第6話_アメ玉

《1》

「7月か……もうすぐアタシの誕生日だなぁ」
 学校帰りの華艶はショーウインドの横を通り過ぎながらそう呟いた。
 ガラス窓の向こうに展示されていたのは、水着姿のマネキンだ。
 7月もまだ頭だというのに、学生の多くは夏休みのことを1度は考えるだろう。華艶も平凡な学生と同じ――それ以上に夏休みのことで頭がいっぱいだった。
 先月はこれまでにない大きな依頼をこなし、巨万の富が懐に入った。誕生日の自分に何かプレゼントでも……と思って華艶は溜息を吐いた。
 まるで誰も誕生日を祝ってくれないみたいじゃないか。
 華艶の誕生日は夏休みに入ったあとだ。学校で顔を合わせることもないし、長期休暇を謳歌する友達もいる。
 別に友達が少ないわけでもないし、みんなにはみんなの予定があるんだ。と、華艶は自分に言い聞かせた。
 決して留年しているせいで、クラスで浮いてるなんてことはない……たぶん。
 華艶はケータイを握りしめた。
「今のうちに約束いれておかなきゃ」
 誕生日に仕事を入れる哀しい女に成り果てるものか、なんとしても誕生日に友達を誘わなければ。
 ここで華艶はハッとした。
 脳裏に過ぎる〝補習〟の2文字。
 学校をサボりまくってるせいで今学期も危ない。まだ1学期も終わっていないというのに、また留年なんてことになったらシャレにならない。
 どうする華艶?
 ケータイを握りしめたまま動けない。顔は思い悩んで強張ってしまっている。
 補習授業に出るべきか、嫌なことを忘れて誕生日を祝うか。補習に出てから誕生日を祝っても遅くはない。でも、できればでたくない。
 18歳の誕生日――なんだか特別な響きがある。
 その日から18禁が解禁になるのだ。これは一大セレモニーではないか。が、別に華艶は18禁を守って生きてきたわけでもない。
「教師を買収するしかないか……」
 その方法だけは使いたくない。華艶の通う学園では、噂としてよく聞く方法だが、できれば使いたくなかった。
 ――あんたが高校を卒業できるわけないじゃない。
 それは姉の言葉だった。
 長いこと会っていない姉だが、その言葉は鮮明に音声付きで思い出すことができる。
 姉を見返してやるためにも〝裏技〟を使わずに卒業したい。
 考えれば考えるほど頭は重くなり、自然と首が曲がりアスファルトに顔が向く。
 縞模様の横断歩道。
 点滅する信号。
 華艶はまだ気づいていなかった。
 怒鳴り声にも似たクラクションが鼓膜を振るわせた。
 瞳孔を開いて顔を上げる華艶。
 誰かの悲鳴が木霊した。
 タクシーに撥ねられ夕焼け空を舞う人影。
 まるで人形のように、地面に叩きつけられた華艶。
 頭から流れる血が少しずつアスファルトを浸食していく。
 騒然とする交差点。
 怒鳴り声や金切り声、立ち止まる者に足早に立ち去る者。人だかりに囲まれた華艶は地面に倒れたまま、ケータイを握りしめ続けていた。
 救急車のサイレンはまだ聞こえない――。

 早朝、その個室の患者は亡くなった。
 今は空き室となっているハズだが、ドアに耳を付けて澄ますと、微かに声が漏れてくる。
 病院という場所は、生と死が日常的に混在する。怪談話には事欠かない場所である。もしかしたら、ドアの向こうで無念を抱く霊魂が嘆いているのかもしれない。
 ターバンのように包帯を巻いた少女が、そーっとドアに近づいて耳をつけた。――華艶だった。
 聞こえてきたのは亡霊の声にしては色っぽい。
 華艶は唾を飲んだ。
 噛み殺した女の声がする。それは苦しそうな、それでいて熱っぽい。責められている女の喘ぎ声だった。
 ドアの向こうには白衣の男と疲れた顔の〝女〟がいた。
 脱ぎ捨てられたズボンとトランクス、男はそそり立つ剛直を脂の乗った〝女〟の尻の谷間に這わせた。
 〝女〟は壁に両手をつけ、剥き出しのケツを高く突き上げている。ショーツは片方の足首に引っかかって止まっている。
 決して若々しくはないが、肉欲な躰は〝喰う〟という言葉がしっくりくる。
 男は床に膝を立てて〝女〟の尻を舐め回した。時折、歯を立てると〝女〟が苦しそうに息を噛み殺す。
 されるがまま、〝女〟は哀しい顔を見せていた。そんな表情など男は見向きもしない。男が見ているのは大きな尻だけだ。
 〝女〟の尻は指が沈むほど柔らかく、叩けば大きく震える。バシバシとケツが叩かれ、それに合わせて男の亀頭が自らの腹を叩く。異常なまでに男は尻に執着した。
 痛々しいほどに赤く染まる尻。男はそれでも叩き続け、唾を尻に垂らして練り込むように揉んだ。
 尻が大きく左右に開かれた。
 〝女〟の目頭から涙が滲んだ。
 自分の意志とは関係なく菊が窄み、花咲き、伸縮を繰り返している。鮮やかな桃色をいている。まだ1度も使ったことのない場所だった。
 男はその中に舌をねじ込ませてきた。
 槍のように先をを尖らせ、締めるようとする中へ無理矢理挿ってくる。
 〝女〟は歯を歯を食いしばりながら必死に抵抗した。
 すると男はこれまでにないほど強くケツを叩いた。
「力抜けよ、挿いらないだろ!」
 〝女〟の涙が床に落ちて四散した。
「そこは嫌です。どうか別に場所にしてください」
「うるさいんだよ。お前は俺に躰を売ったんだ」
「ひぃッ!」
 男の人差し指が一気にケツの穴に突き刺され、〝女〟はこれまで感じたことのない痛みで躰を振るわせた。
 力を抜きたくても、括約筋はきつく締まり、男の指を咥えて放さない。その間から血が滲む。
 男の指はねじ回しのように動き、そのたびに〝女〟は小さく悲鳴をあげた。
 指ですらこんなに痛いのに、〝女〟はその先を考えるとゾッとした。
 そして、ついに剛直の先が窄む穴に押し当てられた。
「やっぱりダメ!」
 悲痛な叫びは、さらなる叫びに変わった。
 息を呑み込む声にならない叫び。
 躊躇いなく一気に剛直は根本まで呑まれた。
 鋭い刃物で切られたような痛み。
 男は構わず腰を振った。
 痛みの連続が奔る。
 〝女〟は背骨が折れるほどに躰を反らせ、壁に付いていた両手で壁を抉る勢いで爪を立てた。
 瞬きすら忘れてしまう。
 残虐な悪夢以外の何物でもない。
 裂けてしまった穴を出し挿れ剛直にベットリ血がつく。
 男の指が〝女〟の尻の肉に食い込む。通常であれば痛みを感じるほど鷲づかみにされているが、今はもっと強烈な痛みで意識すらも飛んでしまいそうだった。
「出すぞ、たっぷり浣腸してやるからな」
 男は息を切らせながら腰の動きを早めた。
 もはや〝女〟の耳は何も聞こえない。
 涙が止まらず、鼻水も糸を引いて床に落ちる。
 誰も顔を背けるほど〝女〟は醜悪な表情をしていたが、男はケツしか見ていない。
「出る!」
 急に男の動きが止まり。剛直が腸の中で大きく痙攣したかと思うと、〝女〟は不快な感覚を中に感じた。
 挿れるときとは違って、男はゆっくりと抜いた。
 男の尿道からまだ垂れる白濁した液体。
 〝女〟は全身から力が抜け、壁にもたれながら崩れた。
 脂の乗った尻は突き上げられたまま。恥ずかしい部分が全て丸見えだった。
 嗚咽を漏らしたような音と共に、肛門から少し朱の混じった白濁した液体が噴き出た。
 それも2度、3度。
 ぼとり、と汚らしい音を立てて白濁した液が床に墜ちる。
 もう〝女〟は息をしているだけでやっとだった。
 躰に力も入らず立ち上がることも、その体勢から動くこともできない。
 しかし、そんな〝女〟に男は容赦なかった。
 どこかに隠し持っていた特大の注射器を男は出した。針はついていないが、中にはジェル状の何かが入っていた。
 迫る危機に気づきもしない〝女〟に、男はためらいもなく浣腸をした。
「ひぃひゃっひぃぃぃ」
 狂った〝女〟の悲鳴。
 注射器の中のジェルが一気に流し込まれる。
「抜くから漏らすなよ」
 一気に注射器が抜かれ、〝女〟は括約筋に力を入れた。だが、少し漏らしてしまった。
 〝女〟はそれ以上漏らさないように、きつくきつく穴を窄めて締めた。
 が、そんな力を入れているところに、なんと太いバイブが突き刺された。
 声に鳴らない悲鳴。
 滲む血。
 八つ裂きにされたその場所から、痛みが電撃のように躰を駆けめぐる。
 もう一生使い物にならないかもしれない。
 全てが音を立てて崩れる。
 穴からバイブが勢いよく抜けたと同時に、ジェルが噴き出し、続けて汚物が飛び散り床にぶちまけられた。
 汚物を噴くと同時にズタズタになった穴に耐えられない痛みが……だが、止めることはできない。
 男は大笑いしていた。
 どこまでも憎たらしく、下卑た嗤いは廊下まで響いた。
 その声を聞いていた華艶は嫌な顔をした。躰に虫ずが奔る。
 すぐにドアを蹴破って中に入ろうと華艶が身構えたとき、廊下を歩いてきた中年のナースに声をかけられた。
「火斑さん探しましたよ。勝手に病室を抜けられては困ります!」
 ナースは顔を真っ赤にして鼻の穴を膨らませた。どう見ても鬼ババアだ。
「ごめんなさぁ~い。すぐに戻りまぁ~す」
 華艶は言葉だけの反省をして、軽く舌打ちをした。
 それが相手に聞こえてしまったのか、ナースはさらに顔を沸騰させて華艶の腕を掴んだ。痣が残りそうなくらい強い握り方だ。
「病室に戻りますよ!」
 半ば強引に華艶は廊下を引きずられるようにナースに連れて行かれたのだった。

 ベッドで華艶はふてくされた表情をしている。その前には白衣を着た女が立っていた。
「勝手に歩き回られると大勢のスタッフに迷惑がかかるのわかるかしら?」
 ボブヘアがよく似合う華艶の主治医――魔女医チアナだ。
「だって……」
「だってもなにもないわ」
「だってさぁ、起きたら病院だし、ナースコールしても誰も来てくれないしさー」
「ウソと言い訳はするだけ無駄よ」
「だーかーらートイレにぃ」
「どうして謝罪の一言も言えないわけ?」
「……ごめんなさい」
 唇を尖らせて言った。明らかに反省していない。
 チアナはおでこに手を乗せ溜息を落とした。
 二人のやりとりを見ていた向かい側のベッドの少年が、無邪気な顔をして静かに笑っていた。まだ10歳にも満たない小学校低学年くらいの男の子だ。
 自分が笑われているのだと知って、華艶はさらに唇を尖らせた。
「そこのガキ笑わないの!」
「……ご、ごめんなさい」
 男の子は急に元気をなくして、掛け布団を被って顔を隠してしまった。
 チアナは華艶に顔を向けて怒っていた。
「小さな子供に対する態度がなってないわ。年下にはもっと優しく接しなさいよ」
「ならチアナもアタシに優しくしてよー」
「そう思うなら〝さん〟ぐらい付けて呼びなさい」
「はいはい、チアナさん」
 めんどくさそうに言ったあと、すぐに華艶は状態を起こして唇をチアナの耳に近づけた。
「で、あの子、なんの病気なの?」
 小声で尋ねる華艶にチアナは答えを教えなかった。
「今日一泊したら、明日の早朝に出て行くのよ」
「なんで話逸らすわけ?」
「轢かれたのがタクシーでよかったわね。たとえあんたでも、脳のダメージは致命傷になるのよ。わかったら次からは気をつけるのね」
 チアナは話を切り上げ、足早に病室を出て行こうとした。
「ちょっと待ってよ!」
 呼び止める華艶にチアナは振り返った。
「なにか?」
「アタシのケータイは?」
「使用禁止よ。どうせ壊れて使えないでしょうけど」
 白衣の腰ポケットから出したケータイをチアナは華艶に投げつけた。
 華艶が片手でキャッチすると、チアナはそれを見ることなく病室から消えていた。
「別に壊れてないじゃん」
 外傷はゼロではないが、それは元から付いていた傷。見た目にはまったく問題ないように思えた。が、電源が入らない。
 ケータイが壊れてもメモリーされ生きていれば、別にケータイに差し替えれば済むこと。ただ、それを確かめる術もなかった。
「……ついてない」
 その言葉が華艶の口から零れた。
 この場所で目覚める前の記憶はタクシーが正面から突っ込んでくる映像。
 重傷を負ったようだが、〝不死鳥〟の通り名は伊達ではない。もう元気いっぱいだ。それだけにヒマで仕方がなかった。
 すでに陽は落ち、面会時間もそろそろ終わるだろう。
 明日の早朝には追い出される身だ。今抜け出しても華艶のほうには問題がない。
 夜の街にでも繰り出そうかと華艶が考えていると、病室に一人の〝女〟が入ってきた。少し疲れた表情が年増に見えてしまうが、実際はもっと若く30代くらいと思われる。
 その〝女〟は華艶の向かいのベッドに歩み寄った。華艶がビビらせてしまった少年のベッドだ。もしかしたら母親なのかもしれない。
 少年は人の気配を感じて掛け布団から顔を出した。
「ママ」
 その一言でやはり〝母親〟だということがわかった。
「よかった今日も元気そうな顔をしていて……」
 〝母親〟は疲れ切った顔で安堵した。
 華艶は少し状況を見ていただけだが、なんとなく少年の病状を察することができた。
 チアナが口を噤んだ理由、今の〝母親〟の反応を見れば、少年の病気があまりよくないことは察することができた。
 一般病棟にはいるのは病状が安定しているためか、他に別の理由があるのか。
 〝母親〟は少年の頭を撫でた。
 幼い子の髪は柔らかく、艶やかに光っている。
 少し〝母親〟の顔が柔和になった。
「新しいお薬を試してもらえることになったから、きっと良くなるわ」
「ホントにぼく元気になれるの?」
「ええ、大丈夫。とても効くお薬をお医者さんが用意してくれると約束してくれたから」
 なぜか〝母親〟の顔が曇ったのを華艶は見逃さなかった。
 しかし、少年が無邪気に笑っている。
「早く学校行きたいなぁ。友達といっぱい遊ぶんだ!」
 ――アタシは学校なんか行きたくないけど。と華艶は思いつつも、少年の笑顔を見ていると、サボらず行かなくてはと思えてくる。
 明日も学校だ。
 どうせいつもサイフとケータイだけ持って学校に行っているので、病院から学校に通っても問題ない。が、めんどくさい。
 車に撥ねられて重傷を負った翌日に学校なんか行きたくない。たとえ元気でピンピンしていても。
 つまり、どんな状況だろうと華艶は学校に行きたくないのだ。
 〝母親〟はポケットから紙に包まれたキャンディーを取り出し、両手を出す少年の手に優しく置いた。
「これからママはお仕事に行ってくるけど、体に気をつけるのよ」
「うん!」
「じゃあね、また明日来るから……」
 微笑みを浮かべ、〝母親〟は小さく手を振った。
 病室を立ち去る母の背にいつまでも手を振る少年の姿。
「さてと、アタシも行こうかな」
 と、華艶はベッドから跳ね起きた。
 病室を出ようとする華艶に少年が声をかけた。
「またお医者さんのお姉さんに怒られるよぉ?」
「これからお姉様は大事な用があるの、子供は口挟まない!」
 華艶が少し怖い顔をすると、少年はまたベッドに潜ってしまった。
 構わず華艶は病室を出てすぐ、
「やっぱ子供って苦手だわ」
 呟いた。

《2》

 頭にターバン――もとい、包帯を巻いたまま華艶は病院をコッソリ抜け出そうとしていた。
 知り合いにさえ会わなければ、特に問題なく脱出できるだろう。
 ビクビクするほうが怪しいのだが、華艶は人目を避けながら曲がり角に身を潜め、顔だけ出して廊下の向こうに目をやった。
 病院のスタッフと患者が数名。日中に比べれば遥かに少ない。
 華艶は角を曲がろうと足を踏み出した瞬間、何者かに首根っこを掴まれた。
 恐る恐る見ると、そこに立っていたのはチアナ。
「あんたねぇ、懲りないのかしら?」
 すぐに言い訳が口を突いて出た。
「ちょっとトイレに……」
「病室から真逆よ」
「道に迷ちゃって……」
「嘘も大概にしなさいよ。特大の注射器で新薬の実験台にするわよ」
「そんなことしたら訴えるから」
「そのころにはすでに廃人よ」
 怖いことをいう医者だ。こんな医者でも、この街ではまかり通るのが恐ろしいことだ。
 魔導医が世間に広まってまだ間もない。普及というところまではいっておらず、魔導医チアナの地位は少しくらいのことでは揺らがない。それほどに魔導医とは重宝される存在と化していた。
 チアナは呆れた顔をして溜息を吐き、華艶の首根っこを放した。
「もういいわ、勝手にしなさい」
「えっ?」
「退院でもなんでもすればいいわ。院内で迷惑を掛けられるより、さっさと出てってくれたほうがマシよ」
「主治医の許しももらったし、心おきなくさようなら~」
 華艶は頭の包帯を取り、軽くチアナに投げつけた。
 そして、何か思い出したように目を少し大きくした。
「そうだ、アタシと同じ部屋にいた男の子。あの子の病気何なの?」
「本人の前では言えなかったけど、ガンよ」
「若いのにね」
「若いから厄介なのよ。ガンは不治の病ではないわ、魔導が広まった今の時代なら尚のこと。ただガンという病気は若いほど進行が早いのよ。あの子が病院に来たときはすでに末期だったわ、スタッフも同じ病室の人も、みんな知っているわ。知らないのはあの子だけ」
 ガン細胞は分裂して増えていく。それ故に若いほどに細胞は活発に分裂を繰り返す。
「新しい薬を試すんでしょ?」
「さあ、私はそこまで詳しいことは知らないわ」
「良くなればいいけどね」
「そうね」
 華艶はチアナをその場に残し歩きはじめた。
 病院を出てしまえば、もうあの少年に会うことはないだろう。
 その少年に華艶は密かに祈りを捧げたのだった。

 病院を脱出した華艶は夜の繁華街に繰り出した。明日も学校があるというのに。
 帝都一の繁華街、特に夜の繁華街と言えばホウジュ区だろう。その横に隣接しているカミハラ区も負けてはいない。
 華艶が運び込まれた病院はカミハラ区にある帝都病院。カミハラの中心街にほど近く、華艶の通う学園も近い。
 夜の街を歩く華艶。その姿は撥ねられた時を同じ制服のままだ。
 病室で目を覚ました直後は病院の服を着ていたが、そんな服なんか着ていると不便だったのですぐに制服に着替えた。まだクリーニングも済んでおらず、カピカピに乾いた血がついたままだ。髪の毛にも血がついている。
「う~ん」
 と華艶は唸った。
 まずはどこに行こうか?
 壊れたケータイも買い換えなくてはいけないし、お腹も空いている。
「ワルドでも行こうかな」
 極悪な殺人ピエロがマスコットのファーストフード店だ。
 華艶が辺りを見回しながら歩いていると、前から走ってきた女とぶつかった。
「ごめんなさい」
 小さく謝って女はすぐに立ち去った。
 残された華艶は不思議な顔をした。
「今のって……?」
 綺麗な女性だった。派手な服を着て、しっかりとメイクをした顔。夜の街が似合う蝶だ。
 今の〝女〟と病室で見た〝母親〟が同一人物だと気づいて、華艶は驚きのあまり唖然としてしまった。
 あの疲れ切った〝母親〟が、姿格好を変えただけで10は若く見えた。
「すげぇ……」
 と華艶が感心していると、鬼の形相をした二人組の男が走って来た。
 すぐピンと来た華艶は何気ない顔で足を出した。
 男の一人が足を引っかけて大きく転んだ。
 横にいたもう一人が華艶を睨みつけた。
「てめぇ何しやがるんだ!」
 起き上がった男も華艶を血走った眼で睨んだ。
「クソガキがっ!」
 このキレようとガラの悪さを見れば、そこらの兄ちゃんたちじゃないのはわかる。
 だが、華艶は呑気な顔をいている。
「そっちがアタシの足に引っかかって来たんでしょ。謝るのはそっちだし」
「んだとぉ!」
 女子供でも容赦しない。男が華艶に殴りかかってきた。
 風を切って華艶の脚が回された。パンツが丸見えでも構いはしない。
 顔面に蹴りを喰らった男は一発KO。
 残った男は手に汗を握りながら、面子を潰されて頭に血が昇っている。恐怖よりも怒りが先行している様子だった。
 夜のネオンライトに反射する鋭いナイフ。
 華艶は前髪を掻き上げた。
「素人相手に刃物使うの?」
「うっせぇ!」
 殴るように突き刺してくるナイフ。
 それを受けたのはナイフだった。華艶の隠し持っていたバタフライナイフだ。このバタフライナイフは媒体に過ぎない。
 華艶はこのバラフライナイフをこう使う。
「宿れ炎よ、焔灯剣![エントウケン]」
 バタフライナイフに炎の力をエンチャントした。
 男の眼前で燃えさかる炎の長剣。
 明らかに男は動揺して膝を笑わせた。
 華艶は艶やかに唇を動かし、
「ヤル?」
 と尋ねた。
 男は何も言わず逃げ出した。途中で転んだが、決して振り返ることなく姿を消した。
 気づくと華艶の周りには人だかりができてきた。
「マズ……さっさと逃げなきゃ」
 夜はパトロールが多い。
 華艶はエンチャントを解除して、まだ燃えるように熱いバタフライナイフを隠して逃げ出した。

 その〝女〟は裏路地に身を隠し、乱れた呼吸を整えた。
 男たちが追ってくる様子はない。無事に逃げ切れたことに安堵した。
 しかし、これからすぐに店に戻らなくてはいけない。男たちがそこで待ち伏せしている可能性は高い。
 〝女〟は水商売の店で働いていた。ホステスであるため、肉体を売っているわけではない。それでも執拗に迫ってくる客はいた。今回はその男の素性がまずかった。
 上手く断るつもりだったが、あまりの強引さに〝女〟は怒りをぶつけてしまった。
 それが過ちのはじまりだった。
 取り返しのつかない過ち。
 上手く隠したつもりだったが、追っ手の指先はすぐそこまで迫ってきた。
 〝女〟は自分を追ってきた男に会ったことはなかったが、それがあの男の子分だとすぐにわかった。
 たとえ会ったことがなくても、〝女〟にはわかってしまうのだ。
 〝女〟の手は恐怖で震えた。
 眼を瞬きをせずに大きく開かれている。
 もしも眼を閉じてしまったら、瞼の裏に〈視〉えてしまう。
 それでも長くは眼を開けていられず、いつに瞬きをしてしまった。
 その一瞬、刹那の刻であったが、〝女〟には〈視〉えてしまった。
 顔に血飛沫を浴びて恐怖に歪む〝女〟の姿――それは己の姿。
「……〈視〉たくないのに、どうして……どうしても思い浮かべてしまう」
 〝女〟は眼を剥き大量の汗をかいていた。
 冷たく躰を冷やす汗。
 やはり店には戻れない。
 しかし、〝女〟には金が必要だった。
 金は必要だが、もしも自分が捕まってしまったら――そう考えると危険を冒すわけにいかなかった。
 追っ手の手はどこまで伸びるだろうか。
 仕事先はもう駄目だ。
 自宅のアパートの場所も突き止められてしまうだろうか。
 もしかしたら……病院にまで。
 躰を売ってまで高価な薬を使ってもらえることになったのに……。
 〝女〟の顔はいつしか〝母親〟の顔に戻っていた。
 心身ともに、華やかなメイクをしていた顔も疲れきった顔に変わっている。
「見つけたぞ」
 低く唸るような男の声。
 〝女〟は恐怖におののきながら顔を上げた。
 その男は〝女〟を追っていた男、華艶の元から逃げ出した男だった。華艶にビビらせれても、自分の仕事を忘れずに〝女〟を探していたのだ。
 男はゆっくりと獲物を狙う肉食獣のように、女は走り出すこともできずに壁に背を付けた。
 暗闇で光るナイフ。
 舌なめずりをする男が笑った。
「お前が俺の兄貴をやったんだろ。感謝してるんだぜ。胸くそ悪い奴だったしよ、奴がいたら俺はいつまで経っても出世できねぇからな」
 男と兄貴の間に血縁関係があったわけではない。恨みがあって〝女〟を追っているわけでもなかった。
「けどよ、お前を見逃すわけにはいかねぇんだ。頭のところに突き出せば俺の手柄になるんでな」
 逃げなくては、逃げなくては――ここで捕まるわけにはいかない。全ては何よりも大切な息子のため。
 だが、躰が言うことを聞いてくれない。
 〝女〟は男を見据えたまま動けなかった。
 ナイフを持った男の手が伸びる。それは首元に突き付けられた。動けばすぐに肌を切る。
 抵抗できない〝女〟の胸が揉まれた。
 男はナイフを突き付けたまま、器用に残りの手で〝女〟の胸を揉みしだいた。
 そして、開いていた胸の谷間に乱暴な手が突っ込まれた。
 荒々しく胸を揉まれ、痛みと不快感を〝女〟の顔は如実に映していた。
 やがて男の手はショーツをまさぐり、恥丘を指先でなぞった。
「パンツ脱げよ」
 男は乱暴に命じた。
 〝女〟は従うほかなかった。
 静かにゆっくりとショーツを脱ぎ捨てた。首筋ではナイフが光ったまま。
 男の手が恥丘に触れたと思った瞬間だった。
「ぎゃっ!?」
 〝女〟は悲鳴を上げた。
 男の手からはらりと落ちる縮れた毛。
 毛がむしり取られた毛穴が血が滲んだ。
「毛なんてどうせまた生えてくるだろうがよ。おい、俺のも脱がしてくれよ」
 すでにズボンの下から突き上げている。
 命令されるまま〝女〟は汚い地面に膝を付け、ズボンのチャックをゆっくりと下ろしはじめた。
 開いたチャックの中に手を入れ、窮屈に張っていた男のモノを掴みだした。
 想像してモノとは違い、子供のモノのように小さく皮を被っていた。
 男は口でしろと言わんばかりに〝女〟を見下している。
 無言の命令に従い〝女〟は口ですることにした。
 皮を剥くと異臭がした。
 汚いカスごと〝女〟は口に含んだ。
「いい感じだ、今まで何本咥えてきたんだこの汚口は!」
 サディスティックな快楽に酔いしれている男は、〝女〟の髪を鷲づかみにして持ち上げた。
 恐怖する〝女〟の舌はぎこちなく動き、その拙い感じが男をさらに興奮させた。
「ちゃんと手も使ってしろよな」
 手で男のモノを包むと、隠れて見えなくなってしまう。
 〝女〟は握った手を上下に動かしながら、舌の先で鈴口や裏筋、エラを刺激する。
「おい、ちゃんと奥まで咥えろよ!」
 手で握っていては不可能だ。けれど、そんな正論など男の知るところではない。
 とにかく男を満足させなくてはいけない。
 一心不乱で男のモノを咥え、艶やかに滑る口から唾液が溢れる。
 男の腰が急に動いた。
 喉の奥を突かれ吐き気を催す。
「ううっ……あがっ……」
 決して大きなモノではないが、それでも喉の奥を突くには十分。
 〝女〟の口から唾液がだらだら流れる。眼は涙を流しながら、半ば白目を剥いている。
 さらに男の腰が激しく動いた。
「一発目行くぞ。ちゃんと全部呑めよ!」
 舌の上で男のモノは震え、鈴口から大量に噴き出した。
「ううぇっ!」
 〝女〟は吐きそうになったのをこらえ、男のモノから口を離すと、一気に呑み干した。
 喉にまだ残っている感じがある。
 鼻の奥からイカ臭さが昇ってくる。
 舌の上にもまだべっとりとしたモノが残っていた。
 男は快感のためか、いつしか〝女〟の首に突き付けていたナイフを地面に向けていた。
 今しかチャンスはなかった。
 〝女〟は地面に落ちていた自分のハンドバッグに手を伸ばした。
「何してんだ!」
 男に気づかれ怒声が響いた。
 しかし、女のほうが早かった。
 闇に包まれた裏路地に響き渡る銃声。
 さらに銃声。
 連続した銃声は計10発以上。
 弾切れしたあとも〝女〟は引き金を引き続けた。
 男は何発も銃弾を喰らいながらも、地面に仰向けになってまだ生きていた。
 しかし、長くはないだろう。
 男はなにかを訴えるように口を動かし、眼を剥きながら汚れた夜空の一点を見つめている。その瞳の中に〝女〟の顔を映った。
 〝女〟は男の腹の上に跨った。
「……ごめんなさい」
 男の眼前に突き出された〝女〟の手が酷く震えている。何かを躊躇うように、その場で震えたまま動かない。
「逃げるために……必要なの……」
 怯えた声とは裏腹に、〝女〟が次に取った行動は驚くべきものであった。
 ルージュのマニキュアをした爪が男の目に差し込まれたのだ。
 男は声も出せずにただ震えた。
 そして、〝女〟は男の片眼を抉り出し――呑んだ。
 嗚呼、〈視〉える。
 男の今まで見てきたモノ全てが見える。
 〝女〟が望めば男の人生の全てを覗き見ることができる。
 瞼の裏に投影される映像。
 男が今まで犯して来た罪の数々も、今まで泣かして来た女の姿さえ、さらに男の仲間の顔さえも。
 〝女〟はある男を誤って殺してしまったとき、同じ方法でその男の人生を垣間見た。そこには今目の前で死にかけている男の姿もあった。
 これで自分を追っている者の姿を知ることができる。
 そして、時には重要な秘密さえ握ることができるのだ。
 男は最後の力を振り絞って〝女〟に手を伸ばす。だが、途中で力尽きた。
 〝女〟もまた精根尽きた身のこなしで立ち上がり、地面に落ちているバッグとショーツを拾い、ふらつく足取りで闇の奥へと姿を消した。
 残されたのは片眼のない男の屍体。
 やがて妖物化した野犬が血の臭いを嗅ぎつけて寄ってくるだろう。
 野ざらしにされた屍体は妖物に喰い千切られ、警察の捜査を困難なものとする。
 しかし、いつかは〝女〟に捜査の手が伸びるだろう。
 それまで、それまでに、そうなってしまっても、〝女〟は闇の中を逃げ続けなくてはならなかった。
 そう、愛しい我が子が元気に回復するまでは――。

《3》

「マジありえない」
「私のセリフを取らないでくれるかしら? それを言いたいのは私のほうよ」
 病院のベッドで寝ている華艶と、その傍らに立っているチアナ。
 しかも、華艶は両脚にギブスをはめられ、さらに両脚は天井に釣り上げられていた。
 どっと大きな溜息を華艶は吐いた。
「ホント、マジありえないし。1日に2度も車に撥ねられるなんて」
「しかも今度はトラックだったのでしょう?」
「今度はちゃんと頭守ったんだから」
「その代わりに両足を複雑骨折……というより粉砕ね」
「正確に言うとね、1日に3回撥ねられたの。さっきのはワゴンに撥ねられて地面に倒れたところをトラックに両足轢かれたの」
 華艶は目の前のベッドにいる少年が笑っていることに気づいた。
「なに笑ってんのよ、笑い事じゃないんだから!」
 怒鳴られた少年はベッドに潜ってしまった。そう、あの少年だ。決してもう会うことがないと思っていた少年。
 また同じベッドに華艶は運ばれたのだ。
 チアナが怖い顔をして華艶を睨んでいる。
「子供に当たるのやめなさい。あんたの不注意でしょう」
「本日一発目は赤信号に突っ込んだアタシが悪いけどさー、今度のは絶対にあっちが悪いんだから。しかもワゴンのほうは轢き逃げ。警察が捕まえなくても、アタシの地の果てまで追ってやる!」
 追うとしてもこの脚が治ってからだ。
 不死鳥の華艶といえど、今回の怪我は重傷だった。
 チアナが示唆したとおり、骨折というより粉砕。脛から膝まで見事に砕け、肉が潰れ骨が飛び出しているような状況だった。普通だったら手術で切断を余儀なくされる。
 腹を刺されても1日寝れば治ると豪語する華艶でも、数日の入院を余儀なくされるだろう。
 明日の学校は絶望的。土日も病院で過ごすことになりそうだった。
 たとえ病院をすぐに退院しても、車椅子生活は免れない。
 こんな状況を誰か心配してくれるだろうか?
「友達に連絡したいけど、ケータイ壊れて番号わかんないし……」
「あんた友達いるの?」
「人のプライベートにケチつけないでくれる? アタシにだって友達くらいいるに決まってるでしょ!」
 とはチアナに言ったものの、学校の友達は数少なく、かつての同級生も卒業後は疎遠になりがち。学校外の友達は、よく行くゲーセンのバイトでもなく、よく顔を合わせる飲んだくれのおっちゃんたちでもない……友達と言える友達は皆無に等しい。副業の仕事柄知り合いは多いが、友達となるとなにも言いたくなくなる。
「チアナ先生ケータイを貸してくださいませんか?」
 棒読みで華艶は頼んだ。
「嫌よ」
 即答された。
「いいじゃん別に。ちょっとケータイ借りてメモリーを差し替えて使うだけだからさー」
 全てのデータを差し替え可能なメモリーに保存するケータイが主流だ。メモリーさえあれば機種や企業の違いに関係なく、アドレス帳からメールまですべての機能を引き継ぐことができる。
 が、チアナは思わぬ発言をした。
「残念なことにケータイを持ってないの」
「マジで!?」
「あんたに貸すケータイはね」
「……藪医者っ」
 見事に騙されるところだった。
 華艶は目の前の藪医者からケータイを借りることを断念した。
「ほかの人に借りるし」
「一部の施設を覗いて院内でのケータイの使用は禁止よ」
 有線の電話機がロビーにあるが、華艶はそこまで歩くことは不可能。それにケータイが使えなくてはアドレス帳が見られない。
「じゃあさ、今すぐノートパソコン買ってきてよ。この部屋にネット回線あるでしょ。ノーパソにメモリー差し込んで使うからいいし!」
「私はあんたの召使いじゃないわ。そういうことは誰か知り合いに頼みなさい」
「知り合いに連絡取れないから言ってんじゃないのよ、バカ!」
「ええ、知ってるわよ」
「ぶっ殺す!」
「少し静かにしなさい。ここは相部屋なのよ」
 他の患者たちは今まで華艶のことを見ていたが、華艶が周りに眼を配ったとたん、すぐに視線を逸らして寝たふりをはじめた。
「もぉ!」
 華艶は今にも大暴れしてやりたかったが、脚が動かないのではどうしようもない。
 ケータイもダメ、パソコンもダメ、だったら他にどうすればいい?
「じゃあ個室に移して、今すぐ」
「今すぐは無理ね。それに空き部屋があったかしら、なかったような気がするわね……たぶん」
 その言い方は絶対に空き部屋がある。どこまでもチアナは華艶に冷たい。
 脚が動かなくても手は動く。この場を火の海にしてやるこは可能だが、さすがにそこまではと考え華艶は頭を冷やした。
「もう寝る!」
 華艶は掛け布団を被ってふて寝した。
 本当に今日はついてない1日だ。

 翌日、華艶の手元には新しいノートパソコンがあった。ナースに無理を言って買ってきてもらったのだ。
 さっそくネットに繋ぎ友人にメールを送った。
 とりあえずまずは絶対にお見舞いに来てくれるであろうたった一人の大親友。
 それから事後報告的にちょっとした友達。
 続いてよく行く喫茶店のマスターにも一応メールしといた。
 ネットさえあればいくらでも時間を潰せるが、それしかできないと考えるとつまらない。
 昨日から引きずる怒りが華艶の躰から滲み出ている。そのオーラのせいで同室の患者たちも話しかけてくれない。
 午前が終わる頃、病室にお見舞いが来た。華艶にではなく少年に。
 〝母親〟の顔を確認した少年は喜ぶよりも、不思議な表情をして首を傾げた。
「どうしたの?」
 言葉の足らない質問だったが、〝母親〟はすぐに理解した。
「いつものお仕事はお休みなのよ」
「じゃあ今日はずっとここにいられるの?」
 笑顔の少年に〝母親〟は哀しそうな顔をした。
「いいえ、別の仕事で忙しくなってしまって……もしかしたら、しばらくここに来られないかもしれないわ」
「そんなのヤダよ!」
 さらに深い哀しみを刻む〝母親〟の顔。
「……ごめんなさい」
 〝母親〟は少年に1粒のアメ玉を渡し、逃げるように病室を駆け出してしまった。
 少年はベッドから跳ね起きて〝母親〟の追おうとしたが、急な咳に襲われてその場にうずくまってしまった。
 尋常でない咳き込み方に病室の誰かがナースコールを押した。
 ほどくなしてナースが駆けつけ、少年は安静を取り戻しベッドで横になった。その手にはずっとアメ玉が握られていた。
 しばらくの間、病室には重い空気が漂っていたが、いつしかそれを払拭するかのような明るさが戻ってきた。
 会話に華を咲かせる患者たちの輪――にやっぱり華艶はいれてもらえない。夜の街でおっちゃんたちに人気の華艶だが、ここでは周りに植え付けてしまった印象が悪かった。
 昼が過ぎた頃、ついに華艶にも見舞い客が来た。
「はい、うちのコーヒーを差し入れ」
 行き付けの喫茶店モモンガのマスター京吾だった。
「店はどうしたの?」
 当然の質問を華艶はした。
「昼はあまり忙しくないからね、トミーさんに店番任して来ちゃったよ」
「TSの客来たらどうすんの?」
「だからあまり長居はできないけど。元気そうだし安心したからすぐに帰るよ」
「まあまあまあまあ、ゆっくりしてきなよ」
 必死だった。
 でも、やっぱり京吾は帰ろうとする。
「でも情報屋の仕事もあるから」
「ない!」
「なにその断言」
「もしかして……帰って欲しくない?」
「っ!?」
 言葉に詰まるところがわかりやすい。バレバレだった。
 このまま黙っていると認めてしまうことになる。
「そ、そんなことないんだから!」
 言葉を発したら余計に認めてしまうことになった。
 それでもやはり京吾には京吾の仕事がある。
「また時間ができたら来るから、またね」
「ちょっと……って」
 華艶は愕然と肩を落とした。
 また退屈な時間が戻ってきてしまった。
 ふと、華艶は自分を見ている視線を感じた。
 あの少年だ。
 ――なに見てんのよ。と言いかけて、華艶は別の言葉を発した。
「退屈じゃないの?」
「…………」
 少年は少し驚いた顔をしたあと、無言のまま首を横に振った。
 ふ~んと鼻を鳴らした華艶は会話を続ける。
「あなたずっとベッドの上にいるでしょ?」
「お姉ちゃんだって」
「アタシは怪我してるんだからしょーがないじゃん」
「ぼくも体がよくないから」
 少年に暗い顔をさせてしまって、華艶は少し『しまった』と感じた。
「どうしたら退屈しないか教えてよ」
 尋ねると少年はゆっくりと手のひらを開けた。そこに乗るアメ玉の包み。
「魔法のキャンディーなんだ」
「魔法?」
「うん、当たりのキャンディーを食べると、ぼくの知らない世界が見えるんだよ」
「へぇ~おもしろそう。1個ちょうだい」
「ごめんなさい。ママが人にあげちゃダメって言うから……」
「別にいいじゃん」
「……ごめんなさい」
 謝る表情が〝母親〟そっくりだ。あまり見ていると胸が痛む。
 普段の華艶ならば『めんどくさい』と思う会話だった。相手に気を遣うのは得意ではない、人を傷つけることもそれほど呵責を感じない。けれど、この少年に対しては違った。
「知らない世界ってどんな世界が見れるの? 楽しそ、ちょっと聞かせてよ」
「うん、ヒーローになって怪人と戦ったのが1番おもしろかったよ」
「鬼面ライダーみたいなの?」
「ううん、ディオラマンって言ってね、ロボットがいっぱい出てくるんだよ。入院する前まではテレビで見てたんだけど、入院してからは見られなかったから嬉しかったんだ」
 そのヒーローの名前をどこかで聞いたような。
 華艶は記憶を振り絞って考えた。
 たしかニュースで聞いたような気がする。主演俳優が心臓麻痺で死亡し、脚本を書き換えて代打の主人公を登場させたとか。
 印象の残っているのは、その後日談だ。
 遺体から〝眼〟が盗まれるという事件が発生したのだ。当初は猛烈なファンの犯行かと言われたが、他の事件を洗い直してみると同じような事件が起きていた。被害にあった遺体には生前の共通点もなかった。
 眼のコレクターという奇異なことも考えられたが、眼の色、眼の美しさ、眼から同じ価値観を推測しようとしても共通点がない。謎の多い事件だ。
 その後も華艶は少年の話を聞き続けた。少年は眼を輝かせ話していた。そして、自然と華艶も微笑んでいた。
 長い間、話を聞き続けていたような気がする。気づけば4時近くになっていた。
 病室に現れる制服姿の少女。
「おうおう、元気にやってますかー華艶ぴょん?」
 テンション高く現れたのはクラスメートの碧流[アイル]だ。
 今の今まで少年の話を聞いていた華艶だったが、すぐにスイッチは少年から碧流へ。この辺りがやはり華艶の性格だ。
 華艶に放置されることになった少年だったが、その表情は柔和であったのが救いだろう。
 碧流は観察するように華艶のギブスを見つめている。
「仮病じゃなかったんだ。サボリ以外で休むなんて第2次〈聖戦〉でも起きちゃう?」
 〈聖戦〉と言う言葉を聞いて病室にいた中年から高年までの大人が強張った顔をした。
 華艶や碧流は〈聖戦〉後に生まれた。〈聖戦〉を体感し、魔導というモノの存在を認め、壮大な発展を遂げた世界を見てきた者たちと、生まれときから魔導とその副産物、街の狂気があった世代との間には隔たりがある。
 昨今の若者は〈聖戦〉という言葉を安易に使う。あの〈聖戦〉から20年、戦後直後に生まれた者は今年で21歳となる。すでに歴史は過去となりつつある。
 言葉そのものは過去になっても、その恩恵と傷跡は世界に広がり続けるだろう。
 華艶のような特異体質を持つ者がこれからも増えていくだろう。
 碧流は華艶のギブスを思いっきり叩いた。
「いっ!」
 思わず顔を歪めて華艶は碧流を睨んだ。
「いったい、なにすんの!」
「まだ痛いの? そんな重傷なの?」
「メールでも書いたじゃん。脚がグチャグチャになったって」
「じゃあいつ退院するの?」
「週明けにはできるかな。たぶん2足歩行できるようになりそう」
 今日は金曜日。このまま土日も病院で過ごすことになる。そう考えると華艶は憂鬱でならなかった。
 なによりも週末の夜に外に出られないなんて、なにを楽しみに生きているかわからない。
 このツケはどこで返してもらうべきか?
 華艶はポンと両手を叩いた。
「そうだ、夏休みに旅行いこ」
「旅費はもちろん華艶持ちでしょ?」
「……おみやげくらいは自分持ちね」
「え~っ、華艶のほうが金持ってるんだから全部出してよ」
「お金の問題はしっかりしないといけないと思うの。おみやげは自分持ち、これは譲れないから」
「しょーがないなぁ」
 二人が話に華を咲かせる姿、その姿を見ている少年。少年は少し寂しそうな顔をしていた。
 ベッドの上で生活をする少年。
 華艶はあと3日ほどで退院しても、その後も少年はこの場所で過ごすことになるだろう。
 アメ玉の魔法。
 夜見る夢が現実か?
 たとえどんな楽しい夢を見ようと、ベッドの上で目覚めるときがくる。
 少年の瞳に映る女子高生たちは、いつまでも楽しそうに笑っていた。

 ――じゃあね。
 短い別れの言葉であった。
 少年の瞳に残る後ろ姿。別れを惜しむでもなく、背中越しに耳の横で軽く手を振って病室をあとにした。
 やはり彼女は少年よりも先にあるべき世界に帰ってしまった。
 その日の晩、少年は消えた。

《4》

 帝都病院を退院した日の翌日、学校帰りの華艶はヘトヘトになりながら喫茶店モモンガのドアを開けた。
 カランコロンとベルが鳴る。
 カウンター席に座る華艶に京吾はコーヒーを差し出した。
「お疲れだね」
「久しぶりに学校行ったらさ、進路指導の先生にボロクソ言われちゃって、殴りかかったら……止めに入った別の先生に負けちゃった」
「久しぶりって、そんなに学校休んでいたっけ?」
「う~ん、2日? 土日も挟んだからもっと休んだ気がしてた。てゆか、ホント強いんだってあの先生……女なのに」
 華艶をやり込めるとはただ者ではない。そんなただ者ではない存在がざらにいるのがこの街だった。
 コーヒーを飲みながら華艶はテレビに目をやった。
《謎の目玉泥棒と思われる容疑者が連行され――》
 カップを口元につけたまま、
「あっ」
 と、短く華艶は呟いた。
 画面に映る容疑者の姿、それはあの〝母親〟の姿であった。
 逮捕容疑は不法進入と遺体損壊。警察は他にも余罪がないか調べているらしい。
 ニュースを見入る華艶に京吾が尋ねる。
「知り合い?」
「知り合いってほどじゃないけど、アタシが入院してたとこにいたガキ覚えてる?」
「あの少年?」
「そのお母さん」
「気の毒に」
 少年の身よりは〝母親〟以外にいるのだろうか?
 もしも〝母親〟しかおらず、少年がこのニュースを知ってしまったら?
 多少は気に留めながらも、それ以上のことはしない。それがごく当然の行動だろう。華艶もまた、なんでもかんでも首を突っ込む慈善家ではなかった。
 ニュースではこれまで眼を盗まれた被害者を実名と匿名を交えて紹介していた。その中でももっとも新しく発見された人の被害者は、殺害後に眼を盗まれており、殺害と盗難は同一に行われたと推測されている。
 新しく発見された被害者2人は同僚であり、同じ病院に勤めるナースと医師だった。特に医師の遺体は無惨なまでに滅多刺しにされ、顔の判別がつかないほどに潰されていたらしい。
「この看護婦アタシの担当だった人だし」
 なんの感慨もなく華艶は呟いた。
 このナースと医師が殺害されたのは華艶が退院した当日だった。しかも、二人の遺体が発見されたのは病院内。
 華艶はコーヒーをスプーンでかき混ぜ、渦の中心を見ながら難しい顔をした。
 何かひっかかる。
 ケータイの着信音が鳴った。新しい華艶のケータイだ。ディスプレイを確認するとチアナの名前が表示されていた。
「もしもーし、そっちから電話してくるなんて珍しい」
《依頼があるのよ》
「どんな?」
《何者かに付けられている気がするの》
「ファンじゃないの?」
《もしかしたら命も狙われているかもしれないわ》
「ふ~ん、じゃあ患者の誰かだ」
《患者に感謝されても、恨まれる覚えなんてないわ》
「ホンキでそーゆーこと言えるとこが藪」
 藪かどうかは別として、数多く診てきた患者の中に犯人がいる可能性は高い。
 たまたまチアナから電話がかかってきた。そこで華艶はこの話題を振ってみることにした。
「ところでさ、看護婦と医者が殺されたんだって?」
《あの男はあまり相伴の良い医師ではなかったわ。ナースのほうはその医師と不倫関係にあったのだけれど……そうだ、あの医師が担当していた少年、ほらあんたと同じ部屋にいた少年よ》
「あのガキがどうしたの?」
《医師とナースが殺害された日に、少年が行方不明になってしまったのよ》
 それは華艶にとって初耳だった。
 当然の仮説が頭に浮かぶ。
「あの子のお母さんが医者と看護婦を殺したらしいから、そのときに一緒に息子も連れ去ったって考えるのが当然かな……でもなんで?」
 殺害がメインの目的か、それとも息子を連れ去ることが目的だったのか、もしくはその両方だったのか?
 息子を連れて逃げることが本来の目的だったならば、新たな疑問が出てくる。
 どうして重病の息子を病院から連れ出す危険を冒したのか?
 容疑者として追われることを見越して、息子から足がつかないようにしたのか。それとも息子と離ればなれにならぬように、親心で一緒に逃亡することを決意したのか。もしくは息子の病気を治す大きな手だてを見つけたのか。
 いろいろ華艶は考えてみたが、現状ではしっくりくるものがなかった。
 ここで華艶はハッとした。
「あれ、お母さんは警察にパクられたんだよね。ガキは一緒じゃなかったの?」
 一緒にいたならば保護されているハズだ。
《少年の行方は未だ不明よ》
 また多くの仮説が立つ。
 その中で華艶が絶対にないと思ったものは、少年が殺されている可能性。足が付かないようにするため、母親が自分の子を手に掛けた可能性だ。ただし、病状が悪化して少年がすでに死亡している可能性は大いにあるだろう。そうなってくると、どうしてリスクを冒して連れ去ったのかと疑問が巡り回ってくる。
 同じ疑問が何度も巡ってくる。
 あの〝母親〟が息子に手をかけるハズがないと華艶は考えている。他の見方をすれば、息子が死ぬようなリスクは冒さない。どうして重病の息子を連れ去った?
 医師と看護婦を殺害したことにより、それが要因でやむを得ず連れ去ることになった――息子の病状を無視してか?
「今さ、いろいろ考えてみたんだけど。根本的に違ったりしてー」
《考えたってなにを?》
「別に……ガキはどうなったんだろうって」
 少年が見つからないことにはなにもわからない。
 華艶がボソッと呟く。
「ま、アタシには関係ないことだけど」
《私の依頼まで関係ないと言わないで頂戴ね》
「わかってるって。病院に行けばいい?」
《ええ、待ってるわ》
「んじゃ……というわけだから」
 通話を切って華艶は京吾に顔を向けた。
「仕事?」
「うん、今から行ってきまーす」
「はい、いってらっしゃい」
「ごちそうさま!」
 華艶はカウンターにコインを置いて店を飛び出していった。
 そして、京吾が呟く。
「これゲーセンのコインだよ」

 〝眼〟の記憶を辿る。
 音は聞こえない。
 看護婦がスカートをまくり上げ、ケツをこっちに向けていた。
 ショーツが割れ目に食い込み筋はすでに愛蜜で濡れている。
 看護婦は長い繊手で自らの筋をなぞった。唇のように柔らかく、指を呑み込むその部分に指を這わせる。
 〝眼〟は手淫に耽る女の花弁よりも、尻全体を舐め回すように見ていた。
 看護婦は尻を揺らしながらショーツを脱ぎはじめた。下ろされたショーツは足首で止まる。
 ゴツくて大きな手が看護婦のケツをぶっ叩いた。紅葉の形がつくほどだ。
 看護婦は急に振り返る。その表情は怒っているようで、口元をとがらせ何かを訴えている。
 立ち上がろうとした看護婦の首根っこを押さえつけられた。そのまま、看護婦は床に頬を付かされ、口から唾液を垂らした。
 喚いているようすの看護婦。
 男の手が看護婦の細い首に伸びる。その手が握っているのは注射器だ。
 看護婦の首に注射器がぶち込まれた。抵抗するようにバタついていた足から力が抜ける。そして、全身の力も急激に失われた。
 ぐったりとする看護婦。意識が朦朧としているのか、それとも失われてしまったのか。
 男の両手が看護婦の太ももを掴み、抵抗一つしないその脚を開いた。
 体毛は濃く、その中に隠されたヒダがぐっしょりと濡れている。穴は指が一本入るくらいだらしなく口を開けていた。
 さらに体毛は尻の割れ目まで伸び、菊の蕾の周辺まで覆っていた。
 〝眼〟が近づいたのか、菊の蕾が迫ってくる。
 長い尖った舌がケツ毛ごと菊の蕾を舐め、さらには蕾を無理矢理こじ開けようとしていた。
 〈視〉るだけではなく、音も聞こえたならば、嫌らしく下品な舌の音が聞こえてきただろう。
 ヌチャヌチャ――と粘液が糸を引くような音。
 そして、臭いも感じることができたなら、汗ばんだ臭いや愛蜜の独特な臭い、さらに菊の薫りまで嗅ぐことができただろう。
 激しく揺れ動く男の視界。無我夢中さが伝わってくる。
 だから気づかなかったのだろう。
 急に〝眼〟を通す視界が大きくなった。それはまさに男が眼を剥いた瞬間だった。
 尻から視線が遠ざかり、目の前に男の片手が映った。その手は燃えるように朱く染まっていた。血だ、誰かの血だ。
 〝眼〟は自らの胸を見た。白衣の胸に血が広がる。刺されたのだ、背後から。
 その胸を貫いた凶器は白衣の下となって見ることができない。
 わかることは血の噴き出し方が尋常でないこと。それは心臓を貫かれたことを意味していた。
 霞む視界。
 転倒する視界。
 激しく視界が揺れたのち、〝眼〟は天井に向けられた。
 誰が刺した?
 それを見ることもできず、視界は何者かの手によって覆われた。
 瞼を下げられ、暗闇が訪れる。
 男の〝眼〟の記憶はここで途絶えた。

 診察室の丸イスに座っている患者。その視線は目の前の女医より、近くに立つ看護婦の長い脚に見惚れていた。
 少しでも背を丸めれば中身が覗けてしまうミニスカート。その姿は看護婦というよりイメクラのコスプレだ。
 患者が診察室を出て行ったあとに、チアナは呆れたように溜息を吐いた。
「あんたねぇ、スカートもっと長くしなさいよ」
「ミニスカはポリシーなの」
 華艶だった。
 看護婦に変装してチアナの護衛中だった。
 特にチアナに迫る危機は感じられない。チアナを狙う何者かが、診察に現れるとは限らない。病院の中、病院の外、とりあえず華艶はすぐ側で護衛することにした。
 次の患者が診察室に入ってきた。
 思わず華艶はクスっと笑ってしまった。
 入ってきた男の股間がテントを張っていたのだ。
「精力絶倫になるって魔法薬を飲んだら、いつまで経っても治まらなくなってしまって……」
 男は少し恥ずかしそうに言った。
 チアナは表情一つ崩さない。
「では脱いでください」
 機械的で簡潔な言葉だ。
 静かな視線を送るチアナに見られながら、男はチャックを開けて中からギンギンにそそり立つ剛直を取り出そうとした。が、大きく成りすぎた剛直は出られない。
 チアナは華艶に視線を向けた。
「手伝ってあげて」
 これは嫌がらせか酔狂に違いない。それは華艶か男のどっちに対してか?
 華艶は淡々とした動作で男の前に跪き、ベルトを外してトランクスごとズボンを下ろした。
 勢いづいた剛直がバネのように飛び跳ねた。すでに鈴口からはカウパー線液がねっとりと垂れている。
 チアナはデスクで頬杖を付き、口元を淫らに動かした。
「抜いてあげて、治るかもしれないから」
「はい」
 優等生のように返事をして、華艶は男の剛直をシゴきはじめた。
 男は恍惚とした表情で天井に顔を向けている。
 華艶は剛直をハイスピードでシゴき、袋に入った玉を捏ねくり回した。
 数十秒もしないうちに男は果てた。
 華艶は飛び出した白濁液を華麗な動体視力で躱した。
「…………」
 無言で冷徹な顔をするチアナ。その頬には白濁液がベットリ。
 チアナは長い脚を伸ばして、その脚で華艶を押しのけた。
「まだ治らないわね」
 ハイヒールのヒールが剛直の先を突く。
「ううっ」
 男は情けなく声をあげた。恍惚の声だ。
 これでは病院ではなくイメクラだ。
「靴とストッキングを脱がせて」
 チアナは男に命じた。
 舐めるような手つきで男はチアナの靴とストッキングを脱がせた。
 チアナの足の指が開き、剛直の首を親指と人差し指で挟んだ。そして、そのまま足でシゴき、さらに指で挟みながら剛直の根本まで移動して――折った。
「ギャァッ!?」
 悲鳴を上げる男。
 今の今までいきり勃っていた剛直が見事に折れていた。正しくは肉離れだろう。
 チアナは淡々と告げた。
「今すぐ外科に行くことをお勧めします。華艶ちゃん、早く外に放り出してあげて」
「は~い」
 華艶は床で悶絶している男の服を引っ張り、診察室の外に放り出した。
 チアナは顔についた白濁液をティッシュで拭いている。
「はい、次の人」
 床には脱げた男のズボンとトランクスが落ちていた。
 華艶は白い眼でチアナを見つめている。
「いつもこーなの?」
「あの患者常連なのよ。今までも勃起したアレに劇物を塗ってやったりしてたんだけど、懲りないみたいだから今日は折ってやったわ」
「楽しんでるの?」
「仕事よ。ああいう患者にはうんざりだわ」
「多いの?」
「全体の1割くらいかしら」
 その1割の中に、どれだけチアナのストーカーがいることか。
 何者かに付けられている――今さら、華艶に仕事を頼むことだろうか?

《5》

 院内ではチアナを付け狙う者は見つからず、その正体に繋がる手がかりもゼロだった。
 駐車場に止まっている赤いポルシェに乗り込む二人。もちろん運転席に座るのはチアナ、華艶は助手席に座った。
 夜の街を走り出すポルシェ。
 華艶は流れゆく街の明かりを眺めながら尋ねる。
「そーいえばさ、どこ住んでんの?」
「ホウジュ区よ」
「カミハラじゃないんだ」
 チアナの勤務している帝都病院はカミハラ区にある。ホウジュ区はカミハラ区の横、車であれば遠い距離ではない。
 世界最大の繁華街と呼ばれるホウジュを見渡せる超高層マンション。チアナはその最上階に住んでいた。
 マンションの駐車場でポルシェを降り、
「ここまででいいから」
 と、チアナは愛想なく言った。
 思わず華艶は目を丸くした。
「えっ? 部屋に入れてくれないの?」
「どうして?」
「どうしてって、護衛」
「ここのセキュリティは世界でも有数よ」
「……車に乗る前に別れてもよかったんじゃ?」
「ごきげんよう」
 有無を言わさずチアナは背を向けて歩き出してしまった。
「ちょっ……とって、ありえないしー」
 華艶は溜息を吐いた。
 男を振り回す自信はあるが、どうもいつも女には振り回される。なんでなんだろうと華艶は頭を抱えた。
 ここでじっとしていても仕方がない、タクシーでも呼んで帰ろう。
 駐車場を出ようと歩き出すと、小さな胸騒ぎがした。
 ……気配?
 華艶は訝しげながら振り返った。と、ほぼ同時に小さく驚いた。
「あっ……」
 その驚きは疑問によるものだった。
 どうしてその人物がここにいるのか?
 そこに立っていたのは小柄な少年。あの少年だった。
 華艶の頭は少し混乱を覚えた。行方不明になったことは聞いていたが、どうしてここにいるのか?
「どうして病院から消えてここにいるの?」
「お姉ちゃんの家に連れてって」
「はっ?」
 唐突な要求に華艶は戸惑った。
 少年の瞳は真剣だ。幼い子供とは終えない表情をする。
 華艶は小さく唸って前髪を掻き上げた。
「物事には順序があるでしょ。どうして病院を抜け出して、どうしてアタシんちなわけ?」
「ぼく……見たんだ」
「見た?」
「うん。人が殺されるとこ」
 眉を寄せて華艶の顔つきが変わった。
「殺人を目撃したってこと?」
「だから怖くて逃げた」
「犯人と顔を合わせて狙われてるってこと?」
 少年は答えずに目を伏せ、体を震わせていた。
 華艶はケータイを取り出した。
「とりあえずケーサツと病院に連絡するから」
 すると少年は華艶の腕を掴んで通話を阻止した。少年は恐怖を浮かべながら何も言わず、ただ華艶の顔を見つめている。
「電話しちゃダメなの?」
 尋ねると少年は小さく頷いた。
「でも体のこともあるから病院に連絡しなきゃいけないし、そーゆー事件はケーサツに通報しなきゃ、ね?」
 少年は大きく首を横に振った。
 合理性を理解しないガキにイラッとしながらも、少年の置かれている状況に伴う恐怖感と、重病の体のことを考えると、その怒りをグッと呑み込むしかなかった。
 数秒ほど華艶は黙り込んで、仕方なさそうに少年の小さな手を取った。
「とりあえずウチ来な。でも一時的なとりあえずだからね」
「うん!」
「アタシ一人暮らしだから、気兼ねしなくていいから」
「お姉ちゃん一人暮らしなの?」
「自由気ままなね」
「楽しそうだね!」
「……まあね」
 他人に気兼ねしなくていいが、独りが寂しい夜もある。
 男を部屋に泊めるのははじめてだったが、そこにいるのは少年。それもまだ思春期にもなっていない幼い子。男と呼ぶにはまだ無垢だった。
 手を繋いで歩く二人の後ろ姿。年の離れた姉弟にも見えた。
 このとき、華艶はある疑問を忘却してしまっていた――。

 とりあえず少年を連れて自宅まで帰ってきた。
 ここからが華艶にとって問題だった。
 少年という生き物の扱いがわからない。手元にあったリモコンでテレビをつけてみた。そして、そのリモコンを少年に渡してみる。
「好きな番組見ていいから」
「うん」
 華艶はほっと溜息をついた。これで多少は間が持ちそうだ。
 テレビに釘付けになっている少年を少し離れた場所から見つめながら、華艶は大いに悩み苦しんだ。
 寝るまで少年がテレビを見ていてくれればそれでいい。だが、途中で飽きてしまったらどうすればいい?
 ゲーム機で一緒に遊ぼうか?
 それとも別の遊びで……と考えて華艶は気づいた。
 目先の心配よりも、これから少年をどうするか、病院と警察にこっそり連絡するのが筋だろう。
 何か決断して『うん』と華艶は頷いた。
「ねえ、お腹すいてない? アタシもうぺこぺこなんだけど」
「ぼくもお腹すいた」
「何が食べたい?」
「お姉ちゃん作ってくれるのぉ?」
「いや……デリバリーだけど」
「お姉ちゃん料理できなんだ、あはは」
 子供に笑われた。少しショックだった。
「できないんじゃなくて、めんどくさいの。ピザでいいしょピザで、子供ピザ好きそうだし!」
 投げやりな華艶の提案に少年は笑顔で頷いた。
 華艶はケータイでピザを頼み終わると、そのケータイとサイフをテーブルの上に置いて、廊下に向かって歩き出した。
「アタシ、シャワー浴びるから。ピザ来ちゃったら代わりにお願い」
 宅配が来る前にサッとシャワーで体を流すつもりだったが、とりあえず少年に任せて脱衣所に向かった。
 熱いシャワーでも浴びながら、今後の少年のことを考えよう。
 脱いだ服をそのまま洗濯機にぶち込み、タイルの冷たいバスルームに入った。
 コックを捻り、勢いよくシャワーが飛び出した。
 床のタイルを濡らす水から徐々に湯気が立ち上り、華艶はシャワーを頭から浴びた。
 目をつぶり視界が閉ざされる。
 耳に届く水の跳ねる音。
 ……微かな気配。
 次の瞬間、バスルームのドアが開かれた!
 驚いた華艶はすぐさま目を指で拭って、侵入者を確認した。そして、ほっと胸をなで下ろす。
「どうしたの……まさかその歳で覗き?」
 そこに立っていた少年は首を横に振ってから答えた。
「一緒に入っていい?」
「別にいいけど……」
 少年は服を脱いでバスルームに入ってきた。
 悲しいかな、華艶は少年の股間を見てしまった。まあ性[サガ]なので仕方ない。
 ふと華艶は過去の情景を思い出した。幼い頃、姉妹でお風呂に入っていた記憶。あの頃が1番、穏やかな姉妹関係だったような気がする。それが今や絶対的な主従関係。
 そんな姉とも3年近く会っていない。進んで会いたくはないが、姉の生活が気にならないわけではない。
 華艶は少年の体を泡立てたスポンジで洗ってあげた。昔はされる側だった。
 悲しいかな、やっぱり股間に目がいってしまう。しかも、他の〝男〟だったら気兼ねなく摘んだり伸ばしたりできるアレに近づけない。
 さらに他の〝男〟だったら、裸くらい見られたって恥ずかしくもないのに、なぜか今は恥ずかしい。
 独りで勝手に悶々としだす華艶。
 限界だった。
 ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。
「早っ!」
 慌てる華艶。
 バスルームを飛び出して、バスタオルを体に巻いて玄関へ走る。
 ドアスコープを覗いて外を確認した。
 ピザの宅配が来たのかと思ったが、外に立っているのは私服の人物。配達員には見えない。
 キャスケットを目深に被って顔は見えない。おそらく体型から見て女性。
 疑問に思いながらも華艶はドアのロックを外し、ゆっくりとドアを開けた。
 次の瞬間、女が両手を伸ばして華艶に掴みかかってきた。
「返して!」
「なにをっ!?」
 締められそうになった首から女の手を振り払い、華艶はバスタオルを脱ぎ捨てて、それを女の顔面に投げつけた。
 女の視界を一時的に奪い、その隙に華艶は部屋の奥に逃げた。
 他の場所より身動きの取りやすいリビングで足を止める。
 相手の正体は?
 なぜ狙われた?
 『返して』とはなんのことか?
 華艶は構えた。
 争いは避けられないのか、それとも逃げてしまうか……華艶はハッとした。
 自分ひとりではなかった。
 少年はどこだ?
 まだバスルームにいるのだろうか?
 女が近づいてくる。
「返して、ここにいるんでしょう!」
「誰がって……もしかして……あんた誰!」
 女はキャスケットを脱ぎ捨て、その素顔を露わにした。
 それはあの〝母親〟だった。なぜか片眼に眼帯をしている。
 この状況を華艶はできる限り冷静に理論的思考で考えた。
「お願いだから落ち着いて。もしかしてアタシがあなたの子供を浚ったと思ってるわけ?
 違うからね、保護したんだから保護」
「早く返して!」
 ヒステリックな金切り声が鼓膜を振るわせた。
 現状での話し合いは不可能に思われた。まずは取り押さえて拘束したのち、〝母親〟が冷静になるのを待つのがいいかもしれない。
 華艶が床を蹴った。
 無傷で相手を捕らえようとしたとき、華艶の視線は〝母親〟の後ろに向けられた。少年だ。体を濡らしたままの少年がこっちに走ってくる。
 気づいた〝母親〟が振り向いた。
 小さく漏れたうめき声。
 華艶の位置からは何が行われたのかよくわからなかった。
 力なく後ろに倒れようとした〝母親〟を華艶が抱きかかえる形になった。
 どす黒く染まる〝母親〟の胸。
 そこに立つ少年。手には包丁、その切っ先から床に墜ちる朱い雫。
 華艶に抱かれている〝母親〟は、心臓をひと突きにされていたのだ。
「どうして……」
 華艶には理解できなかった。
 なぜこんなことが起きた?
 動機もなにも理解できないことが起きた。
 なぜこんなことが起きなければならなかった?
 少年が華艶を見ている。あどけなく、それが恐ろしく見えた。
「ママはぼくよりもお医者さんのことが1番好き。お医者さんはママよりもナースのお姉ちゃんが1番好き。3人とも悪い子だから死んじゃった」
「お母さんはあなたのことを誰よりも愛していたと思う。体を壊すほど働いて、あなたが元気になることを願っていたのに……」
「だってママは……」
 少年はなにを〈視〉たのか?
 起きた過去。それを〈視〉た少年の考えは正しかったのか?
 果たして本当に〝母親〟と医者は愛し合っていたのか?
 見えるモノだけが真実ではない。
 そう、華艶は見た〝母親〟と少年の関係すら、真実ではなかったというのだろうか。
 〝母親〟は少年を愛していなかった?
 少年は〝母親〟を慕っていなかった?
 華艶にはわからなかった。
 なにもかも、すべてウソのように、心を惑わせる。
 どこからこの感情は湧いてくるのだろうか、華艶は悲しかった。ただ、ただ悲しかった。
 すでに動くことのない〝母親〟の亡骸。これは起きてしまった真実だ。
 少年は包丁を握ったまま、いたいけな瞳で華艶を見つめてくる。
「お姉ちゃんはぼくのこと好きだよね?」
「…………」
「ぼくはお姉ちゃんのこと大好きだよ」
「…………」
 どう答えていいのかわからなかった。
 嗚呼、すべてが悪い夢であったらいいのに……。
 そして、さらなる悪夢が華艶の身に降りかかった。
 少年が朱い液が滴る包丁を握りながら、小さな歩幅で近づいてくる。
「お姉ちゃんの瞳すごく綺麗だよね。たまに紅く見えるときがあるのも知ってるよ。ねえ、その瞳で今までどんなものを見てきたの?」
 その言葉が意味するモノ、次に取る少年の行動、なにもかも華艶は想像も理解もできなかった。
 もはや華艶の心は霧の中で戸惑うばかり。
 包丁の切っ先が華艶の胸に向けられた。
 刺されてしまうのか、それを少年が本当にするのか、なぜ?
 なぜ?
 このまま動かなければ刺されてしまう。
 華艶ならばそれを防ぐ手だてなどいくらでもあるはずだ。
 なのに寸前まで動けなかった。
 柔らかい肌に鋭い刃が呑み込まれた。
 刺される寸前に紙一重で少年の手を掴んだために、包丁の切っ先は心臓をそれて腹部に刺さった。
 少年は包丁を抜こうとした。だが、華艶はそれをさせなかった。
 抜けば出血が酷くなるからではない。むしろ刺したまま争えば内臓がズタズタになる。
 華艶はわからなかったのだ。
 刺され、傷つき、害を受けているのは華艶。報復を考えてもいいはずだ。このままでは華艶が傷つくばかり。
 しかし、華艶は少年に危害を加えることもできず、逃げるという思考も働かず、取るべき行動がわからなかった。だから、ただ少年の手を押さえた。
 包丁が抜けないとわかった少年は、それを手放して両手を華艶の顔に伸ばした。
 華艶は力なく床に崩れた。尻を付き、朱く染まった小さな指先が近づいてくるのを見つめた。
 少年の瞳に華艶の姿が映り込んでいた。怯えるでもなく、唖然とするでもなく、無表情に近いその表情。
 死ぬのかもしれない――華艶が呆としながら考えたとき、少年の身に異変が起きた。
 自分の体を抱きながら少年は床に転がった。苦しそうに顔を歪め、歯を食いしばり、目を強く瞑る。
 華艶は辺りを見回した。
 ――ケータイはどこ?
 まずは病院に、警察には事が一段落したら連絡すればいい。
 テーブルに置いたはずのケータイがない。もしかしたら他の場所に置いたのかもしれない。それとも誰かが隠したのか。
 動くほどに包丁が内臓を傷つける。
 ケータイを探す前に包丁を抜いて、それから……。
 酷く躰が重い。重いのは躰ではなく、心かもしれない。
 華艶は床に座ったまま、ソファにもたれ掛かった。
 玄関のチャイムが響いた。
 しばらくするとまた玄関のチャイムが響いた。
 玄関はたしか開けっ放しの筈だ。
 不審に思った何者かが静かな足取りで部屋の中に入ってきた。
 華艶と目が合って相手はぎょっとした。ピザ屋の制服を着た若い兄ちゃんだった。
 華艶はできる限り笑顔を作った。
「救急車呼んでくれる? あと……サイフどこにあるかわかんないから、勝手に探してくれると……」
 華艶は眼を瞑り、まったく動かなくなった。

 視界が広がり、初めに見たのは天井。
「またこの場所か……」
 呟いた華艶。
 見覚えのあるこの場所は病院の相部屋。
 しかも何の因果か、またあの病室だ。
 1度目に入院したとき、2度目に入院したとき、少年は向かいのベッドにいた。
 3度目のこの場所で、向かいのベッドにいたのは見知らぬ老人。
 華艶はナースコールのボタンを押した。
 なかなか誰も来てくれない。
 だいぶ待ったところでやって来たのは、ナースではなく女医だった。顔見知りのチアナだ。
「お寝坊さんね、華艶ちゃん」
「そんなに寝てた?」
「もう昼過ぎよ」
「……ふ~ん」
 まだ疲れは取れない。きっとこの疲れは躰ではなく、心から来ているもの。
 今は思い出したくなかったが、チアナの口からその話題が出るのは必然だった。
「あの子、死んだわよ」
「ふ~ん……」
 他人事のように答えたのは、他人事とは思えなかったから。他人事と思わなければやりきれなかったから。
 チアナはさらに話を続けようとした。
「あの母親のことなんだけど、殺人事件の――」
「今は聞きたくない」
 いつになかったらその話を聞くことのできる心になるのか、それはわからなかったが、今は受け入れる準備ができていなかった。もしかしたら、もう一生聞かずに生きるかもしれない。
 すべての真相を聞いて、何が変わるのだろうか?
 親子は死んだのだ。
 華艶は掛け布団を被ってふて寝した。
 遠ざかっていく足音。
 多くの謎や疑問、今は忘れることにしよう。
 心が重いのに、忘れられる筈がないじゃないか。
 別のことを考えれば気が紛れるかもしれない。
「……あっ、学校」
 心が重い。なんだか頭痛もしてきた。気づけば動悸までしてくる始末。
 深刻だ。
「夏休み返上とかありえないし」
 本当に寝てしまうことにした。
 そして、目が覚めたとき、こっちが夢でありますように――。

 アメ玉(完)


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