第8話_夢の館

《1》

 郊外の森奥深く、その場所に悪魔の館はあった。
 薄暗い廊下、その奥から漏れる薄明かり。そして。聞こえてくるのはケモノの叫び。
 明かりの先にいたのは、奴隷と主人。
 真っ赤なベールに包まれた女主人。その肌は指の先から足の先まで、薄布によって隠されている――ただ一カ所を除いては。
 艶やかに濡れている唇[ルージュ]。
「その甘美な悲鳴、どんなに調教されようと鳴くことを決して忘れてはならないわ」
 ベールに包まれた女主人は、松葉杖に重心を掛けて身を乗り出し、奴隷にそう囁いたのだった。
 妖しげで魅惑的な声音。
 ひとはその声とルージュによって女主人を想像する。
 果たしてベールの下に包まれた肢体や貌[カオ]は……?
 この女主人は片脚がなかった。松葉杖をついているのはそのせいだ。ドレスによって隠されているが、揺れ動く布地の先に脚がないのは一目瞭然。
 そして、この女主人は片脚がないことに共通する性癖があったのだ。
 冷たい金属の台に寝かされているのは全裸の若い男。手足は拘束具によって鎖で繋がれている。
 女主人の繊手が若い男の柔肌をなぞる。同時にルージュが肌に触れるか触れないかの距離を這う。肌理や黒子のひとつひとつ全身を隈無く調べているように、ルージュは熱い吐息を漏らしながら移動していた。
「右肘に骨折の痕があるわ。これは残すべきか、それとも夢の世界に葬るべきか……」
 女主人は若者の躰を離れて、背後で身動き一つせず立っていた影に振り向いた。
「薬の用意を……そうね、こないだ調合した新しい物を使いましょう」
「かりこまりましたお館様」
 少女の声で返事をしたそれは、禍々しい姿をしていた。
 まるで中世の惨殺刑の執行人を思わせる顔を覆う黒いフェイスマスク。くり貫かれた二つの穴から除く眼が強調され、ギョロリとした魚のようだ。
 その黒いフェイスマスクを除けば、使用人のエプロンドレスという特段変わりない格好なのだが、やはりフェイスマスクの存在は異彩を放っていて不気味さが拭い去れない。
 侍女[ジジョ]から薬の入った注射器を受け取った女主人は、その針先を弄ぶように若者の肌に滑らせた。
 瞬きもせずに眼を剥いている若者。唇が乾き、開けたままになった口から涎れが垂れた。
 女主人の妖しい声が響く。
「さあ、夢の中へ……」
 注射器の針が若者の腕に刺された。
 すぐにアルコールを浸したガーゼで消毒しようとした侍女の手を、軽く女主人が振り払った。
「必要ないわ」
「申しわけ御座いません」
 怯えた声で侍女は引き下がった。
 若者の躰はすでに薬が効き目を現し、全身が小刻みに痙攣していた。
 女主人の指先が若者のつま先から徐々に、内へと流れていく。臑から膝へ、膝からさらに内腿へ、その先で起立した雄しべの茎を握る。
 起立はしているが、まだ完全に花咲いていない花びらを女主人の手が剥いた。
「ヒィィィ!」
 それだけで若者は叫んだ。薬の効いている証拠だ。
 女でもないのに、雄しべから大量の蜜が溢れ出している。どろりとしていて、すでに少し白みがかっている。若者は触られているだけで絶頂を迎えそうだった。
 ルージュが艶やかに舌舐めずりをした。
「命が零れているわ、もったいない」
 そう言って女主人は口を丸く開けて雄しべを呑み込んだ。
 巧みに動く舌が雄しべの先端をこねくり回す。
 柔らかく温かい舌。
 吸引と弛緩を繰り返す口元。
 雄しべの傘に何度も唇の柔らかい裏側が引っかかる。
 若者を繋ぐ鎖が大きく音を立てた。
 まるでケモノのように若者を暴れ狂う。
「ヒィィィィィッ!!」
 狂乱の叫び。
 背中を弓なりにさせた若者の下半身が震えた。
 血管が脈打つ音が聞こえてきそうだった。
 女主人は口を固く閉ざしたまま、雄しべから口を離した。
 若者は躰を痙攣させながら、雄しべを大きく振り乱している。その表情は苦しそうでありながら、快楽を貪っていた。天国と地獄の狭間を彷徨っているのだ。
 女主人が手を差し出すと、その上に侍女が円形の浅い硝子製の容器――シャーレを渡した。
 口に広がる芳しい白の香りが、ルージュから泡となって零れる。
 垂らされた白濁液は、すべてシャーレに受け止められた。
 すぐにそれは侍女の手に渡り、部屋の隅に置いてある冷凍装置に保存された。
 女主人はルージュについた白濁液を艶やかに舐め取り、妖しく微笑んだのだった。

 高らかな女の笑い声。
 振り返れば紅い魔獣が追ってくる。
 逃げなくては、早く逃げなくては……。
「キャーーーッ!」
 叫びながら少女は目を覚ました。
 大量の冷たい汗がブラウスを濡らし、密着した肌が薄く浮かび上がっている。
「うわぁっ、なにこの汗。シャワー浴びよ」
 少女はベッドから這い上がり、辺りを見回して躰を硬直させた。
「え……どこ……ここ?」
 見覚えがない。
 ここに来た覚えもない。
 まるでそこは中世の洋館にでも来てしまった部屋。
 優美で繊細な家具の数々。猫脚の椅子やテーブルは18世紀のフランス、ロココ調の装飾様式だ。
 壁に掛けられていた絵が目を引く。
 そこにあったのは目元だけを隠すマスカレードマスクの絵。そのマスクの奥には目玉が描かれており、まるで本物のようにこちらを見ている。
「こっちが動くとあっちの眼も動いてるように見えるの思い出した、キモッ!」
 少女はとりあえず、シャワーを浴びるために歩き出したが、その背中に視線を感じて振り返る。
 そこにあったのは先ほど見た絵。
「……気のせいか」
 その場から逃げるように移動し、バスルームらしき場所を見つけ、近くに掛けてあった鏡をふと見た。
「うわっ!」
 驚き声をあげてしまった。
 そこに映った自分の顔が先ほど見た絵と同じだったからだ。
 顔には目元を隠すマスク。
 すぐに少女はマスクに手を掛け、外そうとしたが――外れない!?
「えっ、なに、マジで!?」
 マスクは皮膚に張り付いており、力尽くで取ろう物なら顔の皮が根こそぎ剥がれそうだった。
 仕方がなくマスクを外すことを諦め、再び鏡を見つめた。
 数秒の時。
 少女は身動き一つしなかった。
 そして、躰の奥底から沸き上がってくる恐怖。
「……ウソ……そこに立ってるの誰?」
 鏡に映る自分。それが自分だとは思えない。見たこともない他人がそこに立っている。
「あれ……マジで……あたし誰だっけ!?」
 名前も、住んでいた場所も、自分のことが思い出せず、友人の顔すらも浮かんでこない。
 焦った少女はその場から掛けだし、部屋の外に飛びだそうとドアに手を掛けたが押しても引いても開かない。すぐに窓へ向かったが、愕然とした。
「なにこの鉄格子!?」
 窓には金属の格子がはめられ、硝子を割っても腕が通るくらいの隙間しかできない。
 少女は唾を飲んだ。
「……閉じ込められた!」
 記憶を失い、どこかもわからない場所に監禁された。
「ありえないし……あたしにどうしろと?」
 どうすることもできなかった。
 仕方がなく少女はソファに重く腰掛けた。
 外に出る方法がなにかある筈だ。
 少女は視線を配って部屋を見渡した。
「窓は無理そうだし、ドアなら壊せるかな」
 外に通じているのは窓とドアしか今のところなさそうだ。
 少女は重い腰を上げてドアに向かった。
 ドアの前に立ち、数字を数える。
「いち、にの、さん!」
 で、ドアにタックルした。
 ドアはビクともしない。肩が痺れただけだ。
「せ~の、いち、にの――」
 再びドアにタックルしようと身構えたいたとき、突然ドアが開き顔面に迫ってきた。
「あっ!」
 叫んだときにはドアで鼻先を強打してしゃがみ込んでしまっていた。
「いったー」
 すぐに上の方から幼い女の声がした。
「申しわけございません」
「マジ痛かったし」
 少女は見上げた先にいた者を見て、眼を丸くして口をあんぐり開けてしまった。
 そこにいたのはエプロンドレスを来た少女。顔は黒いフェイスマスクで覆われていた。異様な存在ではあったが、そこに少女は恐ろしさは感じなかった。
「あ、どーも」
 それどころか軽いノリだ。
 少女は鼻を押さえながら立ち上がった。
「えっと、ここどこ?」
 その少女の質問に召し使いは少し口元を振るわせた。
「お館様――つまりこの屋敷の主人である……マダム……ヴィー様のお屋敷です」
 明らかに主人の名を口にしたとき、恐怖が滲み出ていた。
 少女はその名を口にして考える。
「マダム・ヴィー……聞いたことないなぁ」
 聞き覚えはなかった。
 失われた記憶。
 それを辿るヒントがこの屋敷や主人にあるのか?
 少女はそういう性格なんか、直球の質問を投げかける。
「あのさ、あたし記憶喪失みたいなんだけど、なんで?」
「それはわかりませんが、森の中で倒れていたあなた様を発見した屋敷の者が、ここまで運んでまいりました」
 その説明が正しいのかすら、記憶が失われていては判断できない。
 少女はイマイチ納得してないようすだ。
「ってことは、助けてもらった感じなのかぁ。じゃさ、このマスクが外れないんだけど?」
「この屋敷では顔を晒すことが禁じられています。不意な事故で外れぬよう、特殊な接着剤で顔に貼り付けております」
「なにその意味不明なルール。とにかく外したいんだけど?」
「特殊な中和剤を使えばすぐに取ることは可能ですが、この屋敷を出る寸前までは付けていてもらいます」
「……そなんだ」
 屋敷を出ると言ってもどこに行っていいのか?
 当てのない状態で知らない世界に放り出されるのも困る。
「さっきも言ったんだけど記憶喪失みたいでさ、先の見通しが立つまで厄介になっていい?」
「それはわたくしではなく、お館様に直接お話になってください」
「あなたメイドさんなの?」
「はい」
「ふ~ん」
 鼻を鳴らしながら、少女は目の前のフェイスマスクをまじまじと見つめた。この不気味なフェイスマスクも主人の嗜好ということか。
 この屋敷の主人がどのような人物か、少女はまだはっきりとは知らないが、嗜好を見る限りでは、話が通じる相手なのか少し不安に思う。
 ただ、倒れていた少女の面倒を看てくれた点では、安心することもできた。
 とにかく、その主人に会ってみないことには、話は進まないだろう。
「んじゃ、マダム・ヴィーのところまで案内して」
「かしこまりました、こちらへ」
 歩き出す侍女の後を追って少女も部屋の外に出た。
 真っ赤な絨毯が伸びる長い廊下。橙色の照明が照らしている。
 長い廊下を抜けると、脇にテラスの入り口が見えた。その先にある空はすでに陽が落ちている。
 そこから大階段へと差し掛かった。どうやら今までいた場所は2階だったらしく、滝のような階段が下まで伸びている。
 そして、その階段の頂上の壁に掛けられた1枚の巨大な絵。
 真っ赤なベールに包まれた女の肖像。
 見えているのは口元のみ。
 ほかのカ所は文字通りベールに包まれていた。
 大階段を下り、再び長い廊下を歩く。大きな屋敷であることが伺える。そのせいか、誰かに会うようなことはなかった。
 少女は通されたのは食堂だった。
 すでにそこには数人の男女がいる。
 少女は疑問に思いながら侍女に顔を向けた。
「ここでいいの?」
「はい、もうすぐ夕飯ですから、お館様もここにお出でになります」
「なるほどね」
 少女が小さく何度か頷くと、侍女はひとつ会釈をしてこの場から立ち去ってしまった。
 残された少女が辺りを見回していると、紳士服を着た若そうな男が近付いてきた。この男も顔にはマスクをつけている。
「ご機嫌いかがかなマドモアゼル」
 軽妙な口ぶりだ。
「機嫌は悪くないけど、あたし記憶喪失で目が覚めたらここなもんで」
「なるほど、マダムから君のことは話に聞いていたが、記憶を失っているとは大変だ。僕でよろしければ力になりましょう」
「あんがと。でさ、あなた誰? あとそこにいる人たちは?」
「ここでは自分の素性を語ってはいけないルールがあってね、仮の名前としてSということになっているんだ。ほかの人たちもアルファベットの名前が付けられているけれど、全員が知り合いというわけではないのでね、紹介はできないよ」
 食卓に着いていたり、談笑をしている人々の数はざっと10を越えている。知り合いでないとしたら、どのような集まりなのだろうか?
 少女がボソッと呟く。
「秘密クラブっぽい」
 それを聞いてSは微笑みを浮かべた。
「良い勘をしている。けれど君は部外者なのだからあまり立ち入らない方がいいよ」
「別に関わる気もないけど……っ!?」
 少女は急に何を感じて部屋の入り口に顔を向けた。
 部屋に入ってきた若い男。彼もまた紳士服に身を包み、顔はマスクで隠している。少しだけ覗いている肌は異様に蒼白く、唇は鮮やかな血の色をいていた。
 少女はすぐにその男に駆け寄ろうとした。
 その背中にSは手を伸ばし、
「あっ」
 と振られた男のように小さく漏らしたが、少女は構わず男の目の前に立った。
「あのさ、あたしのこと知ってる?」
「…………」
 マスクの下の紅い瞳が少女を一瞥したが、無視して歩いて行ってしまった。
 その場に立ち尽くす少女。
「態度わっるー!」
 わざわざ口に出す少女も態度が悪い。
 今の男に少女は何か感じるものがあったが、それがなんであるかまではわからなかった。
 すぐ少女の元へSが近付いてきた。
「彼は飛びきり危険な臭いがする。ここに集まる人々は皆、普通とは違う香りを纏っているけれど、彼はまたそれとは違う存在だ」
「あたしもそう思う……なんか腹立つってゆか、むずがゆい存在みたいな」
 急に辺りの空気が変わった。
 張り詰めた緊迫感が漂い、ある者はそちら側に釘付けとなり、ある者は視線をあえて伏せた。
 ルージュに彩られた微笑み。
 真っ赤なベールに包まれたマダム・ヴィーの登場だった。

《2》

 マダム・ヴィーは侍女の押す車椅子で食卓に現れ、すぐに少女を見つけて目の前までやっ
て来た。
「はじめまして、わたくしがこの館の主人――ヴィーよ」
「あ、どーも」
 少女の視線はマダム・ヴィーの足下に向けられていた。片脚がないのだ。
 すぐに少女はそこから視線を外し、真っ赤なルージュを見つめた。
「あたしも自己紹介したいんですけど、なんか記憶喪失みたいで」
「召し使いから聞いているわ」
「それでこれからどうするか決まってないので、しばらくここに厄介になってもいいですか?」
「もちろんよ。困っている方を見捨ててはおけませんもの。何日でもここにいてよろしくてよ」
「どーも、ありがとうございます」
 すんなりと話が進んだ。けれど、本当に問題なのは記憶喪失だ。
 話によれば、森の中で倒れていたらしい。ならば理由を探ることが解決の糸口かもしれない。
「あのぉ、あたしって森で倒れてたんですよね? その場所とかに案内してもらってもいいですか?」
「その話は食事をしながら――わたくしの近くにお座りになって」
 そう言い残してマダム・ヴィーは侍女に車椅子を押させ移動した。
 長方形の長い食卓の端にマダム・ヴィーは着くと、松葉杖を受け取って立ち上がった。
「皆さん席にお着きになって、晩餐をはじめましょう」
 すでに静まり返っていた食卓に、声はよく響き渡った。
 そして、全員が速やかに席に着いたところで乾杯の合図をする。
「夜はまだまだ長いわ。どうぞ今宵も楽しみにを――乾杯」
 グラスの中で躍る赤い葡萄酒。
 少女は一気にグラスを空にした。
「あ~っうまい」
 それを聞いてマダム・ヴィーのルージュが微笑む。
「どうぞいくらでもお代わりになって」
「お言葉に甘えて」
 少女のグラスに侍女が葡萄酒を注ぐ。
 すぐにまた飲み干そうとした少女だったが、グラスに口をつけたところで、やっぱりやめてグラスを置いた。
「そうだ、あたしが倒れていた場所に案内して欲しいんですけど」
 すぐ斜め横にいるマダム・ヴィーに話しかけた。
「明日になったら、貴女を見つけた召し使いに案内させましょう。それよりも、ここにしばらくいるのなら、名前が必要でしょう」
「なんか素性を語っちゃいけないとかで」
「貴女の名前は……余っているアルファベットは、Kにいたしましょう。貴女にぴったりだわ」
 横から口を挟んでくる者がいた。
「僕もお似合いなアルファベットだと思うよ」
 Sだった。
 彼はKの向かい側の席に座っていた。
 少女は首を捻る。
「そんなにあたしってKって顔してる? って顔は見えないんだけど」
 少女は〝ケー〟という響きにあまりしっくり来なかったが、ほかに変えてもらっても同じだろうと思った。本名を付けられても、今はどう感じるかわからない。
 とりあえず今はKを受け入れた方が良さそうだ。
 記憶を取り戻すために、明日になったら倒れていた場所に案内してもらうことになったが、それ以外はどうしていいのかKにはわからなかった。そこで目の前の状況を調べることにした。
「これって何の集まりなんですか?」
「さっきも言ったけど君は立ち入れない方がいいよ」
 Sは言うが、マダム・ヴィーも同じだった。
「貴女は客人ではあるけれど、正式な客人ではないわ。密やかな催し物があるとだけ言っておきましょう」
「あたしは参加できないんですか?」
「官能的なことはお好き?」
 突然マダム・ヴィーが尋ねてきた。
「気持ちいいのは好きですけど」
「その道を辿れば、いつかはわたくしの催しに辿り着くかもしれないわね」
 今は参加できないということだろう。
 Kは自分のことすらわからないというのに、この屋敷にも謎が多すぎる。
 それからも夕食は続き、記憶のないKは適当な会話で周りに合わせた。
 少しずつ食卓から人が減っていく。
 Kは会話に参加することをやめて、次々と注がれる葡萄酒を飲み干していった。どうやらあまり酔わない体質らしく、いくらでも飲めてしまう。
 気づけば近くにマダム・ヴィーはおらず、それどころか客人たちの姿も誰一人なかった。
 食卓にいるのは片付けをする侍女たちと、グラスから一時も手を離さないKと、それに付き合わされて葡萄酒を注ぎ続ける侍女。
「あれ、みんなどこ?」
 誰もそれには答えてくれない。
「まっ、いっか。もう少し飲もうっと」
 もう何本空けたかわからない。
 注がれた葡萄酒を一気に飲み干す。
 客人が多い屋敷のようだが、このままでは全ての葡萄酒を、飲み干してしまうのではないだろうか。
 片付けも終わり、食堂に残されたのは二人だけ。時折新たな葡萄酒を持ってくる侍女を合わせても、この広い食堂に三人だけしかいなかった。
 さすがにこの状況にKはグラスを置いた。
「あたし空気読める人だし大丈夫」
 ここまで飲んだ時点で空気が読めていないが。
 Kが席を立つ。
 ようやく解放された侍女がグラスを片付けるために食堂の奥に消えた。
 食堂を出て廊下を歩き出すK。とりあえず向かうところもなく、目を覚ましたはじめの部屋に行くことにした。
 記憶はないが、屋敷の道順は覚えている。
 食堂には人が集まっていたというのに、廊下では誰とも会わない。
 大階段を上り、テラスの横を通り過ぎようとしたとき、やっと人影を見つけた。
 Kはテラスに出てその人影に近付いた。
「こんばんわぁ~」
 月明かりを浴びて夜風に当たっていたのはSだった。
「やあ、わざわざ声をかけてくれるなんて、僕に気があるのかな?」
「ぜんぜん」
 Kは言い切った。
 特に部屋に戻ってもすることがないだけだ。
 テラスから見える景色は広大な夜の庭園だった。屋敷の敷地は広いらしく、遠く彼方に塀を見える。その先には森が続いているようだ。
 なぜこんな場所にいるのかKは見当も付かなかった。
「ぜんぜん記憶が戻らなくて困ってるんだけど。この辺りって地名でいうとどこなの?」
「帝都からはだいぶ離れた場所だね。詳しい場所は会員しか教えられないけど」
「ていと、テイト、帝都? あ~っ帝都エデンね。そうだ、帝都エデンなんだけど、あたしに関係あるんだっけそこ?」
 科学と魔導の巨大都市エデン。聞き覚えがあったが、具体的なことは思い出せなかった。
 思い出せないことは置いといて、Kはある言葉に引っかかった。
「今さ〝会員〟って言ったけど、やっぱ秘密クラブみないな感じなの?」
「立ち入らない方がいいと言っているのに、物好きだね君は」
「だって秘密秘密にされると気になるじゃん、やっぱ?」
「この屋敷で素性を隠すのは、地位や名誉があるからだよ。だからあまり詮索することは好まれない。あまりしつこくしていると屋敷を追い出されることになるだろうね」
「それは困るけど、気になるし。あなた以外の人とも話したいし。てゆか、食堂からここに来るまで誰とも会わなかったんだけど、みんな部屋に引きこもっちゃってるわけ?」
「どうだろうね」
 マスクの下で口元が笑った。なにかありそうな笑みだ。Kもその笑みを見過ごさない。
「何かあり気な。もしかして催し物とかいうの今やってる?」
「なかなか察しがいいね」
「じゃあさ、なんであなたはここにいるの、変じゃない?」
「その質問はなかなか鋭い。ここに集まる客人たちは、催し物のために集まっている。だったら僕はただの客人ではないということになるかな」
「謎だからけで嫌になるし」
 うんざりして溜め息を吐いた。
 そんなKの目の前にSは指を一本立てた。
「では1つだけ。僕とマダム・ヴィーは仕事仲間のようなものさ。ただ僕はあまり彼女が好きではないけれどね」
「じゃあ仕事のことでここに来たってこと?」
「1つだけと言っただろう」
「脱ぎたてパンツあげるから、もっとサービスしてよ」
「刺激的な女性は好きだが、そういうのは苦手だね。では、また」
 逃げるように足早にSは姿を消してしまった。
 すでにパンツを脱ぎかけていたKは、唇を尖らせながら一人残されパンツをはき直した。

 屋敷のどこかで今宵も繰り広げられる宴。
 丸テーブルに座る仮面の紳士淑女たち。
 舞台上では松葉杖をつくマダム・ヴィーの姿。
 暗い照明の中、舞台の中心にスポットライトが当てられる。
「それは次の商品をご紹介いたしますわ」
 マダム・ヴィーの声に続いて、舞台裏から首輪で繋がれた全裸の少女が引きずられてきた。
 獣のように四つ足で舞台上を歩く少女。その股間からは蜜が垂れ、恍惚とした表情をしていた。
 侍女が溢れる蜜をグラスに注ぎ、それをマダム・ヴィーに手渡した。
 マダム・ヴィーは芳醇な香りを楽しみ、蜜で満たされたグラスを高く掲げた。
「わたくしの商品の中でも人気のある蜜奴隷。さらに改良を加え、味、香り、共に前の作品を遙かに凌ぐ物となりましたわ。さあ、それでは味見をなさりたい方はいらっしゃるかしら?」
 一斉に客たちが手を挙げた。男だけではない、中には女も手を挙げている。
 マダム・ヴィーは辺りを見回すように首を振り、部屋の一番奥の席に一人で座る男に手を向けた。
「貴方……そう、一番奥に座る貴方よ」
 呼ばれた男は無反応だった。この男は手を挙げていなかったのだ。
 この男――Kが声をかけた男だ。
 マダム・ヴィーはさらに催促をする。
「さあ、舞台へお上がりなさい」
 男の口元が不敵な笑みを浮かべた。
「いや、結構。その嗜好は私には合わないようだ」
 急に客席は静まり返り、そして一気にざわつきはじめた。
 これは誰も予期していなかった出来事なのだ。
 皆、マダム・ヴィーの顔色を窺いながらも、しっかりとその姿を見られずにいる。
 マダム・ヴィーも不敵に笑った。
「どうぞお上がりなさい、Lだったかしら?」
「いや、結構」
 再びLはマダム・ヴィーの誘いを突っぱねた。
 客席の人々は凍り付くような汗を流しはじめた。もう息をするのも苦しいくらいだ。
 さらにマダム・ヴィーは口角を上げた。
「お上がりなさい」
「結構だ」
 人々はそのLの言葉が死の宣告のように聞こえた。
 果たして死ぬのは誰か?
 しかし、そのような事態は起こらなかった。
 マダム・ヴィーが急に声を出して笑いはじめた。
「ふふふふふっ、きゃははははっ、宜しいでしょう。ではそこの貴方、舞台へお上がりなさい」
 別の男が指名された。この男も手を挙げていなかったが、今は些細な問題でしかなかった。
 指名された男はすぐに席を立とうとしたが、緊張のためか足がもつれ大きく転倒してしまった。
 マダム・ヴィーがその男を見下す。
「さあ、早く舞台へお上がりなさい」
 穏やかな声音だったが、その奥には何かが潜んでいる。
 慌てた男は額の脂汗を拭って立ち上がり、急いで舞台に上った。
 男は舞台で仰向けに寝かされ、その顔を蜜奴隷が四つん這いのまま跨いだ。
 蜜奴隷の秘所はまるで処女のようにしっかりと閉じられていたが、蜜が溢れボトボトと男の顔に落ちる。
 誰に命じられるでもなく、そうするのが当たり前のように、蜜奴隷は自らの秘所を両手で開いた。
 滝のように零れてくる蜜を顔全体で浴びる男。
 口を開くと、甘い蜜の香りと味がいっぱいに広がる。
 男は夢中で蜜を飲んだ。
 砂漠の大地で咽を潤すように、無我夢中で蜜を呑み込んだ。
「うぐっ……ううっ……美味い、なんて美味いんだ……ふぐっ……こんな美味い飲み物は飲んだことがない!」
 男の口に収まりきらない蜜が唇の端から流れ出す。
 もう顔どころか、髪も服も蜜でグショグショになっていた。
 さらに男の股間は張り裂けんばかりに膨れ上がり、中でビクビクと震えている。
 極上の蜜を男が飲み続けている中、マダム・ヴィーは客席に顔を向けた。
「それではオークションをはじめましょう」
 その言葉などすでに蜜に夢中な男の耳には入っていない。こんなにも蜜の虜になりながら、オークションに参加できぬとは、可哀想なものだ。しかし男は今、絶頂に幸せなのだ。
 100万円からはじめて、数秒後には億単位の値段がつけられていた。
 すでにさきほどの緊迫した空気などなく、熱気狂気が会場に渦巻いている。
 その中で二人だけ、冷静に異様な空気を放っていた。
 舞台上を見つめるL。その視線の先でこちらを見ていたのはマダム・ヴィー。
 仮面に隠されたLの表情。
 そして、ベールに包まれたマダム・ヴィーの表情。
 ただ1つ、互いのルージュが笑みを浮かべていたのだった。

《3》

 ベッドで横になっていたKがカッと目を開いた。
「寝れないし!」
 窓の外は星明りのみ。
 まだ起きるには早いが、Kはベッドから這い出した。
「なんだか落ち着かない……変な汗ばっかり掻くし」
 手が汗で滲んでいる。とても熱くて今にも火を噴きそうだ。
 Kは無理して寝ることを諦め、夜の散策に出かけることにした。
 部屋を出ると、廊下は薄闇に包まれていた。
 空気は生暖かく、肌をじとじとさせる。
「学校近くの32[サーティトゥ]でアイス食べたい気分」
 自分の発言を耳にしてKはハッとした。
「学校近く……あたしって学生なの?」
 それ以上は思い出せない。
 学校と言っても、昔のことかもしれない。
「そもそもあたしって何歳なんだろ」
 マスクで顔全体は見られなくても若いことはわかる。
「お酒もガンガンいけるし二十歳かな……でも二十歳って結構歳じゃない?」
 独り言をぶつぶつ呟きながら、Kは廊下を歩き続けた。
 そして、テラスの横を通りかかったとき、また人影をその場所で見た。
 KはSかと思ったが、目を凝らそうとしたときには、その影はなんとテラスから消えていたのだ。
 急いでKはテラスに出て、辺りを見渡したが誰もいない。フェンスから身を乗り出して、庭園のほうも見たが、暗くてよく見ることはできなかった。
「まさかここから飛び降りたってことは……でも、なんだかあたしだったら飛び降りれそう。痛そうだけど」
 普通だったらそんな行動を取らないだろう。
 軽はずみとしか言いようがない。
 Kは2階のフェンスを軽く跳び越え、1階の地面に着地した。
「ちょ……と足痺れたけど、もっと高いとこからでもいけそう」
 洋館なので、素足のまま外に出るようなことにはならなかったが、Kは玄関に戻り扉を開けようとすると――。
「開かないし」
 当然と言えば当然だった。夜ともなれば戸締まりをするのは当たり前だ。
 飛び降りることはできても、高くジャンプすることはできそうもなかった。
 仕方がなくKは屋敷の周りを回って見ることにした。どこか入れそうな場所があるかもしれない。
 屋敷は2階建て、庭も広いが屋敷そのものも広大だ。1周するだけでもだいぶ時間がかかりそうだった。
 テラスがあったのはちょうど玄関の真上。ここから右に進むか、左に進むか。
「どちらにしようかなかみさまのいうとおり」
 これをやると最初に指差した方に決定するのだが、第一印象が正しいことはよくあることだ。
 Kは左から回ることにした。
 外は風もなく、やはり少しじとじとした暑さがある。
 屋敷の外壁に沿いながら歩き、ようやく2つの角を曲がり裏手までやって来た。
 表の庭も広大であったが、裏庭も途方もなく広い。
 その一角のある場所に差し掛かったとき、Kは異臭を感じて鼻を摘んだ。
 その場所には花が咲いていた。
 妖しげな花。
 一般的な植物事典には載っていないだろう。
 Kはその花のことは知らなかったが、どのようなものに属しているかは、独特の気配で感じ取っていた。
 おそらく魔導に属する花だ。
 調合により効能を発揮するような植物ではなく、それそのものに魔導の力が宿っている。
 ここにある植物の種類は1つや2つではなかった。近くにはビニールハウスもあり、さらにあなの中でも植物が育てられているのだろう。
 その場を離れ少し歩いたところには焼却炉があった。
「……火」
 つぶやくK。
「燃やす……なにを?」
 何かが引っかかる。
 躰が熱い。躰が何かを訴えている。それがわかってもどうすることもできない。
 苛立ちを覚えながらKは頭を掻き毟った。
「ったく」
 歯がゆくて仕方がない。
 今はこれ以上の収穫は望めそうもないので、Kは別の場所へ移動しようとしたとき、夜闇に紛れる気配を感じた。
 すぐにKは苗木たちの陰に身を潜めた。
 ゴリラのような体型と歩き方をしたこちらに近付いてくる。
 近付いてきてわかったが、その男はゴリラよりも遙かに大きく、背を丸めた状態でもつま先から頭まで3メートルはあった。
 その巨漢の男は背中に大きな麻袋を担いでいる。
 月明かりのせいなのか、巨漢の男の顔は死人のように蒼白く、目の下や頬などはくすんだ陰になっていた。
 巨漢の男はKに気づかずすぐ近くを通り過ぎる。
 Kは目を離さず視線で追った。
 先に見えたのは池の囲いか、それとも巨大な井戸のようなものだった。
 巨漢の男はその前で足を止め、麻袋ごとその中に放り投げた。
 しばらくして、衝撃音と共に生々しい人の呻き声が聞こえてような気がした。
 Kは口角を上げた。そこに何があるのか、知りたくて堪らない。
 巨漢の男が姿を消して、しばらくようすを見てからKはその場所に近付いた。
 そこは囲いのある穴だった。巨大な井戸のような場所だが、水があるようには思えない。
 どれぐらいの深さがあるのかわからない。昼ですら底が見えないのではないだろうか。地の底――地獄まで繋がっていそうな穴だった。
 ただのゴミ捨て場の可能性もあるだろう。焼却炉で燃やせないような金属や食器、それを捨てる場所かも知れないが、あの呻き声のよう音はなんだったのか?
「生きた人間を捨てる場所だったりして」
 Kの冒険心がくすぐられる。
 もっと近付いたら何かを見えるかもしれないと思い、Kは縁に手を掛けて身を乗り出した。
 やはり何も変わらない。暗闇がどこまでも続いているだけだ。
「もしもーし!」
 穴の中で声が反響する。かなり深そうな穴であることが伺える。
「誰かいるのー!」
 また声が反響する。
 Kは耳を澄ませると、微かだが自分の声とは違う音がした。
 しかし、それが何の音であるかでは判別できなかった。
「さてっと、どうしよか」
 どれくらいの深さかもわからないが、おおよそでは、
「ジャンプできそうなんだよね」
 ただ、問題は登る方法だった。
 今も屋敷の中に戻れなくて困っているというのに、もしもこの底がただの穴だった場合、道具も手段もなく絶望的だ。
 その場で考えていたKは、遠くから迫ってくる鬼気を感じて身構えた。
 凄いスピードでこちらに近付いてくる。
 黒い四つ足の動物。
 犬だ、それもただの狗ではなく全長2メートルを超える巨大な犬。
 黒犬は隆々とした筋肉を躍動させながらKに襲い掛かってきた。
 素早い身のこなしでKはそれを躱し、黒犬はすぐ後ろの大穴に落ちていった。
 落下音がする間もなく、次の黒犬がKに襲い掛かってきた。
 転がるように躱したKだったが、直撃は免れはしたももの、牙で腕を抉られ大量の血が噴き出した。
 だが、その傷は見る見るうちに塞がっている。
「あれっ、もしかしてあたしって不死身?」
 なんてことを言っている間にも、黒犬が続々と群れを成してKの周りを取り囲む。
「1、2、3……5?」
 黒犬の数は4匹であったが、そこにあった頭数は5であった。
 4匹のうち1匹は双頭の黒犬だったのだ。
 犬とかけっこして勝てる気はしなかった。しかも、相手は4匹。
 逃げられないのなら戦うしかない。
 Kは素手を握り締めた。
 肉弾戦は不利だ。
 またうまく穴の中へ落とすことができればいいが、それも何匹も続けてとなると難しいだろう。さきほどは黒犬自ら落ちてくれたが、持ち上げて投げ込むのは筋力的に無理そうだ。
 Kは地面をすり足でにじり歩く。
 黒犬が立て続けに襲ってきた。
 1匹目を躱すとすぐに反対方向からもう一匹が、そいつに気を取られていると別方向からも。
「くっ!」
 Kの腹に黒犬の牙が喰い込んだ。
 牙の間から滲み出る鮮血。
 それで怯んでいる場合ではない。飛び掛かってきた黒犬の目玉を殴り飛ばし、その隙に腹に噛み付く口をこじ開けようとするが、犬の顎の力は想像以上に強い。
 さらに別の黒犬がKのふくらはぎに噛み付いた。足ごと持って行かれそうだった。
「マジ痛いし!」
 歯ぎしりするほどの痛みに耐えていると、さらに背中から飛び掛かられ、Kは不意に地面に倒れてしまった。
 Kは立ち上がろうとするが黒犬に押さえつかられて無理だ。さらに這って動こうにも足が噛み付かれたまま引っ張られ動かない。無理に動かそうものなら、確実に肉が剥ぎ取られる。
 流れ出す血が地面に染みこむ。
 Kは地面を引っ掻き、爪の間に土が入る。
 双頭の黒犬が背後から近付いてくる。
 Kはどうにか顔を向けて双頭の黒犬を見たが、見なければよかったと後悔した。
「……ウソでしょ」
 隆々と硬く尖ったその突起。
「ちょ……それはない……犬となんてありえないし!」
 叫んだK。
 だが、双頭の黒犬はKのショーツを牙で剥ぎ取り、覆い被さってその部分を尻に押し当ててきた。
 Kは慌てて躰をもじらせて抵抗する。
 それだけはなんとしても死守しなくてはならなかった。
 こうなったら脚と腹を犠牲にするしかない。
「荒手のダイエットだと思えば!」
 躰を激しく動かそうとしたときだった。
 凄まじい気配と共に双頭の黒犬の片首がボトリと地面に落ちた。
 血を噴きながら双頭の黒犬は暴れ狂った。
 そして、絶命した。
 残った3匹の黒犬がKの躰から離れる。Kなどに構っていられない事態が起きたのだ。彼らにとって敵が闇の中に潜んでいる。
 その人影は月光を背にして輝きを放っていた。
「無様だな、〈不死鳥〉のように……とはいかないようだね」
 黒犬がその男に襲い掛かるが、次の瞬間に聞こえてきたのは骨を折る音。
 男は黒犬の首を抱え込み、その太さに関わらず一瞬にして粉砕してしまったのだ。
「忠実な番犬は無謀とわかっていても敵に飛び掛かる」
 同時に残った二匹の黒犬が男に飛び掛かる。
 刹那、男の手から夜よりも暗い闇の手刀[シュトウ]が放たれた。
 闇の力を纏った手刀は二匹の黒犬を同時に真っ二つに割った。
 吠える間もなく、苦しむ間もなく、黒犬は絶命した。
 Kに近付こうともせず、男はこの場を立ち去る。
 脚や腹を負傷しているKは、どうにか踏ん張りながら立ち上がった。傷は少しずつ塞がりつつあるが、脚は引きずって歩くのがやっとだ。
「ちょっと待ってよ!」
 Kは叫ぶが、男の姿はもうない。
 テラスで見た人影、もしかしたら今の男と同じ人物かもしれない。
 遠くで犬の咆哮[ホウコウ]が聞こえた。
 広い屋敷だ、まだ番犬がいても可笑しくはない。
 Kは急いでその場から去ることにした。大量の血が獣を引き寄せる。
 男が消えたであろう方向へKは歩みを進める。
 屋敷からどんどんと離れていく。
 広がり続ける裏庭。
 牢屋のようなフェンスで囲まれた敷地。
 その先に見えるのは墓地だった。
 墓地に侵入したKは辺りを見回す。
 ほとんどが崩れかけた墓石で、長らく放置されているように思われた。
 荒れ果てた墓の中に、ほかとは違う墓があった。
 そこに並んでいる物は、墓石だけが建てられているのだが、その墓の前だけには石でできた棺のふたらしき物があったのだ。
「しかもなんかちょっと斜めってるっていうね」
 そのわざとらしさに罠とも考えられるが、Kは構わず石のふたを動かした。
 そして、その下から現れたのは地下へと続く階段。
「人気のないところにある秘密階段……なにこのセオリーどおりの展開」
 文句を付けながらKは階段を下りる。
 地下に潜るにつれ、明かりが失われていくと思いきや、中のほうが夜空の下より明るかった。
 石造りの廊下に灯された蒼い明かり。備え付けられたランプの中では、魔導を帯びた蒼い光が灯されていた。
 湿気を含んだ冷たい空気。
 ゆっくりと歩き出すK。
 地下は道が入り組んでおり、まるで迷宮を思わせた。
 長い廊下、いくら進んでも部屋らしき場所には行き当たらない。
 いくつもの分かれ道を進み、引き返そうにも道がわからない。
 どこに着くのかもわからない。
 臆することなくどんどん進み続けたKは、ついに今までと違う場所に行き当たった。
 階段だ。
 上へと階段を伸びている。
 階段を上った先には扉があった。この扉はどこに繋がっているのか?
 内鍵を外してKは重い扉を開けた。
 そこの先に広がっていたのはどこかの屋敷。
「あ、帰ってきたっぽい」
 ほかに屋敷があるとは考えづらい。
 その場所から歩き出すと、すぐに見覚えのある大階段まで来ることができた。
 Kは大きなあくびをした。
「ふぁ~、もう疲れたし寝よ」
 そう言って自分の部屋に向かって大階段を上りはじめた。

《4》

 ――眼に焼き付いた最後の光景は嗤うルージュ。
 Kは躰を優しく揺さぶられ、ゆっくりと目を開いた。
「ふわぁ~、あと5分、あと5分だけ寝かせてぇ~」
「かしこまりました」
 と少女の声がして、気配が去っていくのを感じてKはベッドから飛び起きた。
「ちょっと待って行かないで!」
 寝ぼけていた脳みそが一気に覚醒した。
 Kが呼び止めるとフェイスマスクを被った侍女が立ち止まった。
 彼女が押していたカートには朝食が乗せられている。
 メニューはパンとスープとサラダ。
「肉が食べたいなぁ」
 何気なくKが言うとすぐに、
「かしこまりました、すぐにお持ちします」
 と取りに行こうとする侍女の袖を急いでKはつかんで止めた。
「行かなくていいから、例えばの話だから、なくても別にいいから、ね?」
 従順すぎるのも少し困る。
 侍女が去ったあと、Kは朝食を歩き食いしはじめた。
 部屋の中をクルクルと回る。
「ん~」
 今日の予定は、そうだ、Kが倒れていた森に連れて行ってもらうはずだった。
 朝食をさっさと食べ、用意されていた服に着替える。
「なんか……中世の片田舎のお嬢さんって感じ」
 お嬢様ではないところが微妙だ。
「さーってと」
 部屋を出て人を屋敷の者を探す。昼間ならばすぐに見つかりそうだったが、意外に見つからない。
 やっと侍女の背中を見つけて追いかける。
 その途中で聞こえてきたピアノの旋律。
 思わず侍女を追いかけるのを忘れ、その場に立ち尽くしてしまった。
 サロンに置かれたピアノを弾く男。
 そこで寛ぐ人々はその音色に聞き惚れている。
 紳士淑女たちはピアノから一定の距離を置いていたが、Kは構わずピアノ近くで演奏を聴くことにした。
 しかも、場の空気に反する行動をした。
「うまいじゃん」
 しゃべりかけたのだ。
 人々から冷たい視線を受けるがKは気にしない。
 ピアノの奏者はSだった。
 Sは気分を害するでもなく、気さくに返事をする。
「長いこと弾いていれば誰でも上手に弾けるようになるさ」
「え~っ、絶対あなた才能あると思うよ~。プロ目指しなよプロ!」
「それは嬉しいね」
 急にSは旋律を変え、激しい曲を弾きはじめた。
 近くで聴いていたKの心が弾む。
「それなんて曲?」
「さぁ、君の贈る即興曲だからね……炎の舞いというところかな」
 Sはなぜこのとき、解せない笑みを浮かべた。
 この旋律を聴いていると、Kは何かが思い出せそうだった。
「ほのお……かえん……かえん?」
 しかし、それ以上は思い出すことができなかった。
 Sは急に演奏を止めて、その手でKの腕をつかんだ。
「ところで、血がついているけれど平気かな?」
「あっ、シャワー浴びるの忘れた」
 スカートを捲り上げると脚にも血がべっとりついていた。
 その血の痕をSは興味深そうに見ていた。
「傷痕はないね。誰の返り血かな?」
「あたしの血だし、でもなんか傷がすぐ治っちゃうんだよね。昨日さ、夜に散歩してたら犬に噛まれちゃって、しかも人生初……たぶん初なんだけど犬に犯されそうになっちゃって、マジで大変だったんだから」
「あの番犬を殺ったのは君……と言いたいところだけど、別の者がいるようだね」
「それがさぁ、あの……なんかよくわかんないけど助けてもらったみたいで」
 あの男のことを言いかけて、やはりやめた。
 それにしても男はあの場所で何をしていたのか。
 あの穴の謎も解決されていない。
 謎はいくつも残っているが、もっとも解決しなくてはいけない謎を忘れてはならない。
「そうそう、あたしが倒れてた森に案内して欲しくて、人を探してるんだけど?」
「ならマダム・ヴィーの部屋を尋ねてみるといい。よろしければそこまで案内するよ?」
「ホントに、あんがとー」
 KはSに連れられマダム・ヴィーの部屋に向かった。

 紅色に彩られた部屋に鞭の音が響き渡る。
「さあ、この脚を舐めるのよ」
 床を這っていた少年が上体を起こして、松葉杖を突いて立っているマダム・ヴィーの〝脚〟にしがみついた。
 しがみつくと言っても、実際にはそこに脚はない。失われた片脚が、あたかもそこに存在しているように、少年は〝脚〟にしがみつき、丹念に舌を使って舐め回す。
 太股からつま先まで舐める少年の口から涎れが垂れる。
 ときに舌の腹を大きく遣い、ときに舌の先端を突くように遣い、〝脚〟全体に奉仕をする。
 マダム・ヴィーのルージュは恍惚を浮かべ、存在する太股に蜜が伝った。
 すでにショーツは身につけておらず、マダム・ヴィーは秘裂を人差し指と中指で開いて見せた。
 なにも命じられなくても、少年は〝脚〟から股間へと舌を這わせる。
 股間に埋められた少年の頭をマダム・ヴィーが鷲掴みにして、さらに強く息も出来ないほど押しつける。
 ぺちゃ、ぺちゃ……と淫猥な音が響き渡る。
「んふっ……」
 マダム・ヴィーの鼻から熱い息が漏れた。
 さらに頭を強く押しつける。
 少年が頭を振るわせる。息が出来ないの違いない。けれど、少年はそれ以上激しく抵抗をしようとはしない。
 逆らってはいけないことを知っているのだ。
 少年の全身が痙攣した。
 そして、動きを止めた少年をマダム・ヴィーは床に叩きつけた。
 少年は白目を剥いて舌を出している。
 すぐに侍女たちが少年を部屋の外へと運び出す。
 部屋の奥には裸の少年や少女たちが立たされていた。代わりならいくらでもいるのだ。
 品定めを終えたマダム・ヴィーが次の玩具を指名する。
「その子がいいわ。たしかまだ処女だったわよね?」
 ルージュが艶やかに笑う。
 少女はベッドに寝かされた。その足下からマダム・ヴィーが蛇のように迫ってくる。
「怖がらなくていいのよ。わたくしがあなたの処女を食べてあげるのだから」
 マダム・ヴィーの手が少女の足に触れた。
 さらにふくらはぎを這い、太股へと這っていく。
 マダム・ヴィーは這いながら少女の躰に覆い被さる。
 小さな膨らみの上で突起する鴇色の粒に歯が立てられた。
「ヒィィッ」
 小さく悲鳴を漏らした少女。
「もっと大きな声をあげていいのよ」
 さらに歯に力が込められた。
「ヒャアァァッッツ!!」
 絶叫した少女に満足したマダム・ヴィーが口を離すと、その部分には痕が残り血が滲み出していた。
「痛かったでしょう、すぐにお薬を塗ってあげるわね」
 マダム・ヴィーがそう言うと、手袋をした侍女たちが少女の全身に手を這わせ、得体の知れない白濁した薬を丹念に塗り込みはじめた。
 小刻みに震え出す少女の躰。毛が逆立ち鳥肌が立つ。
 薬は皮膚だけなく、毛の一本一本にまで塗り込まれる。
 少女の息がだんだんと荒くなってきた。震えていた躰はうねるようになり、下半身を何度も浮かせている。
 全身から流れ出す汗と薬が混ざり匂い立つ。
 マダム・ヴィーは少女と接吻を交わした。
 少女は涎れを垂らしながら差し出された舌にむしゃぶりつく。処女とは思えぬ肉欲。眼は溶けて焦点が合っていない。
 涎れが糸を引く。
 マダム・ヴィーが顔を離すと、名残惜しそうな甘えた表情をする少女。
 もう完全に落ちている。
 少女の髪の毛を撫でるマダム・ヴィー。
「いい子ね、ご褒美をあげましょうね」
 マダム・ヴィーは自らの股間に手を宛がい、クチュクチュという音を立てた。
 そして、腰を大きくビクン振るわせたかと思うと、その秘裂から腕のように巨大なモノが生えてきた。
 血管を浮き上がらせながらそそり立つそれは、陰核ではなくまさに……。
 巨大な肉棒が少女の腹に乗せられ、徐々に先端が下へと向かう。
 快楽に浸っていた少女だったが、それを見た途端、急に表情を硬くして全身を恐怖で振るわせた。
 恐ろしい笑みを浮かべるルージュ。
 次の瞬間!
「ギャァァァァァァァァッ!!」
 この世のものとは思えない地獄の叫びが木霊した。
 ギシギシと何かが音を立てていた。
「ヒィィィィィ!!」
 メリッ、メリッと何かが避けていく。
 少女の股間から流れ出した鮮血が白いシーツをたちまち真っ赤に染める。
 失神と覚醒を繰り返す少女は白目を剥きながら口から泡を吐いていた。
 マダム・ヴィーが腰を動かす。
 巨大な肉棒が少女の腹の中を抉る。
 ベッドのスプリングが何度も弾んで、マダム・ヴィーの躰を浮かせる。
 鉈のように振り下ろされる巨大な肉棒。
「ヒィィッ、フギィッ……ギャァァァァァッ……ウガッンガッ!!」
 もはや少女の口から発せられる音は悲鳴ですらなかった。
 しかし、いつしか少女の鼻からは甘いと息が聞こえてくようになった。
「んっ……んんっ……うんっ……ああっ……ああン!」
「どう、気持ちいいでしょう。もっと薬を塗ってあげなさい」
 マダム・ヴィーの命令で再び侍女たちが少女の躰に薬を塗りはじめる。
 今度は先ほどよりもたっぷりと、肌の色が見えなくなるほど塗りたくられた。
 脇の下やへその穴の中、口の中にも溢れんばかりの薬が入れられた。
 侍女の指が少女の尻の窄みに触れ、そのまま吸い込まれるように這入って行った。
「ヒィッ!」
 前からも後ろからも犯され、少女は狂乱に酔いしれた。
 はじめは1本だった指も2本に増え、3本に増えながら菊門を拡張していく。
「嫌っ……這入りません……そんな……」
 どこを触れられても気持ちがいい。
 少女は休まることなく痙攣し続け何度も舌を噛んだ。
「ふがっ……ひぃっ……死ぬ……死ぬ……っ!」
 やっとの思いで出た少女の言葉。
 冷たいルージュ。
「今死ねるなら幸せでしょう?」
「はい……幸せです……」
「まあ、なんて変態なんでしょう、うふふふふっ」
「変態……です……ううっ……だから……」
「もっとご褒美が欲しいのね」
 マダム・ヴィーが巨大な肉棒を引く抜くと、少女は俯せにさせられ、今度はそれをヒクつく別の穴へと挿入られてしまった。
 そこにあるシワというシワが伸び、メリメリと中へ侵入していく。
「ヒィィィッ……避けてしまいます……ううっ!」
「避けてもわたくしは構わないわ」
 直腸がまっすぐに伸ばされ、今にも腹を貫かれそうだった。
「キャハハハハハッ! こんな小さな躰に全部這入ってしまうわ。もしかしたら口から先端が出てしまうかもしれないわね!」
 現実にはそんなことはありえないが、まさにそのような感覚が少女を襲っていた。
 意識が朦朧としてきた少女。
 少女は自分の血の臭いを肺一杯に吸い込みながら、全身を真っ赤に染めていく。
 眼を開けたまま少女は動かなくなった。
 声すらも上げず、ただひたすらに中をズタズタに引き裂かれる。
「あら、もう終わり?」
 マダム・ヴィーは血のべっとりとついた巨大な肉棒を引き抜いた。
「この子は気に入った。すぐに手術をして蘇生してあげなさい」
 ただちに侍女たちが少女の残骸を運んでいく。
「まだわたくしは満足していないわ。次はどの子がいいかしら?」
 マダム・ヴィーに顔を向けられた少年が気絶した。
「ふふふっ、可愛いのね。その子には地下に運んでちょうだい。特別な処置を施して売り物にしましょう」
 残された少年少女たちは、次は自分の番かと震えが止まらない。待っているのは地獄のみ。どの地獄に行くか、選ぶ権利すら与えられない。
 すべてはマダム・ヴィーの為すがままに――。
 奇声を上げて少年が逃げ出そうとした。
 しかし、足がもつれてすぐに転倒してしまった。
 すぐに侍女たちが少年を押さえつけ、口に猿ぐつわを嵌めた。舌を噛んで自殺させないためだ。このような痴態を晒した者には、今死なれては困るのだ。
「逃げ出そうとするなんて、どれほど怖かったのかしら、可哀想に」
 ルージュは嗤っていた。
「でも大丈夫よ怖くないわ。その子の眼を抉って、耳も塞いであげなさい。そうすれば怖くないものね、うふふふふふふ、うふふ、キャハハハハハハ!!」
 マダム・ヴィーが声をあげて笑い続けていると、部屋の奥から侍女が現れた。
「お館様、シュバイツ様がお見えになりました」
 それを聞いてマダム・ヴィーは舌なめずりをした。
「あら、自らわたくしの部屋に来るだなんて、どのような風の吹き回しかしらね」
 実に楽しそうに声を弾ませた。
 少しして部屋に入ってきたのはSと、彼が連れてきたKだった。
「ご機嫌ようマダム・ヴィー。貴女が彼女との約束を忘れているようなので、わざわざ催促に来ました」
 Sに言われマダム・ヴィーはKに視線を向けた。
「そうだったわ、大切な貴女との約束を忘れるところだったわ。たしか、そう、貴女を発見した森まで行くのだったかしら」
「まあ、そうなんですけど」
 Kは適当に返事をしながら、その視線は異様な部屋に向けられていた。
 大量の血痕。
 裸で立ち尽くす少年少女たち。
 それを隠そうともしないマダム・ヴィー。
 口を硬く閉ざしているKの手をSが引いた。
「さあ、僕たちは外で待っていよう。マダムにも支度があるだろうからね」
 KはそのままSに引っ張られ部屋の外に出た。
 大きく息を吐くK。
「うぇぇぇぇっ、ひっどい趣味」
「まったくその通りだ。しかしどんな性癖を持っていようと、彼女の才能は必要とされているんだよ」
「どんな才能?」
「少し口が滑ったね、今のは聞かなかったことにしておくれ」
「ききた~い」
「可愛い子にそう言われると弱いけれど、僕にも立場というものがあってね」
 Sは苦笑した。
 それからしばらくして、車椅子に乗ったマダム・ヴィーが部屋から出てきた。
「さあ行きましょう、森の奥へ」
 何事もなかったように、まるであの部屋はただの夢だったと言わんばかりに、マダム・ヴィー異様なまでに澄ましたルージュをしていた。

《5》

 森への同行者にマダム・ヴィーとSも名乗りを上げた。それにマダム・ヴィーに付き添う皆同じに見えるフェイスマスクの侍女が一人。加えて案内役としてフェイスマスクを被った男の使用人が現れた。
 この屋敷に来てKは男の使用人をはじめて見た。この屋敷にいる使用人たちは皆若い女であり、夜に見た巨漢の男は使用人かどうかわからない。
 館を出て、真っ赤な薔薇の咲く庭を抜けると、そこには巨大な門があった。
 門は数多くの装飾が施され、荘厳さを兼ね備えていた。
 近くで門を見ると、その装飾は地獄をモチーフにしていることがわかる。重厚感のある金属製の門に、浮き彫りにされた悪魔や悪鬼たち。不気味な笑い声が今にも聞こえてきそうだ。
 重い扉が開けられると、強風が吹き込んできた。
 門から先は森を切り開いた道が続いていたのだが、使用人はすぐに道を逸れて森の中へKたちを案内した。
 森の中にはいくつもの小道が存在した。踏みならされている道には違いないが、車椅子のマダム・ヴィーは大きく揺られ、それを押す侍女は大変そうだった。
 枝を踏み折る音がどこかから聞こえた。近くではない、少し離れたところだ。野生動物がいるのだろうか?
 草木の揺れる音。
「上だ!」
 Sが声をあげたとほぼ同時、木の上から人影が降ってきて使用人に飛び掛かった。
 よく見るとそれは人ではなかった。シルエットは人に似ているが、皮膚は腐ったような色をしており、全裸の躰には体毛はない。眼はぎょろりとして、涎が常に口から垂れている。
 怪物は使用人を地面に押し倒し、その首に喰らい付いた。
「ギャァァァァァッ!」
 引き千切られた首から血が噴き出す。
 怪物は血を浴びて喜んでいた。両手を大きく上げて意味不明な雄叫びをあげている。
「困ったわね、案内役がいなくなってしまったわ」
 さして困った風もなくマダム・ヴィーが言った。
 目の前で惨劇が起きたというのに、残された者たちは冷静だった。まるで常にこのような常居と隣り合わせで生きているようだ。
 Kは辺りの気配を探った。
「なんか一匹だけじゃないみたいなんですけどー」
 怪物が森の奥から次々と姿を見せる。
 すっかり周りを囲まれ、簡単には逃がしてくれそうもない。
 一匹の怪物が股間のモノを手で擦りながら前で出た。
 次の瞬間、その怪物は視界から消えていた。
「キャーーーッ!」
 悲鳴のした方向をKが振り返ると、車椅子の後ろにいた侍女を怪物が攫おうとしているところだった。
 生け捕りにされた侍女は怪物の輪に放り投げられ、服を引き千切られ柔肌を露わにさせられ、すぐに怪物どもに輪姦されてしまった。
 侍女は四つん這いにさせられ、後ろから二本、前からも一本、穴の中にケモノ臭い肉棒を突っ込まれた。
 KはSとマダム・ヴィーの顔を交互に見合わせた。
「あのぉ、この状況どうするんですかぁ?」
「僕としては、レディを助けるべきだろうね」
 Sが怪物の輪に向かって駆けだした。
 その背中を見ながらマダム・ヴィーは微笑んでいるだけ。車椅子のせいもあるだろうが、彼女ははじめから何もする気ないように思える。
 Kはどうするか決めかねていた。とりあえずSの様子見だ。
 武器も持たず怪物の輪に飛び込んだSは、あろうことかなんと素手で怪物に殴りかかった。
 その結果はKを驚かせるものだった。
「わおっ」
 Sの拳を顔面に受けた瞬間、怪物の頭部が西瓜のように弾け飛んだ。
 至近距離の血飛沫がSの顔にかかることはなかった。彼はジャケットは犠牲にしたが、顔に飛んできた血は全て躱したのだ。常人を越えた俊敏さであった。
 怪物どもが侍女を放置してSに襲い掛かる。
 そのスピードは侍女を攫ったときに証明済みだ。
 しかし、Sのスピードはそれをさらに越えていた。
 網の目を縫うような隙間に入り怪物の攻撃を躱し、次々とその拳をヒットさせていく。
 しかも、戦いの最中におしゃべりをする余裕の見せようだ。
「プロのピアニストとして拳を武器にするのはどうかと思われるけれど、僕が得意な魔導は自己強化でね」
 Kがつぶやく。
「ピアニストだったんだ」
 プロを目指せとか言ったような気がする……。
 壮大な破裂音と共に怪物が次々と倒れて逝った。
 仲間が無残な死に方をするのを見て、何匹かの怪物は逃げてしまった。
 片付けが済み、Sは侍女に手を貸して立たせた。
「大丈夫かな?」
「ありがとうございます」
「汚れていて済まないがこれを着るといいよ」
 自分の着ていたジャケットを侍女に着せた。そして、にこやかな雰囲気で、マダム・ヴィーのいる方向を振り向いた。
「さてマダム・ヴィー、ほかにはどのような珍獣がこの森にはいるのかな?」
「ほかにもいろいろと。今のは一番小物の可愛い妖精さんよ」
 不気味にルージュは微笑みを湛えた。はじめから彼女は知っていたのだ。
 案内役の使用人は死に、森は怪物で溢れかえっている。
 Kがゆっくりと挙手をした。
「はぁ~い。ちょっと考えたんですけどぉ、別にあたしが見つかった場所に行かなくてもいいかなぁって」
「賢明な判断ね」
 マダム・ヴィーは言った。
 しかし、Kには腑に落ちないことばかりだった。
 まずあの使用人が本当にKをこの森の中で発見したのか?
 真っ先に怪物にやられたような者が、この森に足を踏み入れKを見つけることができるのだろうか。それができる可能性を考えるならば、彼一人ではなかったかもしれないことだ。
 ほかにも怪物はなぜわざわざ車椅子の後ろにいた侍女を襲ったのか。ほかにも襲いやすい者がいたはずだ。単純に好みの問題かもしれないが。
 さらにマダム・ヴィーの行動や態度だ。
「この場所が危険だって知ってたなら、使用人を前に歩かせるべきじゃなかったんじゃ?」
 Kがマダム・ヴィーに話を振ると、
「あの者しか道を知らないのだから前を歩いて当然でしょう?」
 本当にそうだろうか?
 マダム・ヴィーは自ら車椅子を動かしはじめた。
「さあ帰りましょう。屋敷に帰って美味しいワインでも飲みたいわ」
 慌てて侍女が車椅子を押す。
 その場で口を尖らせて立ち尽くすKの手をSが引いた。
「僕たちも行こう。またなにが出るかわかったもんじゃないよ」
「そーなんだけどさぁ。てゆか、ちょっと聞いてくれる?」
「なにを?」
「あたしって本当にここで見つかったのかな?」
 すでにマダム・ヴィーたちは遙か遠く、その会話は聞こえていないだろう。
 Sは何も言わなかった。
「だってさ、こんなところに気絶して放置されてたら死ぬでしょ?」
「死ぬかどうかはわからないけれど、きっとここで怪物に襲われたときに記憶を失ったんじゃないかな?」
「そうかなぁ。犯されて喰われて死んじゃいそうだけどなぁ」
「記憶を取り戻せばわかることだよ」
 本当に記憶は取り戻すことはできるのか。
 KとSは屋敷に向かって歩き出した。

 屋敷に戻ったKはマダム・ヴィーと別れ、Sと共にテラスに来ていた。
 テラスにはテーブルとイスもあり、そこで紅茶を飲みながら時間を過ごした。
 Kはやはりまだ腑に落ちていなかった。
「やっぱりさ、森の中じゃないと思うんだよね、どう思う?」
「僕にはわからないね。神のみぞ知るじゃないかな?」
「神じゃなくてマダム・ヴィーが知ってる気がするんだよね。だってあたしここで目覚めたんだよ、マダム・ヴィーが知らないわけないじゃん?」
「森で見つかったのでなければ、当然そうなるだろうね。彼女はこの屋敷では絶対だ、彼女に嘘の報告する者なんていない」
 SはKを見ずにずっとテラスからの景色を眺めていた。
 身を乗り出してKはSに迫った。
「あのさ、あなたとマダムってどーゆー関係なの?」
「前にも教えたけれど、ただの仕事仲間さ、ただのね」
「ただってとこ強調するの怪しくない?」
「仕事仲間だけれど、同じような人種だと思われるのが嫌なだけだよ」
 Kもマダム・ヴィーとSは切り離して考えていた。マダム・ヴィーの耳に入れたくない会話もSにはしている。Sからマダム・ヴィーに伝わることをあまり危惧していないからだ。
 この屋敷にいる者は誰しも謎に包まれているが、Sとこれだけ話しても彼のことについてわからないことが多い。
 どうしてもKがSに聞きたいことは、
「あなたってあたしの敵なの味方なの?」
 これに対してSは口元に笑みを浮かべた。
「さあ、今のところは君と争うつもりはないね」
「今のところは……ね」
 ということは、何かがあれば敵としてKの行く手を阻むと言うことだ。
 どのような状況になればSは敵になるのかと考えたとき、Kはあえて今からしようとしていることを打ち明けようとした。
「この屋敷の地下を調べてみようと思うんだけど、どう思う?」
 悪戯に笑うK。Sの反応を窺っている。
「この屋敷に地下があるだなんて、初耳だね」
「そう来る? ホントは知ってたんでしょ、てかさ、こないだ入ったときはそれどころじゃなくて調べられなかったけど、あの場所ってなにがあるの?」
「マダム・ヴィーに聞けば済むことだよ」
「めんどくさ~い」
 聞いたところで教えてもらえるとは限らない。
 謎の男を追っている課程で地下への入り口を見つけた。その因果関係から男が地下で何かをしていた可能性はある。地下はただの通路なのか、それとも何かが存在してるのか。
 Kは席を立った。
「んじゃ、冒険にでも行って来ようかな」
「あまり危険は冒さないようにね」
「心配してくれてあんがと、そんじゃね~」
 Sに別れを告げてテラスをあとにした。
 大階段を下りて地下に続く扉があった場所に向かう。
 堂々とした態度でKは扉の前に立った。別に人に見られても構わない気持ちだ。
 扉を調べるK。
「やっぱカギかかってるし」
 すぐにここから入ることを諦め、Kは裏庭の先にある墓地へ向かった。
 夜の墓地は物悲しいが、昼は昼とてその荒廃がよく目につく。
 こちらの入り口は前と何ら変わりなかった。
 石のふたを動かし、地下へと進む。
 地下は夜に来ても昼に来ても、同じ空気を纏って存在している。蒼いランプの光が仄かに照らしていた。
 入り組んでいる道のせいで、昨晩通った道はよく覚えていない。
 壁や床など道がしっかりと舗装され整備されているが、入り組み方は機能的とは言えず、まるで迷宮を思わせる。
「……やっば、もう来た道忘れた」
 呟いたK。
 引き返す道すら見失ってしまった。
 それでも躊躇なくKは歩き続け、やがて前方から物音が聞こえてきた。
 ジャラジャラと金属が擦れ合う音。
 甲高い奇声。
 獣臭い。
 そこにはいくつもの牢屋が並んでいた。
 牢屋の1つに閉じ込められているのは森で見た怪物だ。
 ほかの牢屋の中には、はじめて見る獣というべきか、怪物が入れられていた。
 獣たちはまったく見たことのないようなモノではなく、既存の獣たちの奇形に思われた。
 そう言えば、昨晩も双頭の黒い犬を見た。
「……キメラ」
 キメラないしキマイラ。ギリシア神話に登場する獅子の頭部、山羊の体、蛇の尾を持つ怪物の名前。これに由来する合成怪物の総称だ。
 帝都エデンにもたびたびキメラが出現することがある。その多くは魔導の副産物であり、人為的に作られた生。近頃は兵器としての需要も高まりつつ、それに伴う規制が進んでいる。
 蟷螂[カマキリ]の手を持つ男が牢屋越しに飛び掛かってきた。
 Kはまったく動じない。
「カマキリ男……ここで作られたとするなら、何の目的だろ。あっ、昨日見たゴリラ男も本当にゴリラだったのかも」
 ゴリラ男とは裏庭で見た巨漢の男のことだ。
 そこら中から気配がしているが、それとはまた別の気配をKは感じた。牢屋の中からではなく、廊下の向こう側から徐々に近付いてくる気配だ。
 隠れられそうな場所がここにはなく、Kは急いで廊下の奥へと進んだ。
 今までと雰囲気の違う場所に出た。
 並べられた巨大なガラス管の中で液体に浸せれ浮いている謎の生物たち。
 ひとつひとつガラス管を見て回り、もっとも奥にあったガラス管の中には裸の少女が目を瞑って浮いてた。
 その姿を見た途端、急にKは頭痛に襲われその場に蹲ってしまった。
 硝子の向こう側で眠り続ける少女。
「そんな……ウソ……あるわけない……」
 声を震わせKは呻いた。
 脳裏が揺さぶられる。
 記憶が蘇る。
「だって……だって……なんでそこに……いるの……」
 Kは叫びながらガラス管に飛び掛かった。
 その先では今も少女が眠っている。
 マスクで隠された自分の顔。
 そして、硝子越しに見る少女の顔。
「なんでそこにあたしがいるの! だったらあたしは誰なの!?」
 自我が崩壊しそうだった。
 そのとき、硝子の棺で眠っていた少女の眼がカッと開いた。
 燃えるような緋色の瞳。
 宿りし炎。
 今、その少女は目覚めた。

《6》

 ガラス管が粉々に砕け飛び、流れ出す大量の液体と共に、華艶が這い出された。
 びしょびしょになった躰から雫をしたたらせながら、華艶はゆっくりと床から立ち上がる。
 そして、すぐに近くに蹲るKを見つけた。
「誰?」
 呼びかけに反応したのかしないのか、Kは虚ろな瞳で華艶を見つめた。
 マスクで隠された少女の顔。
 華艶は息を呑んだ。
 たとえマスクで隠されていようと、見覚えのある顔がわからない筈がない。
「ええっ~~~ッ!? あたしじゃん!」
 ガラス管の中に閉じ込められていた間に何が起こったのか、華艶はわけがわからず混乱に陥った。
 一方、Kは先ほどからぶつぶつと何かを呟いている。
「誰なの……あたし…・…あいつ……本物は……あたし……」
 そして、Kは奇声をあげながら華艶に飛び掛かったのだ。
 突然だったことと、それが自分と同じ顔を持つ者だったため、華艶は避けきれずに首を絞められてしまった。
 Kの手に力が入る。
「死ね……死ね……死ねーッ!」
 首を絞められながらも華艶は抵抗できなかった。
「ちょ……なんであたしの顔……」
 自分と同じ顔を持つ者に首を絞められている。赤の他人であれば、すぐにでも反撃しているところだが、自分に攻撃をすることは躊躇[タメラ]われた。
 だからと言ってこのままでは絞め殺される。
「ごめん!」
 華艶はKの腹に膝蹴りを喰らわせ、相手が怯んで手を緩めた瞬間にタックルを喰らわせた。
 砕け散った硝子の上で転がったKの躰が傷つき血が流れる。
 しかし、血はすぐに止まり、深く切れていた腕の傷もすぐ塞がっていく。
 それを見た華艶は、
「マジ……そこまであたしと同じなの?」
 自分と顔が瓜二つなだけでなく、その能力までも同じ。もしかしたら、ほかの能力も有しているかもしれない。
 虚ろな目をしたKが再び華艶に飛び掛かった。
 難なく華艶が躱すと、Kはそのまま床に飛び込んでしまった。運動神経を感じられない、まるで魂の抜け殻のような動きだ。
 立ち上がり華艶に掛かるや床に倒れ、また立ち上がり華艶に飛び掛かる。何度もその繰り返しだった。
 華艶は自分のそっくりさんの扱いに困り果てていた。
「どうしたらいいわけ、あたしにソックリなんだからしっかりしてよね」
 その言葉も届かず、Kは延々と華艶に飛び掛かる。
 ついに華艶はその場から駆けだした。
「逃げるしかないか」
 自分に似た存在の正体も気になるが、一先ず放置してその場から素早く逃げようとしたのだが、部屋の出口に現れた真っ赤な女の影に阻まれる。
 ルージュが艶やかに笑う。
「まさか目を覚ますなんて、期待以上だわ」
 車椅子に乗って姿を現したのは、
「マダム・ヴィー!」
 華艶の叫び声が木霊した。

 事件の依頼は数日前に遡る。
 失踪した弟を捜して欲しいという姉からの依頼だった。
 手がかりは多く、弟は何者かに攫われたことが判明する。
 そして、事件の調査を進める華艶の前に現れた男。
「〈不死鳥〉の華艶……キミもオークション会場を探しているのか?」
 はだけたシャツから覗く胸には、巨大な十字架の刺青。
 闇の中にありながら輝き続ける〈宵の明星〉の通り名を持つ殺し屋――瑠流斗[ルルト]。
「オークション会場って?」
 華艶は首を傾げて尋ねた。
 謎の人攫い集団の存在。何らかの組織による誘拐であり、その被害者は数え切れないほどいることが判明した。そこで華艶は同一の組織に攫われたと思われる被害者を割り出し、犯行が行われた現場を調べていたのだ。
 その1つ、友人とのカラオケの最中、トイレに行くと言って帰らなかった少年。犯人の逃走ルートはどこか、それを探る内に華艶はビルの屋上にやって来た。
 そこで月明かりを浴びて立っていたのが瑠流斗だった。
「まだそこまで辿りついていないのか……」
 瑠流斗は呟いた。
 すぐに華艶は同じ事件を追っていることを察した。けれど、向こうは殺し屋。事件は同じでも依頼内容は違うだろう。
「なんで殺し屋さんが誘拐事件なんて追ってるの?」
「ターゲットが攫われたからさ」
「うわっ、めんどくさい依頼。でさ、オークション会場ってなんなの?」
「攫われた被害者は調教され、商品としてオークションにかけられる。それを取り仕切っているのはマダム・ヴィーと呼ばれる女だ」
「で、あんたはすでにオークション会場を見つけたの?」
 答える代わりに瑠流斗はメモを華艶に投げた。
 そして、すぐにビルの屋上から飛び降りて姿を暗ましてしまった。
 華艶はメモを開く。そこにはオークション会場と思われる場所が書かれていた。
「なにこの気前の良さ。てゆか、メモまで用意してたってどゆこと?」
 依頼内容は違うとしても、なぜ瑠流斗は華艶に協力的なのか。
「もしかしてあたしを囮に使う気?」
 オークション会場で華艶が敵の目を引いている内に、自分は闇に潜んで楽々依頼をこなす気なのだろうか。
 なんにせよ、そこに目的があるのなら、華艶は行かざるを得ない。
 正直、華艶は調査に行き詰まっていたところだったので、
「まっ、ラッキーか」
 と楽天的だった。

 鬱蒼とした森の奥深くに聳え立つ屋敷。
 華艶は瑠流斗から受け取ったメモ通りの道を進んでいた。
 館のある敷地は高い塀で囲まれ、扉も頑丈な作りになっており、そこから侵入することは難しかった。そこでメモに書かれていたのは秘密の入り口の存在である。
 蒼いランプの光に照らされた地下。迷路のような道が続き、方向感覚を狂わされる。さらにメモには地下に潜ってからの記載がまったくなかった。
「ちょー不親切だし」
 仕方がなく華艶は入り組む廊下を適当に進んだ。
 しばらく進んだところで、廊下の先に橙色の薄明かりが見えた。
 そして、聞こえてきたケモノの叫び。
「ヒィィィ!」
 華艶は明かりに近付き、少し開いていたドアの先を覗いた。
 そこにいたのは真っ赤なベールに包まれた片脚の女主人。その前には鉄のベッドに寝かされた全裸の若い男。
 艶やかに濡れたルージュが若者の雄しべを呑み込んでいた。
 女主人の頭が上下するたびに、若者の全身が大きく震え、背中を弓なりにさせる。
「ヒィィィィィッ!!」
 絶頂を迎えた若者の下半身が熱く燃え上がり、血流が激しく音を立てて流れた。
 ドピュッ…ドビュビュビュ……!!
 女主人の口内で雄しべが踊り狂う。
 収まりきれずにルージュの端から零れる白い粘液。
 女主人は雄しべが噴き出した命を溢さぬように、口を固く閉ざしたまま上体を起こした。
 痙攣し続ける若者の躰から離れた女主人は、侍女からシャーレを受け取り、どろりとした白濁液を口から吐き出してその中に入れた。
 シャーレはすぐさま侍女によって保存され、女主人は再び若者に近付く。
 若者は躰を大きく痙攣させながら、狂った焦点で天を向いている。
 女主人は若者の上に跨った。
 起立したままの雄しべを手で包み込み、秘所の入り口へと誘う。
 ぬぷっと厚い肉壁に雄しべが呑み込まれた。
 膨れ上がった雄しべが雌しべの奥にぶち当たる。
 女主人が激しく腰を上下させた。まるで暴れ馬に乗るように、何度も何度も跳ねた。その度に若者は悲鳴をあげる。
「ヒィ……ヒィ……ヒィィィィィ!!」
「好い声よ、もっと鳴くのよ。甘美の声で鳴きなさい、わたくしを愉しませる音楽を奏でるのよ!」
 ルージュが嗤う。
 女主人が合図を送ると、侍女はすでに震えているバイブを若者の菊門に押し当てた。
 メリ……メリメリ……メリメリメリ……。
 穴を拡張しながら無理矢理バイブが侵入してくる。
「アヒィッ……うぐ……ぐ……」
 若者の有りと有らゆる穴から液が漏れた。
 涙を流し、鼻水を垂らし、口から涎れが零れる。
 そして、まるで処女のように流れ出す鮮血。
 はじめて直腸に異物を挿入されたにも関わらず、若者はよがり狂っていた。
 痛みなどすぐに忘却され、快楽に全身を蝕まれる。
 若者への仕打ちはこれだけでは終わらなかった。
 女主人が手に持っていたのは細い針だった。
 汗でぬめる若者の腹――その中心にあるくぼみ、へその近くにニードルが打たれた。
「ヒィッ!」
 短い悲鳴。
 ニードルはさらに捻られながら深く腹の中に埋まっていく。
 さらに2本、3本とニードルが打たれていく。
 暴れ狂う若者の躰を侍女たちが拘束具でまったく動けなくする。
 全身を拘束され、意思とは関係なく暴れるたびに、拘束具が肉に食い込み痣になる。
 さらに女主人は乳首に狙いを定め、ニードルの先端を近づけた。
 片手で平たい乳房を摩りながら、残る手で女主人はニードルを勃起している乳首に打った。
「ヒッ!」
 鴇色の乳首をさらに濃い赤が呑み込む。
 女主人は一度乳首からニードルを抜き、真っ赤なルージュで若者の乳首から滲む血を舐め取った。
「うふふ、奇麗な赤」
 再び女主人はニードルを構えた。今度は逆の乳首へと打つ。
 さらに手を休めずに、乳首が見えなくなるほどニードルが打たれた。
「あら、またわたくしの中で大きくなったわ。そんなに針が好きなら、その部分に針を刺してあげましょうか?」
「ヒィ……お許しを……ヒィィィィィィ!」
「許しを請うなんて、まだ思考能力が死んでいないのね。致死量ギリギリの薬をこの可愛い豚に差し上げて」
 女主人に命じられ、侍女が若者の首に注射をした。
 謎の薬はすぐに血中から全身を駆け巡り、若者は白目を剥いて口から泡を吐いた。
 女主人は侍女から鞭を受け取り、若者の片腕を血が止まるほどに強く縛った。
 腰を激しく上下させる女主人。その手に持っていたのは鋸だった。
「あなたの腕は夢の中にあるのよ……だからこの腕は無くしてしまいましょう」
 若者の雄しべが再び大量の白い花粉を噴いたと同時に……。
「ギャァァァァァァァァァァッ!」
 ケモノの叫び。
 思わず華艶は目を背けた。
 その瞬間、反動で思わずドアを押してしまっていた。
 不意に部屋の中に飛び込んでしまった華艶。その視線の先には赤と黒に彩られた女主人。
「あら、お客様かしら」
 ルージュが不気味なまでの微笑みを浮かべている。
 苦笑いを浮かべる華艶。
「あはは、どーも。ちょっと道に迷っちゃって……」
 すでに出口には侍女が立ち塞がり、華艶は逃げ場を失っていた。
 ぬぷっという音を立てながら、女主人は跨いでいた若者の上から立ち上がり、侍女から松葉杖を受け取った凜と華艶の前に立った。
「道に迷っただなんて見え透いた嘘。わたくしの屋敷に何の用かしら、まさかこのわたくしの命が欲しいの?」
「命なんて別に欲しくないし、だってあなたのこと知らないし」
「わたくしのことを知らない? この館の主であるわたくしの名も知らないというの?」
 声は穏やかだったが、そのルージュは明らかに怒りで歪んでいた。
 次の瞬間、侍女たちが華艶に襲い掛かっていた。
 速い!
 人間とは思えぬ速さの侍女たちの動きに華艶はついて行けなかった。
 すぐに華艶は羽交い締めにされ、その腹に注射をされた。
「なんの注射!?」
 すぐに効果は現れた。
 全身が痺れ華艶はその場から崩れるように倒れてしまった。
 瞼が重い。
 華艶は必死で目を開けて、すぐ近くまで寄ってきた女主人を見上げ睨み付けた。
「覚えて……この……」
「うふふふふ、まだしゃべれるなんて薬の量が少なかったかしら。でもすぐに何もできなくなるわ。意識を失う前に覚えておきなさい、人々からわたくしはこう呼ばれているの、マダム・ヴィーと」
 しかし、次の瞬間、マダム・ヴィーの予想を裏切る事態が起きた。
 華艶は腕を伸ばしてマダム・ヴィーの足首を掴んだのだ。
「残念でした!」
 華艶はそのままマダム・ヴィーを転倒させ、自分はすぐさま立ち上がった。
 侍女たちは何より先にマダム・ヴィーに肩を貸して立ち上がらせた。
 マダム・ヴィーが叫ぶ。
「魔薬[マヤク]を浄化したとでもいうの! すぐに捕らえない、通常の3倍……いえ、10倍の薬を投与するのよ!!」
 華艶に襲い掛かる侍女たち。
 さすがにそんな量の薬を打たれては躰が持つかわからない。華艶は必死で逃げようと試みたが、出口に現れた巨漢の男。
 すぐさま華艶が巨漢の男の股間を蹴り上げようとしたが、その脚は虚しく掴まれてしまった。
 そのまま華艶は足首を掴まれ宙づりにされてしまった。
 スカートが捲れ、露わになったショーツの上に巨漢の男の涎れが墜ちる。
「お気に入りのパンツに汚ったないヨダレ垂らさないで!」
 叫びながら華艶は、腹筋を使い躰を起こそうと試みたが、下から侍女たちに腕を掴まれてしまった。
 特大の注射器を持ったマダム・ヴィーが近付いてくる。
「実験動物として可愛がってあげるわ」
「ちょ……そんなぶっといの……イヤッ!」
 針は華艶の腹を貫いた。
「痛っ!」
 おそらく針は内臓まで達してしまっただろう。
「ぜんぜん可愛がって……ないし……」
 消えゆく言葉。
 華艶は次の瞬間には気を失っていた。

《7》

 マダム・ヴィーと自分の偽物を交互に見ながら、華艶は頭を抱えた。
「ちょっとこの状況を詳しく説明してくんない?」
 侍女に車椅子を押させながら、マダム・ヴィーが華艶に近付いてくる。
「わたくしの研究の成果よ」
「成果よって……そこにいるのあたしのクローンでしょ?」
「その通り。貴女の驚異的な再生力と、わたくしの技術を持ってして、たったの1日で完璧な作品を作り上げたわ」
「完璧ねぇ、あれが?」
 Kは床に蹲ったまま動かない。まるで何かに怯えるように、震えているのだ。
 艶やかなルージュが囁く。
「覚醒[メザ]めなさい……覚醒めるのよ……わたくしの可愛い子」
 Kの躰が大きく跳ねた。
 何が起ころうとしているのか、華艶は息を呑む。
 Kの躰に浮き上がる血管がまるで模様のように全身を駆け巡る。
 四つ足で立ち上がったKの瞳が紅く燃え上がった。
 燃えたのは瞳の色だけではない。
 その全身も炎に包まれ、猫のようなしなやかさ動きで、Kは背を弓なりにして尻を高く上げた。
 刹那、Kの長い爪が華艶に振り下ろされる。
「速っ!」
 華艶は躱しきれないと本能的に悟り、すぐさまガードに使った腕が切り裂かれた。
「ッ!!」
 肉が抉れ血が噴き出す。
 たとえ同じ顔を持っていても、躊躇してはいられなくなった。このままでは確実に殺られる。華艶の手に炎が宿った。
「炎翔破![エンショウハ]」
 宙を翔た炎の玉がKにぶつかり爆裂した。
 が、Kは無傷。
 それどころか炎を浴びて力を滾らせ華艶に襲い掛かってきたのだ。
「うわっ、マジ!?」
 華艶は飛び掛かってきたKの両腕を掴み攻撃を制止させるが、そのまま押し倒されて床に腰を強打してしまった。
 折り重なるように揉み合いになる華艶とK。
 それを見ながら真っ赤なルージュが嗤っていた。
「実力は決して互角ではありえないわ。わたくしの創り出したEXキメラウェポンは、あなたの細胞によって進化を遂げたのよ」
 華艶の目の前にいるのはただのクローンではない。生物兵器なのだ。
 未だ揉み合いになりながら床を転がる華艶とK。炎が二人を包み、耐久がなければとっくに焼け死んでいるところだ。炎を発し続けているだけで、それが攻撃になる。
 Kの腹に華艶の足の裏が入った。
「元祖のほうがエライに決まってるでしょ!」
 力一杯華艶はKの腹を蹴り上げた。
 蹴り飛ばされたKはしなやかなに宙でバランスを整え、華麗に四つ足で床に着地して見せた。
 華艶の武器は炎。燃やせない相手には歯が立たない。
 すぐさま華艶は床に散らばる硝子片から、大きな物を探そうとした。
 その間にもKが飛び掛かってくる。
 やっと見つけた硝子片に華艶が手を伸ばそうとしたとき、すでにKは華艶の目の前に!
「ダーククロウ」
 冷たい男の声が響いた。
 刹那、Kの躰は脳天から股まで、真っ二つに裂けていたのだ!
 床に落ちた肉塊が血の海をつくる。
 さすがの華艶も瓜二つの存在が真っ二つになるのを見るに堪えなかった。
「ううっ……あ~ダメ」
 華艶は口に手を当てながら、急いで血溜まりを避けて移動する。
 マダム・ヴィーは深い溜息を吐いた。
「失敗作だわ。けれど、また面白い実験動物を見つけたわ……うふふふふ」
 マダム・ヴィーの顔が向けられた先にいたのはLだった。
 さらにマダム・ヴィーは続ける。
「はじめから貴方はほかの者とは違うと思っていたわ。屋敷をコソコソ嗅ぎ回っていたのも貴方ね、いったい何者なのかしら?」
「ただの殺し屋さ。しかしターゲットはキミじゃない」
「それは残念。わたくしの命を狙ってくる男が何よりも好物なのに」
 艶やかにマダム・ヴィーは自らのルージュを舐めた。
 華艶は少しの間考え、あっと声を漏らしてLを指差した。
「ああーッ! 瑠流斗じゃん!!」
 Lは仮面を外し、さらにジャケットを脱ぐと、シャツを破るようにボタンを飛ばし、その胸に刻まれた十字を晒した。
「ターゲットが来たようだ」
 瑠流斗の視線の先、この部屋に飛び込んできた巨漢の男。
 地面を駆けながら瑠流斗が言う。
「ボクのターゲットは彼さ。攫われたのちに、ここで怪物に改造されたようだ」
 そして、
「シャドービハインド!」
 瑠流斗の姿を突如消えたかと思うと、巨漢の男の背後にできた影から這い出てきた。
 刹那、巨漢の男は股から脳天まで真っ二つにされていた。
 すぐに近くにいたマダム・ヴィーが血しぶきを浴びた。
「またしても……失敗作ね。けれどそうでなくてはつまらないわ。わたくしのEXキメラウェポンをさらなる高みへ改良をするためには、強い力が必要ですものね」
 瑠流斗が手を伸ばせばマダム・ヴィーに手が届く。だが、マダム・ヴィーはターゲットではない。
 侍女たちが瑠流斗に襲い掛かる。
 しかし、降りかかる火の粉は払うのみ。
 瑠流斗の闇の爪が次々と侍女の躰を真っ二つにした。
 血溜まりの上に立つ瑠流斗。
「キミの作品は知っている。組み込まれている細胞の存在も。だから一撃で倒さなければならないんだ」
 この部屋に新たな男が拍手をしながら現れた。
「お見事だね。しかし、EXキメラウェポンをよくご存じとは、もしかして僕らの属している組織もご存じかな?」
 この場に現れたのはSだった。
 瑠流斗が答える。
「EXキメラウェポンを作っているのはM∴R∴[マジカルラジカル]だけど、それは末端の一組織に過ぎない。大本の組織は〈闇の子〉を崇拝する魔導結社D∴C∴[ダークネスクライ]」
 自分たちの存在を知っているだろうと踏んでいたSだったが、思わぬ名前が出てとても驚いているようすだった。
「まさか〈神〉の存在まで知ってるなんて、君は何者だ?」
「〈神〉……笑わせる。あんな奴、堕とされたものに過ぎない」
「堕とされたもの?」
「キミはただの団員のようだね」
 瑠流斗はSをあざ笑った。
 会話にただひとり付いてけない華艶が手を挙げた。
「あのさぁ、勝手に話進めないでくれる?」
「キミには関係のない話だ」
 瑠流斗にバッサリと切られた。
 華艶はうなずいた。
「まあね、あたしの仕事は人捜しだし。んじゃ、ここは任せたから!」
 さっさとこの場を離れようとする華艶。
 瑠流斗もまた。
「ボクの仕事も終わっている。ここに用はないよ」
 この部屋から出て行こうとする二人。
 しかし、易々と逃がしてくれるわけがなかった。
 襲い掛かってくる侍女たちを振り切り部屋を出る。
 広がる地下迷宮。
 分かれ道に来て瑠流斗が片方の道を指差した。
「キミの目的地はそっちだよ」
 そう言って別の道に行こうとする瑠流斗を華艶が引き止める。
「ちょ、待ってよ。ここまで来たんだから一緒に来てくれてもいいじゃん?」
「ボクには関係ないことだよ」
「そう言わずにさ、だってあたし道わかんないし」
「出口がないわけじゃない。いつかは必ず出られるさ」
 そう言って瑠流斗は闇の中へ姿を暗ましてしまった。
 残された華艶は仕方がなく、ひとりで別の道に向かう。
 やがて辿り着いたのは独房が並ぶ廊下。中のようすは小窓から見ることができた。
 捜し人の顔を思い浮かべながら華艶は一つ一つ独房を調べていく。
 そして、ついに華艶は目的の人物を捜し出した。
 が、ここで重要なことに気づき落胆する。
「カギないじゃんか」
 とりあえずドアを蹴り飛ばしてみるが、無意味なことは蹴る前からわかっていた。
 ドアに衝撃が伝わり、それに気づいた青年がドアの傍まで駆け寄ってきた。
 小窓はガラスで仕切られているが、声は伝わるだろう。
「あなたのこと助けに来たんだけどカギがなくてさ。もうちょっと待って、必ず助けるから!」
 青年は驚いたようすだったが、すぐに状況を把握して歓喜した。
 カギはいったいどこにあるのか?
 もしも誰かが持っていたら最悪だ。
 華艶は辺りを見渡した。
「ラッキー!」
 カギは壁に掛けられていた。部外者がカギを開けることを想定しておらず、利便性で独房の近くに置いていたのだろう。
 すぐに華艶は独房のカギを開け、青年を救出してその手を引いた。
「早く!」
 だが、青年はその場を動こうとしなかった。
「待ってください。ほかの人も助けてください!」
「……オッケー」
 一瞬、なぜか躊躇があった。正直に言ってしまえば、一人を連れ出すだけでいっぱいいっぱいだった。
 華艶は素早くほかの独房も開けはじめた。
「自分の身は自分で守ってね。それができなきゃ、ここに残って」
 冷たいようだが、華艶自身も危険の中に身を投じているのだ。
 この場から走り出す華艶の後ろを若者たちが追ってくる。
 廊下の先から黒犬が猛烈なスピードを迫ってくる。
「炎翔破!」
 廊下が赤く照らされ、燃えさかる炎の玉が黒犬を焼き殺す。
 さらに廊下の奥からは黒いフェイスマスクの不気味な侍女たちが続々と現れた。
 侍女たちは各々に刃物や銃を持っている。それも一人が携帯している武器は一つや二つではない。なぜなら彼女たちには手が6本あったからだ。
 人間の手が2本と、残り4本の昆虫のような手。
 ただの人間でないとわかれば容赦はしない。
「炎舞烈火![エンブレッカ]」
 華艶の手から薙がれた炎の波が踊り狂いながら異形の侍女たちを丸みにした。
 渦巻く炎の海から奇声が聞こえる。
 狭い廊下に蔓延する肉の焼けた異臭。
「あたし素足なんだけどー」
 素足どころか素っ裸だ。
 華艶の前方に広がる焼けた肉の山。
 仕方がなく華艶はなるべく踏まないように先を急いだ。
 廊下をさらに進むと、さらなる刺客が華艶の前に立ち塞がった。
「先ほどもお会いしたね」
 仮面の紳士S。その正体は魔導結社D∴C∴の団員。
 身構える華艶だったが、Sは戦うそぶりをまったく見せない。
「クローンの君とは仲良くさせてもらったよ。だから君とは争う気はないよ」
「クローンのあたしと何したの? やっちゃったりした?」
「そうだね、一番嬉しかったのはピアノ演奏を褒めてもらったことかな」
「そんな理由で逃がしちゃっていいわけ、だってマダム・ヴィーの仲間なんでしょ?」
「ただの仕事仲間だよ。それにボクは彼女があまり好きじゃなくてね。彼女が失脚しようとボクは構わないのさ」
「んじゃ、お言葉に甘えて」
 華艶がSの横を通り過ぎようしたとき、彼は仮面を外した。
「ボクの名前はシュバイツ。いつかまた逢えることを願っているよ、素敵なお嬢さん」
 シュバイツの横顔を見ながら華艶は先を急いだ。
「……まぁまぁいい男」
 さらに廊下を進むと上り階段が現れた。おそらくここを上れば地下から脱出できるだろう。
 急いで階段を駆け上る華艶。
 しかし、その先で開かれた扉の先には侍女たちが待ち構えていた。
 構わず華艶は強行突破を試みる。
「特大炎翔破!」
 巨大な炎の塊が敵を押し飛ばす。
 まず華艶が地下を抜け出した。そこに広がっていたのは屋敷。
 地下を抜け出しすぐに屋敷の出口を探す。
 出口はすぐに見つかった。
 大階段が見下ろすホールの先に玄関があった。
 華艶は青年の手を引く。ほかの者たちは華艶たちを追い越して玄関へと群がっていく。
 地下から獣の咆吼が聞こえた。
 現れたのは獅子の顔を持った人間だった。いや、もはや人間とは呼べないだろう。
 獅子の怪物は四つ足で床を蹴り上げ、華艶に襲い掛かってきた。
 すかさず華艶が炎を放つ。
「炎翔破!」
 だが、炎の玉は軽く躱されてしまった。
 猛獣のスピードは、所詮人を越えられない運動神経しか持ち合わせていない華艶を凌駕している。
 大きく口を開けて牙を剥く獅子の怪物。
 華艶は腕一本くれてやる覚悟だった。
 獅子の鋭い牙が腕に突き刺さり、口の中へと呑み込まれた。
「炎翔破!」
 放たれた炎は怪物の食道を焼き、さらに胃や内臓、躰の中から焼き尽くした。
 怪物は華艶の腕から口を離し、床の上で何度も転げ回り焼かれた。
 苦痛を浮かべる華艶。その腕は肉が抉られ、骨の一部が見えるほどの重傷だった。
「マジ痛いし……あー痛い痛い痛い!」
 さすがの華艶もこの重傷では再生に時間が掛かる。
「あーやばい、血も止んないし貧血になりそう」
 事態はさらに深刻だった。
 華艶の放った炎は屋敷に引火しており、すでに火の手は天井まで伸びていたのだ。
 騒ぎは大きくなり、屋敷に滞在していた仮面の紳士淑女たちも逃げ出そうとしていた。
 人の波が玄関に群がる。
 次々と屋敷の外へと流れ出す人の群れ。
 華艶も青年と共に逃げようとしたが、その背中に叫びに近い声が投げかけられた。
「逃がさないわよ!」
 華艶が振り返ると、そこにいたのは車椅子のマダム・ヴィー。
 構わず華艶は逃げようとした。
「逃げます、んじゃ!」
 だが、急に足が何かに取られ転倒してしまった。
「わっ、なに!?」
 足首を見るとそこには鞭が巻き付いていた。その先を握っているのはマダム・ヴィー。
「逃がさないと言っているのよ」
「いや、逃げるし」
 華艶は足に巻き付いた鞭を取ろうとするが、なぜか取ろうとすればするほど鞭が巻き付いてくる。そう、まるで鞭が――
「生きてる!」
 叫ぶ華艶。
 その通りだった。鞭は自らの意思を持っていたのだ。まるの蛇のように華艶の足首を締め上げてくる。
 逃げようと華艶は床を這うが、綱引きのように鞭に引っ張られて、マダム・ヴィーの足下まで引きずられてしまった。
 華艶の背中にマダム・ヴィーの足が置かれ、靴のヒールが肉に食い込んだ。
「ちょ、人のこと踏まないでくれる?」
「わたくしが欲しいのはその細胞。汚い口は必要ないわ」
「口が悪いって言いたいわけ、オバサン!」
 暴言が吐かれ、怒りを露わにしたマダム・ヴィーが強く華艶の背中を踏みつけようと、一瞬足を上げた瞬間、華艶の手が炎を宿した。
「炎翔破!」
 この至近距離で炎を避けられる筈がなかった。
 だが、マダム・ヴィーは華麗にもそれを躱したのだ。
 松葉杖を突きながら、踊るように動くマダム・ヴィー。片脚がないとはとても思えない身の熟しだった。
 踊りながらマダム・ヴィーが鞭を振るう。
 そして鞭も撓[シナ]り踊り狂う。
 蛙のように跳ねながら華艶は必死で鞭を躱した。
「なんで、脚ないのに動けんの!?」
「うふふ……わたくしの脚は夢の中にちゃんとあるわ。貴女には見えないだけ」
「夢の中って……妄想ってこと? もぉ意味不明!」
 意思を持った鞭の動きは不規則で、通常の鞭なら1度躱せば済むが、この鞭は躱してもすぐに方向を変えてすぐに襲ってくる。
 鞭が華艶の足首を抉った。あと少し躱すのが遅れていたら、脚を切断されていたところだ。けれど、少し当たっただけだというのに、肉は抉れ傷は骨まで到達していた。
「やばっ……アキレス腱切れたっぽい」
 倒れた華艶は膝を立てて、片脚で立ち上がろうとしたが、顔を上げるとすぐ目の前には真っ赤なルージュが嗤っていた。
「逃げられないように両足を切断してしまいましょうね」
「そんなの痛すぎるし、あたし痛いのマジ嫌いなんだから!」
「うふふふふ、まずは右脚!」
「炎翔破!」
 鞭が振るわれると同時に華艶は炎を放った。
 マダム・ヴィーは攻撃を中断して、舞うように炎を躱した。
 その隙に華艶は片脚で立ち上がり玄関へと急いだ。
「逃がさないと何度言わせれば気が済むの!」
 振るわれた鞭が華艶の残った足首を抉った。
 足をすくわれ華艶は肩から床に転倒した。
「いったー絶対肩脱臼したし!」
 鞭は倒れたままの華艶の太股に巻き付いた。そして、ズルズルとマダム・ヴィーの足下へと引きずられる。
 華艶は攻撃を仕掛けようと手に神経を集中させたのだが、その視線は不意にマダム・ヴィーからその上へと向けられた。
 屋敷に広がる炎の波。煙が立ち込め、天井からは灰が舞い落ちてくる。
 そして、巨大なシャンデリアが落ちた。
 気配を感じて天井を見たマダム・ヴィー。
 次の瞬間!
「ギャァァァァァァァァッ!」
 悲鳴が木霊してマダム・ヴィーはシャンデリアの下敷きに――。
 床に叩きつけられたシャンデリアから炎が上がる。
 華艶に手を貸す青年。
「早く逃げましょう」
 両足を負傷した華艶は青年に担がれ屋敷の外に逃げ出した。
 屋敷の中から聞こえてくる炎の弾ける音。
 炎はいつか屋敷全体を呑み込むだろう。
 屋敷の中から逃げ出してくる侍女たちは、もはや戦意を持っていなかった。
 炎の勢いが終息すると共に、事件も終息することだろう。
 しかし、華艶は焼け落ちる館の中から、女の甲高い笑い声が聞こえたような気がして振り向いた。
「……気のせいか」
 もう女の笑い声は聞こえなかった。
 気持ちを切り替えた華艶が呟く。
「血の滴るステーキが食べたい。やっぱり焼き肉がいいかも」
 今まで見てきた光景をまるで忘れているかのような発言だった。
 けれど、それが華艶なのだ。
 ここにいるのはクローンではない本物の華艶。

 夢の館(完)


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