たちの移民も多く、居住地区と産業地区に分かれている。居住地区の一角は魔導成金の屋敷が立ち並び、ゴシックやバロック建築などの芸術性に富んだ屋敷も多く見られる。
 呪架がやって来たのはマドウ区がもっとも魔導区らしい場所。
 毒々しい紫や桃色の煙を立ち昇らせる煙突や、危険な香りを孕んだ空気。
 雨水が流れ込む排水溝では、スライムに酷似したブラックウーズが溝から外に這い出す光景も見られた。
 呪架が足を止めた前には小さな個人病院があった。
 ――マルバス魔導病院。魔導街の住民ならば誰もが知る病院だ。病気の治療のみならず、悪魔の業を持った院長が肉体の機械化や妖物との合成もやってのける。
 呪架はすでに下調べはしていた。
 ここでならば、異形化した腕を治せるかもしれない。
 待合室には生きた人間はおらず、棲み憑いた亡霊の数の方が多かった。
 受付の看護婦の顔は魚の鱗で覆われていた。
 その程度で恐れる呪架ではない。
 ちょうど今の時間は患者が居らず、呪架はすぐに診察室に通された。
 診察室は手術室と同じ部屋で、部屋の隅に置かれたデスクに白衣姿が背を向けて腰掛けていた。
 丸椅子を回して医師が顔を向ける。
 気高い獅子の鬣を生やしたその顔は獅子そのものであった。
 靴を履いていない足は蹄が見えている。
 半獣人として有名なマルバス院長に間違いなかった。
 院長の向かいの椅子に腰掛けた呪架はローブの袖を捲くって異形の腕を見せた。
「この腕を人間の物に戻して欲しい」
「なかなかうまい合成だ。どこの病院で手術した?」
 異形の腕を触りながらマルバスは感心したように嗄れ声で言った。
「違う。空間を飛ばされたときに事故でこうなった」
「〈狭間〉に棲んでおる怪物のことか?」
「詳しいことまでは知らない」
「このままでも十分に美しいと思うが?」
「冗談じゃない、俺は傀儡士だ。元の腕に戻さなきゃ戦えない!」
 椅子から立ち上がって呪架が激怒した。それに対抗してマルバスは牙を覗かせ気高く吼えた。百獣の王の顔に相応しく、その咆哮は威厳に満ち溢れていた。
 心を鎮めて呪架は再び椅子に腰掛けた。腕を治してもらわなければならない。こんなところで揉めている場合ではない。
「怒鳴って悪かった。けど、俺には元の腕が必用なんだ」
「クグツシとは闇の傀儡士のことか?」
「知っているのか?」
 呪架は傀儡士が世界にどれだけいるか知らないが、あまりポピュラーなものではないと思っていた。
「知っておる。裏の社会では魔人蘭魔の名は有名じゃった。そうだな、最近では二〇年ほど昔に紫苑という傀儡士の殺し屋と会ったことがある」
「紫苑?」
 祖母の名前だ。もしかして祖母も傀儡士だったのか?
 すかさず呪架は訊いた。
「どんな奴だった?」
「白い仮面を被っておって、中性的な声を発するので男とも女ともつかない、魔性の者だった」
 ダーク・シャドウ――あいつが紫苑なのか?
 違う、祖母の魂は〈裁きの門〉の奥にあるはずだ。
 悩む呪架にマルバスはさらに悩みを与える発言をする。
「実は蘭魔にも会ったことがあっての、紅いトンビコートが印象的な男じゃった」
 鮮やかに紅い姿。
「トンビコートってどんなのだ?」
「コートとケープは一体化した物で、インバネスなんて呼ばれ方をすることもあるな」
 その説明を受けても呪架は理解に苦しんだが、それがダーク・シャドウの姿だと直感した。
 ならばダーク・シャドウは蘭魔なのか?
 もうひとり、呪架は紅い男を知っていた。
 セーフィエルに送られた精神界で出会った紅い男。
 悩んでいる呪架の顔をマルバスは先ほどから注視していた。
「もしかして、お主は愁斗の子か?」
 これに呪架は驚いた。
「お父さんを知っているのか?」
「あの男の治療をしたことがあっての、代償として〝両腕〟をもらった」
「なんだって?」
 傀儡士の父が両手を代償に払うわけがなかった。
「ただし、死んだあとで良い約束じゃった。その腕がこの病院にある」
「まさか……お父さんが死んだのか!?」
「儂自ら死んだ愁斗の腕を切ったので間違いない」
 二親ともこの世にはいない。父親の顔など知らないが、死という結末は呪架にとって衝撃的なものであった。
 呆然とする呪架を残してマルバスが姿を消したかと思うと、金属製のケースを持って帰って来た。
「冷凍していた愁斗の右腕じゃ。これをお前の腕に付けるぞ」
「サイズだって違うはずじゃないか」
「重要なのは霊気の相性じゃ。サイズの調節ができぬようでは、一流の魔導医とは言えぬ」
「わかった、お前の言葉を信じよう。けど、手術に失敗したらおまえを八つ裂きにしてやる!」
 すぐに手術は行なわれることになり、血は出ないが邪魔なローブを脱げとマルバスに言われ、呪架は逆らわずにローブを脱ぎ捨てた。
 ローブの下はほぼ裸だった。上半身はなにも着用しておらず、下は〝こちら側〟に来てから手に入れたスパッツを穿いていた。
 女だということを晒してしまったが、今は腕を治してもらうことが重要だった。
 冷たい手術台に寝かされた呪架の腕にメスが入ろうとしていた。
「麻酔はないのか?」
 尋ねる呪架にマルバスは笑った。
「痛みはない。血も出ない。メスを入れる角度と切り方にコツがある。あとは儂の魔力じゃな」
 鋭いメスが異形と人間の境に入る。痛みはなく、血も出ていない。神業ではなく、噂どおりならば悪魔の技だ。
 手術は一〇分足らずで終わった。
 新しい腕は完全に呪架の躰に融合していた。傷痕が微かに残っているが、数日で消えてしまいそうな痕で、動かしても痛みはない。
 もしかしたら前よりも使い勝手がいいかもしれない。指先の繊細の動きが前にも増して切れがある。
 手術の代償をまだ訊いていなかった。この医師は金ではなく、別のモノを要求すると云う。
「この手術の代償はなんだ?」
「儂はこの手術をする前に、ある者と契約を交わしておった」
 呪架には思い当たる節があった。罠かもしれないと思ってここに来た。やはりその通りだったようだ。
「儂の〈虫籠〉に入ってもらう」
「〈虫籠〉ってなんだ?」
 マルバスは答えずに指を鳴らした。と、同時に呪架が消失した。

《2》

 呪架は刹那に巨大な檻の中に移動させられていた。檻というのは語弊があるかもしれない。そこは大きな〈虫籠〉だった。
 木枠の向こう側には果てない灰色が広がっている。
 呪架は人ならぬ気配を感じた。
 予期していなかった事態が呪架を待ち受けていたのだ。
 傀儡エリス。
 壊れたボディーパーツは直され、質素なドレスを着せられている。
「なぜここに?」
 エリスの躰が動き出した。
 誰が操っているのか、それは愚問であった。
 妖糸が放たれた――エリスの手から。
 直ちに放たれる呪架の妖糸がエリスの妖糸を相殺し損ねてしまった。
 呪架の頬に奔った紅い筋。
 傀儡士の傀儡とは技を増幅させる装置である。エリスに組み込まれたコード戦術はセーフィエルの手によるもの、傀儡士と傀儡の関係には本来ないものだ。真物の傀儡士は傀儡に妖糸を使わせる。
 エリスが人では成しえない距離を跳躍する。傀儡士ができない運動を傀儡にさせる。
 そして、人間の限界を超えたスピードでエリスが妖糸を放つ。
 呪架は横に飛びながら妖糸を放ちエリスの妖糸を斬る。だが、斬られた妖糸はそのまま飛び続け、呪架が元いた場所を切り刻んだ。横に飛んでいなければ、また傷を負わされるところであった。
「ダーク・シャドウ姿を見せろ!」
 呪架の声がただ響いただけ、答えは返ってこなかった。
 傀儡を操る影の姿はこの場にはない。これこそ真の傀儡士の戦闘法。自らの肉体を酷使する必要はない。
 しかし、傀儡士には別の戦闘法もある。選ばれた傀儡士のみが行なえる奥義。
 エリスの手から〈悪魔十字〉が放たれた。
 技が遅い。
 両手から呪架が四本の妖糸を放った。
 六本の妖糸と四本の妖糸が空中で激突し、相殺した。
 呪架は気付いた。
 ――なにか可笑しい。
 エリスの技は呪架の技を越えている。それなのにエリスの攻撃はすべて様子見。攻撃と攻撃の感覚も長く取られている。連続して妖糸を放つなど容易いはずだ。
 地面を蹴り上げ呪架が跳躍しようとした。が、足が動かない。まるでなにかに縛られたように動かなかった。
「しまった!」
 罠が仕掛けてあったのだ。
 足どころか、胴体も首も動かせない。動かせたのは〝右手〟だけ。不可解としか言いようがない。
 敵は傀儡士。傀儡士が傀儡士のことを知らぬわけがない。狙うならば〝手〟のはずだ。
 なにかを思い出したように呪架の右手が自然と動き出す。
 宙に描かれる奇怪な魔法陣。
 〈闇〉と妖糸を自在に操る傀儡士の魔導。その奥義こそが傀儡召喚。
 召喚とはそこにいながらにして、時間と空間を超越し、超常的な力を持つ異界の住人をこの世に呼び寄せること。そして、〈それ〉を使役することができれば、あらゆる望みが叶えられると云われている。
 操り人形たちは傀儡師の合図ともに踊り出す……。
「俺は召喚を理解したぞ!」
 不気味に輝く魔法陣の〝向こう側〟で〈それ〉が呻き声をあげた。
 〈それ〉の呻き声は空気を振動させ、音波は〈五芒星〉の存在を創り出した。
 〈五芒星〉の中心で一つ目が瞬きをしている。けれど、〈五芒星〉は図形にしか見えない。これを生物と定義するのは難しいだろう。
 眼をカッと開き〈五芒星〉が全体から蒼いオーラを発した。
 発射される魔導砲。
 宝石の如く煌びやかに輝く光線が〈五芒星〉の眼から放たれたのだ。
 刹那にしてエリスは光に呑み込まれ、眩い光が去ったあとにはエリスの破片すら残っていなかった。
 エリスが完全消失したことにより、呪架を縛っていた妖糸が消えた。
 自由を得た呪架だが、危機はすぐそこまで迫っていた。
 〈五芒星〉が回転しながら移動し、その魔眼を呪架に向けたのだ。
 今の呪架には〝向こう側〟の存在は召喚するのみ。操りきれない野放しの存在は術者に襲い掛かる。
 呪架の〝右手〟に眠る記憶。
 妖糸が空間に傷をつくる。
 闇色の裂け目から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。
「喰らえ!」
 〈闇〉が触手のように伸び、〈五芒星〉の図形に入り組むように絡みつく。
 蒼く輝き出す〈五芒星〉
 勝つのは〈闇〉か〈五芒星〉か?
 裂け目に引きずられまいと、必死に〈五芒星〉は抵抗しているように見える。
 だが、終幕はあっけないものだった。〈五芒星〉は全体を〈闇〉に包まれ、闇色の裂け目に吸い込まれるようにして還っていった。
 轟々という音を立て、空間の裂け目は閉ざされた。
 父――愁斗の〝右腕〟が覚えていた記憶。
 召喚術を会得した呪架。
 しかし、その代償は自らの手で創造した傀儡エリス。
 母殺し。
 呪架は両手で鷲掴むように体を押さえた。
 〈闇〉による侵蝕が加速している。
 目的を達成するよりも早く肉体が朽ち果ててしまうかもしれない。
 召喚は諸刃の剣。
「クソッ!」
 吐き捨てた呪架の躰が霞んだ。
「なんだ!?」
 〈虫籠〉から消失する呪架。
 次の瞬間、呪架はビルの屋上に吐き出されていた。
 雨が呪架を殴りつける。
 屋上から呪架は誘われるように彼方を眺めた。
 視線の先は灰色の空が広がっている。隠された景色にあるものは死都東京。
 腕を治した呪架はついに死都東京へ向かうことを決意した。
 果たして死都で呪架を待ち受けているものとは?

《3》

 帝都政府は新たな動きを開始しようとしていた。
 まだ政府が設立して一〇〇年も経っていないが、その歴史の中でも今回の事件は大打撃であった。
 対策として早急に対処したことは、セーフィエルに帝都中枢夢殿へ侵入されたことにより、警備システムの見直しや〈ゆらめき〉の徹底検出が行なわれた。
 次いで、帝都に恨みを持っている呪架に逃亡されたことも問題だ。また人の多い繁華街で暴れられたら帝都の威信に関わる、
 そして、もっとも政府が危惧したのはダーク・シャドウのことであった。
 マスコミへの発表は完全にシャットアウトされた。
 今日の定例記者会見場は荒れていた。
 ホウジュ区に機動警察が出動し、ワルキューレが出動したらしい件について。
 夢殿の方角で爆発音や閃光が見え、恐ろしい魔獣の遠吠えが聴こえた件について。
 帝都全域を襲う怪奇的な地震について。
 ワルキューレのスポークスウーマン――フィアが四苦八苦しながらも、今日もお得意の嘘と言い訳で記者達を煙に巻いた。
「では、失礼します」
 と、フィアは足早に会見場から逃げようとしたが、押し寄せて来た記者たちにスーツを引っ張られ、揉み合いになるというワンシーンも垣間見られた。それだけ帝都の人々は危機を感じているのだ。
 報道陣との会見を済ませ、フィアは早々にヴァルハラ宮殿に戻って来た。
 フィアは円卓に座る女帝とズィーベンの元へ駆け寄って愚痴を溢す。
「胃薬を飲まなきゃやってられませんわ!」
「そんなのアタシだって同じだってば」
 と、女帝も愚痴を溢した。
 夢殿内で起こった事件は前代未聞のこと。今までも帝都の街で大きな事件が起き、帝都滅亡の危機も幾度かあったが、夢殿に敵があんなにも簡単に入って暴れられるとは、許しがたいことだった。
 女帝が足をじたばたさせて子供のように怒り出す。
「もぉ~ッ、これもみんな〈ゆらめき〉が悪いんだよ。しかもだよ、なにあのダーク・シャドウってウザイ奴、ぷんすかぷんだよ!」
 呪架がセーフィエルによって空間転送されたのち、ダーク・シャドウが〝向こう側〟の魔神を呼び出し、セーフィエルは隙を見て逃亡。夢殿内にある多くの建物が壊され、大地にはいくつもの穴が開いた。
 最後まで戦っていたアインは重傷を負わされて、戦いに参加した近衛兵たちは全員死亡、女帝とズィーベンが駆けつけたときには、そこは死の荒野と化していた。
 唯一の軽症者は慧夢だった。けれど、その慧夢も謎の昏睡状態に陥ってしまって、今も謎の眠り堕ちてしまっている。
 この事件を受けて、ついに女帝は全ワルキューレメンバーの招集を号令した。
 だが、戦闘特化タイプのアインとフュンフを欠いてしまっている今、戦力不足は否めなかった。
 残りのワルキューレは七名。
 女帝は難しい顔をしながらズィーベンに尋ねる。
「ツヴァイとアハトはどのくらいで帰国できそう?」
「ツヴァイは三日ほど、アハトは天候がよければ五日ほどでございましょうか。二人ともあまり交通の便がよろしくない場所に派遣されていますゆえ、すぐの帰国は難しいように存じます」
「海外派遣組み二人はいいとしてさ、ドライはどこでなにやってんの!」
 女帝は怒鳴り声をあげた。
「ドライは風来坊でござますから、今もどこになにをしているのやら、通信機すら持たないで出かけておりますので……」
 ズィーベンが苦笑しながら言った。
 ここでフィアが提案する。
「ドライの躰にこっそり発信機を埋め込むというのはどうでしょう?」
 この提案にズィーベンがすぐに否定した。
「それは前にも試みたのでございますが、肉を抉って見事に取り出されてしまいました」
「次は脳ミソにでも生めてやれ」
 毒々しく女帝は吐き捨て、他のメンバーについて尋ねる。
「フュンフはどのくらいで現場復帰できそう?」
 ズィーベンがすぐに答える。
「フィンフは半日ほど、アインは一日以上とゼクスに聞いてございます」
 会議室にもおらず、名前も挙がっていないワルキューレは残り一人。永久欠番のノインだ。
 もし帝都でなにか起きた場合、ズィーベンは女帝の元を離れられない。
 今、この帝都で自由に動けるのはフィアとゼクスだけだった。
 しかし、ゼクスは引きこもりで有名で、滅多なことでは研究室を出ない。
 女帝の目がフィアに向けられた。
「今度、帝都で大事件が起きたらフィアが行くんだよ」
 丸い眼をしてフィアは慌てた。
「そんな、あたくしが最後に武器を握ったのは聖戦のとき以来ですよ。妖物くらいなら相手にしますけど、アインを倒したダーク・シャドウが再び攻め込んできたら、一目散に逃げさせてもらいます」
 ワルキューレのメンバーはこんな調子で、切り札の〝メシア〟も謎の昏睡状態である。女帝は唇を噛み締めた。
「傀儡士の召喚は使いようによったら、アタシたちの力なんて遥かに凌駕する。〈闇の子〉にそんなすっごい傀儡士が味方するなんて、ばか、ばか、ばか!」
 急に女帝は真剣な顔つきになってひとつ咳払いを置いた。
「いざとなったらアタシが覚醒めるから」
 慌ててズィーベンが声を荒げた。
「それは危険すぎます!」
 フィアも慌てた。
「ヌル様がお覚醒めになるということは〈闇の子〉も覚醒めることになるのですよ!」
 慌てふためく二人に女帝は静かに口を開いた。
「いつか必ず来る戦いだから、それをアタシから仕掛けるというだけのこと……。わかってるよ、まだ時期尚早なことは。せめてゼクスに戦闘用の義体を用意して置くようにと伝えて置いて」
 女帝の今の躰が義体なのだ。本物の躰は夢殿にある〈名も無き大聖堂〉で眠りに堕ちている。
 女帝ヌルこと〈光の子〉が目覚めるとき、〈闇の子〉も同時に目覚める。その逆も同じだ。
「次にアタシと妹が戦うときがラグナロクかもしれないし、まだ一〇〇回ぐらいやるかもしんないけどさ、必ず近いうちに小さな戦いはあると思うよ」
 それはわざわざ女帝が口に出さなくとも、ワルキューレは心得ていた。
 帝都全体を襲う〈ヨムルンガルド結界〉が起こす地震もまだ続いている。
 ズィーベンは神妙な面持ちで眼鏡を直した。
「わたくしの〝ダーク〟の面が強くなっております。〈裁きの門〉もしくは、〈タルタロス〉で問題が発生しているのかもしれません。あの場所に入り、脱出ができるのはセーフィエルとノインとエリスの三人だけですが、もしかしたら人間との混血も……」
 それは呪架、慧夢、愁斗の三人のこと。
 一度、足を踏み入れれば永久の囚われ人となる〈裁きの門〉。脱出できるのは三人だけのはずだが、呪架もできるとすれば〈裁きの門〉に行こうとしている可能性は高いとズィーベンは考えた。
 現に、今このとき、呪架は死都東京へと向かっていたのだ。
 問題は〈裁きの門〉とこの世がもっともリンクしている場所にある。そこがわかっていながらも、帝都政府は手が出せない状況にあったのだ。
 なぜならば、そこに〈箒星〉があるから。

《4》

 曇る空から小雨が降って来る。
 昨日から帝都でも雨が降り続いているが、この場所でも雨が降っていた。
 都という華々しさはここにはない。
 呪架は死都東京に来ていた。
 死都と言っても復興の進んでいる地域と、まったく手の付けられない地域では落差があり、東京都下や二三区の端の再興は目覚ましい。
 それとは対照的に、東京都の中心都市であった新宿区付近は死都街と呼ばれ、復興どころか悪化の一途を辿っている。
 魔物や異形が跋扈し、異世界の植物がジャングルを形成し、底なし沼から瘴気を噴出している場所もある。
 呪架は〈箒星〉の堕ちた旧千代田区に向かっていた。
 〈箒星〉は落下時に直径約五〇〇メートルのクレーターをつくり、すでにその周りには短期間で見たこともない植物でジャングルを形成していた。
 しかも、その範囲内よりも大きい直径一キロに防護フィールドが張ってあり、帝都政府も日本政府も科学者たちでさえ中に入れない状況だった。
 死都東京は帝都が領有権を主張できない。復興の資金は帝都から主に出されているが、元々の領有権を持っている日本が瓦礫となってもその土地を見捨てなかったのだ。東京大空襲や原爆投下、関東大震災が起きても再興をして来た民族だ、自分たちの土地を手放すはずがない。
 そもそも帝都エデンですら、日本は自分たちの領土だと主張し、国際社会からも正式に独立国と認めてもらっていない。ここ数十年の間、帝都と日本は冷戦状態にあるのだ。
 〈箒星〉の周りは日本政府と帝都政府が対立しながら包囲している。呪架は厳重な警戒をしている帝都政府ではなく、手薄な日本政府の包囲を突破することにして、〝向こう側〟で身に付けた身を潜める方法で見事に突破した。
 防護フィールドは半透明状の膜のようであり、ドーム状に中を覆っている。
 この位置から見える中は密生したジャングルだ。青々と草木が生い茂り、一メートル先も見通せない。
 呪架は防護フィールドに様子見で妖糸を放った。
 妖糸はフィールドに当たった瞬間、勢いを緩和されて絹糸のように地面に落ちた。それを見て、呪架はゆっくりとフィールドの表面に触れてみた。
 水面に雫が落ちたように波紋が立つ。
 少し押す力を強めると、水に呑まれるように呪架の躰がフィールドを通過した。帝都や日本が手をこまねいていた防護フィールドを、呪架はいとも簡単に抜けてしまったのだ。その理由はまだはっきりとしない。
 ジャングルの中に入った呪架は妖糸で道を阻む植物を切り、蛇行することなく真っ直ぐ中心部へと向かった。
 このジャングルには動物などの気配はなかった。けれど、呪架はずっと誰かに見張られているようで、禍々しい殺気も感じていた。それがどこから発せられている殺気なのか、漠然としてはっきりしないのだ。
 どこから発せられる殺気か呪架が気付いたときには、呪架は鋭い鎌に襲われていた。
 鎌のように鋭い植物の葉が呪架に襲い掛かったのだ。
 葉の強度などたかが知れている。妖糸の前では植物など敵ではない。呪架を襲った植物はあっさりと切り刻まれた。
 しかし、呪架は問題に直面した。
 意志を持って動く植物はひとつやふたつではなかったのだ。
 呪架はジャングルに足を踏み入れた瞬間から、敵に囲まれていたのだ。
 植物の葉や幹が呪架に魔の手を向ける。
 呪架が妖糸を振るいながら全速力で疾走した。
 ぬかるんだ地面から蔓が伸び呪架の足首を掴んだ。
 地面に手を付いて倒れた呪架に覆いかぶさる影。食虫植物が一メートルもある口を開けて呪架を呑み込もうとしていた。久しぶりの獲物に消化液を垂らしている。
 呪架は妖糸で食虫植物の茎を落とし、足に巻きついていた蔓を切り刻んで立ち上がる。
 間も置かずに呪架は魔法陣が描いた。
 〈それ〉の咆哮は植物たちをも震え上がらせ、その隙を衝いて呪架は〝向こう側〟からあるモノを召喚した。
「我が行く道を焼き尽くせ!」
 〈それ〉の熱い吐息が世界に炎を纏った紅蓮の怪鳥を羽ばたかせた。
 召喚された〈火の鳥〉の尾に呪架はすぐさま妖糸を巻きつけた。
 〈火の鳥〉が羽ばたくと火の粉が舞い散り、〈彗星〉の中心部へと向かって飛びはじめた。
 植物の楽園は刹那に火の海に包まれ業火で焼かれていく。
 このジャングルの中心部には大空洞が口を開けていた。
 〈火の鳥〉は比較的に操り易いようで、呪架の意志に従って大空洞をゆっくりと滑空していった。
 深さはおよそ七〇メートル。
 底に足を付いた呪架は〈火の鳥〉の尾から妖糸を解き、すぐさま妖糸で空間に闇色の裂け目つくった。
 〈闇〉の出る幕もなく、自らの意志で〈火の鳥〉は〝向こう側〟へと還っていく。
 呪架の目の前にあるごつごつとした岩石の塊。大きさは二〇メートルくらいだろう。それにはなんと扉がついていた。
 扉の前に呪架が立つと、手も触れていないのに左右に開かれ、呪架を中へと導いた。
 外観は隕石そのものだったにも関わらず、中はどこかの宮殿に来てしまったと目を疑ってしまう。十八世紀にフランスで広まったロココ様式の家具で、部屋は美しく埋め尽くされていたのだ。
 唐草模様や貝殻模様を施された曲線美を生かした家具。
 繊細で優美なテーブルと椅子に腰掛け、セーフィエルは優雅にティーカップを片手に呪架を出迎えた。
「いつかは辿り着くじゃろうと思うて、ここで待って居った」
「お前のせいで酷い目に遭った」
「夢殿から脱出できたのは誰のお陰じゃ?」
「うるさい。腕のことも、傀儡だって壊れてしまったんだ」
「傀儡が壊れたじゃと?」
 呪架が自ら葬ってしまった。だから呪架は黙り込んだ。そこからセーフィエルがなにを感じ取ったかわからないが、彼女はある致命的なことを察していた。
「傀儡をつくり直すにしても、汝の躰が持たぬじゃろう。妾の心眼から見れば、今そこに立っているのも奇跡にじゃ」
「〈裁きの門〉は近くにあるんだろ? だったら、すぐに傀儡も必用になるはずだ」
 エリスの魂を〈ジュエル〉化して、傀儡に埋め込むことが呪架の目標だ。傀儡は絶対的に必用不可欠なものである。
「妾に心当たりがある」
「なんのだ?」
「汝のつくる傀儡よりも上質な傀儡があるはずじゃ。妾はそれを取りに行く」
 過去にある男と共同研究をしていたときの傀儡が、おそらく残っているのではないかとセーフィエルは踏んだ。
 呪架は間を置いてから頷いた。
「わかったお前に任せる。けど、〈裁きの門〉はどこにある?」
「この場所の真上がもっとも〈裁きの門〉に近い場所じゃ。ただし、物理的にではないために、問題が少々ある」
 セーフィエルは柳眉を顰めて話を続ける。
「門を開けられるのは〈裁きの門〉つくった妾か、妾の血を引く者のみ。加えて中に入って、再び外に出ることが可能なのも同じ。ただし、最大問題は〈裁きの門〉をこの世に召喚できるのは女帝とワルキューレのみなのじゃ。シオンがワルキューレじゃった頃は、シオンが〈裁きの門〉の管理を任されておった」
 そうなると〈裁きの門〉をどうやってワルキューレに召喚させる?
 まさかワルキューレが協力してくれるはずもなく、不可能に近いことを実現しなければならなかった。
 異様な魔気が部屋に充満した。第三者の気配だ。
「その役目、私が引き受けよう」
「ダーク・シャドウ!?」
 思わず呪架は声を荒げた。
 紅いインバネスを翻し、敵意がないことを示してダーク・シャドウは席に着いた。
「私はおまえたちと争うつもりはない。手を貸そう」
「争うつもりがないだと!」
 飛び掛らんばかりの呪架をセーフィエルの長い腕が止めた。
「待て、呪架。ダーク・シャドウとやら、汝にはなにか良い手立てがあると申すのかえ?」
「ある」
 御託を並べず短く答えた。
 セーフィエルは頷いた。
「汝に任せることにしよう。良いな呪架?」
「ふざけるんじゃねえ、こんな奴の手を借りる必要なんてない!」
「妾たちには手立てがない。彼奴の手を借りるしかあるまい」
「……クソッ、好きにしろ」
 吐き捨てて呪架は背を向けた。
 セーフィエルは呪架の肩を引っ張り自分に向かせ、部屋の奥にある扉を指さした。
「向こうの部屋に肉体を再生させる装置がある。今の汝には気休めじゃが、まだまだ過酷な戦いが待っておるでな、少し躰を休めておくのじゃ」
 〈闇〉に犯された躰は肉体的な治癒だけでは完治できない。
「わかったよ、俺は言うこと聞いてりゃいいんだろ」
「なら、向こうの部屋に入って待って居れ」
「クソッタレめ!」
 吐き捨てて呪架は隣の部屋に入り、ドアを力いっぱい閉めて消えた。
 残されたセーフィエルとダーク・シャドウの間には、異様な空気が取り巻いていた。
 セーフィエルの黒瞳が白い仮面の奥の瞳を見据える。
「女帝やワルキューレどもが入れぬここに、どうやって入ったのかえ?」
「答える必要はない。けれど、私はあなたの知りたい情報を知っている――アリスの居場所だ」
「ようわかったの」
「アリスは秋月蘭魔の隠れ家の隠し部屋の、さらに隠し部屋の奥で眠っている」
「……やはり」
 呟くセーフィエル。
 そして、別れも挨拶もなく、ダーク・シャドウは空間を切り裂き、闇色が広がる世界へ消えた。

《5》

 セーフィエルは山奥にある屋敷にやって来た。
 呪架とはじめてあった場所もこの屋敷の前だった。
 屋敷の中にある第一の隠し部屋の場所はセーフィエルも知っていた。
 書庫の本棚の後ろに隠された階段を下り、地下に降りた場所が第一の隠し部屋だ。
 ダーク・シャドウは『隠し部屋の、さらに隠し部屋の奥で眠っている』と語ったが、ここから先はセーフィエルも知らない。
 石造りの壁に囲まれた地下室はひんやりとした空気が流れていたが、一箇所だけ空気の流れが違う場所があった。空気というかエネルギーといった方が正しいかもしれない。
 部屋の奥に立て掛けられていた姿見の鏡。鏡といっても、現代にあるようなものではなく、銅鏡のような金属を磨いてつくった鏡だった。
 この鏡に秘密があると感じてセーフィエルは繊手を伸ばした。
 鏡に触れた指先が鏡の中に没した。
 これが〈ゲート〉であると悟ったセーフィエルは鏡の中に飛び込んだ。
 凍える吹雪を躰中に浴びて、セーフィエルは瞬時に腕で顔を隠した。
 白銀の大地や、壮観な白い山脈は見えない。ただ、視界を白が遮っている。
 雪山かどこかに一瞬にして来てしまったようだ。
 セーフィエルの背後で唐草模様を施した扉が閉まる音が聴こえた。
 薄手の黒いナイトドレスに吹き付ける白い雪。黒が白に侵されてしまいそうな猛吹雪であった。
 セーフィエルは凍える仕草も見せずに、膝まで埋まる雪を踏みしめて歩いた。
 方角もわからず、視界も頼りにならないこの状況で、セーフィエルは強く感じていた。求めているモノに、呼ばれているような気がするのだ。
 前方から気配がした。
 視覚ではなく気配で動くものを感じる。
 雪の中に潜んでいた獰猛な生物が、次々と雪粉を舞い上げながら飛び出した。その数はおよそ三匹。
 セーフィエルの視覚には見えていないが、その生物は長く白い体毛に覆われた霊長類であった。ひと言で例えるならば、雪男というイメージがわかり易いだろう。
 臭い雄共の気配がすぐそこまで迫っているのを感じ、セーフィエルは鉄扇を構えて優雅に舞った。
 吹き荒れる吹雪が一瞬だけ鉄扇を仰いだ方向に飛ばされ、餓えた雪男どもの突進を妨げる。
 だが、こけおどしなど時間稼ぎの方法でしかない。
 体勢を立て直した雪男どもが再びセーフィエルに飛び掛る。
 セーフィエルは汗を掻いていた。氷点下の大気に包まれながらも汗を流し、その汗を蒸発させて空気中に溶かす。
 妖艶で芳しい香が雪男どもの鼻をくすぐり、血を煮えたぎらせて極度の欲情が襲う。
 誘惑魔法〈テンプテーション〉だ。
「妾を巡って血の争いをするが好い」
 セーフィエルの魅言葉に誘惑され、興奮した雪男どもが仲間同士で争いをはじめた。
 雪男どもは鉤爪で肉を裂き、互いの肉に噛み付き、飛び散った血飛沫はすぐに雪で隠される。力尽きた死骸も雪に埋まる運命であった。
 もうセーフィエルは雪男に目もくれない。流れ逝く過去の幻影。過去は終わっているから過去なのだ。
 雪の大地は決して平坦ではなく、歩く感じでは山を思わせた。過酷であるはずのその道を、セーフィエルは表情ひとつ変えずに進んだ。
 やがて、セーフィエルの前に雪の壁が立ちはだかった。
 壁伝いに歩いていると、巨大な洞窟を見つけることができた。
 洞窟の入り口は吹雪が吹き込んでいたが、中へ進むに連れて雪は姿を消し、代わりに暗闇が世界を包んだ。
 闇の中でも目が見えるセーフィエルはさらに奥へと進んだ。
 分かれ道のない真っ直ぐな道を進み、行き止まりまで来ると、そこには扉を守るように巨大な戦士の石造が立っていた。
 甲冑の細部まで彫り込まれた石造は、雄々しく立派な出で立ちで、鞘に入った長剣の柄を握り締めていた。今にも剣を抜いて襲い掛かって来そうなポーズだ。
 石造に向かってセーフィエルは鉄扇を構えた。
 襲って来ると感じた。
 早い!
 抜きの一太刀がセーフィエルの腹を薙いだ。
 まるで侍のような剣の抜き方。
 後ろに飛び退いて辛うじて致命傷を避けたセーフィエル。斬られたドレスの下からどす黒い血が滲み出している。
 〝動く石造〟の間合いに入っていたのが失敗だった。
 すでに斬られた傷は瘡蓋になっているが、肌の傷はプライドにも傷をつけていた。
 セーフィエルの血の餞別を受けた〝動く石造〟の長剣は溶けはじめていた。魔導の実験を重ねたセーフィエルの血は、毒性を含み、強い酸も含んでいたのだ。
 それでも〝動く石造〟は長剣をセーフィエルに振り下ろそうとしていた。
 見上げるほどに高い位置から振り下ろされた長剣の一撃。
 セーフィエルは鉄扇で長剣を受け止め、力を逃がしながら躰を移動させ、高く飛び上がり長い脚から廻し蹴りを放った。
 〝動く石造〟の頭が飛んだ。
 首を失っても〝動く石造〟は動き続け、太い腕を伸ばしてセーフィエルを掴もうとする。
 柔軟な身のこなしでセーフィエルは敵の攻撃を躱し、後ろに廻り込んで〝動く石造〟に刻まれた文字を背中で見つけた。ヘブル文字で刻まれた〝真理〟を意味する言葉。
 セーフィエルの鉄扇が〝動く石造〟の背中を斬る。
 一文字削られた〝真理〟を意味していた文字はたちまち〝死〟変わり、〝動く石造〟は木っ端微塵に砕け散ったのだった。
 伝承が正しければ三三年後に復讐のために復活するというが、セーフィエルにとっては気にするほどのことでもあるまい。
 砕けた石造の中から一本の鍵が出てきた。
 セーフィエルは鍵を拾い上げて奥の扉に差し込んだ。
 鍵は音を立てて、閉じられていた扉が大きく開く。
 薔薇の香が鼻の奥を衝いた。
 大量の紅い薔薇に囲まれた柩がそこには安置されていた。まるで血の海に死んでいるようにも見える。壮観な雰囲気を醸し出している。
 柩の蓋は硝子でできており、セーフィエルが中を覗き込むと、氷の中で眠っているように、瞳を閉じた少女の安らかな顔をあった。
 染み一つなく透き通る白い肌、ブロンドの美しい髪、カールした長い睫毛、高い鼻梁の下で瑞々しい唇が口を噤んでいる。まるで作り物のような端整な顔立ちの美少女が眠っていた。
 セーフィエルは柩の蓋を開け、可憐なドレスに身を包む少女の頬に指先で触れた。
 見た目は安らかな寝息を立てていそうなのに、その頬は氷のように冷たい。
 傀儡の少女。
「……アリス」
 セーフィエルはその名を呼んだ。
 返事はない。
 哀しい想いがセーフィエルの胸に込み上げた。
 そっとセーフィエルはアリスのドレスを脱がせ、胸元を開いて息を呑んだ。
 瞳を閉じたセーフィエルの目頭から涙が滲み出す。
 アリスの胸に埋め込まれていた〈ジュエル〉は割れてしまっていた。
 蒼く美しい宝石のような〈ジュエル〉に皹が入り、その力を失ってしまっていたのだ。
 アリスはセーフィエルの血の繋がった妹であった。
 セーフィエルは黒髪、黒瞳。一族の者は皆そうだった。なのにアリスの髪はブロンドで、瞳の色は蒼かった。一族に生まれてきた突然変異。それでもセーフィエルはアリスを心から愛していた。
 その妹をセーフィエルはある日突然失ったのだ。
 死んだ妹を復活させるために、セーフィエルは秋葉蘭魔という男と傀儡の共同研究をした。
 アリスが完成したのは、セーフィエルが銀河追放されたあとであった。だからセーフィエルは黄泉返ったアリスの姿を見ていない。
 〈ジュエル〉に触れたセーフィエルにアリスの断片が流れ込んでくる。
 黄泉返ったアリスは蘭魔の手によって、時が来るまで眠らされた。
 時は思いのほか、早く来てしまった。
 目覚めたアリスの瞳に映る主人の姿は、蘭魔ではなくその息子の愁斗だった。
 当時、抱いていたアリスの想いがセーフィエルの胸に届く。
 アリスは愁斗のことを慕っていた。
 傀儡として、召使として、主人との関係は一線を越えることはなかった。
 セーフィエルの触れていた〈ジュエル〉が突然、粉々に砕け散って蒼い粉が宙を舞った。
 肉体が滅びても魂はある。けれど魂までも消滅した者は決して黄泉返らない。〈ジュエル〉が砕け散ってしまっては、もう黄泉返れないのだ。
 過去は終わってしまったから過去。
 アリスの記憶の断片はすべてセーフィエルに吸収され、セーフィエルの想い出となった。
 そして、セーフィエルはダーク・シャドウが何者かを知った。

《6》

 夢殿でもっとも科学技術と魔導技術が進んでいる場所。
 合成金属の壁や床に囲まれ、無機質で機械的な色が濃い。
 錬金術が化学の前身であるように、魔導と科学の結びつきは強い。この世界では科学技術が目覚ましい進歩を見せために、女帝のもたらした魔導は科学の一部として組み込まれた。それが功を奏して、魔導は人々に受け入れられた。
 縦長のガラス管にも似た生成装置の中は液体で満たされ、生まれたままの姿でアインは眠らされていた。
 無駄のない柔軟な筋肉はある種の美しさを備え、一流の彫刻家が彫り上げた傑作にも見える。しかし、完璧とは言えなかった。
 アインの両腕は生成途中で皮もなく、グロテスクな筋肉の繊維が生々しい。
 〈スリープ〉状態に入っているはずのアインの躰が微かに震えた。
 そのことにゼクスはまだ気付いてなかった。
 赤いランドセルを背負った白衣の少女は、ツインテールの頭をじたばたさせながら、コンピューターゲームに熱中していた。
「うりゃ、とりゃ!」
 肢体にセンサーをつけて、頭には3D映像を受信するスコープを被っている。
 ゼクスの短い手足の動きに合わせて、ゲーム中でゼクスが操っているキャラが動く仕組みだ。
 硝子の割れる音がした。ゼクスにはゲーム中のリアルサウンドか、現実の音か判断できなかった。
 それが現実だと気付いたのは、電源プラグが抜かれ、ゲームが中断してしまったからだ。
 スコープを投げ捨ててゼクスが叫ぶ。
「いいとこやったのに!」
 ゼクスの灰色の脳細胞が瞬時に事件の重大さを理解した。
 再生装置の硝子のハッチを壊し、まだ生成の終わっていないアインの姿を見た。
「なんでやねん!」
 いくら脳の回転が速くても、躰を動かすスピードには反映されない。
 神速で迫って来たアインの攻撃を避けられず、上段蹴りを側頭に受けたゼクスは横転した。
 床に這いつくばったゼクスの目に映るアインの後姿。ゼクスは迅速に行動した。
 赤いランドセルがオートで開き、中から誘導ミサイルが発射された。
 アインの背中に迫ったミサイルは四散して、中から飛び出した捕獲ネットがアインを捕らえる。
 ネットに絡め捕られたアインが転倒する。
 帝都の妖物が吐き出す糸を元に開発されたこのネットは、特殊な溶解液でしか破壊できないはずだった。
 だが、斬られたのだ。
 治っていないアインの手から放たれた輝線の猛撃。
「なんやあれ?」
 想定外の出来事にゼクスは目を丸くした。あんな技をアインは身に付けていないはずだ。
 自分の手に負えないと判断したゼクスはアインから目を離し、壁に取り付けたあった緊急スイッチを叩き警報を鳴らし、続いて再生装置に浸かっていたフュンフを目覚めさせた。
 再生装置の内部で水が抜かれ、全身を乾燥されてから、硝子のハッチが開かれた。
 目覚めたばかりのフュンフにゼクスは早口でしゃべる。
「頭で考えるんやない、心で察しろ。アインが暴走しとるからとにかく捕まえてや!」
 ゼクスの慌てようと、鳴り響く緊急サイレンの音で、なにか事件が起きていることは察しられる。
 躰を十字に広げたフュンフに甲冑がオートで装着される。
「わかりましたです」
 亜音速モードに入ったフュンフが研究室を飛び出した、
 四角い廊下を駆け抜け、アインの行方を追う。
 すでにアインは廊下の窓ガラスを割って建物の外へ逃亡していた。
 背中に巨大な翼を生やし、空を自在に飛ぶアインの前に廻りこんだフュンフ。
「アインさん、どうしたのですか?」
 答えは煌く輝線で返って来た。
 咄嗟にアインの放った妖糸を亜音速で躱すフュンフ。
 その技が傀儡士のものであると瞬時に悟った。
 傀儡士の急所は妖糸を繰り出す手だ。
「ごめんなさいです」
 ホーリースピアを構えたフュンフが亜音速で一撃を仕掛けた。
 人体模型のような筋肉剥き出しの腕が宙を舞って地面に落下していった。
 片腕を斬られ血を噴出すアイン。だが、その血もすぐに止まる。
 相手の片腕を落としたが、まだ一本残っている。それなのにフュンフは成す術をなくしていた。相打ちだったのだ。
 ホーリースピアを持っていたはずの手が消失していた。
 亜音速を使用して戦うときの条件は、亜音速モードのまま物体に触れてはいけないこと。車にぶつかるのと、ロケットにぶつかるのでは、どちらの衝撃が大きいかという問題だ。攻撃をする瞬間に亜音速を解くために、その瞬間に隙ができる。見事にそこを衝かれた。
「病み上がりの躰には亜音速は堪えますです」
「ならば、もう少し休んでいろ」
 操られていても声はアインのままだった。それがとても無情に感じられた。
 妖糸が宙を奔り煌いた。
 疲れで亜音速に入りきれなかったフュンフは攻撃を諸に受けてしまった。
 背中の翼を斬り飛ばされ、地面にダイブするフュンフは叫んだ。
「目を覚ましてアイン!」
 フュンフの声は小さく消えた。
 三〇メートル以上もの高みから落ちては、フュンフの脳もただでは済まないかもしれない。
 下が騒がしくなってきている。次の追っ手が来るのも時間の問題だ。
 アインは翼をはためかせ、夢殿を覆っている防御結界の目の前まで飛んで来た。
 度重なる事件を受けて普段よりも強化されている結界だ。
 アインであれば脱出は不可能。
 しかし、今のアインはアインでアインでない。
 アインの手から神速で飛ぶ妖糸が結界に刃を向ける。
 傀儡士の妖糸は空間を断ち割る。
 結界は妖糸によって見事に傷をつくられ、二度、三度と放たれた妖糸で人が通れる穴を開けられてしまった。
 夢殿の結界を突破し、広い空へ羽ばたくアイン。
 向かうは死都東京。
 高速で飛ぶアインの行く手を遮る軍事ヘリを次々と墜落させ、ついにアインは〈箒星〉の上空まで来てしまった。
 轟々と雲海が唸り声をあげた。
 灰色に染まった天は雷光を奔らせ、〈箒星〉の周りを包囲していた関係者たちも、揃って空を見上げてしまった。
「アインの名において、〈裁きの門〉を召喚する!」
 大空に雷鳴が轟き、雷光が天をいくつも泳ぐ。
 神々しい輝きと共に天になにかが現れた。
 それは巨大な門であった――〈裁きの門〉光臨。
 天に浮かぶ〈裁きの門〉は強烈な威圧感で場を萎縮させ、門の奥からは呻き声が聴こえてくるような気がした。
 役目を終えたアインは糸が切れた操り人形のように、全身から力が抜けて地上へ落下した。
 〈裁きの門〉を開門できるのは、セーフィエルの血を引く者のみ。
 重々しい轟音を立てながら〈裁きの門〉が口を開く。
 鼻を突く死臭が冷たい風に乗って恐怖を運ぶ。
 開かれた門の奥に広がっているのは暗黒。その〝向こう側〟でなにかが蠢いている。
 天は怒り狂い、雷撃を地面に堕とし、人々は脅え、天に畏怖する。
 〈裁きの門〉が開かれたそのとき、生成装置で眠っていた呪架が目覚めた。
 時を同じくして、夢殿の地下で眠っていた慧夢も目覚めていた。
 〈ヨムルンガルド結界〉が起こした地震の余波を受けて、帝都エデンも荒れに荒れていた。
 アスファルトを割って鎧を纏った蛇のような生物が顔を出す。
 帝都の地下に張り巡らされた大下水道に生息していると云われる、大海龍の幼生が次々と繁華街やオフィス街に姿を見せたのだ。
 ビル街を縫うように駆け巡る白銀の群。
 白銀の毛並みを揺らし、三メートル以上もある野犬の群が暴れ廻り、手当たり次第に人々を襲って肉を喰らっていた。
 人々は逃げ惑い、交通網まで麻痺してしまった。
 帝都政府は対応に追われ、傷を負っていながらもフュンフは戦い、スポークスウーマンのフィアも狩りに出され、単独行動をしていたドライは二丁拳銃を乱射し、ゼクスは数年ぶりに夢殿の敷地内を出た。
 そして、死都東京では、呪架が〈裁きの門〉へと突入しようとしていた。

《7》

 ――地獄。
 そこはまさに地獄のごとき場所だった。
 天は赤く燃え揺れ、ガス状の暗雲が流れながら渦紋を巻く。
 岩肌を剥き出しにした渇いた大地には、大きく口を開けて深奥まで続く亀裂が走り、延々と続く遥か先には溶岩を噴出す群山が眺めた。
 この世界のどこかにエリスがいると呪架は直感した。
 ついにエリスのアニマを〈ジュエル〉化させて、自分たちの世界に持ち帰り、黄泉返らせることができる。絶望だらけの日々に、光明が見えて来たかもしれない。
 しかし、なにかに拒否されている。そんな力の働きも感じた。
 後ろを振り返ってみると、入って来たはずの〈裁きの門〉は消えていた。
〈裁きの門〉は一方通行であり、元の世界に戻ることは本来なら不可能なのだ。
 呪架は足元から噴出した熱い蒸気を後ろに跳躍して躱した。
 遠雷に混じり、呪架の耳には妖異たちの呻き声が聴こえていた。
 瘤だらけの赤い巨躯を持つ人型の鬼。
 長い体毛を躰中に生やし、老婆のような顔を持った化け物。
 四つ足の凶猛な野獣も多くいる。
 呪架に殺到する怪物の荒波。
 群から飛び出した巨大な怪鳥が、呪架の頭上に目掛けて滑空して来た。
 鋭利な鉤爪を前にして呪架は全く動じない。
 この感覚は久しぶりだ。血が煮え滾る熱い死闘。〝向こう側〟での生活が思い出される。
 ――狩りの時間だ。
 呪架の放った煌きが怪鳥の躰を断絶した。
 数え切れない獲物の姿を凝視して、呪架は両手から次々と妖糸を雨のように放つ。
 激しい演奏を指揮する指揮者のごとく、躰全体を大きく動かして妖糸を振るう。
 敵は次から次へと蛆のように湧いて来る。だんだんと呪架の手が捌き切れなくなって来た。
 一掃する手はあるが、それを使う判断は正しいか?
 もう、目の前にエリスがいるはずだ。ここで使わなければ、いつ使うのだ。
 呪架の深い黒瞳が、より深く闇を帯びた。
 敏速に動いた呪架の指先から、煌く線が放たれる。
 その輝線は空に奇怪な紋様を描く――魔法陣だ。
 呪架が叫ぶ。
「傀儡士の召喚を観やがれ、そして俺に屈服しろ!」
 魔法陣の〝向こう側〟から、巨大な獣のような〈それ〉の呻き声が鼓膜を震わせた。
 〈それ〉が豪快なくしゃみをすると、唾の飛沫が荒れ狂う嵐を巻き起こし、嵐は霧の巨人を創り上げた。
 この場でなによりも大きな霧の巨人は、霧に包まれた中でただ一つ蒼く輝く目玉で、三〇メートルの高みから周りの小物たちを見下ろした。
 脅えだす怪物ども。
 だが、もう尻尾を巻いても無駄だ。
 霧が怪物どもを呑み込み、叫喚とともに霧が紅く染まった。
 先の見えない霧の中で、聴覚が研ぎ澄まされ、怪物どもが次々と惨死していくのを知覚した。
 霧の巨人は興奮するように真っ赤に染まり、周囲の怪物どもは瞬く間に掃滅されてしまった。
 だが、まだ遠くで呻き声がする。
「……クソッ」
 呪架は呟いて、この場を引くことにした。
 引くといっても出口はない。奥に進むのみだ。
 乾いた大地を駆け抜け、灰色の水が流れる川の向こう岸に、テントやモンゴルのゲルに似た住居が並ぶ集落を発見した。
 川の流れは遅いが、泥沼のような水に浸かれば外には出られまい。たちまち躰を捕られてしまうだろう。
 渡れる場所はないかと川岸を沿って歩いていると、呪架の目に人影が留まった。向こうも呪架のことに気付いているようで、顔をこちらに向けている。
 その者は異形だった。
 背中に骨が剥き出しなった翼を生やし、弛んだ全身がスライムのようになってしまった存在。
 顔は紙を丸めて開いたみたいに皺くちゃで、瞼が弛み過ぎて眼の位置すらわからない。
 呪架は敵意がないと判断した。
 目の前までやって来た呪架に異形が声を掛けようと口を開く。
「まだここに来て間もないようだが、どんな罪を犯してここに入れられた?」
 嗄れ声は年のせいではなく、瘴気を含んだ空気に犯されているからかもしれない。
「自分の意志で来た」
「そんな馬鹿な!」
 皺に隠されていた眼がカッと剥き出された。
 異形は興奮した様子で息を荒立てて言う。
「ここがどこだか知っているのか? ここはまさに〈地獄〉だ、望んで来る者などいるものかッ!」
「〈地獄〉?」
「そうだ、〈光の子〉に叛逆した咎人が閉じ込められる〈地獄〉だ。元々は〈光の子〉も叛逆者だったくせに、今では神を気取ってこんな世界をつくり出したのだ」
「〈光の子〉が叛逆者?」
「そんなことも知らないのか?」
 呪架の知るはずもないことだった。
 異形は納得したように頷いた。
「まさか、お前は人間か?」
「……そうだ」
 少し答えるまでに間があった。人間の血は3分の1しか流れていない……。
 異形は感嘆した。
「この世界に人間が閉じ込められたという話は聞いたことがない。お前がおそらくはじめてだ」
「そんな話はどうでもいい。〈光の子〉が叛逆者ってどういうことだ?」
「〈光の子〉と〈闇の子〉は仲の悪い双子だった。しかし、双子は考えることが似ている。二人は自分たちの仲間を引きつれ、我々の世界で叛逆罪を犯した。そして、仲間と一緒にリンボウ……とはお前たちの世界の名前で、その世界に閉じ込められたのだ」
 今、呪架がいるこの〈地獄〉は〈光の子〉による再現なのだ。嘗て自分たちがリンボウに堕とされたように、自分に叛逆する者を閉じ込めるためにつくった牢獄。
 異形はさらに話を続ける。
「仲の悪い双子はリンボウに堕とされたのちに、そこを自分のものにしようと覇権を争い、互いに思い描く楽園を創造しようとした。果て無き戦いは人間誕生以前からはじまり、アトランティス、ムー、レムリアと楽園計画はすべて失敗に終わった。私も嘗ては楽園を夢見たが、楽園など所詮は夢幻なのだ」
 〈光の子〉と〈闇の子〉の姉妹喧嘩に自分の運命が巻き込まれたのだと感じ、呪架は激しい憤りを感じた。
 幼い頃に母と過したささやかな幸せが、実は大きな幸せだった。それを壊した者がいる。
 呪架はここへ来た目的を再確認した。
「エリスという人を探してこの世界に来た。知らないか?」
「この世界の奥に〈タルタロス〉という絶対牢獄の世界がある。その世界へと続く〈タルタロスの門〉を守っている新しい門番の名前が確か、エリス」
 礼も言わずに呪架は異形に背を向けて歩きはじめた。
 異形にも引き止める理由はない。
 呪架の後姿は〈地獄〉の奥へと消えた。

《8》

 呪架は死の大地を奥へ奥へと進み、人が通るには大きすぎる巨大な門が目に入った。
 〈タルタロスの門〉と呼ばれる門に間違いない。
 門の前には何者かがひとり立っていた。老人の話が正しければエリスのはずだ。
 呪架は足を止めた。
 ひと目で母だと感じた。向こうも呪架に気付いた様子だった。
「紫苑!」
 酷く掠れた声で呪架は本当の名を呼ばれた。
 呪架は声を出せなかった。
 感激の再開には程遠い悲惨な再開。
 母の姿は醜い異形の者へと変わり果ててしまっていたのだ。
 下半身はとぐろを巻く蛇であり、顔も瘴気によってただれてしまっている。けれど、呪架はエリスの魂を感じた。
 ここに来る前に出会った異形も同じだったのだ。元は別の姿かたちをしていた者が、この〈地獄〉の瘴気に犯され、躰を異形の者へと変わり果ててしまっていたのだ。
 呪架は辛い現実を見据えた。
「……お母さん」
「私が母だとわかるの!?」
「お母さんだって、わたしのことすぐにわかったでしょ。わたしだってお母さんのことわかる」
 ついに呪架は母との再会を果たしたのだ。約五年の月日、呪架にはもっと幾星霜の時に感じられた。
 エリスにとっては本当に幾星霜の時だった。
 人間が住む世界とは時間の流れが違うために、向こうでの一日がこちらでは一年だったのだ。それでもエリスは呪架のことを忘れずにいた。
 しかし、エリスにとって呪架はもう二度と会うはずのなかった我が子だった。
「なぜこんな世界に、来てしまったの?」
「お母さんを連れ戻すために決まってるじゃないか!」
「私はここを離れることができないの、ごめんなさい、紫苑」
「どうして!」
 心からの叫び。なんのためにここに来たのかわからない。引くわけにはいけなかった。
 呪架は母の腕を掴もうとした。だが、その手が振り払われた。母に拒否された呪架は愕然とした。
 昔と変わらぬ瞳でエリスは呪架を見つめた。
「私の話を聞きなさい」
「嫌だ!」
「聞きなさい!」
 叱られた呪架は黙るしかなかった。
 エリスは呪架から二歩、三歩、距離を置いてから話しはじめた。
「この場所に紫苑が来たということは、大よその事情は知っていると思うわ。この〈裁きの門〉を扱えるのはセーフィエルお母様の血を引く者だけ。けれど、私は門の開き方を知らず、門を管理していたお姉様はすでに〈闇の子〉の封印の犠牲になり、お母様は銀河追放されたあとだった。ここまでの話はわかるかしら?」
 呪架は無言で頷いた。それを見てから、エリスは話を続ける。
「日々増大する〈闇の子〉の力を封じるには私の力が必要だった。けれど門の開き方を知らない私はこの世界には入れない。私どころか、お姉様がいなくなってからは、〈裁きの門〉は一度も使われたことがなかった。それでも私はこの世界に来なければいけなかった。だから私はズィーベンの力を借りて、魂だけの状態でこの世界に来たの。魂だけならば門を通ることができたから」
「そんなこと俺には関係ない! お母さんに黄泉返って欲しいだけだ。〈光の子〉と〈闇の子〉の戦いなんて興味ない。世界が滅びようと関係ない」
 それだけが願い。罪のない人も呪架は殺してきた。他人の死など関係ない。母親さえ黄泉返ればそれでよかった。
「なんてことを言うの!」
「本当の気持ちを言っただけだよ」
「私はここを離れない。離れられない」
 エリスは自分の心臓から伸びている鎖を指差し、鎖が繋がれている場所に指先を移動させた。鎖は〈タルタロスの門〉に繋がれていたのだ。
「私の魂と直接繋がれているわ。だから私はここを離れられない」
「そんな鎖切ってやる!」
 呪架の手から放たれた妖糸が鎖を断ち切った。
 エリスは表情をゆがめた。
「なんてことをするの!」
「帰るんだ、帰ってその躰も全部治す!」
「この躰は私に与えられた罰。魂の状態でここに来た私の躰に邪気が巻きついて、醜い肉体を形成した。だから、これは私の罰なのよ」
「お母さんはなにも悪いことをしてない。だから罰なんて受ける必要なんてない」
「愁斗との間にあなたと慧夢を生んでしまったことが罪なのよ」
「俺が産まれて来なければよかったのか!」
「違うわ、あなたに罪はない」
「お母さんは罪なら、俺はなんなんだ、クソッ!」
 呪架の手から妖糸が放たれ、エリスの躰を強く拘束した。
「なにをするの紫苑!?」
「無理やりにでも連れて行く」
 だが、呪架は外に出る方法を知らない。この場所から出られるのはセーフィエルの一族のみ。呪架もそうだが、やり方を知らなかった。
 呪架が怒鳴る。
「どうやったら外に出られる!」
「私は知らないわ」
「嘘だ、セーフィエルの血を引く者だけが出れると聞いた」
「私は出る必要がないから、その方法を知る必要もなかった」
「クソッ!」
 だが、ここで諦めるわけにはいかない。
 呪架は〝向こう側〟を脱出した方法を行使する。
 傀儡士の妖糸は空間を断ち割る。
 呪架の放った妖糸が空間に傷をつくり、別世界への出入り口をつくった。
 しかし、その先が辿り着きたい世界とは限らない。
 エリスは悲しみに暮れた。
「やはり紫苑も傀儡士になっていたのね。運命は決して変えられない」
「お母さんをここから連れ出すことで運命を変えてやる!」
 呪架はエリスを引きずり、空間の裂け目に飛び込んだ。

《9》

 眼が眩むほどに歪む空間を抜けた先では、青々とした新鮮な空気が待っていた。
 緑の芝生が広がっている。
 目の前には背の高い時計塔も建っていた。
 文明のある世界。
 時計を見上げたエリスが呟く。
「メビウス時計台」
 それは帝都のエデン公園の敷地内にある時計塔の名。
 呪架とエリスは無事に生還したのだ。
 この場所は夢殿の目の鼻の先ほどの距離にある公園で、時計塔の付近は磁場だけでなく、空間や時間までもが歪んでいるために、一般は立ち入り禁止になっている区域だった。
 しかし、今は時計の針が止まり、怪奇現象もなにも起きていなかった。時計の針は〈箒星〉が堕ちたあの日から止まってしまっていたのだ。
 呪架はエリスに巻きつけてあった妖糸を解いた。
「行こう」
 エリスは無言だった。自分はさらに大きな罪を犯してしまった。取り返しのつかない行為かもしれない。エリスの心は重かった。
 呪架とエリスは人の気配を感じて、顔をそちらに向けた。
 芝生を踏みしめて歩いて来る小柄な少年の姿――慧夢。
「なにか予感がしたんだ。まさかここで会えるとは思ってなかったケド」
 エリスにはそれが息子の慧夢であるとすぐにわかったが、慧夢はそこにいる異形が母だとは気付いていないようだ。
 何者かわからないが、慧夢はエリスになにかを感じていた。けれど、今はそんなことよりも呪架の相手をする方が先決だ。
 戦いの合図は同時に放たれた妖糸だった。
 呪架と慧夢の妖糸が宙でぶつかり、煌きながら砕け散った。
 楽しいそうに慧夢が艶笑する。
「強くなったみたいだね」
「腐った世界を滅ぼすために」
 狂い腐っているのは自分ではなく、世界だと呪架は思った。だから、帝都の犬になど負けられなかった。それが双子の兄だとしても……。
 二人が互いを殺す気で戦っていることを知り、エリスは悲痛な叫びをあげる。
「血の繋がった双子がどうして争わなければいけないの!」
 この声に慧夢が耳を向けた。
「ボクたちが双子だと知っているのか?」
 ここでエリスは自分が母だとは名乗れなかった。今の自分の姿は醜い怪物だ。この姿のままでは母だとは名乗りたくなかったのだ。
 エリスに気を取られている慧夢に呪架が仕掛けた。
 右手から同時に三本の妖糸を放つ。
 慧夢の左手からも三本の妖糸が同時に放たれ、呪架の攻撃を相殺した。
「スゴイね、いつから三本放てるようになったんだい?」
 慧夢は心躍る気分だった。呪架の実力が確実に自分に近づいていると知ったのだ。
 最初に二人が出会ったとき、実力の差は雲泥だった。
 真物と我流の差が、埋まりつつある。
 しかし、呪架は大きな問題を抱えていた。
 胸を押さえ苦しそうな呪架の顔を見て、慧夢はすぐに悟った。
「キミの命も長くないな。ボクもキミと同じ道を通ったから、よく知ってるよ」
 呪架の躰は〈闇〉に侵されていた。
 よりによって慧夢との戦いの最中で痛みが全身を思うとは、こんなことでは勝てない。
 呪架は躰に鞭打って動こうとしたが、脚もいうことを聞かず、思わず地面に片膝をついてしまった。
「クソッ!」
 膝をつきながらも呪架は妖糸を振るった。
 だが、技に切れがない。
 いとも簡単に慧夢は呪架の妖糸を切り裂いた。
「その躰じゃボクに勝てないよ」
「なぜお前は同じ傀儡士なのに平気なんだ!」
「同じじゃないね。ボクは〈光〉、キミは〈闇〉だ。ボクも闇の傀儡士だったんだけどね、女帝どもに躰を造り変えられたんだ。だから命を存えた……変わりに傀儡士としての力もだいぶ衰えたケドね」
 全盛期の慧夢は今よりも強かったことになる。それは世界の脅威を意味していた。
 エリスは悲しんだ。愁斗の子供を生んではやはりいけなかったのだ。
 呪架はふらつきながら立ち上がった。
 復讐は叶わなくても、もうひとつの願いはあと少しで叶う。この戦いをどうしても切り抜ける必要があった。
 呪架が地面を蹴り上げ駆ける。
「ウアァァァッ!」
 獣のように叫びながら呪架は渾身の一撃を放つ。
 両手で同時に五本の妖糸を繰り出すことに成功した。
 だが、慧夢には及ばなかった。
 慧夢の手から〈悪魔十字〉が放たれ、六対五の妖糸が宙で激突した。
 残った一本が襲い来る。
 呪架の胸が黒い血を噴いた。
 妖糸が勢いを失っていなければ、呪架は完全に躰を割られてしまっていただろう。
 血の匂いを嗅いだ慧夢の気持ちは盛り上がる。
「ボクは血の匂いが大好きなんだ」
 今までの攻撃が遊びだったように、慧夢の手から神速で次々と妖糸が放たれた。
 呪架は必死に応戦するが、迫り来る妖糸を捌き切れない。
 腕が血を噴き、脚が血を噴き、首を軽く妖糸が撫でた。
 ついに呪架が両膝を地面についた。
 慧夢が残酷な笑みを浮かべる。
「もうお遊びにも飽きたよ」
 止めの一撃が放たれ、呪架は死を目前とした。
 刹那、呪架の前に立ちはだかる影。
 母の絶叫が呪架の耳を焼いた。
 エリスの躰を抱きかかえる呪架。
 傷は胸の奥まで達し、傷口から煌く粉が流れ出していた。
「お母さんになんてことを!」
 呪架の叫びに慧夢は耳を疑った。
「まさか、そんなはずない……この怪物がボクの……」
 唖然とする慧夢。
 狂気に駆られた呪架が慧夢に牙を剥ける。
「殺してやる!」
 まだ早い夜風が吹いた。
「エリスを助けるのが先じゃ!」
 呪架の前に立ちはだかるセーフィエル。
 それでも呪架はセーフィエルを押し倒して慧夢に飛び掛ろうとした。
 已む無くセーフィエルは呪架の躰を押し飛ばすと同時に、空間転送で別の場所に送ってしまった。
 次にセーフィエルは傷付いたエリスを抱きかかえ、慧夢の顔を見つめながら、その姿をエリスと共に消してしまった。
 残された慧夢は髪の毛を掻き毟った。
「ウォォォォォッ!」
 憤りから獣のような雄叫びをあげ、慧夢は両手を地面に付いて項垂れた。
 はじめて慧夢は人を傷つけたことを悔いたのだった。

《10》

 〈箒星〉に戻ったセーフィエルは放心状態の呪架を部屋から追い出し、ひとりでエリスのアニマを〈ジュエル〉化するために儀式をはじめた。
 二つの台の上にはエリスと傀儡アリスは寝かされている。
 セーフィエルはアリスを永遠にするために、傀儡アリスの顔を変えることなくエリスの〈ジュエル〉を埋め込む気でいた。
 部屋の外に出された呪架はドアのすぐ横に座り込んでいた。
 呪われている運命はどこまでいっても呪われているのだろうか?
 なぜこんなにも運命に翻弄されなければならないのか、呪架はこの世に生まれて来なければよかったと悔やんだ。
 永遠にも思える時間が過ぎていく。
 呪架の座るすぐ横で、ドアが開かれた。
 セーフィエルの顔を見るなり呪架は掴みかかった。
「どうなった!」
「〈ジュエル〉は埋め込んだ」
 成功したのか?
 しかし、セーフィエルの顔は死人にように暗かった。
「じゃが、傷はアニマまで達しておった……」
 セーフィエルの背後に隠れていた少女が無邪気な笑顔を覗かせた。
「ママ、この人だぁれ?」
 少女は不思議そうな顔で呪架を見て、セーフィエルの顔を見上げた。
 セーフィエルは少女の質問に答えようとしたが、声が重くて答えられなかった。
 なにがどうなっているのか呪架は理解できなかった。
「どうしたんだ、答えろセーフィエル!」
 セーフィエルは呪架に背を向けて少女の躰を抱きしめ、静かに口を開いた。
「失敗した。傷付いたアニマからエリスの想いが奪われたのじゃ。今のエリスは痴呆状態……まるで子供に返ってしまったようじゃ」
「そんな……」
 頭の中が真っ白になった。
 怒りも悲しみも、白く埋もれてしまった。
 呪架は腰が抜けたように膝から崩れ、肩を落として項垂れた。
 今まで自分がして来たことがすべて泡と消えた。
 最大の目標が失敗に終わった。
 蝕まれていく躰の中で、母が黄泉返りさえすれば、復讐は叶わなくても仕方ないと思っていた。
 だが、まだ死ぬわけにはいかなくなった。
「……クソッ!」
 怒りを吐き捨てる呪架に怯えてエリスの顔が強張った。
「ママ、このお兄ちゃん怖いよ」
 幼女のようになってしまったエリスは呪架のことを覚えていない。セーフィエルのことをママと呼び、幼い頃の記憶は断片的に覚えているのかもしれないが、完全に大人の記憶は失われているようだった。
 忘れた記憶は思い出すことができるだろう。
 しかし、失った記憶は取り戻せない。
 底知れぬ絶望感が呪架を襲う。
 そして、呪架は慧夢を心から憎み恨んだ。
 慧夢の攻撃によって傷付いたエリスのアニマ。
 復讐の相手は慧夢だった。
 慧夢だけは己の躰が朽ち果てる前に、八つ裂きにしてやらねば気が済まなかった。
「俺は行くぞ、絶対に復讐してやる」
 部屋を出て行く呪架にセーフィエルは背を向けたままだった。
「妾はもう疲れた」
 それは心の底から出た言葉だったに違いない。
 セーフィエルはエリスの復活に失敗し、妹のアリスも失ってしまっている。
 腕の中に残っているのはアリスの顔を持った幼女のエリス。
「妾はこのエリスを受け止め、もう離したりはしない」
 セーフィエルはエリスを強く強く抱きしめた。


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