偽りの春 弐章
弐章
「あんたが新しい子だね?」
 色香の薫るお紺の瞳で見つめられ、娘は躰を竦ませた、すぐにきつい眼でお紺の瞳を見た。
「お千代と申します」
「どこかで見た顔だねぇ?」
 切れ長の眼をさらに細くしてお紺はお千代の顔を見つめた。親分も同じようにお千代を見つめたが、すぐに首を横に振った。
「知らん。うちは入れ替わりが激しいからな、似たような顔もいたかもしれん」
「そうかねぇ」
 お紺は首を傾げながら、なにか納得のいかない顔をしていた。
「まあいいさ、付いておいで」
 お紺は流し目でお千代を見て、そそくさと履物を履いて外に出て行ってしまった。
 慌ててお千代は道に出たが、すでにお紺の姿はなかった。
「なにしてんだい、こっちだよ」
 声がした方向を振り向くと、壁と壁の間の細い道を歩くお紺の後ろ姿があった。
 細い道を抜けると急に大きな庭に出て、お紺は縁側に手をついて部屋の中を覗いた。
「弥吉、弥吉!」
 家の中に響くお紺の声。
 返事はすぐに返ってきた。
「へい、今すぐ!」
 部屋の奥からお千代と同じ年頃の若い男が顔を出した。
 男はお千代の顔を見て、すぐに眼を伏せた。お千代も男の顔を見たが、なにも言わず鋼のような顔をしている。
 お紺はお千代に向かって顎をしゃくった。
「新しい子だよ、いろいろと教えておやり」
「姐さん……部屋がどこもいっぱいで」
「それなら死んだ乱菊の部屋に――」
 死んだ娘の代わりにお千代に部屋を使えと言うかと思いきや、まったく違った。
「小枝を移動させて、空いたふとん部屋にその子を入れておやり」
「へい」
 軽く頭を下げた弥吉を見ることなく、用事が済んだお紺は姿を消してしまった。
 弥吉は目で付いて来いとお千代に合図した。
 連れて行かれたのは、やはりふとん部屋だった。
 弥吉はお紺を先に部屋へ通すと、ぴしゃりと戸を閉めた。
 二人っきりの小さな部屋で、突然弥吉はお千代の両肩を掴んだ。
「おれだよお千代、わかるかおれのこと?」
「ひと目見たときから気付いてたよ」
 はしゃぐ弥吉とは対照的に、お千代は不機嫌そうに視線を伏せていた。
 畳んで積み重なっていたふとんの上にお千代は腰掛けた。
「村を捨ててやくざになってたなんて……あんたはもうわたしの知ってる弥吉じゃない」
 五年ほど前に村を飛び出した弥吉。お千代と弥吉は幼馴染であった。
 弥吉は肩を落として壁にもたれ掛かった。
「仕方ねぇだろ、百姓の倅で脳もねえ。そんなおれがまっとうな仕事に就けるわけがねぇだろ」
「だったら村に帰ってくればよかったのに……」
「一度飛び出した家に帰れるかよ。親父には勘当だって言われたんだしよ」
 沈黙が降りた。
 再開は必ずしも活気付く華やかなものではなく、長い時は人を変えてしまった。
 俯いていた弥吉が顔を上げた。
「おい、おれがここを出してやるから逃げろよ」
 お千代が返事を返すまでに時間があった。
「――足抜けしろっていうの? そんなことしないよ、するもんか」
「だってよ、ここの元締め、さっきのお紺姐さんは、人を自分と同じ人とは思ってねぇぜ。無理をさせられて何人が過労死したことか、それに……」
「それに?」
「なんでもねぇよ」
「ここの女郎屋、悪い噂があるんでしょ?」
「おれはなんにも知らね」
 急に心を閉ざして、部屋を出て行こうとした弥吉。その腕をお千代が掴んだ。
「本当は知ってるんでしょ」
 弥吉は顔を前に向けたままお千代を見ようとしない。
 お千代は強引に弥吉の腕を引っ張り、向かい合って目と目を合わせた。
「わたしの目をちゃんと見て、嘘つかないで!」
「おれはうそなんて……」
「わたしの姉さんのこと、なにか知ってるなら教えて頂戴」
「……知らない……知らないって言ってるだろ!」
 弥吉は腕を振り払い、お千代の躰を突き飛ばした。
 床に崩れるように尻を付いたお千代の目には、必死に堪える涙が揺れていた。
「わたしは姉さんのことが知りたくて、自分でここに来ると決めたんだ!」
 心の叫びをぶつけられた弥吉は拳を握って震えていた。
「おれだって……おれだって……。あいつは突然消えちまったんだ」
「やっぱりなにか知ってるのね!」
「あいつはある日突然、この女郎屋から姿を消しちまったんだ。元締めに聞いたら足抜けしたって言われた。親分に聞いたら、おれは知らないからお紺に聞けって言われた」
 それは約一年ほど前のこと、姿を消した女郎の中にお千佳いう名の女郎がいた。それがお千代の姉だった。
 睨むような慈しむような、なんともいえない表情で弥吉はお千代を見据えた。
「おまえは早くここを出て行けよ」
「嫌だ」
「お千佳はおれが探す。お前までいなくなって欲しくねえ」
「嫌だ、わたしは覚悟を決めてここに来たんだ」
「ならお代官様には近づくなよ」
「お代官様になにかあるのかい?」
「いや……別に……」
 弥吉は嘘のつけない正直者だった。
「代官がなにか関係あるんでしょ!」
「……みんなお代官様がなにか知ってるって噂してる。けどよ、相手はお代官様だぜ、どうこうできる相手じゃねぇんだ」
「意気地なし!」
「そういう問題じゃねぇだろ、畜生ッ。いいか、お代官様には近づくなよ。あとお紺姐さんにも気を付けろ、勘が馬鹿にいいんだ。無理すんなよ、あばよ」
 早口でまくし立てた弥吉は、お千代になにか言われる前に部屋を出て行った。
 部屋に残されたお千代は辺りを見回した。
 一見してただのふとん部屋だ。
 しかし、もしかしたら姉がこの部屋を使っていたことがあったかもしれない。そんな淡い気持ちもお千代の心にはあった。
 そして、自分に味方がいたことが、なによりも嬉しかった。

 石灯籠が灯っているとはいえ、庭は暗がりで隅々まで見通せなかった。その闇に身を乗り出して目を凝らすお蝶。
「桜の下には屍体が埋まっているとよく言ったもんございやす」
 廊下からお座敷に戻って、正座をしたお蝶はポンと手を叩いた。
「こりゃ失礼、それをいうなら柳の下でごぜえやした」
 女郎屋の元締め――お紺の紹介でお蝶たちは座敷に呼ばれた。
 相手は代官のお付だ。当の代官は隣の座敷で宴会を催しているらしい。お付の侍は酔わない程度に酒を嗜み、大事とあればすぐに駆けつけるように待機している。
 この侍たちに芸を認められれば、代官に推挙してもらい、後日お代官のお座敷に呼んでもらえるということだ。
 黒子はまだ葛籠から人形を出さずに、じっと正座をして待機している。
 お蝶は三味線の音を合わせながら侍に尋ねる。
「お武家様方は、身の毛もよだつような怖い話はお好きでごぜえやすか?」
「それは良い、お代官様は奇譚がお好きでござったな?」
 一人の侍はそう言い、隣の侍と顔を見合わせた。
「そうだ、あの御方は恐ろしい話が好きだと言っておられた」
 お蝶はそれを聞いて、艶やかに笑って頷いた。
「それはよろしいこって。外の桜の木を見ておりやして、ひとつ面白い話を思い出しやした。今は秋、桜の花も咲いておりやせんが、今からお話するのは怪談とは無縁と思えやす、麗らかな春の話でございやす」
 そして、お蝶は唄い出した。
 黒子は唄に合わせた人形をすでに取り出していた。まるで示し合わせたような手際の良さだ。
 女郎に本気の恋をした男と、その男を愛してしまった女郎の悲恋の話。
 饒舌に唄う声に合わせて、弦が切れんばかりの激しい三味線の音色。
 料亭の外は激しい雨が降ってきた。
 風が笛を鳴らし、稲光が障子に女の影絵を映し、雷鳴が轟いた。
 その時にちょうど、渡り廊下を歩いていたのはお紺に連れられたお千代であった。
 お千代はお蝶が唄う部屋の前を通り過ぎ、隣の部屋の前で足を止めた。
 廊下に二人は正座して、お紺が障子を開けた。
「失礼いたします」
 開けらた障子の先では、代官が胡坐をかいて仰け反りながら酒を浴び、その取り巻きでは美人の芸者たちが歌い踊っていた。
 ギロリとした代官の目玉がお千代を見た。
「早う早う、近う寄れ」
 自分の横に座ったお千代に代官は空のお猪口を突き出した。すぐにお千代は酒を注いだ。
 酒を注ぐお千代の横顔を舐めるように代官が見ている。
「上玉じゃのう」
 生臭い息がお千代の吹きかかった。
 代官はもう周りの芸者など見ていない。
「もう下がってよいぞ、二人で酒を楽しむでな」
 唄い踊っていた芸者たちが急に静まり、乱れた着物を直して廊下に出て行く。最後にお紺がお座敷を後にする。
「どうぞごゆるりと……」
 恐ろしいほどの艶笑を浮かべて、お紺は障子をぴしゃりと閉めた。
「若くて良い躰をしておる」
 裾の間から枯れ枝のような指が差し込まれ、柔肌の太腿をまさぐられた。
 顔を背けたお千代の横顔に代官の顔を近づく。
「怖がることはないぞ、儂は女の扱いを心得ておる」
 ねっとりとしたモノがお千代の頬を這った。それは蛞蝓[ナメクジ]のように動く代官の舌であった。
 お千代の躰は震えた。いや、痙攣した。
 身の毛のよだつ恐怖のはずが、気持ちとは裏腹にお千代の躰は身悶えた。
 耳を舐められ、息を切らしたお千代は退いた。
 代官から逃げるようにお千代は退いた。
 しかし、代官は蛇のようにしつこくお千代の躰に巻きつこうとする。
「儂が怖いか?」
「…………」
 お千代の顔は引きつっている。
「良い表情じゃ。恐怖に引きつった顔のなんと甘美なことか……」
「嫌……まだ心の準備が……」
「大人しく儂に抱かれろ」
「嫌……緊張して……か、厠に行って参ります」
 お千代はめいいっぱいの力で代官の躰を押し退け、廊下に続く障子の前に逃げた。
「厠に行って参ります。す、すぐに帰って来ます、絶対に」
「逃がさんぞ!」
 飛び掛ってくる代官に背を向けてお千代は廊下に逃げた。
 廊下を走るお千代は本当に厠に駆け込んだ。
 肩で息をしながら、表情は強張っている。
 呼吸を整えたお千代は裾を捲し上げて、自らの股座に手を忍ばせた。
 そして――。
「ぐっ……」
 歯を食いしばったお千代の目頭から涙が零れた。
 厠を後にしたお千代は廊下でばったりお蝶と出会った。
 お蝶は無言で横を通り過ぎようとしたお千代の腕を掴んで引き止めた。
「どこか怪我でもしたのかい?」
 お蝶の掴んだお千代の手首から先に、血で汚れた跡が残っていた。
「いえ……」
「ならいいけど」
 お蝶は懐から出した手ぬぐいで、お千代の手の穢れを拭った。
 軽く頭を下げてお千代はお蝶と別れた。その足で代官のいる座敷に戻る。
 障子を開けて、正座をしたお千代は深々と頭を下げた。
「失礼したしました。心の準備はもうできました」
 顔を上げたお千代の表情は、先ほどと別人のように凛としていた。
「ほう、恐ろしゅうなって逃げたと思うたが、戻うてきたとは見直したぞ」
 心の決まっているお千代は、臆することなく代官に身を任せた。
 蝋燭の火が消された。
 雨音が激しく打ち鳴らされ、部屋まで延びる雷光が代官の顔を照らす。
 醜悪な表情で嗤っている。
 お千代はその表情を瞼に焼き付けながら目を瞑った。
 相手の為すがままに、お千代は傀儡と化した。
 傀儡に涙は出なかった。
 遠い世界に置いてきた耳に代官の声が響く。
「生娘と聞いておったが……ん?」
 しかし、代官はお千代の股座から手を離し、指先につけた血を舐めた。
 いつ流された血なのか、それを知っているのはお千代のみ。

 ――長い悪夢から目覚めたお千代は料亭の外にいた。
 心を濡らす土砂降りが地面を叩いている。
「お千代!」
 名に呼ばれた。
 振り向くと傘を差した弥吉がいた。
「どうして弥吉が?」
「お千代がお代官様のお座敷に呼ばれたって聞いたから、お紺姐さんに傘持ってくって言ってすっ飛んで来たんだ」
「お紺姐さんは?」
「俺が傘を渡したら、後は任せたって帰っちまった」
 傘にも入らずお千代はふらふらと歩き出した。
「おい、待てよ」
 すぐさま弥吉は自分の傘にお千代をいれた。
 お千代は抜け殻のような表情をしている。足取りも危なく、ぬかるんだ地面ではいつ転ぶか見てられない。
「大丈夫か?」
「……大丈夫」
 言葉とは反対にお千代の意識が薄れ、前のめりになって倒れそうになり、すぐに弥吉が傘を投げて抱きかかえた。
「おい、しっかりしろよ」
 抱きかかえたお千代を間近で見た弥吉の表情が曇る。
 項垂れたお千代の首筋に残る青い痣。
「畜生ッ」
 代官に目を付けられた女が付けられえる印だ。
 お千代は疲れた表情で気を失っていた。
 弥吉はお千代を背負い、傘を拾い上げた。
 幼かったお千代が、いつの間にか大きく成長していた。弥吉はそれを背中で感じ、土砂降りの雨の中を歩き出した。
 行燈は傘と一緒に投げたときに使い物にならなくなっていた。
 暗い夜道が二人を包む。
 夜道に消えていく二人の影をお蝶はそっと見守っていた。


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