第2章 傀儡士の血族

《1》

 大都市ホウジュ区は東京が死都と化したとき、それによって流れ込んで来た文化や企業が集まり、帝都でも三本の指に入る繁栄を見せている。
 ホウジュには帝都に三ヶ所あるリニアモーターカーが停まるギガステーションがあり、外からの観光客の足が途絶えることはない。繁栄と共に裏の顔も大きく成長し、裏路地に一歩踏み入れれば、アンダーグラウンドの巣窟になっていることも有名だ。
 高いビル郡が立ち並ぶホウジュ区でも、群を抜いて天を突いているのは、地上六六六メートルを誇る電波塔――帝都タワーだ。
 今このとき、帝都タワーが見下ろすホウジュ区の繁華街が、爆発の華をいくつも咲かせ、人々を恐怖の渦へと巻き込んでいた。
 硝煙の中に二人のシルエットが映った。
 重武装した機動警察からシルエットにバズーカ砲が向けられた。
 硝煙の中で声がする。
「コード012アクセス――〈エネルギーフィールド〉発動」
 シルエットに打ち込まれたバズーカが、さらに当たりを煙に包んだ瞬間、煙の中から六本のレーザーが機動警察に照射され、車両を真っ二つにし、防護服を着ていた男の首を刎ねた。
 アスファルトの焼けた臭い、肉の焼けた臭い、血の香と煙が辺りに充満した。
 煙の中から再び声がする。
「コードΖアクセス――〈ウィンド〉発動」
 二人のシルエットを中心に風が渦巻いて起こり、辺りの煙や臭いを掻き消してしまった。
 そして現れる凄惨な光景。
 朱に染まった大地から薫り立つ死の香。
 血の海に沈む肉塊からは、その原型を知ることはできないが、取り巻く怨念たちが風を唸らせ悲愴を訴えている。
 死者の叫びなどに耳を傾ける心は持ち合わせていない。
 朱の大地に佇む赤黒いローブを纏った死神。傍らには白いボディースーツに身を包んだ少女が寄り添っていた。
 呪架は自分たちを包囲している機動警察に向かって声をあげた。
「弱肉強食こそが世界の摂理だ。おまえたちじゃ俺の相手にならない、ワルキューレを呼べ!」
 なんと大胆不敵な行動だろうか。無謀というか、軽薄な行動だ。それでも帝都中枢に突っ込むよりはマシだ。
 傀儡エリスの試運転も兼ね、呪架は都市の真ん中で残虐非道な行動に打って出て、罪もない人々を次々と惨殺していった。帝都政府への宣戦布告の意味を込め、ワルキューレをおびき出すために――。
 傀儡をつくる過程で、セーフィエルは呪架のつくる傀儡をただの傀儡ではなく、魔導兵器としての能力を与えていた。
 体内の半永久的な〈闇〉のエネルギーを使い、コード戦術という特殊な戦闘をする。
 今、エリスが着用しているボディースーツもコードで呼び出したものだ。
 白いボディースーツには、ところどころ紅い華が裂いている。特にその手に装着された嘴状の鉤爪は肉を喰らった跡が残っていた。
 もうすでに機動警察は呪架たちに幾度となく攻撃を仕掛け、今は睨み合いの状態に突入していた。
 機動警察は有事の際に都市部での武器使用が認められているが、それでも繁華街やビル街では賠償金の問題や、ビルの倒壊などによる二次災害も考慮され、強力な武器を使用することができない。現状では呪架に歯が立たない状態だった。
「まだ血の雨が足らないのか……」
 と、呪架は呟き、青空を見上げた。
 なにかを思いついた呪架は口元に邪悪な笑みを浮かべた。
「コード005アクセス――〈ウィング〉起動」
 呪架のコード認証に合わせて、エリスの背中から金色に輝く物体が飛び出した。それは骨だけの翼のようであった。
 金色に輝く〈ウィング〉は小さなフレアを放出し、エリスの躰をふわりと宙に浮かせた。
 天高く舞い上がるエリスの足首を掴み呪架も空を飛ぶ。
 敵が空に逃げると思った機動警察が、一斉射撃をしようとビーム銃を呪架たちに向ける。
 不敵な笑みを浮かべる呪架。
「コード012アクセス――〈エネルギーフィールド〉発動」
 呪架とエリスの躰を円形のバリアが包み込んだ。
 地上から逆さに雨が降るようにビームの猛攻が呪架たちを狙う。
 しかし、ビームは全て〈エネルギーフィールド〉の壁に阻まれ、呪架たちにダメージを与えることなく小さな爆発を起こすのみだった。
 ビームの雨が一瞬止んだ隙を狙って、呪架が〈エネルギーフィールド〉を解除してコードを唱える。
「コードΩアクセス――〈メギドフレイム〉一〇パーセント限定起動、昇華!」
 エリスの両手から堕とされた劫火が機動警察を呑み込み、金属車両は一瞬にして熔解し、人は跡形もなく灰として空を舞った。
 都市をも呑み込む勢いで紅蓮の炎を天高く燃え上がらせた。
 それはまさに旧約聖書にあるソドムとゴモラを焼き尽くした炎の光景。大天使ガブリエルに堕とされた火によって、悪徳の都市は焼き尽くされて浄化させる。
 呪架の想いも同じ。女帝の築き上げた愚かな世界を残らず潰したかった。
 炎の光が反射して、エリスの白いボディースーツを朱色に染める。真っ赤な夕焼けのように鮮やかで美しい。
 鉄筋の世界で炎は燃やすものをなくし、やがては虚しく消えてしまった。
 柔らかくなったアスファルトからは湯気が立ち昇っている。
 上空にいる呪架が地上を見下しながらコードを唱える。
「コードΙアクセス――〈ホワイトブレス〉発動」
 猛吹雪が地面を一瞬にして凍てつかせ、溶けていたアスファルトを凝固させた。
 エリスと共に呪架は地上に降りて辺りを見回した。
 スクランブル交差点だったこの場所にはなにも残っていない。全て灰と化して舞ってしまった。
 呪架は迫り来るプレッシャーを感じて空を見上げた。
 翼を生やした人がジェット機並みのスピードで飛んで来る。あのスピードで飛んでいるにも関わらず、風との衝突音がまったく聴こえない。空気抵抗を緩和しながら飛んでいるに違いない。
 羽毛が舞い、白い翼を携え、白い甲冑の戦乙女が地上に舞い降りた。
 手に持っているのは白銀のホーリースピア。
 翼を肉体の中にしまった戦乙女が軽く会釈をする。
「えっと、わたくしの名前はフュンフと申しますです。あの、その、それでですね、この辺りでトンチンカンな殺人鬼が大暴れしてると聞いて来たのですが、知りませんですか?」
「トンチンカンなのはおまえの方だろ」
 思わず呪架は吐き捨てた。そして、まさかと思いながら訊く。
「お前がワルキューレか?」
「そうです。えっと、わたくしはワルキューレですが、もしかして貴方様がワルキューレを呼べと馬鹿なことを言っていた殺人鬼さんで?」
「おまえみたいなのがワルキューレなんてがっかりだ。俺の相手にもならないな」
「そんなことありませんですよ。わたくしこれでも、ワルキューレの中で戦闘要員を務めさせてもらっておりますです」
 それは呪架にとって絶好の機会だった。このフュンフと戦うことにより、ワルキューレの戦闘レベルを知ることができる。
 ホーリースピアを構える様子もなく、フュンフは堂々と呪架に背を向けて道路の向こうを指差した。
「えっと、あの、機動警察の方には向こうの方まで下がっていただき、報道なども完全にシャットアウトしましたので、ここにいるのはわたくしと貴方様。つまりですね――」
 相手の話半ばで、背を向けているフュンフに呪架が妖糸を放った。
 輝線は確実にフュンフを捕らえたはずだった。
 妖糸はフュンフの残像を斬った。
 音もなく、風も立てず、フュンフが姿を消した。
 気配がしたのは呪架の真後ろ。
「敵を背中から攻撃するなんて卑怯ですよ」
 すぐに声に反応して呪架が後ろを振り向くと、確かにそこにはフュンフの姿があった。
「いつの間に俺の後ろに……まるでセーフィエルみたいだ」
 相手が呟く名をフュンフは聞き逃さなかった。
 眉を寄せてフュンフは呪架に尋ねる。
「夜魔の魔女セーフィエルをご存知ですか?」
「知ってたらどうする?」
「帝都政府はセーフィエルの行方を追っておりまして、それがなんていうか、簡単にいうと見つからないという感じで困っておりますです」
「教えてやる義理はない」
 それに呪架は消えたセーフィエルの居所を知らなかった。
「そんなことおっしゃらずに。ではこんな話と交換ということで、わたくしはセーフィエルが開発した亜音速移動装置の使い手でして、ワルキューレの中でもこれを使いこなせるのはわたくしだけなんですよ。ちょっと自慢です」
 それが呪架の前から姿を消し、真後ろの現れたトリックだ。
 呪架は無言でフュンフを見つめていた。どうも調子が乱され、戦いづらい相手だ。可笑しな日本語は耳について離れない。
「もうおしゃべりはたくさんだ。殺して口を開けなくしてやる」
 宣言どおり呪架はフュンフを殺しに掛かった。
 エリスの嘴状の鉤爪が大きく口を開き、中から魔弾を撃ち放った。
 迫る魔弾をホーリースピアで跳ね返したフュンフに呪架の妖糸が迫っていた。
 輝線はまたもや残像を斬った。
 フュンフの蹴りが呪架の背中を襲い、地面に両手を付いてしまった呪架の首根っこに、鋭い槍の先端が突きつけられた。
「クソッ!」
 背中を足の裏で押さえられ、首と刃先は数センチの距離しかなく、呪架は蛙のように地面に這いつくばって動くことができなかった。
 だが、呪架にはまだエリスがいる。
「行けエリス!」
 エリスの放った魔弾が真横から迫り、フュンフは呪架の背中を踏み台にジャンプをして躱した。
「危なかったです。えっと、あの、わたくし先ほど亜音速装置の使い手みたいな大そうなことを言いましたけど、実はセーフィエルほど上手に使うことができず、咄嗟に亜音速に入ることができない上に、物凄くゼーハーゼーハー息を切らせてしまうのです」
「自分の弱点を言うなんて馬鹿か」
 瞬時に立ち上がった呪架は毒を吐いた。
 二人の敵を前にフュンフはニッコリ笑った。
「絶対に勝てるから良いのですよ」
 その口調の変化に呪架は気づいただろうか?
 戦いはこれからだった。

《2》

 女帝とズィーベンは円卓のある会議室で、モニターに映った死闘を見守っていた。
 戦っているのはフュンフと呪架とエリス。羽虫型の超小型カメラからの映像だ。
 フュンフには呪架を生け捕りにするように命じ、戦いの最中もできるだけ多くの情報を聞き出すよう指示していた。
 セーフィエルの名前が出た以上、ただで殺すわけにはいかなかった。それに加え、戦いの最中に呪架が呼んだ『エリス』の名。セーフィエルの名前が挙がっていることから、エリスが〝あのエリス〟である可能性は高い。
 映像に映る呪架の戦いぶりにズィーベンは目を見張っていた。
「やはりこの子供は傀儡士でございましょうか?」
「たぶんね」
「では何者なのでございましょうか?」
「何者なんだろねー。そこら辺をフュンフに質問させてみてよ」
 この会議室の音声はすでにイヤホンを通してフュンフの耳に入っている。
 画面の向こう側の世界で、フュンフはエリスの鉤爪をホーリースピアで受け止めながら、余裕の質問を呪架に投げかけた。
《傀儡士とお見受けいたしましたが、貴方様は何者ですか?》
《俺のお母さんを、おまえらが奪った。こう言えばわかるか?》
 スピーカーを通して二人のやり取り聞いたズィーベンは深く息を吐いた。
「やはりあのときの子……エリスの子供とわたくしは確信いたしました」
「まっさかー、だって君の報告じゃエリスの子供は別の空間に引きずりこまれたって」
 そう女帝が報告を受けたのは一〇年ほど前のことだった。
 複雑な顔をするズィーベンはフュンフに命じる。
「エリスが自らの意志で魂を捧げたこと、ノインのことも含めてその子に話してあげなさい」
 そして、ズィーベンと女帝の意識はモニターの映像に注がれた。
 苦しそうに息を切らす呪架の様子を見ながら、フュンフはホーリースピアを地面に下ろし、戦う意志がないことを相手に伝えて動きを止めた。
「エリスのことをお話するので、貴方様も戦う手をお止くださいです」
 母の名を出されては、呪架は動きを止めないわけにいかなかった。それが罠だとしてもだ。
「どんな話だ?」
「貴方様はエリスの子供ではありませんですか?」
「そうだ、お母さんはお前らに殺されたんだ」
「ズィーベンが察した通りでしたか……。エリスは本人の同意の元に我々にアニマを差し出したのです」
「そんなの嘘だッ!」
 唾を飛ばしながら呪架は怒号した。
 フュンフはズィーベンに命じられたとおりに語りはじめる。
「貴方様の祖母であるシオンは我々の間ではノインと呼ばれておりましたです。ノインはワルキューレでしたが、蘭魔と駆け落ちの末に逃亡し、それにより世界を危機に晒したのです」
 そんな話すら呪架は知らなかった。まさか祖母がワルキューレの一員だったなんて、信じられない。
「世界を危機に晒すなんて、そんなことあるわけないじゃないか!」
「ノインはセーフィエルの末裔であり、あの一族の祖は〈闇の子〉の末裔でもありますです。〈闇の子〉とはわたくしたちが戦わねばならない相手なのです。そして、〈闇の子〉の血を引きながら我々に協力したノインは、〈闇の子〉と戦う大きな武器だったのです。そして、シオンは蘭魔と駆け落ちしたがために殺されたのです」
「誰に?」
「D∴C∴というテロリスト集団に蘭魔が狙われており、シオンもその巻き添えになったのです。この世で死んだノインのアニマは女帝の命令で、〈闇の子〉の封印強化の任務を責めとして受けさせられました……」
 それゆえに、ワルキューレのナンバー〝9〟は永久欠番とされた。
 苦悩に眉を顰めながらフュンフは話を続ける。
「のちに蘭魔はD∴C∴を壊滅にまで追い込み、最終的にはD∴C∴を乗っ取ったのです。その後の詳しい経由はわかりませんが、蘭魔は以前のD∴C∴がそうであったように、帝都政府に牙を剥きはじめましたのです。しかし、新生D∴C∴も何者かに壊滅させられ、蘭魔はおそらく死亡したと思われますです。そして、蘭魔には子供がいたのです」
 呪架の父――愁斗。その顔を呪架は知らない。呪架が生まれてすぐに愁斗は姿を消し、呪架は母の手ひとつで育てられた。だから、呪架にとって母はすべてだった。
 そして、フュンフはエリスの話をはじめる。
「エリスはノインの年の離れた妹です。その妹がこともあろうに蘭魔の子供、つまり蘭魔とノインの子供との間に子供を授かったのですよ。これを波乱といわずなんというのです?」
「祖父がどんな人だったか俺は知らない。だからって、お母さんやお父さんや俺にだってなんの罪もないだろ」
「いいえ、蘭魔は帝都政府を揺るがす敵です。罪の子供は罪。セーフィエルが銀河追放されたのも、元はといえばノインと蘭魔が駆け落ちしたのがはじまりです。エリスのしたことは大罪であり、だから女帝はエリスに罰を与えたのです」
「だから俺のお母さんは殺されたのか?」
「殺したのではありません。封印され、ノインという楔を巻かれても力を増幅させ続ける〈闇の子〉を食い止めるために、エリスは新たな人柱となったのです。それにエリスは自ら同意したのですよ」
「そんなの嘘だーッ!」
 怒りの任せて放った呪架の妖糸がフュンフの甲冑を抉る。甲冑の胸元が見事に裂かれたが、妖糸は皮膚までには到達しなかった。
 ため息をついたフュンフがホーリースピアを構える。
「貴方様を捕らえろと女帝に命令されてますですが、無傷とは命令されていませんです」
「返り討ちにしてやる!」
 呪架が妖糸を放ち、エリスが空から魔弾を撃つ。
 妖糸と魔弾は残像となったフュンフを抜けると思われたが、残像は妖糸をホーリースピアで弾き、〝もうひとつ〟の残像が魔弾を切り裂いた。
 呪架は眼を見張って動きを止めた。その瞳に映るフュンフの残像は五人。
 五人のフュンフはそれぞれに別の構えをしている。ただの残像ではなさそうだ。
「セーフィエルが開発したこの装置を使いこなせるのも、ワルキューレではわたくしただひとりです」
 五人に分裂したままでは亜音速に入れないのか、その動きは眼で捉えられる速さだが、五人同時に別々の動きをして向かって来るのは脅威。
 呪架を左右から挟み撃ちにする二人のフュンフ。エリスに襲い掛かる残り三人のフュンフ。
 五対二の戦いが繰り広げられる。
 両手から妖糸を放つ呪架はギリギリの戦いを強いられ、疎かになるエリスの操縦が仇となった。
 エリスの片腕が斬り飛ばされて、赤いオイルを撒き散らしながら腕が宙を舞った。武器を装着していた腕だ。
 自分の身を顧みず呪架がエリスを助けようと妖糸を放つ。
 それがまた仇となって、呪架は間近にいたフュンフの一撃を躱わし切れず、赤黒いローブに穴が開いた。けれど、幸いなことにローブは目隠しの役目も果たし、中のいる呪架への狙いが定まりづらい。ローブに穴が開いたが、呪架は辛うじて無傷だった。
 しかし、ローブを突き抜かれたことにより呪架に一瞬の隙が生まれ、五人のフュンフが一斉に呪架に襲い掛かって来た。
 呪架が後頭部をホーリースピアの柄で強打され、前のめりにバランスを崩したところを二人のフュンフに羽交い絞めにされてしまった。
 動きを封じられた呪架だが、指先さえ動かせれば勝機はある。だが、フュンフは甘くない。
 すでに手も掴まれ、その手には二人のフュンフが刃先を向けている。
 残りひとりのフュンフは呪架の前に立ち、切っ先を呪架の腹に突きつけた。
「貴方様の負けでございますです」
「コード009アクセス――〈イリュージョン〉起動」
 エリスの躰が霞み、フュンフが予想していなかった事態が起きた。
 なんとエリスもまた人数を増やしたのだ。その数はフュンフに及ばず二人だが、フュンフを驚かせるには十分だった。
「まさか、そのアンドロイドはセーフィエルが手を加え――ッ!」
 油断していたしていたのか、五人のフュンフは動きを封じられたように出遅れた。
 相手の隙を衝いて呪架は自分を拘束していた二人のフュンフに肘鉄を喰らわせ、素早くの場から逃げてエリスを操る。
「コード006アクセス――〈ブリリアント〉召喚、照射!」
 光り輝く六個の球体がエリスの周りに飛び交い、二人のエリス合わせて一二個の球体からレーザー発射された。
 レーザーはフュンフたちを貫通し、次々とフュンフの幻影が掻き消えた。
 最後に残ったフュンフは甲冑を所々焼き切られ、片腕はホーリーロッドを握り締めながら、残骸のように地面に堕ちていた。
 切断面は焼かれているとはいえ出血量が少ない。それどころか、肉が固まり傷口を塞いでいる。
「ええっと、こんな大怪我を負わされたのは前回の聖戦のとき以来です」
「おまえのおしゃべりも終わりにしてやる」
 呪架の手から妖糸が放たれる。
 フュンフは動かなかった。
 口は悲鳴もあげず、眼を剥いた生首が宙を舞い、低い音を響かせながら地面に落下した。
 頭部を失ったフュンフの躰が地面に倒れ、首元から一気に噴出した血が地面を朱に染める。
 呪架は生首の髪を鷲掴みにして、フュンフの顔を自分に向けた。
 すると、驚くべきことに生首のはずのフュンフが口を聞いたのだ。
「貴方だけの力で――」
 なにかを言いかけてフュンフは静かに眼を閉じた。
 呪架は勝利の証として生首を天高く掲げて叫ぶ。
「帝都のクソども、俺はワルキューレを倒したぞ。掛かって来やがれ女帝ども!」
 その映像は羽虫型カメラを通して女帝の元に届いていた。
 モニター越しに凄惨な光景を目の当たりにしながら、女帝は落ち着いた物腰で対応した。
「ゼクスに至急連絡を、〈スリープ〉状態に入ったフュンフの脳を回収して、すぐさま生成装置に入れるように」
 傍らに立っていたズィーベンはどこかに連絡を取り終えると、再びモニターに眼を向けた。
「フュンフが油断していたとは思えません」
「あのときフュンフはまるで誰かに動きを封じられたみたいだったよね」
 女帝もズィーベンも不可解なフュンフの敗北に気づいていた。
 〝何者〟かの介入があるような気がするのだ。
 しかし、ズィーベンはこうも考える。
「例えあの子供ひとりの力で勝ったのではないにしろ、魔人蘭魔とセーフィエルの血を引くあの子供を見くびってはいけません」
 ズィーベンは過去に呪架と遭遇していた。
 エリスのアニマを〈裁きの門〉に送り込む勅令を受けとき、ズィーベンはエリスを一時的に殺すところを呪架に目撃されていたのだ。
 そのとき、呪架は〈闇〉の力を発動させ、ズィーベンに牙を剥けて傷を負わせた。
 が、幼く未熟な呪架は〈闇〉を操りきれずに、ズィーベンの目の前で〝向こう側〟に連れ去られたのだった。
 白い翼を生やすズィーベンの右半身は〝ホーリー〟、黒い翼を生やす左半身は〝ダーク〟。その〝ホーリー〟である右手にはいつも白い手袋をしている。手袋の下には呪架にやられた〈闇〉が巻き付いたままなのである。
 〝ホーリー〟で浄化しようとしても、〝ダーク〟で呑み込もうとしても、ズィーベンの右手の傷痕を消えなかった。
 考え込んでいた女帝が結界師であるズィーベンに命令を下す。
「眼には眼を、歯には歯を、傀儡士には傀儡士を、〝メシア〟クンを出動させるよ」
「恐れながら申し上げます。それは危険すぎます」
「枷は強めたんでしょう?」
「我々に逆らえば〝メシア〟は死にます」
「君の結界師としての実力はアタシとアタシの片割れが身に沁みて知ってる。君が本気で〝メシア〟に枷をかけたなら、〝メシア〟は絶対服従するしかないさ」
「承知いたしました。〝メシア〟を覚醒めさせましょう」
 コードネーム〝メシア〟。
 光の傀儡士――慧夢が呪架と邂逅する時は近い。

《3》

 ビル街を縫うように飛ぶ軍事用ヘリコプター。
 〈イリュージョン〉を解除しているエリスを従える呪架は上空を見上げた。
 ヘリコプターがスクランブル交差点に真っ直ぐ降りて来る。
 地上から一〇メートルのところで、ヘリの中から何者かが飛び降りた。ロープも梯子もなにもないが、まるで糸を伝って降りて来るようであった。
 その少年は半裸の躰に拘束具を着せられ、首輪に付けられた宝石が不気味な光を放って点滅していた。
 呪架は目の前に現れた少年をあざ笑う。
「ガキが俺になんの用だ?」
 少年は子供とは思えぬ艶やかな笑みを浮かべた。
「ボクに向かってガキとは失礼な奴め。こう見えてもだいたい二〇年以上は生きてるんだから」
 この少年の見た目は呪架よりも若く、小学生高学年程度にしか見えない。
 呪架は表情にも態度にも表さなかったが、この少年をひと目見たときから、なにか運命的なものを感じていた。
 そして、少年も同じく感じていた。
「あははは、そうか、そうだったんだね。キミか、ボクのことを感じさせてた奴は。心の底からウズウズして堪らないよ」
 自分の躰を抱きしめる少年は身悶えていた。
「M奴隷の変体め」
 吐き捨てる呪架に少年はすぐさま反論する。
「勘違いしないでくれよ。この拘束具は女帝どもの趣味さ」
「女帝の犬か」
「飼い殺された思考は持ち合わせてないよ。でなきゃ、こんな拘束具を着せられてはずがない」
「ワルキューレよりも強いか?」
「強いね」
「なら殺し甲斐がある」
 この戦い――呪架が先に仕掛けた。
 煌く妖糸が宙を奔り、少年の背後に控えていたエリスが召喚した〈ソード〉で斬りかかる。
 仕掛けたはずの呪架が眼を剥いた。
 優雅に舞う少年の両手から輝線が放たれ、呪架の妖糸を斬り、〈ソード〉を持つエリスの手首を落とした。
 両手を失ったエリスは立ち竦み、少年の技を見た呪架も動きを止めた。
「まさか……傀儡士か?」
「そうだよ。キミもそうらしいけど、名前は?」
「呪架」
「ボクはコードネーム〝メシア〟……親からもらった名前は慧夢」
 その名を聞いた呪架は思わず驚愕を顔に表してしまった。その表情を見取って慧夢はニヤリと笑う。
「キミの本当の名前は呪架ではなく、紫苑っていうじゃないの?」
「違う」
 呪架は即座に否定した。あまりにも早い否定に慧夢は満面の笑みを浮かべた。
「あははは、嘘付くの下手だなァ。でもビックリだよ、キミが傀儡士としてボクの前に現れるなんてね。ボクは父さんから傀儡士の技を叩き込まれたけケド、キミはどうやって学んだんだい?」
「……そんなはずない」
 呪架は否定した。己の頭に過ぎった思考への否定。あまりにもそれはありえないことだったからだ。
 それなのに慧夢は次々と呪架の思考を乱す。
「ボクは父さんからキミのことや母さんのこと、他にも色々と聞かされたけど、キミはきっとほとんど聞かされてないと思うよ、だってねそれが母さんの願いだったから」
「お前が俺の兄のはずがない!」
「あははは、やっぱりそうだ、逢えて嬉しいよ紫苑」
「紫苑じゃない、呪架だ!」
「父さんはね、お婆ちゃんのことを忘れられないらしくてね、お婆ちゃんの名前と同じ名前をキミに付けたんだよ、知ってたかい?」
 慧夢がいうことがすべて真実だと呪架は確信していた。
 母のエリスは愁斗と結ばれ双子を生んでいたのだ。名前は慧夢と紫苑。
 生まれて間もない双子は引き離され、慧夢は父に引き取られ、紫苑は母に引き取られた。
 呪架は双子の兄がいることをエリスから聞いていた。けれど、なぜ愁斗が生まれて間もない慧夢を連れて、姿を消してしまったのかまでは聞かされていなかった。
 唯一、聞かされていたのは愁斗が傀儡士だったということだけ。
 呪架は父の顔も知らず、兄の顔も知らずに育った。
 それが今、こんな形で出逢うとは、なんと呪われた運命なのだろうか。
 呪架は認めない。突きつけられた現実を認めようとしなかった。
「俺はおまえのことなんて知らない。紫苑なんて名前も知らない。俺は……呪架だ!」
「ボクの〝双子の妹〟じゃなかって感じたケド、他人なら容赦しないよ」
 呪われた歯車を止めることはできなかった。
 慧夢の指先から放たれた煌きは美しく残酷に呪架の首を狙う。双子だとしても、その技に迷いはない。
 己の信念に真実を見出すため、呪架の指先からも煌きが放たれる。
 互いの放った煌きは空中で衝突し、漆黒と白銀の粉となって大気を舞った。
 すかさず呪架がコードを唱える。
「〈ブリリアント〉照射!」
 輝く球体が放った六本のレーザーが慧夢を襲う。
 慧夢は軽やかに地面を蹴り、宙で回転を決めながら華麗にレーザーを躱わす。
 アスファルトを焦がす臭いが消える前に、呪架は再び〈ブリリアント〉で慧夢を狙う。
「〈ブリリアント〉照射!」
 ――が、なにも起きない。
「どうした!?」
 なにが起きたのか呪架にはわからなかった。
 半永久的に傀儡を動かすことのできる〈闇〉のエネルギー。だが、それはコードを使用しなかった場合。強力な武器コードや魔導コードを使用することにより、傀儡エリスの〈闇〉エネルギーは底を付いてしまったのだ。
 それを知らない呪架は苛立ちを覚えて闇雲に慧夢へ攻撃を仕掛ける。
「クソッ!」
 呪架の両手から放たれた妖糸は闇色を孕み、風が叫び声をあげて泣いた。
「キミの技は傀儡士としては三流だね」
 慧夢の放った妖糸が呪架の妖糸を軽くあしらい、相手の攻撃を防いだ慧夢は躰の向きを変えて必殺を放つ。
 六本の妖糸が慧夢の手から同時に放たれ十字を切る。蘭魔秘伝〈悪魔十字〉を慧夢は会得していたのだ。
 〈悪魔十字〉を放たれたのはエリス。
 すぐに呪架はエリスを避けさせようとするが間に合いそうもない。
 刹那、〈悪魔十字〉が細切れに切断され、呪架と慧夢は思わぬ怪異に眼を剥いた。
 破壊されかけたエリスの前に現れた紅い美影身。
 呪架と慧夢の位置からは紅い後姿しか見えず、鮮やかな紅い影だけが眼に焼きついた。
 そして、空間が紅く渦巻き、謎の影はエリスを抱きかかえ、渦の中へと姿を消したのだった。
 なにが起きたのか呪架は理解できなかった。
「……なにが起きた?」
 慧夢も理解しがたい現象であったが、彼の方が気持ちの切り替えが早かった。
「あははは、まあいいじゃないか。これで一対一の決闘だよ。可憐な血の薔薇を咲かせよう!」
 エリスを失われた呪架に残るは、自らが繰り出す技。
「俺は冥府魔道に生きると決めた。たとえ〈闇〉に躰を犯されようとも!」
 呪架の放った輝線が空間を裂き、闇色の傷が風を吸い込みながら広がっていく。
 闇色の裂け目の〝向こう側〟から、甲高い悲鳴が聴こえる。号泣する声が聴こえる。轟々と呻く声が聴こえる。どれも惨苦に満ち溢れている。
 それが〈闇〉だと、慧夢はもちろん熟知していた。
「キミが〈闇〉を使うのなら、ボクは雌狐たちに造り変えられたこの躰で〈光〉を使うよ」
 慧夢の放った煌びやかな輝線が空間を裂き、傷は燦然と輝きならフルートの音色を風に奏でさせ、世界に柔らかな光と空気を吹き出した。
 光色の裂け目の〝向こう側〟から、笑い声が聴こえる。賛美歌が聴こえる。詩が聴こえる。息吹が聴こえる。どれも輝きに満ちている。
 呪架が叫ぶ。
「〈闇〉に喰われるがいい!」
 続いて慧夢が叫ぶ。
「美しく悶え逝け!」
 二つの裂け目からほぼ同時に飛び出した〈光〉と〈闇〉が激突する!
 強大な力のぶつかり合いで風が辺りを薙ぎ払い、呪架のローブが激しく暴れ、慧夢は両手を広げて風を心地よく浴びている。
 〈闇〉は〈光〉に押されていた。
 狂い叫ぶ〈闇〉を謳い舞う〈光〉が呑み込む。
 春の麗らかなせせらぎのように〈光〉が微笑んだ。
 〈闇〉への〈審判〉が下される。
 高らかな天のラッパがファンファーレを奏で、〈闇〉は完全に昇華されてしまった。
 爽やかな香りを残して〈光〉は還って行った。
「これが実力の差だよ」
 敗北した呪架の躰に巻き付けられえる慧夢の妖糸。肢体を巻き、胴を巻き、首を巻き、指の一本一本までを拘束した。それは普段、慧夢が帝都政府にされている仕打ちと同じ。
 全身の自由を奪われた呪架は、躰のバランスを取ることもできず、腹から地面に激突した。
 呪架の頭に押し付けられる慧夢の靴の裏。
 完全なる敗北。
「さようなら、愛しい紫苑」
 最後の止めを刺そうと慧夢が妖糸を放とうとした瞬間、いきなり慧夢は全身を激しく痙攣させ、苦痛に悶えながら地面の上でのた打ち回った。
「……ズィーベン……やめろ」
 喉の奥から慧夢は声を絞り出し、やっと痙攣が治まった。全身からは玉の汗を滲み出し、呼吸は酷く荒い。結界師ズィーベンがギミックを発動させ、慧夢の動きを強制的に制止させたのだ。
 息を荒立てながら立ち上がった慧夢が吐き捨てる。
「生きたままキミを捕らえろだとさ」
 そして、呪架は身動きひとつできないまま、迎えのヘリに乗せられて連れ去れたのだった。

《4》

 帝都の中でもっとも霊的磁場の強い場所が夢殿である。
 その敷地内に設けられた監獄。
 古墳のような形をした監獄の入り口を潜ると、地下への階段が伸びている。
 下った先にあるドーム状の部屋には、さらにドーム状のバリアが部屋の中心にあった。その中に捕らえられているのは呪架。
 全身を慧夢の妖糸で拘束されたまま、さらにアイマスクと口枷を嵌められ、最低限できる動作は床を転がることだった。
 入れられた当初は散々転がって暴れ廻ったが、今は動かずにただじっとしている。
 聴こえる音は自分の荒々しい呼吸のみ。憎しみや怒りなどの負の感情が沸き上がり、押さえられない気持ちが呼吸を荒立てていた。
 ここに来るまでに耳にした会話で、ここが帝都の中枢だということはわかっていた。それなのに呪架はなにもできない。
 復讐すべき相手がすぐそこにいるにも関わらず、自分はただ縛られ思考だけが先走りをする。
 呪架はくぐもった叫びをあげた。
 魔気が呪架の周りを暴れ狂って飛び交うが、その魔気もすぐに結界の力によって殺される。
 まずはこの場所からの脱出を考えねばならないが、そのチャンスの兆しすら見えない。
 アイマスクをされた呪架に見えるのは塗りつぶされた視界。希望は黒く塗りつぶされていた。
 ここを脱出したら、逃げることはせずに夢殿をぶっ壊すつもりで呪架はいる。そんな思いも、虚しさを感じる。
 ただ過ぎる時間は思考を巡らす時間になり、呪架は過去のことを回想していく。
 あのとき、呪架の目の前で起きた怪異。
 エリスはどこに消えた?
 あの紅い影は誰だ?
 帝都の仕掛けた罠か、それとも別の者の介入か?
 そして、双子の兄こと。
 あれが本当に兄とは信じられずにいた。
 ――なんで帝都になんか飼われてるんだ!
 心の中で呪架は叫んだ。
 兄は父に引き取られ、呪架は母に育てられた。父の顔も兄の顔も知らずに育ったが、呪架は母から多くの愛を注がれた。
 その生活を破壊したのは帝都政府だ。
 血反吐を幾度となく吐いて生き延びた日々。生きるために生きる日々。ただ生きることに必死だった。
 ただれた記憶を葬り去るためにも、呪架は復讐を成し遂げなくてはいけなかった。
 傀儡士としての業を磨き、ワルキューレの一人を倒したが、慧夢に敗北したことにより、己が有頂天になっていたこと知った。
 まだまだ強くならなければいけない。
 しかし、〈闇〉を極めようとすればするほど、五臓六腑が侵蝕されて犯されていくことも感じていた。
 それでも呪架は構わなかった。
 母を想い、呪架は改めて復讐を胸に刻んだ。

 黄昏で空が朱に染まる逢魔ヶ刻。
 周りを濠に囲まれた広大な夢殿の敷地全体は、普段から結界師の張った大結界で覆われている。帝都でもっとも侵入が困難な場所であり、中に入れたとしても精鋭の近衛兵やワルキューレが行く手を阻む。
 結界の盲点、〈ゆらめき〉を夜風が足音を忍ばせながら擦り抜け、難攻不落の夢殿に軽々しく侵入した。
 誰にも気づかれず、機械の眼すらも眩ませながら、霧のように夜風はセキュリティーを次々と突破していく。
 夢殿の敷地内にある庭園で夜風が月のような艶笑を浮かべた。
 夜魔の魔女セーフィエル。
 彼女がここまで簡単に夢殿へ侵入できた要因は〈ゆらめき〉以外にもあった。
 ワルキューレの永久欠番ノインの血は、元を辿ればセーフィエルのものだ。血族であるセーフィエルにセキュリティーが誤作動したのだ。
 そして、もっとも大きなの理由は、帝都で使われているテクノロジーのほとんどが、セーフィエルが基礎を築き上げた物なのだ。
 フィンフが戦いに用いた亜音速移動装置が良い例だ。
 断続的に亜音速を使用してセーフィエルは目的の場所へと急いだ。
 青々と茂る薫り立つ芝生。
 一面に広がった芝生の先に古墳のような土の山があった。
 その建造物の入り口は真鍮の扉で閉じられ、見えない力で固く封印されていた。
 しかし、この程度の封印などセーフィエルの手に掛かれば造作もない。
 セーフィエルの繊手が伸ばされると、扉の前で硝子が砕けるように破片が地に落ちた。
 開かれた扉を潜り、地下へと続く薄暗い階段を下りる。
 ドーム状の結界の中に捕らえられた呪架を確認し、セーフィエルはスリットから脚を伸ばして廻し蹴りを放った。
 蹴りを喰らって砕け散る結界。セーフィエルのブーツに結界を破壊する魔導具が仕込んであったのだ。
 呪架の傍らに膝をついてセーフィエルは囁く。
「助けに参ったぞ」
 アイマスクと口枷を外され、薄明かりの中で呪架はセーフィエルの顔を確認した。
「助けに来なくても俺ひとりでどうにかしてた」
「無駄口を叩くでない。早よう脱出するぞ」
「全身を糸で縛られてる切ってくれ」
 セーフィエルが呪架の躰を撫でると、妖糸は溶けて消えてしまった。
 やっと自由になれた呪架は、固まっていた躰を慣らそうと妖糸を放とうとした。
 が、妖糸が出ない。
 呪架の手に嵌められているバンドを見てセーフィエルが悟る。
「結界師の術が込められておるようじゃ。手に氣を溜めることができず、妖糸を練ることができないのじゃろう」
「クソッ!」
「妾でも呪解に時間が掛かりそうじゃな、後にするぞ」
「今すぐやれ!」
「敵がすぐそこまで迫っておる、後じゃ」
 駆け出してしまったセーフィエルの後を追って呪架も仕方なく外に向かった。
 傀儡術を封じられた傀儡士はただのひと同然。脱出は一筋縄ではいきそうもない。
 地下から地上に上がった二人を待ち受けていた一人の影。
 ワルキューレの最高責任者――アイン。
 頭数では二対一だが、呪架を連れているセーフィエルに分が悪いか?
 鞘から抜いたホーリーソードを天に掲げ、アインは宣言する。
「フュンフの敵は自分が討つ!」
 呪架の視線はアインではなく、その先の人影に向けられていた。もちろんセーフィエルもその人影に気付き、苦虫を噛んでため息を吐いた。
 光の傀儡士――慧夢。
「二対二だね」
 と、慧夢は言うが、不利なのは瞭然だ。
 セーフィエルは呪架を自分の背中に廻して、黄昏の空を眺めた。
「妾の時間はまだ来ぬのか」
 日が落ちるにつれて魔力を増すセーフィエル。夕方でも十分に力を発揮することは可能だが、この場所が夢殿の敷地内だということが枷となる。夢殿全体に張られた大結界が、セーフィエルの魔力を弱めているのだ。
 アインと慧夢を倒せるとセーフィエルは勝算を予見していた。
 しかし、問題は呪架を守りきれるかということである。
 四人は牽制し合いながらチャンスを窺う。
 この場に第五の気配がした。
 宙に現れた紅い渦巻きから這い出て来る紅い美影身。
 眼に焼きつく鮮やかな紅いインバネスを羽織った人物が立っている。その体型から長身の男だということは判断できるが、顔は白い仮面で隠されていて見ることはできない。
「私の名はダーク・シャドウ。〈闇の子〉の意志を具現化する者」
 人を魅惑する声音。
 その声を聴いた呪架は、精神界で出会った先祖に似ていると感じた。
 慧夢もダーク・シャドウに異様な雰囲気を感じ取り、セーフィエルは蘭魔の気配を感じたのだった。
 〈闇の子〉の意識を具現化すると語った時点で、ダーク・シャドウは帝都政府の敵と知れた。アインがダーク・シャドウを見る目は剃刀のように鋭い。
「〈闇の子〉に従う者を抹殺するのが自分の任務だ!」
 噛み付くアインを無機質な白い仮面が見ることはなく、ダーク・シャドウは呪架と慧夢を順番に見ていた。
「二人の傀儡士はなにも知らず渦中に投げ込まれた。だからこそ、私の話を聞いてもらいたい」
 諭すような口調になぜか呪架と慧夢は惹き付けられてしまった。言葉自体が魔力を持っている魅言葉。だが、アインには通用しない。
「この者は話など聞く必要はない!」
 大剣を振りかざしてアインがダーク・シャドウに飛び掛る。
 ダーク・シャドウの手から輝線が次々と雨のように放たれ、剣の舞を踊るアインの連撃が輝線を斬り落とす。
 呪架と慧夢は目を見張った。ダーク・シャドウの技は傀儡士のそれだ。そう、ダーク・シャドウも傀儡士だったのだ。
 片手だけでダーク・シャドウは同時に数本の妖糸を放っており、その技があればもう片手からも妖糸を放つことは容易いように思える。なのにダーク・シャドウは片手だけでアインの相手をしていた。
 妖糸と舞い踊るアインは神速の一撃でダーク・シャドウの胸を狙う。
 改心の一撃をダーク・シャドウは陽炎のように軽く躱した。
 余裕なのだ。
 ダーク・シャドウにとってアインとの戦いは、猫とじゃれ合っている程度のもの。両手で戦う必要すらないのだ。
 余裕のダーク・シャドウは妖糸でアインをあしらいながら語りはじめる。
「〈闇の子〉と〈光の子〉は双子であり、互いに地球の派遣を賭けて太古の昔から争いを続けている。今は前回の聖戦に敗北した〈闇の子〉が封じられてしまっているが、それも戦いの一幕でしかない。東京を死都に変えたあの聖戦も〈闇の子〉と〈光の子〉が戦いを繰り広げた結果だということを知る者は少ないだろう」
 太陽が燦然と輝くある年の夏――世界は変わった。
 突如として起きた聖戦の果てに東京は死都と化し、首都は東京から霊的磁場の強い京都へと移された。
 人智を超えた〝存在〟が繰り広げる戦いを見た人々は、その戦いの意味を理解できず、終戦後もなにが戦っていたのか、わからずじまいだった。
 戦いの最中、ある者は天使を見た、ある者は悪魔を見たと云い、終結のときに救世主が現れたという意見では一致が見られている。
 しかしながら、多く残された謎は謎のままであり、どちらの〝存在〟が勝利を治めたかすらわかっていない。真相を解き明かそうとする歴史学者は今も熱い激論を交している。
 この聖戦と呼ばれる戦いの終戦と同時期、関東には女帝と名乗る者が巨大都市を築いた――それが帝都エデンだ。
 女帝こそが聖戦の救世主だと云われるが、どちらに属していた〝存在〟なのか、それともまた別の〝存在〟なのか、女帝の周りには謎が取り巻いている。
 謎が多い指導者の下でも、都市は発展した。それは女帝の絶対的な力と、彼女がもたらした魔導のためだ。
 帝都エデンは世界各国に反対されながらも独立国家を名乗り、魔導の力がもたらした恩恵は科学との融合により、帝都エデンを発展させた。
 ダーク・シャドウは懐から一冊の本を取り出した。装丁のとても古そうな皮表紙の本だ。
「この夢殿のどこかに女帝しか知らない〈夢幻図書館〉があると聞いた。そこにある著者不明の黙示録。その本が世界に二冊あることをご存知かな?」
 その本には封印された歴史が記されていた。〈光の子〉と〈闇の子〉が繰り広げた全ての戦いが克明に記され、未来のことまでもが記されている。一種の預言書である。
 過去のことは完璧なまでに記されているが、未来のことになると断片的で矛盾も多い。
 ダーク・シャドウは話の核心に入る。
「世界には最終的な調和に向かうシナリオがある。しかし、途中の過程にはアドリブが含まれる。起きてしまった過去から、高確率で導き出される未来。それこそ〈大いなる意思〉」
 饒舌に語るダーク・シャドウを止めようとアインが剣を振るう。
「人間風情が世界の秘密をしゃべるな!」
「私はすでに人の域を越えている。ワルキューレなど足元にも及ばないことを知れ」
 ダーク・シャドウが妖糸で宙に奇怪な魔法陣を描く。
 真物の傀儡士のみが行なえる奥義召喚術。
 魔法陣の〝向こう側〟で世界を脅かす〈それ〉が咆哮した。
 大地が震え上がり、大気が一瞬にして氷結する。
 召喚を目の当たりにして各々が声を漏らす。
「何者ぞ?」
 と、セーフィエルがいぶかしみ、
「……やっぱりね」
 と、慧夢は艶笑し、
「…………」
 呪架は沈黙して、
「秋月蘭魔、生きていたのかッ!」
 最後にアインが叫んだ。
 〈それ〉が潜む魔法陣を従えるダーク・シャドウが呪架に顔を向ける。
「この世と〈裁きの門〉がもっともリンクしている場所は死都東京だ。おまえと私が求めているモノがそこにある。〈闇の子〉の仲間にならないか?」
 呪架はなにも答えず、ただじっと白い仮面を見てしまっていた。
 魔法陣の〝向こう側〟から血に飢えた野獣の遠吠えがいくつも聴こえた。
 呪架の前に立ちはだかったセーフィエルが答える。
「〈闇の子〉にも〈光の子〉にも呪架は渡さぬ」
 夜風がセーフィエルを取り巻いた。
「許せよ呪架!」
 セーフィエルの手が呪架の躰に触れた瞬間、歪む映像のように呪架の躰が揺れ動き、その姿は霞みのように消してしまった。
 呪架を消したセーフィエルが艶やかに微笑む。
「成功したか失敗したかはわからぬ。呪架は空間転送させてもらった」
 呪架のいなくなったこの場所で、魔法陣が破滅を世界に解き放つ。

《5》

 ガムテープで補修された窓ガラスから朝日が差し込む。
 瞼の上を泳ぐ残像。
 荒い息を吸い込みながら呪架は目覚めた。
 呪架の掻いた汗が固いベッドに染み込んでいる。
 剥き出しのコンクリートに囲まれた壁や天井。モダンな雰囲気というより、薄汚い印象を受ける。
 躰に掛けられていたボロ布は誰の思いやりだろうか?
 とりあえず捕らえられたわけではなさそうだ。
 ここはいったいどこで、自分の身になにが起きたのか、呪架の記憶はあやふやだった。
 セーフィエルに魔法を掛けられ、どこか得体の知れない場所に飛ばされた。
 視界が歪み、躰の感覚は麻痺してしまい、原色の光が次々と襲って来た。
 躰が酷く重い。
 瞼を開けているのも辛いくらいだ。
 瞳を閉じた呪架の脳裏に響く声。
 どこかに行かなければならないような気がした。
「そうだ……死都に……」
 ダーク・シャドウが言っていたことが事実かはわからない。けれど、確たる情報がない限り、ひとつひとつ確かめていくしかない。
 呪架はベッドから起き上がろうとしたが、激しい痛みが躰の内側から滲み出して来る。躰中が擦り傷を負ったようなヒリヒリとした感覚もある。
 セーフィエルの空間転送は辛うじて成功したが、その代償として呪架は躰中に擦り傷と、内臓の損傷を受けていたのだ。
 天井を見つめていた呪架は人の気配を感じた。
 自分よりも年が下くらいのいたいけな少女が、ドアの間から顔を見せる。
「目覚めたみたいでよかった」
 と、少女は満面の笑みを浮かべた。
「丸一日も眠っていたから、心配しちゃって」
 いつから数えて丸一日なのだろうか?
「俺はなぜここにいる?」
「空から降って来たのをあたしがここに運んで来たの。あなたが落ちた場所がちょうどテントの上で、持ち主のオジサンがカンカンに怒っちゃって大変だったんだから」
「ここはどこだ?」
「ホウジュ区の〈ホーム〉」
 〈ホーム〉とは帝都の影を象徴しているスラム街の中でも、特に大きなスラム街のことを云う。
 こんなところで油を売っていられないと、咳き込みながら立ち上がろうとする呪架。それを少女が止めようとする。
「ダメだってムリしちゃ」
「うるさい」
 制止する少女の手を呪架が薙ぎ払おうとした瞬間、シーツから出した自分の腕を見て呪架は眼を剥いた。
「ウアァァァァッ!」
 呪架の絶叫が木霊した。
 腕がない。
 消失ではなく、自分の腕がないのだ。
 自分の腕があった場所には、昆虫のような脚が付いていたのだ。
 セーフィエルが行なった空間転送は、異世界を経由して物体を別の場所に転送する。呪架は異世界を通過する過程で、そこにいた生物と融合されてしまっていたのだ。
 しかも、異形と化した腕は利き腕。これでは妖糸も振るえまい。
「どうして、どうしてだ、クソッ!」
 震えながら発狂寸前の呪架の肩を抱こうと少女が手を伸ばす。
 その刹那だった。
 異形の鋭い爪が少女の顔を抉り、絶叫しながら少女は顔面を押さえて怯んだ。
 野獣のような叫びがあがり、異形の爪が少女の心臓を貫く。
「クソッ!」
 怒りに震える異形の爪の先から、真っ赤な雫がボトボトと床に零れ堕ちた。
 惨殺された死骸を見下す呪架の瞳は狂気を孕んでいる。
 自分を救ってくれた少女を呪架は怒りに任せて殺したのだ。
 少女の絶叫を聞きつけて体躯の良い男が部屋に飛び込んで来た。
 男はそこにある悲惨な光景を目の当たりにして、我武者羅に呪架に飛び掛ろうとした。
 呪架はクツクツと嗤った。
 異形の腕がバネのように伸び、鋭い爪が男の首にめり込む。口から鮮血の泡を吹き出しながら、男は首を折られ死んだ。
 もう呪架の怒りは止められなかった。呪架は破壊の化身になろうとしていた。
 駆け出した呪架の前に次々と現れる人影。本能に任せた呪架は相手の顔も見ぬまま、血の華を蹴散らしながら暴れまわった。異形の腕で肉を抉り、左手から妖糸の嵐を放つ。
 自分が廃ビルから出たことも気付かず、呪架は走り続けて邪魔なものはすべて排除した。それが人だったか、物だったのかも判断できていない。
 簡易住宅やテントを倒壊させ、物言わせぬままホームレスを八つ裂きにした。
 呪架の通った道は朱に染まり、残酷な残骸だけが残った。
 ビルの間から覗く空が曇りはじめている。じめじめした湿気が立ち込め、土砂降りの雨が降りそうな気配がした。
 遠くから聴こえる雷光の音に合わせて、呪架が遠吠えをあげる。
 今、呪架の目を通して見える光景は幻の世界。
 断片的な記憶。
 自分がなにをしているのかすら呪架は気付いていない。
 銃声が鳴り響いた。
 〈ホーム〉の住人たちが呪架の銃口を向けている。
 銃弾の雨が呪架を貫かんとする。
 呪架は逃げた。
 銃弾から逃げたのではない。
 言い知れぬ恐怖から逃げ出した。
 その恐怖の原因はわからない。
 ただ、締め付けられるように胸が苦しい。
 乾いた銃声を背中で感じながら、呪架は〈ホーム〉から姿を消した。

《6》

 〈ホーム〉から逃げ出した呪架は人のいない街を彷徨い続けた。
 人の目を避けながら入り組んだ裏路地を抜ける。
 怒りは静まったが、冷静には程遠い。
 どのくらい胃に食べ物を入れていなかったのだろうか。餓えが呪架を襲う。
 ゴミ置き場が目に留まり、呪架はゴミ袋を破きながら鴉のように荒らし散らかすが、出てくるのは紙やプラスチックなどの分別されていないゴミ。
 ふと目を横に向けると、壁際を走る毛皮を纏った三〇センチほどの影。
 呪架の妖糸が屠る。
 獲物となったのは巨大な鼠。これでも帝都では小さい方だが――。
 鼠の皮を剥ぎ、首元に歯を立てて血を啜る。
 呪架は咽喉を動かしながら渇きを癒した。
 口についた血の一滴も無駄にしないように、唇についた血を艶やかに舐め廻す。
 そして、レストランで出される骨付き肉を頬張るように、鼠の生肉にがっついて頬いっぱいに詰め込んだ。
 常人であれば腹を壊したり、悪性の病気をしたりしそうなものだが、〝向こう側〟ではこういう食事が当たり前で通っていた。
 肉を喰らっていた呪架がその口と手を止め、曇天が都市を覆う空を見上げた。
 呪架の頬に落ちた雨粒。
 それが合図だったように土砂降りの雨が降ってきた。
 アスファルトを殴る巨大な雨粒。
 濡れたローブは重く呪架の躰に圧し掛かり、紅い雫がローブからボトボトと零れ堕ちる。
 呪架は食べることに飽きた肉を投げ捨て、ローブについていたフードを被って地面に座り込んだ。
 ビルの壁にもたれ掛かり、地面に付いた尻が水を吸って冷える。
 屋根のある場所に移動するのすら面倒だった。
 呪架の目に映る天は虚空。厚い雲に覆われていようと、大雨が降っていようと、空虚な虚空。現実の風景など無くしてしまった心には映らない。
 灰色の世界から次々と雨が堕ちて来る。
 帝都に降る汚れた雨ではなにも洗い流せない。
 憔悴しきっている瞳を下界に戻すと、傘を差してゴミ置き場にやって来る女性の姿をあった。
 身を隠すことすら今の呪架には面倒だった。
 まともな神経を持ち合わせていれば、こんな浮浪者のような呪架に近づかないだろう。
 しかし、この街に侵されている神経の持ち主だったら、こんなこともあるかも知れない。
 少し背を丸めてフードの奥にある呪架の瞳を覗き込む女性。
 二十代後半くらいの年齢で、化粧をすれば夜の街が似合いそうな女性だった。
 女性がなにかをしゃべっている。呪架には無音の世界で女性が口を動かしているように見えた。
 そして、女性が伸ばした手を呪架は無意識のうちの握っていたのだ。
 呪架は捨て猫のように拾われた。
 夢幻に囚われた呪架はふらふらとした足取りで歩いた。
 道を歩き、エレベーターに乗せられ、部屋の中に通されたような気がするが、すべて夢かもしれない。
 そして、熱いシャワーを顔に浴びて呪架は意識を取り戻した。
 あまりにも驚いたために、思わず声をあげそうになってしまった。
 現状を理解するのに時間を要してしまった。
 覚醒した頭を働かせて呪架はシャワールームを飛び出した。
 脱衣所でバスタオルを用意していた女性と目が合う。
 女性の瞳に映る一糸纏わない呪架の裸体。
 スレンダーな躰に小ぶりなヒップ、少し膨らんだ乳房が幼さを匂わせる。
 自分の秘密を知られた呪架は異形の腕を振り上げたが、それを左腕――人間の手が止めた。
 呪架は〝向こう側〟で女としての自分を捨て、男として今まで生きてきた。
 あのとき慧夢は言っていた。
 ――双子の妹。
 それは真実だったのだ。
 女性は持っていたバスタオルで呪架の躰を優しく拭いた。異形と化した腕を恐れることなく、母親が小さな子供の面倒を見るように、女性の瞳は呪架を慈しんでした。
「この腕はどうしたの?」
 と、女性に訊かれたが呪架は無言のままだった。
 〈ホーム〉で自分が犯した罪を思い出す呪架。半狂乱だったとはいえ、自分を救ってくれた少女まで殺してしまった。自分以外の者は信用できないが、あの〈ホーム〉の少女の瞳は純粋だった。その瞳が恐ろしい顔をして見開かれたのだ。
「いつから変わってしまったのか……」
 呪架は想いを無意識のうちに呟いてしまっていた。
 〈闇〉が躰を蝕むせいなのか、〝向こう側〟で生きるためだったのか、それともこれが自分の本性だったのか、呪架にはわからない。
 躰にバスタオルを巻かれた呪架は手を引かれた。
「こっちに来て」
 女性に誘われるまま、呪架は身を委ねた。
 洗面台の前で髪を梳かされ、ドライヤーの熱風が呪架の髪を撫でる。
 目を瞑った呪架の瞼に映し出される過去の記憶。
 幼い頃の母との思い出。
 今と同じようにドライヤーをかけられながら、髪を梳かしてもらっていた。あの頃は髪の毛が腰まであって、いつも母に梳かしてもらっていたのだ。
 目を開けると母の幻は消えてしまったが、鏡越しに見える女性の微笑む姿。
 なぜか呪架は胸が込み上げ、熱い涙が頬を伝った。
 女性の指先が呪架の涙を拭った。
「どうしたの、大丈夫?」
 優しい声をかけられて、もう涙は止まらなかった。
 一生分の涙を過去に流し尽くしてしまったと思っていたのに……。
 揺れる呪架の感情。
 切れる緊張の糸。
 声を出して慟哭する呪架は女性に抱きつき、肩を上下に震わせて温もりを感じた。
「お母さんが殺された日から、ずっと独りで生きてきたのに……」
 不覚にも呪架は心の弱さを見せてしまった。
 それを優しく包み込むように、女性は呪架の耳元で囁く。
「心配いらないわ」
 誘惑されるような声だった。
 女性はそのまま言葉を続ける。
「〈闇の子〉の仲間になれば、不安もなにもなくなる。あなたの望むモノも手に入るかもしれない」
 ――悪魔の誘惑。
「誰だ、お前!?」
 驚いた呪架は女性の躰を突き飛ばした。
 心地よい夢が悪夢の変わった瞬間。
 女性が艶やかに微笑んだ。この女性が決してできない表情だ。中身が違う。
 それを証明するように、女性は聞き覚えのある声を発したのだ。
「私はお前が必用だ。仲間になれ……紫苑」
 呪架はすべてを察した。
 この女性はダーク・シャドウが操る傀儡なのだ!
 深い絶望が呪架の心を闇に閉ざす。
 裏切られた。
 やはり誰も信用してはいけない。
 感情の荒波が相手を問い詰める前に、呪架の手に妖糸を振るわせていた。
 眼を剥いて首を刎ねられた女性の生首が床に堕ちる。
 返り血を浴びた呪架のバスタオルが美しい鮮血に彩られた。
 首を堕とされた躰から流れ出る血。傀儡は生身の人間を操っていたのだ。
 ――いつから?
 もしかしたら、雨の中で呪架を拾ったときは、本人の人格があったかもしれない。
 髪の毛を梳いてくれたのは誰だ?
 注がれた優しさは誰だ?
 呪架を見つめる女性の瞳は嘘だったのか?
「クソッ、俺を弄んで楽しいかッ!」
 怒りの涙を流す呪架に生首が口を聞く。
「お前に優しくしてくれた女を殺すとは悪魔の所業だな」
「優しさなんて嘘だ、お前が操ってたんだろ!」
「この女の優しさは本物だった」
「嘘だーッ!」
 壮絶な絶望感が呪架の感情を乱す。
 女性の生首は笑い声を発してから言う。
「私の言うことが嘘かどうか、それは自分で見極めろ。今から私が言う情報についてもだ」
「…………」
「お前が求めているモノが魔導街のマルバス魔導病院にある」
「なにがあるんだ!」
 生首は答えなかった。もう物言わぬ死人と化してしまったのだ。
 ダーク・シャドウの罠なのか、それを悩む必用はなかった。罠だとしてもそれを逆に利用してやるつもりで呪架はいた。
 返り討ちにしてやる。
 呪架の心はさらに闇に堕ちていったのだった。


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