第9章 食卓を飾る薔薇
 昼と夜とが交差する。
 太陽が西から昇り東へ沈み、月もまた同じ道を辿る。
 土の中から朽ちた木が這い出し、枯れ果て乾いていた幹や枝に瑞々しさが戻り、葉を碧く茂らせ花を咲かす。さらに枝は短くなり、幹もまた細く短く退化していく。やがてまた木は土に還るだろう。
 生命が巡り廻る。
 木陰に腰掛ける妊婦に寄り添う少年。
 しばらくして逆光を浴びた大柄の男が手を振りながら現れた。
 それ仲睦まじい家族の追想。
 生まれてくる新たな生命に祝福あれ。
 だが、少年の眼前で男は溶けるように腐り、見るも無惨に顎が落ち、歯茎から歯がこぼれ落ち、やがて全身が崩れた。
 木霊する妊婦の悲鳴。
 やがてその場に現れた一匹の魔獣。
 血に飢えた魔獣は発狂している妊婦を攫った。
 そして、少年の瞳に焼き付いた紅い牙。

 拳を強く握り締めながらAはベッドで目覚めた。滲んだ汗で背中が冷たく、とても不快感を覚える。ここ数日、良い目覚めをした例しがなかった。
 すぐにシャツを着替えていると、部屋の扉をノックする音が聞こえた。Aは袖のボタンを閉めながら扉に向かった。
 扉を開けるとそこに立っていたのは「お目覚めですか」二号だった。「食堂にお越しならないようなので、ブランチをお持ちいたしました」
「もうそんな時間なのか」
「はい、十時半を過ぎたところでございます」
 夜更かしをしたとはいえ、Aはそんなに長く寝るつもりはなかった。さらに十分な睡眠はとれている筈なのに、とても躰がだるい。時間は十分でも質の悪い眠りだったのだろうか。
 二号は食事を部屋の中まで運び入れ、早々に立ち去ってしまった。
 Aはソファに腰掛けながらサンドウィッチを頬張った。うまく食べ物が喉を通らず、コップに葡萄酒を注いで一気に飲み干した。
 言い知れぬ不安をAは感じていた。正体のわからぬ不安は突然にやって来たものではなく、今朝目覚めた時にはすでに存在していた。
 Aは過去を遡る。昨夜、あの地下室で見てしまった光景。今でも耳にへばりついて離れない叫び声。
 あれが不安の原因なのか。たしかにあの光景が後押しになったことは間違いない。だが、それ以外にも幾つもの要因が折り重なっている。
 考えれば考えるほど不安になってくる。
 Aは居ても立っていられなかった。
 地下室から出て来たところをAは見られてしまったのだ。あの大男はあれからどうしただろうか。すでにマダム・ヴィーの耳に入っているのだろうか。もしもそうなら、なんらかの行動があちら側から起こるかもしれない。
 なにが起こるのかわからない。対処のしようもないではないか。それでもAはなにかしら備えなければと思い立った。
 Aは食事も終わらぬうちに部屋を飛び出した。
 目的地は決まっていないが、目的は決まっていた。まずは二階を散策することにした。その矢先、Aはテラスに人影を見た。
「ちょうど良かった、あなたを探していたところです」Aはテラスのテーブルで紅茶を飲んでいたJに会釈した。
「ボクにわざわざ会いに来てくれたのかい、嬉しいね」Jは近くに立っていた奴隷に目を配り、席を立ち上がった。「天気の良い日は散歩に限る。さあ、早く」Aの返事も聞かずJは行ってしまった。
 すぐにAはJの後を追い、二人は玄関を出て庭の散策をはじめた。
 辺りは真っ赤な薔薇が咲く薔薇園だった。
 周りに人がいないことを確認してAが口を開く。「Gの腕時計のことですが、あなたはこれを事故現場から盗んだわけですよね?」
「盗んだというのは人聞きが悪いけど、取ったことには間違いないよ。そう、ボクは玄関に転がっていた屍体から腕時計を外した。なぜだかわかるかい?」
「時計は壊れて刻を止めていました。その時間がテラスから転落した時間を示す証拠だからでしょうか?」
「違うね。キミは根本的に間違っている。先入観に囚われてはいけないよ」
「どういうことです?」
 Jは含み笑いを浮かべ、庭を見渡すようなそぶりをした。「昼の庭は実に平和だ。血の臭いを嗅ぎつける獣もいない」
 その言葉を聞いてAは背筋を冷たくした。昨晩、凶暴な犬に襲われたことを思い出したのだ。あえてAはそのことを伏せた。
「昨晩、犬の鳴き声のようなものを聞いたのですが、そのような動物が庭にいるのですか?」
「夜になると番犬が庭に放たれるんだよ。奴らは血肉が好きでね、知らない人間なら誰でも襲い掛かる。例えこの屋敷に何度も訪れているボクですらね」
 明らかにJはなにかを教えようと示唆している。
 犬とGがAの頭の中で交差する。
 玄関先にあったGの屍体。血は流れていたが、踏み荒らした痕跡はなかった。テラスから落ちた衝撃だろう、少し手足が変な格好をしていたが、後から服が乱されたような痕跡もなかった。そう、おそらく落ちたまま、現状が保存されていたのだろう。
 そしてAは閃いた。
「もしかしてGがテラスから落ちたのは犬がいない時ですか?」
「そうなると朝方以降だね」
「では壊れた腕時計が示していた時刻は朝だなんてことは……」
「可能性としてはないくはないけどね。そもそも第一発見者がボクというのも可笑しい。あんな場所に屍体が転がっていたら、別の者が気づく筈さ。だから時計の止まっていた時間に落ちたのなら、ずっとその場に転がっていたわけではなくなるからね。しかし、その根本の考えがそもそも間違えなのだよ」
 また根本という言葉を使った。
 おそらくJの考えでは時計の示していた時刻は夜であると言うこと。しかし、屍体が落とされたのは明け方以降だと言うこと。Aの考え方ではそれでは矛盾が生まれてしまうが――。
「ボクはね、Gの屍体が発見される前夜、大きな物音を聞いているのだよ」
「まさか事件と関係が?」
「あれはキミとサロンで別れた後だよ。部屋に戻ったボクは、隣の部屋から大きな物音がするのを聞いたんだ。その隣の部屋というのがGの部屋さ。あとはキミの想像に任せるよ」
 おそらくその音がした時刻こそが、壊れた腕時計が示していた時刻なのだろう。そうするといくつかの疑問が解決する。
 はじめから、そうではないかとAは思っていたが、ついに確認に変わりつつあった。「やはり事故ではなく……殺人」
「殺人だなんて穏やかではないね。そんな怖ろしいこと、この屋敷の常連のボクからすれば、考えられないことだよ」
「それは本当ですか?」
「ああ、例えばSは気性が荒く、幾度となくボクは脅されているけれど、実際に暴力を振るわれたことはないからね」
「マダム・ヴィーはどうですか?」
「なぜその名前を出すんだい?」Jの口元が不気味に微笑んだ。
 Aは初めてJに恐怖を抱いた。まるでJはその言葉を待っていたようだ。そうだ、Jは確信を持ってAを誘導しているに違いない。これまでだってそうだった。
 ならばここであれを出すべきだろうとAは考えた。
「この鍵に見覚えはありませんか?」
 Aは懐から地下室の鍵を取り出して見せた。
「知らないなぁ」わざとらしい口ぶり。その口も浮かぶ嘲笑が、その言葉が嘘だと言うことを物語っている。
 急にAは苛立ちを覚えはじめた。
「あなたの目的はいったいなんなんだ!」
「目的……しいて言うなら、キミのことを好いているだけさ」
 マスクの奥から覗くJの視線は熱を帯びていた。妖しげな艶やかさを醸し出す瞳だ。
 急にJの顔がAの眼前まで近づいてきて、その顔がふっと視線から逸れて、Aの耳元に唇を近づけた。
「知っているかい……この屋敷に来る者たちの目的を?」
 甘く囁く声色。躰の芯がぞくぞくする鈴を転がすような声音。
 動けず立ち尽くすAの耳元でさらに、「若くて綺麗な男を買いに来るのだよ。客は女だけではないよ、金と地位のある知識層の男にはその手の趣味を持つ者が多くてね」
 鳥肌を立てたAは素早く身を引き、Jから距離を置いた。
「あなたもその客なのですか?」
「そうでなければ、この屋敷に長くは居られないよ。麻薬の取引相手よりも、こちらの客をマダムは手厚くもてなしてくれるからね」
 Aの脳裏に突然蘇る光景。
 あの地下で行われていた地獄の所行。
「ただの人身売買ではないでしょう。僕はマダム・ヴィーが少年の腕を……うっ」
 急に吐き気を催しAは口に手を当てた。
 それを見てJは笑っていた。
「そうかキミは見たのか。ボクはその現場を生で見たことはないけど、マダムが何を行っているかは知っているよ。ここに来る客ならば誰でも知っていることだが。彼女は調教師……というより芸術家というふうが相応しいだろうね」
 Aが激昂する。「あれが芸術だって! 神に対する冒涜じゃないかっ!」
「この屋敷に神などいないよ――いるのは悪魔だ」
「ならここに来る客達は皆、悪魔に魂を売った手下ですね」
「そうかもしれないね」Jは自称気味に笑い、少しだけ俯いて見せた。
 Jはなにを思っているのだろうか。
 そして、Jは顔を上げて口を開いた。
「先ほどの鍵のことだけどね。あの鍵をキミに預けたのは紛れもないボクさ」
「やはり……でもなぜ?」
「もともとボクもあの鍵を別の人物から譲り受けたのだよ」
「誰ですかそれは?」
「それは言えないよ。彼女≠ノも立場があるからね」
 いつものように明確な答えは言わなかったが、彼女≠ニいう言葉を若干強調したような気がした。
 急にJはAの躰を抱き寄せた。
「けれど、キミがボクに心も体も服従を誓うのなら、教えてあげてもいいけどね」
「やめてくれ!」
 AはJの両肩を掴んで力一杯押し飛ばした。
 その弾みでJは地面に尻餅をついた。
 しかし、Aは謝りもせず、ましてや言葉すら掛けずにその場から逃げ出した。
 足早に玄関に向かう途中にAは気づいてしまった――物陰に隠れていた人物に。それは先ほどJとテラスにいた奴隷の一人だ。まさかずっと監視されていたのか。
 屋敷の中に戻ってきてしまったAは、これからどうするか迷い果ててしまった。まだJには聞きたいことがあったが、今さら戻るわけにもいくまい。
 次の糸口は彼女≠セろう。その彼女≠ェ誰なのか、突き止めることが筋書きだろう。Jはその筋書き通りにAが動くように、あえて彼女≠フ正体を明かさなかったのだから。
 Jの思惑通りに動くことに躊躇いがないわけではないが、それが吉と出るか凶と出るかはまだわからない。少なくともなんらかの進展はあるだろう。釣り針の餌に食いつけば、とりあえず腹は満たされるのだから。
 彼女≠ノ当てはまる人物は誰だろうか。Jの匂わせ方から察するに、たどり着けないことえでないだろう。そうすると今この屋敷にいる人物である可能性が高いだろう。
 奴隷たち、客人、そしてマダム・ヴィー。
 マダム・ヴィーが直接Aに鍵を渡す理由は乏しいが、Jであるならば客の一人として商品を見せるためなどに鍵を渡すかも知れない。そうすると『彼女≠ノは立場ある』とは、どのような意味だろうか。鍵を渡したのが誰であれ、本来その鍵は譲渡するような物ではないということか。
 だとするならば、マダム・ヴィーである可能性は低くなる。なぜなら彼女はこの屋敷でお館さまと呼ばれ、不可解な決め事を客人たちにまで強い、絶対権力者として君臨しているからだ。彼女の権力の大きさから考え、鍵を渡すと彼女が決めれば、それを阻むものはないだろう。この屋敷の現状からは、マダム・ヴィーの立場が揺らぐことは今のところなさそうだ。
 彼女≠ェ客人の中にいる可能性。今、屋敷に滞在している女はSとMの二人しかない。たとえ二人しかいなくても、判断材料がなければこれ以上は絞り込めない。
 SとMのどちらともあまりAは会話をしていない。Sに至っては話にならないし、やっと会えたMとは……。
 Aはあの時のことを思い出した。そう、Mと会話していた最中に意識を失ったことだ。彼女の行動と言葉は矛盾しているように思われた。
 屋敷から逃げろと促しつつも、何らかの罠にAを嵌めてマダム・ヴィーに引き渡したと思われる。その意図は未だにわからない。また話をしてみる必要がありそうだ。
 最後に彼女≠ェ奴隷たちの誰かだった場合。もしもそうだった場合は、絞り込むことが困難だ。Aはまだ何人の奴隷がいるか把握していない。Aが少しばかり知っているのは二号くらいなものだ。
 今までAが見てきた限り、この屋敷には男よりも女のほうが多そうだ。そう考えると、彼女≠ニいう示唆は、あまり役に立たないかも知れない。
 女のほうが多そうだというのも、あくまで今まで見てきた限りのこと。まだ知らぬ人物が屋敷には多くいる可能性もある。少なくとも地下で一人見たのだから。
 Aはこれからどこに向かうか考える。
 マダム・ヴィーにはあまり会いたくない。なぜなら昨晩の光景を鮮明に思い出すのが怖かったのと、大男から報告を受けているとしたら、何かしらしてくるかもしれないからだ。
 奴隷たちも信用ならない。マダム・ヴィーの手が及んでいる。先ほども監視されていたかもしれないと言うのに。
 残るはSとM。二人の部屋は覚えている。隣り合わせに位置していた。
 とりあえず両方に当たろうとAは考え廊下を歩き出した。


夢の館専用掲示板【別窓】
ホーム
サイトトップ > ノベル > 夢の館 > 第9章「食卓を飾る薔薇」 ▲ページトップ