第7話_不良少女はピンクボム

《1》

 今日こそ成功させなばならない!!
 ……なにがって、追試である。
 しかも、正確には再追試だったりする。
 1度目の召喚実技を失敗して、追試試験でビビを呼び出し、再追試の練習では異世界のタコ魔神を呼び出してしまった。
 召喚といえばルーファス。もちろん悪い意味で。
 そんなへっぽこの上塗りをしないために、今日という今日は失敗が許されない。
 いつも以上に気合いの入っているルーファス。その気合いが空回りしないことを祈るばかりだ。
「よし、ファウスト先生よろしくお願いします!」
 必勝ハチマキをおでこに巻き、ルーファスは脇に魔導書、手には水性ペンキの入ったバケツを持って準備万端。
 だが、ファウストの表情は険しい。いつもよりも眉間にシワを寄せている。
「ルーファス、本当にはじめていいのか?」
「はい、完璧です!」
 気合いの入った返事をしたルーファスの身体から、ジャラジャラと音が鳴り響いた。
 ジャラジャラの代名詞と言えば、魔導学院ではファウストだ。その理由は、いつも持ち歩いている魔導具がジャラジャラとうるさいからである。けれど、今日のルーファスはそれ以上だった。
 友人知人のルーファス私設応援団のみなさまからの贈り物。
 腰にぶら下げた魔導具の数々。魔除けの鈴と魔寄せの鈴(いっしょに装備したら意味がない)、お守り各種(交通安全、家内安全、恋愛成就)などなど。
 首からは千羽鶴や束のニンニクなどを提げている(ほとんど意味ない)。
 背中にもいろいろな魔導具を背負っており、サンバ衣装の羽根みたいなのが目立っている(しかも単色ではなく毒々しい色とりどり)。
 はっきり言って、ほとんど邪魔な装備でしかない。
 その役立たずの魔導具のプレゼントした張本人が、部屋の隅でルーファスを応援していた。
「ルーちゃんがんばれー!」
 マラカスとタンバリンを装備したビビだった。
 ファウストがビビを睨み付ける。
「うるさい!」
 さらにファウストはもう一人にも目を向けた。
「ところでカーシャ先生、なぜあなたがここにいるのですか?(なにを企んでいるんだ?)」
「ヒマだからに決まっておろう」
 役立たずの魔導具の大半はカーシャがプレゼントした物だった。そんな物を渡すくらいだから、きっと失敗するのを楽しみに見物しに来たに違いない。へっぽこ魔導士ルーファスを観るのがカーシャの人生の楽しみの1つだ。
 ここでカーシャを追い出そうとしても、ゴタゴタするくらいのことはファウストでもわかっている。いくら犬猿の仲であろうと、ファウストのほうがまだ良識を持ち合わせている。
 が、この魔女は本当にどーしょーもない。
「ところでファウスト、ルーファスがなかなかこの試験をパスしないのは、貴様の教え方が悪いせいではないか?」
 とかカーシャの口が抜かしやがった。
 ピキっとファウストのこめかみに青筋が奔った。
「静かにしていただけませんか、カーシャ先生?」
「冗談でルーファスの気を和らげてやろうとしただけだ。こんなことでイチイチ腹を立てるとは、まだまだ青いなファウスト、ふふっ」
「私が、いつ、腹を立てたというのですか、カーシャ先生?」
「今だ」
 冷笑を浮かべるカーシャ。それはカーシャが勝ったことを意味していた。
 すでにファウストはカーシャのペースに乗せられ、その時点で負けていたのだが、さらに敗北を決定したのは……?
 ファウストは自分の足下を見て愕然とした。挑発され、いつの間にか足が一歩前へ出てしまっていた。その足がなんと、魔法陣を踏んづけてしまっていたのだ。
 ガ~ン!
 ルーファスショック!
 せっかく描いた魔法陣が水の泡。
 さらにファウストもショックを受けていた。
「なんたることだ……この私が……(許しませんよ、カーシャ先生)」
 まだ乾いていないペンキが靴にぐっしょり。水性ですぐ洗い落とせるとはいえ、踏んでしまったこと事態がショッキングだった。
 さらに最悪なことに、ルーファスは呪文を唱え始めていたのだ。ルーファスはファウストとカーシャの言い争いなど、耳に入らないくらいテンパっており、自分だけでどんどん先に進めてしまっていたのだ。
 つまり召喚術は失敗したのだ。
 召喚術の内容には空間移送も含まれており、空間移送は魔導の中でもかなり高等な部類に入っている。ゆえに失敗のリスクも大きい。
 召喚術の失敗パターンは大きく2つに分けられる。なにも起こらないパターンとなにか起こるパターン。
 凶運の持ち主であるルーファスのことだ、どっちのパターンか言うまでもない。
 魔法陣が真っ赤に輝き、局地的な地震が起きた。
 揺れでコテたルーファスはペンキまみれ!
 ビビのマラカスとタンバリンは大合唱!
 そしてカーシャはとっても楽しそう!
 こんな状況の中で、ファウスト一人が迅速な行動を取る。カーシャの挑発には負けても、魔導学院の講師である。その職務を全うし、その資質を兼ね備えている。
「アクアウォッシュ!」
 呪文を唱えたファウスト。
 大量の水によって魔法陣を洗い流す。ついでにルーファスも流された。
 魔法陣を消すことによって、召喚の出口となる〈ゲート〉を閉ざす。だが、すでに手遅れだった。
 高等な魔力を持った存在は、道具や準備なしに空間転送をやってのける。あくまで魔法陣は補助であり、切っ掛けでしかない。魔法陣を座標の指針として、出口までのルートをすでに確保してある場合、あとは自力で〈ゲート〉を開けることも不可能ではないのだ。
 魔法陣があった真上の空間が歪みながら渦巻いている。
 ファウストの周りにマナフレアが発生する。
「強力なレイラをあそこにぶつけてマナを逆転させ、こちらに来ようとしている存在にお帰り頂く。いいですねカーシャ先生?」
「そんなめんどくさいこと妾はらんぞ」
「……なっ!」
 見事にファウスト玉砕。
 カーシャに協力を仰ごうとした時点で判断ミスである。
 思わずカーシャのせいで集中力が乱れたファウストの一瞬のスキを突き、空間の歪みは大きくなり稲妻が部屋中を駆け巡った。
 まだこちら側に召喚されていないというのに、マナの乱れの激しさは、その力の片鱗を窺わせる。今、こちらに来ようとしている存在は、並の魔力を持った存在ではない。
 魔導耐久の高い召喚室の壁にヒビが奔った。天井からは石片が落ち、ここまま行けば、もしくは存在がこちらに出てきたと同時に、この部屋が倒壊する可能性が出てきた。
 もはや一刻の猶予も許されず、危険や犠牲を顧みている場合ではない。
 ファウストはマナフレアを集めつつ、床でびしょ濡れになって倒れているルーファスに目を向けた。
「ルーファス! なんでもいい、レイラをあそこに放て!」
「えっ、僕がですか!?」
 ルーファスが〝私〟ではなく〝僕〟というのは、素が出てしまっている状態だ。こんな状態のルーファスでは、いつも以上にまったく頼りにならない。
 孤立無援状態のファウスト。別にファウストが悪いわけじゃない。たまたま居合わせたメンバーが悪かった。
 まだファウストの魔力は高まり切れていないが、時間がもうなかった。
「クッ……マギ・ダークスフィア!」
 巨大な暗黒の玉がファウストの両手から投げられた。
 ダークスフィアは球から楕円に変形して飛び、空間の歪みに激突した――と同時に、進路を変えて天井をぶち破り遙か空へと消えた。そう、何者かによって跳ね返されたのだ。
 空間の歪みから片手で出ていた。繊細で美しい人間に似た手。稲妻を纏いながら、両の手が空間をこじ開けた。
 その全身が這い出してくる。
 巻き起こった竜巻がすべてを薙ぎ払う。
 強烈なプレッシャーと危険を感じたファウストは、誰とも知れず存在に攻撃を仕掛けようとした。
 しかし!
 金色の瞳で睨まれただけで、身体が硬直して動けなくなってしまった。
 瞳に籠もった強い魔力。それだけでアステアが誇る魔導学院の教師の動きを制してしまったのだ。
 そこに立っていたのは、露出の激しい黒いレザーで身を包んだ女。そして、大鎌をモチーフにしたギターを背負っていた。
 息を呑むルーファス。
 冷静に茶を飲むカーシャ。
 そして、ビビは言葉を呑み込み突然逃げ出した。
 だが!
「待ちなビビ!」
 鋼のような女な声が響き、ビビはその女に首根っこを掴まれていた。
 恐る恐る振り返ったビビ。
「……マ、ママ……久しぶり」
 なんと失敗した召喚で現れたのはビビのママだったのだ!
 ルーファス愕然。
「な、なんだってー!」
 カーシャは表情を崩さない。
「(顔が似ている。胸は断然母親のほうが大きいが、妾よりは小さいな、ふふっ)」
 しかし、ビビのママが現れるなんて、こんな偶然あるのだろうか?
 いや、これは偶然ではなかったのだ。
「シェリルの魔力を辿ってやっと見つけたよ。まさかこの世界にいるなんてね、ったく、親にこんな苦労させんじゃないよ。ほら、さっさと帰るよ!」
 シェリルとはビビの本名である。
 実はビビは家出真っ最中で、ず~っと親に捜索されていたりしたのだ。
 そして、ついに見つかってしまった。
 ビビはママの手を振り切って逃げようとする。
「やだもん、絶対に帰らないんだから!(もう決めたんだから、なにがあっても家には帰りたくない)」
「聞き分けのない小娘だね、ったく誰に似たんだか」
「ママに似たのぉ~!」
「アンタはパパ似だろ。子供っぽいとこがそっくりだよ!」
「パパといっしょにしないで、キモチ悪い!」
 父親というのは年頃の娘に嫌われるものだ。
 ようやく呪縛から解き放たれ身動きの自由を得たファウストが、親子の間に割って入った。
「ここはクラウス魔導学院の敷地内だ。親子喧嘩ならば別の場所でやってもらおう」
 先ほど魔力で制されたというのに、まったく物怖じしていないところはさすがというところか。それどころか、ファウストの全身からは黒いマナが漲っている。スゴイ敵意だ。
 ビビママは余裕の冷笑でファウストを見下している。正確には長身のファウストを下から上目遣いで見つめている。
「若造がうるさいねぇ。アタシとヤリたりのかい?」
「アステア王国では外国・異世界問わずに訪問者を歓迎している。7日日以内の滞在にはビザを必用としないが、それ以上親子喧嘩が長引くようであれば、正式な手続きを行ってもらおう」
「そんなに長引くわきゃないだろ、今すぐ……いない!?」
 捕まえていたハズのビビがいない!
 どこに行ったのかと首を振るビビママの視線の先に立っているルーファス。その背中にビビは隠れていた。
「ルーちゃんあんなオバサンやっつけちゃって!」
「オバサンってビビのお母さんでしょ? 無理だよ、私にそんなことできるわけ……(見るからに怖そうで強そうだし)」
 ルーファス、ガクガクブルブル。
 ビビママが近付いてくる。ビビにというより、ルーファス目掛けて近付いてきた。そして、ルーファスの前で止まったかと思うと、舐めるようにルーファスのつま先から頭の先まで見回して、鼻を『ふふ~ん』と鳴らした。
「アンタ誰だい? まさかシェリルの彼氏ってわけじゃないだろうねえ?」
 そう来たか!!
 ビックリしたビビが絶叫する。
「ママーッ!!」
 言葉に詰まりながらルーファスも叫ぶ。
「ち、違いますからーッ!!」
 ビビママは残念そうな顔をした。『あ~あ、つまんない』という残念な顔だ。
「まっ、アタシはシェリルが誰と付き合おうと構わないんだけどね。こんなひ弱そうな男じゃ、パパに殺されるだろうけど。そ、れ、と、遊びで付き合うならいいけど、結婚する気なら同じ種族じゃないと反感買うことになるよ、役人や国民からね」
 ビビの容姿は人間に近いが、まったく別の種族である。比較的開けたアステアでも、異種族間の結婚は異端とされることが多く、ほかの国となれば迫害の可能性もある。
 ルーファスの背中に隠れながらビビがママに食ってかかる。
「アタシが誰と付き合って誰と結婚しようが勝手でしょ!」
「勝手なことがあるもんか、アンタいちよう第一皇女なんだよ!」
 ビビママの発言で、辺りは一気に静まり返った。
 ファウストは眉をひそめ、カーシャはニヤリと笑い、ルーファスは腰が砕けた。
「ビ、ビビが皇女ぉ~~~!!」
 尻餅をついておののくルーファス。
 すぐさまビビが笑って誤魔化す。
「あはは、アタシが皇女なんてうそうそー。どう見たってただのちょっと激しい音楽が好きな一般人でしょ?」
 が、すかさずビビママがツッコミ。
「アタシの名前はモルガン・ベル・バラド・アズラエル。旦那の名前はディーズ・ベル・バラド・アズラエル。そして、娘の名前はシェリル・ベル・バラド・アズラエル。正真正銘のアズラエル帝国の第一皇女だよ」
 しかし、こんなことじゃへこたれないビビ!
「そんな証拠ないじゃん!!」
 たしかに、今のところモルガンが口で言ってるに過ぎない。
 ここでカーシャが後方支援。
「知っておったぞ、ビビが外国の皇女だってことくらい(言わないほうがおもしろそうだから、ここぞと時まで黙っておくつもりだったのだがな)」
 モルガンの後方支援だった。
 ファウストは頭を抱えていた。
「(まさか外国の皇族を呼び出してしまうとは、外交問題に発展するかもしれん)」
 しかも、召喚術の失敗を招いたのは、他ならぬファウストだ。もちろんカーシャの挑発やルーファスの凶運、はじめからモルガンがビビを探していたこともあってだが。
 さらにはじめにビビを呼び出してしまったルーファスの立場も危うい。話があらぬ方向に行って、皇女を誘拐なんてことに話がこじれる可能性だってないとは言い切れない。
 ファウストはビビに対する態度を変えた。
「ビビ皇女、貴殿は皇妃と共にご帰国ください」
 普段はカーシャと張り合って、校舎内で高等魔法をぶっ放していても、大人としての良識は持っている。が、こっちに大人はそんな良識なんてあるハズもなかった。
「良かったなルーファス、ビビと結婚すれば将来一国の主だぞ(その器じゃないがな、ふふっ)」
 煽りやがったこの女。
 そして乗せられるモルガン。
「ほほう、やっぱりシェリルの彼氏ってわけか、見目ないねぇーアタシの娘のクセして。でもなんでも言うこと聞いてくれそうだし、死ぬまでこき使えそうな感じではあるけど」
 カーシャの策略にハマっている。カーシャは自分が楽しむことしか考えていない。そのために他人を壮大に巻き込むのだ。特にルーファスはいっつもいい犠牲者だ。
 ビビがルーファスの腕を掴んだ。
「ルーちゃんアタシを連れて逃げて!」
「は?」
 思わず目を丸くしたルーファス。
 カーシャが呟く。
「ビバ・愛の逃避行。駆け落ちとも言うがな、ふふふ」
 事の方向性を理解したルーファスが叫ぶ。
「ちょっと、なんでそうなるの!!」
 しかし、流れはそっち方向に急速に流れていた。
 ビビがルーファスの腕を引っ張って走り出そうとする。
「いいからアタシを連れて逃げて!」
「なんで、どうして、私が!?」
「いいから!」
 グイグイ腕が引っ張られる。連れて逃げると言うより、連れられて逃げるだ。
 カーシャが箒を取り出し、それをルーファスに投げつけた。
「受け取れルーファス!」
「えっ、なに!?」
 反射的に箒を掴んだルーファスの身体が浮いた。箒が空を飛び、気づいたときには箒を離したら骨折する高さだった。
 片手で箒、もう片手にはビビがぶら下がっている。
 しかも箒はグングン高度を上げて、さっきに穴の開いた天井から遙か空へ。
「ぎゃぁぁぁぁぁーす!」
 情けないルーファスの叫び声。
 そして、二人は星となった。

《2》

 折れた箒が転がっている。
 その近くで倒れていたビビがピクッと身体を震わせた。
「うう……どこ……」
 両手を床につけ立ち上がろうとしたビビ。
「痛っ!」
 足首に激痛が走った。
 仕方がなくビビは足を伸ばして床に座った。
「え~っと……ルーちゃんといっしょにホウキで飛ばされて……」
 フラッシュバック。
 大砲のようにぶっ飛んだ箒につかまり、空高く夜空の星になりかけた。ホウキは操縦ができなくて、グングン迫ってくる大きな建物。それは王都アステア最大の聖堂――聖リューイ大聖堂だった。
 辺りを見回すビビ。
 空が近く、背の低い建物がここよりも下に見える。床だと思っていたのは屋根だった。
「……ルーちゃん! ルーちゃんどこ!?(どうしようルーちゃんがいない!)」
 斜めになって折り返している屋根の向こうから人影が現れた。
 ふらつく足取りのルーファス。頭を押さえて今にも倒れそうだ。
「うう……」
「だいじょうぶルーちゃん!(あぁ……よかった)」
 屋根から足を滑らせそうになったルーファスをビビが抱きかかえた。足が痛むのか少しビビは苦しそうな顔見せたが、すぐにそれを隠して笑顔を作った。
 ビビとルーファスが間近で顔を合わせた。
 瞳に映るお互いの顔。
 ビビは息を呑んだ。
 時間が止まったようにふたりは動かない。
 そしてしばらくして、ルーファスの口がゆっくりと動き出した。
「……君、だれ?」
「…………」
 見る見るうちにビビの瞳孔が開かれていく。
 パチパチとビビの瞳が開閉した。
「ええぇ~~~っ!? うっそー、ウソだよねルーちゃん!?(どういうこと、なにが起きたの!?)」
 空まで響き渡ったビビの叫び。
 ルーファスは首を傾げて、不思議そうな瞳でビビを見つめている。
「ルー・チャンって僕のこと?」
 『ルーちゃん』が名字と名前みたいな発音になっている。
 これはまさかの記憶喪失ってやつだろうか?
 おそらく原因は落下による衝撃。
 状況を把握したビビは焦った。
「アタシのこと覚えてないの!?」
「ぜんぜん」
「えっと、アタシの名前はシェリル・ベル・バラド・アズラエル、愛称はビビ。これでも魔界ではちょ~可愛い仔悪魔でちょっとは名前が知られてるんですけどぉー……覚えてない?(うわぁ~ん、どうしよールーちゃんがアタシのこと覚えてない!)」
「ごめん、ぜんぜん覚えてないんだ(というか、自分のこともよく思い出せない。困ったなぁ)」
 記憶喪失確定!
 現状、最大の問題はルーファスが記憶喪失だということ。
 そして、ほかにも身に迫った問題があった。
「アタシがどうにかしなきゃ……えっと、えとえと……まずは病院にルーちゃんを連れて……」
 辺りを見回したビビはある問題に気づく。
「降りれない!」
 ここは屋根の上。屋根伝いに行けそうな場所もない。聖堂から伸びる塔がいくつも見えるが、遠くて遠くて話にならない。
 つまりこの場所に閉じ込められたのだ。
「ルーちゃん魔法でビューンと下りられない?」
「……僕、魔法使えるの?」
 ガーン!
 そこまで忘れてしまったのか……。
 でも、魔法を覚えていたとしても、ここから下りられる魔法をルーファスが使えるかは怪しい。
 自力でどうにかできないなら、助けを求めるしかない。
「ちょっとルーちゃんここでじっとしてて」
 ビビはそう言い残して歩き出そうとしたのだが、
「いっ!」
 激痛が足首に走った。だんだんと悪化しているようだ。
 心配そうな瞳でルーファスがビビの顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「うん! ぜんぜんへーき!」
 ビビは精一杯の笑顔で答え、足の痛みを隠しながら歩き出した。
 それでもルーファスに背中を向けたあとは痛みを隠せない。痛くて痛くて歯を食いしばってしまう。隠そうとしているのに、どうしても歩き方がぎこちなくなってしまう。
「(ルーちゃんに心配かけちゃいけない。きっとルーちゃんは記憶を失って不安で仕方ないんだから、アタシがしっかりしなきゃ!)」
 ビビの気持ちとは裏腹にルーファスは――。
「(いい天気だなぁ)」
 空を見上げて和んでいた。
 ビビは屋根の端までやって来て、身を乗り出して地面を眺めた。
 聖リューイ大聖堂前には巨大なアンダル広場があり、その周りには多くの建物が囲んでいる。時計台や鐘楼、行政館や郵便局などから、美術館や博物館まである。人通りも多く、観光客でいつも溢れかえっている。
 ビビは地上にいる人に向かって手を振った。
「助けてー!」
 ビビが手を振ると向こうも振り返してくれるが、見事なまでに笑顔。
 声は高さの壁に掻き消され、どうやらまったく意思疎通ができていないらしい。
「手を振り返して欲しいんじゃなくて助けて!」
 でも笑顔で手を振り返される。
 建物の高さもあるが、この地域は風が強いことでも有名で、ダブルパンチで声が掻き消される。
「だめっぽい」
 溜息を落としてビビはルーファスの元へ戻ることにした。
 ルーファスは屋根に腰掛け座っていた。
「お帰り」
「うん(困ったなぁ。下りれないし、ルーちゃん記憶喪失だし)」
 悩みでモンモンとしながらビビはルーファスの横にちょこんと座った。
 空を見上げると太陽がギラギラ輝いている。陽が落ちるのが早くなりはじめているが、たまに夏の日差しが戻ってくる。夕暮れも近いが、暑さが引くのはまだ先だろう。
 日が暮れれば夜が来る。
 ビビがボソッとつぶやく。
「いつまでここにいればいいんだろ」
 誰かが気づいてくれるのを待つか、それとも自力でどうにかするしかないのだろうか?
 さすがに明日くらいになれば、誰かが二人に気づいてくれるかもしれない。
 箒でビューンっと飛んで行って、そのまま消息不明になれば、普通は気にしてもらえずはずだ。
 遠くを眺めているルーファス。その横顔を見つめるビビ。
「(ルーちゃんなに考えてるんだろう。やっぱり不安なのかな)」
「(お腹すいたなぁ。なんでだろう、ご飯食べてなかったっけ?)」
「(なんだか深刻そうな顔してる。やっぱり不安なんだ)」
「(あっ、あの雲クロワッサンに似てる)」
「(やっぱりアタシがどうにかしなきゃ!)」
 男女のすれ違いが起きていた。
 ビビは穏やかな眼差しでルーファスを見つめた。
「ねぇ、ルーちゃん?」
「ん?(ルー・チャンって呼ばれてもしっくり来ないなぁ)」
「自分の名前も覚えてないんだよね?」
「ルー・チャンっていうんだよね?」
「うん、ルーファスだよ。だからルーちゃんなの(あ、そういえばアタシ、ルーちゃんのフルネーム知らないや……そんなことも知らなかったんだ)」
「えっ?(ルー・チャンじゃなくて、ルーファスって名前だったんだ)」
 驚いた顔をしたルーファスを見てビビに不安が過ぎる。
「どうしたの驚いて?(アタシなんかマズイこと言っちゃったのかな?)」
「別に、なんでもないよ(ルーファス……ルーファスかぁ。けっこうカッコイイ名前だなぁ)」
「(アタシに言えないこと? どうしよう、アタシどうしたらいいんだろう)」
 見事なすれ違いだった。
 不安を胸に悩むビビ。
「(ルーちゃんにしてあげられること。記憶を戻してあげられたら……思い出を話したら……記憶が戻るかも!)」
 ひらめいて心が晴れたビビだったが、またすぐに気持ちが沈んでしまった。
「(思い出……考えてみたら、まだルーちゃんと出会って間もないんだよね。こっちの世界に来て、知り合いなんていなかったから、ルーちゃんの近くにいること多かったけど、まだ1ヶ月も経たないんだ……)」
 ルーファスとビビの出逢い。
 笑顔を作ってビビはルーファスに話しかける。
「ねぇルーちゃん、はじめて会ったときのこと覚えてる?」
「ごめん、覚えてない」
「だよねー」
 少し沈んだ声で下を向いたが、すぐに気を取り直してビビは顔を上げた。
「アタシとルーちゃんの出会いは、ええっと2週間くらい前。ルーちゃんが召喚に失敗してアタシを呼び出しちゃったんだよ?」
「そうなんだ(ぜんぜん覚えてないなぁ)」
 過去を振り返るビビ。
 ――あの日、ビビはライブハウスにいた。
 ビビがヴォーカルを務めるバンドの演奏を聴きに、観客たちが歓声が上げて詰め寄せていた。
 社会のしがらみから抜け出したくて、皇女に生まれた運命から逃げ出してくて、ビビは歌い続けた。
 しかし、どこへ逃げても追っ手が来る。
 ビビを連れ戻そうと王宮の兵士たちが観客に化けて紛れ込んでいた。
 それに気づいたビビは観客たちに助けられながら逃げようとした。
 一時的に振り切ることはできた。それでもすぐに次の追っ手が来てしまう。そのときだった。
 甘い甘い香り。
 別の世界から漂ってきた香り。それはルーファスが召喚に用いた香[コウ]だった。別世界の扉がすぐそこにある。
 そして、ビビは新たな一歩を踏み出したのだった。
「それからルーちゃんの影に取り憑いたと思ったら離れなくなっちゃって、いろいろ大変だったよね、あのときは」
「ごめん、やっぱり覚えてない」
「ほら、カーシャさんのせいで死にかけちゃって」
「カーシャ?(なんだろ、寒気がした)」
 記憶を失っていても、カーシャのことは身に染みて覚えていると言うことだろうか。
「うん、魔導学院の先生だよ(そう言えばルーファスとカーシャって普通の先生と生徒って感じじゃないけど、どーゆー関係なんだろ?)」
「僕って魔導学院の生徒なの?」
「うんうん、クラウス魔導学院の5年生だよ」
「クラウス魔導学院って名門中の名門だよね?(すごいんだなぁ僕)」
 それはルーファスが起こした最大の奇跡だろう。ぶっちゃけそこで運を使い果たしたと、友人知人に散々言われている。それ以前から運は悪いというウワサもあるが。
 しかし、ルーファスは不運を呼び込む体質でも、ここぞという時にはとびきりの運を発揮する。
 あのときもそうだった……。
「アタシ……嬉しかったよ、あのとき」
「あのとき?」
「一生懸命ルーちゃんがアタシのこと守ろうとしてくれたこと。炎に包まれて二人して丸焦げなっちゃいそうになったとき、ルーちゃんはアタシのこと命がけで守ろうとしてくれたの、本当に、本当に嬉しかったよ」
 顔を背けてビビは潤んだ瞳を隠した。
 命をかけて守られれば、誰でも感謝や嬉しさの気持ちが芽生えるだろう。けれど、ビビはそれ以上に思い沁[シ]みることがあった。
「(アタシのことを守ってくれる人、それも命がけで守ってくれる人はいくらでもいた。でもそれはアタシ自身を守ってくれてるんじゃなくて、皇女であるアタシを守ってくれてるような気がいつもしてた。もしもアタシが皇女じゃなかったらどうなんだろうって……)」
 ルーファスの影から離れたあとも、ビビはこの世界のこの街に留まった。
 ずっと自分の立場から逃げ続けていたビビは、逃げるだけではなく新たな何かをこの場所で見つけようとしていたのだ。
 ビビが皇女だということを知らない人々に囲まれ、知っていても今まで誰もそのことに触れた人はいなかった。そんな世界でビビは何かを見つけようとしていた。
 ビビは涙を拭って話題を変えることにした。
「昨日も大変だったよねぇ~。またルーちゃん召喚に失敗して変なの呼び出しちゃうんだもん。でもあれなんだったのかな、結局なんだかよくわかんなかったよね」
「あれ?」
「エロダコだよ、エロダコ。もしかしてアタシが手料理つくってあげたのも覚えてない?」
「ごめん、まったく(それにしてもお腹すいたなぁ)」
「(また辛そうな顔してる。記憶喪失のことあんまり言わない方がいいのかな。きっと記憶がないことで悩んでるんだ)」
 またすれ違いだった。
 空を見上げるルーファス。
「召喚か……(食べ物召喚できないかなぁ)」
「なにか思い出した!?(召喚で何かキッカケが!?)」
「いや……その……(食べ物のこと考えてたなんて言えないよね)」
「(深刻そうな顔してる。やっぱり悩んでるんだ。早く記憶を戻してあげなきゃ)召喚で何か思い出したの? 今日も召喚の追試テストで……あ……(ママのこと呼び出したんだった、そっちの問題のことすっかり忘れてた)」
 そのときだった!
 遥か空から雷鳴のように聞こえてくるエレキギターの演奏。
 大鎌をモチーフにしたギターをまるでサーフボードのように乗りこなし、グングン空を飛んで何者かが近付いてくる。
 顔が見えなくても誰だかすぐわかった。
「ママ!?」
 叫び声をあげたビビ。
 モルガン登場!
「やっと見つけたよシェリル!」
 ギターに乗った変人に登場にルーファスは戸惑っていた。
「あの人だれ?(あれってギターなのかな、それとも鎌なのかな。上に乗ってるのにどうやって演奏してるんだろ。コンポになってるのかな?)」
 空飛ぶギターに興味津々。
 いきなりの登場でいきなり語りはじめるモルガン。
「アタシは旦那と違って腹が据わってるからね、決めたよ。アンタがその男と駆け落ちしたいならそれでもいいだろう。だがな、アタシはアタシより強い男じゃなきゃ娘はやらないよ!」
 話が飛躍しすぎていた。もともとこういう性格なのか、それともどっかの魔女の入れ知恵があったのだろうか。
 ビビですら目を丸くしているのに、記憶喪失のルーファスにしてみれば、意味がわからないのも当然。
「僕がこの子と駆け落ち?」
「惚れてんだろ、アタシの娘に」
「そうだったのか!!(すっかり記憶がなくて忘れてたけど、僕とこの子は駆け落ちの最中だったのか!)」
 記憶を失ってるせいで洗脳されてしまったルーファス。
 母親であるモルガンのことならビビがわかっている。
「(言い出したら絶対に聞かないんだから)ルーちゃんいっしょに逃げて!」
 ビビはルーファスの腕をつかんで走ろうとしたが、
「うっ(足が……)」
 足首は見るからに腫れ上がっており、無理して動けるような状況ではなくなっていた。
 ルーファスがビビを抱きかかえた。
「いっしょに逃げよう!」
 無駄にかっこいいルーファス。記憶を失ってるせいだろうか?
 走り出すルーファス。記憶を失ってるせいで自分の身体能力まで忘れているのだろうか。
「もうダメだ……(疲れた)」
 すぐにルーファス失速。
 さらにモルガンの魔の手が襲い掛かる。
「逃がしゃしないよ、スパイダーネット!」
 モルガンの手から蜘蛛の巣のようなネットが放出して、ビビもろともルーファスを捕らえようとした。
 空気が焼ける臭いがした。
「ファイア!」
 ルーファスの手から放出した炎がスパイダーネットを焼き尽くす。
「ルーちゃんすごーい!」
 ビビは感嘆の声をあげた。
 魔法を使ったルーファスが一番驚いていた。口をあんぐり開けたまま、身動き一つしない。
 そこへすかさず大鎌ギターを振りかざすモルガン。手加減なしに首を狩る気だ。
「死ねーッ!」
 モルガンの叫びに重なるようにビビも叫んだ。
「ルーちゃん危ない!」
 そして、ビビはルーファスの身体を押し飛ばし、二人はもつれ合いながら屋根を転がった。
 屋根を転げ落ちる二人。
 その姿は一瞬にして見えなくなってしまった。

《3》

 ふかふかの白い雲の上にルーファスとビビは落ちた。
 思わずビビは、
「天国?」
 と、つぶやいてしまった。
 たしか高い屋根の上から落ちたはずだ。
 なのに行き交う人々が同じ目線くらいのところを歩いている。
 しかも、すぐに近くには見慣れた顔。
「バンジージャンプはヒモをつけてやるものだよ(ふあふあ)」
 ローゼンクロイツだった。
 どうやらローゼンクロイツに助けられたらしい。
 二人を乗せた雲は霞み消え、尻餅をついて地面に落とされてしまったが、もう地面との距離は30ティート(36センチ)もなかった。
 でもちょっと痛い。
「いった~い!」
 ほっぺを膨らませてビビちゃんは可愛らしさで抗議。
 が、そんなことなどローゼンクロイツが意に介すはずもなく、いつもどおりに自己中心スルートーク。
「スカイダイビングもパラシュートをつけてやるものだよ(ふあふあ)」
 会話があまり噛み合わないのはいつものこと。わざとやっているともウワサもあるが。
 ルーファスはビビとローゼンクロイツを交互に見ている。関係性を見いだして解釈しようと一生懸命に違いない。
「ええっと、もしかしてこの子も僕の知り合いだったりする?」
 すぐさまビビが二人に説明する。
「ルーちゃん記憶喪失になっちゃったみたいなの。それでこのとぼけた変態がローゼンクロイツ、これでも男の子なんだよ?(でも本当に男の子なのかな、今でも信じられない)」
「ええっ男なの!?(どう見ても女の子だし!)」
 ルーファスショック!
 ルーファスでなくとも、だいだいの人はショックを受ける内容だ。これまでローゼンクロイツに告白して撃沈した男は数知れず。ちなみに女の子のファンも多いらしい。
 友人、それも幼なじみが記憶喪失と聞いても、いつもどおりあまり表情を崩さないローゼンクロイツに、ビビはちょっとばかり不信感を持った。
「ルーちゃんが記憶喪失って聞いて驚いたり心配しないの?」
「記憶を失っても彼の魂は不滅さ(ふにふに)」
「そういう思想の話をしてるんじゃなくて、アタシたちのこと忘れて、思い出もなくなっちゃうんだよ?(そんなの悲しいじゃん)」
「……そうなの!?(ふに!)」
 目を丸くして驚いた表情をするローゼンクロイツ。
 そして、すぐに口元だけでニヒルに笑ったかと思うと無表情になる。
 なんだかビビは納得できなかったが、
「とにかくありがと、アタシとルーちゃんのこと助けてくれて。ローゼンクロイツが偶然ここにいなかったら、今頃アタシたちぺしゃんこだったし」
「……トマト(ふっ)」
 ボソッとつぶやいたローゼンクロイツ。
 すかさずビビちゃん言い返す。
「グロイこと言わないでよ!」
「この世界に偶然なんてものはないよ(ふっ)。すべては必然さ(ふにふに)」
 ってことはルーファスとビビのことを助けに来てくれたのか?
「ボクとルーファスは運命で結ばれてるからね(ふあふあ)。偶然ここに居合わせたんだよ(ふにふに)」
 どっちだよ!
 さらにローゼンクロイツは続ける。
「偶然と必然は表裏一体なんだ(ふにふに)。つまりどちらも同じものということだね(ふにふに)」
 結局なんでローゼンクロイツがここにいたのは不明。
 クルッと180度回転して背を向けるローゼンクロイツ。
「じゃ、ボクは教会の役人に呼ばれてるから(ふあふあ)」
 それがここにいた理由らしい。
 肩越しにヒラヒラ~っと手を振って、立ち去ろうとしたローゼンクロイツの前に、ギターに乗ったモルガンが現れた。
「屋根から落ちたときはヒヤッとしたけど、だいじょぶだったみたいね」
 だが、かるーく横を通り過ぎるローゼンクロイツ。
「ちょっと待ちな!」
 モルガンはローゼンクロイツを呼び止めた。
 理由は?
「アンタ、そこの男と運命で結ばれてるとか言ってただろ?」
 いつの間に聞いていたのだろうか、耳がいい。
 振り返るローゼンクロイツ。
「ボクとルーファスは切って切れない運命で結ばれているよ(ふあふあ)」
 それを聞いたモルガンは、なぜかルーファスをビシッと指差した。
「アンタ二股だったのかい!!」
 なんか話がこじれてる。
 しかも、それを認めてしまうルーファス。
「そ、そうだったのか、僕は二股だったのか!!」
 洗脳だ。記憶がないことを良いことに、どんどんルーファスが洗脳されていく。
 しかも、ローゼンクロイツまで驚いた顔をしている。
「……ル、ルーファス、二股なんてひどい!(ふーっ!)」
 この場の空気に流されてビビまでもが、
「やっぱりルーちゃんとローゼンクロイツってそういう関係だったのーっ!?」
 この中に誰か冷静なヤツはいないのか?
 ただ、学院内でもルーファスとローゼンクロイツの、薔薇色のウワサがかねてからあったりする。友達の友達が二人で手を繋いでいるのを見たとか、二人が公園のベンチでイチャイチャしてるのを見たとか。まあ、そのウワサの出所をたどると、一人の魔女に行き着くことはいうまでもない。
 モルガンはルーファスの襟首をつかんで持ち上げニヤリとした。
「よくもアタシの娘を傷もんにしてくれたね!」
 殺される。絶対に殺してやるって眼でルーファスを見ている。しかも、怒った表情じゃなくて、薄ら笑いなのがよけいにマジっぽい。
 ルーファスとモルガンの間にビビが割って入り、両手を広げて二人を押し離した。
「ママってば! アタシ、ルーちゃんになにもされてないから!」
「そうなのかい? それはそれで度胸ない男だねぇ。そんなチキンにはアタシの娘はやれないね。そっちの娘[コ]とはもう寝たのかい?」
 ルーファスは顔を向けられたが記憶喪失だし、なんだか魂が抜けたような表情でそこに突っ立ている。
 次に顔を向けられたローゼンクロイツは首を横に振った。
「……最近は(ふぅ)」
 なにその思わせぶりなセリフ!
 意味深なローゼンクロイツの発言でビビちゃんショック!
「最近はってことは……やっぱりルーちゃんとローゼンクロイツって……」
 最後まで口に出せなかった。
 だが、疑惑は確信へ。
 ビビフィルターを通したルーファスとローゼンクロイツのめくるめく愛。
 あ~んなことや、そ~んなことをしちゃってる映像が脳裏を過ぎる。
 顔を真っ赤にしたビビが駆け出す。
「わぁ~ん、ルーちゃんのばかぁ~~~っ!」
 いよいよ展開が混沌を極めてきたぞ!
 そして、ローゼンクロイツが口を開いた。
「小さいころはよくいっしょに寝ていたね(ふあふあ)。お風呂もいっしょに入っていたよ(ふあふあ)」
 子供のころの思い出話?
 だが、ここにもうビビの姿はない。
 しかも、モルガンもビビを追いかけていない。
 さらにいえば、ルーファスはモルガンに眼殺[ガンサツ]された時点で気絶していた。
 つまりローゼンクロイツの話を誰も聞いていなかったことになる。
 なんという運命のイタズラ!
 さらにスパイス登場!
 予備の箒の乗って現れたカーシャ。
 立ったまま気絶しているルーファスを見つけて、カーシャは強烈な平手打ちをお見舞いした。
 バシーン!
 そしてルーファスはさらに気絶した。
 さらに平手打ちの衝撃で倒れ、石畳に後頭部をぶつけた。
 ゴン!
 その衝撃で眼を覚ますルーファス。
 そして、発した衝撃の一言!
「おばちゃんだぁれ?」
 たどたどしい言葉でしゃべったルーファス。
 そんな普段と違うルーファスの変化を軽くスルーして叫ぶカーシャ。
「妾に向かってオバチャンとは良い度胸しておるな!(ついにルーファスも反抗期を迎えたとでもいうのか!)」
 胸ぐらをカーシャにつかまれブンブン振られるルーファスは涙目。
「おばちゃんこわいよぉ、このおばちゃんこわいよぉ」
「オバチャンオバチャン抜かしおって! この白く瑞々しいもち肌は十代の人間のギャルにも劣っておらんのだぞ!!」
「うわぁ~んおばちゃんがいじめるよぉ」
 さすがのカーシャもちょっぴりおかしいなぁと気づきはじめた。
「まさか強く叩きすぎたか?」
 最初の一発か、あるいは床にゴンのせいだろう。
 記憶喪失だったルーファスが、さらに幼児退行までしてしまったのだ。

 一方そのころ。
 足を引きずり続け走っていたビビは、もうゴール直前だった。
 沿道の脇にはのぼりが掲げられている。
『第3回アステアコスプレマラソン大会』
 いつの間にかビビはマラソン大会に乱入してしまっていたのだ。
 ビビは走り続けた。どんなに辛く苦しくても、そこにゴールの光がある限り――。
 その幼気な姿に胸を打たれ、沿道の人々がビビに声援を送る。
「がんばれ!」
「ピンクの子がんばれ!」
「ゴールしたらオレとデートしようぜ!」
「今日のパンツ何色? げへげへ」
 だからビビは走り続けた。
 見ず知らずの人々が応援してくれている。
 しかし、ビビの足はもう悲鳴を上げていた。
 もう足を引きずりながら歩くのが精一杯。いや、歩くことさえ困難な状況の中で、ビビは戦い続けたのだ。
 彼女はいったいなにと戦っているのか?
 ゴールはすぐそこだ!
 ビビのためにゴールのテープが貼り直される。
 あと少し、もう手を伸ばせば届きそうだ。
 ビビの手がゴールテープに伸びる。
 指先がテープに触れた瞬間、ビビの身体がスローモーションのように前のめりになった。
 そして、そのままビビは転倒した。
 沿道の人々が口を開けたまま息を呑む。
 静まり返ったこの場所に、季節外れの桜吹雪が舞い落ちた。
 空を見上げると、天空を舞う巨大な翼竜の影。
 白銀の長い毛を蓄えた霊竜ヴァッファート。極寒の地グラーシュ山脈の主にして、アステア王国の守護神。
 桜吹雪だと思われた物は、ヴァッファートが運んできた粉雪だった。
 人々が国家であるヴァッファートの歌を口ずさみはじめた。
 この歌には魔力が宿っており、輝く希望の光が心の底から湧いてくる。
 ゴールテープを切って倒れていたビビが、両手を地についてしっかりと立ち上がる。
 足の痛みはどこかに消えていた。すべては歌の力。
「みんな……ありがとう……」
 涙ぐむビビ。
 改めてビビは歌の力を知った。
「(やっぱりアタシ歌が好き。今までアタシは歌うことですべてを放り出そうとしてた。でも今は……誰かに伝えるために歌いたい)」
 マラソンを完走したビビは拍手で迎えられた。
 アステアマラソン大会では、速さを競うだけでなく、芸術賞などの特別賞が数多く設けられている。その中の1つ、感動で賞にビビが輝いた。
 戸惑いながらもビビは壇上に背中を押されて担ぎ出された。
 このマラソンを主催するトビリアーノ国立美術館の館長から、受賞のトロフィーと記念品が贈呈される。
「痛みに耐えてよくがんばった。感動した!」
 館長の言葉で授賞式は盛り上がり、トロフィーを掲げるビビに記念品のピンクボム――別名ラアマレ・アカピスが贈られた。
 じゅるりとビビは唇を拭った。
 ピンクボムはビビの大好物のフルーツだ。
 超高級大玉ピンクボムの大きさはビビの顔ほどもある。こんな大きなピンクボムを丸々1個、独り占めして食べるのがビビの幼いころの夢だった。
 幼いころママから言われた言葉がビビの脳裏に蘇る。
 ――ラアマレ・ア・カピスは大人の食べ物だから、子供は1日8分の一切れしか食べちゃダメよ。
 その言い付けに縛られ、今日の今日までビビの夢は叶うことがなかった。
 でも、ここは王宮でもなければ、ビビがいた魔界でもない。
 自分の力で手に入れたピンクボムを丸々食べても、文句を言う者など――。
「シェリルーッ!!」
 怒号と共に空飛ぶギターに乗ってぶっ飛んでくるモルガン。
 ピンクボムを抱きかかえ守ろうとするビビ。
「このラアマレ・ア・カピスは誰にも渡さないんだから!」
 そして、ビビは思わぬ行動に出た。
 ピンクボムを上空に投げたかと思うと、時空保管庫から大鎌を召喚して、その刃でピンクボムをカッティングしたのだ!
 八つ切りにされたピンクボムが一切れずつ落ちてくる。
 ビビはキャッチした一切れを怒濤の勢いでむしゃぶりつく!
 まるでスイカの早食いだ。
 美少女ビビの形振り構わぬ行動に歓声があがる。
 ビビは一切れを完食すると、その皮を投げ捨てて、次に落ちてきた一切れをキャッチして食らいつく!
「もぐ(絶対に)……もぐ(絶対に)……もぐもぐもぐ(ひとりで食べてやるんだから!)」
 次々と落ちてくるカットフルーツを平らげるビビ!
 そして、モルガンがビビの目の前にやって来たと同時に、ピンクボムは完食された。
「うっぷ……(食べ過ぎた)」
 ビビの足がグラつく。
 モルガンが眼を丸くした。
「まさか……今のは……ラアマレ・ア・カピス!(なんてこった)」
 動揺するモルガンの前で、ビビは顔を真っ赤にしてユラユラと酔っぱらいのように踊った。
 いや、本当に酔っぱらっているのだ。
「ひっく……もっとラアマレ・ア・カピスもってこーい!」
 だから一切れしか食べちゃダメって言われていたのに。
「あははははは、あははは♪」
 笑いながらビビは大鎌を振り回した。
 その瞳は金色から燃えるような赤に変わっていた。

《4》

 酔っぱらいと化したビビを止めようとモルガンが魔法を放つ。
「スパイダーネット!」
 広がったネットがビビの頭から覆い被さって来ようとする。
 ビビは手に持っていた大鎌をフリスビーのように投げた。
「あははははは!」
 ビューン!
 凄まじい勢いでぶっ飛んだ大鎌は回転しながらネットを切り裂き、さらに勢いは留まらず風を切りながら、集まっていた人々目掛けて飛んでいった。
 危ない!
 大鎌がオッサンの頭部を掠め飛んだ。
 なんという逆モヒカン!
 オッサンは大鎌に髪の毛を切られ、お外に出られない髪型にされてしまった。
 それでも大鎌の勢いはまだまだ収まることを知らない。
 人々の服や髪を切り裂き大鎌は踊り狂った。
 たちまち悲鳴の大合唱。
 ポロリン、ポロリン、またポロリン♪
 みなさんのご想像にお任せするモノが次々とポロリンしていく!
 それにしても血の一滴も流れず、服と髪だけを切り裂く絶妙なコントロール。今のビビなら鎌投げ大会で金メダル間違いなしだ。そんな大会あるかわからないが。
 グルグル回った大鎌がビビの手元に戻ってきた。回転する大鎌を見事にキャッチするとは、鎌取り大会で金メダル間違いなしだ。そんな大会あるかわからないが。
「あはは、なんでみんな裸なのぉー?」
 自分でやったんだろ!
 そんなツッコミ酔いどれに言っても意味がない。
 モルガンが鎌の付いたギターを握った。
 目には目を、歯には歯を、鎌には鎌を!
「大人しくしなシェリル!」
 モルガンの鎌ギターが振り下ろされる。
 ガツ!
 ビビの大鎌の柄がモルガンの鎌の柄になっているギターのネックを受け止めた。
 ギターをそんな使い方したら絶対に調律が狂う!
 てゆか、ギターは武器じゃないという苦情は受け付けない。なぜなら、エレキギターは太古の昔から武器だからだ。それの証拠に、過激なギタリストはよくギターを振り回して武器にするし、ときには燃やしたりするわ、観客に投げつけたりもする。
 どう考えてもエレキギターは武器である!
 力押しでモルガンが鎌ギターをブンブン振り回す。娘を殺る気満々だ。
 一方のビビは酔拳を駆使する。
 ゆらり、ゆらりと捉えようのない動き。かと思うと速攻を仕掛け、やっぱり仕掛けないで、やっぱり仕掛ける。
「あははは、ママに遊んでもらうのひさしぶりー!」
 ビビが空中に飛び上がり、意味なくバク転。ついでに意味もなくパンチラ。今日は白と黒のストライプ(ちっちゃなリボン付き)だ。
 トリッキーなビビの動きに翻弄されるモルガンは武術で競うことをやめた。
「シェリル歌で勝負するよッ!」
「歌大スキー、あはは!」
 ビビはこんな状態で歌えるのか?
 ギターを構えるモルガン。やっとギター本来の使い方をされる。
 空を飛んだりすることからもうご存じかも知れないが、このギターは魔導具であり、演奏は魔力を帯びる。
 ガンガンにギターを掻き鳴らしはじめると、ギターの音のほかにドラムやベースの音も響いてきた。
 大きく息を吸い込み、モルガンは力強い歌声を吐き出した。
 怒り渦巻く感情が歌声に宿っている。
 歌声によって大地が震え、建物を揺るがす。
 攻撃と威圧のサウンドが破壊をもたらし、さらに不気味さと苦しさや痛みのサウンドが人々に恐怖をもたらす。
 それは戦の歌であり、その先にある死を暗示していた。
 間奏に入りモルガンはビビに視線を送った。
「アズラエル一族は死の一族って言われてることはシェリルも知ってんだろ。アタシらは魂を狩ることによって強大な力を得ることができる。今じゃ契約だなんだで、好き勝手に魂を狩ることは禁止されちまってるけど、それ以前の血塗られた歴史は怨念で渦巻いてるのさ。この歌はそういった負の塊なんだよ」
 再びモルガンの歌声が響く。
 街の隙間に悪寒のする風が吹き荒む。
 建物が腐食しはじめた。
 騒ぎを駆けつけた治安官たちがやって来たが、歌声を近くで聞いた途端、気分が悪くなってその場でうずくまってしまった。
 バルコニーから人が飛び降りようとしている。
 街灯にロープを引っかけて首をつろうとしている人がいる。
 負の魔力がこもった歌は人々の心を蝕み闇を生み出す。
 親子歌合戦が王都アステアを未曾有の恐怖で呑み込もうとしている。親子歌合戦って言葉の響きだけなら、グダグダな番組企画みたいなのに。
 ビビは大鎌からマイクスタンドに持ち替えた。
 ついにビビが歌い出すのか!?
「ひっく……あーあーマイクテストチュー……チューだって、チューって、チューってなにそれ、あははは、あははははは!」
 だめだ、酔ってて話にならない。
 このままでは歌合戦にならないじゃないか。これじゃあワンマンライブだ。企画倒れになってしまうではないか!
 せっかく中継カメラで撮影しているのに!!
 マラソン大会の取材でたまたま居合わせたテレビ局が、モルガンの歌声をあろうことか臨時の生放送で国中に流していたのだ。
 このままでは国中で自殺祭りが起きてしまう。
 即刻放送を中止させようと局や王宮も動いたが、歌の持つ魔力で聞きたくないのに聞いてしまうというしがらみに囚われてしまっていた。
 臨時決議によって魔導部隊が編成され現場に派遣されたが、歌声と演奏を生の間近で聞くと精神が負に蝕まれなにもできなくなってしまった。もうモルガンに近付くことすらままならない状態なのだ。
 だがそんな中でカーシャは余裕で現場にやって来ていた。
 街中で蝕まれ倒れる人々に目を配るカーシャ。
「精神力の低い小童どもには堪えるか(いや、そういうわけでもないのか)」
 カーシャに腕をつかまれルーファスは引きずられて来た。
「あたまがガンガンするよぉ、あのおばちゃんのうたうるさくてこわいよぉ」
「(怖がっておるが、ほかの者に比べれば影響が少ない。ほう、逆に精神の未熟な子供は、影響される精神も持ち合わせていないと言うことか)」
 街中、国中が危機に陥っている中で、カーシャはその対応を決めかねていた。アステア王国が滅びてもカーシャは悲しんだり心が痛いんだりしないが、ほかに困ることがあったりした。
「ふふっ、楽しみが減るな」
 長い眠りから覚めたカーシャの今の楽しみは、ルーファスウォッチングと悠々自適な学院生活だ。それを考えるとこの街が滅びるのは困る。やっぱりカーシャは利己的なのである。
 ルーファスとカーシャに気づいたビビが、二人のもとに駆け寄ってきた。
「あははははは!」
 笑いながらビビはルーファスに抱きついた。
 そして、笑いながらルーファスの体を締め上げる。
「あははは、ルーちゃん元気っきー?」
「いたいよぉ。おねえたんはなしてよぉ」
「どーちたのルーちゃん、しゃべり方カワイイ~っ♪」
 二人の様子を見ながらカーシャはおでこに手を当てた。
「ビビまでどうしたのだ、まさか酔っておるのではなかろうな?(ふふっ、笑えん)」
「酔ってないデース!」
 酔ってる人は必ずそう言う。
 カーシャはルーファスからビビを引き離し、ビビのツインテールを両手でつかんで拘束した。
「よく聞けビビ。おまえの母親が起こした問題だ、子供のおまえがどうにかするのだ(できれば妾はなにもしたくないのでな)」
 さすがカーシャ!
 めんどくさいことは自分じゃやらない主義の代表だ。
 というわけで、カーシャはビビの髪の毛をつかんだまま――投げたーッ!!
「い゛ったーい!!」
 絶叫しながらビビが宙を飛んだ。
 地対地ミサイルのように上空からモルガン目掛けて落下。カーシャのコントロールは完璧だった。さすがいつもルーファス投げで培った技だ。
 モルガンが演奏を一時中断して――と言っても自動演奏機能で音は流れ続けているが、とにかくモルガンはネックを握り締めギターを逆に持ち、とある球技のフォームで迎え撃った。
 そう、バッティングフォームだ!
 カッキーン!
「ぎゃぁぁぁぁっ!!」
 鳴り響くビビの悲鳴。
 打ち返されたビビがぶっ飛び、その先にぼっーっと突っ立っていたのがルーファス。
 ドカーン!
 大激突したルーファスとビビ。
 だが、ビビは軽傷で済んだ。なぜならルーファスが受け止めたというか、良いクッションがわりになったというか、良く言えば身をていしてビビを守ったのだ。
 その一部始終を見ていたモルガン。
「まさか……(あのガキンチョが危険を顧みずシェリルを守ったというの?)」
 見事な勘違い!
 でもポジティブな解釈!
 痛む体を押さえながらビビがゆっくりと立ち上がる。もうすっかり酔いは醒めてしまった。
「いてて……カーシャさんもママもホントに容赦ないんだから……っルーちゃんだいじょぶ!?」
 自分の近くで倒れているルーファスにビビは気づいた。
 カーシャに投げられ、モルガンに打ち返されたのはあっという間の出来事で、ルーファスが人間クッションになっていたことに今気づいたのだ。
 慌てたビビはルーファスの状態を起こして肩に手を掛けると激しく揺さぶった。
「ルーちゃんしっかりして!」
 ブンブンされるたびに、ルーファスの首がガックンガックン揺れる。あんまりやると首の骨折れちゃうよ。最悪もう折れてる可能性もあるが。
 閉じられたルーファスのまぶたがピクッと動いた。
「ううっ……」
 ゆっくりと開かれるルーファスの瞳をビビは覗き込む。
「ルーちゃんだいじょぶ!」
「……ここは……?」
「ルーちゃん?(よかった、死んでない)」
「わたしはだーれ、ここはどこ?」
「えっ?」
 ガーン!
 やっぱり記憶喪失。
 でも、幼児っぽさは抜けているような気がする。一段階回復したのか、それともさらに悪化したのだろうか?
 再び歌いはじめたモルガンの声がルーファスの耳にも届く。
 すると力なく立ち上がったルーファスは、ぶつぶつ呟きながらゆらゆらと歩き出した。
「えへへ……なんだかわからないけど首つって死のう」
 幼児退行が回復したせいなのか、歌の影響をダイレクトに受けてしまったのだ。
 どこに行こうとするルーファスの腕をつかんで必死にビビは止めた。
「ルーちゃん行かないで、アタシの傍にいて!」
「なんだかわからないけど、私みたいな人間は死んだ方がいいんだ、そうだ、そうに決まってるよ、えへへ」
 笑い方が完全に壊れていた。
 ビビはルーファスを引き止めながら遠くモルガンを見つめた。
 あの歌を止めなくては、そうしなければ大切なひとを失ってしまう。
 国中が悲しさに包まれてしまう。
「そんなのイヤ!」
 大声でビビは叫んだ。
 でも、どうしたらいいのか、今の自分になにができるのかビビにはわからなかった。
「ママ……ママに勝たなきゃ(でもアタシにそれができるの? だってママなんだよ、アタシよりも強くて歌もうまいママなんだよ?)」
 瞳を閉じたビビ。思い出されたのは沿道から聞こえてきた歌声。自分を勇気づけてくれたみんなの歌。
 そのときにビビは再確認したのだ。
「アタシやっぱり歌が好き。だからアタシは歌わなきゃいけないんだ。そして、ママの歌に勝つ!」
 決意が奇跡を呼んだのか、偶然にもどこからか心地の良い演奏が聞こえてきた。
 アンダル広場のその先の聖リューイ大聖堂から、そのメロディは街中に響き渡っていた。
 間違いない、聖リューイ大聖堂にある世界最大級のパイプオルガンだ。
 魔導の力が宿ったそのパイプオルガンは、演奏者の魔力によってさまざまな効果を発揮する。その調べは街中に響き渡り、年に1度だけ建国記念日にその音色を聞くことができるのだ。けれど建国記念日は3日後である。そう、誰かが何らかの意図を持って演奏をしているのだ。
 国中に響き渡るパイプオルガンの音色はバラードを奏でていた。
 ビビはハッとした。
「この曲……聞き覚えがある!」
 勝手に路上でちゃぶ台を置いて茶を飲んでいたカーシャもこの曲を知っていた。
「ふふっ、太古に詠まれたライラを題材にした歌だな。屍の王とそれを愛した女の物語。絶望にありながら、希望と愛を歌ったくだらん曲だ。曲名はたしか……」
 ビビが言葉を紡いだ。
「朽ち果てようとも永久愛ここにあり」
 作詞作曲を誰がしたか不明であり、正確な題名すら不明だったが、そのフレーズが何度か使われていることから、それが歌の題名として広まっていた。
「ママが独りで歌ってたの聞いたことがある」
 この歌はこちらの世界であるガイアのみならず、魔界などでも知られた歌だったのだ。
 なにも言わずカーシャがビビにマイクを投げつけた。
 ビビはうなずき大きく深呼吸をした。
 そして……。
 優しい歌声が国中に響き渡った。
 死者のように嘆いていた人々に生気を取り戻そうとしていた。
 ビビの歌声が人々を救っている。
 腐食していた建物が再生しはじめ、王都アステアは元の活気を取り戻そうとしていた。
 しかし、モルガンも負けてはいなかった。
 世界全体の放出していた歌と演奏をビビだけに向けたのだ。
 歌に込められた魔力と魔力がぶつかり合う。
 余裕の笑みを浮かべるモルガン。
 苦痛に顔を歪ませるビビ。
 再び腐食がはじまった。今度はビビの周りだけだ。石畳が風化し、金属が腐蝕し、物が崩れはじめる。
 歌い続けるビビのすぐ間近は、かろじて腐食の侵蝕を抑えていた。
 しかし、ビビが蝕まれるのも時間の問題だ。
 腐食した街灯の根本が歪んだ。揺れる街灯の先にいるのはビビだ!
「危ない!」
 ルーファスが叫んだと同時に街灯が倒れビビの頭上に落ちようとしていた。
 気づいたモルガンも演奏を止め叫ぶ。
「シェリル!」
 地面に叩きつけられた街灯が轟音を立てた。
 ビビは無事なのか?
 地面に倒れていたビビ。その視線の先に見たものは、街灯の下敷きになり、頭から血を流したルーファスの姿。
 皆息を呑んだ。
 そして、ビビはルーファスを街灯の下から引きずり出しながら、歌い続けたのだ。
 なぜ歌うことをやめなかったのか?
 それはおそらく本能のようなものだったのだろう。
 ビビの歌声はルーファスの全身に届いた。
 傷口から流れ出していた血が止まった。目に見える擦り傷なども消えていく。ルーファスの傷が癒えていくのだ。
 ゆっくりと瞳を開けたルーファスの瞳に映るビビの姿。
「……ビビ?」
 ビビが深くうなずくと同時に、ちょうど歌詞も終わっていた。
 パイプオルガンの音色が遠ざかっていく。
 モルガンはビビとルーファスを遠くから見つめていた。
「また……(命がけで守ったのか?)」
 それは一瞬の出来事だった。
 あのとき、偶然ではなくルーファスは自らビビに飛び込んだ。少なくともモルガンの目にはそう映っていた。
 モルガンはギターに乗り、なにも言わず去ろうとしていた。
 それに気づいたビビが呼び止める。
「ママ!」
 振り返ったモルガンは鼻先で笑っていた。
「旦那には彼氏のことは内緒にしといてあげるよ。それとシェリルの歌声、まだまだだけどまあまあいいと思うよ。それじゃ、またそのうち遊びに来るから」
 ビビになにかを言われる前にモルガンはビューンと飛んで行ってしまった。
 ……召喚でこっちの世界に来たのに、空からどうやって帰るつもりなのだろうか?
 というツッコミはきっとしちゃいけない。
 ルーファスはビビの膝の上で抱かれながら、なにがなんだかさっぱりわからなかった。
「カーシャのホウキで飛ばされたあとから記憶がないんだけど?」
「でもほかの記憶はちゃんとあるんでしょ?」
 ビビは笑顔で尋ねた。
「なきゃ困るよ」
「よかった、なら別にいいじゃん」
 さらにビビは笑顔になった。
 どこかで『ぐぅ~』と腹の虫が鳴いた。
 お腹をさするルーファス。
「追試のことで頭一杯で朝から食事がのどに通らなかったんだよね……ああっ、追試!!(大変だ、追試どうなるんだろ。もしかして今度こそアウトかな。でもあれって僕のせいなの?)」
 急に慌て出したルーファスをよそに、ビビは呑気な声を出した。
「アタシもお腹すいちゃったなぁ(歌ったせいかな)。ちょっと早いけど夕飯はルーちゃんのおごりね♪」
「えっ、なんで私のおごりなの?」
「なんでもそうなの!」
 強引に押し切ってビビはルーファスを立たせると、その腕をグイグイ引っ張って歩き出した。
 まだまだビビのこっちの世界での生活は続くのだった。

 おしまい


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