第15章 バベル
 五メートル越える肉の塊。
 赤黒い肌、何重にも波打つ肉、芋虫のようだが、丸々と太りすぎた赤子のようでもある。その全身はフジツボなようなもので覆われ、その中には眼のようなものがある。さらに不規則な並びで躰の各部にあるイソギンチャクのようなものから、細長い触手が束になって蠢きながら伸びている。
 想像を絶して〝いない〟醜さ、ゆえに人間の視覚で捉えることができたのだ。
 それでもケイを恐怖させて立てなくするには十分だった。
「なんなの……気持ち悪い」
 触手の先端から白濁液が噴き出した。その液は胃を悪くしそうなほど、強烈な甘い匂いを放っていた。
 異形の都智治からナメクジのような眼が五本伸びた。フジツボの中にあるのは眼ではないのか。その眼に映ったのは、三人の巨乳。
 真っ先に狙われたのはケイだった。
 触手が伸びる!
 炎麗夜が駆ける。
「ケイ!」
 シキは鎖を放った。
「逃げてケイちゃん!」
 どちらも間に合わなかった。
「きゃーっ!」
 触手に捕まったケイが宙づりにされた。
 無数の触手がケイの服を破り、その肉体に絡みついた。
「ああっ……やめて離して……いやっ、いやいやっ!」
 全裸にされたケイを助けようとシキは鎖を放とうとしたのだが、その瞳に映ったものを見て動きを止めてしまった。
「あの刻印はまさか!」
 肌を這う触手の間になにかが見える。そこはケイの腰の辺りだった。臀部の割れ目のちょうど上の辺り、そこに刻印があったのだ。
 炎麗夜もそれに気づいた。
「契約の刻印に違いないよ!」
 〈リンガ〉と〈ヨーニ〉が契約をすると、お互いの身体のどこかに刺青みたいな紋章が浮かび上がる――と風羅がケイに話したことがあった。
 しかし、正確には少し違うのだ。
 シキはその事実に気づいた。
「あの刻印は契約をしていないよ。契約をする前に刻印があるのは、〈ヨーニ〉だ!」
 驚愕が走った。
 だが、ケイはそれどころではなかった。
「ううっ……助けて……あああっ!」
 双丘の魔肉の頂にある桜色の蕾が触手の先端に吸いつかれ、激しく伸ばされて渦を巻くように動かされているのだ。
 炎麗夜は異形の都智治に殴りかかった。
「世界の美貌をこの手に(ミスワールドパンチ)!」
 輝く栄光の拳が異形の都智治に触れた瞬間、焼けるような痛みが走った。
「くあっ!」
 叫んだ炎麗夜が拳を押さえて後退った。その拳は赤く爛れていた。
「また〈崇高美〉が崩されただけじゃあない。こいつに触れると肉が焼かれるよ!」
「ならボクの出番だ、〈ファルス〉合体!」
 テンガロンハットを安全な遠くへ投げ飛ばし、〈ムシャ〉化したシキ。
 銀色のレージングと金色のドローミが同時に放たれた。
 シキが放ったのは二本、相手は無数だった。
 レージングが触手に捕まった。さらにドローミまで!
 二本の鎖ごとシキが空高く投げ飛ばされた。あの高さから落ちれば人間は即死だ。
 鈍く低い音と共にシキが地面に激突した。
 だれもがシキは死んだと思った。
 しかし、瞬時にシキは立ち上がり次の行動に移っていた。
 それよりも疾く動いていたのはアカツキだった。
「華艶乱舞(かえんらんぶ)!」
 炎を宿した刀を振り回し乱舞する。
 触手を次々と燃やし斬ったアカツキに、巨大な蟹(かに)の手のような螯(はさみ)が振り下ろされた。
 刀が螯を受けた。
 硬い殻にひびが奔り、そこから滲み出た液体が刀を一瞬にして錆びにした。
 そして、刀は折れるのではなく崩れたのだ。
 武器を失ったアカツキは素早く後退して手のひらの上に炎を出した。
「炎翔破(えんしようは)!」
 アカツキの手から放たれた炎玉(えんぎよく)が螯を焼く!
 炎術士アカツキの姿を見てシキは驚いた。
「まさか火斑(ほむら)一族の生き残りか! 馬鹿な、あの一族に男児は生まれないはず!」
「俺様が最後のひとりだ。一族の存亡をかけて俺様は遺伝子操作で生まれたんだ」
「すまないアカツキ」
「なぜ謝る?」
「昔愛した女性(ひと)が君と同じ一族だった。ボクは彼女を裏切り、運命を大きく狂わした。彼女の姉には今も呪われている気がするんだ……三〇〇年以上ずっと」
「やはり貴様何者だ?」
 シキはそれに答えなかった。
 ケイを救う戦いが繰り広げられている中、バイブ・カハは静観していた。異形の都智治は豊満な胸と刃向かう相手しか眼中にないようだ。だが、このまま静観するつもりはなかった。攻撃を仕掛ければ異形の都智治の眼に入る――ゆえに仕掛けるときは、任務を果たすとき。
 モーリアンの視線はケイを中心に動いていた。
「あの娘が危なくなったら、確保できなくても戦闘に突入する(マダム・ヴィーのはじめの命令はシキの捕獲だったが、今はあの娘をなにがあろうと生け捕りにせよとのこと。あの娘になにがある?)」
 思考を巡らすモーリアンにアカツキの眼が向いた。
「やはり(貴公は人間の思考を読めるのか、アカツキ?)」
 モーリアンは頭の中でアカツキにメッセージを送った。
 しかし、アカツキは何事もないそぶりで再び異形の都智治に向かって行った。
 異形の都智治との戦いは続く。
 無数の触手と三本の螯、さらに蟷螂のような鎌の手が襲い掛かってくる。戦いの中で異形の都智治は変異し、新たな武器を生み出しているのだ。
 炎麗夜は果敢にも素手で触手を引っ張り、ケイを地面に降ろそうとしている。本体に触れなければ、肉は焼かれないらしいが、ほかの触手や螯や鎌までが邪魔をしてくる。
「シキ!」
「なんだい姐さん取り込み中なんだけど!」
「なんでも縛る鎖はどうしたんだい!」
「相模湾あたりの底にあるのかなぁ、あはは」
 シキはグレイプニルを持っていない。
 こうしている間にもケイは陵辱を受けている。
 そして、ついに炎麗夜とシキの四肢も触手に捕まってしまった!
 異形の都智治が粉砕機のような口を開いた。
 ケイの汗がその口へ。
「いやっ、死にたくない死にたくない死にたくない!」
 泣き叫ぶケイは為す術もなかった。
 アカツキが両手に炎を宿した。
「双龍炎(そうりゆうえん)!」
 渦巻く二対の炎が龍のごとく都智治に襲い掛かる。
 都智治は巨大な口をアカツキに向け、青白い汚液を吐き出した。
 業火の龍が汚液に呑み込まれ消えてしまった。アカツキも汚液から逃げられない。
 花魁衣装がはだけ壁のように広がった――アカツキを守らんがため。
「紅華!」
 アカツキの悲痛な叫び。
 花魁衣装に穴が開き、溶けていく。青白い汚液は溶解作用があったのだ。
 溶けかかっている花魁衣装は、人型へと変貌していく。その人型も半ば溶けている状態だった。
「紅華! 紅華! どうして……ぼくを置いて逝く」
 人型〈デーモン〉に寄り添い、アカツキは涙を流して項垂れた。
 さらなる仕打ちがアカツキを襲う。
 触手が人型〈デーモン〉を捕らえたのだ。この〈デーモン〉も豊満な乳房の持ち主だった。
「紅華!」
 アカツキが為す術もなく人型〈デーモン〉は喰われた。
 あの粉砕機のような口の中へ消えていったのだ。
 膝を付いたままアカツキは気を失った。まるで魂のない彫刻のように、動くことはなかった。
 ついにバイブ・カハが動く。
 先鋒はマッハだ。
 音速で宙を飛翔して、ケイを抱きしめ捕獲した!
 そのままマッハはケイに巻き付いていた触手を、飛翔したまま引っ張り千切った。
 異形の都智治はすぐにケイを取り戻そうと触手を伸ばしてくる。
 モーリアンがそれを許さない。
「〈死の荒野〉!」
 触手が見えない壁に弾かれマッハたちに届かない!?
 それがモーリアンの発動させた〈ムゲン〉の能力だった。
「この〈ムゲン〉はフィールド内にいる私以外の者が全員死亡するか、私が死ぬか解除するまで発動される。発動中は外に出ることも、外から入ることも許されない」
 この間にマッハがケイを連れて逃げる。任務は成功したも同然だった。
 しかし、突如天空がルビー色に輝き、マッハは上空で動きを止めてしまった。
 空が墜ちてくる!
 轟々々々音(ゴォォォン)!!
 ルビー色の巨大光線が〈死の荒野〉のフィールドを突き抜け、異形の都智治を呑み込んだ。
 間一髪で逃げたシキは炎麗夜に肩を貸しながら、遥か上空を見つめた。
「まさか〈メギドの火〉を新政府が……いや、やはり奴らも動いているのか!」
 昼間に見える微かな月。〈メギドの火〉が墜ちてきた遥か天空には、月があったのだ。
 異形の都智治の姿はもうそこにはない。
 換わりにあったのは、赤黒い巨大な塔だった。
《アカツキ君、ついに〈バベル〉が完成したから地上に送ったよ。さあ、君の集めた〈アニマ〉をもらおう》
 どこからか響いてきたゼクスの声。
 赤黒い巨大な塔――〈バベル〉からプラグが触手のように伸びてきた。
 魂の抜け殻同然と化していたアカツキの胸や背中にプラグが刺さる。
「くっ!」
 アカツキの躰が反り返った。
 さらにプラグはアカツキの口腔にまで侵入してきた。
「う……く……」
 いったいなにが行われようとしているのか?
 プラグがバキュームホースのようになにかを吸い上げている。
 アカツキの躰に刻印してあった紋様が消えていく。
 なにが行われているのかわからなければ、動きようがなかった。
 シキが〈バベル〉を見上げた。
「キミたちは何者かな、いったいなにが目的なのかな?」
《猫を被るのは……ああ、それは犬耳か。とにかく演技はやめて、ちゃんと話そうじゃないか紫苑君》
「演技じゃないよ、この姿の人格なんだ。それはいいとして、やはり旧政府――〈光の子〉の関係者かな?」
《ワルキューレのゼクス、元エデン政府の科学顧問だよ。ワルキューレと言っても、今じゃ二人しかいないケド》
「引きこもりのゼクスちゃんか……今は月面に封印されて、そこで引きこもり生活ってことかい?」
 二人の会話にモーリアンが口を挟む。
「旧政府と言うことは、三〇〇年前に滅びた帝都エデンの生き残りと言うことか?」
 元エデン政府の科学顧問――ということは、少なくとも三〇〇年以上は生きていることになる。
 炎麗夜がつぶやく。
「餓鬼の声にしか聞こえないねえ」
《お婆さんでも、お子様でもないとだけ言っておくよ。おっと、こうしている間にも作業が完了したようだ》
 アカツキからプラグが抜かれ、〈バベル〉へと収納されていく。
《先ほどの質問に答えてあげようかな。なにをしていたかというと、簡単に言えば〈光の子〉の復活だよ。この世界に散らばってしまっていた〈ソエルの欠片〉を、アカツキ君を使って集めさせていたんだ》
 地面で這いつくばるアカツキが顔を上げた。
「なんの話をしている……巨乳の娘たちを楽園で復活させるのでは……ないのかっ!」
《技術的には可能だケド、それは君を働かせるための口述、いわば嘘》
「なんだとッ! 巨乳狩りで殺される前に魂を俺様が吸い出し、安全な楽園で肉体を復活させて魂を移し替えるというのは、すべて……すべて嘘だったというのかッ!」
《それを行うことにメリットがない。そんなくだらないことよりも、ボクらにとっては〈光の子〉を復活させるほうが死活問題でね》
 意見の相違。
 偽りの楽園を築くために働かされてたアカツキ。
 絶望、怒り、後悔が渦巻き、アカツキが大地に爪を立てた。
 ごぼっ!
 眼を見開いたアカツキの口から朱い塊が吐き出された。
《アカツキ君、君はもう限界だ。他人の魂魄、つまり魂(こん)である精神や心などの霊体と、魄(ぱく)である躰の設計図を取り込み過ぎたんだ。狭い建物にはたくさんの人は住めないし、同じ場所に二つの建物は建てられないよね。もうこちらで〈アニマ〉を取り出しとはいえ、もう君の躰は限界なんだ》
「俺様はなんのために……もう紅華も失った……うぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 最後の力を振り絞ってアカツキが立ち上がり、〈バベル〉に向かって駆け出した。
 神の雷。
 〈バベル〉の頂上からアカツキに向かって雷が墜ちる。
 虫の息で生身の人間であるアカツキ。
 あの雷が墜ちれば……。
 アカツキの頭上で閃光が迸った。
 何者かが雷を弾き返したのだ。
 その者は紅い花魁衣装に身を包み、背中には輝く翼を生やしていた。

 つづく


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