偽りの春 参章
参章
 お千代たちの姿が消えたあと、お蝶は黒子を引き連れ歩き出した。
 傘は差しているが、暗がりの中で行燈は灯していない。
 月も星も出ていない晩。土砂降りの雨が空から落ちてくる。
 時おり奔る稲光が辺りを照らす。
 歩いていたお蝶の足がなぜか止まる。
 ふと横を見ると、細い路地で蹲る娘の影があった。
 派手な振袖がびしょびしょに濡れている。
「どうしたんだい、あんた?」
 お蝶が尋ねると娘は震えた躰で逃げ出そうとした。
「ちょいとお待ちよ」
 お蝶は相手の袖を掴み、そのまま自分の元に抱き寄せた。
 娘の首に青い痣がついていることをお蝶は見逃さなかった。
 激しい雨音の中で黒子は耳をそばだてた。
 お蝶は黒子に娘を預け、通りに出て遠くに目をやった。
 踵で水を跳ね上げ、何者かが束になって走ってくる。その顔には見覚えがあった。天狐組みの奴らだ。
 雨で瞼を開けづらそうにやくざもんたちは辺りを探している。もちろん、黒子が肩を抱いている娘だ。
 やくざの一人が暗闇に潜むお蝶に気付いた。
「おい、年頃の娘を見なかったか?」
「見た」
 と、お蝶は顔を横に向けて娘を示した。
 娘は引き渡されると顔をハッとさせ、寒さと恐怖で身を震えさせた。
 やくざもんが娘に近づこうとしたとき、それを遮るように長い腕が伸びた。
「娘さんをあんたらに渡す気はありやせんよ」
「なんだと?」
 眼つきの悪い男は下から顎を突き出し睨め付けた。
 いつの間にかやくざもんたちはお蝶を取り囲んでいた。彼らにはいつかの礼もあるだろう。たっぷりとお蝶を可愛がろうと思っているに違いない。
 しかし、お蝶に臆する様子はまったくない。
「娘さんが欲しければ、あたいを犯すなり殺すなりなすってからにしてもらいましょうか」
「おう、言われなくても姦[マワ]してやらあ」
「威勢だけは良いこって。今日は観客もおりやせんし、都合の良いことに暗がり。こちらも本気でやらせてもらいやすよ?」
「調子に乗りやがって、やっちまえ!」
 暗がりで鈍く匕首が光った。
 大の男が束になってお蝶に襲い掛かる。
 朱塗りの傘が宙に投げられた。
 お蝶が舞う。
 それは乱舞だった。
「グギョェッ……」
 蛙の咽元を潰したような奇声がした。
 そして、お蝶から一番離れていた男が地面に倒れた。
 その奇怪な現象にやくざもんたちは一瞬怯むも、頭に血の昇った躰は抑えられず、構わずお蝶に飛び掛った。
 暗がりの中で風が薙がれた。
 風が吹き出すような音がした。それは首を失った胴が血を噴き上げる音だった。
 今度こそ心の芯から怯んだ男たちは動きを止めた。
 仲間のひとりが首を飛ばされた。その男にお蝶は触れていない。かまいたちか?
 一人の男が叫び声をあげてお蝶に背を向けた。逃げようとでもしたのだろう。
 しかし、その男の末路は悲惨だった。
 男の上半身が傾いた。否、右肩から左腰まで何かが趨[ハシ]り、男の上半身が斜めにずり落ちた。
 地面に落ちた上半身だけの男は、しばらくの間、もがき苦しみ生きていた。その呻き声を聴いたものは、耳に張り付いた恐怖に夜な夜なうなされることだろう。
 誰も逃げるしかないと思い、やくざもんたちは各々の方向に走り出した。
 膝を斬られ勢い余って胴が飛んだ。
 首が転がった。
 手が飛んだ。
 斬られた四肢が宙を舞う。
 噴出す血は雨や泥と混ざり、穢れた沼をつくりだす。
 最後に腰を抜かして動けなかった男が残った。
 地面に尻をつけ、躰の震えが止まらない。
 夢にしても悪すぎる。例え覚めたとしても、瞼の裏に焼きつく残像が恐怖を呼び起こすだろう。
 男は叫ぶ。
「殺してくれ!」
 死んで楽になったほうがましだ。
 昏[クラ]い陰を落とすお蝶の唇が艶やかに微笑んだ。
「外道は殺す価値もないね」
 お蝶の手が動いた刹那、男の片耳が削ぎ落とされた。
「ぎゃぇ!」
 悲鳴をあげた男の股間が温かくなった。男は失禁してしまっていた。
 お蝶はそれを知ってか知らずか嘲笑う。
「お逃げ、逃げなきゃもう片方も落とすよ」
「や、やめ……」
 男は指で泥を掻き分け必死に立ち上がろうともがいた。
 四つん這いになって背を向ける男のケツにお蝶の蹴りが入った。
「さっさとお逃げ、そのまま尻を突き出してる気なら、本当に尻を二つに割るよ」
「ひぇっ!」
 まともな言葉も出せず、男は必死に立ち上がり走り出した。けれど、少し走ったところで足がもつれて転んでしまった。
 顔面から地面に飛び込み、それでも痛みなど忘れて立ち上がり、無我夢中で逃げていった。
 残されたお蝶はばら肉に囲まれながら呟く。
「……さて」
 黒子は一部始終の間、肩を抱いていた娘の眼を手で押さえていた。
 例え目で見えなくとも音は聴こえ、娘は恐怖を感じていた。
 凍てついた狂気が辺りを包んでいる。
 黒子は娘の躰を半回転さえ、目から手をゆっくりと退けた。娘は振り返る気など毛頭ない。振り返ってはいけないと本能的に感じた。
 黒子は背負っていた柿渋色の葛籠を地面に下ろした。
 そして、ゆっくりと蓋を持ち上げた。
 お蝶は遠くを眺め甘く囁く。
「おゆきなさい」
 泣き叫ぶような声が聴こえた。
 その声は葛籠の奥にある闇の世界からした。
 悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。
 葛籠から闇色をした風が飛び出した。
 叫び声をあげながら〈闇〉が世界を飛び交う。
 〈闇〉はお蝶の周りを飛び交い、地面に落ちた血肉を呑み込んでいく。
 跡形もなく、血の一滴も残さず、地面を抉ってでも全てを呑み込もうとする。
 貪欲に貪り喰う。
 何事もなかったように、その場にはなにも残らなかった。
「さっ、自分の世界にお帰り」
 お蝶の言葉に服従する〈闇〉は、やはり叫びながら葛籠の中に飛び込んでいく。
 そして、黒子は葛籠の蓋を固く閉じた。
 声を聴いてしまった娘は震えていた。
 聴いてはいけない、この世ならぬ叫びを聴いてしまった。
 これから一生、闇を恐れて生きていかなくてはならないかもしれない。
 女郎屋を逃げた娘は、それが正しい選択だったか、胸に迷いを生じさせた。

 自分が泊まっている宿にお蝶は娘を匿った。
 ふとんに寝かされた娘の顔は赤く、頬がやつれてしまっている。
 豪雨に打たれ風邪を引いてしまったらしい。痩せこけた娘の顔を見るに、自力で回復する体力はなさそうだ。
 お蝶は娘の額に濡れ布を被せた。
「よく効く薬がある。それを飲んで、温かい粥でも食って休むといい」
 無言の黒子は早々にあの葛籠から薬を出し、娘に口を開かせようとした。
 だが、葛籠が再び開けられるのを見た娘は凍り付いてしまっていた。
 葛籠が開かれる恐怖が躰を凍らせる。
 黒子はお蝶と娘に背を向けて、徐[オモムロ]に顔の前に掛かっている黒い布を捲くった。今、壁だけが黒子の顔を見ている。果たしてどんな顔をしているのだろうか?
 壁を向いた黒子は紙に包んだ薬を顔に近づけてなにかをした。
 再び顔を隠した黒子は振り返り、娘の顔に自分の顔を近づける。
 驚く娘の眼前で、黒子は顔に掛かる布を捲くって、なんと素顔を見せたのだ。
 娘は呆として口を開けた。その瞬間、黒子は口移して薬を娘の口に飲み込ませた。
 唇を離しながら黒子は再び顔を隠した。
 娘は呆としたまま、目を白黒させてしまっている。
 この世ならぬモノを見たことは確からしいが、なにを見たのか娘はぼんやりとして思い出せない。
 薬が効いたのか、それとも別の妖術か、しばらくして娘の熱は引いてきた。
 先ほど粥を食べた娘だが、風邪がどこかに飛んでしまったためか、腹の虫がぐぅと鳴いた。
 宿の者に大きな握り飯を三つ用意してもらったが、娘は相当に腹を空かせていたのか、あっという間にぺろりと平らげた。
 口の端に付いた米粒を親指で取り、娘はその指を舐めた。
 それを見ていたお蝶がにこりと笑うと、娘も人懐っこい笑みを浮かべた。
 娘はふとんの上で正座をして、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「よっぽど腹を空かせてたんだね」
 笑いながらお蝶は言った。
 娘も照れながら笑う。
「はい、このところ飯も咽喉に通りませんでした」
「なぜだい?」
「怖くて、お代官様に抱かれるのが怖くて……」
 顔を曇らせ娘は眼を伏せた。
 優しい顔をしてお蝶は娘の髪を撫でる。
「安心おし、あたいが守ってやるよ」
 その方法は恐怖でしかない。けれど、それを操るお蝶と黒子に、なぜか娘は強烈に惹かれていた。魔性に属している二人に魅入られてしまったのだ。
 お蝶は娘の頭を胸に抱き、優しく髪を撫で続けた。
 娘の耳は激しい鼓動を聴いた。
 安らかで、落ち着いているお蝶の鼓動が激しい。それはまるで激しい運動をしたように、脈々と躰の中を巡り巡っている。
 娘はお蝶の鼓動の音に不気味さを感じ、ゆっくりと抱かれることをやめて躰を離した。
 菩薩のような穏やかな眼差しをお蝶は娘に向けている。
「なぜお代官様が怖いのか話してくれるかい?」
「……はい」
 娘は自分が知る限りの話をお蝶たちに聞かせた。
 女郎屋から消える女郎たち。その影に潜む代官の悪い噂。そして、自分の身に起きたこと。
 この娘は代官のいる座敷に何度か呼ばれ、数回にわたって代官に抱かれた。その時期、この娘以外にも代官の相手をしていた女郎がおり、その女郎の首には代官に付けられたらしい痣があった。
 首に印を付けられた女郎は獲物だと皆噂する。その印を付けられた者に限って姿を消すからだ。中には印が付けられたあとに足抜けをしようとする女郎が数多くいる。
 前に印をつけられた女郎は足抜けをしようとした。けれど、それは成就することはなかった。この町にお蝶が来てはじめて出会った女郎だ。
 あの女郎が死んだ日のうちに、今お蝶たちの前にいる娘は印をつけられたらしい。今日、お千代が座敷に呼ばれるよりも前、日がまだ昇っていた頃のことだった。
 代官は一日うちに何人の女を抱いているのだろうか?
 あの枯れた躰からは信じられないことだ。
 印を付けられた娘は逃げた。それからすぐにお蝶たちに助けられたのだ。
 そして今に至る。
 お蝶は難しい顔をして腕組みをした。
「本当にお代官様が事件に関わりあるっていうのかい?」
「はい、いなくなった者はみんなお代官様に印をつけられた者でした」
「多くの女郎がいなくなったっていうのに、あの女元締めさんや天狐組みの親分さんはなにもいわないのかい?」
「元締めはきっとぐるなんです。絶対そうです」
「あの元締めはなにか臭うとは思っていたけどね。まあいい、今日はゆっくりとおやすみ、病み上がりの躰に無理をさせちゃあいけないよ」
 お蝶は娘をふとんに寝かし、掛け布団を優しく被せてあげた。そのまま相手の瞳を覗き込みながらお蝶は言う。
「町の外まで送ってあげたいけど、あたいらはまだこの町に用があってね。店の者に金を握らせておけば、多少は匿ってくれるだろうよ。けどね、危なくなったらひとりでお逃げ」
「待ってます」
 宿を出た途端、天狐組みのやくざに出会わないとも限らない。
「そうかい、用が済んだら隣村でも町でも、好きなところまで送ってやるよ」
「ありがとうございます」
「あいよ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 娘は静かに眼を閉じた。闇は訪れなかった。ゆらゆら揺れる蝋燭の火が瞼の裏に映る。
 闇の中で娘は眠ることができないだろう。
 これからずっと……。


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